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1 文章構造と軍事作戦からみた方位 日程 距離 ふかん いずれも帯方郡を起点とし 倭 ( 女王 ) 国を俯瞰する (1) 方位 ぼうとう冒頭で 倭人在帯方東南大海之中 ( 倭人は帯方郡の東南大海のな かにある ) と 帯方郡から倭国を俯瞰しています すでに確認されている国々 ( 対馬 つまい 壱 き

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文章構造と軍事戦略からみた「水行十日陸行一月」の経路

金田弘之 はじめに 魏志倭人伝がしるす邪馬台国までの日程(水行十日陸行一月)は、 伊都国や投馬国を起点とする説が大勢を占めていますが、九州説や 畿内説など、いずれも文章の修正(南⇒東、一月⇒一日)が必要で、 編纂者・陳寿の趣旨に反しているように見えます。 そのような中で中野雅弘氏(中野説)は、魏志倭人伝の文章構造 を調べ、「水行十日陸行一月」は帯方郡を起点とし邪馬台国(女王之所 都)に至る日程であると提言しています。 いっぽう私見では、魏志倭人伝の記す方位・日程・距離はいずれ も帯方郡から倭(女王)国を俯瞰 ふ か ん しており、「魏軍による倭(女王) 国投入を想定した地理観」であることを論及します。 しかるのち、諸韓国・陸行が移動の中心であることを明らかにし、 将軍・司馬懿が皇帝に応えた魏軍の移動速度と、地図から割り出し た換算距離(1 里=60±10m)を用いて、日程(水行十日陸行一月) と距離(萬二千余里)が整合していることを実証します。

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1 文章構造と軍事作戦からみた方位・日程・距離 …いずれも帯方郡を起点とし、倭(女王)国を俯瞰 ふ か ん する… (1)方位 冒頭ぼうとうで「倭人在帯方東南大海之中(倭人は帯方郡の東南大海のな かにある)」と、帯方郡から倭国を俯瞰しています。 すでに確認されている国々(対馬つ ま・壱い支き・末盧ま ろ・伊都 い と など)が含 まれていることを条件にして、帯方郡を起点にして東南の方角に線 を引くと±17 度の範囲に国々が収まり、下関付近を中心に、九州全 域と西中国・四国がその範囲に含まれることが確認できます。 つまり、倭人伝が対象とする女王国を含んだ倭人の所在エリアは

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この付近にあることが理解できます。 (2)日程 倭人伝の冒 頭ぼうとう部分は、倭の国々の紹介から始まりますが、多様な 解釈のなかで中野説を基本に考えます。 倭人伝は、倭の国々の紹介を「起承転結」文で構成しています。 「起」は「従郡至倭(帯方郡より倭に至るには)」とする文で構成 されていますが、結果は当然「結」に記述されていなければなりま せん(「結」は後述します)。 「承」はやや長い文で構成されていますが、国々を個別に巡めぐりな がら邪馬台国に至る紹介記事になっています。 「転」は「(邪馬台国つまりそこが)女王之所都(女王の都)」の文 で構成され、視点を変えた挿入句そうにゅうく(強調文)になっています。 「結」は「水行十日陸行一月…」の文で構成され、「起」を受けた 国々紹介文の纏 まと めになっており、帯方郡から女王の都(邪馬台国) までの全日程をあらわしています。 つまり「従郡至倭…水行十日陸行一月…」までの全文は、帯方郡 から倭国を俯瞰ふ か んする形で文章が構成されており、帯方郡に駐留する 魏軍が倭国(邪馬台国=女王の都)へ移動することを想定した所要

