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宋応星 『 野議 』 訳注 (3)

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(1)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第

3 2

( 2 0 1 1

ll)

宋応星 『 野議 』 訳注 (3)

ATr a n s l a t i o na ndI n t e r p r e t a t i o no fSu ngYi ng ‑ hs i ng ' s Ye yi( 3)

加 計 三千代

KAKEI , Mi c hi yo

は じめに

江西省奉新県の人、宋応星 は

1 6 3 7

年 (崇禎

1 0 )

に産業技術審 r天工 開物」 を刊行 した。そ して、そ の前年 に彼 は政論集 r野議」 を執筆 していた。当時応星 は江西省分宜県で教諭 を していたが、私 は彼 が 『天工開物』 を著述 した背景 を知 りたい と思い、昨年来、彼の政治 ・経済 ・社会 な ど‑ の考 え方が 記述 されている r野議Jの訳注 を行 なって きた (注1).

さて、今回は前 回に引 き続 いて、「屯 田議」、「催科譲」、「軍飼談」、「練兵議」 について訳注 を進 め たい。そ もそ も内容か らおお まか に判断する と、r野議J は (1)時局 について

(

「世運議

「乱萌

)

、 (2)人事 ・教育について

(

「進 身議

「学政談」

)

、(3)財政 ・生産 について

(

「民財議

「催科議

「塩 政

) 、 ( 4

)軍政 ・兵 について

(

「屯 田

訣 」

「軍飼議

「練兵議」

) 、 ( 5

)精神面 について

(

「士気

談 」

「風 俗

議」 )

の ように分類が出来 るであろ う (注2)。その中で、今回の 「屯 田議

「催科議

「軍飼

諌 」

「練 兵議」は財政 ・生産や軍政 ・兵 を中心 とした宋応星 の考え方 に直接触れ ることが出来る と思 う。

今 回の

4

譲の訳注では、前 回 まで と同様、各議で記述 されている時代背景 を把握 したい と思 ってい る。 またそれ と同時に、今 回以降 は r野談」 の他 の談や、r天工開物J の内容 との比較 .分析 な ども 心掛 けたい。

はじめに・注

(1)拙稿 「宋応星 r野談」訳注 (1)

」r

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要j第

3 0

、2 0 1 0

年。

拙稿 「宋応星 r野識J訳注

( 2) 」r

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要j第

3 1

、2 0

11年。

( 2)

清吉星氏は、r宋応星評伝」(南京大学出版社

、 1 9 9 0

年)の中で、r野瓢ほ 次の

6

組に分類 している

O( p2 8 0 )

(第1線)「世避謙」、 (第2組)「進身

談 」

「学政談」、 (第3租)「民財談

「催科

談 」

「塩政談」

(第4組)「屯田

譲 」

「軍飼

談 」

「練兵諌」、 (第5組)「士気

談 」

「風俗談」、 (第6組)「乱萌譲」

1.訳注 「屯田議

屯 田議

「時事兵苦無飼、議屯 田者何其紛紛也。夫屯 田何寛平。求其生穀以省飛挽之努耳。以至租 之事而 求之精、以至易之事而求之難、以至簡之事而求之濃項、世可謂無人也。

65

(2)

宋応星 r1訳注(3) 加計 三千代

今天下剥膚之患、売在 中而虜在外、諌屯EEl以制虜則似臭。至有識平流売而併策屯 田者、可柵笑也。

流蒐朔在千里之東、望在千里之西、瓢忽無走、即有許下之粟、葛能鼠桜而従之。

若夫制虜之策、最先屯EEl。今之識者、先議活屯。夫北方 自雲中抵山海、東方 日成 山抵蓬莱、荒閑 生穀之地、贋者百里、促者十里

禰望而是。近年又増以兵過之地、室鹿嘘而田畝蕪者、間亦有之。

即億寓牛緒、墾之不義、必区区求百年以前経歴数主影占形改之田,而始譲耕、何其愚也。

次議牛種。夫給種別似兵、議牛何為者。凡賛成‑卒之身、上食九人、中食八人、則牛誠不可少。

若一卒之身、只望其酵飽一人、充飼一馬、則一助足夫。昔年梶輔在関外給年数寓、兵士 日夕椎以慣 酒、而 日以病死報、豊知冶鉄烏鋤烏不病不死之牛平。天下事上作而下従、貴行而牒致、是必為督鎮 者、窮行三公九推之法 ;馬偏碑者、不恥従官負薪之努O‑卒之身、整地五畝而界之.一区五十畝、

則十人共墾其 中 .一 区五百畝、則百人共墾其 中。宛然井 EEl相友相助之意O先訪習知土宜輿穀性者、

緩衝百戸、分隊立為 田唆之長o五畝皆稲耶、得米必十石 :五畝皆麦耶、得面必千触 ;五畝督黍穆耶、

得小米亦如米之数 ;五畝皆叢邪、得豆粒亦敵面之値.其重度之側、配位之上、遍繁瓜読、寸隙荒閑、

併治不毛之罪。此法一行、豊憂朽腹。

蓋計五畝功カ ー億劫開荒、以二十 日 :播種以二 日 :糞概以十 日 ,蒋革以十 日 ;収穫燥乾以十 日.

一年之内只費五十二 日以足食、其余三百一十余 日、尚可超距投石、命中併槍.毎逢播種之初、成熟 之 日、督鎮親巡而勝之、其獲多而苗秀者、晴以牛漕 :其草茂而賛劣者、罪以蒲鞭。行見半載之間、

不惟国寛之盈、而且神気亦壮、士有不飽而烏有不騰者。此至易之事、而舌干唇倣二十年子此、世可 謂無人也。」

(訳)屯田言走 ※ (丸括弧内は訳者による説明。次帝以降も同株)

「現在、軍は飼 (兵権)がないのに苦 しんでお り、それゆえに屯田の議が次々と出されている (往 1)。屯 田とは何 か。穀物 を (現地で)生産 し、遁搬の労 を省 くことである。 (だが、その ような) 簡単なことなのにわざわざ複雑 にするのは、世間には人がいないと謂 うべ きである。

今、天下は災禍が身近に迫 っている状態で、流賊は (国)内にいて北方異民族は (国)外 にいる が、屯田を議論するのは北方異民族 を制圧す ることに類する。流賊 を平定す るために屯田を策する 議論があるのに至っては、あざ笑 うべ Lである。流敗はついたちに千旦の東にいて も

、1 5

日には千 里の西にお り、慌ただ しく (動 きが)定 まらない。たとえ、た くさんの穀物があった として も、 ど

うして穀物 をかついで流織 を追いかけることなんか出来 ようか (出来ないではないか)0

もしそれが、北方異民族 を制圧する策であるなら、まず最初に屯ロである。今の議論する者は、

まず (長 く所有権がない田畑 を屯田とする)清屯 を議論する。 しか し北方は雲 中か ら山海 (関) ま で、東方は成山か ら蓬莱 まで、荒廃 した田畑は、広い もので首里、狭い もので十里、見渡すか ぎり 広がっている。 (しか も)近年にはまた兵隊が通 り過 ぎる地が増え、室庵 は廃嘘 とな り田畑は放置

されている例がかな りある。た とえ億万の牛や鋤 を使 って も、これ らの荒廃 した田畑 を開墾 し尽 く

(3)

岡山大学大学 院社会文化科草研究科紀要第32 (2011ll)

せないのに、長 く所有権がない田畑 を議論するのは、何 とそれは愚かなことだろう。

(さて)次は屯 田に支給す る排牛 と種籾 を講諭 しよう。種籾 を支給す るのはこれでいいのだが、

耕牛の支給 を議するのは何 の為か。凡そ屯田を開墾する 1兵卒が蕃 うことがで きるのは、いい場合 に

9

人、普通の場合 には

8

人なので、牛は どうして も必要である。若 し耕牛 な しに 1兵卒の力だけ だったならば

1

人を飽食 させ馬 1頭 を飼い、馬に付ける 1つの鋤 を動かすだけである。昔年、宰 相 (注2)は関外 (注3)において牛数万 を与 えたのに、兵士 は毎 日夕に牛 を殺 し酒宴 を し、毎 日病 死 したと報告 したが、(兵士 は)鉄か ら鋤 を作 り、(その)鋤が不老不死の牛 にすることを知 らなかっ たのだ。天下の事は上 (の者)が まず行 なって下 (の者)が従い、貴 (人)が行 なって腰 (A)が まねをするのであ り、だか ら必ず鏡 を監督するものは、 自ら率先 して一生懸命 に耕す (注4);官が あまね く人々に利益 をもた らすならば、人々は官に従 って一生懸命労働するものであるO‑兵卒で は

、5

畝の土地を開墾するのが限度である

1区が

5 0

畝 な ら、すなわち10人が共に開墾する :

1

区 が

5 0 0

畝な ら、すなわち

1 0 0

人が共に開墾する。 まるで共 に助け合 う井 田の法 (注5)の ようである。

まず土地の適性 と土地 に合 った穀物 を習知 し

、1 0 0

戸 に官職 を授け、隊 を分けて隊ごとに田嘆の長 を立てる

。5

畝が皆稲だとすると、米が必ず10石得 られる

;5

畝が皆麦なら、小麦粉が必ず

1 0 0 0

斤 得 られる

.5

畝が皆黍 (注6)ならば、小米が また米 と同 じ数量得 られる ;

