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生存の条件- 伝乗に見 る異文化遭遇の儀式

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(1)

生存の条件‑ 伝乗に見 る異文化遭遇の儀式

‑ ニ ュー ジー ラ ン ド, 東 ポ リネ シア系 先住 民 マ オ リ人 の例 ‑

竹 内 佑 利 子

1. 序

1

)

ニ ュージーラン ドは

,1 9 9 0

年に入植

1 5 0

年 を迎 える

01 8 4 0

2

6

日に,先 住民束ポ リネシア系マオ リ人 と英女王 との間にワイタンギ条約が結ばれ,マ オ リ人の首長

5 0

人 は,アオテアロア (長 い白い雲 ‑ニ ュージーランドのマオ

2)

リ名)の主権 および土地 の単独購入権 を大英帝国女王 に譲渡 し,先住民 は, 土地,資源,漁場のほか,共同あるいは個人 で保有 している資産の所有権 の 保証 および英国民 としての権利 を得た。

現在 のニ ュージーラン ドの住民は,マオ リ(先住民東 ポ リネシア系),パ ケ ハ (英国系入植者の子孫,および新 しい欧州系移住者),アイランダー (南太 平洋諸島か らの新 しい移住者),それにアジア他諸地域か らの難民で構成 され ている。アイランダー と難民の移住者数は近 年次第に増加 し,ニュー ジーラ ン ドは, この

1 5 0

年間のアイデンティティーであった 「二つの文化一つの国」 か ら,多民族多文化国家の様相 を呈す るようになって きている

3)

ニュー ジーラン ドの総人口は現在約

3 3 0

万人であるが,マオ リ人 はその約

1 2

パーセン トを しめる。マオ リ人 口

4 0

万強 とい う数 は

,1 8

世紀後半のキ ャプテ

ン ・クックが推定 した

1 0

万の

4

倍であ り,歴史家 キース ・シンクレア教授の

103

(2)

4)

推定数20万人の倍増 となるO この変化 を豪州タスマニア島原住民の状況変化 と比較 してみたい。 タスマニア島 と,ニ ュー ジーラ ン ドの北,南両島 は, と もに南半球のスイス といわれ るほ ど,水量 も緑 も豊かで地味 も肥 えているう え,豪大陸の ような砂漠 を含む広い荒地が ない。入植者 に とっては魅力的な 土地,従 って先住者の存在が邪魔 になる, とい う共通点がある。 タスマニア 島では,開拓者が牧畜の土地 を確保す るために原住民 を殺 し, あるいは島外 へ追放 した 入植者が渡来す る前 は,約4000人か ら7000人のアポ リジナルが 島 にいた と推定 されているO1804年 には最 も少 な くみつ もって も3000人 いた

5)

アポ リジナルは,1830年 には300人 を数 えるのみになった。少数が フ 1)ンダー ズ島に逃れたが, タスマニア島の タスマニ ア鳥人 は

,1 9

世紀後半の トルガこ

6)

この死亡 を もって一人 もいな くなるO ニ ュージーラン ドに移住 して きたのは, 本国の地主階級のように土地 もちをめざ し, 自 ら志願 して赤道 を越 えてきた 英国人が多い。彼 らの よい土地への欲望 は, タスマニア島の牧畜業者 の それ と同程度 に強烈 であったo Lか し結果 として,先住者たちの生存 に響 く損害 の程度 は,数字 にあ らわれているように, タスマニア島 とニ ュージー‑ラン ド ではひ どく異 な り, その影響 は現在 まで もお よんでいる。

この違 いは,何 に起因 しているのか。豪州 とニ ュージーラン ドの入植者 の 出身の相違,入植時期 のずれが,ニ ュージー ラン ド開拓 を少 しばか り賢 く運 営す るのに貢献 したのか もしれな b(タスマニ ア島では,1828年 には,人口

7)

約2万300人の うち,男囚約6700人 ,女囚700人強であったo) これにマオ リ人 の客 あ しらいが うまか った ことをつ け加 えて もいいか もしれない。 この点の 傍証 はい くらで もあるO筆者 もニ ュージー ラン ド滞在 中に,伝説化 された数々 のエ ピソー ドを聞 いたo例 えば

,

「マオ リ人 は客人 を手厚 くもてなすOある部 族 は冬用の保存食料 まであ りった け出 して客の大集団 にご馳走 し, あげ く冬

8)

を越せずに部族の大方が餓死 して しまった」とい う話。 また

,

「キャプテン・

クックが,マオ リのある首長か らひすいのペ ンダ ン トを贈 られ,礼 に釘 を与 えた。首長 は祭壇 の ような場所 を作 り, その釘 を死ぬ まで飾 っておいた。そ

JO4 国際経営論集 No.i 1990

(3)

の釘 は,パ ケハ 伯 人) との友情 の証 として,部族 の首長 の地位 につ くもの 9)

が受 け継 いだ」話等々であるo

Lか し人 の よさや人 なつっこさだけでは,土地亡者の餌食 にな らず に済 む 保証 としては弱い 。 む しろ逆で はないか。地元民が新参者 に対 して こわ もて の態度 を示す。 あ るいは,石器時代 の文化 しか発達 させ ていなかった 「蛮人 文化」ではあるが,「近代文化」に並ぶ洗練 された様式が存在 す るのだ と示す ことが,生存 のチ ャンスを高か らしめ るので はないだろ うか。だいいち民族 のロマ ンテ ィック度 を比 べた ら, アポ リジナルのほ うが よほ ど詩的なメンタ

リテ ィーの持 ち主である 白人が渡来 した とき,アポ リジナルは,彼 らの帆 船 のイメージか ら, 白い鳥の人々 と呼んだ。マ オリは,註 1に書 いた ように,

「マオ リエこの土地 の」者 は自分 たち,「パ ケハ エよその土地 の」者 は白人た ち, とい うように, ネー ミングに も明 白な権利意識が はた らいてい る。

マ オ リ人の1

5 0

年 は,聖書 と銃 に出会 った り土地戦争 を戦 った りで,波乱万 丈 だ った。現在 はご く今 日的な問題 ,教育の困難や失業率,犯罪率 の高 さな どを抱 えているo けれ どもマオ リ人 は,国会 にマオ リ議席 を もつ,つ ま り特

10)

