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24 動きが見られるようになった ( 例えば 伊豫谷 2007; 定松 2008) この新たな動きは 従来の研究者が 人々の 移動 を 例外的な出来事 と捉えてきたことや 人々のアイデンティティ構築を国家や民族といった限定的な枠組みを前提に議論してきたことを批判している あるいは 言語使用にともなう

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展望論文

展望論文

日本語を学ぶ子どもたちへのことば

の教育は何を目指すのか

―学校現場における年少者日本語教育実践の

変革に向けて―

本間 祥子

要 旨 本稿では、グローバル化の進む現代において、人とことば、そして社会との関係 を新しいパラダイムで捉えようとするポスト構造主義の立場から、これまでの年少 者日本語教育研究を概観し、その課題と今後の展望について論じた。特に、これま で日本語を学ぶ子どもたちを数多く受け入れてきた、日本の公立学校、海外の日本 人学校、日本の外国人学校という三つの領域に関する先行研究を取り上げ、学校現 場が、従来の固定的かつ集団的な枠組みを前提とした教育から脱却することの必要 性と、現場の変革に向けた課題を考察した。その結果、今後は、子どもたちの言語 生活に着目したうえで、言語能力の伸長のみにとらわれないことばの教育を実践す ること、実践における子どもたちのことばの学びとアイデンティティ構築の様相を 具体的に明らかにすること、そして実践者のことばの力の捉え方を問い直し、実践 を再編成していくことが、学校現場の変革につながることを指摘した。 キーワード ポスト構造主義 年少者日本語教育 学校現場 ことばの教育 アイデンティティ

1.はじめに

1980 年代後半以降、世界規模でめざましい進展を遂げてきたグローバリゼーションは、 私たちのコミュニケーションのあり様に、大きな変化をもたらした。国境を越えた人々の 移動が日常となり、個人の帰属する国家や社会とは、もはや固定的なものではなくなって いる。さらに電子メディアの普及も重なって、人々のコミュニケーションは、複数の言語 を介した、複雑で流動的なものになりつつある。 このような状況に対し、近年、社会学や社会言語学の分野では、「移民」あるいは「移動」 という観点から、人とことば、そして社会との関係を新しいパラダイムで捉えようとする

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展望論文

日本語を学ぶ子どもたちへのことば

の教育は何を目指すのか

―学校現場における年少者日本語教育実践の

変革に向けて―

本間 祥子

要 旨 本稿では、グローバル化の進む現代において、人とことば、そして社会との関係 を新しいパラダイムで捉えようとするポスト構造主義の立場から、これまでの年少 者日本語教育研究を概観し、その課題と今後の展望について論じた。特に、これま で日本語を学ぶ子どもたちを数多く受け入れてきた、日本の公立学校、海外の日本 人学校、日本の外国人学校という三つの領域に関する先行研究を取り上げ、学校現 場が、従来の固定的かつ集団的な枠組みを前提とした教育から脱却することの必要 性と、現場の変革に向けた課題を考察した。その結果、今後は、子どもたちの言語 生活に着目したうえで、言語能力の伸長のみにとらわれないことばの教育を実践す ること、実践における子どもたちのことばの学びとアイデンティティ構築の様相を 具体的に明らかにすること、そして実践者のことばの力の捉え方を問い直し、実践 を再編成していくことが、学校現場の変革につながることを指摘した。 キーワード ポスト構造主義 年少者日本語教育 学校現場 ことばの教育 アイデンティティ

1.はじめに

1980 年代後半以降、世界規模でめざましい進展を遂げてきたグローバリゼーションは、 私たちのコミュニケーションのあり様に、大きな変化をもたらした。国境を越えた人々の 移動が日常となり、個人の帰属する国家や社会とは、もはや固定的なものではなくなって いる。さらに電子メディアの普及も重なって、人々のコミュニケーションは、複数の言語 を介した、複雑で流動的なものになりつつある。 このような状況に対し、近年、社会学や社会言語学の分野では、「移民」あるいは「移動」 という観点から、人とことば、そして社会との関係を新しいパラダイムで捉えようとする

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動きが見られるようになった(例えば、伊豫谷 2007;定松 2008)。この新たな動きは、 従来の研究者が、人々の「移動」を「例外的な出来事」と捉えてきたことや、人々のアイ デンティティ構築を国家や民族といった限定的な枠組みを前提に議論してきたことを批判 している。あるいは、言語使用にともなう人と人との関係性や場の状況といった、複雑な 側面を切り落としてきたことに問題提起し、現実世界の多様性を直視することの重要性を 指摘している(例えば、Otsuji & Pennycook 2010;尾辻 2011;2016)。このように、現 代を生きる人々の、複雑で流動的な言語使用のダイナミズムを捉えるための新しい視座を 立ち上げようとしているのである(三宅 2016)。 本稿では、このように新たな研究パラダイムを構築しようとする立場から、これまでの 年少者日本語教育研究を捉え直すことを試みる。グローバル化の進む現代、複数の言語を 介したコミュニケーションの主体となるのは、決して大人だけではない。大人たちにとも なわれ、またある時は自らの意思で世界中を移動し、複数の言語を学んだり、様々な教育 カテゴリーの間を渡り歩いたりする子どもたちの存在は、もはや特別なものではなくなっ ている。ゆえに、子どもたちのことばの教育を考えるうえでも、彼らの言語使用のダイナ ミズムをふまえた新たな視座が必要となるはずである。 筆者がかつて小学校教諭として勤務していたシンガポール日本人学校では、実に多様な バックグラウンドをもつ子どもたちが在籍し、ともに学校生活を送っていた。筆者が担任 を受け持ったある女子児童は、日本人の母親とベトナム系デンマーク人の父親のもとタイ で生まれ、英語を使用するインターナショナル幼稚園に通っていたが、数年後にシンガポー ルへ移住。中国語と英語を使用する現地の幼稚園を卒園し、さらに現地の日系幼稚園に数 か月通った後、日本人学校へ入学するという経歴をもっていた。日本語、英語、中国語、 マレー語、タイ語、ベトナム語、デンマーク語といった複雑な言語資源をもつ彼女のよう な子どもたちを、私たちはどう考えればよいのだろうか。少なくとも、従来の研究のよう に、「海外子女」「外国人児童」「外国につながる子ども」「JSL の子ども」といった、固定 的かつ集団的な枠組みから、「日本人の子ども」や「日本語母語話者の子ども」と比較する だけでは、彼女の生きる現実や、彼女の言語使用、言語使用にともなう意識を捉えること はできない。また、彼女のアイデンティティを、「母親が日本人だから」「父親がベトナム にルーツをもっているから」というように、国家や民族の枠組みを前提とした見方からも 捉えることはできないだろう。 海外の日本人学校に限らず、日本国内の学校現場においても、彼女のようにトランスナ ショナルな移動を経験しながら生きる子どもたちの数は急増している。しかし、これまで の年少者日本語教育研究においては、子どもたちの複雑な言語資源や、移動しながら生き るがゆえの流動的な言語使用、アイデンティティ構築にはほとんど目が向けられず、日本 語能力の低さ・不十分さばかりが注目され、それをいかに補って今いる学校の文脈に適応 させるのかが研究されてきた。確かに、「今日本語で教育を受けているのだから、何よりも 日本語の力を」という考え方もあるが、移動しながら生きる子どもたちが次に受ける教育 は、日本国内であるとも、日本語によるものであるとも限らない。そう考えると、子ども たちの複雑な背景を考慮せず「日本語のできない子ども」と見なし、日本語の技術を高め ようとする教育に、どれだけの意味があるだろうか。そのような考え方で、子どもたちの