5

畝が皆豆 な らば、豆 が小麦粉 に匹敵する同 じ数量が得 られる。その家屋の空地やあぜ道などに、ことごとく瓜や野菜 を 繁殖 させ、ちょっとした荒閑の地でも耕作 に利用する。 この法 を‑たび行なえば、 どうしてす きっ 腹 を憂 うことがあろうか。

思うに5畝 を耕すのに必要な労力 を計 ると 一鋤を使い荒地を切 り開 くのに、20日かかる :種 を播 くのに、 2日 ,肥や しを注 ぐのに

、1 0

日 .除草するのに

10日 :収穫 し乾燥するのに

10日。‑午 の内、只

5 2

日を費やせば (注7)食が足 り、その残 りは

3

10余 日、 さらにその上 (軍事訓練で)遠い 距経に石 を投げ、槍 をついて命中させ ることがで きる。種播 きの初めや (穀物が)熟 した季節 には、

鏡 を監督する者は自ら巡察 してこれを確かめ、その収穫が多 く稲が優秀 なものは、牛肉 と酒を以っ てね ぎらう ;草が茂って実が劣 る者は、蒲の鞭 を以って罰するO半年の間行 なえば、ただ穀倉が満 ちるだけでな く、また精神 も活発になって、兵卒はおなかがいっぱいにな り、馬は走 り回ることに なる。これはとても簡単 なことで、私は20年来 これを何度 も言 っているのに、世の中にはそれを理 解 して くれる人がいない ものだ

。 」

1章・注

(1)例えば、明末に陳子龍 (徐光啓 r農政全割 の病者)等が編纂 した r皇明経世文刷 には、徐光啓 「屯 田琉」、葉向高 「屯政孝」、李廷機 「九速屯政考」、熊廷弼 「答港陽王遊戎

「答季孟白督飼」、朱嬰元 「回 奏新懲EEl賦疏」、左光斗 「題烏足飼軽過屯田屯田雛過水利疏

題薦談開屯挙疏」などが載せられている。

その中で、徐光啓 「屯田疏」の冒頭部分は、次の通 りである。

67

(4)

宋応星 r野訊J訳注(3) 加計 三千代

「敬具疏上言屯旗串宜、車型旨力作墾荒、禁私既達、叔得屯旗要領。部科正在集議 、這所奏著‑併参酌、

務期必行。選評加僚蛮来着、該部知道、欽此鉄道、碗惟敬所言墾田一事、有用水除蛙二法、第一歩、

有簡捷一法。共篤綱領五端、謹牌各端細分傍 目、開坐進呈、上底御覧。伏希望明裁揮施行。」 また、菜向高 「屯政考」の冒頭部分 は、次の通 りである。

「屯政者、日高皇帝元年、令諸軍屯種龍江始也、其行於九連。 自乗的厳守遊策。立法屯布始也。昔共時、

迭墳既卒、撤守湘士卒、僅億備我案外、悉令屯 田、人受田五十私、賦准二十四石半、糖其人、半給 官偉、井城操之lTi、其 区立何其詳也。文皇帝納黄福之言凱 至欲庶屯干遼陽、而逝人徴年子朝鮮。且 令各荒屯陳土。能 自開墾。」

(2)原文は 「程輔」。

(3)「関外」 とは、山海関の関外 を指す。

(4)原文の 「三公九推之法」 について、r札記Jの 「月令」 に下記 の記述あ りo

「是月也、天子乃以元旦、祈穀千上帝。乃揮元辰、天子親賊末梢、措之干参保介之御 開、帥三公九卿諸 侯大夫,身弓新帝籍。天子三舵、三公五経、卿諸侯九推。」

(5)原文の 「井 田」について、r孟子Jの 「原文公章句 上」に下記の記述あ り。

「訪野九一而助、国中什一便 日賦。卿以下必有豊 田。豊田五十畝。静夫二十五畝。死従無出郷、郷田同井、

出入相友、守望相助、疾病相扶持、則百姓親睦.方里而井、非九百畝、其 中鳥公田。八家督私百畝、

同輩公田。公事華、然後敢冶私事。所以別野人也。此其大略也。」

(6)宋応星は r天工開物

j

「1.乃粒 (穀類

)

」の 「黍 ・稜、梁 ・釆」の中で、「北人惟以大米呼梗稲、其余 概以′j、米名之。 (北方の人は、ただ大米 とい う名で梗稲 をよび、他の穀物はすべて′ト米 とい う。)」 と述 べている。

(7) ここで宋応星 は 「52Eは 費やせば」 と言 ってい るが、r天=聞物」 の「1.乃粒 (穀類

)

」で述べ られ

ている主な穀物の生産所要 日数は以下の通 りである。労働所要 日数 と生産所要 日数の違いだろうか。

(稲)秩 (さなえ) を移 し終 えた後、早い もので70日、遅い もので200日。

(′ト麦)北方では約1年弱。南方では、それよ りい くらか短い.

(希麦)

2

ケ月足 らず0

2.

訳注 「催科議」 催科議

「自軍輿 議飾 、捜括 輿加 派両者 、併 時而輿 。 司農 之策、止干 此奏 :節銭 之計 、亦 止干 此臭 。巳淫 売乱 之方 、乱不 可研 :未経 売乱 之方、 日促 之乱 .

夫使倍賦 而得 法、民猶 可堪。今賦 増而 法愈 乱 、納鹿 而欠韓多。上有告示 下行 、 山民 未見 影形 、而 巳寂干高 閣 ;下有解批投 上 、岳 牧甫 経 目陵 、而 即擢抵 旧道。夫小 民即貧甚 。但 使 頭緒不 分 、昔 日編 銀一雨者 、今編一 雨五 六錠 、昔 日派米一石者 、今派一石 二三斗 、併 入一筋 之 中、追完 共解 、藩司分

(5)

岡山大学大学 院社 会文化科学研 究科紀要節32(20111)

款而支歴之。偶雨陽不恵、謁脂勉力、猫可摩也。乃今 日功令不黙、逐件分款而造O牙役承行、最利 其分款而追、則点卯、潤筆常規、可逐項而掠取也o干是一里長之身、甲日条鞭、乙 日遼飾、丙 目前 飼、丁 目流鏑、戊 日陵工、己 日王田、庚 日食米、辛 目梅米、壬 日南米、英 日相連 甲乙 日、去年、前 年、先前年旧欠、追呼又紛起。一年之中、強半在城 :一家之中、強半受楚.津 口城門、往来如織o 光景及此、有不従乱如締着哉。

凡身充里長、必非否脱坐享之人、皆食力耕作之人也0枚癒呼痛、獄

油身、即暫息室鹿、亦岬吟 臥起。麦佳禾秀、何虞得来。一里長之身、有雁管不多、如達的、流飼之類、有英数止千十両、而毎 限牲監点卯、逆用去一雨、歴点十卯、巳用十両、而其数仇全欠十両者 :所収散戸、今 日幾分、明 日 幾銭、因称貸軽門、皆祉篤用費 ;又戎鉄少前 甲里長納数、及此消招。此鄭焼固中措堅不義者O不惟 小民牡馬浪費、而巳 自朝廷、獄及方伯o上司火票頻流、承捨捧来、勢同綻麻。区区硯送百金、不満 渓墾之望。令長任従該管審吏欽賄求寛、甚且掩耳助其不足.此金不 日音更家産、錨錬取之百姓鏡糧 之中.一度官金、十度千金、泥沙何度詰問.又不惟審吏祉烏浪費而巳。烏令長者、活人則蛮内必肘 捉而衿見、墨人則 身安必修用而贋償。軍輿、派来動軌大邑三百、小邑二百、而税契間架推操、中宮 王府凝擾又 日新而月盛。繭緯無術、鶏肋難坊、既催鼎器之軽投、又恐遅番之貰罪、榔借現在鏡程、

以解燃睦之火、何 日何項、以作補還。且塵欠之多、経由天啓初年、有司急欲行取、董抑次年、今年 之数、以足前年、先前年之額、相承十六七年。累官累民、病痛悉由子此。

因榔移考満而昇召者、大著林税、小者□面。其人巳多、故此語秘不告之至尊。不知治乱大開係、

皆餌此事之蒙蔽.緒紳忌傷 同類、 自同案蝉、宜也 ,乃席英輿槻而疏入九間者、寛軽‑言及此、可勝 嘆惜哉。使此言連子天野、勢必要脊酒沸、嵯我小民、月引日欠追呼、一概停止O惟従今 日伊始、金華 遼鏑、流銅分文不完者、治以重罪。究責所得之数、視終 日董楚旧欠、而所得額幾何者反過之、何也。

背血止有此数、而捨旧追新、人情有楽翰之願也。

至北方種麦、以五月烏麦上、六月開徴、猶 日麦巳登場際.南方皆稲国、立秋収穫者十之四、而霜 降、立冬収穫者十之六。今方春二月、新穀尚未播種、而巌徴巳起者紛紛奏。天道人事、一重此極耶。」 (*口は欠字)

(訳)催科議 (注1)

