『就実大学大学院教育学研究科紀要 2017(第2号)』 抜刷 就実大学大学院教育学研究科 2017年3月10日 発行
知的障害に併存する重篤な精神疾患と,
心理療法の役割について
Severe mental health problems and psychological treatment in people with intellectual disability.
岩 佐 和 典
就実大学大学院教育学研究科紀要 2017(第2号)
知的障害に併存する重篤な精神疾患と,
心理療法の役割について
岩佐和典
Severe mental health problems and psychological treatment in people with intellectual disability.
Kazunori IWASA
抄録
本論文では,知的障害と併存する重篤なメンタルヘルスの問題と,その治療において心 理療法が果たし得る役割に焦点を当てた。知的障害のある人は一般的な母集団と同等かそ れ以上に精神疾患を罹患し,特に精神病性障害の罹患率は高い。一方で,知的障害と併存 する精神疾患の心理療法については,未だ十分に研究されていないのが現状である。よっ て本論文では,知的障害のあるクライエントが罹患した重篤な精神疾患について,その再 発予防に取り組んだ心理療法事例を詳述することにより,知的障害のある人に対する心理 療法のあり方と,その役割について考察することとした。心理療法事例においては,既に 学習されたルールを活用することや,意思決定の支援,セルフ・モニタリングを促すこと などの有効性が示唆された。同時に,知的障害のある人に対する心理療法のあり方や,そ の役割について議論するために,研究を積み重ねていくことの必要性が示された。
キーワード:知的障害,メンタルヘルス,心理療法,統合失調症,再発予防
Ⅰ.問題と目的 1.知的障害のある人のメンタルヘルスについて
知的障害(もしくは知的能力障害)のある人のメンタルヘルスは,精神医学や心理学の 分野において,長らく中心的な研究課題とみなされてこなかった。しかし,2000年以降に 行われたいくつかの疫学研究によって,知的障害と他の精神科疾患は,高い割合で併存す ることが示されてきている。たとえば,英国における調査においては,知的障害のある人 の40.9%が,何らかのメンタルヘルス上の問題を呈することが示されている(Cooper, Smiley, Morrison, Williamson, & Allan, 2007)。対象集団や方法論上の違いから単純な比較 はできないものの,この数値は,米国における精神疾患の罹患率(約30%)と同程度か,
もしくはそれ以上だと言える(Kessler et al., 2005)。ただし,知的障害とメンタルヘルス
上の問題との合併率は,報告によって異なることが指摘されており(Munir, 2016),ICD-
10による精神疾患の併存率に限れば,10.8%程度とする報告もある(Schutzwohl et al., 2016)。このように疫学調査の結果は必ずしも一貫しておらず,現段階で明確な結論を導 くことは容易でない。しかし少なくとも,知的障害のある人がメンタルヘルス上の問題に 悩まされるケースは,決して珍しくはないと言うことはできるだろう。
知的障害のある人のメンタルヘルス上の問題は,ときに極めて重篤なものとなる。知的 障害の重症度ごとに精神科疾患の罹患率を求めた Cooper ら(2007)によると,統合失調 等を含む精神病性障害は,軽度知的障害において5.8%,中等度から重度の知的障害にお いて3.5%併存することが示されている。こうした罹患率の違いは,軽度知的障害のある 人がよりストレスフルな生活に曝されやすいこと(Hartley & MacLean, 2008)によるのか もしれない。また,一般的なサンプルにおける精神病性障害全体の生涯有病率が約3%だ と推定されていることと比較しても(Perala et al., 2007),Cooperら(2007)によって報 告された一時点での罹患率は,非常に高い数値だと言えよう。こうした知見を踏まえると,
知的障害のある人のメンタルヘルスについて考える際に,統合失調症等の深刻な精神疾患 を無視することはできない。
2.知的障害のある人に対する心理療法について
