ズム詩と中国 : 同人詩誌『亜』と『銅鑼』を中心 に
著者 楊 偉
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 10
ページ 3‑23
発行年 2013‑03‑29
URL http://doi.org/10.15002/00022445
楊 偉
1 はじめに
欧米においては、モダニズム文学の最初の起源をフランスのボードレール
(1821 ~ 1867)とアメリカのポー(1809 ~ 1847)に遡って探る学者もあるが、
1890 ~ 1910 年がモダニズム文学の開始期であり、1910 ~ 1930 年代がモダニ ズムの最盛期とされるのが、むしろ普通である。モダニズムは 20 世紀初頭か ら 1930 年代にかけて見られた表現主義、立体主義、未来主義、イマジズム、
ダダイズム、構成主義、超現実主義などの文学芸術の新しい諸運動、諸傾向を まとめた総称と言えようが、「日本におけるこうしたモダニズムの影響はちょ うど日本の近代詩が現代詩へと変貌していく 1920 年代(大正 9 年~昭和 4 年)
が中心であり、日本のモダニズムの時代は、ほぼこの時期に重なる。特に詩の 分野を見ると、関東大震災(1923 年)をはさむこの時期の前半期には、未来主義、
ダダイズム、アナーキズム、社会主義などが渾然とした、社会や言語にかかわ る変革を志向した表現が目立ち、前衛詩の時代と呼べる特色がある」(1)。その 変革意欲になんらかの社会的感覚がつきまとっている前衛詩は、従来の詩形、
言語、方法論、美意識を打破し、社会意識においても既存の秩序、権威、伝統 のすべてに必死に反逆した。その結果、やがてアナーキズムの思想的立場に うつり、芸術の革命から革命の芸術へのコースを踏んでいった詩人も出たわけ である。が、同じ後半期に、詩論を重要視し、主知的に、理知的に詩作を唱 える詩誌『詩と詩論』の運動が詩壇の中心となっていき、フランスなどのモ ダニズムと違って、形式変革に専念し、社会意識の薄いことを特色としており、
詩誌『文学』、『詩法』などの後継誌を通して、1930 年代前半までその運動の
北東アジアの歴史コンテクストにおける 日本モダニズム詩と中国
―同人詩誌『亜』と『銅鑼』を中心に―
影響が続いている。
1920 ~ 30 年代のアヴァンギャルドと都市モダニズムの詩は、19 世紀後半か ら始まる近代詩を大きく切断し、現代詩のステージを作り出していった。ダダ イズム・アナーキズム・短詩運動などの言語実験は、シュールレアリスム・新 散文詩運動・新即物主義などの都市モダニズムの詩学へと展開していく。1920 年代の日本詩壇に登場した新しい世代の詩人たちは前代の詩概念の否定と大 胆な革新を通じて、ダダイズム、アナーキズムなども含む広い意味でのモダニ ズム文芸思潮を引き起こしたのであるが、日本の学界では「モダニズム詩」と いう言葉を使うときに、むしろ社会性の付着している前衛詩と対立する概念と して、形式変革に専念する『詩と詩論』を中心とする詩だけを指すことが多い。
言い換えれば、日本で使われる「モダニズム詩」という用語は明らかに欧米 のモダニズム詩の概念よりはるか狭い偏狭な呼称となってしまったのである。
「狭義の日本のモダニズムの詩は日本の前衛詩と対立するものだが、広義と いうことから言えば、日本のプロレタリア詩などもモダニズムに入るものであ ろう」(2)と澤正弘氏の指摘があったように、日本モダニズム詩を狭義と広義 で定義する二種類のとらえ方がある。小論は、日本モダニズム詩と中国の関 係を論じるとき、狭義的な日本「モダニズム詩」にこだわらずに、むしろそ の広義的な概念、すなわち 1920 代年に見られたモダニズム詩とアナーキズム 詩、ダダイズム詩などの前衛詩を包括した概念として用いることをお断りし ておく。というのは、こうしてこそ、日本モダニズム詩の諸側面、また、北 東アジアの歴史コンテクストにおける日本モダニズム詩と中国の関係を多視 点に検証することが出来るからであると思う。そして本作業は、小論の副題 に示されたとおりに、同じく 1920 年代の中国で発刊した二つの日本同人詩誌
――北の大連で創刊された『亜』(モダニズム詩の重要な詩誌とされている同 人誌)と南の広州で創刊された『銅鑼』(アナーキズム系詩誌とされている同 人誌)――を中心に、考察を進めていくことにする。
小論を書く背景として、川村湊氏の『異郷の昭和文学』(岩波書店、1990 年)
を皮切りに、中国の学者の王中忱氏らも加わり、中日両国に見られる北東アジ アの歴史コンテクストにおいて日本モダニズム詩の成立を考察する動きがあ げられる。つまり、大連における詩誌『亜』をめぐる考察を通じて、専ら西
洋にモダニズム詩の起源を求める従来の視点と異なって、植民地としての「満 州国」、とくに「大連」という場所(トポス)及びその植民地としての歴史と の関連性に注目して日本モダニズム詩の発端を考える動向がある(3)。小論はこ の流れを汲みながら、更に視野を広げ、北の大連に発刊する『亜』と南の広州 に発刊する詩誌『銅鑼』の成立事情、主に 1920 年代の歴史背景、大連と広州 という二つの異なる都市背景、両誌の詩風、現代詩史における位置づけという 幾つかの面から、日本モダニズム詩と中国との関係へのアプローチを試みる。
ただ『亜』に関してはすでに川村湊氏、王中忱氏らのすばらしい研究成果が あるゆえ、小論はその先行研究をふまえながらも、むしろまだあまり論じら れていない『銅鑼』のほうに重点を置き、両誌の比較も兼ねて、論述を展開 させていく。
2 安西冬衛らの『亜』と大連―川村湊氏と王中忱氏の先行研究を手 がかりに―
周知の通り、『詩と詩論』はモダニズム詩の橋頭堡として詩そのものの純粋 な形成とか、詩における意味の否定とか、所謂純粋詩の追求と把握に重きを置 き、リアリズム詩に抵抗し、短詩と新散文詩を唱えた。それが明らかにフラ ンスの「新詩精神」(エスプリ · ヌーボー)運動を始めとする西欧モダニズム 文学思潮の影響を受けたことから、日本モダニズムの起源に論及するときに、
専ら欧米に目を向けるのが当たり前のことに思われる傾向が続いていた。