「兵糧調達 を議 してより、「捜括」(注2)と 「加派」(注3)の両者が並 びて起 こる。戸部 (注4)の 政策 も、これ (「授括」 と 「加派

」 )

のみである;兵部 (注5)の政策 も、亦 これ (「捜括」 と 「加派

」 )

のみである。すでに乱があった地域では、乱 を平定することがで きない し、乱が まだの地域で も、

日ごとに乱が促 されてい く。

そ もそ も 「

」(徴収する税)を加 えて も法 を得ていれば、民は猶堪 えられる。 (しか し)今は 「賦」

が増 して法が愈 々乱れ、広 く (注6)納めさせ ように もかえって欠糧が多い。役人が税 の徴収 を告 示すると、山民 (注7)は影形 もな く、すでに穀物 を高閣に しまっている;地方が穀物 (もしくは銀)

69

(6)

宋応星 r野級1訳注 (3)説 加計 三千代

(注8)を中央に送ろうとすると、州県官 (注9)があっという間に、古い負債 に当てて しまう。そ も そも小民はとて も貧 しいのであ り、わけが分 らないままに、昔は銀 1両 と審かれていた ものが、今 では

1

5・6

銭 と書かれ、昔 は租税米 1石だったものが、今の租税 (栄)は

1

2・3

斗 と書か れ 1冊 (注10)の中に明記 されているO‑括徴収 しているが、布政使 (注11)は項 目に分 けて支出 し ている。 (それで も) もし天候が順調であれば、苦 しむけれ ども、 なん とか応ずることがで きる。

しか し今 日の法律 はそ うではな く、(様 々な名 目をつけて)項 日ごとにお金 を分 け納め させ る。下 役人はそれを言われた とお りに行い、項 目ごとに追徴することを最 も利 とする。すなわち点卯 (注 12)や記章削こそれぞれ手数料があ り、様 々な項 目ごとに取 り立てることが出来 る.里長の背中に、

甲日は一条鞭法 (往13)、乙 日は遼東の軍飼 (注14)、丙 日は前の軍銅 (注15)、丁 目は流賊討伐の軍飼、

戊 日は陵墓の工事、己 日は王田、庚 日は免米、辛 目は海米、壬 日は南栄 (注16)、祭 日は甲乙の 日を 繰 り返 し、 (その上に)去年、前年、先前年の古い負債の追加徴収が次々 と起 こる。 (里長 とい うも のは)‑年の内、大半 を城 にお り :(そ して)一家の内,大半が苦痛 を受けさせ られる。津 ロ (舟 着 き場)や城門は物資の往来がひっきりな しであ り、それを里長が全部管理する。この ような状況 の もとで、反乱 に従わない者がいるだろうか (注17)0

凡そ里長になるような人は、必ず しも非常に豊かな人ではな く、皆耕作 して食べている人である。

(税の督促 を受けて) むちで叩かれた傷が痛み を呼び、獄 につながれて身が痛い。そこで しばらく 室鹿で休 んで、亦岬吟 しなが ら起 き上が る (仕事に行 く)。使い麦 ・良い稲 は里長か ら来たのでは ないのか。一里長の身では、管轄するのはそれほど多 くはな く、た とえば遼東の軍飼 ・流敗討伐の 軍鏑の類 は、その額が10両 に止 まる。 ところが常に姓監 (注18)の点卯の度毎 に、1両 を手数料 と

して使わないといけな くて、10回の点卯があれば、すでに10両が必要であ り、その額は10両が全額 負債 となる .里長が税 を徴収する対象の散戸は、今 日は何分、明 日は幾銭、借 りようとして も貸 し て くれないので里長 としては横流 しして充てる しかない :又、或 いは前里長の不足分 も、横流 しし て帳消 しにする。これは鄭供の固 く注19)(貧民図) よりも悲惨である。/J、民が流用 して浪費するだ けでな く、すでに刑罰は布政傍 といった上の者たちにまで及んでいる。お金 を出せ という上官の赤 札は頻 りに流れ、「永捨」 (公文を伝 える働 きの役職)は くその命令書 を)ささげもって来て、 まる で 「綻騎」 (昏官) と同 じである。わずか百金 を贈送す るだけでは、飽 くことのない望みを満たす ことは出来ない。令長は自分の役所の暫更が、賄賂 を取 るままにさせておいて、甚だ しいのは知 ら ないふ りをしてそれを見逃す。この金は書吏の家産か らではな く、わずかずつ百姓の税の中か ら取 る。一度では官金で も、十度なら千金で、百姓はどこに行 って も取 り立てを受ける。又、流用 して 浪費するのは書吏だけではない。令長たる者で、公正廉潔な人は自分のふ ところではや りくり出来 ず、あ くどい人は自分の誉修の費用 まで税 を横流 しして支払 う。軍興以来、や もす ると大邑だ と

3 0 0

両、′ト邑だ と

2 0 0

両追加徴収 し、不動産税 を取 り立てるに際 しては、竜宮や王府が大騒 ぎして、

日ごとに諌求が増 している。生糸の産業がなおざりとな り、みすぼ らしさは蔽いがた く、既に (坐

(7)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第32 (2011.ll)

糸業の)機具が放沸 されているのを惚れる。又、遅 くてけちな商人が罪 を恐 れるかの ように、現在 の税 を借 りて、 もって当面の急 を しの ぎ、いつの 日か何かの項 目で補填す るとしている。 しか も、

未返済分が多 くなったのは、天啓初年以来であ り、役 人は取 り立て を急 ぐあ ま り、尽 く次年の分 も 取 り立て、今年の数 は前年 ・先前年の額 にあて、そ うい うことを

1 6・7

年分 している。官 を困 らせ、

民 を困 らせ る病 と痛みはすべてこれに よるのだ。

この ようにお金 をどん どん流用 していなが ら、役人の任期が終 わる と昇進す る者 は、上 は朝廷の 公卿、下 は□面。 この ような人々は非常 に多いので、故 にこの語 を秘 して言 わないのがいい として いる。 このことをいいかげんに隠 しているので、乱が治 まらないのだ。郷紳 は同類 を傷 つけること を避 け、 自らは声の弱 った蝉 と同 じで、宜 しとしている ;決死の覚悟 で、宮廷 に上流す る者 も、つ いに一言 もこれに及んでいないのは、嘆かわ しく惜 しいことだ。 (もし) この言 を皇帝 に聞いて も らえれば、 きっと皇帝 は涙 を流 し,我が小民 を憐 れみ、 まさに旧い借金の取 り立てはすべて停止す るだろ う。今 日か らこれ を始め、金華の遼飼、流餅 を一分 も一文 も完 うしない者 には、重罪 をもっ て治め させ る。 (この ようにすれば)結局、得 る ところの数 は,終 日の取 り立てや旧い借金 の取 り 立て と比べれば、かえって得 る ところが多いのではないだろ うか。 (それは)税金はこの数 だけに して、旧 さ (借金) を捨 て新 しき (借金) を貸すな らば、人情 は喜 んで これを正直 に納 めるか らで ある。

北方では麦の種 を播いた ら

、5

月には麦は収穫 してお り

、6

月には税 を徴収 し始める。麦は もう 出回っているとい うことになる。南方は皆稲 の国で、立秋 に収穫す る者が

1 0

4

、霜が降 り、立冬 に収穫 す る者が10の

6

である。今 はまさに春

2

月なので、新穀 の種 をまだ播 いていない、 (それな のに)次々と厳 しく税の取 り立てが なされている。世の中はここまで至 って しまった。」

2

章 ・注

(1)「催科」は租税の上納をうながすこと。r宋史」職官志に、「獄訟鯉党、催科不接

馬治串之

位。

」とある。

(2)「捜括」は、(人民の財貨をあの手この事で)搾 り取る、収奪すること。

(3)「加派」は、租税を正額以上に加え俄税すること。

(4)原文の 「司

」は農事を輩る官名O今の巌商務大臣の如 きものCここでは戸部を示すと思われる.