別議席 を確保 されている被征服民族である。 また社会生活の中で も,例 えば マオ リ人サラ 1)‑マ ンは親 の死亡 に際 して会社 か ら

3

日間の休 みが許 され る のが慣例であ る (パ ケハ は葬儀 の当 日 1日のみ) とい うよ うに,マオ リ伝統 の独 自性 は近代 国家史の1

5 0

年 を経 て も尊重 されているO

この ようにマオ リ人 に とって,人 口減少 とアイデンティテ ィーの危機 の加 速 は,相対 的 にゆるやかであった。 その理由 を英国植民史 の視点 に立 って探 るの も一つの道であるO また,マオ リ人 の もつ何 かが危機 の進行 をゆるやか に妨 げる役割 をはた したので はないか, と考 えてみるの も役立 つか もしれな い。 その何か は,伝承の力ではないだろうか。 しか し, アポ リジナル も豊か な伝統 を継承 している, と反論 され るか もしれない。 それ はその通 りであ る。

小文で は, アポ リジナルの伝承 とポ リネシアの伝承 の比較 は試みていないの で簡単 に しか書 かないが,アポ リジナルの伝承 は,遊動生活 の知識 は別 とし

生存 の条件 ‑ 伝承に見 る異文化避退 の儀式 105

(4)

て,死生観 を含め内面 を向いているのが魅力的であ り特徴的である しか し, 異民族異文化 との出会 いを, 自己変革の好機 に しようとす る伝承 ではない。

1 5 0

年前 の異民族,異文化 との出会 いにおいて,ニ ュージー ラン ド先住民の どの ような伝統が,未知の来訪者 に深 い印象 を与 えたか,言い換 えれば伝承 は生存 の条件 を用意 していたのか, いなか ったのか,マオ リタンガ (マオ リ の伝統精神) を象徴 す る儀式 を とりあげて考 えてみたい。

2. マオ リの儀式

筆者 は

1 9 7 9

年か ら

4

回ニュー‑ジーラン ドを訪れたO英語圏児童文学 の研究 と翻訳 に携わ るようになったのが きっかけで,ポ リネシアの口伝 えの語 り(忠 もに創世神話 と子供,若者のための昔語 り) を聞 きた くなったためである0 日本のいろ りばたの昔話 と違 って,マオ リの昔語 りは大 きな集 まりの中で行 われる。 しか し,マオ リの大 きな集 ま りは多 くの場合重要な儀式である。出 席がすんな りと許 されたわ けではむろんない。当時, 日本で も昔話 の採話者 のブル‑プに入 って,お年寄 りの語 り手 を訪ねた りしていた筆者 に とって, これは無知 のせ いではあるが驚 きだった。 日本 で は どこへ行 って も

,

近頃

は,孫たち もテレビのほうがお もしろい といって,年寄 りの昔語 りな ど聞い て くれない」といわれ,喜 んで語 って くれた。老人福祉の予算 を,昔話採話 費 (交通宿泊費,テープ,電池代,編集出版費) に提供す る山間の 自治体 も 沢山あ る。孫の代わ りに昔話 を 「聞 いて くれて.Jお年寄 りを何 日か楽 しませ, かつ後 に 「某地方の民話」と魔 す る立派 な本 を作 る人々 は,役場 に とってみ れば便利 な存在 なのであるO この ような奇妙 な現象 を筆者 もあた りまえに受 け取 っていた。

ニ ュージーラン ドでは

,

語 りの場 は神聖だか ら,あなたの関心 を満足 させ るために同席 させ るわ けにはいかない

と, マオ リ人 にはっ きり拒絶 された こともあったO外交官 と作家 とい う二足 のわ らじをはいて活躍 す るウ イテ

106 国際経常論集 N。.1 1990

(5)

イ・イ ヒマエ ラ氏 には

,

マオ リ人以外 に,マオ リタ ンガ (マオ リ精神) に共 感 をもてるな どと期待 もしていない」といわれた 次の 日, イ ヒマエラ氏 は 電話 を くれて

,

昨 日は言葉が足 りなか った と思 ってい る。自分 の部族 の集会

に出てほ しい」といった。前 日の彼 はマオ リ人であ り,翌 日の彼 は現代社会 ll)

の外交官であったC彼の外交官の部分 を利 用す るの はため らわれて,情 しい が出席 を遠慮 した。 のちにマオ リ人気質 に,強烈 な民族意識 とす ぐれた外交 官意識 が同居 しているのを学 び, 自分の判 断が間違 っていた ことを知 ったが。

また,こんな体験 もあるOあるマオ リ人の語 り手 か ら

,

「話 を一つだけ語 って あげよう

といわれ,マオ リ語で語 られ るその話 を喜 んで メモ し後 で英語 に

12)

訳 してみた ところ, イ ソップの童話 「ア リとキ リギ リス」だ った。 とぼけた 風貌の語 り手だったが, その 「場」で双 方の顔 をつぶ さない ように し,かつ, 後 にマオ リ人 としての真意 を知 らせ る効果 0)ある,巧妙 な追 い払 い衝 を使 っ

たのである。彼 もまた民間外交官だった。 この ように,マオ リ人の世界 を探 ろ うとする と,マオ リ人 は必 ず, こち らの決意,理解度, 目的が どの レベル にあるのか を探 りかえ して きた。 しか しマオ リ人 はけっ して閉鎖 的ではない。

こち らが対等 に探 り合 うことの意 味 を悟 った ときには,必 ず‑エ レマイ (よ うこそ)の言葉がか けられ る。

13) やがて北島東海岸の名門部族 出身の語 り手 ワイレム ・パ ーカー を知 ったo しか し彼 も最初 はそっけなか った。一旦帰国 した筆者が再度ニ ュージーラ ン

ドへ渡 る前 に出 した手紙 には,ついに返事が こなか った。 けれ ど彼の部屋 を 訪ねた とき, それは不意の訪問だ ったが,筆者の手紙 が棚 の上 に乗 っていた のである ワイレムは,友人 を紹介 し,次 に家 に招 いて家族 を紹介 し, とい うように,手順 を踏 んで筆者 を r内輪

に入れたC ある日,彼 の 「身内の一 人」 として,集会 に出席 を許 された。 そこで初 めて,本物 の語 りを聞いたの である 創世神話 の語 りは魅力的であ り,集会所 の中で は昔話 もた くさん聞

