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ウィーヌ氏,マイナスの司祭

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Academic year: 2022

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ウィーヌ氏,マイナスの司祭

野村, 知佐子

九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学

https://doi.org/10.15017/21021

出版情報:Stella. 30, pp.255-263, 2011-12-20. Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

バージョン:

権利関係:

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ウィーヌ氏,マイナスの司祭

野    

 

 

 『悪魔の陽の下に』(1926)において,悪魔という超自然的なイマージュを用 いて悪を表現したベルナノスは,『ウィーヌ氏』(1943)では非現実的な存在に 依拠することなく,フヌイーユなる至極ありふれた教区の崩壊譚を通じてこれ を描出することになる。クロード=エドモンド・マニーはここに彼の悪にたい する考察の円熟を見た 1)。ベルナノスにとっての悪とは,何らかの実体を持つ ものではなく「存在しはするが何ものでもない何か」なのである。マニーが「ネ ガティブな存在」と名づけたこの存在を悟性によって捉えることは容易なこと ではない。それは凹彫でしか表されない非存在の横行する世界である。ところ でジュアン・アサンシオは,非存在たる悪が「ある」ためには存在を必要とす ると述べる 2)。かかる観点に立ち,フィリップ・ル・トゥーゼは次のように主 張する。たしかに『ウィーヌ氏』はベルナノス最後の小説である。しかしそれ は彼の歩みの終着点が絶望と空虚であったことを意味しない,と 3)。なぜなら この小説の 16 章を作成する時点で,精神的混乱のなか,『田舎司祭の日記』

(1936)は生まれるからである。「恩寵の世界」と「失寵の世界」とはひとつの 必然性によって互いに呼び合い答えあっている。つまり存在と非存在は分かち がたく結びついているのだ。本稿では,『田舎司祭の日記』のアンブリクールの 司祭と比較・検討することで,ウィーヌ氏のマイナスの司祭としての機能と要 素について明らかにしたい 4)

 『田舎司祭の日記』のアンブリクールの司祭は,彼のおこした奇跡について

「それは失われた秘密です」[J.1227]と言う。それに呼応するかのように,ジョ ルジュ・バタイユの『罪についての討論』に参加したジャン・ダニエルー神父

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することができないという絶望を常態として受け入れることである,と 5)。ベ ルナノスの作品世界において,それは空の手というイマージュによって表現さ れる──

何と不思議なことだろう,自ら所有していないものをこのように与えることができる とは!  ああ,我々の空っぽの手のこころよい奇跡![J.1170]

彼のおこした奇跡とは,偽りの平安のなかに生きてきた伯爵夫人をふたたび神 と対峙させたことである。夫人の神との再会はまず怒りである。なぜなら彼女 は幼い息子の死と家庭の不和という恐ろしい孤独を,長きにわたり生きねばな らなかったのだから。夫人は神への怒りを爆発させるだろう。それはキリスト に「こぶしをふりあげ,その顔に唾し,鞭打ち,最後には十字架につける」

[J.1162]という形で表現される。この磔刑の実行によって彼女は悪の極みに達 したのだ。一方,フヌイーユの村を震撼させた牛飼いの少年の死体は,村役場 の広間に運びこまれる。フヌイーユの医師は少年の固く握った手を定規でこじ 開けてみるが,しかしそこには何もない──

何も握っていなかった小さな手が,もはや秘密もなく,ほとんど床につきそうにかす かに揺れて,黒ずんだ手のひらの窪みを見え隠れさせていた。[O.1401]

下書きの時点で書かれていた「グレーのメッシュの頭髪が,死者の手に残され ていた」というウィーヌ氏の犯行を裏づける一節は,後にベルナノス自身の手 によって削除されたという 6)。ウィーヌ氏の頭髪は少年の手をすり抜け,手は 空のままフヌイーユの人々の手に委ねられる。空でなかったならば,彼が犯人 であることがわかり,それによって教区はかろうじて精神的解体を免れたであ ろう。しかし手が空であったために,匿名の手紙は飛びかい,村長アルセーヌ の狂気には拍車がかかり,ド・ヴァンドム家の若夫婦は自殺へ追いこまれ,か つ少年の葬儀の席で村人によるネレイス夫人へのリンチがひきおこされてしま う。まさしくフヌイーユの村は悪の極みに達するのである。だが伯爵夫人にとっ て神との対峙が悪の極みへの到達であったように,フヌイーユもまた,救われ るためには悪の極限に身を置く必要があるのだ。ウィーヌ氏はアンブリクール