(5)原文の 「節

」くせつえつ)の 「節」は符節、「

」は斧 と鋭 くまさか り)のこと。 どちらも軍椎の し るLとして、皇帝から特別に与えられるOだから、あだや疎かには出来ぬ、何物にも代 え拙い由々 し

く安重な物であった。ここでは兵部を示すと思われる, (6)これは、「税の負担者を広

」と思われる。

(7)貧 しい農民であった。

(8)原文の 「解批」は、「漢語大詞典Jによると 「解送犯人或貨物的公文」のことOここでは、穀物あるい は銀を示すと思われる。

71

(8)

宋応星 r野訣1訳注 (3) 加計 三千代

(9)原文の 「岳牧」 は、四岳 と十二牧。後世の公卿諸侯 の類。 または、国境 を守 る役 人 をい う。 ここでは、

州県官、地方官 を示す と思われる。

(10)これは、「俄役黄冊」 もしくは 「厳役全智」 を指す と思われる。

(ll)原文の 「洋司」 は、明酒時代 は布改俊 の異称であった。

(12)「点卯」は、役所 で卯 の時刻 (午前6時 ころ)に出勤 を調べ ること。役所‑官吏が出勤す ることを 「応卯」、

長官が名神 によって点呼す ることを 「点卯」、その名簿 を 「卯冊」 といったO

(13)一条鞭法は、明代後期 よ り柄初 にかけて行 なわれた税制O従来個 々別々に割 り当て られていた田儀 、格

役 な どを一条 にま とめて課す るようになって、 この名称 が生 まれた。従来の農民 の負担 は、土地所有 者である戯民 の土 地税 と してのEEl渡 と、唐代末以来 の両税 法 に よ り夏税秋税 の2期 に分 けた米麦 な ど の現物徴収 (本色) を原則 と し、格役 は里行正役 とそれ以外 の雑役 のみに限 られ簡単であった。 しか し、

1 5

世紀半ば よ り田鹿 は銀 に よる析納 (金花銀)が行 なわれは じめたが、田儀 は各項 目によって納入 の 場所が指定 され、徴 収 に関す る規定 もす こぶ る煩雑 であ った。他方格 役 も、里 甲、均格 、駅伝、民壮 な どその内容が複雑化 したO そ こで税役 の培幣収入の確保 と徴税事務 の簡素化 のために、 これ まで雑 多な項 目に分かれていた田俄 、祐役 をそれぞh一本 にまとめて、銀 で一括納入 させ ることに したが、こ れが一条鞭法であ るO‑粂鞭法 の施行 については

、1 5 3 1

年 (

轟靖1 0 )

御 史借 溌臣の上奏 中に見 える も のが最 も古 いが、このあ と窮婚末年 になるまで、粂鞭の施行 に関す る記録 はほ とん ど見 られない

01 5 6 5

年 (嘉婚44)斬江布政司管下で巡技御 史廠 尚鵬 によ り施行 されて以来

、1 5 6 9

年 には巡撫海瑞 に よ り江 南各地で

、1 5 7 0

年 には巡撫劉光 済 によ り江西 で実施 され、 さらに廊 尚鵬が福建巡撫 に転 ず ると、福建 で も推行 された。 これ らにな らって、隆慶

( 1 5 6 7 ‑7 2 )

年間 よ り万暦

( 1 5 7 3 ‑1 6 2 0 )

初年 にかけて華 中、

華南各地では粂鞭が次第に普及 したo (14)遼東防衛費 (北辺の防備 を固め るため)O

( 1 5 )

明代 には、北辺 に

9

つの軍管 区が設け られたが、その うち一番東 にあ ったのが遼東鎖o次に西 にあ っ たのが前鎖 と宣府鎖 で、この二鉄 は北京防衛 の中心であったO (岸本美緒 ・宮嶋博 史 r明滴 と李朝 の時代J、

中央公論社

、1 9 9 8

、p . 7 5 )

(16)落書星氏の r宋応星評伝j (前掲番、p314)によると、「先米」は漕避税、「海米」は海道迎株税 、「南米」

は選種税 を指す.

(17)宋応星 は、 r野談」 の最後 の識 「乱萌議」 に も、下記 の通 り同様 な記述 を しているO応星 の里長 に対す る思いが伺われるか と思 うD

「催徴之法、 日算里長。凡 国家役法輪流、一里管催十排。仮如十排之 中、内有‑排烏擬音、一排為青衿 之貴重者、此其家准数必多O此八排之中、値充里長、各項加派額征.有司厳刑追俳、宵癌負痛、来到 紳貿育衿之家、五尺麻 門、不興報通轍釆O計無復之、相勤投入尭 中O夫里長本良名、一旦烏尭盗而不他、

挺而走険、急何能樟也。 ‑

・ 」

(18)現段階では不明で、探索 中である。

(9)

岡山大学大学院社会 文化科学研究科紀要妨32(20u ll)

(19)鄭供は、宋の政治家。1041‑1119

。r

宋史】巻321、「鄭侠伝」によると、

「鄭侠字介夫、福州福清人

治平中、随父官江率、閉戸苦学。王安石知其名、遊興相見、稀奨之。進士 高第、調光州司法参軍。安石居政府、凡所施行、民間不以馬便。光有疑獄、侠淑識僻奏、安石悉如其請.

快感為知己、思欲鼠忠。‑ ・是時、日照率六年七月不雨、至千七年之三月、人無生意o東北流民、毎 風沙鉦畦、扶挑塞道、巌将愁昔、身軽完衣。並城民買麻初夢整、合米薦庚、或赤木賛草根、至身被錦城、

而負瓦槻木、貿以償官、累累不絶。倣知安石不可謙、悉給所見烏囲、奏疏詣閤門、不納。乃値鞘密急、

費馬連上之銀童司。・・・疏葵、神宗反饗観潮、長坪数四、袖以入O是夕、寝不能嫁o翌 日、命開封 膿放免行銭、三司祭市易、司戯像常平倉、三衛具照河所用兵、諸路上民物流散之故O青首、免役椎息 追呼、方田、保甲並罷、凡十有八串O民間誰叫相hmo又下安身弓詔求言。越三 El、大雨、遠近油絵O輔 臣入賀、帝示以侠所進囲状、且安之、皆再拝謝

O 」

3.

訳注 「軍紬議

軍飼議

「軍興措銅、其策有五 :因敵取糧、席上上策 ;酌畿 内韓、節省無益上供、修 明塵、鉄、茶、替、

薦 中上策 ;智行加派、事平即止、捜括州邑無碍銭株、噂益税 関貨紗、薦 中策 ;捜括之外、又行授括、

裁官就役、而後再四議裁、篤 中下策 .加派‑不足而二、二不足而三、算及間架、舟車、強報買官納 采、馬下下策。

夫 国敢為糧、以読手制奴虜、則誠難央 :若流冠烏合之衆、其勇幾何。我有 良牌勤兵、能殺一人、

則一人之金、我金也 :能起‑督、則‑督之粟、我粟也。即云兵荒而後、粟不甚多、然其 中堆積金鏡、

取来葵不可易粟者O太祖云 「老兵十寓、不費民間一粒米.」整調此也O若云我兵必不 能戦、即多方 措置、只蘭盗以程、又安用譲駒鳥我.

内務之馨、誠未易議奏。然十年議節省、誰敢議及上供者、微論儀真酒紅十筒 口、楚衡岳

漸台巌 詣郡、黄,i,%絹解充大内門簾者、動以百寓計、諸如此類、不可紀極、解至京 師、何首切用。即就江西 一省言之、衰郡解租麻布、内府用煎油充火把、節省一年、寓金 出兵。信郡解穏抄紙、大内以糊 窓格 、 節省一年、十寓金 出兵。光禄 酒紅、量一年止供一年之用、而明年遂不可用。黄絹 門簾 、窓桟糊紙、

豊一年即薦敵葉、而明年必易新著。聖主宰未張灯、元宵qJ用旧灯懸掛、遂省六十余寓、此胡不可省 之。有川 中金扇之類、又可例推兵。

凡物所 出、不如所衆。京 師衆物之区也、偶以官慣千金、市紙糊 窓、経年用之不悉、歳費一二十寓 何薦O茶之使者、慣健一斤数鎮而止 :而外省州邑、解茶一斤入御、所費豊止十両O崇安先春、探春、

閏省額費不賞。黄相、冬宥之類、以此推之。当此之時、無論京 師必有之貨、不必輝馬奔馳 、即必無 如鮒魚之類、亦当暫却貢献之秋夫。此司農或不敬言、而有言賓者、亦未必牌普天貢既全書‑細心研 究也。内使靴債、節慎一饗、動純一百三十寓.夫京靴之債、毎双七鎮而止耳、賂罵用之O

昔者達飼増十之二、百姓懸望事平而止。奈天蓮如此、民亦何辞。無擬銭桂、凡可節者、辛未兜査

73

(10)

末広星 r設j訳注 (3) 加計 三千代

賦役啓、巳捜義兵。宰官従此無潤、亦安苦而篤之。税関不増、落地商猶未甚困、故数者附之中策。

若乃捜無可捜、括無可括、而功令 日以下蔦、全省青衿優免、破面剖来、止敵塙抄紙張数厘。一員教 官俸禄、蓋情裁去、不敗一軍匹馬舞糧。民快革半、而令長之儀衛巳畢 :騨馬抽三、而郵卒之疲潅更 甚。免頒歴干籍神、魁冬花干乞弓、其輿皆能幾何而未巳也。前者追呼未完、而後者鍾重美。夫隣国 兵火之禍如此、即倍妖兼当築輸、然此語可為賢者道、練馬俗人言。愚民聞詔赦之有絹免也、歓声映 然 :及閉所免在崇禎四五年間事也、壁額而返。民情如此、国計奈何。

従古国家窮困、無如宋室靖康以後。然張濠一視師、宗淳一招撫、動以十寓、二十常。年年括馬、

庭庭用兵。史冊所載、未嘗見士馬傷飢、而措鍋倉乏。今天下雄困、然視南宋富強猶数倍罵、奈何姿 態酸情、不可使閉干蒐虜。不知建炎諸膝措飾之法、有可考証而倣求着否。学古有牡、肉食者勉之。」

(訳)軍飼識

「軍輿の兵桜 を手配す るには、その策は

5

通 りある .敵 に因 り耀食 を手 に入れる、これを上上策 とする .酌量 して内解金 (君主の所有する財貨) を出 し、必要のない供出を削減 し、塩 ・鉄 ・茶 ・ 明馨の専売品を明確 に規定する、これを中上策 とする :

r

加派」 (追加膿謀) を暫時施行 し、反乱が 平定 されればす ぐに止め、州や県の差 し支えのない銭種 を捜 しだ し、流通税 を増やす、これを中策 とする :「授括」 (収奪)の上 に、また 「捜括」 を行い、官 を削減 し背更を減 らし、その後再 び削減 を議論する、これを中下策 とする :