くことがで き,当初の 目的はかな えられた。

しか し昔語 り以上 に印象的,かつ衝撃的だ ったのは,長時間 にわた る挨拶

生存の条件 ‑ 伝承 に見る異文化遭 遇の儀式 107

(6)

の儀式 を知 った ことだ ったO二 つの異なった地域 の出身者が,東西 に分かれ て向 き合 い挨拶 を交わすのだが, いわば玄関 口の挨拶 に

3

時間以上か ける。

昼す ぎに始 ま り,西 日が傾 いて きたの に,急 ごうとす る様子 もない。小声で 隣の人 に聞 くと

,

挨拶が済 まなければ集会 は始 まらない,明 日には終わ るか もしれない

との ことだった。 この とき初 めて,マオ リの挨拶 の儀式 は,逮 方か ら訪れた未知の人々 との出会 いを想定 して確立 されたのか もしれない と 思 うようになったのである

相手の氏素性や気 ごころが定かでない場合,互 いに自己紹介 し,時間 をか けて理解 しようとす るのは当然である。何夜 もともに過 ごす (客 を泊 める) 間柄 になるには,危険や疑 いを排除するだけでな く,共感体験 をもたなけれ ばな らない。

未知 との遭遇 に備 えた儀式が,何時, どの ような体験 を経 て確立 されたか は分か らない。マ オ リを含 むポ リネシア人の起源が同定 されていないか らで あるO ポ リネシア人 は,紀元前 4

,5

世紀 に,ジャワのあた りを通過 し,やが て南太平洋諸島 にた どりついた とい う説 もある ポ リネシア全域 に伝わ る伝 説 によれば,共通の故郷 は 「ハ ワイキ」 と呼 ばれ る ハ ワイ

Hawai ' i

とい う 地名 は,‑ ワイキ

Hawai ki

か ら子音

k

が抜 けた名であるが,ハ ワイ諸島 をポ リネシア人 の発祥の地 とす る根拠 はない 。 筆者の会 った語 り手の一人 は, 求 リネシア人 は,北欧のバ イキングよ りはるか に勇敢 な海洋民族 だった といっ た

o「

(本 で読 む限 り)バ イキングはち ょこち ょこと海へ出て は,岸へ戻 って いるではないか。 ポ リネシア人 はカヌーを外洋 に漕 ぎ出 した ら,長 い間陸 を 見 ることはなかった」のに, というわ けである。別の語 り手 は,ポ リネシア 人の故郷 ハワイキは, もともと南太平洋0)フレン ドリー諸島 にあ り, そ こか ら,北へ (ハ ワイな ど),東へ (イースター島な ど),南へ (ニ ューージーラン ドな ど)大航海が行われた とい う。 いずれ に して も, これだけ広い距離 を航 海 している うちに,多 くの異民族,異文化 との出会いがあったのは確 かだ と 思われ る。 その点,約

5

万年前か ら豪大 陸 に暮 らしていたアポ リジナル と,

iO8 国際経営論集 No.i 1990

(7)

大陸の住民 よ りさ らに隔絶 されていたで あろうタスマニア鳥人 とは対 照的な 歴史 をもっている。

異民族 との遭遇 を前提 とした儀 式が,マオ リ民族 の生存 を確 かに した条件 の一つであ った とい う予感 はある。 しか し予感 を確信 に導 くためには,少 な

くとも次の

4

点 を見ていかなければな らない。

1. マオ リ人 の伝統的な儀式,特 に異民族,異文化 との出会 いの際の儀 式

2.

キ ャプテン・クックの記録 を含 めた初期の渡来者

,1 5 0

年間の入植者 たちの解釈 と反応

3.

ワイタンギ条約締結後のロン ドン政府 への,植民地政府 か らの報告

4.

独立後 のニ ュー ジーラ ン ド政府 の諸政策

1.は筆者 自身の体験 や聞 き書 ノー トとテー プをお もな資料 として使 うo 筆 者 はフィール ドワークの訓練 を受 けていないので, あ くまでアマチ ュアの記 録であることをお断わ りしてお く

。2.

については,渡釆者,入植者の 日記 な ど個人的な記録や軍隊 の指揮者の報告書 があ る。3.は,公文書 にマオ リの伝 統への言及 があるか どうか

。4.

は,政策立案段階 にお ける先住民伝統 の位 置 づ けを見 ることで明 らか になるだ ろう

。( 2. 3. 4.

お よび結論 は

,2

号以下 に続 いて発表 したい。)

次章では,1.の内容 に先だって,儀 式 とそれ を行 う場 について説明 したい 。

3.

「フイ

」 と 「 マラエ」

集会 あるいは祭 りを意味 するマオ リの言葉 は,「フイ」であ る。多 くの フイ は,二つの グル ープ,つ ま り客人側七 主人側 の参加 によって成立 す る

「マラ

は,各地の部族 の領土の中心地, ほ とん どの祭儀が行われ る野外 の場所 を意味す るO ただ し一定の囲い地である。現在 のニュージー ラン ドで は, マ ラ工 とい う言葉 はひんぽんに聞 くが, フイは滅多に耳 に しない。現在 のパケ

生存 の条件 ‑ 伝承 に見 る異文化遭遇 の儀式 109

(8)

ハ (白人住民)紘,マ オ リ学生の数 を増 やすために,大学 キャンパスに

,

「マ ラエを建 てよう」とい う。 あるいは

,

昨 日マ ラエに参加 した」とい う使 い方 をす る。しか し,この用法 は正確で はな い。それぞれ

,

「ファー レを建 て よう」

「フイに参加 した

が正 しい。 ファー レは,各部族の先祖神の体内 に部族民 が入 るような形 に作 られ,部族の英雄た ちの彫刻 を施 した柱が並ぶ集会所の

14) ことである。

マラ工は もともと 「寛容 な」

,

「もてな しの厚 い」 とい う意味 をもつO客 を 歓 んで迎 える場所,つ ま り玄関口に重点がおかれ る言葉である0 7イの中で 最 も重要 なのは,集会所 に入 る前の この出会 い, あるいは挨拶の儀式である

これを 「ミヒ」 とい う ミヒの段階で客人 のグル・‑プ と主人のグ/レ‑プの友 好関係確認が共敗 すれば, そ もそ も集会所 に入 るまでに至 らない。つ ま りマ オ リの社交の重要場面 は,集会所の前 面 にある野外の地 において展開 され る のである。音 カヌーに乗 った二 つのグループが海上 で出会 った ときは,二隻 の カヌーの間の海面 もマ ラエ とみな された。