知的障害のある人がメンタルヘルス上の問題を抱える可能性がある以上,心理療法のよ うな心理社会的治療が提供されてしかるべきであろう。しかし, Irvine と Beail (2016)に よると,言語的な心理療法を知的障害のある人に適用することは,必ずしも適切な方法だ とはみなされてこなかった。これには,知的障害の影響によって内省力に制限があるとみ なされやすいことや,より単純に,言語的な能力に制限があるとみなされやすいことなど が関係しているものと考えられる。
そうした見方が存在する一方で,近年では知的障害を持つ人への心理療法に関する研究 が進められつつある。特に英国はこの問題への取り組みが盛んであり,知的障害のある人 に対する心理療法を題材とした書籍が複数出版されているほどである(Baeil, 2016;
Fletcher, 2011)。また,知的障害のある人を対象とした心理学的介入の効果を検証したラ ンダム化比較試験(RCT)も実施されつつある。ただし,そうしたRCT論文はまだ十分な 数に達しておらず,その効果について明確な結論は得られていない(Koslowski et al., 2016)。他方,知的障害の有無を問題としないRCTにおいて,知的障害のある人は対象者 として適格とみなされているだろうか。仮に一般的な RCT において知的障害のある人が積 極的に除外されているのだとすれば,当該集団に対する心理療法の効果に関する知見は,
いよいよ乏しいということになる。
ほとんどのRCTでは一定の選択基準を設けて対象者を選別する。一般的に,その基準と
して組み入れ基準と除外基準が定められる。前者は,それを満たすものを RCT の対象者と
する基準であり,後者は,それを満たすものをRCTの対象者から除く基準である。こうし
た基準によって,対象者の属性に関する交絡要因が統制され,対象集団の均質性が高めら
れる。多くのRCTにおいては,均質性の高い集団に対して行われた介入法の効果を評価す ることになるため,その結果を一般化できる範囲も,対象集団の属性に依存することとな る。よって,既に出版されている心理療法のRCTについて,その組み入れ基準と除外基準 を吟味すれば,心理療法の効果に関するエビデンスが「誰」を対象に蓄積されているのか を明らかにできるだろう。この点を検討するために,本論文では,簡易な系統的レビュー を行い,知的障害のある人を積極的に除外している RCT 論文の割合を求めることとした。
レビューにおいては,2010年1月から2016年12月までに刊行されたRCT論文を対象とし た。使用したデータベースはPsycARTICLESとJAMAであった。今回のレビューはあくま で簡易的なものであるため,論文の入手可能性を重視し,この2つのデータベースに絞っ て文献検索を行った。検索結果のうち,まず心理学的な問題や精神疾患を対象とした RCT 論文を抽出し,そこから,対象者の属性からIQに一定のフィルタリングが行なわれてい るもの(たとえば,普通学校でのクラスワイド介入のRCTや,陸軍ベテラン対象のRCT)
と推測されるものを除いた。さらに,組み入れ基準と除外基準を明示していない論文を除 外した結果,91件の RCT 論文が抽出された
(1)。これについて,組み入れ基準と除外基準 をそれぞれ確認し,知的障害のある人を除くよう除外基準を設けているものと,そうした 基準を設けていない論文とに分類した。その際,知的障害の有無を示す基準として,
intellectual disability,mental retardation,cognitive impairmentといった一般的な表記に
加え,「 IQ < 80」のように IQ のカットオフ値に関する表記のある論文を,知的障害を除く
よう除外基準を設けている論文とみなした。
その結果,43件のRCT論文において知的障害をもつ人が積極的に対象者から除外されて いることが示された。これを分子,そして対象論文数91を分母として,知的障害をもつ人 を対象者から除外している RCT の割合を求めたところ,約47.3%であった。すなわち,本 論文でレビューした範囲において,2010年以降に出版されたRCTのうち,少なくともその 半数弱は,知的障害のある人に対して,その知見を一般化することができないということ になる。もちろん,積極的に除外しなかったRCTにおいても,対象者に知的障害のある人 がどの程度含まれていたかは明らかではないため,それらの知見を当該集団に一般化する ことにも消極的にならざるを得ない。