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豊かな成長やアイデンティティ構築を望むことはできるのだろうか。むしろ、日本語の力 を育成しながらも、子どもたちが移動のなかで自分らしく生きていくためのことばの力を 育成するような視点が必要なのではないか。 本稿では、このような問題意識のもと、特に学校現場において日本語を学ぶ子どもたち へのことばの教育は何を目指すべきなのかを考えてみたい。そのために、まずは、従来の 限定的な枠組みを乗り越え、新しいパラダイムを構築しようとする社会学及び社会言語学 の研究を取り上げ、何が議論されているのかを概観する。そして、日本語を学ぶ子どもた ちへのことばの教育を考えるためには、どのような視点が必要なのかを探る。そのうえで、 従来の年少者日本語教育研究をレビューし、そこでの課題を指摘する。最後に、それらの 課題を乗り越えるためには、どうすればよいのかという展望を述べる。

2.ポスト構造主義と言語教育の再考

本節では、人とことば、そして社会との関係を新しいパラダイムで捉えようとする社会 学及び社会言語学の先行研究を概観する。そのうえで、日本語を学ぶ子どもたちへのこと ばの教育を考えていくためには、どのような視点が必要なのかを探る。 2.1 社会学・社会言語学におけるパラダイム転換 人々の国境を越えた移動が加速し、現代は「まとまりのない流動化した社会」(定松 2008) といわれるようになった。従来、移民の大半は、母国における政治、経済、宗教等の問題 を背景として、移住先での雇用機会、高賃金、政治的自由等の獲得を目指して移住を選択 していた(長友 2017)。しかし、グローバル化の加速する現代、主に中間層(ミドルクラ ス)の国際移動において、その複雑性が増しているという。長友によれば、経済的には移 住する必要がないのにも関わらず、自分らしい生き方を求めて移住する「ライフスタイル 移住」や、永住ビザを前提としない、ロングステイ、ワーキングホリデー、リタイアメン ト移住といった動きが顕在化しているのだという。このような動きによって、移住者、旅 行者、長期滞在者といった区別がつきにくくなり、「移住」や「移民」といった概念自体が 曖昧になっているという。このように、曖昧化・複雑化する現代の状況に対し、社会学及 び社会言語学の分野では、従来の研究パラダイムを脱しなければならないという問題意識 から、グローバルな「移民」(広義に「移り住む人々」)の視点に立ち、ことばと社会を捉 え直そうとする試みが行われるようになった。 定松(2008)は、社会言語学における従来の研究が、国家の枠組みや領土、あるいは、 その地に根差した社会概念を内包していたことに問題提起し、現代を生きるグローバルな 移民の視点に立つことで、ことばと社会を捉え直すための新たなパースペクティブが提案 できるのではないかと指摘している。定松によれば、従来、移民とは、国家や自治体の枠 組みに統合すべき存在と考えられてきた。ゆえに、そこで議論される言語政策とは、平等 や再生産の観点から、居住国の教育言語の支援や政策に偏ってきたのだという。これは、 従来、国家の統合が一言語主義のナショナリズム的傾向にあったこととも関連している。 そこでの移民とは、ヒスパニックや外国人労働者といったように「マイノリティ」として

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集団的に捉えられてきた。しかし、グローバルな移民の視点に立ち、移民を「社会を構成 し、変容をうながす主体、期待や統制を裏切ることのできる主体」として捉え直してみる と、先行研究の問題点が浮かび上がってくる。定松は、小林(2008)をふまえたうえで、 従来の研究のような集団的視点は、集団の境界を「固定化」し、「本質化」してしまうため、 集団内部の「多様性」「可変性」を見逃してしまうと述べる。一口にヒスパニックといって も、その内実は多様であり、決して一括りにはできないのだ。つまり、移民という視点を 加えることによって、領域的限界や集団を前提に論じられることの多かった従来の研究に、 脱領域的・超領域的設定をもたらすことができる。さらに発展して、定松は、移民をマイ ノリティとして一括りにすることから脱するに留まらず、バウマン(Bauman 1998)や伊 豫谷(2007)の述べるように、「「移動が常態」化している状況としてみなが移民であると いう視点」から従来の研究姿勢を問い、ことばと社会を再考していくことが重要な研究課 題であることを示唆している。 では、「「移動が常態」化している状況としてみなが移民であるという視点」とは、一体 どういうことだろうか。伊豫谷(2007)によると、従来の移民研究では、「人の移動はあ くまでも一時的で例外的な出来事であり、移動そのものは正常からの逸脱」と捉えられて きたのだという。つまり、従来の研究者は、「安定した一定の領域、固定した場所を正常な 位置として想定し、移動する人を例外として観察してきた」のである。それらの研究では、 国民国家や共同体といった、固定的な場や集団の存在が暗黙の了解となり、そこに定住す ることこそが、人々の常態だと考えられてきた。よって、定住者とは、「ナショナルに区分 化された空間の管理者」であり、移民は、定住者によって管理されるべき存在だと考えら れてきたのである。しかし、先に述べたように、現代の急速なグローバリゼーションは、 国民国家の枠組みを解体し、固定化された境界や集団に揺らぎや差異化をもたらした。こ のような現実を、伊豫谷は、バウマン(Bauman 1998)の議論をふまえ、「現代はすべて の人々が、潜在的であれ顕在的であれ、移民である」と述べている。つまり、「「移動が常 態」化している状況としてみなが移民であるという視点」とは、定住者を基準とした従来 の認識の枠組みを転換させ、「移動」を視点とした新たなパースペクティブによって、こと ばと社会を捉え直す立場に立つことを意味しているのである。 このように、領域的限界や集団の本質的な枠組みを基準とした従来の研究では、「移動」 とは、「例外的」あるいは「逸脱」の行為であるとされ、「移民」とは、統合されるべき「マ イノリティ」であるという前提で議論が進められてきた。しかし、このようなパースペク ティブでは、グローバルに移動しながら生きる人々の多様な実態を捉えることも、固定化 した枠組みが溶解されつつある現代社会で起こっている事象を捉えることもできない。ゆ えに、「移民」の視点、あるいは、「移民を主体」として捉える視点、「「移動が常態」化し ている状況としてみなが移民であるという視点」に立ったうえで議論を展開することが重 要なのである。 2.2 パラダイム転換における言語教育の再考 では、上記のような視点に立って、人々の言語使用や言語教育のあり方を考察すると、 何が見えてくるのだろうか。

