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近世オランダ貿易の成立と展開

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

近世オランダ貿易の成立と展開

八百, 啓介

https://doi.org/10.11501/3123170

出版情報:Kyushu University, 1996, 博士(文学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

努事至五重債 弓Il!{呆己負E奇E巽lJCDオランタ$貿易毒 は じ め に

従来、 事保期のオランダ貿易については、麿船貿易とともに正徳五年(一七一五)の正 徳新例以後の長崎貿易として、正徳新例による貿易抑制政策の継承として捉えられ

?

)その

後、寛保二年(一七四二)の定高五五O貫目・鋼取引高五O万斤への削減に至る過程であ ったといえよう。

しかし、出島オランダ貿易に対する幕府の政策は、このようなオランダ貿易を直援の対 象とするもののみならず、元禄八年(一六九五)の金銀改鋳によって園内の貨幣政策とも 密接にかわっていたのである。 そして、一八世紀に入って、愉出鋼の不足を小判で補わざ るを得なかったオランダ側にとって、小判の改鋳による品位の変化には、重大な関心を払 わざるをえなかったのであり、その意味で、一七四0年代の東インド総督ファン・イムホ フの意見書に見られるように、一八世紀前半の日本貿易は、元禄小判から元文小判にいた る、愉出小判の推移と損失の過程であったのである?)

そこで本意では、このような小判の改鋳がオランダ貿易に具体的にどのような彫轡をも たらしたかという点から、事保期のオランダ貿易を明らかにするとともに、正徳新例以後 の事保期の出島オランダ商館の綱取引の実態について考察することとしたい。

( 1 )山脇悌二郎『長崎の唐人貿易』、吉川弘文館、一九六四年、一六O一一六五頁。中

村質『近世長崎貿易史の研究』、吉川弘文館、一九八八年、 三四六一三七O真。

( 2 ) G. van 1・hoff, Consideratien over den Handel in Japan圃et de Bijlagen, V.O.

C.2612.

第一節 事保五年令と事保小判

正徳四年(一七一四)五月より幕府は新たな金銀の改鋳をおこない、翌正徳五年(一七 一五)には慶長小判と同じ八六・七九%の品位を持つ新金(事保小判 )が鋳造された

?

らに事保三年(一七一八)問一O月には、従来の宝永小判(乾字金)の通用を翌事保四年 までとするいわゆる新金銀通用令を発布し、通貨の統一を図った

?

事保の金銀改鋳の結果、新たに登場した事保小判は従来の宝永小判(乾字金)の二倍、

事保銀は従来の四、ソ宝銀の四倍の価値となった

?

このため、金銀の公定比備においても、

従来の宝永金一両=四ツ宝銀六O匁が事保金一両=四ツ宝銀三O目となったのである。

- 144 -

(3)

こうした中、 『長崎実録大成』によ れば、 事保五年(一七二0)、 幕府はオランダ貿易 について、 次のような命令を出している。

一是迄乾金高五蔦両之商賞、明年より新金半減二高五千両にて、鋼百蔦斤可被相波旨、

漢文を以被仰滋之{I.i)

すなわち、金銀の改鋳にともないオランダ船の定高を、従来の宝永小判五万両分から事 保小判二万五000両 分に変更されるとともに、銅繍出量を正徳新例による一五O万斤か

らー00万斤に削減することが仰せ波されたのである。

オランダ貿易に対するこうした措置は、 長崎貿易の中でも、 寛文八年〈一六六八)以来、

銀の紛出を禁止され、 とりわけ鋼とと もに小判の鮪出に依存しているオランダ貿易を事保 の

新通貨

体制の

策であった た鋼

量の削減は、

年(一七一五)の正徳新例以後、早くもオランダ船に対する一五O万斤の制限量をも割り 当てることができなくなった幕府の政策変更であった。

ここで、オランダ船に対する商売高と小判について見てみると、 貞享二年(一六八五) の定高制により、唐船銀六000賞自に対して、オランダ船金五万両(圏内商人に対して は一両は六O匁であったが、 オランダ人に対しては一両六八匁替で差額は「出島間金Jと

1 (5)

なるので、銀三四00

自分とな)が定められていた、 当

ンダ貿易におげる

小判は慶長小判であった。

その後、表5-1のごとく元禄八年(一六九五)に国内小判が改鋳されると、 オランダ 船に対しても元禄ーO年(一六九七)よりオランダ人がnieuwe coubang r新しい小判J と称した元禄小判に切り答えられ

さらに宝永七年(一七一 0)の改鋳にともない、正億 三年(一七一三)よりはkleine coubang r小さな小判Jと呼ばれる乾字小判が愉出され るようにな った

?

)

こうしたオランダ貿易における小判の改鋳の彫轡は、オランダ東インド会社の日本貿易 全体にどのような彫嘗を与えたのであろうか。

5 -2O二

(

)

から一七二四年(保九

)

ドのコロマ

デル商館における日本小判の販売に際しての損失である。 これによれば、 オランダ東イン ド会社は一八世紀の初頭には、日本において一枚当り銀六八匁で仕入れていた小判を販売 するのに際して、約一 三%、 一枚当り日本銀にして九匁前後の損失を出していたが、 正億 年(七一三)の乾字小判の

により、

一四その損失の幅は三Oパ

ント前後へと大幅に拡大している。

出島オランダ商館の仕訳帳によれば、オランダ商館は一七二一(事保六)年一一月九日 の次期繰越高において、従来の二000枚の出島残金がー000枚に半減しており、 その 代わりに枚当りの値段が従来の二倍の一三六匁の事保小判Groote Japans goude cou­

-bang

記載

されてい

?現

実 に、同

に受

された小判七二二二枚

六八匁の宝永小判であったが、

二二(事保

)年

り、オラ人が Groote

- 145 -

(4)

coubang r大きな小判Jと呼んだ一枚当り一三六匁の事保小判を購入し愉出している

)事 保小判は、愉出価絡は従来の二倍であったが、品位・金量目ともに慶長小判の水準にまで 回復していた(表5-1 )。 このため表5-2に見られるように、販売価格も上昇し、コ ロマンデルにおける小判の販売損失も約三五%にとどまっているが、依然としてコロマン デルにおける小判の販売価格は日本での購入価格を下回って損失を生じ続けており、日本 商館の経営に大きな最多を落としていたのである。

筆者はこれまで、オランダ貿易における元禄小判・乾字小判の登掲の最多轡について 明ら かにしてきたが、ここで乾字小判から事保小判への変化と金二万五000両分への半減が、

出島オランダ商館の取引にどの様な最多嘗を与えたのかを見てみたい。

事保五年の幕府の命令がオランダ側にどのように伝えられたかを、具体的に明らかにす るのが当時オランダ通詞であった中山家に伝わる次の史料である。

一阿蘭陀商貨高、唯今泊乾金五万両向後半減之積りを以、新金二万五千両之商売ニ相定 ω、但両替之法、新金壱両新銀六姶八匁替之積りたるへき事

附り、荷物積渡高者唯今泊之遇、勿論此方J責渡�諸色、是又只今泊之可為通事 一壱ケ年ニ相波�銅之高百万斤ニ限之�、 尤鋼出方之多少ニより可有地減事

但値段之僧者、凡只今泊之値段半減之積り可為�得共年ミ之高下ニよるヘ〈凶事 附り、諸色買物之値段時ミ之相婦にしたかい可責渡事

一商費高弐万五千両之内、持渡金六千三百両、残シ金千両穏其余者銅代絡買物代弁遣捨 之積りたるへき事

右之通、来丑年ぷ之商貧相定L也、此外仕方之儀者、大口只今泊之通可為ω条、此旨か ひたん臼申渡、日受噌leニ於ひて、せねらるね可申間�、若せねらる右之懲取引於無之 者、重而商貧停止可被仰付者也

事保五子年九月

一新金拾両為手本金御渡被成持波申�(jO)