パーカー氏 に同行 して筆者が出席 したフイは,首都 ウェ リン トンの近 くに あ るロワーハ ッ ト市の美術館 をファー レに見立 て, その前面の広場 をマラエ として行われた。主人側 はオタキ地方の部族他,複数部族,客人側 はパ リノ、

カ地方の部族 であ る。 ともに名門部族であるが,筆者 は主人側 の部族 の一員 としてパ リハ カの部族 を出迎 えることになった。主人 グルー プは,建物 を背 にしてすわ り,客人 グループは向かい合 った位置 につ くQ昔マオ リ部族のほ

とん どは,肥沃な海岸地帯 に定住 していた 客人 の交通手段 はカヌーが多か 15 ったC従 って,マラ工における客人 は,海 を背 に していた ことになるO 筆者 の出席 した フイは内陸で行われたか ら,客人 グルー プはバ スでや って きたO 客人側,主人側 とも旧知の仲であ り,儀式が始 まる前 は, ご く親 しげにみな 談笑 していた。 けれ ども一旦儀式が始 まると, まった く未知の者同士の よ う

にふ るまい,正式な出会いの儀式が,省略 な しに,厳粛 かつ真剣 に行われた。

誰 もが,今 日の フイは非友好的な雰囲気 になるわけがない と知 ってい るに も 110 国際経営論集 N(‑I.ユ 1990

(9)

拘 らず,である

次 に, フイの初 めにある出会 いの儀式 ‑ ミヒの手順 と内容, を記 したい。

4.

出会いの儀式 ‑ ミヒの手順 と内容 16)

ミヒの手順 は次 の通 りである。

1 ワエ レア ‑ 客人側 の男性 リーダーによる魔 除 けの呪文.

2

タキ ‑ 一主人側 の若 い男性 グ)i/‑プによる脅 しのための 戦闘の歌,所作 つ き。

3 ポー フイ リ ‑ 主人側 の女性 グ/レ‑プによる歓迎 の歌,踊 りつ きC

4

カ ラ ンガ ‑ 主人側 の女性 による歓迎 の呼 び声。

5

タンギ ‑ 客人,主人双 方による死者 を悼 む嘆 きの歌,踊 りつき。

6

フアイコー レロー 演説,初 めに主人側 , それか ら客人側。

7 ワイアタ ‑ 哀悼歌,6の合間に歌われる。

8

ホ ンギ ‑ 鼻 と鼻 をこす り合わせ るキス0 9 入場

各内容 は次の通 りである。

1 ワエ レア

ワエ レとは,木 を切 り倒 した りして道 を拓 くとい う意味 である。敵地 ある いは味方の土地 であって も,他人 の土地 に入 るわ けだか ら, その地 に充満す る 「気」に呑み込 まれないように,呪文 をとなえる

悪霊か ら身 を守 らせた まえ

とい う意味 の祈 りである. 客人の男性 の中で指導的立場 にある年長者 が行 う 呪文が唱 えられている間 に,客人 グルー プが, ファー レ (集会所)

を背 に待 ちか まえている主人側 グループの正面 に揃 うC 2 タキ

生存の条件 ‑ 伝承 に見 る異文化遭遇の儀式 11I

(10)

挑戦 (脅 し) と戦闘前の元気づ けの歌 と踊 りである。 ワエ レア抜 きで,い きな りタキが始 まる場合 もある む しろワエ レア とタキが両方 とも行われ る の は,旧知の仲 の グループが再会する儀礼 的な交換 の場が多いO昔,全 く未 知 の集団 と遭遇 した際の ミヒは,ほ とん どタキ (挑戦) で始 まった。 タキに

は先制攻撃の効果が あるO タキの花形である 「ハ カ」は, ロ トルア市 で観光 シ ョー として も披露 され有名であるが, これ は男性 グループによる出陣の歌

17)

と踊 りである 槍や梶棒 を手 に,足 を踏 みな らし, 白目をむいて,最後 に舌 を突 き出す。相手 を軽蔑 し脅す意味の仕草である。時 には,客人,主人双方 か ら,次々 と若 い者たちが出て,相手 を挑発 し,追 いかけ,追われ る踊 りを 繰 り返 す。子供 の鬼 ごっこの ように,「陣地」に逃 げ込んだ者 を深追 い して は いけない。追 っ手 は,相手陣地の前で薄 み とどまらなければな らない。戦闘

「ごっこ」である。但 し,非友好的な出会 いだ と両者が察知 した場合 は,早 くもこの時点で本気の戦 いが始 まる。初 めてハカを目のあた りに した初期の 入植者たちは,本 当に襲われ るのか と思 った とい う。 ところが,ハカの最中 に相手側の女性 が,ハエレマィ./ (ようこそ) と歌 っているの を聞 いて, こ れ は r戦 うふ り

にすぎないのだな と気付 いた とい う。次回のテーマに入 り 込 んで しまったが, タキ (ハカ)の真 に迫 っている様 の記録 は少な くない。

再度行 きす ぎて善 くが,好戦的な民族 といわれ るマオ リ人 の名誉 のために つけ加 えれば,マオ リ戦士 は,ハカを省略 して戦闘 を開始す ることはなか っ たOマオ リ土地戦争

( 1 8 6 0 ‑ 7 2 )

時代 の英軍兵士 の記録 に,マオ リを殺すのは

とて も簡単 だった。 なに しろ, 目の前 に並 んで歌 った り踊 った りす るか らだ, とある。 日本 の侍 が,名 を名乗 って戦 うの と同 じ武士道的心得か もしれない。

「ハカの一例 i

Kamat e ,kamat e!

死 だ,死だ !

Kaor a,kaor a!

生 だ,生だ !

Te neit et a nga t ap

d

hu r

dh

u r u

毛 む くじゃらの男だぞ

Nanait i kima主whakawhj t it er 云!

太陽が昇 るようにした男だ 112 国際経営論 集 No.1 1990

(11)

HG pane ,kaupane,hd pane,kau pan e

こっちの足 で一歩,別 の足で一 歩

Whi t it er 豆!

太陽が昇 る !