以上の結果をみるに,知的障害の有無は,心理療法の効果研究において,統制されるべ き交絡因子のひとつだとみなされていることがわかる。仮に集団の均質性のみを問題とし ているのであれば, IQ 分布の上側にも除外基準を設けるべきであるが,そのような基準 を設けていた論文は,上記のレビューにおいても見つけられなかった。つまり,知的障害 のある人を除くのは,知的水準を均質化するという目的以上に,知的障害という特定の症 候を呈する者を除くという意味合いが大きいものと考えられる。実際,いくらかのRCT論 文においては,知的障害のある人はプログラムを適切な形で受けることが困難である,と
(1)
http://kaiwasa00.wi X site.com/mysite/works から,検討の対象となった論文のリストと,検
索に用いた語のリストをダウンロードできる。
いう除外理由が明示されていた。こうした除外は,知的障害のある人と,そうみなされな い人とでは,心理療法の効果や作用に違いがある,という前提に基づくものであろう。し かしながら,そうした前提が実証的な知見をもとにしたものであるのか,それとも定性的 な予測によるものなのかは定かでない。知的障害のある人を対象とした心理学的介入のメ タ分析研究において,その効果量は必ずしも大きくない可能性が示されてはいるものの
( Koslowski et al., 2016; Vereenooghe & Langdon, 2013),それは知的障害のある人に心理 療法が奏功しないという最終的な結論を導くものではない。むしろそれは,知的障害のあ る人に対する心理療法の方法論的な改善を迫るものであり,そうした必要性に応ずること は,翻って心理療法そのものの発展に寄与する可能性すら有している。
健康問題を改善するために行なわれる,複雑な非薬物療法の開発プロセスについて詳述 したCampbellら(2000)によると,治療法の開発からエビデンスの収集に至る道筋は5 つの段階に区分されるのだという。その後期の段階においては,臨床試験等によるエビデ ンスの収集が行なわれる。一方,より初期の段階においては,新たな心理療法に関する理 論的な議論を行うことや,効果を発揮する構成要素を特定し,その治療機序を明らかにす ることで,新たな心理療法をモデリングすることが必要だとされている。こうした議論を 踏まえると,知的障害のある人への心理療法をより実りあるものとするためには,上記の 初期段階にあたる検討を重ねていく必要があるだろう。その点については,単一事例に関 する臨床報告にも寄与するところがあるものと考えられる。よって本論文では,知的障害 を抱えて生活するなかで,深刻なメンタルヘルスの問題を呈した男性との心理療法過程を 記述し,いくらかの考察を加えるものとする。それにより,知的障害のある人に対する心 理療法の発展に寄与することを目指す。
Ⅱ.事例報告:「母の死後,統合失調症を発症したA氏との心理療法過程」
1.事例概要
クライエントであるA氏は,30代前半の男性であり,最終学歴は中学校卒業,職業は無 職,独居であった。小学校入学時に軽度知的障害の診断を受け,療育手帳(C)を交付さ れた。入学当初は普通学級に所属したが,学業成績は全般的に低く,小学校高学年からは 特別支援学級に籍を移した。学校適応について,特にいじめ等の問題は報告されず,普通 学級にも仲の良い友人が居た。中学卒業後,地元の運送業者に障害者採用されるも,X−
7年に会社が倒産し,その後3年間は無職のまま過ごした。そしてX−3年から清掃業の アルバイトをはじめ,X−4ヶ月からは再び無職となった。
心理療法開始当時の診断は軽度知的障害ならびに統合失調症であり,心理療法の中期ま
では主に生活保護を頼りに生活していた。その主たる症状は幻聴,不穏,意欲低下,感情
鈍麻であった。さらに,自宅に引きこもりがちで,対人交流は乏しく,昼夜逆転を伴う不
規則な生活様式等といった心理社会的な問題を呈していた。統合失調症発症後に行われた
WAIS-IIIの結果によると,全検査IQは66(言語性IQ = 78,動作性IQ = 55)であった。統合
失調症による知的機能の低下を考慮しても,病前IQは境界水準から軽度知的障害の水準 にあったものと推定された。
2.問題の経過