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日数(全日程)とみられます(後述)。

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伊都国や投馬国を起点にすると、最も重要な帯方郡から倭(女王) 国までの日程が消えてしまい、三つの角度(方位・日程・距離)か ら地理を立体的に表現した陳寿の趣旨(軍事作戦からみた地理観) にそぐわなくなってしまうでしょう。 そもそも日程(「従郡至倭…」)の中では、国々に至る個別距離が 記されており、帯方郡から伊都国まで加算すると 11,200 里(「方」 の数値をそのまま加算した場合)になっています。 いっぽう距離(「自郡至女王国…」)では、女王国(邪馬台国)ま で12,000 余里と記しますから、伊都国と邪馬台国の間は、差し引き 800 余里が残る(12,000−11,200=800 ⇒48Km 換算は後述)だけ で、「水行十日陸行一月」もかかる筈がないのです。 なお、伊都国には「到」と記述し、郡使の終着点を示しています。 これから先は、郡使が常駐する伊都国(郡使往来常所駐)から国々 まで、分岐による面的な広がり(地理)があり、軍事作戦上重要な 意味(軍の移動・展開)をもつと考えられます。 さらに、主要な国々の後に、 余 ほかの 旁 ぼう 国 こく (女王に属すほかの国々) や女王に属さない狗奴国を紹介しますが、これで女王国と狗奴国を 含めたほぼ全体の地理観(位置と広がり)を表しています。

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(3)距離 倭人伝は、「自郡至女王国万二千余里(帯方郡より女王国にいたる まで万二千余里)」と記し、これも帯方郡から倭国を俯瞰する形で文 章は構成されています。 なお、女王国は女王之都(邪馬台国)と同一で、そこまでの距離 が「万二千余里」と理解できます。 前述しましたが、日程(「従郡…」)に記されている個別距離を合 計すると、帯方郡から伊都国まで11,200 里(方を 2 倍で計算すると 11,900 里)となり、これに、伊都国から分岐する主要な国(奴国や 不彌国)までの距離を加算すると12,000 里余里となります。 つまり日程と距離は同一対象の別表現で、「自郡」と「従郡」は対つい の関係にありますが、これは、魏軍が倭国で作戦する場合を想定し て記述した陳寿の地理観を表現しているためとみられます。 (4)地理観 倭人伝が記す方位・日程・距離はいずれも帯方郡から倭国を俯瞰 する文章構造になっており、これを地図に載せますと、実際の地理 観が見えてきます。(⇒図1、10参照) ところで、倭人伝がしるす一里はどの程度の距離なのでしょうか。

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諸説ありますが、一番確実な尺度は、所在が確定している狗く邪やかんこく韓 国か ら 末 盧ま(つ)ろ国までの里程から導き出す方法でしょう。 韓国・釜山 ふ ざ ん (狗邪韓国)から九州・松浦まつうら半島(末盧国)までの図 上距離は約220Kmあります。 倭人伝はこの間を3700±700 里(対馬つ ま の「方400 里」と壱岐い き の「方 300 里」は解釈により幅が生じるため中間値を採用)としています。 そうすると、一里=60±10mと算定されます。 ちなみに魏志倭人伝は、狗邪韓国~対馬間を千余里(⇒60Km)と していますが、一日に渡り切る水行の能力限界と想定されますから、 一里=60±10mは、使者・張政らが実体験(感覚)から導き出した 的確な数値なのです。… 以下、一里=60m で算定します。 (補足1) 確認のため、対馬「方400 里」と壱岐「方 300 里」の図上距離か ら割り出した換算値もやはり1里=60±10m に収まります。 なお、誤差±10m は 20%以下で、「水行十日陸行一月」の評価には 大きく影響しないと考えます。たとえば、水行十日⇒10±2日、陸 行30 日⇒30±6 日に算定できれば許容範囲と考えます。

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(補足2) 実距離は道路の曲線があり、図上距離に対し 10~20%長くなりま すが、ここでは図上の平均移動距離で算定します(実距離換算して も平均移動距離を長くするだけで日数換算値は同一になります)。 倭人伝は、帯方郡から狗邪韓国までを七千余里(420Km)と記し ますから、狗邪韓国から邪馬台国までは差し引き五千余里(300Km) となります。つまり万二千余里(720Km)-ひく 七千余里(420Km) =五千余里(300Km)となります。 さらに狗邪韓国から末盧国までの三千七百里(220Km)、末盧国 から伊都国までの五百里(30Km)を差し引くと、残りは八百里 (48Km)と計算されます。 つまり伊都国から八百里(48Km)程離れたエリアが邪馬台国の 所在地(筑紫平野)として求められることになり、これが魏志倭人 伝の骨格部分を構成する地理観になっていると考えます。 2 魏志倭人伝が倭(女王)国を俯瞰して記述した背景と理由 (1)東アジア対立の構図(AD230~238) 大陸では諸 葛しょかつりょう亮 の陣没(AD234)で蜀の勢力が衰えてきますが、