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の司祭と同じく,対象を悪の極みへと導く力を有しているが,それはともに空 の手がおこした奇跡であり,キリストとの邂逅のためになくてはならないもの なのだ。しかるにアンブリクールの司祭がプラスの司祭として作用し,伯爵夫 人を神のもとに送り届けるのにたいし,マイナスの司祭としてのウィーヌ氏は 村を解体させたままなのである。なぜこのようなことがおこるのか。それはベ ルナノス作品の重要なテーマのひとつである秘密の機能と深くかかわっている。

 死に瀕したウィーヌ氏は言う──

「私には秘密が必要なのだ」とウィーヌ氏は続けた。「たったひとつでいいからどうし ても秘密が必要なのだ。想像しうるかぎりどんなにくだらなくてもいいし,地獄の悪 魔を全部合わせたよりもずっといやらしく,恐ろしくてもいい。そう,たとえそれが 鉛の粒ほどの大きさしかなくても,私はそれを中心に成長し,重さと安定を取り戻す ことができると思う……ひとつの秘密というのは,君,私の言うことをよく理解した まえ,秘密というのは告白に値する隠しごと,という意味だ──告白か,交換か,い ずれにせよ私が他人の背に移すことができるようなものだ」[O.1555] 7)

 ウィーヌ氏の言葉は,個人の抱える秘密がいかなるものであろうと,それが 他者に対して開かれていることは救いであるとの認識を示している。じじつ,

『ウィーヌ氏』には救いのための要素がすべて備わっている。彼が殺害した牛飼 いの少年の死体,それに纏わる秘密,そして第二の自己であるステニーという 他者の存在。秘密を含めたこの 3 つの要素によって,失寵を表すはずの『ウィー ヌ氏』の世界は,じつは救いの構造を内包していると考えられよう。ル・トゥー ゼのいうように,悪魔は完全に創造の秘密を掴んでいるばかりか,救いの構造 にいたるまで熟知しているのだ 8)。しかしそれらは『ウィーヌ氏』においては 冷徹に分析・解釈されるだけである。アンブリクールの司祭をはじめとするベ ルナノスの聖人たちが救いの構造に自ら参与するのにたいし,ウィーヌ氏はそ れを淡々と見つめることしかできない。「秘密は私を救ってくれるだろう」と彼 は「こともなげに」口にする。「まるで救われたい気持などないかのように」

[O.1555]。こうして彼は救いの構造への限りない傍観者になっている。ところ でウィリアム・ブッシュは,ベルナノスがウィーヌ氏にある種の共感を覚えて おり,いくつかの考えを述べるうえでこの主人公を己の代弁者にしていると述 べる 9)。たとえば,この作品は非存在が描かれているがゆえに,一見したとこ

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次のようなことを語っている──

「こんな状況のなかで死んでいくのは不愉快なことだろうと思いますよ。推理小説の,

それも一番できの悪い最低の作り話のただなかで」[O.1466–1467]

彼は作中人物でありながら,作者の視点を獲得しているかのようである。

 かくのごときウィーヌ氏にとって最も必要なものは告解であろうが,そのた めにフヌイーユの司祭を訪れた彼はそれを行うことなく戻ってくる──

彼はただ,あの高い所に,菩提樹とイチイの背後に,彼の最後のチャンスがあったこ とを知っていた。それはもうなかった。[O.1470]

キリスト教徒にとって高所とはカルワリオの丘を彷彿とさせるとエルネスト・

ボーモンは述べているが 11),ウィーヌ氏は高所に上がりながらも虚しく降りて くる。そこで磔刑に処せられたなら,彼はその秘密によって自分自身とフヌイー ユの教区を救ったであろう。このとき彼はキリストと紙一重のところにいる。

アサンシオは,悪魔的なものは解放を意味する善から完全に切り離されている わけではないと言う 12)。悪魔的なものに身を委ねる者はまだ神との関係を保っ ている。それどころか彼は自己との絶えざるさし向いによって,他の人間たち よりも高くなりさえするのである。「悪魔的なものは神的なものと同じ属性を 持っている。それは個人に,自己との絶望的な関係に入ることを許すものであ る」というキルケゴールの言葉をアサンシオは引用している 13)

 以上のように,ウィーヌ氏は空の手の提示,秘密への関わりという機能によっ て,ベルナノスの描く聖人像に近づいているといえる。次節ではアンブリクー ルの司祭をウィーヌ氏に限りなく接近させる要素について考察しよう。

