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経 学 と諸子 学 の方 法 をめ ぐる 章 炳麟 と胡適 の論争 につ い て(上)

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経 学 と諸子 学 の方 法 をめ ぐる 章 炳麟 と胡適 の論争 につ い て(上)

陳 平 原 著

阿 川 修 三 訳

内容 提要

経 学 と諸 子 学 とに 研 究 方 法 上 の 相 違 が あ るか 否 か とい うこ と、 これ こそ が 「研 究 方 法 上 の 根 本 的 問題 で あ る」 章 炳 麟 と胡 適 の 論 争 は 、単 に彼 らの 清 代 学 術 に対 す る評 価 の相 違 に 係 わ るだ け で は な く 、現 代 中 国 の学 術 が ど の よ うに発 展 して い くか とい う分 岐 点 の意 味 を も持 っ て い た 。 胡 適 が 清 代 の 学 者 の 考 証 学 は 「科 学 的 方 法 に 暗 合 し て い る 」 と推 賞 し た の に 対 し て 、 章 炳 麟 は清 代 の 学術 は 玄 言(形 而 上学)を 排 斥 した た め 、 大 成 しな か っ た と批 判 したの で あ る。 後 に 、 「戴震 論 」 を通 して 、章 と胡 の 両者 は 「経 学 」

と 「哲 学 」 を どの よ うに歴 史 的 に 位 置 づ け る か とい う点 で は 段 々 と接近 し て は い った が 、 諸子 研 究 の方 法 と手 順 では 終 始 大 い に 隔 た りが あ っ た 。 こ の原 因 は か な りの 程 度 、 二世 代 の 生 活 経 験 と学 術 訓 練 の相 違 に 帰 す べ き で あ ろ う。 す な わ ち 、 章 炳 麟 が 「近 頃 憂 うこ とが あ り、 そ の た め 益 々悟 る こ とが あ っ た 」 と主 張す るの に対 して 、 胡適 は 「証 拠 に 基 づ かね ば な らな い 」 と主 張 し;章 が 「そ の根 幹 を理解 し」、 厂要 点 をつ か み 、 真 理 を探 求す る」

と言 え ば、 胡 は 「あ らゆ る知 識 や 道 理 を知 り尽 くす こ とに よ って 全 体 の 理 解 に到 達 し」 「系 統 的 に筋 道 を立 て る 」 と言 い 、 章 が 「主 観 に依 り客 観 に依 らな い 」 と 言 え ば 、 胡 は 「他 の 哲 学 体 系 を借 用 して 変 化 を解 釈 す る道 具 と す る」 と言 っ た 。 胡 適 は 五 四 文化 運 動 以 後 の 新 しい 学 術 の パ ラ ダイ ム を代 表 した が、 そ の 日に 日に 明 らか に な った 方 法 上 の 欠 陥 は 、 章 炳 麟 を典 型 と す る 「も う一つ の 可 能 性 」 を 想 起せ し めた 。

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経学 と諸子学 の方 法 をめ ぐる章炳麟 と胡適の論争 につ いて(上)陳

今 世 紀 の 中 国学 術 界 に お い て 、章 炳 麟 の 「国 学 の 提 唱 」①と胡 適 の 「国 故 整 理 」②とは い ず れ も広 範 な 注 目を浴 び た 。 胡 氏 は 「国故 」 の 理 解 で の 上 で 章 氏 か ら恩 恵 を 受 けた こ とを包 み 隠 そ う とは しな か っ た し、 顧 頡剛 は 更 に 章 、胡 両 氏 の歴 史 的 つ な が りを直 接 的 に指 摘 した 。(1}しか し、 章 、胡 両 氏 は 同 じ く国 学 を研 究 しな が ら、 そ の研 究 方 法 に は か な りの違 い が あ る 一 こ の 違 い とは あ る程 度 、 学 術 パ ラダイ ム 転 換 期 の 「前 を受 け継 ぎ」 「後 を啓 く」

とい う二世 代 間 の ギ ャ ップ を代 表 して い る 。 しか し、 ここ で言 う 「前 」 厂後 」 と は 、 主 に 学 術 訓 練(伝 統 的 書 院教 育 か 新 式 学 校 教 育 か)の 違 い③を指 し、

価 値 判 断 を含 ん でい な い 。1922年4.月 か ら6,月 に か け て 、 章 炳 麟 は 上 海 で 一 連 の 「国学 に 関す る 講演 」 を行 っ た④;翌1923年1

,月に は 、 北京 大 学 は 胡 '適 の 「発 刊 宣 言

」 を冠 した 『国学 季 刊 』⑤を創 刊 した 。 この 二つ の 出 来 事 は 世 代 交 代 の象 徴 と見 做 して 差 し支 え な い:こ れ 以 前 、 国 学 を研 究 す る者 は 章 炳 麟 を傑 材 と し、 こ れ 以 後 は胡 適 とそ の シ ンパ の 天 下 とな っ た か らで あ る。 章 、 胡 両 氏 の 学 問 に は 共 通 点 も あ るが 、 相 違 点 も 多 い 。 本 文 で は 「世 代 交代 期 」 に起 こ った さ さや か な論争 を取 り上 げ る こ とで 、 二 種 類 の 異 な っ た 学 術 思 想 の方 向 性 を探 りた い 。

1923年11月 、国 事 を議 す る公 開 電報 を打 っ の に 血道 を上 げ ⑥、既 に専 門の著 作 を 暫 くの 問休 筆す る こ と を新 聞 紙 上 で 「通 知 」 して い た 、 章 炳 麟 は章 士 釧'の 「そ そ の か し」 に乗 っ て 、 再 び 墨 学 を 論 じる こ と とな る。 二 人 の 章 氏 は互 い に 褒 め た た え る と と もに 、 連 係 して 梁 啓 超 、胡 適 の 墨 学 研 究 の 「武 断 」 を 批判 した 。 胡 適 は年 若 く血気 盛 ん で あ った の で こ れ に 応 戦 し;梁 啓 超 は 「見て 見 な いふ りを した 」。多 分 自分 が道 連 れ にす ぎな い こ と をわ か っ て い た の で あ ろ う。 この 論争 の 諸 論 文 は 『胡 適 文 存 二 集 』 に収 め られ た 時 、

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川"多

「墨 学 を論 ず(論 墨 学)」 とい う題 を冠 せ られ た 。その 中の章 炳麟先生の二 通 の 書 簡 は 『華 国 月 刊 』 に掲 載 され た も の と字句 に 若 干 異 同 が あ る が 、 大 局 に は係 わ らな い 。 この 論争 は表 面 上 は 『墨 子』 「経 上 篇」 の 「辨争 彼也(辨

とは 彼 と争 うな り)」 とい う句 に対 す る訓詁 解 釈 の 違 い ⑦か ら起 こ っ た か に 見 え る が、 実 は 異 な っ た学 問方 法 及 び 二世 代 の 学 者 間 の ギ ャ ップ に も係 わ っ て お り、 大 い に 深 い 意 味 が存 して お り、 真 剣 に 探 求す るに 値 す る の で あ る 。

事 の発 端 は 、 先 ず章 士 釘 が胡 適 が(「 墨 子 小 取 篇 新 詰 」 〔1919年、『胡 適 文 存 』 第1集 所 収 〕 の 中で)「 辨 争 彼也 」 の 「彼」 を誤 字 と判 定 した こ とに 武 断 で あ る と批 判 した こ とに 始 ま り、続 い て章 炳 麟 が そ れ につ い て 章 士 釧 に 最 初 の 書 簡 を 出 し、 胡 適 が誤 った の は た だ 武 断 と言 うだ け に 止 ま らな い 、 最 大 の 欠 点 は 「諸 子 学 と経 学 とで はそ の研 究 方 法 に 違 い が あ る とい うこ と を知 らな い とい うこ とだ 」 と指 摘 し た の で あ っ た 。 察 し の よ い 胡 適 は章 士 釧 の 具 体 的 な批 判 の 方 は 放 っ て お い て 、却 っ て 章 炳 麟 先 生 に 「結 局 、 諸子 研 究 との 方 法 と、 経 学 研 究 の そ れ に どの よ うな違 い が あ るの で し ょ うか 」 と質 した の で あ る 。 胡 適 は 自 ら 「浅 学 の人 」 と称 して い た が 、 この 問 い に は答 案 を用 意 して い な い わ け で は な か っ た:「 経 と諸 子 は 同 じく古(い に しえ)の 書 籍 で あ る以 上 、 こ れ らを研 究 す る方 法 は た だ 一 つ しか な い 。即 ち 、校 勘 学 と訓 詁 学 の 方 法 に よ って 、本 文 の 校 訂 と.古義 の 選 定 を行 うこ と で あ る」 と言 うの が 彼 の 答 案 で あ った の で あ る。 彼 は 経 学 と諸 子 学 が研 究 方 法 上 の 違 い の な い こ とを証 明 す る た め に 、 高郵 の 王 引之 、 王 念 孫 父 子 と 章 炳 麟 の 師 で あ る 兪褪 、 孫 詒 譲⑧を持 ち 出 して 、 そ の例 証 と した 。

胡 適 が 強 調 した よ うに 、 諸子 学 と経 学 の研 究方 法 に 違 い が あ るか 否 か 、 これ こ そ が 「学 問方 法 上 の 根 本 的 問題 で あ る」 が 、 章 炳 麟 もそ れ を 厂決 し て 安 易 に 放 置 し よ う と した の で は 」 な か っ た 。彼 の 章 士 釧 に 宛 て た 二通 目 の 書 簡 で は 引 き続 き 墨 学 の 論争 を展 開す るほ か 、 主 に 胡 適 の 提 起 した 問 い に 次 の よ うに答 え た:

前 の手 紙 で は 、 「墨 辯 」 を 論 じた 際 に 、経 学 と諸 子 学 とは研 究 方 法 上 に違

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経 学 と諸 子 学 の 方 法 を め ぐる章 炳 麟 と胡 適 の 論 争 に つ い て(上)陳

い が あ る と言い ま した。 昨 日、 あな た が胡 適 か らの手 紙 を示 され ま した が 、 そ の 中で 、校 勘 訓 詁 は経 学研 究 と諸子 学 研 究 の 通則 で あ る として 、王 念 孫 、 兪越 両先 生 をそ の例 として 挙 げて い ま した 。思 い ます に、 校勘 、訓 詁に よ っ て 、経 学 を研 究 し諸子 学 を研 究 す るの は た だ学 問 の最 初 の 人 口に い る に過

