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駒澤大学佛教学部論集 36 002佐藤 秀孝「霊石如芝の活動とその功績 : 入元日本僧と鎌倉末期の日本禅林の動向を踏まえて」

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駒澤大學佛 教 學部論 集 第三 十六 成十七年十月 一九 赦 徘

霊石如芝

活動

とその

――

入元

日本僧と鎌倉末

期の日

本禅林の動向を踏まえ

はじ めに 南宋 末期に臨済宗松 源 派の 虚堂 智愚 (息 耕叟 、 一 一八五 ― 一 二六 九) は浙江 の 大刹 に 在 って 多大の 接 化を な し て お り、 そ の法 燈は入宋し た 南浦紹明 (円 通 大 応 国 師 、 一 二 三 五 ― 一 三 〇 八) に よ っ て 日本 禅林に 導 入 さ れ、 大 応 派 の 流 れ を形 成 し て 現 今 の日本臨 済宗へと及ん で い る 。 し か し な がら、中 国禅林 に お ける 智愚の法燈は後 世 に維持さ れる ことなく 途絶え て お り、門下 にも 重要 な足 跡を 記 し た 人 は 少 ない。 智愚 に は二 〇 人 前 後 の 嗣法 門人が存し た こ とが知られ る が 、江南の主要禅 刹に 住持した 人となるとほ とんど見 出せ ない。 そん な状況の 中 で智 愚 の 法 を 嗣 いだ高弟で 元 代中期に禅宗 五山 に ま で 陞 住 して 接 化を な し た 人 と して 霊 石 如 芝 ( 仏鑑禅 師、 一二 四 五または一二 四 六― ?) の名 が知られて い る。如 芝 は南宋 末 期 に 生 を 受け て お り、智愚の最晩年 にそ の 門 に 投 じ たもの ら しく 、法嗣 の 中 で も末 弟に当 た る存在 で あ っ た と 見 られ 、 一 〇〇 歳に 近 い 長寿 を保っ た こ と から、そ の 実質的 な 活動 期 間 も 元 代中期 に 及ん で い る 。 元代中期 の 江 南禅林にお い ては、 破 庵派 (幻住派 祖) の中 峰明本 (幻住 老 人 、 智覚禅師、普応国師、一二六三―一三二 三 ) と 松源派 (金剛 幢 下 祖 ) の古林 清茂 (金剛幢、休 居 叟 、扶宗普覚 仏 性禅 師 、 一二六 二 ―一三 二 九) が多 大の接化 を な し、多くの日 本僧も 彼 ら二禅 者 の席 下に参 随 す る こ と を 目 指 し て 渡 海 し て いる 。と ころ が、明 本 や清茂ほど で はないにせよ、 こ の時期 に入元し た日本僧 で如 芝 に 参学 し て いる人もかなりの数に 及 んで おり 、 日 本国 内に も如 芝 の 書 し た 墨 蹟 が 多 く 現 存 して い る こ とから、 如芝の事跡 を整 理 する こ と によっ て 、当時の元 朝禅 林の 動向の 一 端が 知 られ る の み で な く 、 渡 海 僧を 通した 日本 禅林との関 わ りなど も解 明 さ れ る 点 が多い で あ ろ う 。 智 愚 の嗣法 門 人につい て は別に稿 を 改め て 総 括 的 に論ず る こ とにし たいが、 如芝に つ い て は日 本 禅 林との関 わりにおい ても特 筆 す べ き事 跡 が 多 い こと か ら 、 本 稿 に お い て別 個に 取

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 二〇 り上 げて 考 察 す る も の で あ る。 た だ 、残 念なこ と に如 芝 の 足 跡に ついて は 、こ れ ま で 墨 蹟の 解 説 書 な どに 若 干 の 考 察記 事 が存 する 程度で 、 詳 し い消 息 と な る とほ とん ど 明 ら か にされ ていな い 。そ こで以下、 諸 史料 を通し て 窺 え る 如 芝の 生 涯 の ( 1 ) 事跡 を整 理 し て 考 察 し 、併 せて 入元 した 日本 僧 と の 関 わ り に つい て論じてみる こ と にし たい。なお、そ の 際、 如芝 が 書 し た 墨 蹟や 序 跋 な ど は 便 宜 上 、 白 文で は な く 返 り 点 や 句 読点 を 付し て内容を判読 し た かたちで 示すものとする 。 霊石如芝の事跡を伝 え る史料 如芝 は 智 愚 の 嗣 法 門人 の中 では ただ 一 人 だけ 禅 宗 五 山 に ま で陞 住した 人 で あ り、また鎌 倉 末期に 日 本 禅 林から渡海した 入元 日 本 僧 と の 関 わ り に お いて も き わ め て 興 味 深 い 足 跡 を 残 した こ と で 知 ら れ て い る 。 し か し な がら 、如 芝 に つ い て そ の 章を 立 伝 して い る 燈 史 はわ ず か に 明 代初 期 に 大 慧 派 の 南 石 文 殳 (一三 四 五 ― 一四一八) が編 纂 し た 『 増集 続伝 燈録』巻 五 「杭 州浄 慈霊 石 如 芝禅 師」 の 章 の み で あ る 。 し か も 記 載 内 容 ( 2 ) がき わ め て 簡 略で あ っ て 、 伝 記 的 な 記 述 と し て は わ ず か に 「杭州浄 慈霊石如 芝禅師、 初住 二嘉禾 興聖、 一 遷 二台之 湧 泉 ・嘉 興本覚 一」と 記さ れる にす ぎ ず 、語 句 も 三上堂 を 収録 す る に 留 ま る こ とから 、 如 芝 その 人の 事跡はほ とん ど 明 らか に で き ない のが実 情 で あ る。 明末 清初 の 中 国 禅 宗燈 史 で は『 祖燈大統』 巻八 三 や 『 続 燈 正統 』巻 二 二 に お いて も 、 単 に 「 目 録 」 に智 愚 の 法嗣 と し て 「霊石芝」あるいは 「 霊石芝禅師〈無伝 〉 」 と 名 が存するに すぎ ない。 そ のほ か の 禅 宗 燈史 と し て は 『五 燈会元 続 略 』巻 三 上 、 『 継 燈 録 』 巻 三 、 『 五 燈 厳 統 』 巻 二 一 、 『 五 燈 全 書 』 巻 四 九 、 『 続燈存稾 』巻四 、 『 続 指月録 』 巻 五 など に智 愚の 法嗣 が載せられて いるが、そ こ には宝葉 源と間極雲 (閑 極 雲 ) す なわ ち 宝 葉 妙 源 (晋 之 、 一二 〇 七 ― 一 二 八 〇) と閑極法雲 (間 叟、一二 一五― ? ) の二禅者 のみを載せ、 如芝の名は存し て い ない。また宗派図 とし て は 『禅 燈世譜』巻六に智愚 の 法 嗣 と して 宝 葉 源 ・ 間 極 雲・ 霊 石 芝 の 三 人 の 名 が 記 載 さ れ て いる 。 一方、日本禅 林におい て 編 纂され た ものとし て 、 室町初期 に臨済 宗 夢 窓 派の古篆周印 (無 礙) が編集 し た 『 仏 祖 宗派 図』には「浄慈霊石芝 」とし て 、また 江 戸 初 期の慶安元年 (一六 五 〇) に臨済宗 妙心寺 派 (大応派) の桂芳全久が 編集し た『正誤宗派図』四には 「 浄慈 霊石如芝」とし て 、そ れ ぞ れ 智愚 の法 嗣に 如芝 の 名 が 載 せ ら れ て いる 。 こ の ほ かに も藤野 宗郁 (松 陰亭) が文化年 間 ( 一八〇四― 一八一八 ) に輯 した 『墨蹟祖師 伝 畧記 』 (単 に『 墨蹟 祖 師 伝 』 とも) 巻上 に「径 山 虚 堂愚 禅師法 嗣 」 とし て「 杭州浄 慈 霊石如芝 禅師 」の章が存し て い るが 、 こ れ は ほ ぼ 『増集 続 伝 燈 録』の如 芝の 章を 踏襲 し ( 3 ) たものにすぎない 。

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 二一 この よう に 如 芝 の 名 は 比 較 的 に 禅宗 史 上 に 知 ら れ てい るに も関わらず 、 その 事跡につい て は禅 宗 燈 史など を 通し て も ま とま っ た かたちで 知る こ と はほとんど で きない の が実 情 で あ る。 こ の た め 如 芝 の 足 跡 を 知 る に は 、 同 時 代 に 著 わ さ れ た 諸 史料 、および如芝自身が書 した 墨蹟 や序 跋 な どに 散見 さ れ る 事跡を丹念 に 整理検討する以外にない。 そ こ で 以 下、この人 が禅 宗 史 上 な いし日 中 交流史の上で 果た し た 功績に つ い て 、 諸史料 を 精 査 し て 詳 細 に論じて みる こ と にした い 。 ( 4) 出生年時について はじ めに問 題 とすべきは、いっ たい如芝 が い つ 出 生し たの か、 そ の 年時の確定につい て で あろ う。如 芝 の伝を 載 せる 『 増 集続 伝燈録』におい て も示 寂 年 時 や 世寿に関し て は何 ら の記 載も 存 し て い な い こ と か ら 、 当 然の こ と ながら 、 その 生 年 も 未詳という こ とになる。ただ、幸い に も 出生年時につい ては如芝自身がいくつかの序 跋 や 墨 蹟 に お い て 、 その時々の 年 齢 を 書 き込 ん で い る こと か ら 、 こ れ を 逆 算 する こと に よ っ てそ の生年 を 窺い知る ことが可 能 で ある 。そ れ ぞ れの 史料に ついて は 後 に 個 別 に 詳 しく 触れ るも の と し て 、ここ で は如 芝 の年齢に関する記載の 部分 を 取 り上 げ て 検 討 し て 見 る ことに した い。 如芝は入 元し た聖一派 の正堂士顕に 与え た直 筆の「正堂 号 為 二顕侍者賦」 で 、 天 暦 庚午 孟 春 望、 南屏浄 慈 八十 六歳 老 衲 霊 石 如芝、 書 二于宗鏡堂。 一 と自ら記して おり、天暦三 年 (一 三三〇) 正月 一五日 (孟 春 望) にお い て 八六 歳 で あっ た こ と が 知 ら れ る 。 如 芝 は 入 元 し た大覚派の 太 虚元寿 の 依頼によっ て 撰し た「仏燈 国師語録 跋」 に お い て も 、 至順改元庚午歳結 制日 、 仏 鑑 禅 師 住 二 持杭 之 南 屏 浄 慈 一 法属 比 丘 霊石如芝跋、時 年 八十有六 矣。 と自 ら 年 齢を記 し て お り、至順元 年 (一 三三〇 ) 四月一五日 (結制 日 ) に八 六歳 であっ た こと が知 ら れ る 。 庚 午 の 年 は 天 暦三 年が五月に至順元 年 と 改元 され て い る こ とから 、 おそら く如芝は改元を い ち 早 く知 っ て 至 順 の年号を用 い て い るもの と見られ るが 、両史 料 は同 じ 年 に 著 わされ た もので あ り 、 天 暦三 年の孟 春 ない し至 順元 年の結 制 日の 時点で 、 如 芝 は自ら 年齢 が 八 六 歳 で あ っ た こ と を 明 記 し て い るわ けで あ る 。 こ の 年時から 年齢を 逆 算 す れば 、如 芝 は 南 宋 末期 の淳 祐 五 年 (一 二四 五) に出生 し ている計算にな り 、 こ れが 如芝の出 生 年 時 に関 す る 一 つ 目 の 淳 祐 五 年 出 生 説で ある 。 これに対 し て 、そ の 翌 年 の 淳祐六年 ( 一 二四六) を出生年 時 と する 史料も如芝自身が記し た 墨蹟 や序跋の 中 に いくつ か 伝え ら れ て い る。 如 芝 は 入 元 し た聖 一派の大朴 玄 素 に 与えた 「上 堂謝 二百丈 素 首 座 一 書 」の 墨蹟におい て 、