世話好きで支持的な母親と同居し,目立った問題もなく過ごしていたが,X−2年に母 親が急死した。その後,生活習慣が大きく崩れ,次第に不穏となった。当時は清掃業者に アルバイトとして勤務していたが,職場で唐突に大声を出す,屋外で全裸になるなどの行 動に加え,会話にまとまりを欠くようになった。これを重く見た同僚に勧められB精神科 を受診したところ,統合失調症と診断され,入院加療を受けることとなった(X−1年4ヶ 月)。当時,本人をなじるような幻聴があった様子も報告されている。
入院後1ヶ月程度で概ね症状は落ち着き,X−1年2ヶ月に退院し,外来での加療となっ た。退院後は徐々に復職するも,X−9ヶ月に同様の症状を認め,再入院となった。初回 の入院時と同じく,入院後1ヶ月程度で症状は落ち着き,X−7ヶ月に退院した。改めて 復職するも,就労に困難を覚え,X−4ヶ月に自主退職した。その後,感情鈍麻や意欲低 下を認めるようになり,X−3ヶ月に再々入院となった。入院後はある程度落ち着いた時 間を過ごしていたものの,入退院を繰り返している経過に加え,感情鈍麻や社会的ひきこ もり,意欲低下等の陰性症状が目立ち始めていたことから,退院後の生活には困難を伴う ことが予測された。そのため,退院後の外来診療に併せて,統合失調症の再発予防と QoL の維持を目的とした心理療法を導入することとなった。
3.心理療法の過程
1)初期:アセスメントと生活習慣の安定に取り組んだ時期 初回面接時に直近の様子
について尋ねると,「別に何がっていうことじゃないですけど,もう何が何だか…。どう したら良いのか分からないんです」と混乱した様子であった。さらに,常に不安とイライ ラを覚えているとのことで,感情的には不穏な状態にあるようだった。これについてA氏 は「助けて欲しい」と明確な援助要請を行った。それをうけて,生活がどうなれば今より 安心できるか尋ねたところ,「ちゃんと夜寝たりご飯を食べたりした方が良いとは思いま す」とのことであった。これまでの経過から,生活習慣の乱れが症状の増悪要因になって いるものと予測できたことから,A氏の発言に沿い,まずは食事や睡眠の状況を改善すべ く,具体的な方法を一緒に検討していく,という治療目標を共有した。さらに,①日常生 活を少しずつ安定させていくこと,②難しい問題に直面すると混乱してしまうようなので,
その都度問題解決を支援する,③快活動がほとんど自発していないようなので,なるべく 楽しめる活動を増やしていく,④不安やイライラに対処する方法を身に付ける,⑤これら を少しずつ自分でできるようになる,といった方針を紙に書いて共有し,合意を得た。さ らに,面接は週1回50分のペースで行うこととなった。
①の方針である生活習慣の調整を行うために,まずは生活記録表によるアセスメントを
行った。その結果,就寝時間や食事の時間は一定しておらず,日によっては朝まで布団に 入らずビデオを見ていることもあった。これについてA氏は, 「なんかめちゃくちゃです…」
と述べたため,以前はどうだったのかを尋ねると,「全部母ちゃんがやってくれていたか ら…」と述べた。この点について明確化を試みたところ,炊事や洗濯など最低限の家事は 自分でもできるよう教わっているが,母親の指示(プロンプト)を受けてから行動するこ とがほとんどだった,ということであった。すなわち,身辺自立のためのスキルはある程 度獲得されているが,問題はそれが自発しにくいことであると考えられた。また,母親の 指示によって行動することが多かったとのことから,行動の自発には外的なプロンプトが 必要であり,母親の死後それが欠如したために,規則的な生活を維持できなくなったもの と考えられた。この点についてイラストを交えて説明し,ターゲットとなる行動を定め,
何かしらの方法で行動のプロンプトを出すよう工夫してみてはどうかと提案したところ,
「わかりました」と,淡々とした様子で同意した。
ターゲット行動を定めるために,生活の様子について全般的に話し合う時間を設けたと ころ,その会話のなかで「お風呂に入ってからじゃないと寝てはいけないと思う」との発 言が聞かれた。実際,活動記録表を見ても,就寝時間は入浴時間と共変動しているように 思われた。これは「入浴後に就寝する」という言語的なルールに基づいた行動(ルール支 配行動)であると言えるだろう。本事例では就寝時間を制御するうえで,このルールが活 用できるものと考えた。すなわち,ターゲット行動を「お風呂に入る」と定め,入浴時間 を固定することで,就寝時間の制御を目指した。これを実現すべく,A氏とともに,入浴 するために必要な準備の手続きと,その時系列を「生活の時間割」としてまとめた(Figure 1)。そのうえで,必要な手続きを行うタイミングを携帯電話のアラームとして設定し,こ れを各行動のプロンプトとすることになった。生活の時間割は目につく場所(冷蔵庫の扉)