すなわち右の『覚Jによれば、オランダ人に対して

①商売高を従来の乾金(乾字小判)五万両分 から、新金(事保小判)二万五000両 分とするほか、新金(事保金)一両を新銀(事保銀)六八匁替とすること。

②鍋給出量はー00万斤を上限とするが、出銅状況により増減 する。また銅値段を従 来の値段の半減とすること。

③商売高二万 五000両分のうち、小判として輸出する六三00両・出島に残すーO 00両を除く一万七七00両を鍋およびその他日本商品の仕入費・滞在経費とする

ごと。

ー146 -

(5)

都-1小判腕鱗

.--圃』・司嗣-

名称 国内始行 貿易始行 問口 位 量 目 金量目 慶長小柄l 慶長4(1599) 寛永11(1640) 50匁7分(86.79%) 4.76匁 4.01匁 元禄小判 元禄8(1695) 元禄10(1691) 76匁7分(57.31%) 4.76匁 2.刀匁 乾字小判 宝永7(1710) 正飽3(1113) 52匁2分(84.29%) 2.印匁 2.10匁 正鯵j、判 正徳4(1714) 紛出せず 52匁2分(84.29%) 4.16匁 4.01匁 事働州j 正徳5(1715) 事保7(1722) 50匁7分(86.79%) 4.76匁 4.13匁 註)園内始行年・品位・量目・金量目は、田谷縛吉『近世銀座の研究J (1963)、吉川光

治『徳川i封建紛斉の貨制悦鯛J (1991)より作成。なお鹿島j哨jは寛永一八年(一六 四一)年より寛文三年(一六六三)まで輸出が禁止された(オスカー・ナホッド『十 七齢8日蘭郊歩史』、餐闘士、一九五六年)。

善治-2 コロマンデル商館における小判損失

年 販売枚数 鍋失額 販売鍋失 損失率 勝入値絡 1702(元禄15) 22,514 71,471.13. 2 9.07匁/枚 13.33% ω匁/枚 1103(岡 山〉 11,9405/16 54,370.13. 2 8.65 12.72 ω 1704(宝永元〉 11,034 34,085.12.11 8.82 12.91 68 1705(同 2) 8,455 26,164.11.一 9.04 13.29 ω 1706(同 3) 24,8641/4 81,979.13. 3 9.42 13.85 1707(同 4) 13,500 41,309.10.__ 8.14 12.65 ω 17ω〈同 5) 5,1683/4 16,736. 1.__ 9.25 13.60 ω 1709(同 6) 22,1213/4 72,311. 8.13 9.33 13.72 ω 1110(同 7) 12,4681/4 41, 296.12.11 9.46 13.91 1711(正徳元〉 16,228 52,451.15. 9 9.23 13.51 ω 1712(同 2) 21,966 73,168.13.15 9.50 13.97 1713(同 3) 3,920 10,907.15.14 7.95 11.69 68 1714(岡 4) 29,5381/4 205,701.12.12 19.ω 29.25 ω 1715(同 5) 15,200 98,392. 4. 9 18.49 21.19 ω 1716(事保元) 2,000 6,152. 1. 4 8.78 12.91 68 1711(同 2) 17,556 143,853. 5.12 幻.41 34.42 68 1718(同 3) 5,312 46,166.19. 4 24.83 36.51 ω 1719(同 4) 3,714 32,274.12. 2 24.82 36.50 68 1720(岡 5) 4,660 39,617. 8. 2 24.32 35.76 68 1721(同 6) 8,400 30,003.19. 9 10.20 15.00 68 1722(同 7) 5,406 46,998.16. 4 24.83 36.51 136 1723(同 8) 8,828 157,225.ー・8 50.88 37.41 136 1724(同 9) 10,760 183,284. 4. 9 48.66 35.77 136

L

註)損失高の単位はグルデン(1グルデンは20スタイフェル、 1スタイフェルは16ペ ニング、70スタイフェルは銀10匁)。販売枚数・損失績は S�iere V町出∞ing der winsten v∞roeelen lasten enα}gelden, 1700/01-1723/24(A.R.A., V.O.C 2039) による. それによって販売煩失・損失簿を算出した。購入信絡は出島オランダ醐官の

『仕野瀬J Negotíe Journaal anno 1101/02-1723/24(N.F.J.倒2-901)による。

- 147 -

(6)

④これらの実施は翌事保六年からとすること。

の四点が仰せ渡されているのである。

これに対してオランダ側の史料によれば、同年一七二O年一O月一八日(事保五年九月 ー七日)に遇制らによって、長崎奉行の名での命令がオランダ商館に伝えられたが、その 内容は

日本の皇帝陛下の意思と望みは、来年、大きな金小判が彼の国でやり取りされるご とであり、そして、外国人も六八マースで受げ取 り、 販売と購入とにおいて、すべて が、現在の小さな小判二枚の価値に従って勘定されることである。

オランダの会批は、 来年は新しい小判の勘定で一五万テールの取引をしてよい。そ して、すべての商品は、それに従って勘定され、銅と他の全ての日本の商品は、 現在 の小さな小判二枚に対して、大きな小判一枚に勘定されるだろう.その結果、ほとん どの通詞は、小さな小判二枚の代わりに大きな小判一枚をやり取りするだけで、何も 変化はないと言っている。

しかし、銅は在庫に応じて、余裕があれば一万五000籍、 不足していれば、その 余裕や不足に応じて、一万箱より少なく与えられるので、 正確な量は許きれないが、

銅の値段は、著しく変化することなく保たれるだろう。この全てを東インド総督と評 議会に、記録するよう伝えなければならない。さらに長官である丹波守様は、パタピ アで試すためにー0枚の新しい小判を手渡すことを明らかにした

V

とあり、新 小判の導入により、脇荷を除く会社に対する取引高が新銀一五 00貫目(新金 二万五000両)分となることは、 日本側の史料とほぼ同じ内容となっているが、 鋼繍出 量が正徳新例によって定められた一五O万斤からー00万斤に減らされることは明確には 伝えられておらず、このことは後に述べるように、翌年オランダ商館長の要求となってあ らわれてくる。

次にこの事保五年令について、 具体的に検討してみることとしたい。

第一に、日本側史料の①②に見られるように、従来の古金(乾字小判〉のほぼ二倍の金 を含む新金(享保小判)一両に対して新銀六八匁普となるごとにより、鋼の値段も翌事保 六年より新金建てとな り、 従来の値段の半分になるはずである。

ここで事保期の出島オランダ商館の給出銅の価格について、 『長崎実記年代録Jと出島 オランダ商館の仕訳帳との二つの史料から明らかにしたものが表5-3である.

これを見ると、 先ず「長崎実記年代録Jによれば、 オランダ船の愉出鋼の価絡は、右の

『覚Jが記された翌年の事保六年(一七二一)に、 前年のー00斤当り一二三・五匁から 半値の六一・七五匁と三八・七五匁の二通りの価絡で取引されており、翌々年の事保七年 からは半値の六一・七五匁の みとなっている

L

Z)

ところが、 一方の仕訳帳においては、銅の価絡は、 翌事保六年以降も従来通りの一四・

八四テール(ーテールはーO匁)であり変化は見られない

)

- 148 -

(7)

務-3 出島オランダ商館鋼取引価絡(100斤当り) 年 長崎鱒己年f場 倒R帳

1716(事保元) 123.4 匁 148.4匁 1717(同 2) 123.4 148.4 1718(同 3) 123.5 148.4 1719(同 4) 123.5

1720(同 5) 123.5 (148.4) 1721(同 6)

.75 (400,000斤)刷耽000斤) 148.4 1722(岡 7) 61. 75 148.4 1723(同 8) 61.75 148.4 1724(同 9) 61. 75 148.4 1725(同10) 61.75 148.4 註) r仕訳帳Jの値絡には箱代・労賃·i厳司口錫ま

含まれていない。また「長崎鶏昨f湯川凋 値絡は、 『年々帳』などの住友家史料d凋値段 を-00斤に付きほぽ三匁上回っている。 『年 々帳』元禄四年の師事によれば、オランダ船に 対する締出鍋の値段は日銀三匁を引いた手取銀 であるごとから( r住友史料叢書年々帳無 番・一番』、忠文聞出版、一九八五年)、 「長 崎知己年f場J<l漏価格はこの 日銀を含めたも のであろう。 「仕訳帳jはNegotie J∞rnalen anno 1715/16-1724/25(N.F.J.895-902)、 「長 崎錨�代減J�<t1l洲文化史研究施設戸時蔵による。

一方、 仕訳帳における小判の価絡は、 表5-2で見たごとく、 一七二二年〈事保七年〉

から一枚の単価が、 銀一三・六テールと従来の六・八テールの二倍になっているのである

γ

j

このこと は仕訳帳においては、 オランダ貿易における事保小判の導入が事保七年であると いうことを示すとと もに、 オランダ側は、 新金(事保小判)一両に対して、従来の四ツ宝 飯の為替に よる銀テールを用いている こと がわかる。

すなわち、 出島 オランダ商館においては、 事保の改鋳に よって国内が新金銀の為替体制 に移行した事保五年(一七二0)以降も、 依然として銀については旧銀を用いていたとい うことになる。 その理由は、寛文八年(一六六八)以来、 銀の愉出を祭止されたオランダ 貿易においては、輸入品の売上高から諸経費を差し引 いた分の商品を愉出するバーター取 引の方式が取ら れていたため、園内商人と長崎会所との聞の支払いは新銀で行われていた ものの、現実にオランダ商館が新銀を扱う機会はほとんど なかったこと にあったと思われ る

?