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 二二 泰定 丁卯 九 月 望、 上堂謝 二百丈素首座為書 。 禾 城 本 覚 霊 石如 芝 、 書 二 于拈 華 堂 。 一 八十 二 之 衰 翁 也。 と自 ら 記 して い る 。 泰 定丁 卯 九 月 望 とは泰 定 四 年 (一三二 七) 九月 一五日 に 当たり、こ の とき如 芝 が八 二歳 で あ ったこ とが 知られ る わ け で あ る。 同 じ く 入 元 し た聖 一派の 鉄 牛 景 印 に与 えた 「 鉄 牛号 為 二印禅 人 一賦」の 墨蹟におい て も 、 致和 戊辰 春 仲 望、 南山 浄 慈 八 十 有三 老 衲 霊 石 如芝、 書 二 于宗鏡堂。 一 と如 芝は 自ら記 し て い る。致 和 戊 辰 春仲 望とは 致 和元 年 (一 三二八) 二月一 五 日 (涅槃会) のこ とで あり 、こ の と き 如 芝 が 八三 歳 で あったこ とが知られ る 。 ま た 建 長寺に所 蔵される 「 建 長開 山 大 覚禅 師蘭 渓和 尚絵像」 の賛 に お いて も 、 古杭南山浄 慈 、八十四歳老衲霊石如芝賛 。時己巳 歳良月既 望也 。 と如芝自ら記して いる。己巳歳良月既 望 とは天暦 二年 (一三 二九 ) 一〇 月 一 六 日 (既 望) に当 た り 、 こ のと き如芝 が 八四 歳で あ っ たこ と が 知ら れ る 。 た だ し 、 「 建長開 山 大覚禅 師 蘭 渓和尚 絵 像」は先に 示 し た 太虚元 寿 の依頼 で 賛し たもの で あ るから 、 同 じ 元 寿 に 与 えた 「 仏 燈国 師語録 跋 」 と の 間 で 出 生 年時に相違が生 じ て い る こ とになる。さら に 如 芝 が入元僧の 無言 訥 す なわち 大 通派の大辯正訥に与 え た「与 二訥侍 者 一偈」 の 墨蹟におい て も 、 至 順 辛未 春 季 望、 南屏 浄 慈 八十 六歳 老衲霊 石 如芝 書 。 と記 し て い る 。至順辛 未春季望と は 至順二 年 (一三三一) 三 月一五日 に当た り 、 こ の 時 点で 如 芝 が八六歳 で あ ったこ と を 記して い る。 また先と同じく鉄 牛景 印に与えた 「 印侍者 別 称 偈」 において も 、 至順二 袱 辛未歳 制 前一日 、 古杭南屏 浄慈八十 六歳 老衲霊 石 如芝 、 荐為 二 着語 。 一 と記されて お り、同じ 至順二 年 四 月 一四日 (結制前日) の時 点で 八 六 歳 で あ っ た こ と を 記 し て い る 。 こ れ ら の 墨 蹟 ・ 序 跋 の年 時 を そ れ ぞ れ 年 齢 で逆 算する と 、 如 芝 の 生年 は淳祐 五 年 では な く 、翌 年 の 淳祐 六 年 であ っ た こと に な る わ け で あ り 、 これが 如 芝の 出生年 時 に関する第 二 の淳祐六年出 生説 である。 わずか一年の相違 で は あるが 、 その何 れ を 是 とするかは微 妙な問 題 で あ っ て 、 現 時点 で は ど ち らかが如芝自身の記憶 違 い、勘違 いに よるも の で あ っ た と見ざ る を 得 ない 。とり わ け、 淳祐五年出生 説が至順 元年 (天 暦 三 年) に記 され た 記 事 に し か見られ ず 、 そ の 前後の記述 に はすべて 淳 祐 六 年 出生説が 通 用し てい る の は特 徴 的 であ っ て 、 年 月 日 や干 支 を 誤 る こと は ない で あ ろ う か ら 、 も と も と淳祐六年出生説が正しく、一時 期、 高齢に達し た 如 芝 に 自 らの年 齢 に対する混乱が起 こ っ た もの で は ないかと推測さ れ る。 ( 5 ) ともあ れ 、その何 れ に せよ、師の智愚 が 示寂し た 咸淳 五年 (一 二六 九) の 当 時において も 如芝は い ま だ 二四歳 か 二五歳 という若 齢 で あっ て 、 智愚にと っ て 最晩年 の 嗣法 門人 で あ っ

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 二三 たこ と に 変 わ り な い 。 こ の 点 、 『虚堂 和 尚語録 』 および 『 増 集続伝燈録』などに智愚との具体的な交渉 が 何ら 記されて い ない のも 一面で 頷 け よ う。 台州の出自と黄巌県 の 霊石 山 つぎに問 題とすべ きは 如芝の郷関 で あっ て 、 果 た し て 如芝 はい ずれの地の出 身 で あ っ たの で あ ろうか。残念ながら『増 集 続 伝 燈 録 』 に お いて も如 芝 の 出 身 地や 俗 姓 に つ いて は 何 ら 記されて いない。た だ 、 日 本から至 っ た 一山派の無著 良縁の 依頼で延祐七年 (一三 二 〇) に撰し た 「一山国師 語 録 序 」の 中で 、 如 芝 が 自 ら 「 一 山与 レ余、生 同 二 仄 、 一 夏同 二玉几」と 述べて い る こ とに注目 した い。 「 一 山国師語録序」 に よ れ ば 、 如芝は か つ て 日 本 に 赴 い た 曹 源 派 (一 山派 祖) の一 山 一 寧 (一 山国師・妙慈弘済 大師、一二四七 ― 一 三 一七 ) とそ の生 を 台 仄 に同じ く し、夏 安 居を 玉几 に同 じ く したこ と を述 懐し て い る。 台 仄 とは 天台 山 な ど を 擁す る台州 (浙江 省 ) の山々 の こ とで あ り 、 玉 几 と は 明 州 (浙江 省 ) 荏 県東の 阿 育王山 広 利禅 寺 の こ と で あ る。 一寧は台州臨海県の人 で あるか ら 、おそら く如芝も 生国を同じく し て 台州臨海県か その 近辺 の 出 身 で あっ たも の と 推 測 され る。 先 の 出 生 説 に よ れ ば 、 年齢 は淳 祐 七年 (一 二 四 七 ) に生 ま れ た 一 寧 よ り 如 芝の方が一歳 か二歳 の年 長 と い う こ と になるが、両者 は ほぼ同年 代に 同 郷 に出生 した 道 友 で あ っ た こ と に な ろ う 。 とこ ろ で 、如 芝 は 道号 を 自 ら 霊 石 と 称 し て お り 、 他 に 別 号 の ご と き ものは使 用し て い ない 。道 号の霊 石 と 法 諱の如 芝 と の 関 係 は も ち ろん霊芝に因 むもの で はあ ろうが、 別に道 号 の 由来が地名 (チ ミ ン ) にも 基づ い て いる 可能 性 が 存す る 。 こ の点を 踏 まえ て 台 州 内 に有縁の 地を 探ると 、 『嘉定赤城 志 』 巻一九 「 山 水 門二〈山 〉」 の「黄 巌 」 に 、 霊石 山、在 二 県西五 十 里、 一 与 二 烏巌 一 接。 以 二甘露降 、 一 名 二 甘露山 。 一 按 二 臨海記 一 云、 山上 有 レ 寺、 当 二 孫恩叛 一 毀 レ 木為 レ 船、 石従 レ 空自 墜、賊 以傷去、故号 二 霊石。 一 或云 、 此 石自 二 西北 一 飛至、故名。 とあり、 同 じ く『嘉定 赤 城 志』 巻二八「寺 観 門二〈寺院〉 」 の「黄巌〈 禅 院 〉 」に、 教忠 崇 報 寺 、 在 二 県西 五 十 里 。 一 東 晋 隆安二年 建。旧伝、 有 レ 僧誦 二 仁王経、 一 而甘 露降 、遂 名 二 露山 。 一 後以 二 寇孫恩屯 レ 兵、其処忽有 二 飛石 一 撃 レ 之退、遂 改名 二 霊石 。 一 有 二 隋智 沮 繙経臺・ 唐李義山 著 書堂。 一 又有 二 飛来 石 、 一 或伝自 二 西北 飄墜 二 於此 。 一 一鐘 頗鉅云、自 二 海門浮至、鐫 二 西度鐘三 字。 一 国朝 紹興 初、 謝 参 政 克 家 、 家 乞 為 二 香燈院、 一 遂改 二 今額 。 一 〈旧 伝、 昔有 二 異人 塑、 一 殿中仏像、期 以 二 十 旬啓 レ 門。 僧 怪 レ 之、未 レ 及 レ 期而啓、忽有 二 双鶴 飛出 、 一 俔 所 レ 塑纔 二像、珠髻 病 然。 故寺旧名 二 耀珠 。 一 殿前 有 二 浮図二 蔵 舎 利 及 貝 葉 等書云 〉。 とある 台 州黄 巌県 西五〇里の霊石山の こ と、ないし 霊 石 山 中