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Otsuji & Pennycook(2010)は、現代社会において、個人の言語・文化の境界線意識や、 境界そのものが複雑になっていることに着目し、個人の流動的な言語文化活動を表すため の新しい概念である、「メトロリンガリズム」を提唱している。Otsujiらは、「マルチ(multi)」 「プルリ(pluri)」「ポリ(poly)」といった言語の分別性を前提とする従来の考え方では、 人々の言語使用の実態を表現できないという問題意識から、「メトロ(metro)」(場:スペー ス)という接頭語を使い、様々な言語文化が交差する場として、そして、個人の実践行動 として言語を捉えている。Otsuji らによると、言語とはアプリオリに存在するシステムで はなく、社会・文化・歴史的な言語活動や個人の言語文化体験とは切り離すことのできな い個人の実践行動であり、場の参加者によって言語的境界線が肯定されたり、引き直され たりするなかで生み出されていくものである。このような議論から発展して、尾辻(2011) は、メトロリンガリズム的世界観から従来の日本語教育を捉え直し、その課題を論じてい る。尾辻は、従来の日本語教育が、「母語」「非母語」という固定観念を含有し、「母語話者」 と「非母語話者」の接触を前提とした言語教育を展開してきたことを批判している。現代 の大きなグローバルな流れのなかでは、「日本語」「日本人」といった境界さえも曖昧になっ たり、消滅したり、再構築されたりする。ゆえに、モノリンガルの固定的な「日本語」と いう考え方から離れ、動的でグローバルな視野が必要であり、そのような視点を考慮した 言語教育が必要であると主張している。その意味で、「日本語」を話す能力だけが言語能力 なのではなく、相手と場所が所有する言語資源を交渉しながら、お互いの関係にあったこ とばを作っていくというのも、ひとつの言語能力であると述べている。 さらに、尾辻(2016)では、メトロリンガリズム的アプローチによって、個人のアイデ ンティティについても考察を加えている。尾辻によると、従来、アイデンティティとは、 帰属感と捉えられ、あたかも個人が属し、付属する過程で構築されると考えられてきた。 しかし、スーパーダイバーシティ(多様性の度合いが極めて高い環境)といわれる現代の 人々の生活活動を考えると、アイデンティティを単純に、「国家=民族=言語=領土」といっ た近代国家主義的なイデオロギーで捉えることは難しい。そこで、メトロリンガリズム的 アプローチによって個人のアイデンティティを見直すと、アイデンティティとは、従来の 固定的な言語文化理解や言説と、それを超えようとする流動的な力が複雑に交差する場の 形成過程において、実現可能な状態が満たされるアフォーダンスであるという。つまり、 アイデンティティとは、個人の実践行為の積み重ねの産物であり、個人に内在するもので はなく、様々な資源が交差するところで浮かび上がるものと捉えることができる。 以上、Otsuji らによって提唱されたメトロリンガリズムを例に、人々の言語使用や言語 教育、それにともなうアイデンティティ構築について概観した。言語とは、「単にシステム として先駆的に固定的に存在するのではなく、その固定性や境界性を含有しながらも常に 流動的に変化する社会に向かった思考や世界観や社会実現そのもの」(尾辻 2011)である。 そう考えると、言語教育実践を考えるうえでも、従来の「国家=民族=言語=領土」といっ た近代国家主義的なイデオロギーから解放され、いかに人々が自分なりに「ことば」を使 い、学び、アイデンティティを構築していくのかを探究することが重要であると分かる。 このような考え方は、ポスト構造主義と呼ばれるものであるが、現代を生きる子どもたち へのことばの教育を考えるうえでも、このような視点から議論を展開していくことが重要

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であるといえよう。これまでの日本語教育実践においては、「母語話者」「非母語話者」と いった前提やモノリンガル的視点から、日本語の高い運用能力を育成することが目指され てきた。しかし、グローバルな人々の実態をふまえると、自らの言語資源を駆使し、相手 と交渉するなかで、お互いの関係性にあったコミュニケーションをするための言語能力を 育成することが重要であると分かる。では、このポスト構造主義の立場から、これまでの 年少者日本語教育研究を捉え直すと、具体的にどのような課題が見えてくるのだろうか。

3.学校現場における年少者日本語教育研究の課題

前節で検討したポスト構造主義の立場から、これまでの年少者日本語教育研究を捉え直 すと、具体的にどのような課題が見えてくるのか。本節では、これまで日本語を学ぶ子ど もたちを数多く受け入れてきた、日本の公立学校、海外の日本人学校、日本の外国人学校 という三つの領域に焦点を当て、各学校現場における先行研究の一連の流れを概観したう えで、そこでの課題を述べる。その際、異文化間教育や海外子女教育、教育社会学など、 関連領域の先行研究についても適宜扱うこととする。 3.1 日本の公立学校 3.1.1 ニューカマーの子どもたちをめぐる研究 これまでの年少者日本語教育研究において、多くの研究が積み重ねられてきたフィール ドのひとつが、日本の公立学校である。1990 年の「出入国管理及び難民認定法」(入管法) 改正を契機に、日本の公立学校は、急増するニューカマーの子どもをめぐる、これまでに ない課題に直面した。ニューカマーの子どもたちの多くは、日本語の力が十分でなかった り、日本の学校生活に不慣れであったりしたため、現場の教師たちは、子どもたちの学習 や生活、交友関係にいたるまで、様々な問題に対処しなければならなくなった。その結果、 子どもたちの不適応やドロップアウト、不就学といった問題が、次々と取り上げられるよ うになったのである(例えば、小島ほか 2006;佐久間 2006)。 このようなニューカマーの子どもたちをめぐる問題は、子どもの文化的背景に目を向け ようとしない、日本の学校の体質に起因すると考えられてきた(恒吉 1996)。従来日本の 学校は、「画一的教育」「同質化圧力」「モノリンガル・モノカルチュラル」といった、制度 的構造や支配的価値規範を内包しているため、ニューカマーの子どもたちは、文化的差異 を認められることなく同化を強いられ、学校教育から排除されてしまっていると考えられ てきたのである(金井 2012)。さらに、子どもたちが学校教育からこぼれ落ちてしまうの は、子ども個人の努力不足やパーソナリティの問題とも認識されるようになった(志水ほ か 2001;志水 2002)。このような流れのなかで、学校の教師たちは子どもの文化的背景 に配慮しようとはせず、ニューカマーの子どもたちを学びから排除してしまう存在とされ てきたのである(金井 2012)。 このような先行研究の動向を受け、ニューカマーの子どもを受け持つ学校の教師たちの 意味世界に焦点化したり、教師研修の重要性を訴えたりするような議論が行われるように なった。金井(2012)は、日々ニューカマーの子どもと関わっている教師たちが「学校」