このためオランダ側の帳簿における金 銀比価は、従来 どおりのーテールを七Oスタイ フェルとして換算されていたのである。

第二に、 日本側史 料の②の銅愉出量のー00万斤への削減であるが、 これは元禄一一年

- 149 -

(8)

(一六九八 )の二五O万斤というオランダ船に対する取引高の設定に始まり、 正徳五年 (一七一五 )のいわゆる正徳新例での一五O万斤を経ての新たな制限である. この背景に は、 元禄期以来の園内の銅産出量およひ.長崎への廻鋪量の停滞と減少とがあったのである がタ)それには先ず、 正徳新例から事保五年に至る事保初期の鋼輸出の実態を明らかにする 必要があると思われるので、 これについては以下でさらに詳しく見ていきたい。

続いて、 日本側史料の③の小判の輸出量の取引高に占める割合であるが、 r長崎実記年 代録J r仕訳帳Jによれば、 ともに翌事保六年(一七二一 )には七二二二枚の小判が輸出 されたとしており、 六三0 0両の制限を越えている

それでは、 このような幕府の命令に対して、 オランダ商館はどのように対応し たのかを 次に見ていくこととしよう。

( 1 )田谷博吉、前掲書、二六九一二七五、 二九一頁。

( 2 )同前、 二七五一二七七頁。吉川光治、前掲番、二九一三一頁。

(3 )田谷樽吉、前掲書、二七六頁。吉川光治、前掲書、 三O一三一頁。中村賞『近世長 崎貿易史の研究』、吉川弘文館、 一九八八年、 三五一一三五二頁。

( 4) r長崎実録大成』正編、 長崎文献社、 一九七三年、 二二二賞。

( 5 )森岡美子氏は出島間金は寛文八年〈一六六八 )にオランダ船に対する小判の槍出価

絡が一両六八匁とされたときに始まっ たとされている( r初期唐蘭貿易の変遷J ( r長崎県史』対外交渉編、吉川弘文館、 一九八五年、三O七一三O八頁) )。 こ れに対して中村賞氏は寛文一二年(一六七二 )の市法貨物商法により確立されたと している(中村、前掲書、 二八O頁 )。

(6) Negotie Journaal anno 1696/97, Hs.A.R.A., N.F.J.881.

( 7 )第四章第二節参照。

(8) Negotie Journaal anno 1720/21, Hs.A.R.A., N.F.J.898.

(9) Negotie Journaal anno 1721/22, Hs.A.R.A., N.F .J.899.山脇悌二郎氏は一七二一 (事保六 )年からオランダ商館は小判に代えて大判を輸出 したとされているが(山

脇悌二郎『オランダ東インド会社と日本の金J ( r日本歴史』第三二一号、 一九七 五年) )、 これが事保小判であることは鈴木康子氏も指摘されるとおりである(鈴 木康子「一八世紀初期のオランダによる日本輸出商品の販路J ( r史学雑誌』第九 九編第一二号、 一九九O年) )。

( 10) r享保五子年 新金阿蘭陀人n御波被成ω旧記之写J (長崎市立シーボルト記念館

所蔵中山文庫 )。

(11) Dagregister anno 1720, N.F.J.130, fol.230-234.

( 12) r長崎実記年代録J(九州大学文学部文化史研究施設所蔵 )。

- 150 -

(9)

( 13)註(8 )所掲史料。

( 14)同前。

(15 )仕訳帳によれば出島での諸経費や江戸参府の支出は、輸入品の売上高の中から毎年、

会計年度末にまとめて清算されていた。 その他の参府に際しての直緩の支払いにつ いては、事保一八年(一七三三)に新銀建てとなる(第四節参照)。

( 16)菊池義美「正徳新例と長崎貿易の変質J( r近世対外関係史論』、 有償堂、一九七 八年)。

( 17)註( 8) (12)所掲史料。

第二節 『かひたん口上Jと事保初期の銅鱗出

(ー〉事保六年(一七二一)の「かひたん口上』

一七二o (事保 五)年の幕府の命令に対して、翌一七二一(事保六)年六月三O日付の パタピアより出島商館長宛の訓|令において、引続き一万五000箱の銅輸出 を命じられた オランダ商館では

?

同年九月六日付でルーローフ・ディオダチとへンドリック・デュルフ エンの新旧商館長の連名で長崎奉行の石河土佐守宛の次のような書翰を送っている

?

同年

ー一月八日付の『年次報告Jによれば、その内容は、

インドの総督および評議会が、今年の貿易の継続のために、再び三隻の船を日本ヘ 送ったということは、貴下も御存じのことであり、 それは践に、貴下の上聞に達して おります。本日通詞たちが、 乙名と通詞目付の立会いのもと、閣下の名において知ら せてきたことは、 去年約束された七五00箱の銅は最初に引き渡されるものの、貴下 自身は、 今年の取引として、我々に二 五00箱以上の銅を加えることには関知してい ないと考えておられるということでした。

そこで、後述の商館長らは、 今から六年前に日本 の陛下によって、直々の新しい命 令として、 会社に輸出することが認められた一万五000箱の銅のすべての量が、今 年再び我々に引き渡されることを、恐れな がら要望いたします。 それによって、小判 の鱗出によって譲る大きな損失を、 わずかながら満たすことができます。それについ

ての好ましい返答を期待いたしてしております。

常に貴下の従順なしもベとして とある。ここでオランダ側は

①昨年約束された銅のうち、 七五00箱が未だ引き渡されていないこと。

②今年の銅の取引において、 まず第一にそれを引き波すべきこと。

③本年度取引銅として正徳新例により定められた一万五000箱が、 引き渡されるべ

- 151 -

(10)

きこと。

の 三点を確認するとともに、日本側要望るのある。

この書翰はオランダ商館の日記によれば、同年九月六日(事保六年七月一五日)にオラ ンダ通詞の手により、次のような「乍恐謹而かひたん口上」として和解され、長崎町年寄 後藤惣左衛門を通て幕府に提出されて

?