1

回 「加派」 し足 らない と

2

回 「加派」 し、それで足 らないと

3

回 「加派」 し、家の構 えや舟車にも課税 し、買官 ・納采 を無理や りにさせ る、これを下下策 とす る。

そもそも敵に因 りて程食 を為すのは、北方異民族 を制圧 して穣食 を徴収するために識することで あ り、誠に難 しい:しか し、それが もし流賊 ・烏合の衆ならば、その勇は如何 ばか りだろうか ? (た い したことはない。)我々には良将や強兵がお り、流賊 1人 を殺す ことが出来れば、その人のお金 は我々の ものとなる

:1

兵営 を討つ ことが出来れば、その兵営の穣食は我々の もの となる ,戦乱の 後には糧食はほとんどない と云われるが、しかるにその中には金銭が堆積 していることがある。 (そ れを)櫨食に換 えることが出来 るではないか。太祖が言われるのには

. r

兵10万 を養 うのに、民間 の 1粒の米 も費や さない

」 (それは)思 うに、これを謂 うのだ。 もし我々の兵が戦 うことが出来な い くらい弱体ならば、たとえどんなことをしても駄 目なので、兵権 を謙する必要はないO

内帯金の支出については、誠に隷諭 しに くい。 だか ら、これまで長い間節約 を議論 していたけれ ども、あえて誰 も皇宮への上納晶は節約 して来なかった。儀真の酒かめ

1 0

万ロ

湖広の衡州 ・岳州、

斬江の台州 ・厳州諸郡 (注1)の黄色い絹糸が内裏に送 られ門簾 になるのはやや もすると計

1 0 0

万両 になる、諸々この類の如 くである。全部を記す ことはで きないが、京師に送るものは、いつ も必要 とは限らない。例 えば、江西省一省についてこれをいえば、衰郡が粗末な麻の布 を送 り、内府に煎 油 を用いて火把 (注2)をあて、 1年節約すれば、万金が残 る。信郡で格子の紗紙 を送 り、皇宮で

(11)

岡山大学大学 院社会文化科学研 究科紀要 第32 (2011.ll)

は糊 をつけて窓の格子に している

1年 これを節約すれば

、1 0

万金が残 る。光禄 (宮殿按門戸)の 酒かめでは、1年使 うだけで翌年使 えない ということはない。黄色い絹の簾や、窓の格子の糊款は、

1年です ぐにほろほろにな り翌年は必ず新 しいのに換 える必要があるとい うことはない。聖主は辛 未にちょうちんを吊るすが

、 1

1 5

日の夜 旧い提灯 を吊るすならば、遂に

6 0

余万を省 くことが出来 るのに、どうしてこれを省かないのか。四川省の金扇の類 も、同 じように節約で きるであろう。

凡そ物が出る所は、衆 まる所 に及ばない。京師は物が衆 まる場所である。 もし、官価千金で、紙 を街で買ってきて窓に糊貼 りすれば、何年 も尽 きることがないのに、歳費10

・2 0

万は必要だろうか (必要ではない)。茶の住い もの も、価格が 1斤数銭 に止 まる :しかるに外の地方か ら茶 を 1斤宮廷 に入れる時に、値段 は

1 0

両以上である。崇安 (福建省)の先春 ・探春 などのお茶 を宮廷 に入れるた めに、福建省が負担 している額は計 り知れない。黄柑 ・冬肴の類 も同 じようなものである。現在で は宮廷で必ず必要 な物で さえ、駅馬を産地 まで疾走 させて購入 して くる必要がない し、 ましてや必 ず しもたい して必要でない ものの類は、地方か ら朝廷への貢献 を退けて京師の市場で買って くるべ き時である。戸部 も或いはあえて言わないか もしれない し、言 う賓任のある者 も、 また貢賦全番 を 一つ一つ細心の注意 をもって研究は していない。朝廷内で使 う靴の値段 も節約 したとして も、‑た び注文 を発すれば

1 3 0

万両 も使 って しまう。 しか し、都の靴の値段は

1足

7

銭で止 まるのみである。

どうしてこれを用いないのか。

昔,遼東 (の北方異民族制圧)の兵糧の

2 0

パーセ ン トを増や したけれ ども、百姓は (軍費 を増や しても)事が平定 され止むことを望んだ。いかんせん天道はこの如 しであ り、民は亦兵糧の負担か ら逃げることが出来ない。銭糧 を損なうことな く、省 くことが出来るものを、辛未 (崇禎

4

年)に 賦役全書 を兜査 (注3)して、(これも)すでに捜 し尽 くしている。宰官 も軍費の調達によ り潤 うこ とはな く、また自分の利益 にならないことなので、嫌 なことをすることはない。関税 は増えないの で、(その地で売る商売の)落地商はなお未だにそれほど因ってはお らず、 (関税 を増やす ことを) 中策 と言 う人 もいる。すなわち、軍費の出所 を徹底的に捜 し尽 くして も出て来ずに、法律 の力は日々 下がってい く。 (すなわち)全ての生員の優免 を省 き、恐 ろ しい顔で搾取 して も、そ うした額は宮 廷の窓に貼 る格子の紗紙数箱 にあたるに止む。 1人の教官の給料 を情け容赦 な く削減 して も、1軍 における 1匹の馬のまぐさに しかならない。徴収する下役人 を半分に減 らす と、令長の護衛の者は

1人になって しまう ;駅馬 を10の

7

に削減 した ら、郵卒の疲労は甚だ しい。緒紳に暦 を送ることと、

乞食に冬越 しのお金 をあげることは、やめたとしてもたい した額ではない。前の取 り立てが終わっ ていないのに、後の取立てが来る。辺境の兵火の禍はこの様であ り、そのためには税が倍 になって も喜んで納入すべ きことは、賢者が言 うことであ り、俗人が言 うのは難 しい。愚民は税の捕免が許 されると、どっと歓声 をあげる:ところが、崇禎

4・5

年のことが免ぜ られると聞 くに及んで、がっ か りして帰 って しまう。民情がこの如 くでは、国計は如何。

古 より国家の困窮は、靖康 (の変)(注4)後の宋室に及ぶ ものはなかった。然 るに、張夜 (注5)

75

(12)

末広星 r野謙J訳注 (3)説 加計 三千代

は‑ た び師団 を治 め 、宗 滞 (注6)は‑ た び太子 を招 くと、やや もす れ ば

1 0

・ 2 0

万 の兵 を以 って戦 っ た。年 々馬 を徴 発 し、処 々兵 を用 い て軍事 行 動 を した。 (そ の こ とを)記 載 してい る史書 に、未 だ 嘗 て兵士 や馬が傷 つ い た り飢 えた り、銅 の手 配 に窮 乏す るの を見 た こ とはない。今 天下 は困窮 して いる と錐 も、南宋 と比 べ れ ば、富強 は なお数倍 で ある。 (そ れ なの に)、貧 窮す る有様 が悲惨 な情 況 であ って も、尭賊 や北 方 異民 族 に (そ れ を) 聞 かせ て は な らない。建 炎 (注7)の諸 将 が種 食 を手 配 した法 を、考証 して倣 求す る者 が あ るの を知 らない。未 の時代 に学 んでそれ か ら得 るこ と、厚 き 禄 を食 む士大夫 は これ に努 め よ

。 」

3

章 ・注

(1)播書星氏によると、原文の 「楚衡岳」は (湖広衡川、岳州) を、「斬台厳」は (漸江台州、厳州) を指す。

(r宋応星評伝J

、p . 3 2 8 )

(2)「火把」は、たい まつのこと。

(3)賦役全啓 は明末お よび桁代の租税台帳.明初 よ り租税台帳 として俄役費imTが存在 したが、明末、一条 鞭法の施行 にともない賦役全furtが作成 されるようになった。

( 4)

「婚康の変」は、北未来の婚

康 ( 1 1 2 6 ‑1 1 2 7 )

年間、金軍が乗の都 開封 を陥れ、徽宗、欽宗以下一族の 男女約30(氾人が満州 (現東北地方)に連れ去 られて、北末の滅亡 と南未の成立 をもた らした事件。

( 5)

張夜は、南宋初期の政治家

。1 0 9 6‑1 1 6 4

。南宋の草創期、彼の とった施策 は南宋朝の方向 に重大 な示 唆をあたえた。彼 はあ くまで中原恢復 を本命 とする強硬 な主戦論 を主張 した。 「宋史j巻

3 6 1

、「張濠伝」

によると、

「張汝字徳遠、漠州綿竹入、唐宰相九齢弟九皐之後。父成、傘進士、野良雨科。夜四歳而孤、行直視端、

無証言、識者知薦大器。入大挙、中進士第。靖康初、為太常沖。‑ ‑ 渡既受命、即 日赴江上視師.