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 二四 の教 忠崇 報 禅 寺 (霊 石 寺 ) のこ と が 想 起 さ れ る。 霊 石 山 は 古 ( 6 ) く甘 露山 と 呼 ば れ て い た が 、 寇 賊の 孫 恩 が飛 来 し て き た 石 に よ っ て撃退さ れたという逸話 か ら霊石山と 改 名さ れた と 伝 え られ る 。 寺 も 古く 東晋の 隆 安 二 年 (三 九 八 ) に建 て ら れ 、 甘 ( 7 ) 露 に ちなんで露山寺と称されて いたが、 やがて 先 の因 縁 の ご とく寺 名 も 霊 石寺と改められて いる。 さらに南宋の紹興年 間 (一一三一―一一 六二) には 教忠 崇報 寺とい う 寺額に改 め ら れて いるが、山の名はやは り霊石山 で あり、 霊 石寺 の呼 称 も 広く通用 し て いた はずで あ ろ う から 、 台州出 身 の如 芝がこの霊石山ないし 霊石寺と何 ら か の 関 わ り が存するの で はな い か と推 測され る 。霊石山が存する台州 黄 ( 8 ) 巌県 が如 芝の出 身 地 で あ っ た 可 能 性 が強 いと なると 、如芝 は 法諱の下字 の 芝 に 因 ん で 郷 里の名山 ・名刹とし て 知 ら れ た 霊 石山ないし 霊 石 寺 に 因 ん で 霊石という名 を自らの道 号 とし て 用い て い る こ とにな ろ う 。 ( 9) 一山 一寧と の 道交 先に 触れた ご とく 如芝は一山一 寧と同郷 で 、 初期の参 学 を 共に し て いたら し い こ とが 知られ る から 、一寧 の 動向 を踏ま える と如 芝の参学 過 程 も あ る 程 度は推 測 するこ と が 可 能と な ろう 。 聖 一 派 の虎 関 師 錬 (海蔵和尚 、 一二七八―一三四 六) が 編 集 し た 『元 亨釈書』巻八「浄 禅三之三」 の 「釈一 寧 」 の 章 によれ ば 、 釈一 寧、 号 二 一山 。 一 宋之 台州 胡 氏 之 子 也 。 幼 投 二 郡之 鴻福 寺 融 無 等席 下。 一 不 レ 久、去 聴 二 律于 応 真 、 一 学 二 台于延 慶 。 一 已而嫌 二 義学、 一 上 二 天童 一 質 二 疑堂頭 敬 簡翁、 一 又依 二 貢 之珍蔵 叟 。 一 珍移 而愷東叟 来 、 及 照 寂窓・弥頑極、互相移来、寧奉 二 事四師。 一 而欽 二 弥之好 一 開誘 。 一日、 従 容酬酢、 至 三 我無 二 一法 与 一 レ 人、 見 爾投契 。 とあっ て 一 寧の出家 参学に関す る 簡略な事跡が知 ら れ る 。ま た『一 山 国師 語 録 』 巻 下 に 所収 さ れ る 同 じ師錬 が 記し た「行 記」 には、 師諱一 寧 、号 二 一山。 一 大 宋 国台州臨海県胡氏 子 也。齠齔 入 二 村塾 、 一 吾伊 琅琅。 郷 先 生 称 二 其敏 悟。 一 無等 融禅 師 、 住 二 郡之 浮山 鴻福寺、 一 主 蔵 之者 月霊 江、師 之 俗叔 也。 怙 恃 察 三 其無 二 塵累 之姿、 一 介 レ 月而 投 レ 等。 等加 二 撫念 一三年 、而月 在 二 四明太白 山、 一 遣 レ 使取 レ 師。与 二 普光寺処謙、 一 習 二 法華等 諸 経 、 一 踰 二 二歳 一 得度。 間 如 二 城中応真律 寺、 一 聴 二 開遮 、 一 延慶 教 寺 、 学 二 天 台教観 。 一 聞 三 杭州 集慶 院文 節法師 有 二 台誉、 一 踵 レ 足依 レ 之。 已 而 嫌 二 義学之支離 、 一 棄而 帰 、 就 レ 月質 二 所疑。 一 時月 為 二 天童 板首 、 一 堂頭簡 翁 敬也。月譲 二 于主 者、 一 師便 謁 レ 之。翁 知 三 師之 粋 二 台教、 一 問曰 、 一 心 三 観 、 以 レ 何為 レ 体。師 即 一 笑、翁許 二 参堂。 一 坐究二期、 月 瑞 二 世定 海之資聖 寺、 一 師講 二 道義 一 随往。 越 レ 年、月移 二 霊峯、 一 又従 レ 之。 不 レ 久辞上 二 貢 山、 一 依 二 珍蔵 叟。 一 叟応 二 浄慈 之 詔 、 一 交代愷東叟 也 。 愷 見 二 師妙 英、 一 侍 二 主客。 一 愷 罷、 照寂 窓 継 、期 年寺 火 。 窓又 遷 二 南屏、 一 頑極弥来拠 二 主位、 一 受 二

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 二五 窓之 燼 余 、 一 早復 二 輪奐。 一 師以 為、 一居 四 主 、 我 無 レ 分、 今此 老 和 尚、不 レ 墺 二化権、 一 又我之幸也。 傾 レ 意親 炙 、 従 容 脅 醋、 至 三 我無 二 一法 与 一 レ 人、忽然 冥 契 。翌歳、授 以 二 大蔵之 関 鑰 。 一 解 レ 印、拉 二 友 人明自誠、 一 雲 二 游天台 雁 蕩 之 間、 一 肩 レ 錫 而 来帰。 とさ ら に 詳 し い 事 情 を 辿 る こ と がで き る 。こ れ ら を 通 して 一 ( 、 ) 寧が 出 家 し て から参学遊方し た 過程 を窺 っ て み る に、この人 は台 州臨 海県 の 胡 氏 の 出身で 、 幼 く して 台 州 黄巌県 西 八〇 里 の浮 山鴻 福禅 寺 に 投じて 出 家 し 、 大 慧派の無 等 慧 融に 師事 し ている こ とが 知 ら れる 。 『 嘉 定 赤 城 志 』 巻 二 八 「 寺 観 門 二 〈寺院〉 」の「 黄 巌 〈 禅院 〉」 に は 教忠崇報寺すな わ ち 霊 石寺 の記事 に つづい て 、 鴻福寺、在 二 県西 八十 里。 一 東晋永和中建。旧有 二 永和 堂、 一 相伝菩 提引 尊 者 所 レ 基。至 二 唐咸通中 一 レ 之。 按 二 五代石刻、 一 山有 二 独峯、 一 望 レ 之若 二 紫雲 覆 一 レ 頂、芒 采 注 二 射山 一 若 二 浮動、 一 故号 二 浮山。 一 後有 二 胡僧 一 結 レ 廬誦 レ 経 、 其 動 遂止。 国 朝 大 中祥 符四年 、 賜 レ 額。 とし て浮 山 鴻 福寺の 項 目が存し て お り、黄 巌 県西 八〇里 に 位 置 し た鴻福寺が霊 石寺 とともに黄巌県 で も由緒ある禅寺 で あっ た こ と を 伝えている 。 また一 寧 が最初に 参学し た 無 等 慧 ( 。 ) 融は大慧派の妙峯之善 (一一 五 二―一二 三五) の法を嗣いだ 禅 者で あり 、同門 に は蔵叟善珍 (一一 九 四―一二 七七) や東叟 仲 ( , ) 穎 (? ―一二七 六 ) らが存 し て い る 。 この と き 鴻福寺の 慧融 のもと で 蔵主 を 勤 め て い た 霊江月という禅者が一寧の俗叔父 であ り、 この 人 は 破 庵 派 無 準 下 の西 巌 了 慧 (一 一九八―一 二 六 二) の法を嗣いだ 霊江智月の こ と で あり、 こ の叔父を介し て ( . ) 一寧 は 住 持 の 慧 融 の も と に 投 じ た と さ れ る。 鴻 福 寺 は 如 芝 ゆ かり の霊 石 寺 ともきわ め て 距離 的 に も 近 い こ とから 、 おそら く 如 芝 も 一寧 と同じ時期に 鴻福寺の慧融 の も とに 投じ 、 同 世 代の一 寧 と 道 交 を 深 め たもの で はな かろ う か 。鴻 福寺 に は 北 宋末期 か ら 南 宋代にかけ て 住持し た 禅者が知られ て お り、元 ・( ) 代にお い て も 著名 な 禅 者が化 導 を敷い て いる。 ( : ) その後、一寧は 郷 里台州を 離 れ て 明 州 (浙 江 省 ) に赴き 、 明 州 府 城 の応 真 律 寺 で 戒 律 を 学 び、 同じ く明 州 府 城の 延 慶 教 寺 で 天 台 学を修めている。先の「 一 山国師語録序」 に よ れ ば 「一山 与 レ余、 生 同 二 仄 、 一 夏同 二玉几。 一 講磨 奮 蜿 、道術相 忘 」 と あ る こ とから 、如芝も 一 寧 と 同 様 に応真 寺 や 延 慶寺で教 律 の研 鑽に 邁進 し、講 義 を聴聞し て い たものと 推測 さ れ る 。 「行記」によ れば 、その後、 一 寧は 叔父の智月が明州 荏 県 東六〇里の天童山景 徳 禅寺の首座となっ たのを機に、天童山 に上山 し て 無 準下 (または曹源派) の簡 翁居 敬 の も と に投 じ てお り 、 つ い で 同 じ 明 州 荏 県東の阿育王山広利禅寺におい て 受業師の慧融と同門 に 当 た る 大 慧派の 蔵 叟善珍に参学 し て い る 。 おそ らく如芝は郷 里 で 知り 合っ た一 寧と班 を 共にし て い たものと見られ 、 ほぼ同様の 過 程 で 教 律 から禅へと参学を 深 め て いっ たもの で あ ろ う 。 如芝 が若く し て 一 寧と行動 を 共に