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一方、魏の東方( 遼 りょう 東 とう )では公 孫こうそん氏しが勢力を拡大し、魏から独立 して燕 えん 国を樹立しました(AD237)。 この間、魏と対立していた呉(孫権 そんけん )は、燕や高句こ う く麗りに水軍(使 者)を派遣して同盟政策(工作活動)をすすめました(AD233~235)。 また、呉と倭国の関係でみますと、 ①呉時代の貝かいふだ札(種子島た ね が し ま)や南 越なんえつおう王の国 璧 こくへき が九州南部(宮崎串間く し ま) から出土し、隼人 は や と (鹿児島)は「南(呉)の人」を指す。 ②出雲い ず も大社・佐さ太た神社(島根)で祀 まつ る 竜 神 りゅうじん (セグロウミヘビ⇒守 護神)は江 南こうなん(呉)に生息する。弩 ど 弓 ゆみ を 齎 もたら したのは呉であろう。 ③AD230 頃、孫権の命令で、夷 州いしゅう・ 亶 州 たんしゅう に渡った将軍は、帰国後、

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「徐 じょ 福 ふく 伝承とその末裔まつえいによる呉との交易」について報告している。 (徐福伝承は日本の各地に分布し、その第一歩は筑後ち く ご川河口に上陸、 蓬 莱 ほうらい 郷 きょう (佐賀県・金 きん 立 りゅう 山)に辿たどり着いたとされ夷州・亶州は日本 列島を指している) したがって、①~③の遺物・地名・伝承などから推定すれば、呉は 倭国(日本列島)に進出し、女王国をはじめ狗く奴な国(熊)や復またある有くに国 (出雲い ず も)などと交流していたことが 伺うかがえます。 蜀と提携した呉は、魏と覇権 は け ん を争ってきましたが、蜀の衰退に伴 い、韓半島や日本列島の国々と提携し、魏の後 背こうはいを襲おそう戦略(支作 戦)を採るようになったとみられます(AD233~)。 (2)魏の外交戦略と戦略目標 三国(魏・呉・蜀)が覇権 は け ん を争っているさなか(AD229)、魏は 西 戎せいじゅう (西方の国)の大 月 だいげっ 氏 し 国 こく と提携し親しん魏ぎだいげっ大 月氏しおう王とし、最大の敵・ 蜀を背後から牽 制けんせいする包囲態勢をとりました(遠交近攻)。 しかし諸葛亮亡きあと(AD234~)の蜀は、すでに魏の脅威ではな かったのです。 一方、呉(孫権)は、蜀との提携を放棄したかのように、魏の後背こうはい に進出をはじめ、支作戦しさくせん方面(正面から対峙た い じする主しゅさくせん作 戦に対して、

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韓半島や日本列島などの東方を指す)の覇権は け ん争いが熾烈し れ つさを増して 行きました(AD233~)。 そこで魏は、東方に進出した呉を排除するため女王国と提携する ことを決め(AD238)、それが「親しん魏 ぎ 倭 わ 王 おう ・金 印 きんいん 紫綬 し じ ゅ 仮賜 か し 」の破格 の待遇に 繋つながることになったと考えられます。 戦略目標を韓半島の国々ではなく女王国とした理由は、地勢(政) 的にみて女王国に定めることが一番理りにかなっていたからです。 (魏の目的は東方に進出した「呉の排除」ですから、戦略目標を韓かん半 島に定めますと、いったん倭国(日本列島)に後退した呉が、再び 韓半島へ反 撃はんげきする機会を 伺うかがい確実な排除が困難になります。)