実は、モダニズム詩の代表者のひとりと思われる安西冬衛の指摘があった通 り、「日本では、1924 年、大正 13 年になってはじめてこの新しい精神運動が 継起発展することになるのです。すなわち、当時大連で創まった『亜』に拠る 運動がその発端」である(4)。『亜』停刊(1927 年)後の 1928 年に、『亜』の詩 人たちは東京の詩人と合流し、『詩と詩論』を創刊して、ようやく日本モダニ ズム詩運動を本格的にスタートさせたのである。ところが、大連で創刊した
『亜』をめぐる安西冬衛などの詩人たちの詩法、大連という植民地としてのモ ダン都市と日本モダニズム詩の関係などを、北東アジアの歴史コンテクスト において正面から追究する研究は、管見では、まだ少ないと言わざるを得ない。
本格的な試みとしては、まず川村湊氏の『異郷の昭和文学』(岩波書店、1990 年)
をあげなければならないと思われる。
川村湊氏は『異郷の昭和文学』において「詩誌『亜』を日本モダニズム詩 の原点、あるいは母胎であったとする見方があったとしても、それは必ずし も大げさでも我田引水でもない。日本モダニズム詩は、大陸の一角、植民地 としての大連で生まれた。あるいはさらにいうと、大連であったからこそ、『亜』
という詩誌が生まれ、そこから日本のモダニズム詩が、さなぎから蝶となっ て飛び立ったのである」(5)。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という、
詩集『軍艦茉莉』に収録された短詩「春」を例に、詩人清岡卓行の評価を借りて、
この短詩に「凝縮された国際性の野趣」があると評価し、「植民地都市の " 国 際性 "、それはもちろん異種なもの同士のぶつかり合いであり、大きなものと 小さなもの、荒々しいものと可憐で優美なもの、冬の凍りつくイメージと、春 の仄かなぬくもりのイメージとの、それこそ異種交配的な現場から生まれて 来るポエジーにほかならないだろう」(6)という。かつて極東のパリ、ロシア 人のパリであった 1920 年代の大連は日本内地からの移民を受け入れる「開拓」
の場であると同時に、西洋との境界たる「前衛」の場でもあった。ロシアの 植民地、それから日本の植民地となった多難な歴史を持った大連には、中国人、
日本人、ロシア人などの多国籍民が雑居し、ヨーロッパ風の広場、メリーゴー ランド、日本式の駅舎、中国人の屋根裏部屋といったように、モダンな建築 とスラム街が混合している。こうした幾つもの層を重ね合わせた民族と文化 の層を持った植民地的空間であるからこそ、安西冬衛たちの新鮮な感性が孕 まれ、その二元対立的な詩的特性がうまれてきて、そしてそんな空間の中で、
本来同じ文脈の中では並びあわない「韃靼海峡」と「蝶」、「軍艦」と「茉莉」
といった言葉を強引に組み合わせて、言葉の衝突によるモダンなポエジーを 作り出すことが出来たのであるという。
「マラソン選手乒」という詩で安西冬衛は兵の片足の取れた「乒」という字 形を借りて片足を膝関節炎結核で切断された自分の姿を描いている。漢字を その意味ではなく、「外形」によって使用する手法はモダニズム詩人の武器の 一つとされているが、これも、日本語がエキゾチックに見えてくる環境のな か、すなわち言葉が元来の意味を剥奪された植民地都市の風景の中で可能に
なったわけである。「それは語源や、既成の文学作品からの連想や情緒、あり とあらゆる言葉そのものにまとわりつくイメージ作用や意味作用を禁じられ、
外国語に代替え可能な意味としてだけ、あるいはその音や文字の形という外 形的な要素にだけ還元されてしまうのである」(7)。このような、言葉の外形上 の特色を突出させる手法は後の『詩と詩論』の詩人たちに受け継がれ、言語 位相の新発見と見なされて、短歌、俳句、文言定型詩から口語自由詩へと発 展してきた日本近代詩と異なり、音楽的構成よりも造形的構成に訴え、イメー ジ喚起力に新しい美を求めることによって、所謂純粋詩の達成につながるも のと思われる。
王中忱氏は「殖民空間中的日本現代主義詩歌」(「植民空間における日本モダ ニズム詩」)という論文において、川村湊氏の研究を受けて、『亜』が中国大連 に誕生した事実をふまえて、「満州国」時代の政治、経済、戦争、移民の歴史、
都市の歴史を検証し、日本モダニズム詩と日本の植民主義歴史との関係を考 察している。資本主義が十分発達した西欧しかモダニズムの発祥地にならな いという固定観念に異を唱え、モダニズムの発生は非常に複雑な原因があり、
近現代歴史の諸側面に深く関わっており、もちろん、植民の歴史もその中の 一つであると主張している。特に、王氏は短詩「春」に対して安西が行った「間 宮海峡」から「韃靼海峡」への変更に注目し、当時日本が武力で満蒙を占領し、
韃靼という故地の新主人になったという日本領土拡大の歴史事実と、当時の 日本でもてはやされた東洋学言説、大陸探検記などに見られる植民主義的コ ンテクストにおいて考察した結果、この変更は単なるレトリック上からの配 慮ではなく、詩人内面に進んでいる植民意識を覗かせるものでもあったと結 論付けている。「『亜』が終刊してから、安西冬衛はすぐさま東京で発刊した
『詩と詩論』の同人となり、新たな詩作活動の段階に入ったにつれて、詩作に おける地理風景も変わった。(中略)この時期、詩人の政治地理学的視線はサ ハリン、韃靼海峡から絶えず拡大し、アジア全体に関心を示した。もちろん、
その重点は「満州」、蒙古と新疆にあった。(中略)要するに『亜』時代から『詩 と詩論』時代にかけて、安西冬衛の詩の中に現れてきた地理的構図は東アジ アから中央アジアに至っていた」(8)と述べ、所謂純粋詩と呼ばれるモダニズ ム詩の深層にもやはり政治意識が隠されていると指摘し、当時日本の植民地
政策、歪んだ共同幻想、植民地の異様な地理的 · 政治的風景と切り離しては安 西のモダニズム詩が語れないものという。
1924 年 11 月に大連で発刊した『亜』は 1927 年 12 月、通巻 35 号で終刊した。
その後の 1928 年 9 月、『詩と詩論』は『亜』のメンバーであった北川冬彦、安 西冬衛、滝口武士、三好達治と、春山行夫、飯島正、上田敏尾、神原泰、近藤東、