戦闘の歌 に しては謎 めいてい る歌詞だが,故事 に もとづいている。昔, ナテ ィ ・トア部族の勇猛 な首長 テ ・ラウパ ラハが, タウポ湖 で敵 の手 中に陥 ったO

その とき

,

毛 む くじゃらの男が テ・ラウパ ラハ首長 をか くまい,逃亡用の は しごを くれたO首長 は, は しごを‑歩一歩登 って,障れ潜 んでいた所 か ら

18) 明 るい所へ と逃 げだ し,のちにこの歌 を作 ったのである。

ハ カの歌 と踊 りのステ ップを,戦士たちは正 しく覚 え,歌 い,踊 るように 訓練 された。出陣前 に歌詞や振 りを間違 えると,戦闘 において死 ぬ と信 じら れていたか らである。

‑カは,第‑,二次大戦 の時 にマオ リ兵士のみな らず,パ ケハの兵士の間 に も盛 んになったO恐怖心 を抑 える効果がある とい うo新 しいハ カの歌 も作 られたO悪役 は,イ タ リー とドイツ と日本 であるO

「大戦中のハカの一例」

Ki akG t i a!Au!au!Whi t i!whi t i!e!

団結 しよう,お うお う,戦 え, えい./

Kap豆 hil t ar H Kapo ha r uTi a mani!Kam ie r eTi apani!

19) イタ リーは終わ った ./ ドイツは沈んだ

/

日本 は消 えた ./

第‑,二次大戦 は,パ ケハ とマ オ リに,同 じぎん ごうの中でかばい合 う体験 をさせた。戦争 は思 いが けない副産物 を もた らす ことがある 豪州人やニ ュ ー ジーラン ド人 に とって,戦争 は, しっ くりいってなかった複数民族 を,逮 命共同体 とい う意識で結 び合わせ たのである。

3

ボーブ イリ

ボ‑フイ リは女性が リー ドす るo大 きい声で立派 に歌 えば,周 りの人々が 唱和 す る。歌 いぶ りが貧弱であれ ば,唱和 する人が少 ないO そ うなる と,主 人側 の勢 いの弱 き,つ ま り 「マナ‑威 光」の低 さを露呈 したの も同 じである

生存の条件 ‑ 伝薪 に見る異文化遭遇の儀式 113

(12)

か ら,客人側 にあな どられ る原因 となる。

「ポーフイリの一例

女性

KGme amai

こげや

T6i amai!

ひげや

全員の コーラス

t ewaka!

カヌー ./

t ewaka!

カヌー ノ

Kit eu r un nga!

枕 もとまで /

t ewaka!

カヌー /

Kit emo e n ga!

休 む場所 まで ./

t ewaka!

カヌー ./

Kit et akot o r angait ako t oai ,t ewakae!

横 になって募 る場所 まで,カヌーを./

歌の貴後 に,女性 は緑の葉のついた小枝 を頭上高 くあげて振 る。歌 は, カヌ ー (客人の乗 り物) をひっぼって,岸 (我々の領土) に上 げるの を許可 しま す とい う意味であ り,歓迎 を表す。

4 カランガ

主人側の年長の女性が,集会所 の入 口の向か って右 の位置 に,客人の方 を 向いて立 ち歓迎 の言葉 を発 す る。客人側 がそれに応 じた言葉 を交わす。 これ がカランガであるOポーフイリの後 とは決 ってお らず,カランガは,ミヒ(班 会 いの挨拶)の間,何 回か行われ るO とくに重要 なのは, ミヒが無事 に終わ って,両 グループの間 に友好関係が確認 された後,で はどうぞ集会所 にお入 りなさい, とい う主人側 の呼びか けである。呼びか け人 は手 に緑 の小枝 をも

つ 。 筆者 の出席 した フイでは,カランガは,オタキ地 区首長の娘 さんが引 き 受 けた。最年長者ではなか ったが,主人側 の最 も有力 な女性 としての地位 を

しめてい る人である。

「カランガの一例」 主人側女性

Ha er emair 云it er c oot er

,hae r emair 云!

Ha e r emair 云ekuim

,eko r omait ep6

Et amam

,it eka r an gaot 6t 畠t out i punawha r eet t lma ine i

l14 国際経常論集 No.i 1990

(13)

Hu hui n gl ana ir aot Gt o uma t eKi at a ng il l i ait er 豆n e i Ha e r emair

云!

今 日の声 よ い らっしゃい 年 とった女 も年 とった男 も い らっ しゃい 子供 たちよ わた した ちの死者 を集 めて

ようこそ .′

地下 の世界 か らおいでな さい

ここに立 つ先祖 の家の呼 びかけに応 えて 今 日一緒 に悼 み ましょう

ようこそ ./

歌詞でわか るように,ポープイ リが 目の前 の客人 に呼 びか けているの に比 べ て, カランガはあの世 の死者 に呼 びか け,ついで列席者 に, ともに死者 を悼

もうではないか, と呼 びかける。

これに対 して客人側 も, (主人側の)先祖 の家 (‑集会所)に入れ て頂 く前 に,昔か ら今 日まで に亡 くなったみな さまに哀悼 の意 を表 しますか ら, どう ぞ呼んで下 さい, と歌 いか えすO このや りとりが繰 り返 されて死者の霊が し ず まった ところでカランガが終わ る。

5

タ ンギ

タンギ は,死者のために泣 くとい う意味 の言葉 であ るが,転 じて,通夜 と か葬式 もさす。通夜 と葬式 には平均3日かか る 先 に述べた ように,マオ リ 人 は勤務先 か ら

3

日の忌引休暇 を得 られ る場合が多 い。昔 は,葬儀 の場 で,

お もに女が石 で体 を傷 つけなが ら泣 いた。筆者 の出席 した フイは,葬儀 では な く, もうはるか昔 に亡 くなったパ リハ カの首長 テ ・フィーチを諾 える儀式 で あった。テ ・フィーチは,パ リハ カ地 区で激戦 となったマオ リ土地戦争の とき,暴力 による反抗 をい ましめ非暴力 をとなえた。今 で もパ リハ カのガ ン ジー と慕われてい る 百年以上 も前 に死 んだ先祖 を悼 むの と,昨夜死 んだ者 の葬儀 では,泣 き方が異 なる。本 当の葬儀 で は,頭 をたれて泣 く。 テ ・フ ィ ーチを忍ぶ フイでは,黒 い服 を着 た年長 の複数 の女性 が,ハ ンカチ を もった 手 を優雅 にふ るわせて踊 った。マ ラ工で は, カランガで呼 びだ された先祖 も 列席者の‑員である マオ l)人 に とって,死者 は二度 とふ、たたび帰 らぬ人で