 黎明と子供時代はベルナノスの作品世界において生と解放を意味するが,そ の聖なる時間が死の侵食によって汚されている例をまず挙げたい。アンブリ クールの司祭は風雨のなか,孤独の夜を体験し,目覚める──

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 朝はいかにも穏やかで,素晴らしく爽快だ……子供のころ明け方,よく露に光るあ の生垣のところに行っては蹲り,ぐっしょり濡れて震えながら,しかし幸福な気持ち で帰ってきては,死んだ母さんに頬っぺたを叩かれ,それから熱い一椀の牛乳をもらっ たものだ。

 終日,子供のころのさまざまなイメージしか頭になかった。自分を死人のように考 える。[J.1114]

司祭の苦悩はあまりにも激しいため,その対極にある歓喜,すなわち最も聖な るものである子供時代の歓喜が想起される,とクロード・ガルダは指摘する 14)。 この黎明は司祭の体験した恐ろしい夜の延長線上にあるといえよう。ここで子 供時代は想起の対象でしかなく,なんら積極的な作用を彼に及ぼすわけではな い。司祭はそれについて「死人のように考える」だけである。次に挙げるのは ウィーヌ氏がステニーのなかに自分自身の似姿を見る場面──

「つまり,ええ,そう,あれは 9 月の夕方,道は泥んこ,陰気な夕方だったわ。『私は 今しがた自分自身に再会しましたよ』とあの人〔=ウィーヌ氏〕は言うの。死人が過 去を覗きこむような顔で……『少年だった頃の私,私はそれに会ったのですよ。触る ことだって,声を聞くことだってできたでしょう……』」[O.1422–1423]

『ウィーヌ氏』においては季節や時間さえ登場人物の実存と強く結びついてい る,というのはル・トゥーゼの指摘である 15)。それによれば,ウィーヌ氏は死 と閉じこもりの表象である黄昏のなかに,ステニーは生と解放の表象である黎 明のなかに生きている。しかるにここで司祭の体験する黎明は,苦痛を意味す る夜の延長であることから,ウィーヌ氏の生きている黄昏と等価のものである といえよう。なぜなら司祭は死人のように聖なる子供時代をふり返るからであ る。彼らはともに子供時代の聖性を知悉しており,またそれを侵食する死の影 さえも共有している。ドニサン神父が悪魔にたいして「おまえは私とともに祈 り,苦しんだ」 16)と言うのと同様の意味において,ウィーヌ氏は聖人のように 死の夜を体験し,苦悩しさえするのである。

 アンブリクールの司祭がウィーヌ氏にかぎりなく接近する例として,次に医 師ラヴィーユとの邂逅を挙げることができよう。実証主義者であり,大地と信 仰から根こそぎにされたこの人物は,自身の学位論文の対象であった病に罹患 し,死に瀕している。人間の生は祖先の桎梏によって縛られていると説くこと

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能なものとして提示する。医師は司祭のなかに自身の分身を見たと述べる──

じつは,私自身,何と申しますか……あなたのご一家と同じような家系に属している のです。さきほどあなたにお会いしたとき,私は……そう,自分の分身に出会ったよ うな,不愉快な印象を受けました。[J.1236]

自分の分身と看做すことによって,ラヴィーユは善悪の境界のない世界へと司 祭を誘うのである。彼は,司祭が祈りを愛しているのではなく,祈りへの強制 を愛しているにすぎないと述べる。かつてラヴィーユが研究に狂気じみた情熱 を傾けたのと同様に,司祭もまた莫大なエネルギーを費やして神と向き合って いる。この医師との対話によって明らかとなるのは,司祭の莫大なエネルギー 体としての側面である。他方,子供の頃から善悪の境界のない世界を希求して きたのはウィーヌ氏である──

ウィーヌ氏が,記憶以前にまでさかのぼって,そうした子供時代の,ごちゃ混ぜな堆 積に辿りつこうと試みるとき──彼が本当に忌み嫌った覚えのあるのは,ただひとつ の束縛だけであった。そしてその根源は彼自身の内にあった。それは善悪の意識であっ た。存在のなかのもうひとつの存在にも似た──体内の虫のような──良心の呵責 だった。[O.1471]

ウィーヌ氏にとって重要なことはすべての可能性を実現させることである。そ れには恐るべき慧眼と膨大なエネルギーが必要とされる。神に向き合うのと同 等のエネルギーが必要とされると言っても過言ではなかろう。もしアンブリ クールの司祭が,すべてをエネルギー体に還元するラヴィーユの視点を受け入 れたなら,彼もまたウィーヌ氏のように,そのエネルギーを教区破壊のために ふり向けていたかもしれない。