竹中郁、外山卯三郎の 11 名によって、東京で創刊された。超現実主義などの 欧米の新しい前衛文芸思潮の影響を受けた詩人達の集合体的同人誌としてス タートしたのであるが、メンバー構成的には、『詩と詩論』と『亜』は一種の 後続関係があると言える。『詩と詩論』の創刊号の後書きに「われわれがいま ここに旧詩壇の無詩学的独裁を打破し、今日のポエジーを正当に示し得る機会 を得たことはなんといふ喜びであらう」と宣戦布告が明記され、その創刊は旧 詩壇に対してのあからさまな挑戦であり、「詩壇的な主導機関」たろうとする 野心に満ちているものであった。『詩と詩論』の所謂「新詩精神」運動の一環 として厚生閣書店の『現代の芸術と批評叢書』が発行されたが、その第二冊 が安西冬衛の『軍艦茉莉』であった。その後、安西の第二詩集『亜細亜の鹹湖』、
第三詩集『渇ける神』を頂点に、第四詩集『大学の留守』、第五詩集『韃靼海 峡と蝶』なども次々と発行された。とにかく、安西冬衛は『詩と詩論』に登 場することによって『亜』という「満州」の地方都市――大連の同人誌の詩 人から脱皮し、内地の文化中心地の『詩と詩論』の代表的な存在のひとりと なったのである。一方、『詩と詩論』の方も安西冬衛の詩を掲載することによっ て、多くの読者にモダニズム詩のモデルを提供し、詩誌の価値を高からしめ たのであった。また、北川冬彦、滝口武士、三好達治といった『亜』のメン バーの詩作も加わって、『亜』の詩的手法、詩的主張が『詩と詩論』に後続され、
更に拡大されたといって過言ではあるまい。『詩と詩論』は、フォールリズム、
超現実主義、新散文詩などの詩実験を行い、詩のみならず同時代の欧米の文 学論の流れも積極的に紹介して、モダニズム運動の一拠点となったのである。
そして後に、雑誌『詩法』、『新領土』に受け継がれ、戦後の『荒地』の詩人達 の出発点ともなった。また『荒地』後の吉岡実、『凶区』の詩人達なども、昭 和 10 年代のダダイズムやモダニズムの運動との関連を指摘されていることか ら、『詩と詩論』の影響は、戦後を経て現在にまで及んでいるといえる。
中国大連で創刊した『亜』が行った先駆的な変革とそのメンバーの加勢が あったからこそ、『詩と詩論』の大規模なモダニズム運動が出来たと言わざる を得ない。終刊に際して寄稿された「亜の回想」には、堀口大学・与謝野寛・
高村光太郎・河井酔茗・草野心平・梶井基次郎等、日本詩壇を背負って立っ た人達の名が連ねられていることから、いかに当時反響が大きかったかが知 られる。この歴史的意義を持ち、現代詩史を語るときに避けて通れない『亜』
が中国の大連にうまれたことは、前に述べたように、偶然ではなく、ある種 の歴史的必然性がある。こういう視点からみれば、日本モダニズム詩の発生 に中国要素が大きく関わったと言ってもよかろう。
3 広州で創刊された『銅鑼』及び現代詩史における『銅鑼』の位置 づけ
『亜』が 1924 年 11 月に大連で誕生して 5 ヶ月後の 1925 年 4 月、中国広州の 嶺南大学で、日本人留学生草野心平が、原理充雄、富田彰と中国人黄瀛、劉 燧元を同人に誘い、同人詩誌『銅鑼』を発刊し、1928 年 6 月に終刊した(発 刊も終刊も大連の『亜』より 5 ヶ月~ 6 ヶ月ぐらい遅れている)。通巻は 16 号。
中華民国嶺南大学銅鑼社より謄写版印刷で創刊されたこの詩誌であるが、五・
三〇事件による反英・反日運動のあおりを受けた草野は、3 号を未製本のまま 日本に持ち帰り、当時東京留学中の黄瀛の協力を得てやっと発行できた。3 号 から「ダダイスト新吉の詩」をもって詩壇を騒がせた高橋新吉、生活の声を語 る方言詩を作る播磨農民詩人の坂本遼、萩原朔太郎の高弟として知られる岡 田刀水士が同人となる。4 号からマルキシズム系の三好十郎と、当時はまだ無 名だった宮沢賢治が加わる。以後、号を重ねるごとに同人を増やし、土方定一、
手塚武、小野十三郎、岡本潤、赤木健介、尾形亀之助、佐藤八郎、萩原恭次郎、
三野混沌などの顔ぶれも参加した。三野混沌のような農民詩人もいれば、『亜』
の同人でもある尾形亀之助のような日常生活を描く「生活詩人」もいる。赤 木健介のようなボルシェビズム系の詩人もいれば、また岡本潤、小野十三郎、
萩原恭次郎のようなアバンギャルト詩誌『赤と黒』(大正 12 年創刊)の同人 たる詩人も参加している。『銅鑼』同人になる前から、岡本潤はすでに「おれ
ら」という作品を持ち、社会的、思想的立場から権力へ挑戦し、社会の平面 に生きることを拒否する自負と反逆の歌を歌い、萩原恭次郎も詩集『死刑宣告』
を出して、ダダイズムからアナーキズムへ傾倒していく。以上からも分かる ように、『銅鑼』は草野心平中心の詩誌であり、最初は草野心平の文芸的交友 圏に属する人々で構成されていたが、徐々に参加者の詩的・思想的幅を広げた。
活版印刷に移行した 6 号以後、マルクス主義の立場にたつ赤木健介の評論など、
政治・社会的状況と切り結ぶ評論が掲載され、詩篇もさまざまな抒情詩の中に、
社会の矛盾に注目する先鋭なものが目立ってきた。しかし、組織の内実にも 大きな変化があったこともあって、8 号と 9 号において手塚武と赤木健介によ る政治的立場の対立が表面化してきて、その背景には芸術世界におけるアナー キズム系とボルシェビズム系の対立があった。10 号の巻頭には「第二次銅鑼 巻頭言」というマニフェストが掲載された。「われ等は、出発当時の精神より して、友愛的な結合に依りて、相互の扶助的精神に依りて成立する団体にして、
政治的意識の下に構成されしものに非ず。故に、思想的乃至は観念的相異より して分裂することなく、自由主張と自由合意の精神の下に、一致協力、常に エゴーの核心に立ち、より偉大に依って烙印されし世界感情に依って、新し き実在の探求及び創造を期す」、つまり「同人相互の扶助的精神」、「友愛的結合」
などが謳われ、アナーキズムへの傾斜が加速する。11 号には一時アナーキズ ム系とボルシェビズム系の混淆状態が見られたが、14 号に、土方定一訳の「パ クーニンの手紙の断片」が掲載されるなど、アナーキズムの色が更に強まった。
1928 年 6 月、刊行の中心である土方定一の渡欧、草野心平の生活の行き詰ま りと前橋移住がきっかけで、『銅鑼』は終刊したのである。
『銅鑼』は 3 年足らずの歴史しかないが、そこにはその激動の時代の思想状 況が反映され、現代詩史に残りうる仕事をしてきたと言える。坂本遼の『たん ぽぽ』、三野混沌の『百姓』『開墾者』、草野心平の『第百階級』などが「銅鑼社」
から刊行され、これらは昭和初期のアナーキズム系、農民詩としてはもちろん、