一去年出帆之節御寄付を以、被 仰付t1、当年ぷ商責仕方之儀、於岐晴昭せねらる惚逐 一申聞むも慮奉畏、 当年為商責船三般渡海仕むも、ねらる申t1茂、 当時日本商責ハ鋼第 一之儀ニ有之t1慮、三分壱減少被仰付、近年こんはにや図鏑之上、別而迷感至極奉存 t1得共、右御寄付之表一事ニ而茂、於承引不仕ニ者、日本商資御停止可被 仰付旨ニ 付、可申上様無御座奉畏t1、然上者銅少成共斤数詞取ω様可奉頼旨呉々申付t1、然慮 去年泊者、銅百五拾万斤請取申筈之慮扮底ニ付、半分請取相残所者、当年務取可申旨 被 仰付t1ニ付、金子等泊残置申t1、依之去年之残銅七拾五万斤与当年分百万斤者、

請取持渡可申とせ材、らる茂悩奉存居申ω慮、銅梯底仕むもニ付、省年分百万斤者御渡可 被成lI\、去年残七拾五万斤分者、金子ニ而持帰可申旨被仰出行当リ鍵儀千万奉存しも、

去ミ亥年来朝之船三般破船仕商費不仕lI\ニ付、恐多申上事奉存t1得共、亥年之阿蘭陀 滋銅之余慶茂可有御座様、せ祢らる奉存t1ニ付、省年右之通被仰付lI\而者、罷帰せ祢 らるn申分茂無御座、かひたん越度ニ慌成t1ニ付、御傍感之上去年残鋼と当年之百万 斤彼 仰付被下t1ハ人重畳難有可奉存t1、阿蘭陀儀者百余年日本ヲ奉頼不相替渡海 仕ω慮、近年打績往来ニ破船仕船人荷物等大分減却仕

んはにや簸相立困縞仕むも儀

御座ω問

偏御助成と被思 召 上宣被 仰付被下lI\織奉頼t1

古かひたん

間七月 るぶろふてよたあて

新かひたん

へんてれきとろふ 右之鰹弐人之かひたん奉頼lI\通、 和ケ差上申ω

問七月

後藤惣左衛門殿

以上

通詞 八人 目付 弐人 乙名 弐人

- 152 -

(11)

これによれば、オランダ商館長の書翰の原文では、前年の未取り引き分の七五00箱の 鋼とともに 引続き一五O万斤の銅を引き渡すことが要求の主旨となっているのに対して、

通詞による日本語文の『かひたん口上Jでは、 f去年之残銅七姶五万斤与当年分百万斤者、

調取持渡可申とせ祢らる茂悌奉存居申むも慮、銅梯底仕ωニ付、嘗年分百万斤者御渡可被成 凶Jと、銅輸出量がー00万斤とされたことを出島商館のみならずパタピアも承知してい るので、同年はバタピアの命令により、前年不足分を含めた一七五万斤を引き渡してほし いと、内容が通詞によって大きく歪められていることは、 注目されてよい。

さて、先ずここで指摘されている『去年之残銅Jであるが、『長崎実記年代録Jによれ ば、同年事保六年にオランダ商館は、合計一一五万斤の鍋を購入しているが

このうち七

五万斤が「 去子年不足之分Jすなわち前年の不足分であったとしており、右の和解の内容 と一致している。

こうしたオランダ側の要求に対して、同年幕府は、「長崎実録大成』によれば

一去年滋銅百蔦斤ト被仰出卜云ヘトモ、日本諸慮ヨリ出錫多少有之時ハ、滋方モ増減 有へし、且又鋼定値段ニテハ損失有之故、値段上リ割合ヲ銀高ニ可被加旨、以漢文 被仰滋之

5

)

との命令を出している。またオランダ商館の日記によれば、同年一一月七日に通詞らを介 して『皇帝の命令」がオランダ商館に伝えられたが、その内容は

一、三O万テールの取引量は、すべて今までどおり許されること。

二、今日までは売買に際しては、「小さな小判Jが六テール八マースに勘定されてい たが、 来年の一七二二年の取り引きでは、売買ともに五テール八マースとなるので はなく、今年と同様に「新しい大きな小判Jで支払われる。その見本は一七二O年 に、すでにパタビアヘ送られており、すなわち大きな小判一枚 に対して小さな小判 二枚である。

三、会社は来年一七二二年には銅や樟脳やそれ以外のいくらかの他に、一万二六00 枚の小さな小判、もしくは六三00枚の大きな小判以上の現金を輸出してはならな い。その小さな小判を会枇は六テール八マースで、大きな小判を一三テール六マー スで受け取らなければならない。

四、来年は会社には、在庫が許すだけの一万箱前後の錫が与えられるであろう。鋼の 値段が今まで引き渡されたよりも値上がりした時は、鋼の値段の値上がりに応じて、

会祉の商品の了解された値段を引き上げたり脇荷として取引することが話し合われ るだろう

?

というものであった。これらのことから、幕府はオランダ商館に対して、小判についての 前年の命令を繰り返すととも に、鋼については、供給次第でー00万斤前後と、輸出量に 帽を持たせるとともに、値上がりを給入品の値上げで相殺することを伝えているのである。

翌一七二二年九月二日、オランダ商館長は長崎奉行日下部丹波守に宛てて次のような書

- 153 -

(12)

綿を提出した。

東インド総督の名において、 私は、 なぜ昨年は、皇帝の発した命令に従った約束の 一万五000ピコルの代わりに、一万 ピコルの銅しか会社に引き渡されなかったのか、

その理由とと もに、皇帝の命令が効力を持っているのか否かを知ることを誼んで要求 致します。東インド総督 は、 いまだその権利を持っており、もしその皇帝の命令が過 去のものとなったのならば、 東インド総督は、他のすべてをその方法で受け取ったと 同様に、そのことを文書で示すよう要求しています。それによって、東インド総督は、

それが本当の皇帝の命令であると確認することが出来ます。また東インド総督は、皇 帝 は今年の取 引でどれだけの鋼を与えて下さるのか、また来年はどうなのかを知るこ とを要求しています。なぜならば、会社に与えられる銅の量に応じて、東インド総督 は、 どれだけの船をごこヘ送る必要があるのかを決めなければならないからです。今 はまだ時間が十分にあるので 、長官(長崎奉行=引用者註)ができるだけ早くそれに ついて江戸に書き送って下さるよう、私の名において要求致します

?

)

これによれば、オランダ側は、銅輸出量の削減は正徳新例の変更であるので、新例の前 例に習って、正式の文書で通告す るように求めている。

これに対して、通詞らは同年一O月二八日に二通の長崎奉行の書翰をもたらした。同年 のオランダ商館長の年次報告に、 これら二通の書翰が『一七二二年一O月二八日付で商館 長ヘンドリック・デュルフェンに丹波守様の命令として手渡され た日本語の書翰Jとして 次のように記載されている。

〈密輸A)

八年前、皇帝は、 会社は毎年一万五000ピコルの鋼を受け取り、 三O万テールを 取引しても よいという 新しい命令を与えたが、日本においては時々銅が減少するので、

皇帝は昨年再び新しい命令を出して、 一万ピコルだけを与えてよいとした。

将来、錫の値段が値上がりしたときには、それに応じて会社の商品に高く支払われ るだろう。それ以上は、 すべて皇帝の前回の命令に従わなければならない

?

〈書鎗B)

今年寅年には一隻の 船しか来なかったので、輸入商品は、残り荷物を加えても 、 三 O万テールにはならなかった。 毎年一万五000ピコルの銅を受け取りたいという、

パタピアの総督の名においてなされた要求については、 皇帝は、錫不足のため今年の 取引では、六八四八ピコルの銅を与えられると言った。

しかし、 もし二隻の船が来て、 三O万テールの取引が完遂された渇合には、 皇帝は、

その在庫が多かったならば、一万ピコル かそれ以上の銅を与えるだろう

?

j

すなわち、 幕府は、 〈書翰A)では、前年の新たな鋼輸出政策が将軍の命令による もの であることを強調するとともに、 〈書翰B)では、同年オランダ船が遭鍵のため一隻しか 来航しなかったごとと銅不足を理由として、六八万四八00斤しか引き渡さ ないとして、

宇154 -

(13)

定高分の取り引きと銅の供給の粂件が許せば、将軍の命令により、一00万斤以上の鋼が 引き渡されるとしている。

(二)事保初期の積み残し銅について

前述の「かひたん口上Jにおいては、オランダ商館長は、一七二O年分の鋼の半分が未 取引であったということを主張していたが

そのことをオランダ商館の仕訳帳において検 証するとともに、右の商館長と長崎奉行との交渉の背景となる一七二0年代初期のオラン ダ商館の銅給出の実態を明らかとするごととしたい。ところで、同商館の仕訳帳は、一七 一九(事保四)年と翌一七二o(事保五)年の二年間分が現存しない。そこで、その前後 の取り引きを明らかにするために、先ず一七一五(正徳五)年の正徳新例以後の出島オラ