ぎ ませ ん 。 しか し、経 書 は多 くの場 合 、 事 実 を述 べ 、 諸子 は 多 くの場 合 、 義 理 を 明 らか にす るの です(こ れ は お お よ そ につ い て 言 っ た ま で で 、経 書

の 中 で も 『周 易 』 は 義 理 を 明 らか に して い ます し、諸 子 の 中で も 『管 子 』、

『苟 子 』 は 事 実 を述 べ て います 。 しか し、諸子で事実だ けを言い、義理 に言 及 しな い もの はほ とん どあ りませ ん)。 だ か ら、 この 二種 類 の 書 籍(経 書 、 諸 子)を 研 究 す る場 合に は 、先 ず校 勘 、 訓 詰 を一 通 り終 え て か らは 、各 々

のそ の特 性 を重視 して研 究 を進 め ざ る を得 な いの です 。 だ か ら、賈 達 、 馬 融 の よ うな 経 学 者 は 諸子 の研 究 に 向 き ませ ん で した し、 郭象 、 張湛 の よ う

な諸 子 学 者 は 経 の 研 究 に 向 きま せ ん で した 。王 念 孫 、 兪越 両 先生 は 、や っ と学 問 の初 歩 の段 階 に い る にす ぎ ない の です 。{2)

この よ うに 、 章 炳 麟 が 「た だ 校 勘 、 訓 詁 とい う手 間 を か け な が ら、義 理 学 説 に 通 暁 しよ う と しない 」 者 を誹 って 、 「や っ と学 問 の初 歩 の毀 階 に い る に す ぎ な い 」 と論 断 した の に 対 して 、 胡 適 は そ れ に 同 調 しな が らも 、 しか し、 「今 の 墨 学 を論 ず る者 は 大体 才 がな く初 歩 の 段 階 で 成 す とこ ろ が な い 」 と認 定 した か ら、 ま だ 「や っ と学 問 の初 歩 の 段 階 に あ る にす ぎ ない 」 校 勘 、 訓 詁 を大 い に 談 じな け れ ば な らな か った の で あ る。

コ ロ ン ビア 大 学 哲 学 科 を卒 業 した⑨胡 適 に よ って 校 勘 、訓 詁の必 要性 が唱 え られ た の に対 して 、杭 州 詁 経 精 舎 ⑩出 身 の章 炳 麟 に よ っ て清 代 学 術 が 批判 され た と言 う事 実 は 、 これ 自身 少 し く人 を啓 発 して 深 く考 え込 ま せ る こ と で あ る 。 章 炳 麟 の批 判 に 対 して 、胡 適 の 弁 解 に もな か な か 説 得力 が あ る:

す な わ ち 、 義 理 を 明 らか に す る に は先 ず 「校 勘 、 訓 詁 に基 づ か な けれ ば な らな い 」 し、 し か も 「訓 詁 を満 足 の い く よ うにす るに は 先 ず 義理 の 理 解 が あ る程 度 必 要 と な る 」 と言 うの がそ れ で あ る。(3}真剣 に追 求 して 行 け ば行

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β

くほ ど、 「義理 」 と 「訓 詁 」 の どち らを重 視 す るか とい う問題 は、 い とも易 々 と解 釈 上 の循 環 論 に 陥 る 。更 に これ に 少 し個 人 の気 質 が加 わ れ ば 、 「古 に 既 に あ った 」 漢 学 と宋 学 との争 い へ と変 わ って しま う。r荊 漢 微 言 』 で 、 章 炳 麟 は学 者 が研 究 をす る場 合 の 心 得 と して 、 「各 々 志 に従 う」 べ き で 、 「四 民 がそ れ ぞ れ の仕 事 に 励 む 」 よ うにす るこ とこ そ肝 要 で あ り、 「漢 学 と宋 学 と が争 い 確 執 す る時 に 、 ど う して 調 人(周 代 、 人 民 の争 う事 を 調 停 し た と言 わ れ る官職)の 手 を煩 わ す 必 要 が あ るだ ろ うか」(4)と述 べ て い る が、 「漢 学 と 宋 学 と を公 平 に扱 う」 と い う言 い 方 は も と よ り卓 見 で は あ る が 、 実 行 す る こ とは 難 しい;と い うの は 、 人 は具 体 的 な歴 史 状 況 に 置 く と、 人 そ れ ぞ れ に 特 定 の 「憂 慮 」 を発 す か らだ 。 章 炳 麟 は 、 「疎 通 して 遠 き を知 ろ う とす れ ば 、好 ん で 玄 談 を行 う」 か 、 ま た 「文 理 を詳 らか に考 察 し よ う とす れ ば 、 実 事 求 是 に 傾 く」 か は 、 学 者 個 人 の 天 性 や 志 向 の 他 に 、 更 にそ の 時 代 の 弊 害 へ の 厂対 策 」 とい う意 味 も含 ま れ て い る と、 主 張 した の で あ る 。 興 味 深 い こ とに 、 晩 年 この 論争 の こ と を再 び 取 り上 げ た 章 炳 麟 は 自分 の 当初 の 立 場 を ま る っ き り忘 れ て し ま っ た の で あ る 。

昔 、 胡適 が 章 士 釧 と 「墨 経 」 の解 釈 を め ぐっ て 論 争 した こ とが あ っ た が、未 だ に 決着 がつ いて い な い 。私 はそ の時 胡適 に次 の よ うに諭 した 。 「先 人 は 諸 子 学 研 究 は 多 くの 場 合 、経 学 研 究 を して か ら行 っ た の で あ る。 思 うに 訓 詁 と事 実 に よ っ て 証 明 しよ う と し た の で あ っ て 、抽 象 的 な 言葉 で 憶 測 す る事 を 望 ま な か っ た の で あ る。 と こ ろ が 、 今 日の 人 は文 字 、音 義 で 多 く まだ わ か って い な い の に 、 諸 子 学 研 究 で名 を 挙 げ る こ と を望 む だ け で 、 そ の 多 くは 確 固 た る も の で は な か ろ う」。⑤

諸子 学 研 究 に は 、 訓 詁 、義 理 一 方 に偏 る こ とな く共 に 重 視 す べ き で あ る こ とが わ か る 。 こ の 見 解 は実 に 常 識 的 で あ る こ とか ら、 章 炳 麟 が 経 学 研 究 と諸子 学研 究 の 方 法 を 区別 した こ とに 後 の 人 がそ れ ほ ど意 に介 さな い の も 無 理 か らぬ こ とで あ る。 しか し、 私 の 見 る と こ ろ 、 章 炳 麟 の こ の 説 は 、彼

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経 学 と諸 子 学 の方 法 をめ ぐる章 炳 麟 と胡 適 の論 争 に つ い て(上)陳

自身 の 学 術 に対 す る 姿勢 を体 現 して お り、 彼 の 中 国 学 術 史 全 体 に 対 す る考 え 方 と五 四 文化 運 動 以 後 の学 術 の方 向性 へ の 批判 を も含 ん で い るの であ り、

な お ざ りにす るこ と は で き な い の で あ る。

実 は章 氏 が 論争 し た 点 は 、 義 理 と訓 詁 の どち らが 先 で どち らが 後 か 、 ど ち らが重 要 で どち らが重 要 でな い か に あ るの で は な く、 経 学 研 究 と諸 子 学 研 究 とは校 勘 訓 詁 とい う 「学 問 の最 初 の入 口」 を通 り過 ぎ た 後 に 、 必 ず 重 視 す る とこ ろ が 各 々 異 な る とい うこ とに あ る。 章 炳 麟 の 見 る とこ ろ 、経 学 研 究 とは 、 そ の働 き は文 学 の 異 同 を 調 べ 、 歴 史 の 真 相 を 明 らか に す る こ と に あ り、つ ま り 「客 観 の 学 」 で あ り、実 事 求是 を重 ん じ、 「比 較 し本 来 の姿

を知 る こ とで 前進 を求 め る も の で あ る」;こ れ に対 して 、 諸 子 学研 究 と は、

そ の 要 諦 は 義理 を求 め 、 人 生 の奥 深 く知 りが た い 点 を述 べ る こ とに あ り、

つ ま り 「主 観 の 学 」 で あ り自 らの主 張 を堅 固 にす るこ と を重 ん じ、 「直観 で 自得 す る こ とに よ っ て 前進 を 求 め る 」 も の で あ る。(6}章氏 が 王 念 孫 、 兪櫨 諸 先 生 に不 満 だ った の は 、 彼 らが経 学研 究 の 方 法 で 諸 子 研 究 を し、 また 先 秦 諸 子 を史 学 と見 做 し哲 学 と して研 究 しな か っ た か らで あ る 。 王 、 兪両 先 生 の や り方 は ち ょ う ど最 近 の人 が 「墨辯 」 につ い て 論 争 す る の に 、 言 葉 の 意 味 の 辨 別 考 証 に 終 始 して 哲 理 の 探 求 に は 及 ば な い の にそ っ く りな の で あ る。 章 氏 は 経 学 と諸 子 学 の 違 い が た だ 目録 学 上 に存 在 す る だ け で は な く 、 学 術 史 上 に 庵大 きな 違 い が あ る こ と を強 調 し、更 に 経 学 研 究 、 諸 子 学 研 究 そ れ ぞれ 学 術 上 の 方 向 性 に 違 い の あ る こ とを 際 立 て させ た が 、 これ は 章 炳 麟 の 一 貫 した 思 考 方 法 で あ っ た 。 前 年(1922年)章 氏 は 江 蘇 省 教 育 会 の 招 き に応 じ上 海 で 国 学 につ い て 講 演 し、 そ の 中 で 、彼 は哲 学 研 究 は 「直 観 に よ って 自得 」 しな け れ ば な らず 、 清 人 の よ うに 厂文 字 の 校 勘 訓 詰 の み か ら 意 味 を 求 め る」(7}べき で は な い こ と を強 調 した 。 こ れ は本 来 新 派 の 学 者 へ の 当て 擦 りの意 味合 い が あ っ た;こ の 論争 の 時 は 、 墨 学 を論 ず る に事 寄 せ て 、

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F可 イ1多 三

胡 適 が 清 代 学 術 を実 際 以 上 に 褒iめそ や す こ と に対 して 、 彼 は真 正 面 か ら不 満 を 表 明 した の で あ った 。