現代詩史的にも重要な詩集である。そのほかに、高村光太郎から経済的援助 をうけ、また「清廉」など複数回の寄稿を得たに加え、無名な地方詩人だっ た宮沢賢治を同人に迎え、13 篇の詩を掲載したことも文学史に特書すべきこ とである。
『銅鑼』の歴史を振り返ると、すぐ分かるように、この草野心平の交友関係 に始まって、次第に幅を広げて、さまざまな詩人を加えた『銅鑼』には、アナー キズム系とボルシェビズム系の混淆と対立がよく指摘されるが、実は、この二 つの傾向は多少方向性が違うが、いずれも既成の秩序と権威を打破する社会 意識、時代意識が強いところで一致している。『銅鑼』の詩作に社会の矛盾に 注目し、社会に対する個人の反逆と自由を謳うアナーキズム的な先鋭なものが 目立っており、最大な特色ともなっている。これは短詩運動を起こし、詩法の 実験に専念し、詩の形式改革を唱える『亜』及び『詩と詩論』と明らかに異なっ ているが、1920 年代の広義のモダニズム詩のもう一つの流れを形成したと言 える。
『亜』の安西詩に見られる孤高な高踏性、モダンな都市性と異なり、三野混 沌の農民詩、坂本遼の方言詩、草野心平の「蛙」詩、宮沢賢治のイーハトーブ に関する詩などに一種の庶民性、地方性が底流している。この庶民性は、坂本 遼の「お鶴の死」に対する感情移入と草野心平の『第百階級』の蛙に対する感 情移入、宮沢賢治の農民への重視に繋がるものと思われる。草野心平の詩に も宮沢賢治の詩にも社会底辺に生きる農民を描くものが多い。「近代化の中で 置き去りにされた貧民層として<農民>に立脚点をおいていること、そして万 国の農民たちとの連帯とその幸福を志向している点で、ふたり(宮沢賢治と 草野心平をさす――引用者注)には強い連帯(「一の意識」)が見いだされる」(9)。 この一地方の農民に立脚して、万国の農民達との連帯感と幸福を目指す意識 は、世界感情、ひいては宇宙感情に発展する可能性を備えていると思われる。
この意識は上述の「第二次銅鑼巻頭言」に公言されたマニフェストにも見られ る。つまり「エゴーの核心に立ち、より偉大に依って烙印されし世界感情に依っ て、新しき実在の探求及び創造を期す」とあるように、個の「エゴー」から「よ り偉大に依って烙印された世界感情」への昇華をもとめる意志が地方性から 世界性への昇華に繋がる要素を持っている。『銅鑼』の詩人たちはアナーキズ ムという標語で括られることが多いが、主要メンバーである三人の詩人――
草野心平、宮沢賢治、黄瀛などの詩に個別性、多様性と宇宙的連帯感を重視 するコスモポリタニズムの旗が掲げられており、その基底には政治や、文化 の壁を越えた人類全体の幸福への願いがあったのは間違いない。
終刊後の『亜』が後の『詩と詩論』に吸収されたのと同様に、終刊後の『銅 鑼』も前橋移住の草野心平の創刊による『学校』に吸収され、『銅鑼』の思想 基軸をなすアナーキズム的な傾向、自由主義的、人道主義的な傾向が『学校』
に後続され、またその後の『歴程』に継承され、更に広がりつつある。アナー キズム系と人生派系の混合系と思われる『歴程』誌は人生的傾向を続け、『銅鑼』
の個別性、多様性、宇宙連帯感を重視するコスモポリタンの旗を引き受けた。
現代詩史における『銅鑼』の位置づけについて、伊藤信吉は次のように語っ ている。「現代詩の展開過程に消長した数多くの流派やグループの中で『銅鑼』
(1925 年 4 月創刊)『学校』(1928 年 12 月創刊)『歴程』(1935 年 5 月創刊)三 誌は大まかにいって、ひとつらなりの<誌的>系譜を成し、同時にひとつら なりの<詩的>系譜の問題を含んでいる。このうち『歴程』が現在も続刊さ れているが、(中略)『銅鑼』は現代詩における二つの詩的性格の発端を成し、
その全十六冊を通じておのずから形成され、また分解したものによって、一 方ではアナーキズム系に、一方では『学校』の詩的、思想的ニュアンスある 形態を準備した。この思想的要素の剥離あるいはそれと分離したところに『歴 程』が登場したというべきで、この雑誌は当時のモダニズムやリリシズムの傾 向をやや外目に見て、生命感的な、いくらか野生的な、生の呼吸音を伝える ような<詩的>性格を示した。おおよそのところ、この三誌は、このように して一面でひとつらなりに繋がり、一面においてそれぞれに分離し、分解した。
現代詩の展開過程における『銅鑼』の位置と意味を私はこのように見る」(10)。 4 安西冬衛にとっての大連と草野心平にとっての広州
大連で発刊した『亜』(1924 年 11 月創刊)が、『詩と詩論』(1928 年 9 月創刊)、
『詩法』(1934 年 8 月創刊)、『新領土』(1937 年 5 月創刊)と一つらなりの<詩 的>系譜を成したように、広州で発刊した『銅鑼』は『学校』、『歴程』と一つ らなりの「詩的」系譜を形成した。この二つの「詩的」系譜は今日の日本現 代詩にもそれなりに深い影を落としていると言える。『亜』と『銅鑼』は詩的 主張も異なれば、詩風も異なるが、両方とも日本 1920 ~ 30 年代の詩壇に大き な影響を与え、一流の詩人を生んだことが言える。そして、両誌が共に中国
に誕生した事実により日本モダニズム詩と中国との機縁を感ぜざるを得ない。
大連と広州という二つの都市の異なる地理状況、都市風景と歴史背景が詩人の 詩的感性と詩法にそれぞれ大きく作用したのは言うまでもない。植民都市と しての大連の建築・人種・文化の多重層構造が安西冬衛に新鮮な詩的感性を もたらし、言葉本来の意味が剥奪されたエキゾチックな言語環境が詩人に言 葉の外形の意味に目覚めさせたというならば、広州という都市はまたどのよ うに草野心平の詩的感性に働きかけ、詩人自身の資質と一緒にその詩風を決 めたのであろうか。安西が『亜』の中心的な存在であるが如く、草野も詩誌『銅 鑼』の中心的な存在である。中心人物によって、詩誌の編集方針、詩風など が決まってくるのは贅言を要しない。特に『銅鑼』は草野の文芸的交友圏に ある友に呼びかけて作られたものなので、草野の詩的理念がある意味では『銅 鑼』の方向性を決定したとも思われる。こういう意味では、広州の都市風景、
歴史背景、そこにおける個人の交友関係、読書対象など、中国における草野 の越境体験が『銅鑼』の性格をも大きく左右したと言える。