時冗北擁兵十寓干場州、約 El渡江決戦。汝長躯臨江、召韓世忠、張俊

劉光世議事。賂士見渡、勇気 十倍。」

( 6)

宗樺は、北宋末 ・南宋初期 の文臣

。1 0 5 9‑1 1 2 8

。彼 は文臣中点 も過激 な主戦論者であったので、時の 為政者の支持が少 な く、政治家 としては不遇であったが、民心の輩握 にはす ぐれた手腕 を発揮 した。 「宋 史J巻

3 6 0

、「宗滞伝」によると、

「宗滞字汝霧、拳 州艶 鳥人O母劉、夢天大雷電、光畑其身、翌 日而滞生

滞 日幼衷爽有大志、登元祐六 年進士第。・ ・時太原失守、官雨河者率託故不行。滞 日 「食緑而避難、不可也

」即 日単騎就道、従 巌卒十鎗人.磁経敵騎鉄鋼之飴、人民逃従、帝度朽雛。揮至、結城壁

夜陸地、冶器械、募集勇、始 鳥固守不移之計。上言 「邪、緒、磁 、選、相五州名蓄精兵二1誇人、敵攻‑郡則四郡皆雁、是‑郡之兵7 常有十商人。」上英之、除河北発兵都線管。金人破晃定、引兵南取慶源、自挙国渡渡河、恐揮兵蹄其後、

避数千騎直軸磁州城o滞授 甲登城、令壮士以神腎弓射走之、開門縦撃、斬首救百級。所狸羊馬金島、

悉以賞軍士

。 」

(13)

岡山大学大学 院社 会文化科学研究科紀要妨32 (2011ll)

(7)建炎は、南未の高宗治世で用 い られた元号。1127‑1130年。

4.

訳注 「練兵議」

練兵議

「人類之中、聴明穎悟、生而篤士者則有之、未有生而鳥兵者也。愚頑椎魯、生而馬鹿者亦有之、

亦未有生而番兵輿生而烏尭者也.兵輿売、其名蓋以時起也.一緒立、而衆卒従之、是名馬兵 :‑魁 竪、而衆脇従之、是名烏売。遇宗揮、岳飛、則昨 日之売、今 日即兵O逢朱北、挑令書、則辰刻之兵、

巳刻即売。是政用武之道、輿衡文絶不相同o文章一途、賓有風気集干此方、而彼方風気未開、則即 延昌繋鳥師、眉山作侶、而人才参落之郷、不能速化篤大雅。兵異干是o所需者、馳右肘矢之人、輪 曳舞雅之人、引火燕灼之人、馳馬偵探之人、護持輔重、炊米挫舞、繁閑巡押之人、堪用者挙 目而是.

従来成功名将、何嘗招兵越 国。矧擾乱之秋、敢建調遊客兵之議平。凡兵勇怯無定形、強弱無定勢、

経一陣獲数級、則弱者立化而強秦 :賂軍熊死,6之心、士卒萌潰逃之想、督己立而令紛、陣未交而先 乱、則強者姦成死弱兵.経陣獲級、而後朝有重光、而幕府不審不魁、私獲売盗甲使金銭、而主将不 語不追、則逗遥逃走之情、塞化而薦争先週往之志英O

時事至此、線之未嘗求牌、而拒腕兵不可用。鳴呼。新兵調美、用兵調兵、狼兵調兵、御馨造兵、秦、

昔話省主兵又不待言、然別必借西戎、北秋之兵而後可用耶。馬路之道無他、志在為 国、則不惟功成、

而身亦富貴 :志在食財好色、則不惟師徒喪、而首領亦豊能全。求絡之道無他、精誠在家国輿封変、

則奇才異能之人掘起而歴之 .結習在鰻送迎名輿報功昇爵、則外張中乾輿性合才拙之人叢集而磨之。

逆数坐法、而仰視願公、乗義勝刑、而縁逢忠筒。皆精誠之所召致、今古豊相達哉。

今 日大将副牌、悉従本兵差遣。試問職位何以至此O蓋 自襲蔭初官以至今 日、其 間卑汚手本到部輿 科者、動称 「門下走狗」、自固者方称 「門下小的」。終年終 日、打点竜宜、以金代銀、以珠玉代万物O 守把以下写帖、兵部審解送礼、細字 「休恩晩生」。劣隠相承、百有鎗歳O倫息閑功、則歌童舞女、

海錯 山珍、以自娯楽。此等人豊能見放硝躯、捨死而成功業者。吾人駁兵制虜、全在気概、設有韓、

岳諸人、即故囲貧困老死、忍以 「走狗」 自呼哉。夫既以閣外付之経略、督撫、則求賂者経略、督撫 之事也。且人亦何難知裁。文官庭参講話之時、有立見其才能瞥敏輿蒙昧、而預料其他 日或堪行取或 雁降調者。面試牌才、即此可以例推也.凡人情小利不貧者、大敵必不怯 :身国不便者、趨鯛必不=。

此何莫非知人之法哉。従来大将多従行伍 申出、猶従来師粕多従絡筆硯穿、革扉青衿麿拳申出也。王 子惟聖知聖、惟賢知賢、即云天之所接、而苛能勿欺勿私、則知人種性 自然、天牒之而漸造開明。古 人有一族之敗、而即上章 自劾者、至今猶有生気、此即勿欺良能而立功之本也。今破残遍天下、而 日 日掩敗烏功.奪獲達馬一匹、斬獲首級二期、箭竿三枝、公然上報而不知蓋櫨汗下。甚則城下牢閉、

事故不攻、以他 邑之破陥相比況、而思叙功。人情及此、欺 日甚而私 日放。腺頬 日厚、而方寸 日尊、

豊有抜乱之期裁。

庚午売炎、初起神木之聞、星星之火、此時撲滅、一首夫長之事耳。僚原之 日、乃庭推才望、得‑

77

(14)

宋応星 r野劉 訳注 (3)説 加計 三千代

人両線督五省、謂牌指顧而勘定之。所推絶督、不惟兵法不知也、即世法亦‑尭不知.龍右惨殺通天、

而巧借萄藩之奏、欲以湊南無憲之功而頗其罪、敗形壷見、乃薬師辱国之大償也。而且投掲長安、鮮 明商人誕柾、放飯流吸、而間無歯決。昏居室此、可勝嘆息哉O

嵯夫。用兵何常之有O守城之兵、婦人精子可輿蔦、他無論兵O出戟之兵、‑村之内、必有勇退百 人者 ;‑邑之中、必有智過千人者。遇合招携、線在一勝之身O昔者張憲、牛皐不達武穆、一傭人之 有菅力者耳 ;居再興、孟宗政不遇也方、‑土豪之能 自立者耳。偶今経略、督撫、 日展棟焚剥膚千億、

不雑功名富貴之想、血誠達干上帝、格言笹子軍前、而革滞英雄不起而膝之者、豊気声感召之理哉。

若客兵之議、使其統領無節制、則未出境而己化馬賊奏。登州去呉橋行程幾何。此巳然之狸轍也。

平放談足十八寓、而激成重慶之乱 :勤王酉兵赴閲、而醸成今 日遠地之残、従此猶不知戒.即令安行 而至、無済無及、矧未至而蜜然思変者不一而足哉。痛芙長言、話従何庭起止O有心国計人、袈葵之 言、聖人揮罵、則辛夷。」

(訳)練兵議

「人類の中において、聡明で穎悟 な人で、士 となる者はいるが兵 となる者 はいない。愚頑で椎魯 な人で、農夫 となる者はいるが、兵 となる者や蒐 となる者はいない。兵 と売、思 うに、その名の違 いはその時の状況により決 まるのだ

1人の将が立てば、人々が これに従 う、これが兵である

:1

人の首領が立てば、人々が これに従 う、 これが亮である。宗浮 く注1)や岳飛 (注2)の ような りっ ぱな将に遭えば、すなわち昨 日の滝が今 Elす ぐに兵 となる.朱批 (注3)や挑令言 (注4)の ような 逆賊の首領に逢 えば、辰刻 (今の午前8時頃)に兵だった者が、巳刻 (今の午前10時頃)にはす ぐ に売 となる。この故に武の道は、文の道 とは全然違 うのである。文章の場合は、こちらに風気が集 まって も、あちらに風気 は開かず、昌李 (韓愈)(注5)の ようなす ぐれた人を師と招 き、眉山 (注6)

の ような仲間を作 って も、人材がふるわない地域が、人材 を袈出す る地域 になることはない。兵は これ とは違 う。必要 とされる者は、石を投げ矢 を射る人、曳 を突 き興 (柄の長い矛) を振 り回す人、

火縄銃 に火をつけ燃やす人、馬を馳せ偵察する人、軍需品を大切 に守 り、人間 と馬に食料 を準備 し て、夜 斑 りする人で、 これ らのことが出来 る者は周 りにた くさんいるO これ まで成功 した名将は、

国を越 えて兵 を招いたことはない。 まして擾乱の時に、敢えて客兵 を調達する議 を建てるだろうか。

お よそ兵の勇怯 は定 まった ものがな く、強弱 も定 まった ものはない。一陣を経て (敵の)数首 を獲 得すると、弱者は変化 して強 くなるこ将軍に死音の心があれば (注7)、士卒 には逃亡の想いが芽生え、