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という大きな制度的組織の一部として描かれていることに問題提起し、個々の教師の認識 や思考といった、教師たちの内的な経験世界に着目することの重要性を指摘した。そこで、 公立小学校においてニューカマーの子どもを担任する教師たちの日常の実践や語りに着目 し、教師が子どもを学級に受け入れ、関わり、学びを支援しようとするなかで体験する、 内的な経験世界を描き出すことを試みた。その結果、先行研究における指摘とは裏腹に、 子どもの文化的背景に配慮しようと日々絶え間なく葛藤し、懸命に子どもと向き合う教師 たちの姿が明らかになったのである。しかし、その一方で金井は、どんなに教師たちが、 子どもたちの出自や言語的な問題を含む背景に配慮しようとしても、すべての問題に対処 することは難しく、結果的に子どもたちを学びから排除してしまうメカニズムが存在する ことを指摘した。そのうえで重要なのは、教師の経験する葛藤を乗り越えるための具体的 な方法を模索することではなく、子どもの文化的背景に向き合うこと自体が、アポリアで あることを認める点にあると結論づけている。 3.1.2 子どもたちの適応と日本語指導の確立へ向けた模索 前述のように考えられてきた教師たちの実践に対して、行政や大学、日本語教育の専門 家が積極的に関わりをもつことによって、解決を試みようとする研究も見られる。例えば、 臼井(2007)は、外国人児童生徒教育に関する教師研修がどのように行われているのかを 全国規模で調査し、十分な研修が行われていない傾向をふまえたうえで、教師が適切な知 識や態度を習得していくための研修を行うことの必要性を主張している。また、臼井(2014) では、外国人児童生徒の学級担任に向けて、指導のポイントや保護者と関わる際の注意点 などをマニュアルのかたちでまとめている。さらに、日本語教育の専門家と学校の教師と の連携の重要性を示唆した研究(間橋 2006)や、学校の教師が日本語教育の知識を有す ることの重要性を指摘した研究(小本 2015)も見られるようになった。 他方、子どもたちの日本語能力の傾向や実態をより細かく明らかにすることによって、 学校現場における指導の方向性を見出そうとする研究も見られるようになった。例えば、 齋藤ほか(2014)は、日本生育外国人児童の書く力に着目している。齋藤らは、小学校に 通う日本生育外国人児童の作文を、複数の調査方法によって、横断的かつ縦断的に分析し、 日本人児童の書いた作文と比較することによって、その特徴を明らかにしている。結果と して、日本人児童と日本生育外国人児童との間には、文構造の複雑さ、語彙の豊かさや語 のネットワーク化、表記や文法の正確さ、内容と構成について異なる特徴が見られたとい う。この研究によって、日本生育の外国人児童であっても、日本人児童と同じように書く 力が発達していくとは限らないことや、その異なりの詳細が示された。同様に、工藤ほか (2017)では、日本生育外国人児童が書いた作文に見られる文法的な誤りを量的調査によっ て分析し、文法面の発達過程を明らかにすることを試みている。 このような研究動向は、2014 年度より、公立の義務教育学校における日本語指導や教科 学習指導が正規の教育課程に位置づけられ、「特別の教育課程」として実施することが可能 になったこととも重なる。それにともない、学校現場では、日本語指導のための加配教員 が配置されるなど、制度的な改革が進められている。その一方で、日本語指導や教科学習 指導の方法は、依然として各自治体や校長の判断、担当の教員に委ねられており、多くの 課題を抱えているというのが現状である(浜田ほか 2017)。また、日本語指導を担当する

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教員が、日本語教育の経験や知識がない場合も多くあるが、包括的な議論が行われていな いという現状もある(齋藤ほか 2017)。 3.1.3 公立学校の課題 このような日本の公立学校における一連の先行研究からは、子どもたちの問題が、日本 の学校が内包する制度的・規範的価値観、そして、子どもたちを受け持つ教師側の問題と して議論されてきたということが分かる。さらに、「特別の教育課程」が実施可能となった 近年では、子どもたちの日本語能力の実態を日本語母語話者の子どもと比較することに よって明らかにし、指導の方向性を模索する研究が行われていることも分かった。これら の研究が、子どもたちの多様化をふまえ、「画一的教育」「同質化圧力」「モノリンガル・モ ノカルチュラル」といわれた教育のあり方を変革しようとする学校現場に、一定の成果を 収めてきたことはいうまでもない。しかし、そのような議論のなかで、子どもたちは、 「ニューカマー」「外国人児童生徒」「日本生育外国人児童」といったように一括りにされ、 それぞれの個別性をどのように捉えるのかといったことには、ほとんど注意が払われてこ なかった。また、子どもたちのことばの力については、いわゆる日本語母語話者の子ども と比較した、日本語能力の不十分さに焦点が当てられるばかりで、子どもたちが接してい る複数の言語を含めた言語生活の全体へも目が向けられることはなかったのである。 このような先行研究の流れには、「日本の公立学校」という定点から子どもたちを捉え、 そこに適応させることが望ましい状態であるという思想が見られる。つまり、ポスト構造 主義によって批判された、「マイノリティ」である子どもたちを、管理されるべき存在とし て捉える研究姿勢が見られるのである。先に述べたように、このような旧来の思想のもと では、移動は「逸脱」と考えられ、次の定住へ向けた単なる通過点とされてきた。しかし ながら、たとえ「日本生育外国人児童」であり、物理的な移動を経験していないとしても、 家庭と学校とで異なる言語に触れている子どもは、日々の生活のなかで、言語的な移動を 日常的に経験している。子どもたちにとっての「移動」とは、物理的な一回限りの「移動」 というだけではなく、日常において絶えず生じているものである。あるいは、将来的に、 日本の義務教育とは異なる場で、日本語ではない言語による教育を受けることになるかも しれない。しかしながら、日本の公立学校における先行研究は、子どもたちの個別性や、 複雑で流動的な日々の言語生活を見落としてきたのである。 3.2 海外の日本人学校 では、在籍する子どもの大部分が国境を越えた移動を経験しており、学校で使う言語と 所在国で使われている言語が異なっている海外の日本人学校において、日本語を学ぶ子ど もたちの教育は、どのように研究されてきたのだろうか。ここでは、日本国内の公立学校 とは異なり、子どもたちが言語的な移動を日常的に経験していることが前提となっている、 海外の全日制日本人学校に関する先行研究の動向を概観し、日本の公立学校との異なりや、 そこでの課題について検討する。 3.2.1 多様化する日本人学校の子どもたち 2015 年時点で、約 7 万 8 千人の義務教育段階にある日本人の子どもが海外で生活し、 そのうち約4 万人が、日本人学校や補習授業校といった在外教育施設で学んでいるといわ