どんな人間にとっても、20 歳前後の数年はその人生に殆ど決定的な意味を もつということは無論である。草野心平が中国の広州に渡ったのは 1921 年で、
詩人 18 歳のときであったが、安西冬衛が「満州」大連市肥塚商店支店長の父 に招かれて、大連に渡ったのは 1920 年で、詩人 21 歳のときであった。前にも 触れたように、1920 年の大連は、1904 年の日露戦争の結果、日本軍の占有す るところになり、植民地「満州国」の一地方都市として躍進してきた。長春ま での鉄道や撫順の鉄鉱区、鉄道沿線の経営が日本の権益となると、鉄道技師や、
鉱山技師を始め、南満州鉄道株式会社経営者、関東軍の軍人、あるいは「満州国」
行政に携わる人材や民間人が流入してきた。彼らの子弟の世代も大連という
「開拓の地」に渡ってきて青春時代をすごすことになった。安西もその中の一 人であるが、「満州」の寒気におかされ、右膝関節結核のため右足を切断され、
入社していた満鉄を退社し、中国人のお手伝いの王と「大連市桜花台八四」で 暮らしていた。父の経済的援助で生活の苦労もなしに無職の徒として詩作に 専念し、所謂言語の錬金術師としての任を背負った。行動の不自由もあって、
室内に閉じこもることの多いのが想像できるが、それはかえってさまざまな書 籍と探検記に没頭し、地図での漫遊と空想に耽るのに幸いした。つまり愴然
として堕ちる一足の代償によって日常的な実生活に関係せずに、地図の世界と 危険な空想に身を置いて、現実世界を非現実世界へ、外的世界を内的世界へ置 き換えて、反日常に志向する芸術の栄光を獲得したのである。大連という地 において安西は都市風景を描くものとしてのアヴァンギャルド性、言語錬金 術師としての高踏性と純粋性を獲得したが、しかし、かれはあくまでも現実 と隔離された単なる都市遊歩者としての存在にすぎないと言わざるを得ない。
もし「ロシア、日本、中国という三重層によって成り立っているはずの大連で、
安西はロシア対日本、日本対中国、西洋対東洋、そして宗主国対植民地といっ た二項対立で思考する」(11)というのが本当ならば、それはあくまでも西洋的 な植民者、宗主国民として、常に外側から、もしくは高所から見下ろす視点で 植民地としての大連を見ており、たとえその詩に悲惨な「支那人」の姿が出 てきても、単なる二項対立のイメージを際立たせるための手法であって、そ の悲惨さによる詩人内部の動揺とか葛藤とかが見えてこない。「自らの内面の 西洋化/植民地化を遂げることによって生ずるアイデンティティへの省察を 孕んでいる」(12)というのは確かならば、それはただ安西の内心にある西洋へ の憧れと東洋の盟主としての日本の自尊心(傲慢といった方がいいかもしれ ない)との緊張関係を高めただけである。大連はあくまでも詩的実験のため の材料たる外的風景として詩人の目に映り、そこの多重層の文化・人種構造 も詩作上の実験を促すレトリック的酵素となるが、社会現象がつねに風俗的 興味においてとらえられ、多重層の裏にある民族間・国家間の深刻な矛盾が 見えてこないところに、社会意識と切り離された所謂純粋詩が成り立ったか もしれない。こういう意味で、右足の切断、経済的悩みの皆無、地図での漫遊、
探検記類と西洋モダニズム詩の耽読、といった大連体験は、安西流のモダニ ズム詩風の形成に大きく影響したと思われる。その詩風は『亜』と『詩と詩論』
の純粋詩に繋がるものとして、社会矛盾に着目する『銅鑼』の詩風と一線を 画すものとなったわけである。
同じ異国での青春時代ではあるが、草野心平は広州でだいぶ異なった過ごし 方をしてきたと思われる。心平が広州に渡ったのは故郷や家や祖国から逃亡し ながら、学問への志向を燃やして、広東嶺南大学ゼネラル・アーツ・サブフレッ シュマン入学のためであった。心平が中国に渡ったこの 1921 年は中国近代歴
史において特筆すべき激動の年であった。この年の 7 月 23 日、上海で中国共 産党が誕生した。そして、心平の留学先である広州に孫文が国民党を率いて中 華民国政府を樹立したのもこの年の 5 月であった。この時期の大連が日本に占 領されたまま、日本人雄飛の新天地として経済的に躍進振りを示し、都市風景 もますます西洋化と日本化が進み、およそ中国全土に及んだ国民革命の波とほ ぼ隔絶された状態が続いている。こんな植民地の大連と違って、広州は中国国 民革命の拠点となっている。ここは孫文に代表される新しい勢力と軍閥割拠の 旧勢力、民族独立を熱唱する国内勢力と中国を割拠し自分のものにしたがる外 国勢力が格闘を繰り返す修羅場である。一方、庶民生活の貧困化も進み、各種 の社会矛盾がますます激化し、表面化してくる。広州に留学している心平が 周りのこんな社会矛盾と政治的情勢に関心を寄せたのは、不思議ではない。「恐 らく近代東洋におけるもっとも傑出した政治家」(13)の孫文に心平は二回も会っ ている。一回目は 1922 年の 6 月で、電通のアルバイトをしていた心平は他の 新聞記者に同行して北伐途上の孫文に会った。二回目は孫文が夫人の宋慶齢 を伴って、嶺南大学に来て講演したときであった。「孫文の印象」のほかに『わ が青春の記』にも孫文と会ったときの印象が綴られているが、政治的な意味 よりも人間的な意味に重点をおいて孫文に最大な敬意を示したように読み取 れるが、草野心平は 20 代の熱血青年として、孫文から受けた人間的な感銘を 通して、自然と中国国民革命という、自由と人民救済を目指す闘争に目をむけ、
一種の社会意識を持つに至ったのも無理な話ではない。
後の時代――たとえば前橋時代、焼き鳥屋「いわき」の時代――もそうであっ たが、心平は常にお金に困り、貧乏であった。広州時代のかれも生活のため「S」
氏の世話になりながら、いろいろなアルバイトをして、屋根裏部屋に住むよ り仕方が無かった。密室の中で郷愁と孤独に満ちた毎日を過ごしている心平 は、お手伝いの中国人を連れて実生活の苦悩と無縁な都市遊歩者生活をして いる安西と異なり、革命の渦中にある広州という都市の政治的風景を背景に、
「第百階級」の自意識に目覚め、寒い秋の蛙に自分をたとえたのはそれなりの 理由があると思われる。
蛙はでっかい自然の賛嘆者である
蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである 蛙は明朗性なアナルシスト
地べたに生きる天国である