ア メ リカ に 留 学 した 時 、 中 国 の 考 証 学 、 西 洋 の版 本 学(テ キ ス トク リテ シ ズ ム)と デ ュー イ の プ ラ グマ テ ィ ズ ム を接 ぎ木 して 一 つ の 学 問 方 法 を作 りだ して 以 来 、〔8)胡適 は清 代 学 術 に か な り共 鳴 して い た 。 北 京 大 学 に 招 聘 さ れ た の は、 一編 の 考 証 の 論 文 の お 陰 で あ り、『中国 哲 学 史 大 綱 』 の 出版 後 に は 、更 に 「西 洋 の 学 問 と と もに 漢 学 を も理 解 で き る」 と称 賛 を浴 び た(9}ため に 、 胡 適 は 自分 の 考 証 能 力 に 自信 過 剰 とな り、 た て つ づ け に 清 代 学 術 に つ い て 論 文 を著 した 。1919年 一 年 を例 とす る と、先 ず 、r中 国 哲 学 史 大 綱 』 の

「導 言 」 で は、 清 代 学 術 を ヨ ー ロ ッパ の文 芸 復 興 に 比 し、 つ い で 「論 国 故 学 」 では 、 清 代 の学 者 の 考証 を 「科 学 的方 法 に 暗 合 す る」 と 賛 美 し、 「清 代 学 者 的 治 学 方 法 」 で は 、 漢 学 者 は 「仮 説 を立 て る能 力 を 有 し、 ま た到 る と こ ろ で証 拠 を 求 め 、仮 説 の 是 非 を 実 証 す る能 力 を有 した 」 の で 、 そ の研 究 に は 「科学 的価 値 」 が あ る とま で 強 調 した 。 こ うよ うに して 、 「証 拠 に 基 づ か ね ば な らな い 」 とい うス ロー ガ ンが 一 世 を風 靡 し、 「科 学 的 方 法 」 は 一 転 して 「考 証 学 」 と同 義 語 とな り、 更 に 転 じて 「清 代 の 学 者 の 家 法 」 と同 義 語 とな った の で あ る 。 こ れ らの 欺 瞞 的 議 論 に 直面 しな が ら、 梁 啓 超 に清 代 学 術 のた め に 「大 い に気 をは い た 」 と され た余 杭 の章 炳 麟1①は遂 に 公 開 の 場 で これ に反 駁 す る こ とは しな か っ た の で あ る 。そ の重 要 な原 因 の 一 つ は 、 胡 適 が清 代 学 術 の方 法 を 奨励 した 時 に 、 た だ 一人 褒 め た 当代 の 学 者 が他 な らぬ こ の 章 炳 麟 先 生 で あ っ た か らで あ る。 章 先 生 は 当然 情 に逆 らえ な か っ た の で あ る。 彼 は 『中 国哲 学 史 大 綱 』 を読 ん で手 紙 を出 し 、 か な り手 厳 し い 批 判 を した に もか か わ らず 、 そ れ を世 間 の 例 に従 っ て 公 開 の場 で 発 表 し な か っ た の で あ る。 も し北 京 の 社 会 科 学 院 に 現 在 所 蔵 され て い る 「胡 適 文 書 」⑪が徐 々 に 公 開 さ れ な け れ ば 、 読 者 は 胡 適 が五 十 年 代 に 『中 国 暫 学 史 大 綱 』 の 「荘 子 時代 の 生 物 進 化 論 」 とい う章 を 「若 気 の 至 り」 で あ る と前 非 を悔 い て 告 白 した こ と が 、正 に 四 十 年 前 の 章 炳 麟 の 批 判 を受 け入 れ た もの で あ る こ とを想 像 だ に で き な か った は ず で あ る。{11}

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経 学 と諸 子 学 の方 法 をめ ぐ る章 炳 麟 と胡 適 の論 争 に つ い て(上)陳

胡 適 が 中 国哲 学 史 を研 究 す る に 当 た っ て は 、 章 炳 麟 に多 大 な 影 響 を受 け た の で あ る。 『中 国哲 学史 大 綱』 は初 版 が 出版 され て忽 ち二 ヵ月 で 重版 に な っ た 。 胡 適 は 興 奮 の余 り、 この 書 物 を著 す の に 世 話 に な っ た 師 友 に 謝 意 を表

した 。

私 が この 書 物 を 著 す の に 当 た り、 過 去 の 学 者 で最 も感 謝 した の は 、王 念 孫 ・ 王 引之 、 兪越 、 孫 詒 譲 の 四 人 で あ る・ 最 近 の人 で は 章 炳 麟 先 隼 に 最 も感 謝 し た 。 北 京 大 学 の 同僚 で は 、 銭 玄 同 、 朱 希 祖 の 両 先 生 か らこ の 本 を 著:すに 当 た っ て 多 大 の 援 助 を賜 っ た 譖

王 父 子 が 胡 適 を助 け た の は 主 に校 勘 と訓 詁 で あ る;そ れ 以 下 の 四人 は全 て 章 炳 麟 と密 接 な 関係 が あ る。彼 の 師 匠 で な けれ ば 、彼 の学 生 で あ る 。銭 、 朱 は諸 子 学 を研 究 しな か った 。 兪 、 孫 は 諸 子 学 に よ っ て知 られ て い る が 、 ま だ 校 勘 、訓 詁 を主 と して い た 。 胡適 が 、既 に清 代 の学 者 は 「多 くの場 合 、 通 貫 の努 力 を し よ うとは しな か っ た が」 「章 炳 麟 に な って や っ と、 校 勘 、 訓 詁 だ け で はな い 、 筋道 の通 っ た 、 系 統 的 な 諸 子 学 が別 に 出現 した 」(13}と認 め た 以 上 、『中国 哲 学 史 大 綱 』 で 中 国人 の 著述 を引用 し、哲 理 に 言及 した の は わず か に 章 炳 麟 た だ ひ と りだ け で あ った と して も無 理 か らぬ こ とで あ る 。

こ の よ うな 引用 が 大 変 少 な い こ とは 、 胡 適 が 当時 、 旧 学 の 書 物 につ い て 広 範 囲 に 読 書 して い な い こ とを具 体 的 に 表 し、 ま た 当 時 の 諸 子 学 研 究 の現 状 が どの 程 度 の も の か を大 体 に お い て 反 映 して もい る 。

清 末 の 諸 子 学 興 隆 こそ は 中 国学 術 史 上 の 一 大 転 機 で あ り、 この 点 につ い て は徐 々 に 研 究 者 に 重 視 され て き た 。(14)かつ て 、 梁 啓 超 は 清 代 の 学 者 が 諸子 学 を研 究 した 理 由 を次 の よ うに述 べ て い る。 す な わ ち 、 最初 は 尚古 の立 場 か ら、諸 子 を用 い て 経 書 を校勘 し よ うと したか らで あ り、そ の後 、 「文 学 を 校 勘 しよ うとす れ ば 意 味 を必 ず 探 求 しな け れ ばな らな い 。 そ の 意 味 を探 求 し よ う とす れ ば 、 新 しい 理 解 が生 ま れ る」⑮と。 こ の 説 は だ い た い 信 頼 で き る。 学 者 が主 流 の イ デ オ ロギ ー に 挑 戦 しよ うと し た とい う立 場 か ら諸 子 を

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川 修

研 究 対 象 に 選 ん だ とい うこ とも 排 除 で き な い 。 汪 中 こそ は そ の 一つ の 好 例 で あ る。 梁 啓 超 は 、 墨 学 は 既 に 二千 年 の 間廃 れ た が 、 清 代 の 中 葉 、 考 証 学 の 登 場 とと も に復 興 され 、 「汪 中は 最 初 に この 学 を研 究 した 」 と言 った;侯 外 廬 は清 代初 頭 の 墨 学 は既 に徐 々 に学 者 の 注 目を集 め 、 「顧 炎 武 、 傅 山 はい ず れ も墨 学 を尊 崇 し た嫌 い が あ る し、顔 元 は 表 面 で は 六 経 を 、実 際 に は 墨 学 を尊:崇した 」qのと述 べ た 。 両 者(梁 啓 超 、侯 外 廬)の うち 、 前 者 は 学 術 の 発 展 を描 写 し、 後 者 は学 術 の伏 流 に着 眼 し、 互 い に補 い あ うこ とが で き る。

少 な く と も汪 中 か らは 、苟 子 、 墨 子 を研 究 す る 目的 が 、 た だ 経 書 校 勘 の た め の 補 助 的 道 具 だ け で は な くな った の で あ る 。彼 の 「苟 卿 子 通 論 」 と 「墨 子 序 」 とは 以 上 の理 由 か らこ そ 梁 啓 超 、侯 外 廬 に 二 千 年 来 の 「思 想 の 質 的 変 化 の 枢 機 」 と評 価 され た の で は な い か 。 つ ま り純 粋 な 考 証 学 の 著 作 で も 価 値 判 断 を含 ん でい るの で あ る。 兪越 が 「経 学 研 究 の 傍 らに 諸 子 研 究 を し た 」 の は 、 も とよ り 「前 漢 の経 学 者 の 諸 論 は貴 重 で あ るか ら、 ま して 諸子

はそ れ よ り古 い もの で あ る か ら貴重 で あ る」 とい う発 想 に基 づ くた め で あ り、 同 時 に 「周 秦 両 漢 の 諸 子 の 書 物 もま た そ れ ぞ れ 独 自の価 値 が あ る」(1のと 判 断 したか らで も あ る。 諸 子 の 義理 の 上 で の 価 値 に気 づ い た とい って も 、 そ の価 値 を 直 ち に 掘 り起す こ とが で き るこ と と 同 じで は な い 。 清 代 の 学 者 は 研 究 に お い て普 遍 的 に 実 証 を重 ん じ、 玄 談(形 而 上 的 議 論)を 軽 ん じる か ら、 経 書 と諸子 を対 等 に 見 る と言 って も、 諸 子 を 「専 門 の 学 」 と して 研 究 した の で 、義 理 の 上 で 奥 深 い 道 理 を探 り微 か に しか 見 え な い 優 れ た と こ ろ を明 らか にす るこ とが で き た と は思 え な い の で あ る 。 清 代 の 学 者 が 諸 子 を復 興 して 、最 も 力 を入 れ 最 も成 果 を上 げ た もの と し て は 荀 子 と墨 子 を挙 げ ね ば な らな い ρ 老 子 、 荘子 に つ い て は 「学 者 の 好 む とこ ろ で はな い た め に 、優 れ た 研 究 は 出 な か った 」 胡 適 と梁 啓 超 は 、 と もに 章 炳 麟 のr斉 物 論 釈 』 が奇 想 天 外 で あ る理 由 を、 章 氏 が仏 教 学 と 「純 粋 哲 学 」 に 精 通 した の で 思 弁 に優 れ て い た こ と と関係 が あ る と強 調 して い る 。{18)