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 二六 し 、 ともに阿育王山に掛搭し て いるとす れ ば 、 時 期的に 見 て 善珍 の席下 に 投じた 経 験が 存 し た も ので あ ろ う 。 善 珍 は同 じ 大慧派の 物初大観 (一 二〇一―一二 六八) の後席 を 継い で 阿 育 王 山 に 住 持し て い る が 、そ の後 も一 寧は阿 育 王 山 に留ま っ て ( ; ) 住持 が大慧 派 の東叟元 愷から 虎 丘 派 の 寂窓有 照さら に 曹源派 の頑極 行 弥と 移っ て い く間も参禅 綉 道に努 め 、 つ いに行弥の もと で契当し て そ の法 を嗣い で いる 。 とこ ろ が 、如 芝の場合は阿 育王山の 善珍のも とを 離れて い るものら しく、お そ ら く善珍に参 随 し て いたのは わ ず かな期 間で あっ て 、 時 期 を経 ず し て 杭 州 余 杭 県 西 北 五 〇 里 の 径 山 興 聖万寿 禅 寺に 上山し て 最 晩 年 の 智愚 のもとに投 じ て い る も の と推 測 さ れ る 。 径山の 虚 堂智愚への 参 学 その後、 如 芝 は径 山に赴い て智愚に参じたもの ら しく 、 そ の印記を 受け て 最 晩 年 の嗣法門 人に名 を 連 ね て い る わ け で あ るが 、残 念 な が ら 智 愚 と の 間で 交わ され た機 縁 の 語 句 な ど は 伝 え られて い ない 。如芝の名はな ぜ か『虚 堂 和尚 語録』全巻 の中に も まっ たく該当する記載が見い出せ な いの で あ っ て 、 一 見 き わ め て 不可解な 感が存する 。 ただ、 状 況か らす る と 、 如芝 は阿育 王山の善珍に参学 し て ま も な く 径 山に 上 山 し て 智 愚 の も と に 投 じ て いるものと見られ 、その時 期はおそらく咸 淳四年 (一 二六 八) の末 か咸淳五年 の 初め で あ っ た ものと 見 られ るか ら 、 ま さ に 智 愚 の 最 晩 年 に そ の 会下 に 連 な っ て い る こと に な ろ う 。 し たがっ て 、如芝が智愚の提撕を受け る こ と ので き た 期 間 は き わ め て 短 期 に 限 ら れ て いた こ と に な り 、 そ の 僅 か な 参 学 の 中 で 如 芝 は 智 愚 の 示 す 禅 旨を 継 承 して いた こ とにな ろ う。 すで に 触 れ た ご と く 如 芝 は 淳 祐 五 年 (一 二 四 五 ) 乙巳 ない し翌 年の 淳 祐 六 年 丙 午 の 生 まれ で あ り 、 淳 煕 一二 年 (一 一 八 五) 乙巳の生ま れ で あ る 智 愚との年 齢 差 は 実 に 六 〇年 もの 隔 たりが 存 し て いる。 如 芝が 智愚の指導を受ける こ とが で き た のは わ ず か一 年 か 二年にすぎ ず 、いまだ若輩 で あ っ た 如 芝 は 智 愚 の 門 下 で ほと ん ど 注 目 さ れ てい な か っ た も の であ ろ う 。 した が っ て 、 如 芝 は 時 期 的 に浄 慈 寺 や 径 山 に おいて 智 愚 に 学んで い る日本の南浦紹明などとは奇 し くも 知り合 う こ とが なか った も の と 見 られ 、紹 明が智 愚 のも と を 辞し て 日 本に 帰っ た 後 に、径山に 上 山 し て智愚のもとに掛搭し て い るもの と推 測され る 。こ の た め 智 愚の門下が 帰 国する紹明に贈 っ た 偈頌 をまとめ た『一 帆 風 』 にも 如芝 の作 は 収 め ら れ て いない わけ であ る 。 ?() こ の ように如芝は智愚に参学 し て い たわずか の期間に師資 相契し て 印 可証明 を 受け て い る こ と に なるが、残念ながら智 愚との間 で 交 わ さ れた機縁の問 答な ど も 知られて いない。と

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 二七 も あ れ、 智愚に と っ て 如芝はそ の生涯 で 最 後 に育 て上げ た 晩 学 の 法 嗣 という こ とにな り 、日本 僧 の紹明 と はま た別の意 味 で次代 を 担う人材とし て 密 かに期待さ れ た 門 人であった こ と になろう。 後 に示すご とく如 芝 は智 愚の「虎 丘十詠」 に跋文 を寄 せ て 智 愚 を 「 径 山 先 師 和尚」 と 尊 称 し、 その墨蹟を目の 当た りに して 涙 し て お り 、 師 資 の深 い 契 当 を 通 し た 本 師智 愚 への 厚い報 恩 の想 いが存 し たこ とが窺われる 。 智愚は咸 淳五年 (一 二 六 九 ) 一〇月 七 日に世 寿 八 五 歳 で 径 山に示 寂 し、 遺骨 は 山 中 の 天沢庵に納め られて い るが、 こ の とき 如 芝 は い ま だ 二 五 歳か 二 六 歳と い う 若さで あ った 。 『 虚 堂和尚 語 録』 巻九「臨安府径山興聖万寿 禅寺後録」には 智 愚 が病床 に 倒れるま で怯 むこ となく学人接化 を つ づ け て い た 消 息が記録され て い る が 、最後の「開爐并翻蓋仏殿上堂」に は、 有 レ 雪有 レ 霜、 有 レ 寒有 レ 燠、 四 時 遷 レ 謝、変 化 不 レ 同。 山僧 今 年 八 十五、骨 冷如 レ 氷、 纔聞 二 燠字、 一 挙 レ 手而 謝 レ 之。何 故 。免得老来 挑 レ 灰弄 レ 火。 とあ っ て 、老衰 の 中 で 弛まぬ 行 持を 貫く 智愚の 凄 じ い まで に 透徹 したこ と ば が 残 さ れ て い る 。 智 愚は 疾病を 発 して 倒 れ る ま で 、径 山の 法堂上 に 在っ て 道 俗を 叱咤し 、 厳 格 な禅 風を 振 るい つづ けて いたわ け で あ り 、 そん なひ た向き な 智 愚 の す が た を 目 の 当 たりにしながら如芝は 智 愚の仏 法 を 継 承し ていっ た も の で あ ろ う。ち なみに智愚の後席 を 継いで 径 山に 住 持 し たのは、如 芝 がか つ て 阿育 王山 で 参 学 し たと見 ら れ る 蔵叟善 珍 で あ り 、あるいは如芝は引 き つ づ き径山 に 止 ま っ て 善珍に ( ! ) 参随 し た ものかも 知れ ない。 智 愚 の示寂して 後 、 南 宋末期から元 代初期の 動乱期に如芝 が如 何な る 行 動を 取 っ て い た の か は 定 か で な い が 、 お そら く 江浙 の 禅 林を中心 に 高 名な 禅者の席 下 を 歴 参 し 、 大 刹 の 要 職 を歴任 し て い たものと推測 さ れ る 。 日本 に て 夢 窓 派 の 義 堂 周 信 (空 華道人、 一三二 五 ― 一三八 八) がま とめ た 『 新撰 貞和分類 古今 尊宿 偈頌 集 』 巻上 「師 弟」 に 、 芝兄帰 二 台洲 一 奔 二 母喪 。 一 松坡 。 母子 肝 腸 鐵 打 成、 肯同 二 黄檗 老 婆 心 、 一 半江 冷浸前峰 月、未 レ 抵 二 波一寸 深 。 一 とい う偈 頌が収 め られて お り 、 同 じ く『 重刊貞 和 類 聚 祖 苑 聯 芳集 』 巻 一〇 「 哀 悼 」 にも 、 芝兄帰 二 臺州 一 奔 二 母喪。 一 松坡 。 母子肝腸鐵打成、肯同 二 黄蘗 老婆心、 一 半江 冷浸前峰月、未 レ 抵 二 波一寸 深 。 一 と い う偈 頌が載 せ ら れ て い る。こ の 偈 頌 は 『 江 湖 風月集 』 上 巻の編者と目 され る 破 庵派無準下の松坡宗憇の作 で あ り、芝 兄が台州に帰っ て 母の喪 に 赴くのに送 っ た も の で ある。 『 江 湖風月集 』巻下 に は 「 蜀松坡憇蔵主」とし て 宗 憇 の偈 頌が一

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 二八 三 首 ほ ど 収め ら れ てい る が 、 こ の 偈 頌 は 載 せ ら れ てい な い 。 芝 兄 と あ る の は自 らよ り年 齢の低い 者に 対 す る呼 称 で あ り 、 お そ ら く 如芝の こ と を 指し て い る も のと 見 ら れ 、 如芝が 宗 憇 と も 交遊し て いたこ と が判明する。こ の 偈頌 は お そら く 智 愚 が示 寂し て 後 の消 息 と 見 ら れ 、 如 芝 が台 州 の 出身 で あ っ た こ とが確 か めら れ 、 その頃ま で 母 が健在 で あ っ た こ となど も 知 られ る 。 出 家 した 身 と は い え 母 の 逝 去を伝え 聞 い て 、 養育の 恩に報いるために 郷 里 に馳せ参ず る 如芝の姿が偲 ば れ て微笑 ましい 。 嘉興興 聖 寺への 出 世 おそ らく 如芝は久しくつづ いた漢民族の宋 朝 が 滅 亡し 、蒙 古民 族の 建て た 元 朝が 中国国 内 を 統 一して い く 過 程を 目の 当 たり に し ながら 、 時世の推 移を 静観 し て い た もの と見られ る。 『増 集 続 伝 燈 録』によ れば 「初住 二嘉禾興 聖 一」と記されて おり 、如 芝 が 最 初 に嘉 禾の 興聖 寺 す なわち 嘉 興 府 (浙江 省 ) の興聖禅 寺に開堂出世 したこ と が伝えられ て い る 。嘉興の興 聖寺といえば 如 芝 の 本 師 で ある虚堂智 愚 が か つて 初開 堂 し て 運庵普巌 (少瞻、? ― 一二二二または一一五六―一二二 六 ) に嗣 承香 を 島 いた禅 寺 で あ り、如 芝 も そ の同 じ 寺 院 に 初住 し て い ( ゛ ) るわ けで あ り 、 お そ ら く 開 堂 出 世 に 臨 ん で 智 愚 へ の 嗣 承 香 を 表明し て いる もの と 見 ら れ る。 『至元 嘉 禾 志 』巻一 〇 「寺 院」 の 「 録 事 司」 に よ れ ば 、 興聖 禅院 、 在 二 郡治東北 二百歩。 一 考証、旧嘉興県丞廳。揮塵録 云 、 宋孝宗 誕 二 育于此 、 一 時有 二 紅光 一 燭 レ 天。 嘉 定 戊 辰 、 賜 二 今額 。 一 理宗 御 二書流虹 聖 地興 聖之 寺 八 字 。 一 宝祐 年 間 、因 レ 経 二 回禄 一 不 レ 存。 後 再造 未 レ 完。 とあり、 清の光 緒 五年 ( 一八七九) に刊 行され た 『嘉興府 志』 巻一八「寺観 一」 によれば 、 興聖 禅寺、 在 二 郡治東北 二百歩 。 一 旧為 二 嘉興 県 丞 庁 一 〈 至元志〉 。 宋建 炎 丁 未 十 月二十 二 日、孝宗 誕 二 育於 此 。 一 嘉定戊 辰 、 郡 守 趙 希 道、請改為 二 興聖 禅院 一〈婁機為 レ 記 〉 。淳 祐辛亥 、 賜 二 額流虹聖 地 興聖 之 寺 、 一 理宗御書〈程 公許記〉 。宝祐 間 燬、景 定 庚申 、 嗣 秀王 与沢請 二 原額 一 立 レ 之、 命 二 寺僧 一 重建 〈周方 有 レ 記〉 。 明 洪 武 二 十 四 年、定為 二 禅寺 。 一 嘉靖 乙 未 、知県 王 献 可 上 聞 、 張 御 史 改 為 二 嘉興 県儒学 一 〈嘉 興 湯 志 〉 。遷 二 其寺 於 北 、 一 今俗 称 二 地蔵 禅院。 一 流虹興 聖原 額 在 レ 焉〈秀 水 任 志 〉 。 今流 虹亭尚 存 〈嘉 興何志 詳 二 古蹟 一 〉 。 と あ っ て 興聖 寺の変遷沿 革 が知 ら れ る 。 興 聖 寺は 嘉興 府 郡 治 東北二 〇 〇 歩 に存し、かつ て 南 宋第二代皇 帝 の孝宗 (名は 熊 、 字は 元 永 、 一 一 二 七 ― 一 一 九 四 、 在 位は 一 一 六 二 ― 一 一 八 九 ) が生 誕育成し た 地 で あ っ た こ と が知られ 、嘉定 元 年 (一二〇八 ) に郡守の 趙希道に よっ て 興 聖禅 院と なり 、さら に 淳 祐 一一 年 (一二 五 一 ) には南宋第五代皇帝の理宗 (名は 靴 、初名 は 貴 誠 、 一二〇五― 一 二六四、在位は 一 二二 四―一 二 六四) より「 流 虹聖