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(3)韓半島の戦乱と倭国への波及 当時(AD244~246)の韓半島情勢について概観しておきましょう。 AD238(景初 2)、遼東の公孫氏を滅ぼした魏は、出先機関として、 帯 方 たいほう 郡を接収しますが、この時点では、高句 こ う く 麗 り ・濊 わい ・貊 はく ・諸韓 国かんこくは まだ服属していませんでした。 したがって公孫氏攻略の後も、魏は数万の軍勢を韓半島(楽浪郡 や帯方郡など)に 常 駐じょうちゅうさせていたことは明らかです。 AD244(正始 5)に入り、魏の 幽 州 ゆうしゅう 刺史 し し ・ 毌 丘 倹 かんきゅうけん は、高句麗の 王都・丸 都 城 がんとじょう を攻略しました。 AD245(正始 6)には、魏は韓半島諸国に攻勢を仕掛け、玄菟げ ん と太 守 たいしゅ ・ 王頎 お う き 軍は高句麗を攻撃してこれを北方の買 ばい 溝 こう に追放し、楽浪太守・ 劉 りゅう 茂 ぼう や帯方太守・ 弓 遵 きゅうじゅん らが率いる軍は濊・貊や諸韓国を攻撃し てこれを討 滅とうめつし、AD246.5(正始 7)までには、韓半島の国々は魏 に服属するようになりました。 一方、韓半島における戦乱のさなか(AD245)、少帝は難升米に 黄 幢 こうどう (魏の権威・土ど 徳とく⇒軍旗)を授さずけ、女王国の軍司令官に昇格さ せようとしました。 魏が主導した韓半島の戦乱は、「やがて倭国に波及する」と見抜い

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た人物がいたことを示していますが、難升米を最もよく知る人物は 魏将軍・司馬懿でした(AD238、難升米が皇帝に拝謁することがで きたのは司馬懿の権限によるものでしょう)。 しかしながら約 2 年間にわたって(AD247 まで)、黄幢は帯方郡 に置かれたままでした。 やがて(AD246.5~)、女王国は、狗奴国との戦争に巻き込まれま すが、韓諸国を支援していた呉(水軍)が倭国に後退し、狗奴国側 の支援を開始したことを示しています。 その結果、女王国側は不利な態勢に陥り、載斯 さ し ・鳥越 う お らを帯方郡 に派遣し「相あいこうげきのさま攻 撃 状(お互いに攻撃しあっている)」と説明するこ

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とになりました(AD247.3 頃)。 そこで調停のため、塞曹掾史 さいそうえんし (要 塞 ようさい 司令官) 張 ちょう 政 せい らを帯方郡か ら女王国へ派遣することになったのです(AD247.7 頃)。 張政は、韓人に殺害された帯方太守・ 弓 遵きゅうじゅんの後継者として着任 (AD247)した王頎お う きの部下で、王頎軍の高句麗・追 討ついとう(AD245)に 指揮官として参戦した歴戦 れきせん の雄ゆうとみられます。 戦略上(支作戦)最も重要な倭国の紛争に対処するため、司馬懿 は有能な人材を最 前 線さいぜんせん(帯方郡)に配置したと考えられます。 (4)「相攻撃状」は女王国対狗奴国・復有国連合の戦争 倭人伝は、「正始四(AD243)、倭王(卑弥呼)は使者を派遣し、木弣も く ふ (弓柄ゆ づ か)、 短 弓たんきゅう、矢などを献上。使者は、率そつぜんちゅうろうしょう善 中 郎 将の印 綬いんじゅを 拝した」と記しています。 武具ぶ ぐ(弓、矢)の献上は女王国の戦闘遂行能力を魏(皇帝)に示 したもので、女王国の使者が受けた武官の称号は、倭国内の対立激 化に万全の態勢で臨むよう要請したことを示しています。 魏志・斉せい王おう芳ほう紀によれば、AD246.5、魏軍は韓諸国を平定したの で、韓半島諸国を支援していた呉(水軍)は倭国(日本列島)に後 退し、呉派(復有国、狗奴国)の支援にまわったことが想定されま