章 炳 麟 の 諸 子 研 究 で 、 最 も世 の 人 か ら称 賛 され た の は 墨 学 と荘 学(荘 子 の 学)と す べ き で あ る。⑬前 者 は 梁 啓 超 、 胡 適 が どち らも 賛 嘆 して 止 む こ と

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経 学 と諸 子 学 の方 法 をめ ぐる章 炳 麟 と胡 適 の 論 争 につ い て(上)陳

が な か った が 、後 者 は 梁 氏 が必 ず し も 『荘 子 』 の 本 意 に 沿 って い な い と不 満 を も らし 、胡 適 は初 め こ け お ど し を して 、そ の 後 は 口 を閉 ざ して これ を 二 度 と話 題 にす る こ と を し な か った 。α田『中 国哲 学 史 大 綱 』 の 中 で荘 子 を論 じた第 九 編 が 最 も精 彩 を欠 い てい る。 これ は胡 適 が受 け た哲 学 の訓 練 が この よ うな 「東 洋 の 神 秘 主 義 」 に対 して 無 力 で あ る こ と と関 係 があ る し、彼 の 過 度 に 「明 晰 な理 解 」 を追 求 した 学 術 思 考 の指 向 性 と も関 係 が あ る 。 こ の 一 章 は あ らか じめ 「荘 子 哲 学 浅 釈 」 とい う題 でr東 方 雑 誌 』 に掲 載 され、 そ の小 序 に 、 胡 適 が 『荘 子 』 の 内容 を少 しも理 解 して い な い こ とが更 に 一 層 現 れ て い る:

先 人 は た だ 荘子 の 哲 学 を大 変神 秘 玄 妙 な もの と の み 考 え る も の だ か ら、

荘 子 を理解 で き な か った の で あ る。 私 の 考 え で は 、 荘 子 の 学 説 はそ の 実 全 く どの よ うな神 秘 玄 妙 な とこ ろ もな い 。 だ か ら、 私 の 荘 子 を論 じた 文 を 「浅 釈 」 と 呼 ぶ の は、 た だ 平 易 な 言 葉 で荘 子 の 哲 学 を論 じよ う とす る か らだ け で な く、 人 々 に荘 子 の 哲 学 が浅 薄 な あ りふ れ た 道 理 で あ る こ と

を知 ら し め よ う とす るた め で もあ る。⑳

この よ うな 調 子 で 胡 適 が荘 子 を 説 くの に、 章 炳 麟 が か りそ め に も 同調 で きるはず がな か った の で あ る。1908年 、 章炳 麟 は 東 京 の 民 報 社 で 許 寿 裳 、 朱 希祖 、銭 玄同 、周 兄 弟(魯 迅 と周作 人)ら のた めに 講 義 を した 。そ の 際 、 『説 分 解 字 』、 『爾 雅 』 の他 に 『荘 子 』 と 『楚 辞 』 も講 義 し た 。⑳荘 子 を講 義 した もの は整 理 され て 『荘 子 解 詁 』 とな り、 次 の年 『国粋 学 報 』 に 連 載 され 、 そ の 巻 頭 の 題 記 に:

か つ て 、 か の 諸子 九 流 は 大 い に 盛 ん で 、各 流 派 に は 哲 人 が現 れ た が 、 か の荘 子 に勝 る者 は な い 。 「遣 遙 遊 」 篇 は 万物 が各 々あ るべ き とこ ろに 赴 くの に任 す べ き こ と を説 き 、 「斉 物 論 」 篇 は宇 宙 原 理 を余す とこ ろな く説 い て 、 『荘 子 』 の 立 場 か ら見 れ ば 、か の孔 子 、墨 子 な ど もあ た か も塵 芥 で

一 ユ37一

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F可 イ1多 三

あ る。 ま た 、 ま して 陸象 山や 王 陽 明 な どの 輩 が理 に よ って 万 物 を 主 宰 さ せ た こ とな ど、 問 題 に もな らな い こ とは 言 うま で も な い 。⑳

章 氏 は 諸 子 百 家 の 中 で た だ 荘 子 だ け を 推 賞 した が 、 こ の よ うな考 え 方 は 後 に 幾分 修 正 され た 点 も あ る。 た とえ ばr荊 漢微 言 』 で 、 「文 王 、 孔 子 、 老 子 、 荘 子 」 を 「中 国 の 四 聖 人 」 と して 、 かつ 「大 乗 菩 薩 」 と同 等 に扱 って い る。 しか し、 ま た 『蒟漢 微 言 』 で 、仏 教 家 は 「出 世 間 の 法 が多 く、 内典 (仏典)に 詳 し く」 孔 子 、老 子 は 「世 間 の 法 が 多 く 、外 王 の 道(外 に 王 者 の 明敏 さ を行 う道)に 詳 しい 」。 両者 を兼 ね た 者 は た だ荘 子 しか い な い と も 言 って い る。㈱.『斉 物 論 』 とい う 厂内外 の 至宝 」 を章 炳 麟 は 終 生 愛 好 し、 そ れ につ い て 様 々 な研 究 を重 ね た 。 そ の 『斉 物 論 釈 』 は 「一 字 は千 金 に値 し」

「千 六 百年 もの 長 き 間、 これ に 匹 敵 す る物 は な い 」伽)と自画 自賛 した 。胡 適 が とて も 敵 うわ け が な い の で あ る。 だ か ら章 炳 麟 は 返 書 して 『中 国哲 学 史 大 綱 』 を批 判 す る の に 、 専 ら荘 子 の 不備 を突 い た の で あ る。

学 者 は研 究 す る に 当 た って 、そ れ ぞ れ 方 針 が あ る。 胡 適 は 諸 子 の 厂名 学 (弁論 学)の 方 法 」 を 中心 に論 述 を展 開 した た め 、 色 々切 り捨 て ざ る を得 な い 所 が あ った 。 梁 啓 超 は 『中 国哲 学史 大 綱 』 を批 評 して 、 「知 識 論 の方 面 は 到 る とこ ろ意 表 を突 く卓 論 が あ るが;お し な べ て 宇 宙 観 、 人 生 観 の 方 面 は 十 中八 九浅 薄 か 誤 りの 論 で あ る」㈱この 批 評 は過 酷す ぎ な い で あ ろ う。 残 念 な こ とに 、 胡適 は こ の こ とにつ い て 必 要 な 自省 が 乏 し く、過 分 に 蔡 元 培 が 序 文 で称 賛 した 「漢 学 の 家 法 」 に 陶 酔 した 。 こ の 後 、 人 に 学 問 研 究 を教 え る場 合 、 「大 胆 に仮 設 す る」 か ら 「注意 深 く証 拠 を求 め る」 へ段 々 と変 わ っ て い った 。㈱章 炳 麟 が 胡 適 の 経 学 の研 究方 法 で 諸 子 を研 究 す る こ と を批 判 し た の は 、 「墨 弁 」 の 一 字 に つ い て の 論 争 に 限 られ ず 、 胡 適 の研 究 思 想 の方 向 性 に 対 す る総 括 で あ っ た 。 胡 適 は 王念 孫 、 王 引之 父 子 や 兪褪 、 孫 詒 譲 が経

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経 学 と諸 子 学 の 方 法 をめ ぐる章 炳 麟 と胡 適 の論 争 につ い て(上)陳

書 と諸 子 を 同 じ方 法 で 研 究 した こ と を例 に挙 げ 自 己弁 護 に 努 めた が 、 こ の こ とは 正 し く清 代 の 学 者 の研 究 方 法 の 限界 に対 して 彼 が殆 ど無 知 で あ るこ と を証 明 した 。胡 適 は初 め に 諸 子 学 の 清代 に お け る発 展 を 論 じ、主 に 、 「付 属 の 国 々 が盛 ん とな って 大 国 に な る」 の と同 じ こ とだ と言 い 、継 い で体 例 の 「ば らば らで と り とめ が な く、 く ど く ど しい 」 か ら 「あ らゆ る所 か ら勘 案 し全 体 を理 解 す る」 へ 変 化 した と説 明 してみ せ た が 、 清 代 の諸 子 学 の 内 在 的 思 想 の方 向性 に つ い て は ほ とん ど言 及 す る こ と が な か っ た 。や が て 彼 は 清 代 の 学 者 の研 究 の 厳 密 さに 敬 服 す る と、 至 る所 で 銭 大 听 の 古代 音 韻 の 研 究 や 王 念 孫 の虚 字 研 究 を吹聴 して 、益 々清 代 学 術 の 得 失 を細 か く辨 別 す

る暇 がな い ほ どで あ っ た 。

章 炳 麟 は清 代 学術 の殿 将 た る 兪越 、孫 詒 譲 の 高 弟 で あ った か らこ そ 、 清 代 の 学 者 の研 究 の 得 失 を胡適 が遠 く及 ぼ な い 程 切 実 に体 得 して い た 。 所 謂

「経 師 の 六 法 」 は 学 問 の 奥 深 い 所 に入 っ た者 で な け れ ば とて も 言 え る もの で は な い の で あ る;

名 実 を細 か く見 極 め るの がそ の 一 で あ る。 証 拠 を重 ん じ るの が そ の 二 で あ る 。妄 りに こ じつ け る こ とを戒 め るの が そ の 三 で あ る 。 凡例 を守 る の がそ の 四 で あ る 。 情 感 を断 つ こ とが そ の 五 で あ る。 派 手 で無 意 味 な 言 葉 を 除 くの が そ の 六 で あ る。 こ の 六者 が備 わ らな い で 、経 学 者 に な れ た 者 は天 下 に は い な い 。㈱

そ れ に 続 い て 、章 炳 麟 は 当代 の経 学 者 を 品評 して 、 「訓 詁 に精 通 し筋 道 が た って お り、 事 実 を広 く調 べ て 乱れ ず 、 物 事 の 文 や 筋 道 を詳 密 に 洞 察 し、

先 人 に未 だ 明 らか に され て い な い所 を明 らか に し、 意 味 を 一 つ 定 め る ご と に 、 泰 山 の よ うに不 動 で あ る」 兪、 孫 二 人 の 師 を第 一 流 と した 。 そ こ で 、 胡 逼 は 多 分 章 氏 の こ の よ うに尊 崇 して い た 兪褪 、孫 詒 譲 の 両 人 を例 に 挙 げ るこ とで相 手 の反 駁 を封 じよ う と思 って いた ので あ ろ う。 兪 、孫 さえ も 「や っ と学 問 の初 歩 の 段 階 に い る だ け で あ る」 と斥 け られ る とは 、彼 は 思 い もつ