ンダ商館の銅輸出から見ていくこととしよう。

さきに一七一六(事保元)年と翌一七一七(事保二)年の二年聞に、それぞれ二000 箱の鋼を出島に積み残したことを明らかにしたが

こごでさらに詳しく見てみることとす

る。

一七一六年から一八年までの三年間の出島オランダ商館の仕訳帳による鍋の取引は、表 5-4のごとくである。

このうち、一七一六年の仕訳帳においては次期繰越高の中に、翌一七一七年からは前期 繰越高と次期繰越高の双方の中に、鋼が記載されている?)これは一七一六年以来出島オラ ンダ商館に前年の給入商品の売れ残りとともに、愉出すべき錫の一部が残っているごとを

示している。そこで仕訳般の銅取引の記載を分析することによって、正徳新例の翌年であ る一七一六年よりの銅積み残しの経過を明らかにしてみよう。

右の繰越分の銅を除いた、同年からの三年間の仕訳帳における鍋の取引は、全部で一二 件あるが、ごれらは具体的には

①(借方)本店勘定に対して〔貸方〕現金勘定

②〔借方〕銅に対して(貸方〕現金勘定

③〔借方〕本店勘定に対して〔貸方〕銅

の三種類の方法で記載されており、複式簿記の原則に よって、それぞれ し当年度購入して当年度に積み出した鋪

II.当年度購入したものの当年度は積み残した鍋 m.前年度積み残したものを当年度に積み出した鍋

の取引を示している。このうちIと皿とは、出島商館とパタピアとの聞の本支店聞の取引 を示す出島商館よりの輸出品〈鍋)の積み出し勘定であるザ

それによると出島オランダ商館は、 一七一六(事保元)年には一七0ポンドの鋼を購入

ー155 -

(14)

務-4 f撒帳における錫取引(1116-1118年) (1)

年 月日 数 量 箱数 単価 値絡 取引の種類 1116 11. 2 180,000 6,500 14.84 96,460 当年購入・積出し

11. 3 7ω,0ω 6,500 14.84 96,460 11

11 240,000 2,000 14.84 29,的。 当年購入・積残し 1111 10.23 180,000 6,500 14.84 96,460 当年勝入・積出し

10.24 540,000 4,500 14.84 66,1ω 11

11 240,000 2,000 前年積残し・当年積出し

11 4ω,000 4,000 14.84 59.360 当年購入・積残し

1118 10, 9 120,000 6,000 14.84 89,040 当年購入・積残し 10.12 540,000 4,500 14.84 66,7ω 当年鱒入・積出し

11 240,000 2,000 前年積残し・当年積出し

10.13 540,000 4,500 14.84 66,7ω 当年購入・積出し

/〆 240,000 2,000 前年積残し・当年積出し

註)期首繍卸高(前戴鰍越高)およひ灘保棚卸高(次鍍鰍越高)ι湖虎口座におけ る鍋d鴻己餓は除く。数量の単位はポンド(120ポンド=100斤)0 1箱は

100斤入りである。単価・値絡の単位はテール(1テールは銀10匁)。

Nogotie Journalen anno 1115/16-1111/18(N.F.J.895-897)による。

表5-5 仕訳帳における鍋取引(1116-1718年) (II)

借 方 貸 方

前年度線越分 当年度購入分 当年度積出分 翌年度線越分 1716(事保元) o Q 1,ω0,000 Q 1,560,000 Q 240,000 Q

0斤) (1,500,000斤) (1,300,000斤) ( 200,000斤) 1111(同 2) 240,000 1,800,000 1,560,000 4ω,000

( 200,000 ) (1,500,000 ) (1,300,000 ) ( 4ω,000 ) 1118(同 3) 4ω,000 1,800,000 1,560,000 720,0ω

(400,000 ) (1,500,000 ) (1,300,000 ) ( 600,000 ) 註)単位はポンド(Q) 0 Negotie Jωrnaren anno 1715/16-1717/18(N.F.J.895-897)に

よる。

- 156 -

(15)

したものの、そのうち一四六万ポンドすなわち一三O万斤の舗を積出し、 残りのこ四万ポ ンドすなわち二O万斤の銅を積み残しているのである

翌一七一七(享保二)年にも、同様に一五O万斤の銅を購入して、そのうち一一0万斤 を積み出し、四O万斤を積み残している。その一方、同年には前年度からの積み残し鋼二 O万斤を積み出している

さらに翌一七一八(事保三)年には、一五O万斤の銅を購入して、そのうち九O万斤を 積出し、六O万斤を積み残している一方、前年の積み残し鋼四O万斤が積み出されている のである

Y

)

このように 出島オランダ商館では、一七一六年から一八年までの三年間に、正徳新例の 削り当て量どおりの毎年一五O万斤合計四五O万斤の舗を取引したものの、各年一三O万 斤合計三九O万斤しか積み出すことができず、この結果、一七一八年には最終的に六O万 斤の積み残し鋼を生じている。

しかも、この六O万斤の積み残し鋼は、各年二O万斤ずつの積み残し銅が累積したもの ではなく、表5-4・ 5-5の仕訳帳のごとく、前年に積み残された鋼は、すべて翌年積 み出され、その年に積み残された銅は、すべて同年に購入され引き渡されたものであるこ とになっている。すなわち、一七一六年から一八年までの三年聞にわたって、出島オラン ダ商館は積み残し鍋を累積しているが、これらの積み残し銅は、同商館の仕訳帳において は、 すべて一年限りで豊年には積み出され、翌年新たな積み残し銅を生じるように処理さ れているのである。 」のような仕訳帳におげる積み残し銅の勘定は、表5-5のように、v?}守

前期繰越分と当年度購入分の合計と当年度積み出し分と次期繰越分の合計とを一致させる ことによって、借方と貸方 の収支を釣り合わせる複式簿記の原則に従っていることから、

そのように記載されているもので、すぐれて帳簿上の処理であったといえよう。

これに対して、 日本側の史料である『長崎実記年代録J においては、この三年間の積み 残し銅はすべて「弐拾万斤出 島蔵ニ残シ置、事保六巳年ニ積渡ルJ と、享保六年(一七二 一)にまとめて積み出されたことになっている(表5- 6 )

((!)

都市 『長崎刻己年代録Jにおける錫取引量(1 )

年 鋼(斤) 備 考

事保元(1716) 1,300,000 申年穣調節h

200,000 出島瑚じ勝て事保六巳年こ積極勧

同 2(1717) 1,300,000 此年積諸島}

200,000 出島政務個性事体て巳年積働

同 3(1718) 1,300,000 此年積泌}

200,000 出島政務跡事保六巳年績協

註) r長崎鶏時f場J(川快学文学部文化史研究施設所蔵〉。

- 157 -

(16)

務ー1 r長崎鶏�K滋Jにおける錫取引量( 11 )

年 鍋(斤) 備 考

事保4(1119) 150,000 但j比年入治i欠年こ付右銅買入出嶋歳入いたし置翌年積波 Iy

同 5 (1720) 150,000 但御定高百五姶万斤之内錫扮底こ付半高七拾五万斤買泌

750,000 前年買入置しも蔵残/之分二口〆百五拾万斤此内百三拾万

斤積渡り弐姶万斤者蔵残にいたし翌年積働 同 6 (1721) 150,000 去子年不足之分

400,000 笛丑年之分但御定鍋百万斤之内廻錫不足ニ付残り六拾

万斤者追而可相渡旨被仰渡lt\

600,000 去fy申酉成ノ三ヶ年二出嶋蔵勝之分

200,000 去子年出嶋蔵残シ之分都合百力泊五万斤i比年積潰L

同 7 (1722) 6倒,400 但遁錫不足こ付此内六姶五万斤積泌L残三万八千四百斤者 翌卯年積泊船b

同 8(17幻) 1,000,000

38,400 前年残り此年積泌L〆百三万八千四百斤買滅L

同 9(1124) 430,200 商責銀高こ卸J合 110,000 為御助成買渡御免

註) r長崎剣己年<<J録J (九州大学文学部文化史研究施動芳蔵)。

務-8 r長崎実員辞代録Jにおける銅取引量(III ) 購入(斤) 積出し(斤) 積残し(斤)