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れる(文部科学省 2016)。在外教育施設とは、海外に在留する日本人の子どものために、 国内の学校教育に準じた教育を実施することを目的として、海外に設置された教育施設の ことである。そのなかで、約2 万人に上る子どもたちが学んでいるのが、全日制の日本人 学校である。かつて、日本人学校に通うのは、1960 年代ごろから急増した日本人駐在家庭 の子どもであった。しかし、1990 年代以降になると、日本人永住家庭や長期滞在家庭、国 際結婚家庭の子どもなど、様々なバックグラウンドをもつ子どもたちが著しく増加し、従 来のように、子どもたちがいずれ日本へ帰国することを前提とした教育を行うだけでは、 十分な対応ができなくなったのである(佐藤2010)。 芝野(2014)は、このような日本人学校における変化について、先行研究の知見をふま えながら、次の二つの側面から説明している。一つめは、「海外勤務者の多様化と海外に住 む日本人の多様化」(佐藤 2010)である。以前とは異なり、現代では企業の都合で非自発 的に海外へ赴任する駐在員だけでなく、国際結婚を機に越境する人々や、自発的に海外に 移住し、定住する人々の存在が、日本人学校にも大きな影響を与えるようになったのであ る。二つめは、経済不況により、日系企業が海外から撤退していることに加え、これまで 日本人学校を無条件に選択してきた駐在家庭の「現地校志向・日本人学校離れ」(手塚 2008) が進んでいることである。例えば、岩崎(2014)では、シンガポールでの調査をもとに、 英語力やグローバル型能力を身につけることへの期待から、子どもを日本人学校ではなく、 インターナショナルスクールへ通わせる駐在家庭が増加していることが明らかになった。 そして、在籍者数の減少する、特に小規模な日本人学校においては、安定した学校経営の ために、在籍者の確保が喫緊の課題になっているという。それゆえ、長期滞在・永住家庭 や、国際結婚家庭の子どもの入学を視野に入れた学校経営が目指されるようになっている のである(佐藤 2010)。実際、児童生徒数の激減したパキスタンのカラチ日本人学校では、 入学者数を確保するために、日本語力がほぼゼロの子どもを受け入れたり、放課後に日本 語教室を開催したりするといった取り組みを行っている(本田 2016)。 このように新たな局面を迎えた日本人学校の教育現場においても、子どもたちのことば の問題が取り上げられるようになった。藤森ほか(2006)は、世界諸地域にある 22 校の 日本人学校へのアンケート調査をもとに、日本語指導の専門的知識をもった教員の派遣や、 研修のあり方の見直し、国語教材・カリキュラム等に日本語教育の視点を取り入れること が課題であると指摘している。また、佐藤(2008)は、国際結婚家庭の子どもが多く在籍 する、台湾の台北・台中の二つの日本人学校を事例に、日本語の力が十分でない子どもた ちのための日本語教育を導入する必要があることに加えて、そのような子どもたちの学力 をどう考えるのかといった問題があると述べている。さらに、子どもたちの進路選択の多 様化にも触れたうえで、日本人学校のカリキュラムをどう編成するのか、学校の教育目標 をどこに設定するのか、といった極めて大きな課題があることを指摘している。 3.2.2 新しい日本人学校のあり方の模索 このように多様化する子どもたちの存在によって、日本人学校は、大きな転換を迫られ ている。佐藤(2010)によると、日本人学校における教育は、これまで一貫して「国籍」 =「(帰国を前提にした)日本人」=「国民教育としての海外子女教育」という等式のもと、 「日本人」の育成と「日本人」としてのアイデンティティ形成を目標として行われてきたの

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だという。その顕著な例が、「現地理解教育」である。現地理解教育とは、あくまでも一時 滞在者の日本人の子どもたちが、海外にいることを活かし、現地の学校と交流したり現地 の言語を学習したりして、現地への理解を深めることを目的に実践されてきた。佐藤は、 このような実践によって、「現地」「現地人」という他者に対する自分たちの優位性が強調 され、「日本」という枠が固定されたり、子どもたちに「日本人」であることを自己定義さ せたりしてきたと述べている。しかしながら、1990 年代以降の変化によって、この「日本」 「日本人」という枠組みに矛盾が生じることになった。海外で暮らす多様な子どもたちに とっては、自文化といえば「日本」、異文化といえば「現地」という通念が、必ずしも成立 しなくなったのである。そこで、佐藤は、「日本人性」という概念を導入することによって、 「日本人という位置性や当事者性」を視野に入れ、既存の枠組みを相対化することが必要だ と述べる。そうすることで、子どもたちが「日本人になっていくこと」を主体的に選び取っ ていけるような教育のあり方の構想が可能になると主張している。 一方、このような議論に対する批判もある。川上(2012)は、子どもの言語教育の立場 から、佐藤(2010)の議論には、次のような問題があることを指摘している。佐藤の論考 では、「日本人としての当事者性や位置性」を問うことによって、「日本人になることを主 体的に選び取っていけるような教育のあり方」を構想しているが、それは、あくまでも「日 本語を話す日本人」が前提となっており、「日本人であること」が所与の事実として子ども たちにかぶせられたうえで議論が進んでいるのだという。川上は、佐藤が調査した、アメ リカで暮らす日本の子どもたちの事例を引用し、子どもたちが、結局は「日本人」という 見方に縛られてしまい、佐藤の批判する本質主義的な「日本人」が再生産されているよう に見えると指摘している。そして、そのような本質主義的な枠組みを乗り越えるためには、 日本国内外で再生産される「日本語」や「日本人性」からも解放され、学習主体である子 どもたち自身が、自分の生き方やあり方を見つめ直し、自分にとって意味のある「ことば」 を掴み取る実践を目指すことが必要なのではないかと述べている。さらに川上は、日本語 を含む複数の言語を学びながら成長した大学生の女性のスピーチを引用し、国や言語の枠 を超えて自分らしく生きていこうとする彼女の姿から、「日本語」や「日本人性」を大人の 思惑や視点だけで語ることはできず、子ども自身が複数の言語を主体的に学び、それらの 言語とともに生きることは、どういうことなのかを再考する必要があるのではないかと主 張している。 3.2.3 日本人学校の課題 このような海外の日本人学校に関する一連の研究からは、国内の公立学校と同様に、 1990 年代以降、多様化する子どもたちにどう対応するのかということが喫緊の課題として 議論されてきたことが分かる。その結果として、旧来型の日本を起点とした「自文化中心 主義」かつ「本質主義的」な教育のあり方を改めようとする動きが見られるようになった。 特に、日本人学校で長年実施されてきた「現地理解教育」においては、「自文化が日本・異 文化が現地」という二項対立的な固定観念から脱却する必要性があることも議論されてい た。このような研究動向は、子どもたちが空間的にも言語的にも移動を経験しながら生き ているという現実が、研究者側だけでなく学校の教員側にも認識されるようになってきた ことがあると推察される。しかし、子どもたちの個別的な移動の実態については、十分に