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川 修

か な か った の で あ る。 章 氏 の こ の発 言 は決 して論 戦 の た め に 故 意 に 厂鬼 面 、 人 を驚 かす 」 とい う類 の もの で は 決 して ない 。 これ は 章 炳 麟 の学 術 思 想 と 彼 の 清 代 学 術 に対 す る全 体 的 評 価 に係 わ っ て い る。 す な わ ち 、章 は 兪 、 孫 両 経 学 者 を 評 定す る と とも に 、 更 に顔 元 、 戴 震 らの 大 学 者 につ い て も論 文 を著 し紹介 を した㈱の で あ る。章 炳 麟 の 心 中で は 、 兪、 孫 な どの類 の 経 学 者 で さ え も学 問 の 究極 の 境 地 に 到 達 した 者 で は な か っ た の で あ る 。

九 流 の儒 と経 師 の儒 を区別 す る こ と⑭こ そ が 章氏 が 中国 学 術 史 を理 解 す る 特 殊 な 視 角 で あ っ た 。 章 炳 麟 が 経 師 と儒 者 を そ れ ぞ れ どの よ うに毀 誉褒 貶 した か は時 勢 に従 っ て か な り変化 して い った 。 こ こ で は た だ 彼 の清 代 学 術 及 び 戴 震 に 対 す る評 価 を簡 略 に述 べ る こ とが で き るだ け で あ る。 と言 うの は 、 この 評 価 は胡 適 の 学 問 と密 接 に 関 係 が あ る か らで あ る。

章 炳 麟 は 彼 の 著 作 の 中 で 、清 代 の 学 者 に言 及 した も の が 甚 だ 多 い が 、 そ の 中 に は道 徳 的 判 断 に 基 づ き 、彼 が 提 唱 した 「民族 の 大 義 」 に 呼 応 し、 毀 誉 褒 貶 が 時 に偏 頗 を免 れ な か っ た もの も少 な くな い(た とえ ば 、 黄 宗 羲 を 始 め尊 び 後 に 貶 め 、襲 自珍 、魏 源 を全 面 的 に否 定 す る な どが そ れ で あ る)。⑮ しか し、 章 氏 の 全 体 の判 断 を 見 る と、彼 の 立 場 は 大体 終 始 一 貫 して い る。

最 も 章 炳 麟 の 清 代 学 術 に 対 す る考 え方 を代 表 す る著 作 に は 、 前 期 に 「清 儒 」、後 期 に 「漢 学 論 」 が あ る。 前 者 は 今 文 経 学 を誹 り、後 者 は 疑 古 派 史 学 を罵 倒 し、 か な り事 に よせ て 自分 の意 見 を述 べ る嫌 い は あ るが 、 しか しま た い ず れ も彼 の 学 術 的 立 場 と通 じて お り、 基 本 的 立 論 を損 な うもの で は な い 。1904年 に初 見 の 『尨 書 』 重 版 本 に収 録 され た 「清 儒 」 に は 、 清 代 文 化 を総 括 した 一 段 の 結 語 があ り、後 世 の少 な か ら ざる学 者 に 引用 され て い る。

清 代 に は 、理 学 の 言 論 は そ の 生 命 を 終 え 余 華 も はや な くな った;忌 む べ き こ と が多 く、た めに.詩歌、文史 はがん じが らめに締 めつ け られ、愚 民 政 策 の 故 に経 世 先 王 の 志 は 萎 えた(こ の 三 者 は い ず れ も人 為 的 な もの で あ るが 、 しか しそ れ は宋 、 明 よ りは る か に過 酷 で あ る)も し家 に 知 恵 あ る者 が い れ ば大 挙 して 経 学 へ 向 か い 、 そ れ に よ っ て 死 の 恐 怖 を和 らげ

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経 学 と諸 子 学 の 方 法 を め ぐる 章 炳 麟 と胡 適 の 論 争 に つ い て(上)陳

た が 、 そ の 経 術 は た だ巧 み に 近 づ くだ け な の で あ る。

清 代 の学 者 の 学 問 を具 体 的 に 見て い く と、 今 文 経 学 を 除い て 、 大 体 の 特 徴 は 「経 術 に よ って 興 亡 の歴 史 を 明 らか に しな い の で 、 議 論 に は 不 向 き で あ り;陰 陽 に よ って 人 事 を断 じな い の で 、真 理 を探 求 す るの に 優 れ て い る」

点 に あ る 。 経 学 者 の 学 問 に つ い て 言 え ば 、 清 代 の 学 者 の 成 果 は他 に 卓 越 し 明 らか で あ り、 天 空 の 太 陽 の 如 く で あ る 。 亡 くな る 一 年 前 に 「漢学 論 」 を 発 表 した が 、 章 氏 は な お この 説 を堅 持 して い た 。

清 代 、漢 学 を宗 とす る者 は 、訓 詰 を 明 らか に し 、 制 度 の優 劣 を見極 め 、 三 礼 を秩 序 立 て て 、 た く さ ん あ る経 文 は 曲 が りな りに も理 解 す る こ と が で き る よ うに な った 。そ の 功 績 は も とよ り少 な く な か った の で あ る。

しか し、 こ の よ うな 賛 美 の 言 葉 はい ず れ も 経 世 と 言 理 へ の 可 能 性 を排 除 した 後 に な っ て始 めて 述 べ られ た もの で あ る。 章 氏 は 清 代 の 読 書人 の境 遇 が 困難 で あ っ た こ と を理 解 して い た の で 、魏 源 の 戴 震 らに 対 す る 「漢 学 派 と 学 問 を争 う」 た め の 攻 撃⑳に 決 して 同 意 しな か っ た 。 しか しこの こ とは 章炳 麟 が 清 代 の学 者 の学 問 の筋 道 や 方 法 を全 面 的 に 認 め る こ とを意 味 しな い 。 東 京 で講 義 を した 時 、 章 炳 麟 はか つ て 「清儒 」 の 中 で は 、 は っ き りとは 表 せ な か っ た:潜台 詞(劇 でせ りふ に潜 ん で い る言 外 の 意 味)を 、 き っぱ り

と披 瀝 し た:厂 結 局 、清 代 の 学 説 は充 分 に発 達 した の で あ ろ うが 、 た だ 哲 理 を重 視 しな か っ た た め に 一 方 に偏 っ た の で あ ろ う」(3①魏 晋 の 玄学 を 日に 日 に 深 く悟 る に従 って 、章 氏 は 晋 代 の学 者 の 経 学 は 「附 会 空 疎 」 で あ る とい

う 旧説31)をさ っ と改 め 、 「漢 学 論 」 で 次 の よ うに 強調 し た:

経 文 に は 古 文今 文 の違 い が あ る が 、 経 学 に は 漢 、 晋 の違 い な どな い 。 清 代 の経 学 研 究 が 大 成 しな か っ た の は 、 そ の 信 奉 して い た 漢 学 とい う名 に 引 き ず られ て 、魏 晋 の 学 問 を蔑 視 し、同列 に 扱 わ な か った か らで あ る92)

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川 修

章 氏 は魏 晋 の 経 学 を尊重 した が 、そ の 中 に は党 派 意 識 が潜 ん で い た 。 た と えば、彼 が今文経 学 の牽 強付会 を捨て てか ら 「引きず られ るもの はな くな り」;

「段 々 と古 文経 学 を尊重 し信 じるに足 る もの であ る こ とが わ か った 」 「故 に精 密 さで は 漢代 の学 者 に及 ば ない けれ ど、そ の 根 幹 を論 ず る点 で は漢 学 よ りも 優 れ て い るの で あ る」{33)と言 って い る。 しか し、重 要 な 点 は 、章 炳 麟 が、魏 晋 の 学 者 が儒 術 だ け を尊 ぶ態 度 を改 め 、広 く様 々 な 学 説 を採 用 し、主 体 的 に新 しい 解 釈 を打 ち立て 、 諸子 をも研 究 し、 仏典 を も研 究 し、 「深 思 自得 」 した こ とに注 目した こ とで あ る。 そ の結 果 、 「真 に哲 学 に よ ってそ の名 を轟 かせ た の は、魏 よ り始 ま ったの であ る」(謎)これ らの、老 荘 を好 み 、清談 を得意 と し、 「往 々 に仏 典 に強 い 影響 を受 け た」 玄 言 の 士 は経 学 に は 向 か な い が 、 諸子 学 には 向 いて お り、 た とえ ば 、郭 象 の 『荘 子 注』、張 湛 の 『列 子 注』 な どは、 いず れ も 哲理 を 明 らか に で き た の で あ る。

清 代 の 学 者 は 、魏 晋 の 玄 言 の価 値 が分 か らず 、 ひ た す ら賈逵 、 馬 融 に追 随 して 、 賈 、 馬 が経 学 に は 向 く が、 「諸子 学 に は向 か ず 」 更 に 「玄理 」 を研 究 す るに は 向か な い とい うこ とが 全 く分 か って い な い の で あ る。 清 代 の学 者 に も仏 典 を読 み 諸 子 を研 究 す る者 は い る が 、 しか し玄 理 に 到 達 す る こ と

が で き ず 、 遂 に 大 成 す る こ とが 困 難 で あ った の で あ る。 章 炳 麟 は 自 ら言 う が ご と く、 中年 以 降仏 教 の 法相 宗 に 親 しみ 、兼 ね て 魏 晋 の 玄 理 を述 べ た 文 献 を学 ん で 、 や っ と清 代 の学 術 の この よ うな 致 命 的 弱 点 が分 か った の で あ

る 。

私 は 思 うの だ が 、 この 百 年 来 、 学 者 諸 公 は経 学 、 吏 学 以外 は学 問 で は な い と考 え、 彼 らは 諸 子 、仏 典 は た だ 雅 馴 な る もの だ け を採 り、 そ の逸 事 を 拾 い 上 げ、 名 理 は 深 く 忌 み 嫌 った 。 普 段 は広 範 に 書 物 を読 み 、些 細 な本 の雑 駁 な 出 来 事 に は興 味 を示 して 読 む が 、魏 晋 の 玄 言 は 読 も う と し な い 。 そ の 文 が こ の 程 度 な の だ か ら、 そ の学 術 も しれ た もの で あ る.(3 