に貼り付け,実施したら実施確認用の欄に丸をつけていくこととした。なお,上記の方法 が実行される可能性を高めるために,アラームは面接中にセットした。
Figure 1.「生活の時間割」の一例(入浴時間を固定するための時間割)
10時 11時 11時30分 19時30分 19時50分 20時 洗濯 洗濯物
干す 風呂洗い 湯を張る
湯を止め て着替え とタオル をセット
入浴
1週間後,その結果について確認したところ, 「できたりできなかったり」とのことであっ
た。実際,記録を見ると入浴時間がずれ込む日もあった。これについて,どうすればもっ
と楽に実施できそうか尋ねたところ,「できないときもあったから,2回くらいベルが鳴
るほうが良いです」とのことであった。その理由として,「やらなかったら,母ちゃんは
しつこかったから…」と述べた。ここから,繰り返しプロンプトを与えられることで,行
動の実施確率が高まるものと予想されたため,スヌーズ機能を用いて,5分刻みでアラー
ムが鳴るように設定した。その結果,X+2ヶ月頃には,入浴時間を概ね固定することが できた。これについてA氏は,「母ちゃんが家に帰ってきたみたいな気持ちになりました」
と,落涙しながら語った。これは母親との死別を想起したことによる悲嘆反応であると考 えられたが,生活の安定を優先すべきと判断し,悲嘆にまつわる感情を喚起して処理する ような方法はとらず,現実的な話題を取り上げた。なおこの後,「母ちゃんならなんて言 うかな…」と考える様子がしばしば見られるようになった。
入浴時間が固定された結果,布団に入る時間も概ね一定となったが,常にすぐ眠れるわ けではなかった。これについてA氏は「昼寝したら夜眠たくないです」と述べた。そのた め,なるべく日中起きていられるようになることを目指し,方針③の要素を加えて,「生 活の時間割」に快活動をスケジュールするよう提案した。A氏にとっての快活動を同定す るために,以前は好きでやっていたが現在はしていないことは何か,と尋ねたところ,魚 釣り,散歩,花の水やりなどが挙げられた。植物を見たり育てたりするのが好きなのだと いう。また,魚釣りは母親とともに何度か行ったことがあり,楽しかった覚えがあるとの ことだった。よって,これらを順次スケジュールしていったところ,昼寝の頻度は低下し,
それに伴って,X+4ヶ月頃には睡眠の状況も改善した。
その後,上記のような行動計画をA氏自身がマネージメントできるよう(方針⑤),系 統的にスキルの学習を促した。その際,「生活の時間割」の作成方法とチェックの方法を 経時的に変化させ,徐々に「生活の時間割」に関するプロンプトを減らしていくように関 わった。すなわち,①面接中,一緒に考えながら時間割を作る,②面接中,なるべく自分 で時間割を作る,③宿題として作ってきてもらい,内容を一緒にチェックする,④宿題の 指示をやめ,チェックのみ指示して行う,⑤チェックの指示をやめる,といった順に関わ り方を変化させた。その成果は行きつ戻りつであったが,X+10ヶ月頃には,毎回のセッ ションの最初に時間割をA氏自ら提示し,そのチェックを求める行動が定着した。
2)中期:就労に関する意思決定支援に取り組んだ時期 X+6ヶ月頃には,ある程度
生活習慣が安定し,陰性症状も含め,統合失調を思わせる精神症状も目立たなくなってい た。その頃にA氏から「働きたいんです」との発言が聞かれた。その理由について尋ねた ところ,「大人だから働かないと」と述べた。これもまた,活用可能な言語的ルールであ ると考えられた。その理由について聞くと,少しずつでも生活保護を返納できるようにな りたいのだという。統合失調症発症前には継続的に就労しており,臨床観察的にもある程 度のチャレンジが可能であろうと判断できたため,主治医と相談のうえでA氏の希望に同 意し,就職に向けた相談を行うこととなった(方針②)。その際,精神保健福祉士の協力 を得られるよう,院内でも調整を行った。
就職に向けて,まずは望ましい仕事の条件について話し合った。生活習慣の安定に伴っ
て症状がコントロールされていることを確認し,その状態を維持できるよう,規則正しい
時間配分ができるような職種に絞ることとなった。また,デスクワークや事務作業には苦