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 二九 地興聖之 寺」 の 勅 額を 賜 っ て い る。 ゜( ) 智愚が興聖寺に入 院開堂し たのは紹定 二 年 (一二二九) 五 月の こ と で あ った が 、 お そ ら く 如 芝 は智 愚の 住 持 して より 半 世紀 もの 歳 月 を 経 過 し た 南 宋 最 末 期 か 元 代初 期 に 至 っ て 興 聖 寺に 開堂 出 世 し て い る も の と推 測され る 。 お そらく如 芝は 興 聖寺 へ の 開 堂 出 世 に際し て 先師 智愚に嗣承 香 を 島 き、 嗣法 を 公表し て 法乳 の恩に 酬 い た こ と で あ ろう 。 た だし 、如芝 が興 聖寺 で如何な る 活 動 を なし て い たのかは全く知 ら れて お ら ず 、 こ の 時 期 に記した 墨 蹟 なども伝えられて いない。 あるいは如 芝 が広く元朝禅 林に認 め られたのがか なり老齢 に達し て 後の こ と である点を 踏 まえれば 、南宋末期に宋 室 の 帰依を受 けた智 愚 の法嗣と し て 、元 代初期 に 宋室 ゆか りの 興 聖寺 の住持 で あっ た 如 芝 の 立 場 が本人にとっ て 何 らかの 不 都 合を 与えて い たのかも 知 れ ない。 興 聖寺は宝 祐年間 (一二五 三―一二五八) に火災 (回禄 ) に遭い、 景定元年 (一 二六〇 ) に宋室 の 趙与 沢 (嗣 秀 王 、 臨 海郡 王) によっ て 重建さ れ て い る こと か ら 、 如 芝 が 入 寺 し た 南 宋 末 元 初 に お い ても伽 藍 は 辛 う じ て 維持さ れ て い たもの と 見られ る が、 『至 元嘉禾 志 』 に よ れば「後 、再 造する こ と 未 だ 完 か ら ず 」 と 記 さ れ てい る 。 『嘉 興府志 』 にも元 代 におけ る 興聖 寺伽藍の変 遷 は記されて いないが、如芝が住持し た 後 も元 代には破庵派の竺遠正源 ( 仏慧 慈 照 普 応 禅 師 、 一 二 九 〇 ― 一 三 六 一 ) や覚隠 本 誠 (道 原 ) など が 住 持 し たこ と が 知ら れ て い る 。 ´() 台州湧泉寺への 遷 住 つい で『増 集 続 伝 燈録』 に よ れ ば「遷 二台之 湧泉・嘉興 本 覚 一」と あり、如芝が郷里の台州に帰っ て 湧泉寺と いう 禅刹 に遷住し て い る こ とが知 ら れ る 。台 州 の 湧泉寺とはおそ ら く 『嘉 定赤 城志』 巻 二七「寺観 門 一〈寺院 〉 」 の「臨海〈禅 院〉 」に 、 延恩院 、 在 二 県東南七十 九 里。 一 旧名 二 涌泉。 一 晋太康中建。 蓋因 任 〈神廟 嫌 レ 諱〉女 弟卓庵誦 二 蓮経 、 一 俄有 レ 泉自 レ 地涌、 出 二 生 白蓮華、 一 故名 。 其 後、僧 懐 玉 居 レ 焉。唐咸 通 中 、改 二 今額。 一 とある 延 恩禅 院がこ れ に当 たるものと見られ る 。 延 恩 院 は 台 ( ` ) 州臨海 県 東 南 七 九 里 に存し、か つ て 晋 代に任とい う 姓の女 性 が 庵 を結 んで 『妙 法蓮華経 』を 誦 し て い た と こ ろ 、 泉 が地 か ら涌 い て 白蓮 華が生 じ た と さ れ 、そ の た め 太 康年 間 (二八 〇 ―二八九) に伽藍が 建 て られて 涌 泉寺 (湧泉 寺 ) と称されたと 伝えら れ 、そ の後、懐玉 (高 玉禅 師) という 高 僧 が こ こ に居 ( ¨ ) 住したとさ れ る。延 恩 院と は 唐 の咸通年間 (八 六〇 ―八七 四 ) ( ^ ) に寺額を改め た も の で あ る が、おそ らく如芝が住持し た南宋 末期から元代初期に お い て も由緒のある湧泉寺の旧称が広く 通用 し て いた ので あ ろ う 。 と こ ろで 、福岡市博多の石城山妙楽寺 に 所 蔵され る 『石城

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 三〇 遺宝 』や 、京 都東 福 寺 霊 雲 院 に 所 蔵 され る『集 古 録 』 など に 、 それ ぞれ 所 収 さ れ る 智 愚 の 「 虎 丘 十 詠 」 に は 、 又〈跋 二 虎丘 十 詠 一 〉 如芝 。 約翁礼蔵司、 自 二 呉門 一 来遊 二 台雁、 一 携 二 径山先 師 和尚処 レ 衆時虎 丘 十詠 、 一 出以 為 レ 示。展閲未 レ 既、心折涕零、 且 需 レ 下 二 注脚。 一 先師 無 二 此語、 一 注脚向 二 什麼処 一 下。 遂 再 拝 皈 レ 之 。若過 二雁山 一 謁 二 静翁、 一 慎勿 レ 出 レ 此。恩深怨 深 、翁 必 諱 レ見。 徳 辰 臈初、 如芝 拝手 。[ 如芝 ]( 朱方印) とい う 如 芝が書 し た 跋 文の写 し が 載 せられて い る 。こ こ に い う「 虎 丘 十 詠 」 と は宝 慶 年 間 (一 二 二 五―一 二 二 七 ) に虎丘山 に掛搭 し て 大 慧 派 の笑 翁妙堪 (一 一 七 七―一 二 四 八 ) のもとで 蔵主を勤 めて いた 際、智 愚 が山内の十景を詩 偈 に 詠 じ たもの であ り 、 そ の 後 、 元 代 初 期 か ら 明 代 初 中 期 に 至 る 諸 禅 者 が 跋 文を 寄せ 、 日 本禅 林に 将 来 されて 妙 楽 寺 に収 められ た 墨蹟集 であ る 。 しかも実際に田山方南 編『 続 禅 林 墨 蹟』四七には、 約翁 礼蔵司 、 自 二 呉門 一 来遊 二 台鴈、 一 携 二 径山先 師 擘 尚処 レ 衆時虎 丘 十詠 、 一 出以 為 レ 示。展閲未 レ 既、心折涕零、且 需 レ 下 二 注脚。 一 先師 無 二 此語、 一 注脚向 二 什麼処 一 下。 遂 再 拝 帰 レ 之。 若 過 二雁山 一 謁 二 静翁、 一 慎勿 レ 出 レ 此。恩 深 怨 深 、翁必諱 レ見。 徳 辰 臈初、如芝拝 手 。[ 如芝 ]( 朱方印) とし て 、 奈良県の大和文華館に 所 蔵 さ れ る 如 芝の跋文の原物 が紹介さ れて いる 。また 江 戸初期 に 大応派 (大 徳寺派 ) の江 月宗 玩 (大 梁興 宗 禅 師、 吠 袋子 ・赫々 子 、 一 五七 四 ― 一 六 四 三 ) が 記した『墨蹟之写 』 で は「元 和 六、二冊之内下 」 の箇 所に こ の 墨蹟に 関する記載 が 見られ る 。 「 徳辰臈初 」とあるのは大 (  ̄ ) 徳甲辰臘 月初め の 略 で 、大 徳八年 (一三 〇 四) 一二 月 の 初 め の こ と で あろうから、 こ の 墨蹟は如芝が五 九 歳か六〇 歳 の 頃 に書 し た も の で あ る こ とが 知られ 、 現 在 に 伝 えら れ る 如芝の 墨蹟とし て は も っ と も 古いものという こ とにな ろ う。 _( ) 呉門す な わち蘇州 (江蘇 省 ) 呉県 西北七 里 の 虎 丘 山 雲巌禅 寺の 蔵 主 で あ った 約 翁 礼が遠く台 州 の天台山や 温 州の雁 蕩 山 に遊歴し 、如芝の も とを 訪れて 智 愚の「 虎 丘 十 詠」を呈して いる わけで あ り 、 本 師 智愚の遺 墨に接し た如芝は感慨に 溢 れ 、 親し く跋 文 を 付し て 約 翁 礼 に 付 与し ている 。 如芝 は 智 愚 を 「径山 先 師和 尚」と 尊 称し て お り、 ま た 「虎 丘十詠 」 を目の 当 たりにし て 「展閲する こ と未だ既き ざ る に 、心折け涕零 つ」 と記 し て いる。如 芝はか つ て 径 山で 智 愚 の 化 導 に 浴 し て いるが、 智愚が示寂 し て三五年 の歳月を経 て その墨蹟に接し、 覚えず 心 挫け涙が自然 に 溢 れ 出 た と 述 懐 し て いる。 お そ ら く 時期的には こ のとき如 芝は台州湧泉寺の住 持 で あっ たものと推測 さ れ 、 約 翁 礼 は如芝が智愚の法嗣 で ある こ とを 知った上で そ のも と を 訪 ね て い る こ と に なろ う。た だ 、 ( ヽ ) 如 芝 が 末 尾 で 「 若 し雁山 を 過ぎ て 静 翁に謁せば 、 慎んで 此 れ