生存の条件 一 伝承 に見 る異文 化遭遇の儀式 115

(14)

はないO孔 を尽 くして呼 びだせば,す ぐそばにきて くれ るのであるO(創世神 話 の トリックスタ‑,マ ウイ,の母親 な どは,あの世 とこの世 を毎 日すいす

行 き来 す るO)愛す る者 を失 った悲 しみは,む ろんあるのだか ら 「よよと泣 く」が, マラエに列席 して くれて うれ しいか ら 「泣 いて もす ぐ元気 になる

のである。 タンギの意味 をよ く知 らない人 (例 えば初期 の入植者た ち)は, すばや く変わ るこの泣 き方 (喜 び方) に当惑 した とい う。

タンギ は,全 く未知の者同士であって も,共感で きる歴史のあるこ とを思 い出す機会 を与 えて くれ るO 共感 で きる歴史 とは,人間 は誰 で も,先祖 によ って今

か され ている事実である。子孫 をもたない人間 はいて も,先祖 をも たない人間 はいない。未知,既知 を問わず,人 はみな等 し く死者 になった先 祖 とい う損失 を抱 えているO それ をタンギは思い出 させて くれ るのである。

6

7ァイコ‑ レロ

フアイコー レロは,雄弁大会 とい って もよい。演者が立派な演説 をすれば, 彼のマナ‑尊厳,威光,が いや ますO また, こんなに立派 な演説家がわが部 族 にいるのだぞ と誇 ることがで きるとい う意味 で,部族民一同のマナ も向上 す る。演説 は,個人 と帰属集団の両方のマナ を押 し上 げるのに貢献 するので ある。筆者が聞いたフ アイコーレロの内容 は,創世神話,部族 の系譜,過去 の様 々 な出来事 (ビク トリア女王の話 もあった), むろんテ・フィーチへの賛 歌,そ してマオ リの若者への小言 も含めた現在の状況 な どであった。 ユーモ ア,当意即妙 のエ ピソー ドを盛 り込み,身ぶ りをまじえた動きは大 き く,な かなか迫力があった。演説家 は, それぞれの グループの指導的な立場 にある 年長の男性 であ り,若者たちは将来 に備 えて必死 で演説 に耳 を傾 ける フア イコー レロは, もともと無文字文化時代の伝統 であるO 若者 は, どんな演説 もそ らで記憶 しておかなければな らないO

マオ リ人 は,「他者の話 をよ く聞 き, よ く覚 える」とい う点で,文字民族 を はるかに しの ぐとい うのが,筆者の印象であるoマオ リ人作家 ロラ ・パ キ ‑ テ イチ イは,子供時代 に雄弁大会 を傍聴 し (子供 は藍要 なマ ラエには入れな

lL6 国際経常論集 No.i 1990

(15)

い), 自分 の部族 の代 表者 の演説が うま くい くと誇 ら し く思 った と書 い てい 20)

る。話 す ことを競 えば,言葉 がみがかれ る。冗漫 な表現 は退屈 だ。汚 い言葉 は嫌 われ るO不適切 なた とえは笑 われ る. これ らは, 自分 と部族 のマ ナ をお としめる だか らとい って,美 しい言葉 をち りばめ耳 に快 い演説 をすれ ばよ い, とい うわ けで はないO伝統的 なマ オ リ社 会 には,書類 がなか ったO話が すべてであ り,発言者 の責任 は大 きか った。聞 く側 の利蜜 をいえば,重 要 な 発 言 は,集団で (多 くの耳で)聞 いておかね ばな らないの であ る 無文字社 会 で は

,

「口約束 」は名誉 をか けて守 らなけれ ばな らない約束 であ る 筆 者 の 知 って いる雄弁家 のマオ リ人 たち は,手紙 に返事 も くれない し,本 に こう書 いてある といって も信用 しないが,面 とむか ってい った こ とは必 ず実行 す る 人 々である。

7 ワイア タ

哀悼歌 は種類 が多 い。純粋 に哀悼 の意 を表 す歌, た った今為 された フ ァイ コー レロ (演説 ) を認知 す るよう,列席 してい ろ くが,姿の見 えない)先祖 た ちに頼 む歌, あるいは重 い演説 の合間 に聴衆 を和 ませ る歌 が あ る。筆 者が 聞 いた ワイアタの中には, メロデ ィーが西洋音楽 をこ近 い もの もあ った。 その 点 を,語 り部 の家系 に育 った ワイ レムは次 の ように説明す る。 マ オ リが英 国 な ど欧州 か ら0:)渡来者 と接す るようになった頃か ら, メロデ ィーが変わ って きた。初期 の 入植者 に歌 を聞 かせた とき,マ オ リ人 の ほ うは1オ クター ブ も 高低 に変化 の ある歌 を歌 ったつ も りだ った。 ところが,聞 き手 か らは,単調

きわ まる歌, ほ とん どお祈 りみたいだ とい う反応 しかか えって こな そ こ で こん どは,パ ケハの歌,西洋音楽 を聞 かせ て もらった。 そ して, もともと 音 楽の天分 に恵 まれているマ オ リ人 は,す ぐにそれ らの メロデ ィー を取 り入

れ た, とい うのが真相 らしい。

変 化 したの は,歌だ けではないo踊 りの振 りも変 わ ったO ポ リネ シア地域 の他の踊 りとくらべ る と,マオ リには大 き く手足 を動か し,派手 な踊 りが多 いO振 りの変化 には,二 つの要 素が関わ って いるO ‑つ は, ニ ェ‑‑ジー ラン

iif.存の条件 ‑ 伝承 ;こ見る異文化遭遇の儀式 117

(16)

ドの気候 であ る。故郷 ハ ワイ キは (南太平洋 諸 島で あれ,中央 ア ジアで あ れ), ニ ュー ジー ラン ドよ り暑 い。ニ ュージーラン ドに渡来 したマオ 1)人 は, 寒 さに対抗す るために,手足 を大 き く動かす ようになった。若者が踊 りを習