手意識があるため,なるべく身体を使う,淡々とした単純作業が望ましいのではないかと 話し合った。さらに,以前勤務していた清掃業者はどうかと尋ねたところ,発症当時の記 憶から,できれば違う仕事をしたいとのことであった。以上のような話し合いから,上記 の条件に合う仕事を探すために,地域のジョブカフェに通うこととなった。その際,仕事 を探す手続きを忘れないように,A氏とともに行動をフローチャート化して描写し,その 紙を自室に貼っておくこととした。
ジョブカフェにおいては,適性や興味をもとにした相談が行われたのだという。その結 果,A氏が元来植物や土いじりが好きだったことから,地元の農家を紹介された。この農 家は精神障害者を積極的に雇用している事業者であり,特に統合失調症の障害特性につい てはある程度の理解があるとの説明を担当者から受けたのだという。この点にも安心した A氏は,この農家での就労を希望するようになった。心理療法においても,就労に向けた 取り組みとして,就職時の面接で確認すべき事柄や,こちらから伝えておくべきことをリ ストアップした。その結果,X+9月頃には,無事にアルバイトとして採用された。まず は朝6時から正午まで勤務するという条件で働き始め,状態によっては徐々に勤務時間を 伸ばしていくことになった。なお,住み込みも可能な職場であったが,A氏自身が愛着あ る自宅から離れることに難色を示したことと,急な環境の変化によるデメリットを考慮し,
ひとまず自宅から通うこととなった。
事業主は支持的な人物で,A氏も比較的人懐こい人物であったこともあり,職場には早々 に馴染むことができたが,X+11ヶ月頃になると,漠然とした不安感やイライラ感を覚え るようになった。これは再入院時の感情状態と似通ったものであった。よって,仕事中の 様子について少しずつ聴取していったところ,一旦働きはじめると,つい休みを取るのを 忘れ,精一杯働きすぎてしまうのだという。また,作物を収穫する際にも,逐一集中力を 高め,全身が緊張するほどに力を込めてしまうのだという。こうした働き方が疲労に繋が り,不穏な感情状態に影響している可能性が考えられた。
以上の問題に対処するためには,休息のマネジメントスキルを獲得する必要があるもの と考えられた。そのため,まずはどのようなタイミングで休息をとる必要があるのか,そ のサインを見つけることに取り組んだ。A氏は「いつ休めば良いのか分からない」と述べ,
疲れてきたという感覚を覚えているかどうか尋ねたところ,「よく分からない」と,疲労 のサインを自覚できていないことが明らかになった。そこで「生活の時間割」を題材に,
どのような点に変化が生じているかを検討したところ,以前よりも入浴時間が遅くなって
きていることがわかった。A氏によると,つい座り込みボーっと過ごしてしまうのだとい
う。これが疲労を示すサインとなる可能性を指摘し,入浴時間が遅くなってきたら,休み
を取ることになった。また,自分の状態をセルフ・モニタリングできるよう,毎朝の「元
気度」を10点満点で毎日記録するよう求めた。A氏はそれを忘れてしまいそうだと述べた
ため,携帯電話の待受画面にその指示を表示しておくことにした。次に,筋緊張を緩める
感覚を覚え,ほどほどの力み方で働けるようになることを目指して,漸進的筋弛緩訓練を
実施した。筋弛緩の感覚は比較的はやく体感できるようになったため,これを不安時にも 試みるよう促したが(方針④),不安を低減する効果はあまり実感されず,習慣化に至ら なかった。
上記のような対処に加え,事業主がA氏にリラックスするよう声掛けをしてくれたこと もあり,その後は不穏な状態になることも減り,X+1年3ヶ月頃には,就労しながらの 生活にも慣れてきたようだった。生活に余裕を感じるようになってきたからか,A氏から
「もっと働いたほうが良い」「もうひとつ仕事を増やしたい」という提案がなされた。これ について,仮にもうひとつ仕事を増やした場合にどうなるか,A氏と共にそのメリットと デメリットを挙げて分析した。主なメリットは,経済的な余裕と「働いているという気持 ち」が得られること,主なデメリットは,生活習慣が崩れることと,今よりも疲れること であった。これらについて,今までの経過も踏まえて検討したところ,A氏自身から「こ れだと,また入院したときみたいになるかもしれない」との判断がくだされ,ダブルワー クは断念することとなった。代わりに,現在の職場での勤務時間を少し伸ばしてみるよう,