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明らかにされているとは言えず、そのような認識が実際の授業実践に反映されているとも 言い難い。東京学芸大学国際教育センターでは、毎年、文部科学省の派遣教員による実践 記録を公開しているが、依然として子どもたちは「海外子女」という集団的な括りのなか で語られていたり、所在国の特色を活かした授業づくりをすることが中心的な課題になっ ていたりするように思われる(例えば、東京学芸大学国際教育センター 2017)。 さらに、日本人学校における教育改革の論点は、子どもたちのことばの教育へと及んで いたが、ここでも十分な議論が行われているとは言い難い。留意しなければならないのは、 日本の公立学校とは異なり、日本人学校におけることばの教育の議論は、学校の安定した 経営や、学校自体の存続の問題として語られているということである。上海やバンコクと いった一部の大規模校とは異なり、日系企業の撤退や日本人学校離れの進む現在、日本語 の力が不十分である子どもたちを受け入れることが、学校の経営戦略として議論されてい るのである。もちろんこのような学校においては、日本語補習などの対策は取られている ものの、子どもたちの日本語能力の不十分さに焦点が当てられるばかりで、根本的な解決 に向けた議論は行われていないようである。その一方、このように多様化の加速する日本 人学校の子どもたちの実態をふまえ、「日本人性」(佐藤 2010)という概念を使うことに よって、「日本人になること」を子どもたちの主体性に任せようとする議論もある。しかし、 川上(2012)が指摘するように、ポスト構造主義によって批判された「日本語を話す日本 人」という本質主義的な枠組みが再生産されるばかりで、子どもたち一人ひとりの個別性 や、日常の言語生活をふまえたうえでの教育改革に向けた議論にまでは達していない、と いうのが現状である。 3.3 日本の外国人学校 一方、在籍する子どもたちの空間的・言語的な移動を当然のこととしているだけでなく、 日本の公立学校や海外の日本人学校で見られたような、「〇〇人」「○○国籍」「〇〇語母語 話者」といったイデオロギーからも脱却しようとしているのが、日本国内の外国人学校で ある。日本国内の外国人学校に関する研究はまだ限られていることや、朝鮮学校のように 政治的な問題を抱える学校も少なからず存在するため、すべての学校がこのような思想を もっているとはいえないが、子どもたちの多様性を受け止め、新たな教育のあり方を展開 しようとしている学校が増えているということはできる(例えば、志水ほか 2014)。ここ では、在日外国人学校のうち、比較的先行研究の数も多く、日本国内における最大のエス ニック・グループといわれる中華系の民族学校、「中華学校」に焦点を絞って議論を進めて いきたい。 3.3.1 今日までの中華学校 日本国内における中華学校は、台湾(中華民国)系と中国大陸(中華人民共和国)系に 分けられる。台湾系の学校では、台湾の教育部の教育課程を採用しており、繁体字や注音 符号が使用されている。一方、中国大陸系の学校では、簡体字やピンインが使用されてい る(陳 2016)。しかしながら、陳によると、いずれの学校においても、華僑華人の母語で ある中国語による教育、及び日本語や英語の習得も含めた多言語教育を実施している点で は共通している。また、中華の伝統的な思想を基本とした道徳教育を行い、子どもたちに

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中華系であるという自覚をもってもらうこと、伝統文化の継承や日中(日台)友好の橋渡 しをする人材を育成することを教育理念に掲げているのだという。中華学校の歴史は古く、 1859 年の横浜開港に遡る。やがて日清戦争終結後、孫文や梁啓超といった革命家たちに よって、現在の前身となる学校が設立された(馬場 2014)。その後、辛亥革命や関東大震 災、日中戦争など、歴史や政治的なイデオロギーに翻弄されながらも、現在は全国に5 校 (台湾系3 校、大陸系 2 校)、全日制の中華学校が存続している。 中華学校とは、その歴史の通り、華僑華人コミュニティが、その子弟のために設立した 教育機関であり、もともとは母語教育やエスニック・グループとしてのアイデンティティ と文化的伝統を保持することを目的に設立された(杉村 2011)。しかしながら、日本国内 の中華学校を取り巻く状況は、近年大きく変化している。特に、子どもたちの出自に関す る変化は顕著である。かつて中華学校に通うのは、その設立の背景からも、華僑華人の子 弟が大部分であった。それに対し、近年では、両親ともに中華系ではない、日本人や外国 籍の子どもが増加しているのである(陳 2009)。その背景には、子どもに中国語を習得さ せたいというニーズの高まりなど、様々な要因が考えられる。しかしながら、陳は、子ど もたちの国籍によって、その出自を知ることは、もはやできなくなっていると指摘する。 その理由としては、(1)日本国籍を取得した中国系(華人)が増加していること、(2)父 母である華僑華人が国際結婚(主に日本人と)しているケースが多いこと、(3)日本と中 国以外の多様な民族的出自をもつ子どもが増えていること、(4)重国籍を有する子どもが 増加していることが挙げられる。 このように、今日の中華学校とは、様々なバックグラウンドをもつ子どもたちがともに 学ぶ場となっており、中国語の能力ひとつとっても千差万別である(陳 2009)。中華学校 に来て初めて日本語を学ぶ子どももいれば、中国語を使うのは中華学校のなかにいるとき だけという子どももいる。中華学校に通う子どもたちの言語使用状況について調査した、 薛ほか(2012)によれば、中華学校に通いながらも日本語が優勢だと感じている子どもが 多いことや、相手や話題、場面によって、中国語と日本語の使用状況が変化することなど が明らかになった。また、特に3 世以降の世代になると、学校以外では中国語をほとんど 使用しないということも指摘されている。このような状況ゆえに、それぞれの立場によっ て、中国語や日本語に対する意味づけや、言語学習に対する考え方が異なることも容易に 想像できる。中華学校は、従来のように民族教育を提供しながらも、一人ひとりの子ども に寄り添った多様な対応を求められているのである。 3.3.2 中華学校におけるバイリンガル教育の変遷 中華学校におけることばの教育は、「バイリンガル教育」という側面から考察されてきた。 馬場(2014)は、横浜山手中華学校のケースから、子どもたちの多様化にともない、中華 学校におけるバイリンガル教育のあり方も変容していることを説明している。馬場による と、横浜山手中華学校では、1945 年から 1993 年まで、読み書きを中心とした中国語教育 が行われていたが、華僑らが第 4~6 世代になるに連れ、家庭内で日本語を使う子どもに とっては、そのような教育が「使えない語学教育」となっていったのだという。そして、 第一言語が日本語となった中国人に、学校では何を教えるべきかを突き詰めた結果、読み 書き中心の言語学習から、耳から聞いて話せる中国語教育へと変容していったのである。

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実際、横浜山手中華学校では、1993 年以降、「中文・日文・英文」と科目名を変更して「〇 〇文」と統一することによって、それまでの国語教育としての中国語教育から脱却を図ろ うとしている。さらに、黄(2005)による同校の調査では、小学部においては中国語教育 を中心としながらも日本語を並行して教えているが、中学部になると、高校受験を見据え て「中国語」と「中国社会」以外の時間は、すべて日本の教科にあてるようになっている のだという。このような教育改革を通して、中華学校では、従来の民族教育の枠組みのみ にとらわれず、子どもたちの実態やニーズに合わせた教育へと舵を切っているのである。 このような今日の中華学校に対して、杉村(2011)は、多文化教育の観点から、新しい 中華学校のあり方について考察を加えている。杉村は、「今日の中華学校の存在は、特定の 国の公教育の枠組みにはとどまらず、かといって民族の伝統や文化を保持する機能も失わ ずに教育を行うという点で、国境を越えたトランスナショナルな教育の動きと、それに伴 う国際化が進展するなかにあって、今後の一つのモデルになる」と述べている。例えば、 中華学校では、中国語と日本語を混ぜ合わせた特徴的な話し方がとられており、中国語と 日本語が対等に位置づけられ、かつ、ともに重視されているのだという。そこでは、「構成 員の多様性を前提とした複数の言語的共栄圏」(木村 2010)が構築されており、新たなコ ミュニケーション文化が生み出されているのである。また、子どもたちに中国人としての ひとつのアイデンティティを押しつけるのではなく、多様なエスニック・アイデンティティ を認めていくという教育の方向性は、多文化教育の目標を示唆するものであるという。 3.3.3 中華学校の課題 以上、日本の外国人学校のなかから、中華学校に関する先行研究を概観した。その結果、 もともとは華僑華人の子弟のための学校として出発した中華学校が、長い歴史的変遷と現 代のグローバル化の流れのなかで、日本の公立学校や海外の日本人学校と同様に、多様化 する子どもたちをどう受け入れ、どう教育を展開していくのかという課題を抱えているこ とが分かった。中華学校が、前述の二つの校種と大きく異なる点は、杉村(2011)が指摘 するように、日本語や中国語といった子どもたちの言語資源が優劣をつけられることなく、 対等に重視されている点であろう。これは、中華学校が、中華学校でありながらも「国語 教育」としての中国語教育から脱却し、トランスナショナルな動きに呼応した新たな学校 教育のあり方を模索していることと密接に関連していると考えられる。子どもたちのアイ デンティティに関する考え方についても同様である。例えば、神戸中華同文学校は、もと もとは中国大陸系の学校ではあるが、「国旗は心の中に掲げればよい」という思想のもと、 台湾系を含む多国籍の子どもたちを幅広く受け入れている(馬場 2014)。このように、個々 の子どもの多様な言語資源やアイデンティティを認めていくという方向性は、前述の二つ の学校領域の孕む問題点を解決する糸口となり得る。 しかし、その一方で、残された課題もいくつかある。まずは、子どもたちの多様な言語 資源を認めているとはいいながらも、中華学校に通う子どもたちのことばに関する研究の 少なさである。これまでの研究では「バイリンガル教育」の観点から、中国語と日本語の 各授業時数の比較検討や、高校入試や大学入試を見据えたカリキュラム編成、入試制度に 関する問題として議論されるに留まっている。そのような研究のもとでは、子どもたちが 複数の言語を学んだり使ったりしている現状や、子どもたちの思いまでは捉えることがで