うのは,寒 い夜 だった ことも影響 してい る。 もう一つは,パ ケハ との出会 い であ る 言葉が通 じない時 の コ ミュニ ケー シ ョンは,お もに動作である。マ オ リ人 は,パ ケハ との意志の疎通のために,誇張 したわか り易 い振 りを考案 したのである。

8

ホンギ

9

入場

日も暮れ ようとするころ, ロワーハ ッ ト市 の ミヒ (出会 いの挨拶) は,や っ と終わ りに近づいた。 そこへカランガ (集会所入 口に立 つ女性の呼 び声) が響 いたO主人側の一同は席 を立 ち (美術館前の広場 は石 だたみなので,み な椅子 に掛 けていた),集会所 の前に一列 に並 んだ.客人た ちがゆった r)こち らへ移動 して きたo一人一人 と鼻 をす り合わせてキスをするO これがホンギ である。 ホンギ を済 ませた客 は, ゆっ くりと集会所 (客か ら見れば,他部族 の先祖 の体 内) に入 ってい くので あるO客人がみな集会所 に入 った頃,主人 側 の面々の鼻 は真 っ赤,ひ りひ り痛 いOで もまだ, ミヒが終わ ったにす ぎな いのだ。 ミヒは, フイ (集会)の時間配分か ら見れば開会 の辞 ぐらいで しか ない。 フイ全体が終わ るのは,明 日か,明後 日か,誰 に も, しか とは分か ら ないO

これだ け時間 とエネルギー をか けて,やっ と心か ら打 ち解 けられ る仲 にな った客人た ちと,なぜ あわてて別 れ ようとす る ? と, マオ リ人 はい うO 知 らなか った同士が胸襟 を開 き,友情 を結ぶなんて, いつで もできることでは ない。祝 う価値がある.今 日や明 日0)仕事 を思 いわず らうのはやめ ようO 手 にとって 目で見て確かめ られない ものを,かち取 ったばか りなのだか らO 未 知 だった人間の信頼 をかち取 ったのだ。人生 の貴重 な時間 は, この偉大 な勝 利 を大 いに楽 しむために こそ使 うべ きだ もし,出会 いの儀式で,互 いに敵 意 を察知 した とした ら,多 くの列席者 の人生 は,今 日で終わ っていたか もし

118 国際経常論 集 No.1 1990

(17)

れないのだか ら しか も, この勝利には,敗者がいない。 また,代償 を払 っ て得た勝利 で もない。勝利 を導いた武器 は,声や歌や踊 り, それになによ り も言葉だ。言葉 は,警戒心,緊張感,疑 い,迷 いを退 け,信頼,安心感,確 伝,希望 を もた らしたOそんな思いを抱 きなが ら, みな集会所 に入場す るo

5. 儀 式 の 効 用

1 ワエレア ‑ 客人側 が,他人 の土地 (縄張 り) に入 る際の心 理 的重圧感 を とりのぞ く。

2

タキ ‑ 主人傍は号,客人側 (未知の来訪者) にあな どら

3

ポーフイ リ

れ るものか, いざ となった ら武力行使 も辞 さな いぞ と,決意 を明 らか にす る

しか し一方で,旅 は長 く疲れたで しょう とね ぎ らい,早 くおあが り下 さい と客人 を促す。

4 カランガ ‑ そ して さらに,我々 は未知の来訪者 を受容 す る

5

タンギ

度量の持 ち主です よ, ここにある先祖 の建物 に 泊 めてあげます よ, と歓迎の心構 え と実際の準 備 (食物 な ど)のあ ることを表明す る

みな等 し く抱 いている喪失,先祖 の死,への悲 しみを通 じて,共通す るもののあ ることを確認 す る。

6

フアイコー レロー一一一優劣の 目立 つ

2

グループが,対等 の関係 を築 く の は難 し O 我々 は,す ぐれた人物 を多 く輩 出 す るす ぐれたグループである。相手 も,す ぐれ た人物 を節 す るグループであってほ しいO フア イコー レロは,語 りを聞 くだ けでな く,言葉 に 関わ る対等の関係 を成立 させ るチ ャンス となる。

生存の条件 ‑ 伝承 に見 る異文化遭遇の儀式 119

(18)

7 ワイアタ

8 ホンギ

哀 悼歌であるが,前述 した ように様々の種類が あ り,入学式や卒業式の式辞 の間 に歌 が入 るの と同 じく,気分転換 になるO むろん,音の楽 し

′み という娯楽的効用 もある。

・これはお辞儀や抱擁 と同 じ挨拶である。礼節が 様 式化 されていることを他民族 に示す ことがで

きる

6,

「は じめにことばあ りき」

21) 手元 にマオ リ語 のバ イブルがある

.1 8 4 0

年 に発行 された ものであるCマオ リ文化 は文字 をもたないが,英語のアル ファベ ッ トを借用す るようになったQ

パ ケハ (白人住民) とひんぽんに接触す る機 会のあったマオ 3]人 は,かな り 早 い速度で文字 を学び,英語 に堪能 になったOマオ リ人の中で一番先 に洗礼

を受 けたのは, ホキアンガ地区のナプ ヒ部族 の大首長 タマテ イ ・フカ ・ネネ

( 1 7 8 0?18 7 1

トーマス・ウオ‑カー ・ネネ)であるb彼 はサー ・ジ ョージ・

グレイ総督がナイ トの称号 を得た とき,従者の一人 に選 ばれ, ビク トリア女 王か ら銀の ゴブレッ トを贈 られているo彼 はワイタンギ条約 に署名 した首長 の一人であ り,一貫 してパ ケハ 伯 人)への理解 を示 したO彼の盛装の姿 を 描 いた ジ ョージ ・フレンチ ・ア ンガス (英国の画家

,1 8 4 4

にニ ュージ‑ラン ドを訪問)によれば, ネ ネ大首長 ほ ど,「高貴 な品性の体現者」はいない とい

2 つ。 2 E コ

)

ア ンガスの感想が 「高貴 なる野蛮人」の思 い込みに基づ いていないか どう かは,次の検証の際の宿題 となるが,伝説化 されたエ ピソー ドの多 い ところ か ら察するに, ネネ大首長 は 「す ぐれた人物」の一人 といえるようである。

出会 いの儀式 の中であげた ファイコ‑ レロは,す ぐれた人物 が部族 にいるこ とを証明す る手だてであった。 で はす ぐれた人物 とは何かO それは, よ く詣

i20 匡‡際経常論集 No,1 1990

(19)