――『第百階級』詩集の冒頭
詩集『第百階級』にプロレタリアートとしての自意識と「どぶ臭い」庶民 性がはっきりとうかがわれる。つまり、いつも自分を底辺の庶民と認める階 級意識が芽生えたと同時に、アナルシストとしての自己認識、ひいては権力側、
旧秩序への憤怒と抵抗意識も見られる。ある意味では、こういう自意識も社 会意識の一種である。もちろん、こういう意識の達成は広州という街の政治 的風景、心平のジリ貧状態に原因が求められるが、それ以外に心平の読書体 験とも関連して考えれば、もっとはっきりしてくると思われる。
「アメリカの新興詩に傾倒していたので、(中略)エミイ・ロウエルなどのイ マジズムの作品群、E・E・カミングスの斬新なスタイル、それからサマンバアマ グやマスターズやリンゼイの、どちらかといえば、左翼的な作品にひかれて いた。ことにサンバアグの『シガゴ詩集』や『煙と鋼鉄』や、その後大分お くれて出た『おはようアメリカ』などから、相当数翻訳した程だった。それ ほど自分は好きだった」(14)。
数多くの外国現代詩の中で、アメリカの社会派詩人の左翼的な作品に魅了さ れたのはいかにも広州時代の心平らしいことである。単なる詩法にこだわる純 粋詩よりも多少社会意識を含む左翼的な詩が気に入ったのである。特に貧しい スウェーデン系移民の子に生まれて、工業都市シカゴとその周辺の大草原をう たうスケールの大きい民衆詩人として知られるサンドバーグに夢中になって、
翻訳もたくさんしたのは偶然なことではなく、その詩作の社会意識と民衆(庶 民)意識に共鳴を覚えたからではなかろうか。これに関連して、心平と『種蒔 く人』の交渉にも言及する必要がある。広州時代の草野心平はすでに社会主義 思想に傾倒し、河上肇の『社会問題研究』、『我等』を日本から取り寄せただけ でなく、『種蒔く人』の定期購読者でもあった。『種蒔く人』はフランスの小説 家アンリ・バルビュスの反戦運動に参加し、帰国した小牧近江が友人金子洋 文、今野賢三らと 1921 年 2 月創刊、3 号で休刊した文芸雑誌(第一次・土崎版)
である。ついで佐々木孝丸、村松正俊らを同人に迎え「革命の真理を擁護する」
と宣言して、10 月に第二次・東京版を創刊した。国際主義と反軍国主義を基 調にさまざまな特集号を組み、また文学芸術運動を解放運動の一翼と理論づけ る評論を掲載した。本誌の出現によりプロレタリア文学は運動として成立した という画期的意味をもつとされる。アメリカ社会派詩人の作品への夢中と、反 ブルジョアを旗印にプロレタリア文学運動の拡大浸透という役割を果たした
『種蒔く人』の定期購読は、ひとつらなりの読書系譜を成し、心平当時の社会 的 · 思想的関心を浮き彫りにしてくると同時に、後の詩的理念の形成に大きな 意味をもつに至った。これは西洋のモダニズム詩、さまざまな地図、地理全集、
大陸探検記に没頭している安西の読書系譜と全く異質な性格を示している。こ の読書系譜の相違からも二人の詩人、さらに『銅鑼』と『亜』の詩的性格の 相異がうかがわれる。
片足を失ってから大連桜花台八四に移り住んだ安西は、地図と探検記などを 頼りに、中国、東アジア乃至は中央アジアにわたる国際的と言える漫遊ある いは探検を果たしたが、それはあくまでも空想と詩の世界における行為であっ た。実生活においては『亜』の同人たちとの交際が彼の交友関係の殆どであり、
お手伝いの王を除けば、現地の中国人との深い付き合いも現存の資料では見 かけない。なお、この王と安西とはいくら親しくなっても、従僕と主人、更 に言えば、植民地国民と宗主国民という二重対立の関係が暗に存在している。
そして当時の大連がおかれた植民地の歴史事情を考え合わせれば、安西にとっ て大連は異国というよりも異郷といった部分が大きかろうし、新疆とか韃靼 とか東亜細亜、中央亜細亜への彼の関心は人間として見知らぬ土地へ当たり 前にもつ好奇心にかられてのこともあるが、暗に植民主義的な意識の内面化 が進んだ結果でもあると言えなくもない。その故にそこから本当のコスモポ リタン的なものが生まれてくるはずはない。
それに対して、広州にいる草野心平は積極的に交友圏を拡大していく。入学 先の嶺南大学はアメリカ系であり、心平はただ唯一の日本人留学生であった。
「まわりの学生全部が外国人だからね、中国語に英語にフランス語、すごいホー ムシックにかかったな。」(15)こんな多国語が飛び交う外国人ばかりの環境で は郷愁と孤独に満ちたことはたしかであるが、前向きに行動すれば、得をする
ことも数多くあるはずである。草野心平は、文学研究会広州分会に加わり、魯 迅の『阿 Q 正伝』と中国白話詩人の詩を読んだりして、梁宗岱、葉啓芳、劉 燧元などの中国詩人、また後に画家となった司徒喬と親友になり、後に中国 全国人民代表大会副委員長になった廖承志と兄弟のように付き合い、その姉 の廖夢醒と恋にまで落ちたのである。1940 年、宣伝部員として草野心平を南 京に招いて、政治的に微妙な立場に立たせることになった林柏生も嶺南大学 の同級生であった。こういう異国での交友関係と恋愛感情などを通して、普 通では考えられないような人間関係や人脈の形成を促し、その後の生き方を 方向付けることにもなる。廖夢醒との兄妹のような感情、廖承志との兄弟の ような感情、ほかの中国人との深い友情は心平にとって、中国との関係を支 える礎石になって、中国を「第二のふるさと」と思わせるに足るものであった。
つまり、広州の嶺南大学は心平の詩的人生のすべての根、基地、出発点であっ た。「この間、草野心平は徹底した個人主義をつらぬくことで、自己形成とし ての中国を身につけていく」(16)と詩人倉橋健一は言っている。ある意味では、
中国は草野心平にとっては、単なる見る対象の他者ではなく、内面化された 一部の自分となっていく。常に冷徹な目で感情を抑制して大連、黄河などの 中国を外的風景としてとらえる安西と異なり、草野の詩と文章における中国 はつねに内的風景として感情いっぱいにとらえられる傾向がある。
また、広州時代の心平と宮沢賢治の『春と修羅』との接触、生涯の詩友た る中国人黄瀛との文通も特記すべきである。『詩聖』という日本の詩誌に草野 心平の詩と青島の日本人中学校に在籍していた黄瀛の詩が並んで掲載されて いるのをきっかけに二人の交友が始まり、草野がなくなる 1988 年まで続いた ことは中日文学交流史に残りうる美しいエピソードである。「彼と『日本詩人』