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きない。また、そのような子どもたちと日々向き合っている教員や、授業実践の内実に関 する研究も見当たらない。さらに、子どもたちのアイデンティティに関していえば、「中国 人としてのひとつのアイデンティティを押しつけない」教育の方向性とあるが、それは、 具体的にどのような教育実践のことを指すのだろうか。このような課題を考えるためには、 現在までの研究成果では十分とは言えず、より微視的な視点に立った研究が求められてい るといえよう。

4.考察―日本語を学ぶ子どもたちへのことばの教育は何を目指すのか

本節では、第3 節で検討した先行研究における問題点をどのように乗り越えていくべき なのかという展望を述べる。 4.1 子どもたちの「言語生活」を捉えること 前節では、これまで多くの日本語を学ぶ子どもたちを受け入れてきた、三つの学校現場 について概観したが、その大きな問題のひとつが、子どもたちを「マイノリティ」として 捉え、今いる学校現場という固定的な場所に、いかに統合させるべきかという問題意識の もと議論が進められてきたということである。「ニューカマー」「外国人児童生徒」「日本生 育外国人児童」として子どもたちを一括りにし、いわゆる「日本語母語話者の子ども」と 比較検討したうえで、日本語能力の低さや不十分さが注目されてきたのである。このよう な研究の流れのなかでは、先に述べたように、子どもたちが移動のなかで生きているとい うことにも、日々接している複数の言語を含めた言語生活の全体へも目が向けられること はなかった。 しかし、これまでの研究において、子どもたちの出自や複数の言語に関する事項が全く 取り上げられてこなかったわけではない。例えば、石井(2000)及び石井(2007)では、 ポルトガル語や中国語を母語とする家庭の父母を対象とした調査から、子どもの言語選択 や言語教育に関する親の意識を明らかにすることによって、子どもたちの教育への道筋を 示そうと試みている。このような研究の成果によって、学校や支援者からは見えにくかっ た外国籍の親の意識が明らかになり、自らの言語状況を客観的に語ることの難しい子ども たちの実態も徐々に明らかになってきた。しかしながら、依然として「ポルトガル語母語 話者」「中国語母語話者」といった集団類型的な枠組みを脱することはなく、子どもたちの 個別的な言語状況は、ほとんど明らかにされてこなかった。さらに、親のエスニシティを 前提として子どもたちへの教育が議論されている点にも疑問が残る。第1 節で紹介した女 子児童の例を思い出すと、親の出身国やエスニシティと子どもの生きる世界とは、確かに 重なってはいるが完全に一致するものではなく、それらを前提として子どもの言語意識や アイデンティティを考えることは難しいだろう。また、親と子どもの言語資源も必ずしも 一致しているとは限らないのである。 年少者日本語教育を「子どもの全人的発達を支える教育の一環」として位置づける石井 (2009)は、子どもたちのことばの力を育むうえでは、「言語生活を捉える視点」が重要で あると指摘する。石井によると、子どもたちが日々触れている言語とは日本語に限らない

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だけでなく、社会において他者との関わりを広げたり、自分のもつ様々な力を伸ばしていっ たりするために必要な言語とは、日本語に限定されるものではない。よって、子どもの生 活に関わる言語の全体を捉えることによって、日本語の役割が見えてくるのだという。こ のように考えると、日本語を学ぶ一人ひとりの子どもを「個」あるいは「主体」と捉え、 個人がどのように複数の言語を学んだり使ったりしているのか、ということへのまなざし なくしては、子どもたちへのことばの教育を考えていくことはできない。また、その際、 日本語を学ぶ子どもたちを「日本語のできない子ども」や「日本語能力の低い子ども」と して一括りにすることはできず、必然的に、日本語能力の伸長のみに終始しない教育実践 を目指すことになる。さらに、これまで日本語を学ぶ子どもたちの比較対象とされてきた 「日本語母語話者の子ども」という枠組みも見直されなければならない。何をもって「日本 語母語話者の子ども」と定めるのかが不明瞭であることはいうまでもないが、尾辻(2011) の述べるように、「母語」「非母語」という境界は、曖昧になったり、消滅したり、再構築 されたりする流動的なものである。ゆえに、このような固定的で集団的な枠組みのもとに、 子どもたちのことばの教育を考えていくことはできず、「個人」の言語資源や言語生活の全 体へのまなざしをもったうえで、日本語能力の伸長のみに終始しない実践を展開していく という視点が必要になる。 4.2 子どもたちの「ことばとアイデンティティ」を支えること では、「個人」の言語資源や言語生活の全体へのまなざしをもつことによって、日本語を 学ぶ子どもたちへの教育実践は、どのように変わるのだろうか。 近年、成人を対象とした第二言語習得研究においても、学習者の個別性を無視した従来 の研究への批判から、学習者を言語学習の「主体」と捉え、言語学習における個人の複雑 で動態的なアイデンティティ構築という視点が欠かせないという認識が広まっている (Norton 2000)。このような先行研究の流れを受け、年少者日本語教育研究においても、 日本語を学ぶ子どもたちを「ことばを学ぶ主体」と捉え、複数言語を使用しながら生きる 子どもたちの主観的な意味世界に着目する動きが見られるようになった。 例えば、尾関(2013)は、複数言語環境で成長した若者たちを対象とした調査を通して、 幼少期の言語学習や言語使用の経験が、その後のアイデンティティ形成やキャリア形成に 大きく影響していることや、複数言語を使って他者と関係性を築いた経験が、彼らの自己 形成を支えていることを明らかにした。このことをふまえ、尾関は、子どもたちのことば を育てていくためには、子どもたちを複数の言語と多層的なアイデンティティをもつ存在 と捉え、それらを支えることばの学びの場を創っていくことが重要であると指摘している。 一方、川上(2014)は、子どもたちのことばとアイデンティティを支える言語教育実践の 方向性と、そこで育成されるべき力についても言及している。川上によると、複数言語環 境で成長する子どもたちのアイデンティティ構築には、自分の出自やバックグラウンドへ の「不安定性と不安感」が一貫して流れているのだという。そして、その「不安定性と不 安感」は、複数言語環境で成長した経験や、その記憶に深く根差しており、それらを基礎 として子どもたちはアイデンティティを構築していく。それゆえ、子どもたち自身が自分 の経験や記憶をどう意味づけるのかが、彼らが成長していくうえで重要となる。よって、