I

享保4(1719) 150,000 1,350,000 同 5(1120) 150,000 1,300,000 800,000 同 6 (1121) 1, 150,000 1,950,000 同 7 (1122) 650,400 650,000

同 8(1723) 1,038,400 1,038,400

同 9(1724) 600,200 600,200

註) r倒崎錨己年代滋J (九州大学文学部文化史研究施設所蔵)。

- 158 -

(17)

そこで、出島オランダ商館が、果して実際に前年の積み残し銅を豊年すべて積み出して いたのか、一七一九(事保四)年以後について、仕訳帳と「長崎実自己年代録」を比較検討 しつつ明らかにしてみよう。

出島オランダ商館の仕訳帳のうち、一七一九・二O年の二年間の分は現存しないので、

先ず『長崎実記年代録jで、この聞の取引を見てみよう。同史料のオランダ船に対する愉 出鋼の数量は、取引量と船積み量の二つの段階の数量が記載されており、同史料によれば、

享保四年(一七一九)から同一O年(一七二五)までのオランダ船による銅鮪出は表5- 7・5-8のごとくになる。

それによると、まず享保四年(一七一九)のオランダ商館に対する銅の取引量は、御定 高一五O万斤の取引枠に対して『銅払底ニ付半高七拾五万斤Jのみであり、しかも同年は オランダ船の欠航のため、銅を積み出すことが出来ず、「出島蔵入いたし置翌年積渡Jっ たという

この結果、事保元年(一七一六〉以来の出島の積み残し鋼は一三五万斤に増加

したことになる。

翌事保五年(一七二0)には、「長崎実記年代録』によれば、前年に続いて半高の七五 万斤の銅しか取引されず、同年来航のオランダ船は前年度の取引量と合わせた「二口〆百 五拾万斤Jの内一三O万斤を積み出し、残りのこO万斤を「蔵残シニいたし翌年積渡ルJ ごととした

5

0)ごの結果、積み残し銅の累積合計は八O万斤にまで減少したこととなる。

さて、翌一七二一(享保六)年からは、再び仕訳帳と「長崎実記年代録』との比較が可 能となる。

表5-9は、一七二一(享保六)年から 一七二四(事保九)年までの四年間の仕訳帳の 銅の取引をまとめたものであるが、一七二一(事保六)年の仕訳帳の前期繰越高には一五 五万斤もの銅が、前年度からの積み残しとして繰り越されており、さ らにそのすべてが同 年一一月七日から同月九日までの三日間の輸出品積み出し勘定に商品(鍋)勘定を設定し て記帳され 、同年に積み出されたことになっている

?

これに対して同年一一月六日から同 月九日にかけて、新たに-00万斤の銅が購入されており、このうち一一月六日に取引さ れた六O万斤が、同年に積み残されたことになっている

)

一方、「長崎実記年代録Jによれば、同年には『去子年之不足分jすなわち前年の不足 分七五万斤が引き渡されたものの、同年分( r嘗丑年之分J)の銅は、「御定高百万斤之 内廻銅不足ニ付j四O万斤しか引き渡さず、合計一一五万斤を取引している。また同年に は、事保元年から三年間の積み残し銅( r去ル申酉成ノ三ヶ年ニ出島蔵残シ之分J )六 O 万斤と前年積み残した( r去子年 出島蔵残シ之分J)二O万斤が合わせて船積みされてお

り、積み出し量の合計は一九五万斤となり、同年には積み残し錫がすべて解消されたこと になっている点が仕訳帳とは大きく異なっている

?

このうち「去子年不足分Jの七五万斤 は、前述の「カピタン口上」にいう「去年之残銅七拾五万斤Jに一致する内容となってい る。

- 159 -

(18)

務-9 仕訳帳における綱取引(1721-1724年) (1)

年 月日 数量 箱数 単価 値絡 取引の種類 1721 11. 6 720,ωo 6,000 14.84 89,似0.00 当年購入・積残し

11. 7 1紛,000 1,400 14.84 20,776.00 当年蛾入・積出し

11 612,000 5,100 前年積残し・当年積出し

11. 8 120,000 1,000 14.84 14,840.00 当年購入・積出し

11 660,000 5,500 前年積残し・当年積出し

11. 9 192,000 1,600 14.84 幻,744.00 当年購入・積出し

11 民泊,000 4,900 前年積残し・当年積出し

1722 10.27 766,ωo 6,384 14.84 94,738.56 当年腕入・積残し 10.29 60,000 500 14.84 7,420.00 当年購入・積出し

11 720,000 6,000 前年積残し・当年積出し

1723 10.16 204,000 1,700 14.84 25,228.0。 当年賦入・積残し 10.17 4ω,000 4,000 14.84 59,360.00

前当 年年 賦積入残・積出し

11 144,000 1,200 し・当年積出し

10.18 622,ωo 5,184 11

1724 11. 4 516,240 4,302 14.84 63,841.68 当年繊入・積出し

11 2似,000 1,700 前年積残し・当年積出し

註)期首棚卸高(前灘糊越高)およひ灘保繍卸高(次錨糊越高)ι湖虎口座におけ る銅<DIa載は除く。数量の単位はポンド(120ポンド=100斤) 0 1箱は

100斤入りである。単価価格の単位はタエル( 1タエルは銀10匁)。

Nogotie J∞rnalen anno 1720/21�1723/24(N.F.J.8持901)による。

季語-10 仕訳帳における鋪取引(1721-1724年) (11)

借 方 貸 方

前年度線越分 当年度勝入分 当年度積出分 翌年度繰越分 1721(事保6) 1,860,000 Q 1,200,000 Q 2,340,000 Q 720,000 Q (1,550,000斤) (1,000,000斤) (1,950,000斤) ( 600,000斤)

1722{同 7) 720,000 826,ωo 7ω,000 766,0ω ( 600,0ω) ( 688,400 ) ( 650,0ω〉 〈閃8,400 )

1723(同 8) 766,0ω 防4,000 1,246,ωo 204,000 ( 638,400 ) ( 570,000 ) (1,038,400 ) ( 170,000 )

1724(同 9) 2ω,000 516,240 720,240 。

( 170,000 ) ( 430,200 ) ( 600,200 ) o )

一一一一一一

駐)単位はポンド(Q) 0 Negotie Journalen anno 1720/21�1723/24(N.F.J.898-901) による。

- 160 -

(19)

このように、 一七二一(事保六)年の出島オランダ商館の鍋の勘定についての仕訳帳と

「長崎実記年代録』の記述は、同年の積み出し量が一九五万斤である点は一致するものの、

前年からの積み残し鋼・同年に積み残された量が大きく異なっており、 その原因は両者の 帳簿処理の遣いにあるものと思われる。 そこで、その原因について考えてみることとしよ う。

一七二O年一O 月二O日付の出島オランダ商館 長ヨアン・ アウエルの年次報告によれば、

今年の取引では、会社には一万五000箱の全ての量が、我々が恐れていた値上げ もなく与えられた。しかし、 その半分の七五00箱は現在あるものの、残りの半分の 七五00箱は、船の出航後まもなくもたらされるだろっ。』似)

とある。 ごのことから、同年のオランダ商館は、本来、銅の船積みに際して仕訳帳に記帳 すべきものを、 この不足分の七五万斤の鋼に関しては、同年の会計年度の終了するオラン ダ船の出航後に引き渡されることになっており、現実にはまだ引き渡されていないにもか かわらず、 同年の取引として仕訳していたことがわかる。したがって、仕訳帳においては、

この七五万斤は一七二O年の取引の中に含まれているものの、当然のことながら同年の積 み出し勘定には含まれていないため、翌年一七二一年の前期繰越高の中の積み残し鋼一五 五万斤に含まれることとなる。一方、「長崎実記年代録jにおいては、この七五万斤は同 年の勘定には含まれず、翌年になって「去子年不足分Jとして記帳されているのである。

このため「長崎実記年代録』によれば、事保六年(一七二一)に前年から積み残された鍋 は、 この七五万斤が除外されている分少なくなっているのである。

こうしたことから出島オランダ商館の取引帳簿である仕訳帳は、必ずしも現実の商品の 取引を忠実に反映したものではなく、商品の取引はその会計年度内で完了することを原則 としていた必要上、 操作されたものであったといえよう。 その意味では、 先ほどの一七一 六(事保元)年から三年間の積み残し銅の処理の仕方の違いを含めて、仕訳帳よりも『長 崎実記年代録jの方が、より実態を反映し、 商館長の認識にも即しているといえよう。