兵営はただちに乱れ,陣は戟 う前 にちりぢ りば らばらにな り、すなわち強者 も尽 く死弱 となる。戦 い を経て (敵の首領の)首 を獲得 し、 しかる後朝廷は厚 い褒賞 を与 え、幕府 (注 8)はけちらずに 報奨を与え、兵がこっそ りと尭盗の鎧 ・兵器 ・金銭 を自分の ものに して も、主将はな じらず追求 し なければ、 ぐず ぐず した り逃げた りする気持ちをとどまらせ、尽 く大 きく先 を争って行 こうと遇進 する気持ちに化すだろう。

(15)

岡山大学大学 院社会文化科学研究科紀要第32(2011,ll)

時局がここまでになると、結局の ところ将 を求めない と、 どんなに頑張 っても兵 を用いることは 出来 ない。ああ

析江の兵 を派遣 し、四川の兵 を派過 し、 (広西の食欲 な)狼兵 (注 9)を派遣 し、

皇帝の兵営 を遣わ して、駅西、山西の諸省の主兵は言 うまで もない、 (それだった ら足 りないので) 西の部族の軍隊を借 り、北の部族の兵 を借 りるけれ ど役 に立つのだろ うか。将 としての道 と言 うの は他で もな く、志は国のためにあ り、そうすれば功なるのみな らず、 自分 自身は亦富貴 となること にある ;志が余財好色 にあれば、士卒 を喪 うだけでな く、首領で さえ も全 う出来るわけがないでは ないか。将の道を求めるのは他にはな く、誠意は国家 と封境 にあれば、奇才異能の人が立ち上が っ て きて、それに応 える :煩悩にとらわれて、贈 り物 をして恩恵を受け功労の報いとして爵を上げる ことばか りに向かっていると、見 かけ倒 しやたい したことがない人々が集 って応 じて くる。かつて 漠の軽信は法に坐 して斬 られ ようとした時に腰公 (夏侯嬰) に助けられた :岳飛が まさに処刑 され ようとした時に、忠簡宗樺に逢 った。皆将の精誠が招 き寄せ るところであ り、それだか ら後 日、大 いなる活躍 をする韓信や岳飛 を招 くことが出来たのであ り、今 だってそ うではないか。

今 日の大将 ・副将は、悉 く中央の兵部尚啓か ら派遣す る。試みに兵部尚書 にどうしてそんな官位 を得たのかと聞いてみるといい。おそ らく恩蔭 より官 を始め、以って今 日に至 る。その間、卑 しく 汚れたってで部や科 に到る者 は、「門下の走狗」 と称 され、 自分の地位 に しがみつ く者は 「門下の 小的」 と称する。年が ら年中、賄賂 を贈 り、お金の代 わ りに金細工 を贈 り、珠玉 を贈 り物 とす る。

守把 などの下役人は 「写帖」(注10)に、兵部の下役人は 「送礼」に小 さい字で 「私 どもはご恩 を蒙っ て」 と書 く。卑 しさを相承すること百有余年。暇 をぬすんでは、歌童や舞女、山海の珍味で楽 しむ。

これ らの人が どうして生命 をなげうって敵 に当た り、死 を省みずに功業 を成すことが出来 ようか。

我 々が北方異民族 を制するのは、すべて気概 に在 り、 もし韓信 (注11)や岳飛がいたならば、故郷 の貧困や年 とって弱った人々も、決 して 「走狗」になんかな りは しない。そ もそ も朝廷直属の遠征 軍の指揮官を経略 ・督撫 に委託するので、将 を求めるのは経略 と督撫の仕事 になる。 しか も、人は 人の才 を見抜けないものである。下役人が上の役人に謁見 して話 を伺 う時に、瞥敏か蒙昧かその才 能を見抜 くことが出来、他 日任務 に堪えうるか或いは降調 に遭 う者 なのかを見抜 くことが出来る。

将 となれる人材 を面接試験すれば、その人がす ぐれた人か どうかす ぐにわかるだろう。凡そ人情 と いうものは小利に食 らない者は、大敵 にも怯 まない ;自分 自身の利益 を図る人は、嫡 びへつ らうけ ど、仕事が きちんと出来ない。 これは人を知る法である。 これまで大将は多 く軍隊の中か ら出たよ うに,文官は一生懸命勉強 し科挙 に応 じた文人か ら出た。ただ聖なるが聖なるを知 り、ただ賢なる が貿なるを知る、すなわち (これは)天の授ける所 を言 う。苛 も能 く欺 く勿れ私す る勿れ。すなわ ち人の本来の自然 を知 り、天がそれを啓蒙 して、知識 を開かせ る。昔の人は‑軍隊の敗北があれば、

すなわち上奏 して自分 を批判する者がお り、今に至るまでなお生 き生 きとしている。 これはすなわ ち本来持 っている能力 (注12)を欺 くことな く、功 を立てることについての根本の事である。今、

破残は天下に逼 き、 日々敗 を覆い隠 して功 とするO馬一頭 を奪い取 り、それか ら首 を

2

個、矢 を

3

79

(16)

宋応 星 r1訳注 (3) 加計 三千代

本獲得 した場合には、公然 と上 に戦果 を報告 し、平然 としている。城が敵に囲まれていて も涼 しい 顔 をして、幸いにも敵 に攻め られず他の邑が陥 されたことと比べて、叙功 を思 う。人情はこれに及 んで、欺 くこと日に甚 だ しく、私すること日に盛 んになっている。厚顔無恥で、心は 日々昏 くなっ ている。こんな状態だか ら反乱が平定 される時期はないのだ。

庚午

( 1 6 3 0

年)の反乱 は、初 め神木の聞

1 3 )

に起 き、小 さな火種 はこの時撲滅 され、それは 百人の夫長の事のみだった。反乱が広がって しまった 日には、朝廷 は有望な才能 とされている人を 推 し、(陳杏稔 とい う)一人 を得 て五省 (挟西 ・山西 ・河南 ・湖広 ・四川) を総督 させ (注

1 4 )

、迅 速に考 えて平定せ よと謂 った (注15)0(しか し)籍督 に推挙 されは したが、兵法 をよ く知 らないだ けでな く、世の法のこともよく知 らなかったO眺右 (今の甘粛省)では惨殺があまね く広がってい るのに、四川の布政使 (注16)の奏 を巧みに借 りて、漠南では鯉事 だ と功 をもってその罪 をあがな おうと欲 した。 (ここに)敗戦の状況がすべて現れてお り、 (これは)師を失い国を辱める大 きなあ やまちである。 しか も都 に訴えて、商人が偽 りのことを訴 えたと弁明 し、平気で 自分の欲望のまま に生活 している。愚か さがここに至ると、嘆 くだけである !

ああ、用兵はなぜ常 にあるのか。守城の兵は、女子で も参与すべ きであ り、他の人が参加するす るのは当然だ。戦いに行 く兵は、‑村の内で とびぬけて武勇 に優れた者がいる し、‑邑の中でとび ぬけた智者がいる。そ うい うす ぐれた人たちが将兵に招聴 されるか どうかは、将軍が どうい う人な のかにかかっている。昔、張憲、牛皐 は武穆 に逢わなければ (注17)、体力のある平凡 な村人のまま であった。:層再興、孟宗政は此方に遇わなければ (注18)、土豪のす ぐれた者にす ぎなかった。 も し今の経略 ・督撫が、 日々胸 に復皆の心 を燃や し、功名富貴の想いに染 まらず、血誠 を上帝に達 し、

敵に抵たることを軍前に誓 う、そ うすれば草樺の英雄が、感 じ入 ってその気声 に応 じるだろう ! もし客兵 を用いる談では、その軍の統率者が よ く取 り締 まることが出来なければ、(兵 は)B]境 を出ない うちに (国内で)賊へ と変化する。登州は呉橋 か らどれほ どの道の りか (注19)。 これは、

すでに前人が失敗 を経験 している。奴 を平定する議では

1 8

万で足 るとしたのに、(む しろ)重慶の 乱 (注20)を引 き起 こ して しまった :勤王の西兵 は宮城 に赴 いていたのに、全土 に及ぶ破壊 を起 こ して しまったが (往21)、 この事件からもなお戒めを知 らないのだ。途中で寝返るようなことがな く て目的地まで着いた として も、途中で補給がな く、 目的地に着 くまでに反乱軍になろうと思 う者は 多いのだ。嘆 きの言葉 は長々と続 き、止めることが出来ない。心か ら国のことを想 う人の、微賎の 言葉 を天子が選び出 して くれれば、幸いかな !