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子どもたちが自らの経験や記憶を意味づける力、つまり、自分の生をメタ的に捉える力の 育成こそが、子どもたちの言語教育実践の中心となるべきであると主張している。 このように、子どもたちのことばとアイデンティティを支える言語教育実践では、単に 言語能力の伸長のみを目指すのではなく、子どもたちの多層的なアイデンティティ構築を 支えたり、自分の生をメタ的に捉える力を育成したりすることを教育実践のプロセスとし て重視していることが分かる。このような教育実践のあり方は、従来の研究とは異なり、 個々の子どもを「ことばを学ぶ主体」と捉え、子どもたちの主観的な意味世界やアイデン ティティ構築を視野に入れた、先駆的な取り組みであるといえる。このような教育実践を 展開することによって、子どもたちは、複数言語環境で成長する自らの生を知り、それを 受け止め、自分なりのことばを育んでいくことができるのだろう。これは、先述の「日本 人性」(佐藤 2010)のように、所与の事実が含まれた概念を通して、子どもたちのことば やアイデンティティを捉える視点とは一線を画している。 一方留意しなければならないのは、これらの議論は、すべて複数言語環境で生きる子ど もとして成長した成人学習者のケースをもとに行われたものであり、今現在、成長・発達 の渦中にある子どもたちへの教育実践をもとに考察されたものではないという点である。 確かに、自らを客観的に語ることのできる成人学習者の主観的な意味世界に着目すること によって、その人が自分の生をどのように捉えているのかを、人生の時間軸を通して知る ことができる。しかし、今現在、言語的にも認知的にも発達の途上にある子どもたちへの 教育実践を考えてみると、一体どのように実践を展開していけばよいのかという疑問が残 る。管見の限りではあるが、子どもたちのことばとアイデンティティを支える教育実践を 通して、子どもたちの具体的な学びの様相に迫った研究はまだない。よって、喫緊の課題 となるのは、子どもたちのことばとアイデンティティを支える授業実践とは、具体的にど のようなものなのか、そこでの子どもたちの学びやアイデンティティ構築とは、どのよう に捉えられるのか、といったことを探究していくことになる。 4.3 子どもたちの「ことばの力」を捉え直すこと では、子どもたちの言語生活を捉え、ことばとアイデンティティを支える教育実践とは、 どのように展開されるべきなのだろうか。 繰り返し述べてきたように、本稿の目指すことばの教育とは、子どもたちを「日本語の できない子ども」と見なし、「日本語母語話者の子ども」と比較したうえで、単に日本語の 知識や技術を高めようとする教育ではない。一方で、そのように考えると、一体教師は何 を目指して実践を展開していけばよいのかという疑問が生じるかもしれない。この疑問に 対する答えを導くためには、教育実践を通して子どもたちにどのような力を育成するのか、 という議論が必要であろう。 複数言語環境で成長する子どもたちへのことばの教育を論じた川上(2011)によると、 言語教育とは、単なる知識を獲得する(あるいは獲得させる)教育ではなく、言語教育を 通じて、学習者に言語による「ある力」(ことばの力)を育成しようとする教育実践である という。これを年少者日本語教育に置き換えると、年少者日本語教育とは、子どもたちに 日本語の知識を獲得させるための教育ではなく、日本語を教えることを通して、子どもた

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ちのことばの力を育成しようとする教育実践ということができる。ここで重要になるのは、 「ことばの力とは何か」という問いである。なぜなら、実践者がことばの力をどう捉えるの かが、実践のあり方や方向性を決定づけるからである(川上 2011)。しかしながら、川上 によると、子どもたちのことばの力をどう捉えるのかといった議論は、これまでほとんど 行われてこなかった。特に学校現場においては、子どもたちの日本語能力不足を解決する ことが実践の目的とされ、そこで育成されるべきことばの力とは、日本語の「書字能力」 や「読み書き能力」に限定されて捉えられる傾向にあったのである。 しかしながら、前述のように、子どもたちにとって必要なことばの力とは、「経験や記憶 を意味づける力」「自らの生をメタ的に捉える力」(川上 2014)、「相手と場所が所有する 言語資源を交渉しながら、お互いの関係にあったことばを作っていく」力(尾辻 2011) というように、単に日本語の知識や技術に限定されるものではない。もちろん、その時、 その子どもが必要としているのが、日本語の書字能力や読み書き能力である場合も十分に 考えられる。しかし、それだけを基準に、ことばの教育が展開されてしまうことによって、 目の前の子どもが本当に必要とすることばの力を見落としてしまう可能性が生じるのであ る。つまり、単に日本語の運用能力の育成を目指すだけでは見えてこない「ことばの力」 の育成を含めた教育実践を行うことが必要である。よって、重要なのは、実践者のことば の力の捉え方を問い直し、実践を再編成していくことではないだろうか。 蓄積の数は少ないが、単一言語能力の育成のみに限定されない実践のあり方を考察する 研究も確かにある。例えば、英語圏の補習授業校をフィールドにした中島ほか(2016)は、 トランスランゲージング(translanguaging:Valesco & García 2014)の観点を応用して、 子どもたちのバイリンガル作文力を分析している。あるいは、カミンズ(Cummins 2011) は、マルチリテラシーズの観点から、移民の子どもの第一言語であるウルドゥ語と、学習 言語である英語の二言語を使った実践を行うことによって、子どもたちが「英語補強学習 が必要な児童・生徒」というレッテルから解き放たれるなど、様々な変化がもたらされた と述べている。 しかし、いずれの研究においても、どのような子どもたちに、どのようなことばの力を 育成するために、なぜその実践を行ったのかということは十分に説明されていない。言い 換えると、このような実践の有効性が研究者の視点から語られているだけで、子どもたち のことばの実態も、授業を計画したはずの実践者の視点も十分に描かれていないのである。 このような議論のあり方では、言語能力の伸長のみを目的とする旧来の実践とそう変わら ないように見えるだけでなく、単に「子どもの言語資源を活用した実践を行えばよい」と 受け取られかねない。そうなると、中華学校の先行研究がそうであったように、バイリン ガルを育成するための授業時数やカリキュラムの比較検討といった議論に留まってしまう。 よって重要なのは、従来の限定的なことばの力の捉え方を問い直し、今目の前にいる子ど もには、どのようなことばの力が必要なのか、それはなぜなのか、そのためにどんな実践 を行うのか、という議論へと発展させていくことである。そのためには、実践者の具体的 なことばの力の捉え方を含めた教育実践のプロセス、そして子どもたちのことばの実態を 丁寧に描くことを通して、学校現場におけることばの教育のあり方を再考していくことが 必要なのではないだろうか。

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