すなわち、 出島オランダ商館は、現実には一七一六年以来数年にわたる積み残し鋼を、仕 訳帳に見られる翌年積み出しではなく、「長崎実記年代録Jに見られる翌年再積み残しの 方法で抱え込んでいた可能性が強い。本来、仕訳帳は商品の引渡しをもって仕訳すること を原則としているが、ここ では実際の商品の移動と「仕訳帳Jの上での取引が、 明らかに 異なっているのである。

前述のごとく、享保六年(一七二一)より幕府は、 オランダ船に対する銅輸出の割り当 て量を従来の正徳新例以来の一五O万斤からー00斤に改めた。表5-9のように、同年 の仕訳帳によれば、十一月六日から九日までの四日間の聞に、前述の三種類の方法で錫の 取引が記帳されているが、このうち同年引き渡された銅は全部で割り当て量通りのー00

Ct�) 万斤であった。

翌七年(一七二二)になると、まず仕訳帳によれば、同年出島オランダ商館は六 八万八

ー161 -

(20)

回00斤の銅を取引したものの、この内の五万斤と前年度までの積み残しの内の六O万斤 との合計六五万斤しか積み出すことが出来ず、同年の積み残し鍋の累計は六三万八四00 斤と再び側目している?何年の仕訳帳におげる銅の取引量は、先に見た同年一0月二八日 付の長崎奉行のオランダ商館長宛書翰の内容とも一致している.

一方、『長崎実記年代録jにおいては、同年の取引 鋼は六八万八四00斤であったが、

f廻錫不足ニ付Jこのうち六五万斤しか引き渡きれなかったというヂこのため、積み出さ れたのは、この六五万斤のみで、残りの三万八四00斤は「翌卯年積渡』ったごとになっ ている。したがって、同年は 仕訳帳と「長崎実記年代録』とは、取引量・積み出し量で一 致しているものの、 仕訳帳においては再び引き渡されていない鋼三万八四00斤を記帳し ていたことになる。 また『長崎実録大成』によれば、同年には

ー当年一般荷物ニ前年残荷物相加ヘ、銀高猶不足ニ付、鋼高削合ニテ被相波、外ニ拾 菖斤為御助成被相渡旨、以漢文被仰波之38)

と、オランダ船の遭鍵による取引高の不足により、取引高に応じた量に「御助成』二O万 斤を加えた鋼が愉出されたとしているが、その内訳は明らかではない。

このように事保六・七年の両年の仕訳帳には、現実の銅取引を前倒しして記餓している ことが見られるのであるが、その背景には、 銅愉出量の確保を最大の課題していたオラン ダ商館の立場も多分にあったことはいうまでもない。

享保八年(一七二三)には、仕訳帳では五七万斤の鋪が取引されたが、 このうちの四 O 万斤と前年からの積み残し銅六三万八四00斤の合計一O三万八四00斤しか積み出せず、

同年の引渡し鍋のうち一七万斤を積み残すこととなったとしている2q)

一方、「長崎実記年代録jによれば、同年には同年分の割り当て量のー00万斤と「前 年残りJの三万八四00斤との合計一O三万八四00斤が取引され積み出されたとしてい

る。したがって、同年は仕訳帳と「長崎実記年代録Jとは、積み出し量で一致しているが、

積み残し鋼 の有無・取引量で異なっている。

翌九年(一七二四)には、仕訳帳では、四三万二00斤が取引され、積み残し鋼一七万 斤と合わせた六O万二00斤が積み出され、ここに事保元年以来、九年間続いた積み残し

(30)

鋼はようやく解消されたとしている(表5 -10)。一方、 「長崎実記年代録』では、同年 には四三万二00斤の『商売銀高二割合Jと一七万斤のf為御助成買渡御免jとの合計六 O万O二00斤が積み出されている包/)したがって 、同年も商館と「長崎実記年代録』とは、

積み出し量では一致しているものの、積み残し量の有無・取引量では異なっているのであ る。

以上のことから明らかとなるのは、先ず出島オランダ商館の仕訳帳においては、帳簿記 帳の原則と愉出鋼の確保の重要性から、取引鋼は現実の引渡し如何にかかわらず、その年 の仕訳帳に記帳されるとともに、積み残し銅は必ず翌年にすべて積み出されるように記帳 されていたということである。一方、 『長崎実記年代録Jにおいては、享保七年(一七二

一162 -

(21)

ニ)にf廻鍋不足ニ付」引き渡されなかった分を除けば、 事保五年(一七二0)に積み残 されたこO万斤を最後として積み残し鍋は見られないので、ある。�.v

( 1 ) Batavias u itgaand brieven, Hs.A.R.A., V.O.C.974, fo1.258-259.

( 2 ) Overgeko個en brieven uit Indie, Hs.A.R.A., V.O.C.1961, fol.52-53.同史料は Afgesonde Brieven van anno 1721, K.A.11731にも収録されている.

( 3) r事保五子年 新金阿蘭陀人t乞御波被成むも|日記之写J (長崎市立シーボルト記念館

所蔵中山文庫〉。

( 4) r長崎実記年代録J (九州大学文学部文化史研究施設所蔵)。

( 5) r長崎実録大成』正編、 長崎文献社、 二二二頁。

( 6 ) Overgeko・en brieven uit Indie, Hs.A.R.A., V.O.C.1961, fol.65-65.

Dagregister anno 1721, N.F.J.131, ongefol..

(7) Dagregister anno 1722, N.F.J.132, fo1.234-237.

( 8 ) Overgeko・en brieven uit Indie, Hs.A.R.A., V.O.C.1980, fol.54-55.

( 9 ) Overgeko・en brieven uit Indie, Ms.A.R.A., V.O.C.1980, fol.55-56.

( 10)註( 3 )所掲史料。

( 11)第五章第四節多照。

(12) Negotie Journaal anno 1715/16-1717/18, Hs.A.R.A., N.F.J.895-897.

( 13 )行武和博f出島オランダ商館の会計帳簿J (r祉会経済史学』五七一六、 一九九二

年)。

(14) Negotie Journaal anno 1715/16, Hs.A.R.A., N.F.J.895.

(15) Negotie Journaal anno 1716/17, Hs.A.R.A., N.F.J.896.

(16) Negotie Journaal anno 1717/18, Hs.A.R.A., N.F.J.897.

( 11)柱(12)所掲史料。

( 18)註(4 )所掲史料。

( 19)同前。

(20 )同前。

(21) Negotie Journaal anno 1720/21, Hs.A.R.A., N.F.J.898.

(22) op. ci 1. .

(23 )註( 4 )所掲史料。

(24) Overgeko・en brieven uit Indie, Hs.A.R.A., V.O.C.1945, fol.59-60.同史料は Afgesonde Brieven van anno 1720, K.A.11731にも収録されている。

(25 )註(21 )所掲史料。

(26) Negotie Journaal anno 1121/22, Hs.A.R.A., N.F.J.899.

- 163 -

(22)

(27 )註( 4 )所掲史料。

(28 )註( 5 )所掲書、二二二質。

(29) Negotie Journaal anno 1722/23, Hs.A.R.A., N.F.J.900.

(30) Negotie Journaal anno 1723/24, Hs.A.R.A., N.F.J.901.