経 学 者 が 学 問 をす る場 合 は 、 た だ 音 韻 、訓 詁 、名 物 、制 度 だ け を研 究 す

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経 学 と諸 子 学 の方 法 をめ ぐる章 炳 麟 と胡 適 の論 争 に つ い て(上)陳

るだ け で あ るか ら、 そ の類 の 研 究 を して さ えい れ ば さ した る障 害 は 起 こ ら な い の で あ る が、 しか し一旦 「多 くは 事 実 を述 べ る」 「経 」か ら 「多 く は義 理 を 明 らか にす る」 諸 子 に 研 究 対 象 を転 ず る と、清 代 の学 者 の 「空 談(抽 象 的 な 議 論)を 尊 ば な い 」 とい う傾 向 は 、 明 らか な 欠 陥 とな って し ま うの

で あ る 。1909年 、 章 炳 麟 は 『国粋 学 報 』 に書 簡 を送 り、彼 が な ぜ 東 京 で の 講 義 で音 韻 と諸 子 を選 ん だ か を 説 明 した 。

思 うに 、 学 問 は 言 語 をそ の 本 質 と して お り、 だ か ら音 韻 、 訓 詁 はそ れ を 明 らか に す る た め の 鍵 で あ る;真 理 を到 達 点 とす る の で 、 周 秦 の 諸子 こ そ は 学 問 の 深 淵 な の で あ る岬

章 炳 麟 は諸 子 を研 究 す る に あ た り、 「真 理 を探 求 す る」 態 度 で行 い 、 「名 物 を解 釈 す る」 態 度 で は 行 わ ず 、 そ の よ うなや り方 は 「漢 学 専 門 の業 」 で は な い とい うこ とにな り、 当時 の 学者 と大 い に異 な る こ とにな った 。 そ の た めに 自分 を理解 す る者 に 出会 うのが難 しい と嘆 くほ か な か ったの で あ る:「 も し魏 晋 の 賢人 た ちが 今 い た と した ら、彼 らと共 に語 る こ とが で き るの だ が」

胡適 は 実 は 章 炳 麟 の 諸 子 研 究 の 革 命 的意 義 に も注 目 して は い た の だ が 、 しか し彼 の 学 術 的興 味 は 多 くの 場 合 「首 尾 一 貫 させ る こ と」 と 「系 統 的 に 捉 え る」 こ とか ら考 え る こ とに あ った の で 、 章 氏 が 最 も会 得 してい た 「玄 言 」 と 「哲 理 」 に は あ ま り関 心 を持 た な か った 。 章 炳 麟 の 清 代 の学 者 の 旧 套 を超 越 し、 二度 と 「経 学 研 究 の方 法 で 諸 子 を研 究 しな い 」 とい う学 術 思 考 の 方 向 性 につ い て は 、胡 適 は あ ま りは っ き り理 解 して い な か っ た の で あ る;し か し この こ と に係 っ て 章 氏 が 戴 震 を顕 彰 した こ と に は 、 胡適 は 心 か ら承 服 し、 「蕭 何 の 規 則 、 制 度 を曹 参 が そ の ま ま継 承 した よ うに」、 踏 襲 し た の で あ る。

〔原 注 〕

一143一

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(1)胡 適 の 「研 究 国故 的方 法 」(『東 方 雑 誌』18巻16期 、1921年8.目)と 、 顧 頡 剛 の 『古 史 辨 』 第 一 冊 「自序 」 を参 照 。

(2)『 華 国 月 刊 』1巻4期(1923年12月)に 所 載 の 「与 章 行 厳 論 墨 学 第 二 書 」 は遺 漏 が あ る よ うな の で 、 こ こ で は 『胡 適 文 存 二集 』 に収 め られ た

「太 炎 先 生 的 第 二 書 」 を底 本 とす る。

(3)『 胡 適 文存 二 集 』 巻1第222頁(上 海:亜 東 図 書館 、1924)。

(4)『 章 氏 叢 書 』 本 『蒟漢 微 言 』 第74頁(浙 江 図 書 館 校 刊 、1919)。

(5)章 太 炎:『 蒟 漢 閑 話 』、 『制 言 』13期 、1936年3.月 。

(6)『 章 太 炎 政 論 選 集 』(北 京:中 華 書局 、1977)所 収 の 「諸 子 学 略 論 」 と、

『国 学 概 論』(香 港:学 林 書 店 、1971)の 「国学 之 進 歩 」 の 章 を参 照 。 (7)張 冥 飛 筆述 『章 太 炎 国学 講 演 集 』 第171頁(上 海:新 文 化 社 、1935年四版) (8)『 胡 適 的 自伝 』 第6章 「青 年 期 逐 漸 領 悟 的 治 学 方 法 」 を参 照 。 (9)胡 適 の 晩年 の 回 想 に拠 れ ば 、 蔡 元 培 が彼 を北 京 大 学 の教 員 に 招 聘 した

の は 、彼 の 「詩 三 百 編 言 字 解 」 を読 んだ か らだ とい う。(『胡 適 之 先 生 年 譜 長 編 初 稿 』 第294頁)。 「西洋 の学 問 と とも に 、漢 学 を も理 解 で き る」 と い う言 葉 は 、 蔡 元 培 の 『中 国 哲 学 史 大 綱 』 の 為 に 書 い た序 に 見 え る 。 (1① 梁 啓 超:『 清 代 学 術 概 論 』[『梁 啓 超 論 清 学 史 二種 』 第77頁(上 海:復

旦 大 学 出 版 社 、1985)]。

(11)白 吉庵 『胡 適 伝 』(北 京:人 民 出版 社 、 ユ993)第119頁 所 録 の 「胡 適 存 件574号 」 及 び 胡 適 「『中 国古 代 哲 学 史 』 台 北 版 自記 」(『胡 適 学 術 文 集 ・

中 国哲 学 史 』 第4〜5頁 、 北 京:中 華 書 局 、1991)を 参 照 。

⑫ .「 『中国哲学史大綱』再版 自序 」、(『胡適学術文集 ・中国哲学史』第3頁)。

⑬ 『胡 適 学 術 文 集 ・中国 哲 学 史 』 第27頁 。

(14)張 瀬 『危 機 中 的 中 国知 識 分 子 』 第1章(中 国語 訳 本 は1988年 山西 人 民 出 版 社 か ら刊 行 され た)で 、 諸 子 学 の 興 隆 を清 末 思 想 潮 流 に 影 響 を及 ぼ した 中国 三 大 資 源 の 一つ と して い る。:ま た 、王 泛 森 の 『章 太 炎 的 思 想 』

(台北:時 報 文 化 出 版 公 司 、1985)第2章 第2節 で 、 清 末 諸 学 者 の 諸 子 学 へ の 見方 を簡 潔 に述 べ て い る が 、 い ず れ も参 照 に値 す る 。

(18)

経 学 と諸 子 学 の 方 法 をめ ぐる 章 炳 麟 と胡 適 の 論 争 に つ いて(上)陳

⑮ 『清 代 学 術 概 論 』(『梁 啓 超 論 清 学 史 二 種 』 第49〜50頁)

(1④ 梁 啓 超 『中 国近 三百 年 学 術 一史』(『梁啓 超 論 清学 史 二 種 』:第359頁)と 侯 外 廬 『近 代 中 国思 想 学 説 史 』 第481頁(上 海;生 活 書店 、1947)を 参 照 。 (1の 兪褪 「『諸 子 平 議 』序 目」、[r国 学 基本 叢 書』 本 『諸子 平 議 』(上 海:商

務 印 書館)]。

(1⑳ 『胡 適 学 術 文 集 ・中 国哲 学 史 』 第27頁 と 『梁 啓 超 論 清 学 史 二種 』 第363 頁 を参 照 。

⑲ 同上 。他 に 、 胡 適 は 『中 国哲 学 史 大 綱 』 の 「導 言 」 の 中 で 、 章 太 炎 の

「「原 名 」、 「明 見 」、『斉 物 論 釈 』 の 三 編 を更 に 空 前 絶 後 の 著 作 」 と称 賛 し て い る。 前 二 編 は本 文 中 に度 々 引用 され て い る が 、 『斉 物 論 釈 』 は二 度 と 現れ な い。多 分 その 大名 に 恐 れ をな し、取 り上 げ ざる を得 な か った の だ ろ う。

⑳ 胡適:『 荘 子 哲 学 浅釈 』(『東 方 雑 誌 』15巻11、12期 、1918年11、12月 。)

⑳ 魯 迅 の 「関 于 太 炎 先 生 二 三 事 」 と許 寿 裳 のr章 炳 麟 』 に は と も にr説 文 』 と 『爾 雅 』 が 言 及 され て い る だ け で あ る。;北 京 図 書館 に現 存 す る

『朱 希 祖 日記 』 に は 『荘 子 』 と 『楚 辞』 を聴 講 した とい う記 載 が あ る。 時 を同 じ く して 講 義 を聴 い た 汪 東 は 更 に 章 氏 が仏 教 で 荘 子 を解 釈 した と い う特 色 に も 言 及 して い る 。:「 講 義 は 『説 文 』 と 『荘 子 』 を主 と し、

彼 が 『荘 子 』 を解 釈 す る の に 、 訓 詁 を 明 らか に す る外 、 玄 言 を も解 き 明 か し、 そ の場 合 、 多 くは 仏 教 と符 合 して い た 。 後 にそ の 趣 旨 を簡 潔 に纏 め て 『荘 子 解 詁 』 を著 した 。」

㈱ 『章 氏 叢 書』 本 『荘 子 解 詁 』 第1頁(浙 江 図 書 館 校 刊 、1919)。

㈱ 『章 氏 叢 書』 本r蒟 漢 微 言 」 第38頁 、26頁 。

伽 章 太 炎 「自述 学 術 次 第 」、[『太 炎 先 生 自定年 譜 』 第53頁(香 港:竜 門 書 店 、1965)]と 「与 襲 未 生 書 」(『章 太 炎 政 論 選 集 』 第702頁)を 参 照 。

㈱ 梁 啓 超:「 評 胡 適 之 『中 国哲 学 史 大 綱 』」(『時 事 新 報 ・学 灯 』1922年3 ノ月13〜14日)。

㈱ 陳平 原 「"仮説"与"証 明"一 胡 適 的文 学 史 研 究 」(『学 人』 第 五輯)を 参 照 。

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定 経 師 」(『民 報 』 第10号 、1906年12,月)