事業主と相談してみることとなった。その結果,勤務時間が2時間程度延長された。
3)後期:心理療法のまとめと終結 その後も継続的に就労し,感情や症状も安定した
状態にあったが,X+2年頃,セラピストが遠方へ転居することとなった。これを伝えら れたA氏は不安を訴えたものの,「ここで色々教えてもらったから,どうしたら良いのか わからないって,前みたいには思わなくなった」と述べた。これを心強く感じたセラピス トは,この心理療法で行ってきたことを一冊のノートにまとめてみてはどうかと提案した。
A氏はこれを快諾したため,セラピストからノートを一冊進呈し,それに心理療法から得 た様々な事柄を少しずつ書き留めていくこととなった。この作業は面接中に行うこととし,
共に意見を出し合いながら,最終的に10 ページ程度のノートが完成した。A氏はそれを見 て,「本を書いたみたいです」と笑った。
最終回において,また不安やイライラが襲ってきたらどうするか尋ねたところ,「すぐ に先生(主治医)とボス(事業主)に言います」,「疲れているときとか,変な生活になっ ているときにイライラするから,イライラしたらノートを見ます」と述べた。そして改め て,「どうしたら良いかわからないって,思わないです」と述べた。なぜそのように思え るようになったのか尋ねると,「ノートもあるし,だいたい先生(セラピスト)が何て言 うか分かるし。自分でやってみたいです」とのことであった。こうした経緯から,担当者 の引き継ぎは行なわず,X+2年3ヶ月に心理療法は終結となった。そして終結後は,月 2度の外来診療で経過を観察することとなった。
Ⅲ.考察 1.心理療法事例のまとめ
支持的な母親の死後,A氏は日常生活を送ることに困難を覚え,統合失調症を発症し,
入退院を繰り返した。A氏の経過は,母の死後に訪れた困難な状況と,知的障害に伴う問 題解決技能の制限との組み合わせによって生じた心因反応を思わせるものであった。しか しながら,入院によって一旦症状が安定しても,退院すると再発するという経過は,確実 にその病状を悪化させていくものだったと考えられる。よって本事例における最も重要な 目標は統合失調症の再発予防であり,それを実現するために,生活習慣の安定や,就労等 の困難な状況への現実的な対処を心理療法の中心的課題とした。ただし,その解決をセラ ピストが肩代わりするのではなく,可能な限り,A氏が問題解決技能を学習できるよう関 わった。結果として,心理療法の期間中,何度か不穏な状態を呈したものの,入院加療が 必要な状態に陥ることはなかった。また,就労や快活動といった建設的な行動も増え,少 なくとも入退院を繰り返していた時期よりも,A氏の QoL は高く保たれたものとみなすこ とができるだろう。症状評価尺度等によってその変化を継続的に測定しなかったことは惜 しまれるが,全体的な経過から,A氏の精神的健康に一定の貢献は果たせたものと考えら れる。なお,この事例報告は心理療法過程に限った報告であり,その背景には医師や精神 保健福祉士といった他職種による取り組みがあることを忘れてはならない。
2.学習されたルールの利用について
本事例の初期において,生活習慣の安定を導いたのは,「入浴してから寝なければなら ない」というルールであった。このルールが学習されていたからこそ,入浴時間を固定す ることを通じて,就寝時間を制御することも可能となった。これは必ずしも知的障害のあ る人に限った論点ではないが,保護者(もしくは養育者)の死後を生きる当事者の援助を 考える際,その重要性は強調するに値するものだと考えられる。
知的障害のある人が独立して生活する際には,身辺自立や社会的自立のレベルが重要な ポイントとなることは言うまでもない(西原,2007 )。保護者が健在であれば,身辺自立 に必要な資源は彼らによって補われる。したがって,支持的な保護者を喪失するというこ とは,それ自体が喪失体験としてのインパクトをもつのは当然として,彼らによって補わ れていた資源を喪失するということでもある。これは二重の喪失である。本事例からひと つ例示するならば,行動を始発するタイミングを知らせるプロンプトが,母の死に伴って 失われたのである。その結果,A氏の生活は時間的な軸を失い,それが深刻なメンタルヘ ルスの問題を引き起こした。
ただし,失われるものがあるのと同時に,遺されるものもある。本事例においては,携 帯電話のアラームをプロンプトとして補ったことで,生活習慣の安定という最初の成果を 引き寄せることができた。母による言語的なプロンプトは失われたが,母から学習したルー ルは遺されていたのである。さらにA氏は,携帯電話のアラームに母の記憶を重ね合わせ,