(31)註( 4 )所掲史料。

(32)ここで言う積み残し銅とは、取引されオランダ側ヘ引き渡きれながらも船積みされ なかった銅を指している。 『長崎実記年代録Jでは事保七年(一七二二〉に引き渡 されなかった三万八四00斤が取引銅に含まれている。

第三節 ペルシア馬拝領鋼と臨時銅

前節で見たごとく、一七二O(事保五)年にはオランダ貿易における鋼愉出量は、-0 0万斤にまで削減されることとなり、同年オランダ商館が受け取った鋼は七五万斤に過ぎ なかった。これに 対してオランダ商館は、 一七二一(事保六)年の「かひたん口上Jに続 いて、翌一七二二(事保七)年にも長崎奉行に宛てて書翰を提出し、正徳新例に定められ た一五O万斤の銅の愉出を繰り返し要求している

3

)

この問、一七二一(事保六)年には、日本側史料である「長崎実記年代録Jによれば一一 五万斤、オランダ商館の仕訳帳によればー00万斤の錫が引き渡されたものの

)翌一七二 二(事保七)年には「実記年代録J、仕訳帳 ともに輸出銅は六八万八四00斤のみであっ たとしている

)同年には、長崎奉行日下部丹波守はオランダ商館長ヘンドリック・ドゥル フェンに対して、銅不足のためオランダ船への鋼輸出量はー00万斤を限ることを改めて 申し渡したが、オランダ側は納得せず

この問題はさらに翌 年に持ち越された。

翌一七二 三年(享保八年)八月一二日付の商館長ヘンドリック・ドゥルフェンの長崎容 行宛の書翰によれば 、

昨年、今年は三O万テール(ーテールは銀ーO匁=引用者註)の取引がおこなわれ、

一万ピコル(一ピコルは�OO斤=引用者註)の鋪が与えられること が約束されたが、

今年は二隻の大きな紛がここに送られ、合計一万 三000箱(ー箱はー00斤入り=

引用者註)の銅が紛送できるので、我々は、それだけの量を受け取ることを要求し、

以前に支払いを完了した会社の勘定の残りとして残された三三八四箱をここにもたら すことを要求する

?

ここ数年ここでは非常に多くの船がその航海中に遭雛したので、会社は正しく大損 害を慈った。そこで我々は、来たる一七二四年の取引では、パタピアの長官がそれに よって励まされるように、二隻の船の代わりに三隻を送るだげの非常に多くの鋼を受 け取ることを謹んで要求する。

- 164 -

(23)

とあり、オランダ側は、取引高に応じて銅愉出量を考慮するという前年の長崎奉行よりの 命令を楯に、オランダ船の輸送能力に見合った一三O万斤の鍋の受渡しを主張するととも

に、 翌年については三隻の船に見合った量の 銅を求めている。

前述のごとく、オランダ船の来航数は、正徳新例によって二隻に制限されたが、翌々年 の一七一八(事保三)年には、積み残し銅の引き取りのために、三隻のオランダ船が来航 することが老中によって許可されている

2

)これを受けて、翌一七一九(事保四〉年に日本 に向かった三隻のオランダ船は、すべてその途中嵐に合い遭雛したが、一七二一〈事保六) 年には三隻のオランダ船が来航している。 このように、オランダ船の来航数は必ずしも二 隻に固定されていたわけではなく、幕府は積み残し銅の引き取りという必要に応じて、三 隻のオランダ船の来航を認めていた。 そこでオランダ側は、三隻の来航に必要なだげの鋼 輸出量を要求したのである。

結局、事保八年(一七二三)には『長崎実記年代録Jによれば-00万斤、仕訳帳によ れば五七万斤の鋼が引き渡されているが、同年一O月一三日付の商館長ヘンドリック・ド ゥルフェンの特別報告では

会祉の残りとして日本にとどめられた一七00ピコルの鍋が、約束通りになったと しても、せいぜい一万一七00ピコルしか供給されないだろう。 それは結局、通常の 一四五フィートの船二隻で運ぶことが出来るよりも、一三00ピコル少ない。 そのこ とを私は通詞にも知らせて、会社は、どんな方法で、あるいはどのような商品で、所 定の取引高を満たすことが出来るのか、助言をしてほしかった。 もしせいぜい一万一 七00ピコルの鋪が与えられるだけでは、それは言われるように、二隻の船のために 充分な積荷を作ることはできないのであるから、 もし第三の船が来てよ〈とも、それ は鋼を 積まずにど うして海を 渡ることができょうか

?

)

と、オランダ側は二隻のオランダ船でも最低一三O万斤の鋼が必要であるとしている。

このような鋼輸出量と第三の船の派遣を巡るオランダ商館と幕府との交渉に新たな局面 をもたらしたのは、将軍吉宗による洋馬の輸入の要請であ った

?

同年事保八年九月、幕府 はオランダ商館に対して牡三頭と牝二頭の馬を輸入するよう漢文で仰せ渡したが、その和 解文中には

右御用に候問可牽波候、左あるにおいては、銭御褒美御定高銀之外に、八百貨自分 之臨時商責可差免候閥、其積りを以荷物可積来候、尤御定船敏之外に馬船一般可乗渡 候、(中略)右之鰹ぜねらるへ申達、来年入海之時分 必可輩波

とあり、幕府は翌享保九年に注文の馬を輸入することを命じるとともに、その『御褒美J として、定高三O万テール(新銀では一五00貫目となる)に加えて、新銀八00貫目 (従来の一六00貧目すなわち一六万テール〉の「臨時商責Jを認めると同時に、二隻の オランダ船の他に「馬船J一隻を 許可することを約束している。 この書付については、同 一七二四(事保九)年一一月五日付の商館長ヨハネス ・テーデンスの年次報告の中に、一

- 165 -

(24)

七二三年一O月一三日( I日暦九月一五日〉の日付で、 そのオランダ語訳の写しが収められ ているが、 それによれば

もしその渇合には、陛下は報酬として、 会紅に通常認められた三O万テールの上に 一六万テールを取引することを認める。また会社にとって喜こばしいことに、 その動 物を運ぶために、 通常の二隻の上に、 一隻の船を送るごとを認める。Qゆ

という条件が付いており、右の和解の内容と一致している。

しかし翌一七二四(享保九)年には注文の馬はもたらされなかった。オランダ側は注文 (t;) , ....t..4...J:ad'... '_.LrA A"'otr. .::D:1 -Ã- 1- '" ___ . ... _L<o..'V.v の大きさの馬が手に入らなかったと弁解し、 ハタヒア総督の遺憾の意を伝えているか、同 年のバタピアより出島オランダ商館の訓令では、 この一六万テールの『臨時商責Jについ

しかしながら、その取引高をすべて大きな小判(事保小判=引用者註)で輸出する ことになるのか、 あるいは一部は鋼になるのかということについては、 明確な説明は なされなかった

f

)

とあることから、 馬の未進とは別に、 オランダ側は、 取引高と船数の増加が現実に銅輸出 量の増加につながるのかどうか、強い関心と疑問とを抱いていたことがわかる。 これに対 して通詞名村八左衛門は、馬が来ないことは将軍に対しての不敬と見られ貿易に思い最多醤

t付

を与えるであろうと溢告している。同年一七一四年九月二日(旧暦七 月一六日〉、商館長

テーデンスに対して、 再び長崎君事行を通じて、幕閣の命令が今度は日本語で手渡された。

それによれば

それらの馬は既に注文され、 商館長によって実現すると答えられてから二年になる。

しかし 、昨年は商館長が公言したようには運ばれなかった。それは、海が嵐の後で、

非常に危険であったからであり、 会社に要求して運ばせることは非常に因鍵であった。

そのごとを会社は弁解し 続けている。それが大きな代償を必要とすることは、 ごの (オランダ船の航海中の=引用者註)雌散によって明らかである。 そこで、 それらの

馬のために一隻の船を許可し、通常の三O万テールの他に一六万テールを取り引きし てよい。。õ)

とあり、幕府は洋馬輸入献上の見返りとして、オランダ船の三隻への許可と取引高の一六 00貧自の臨時増を再び提示している。

翌一七二五年七月二三日(事保�O年六月一四日)に入港したオランダ船で待望の五顕 の馬が届き、翌年春に江戸ヘ送られた。表5 -11のように、 オランダ船による馬の愉入は、

その後も続き、一七三六(元文元)年までの間に合計二九頗がもたらされている。 このよ うにオランダは洋馬の注文の命令を実行したのであるが、 それでは幕府の『御褒美Jの約 束は、 どうなったのだろうか。

先ず一六万テールの取引高の臨時増であるが、表5 -12のように、 馬が初めて愉入され た享保ーO年には、 オランダ貿易の取引高は、 『長崎実記年代録jでは新銀二三二七貧三

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