悲 先 戴 」(『民 報 』 第9号 、1906年11,月)

学 隠 」(『章 太 炎 全 集 』 第3巻161頁(上 海 人 民 出 版 社、1984)。

教 育 的 根 本 要 従 自 国 自 心 発 出 来

」[『章 太 炎 的 白 話 文 』 第56頁(台 北:

芸 文 印 書館 、1972)]。

⑳ 戴 震 の 「与某 書 」 は 、世 の 人 が 「己 の狭 い 見解 を無 理 や りに 古 聖 賢 の 立 言 の 趣 旨 だ とす る」 こ と を批判 し、 こ の源 を 「晋 代 の 人 が付 会 し空 疎 な こ と を 穿鑿 す る こ とが益 々 多 い 」 とい う過 ち ま で 逆 上 った;章 炳麟 は

『旭 書 ・清 学 』 の 中で 、そ の説 を受 け、経学 は魏 晋に乱 れ、宋 明に至 っ て益 々 でた らめ に な った 」 と言 って い る」(『章 太 炎 全 集 』 第2巻155頁) 砌 「清 儒 」 は 『章 太 炎 全 集 』 第3巻 に 見 え 、 「漢 学 論 」 は 『章 太 炎 全 集 』

第5巻 に 見 え る 。

㈱ 「漢 学 論 」 と 「経 学 略 論 」(『章氏 国学 講 習会 講 演 記 録 』3、4期 、1935 年11月)を 参 照 。

Gの 「案唐 」(『章 太 炎 全 集 』 第3巻451頁;章 太 炎:「 論 中古 哲 学 」(『制 言 』 第30期)。

㈲ 章 太 炎:「 自述 学 術 次 第 」、(『太 炎 先 生 自定年 譜 』59頁 。)

㈲ 章 太 炎:「 致 国 粋 学 報 社 書 」(『国粋 学 報 』 己 酉 年 第10号 、1909年) 訳 注

① 国 学 とは 一般 に 西 学(西 洋 の 学 問)に 対 す る 中 国 の伝 統 学 問 の こ と で あ る 。章 炳 麟 に と って の 国 学 とは、 そ の よ うな 単 な る 中 国 の伝 統 学 問 を意 味せ ず1欧 米 に対 抗 し うる よ うに 、伝 統 学 問 を 自 らの 手 で 再編 した も ので あっ た 。彼 の 「国学 」 形成 の過 程 を示 す も の が 、 『尨 書』(原 刊 本)、 『尨 書』(重 訂 本)、 『検 論 』 で あ り、彼 が辛 亥 革 命 前夜 の 革命 勢 力 退 潮 期 に 、 日本 で 仏 教 や 荘子 哲 学 を深 く学 び 、 そ の精 華 を ま とめ た

『斉 物 論 釈 』 は 彼 の 国 学 の到 達 点 を示 す も の で あ る。 な お 、彼 の国学 提 唱 は 『国粋 学 報 』 発 刊(1905年)よ り始 ま る 。

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経 学 と諸 子 学 の 方 法 をめ ぐる章 炳 麟 と胡 適 の論 争 につ い て(上)陳

② 国故 整理 とは 、 国故 学 即 ち 国学(中 国 の伝 統 学 術 文 化)を 整 理 再 検 討 して 、 そ の 価 値 体 系 を再 編 成 し よ うとす る学 術 運 動 で あ る 。

胡 適 は 国故 整 理 につ い て 、既 に 「論 国故 学 一 答 毛 子 水 」(『胡 適 文存 』 第 一集 巻 一 所 収 、1919年8,月)で そ の 必 要 性 を述 べ 、 更 に 「新 思 潮 的 意 義 」(『胡適 文 存 』 第 一集 巻 四所 収 、1919年11月)で は 国 故 整理 を 「問 題 を研 究 し」 「学理 を輸 入 し」 「文 明 を再 生 す る」 こ と と も に彼 の 思 想 啓 蒙 策 の 一 環 と して位 置 づ け 、 そ の 原 則 と して 、 「批 判 的 姿 勢 」 「科 学 的 方 法 」 を 旨 と し、具 体 的 に は 、 系 統 的 に 整 理 し、 そ れ ぞ れ の 学 術 の 淵 源 を追 求 し、 科 学 的 方 法 で精 確 な 考 証 を行 い 、 古 人 の 本 当 の 意 義 を は っ き りさせ 、 そ れ らを総 合 して研 究 して 、 厂そ の 本 来 の 姿 に 戻 す 」 と 述 べ て い る 。更 に 、 「『国学 季 刊 』 発 刊 宣 言 」(『胡 適 文 存 』 第 二集 巻 一 、 1923年1月)で は 、 国学 研 究 に お い て 、 次 の 三方 面 、(一)歴 史 的 着 眼 か ら国故 研 究 の 範 囲 を拡 大 す る 、(二)系 統 的 な 整 理 に よ って 国 学 研 究 の 資 料 を分 類 す る 、(三)比 較研 究 に よ って 国 学 の 資 料 の 整 理 と解 釈 を 助 け る、 に 意 を注 ぐよ う主 張 した 。

胡 適 の この よ うな 国 故 整 理 の主 張 は 、 青 年 研 究 者 、 特 に彼 の 勤 務 し て い た 北京 大 学 を 中 心 に して 、 大 き な 影 響 を与 え 、 そ の 後 、 彼 らは 中 国 学 術 界 で 一 大 勢 力 を 占め た 。 例 え ば 、 中国 古 代 史 を見 直 し、数 多 く の 業 績 を残 した 、古 史 弁 学 派,(疑 古 学 派)は 顧 頡 剛 を始 め胡 適 の影 響 下 に あ っ た 。

ま た 、 胡 適 自身 が残 した 国故 整 理 の 成 果 は 、 これ ま で 知 識 人 に は 一 顧 だ に され な か っ た 『紅 楼 夢 』 を は じ め とす る 近 世 白話 小 説 の 校 訂 、

『紅 楼 夢 考 証 』 な どの そ の 研 究 と、禅宗史研究 であ る。

③ 両 人 の学 問訓 練 は 、 大 い に違 い が あ る が 、特 に 旧学(中 国伝 統 学 問) に対 す る差 は歴 然 と して い る 。 章 炳 麟 は12歳 で まず 外 祖 父 の朱 有虔 か ら経 学 の手 ほ どき を受 け 、 それ 以 後 杭 州 の詁 経 精 舎 に入 るま で に 、周 、 秦 、 漢 の 書 物 、 例 え ば 四書 五 経 な どの 経 書 、 史 記 、 漢 書 な どの 史 書 、 老 荘 な どの 諸 子 の 書 物 を広 く読 み 、 更 に 唐 の 『九経 義 疏 』 な どの 注 疏

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阿'川

の 類 、顧 炎 武 の 『音 学 五 書 』、王 引之 の 『経 義 述 聞 』 な どの訓 詁 の研 究 書 を読 み 、 更 に 清 代 学 術 の 集 大成 で あ る 阮元 編 の 『皇 清 経 解 』 を も読 破 して い る 。 詁 経精 舎 に 入 学 時 に は 、 既 に経 学 め 基 礎 が 出来 て い た 。 そ の 後 、章 は 兪越 、 譚 献 な どの碩 学 に 師 事 し、 益 々 経 学 を は じめ とす る 旧学 を深 め た の で あ る。(『章 太 炎 年 譜 長 編 』、1977年 、 中華 書 局 、湯 志 鈞)

そ れ に対 して 、 胡 適 は4歳 か ら13歳 ま で近 所 の 塾 に 通 い 、 そ こ で 蒙 学 の 書 と、 四 書 及 び 五 経 の 一 部 を学 ん だ 。13歳 で 上 海 の梅 溪 学 堂(新 式 学 校)に 入 学 した 後 は特 に 旧学 を学 ん だ とは 考 え に くい 。(『胡 適 研 究 叢 稿 』、1983年 、 四川 人 民 出版 社 、耿 志 雲)

④ こ の 講 演 は 、 「国学 の衰 微 を深 く憂 慮 し」 た 江 蘇 省 教 育 会 が 、 当代 の 大 儒 章 炳 麟 に依 頼 した もの で 、1922年4,月1日 か ら6月17日 に か けて 、 計10回 に わ た っ て行 われ た 。 そ の 題 目は 、第 一 回 「国 学 大 概 」、第 二 回

「続 国 学 大概 」、 第 三 回 「続 国学 大 概 」、第 四 回 「国学 之 派別 」、第 五 回

「経 学 之 派 別 」、 第 六 回 「哲 学 之 派 別 」、第 七 回 「続 哲 学 之 派別 」、 第 八 回 「文 学 之 派別 」、 第 九 回 「続 文 学 之 派 別 」、 第 十 回 「国 学 之 進 歩 」 で あ る 。

第 一 回 に は 聴 衆 が 三 、 四 百 名 に も 上 り当初 用 意 した 会 場(省 教 育 会 大 会 堂)で は 手 狭 に な り、 以 後 会 場 を 、 千名 以 上 収 納 可能 な 、 中 華職 業 学 校 の職 工教 育 館 に移 した が 、第 九 回 に は聴 衆 が 僅 か 七 、 八十 とな

り、 会 場 を 元 に 戻 す にい た った 。

この 講 演 は 、 『申 報』 に 随 時 そ の 筆 記 が掲 載 され た が 、 同年 、 曹 聚仁 が そ の筆 記 を整 理 し、 上 海 泰東 図書 局 か ら 『国学 概 論 』 とい う題 名 で 出版 した 。 『国学 概 論 』 は 『申報』 に掲 載 され た もの よ り大 体 詳 しい が 、 一 部 削 除 され た とこ ろ も あ る。 他 に 、 この 講 演 を 張冥 飛 が筆 記 したr章 太 炎 先 生 国 学 講 演集 』(1924、 平 民 書局)も あ る。(『章 太 炎年 譜 長編 』、

1977年 、 中華 書 局 、 湯 志 鈞)

⑤ 『国 学 季 刊 』 は北 京 大 学 か ら1923年1月 に創 刊 さ れ 、1937年6月 に

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経 学 と諸 子 学 の方 法 を め ぐる 章 炳 麟 と胡 適 の 論 争 に つ いて(上)陳

第 六 巻 二 号 で停 刊 、1950年7,月 に復 刊 され 、1951年7.月 に 第 七 巻 二 号 で廃 刊 され た 。 この 雑 誌 は 、 胡 適 が始 め編 集 責 任 者 とな り、 国故 整 理 運 動 の 中 心 的雑 誌 の 役 割 を果 た し た。