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す。 (呉・水軍が韓半島から倭(出雲や熊)国に後退した時期は 2 か月 後のAD246.7 頃と推定されます。) この頃から、復有国(出雲国)や狗奴国(熊国)は呉・水軍(闘 とう 艦 かん ) の支援を受けて反撃に転じ女王国を攻撃したとみられます。 そこで女王国は使者を帯方郡に派遣し、戦争の様子を、「相攻撃状 (お互いに攻撃した)」(AD247.3 頃)と説明したのでしょう。 攻 防 こうぼう は半年以上に及んだとみられますが、女王国は劣 勢れっせいから敗 勢はいせい の状態に 陥 おちい っていたと推定されます。 女王国の敗勢を示す痕跡とみられる九州に分布する 鏃やじり(立たて弓ゆみ)と 九州・中国地方に分布する鏃(弩ど 弓ゆみ)について推論しますと、… ①鏃(立たて弓ゆみ) 魏志倭人伝は、「木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃」 と記し立弓であることが分かります。 弥生時代における戦いの痕 跡 こんせき ・ 鏃 やじり (立弓)が、白川(熊本)と 大野川(大分)を南限にして北部九州一帯に分布していますが、復 有国・狗奴国連合と女王国(邪馬台国、伊都国、奴国など)が戦っ た痕跡とみられます。 鏃は川に沿って線状に分布し、以南には鏃が分布しない特徴から、

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女王国が狗奴国領に侵入して攻撃した痕跡とみられますが、女王国 の攻撃は川の線で頓挫と ん ざしたように見えます。 いっぽう邪馬台国(環濠集落)、伊都国、奴国など女王国内部には、 鏃が面状に分布し、復有国・狗奴国連合が女王国を攻撃した痕跡と みられ、女王国側は劣勢に陥っていたように見えます。 ②鏃(弩ど 弓ゆみ) 島根、熊本や北部九州に分布する鏃のなかに、立弓 とは異なる横よこ弓ゆみ(弩弓)用の鏃(三翼・三稜)が発掘されています。 特に島根では、弥生時代終末期と考えられる弩弓が発掘されてい ますが、これは、韓半島から後退し復有国や狗奴国の支援に回った 呉・水軍の可能性が高いと考えられます(AD246.5~)。

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すなわち、復有国(出雲国)・狗奴国(熊国)連合が女王国を攻撃 した痕跡のように見えます。 ①と②の分布(鏃)の特徴は、復有国・狗奴国が優勢に戦いを進 め、女王国は敗勢に追い詰められていたことを示しています。 (5)魏志倭人伝が倭(女王)国を俯瞰した理由 当時の魏(軍)は、韓半島や倭国に進出した呉(水軍)の排除を 最も重視したと想定しますが、倭人伝の記述順序、すなわち、 ①卑弥呼に親魏倭王・金印紫綬を仮賜し、東アジアのなかで女王国 を重も要視していること(軍事戦略⇒包囲外交 AD238)。 ②皇帝が使者に率善中郎将(武官⇒環濠集落の防御司令官)の印綬 を与えていること(AD238、243)。 ③皇帝が難升米に黄幢(軍旗)を拝仮しようとしたこと(AD245)。 ④女王が使者を郡に派遣し「相攻撃状」と説明したこと(AD247)。 ⑤皇帝が難升米に黄幢(軍旗)を拝仮したこと(AD247)。 の流れをみれば、魏は軍を帯方郡に集結させ、韓半島諸国から倭国 へ後退が想定される呉(水軍)の動向を注視しながら、状況次第で は、倭国(女王国)に軍を派遣する態勢を整えていたとみられ、そ れが、帯方郡から倭国を俯瞰ふ か んする形で記述した理由と考えられます。