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 三一 を出だす こ と 勿れ。恩 深 く し て 怨み 深 し 、 翁 、 必 ず見る こ と を諱ま ん 」と述べている が 、温州 (浙 江 省 ) 楽清 県 東 九〇里 に存 する 雁 蕩 山 の 霊 峰 禅 寺 に 在 った と 見 られ る 静 翁 に ついて は 、 如何なる素性の禅者なのかは定か で な い 。ただ、状 況 か らし て「虎丘 十詠 」に 如芝と 同 じ大 徳八年 一 二月 に跋文 を 寄 せて いる 法 塞 が 静 翁 に 当た るので は な い かと 推 測 され る。 ヾ( ) 嘉興本覚寺への遷住 『増集 続 伝 燈 録』によ れば「 遷 二台之湧泉 ・嘉興本覚 一」と あるから、如芝は台州の湧 泉寺 に つ づい で 再 び嘉興府に戻 っ て 本 覚寺の住持を勤め て い る こ と が 知 ら れ る 。嘉興の 本覚寺 とは嘉興 府 ( 元 代には嘉興 路) 嘉興 県 (秀水 県 ) 西二 七 里 に 存 した 寿山本 覚 禅 寺 の こ と で あり、 『 至 元 嘉 禾 志 』 巻一一「寺 院 」 の「嘉興県」には、 本覚 禅 院 、 在 二 県西 二 十七里 。 一 考証、旧名 二 報本。 一 宋宣 和年、 改 二 神霄玉 清 万 寿 宮。 一 建炎 元 年 、復 二 旧額 。 一 此正 猗 李之地 、 今有 二 猗 李亭 。 一 東坡 与 二文長 老 一 往還 、 甞 遊 二 于此 、 一 有 二東坡 館 。 一 按 二 東坡 集 、 一 有 二 秀州報本禅院郷僧 文長老方丈詩 一 曰、毎逢 二 蜀叟 一 談終日、便 覚 二 峨眉翠 掃 一 レ 空。泊再過 レ 之、則 文 長老以 二 老病 一 而退 レ 院。 復 有 レ 詩云 、愁聞巴 叟臥 二 荒村、 一 来打 二 三更 月 下門。 一 三過 レ之、則文長老 已卒。詩曰 、 三過 レ 門中老 病 死、一弾指頃 去来今。 故寺有 二 三過 堂。 一 とあり、また 明の万暦 二八 年 (一 六〇 〇 ) 刊『 嘉 興 府 志 』巻 四 「 寺 観 」の「郡城」によ れば 、 本覚 寺、 在 二 治西 二十 七里、 一 即春 秋時 猗 李之 地 。 旧 名 二 報本禅院 。 一 内有 二 李亭・ 蘇 長公 三過堂。 一 宣和 年間 、改為 二 神霄 玉 清 万 寿 宮。 一 建炎 元 年 、復 二 旧額 。 一 淳祐 間 、 守 臣 趙 与 浄 、請為 二 本覚 禅院。 一 洪 武初、 定 為 二 禅寺 。 一 万暦十 二 年、 郡守 搜 勉、 葺 二 三過堂 一 祀 二 蘇公、 一 并集 二 古今游 覧 詩 文 一 成 レ 帙。 とあっ て 、 こ の 寺の 大ま か な 変遷沿革を 知 る こ とが でき る。 ゝ( ) 本覚寺は旧名を報 本 禅 院 と い い 、北宋代に雲門宗の本覚 守 一 (法 真 禅 師 ) や本 覚 道 如 、 臨 済 宗 の 本 覚 若 珠 な ど が 住 持 し た こと で知 ら れ 、 か つ て 北 宋 代 に 蘇 軾 (子瞻、 東 坡 居 士 、 一 〇三 六 ―一 一〇 一 ) が黄 龍派の雲庵 克 文 (真浄大 師、一〇 二五―一一 〇 二 ) を こ の寺に訪ね た 因縁に 基 づく 三過 堂 が 存し て い たとさ れ る 。 ち なみに『至元嘉禾志』 巻 二二 「 碑 碣六」の「嘉興県」には、 徐聞 詩 (字 は 子 言 ) が宝祐 三 年 (一 二 五 五 ) に記 した「 本 覚 禅 院記 」と 、 大 慧派の 北 椎 居簡 ( 敬 叟、一一六四 ― 一 二四六) が 記した「 本覚禅院三過堂記」 が 収 め ら れ て い る。 ゞ( ) すで に述 べ た ご と く 如 芝 は 大徳 八 年 (一三 〇 四) 一二 月 の 時点で は 台 州 湧 泉 寺 の 住 持 で あ った と見 られ る か ら 、 そ の 後 し ばらくし て から本 覚 寺に遷住 し て いる の で あ ろ う 。 『 扶 桑 五 山 記』一「大宋国諸寺位次 」 の「甲刹」には 、 寿山。秀州嘉興県、本 覚禅寺 〈 在 二秀水県 。 一 宋建、 宣 和 中 、改為 二

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 三二 神霄玉 清 万 寿 宮 。 一 建( 炎 ) 初、 復 二 旧額 。 一 正携 李 之 地、 今有 二 携 李亭 一 〉 。 開 山 静 恵 禅 師 。 一 撃 亭 。 携 李 亭 。 三 過 堂 〈 在 二 秀水 県本 覚寺 。 一 宋蘇 軾 与 二 文長 老、 一 三過 レ 此、皆有 レ 詩。後人 因建 レ 堂命 二 名 焉 一 〉 。 と記 され て い るか ら 、 南 宋 末 期 か ら 元 代 にお い て 本 覚 寺 は 禅 宗 甲 刹 の 一つに列し て いる こ と が知 ら れ る 。 如 芝 が住持 し て 後にも 松 源 派 (金剛 幢 下) の了庵 清 欲 (南堂 、 慈雲普済禅 師 、一 二八八 ― 一 三 六三) や大 慧 派 の 楚 石 梵 洟 (曇 曜、西 斎 老人、 仏 日 普照 慧辯禅師、一二九 六― 一三 七〇 ) などが こ の寺に住持し て 化導を敷き 、 両禅 者 の も と にも 入元 日 本 僧が 多 く 参 集 し た こ とで 名高 い 。 〃() 本覚寺における活動 ところで 、如芝が本覚寺に住持し て いた期 間 に 書 した 序 跋 や 墨 蹟がいくつか現存し て おり 、 あ る い は現存し て は いない が、その 文面を 知 る こ とがで き る も のがか なり見 られ る。 い ま、その 両方を 含 め て 撰述 年時の 古 い も のから 、 順次に 本 覚 寺に おけ る如 芝の 作を 紹 介 し、併 せ て 若 干の 考 察 を な し て お きた い。 はじめ に 『 墨 蹟之 写 』 の「慶長十七壬子年 」 の箇所に 、 比丘 一 鉢 行 レ 世、 上従 二 諸仏 一 乞 レ 法、以 資 二 慧命、 一 下従 二 施主 一 乞 レ 食、以養 二 色身 。 一 外 二 此食 一 非 二 正命 一 也。 先 仏 立 レ 制、 後仏伝承 。 継縄輹若、画 二 一老 一 妙寿 為 レ 命。世宗師、 説法如 二 雲雨 、 一 学者必 曩糧景従 、 躡 二履雲 委 、 一 豈須 二 一飯 羅 一 而致 レ 之。 若 曰 二 憂 レ 粮匱 一 レ 衆、 敬預通 二 消息。 一 言外意 、 非 三 浅識晩 季 所 レ 可 二 蠡測、 一 辞不 二 敢措 。 一 延 祐 己未夏季 望日、禾 城本覚如芝拝書。 [如 芝 ]( 小 方印 )[ 霊石 ]( 重郭方印) という法語の 写 し が 伝 え ら れて いる 。 こ の墨蹟 の 原本は現今 に伝 えられて い な いよ う で あ る が 、 か つ て 江 戸 初 期 に は い ず れかの地に残されて い た も のである。 誰 に与えたもの で あ っ ( 仝 ) たのかも特定 でき ないが 、 比丘 が行鉢し て施食 を 受け て 仏 の 慧命を 保 っ て いくありか た を 示 す内 容 で あり、本覚寺におい て如芝 が 延祐 六年 (一三 一 九) 夏季望日 (六 月一五日) に書 し たもの で ある こ と が知 ら れ る 。 し た が っ て 、 如芝が本覚寺に 入寺したのも延祐六年よ り 以前 からであったこ と になり、 こ れ以 降、少 な くと も一 〇 年 あ ま りに わ た り 如 芝 は 本 覚 寺に化 導を敷い て い る わ け で ある。 本 覚寺 で延祐六年以前に書され た如 芝の 作は伝 え られて い な い こ と から 、こ の 頃 か ら しだ い に 如 芝の墨蹟が世に注目され始めた こと に な ろ う か。こ の と き如芝はす で に七四歳か七五歳という 年 齢に達し て お り、墨 蹟と して は 円 熟 期 の 作 と い って よ い わ け で あ る が 、 如 芝 の 場 合、八〇歳を 過ぎ て か ら著わ さ れた 作 が 大 半 で あ る こ とから 、 七〇代半ばの作は評価とし て は 初期に属するも の という こ と になろ う 。

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 三三 つい で 、 先に触れたごとく曹源派の一山一寧の語録 で あ る 『一 山国 師妙 慈弘済 大 師語録 』 巻上 の 冒 頭には 、 一山国 師 語録序。 我宗無 二 語句 、 一 亦無 二 一法 与 一 レ 人。若有 二 一法 与 一 レ 人、土亦 難 レ 消。 古人与麼水泄不 レ 通、不 レ 知此語 此 録、 何従 而有 レ 解。向 二 未 レ 啓 レ 口未 レ 落 レ 筆以前 一 会得、方 見 下 我一 山 擘 尚、伝 二 頑翁不伝 之秘、 一 倡 二 道扶 桑、 一 大用峻機、若 二 震霆撃 レ 空臣 黍 破 一 レ 的、 王臣師 仰 、学 者景 従、洞 二 徹死生、 一 了無 中 凝滞。 上 雖 二 所説 雲 興 水 涌 、 所 録 充 レ 棟 汗 一 レ 牛、 不 レ 為 レ 剩矣 。 一 山 与 レ 余、 生同 二 台 仄 、 一 夏同 二 玉几 、 一 講磨 奮 蜿 、道 術 相 忘。 革 化以来 、 嗟悼不 レ 已。 延 祐 庚申 冬 、 神 足 縁首 座、携 二 所 レ 録七会語 一 為 レ 示。 披覧 以 還 、 不 レ 覚拊 レ 巻而 言 曰 、仏 法東 漸 于 以見 矣 。 禾城 本覚 如 芝 書。 と い う 如 芝 が 書し た 序 文 が 存し てい る 。 か つ ての 法 友 であ っ た一 山一 寧 の 七 会 の語 録 を 如芝 の も と に 齎し た日本 僧 の縁 首 座とは、一寧の高弟 (神 足) であ っ た 無 著 良 縁 の こ と で あ り 、 良縁 は延祐七年 (一三 二 ○ ) の冬 に本覚寺の如芝 を 訪 ね たこ とが序 文 の内容から知ら れ る。 如芝 は一寧とは同 郷の道友 で あり、遠く日 本から到 っ た 良縁 の 依 頼 を 受け て 親 しく「 一 山 国師語録序」を撰し て いる わけ で あ る 。 一 寧 は日本 の 文保元 ( 々 ) 年 (元の延 祐四年、 一三一七) 一〇 月 二 四 日 に 世 寿 七 一 歳 で 示 寂 し て い るが、そ の訃 報はす で に早 く に 如 芝 のもとに 伝えら れて いた も の ら し く 、 如 芝 のこ とば と し て 「 革 化して 以 来 、 嗟悼 し て 已ま ず 」 と あ り 、 遠 く 日 本 の 地 で 逝 去 し た 一 寧 を 久 しく 思 い や っ て い たこ と を 述 懐 して い る 。 ま た 如 芝 は 一寧 の 語 録 を 目 の当 たりにし、 遥か日本 で 仏 法 東 漸の遺 業 を 成 し 遂 げた 一寧 の あ と か た を 偲 ん で い る 。 一 寧 が示 寂 し て 後 、 生 前 の語録 が ま と め ら れ 、 良縁は こ れを所持し て 入 元 し て い る が 、 良縁とし て は 初めから 一寧と如芝の因縁を承 知し た 上 で序 文 を依頼すべく本覚寺 の 如芝を 訪 ねたものと見られ る。 この 「一 山 国 師 語 録 序 」 が 日本 に 齎 さ れ た こ とによっ て 、 一 躍 、 虚堂 智愚の高 弟 で あ る 如芝の存在が日本 禅林 で も 注目さ れ る ように な り、 やがて多くの日本僧が本覚寺の如芝のもと を 訪 ねるよ う にな ったも の で あ ろ う 。 ち なみに同じ『一山国師 妙 慈 弘 済 大 師語録』巻下に所収さ れる「行 記」に お い て 、 撰 者 の 虎 関 師 錬 は一 寧 の 語 録 (七会 ( 〆 ) 語) を携帯し て 入 元し た禅者につい て 、 其七 会語 、充 棟汗牛 、 未 レ 亡之 前、 手加 二 修刪 、 一 今只数十紙。 其 徒跨 レ 海者 、齎 入 二 元土 。 一 彼地 衲 子 、 玩 味嗟 服 。 故 芝 霊 石 ・茂古 林 ・ 本中峯、 一時名宿 、各証 二 跋尾、 一 不 レ 容 レ 議焉。 と 記 し て おり、良縁の名をとくに明記し てはい な いが、一 寧 の語録を 携 帯 し て 入元 した 功績を 高 く 評 価し て い る。 とりわ ( 〇 ) け、如芝の序 文とともに、古林清茂と中峰 明 本と いう 当 代 に 名 を な し た二禅者がやはり良縁の依頼 で 『 一 山国師妙 慈 弘 済