新詩人号の幾人かの魅力が同人誌発刊を想いたたせたきっかけになった」(17)
と草野心平は回想している。言い換えれば、黄瀛などの新詩人とのお付き合い と詩的交流が『銅鑼』の誕生を促す決定的な要因となり、広州時代における『春 と修羅』との最初の接触は宮沢賢治を同人に誘う種を蒔いたとも思われる。
『銅鑼』創刊号の同人 5 名に中国人の劉燧元と黄瀛の名前が並んでいる事実 は本誌と中国との関係を裏付けるものであり、そこに一種の国際色を認めるの は早計ではなかろう。とくに劉燧元の詩二篇「廃塔的抒情詩」と「偶作」が
中国語のままに掲載されているのは少し異様にも思われるが、その異様さこ そ後の『銅鑼』を貫く多様性、個別性、地方性を兆すものと言いたい。創刊 号に見られるメンバー構成と言語使用における多様性、国際色が、中国人との 交友などの越境体験を通じて芽生えた異文化への寛容性と深い理解に根ざす もので、後のコスモポリタン的な傾向に繋がる可能性を持つものと思われる。
『銅鑼』に見られる地方性、多様性、個別性への尊重と重視は後の『歴程』の 世界主義的立場、コスモポリタニズムに発展していったのは不思議なことでは ない。同人誌『歴程』創刊に際して、草野心平は次のように語っている。「『歴程』
に発表される詩が世界のどこの言葉に翻訳されても、それが立派に通じるよう な、他の国の良知の人々をも刺激し得るような,そんな詩が目白押しに並ぶ ことを我々は願望するものであります。我々はわが国の詩を常に世界的立場 において思考し、旗も党も雑誌としては持たず、詩自体の中に没入します」(18)。 つまり、『歴程』の目指しているのはコスモポリタン的な詩である。世界のど この言葉に翻訳されても、それが立派に通じるという世界主義的な詩の理想 は『銅鑼』創刊号に源を発していると言えないだろうか。
5 中国詩人黄瀛と日本モダニズム詩
日本モダニズム詩と中国の関係を考えるときに、中国人黄瀛の存在の重さ を感ぜずにいられない。『銅鑼』創刊号から終刊の 16 号にわたって執筆したの は草野心平と中国人黄瀛のふたりである。黄瀛は日本現代詩史に名を残した 最初の中国人であり、「朝の展望」によって明朗闊達な詩風で『日本詩人』第 二新詩人号の一位に輝き、高村光太郎と萩原朔太郎の激賞を受けて、一躍日 本詩壇の寵児となった(黄瀛の詳細については、『詩人黄瀛』[王敏・楊偉監修、
重慶出版社、2010 年 6 月]を参照されたい)。『銅鑼』終刊後、草野心平主宰 の『学校』、更に『歴程』の同人となり、心平系譜の詩誌に多くの詩を発表し たほかに、『詩と詩論』『詩法』など狭義のモダニズム詩系譜の雑誌、また『日 本詩人』、『詩神』、『太平洋詩人』、『文芸』、『詩文学』、『詩人時代』、『旗魚』、『日 本未来派』、『詩学』と言った現代詩誌にも幅広く活躍していた。特に『詩と詩論』
4 号に「心象スケッチ」を題とする詩 4 篇を掲載したほかに、評論「中国詩壇
小述」を寄稿し、中国現代詩の現状を紹介した。同じ『詩と詩論』5 号に中国 詩人郭沫若の「郭沫若詩抄」、章衣萍の「我的自叙伝略」、同誌 6 号に成仿吾の「詩 の防御戦」を翻訳した。また『銅鑼』16 号に訳詩「上海」(馮乃超原作)、『若草』
(昭和 4.1)に訳詩「戦取」(郭沫若原作)、『文芸レビュー』(昭和 4.6)に訳詩「新 生―衣萍―道理―衣萍」(章衣萍原作)、『詩神』(昭和 4.9)に評論「郭沫若」、
同誌(昭和 4.10)に訳詩「工場から出てきた少年」(宛爾原作)、訳詩「EETE NATIONALE」(王獨清原作)と「酔酒歌」(章衣萍原作)、同誌(昭和 5.1)
に訳詩五篇「海外の中国民歌」、同誌(昭和 5.2)に訳詩「温泉」(陶晶孫原作)、
同誌(昭和 5.4)に訳詩「紅紗燈」(馮乃超原作)、同誌(昭和 5.6)に訳詩五篇「蒋 光慈詩抄」、同誌(昭和 5.9)に評論「側面から見た中国詩壇」を寄稿し、日本 現代詩壇に中国詩壇の最新情報をリアルタイムに紹介し、中日詩壇の架け橋 としての役割を果たした。以上から分かるように、黄瀛は単なる中国人とし ての日本語詩人だけでなく、中日両国現代詩の交流史に残りうる存在でもあ る。また、これによって日本モダニズム詩などの現代詩は西洋に学ぶと同時に、
中国の現代詩と没交渉のまま進んできたわけでないことも裏付けられたとい える。
6 むすびにかえて
小論は大連に創刊された『亜』と広州に創刊された『銅鑼』を手がかりとし、
特に両誌の中心人物である安西冬衛と草野心平を中心に、1920 年代の北東ア ジアの歴史コンテクストにおいて日本モダニズム詩と中国の関係を論じてき た。1920 ~ 30 年代は、ちょうど日本近代史が現代詩へと変わっていく時期に あたり、ダダイズム、アナーキズム、超現実主義、新詩精神運動を唱える短詩 運動など広い意味でのモダニズム詩が開花を迎える時期であった。前代詩を否 定して、新しい現代詩を求めるのはモダニズム詩諸派に共通している狙いであ るが、ダダイズム、アナーキズムといったような、社会意識を付帯している系 譜のほうに『銅鑼』が位置づけられるのに対して、現代詩の性質と表現を新鮮 なものにし、純粋詩の追求と把握に重点を置く狭義のモダニズム詩系譜に『亜』
が位置づけられる。この二つの系譜の詩誌が同じく 1920 年代の中国、一つは
北の大連、一つは南の広州に生まれたことは偶然ではないように思われる。小 論は植民地としての大連の政治的・地理的状況、エキゾチックな言語環境、安 西の読書対象、交友関係、右足切断などの大連体験と国民革命拠点としての広 州の社会的・政治的状況、草野の交友関係、読書対象などの広州体験を比較し た上で、次の結論を出したい。安西の詩が大連という植民地にしか生まれてこ ないのと同様、草野詩におけるアナーキズム的傾向、社会矛盾に向ける熱い 視線、人道主義的な立場とコスモポリタン的な発想などが広州という場所(ト ポス)によって決められたといってもよかろう。中国という場所と 1920 年代 という激動の歴史コンテストが『亜』と『銅鑼』両誌、さらに『詩と詩論』と『歴 程』を通して日本モダニズム詩、さらに今日の日本詩にも影響を及ぼしている。