その手法を洗練させるに至った(スヌーズ機能の利用)。本事例では,幸運にもそのルー
ルを発見することができ,それを介入に利用できたからこそ,当初は困難とも思われた生
活習慣の安定を,比較的速やかに達成することができた。このように考えると,保護者か
ら教えられたルールや,保護者との記憶は,無形の遺産のようなものだと言って差し支え ないだろう。そうした遺産は,ときに保護者の死後にも,当事者を助けるように働く可能 性を有している。
3.意思決定支援とセルフ・モニタリングについて
本事例においては就労に関する意思決定支援を行うことが多かった。特にA氏からダブ ルワークが提案された場面では,そのメリットとデメリットを分析することで,現実的で 保守的な意思決定を促すことができた。A氏の働き方からも示唆されるように,彼は心身 の状態についてセルフ・モニタリングすることが難しい様子であった。この困難さは,統 合失調症に伴う注意機能の障害が影響していたのかもしれないし,身体感覚の知覚に何ら かの不全があったのかもしれない。どちらにせよ,その真偽は不明であるが,心身から発 せられるサインを正確に知覚できないことは,過重な負担のかかった状態を見逃すことに 繋がるようである。これは再発に直結するリスクだと考えられる。しかし,その点も踏ま えた意思決定支援を行うことができれば,そのリスクは多少とも小さくすることができる ようである。
これに限らず,意思決定支援を行う際に,可能な限りA氏自身がアイデアを出せるよう 促すのとともに,その手続きを明示しながら支援を行うよう取り組んだ。前述の通り,A 氏の問題解決技能を向上させることが,彼の生活を安定させることに繋がるものと考えら れた。よって,単に目の前の問題を解決するための支援を行うだけでなく,その手続きを 習得してもらう必要があった。この点がどこまで達成されたかは,長期的なフォローアッ プを行うことで明らかにできるだろうが,今となっては,その成果を祈るばかりである。
4.おわりに:知的障害のある人への心理療法について
本事例は,具体的な査定を行い,必要だと判断された方法を,A氏にとって扱いやすい 形で実施するという,心理療法の基本に忠実な形で進行した。伝達方法にイラストを多用 したり,重要な情報を紙に残すようにしたり,内省よりも行動に焦点を当てたりといった 方針は,A氏の知的能力の特性を踏まえてのものだった。とはいえ,こうした方針も,知 的障害の有無に関わらず適用され得るものである。そのように考えると,少なくとも本事 例においては,知的障害の有無は,さほど大きい特殊性ではなかったとも言えるだろう。
これは,A氏が心理療法から恩恵を得るための資源を豊富に有していたことによるのか もしれない。A氏は持続的な対人関係を営むスキルを有していたし,言語的なコミュニケー ションが比較的得意な人物であった。また前述の通り,心理療法の中で活用できるルール や記憶を,支持的な保護者との関係において内在化することに成功していた。さらに,理 解ある職場と巡り合うという幸運も彼の助けとなった。これらは,心理療法の共通要因ア プローチにおける,治療外の要因にあたるものだと言えよう(Assay & Lambert,1999)。
だとすれば,本事例は治療外の要因を積極的に活用したものであり,その点でも特筆すべ
き特殊性は存在しなかったのかもしれない。
以上のように,本事例の過程は知的障害の有無に関わらない,一般的な心理療法の過程 であったとみなすこともできる。実際,本事例だけをみて,知的障害のある人の特殊性を 同定し,心理療法を行う際の勘所を特定することは不可能であろう。しかし,必要なのは 積み重ねである。今後,知的障害のある人を対象とした心理療法のプロセスを,複数の事 例から分析していくことで,その特殊性や,有効な心理療法の要素を明らかにすることが できるかもしれない。そうなれば,メンタルヘルスの問題を抱えた知的障害のある人に対 して,より適切な心理学的援助を提供することが可能になるだろう。さらに,こうした知 見の積み重ねは,知的障害のある人のメンタルヘルスに注目し,彼らを心理療法の自然な 対象とみなす論調を醸成する助けとなることだろう。本論文がその礎のひとつになること,
そして,今後も多くの知見が積み重ねられていくことを期待したい。
引用文献