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 三四 大師 語 録 』 に 跋 文 を 寄 せて い る こ と か ら 、如 芝 の 存 在 が 清 茂 や明本 に 肩 を 並べる 禅 者とし て 日本 禅林に も 知ら れ て いく こ とに なった の で あ ろ う 。 つい で 両 浙 (浙江 省 ) の金石類 をまと め た『両 浙 金石 志 』 巻一 五 「 元 」 には 、本覚寺におけ る 如 芝 の活 動を伝 え る も の とし て、つぎ のような 「元資 聖 寺長生 修 造 局 碑」 という 石 碑 の文 面 が 伝 え ら れ て い る 。 嘉興 路 資 聖 禅 寺 長 生修造 局 記。 本覚禅 寺 住持 仏鑑禅師如 芝 頓 。 前翰林学士承旨 栄禄大夫知制誥兼修 国史趙孟 榁 書并篆 題 。 寺之 勤旧、所 下 以股 二 住持、 一 毘 中 賛法 社、 上 錯 二 綜庶務、 一 酬 二 酢事 物 、 一 律 レ 貪以 レ 廉、 滅 レ 私以 レ 公。故住 持恃 以 レ 一 二 於王 法、 一 輻 林恃以 二 有 レ 興無 一 レ 廃、返是無 レ 取焉。 寺 有 二 勤旧 一 曰 二 資瑞、 一 号 二雪巌 、 一 里人也 。 性簡倹 不 レ競、時習護 二 常住、 一 不 レ 翅 二 眼睛、 一 嗇 レ已豊 レ 人、 崇 レ 善楽 レ 施。 嘗設 レ 冥供 二 千如来、 一 飯 二千比 邱、 一 特捐 レ 財置 レ田取 レ 租、為 二 蔵 殿 一 選 二 僧堂長明燈 膏 之 瞻 、 一 重粧 二 大雄 殿仏 及円 通大 士諸 天肖 像、 一 金彩焜 炫 、 県 二 朱殿 粧 、 一 転 二甃殿 階、 一 中外華好厳飾畢 。 備復施 二 統 鈔壹 千五百 緡 、 一 建 二 造盧 隠経堂 、 一 減 レ 塑歳修 道 場像設。一 日 語 レ 余 曰、 寺 之 缺 レ 文補 レ 苴殆 十 八 九 、 唯 仏 殿自 二 祖禅師 一 始剏 、 歳 久将 レ 腐。 撓 二 蔵殿 、 一 雖 二 年近、 一 滲漏 頗 多 。 二 者皆 大縁 事、 矧 常 住 歳 入 租、爾日 支不 レ 給、 且仰 貸 二 富室 、 一 曷取 レ 贏而 奏成 乎 。 願竭 レ 嚢長 出 二 統鈔 貳 千 五 百 緡 、 一 為 二 長生局本 命、 一 四勤 旧主掌 遇 二 寺支乏、 一 立 レ 券就 レ 貸、依 レ 時生息。歳無 二豊凶 、 一 必本息 二 頓償母。 一 縮 二 展転 貸 償 、 一 廉慎出 レ 内。 厥息 二 蕃衍、 一 用以 貿 レ 田入 レ 租、専給 興修 二 土木工、 一 直 レ 之費 レ母。他 侵 取 レ 本、則 常 存 二 計図 、 一 綿遠 其可否乎。余曰、公之 蒋 心若 レ 是、 可 レ 謂捨 二 人之 所 一 レ 難 レ 捨、 能 二 人之 所 一 レ 難 レ 能、非 三 惟 資 二 土木 無窮之需、 一 抑俾 レ 比 二 蔵主 事者 無 一 レ 登 レ 門。 告 レ 急之煩、 無 二 索逋堕突 之擾、 一 一 挙 而両得、功莫 大焉。合 紀而刻 レ 諸、堅 榻 庶伝 レ 遠而弗 レ 替、復 為 二 後之 来 者 、 一 勧於 レ 是乎書 。 至 治 元年辛酉 冬十月十 五日建。郡人曹子明 鐫 。 この 「 嘉 興 路 資 聖 禅寺長 生 修造 局 記 」に 関 し ては 、 右碑 文、正書 十七 行、在 二 秀水 県資聖 寺 、 一 今名 二 水西禅寺。 一 按、 寺 唐 会 昌 中、黄檗 禅 師 、開山即廃、大中復立。相 伝 、 宣宗潜邸 二 于此 、 一 即位 後 賜 二 名資聖。 一 旧在 二 城外、 一 乾寧 二年 移 入 二 城中 。 一 碑述 、 勤旧資瑞、捐 レ 財修繕、置 レ 田贍 レ 衆、復竭 レ 嚢為 二 長生 局、 一 立 レ 券 就 レ 貸依 レ 時生息、 以給 二 土木 工直 之 費 。 一 故如 芝 記 レ 之 。 是時 寺有 二 長生庫 、 一 質 レ 物以 滋 レ 銭。 此 則 剤約 以 餘 レ 利、皆 瞿 曇之宏羊也。 とい う注記 が 付されて い る 。こ の 記 事 に よ れ ば 、 本覚 寺の 住 持で あ っ た 如 芝 が 同 じ 嘉 興 路 秀 水 県 郡 治 西 北 二 里 に 存 した 資 聖禅寺 (水 西禅 寺) の「嘉 興 路資聖禅寺 長 生修造局記」を 撰 し、そ の 石碑 が建立 さ れ て いる わけ で あ り 、如芝 の 撰 し た 文 章 を 前 翰 林学 士承旨栄禄大 夫知 制誥兼修国史の肩 書き で書家 とし ても著名な趙孟 榁 (字は子昂、 松雪道 人 、 一 二五 四 ― 一 三 二 二) が書篆 し て お り、 郡 人 の曹 子 明 が石に鐫ん で 至治元年 ( ー )

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 三五 (一三二 一 ) 一○月 一 五日に立石 さ れ た こ と が知 られる。 ま た寺内の勤旧 (古老) であ っ た 雪 巌 資 瑞 と い う 人 が 里 人 と し て活 躍し て い た こ とが記されて いる。 『至元嘉 禾 志 』巻一 〇 「寺院」の「録事司」 によ れば 、 資聖院、 在 二 郡治 西北 二 里 一 十 歩。 一 考証、唐 会昌五年建、 当年廃 。 大中年 間 重置。其院 在 二 城外 。 一 乾寧 三 年 、 移 入 二 城内。 一 有 二 唐宣 宗 書額 一 尚存。 とあり、 光緒五年 (一 八七九) に刊行 さ れた『 嘉 興府 志』 巻 一八「寺観 一 」の「 秀 水 県 」 に よ れ ば、 水西 禅寺 、 在 二 郡治西北 二里 、 一 与 二 祥符 一 並、 在 二 爽渓西、 一 故名 二 水 西。 一 唐会 昌中、黄檗禅 師開 山、即廃〈武宗会昌 五 年八 月 、 大毀 二 仏寺、 一 復 二 僧尼 一 為 レ 民〉 。 大 中 元 年 重 建 、 相 三 伝宣宗潜 邸 二 于此、 一 因改 為 二 資聖禅寺 。 一 内有 二 宣宗 御書寺額 一 〈嘉興 湯 志 〉 。 其 院 旧在 二 城外 。 一 乾寧 三 年 、移入 二城内〈至元 志 〉。 宋天 聖間、 僧 慶 暹 稍加 二 修飾 一 〈僧 契嵩 有 レ 記〉 。 皇 祐 間 、 復 葺 二 精廬、 一 以安 二僧衆。 一 建炎 兵 燹、僅存 二 御容書 額 。 一 紹興 初、 僧元 祖建 二 大殿 。 一 淳煕 ・ 咸 淳間 、 増 二 建山 門厨庫僧 舎法堂 。 一 元至治 中 、 僧 資 瑞 置 レ 田、 新 二仏像、 一 設 二 長生修 造 局 一〈釈如芝有 レ 記〉。 至 正 庚 子、 重 二 建大殿 一 〈釈克新有 レ 記〉 。 明 洪 武 辛 未 、 定 二 今額 。 一 万暦 丙辰、僧 達材 重 修 。 旧 有 二 御書 閣・裴相祠 ・ 大中亭、 一 倶 廃 〈嘉興 湯 志 〉 。(後略) と 記 さ れ て い る 。 資 聖 寺は一 に 水 西 禅寺と も 称し 、古く 唐 末 に南嶽 下 の 黄 檗希運 (断 際禅師 ) が会 昌年間 (八四一―八四 七) に 開 山したとされ て い る 。 一説 に唐 の宣宗 (在 位 は 八四六 ―八五 九 ) がこ の 地 に 住 ん で いた こ と が あ り 、 即 位 後 に 資 聖 寺の名を 賜わ ったとも 記されて い る 。 建 炎年間 (一一二七― 一一三〇) に兵 火に焼けた 伽 藍 を 南宋代を 通じ て 復 興し、元 の至治年間 ( 一 三 二一 ―一三二三) に至 って 資瑞 が田を 置 き、 仏像 を新た に し て 長生修増局を設けたとい う の で あり 、 如 芝 の記し た 石 碑 が残されて い る こ とを伝え てい る。 ま た 、こ の 石 刻 史 料で 注 目 すべ き は 、こ の と き 如 芝 が すで に 仏 鑑 禅 師 の 勅 賜 号 を 用 い てい る 点 であ り 、 仏 鑑 禅師 の 勅 号 が本覚 寺 住持 期には 元 朝 か ら下賜 さ れ て い た らし い事 実 が 判 明し、 中 国側 の文献 で も確かめられ るのは幸い で ある。仏 鑑 禅師と い え ば 、一 般 に は北宋末 期に 活躍し た 楊 岐 派 の 太 平 慧 懃 (仏鑑 禅 師 、 一〇 五 九 ―一一一七) や南 宋末 期 の 破庵 派 の 無 準師範 (仏鑑 禅 師、一一七 七 ―一二四九) が名高いが、 同じ 元 代に 活動し た 破庵派 の 虚谷希陵 (西白、 仏鑑禅師、一二四七 ― 一三 二二) とともに、如芝にも仏鑑禅師の勅賜号が与 えられ てい る わ け で あ り 、 お そ ら く 本 覚 寺 に 住 持 し て間 も な い 頃 に 下賜 さ れ て い る も の と 推測 される 。 ―() つぎに古いものとし て 『禅 林墨蹟』 八 〇 には、 幽禅 人 、 久 参 二 天目 獅巌老 子 、 一 今為 二 天台石 橋 之遊。 一 過 レ 門求 レ 語。書以餞 レ 之。 策下 獅巌作 二 勝游、 一 十分 佳致 在 二 東州、 一 懸崖 潟 瀑 飛 二 晴雪 、 一 鉅石 梁