『日本詩人』『銅鑼』『詩と詩論』を始めとする日本現代詩諸誌における中国詩 人黄瀛の大活躍は中日両国現代詩壇の架け橋としての役割を果たし、日本モ ダニズム詩における中国要素の存在を浮き彫りにする証でもある。
(1) 澤正弘「モダニズム」 安藤元雄ら監修『現代詩大事典』三省堂、2008 年、662 頁。註
(2) 同上、663 頁。
(3) このテーマに関する近年の研究成果には王中忱氏「蝴蝶缘何飛過大海」(「視界」
12 号 河北教育出版社 2001 年)、同氏 「殖民空間中的日本現代主義詩歌」(『越 界与想像』中国社会科学出版社 2001 年)、同氏「東洋学言説、大陸探険記与現 代主義詩歌的空間表現―以安西冬衛詩作中的政治地理学視線為中心」(王暁平監修
『東亜詩学与文化互読―川本皓嗣古稀記念論文集』中華書局 2009 年)、柴紅梅氏
「日本現代主義詩歌之中国大連源起観―以安西冬衛詩歌創作為証」(「重慶大学学報
(社会科学版)」 2008 年 4 号)、守屋貴嗣氏「満州詩人論―『亜』の生成と終焉」法 政大学国際文化研究科博士論文 2009 年 3 月)などがある。
(4) 安西冬衛「考え方の革命」、『安西冬衛全集』(別巻)宝文館、1966 年、59 頁。
(5) 川村湊『異郷の昭和文学史』岩波書店、1990 年、64 頁。
(6) 同上、66 頁。
(7) 同上、71 ~ 72 頁。
(8) 王中忱「東洋学言説、大陸探険記与現代主義詩歌的空間表現―以安西冬衛詩作中 的政治地理学視線為中心」 王暁平監修『東亜詩学与文化互読―川本皓嗣古稀記念 論文集』中華書局、2009 年、411 ~ 412 頁。
(9) 大塚常樹「『銅鑼』を中心に見た黄瀛と宮沢賢治」王敏・楊偉監修『詩人黄瀛』 重 慶出版社、2010 年、307 頁。
(10) 伊藤信吉「解説―次代からの回想」『銅鑼』復刻版別冊 日本近代文学館、1978 年、
10 頁。
(11) 守屋貴嗣「満州詩人論―『亜』の生成と終焉」法政大学国際文化学部研究科博士論文、
2009 年 3 月、7 頁。
(12) 同上。
(13) 草野心平「孫文の印象」『草野心平全集』第八巻 筑摩書房、1982 年、95 頁。
(14) 草野心平「わが青春の記」『草野心平全集』第九巻 筑摩書房、1981 年、290 頁。
(15) 斉藤庸一「蛙の世界・草野心平」 深澤忠孝『草野心平研究序説』教育出版センター、
1984 年、50 頁による孫引き。
(16) 倉橋健一「中国の草野心平」『藍』2005 年総第 20 号、278 頁。
(17) 草野心平「銅鑼についての私的回想」『銅鑼』復刻版別冊 日本近代文学館、1978 年、1 頁。
(18) 『歴程』復刊第一号(1947 年 7 月)の編集前記。
[付記] 小稿は四川外語学院科学研究重点プロジェクト「黄瀛と日本モダンズム詩」に よる研究成果の一部である。
<ABSTRACT>
Japanese Modernist Poetry in the Historical Context of Northeast Asia and China:
A Special Focus on A: A Magazine of Poetry and Dora
Y
ANGWei
A: A Magazine of Poetry is an acknowledged magazine featuring Japanese modernist poetry; Dora, however, is often regarded as a magazine of poetry with anarchic tendencies, representing a different school of Japanese modernist poetry in the broad sense in the 1920s. It is not a matter of mere coincidence that the two magazines came into being respectively in Dalian, a city in Northeast China, and Guangzhou, a city in South China. With its historical and political background, urban life style and environment of language, Dalian, a colonial city then, influenced largely the poetic features of A: A Magazine of Poetry headed by Anzai Fuyue. Similarly, with its historical and political background as well as urban life style different from those of Dalian, Guangzhou, a base of China’s National Revolution then, determined the poetic features of Dora with the assistance of its founder Kusano Shimpei.
The present thesis, with a special focus on A: A Magazine of Poetry and Dora, expounds the profound relationship between Japanese modernist poetry and China by comparing the historical contexts, urban life styles and the unusual experiences of Anzai Fuyue and Kusano Shimpei in a foreign country; by studying the poetry and translated poems by Huangying (Kouei) published in Dora, the thesis also substantiates the influence of Chinese factors on Japanese modernist poetry.