⑥ 章 炳 麟 は 当 時 、1920年 以 来 、 深 く係 わ つた 連 省 自治(南 方 の 各 省 が 自治 をお こな い 、 そ の 後 各 省 が連 合 して 連 邦 国家 を創 る とい う、 中 国 統 一運 動)に 関連 して 、 そ の政 見 を電 報 で盛 ん に 関 係 方 面 に 打 ち 、そ れ を 公 表 した 。

⑦ 『墨 子 』 「経 上 篇 」 で は 「辯 争 彼 也 」 とな って お り、胡 適 は 「彼 」 を

「彼 」 の 誤 りで あ る と した。

⑧ 孫 詒 譲 は 、 章 炳 麟 の 師 で はな く、学 問 上 影 響 を 受 けた 先 輩 で あ る。

章 が 著 した 兪越 の伝 は 「兪先 生 伝 」 で あ るの に対 して 、 孫 詒譲 の伝 は

「孫 詒 譲 伝 」 で あ る こ とか ら見 て も 明 らか で あ る。

⑨ 胡 適 は 、 国 費 留 学 生 と して1910年9月 渡来 し 、 ま ず 実 学 救 国 を 目指 して コ ーネ ル 大 学 農 学 部 に 入 学 した が 、農 学 に 興 味 が 持 て ず 、1912年 同 大 学 文 学 部 に 転 部 し1914年 卒 業 し、1915年 コ ロ ン ビア 大 学 大 学 院 に 入 学 し、 プ ラ クマ テ ィ ズ ム の 大家 デ ュ ーイ に師 事 して 哲 学 を研 究 した 。

(『胡 適 研 究 叢 稿 、1983年 、 四川 人 民 出 版 社 、耿 志 雲)

⑩ 詰 経 精 舎 は 、 阮 元 に よ り創 設 され た書 院 で 、 乾 嘉 の 学 の い わ ば 大本 営 で あ り、 章 が 入 学 当 時 は 兪越 が こ こ の長 を務 め 、 今 文 古 文 の兼 学 、 経 と諸 子 の兼 学 の 傾 向 が あ った 。

⑪ この 「胡 適 文 書(胡 適 存 件)」 と は、 胡適 が1948年12月 北京 を脱 出 した 時 に 、 自宅 に大 量 に残 した原 稿 、書簡 、 日記 、 書 類 の こ とで 、後 に 中国 社 会 科学 院近代 史研 究所 の所 蔵 とな り、胡 適 研 究 の 専 門家 耿 雲志 教 授 の 下 、最近 整 理 され 、近 々影 印出版 され る とい う。(「東 方速 報 」1993年55号)

⑫ 清 代 に お け る 『苟 子 』 『墨 子 』 の 本 格 的 研 究 は 、 汪 中 か ら始 ま る が 、 清代 の 『荀子 』 研 究 の主 な著 述 に は、王 念 孫 「苟 子 雑 誌 」(『読 書雑 志 』)、

兪越 「荀 子 平 議 」(『諸 子 平 議 』)、王 先 謙 の 『荀 子 集 解 』 な どが あ る。

ま た 、 『墨 子 』 研 究 の 主 な 著述 に は 、廬 文 弓召、翁 方 綱 、 孫 星衍 らの 本

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文 校 訂 の 業 績 を 踏 ま え、 畢 況 が 『墨 子 』 の全 体 に 校 訂 を行 い 、 注 釈 を 付 けた 校 訓本 『墨子 』、王 念 孫 の 「墨 子雑 志 」(『読 書雑 志』)、兪極 の 「墨 子 平 議 」(『諸 子 平 議 』)、諸 家 の 校 訂 を広 く参 照 しな が ら、畢 玩 の 不 備 を補 い 、 さ らに 孫 詒 譲 の 新 た な 見解 を付 け加 え た 詳 細 な 校 訂 本 『墨 子 間 詁 』 な どが あ る。

⑬ 章 炳 麟 は 墨 学 に つ い て は 、 そ の 力 学 、光 学 や 名 学(論 理 学)に 、西 洋 の学 問 に対 抗 し う る もの と して 強 く興 味 を持 っ た が 、 墨 学 に 関 す る 論 考 は 管 見 の 限 りで は 、 「諸 子 学 略説 」(1906年)、 『滬 書』(原 刊 本 、重 訂 本)、 『検 論 』、 「国故 論 衡 」(1910年)、 「諸 子 略 説 」(1935年)な どに 散 見す るだ け で 、 ま とま っ た も の は な い 。 そ れ に対 して 、 荘 子 に つ い て は 、 「諸子 学 略 説 」(1906年)、 『馗 書』(原 刊 本 、重 訂 本)、 『検 論 』、 『諸 子 略 説 』(1935年)な どに 散 見 す る だ け でな く、 『荘 子 解 故 』 〈1909年)、

『斉 物 論 釈 』(1911年)な どの 畢 生 の著 作 も あ る。

⑭ 儒 家 を九流 の 儒 と経 師 の儒 とに 区別 す る見 方 は 、 「諸 子 学 略 説 」(1906 年 、9、10月 、 『国 粋 学 報 』 丙 午 第 八 、第 九 号)に 見 え る 。 章 炳 麟 は 、 そ こ で 孔 子 を 「実 証 を 旨 とす る歴 史 家 」 即 ち 「経 師 」 と 「政 治 と実 利 を 旨 とす る教 育 家 」 即 ち 「儒 生 」 と の二 面 か ら捉 え 、 前 者 の み を評 価 し、後 者 は富 貴 利 禄 を求 め る もの と して 斥 け て い る。 そ して 、 孔 子 以 後 の 儒 家 も 「経 師 」 と 「儒 生 」 とに 分 化 した とす る。

この 「諸子 学 略 説 」 以 降 、 管 見 の 限 りで は 、 章 炳 麟 は儒 家 を こ の よ うな 経 師 と儒 生 とい う枠 組 み で は 捉 え て は い な い 。

⑮ 章 炳 麟 は 黄宗 羲 につ い て 、初 め は 「興 浙 会序 」(1897年)で は 、 「聖 智 暮 慮 が黄 宗 羲 の 様 な 者 を見 た こ とが な い 」 と尊 崇 し、 ま た 「書 「原 君」 篇 後 」(1898年)で は 、 そ の 主 著 『明夷 待 訪録 』 を高 く評 価 した が 、 民族 主 義(排 満 主 義)提 唱 後 は 、 「衡 三老 」(1906年)で は 、 『明 夷待 訪 録 』 で 高 邁 な主 張 を して い るに も か か わ らず 、 息 子 を 自分 の 身 代 わ り に清 朝 に 出仕 させ た 食 わせ 者 と斥 け 、 明 末 清初 の 三 老(顧 炎 武 、王 船 山 、 黄宗 羲)中 で 最 下 位 に 置 き 、 ま た 「非 黄 」 で は 、学 術 思 慮 の 点 で

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経学 と諸子学 の方 法 をめ ぐる章炳麟 と胡適 の論争 につ いて(上)陳 原 著

は 顧 炎 武 よ り遙 に 落 ち 、 ま た 、 守 節 の 点 で は 王 船 山 に 遙 に 及 ぼ な い 黄 が 、 名 声 で は こ の 両 人 と肩 を並 べ て い るの は彼 の 詐 術 の た め だ と、 口

を極 めて 罵 倒 した 。

i魏源 につ い て は 、 「清 儒 」(『:馗書』 重 訂 本 、『検 論 』)で 、 「大 袈 裟 な 出鱈 目で好 ん で 経 を説 き、 貴 人 を悪 賢 く説 得 した 」 と口 を極 めて 罵 り、

襲 自珍 につ い て も 、 「清 儒 」(『:馗書 』 重 訂 本 、『検 論 』)で 、魏 源 、邵 懿 辰 と十把 一 絡 げ に 、 学 問 の 基 礎 が な く、 所 論 は支 離 滅 裂 と酷 評 した 。

解 題

本 稿 は 、 陳 平 原 氏 の 「章 太 炎 与 胡 適 之 于 経 学 、子 学 方 法 之争 」 の 日本 語 訳 で あ る。 この 論 文 は 、 本 年(1994年)日 本 で行 わ れ た 講 演原 稿 で あ る 。 この 講 演:は、 まず 本 年3 ,月12日、中国社会文化学会 の3,月 例 会で行 われ 、 継 い で本 年4月23日 、 大 塚 漢 文 学 会 の 月 例 会 で も行 わ れ た 。 こ の 二 回 の 講 演 原 稿 の 間 に は 、 内容 に 基 本 的 な相 違 点 はな い が 、後 者 は 前 者 に 比 べ 少 し 短 い 。 そ れ は 後 者 が注 を一切 削 り、 引用 文 を一 部 削 った た め で あ る。但 し、

後 者 は前 者 の 単 な る簡 約 版 とい うわ け で は な く 、筆 者 に よ っ て 語 句 が加 え られ 分 か りや す くな った と こ ろ もあ る 。そ こで 、本 論 文 を翻 訳 す るに 当た っ て は 、 前 者す な わ ち 中 国 文 化 社 会 学 会 で の 原 稿 に 基 づ くこ と と し、 後 者 す な わ ち大 塚 漢 文 学 会 で の 原 稿 を 参 考 と した 。

次 に 、 訳 文 の 成 り立 ち は 、以 下 の ご と くで あ る 。 大 塚 漢 文 学 会 で の 講 演 に 先 立 ち 、本 学 の 宮 内教 授 、 白井 助教 授 、 二 松 学 舎 大 学 の佐 藤 一 樹 氏(中 途 参 加)と 阿川 は 、本 論 文 を 四 回 に わ た って 輪 読 した 。 そ の 際 、 宮 内 教 授 が 第 四章 ま で の 試 訳 稿 を作 成 され た 。 輪 読 終 了 後 、 阿 川 は 、本 論 文 は 、 近 現 代 中国 学 術研 究 の方 向性 に 問題 を提起 した もの で あ り、 かつ 難 解 であ るこ とに 鑑 み 、 日本 語 に翻 訳 す れ ば 、 幾 らか で も斯 界 に裨 益 す る とこ ろが あ る の で は な い か と思 い 、翻 訳 す る こ とに した の で あ る。 阿 川 は ま ず 本 文 、 注 を翻 訳 し、 そ れ を宮 内教 授 の 訳 稿 と対 照 しつ つ 、 訳 文 を検 討 し、 訳 文 を完

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