 最後に挙げるのは,凡庸なものとの一体化である。胃癌を宣告されたのち,

アンブリクールの司祭は彼の神学校の友であったデュフレティを訪れる。彼の 姿はまるで司祭のカリカチュアと呼べるほどに凡庸である 17)。しかしだからこ そ,彼はまさしく司祭が最後に出会うべき人物なのである。貧しい生まれのゆ えに偉大なものに憧れつづけてきたアンブリクールの司祭は,神との邂逅のた め,その命よりも大切な「壮麗さへの夢」[J.1155]さえ剥奪される必要があっ たからである。聖性の完成のために司祭は凡庸な者を受け入れ,それと一体化

(8)

する。ひとりその教区を離れた彼は,都会の喧騒のなかに身を隠す。一方,悪 魔的な閉鎖性を極限までおし進め,あらゆる善の介入を拒むウィーヌ氏は最後 に凡庸な者となる。じじつアサンシオは次のように述べる 18)。もし我々がけっ して悪魔に出会うことがないとすれば,それは悪魔の閉じこもりが完璧なため であると。好奇心によって人々の魂を分析し,そこに善悪を超えた仮借なき力 を発揮してきたウィーヌ氏の目は,最後に自分自身へと向かう──

「こんなことがありうるのか。今私は自分を底の底まで見とおせる。なにひとつ私の視 線を遮るものはない。どんな障害物もない。何もない」[O.1550]

悪魔的なものは絶対的な孤独のなかに,完全な自己同一性のなかに,明晰すぎ る意識のなかに閉じこめられている。そこで彼は完全な人間の否定となる。つ まりは完全な無能力者となる。完全な無能力者とは閉じこもりの最終段階であ る。完全に内面化された者はいかなる外見をも纏う。したがってウィーヌ氏は 最も凡庸な姿を晒すことになる。このように聖なる者は自ら凡庸なものと一体 化し,悪魔的な者は最後には凡庸な姿を晒すのである。

 以上のようにウィーヌ氏はアンブリクールの司祭と同様,死の影を持つ子供 時代,莫大なエネルギーを内包する姿態,さらには凡庸なものとの一体化にい たるまで,聖なる属性を有しているということができる。

 「悪魔的なものは善に触れられてはじめて真に明らかとなる」。「善とはもちろ ん自由の回復,贖い,救いその他いろいろの名でよばれているものを意味する」

とキルケゴールはいう 19)。『欺瞞』(1927)と『歓び』(1929)においてセナーブ ルの悪が,シュヴァンスやシャンタルという善に触れられて明らかになるよう に,また『悪魔の陽の下に』ではドニサン神父の存在によって悪魔の存在が浮 かび上がるように,悪は存在しながらも善の存在なしには明らかになりえない。

アンブリクールの司祭というプラスの司祭の背後に,ウィーヌ氏は踵を接して 存在している。正反対の効果をその教区に及ぼしながらも,その姿はあたかも 司祭のようである。『ウィーヌ氏』の執筆中に『田舎司祭の日記』が生まれたの は偶然ではあるまい。

(9)

1 ) Voir  Claude-Edmonde  MAGNY, « Le  dernier  roman  de  Bernanos »,  in  Études bernanosiennes 5,  Paris :  Lettrs  Modernes  Minard,  1965,  pp. 16-17.

2 ) Voir  Juan  ASENSIO, « Le  Démoniaque  selon  Sören  Kierkegaard  dans  Monsieur Ouine »,  in  Études bernanosiennes 23,  Paris :  Lettres  Modernes  Minard,  2004,  p. 156.  こうした悪の性質はキリスト教的伝統の下では珍しいものではないとアサン シオは述べる。その例として彼はカール・バルトの「空虚は神の望まれぬものだ」,

聖バジルの「悪が固有の実体を持つと想像してはならない。悪はそれが何ものかで あるかのように存在しない」を挙げる。

3 ) Voir  Philippe  LE  TOUZÉ,  Le Mystère du réel dans les romains de Bernanos,  Paris :  Libr.  A-G.  Nizet,  1979,  pp. 163.