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魏は、帯方郡に 集 結しゅうけつさせた軍勢をいつでも倭国に投入できる態勢 をとり、戦略的交渉能力もった張政らを派遣し、女王国を含め狗奴 国など倭の国々に対し威圧 い あ つ 外 交 がいこう をおこなったとみることができます。 3 「水行十日陸行一月」の経路 倭人伝は「従郡至倭巡海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国 七千余里」つまり、「帯方郡より倭に至るには、海岸を水行し、韓国 を経て南へ行ったり東へ行ったりしながら倭の北岸・狗邪韓国に到 るまで七千余里」と記していますが、七千余里は約420Km(以下、 1里≒60mで算定)となります。 倭人伝のしるす「巡海岸水行歴韓国乍南乍東」は韓半島のどの経

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路を指しているのでしょうか。 (1)経路の比較 ア 経路1(全行程水行した場合) 定説では、帯方郡(ソウル付近)から海岸線を巡り狗邪韓国(釜 山)まで、全行程を水行(船で移動)したとされています。 しかし、この経路には次に述べる問題があるのです。 ①帯方郡~狗邪韓国の全行程を水行した場合、一万二千里(720Km) 以上となり、倭人伝が記す七千余里(420Km)とかけ離れた距離で 矛盾しています。 ②帯方郡~狗邪韓国~末盧国までの全行程(図上距離で940Km)を 水行することになり、これを十日で移動するのは無理でしょう。 ③狗邪韓国(釜山)の手前(巨済島)から対馬に渡る経路は、海流 に逆らわずに容易に水行できる筈です。 ④韓半島南部の沿岸は、呉(水軍)の勢力圏(AD247 頃)とみられ、 魏(水軍)にとってはまだ危険が伴う海域でした(南船北馬)。 大軍の移動を想定したと考えられますから、慎重な司馬懿はこの ような危険な経路を選定しないでしょう(AD208、赤 壁せきへきの戦いで、 魏水軍は呉・蜀連合水軍に完敗しました。その後、蜀との攻防では、

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司馬懿は慎重に戦っています)。 イ 経路2(韓半島を水行・陸行した場合) 私見では、出先機関・帯方郡(魏軍が駐留)の勢力圏にある牙山 湾まで千五百里(90Km)ほど水行(南下)したのち、韓諸国に上 陸し、南、東とくねくね曲がって陸行したものと考えます。理由は、 ①帯方郡~狗邪韓国の全行程を水行する場合、「歴韓国」は不要です。 倭人伝には無駄な文章がありません。陳寿がわざわざ「歴韓国」を 挿入したのは、諸韓国を陸行したことを示しています。 ②韓諸国はすでに(AD246.5~)平定・帰順しており、使者・張政ら は安全に陸行することが可能でした(AD247~)。 ③帯方郡に集結する大軍(数千~万を想定)の倭国への移動を想定し、 使者(張政ら)は諸韓国の経路を調査・報告したと考えられ、移動 の対象は軍で、その中心は陸行とみられます。 ④狗邪韓国から対馬に渡る際、「始度一海(始めて一海を渡る)…」 と、渡海の困難さを率直に記しています。仮に帯方郡から全行程水 行した場合はこのような表現はとらない筈です。 魏の水軍力は呉より低く、制海権のない軍の輸送は危険です。 つまり、「始度一海」は魏軍にとっては初めての渡海作戦となり、

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最も重要(困難)な軍事行動を想定していたとみられます。 ちなみに、古事記(誓約⇒条約締結)は、呉派側(スサノオ命)が 対馬・壱岐ルートからの後退を示唆する記述がみられます。 以上のように考察し、水行の場合は矛盾があり棄却します。 (2)「水行十日陸行一月」の経路(合理性) そこで、韓半島を水行・陸行した場合について、日程・距離の合 理性をあらためて検証してみます。 当時の帯方郡(ソウル付近)には、魏軍の前 進 ぜんしん 基地 き ち があったと考 えられますから、兵や物資を輸送する水軍も集結していたでしょう。 (魏・水軍基地の細部位置は不明ですが、地政学的に、良港が存在