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霊石如芝の活動と そ の功績(佐藤) 三六 宮跨 二 碧流。 一 金磬 声聞何 処 寺、 曇華 淫 綻淪 二 茶甌、 一 相 二 逢尊 者 一 煩 二 伸問、 一 底事神 通 逞不 レ 休。 至治 壬 戌 仲 春 旦、 本覚霊石 如 芝 。 [霊 石] (方 印 ) [如 芝] ( 方 印 ) とい う 墨 蹟が 載せられて お り 、 こ れ は 本 覚寺の 如 芝が至治 二 年 (一三 二 二) 二月 (仲 春 ) に日 本か ら 遊 学 し た幽 禅 人 に 与 え た餞 別 の 偈 頌 で あ り、もと徳川家の伝 来 に か か る もの と さ れ る。 幽禅 人 は 曇 幽 と い う 名 の 日 本 僧 で あ るが 、 も と も と 大 覚 派 の 約 翁 徳倹 の門弟とし て 入 元 し た ものら し く、 久しく 杭州 西天 目 山 の 中 峰 明 本 (獅 巌 老 子、幻 住 老人) に参学 し た 後 、台 州天 台 山 の石橋 (石 梁瀑 布) に五 百羅漢拝登の 歴 遊 をなし 、 その 帰 途 に 本 覚寺 の如 芝のもとを 訪 ねて 一語を 求 めて いるわ けで ある 。 ‐() 『墨蹟之写 』 の「元 和 四戊 午年、 三 冊之 内 中 」の箇 所 には、 万里南来 作 二 勝遊、 一 十方 刹 海 一 毫 収 、 不 レ 知何事関 二 懐抱、 一 又把 二 名山 一 倒 二 指頭 。 一 華頂 去 レ 天纔咫尺 、 石 橋 飛 瀑 不 レ 停 レ 流、半 千 尊 者 如相 見 、 謹合 三 殷勤薦 二 茗甌 。 一 泰定乙丑 解 制 五日、 禾 城本 覚 霊 石如芝 、 書 二于拈華 堂 。 一 [如芝] ( 小 方印) [霊石] (長 方印) という偈 頌の写 し が伝えられてい る 。 こ の墨蹟は残念ながら ( / ) 現存 し て い な い よ うで あ る が 、 泰 定 二 年 (一三二五) 解夏 後 五 日 を経た七月二○日に本覚寺の拈 華 堂 に お い て 如芝が書し たも ので あ る 。 内 容は天台 山 中 の華 頂峰や石橋 と い っ た 景 勝 を詠 じ、五百羅漢 (半 千尊 者 ) に茶を献 じ て その 霊 験 に与る ことを述べ て おり、冒頭に「万里南来し て勝遊を作し 、 十 方 刹海 、一毫 に 収 ま る」 とあるから 、 や は り当 時、 曇 幽 と 同 じ よう に大 海 を 航 し て 南 来 し た 日 本僧 に 示 し た も の で あ ろ う 。 大慧 派の中 巌 円月 ( 中 正子・ 仏 種 慧済禅 師 、一 三 〇 〇 ― 一 三 七 五) は相 模 (神奈川県) 鎌倉 の人 で、 曹 洞 宗宏 智 派 の 東 明 慧 日に 参じて 得 度 を 受け て い る 。 『仏 種慧 済禅師中岩月和 尚 自 歴譜』 に よ れ ば 、 (正中) 二年乙丑秋 九 月、到 二江南 、 一 即泰 定 二 年 也 。 雪 竇 過 レ 冬、 会 二旧友 全 珠 侍 者 於 中 岩 菴 。 一 同往 二 隙 西嘉興 、 一 参 二 霊石 和尚。 一 天寧 過 レ 年。 大元泰 定 三年 丙寅〈 本 朝 嘉 暦元 年〉春 、 掛 二 搭呉 之 霊 岩 。 一 無 レ 幾、往 二 建康 一 見 二 古林和 尚 於保 寧。 一 とあり、 円月 が日本 の 正 中 二年 (元の 泰 定二年、 一三二五) の 九月に入元 し 、その年の内に如芝に参じ て い る こ とが知 ら れ て い る 。 すな わ ち 、 江 南に到っ た円月は明州 奉 化 県西の雪 竇 ( \ ) 山資 聖禅寺に て 冬 を過 ご し 、再 会し た旧友の全珠侍者という 禅者とともに 浙 西 嘉興に赴い て 如芝に参じ て いる。ただし、 この と き 円月 とと も に 如 芝 に 参 じ た と さ れる 全 珠 に つ い て は 如 何 な る 系 統 の 日 本僧 で あ った のか が 定 かで な い 。 天 寧 と あ るのは 本 覚寺の 近 隣に 存した嘉興路 秀水県の天寧報恩光孝禅 寺のこ と で あ ろ う が、如芝が 天 寧報恩光孝 寺 に住持したとい

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霊石如芝の活動 と そ の功績(佐藤) 三七 う消息 は ほ か に伝 えられて おらず 、 「天寧」と あ るのが 本 覚 寺の 誤記で あ る と 解 さ れ る が 、 あ る い は し ば ら く の 間 、実 際 に如 芝が 本 覚 寺 と と も に 天 寧 報 恩 光 孝 寺 を兼 務 す る よ うな 事 態が 存した の か も 知れ な い 。 ち なみに『東海一 需 集』 四の「 藤 陰瑣細集」 に よ れ ば 、 泰定二年、予初参 二 霊石 和尚秀 之 本 覚 。 一 石云、 今 年郷里有 二 幾人 一 出 レ 隙 。対 曰、 二 十 余 人 。石 曰、非 細 事也 、千 郷 万 里 、 為 レ 道忘 レ 躯。 往 年 有 二 梅雪 村 一 来 二 元朝、 一 官軍 以 レ 刃加 レ 頸、殊無 二 懼色。 一 而 作 二 四句 一 云 、 乾坤無 レ 地 レ 卓 二 嵶 、 一 喜得人空法亦 空、珍重大元三 尺剣、 電 光 影 裏斬 二 春風 。 一 兵不 二 敢害、 一 悔謝而去。予曰、此頌則 子元 和尚作 也 、非 二 雪村 一 也。石乃 呵 云 、汝不 レ 欲 レ郷人 之名誉 一 耶、此 間 人皆 謂 二雪村所 一 レ 作。 汝又言 二不是、 一 非 二 唯汝一 人 、 一 吾見 二 汝郷曲 、 一 毎 レ 人如 レ 此言 レ 之。 想 必 汝 郷 風 俗 不 レ 欲 レ レ 人。 という 興 味深い逸話が伝えられて お り、 この 因縁 は 『 勅 謚 宝 覚真空 禅 師 前 住大 唐 京 兆翠微寺後住日本京城東山 建 仁 禅寺雪 村大和 尚 行道 記』 に も 引 用 さ れ て い る 。 これは泰 定二年 の 冬 ( ~ ) に円月が 本覚 寺の 如芝に参じた 際になした貴 重な 消 息 を伝 え る問答にほかなら な い 。如芝が円月に対し て こ の 年に日本か ら浙 江に到っ た 入 元 僧 の数 を尋 ねると、 円月は二○余人 で あ ると答え て い る。如芝は道のた めに身命を 惜 しまない日本僧 のありよう を 賞賛し、 先に入 元 し て い た 一 山 派 の 雪 村 友梅 ( 宝 覚真空 禅 師 、 一二九 〇 ―一三四 六) が元兵に首を斬られそう にな った 時 に 唱えた 偈 頌を 示 し て い る。 その偈 頌 と は 、 乾坤 、孤 嵶 を卓するに地無し。喜 び得たり、人 空にし て 法 も 亦 た 空 な る こ と を。 珍重す大元 三 尺 の 剣 、電光影 裏 、 春風 を斬る 。 とい う も ので あ っ た。こ れ を 聞 いた円 月 はその 偈 頌が 友梅の ( ∥ ) 作で は な く 、 か つ て 破 庵 派 (仏 光 派 祖 ) の無学 祖 元 (子 元 ・ 仏 光国師、一二 二 六 ―一二八 六) が元軍 に 刃を向けられた 際に唱 え た 作 で ある 旨 を 如芝に 告 げ て いる 。如芝 は 円月 の行為 を 郷 人すな わ ち 同 じ日本人の名誉を損なうもの で ある と し て 厳 し く嗜め て い る 。 如芝とし て は 円月のみ で な く 多 くの日本 僧が 同じように語 る の を日頃に 耳にし て い た ものらし く、辺境 (郷曲) の日本 で は 他人 の 栄 誉 を 素直に讃 え な い気 風 が 存 す るのか と 嘆いて いる 。 円 月は こ の ことばを深 く 肝に銘じた こ と で あ ろ う が 、 まこ とに 老古仏 如 芝 の 心意気 が伝わ る逸話といっ て よ か ろ う。 翌泰 定三 年の 春 に は円 月は如 芝 のも と を 辞して お り 、 蘇 州 (江 蘇 省 ) 呉県 西三〇 里 の霊巌 山 顕親崇報禅院 (秀 峰寺 ) に掛 搭した後、建 康 (南京) の鳳台山 保寧 禅寺に赴い て 松源 派 の 古林清茂に相 見し ている 。 つい で 如 芝 は 破庵 派 (仏 光 派 祖 ) の無 学 祖 元 の 高 弟 であ る 高峰 顕 日 (仏 国応 供広 済国 師 、 一二四 一 ― 一 三 一 六) の語録に 序 文を 寄 せ て い る 。 『仏 国禅 師 語 録 』 ( 『 仏 国 応供広済国師 語録 』と も) 巻上 の冒頭には、

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