4 ) 『ウィーヌ氏』および『田舎司祭の日記』のテクストとしてはプレイアッド版『小説 集 』(Georges  BERNANOS,  Œuvres romanesques,  Paris :  Gallimard,  coll. « Biblio- thèque  de  la  Pléiade »,  1988)を使用し,引用にあたってはそれぞれ略号 O,  J を付 してページ数を[ ]内に記す。訳出にあたっては,渡辺義愛による邦訳(『ベルナ ノス著作集』第 3 巻,春秋社,1976 年)と渡辺一民による邦訳(同,第 2 巻)を参 照した。

5 ) Voir  Georges  BATAILLE, « Discussion  sur  le  péché »,  in  Œuvres complètes,  Paris :  Gallimard,  t.  Ⅵ ,  1973,  p. 326.

6 ) Voir  LE  TOUZÉ,  op. cit.,  p. 175.

7 ) このベルナノスの言葉に呼応するかのように,キルケゴールは『不安の概念』で次 のように述べる──「さて,我々はこの閉じこもっているものをXとし,その内容 もXとしよう。それは最も恐ろしいものであっても最もつまらぬものであってもい い,またこんなものがこの世にあろうなどとは多くの人が夢にも思わないほど不気 味なものであっても,まただれひとり気にもとめないほどの取るにたらぬようなこ とであってもいい。そうするとXとしての善ははたして何を意味するのだろうか? 

それは開かれているということを意味する」(『不安の概念』,中央公論社『世界の名 著』第 51 巻,田淵義三郎訳,1979 年,331 頁)。

8 ) Voir  LE  TOUZÉ,  op. cit.,  p. 205.

9 ) Voir  William  BUSH,  L’Angoisse du mystère,  Paris:Lettre  Modernes  Minard,  1966,  p. 126.

10) Voir  MAGNY,  art. cité,  pp. 10-11.  マニーによれば,非存在を描くためにベルナノス が用いた手法はふたつの意味で推理小説的である。第一に,筋の原動力が,最後ま で説明されぬひとつの殺人事件によって与えられること。第二に,我々が重要であ るとみなし,作者がそれについて知り尽くしている事実が常に隠されるということ。

またフィリップ・ル・トゥーゼは,一見したところ推理小説風のこの作品は「省略」

と「空白」に満ちているという。「省略」とは直接的に描かれることはないが,文脈

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の流れからして当然起こりえたできごとを推察できるものである。これにたいして

「空白」とは文脈によってけっして補われることのない穴である。推理小説が「省 略」を用いることによって読者に謎解きの喜びを与えるのにたいして,『ウィーヌ 氏』には「空白」が挿入されることによって,謎の解明を拒む。さらにル・トゥー ゼは『ウィーヌ氏』の全 19 章のうち 10 章までが簡潔な一節によって始まるが,そ れが発せられた状況,その言葉の宛てられた相手,そしてその話者を読者は後になっ てからしか知ることができないと指摘している(voir  LE  TOUZÉ,  op. cit.,  pp. 172- 173)。『歓び』や『ある犯罪』ですでに使われていたこの手法は,『ウィーヌ氏』に おいて体系化されており,物語は絶えず分断されつつ進行するのである。

11) Voir  Ernest  BEAUMONT, « Structure  et  symboles »,  in  Études bernanosiennes 9,  Paris :  Lettres  Modernes  Minard,  1968,  pp. 99-100.

12) Voir  ASENSIO,  art. cité,  p. 152.

13) Sören  KIERKEGAARD,  Crainte et tremblement,  Paris :  Rivag,  coll. « Petite  biblio- thèque »,  1999,  pp. 169-170.  こうした観点はベルナノスの作品ばかりなく,バル ベー・ドールヴィイやレオン・ブロワの作品にも見うけられるとアサンシオは述べ ている(voir  ASENSIO,  art. cité,  p. 125)。

14) Voir  Claude  GARDA, « La  nuit  dans  Le journal d’un curé de campagne »,  in  Études bernanosiennes 18,  Paris :  Lettres  Modernes  Minard,  1986,  pp. 77-78.

15) Voir  LE  TOUZÉ,  op. cit.,  p. 171.

16) Voir  Georges  BERNANOS,  Sous le soleil de Satan,  in  Œuvres romanesques,  op. cit.,  p. 308

17) Voir  Anne  PÉNICAUD, « Aproches  de  la  vision  bernanosienne  de  la  pauvreté »,  in  Études bernanosiennes 18,  Paris :  Lettres  Modernes  Minard,  1986,  pp. 125-126.

18) Voir  ASENSIO,  art. cité,  p. 161.

19) キルケゴール前掲書,322 頁。

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