第4章 ・注

(1)宗洋については、第3章 ・注の (6)参照。

( 2)

岳飛は、南宋の武将

。1 1 0 3‑1 1 4 1 。1 1 4 0

年 (紹

輿1

0

) 、1 1 4 1

年 (紹

輿1 1 )

大挙南下の金軍を破 り、枢密 副使となったが諸将にねたまれ、その主戦論は棄権と相いれず

、1 1 4 1

年 (紹輿11)案櫓にはかられ、獄

(17)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第32(2011ll)

で殺 された。 r宋 史J巻

3 6 5

、「岳飛伝」 によると、

「岳飛字鵬拳、相州湯陰人。世力腿。父和 、能節食 以済億者。有排便其地、割而輿之 :貨其財者不,JTTI'1倍。

飛生時、有大食若鴇、飛鳴主上、国以貴名。末爾月河決内黄 、水暴至、母眺抱飛坐葱 中、衝蒔及岸 得免、人異之。

小負免節 、沈厚寡言、家賃力率、尤好左氏春秋 、孫呉兵法。生有神力 、未冠、挽 弓三首斤、考八石。

撃射於周同、轟其術 、能左右射. 同死、朔望設祭於其家O父兼之、E)「汝烏時用、其殉 国死我

平. 」 ・ ・ ・

十一年、諜報金分遣渡准、飛請合諸帥之兵破敵。フt北、韓常輿髄虎大王疾駆至鹿 、帝趣飛磨接 、凡十 七札。飛策金人挙 国南来、巣穴必虚、若長駆京、洛以椿之、彼必奔命、可坐而撤。時飛方苦寒敏、力 疾而行。又恐帝急於退散、乃葵 「臣如招虚、勢必得利、若以篤敵方在近、未暇逆風、欲乞我妻斬、黄 、 以謙攻

都。

」帝得葵大書、賜札 ET、「卿 苦寒疾、乃鳥朕行、団爾忘 身、誰如卿者D」 師至座 州、金兵望 風雨適.飛還兵千野以使命 、帝又賜札 、以飛′トL、恭謹、不等進退為得偲。〕1兆破簸川、張俊姓軍費連鎖、

不敢進 :楊折 中退伏而敗、帝命飛政之。全人開飛至、又過。」

(3)朱牝は、唐の叛 臣

。7 4 2 ‑7 8 4 。7 8 3

年 (建 中

4)

李希烈討伐 のため長安 を経過 した淫原軍が反乱 し、徳 宗 は急 ぎ奉天 にのが れたが、釆牝 は樫原節度使挑令言 らに推 されて即位 し、大葬皇帝 と称 し年号 を応 天 とした。 r旧暦鞍」巻200下、「朱批伝」 によると、

「朱北、幽州昌平 人。 曽祖利 、焚馨大夫、贈惑部 尚 。・I・四年十 月、淫原兵叛 、壁璃幸奉 天。叛卒 等以北背紋浬州、知其失権廠屠、快快思乱、群尭無紬、華北改発、乃相輿課 目o「朱大尉久囚空宅、若 迎而烏主、事必済

臭。

」眺令言乃率盲験騎迎批於晋昌里第

北乗馬雑従北向、燭拒星躍、観者誇計、入 居含元殿。明 El、移庭 白華殿 、但稀大尉.朝官有謁拙者、悉愉奉迎

兜、既不合北恵、骨遼巡而退。

源体重、遂犀人移時、言多惇逆。又盛陳成敗、稀述符命、勤其僧侶、批甚悦之。又李忠臣、張光度籍童、

成以官間柄憤、奨於禍乱。」

( 4)

眺令言は、 ?

‑7 8 4

。唐 の第

9

代皇帝徳宗の時代

( 7 7 9‑8 0 5 )

に、准酉 の実力者李希烈が背いた。浬原 節度使眺令言が率 いる征討軍 は、李希烈が侵攻 している築城救援のため都 を通過す ることになったが、

朝廷 は兵士 らに玄米飯 と野菜併 しか出 さなかったため、怒 った将兵た ちは反乱軍 と化 して城内 に乱入 し、徳宗は都か ら逃げ出さざるを得 ないはめに陥 った。 r旧唐

昏J

1 2 7

、「眺令言伝」 によると、

「眺令言、河 中人也O‑ ・建 中四年、李希烈叛、窺陥汝州、詔苛i,‑1・確率 師攻之、督干奴城。希烈典故 商圏嚢城、勢甚危急O十月、詔令言串本鋲兵五筒赴稜.淫師離鉄 、多抽子弟而来、望至京 師以准将Til、 及師上勝、‑無所賜。時詔京兆声王瑚柄畢士、唯砺食莱峡而巳、軍士程而不願 、皆憤怒、揚言 EI。「吾 雄棄父母蒙子、牌死於難、而食不得飽、安能以尊命梓 白刃耶。国家理林、大盈 、蘭貨堆郡 、不取此以 自活、何往耶o」行 次潅水 、乃返曳 、大呼鼓訣而遺。令言 日o「比約東都有厚光、兄郎勿草革、此非求 活之良園也

」衆不聴 、以曳環令言請退、令言急奏之。上恐 、令 内庫 出給綜二十車馳賜之、軍暫浩浩、

令言不能戟。街市居人狼狽定紋、乱兵呼 日.「勿走 、不税汝開架英O」徳宗令普王輿学士妻公輔往撫努之、

綾出内門、餓巳新開、陣千舟鳳松下。是 日、徳宗倉卒出幸 、廠縦入府庫輩運、極力而止

。 」

8 1

(18)

宋応星 r野汲」訳注 (3)説 加計 三千代

( 5)

昌拳 (韓愈)は、唐代 中期の詩人、文人

。7 6 8 ‑8 2 4

。 自分では昌費 (河北省)の人 と称 したところか ら、

韓 昌泰 とも呼 ばれ る。李 白 と社 甫 を尊敬 し、詩風 を継 いで家政 な詩 を作 った。思想家 と しては、儒教 中心主義 を強調 して、仏教、道教 を激 しく攻撃 した。著作 r昌襲先生

剰 4 0

巻があ る.

( 6)

眉 山は、眉山野老 (乗の聞入祥正の号)の ことだろうか。現在探索 中であ る。

(7)原文では 「無死績之心」 だが、それでは意味が通 じないので、「死絵 の心が解 ければ」 は誤 りであろう。

(8)プレー ンのこと。

( 9

)狼兵は、明代 に広西 の東漸 ・那地 ・南舟等の諸士司の狼人 (広西省 に居 る蛮族の名)が組織 した兵。国 内中 もっとも強悼 な兵で、性合慾 、掠源 を好 んだので、移動の際、経過す る土地 は入場 を許 さなかった。

(1

0

)「写帖」は名刺 を缶 くこと。

( l l )

播吉星氏 は

r宋応星評伝J の中で これは砕世忠 の こ とと してい るが

( p . 2 8 7 )

、前 の文脈 か ら考 えると 軽信 ととるのが妥当ではないか と思われる。

( 1 2 )

原文は、「良能」O島田虞次氏 は r朱子学 と陽明学j (岩波沓店

、1 9 6 7

年)の 「良知良能の思想」の中で 次の ように記述 してい る

。( p . 5 1 ‑ 5 2 ) 「 ‑

「天 と人 とは、 もともとこ なる もので はない、合 とい う必輩 はない」、明道 はこの ように論 じて、その根拠 と して孟子 のいわゆる 「良知良能」 を提 出す る。「良知」

とは、慮 らず して知 る働 き、「良能」 とは、学 ばず して能 くす る働 き、天が人間に良知良能 を与 えたの であるか ぎ り、仁 の把握 は原理的 に保証せ られてい るのであ る。程 明道の この ような思想 は、栄子学 的 とい うよ りはむ しろ陽明学的な思想 といわなければな らない。」

( 1 3 )

原文は、「神木之間」O谷川道雄 ・森正夫氏荷 『中国民衆叛乱史

3

j (平凡社

、1 9 8 2

年)では 「神木 (隣 西省神木県)か ら黄河 を渡 って山西 を侵犯 したO」 と記述 されている

( p . 2 8 )

O また、r明史j巻

3 0 9

、「流

」では 「従神木渡河犯 山西

O

」 と記 されてい る.宋応星が 「神木」ではな く 「神木之間」 と記 したの は何故だったのだろ うか。

(14)宋応星は r野

』 の最後 の議 「乱萌議」に も同様 な記述 を している。五省の総督 に任命 された人物 (陳 杏稔) に対す る応星 の関心の高 さ、 もしくは彼 の失望感が伺 われる と思 う。

「秦撫南征川戎、北戊西安、臓超克汲、促大横 中。朝 中会推才望、得一人而督五省.乃五省線督之兵法、

有撫熊征、悪詣坐待功成。不期漠 中掠蓋 、突 機 而 出、五省之売、気合声道、此秦、晋再繁之克也。」

( 1 5 )

陳奇瑞 については、r中国民衆叛乱 史

3

j (前掲啓)の 「車箱峡の叛乱軍の危機」 に、当時の ことが詳 述 されている。

「〔崇禎〕七年

( 1 6 3 4 )

春、〔明の朝廷 は〕特 に山西 ・映西 ・河南 .湖広 ・凹川総督 を設置 し、専 門に振 乱 に対処 させ るこ とと し、延綜巡撫の陳奇稔 をこれに任 じ、慮象昇 を撫治郎陽 に任 じた。奇稔 は賊 を 延水 開 く駅西省延川県東南) に撃破 した ことで威命が あ り、一方、象昇 は歴故 の将 と して戟争の こと を熟知 していたか らである。 こうして杏稔 は均州 (湖北省均県) よ り 〔湖北 に〕入 り、象昇 とともに 軍 を進め、鳥林 関 にいたって欺 数千人 を斬 った。賊 は浜中地方南部へ逃げたので、寄稔 は湖広地方 で の心配はな くなった と し、軍 を引 いて西進 した。‑ ・陳奇稔の軍が進撃 して来 る と、〔張〕献忠 らは

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