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し警備が容易で各地への移動に優れた仁川付近を想定します。) しかし魏水軍の制海権は、帯方郡の勢力圏と想定される牙山湾が 南限(諸韓国との境界付近)とみられ、その南はまだ呉水軍の遊弋ゆうよくが 想定され、仁川付近から千五百里(90Km)ほど沿岸を水行した後、 牙山湾の奥に上陸し、そこから陸行を開始したと想定します。 ところで、 遼 りょう 東 とう の公孫氏を攻略する際(AD238)、皇帝から所要 日数を尋 たず ねられた司馬懿は、「往路に100 日…」と応こたえています。 洛 陽 らくよう から遼東まで図上距離で1350±50Km あり、陸行日数は 100 日ですから、軍の移動距離は一日平均13.5±0.5kmです。 (軍の移動は、物資の輸送、宿泊・食事など管理面が膨大になるた

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め動きが 鈍 重どんじゅうで、一日の移動距離が短くなります。 なお、実距離 は図上距離に対して 10~20%長くなりますが、以下、図上距離とし 軍の移動は無休息で算定します。) そこで牙山湾奥の上陸に適した天 安てんあん付近を想定し、狗邪韓国(釜山ふ ざ ん 付近)まで、残り五千五百里(330km)を陸行した場合、所要日数 は 24 日前後(330÷13.5≒24)、これに倭国内(末盧~伊都~邪馬台 国⇒78Km)の所要日数 6 日前後(78÷13.5≒6)加算すると合計で 陸行30 日(24+6=30)となり、倭人伝の記述と一致します。 なお、陸行所要日数は、里程の曖昧さなど最大 20%程度の誤差が 見込まれますから、30±6 日の範囲に算定できれば、倭人伝の記述 を満たしていると考えます。 次に水行の場合、狗邪韓国~対馬間を最大60Km(千里)とみて、 これを当時の水軍が一日で渡りきる必要がありますので、漕ぎ手の 疲労回復を考慮し翌日は休息で算定します。 つまり一日あたり平均水行距離を 30Km 程度で算定すると、合計 で約10 日の日数(310÷30≒10)となり、倭人伝の記述を満たすこ とになります。 以上のように分析し、途中、韓諸国を陸行して倭国に至る経路が、

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倭人伝の記述に矛盾せず、もっとも整合していると考えます。 おわりに 「水行十日陸行一月」は、帯方郡から邪馬台国(女王之所都)に至る 日程であり、移動対象は軍で、諸韓国の陸行がその中心を占めてい ることを明らかにできたと考えます。 魏志倭人伝は、西晋の時代に編纂(AD280 代)されていますから、 西晋建国の祖・司馬懿(⇒宣皇帝)に焦点をあて、著作郎職・陳寿 の編纂態度(郡から俯瞰⇒軍の派遣)を洞察することが重要です。 魏志倭人伝には、司馬懿は一度も登場しませんが、背後に存在し、 倭(女王)国に重要な影響を及ぼした人物です。 将軍・司馬懿の戦略と謀略を洞察することにより、邪馬台国が一 層鮮明になりますが、次は、「卑弥呼以死」の真相を明らかにしたい と考えています。 (主要参考文献・資料) 佐伯有清 「魏志倭人伝を読む」 吉川弘文館 2000 年 中野ほか 「私の邪馬台国論」Vol1 梓書院 2002 年 金田弘之 「邪馬台国と卑弥呼」 山武出版会 2016 年 渡辺善浩 「孫呉の国際秩序と亶州」論考 笛木亮三 「館長だより」67~71 号 2015 年

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自己紹介 邪馬台国に関心を持ちすでに30 年になります。はじめは畿内説を尊重してき ましたが、諸文献を読み調べて行くうちに九州説が正しいと考えるようになり ました。 当初はミクロのテーマ(古墳や鏡など)から入って問題解決に挑んできまし たが、最近はマクロ(全体の柱)でとらえてミクロを解釈するようにしていま す。 邪馬台国に関しては、今までに四冊ほど(共著を含む)出版しましたが、今 回は魏将軍・司馬懿の戦略と謀略に着目して、「水行十日陸行一月の経路」「邪 馬台国の所在地」ならびに「卑弥呼以死」の真相解明に挑んだ新書を出版しま した。

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