し, よ く聞 き, よ く記憶 す る者 で ある。少 な くともマオ リ人 に とっては, そ うであ る。一言でいえば 「は じめに ことばあ りき」の信条であるO テーマ, 論理の質 だけでな く,話す人の全人格 が聞 き手の前 に さらけだされ る。話 は, 恐 ろしい文化活動である。

マ オ リ人が,北半球の異文化 に遭遇 した とき,出会 いの儀式 ミヒを行 った こ とはキャプテ ン ・クックほか,1

9

世紀以 降の記録 に もある。「マラエ」が, 現在 のパ ケハ に とって,親 しみのある言葉 として浸透 しているのは,実際 に マ テエに出席 したパケハの人数 の多 さを示 しているo Lか し,マオ リ人の先 祖の体内 (フ ァー レ‑集会所) に入 った記録 はあ まりないO幾たび も思 い起 こさなければな らないのは,出会 いの儀 式の最 も重要な部分 は,マ ラエ,客 人 (例 えば入植者)か らい えば主人 (例 えば先住民)の神聖 な先祖の体 の前 面 にある空間で執 り行われ るとい う点 である。集会所 は,伝統的で美 し く, ユニークな建物 である。 この ような 「手 ごた えのある もの」 に深淵な意味 づ けをす るのは易 しい。しか し

1 5 0

年 を経 た現在,フイの大方のプ ログラムが進 行 する集会所 よ り,出会 いの儀式が行われ るマラエのほ うが,マオ リタンガ を象徴 す る言葉 として根付 いてい るのは述べた通 りである。 それほ どマ ラエ の儀式 は重 く,印象深 い とい う証 だろう。 そ して全 く異なった伝統 を背 負 っ て列席 した

1 5 0

年前の 「客人」も,砂浜や海上 やただの地面 にす ぎないマ ラエ が,マオ リの神殿,マオ リの教会 である と理解 す る資質の持 ち主だ った証 だ ろう。 そこで

,1 5 0

年前の出会 いは,先 にあげた意味の 「す ぐれた人物 」集団 の出会 いであった といっては急 ぎす ぎだ ろうか。

マ ラ工での様 式化 された儀式 は,祈 り,挑戦,歓迎,哀悼,論争,主張, 共感, そ して敵意 も愛情 も,なんであれ表現 す るのに 「言葉 は有効で あ る」 と示 したはずである マオ リの伝統 と聖書の教 えは相違点が多す ぎるし,秦 手 に聖書左手 に銃の文化 を, ネネと適 って受容 しないほ うを選択 したマ オ リ 人 は当然多数派であったが,それで も 「は じめに ことばあ りき」の本質 は理 解 しただろ う。 この本 質 は,強度や長短 の違 いはある ものの,ニ民族,二又

生存の条件‑ 伝承に見 る輿文化遭遇の儀式 121

(20)

化 の 「両 岸」か ら強 力 な秤 を形 成 し伸 ばすの に貢献 したo Lか し, こ う推 測 し

,

「マ オ リの伝 統 が被征 服 民族 生存 の条 件 として機 能 した」と結 論 す る節 に,先 にあ げた残 り

3

点 の検 証 を行 わ な けれ ば な らない.

1) 欧州人 との接触 は

1 7

世紀半 ばのアペル ・タズマンの例 もあ り,かな り早 くか ら始 まったO捕鯨,木材業者 も立 ち寄 っていた。豪州か らの‑旗組 も多 く,入 植 は

1 5 0

年前 よ り早 い時期 か ら行われていた。「建国か入植か」 という表現 につ いてだが,

「 1 9 9 0

年は近代国家ニ ュー ジーーラン ド'建国

' 1 5 0

年の年」が‑般的か もしれない。 しか し

,1 9 8 8

年 に隣国の豪州が 「建国

2 0 0

年」を祝 った とき,原住 民 アポ リジナルは 「被征服民族 にされて2百年」 を祝 うことはで きない と反発, 祝賀行事 をボイコッ トする動 きも活発 だったoニ ュー ジー ラン ドはこの兄貴分

の体験 を踏 まえ

,

祝賀」には積極 的でない。ニ ュー ジ‑ラン ド政府 は

,1 9 9 0

年 を

,1 5 0

年間の問題 を検討,整理す る節 目の時期 ととらえているO 多 くの意味で 入植が全国規模 で機能 し始 めたのが ワイタンギ条約後, とい う見地か ら,小文 で は 「入植 」を使用 する。「マオ リ」という呼び方 は欧州 か ら渡来 した白人 との 出会 い後か ら使われた。先住民たちは, 白い帆の船 にの って きた者たち と出会 った とき, 自分 たちをさして 「マオ リ に の土地の)」と叫び, 白人 たちをさし て 「パ ケハ (よその土地の)」と叫 んだO以来 およそ千年前 にこ ユ‑ジーラン ド へ渡来 した乗 ポ リネ シア系先住民 は 「マオ

」,欧州系白人 は 「パ ケハ」の名称 が定着 している。民族的 には同 じであって も,この

1 5 0

年間 に移住 して きたポ リ ネシア系住民 (サモア, トンガ,ニウエ, ラロ トンガ鳥人) は,マオ リと呼ば れな O 現在 のニュー‑ジー ラン ドで は,マオ リ人 とアイランダーの間には,覗

白な階層意 識が存在 す る0

2 )

「アオテアロア」はクペ伝説 (初期 の航海者の妻が,遠 くに白雲がたなびいて いるようなニ ュージーラン ドの島を発 見 して,長 い白い雲 と叫んだ)に由来す る名前であるO

3) New Zealilnd OjfkialYea.・rbook:

1 988ーZ 989,De pa r t me nt

of

St a t i s t i c s

.

We l i i ngt o n,p. 1 3 8 .

4)

キース ・シン クレア著 『ニ ュー ジー ラン ド史‑ 南海の英国か ら太平洋国家 122 国際経営論集 No.1 1990

(21)

j(青木公,百々佑利子訳)評論社,1989年,25貫0

5 )

マこ ング・クラー ク著 Fオース トラ リアの歴史一 距離の暴虐 を超 えて逮 (竹 下美保子訳)評論社,1978年,78貫。

6) タスマニア ・ネグ リー ト ・アポ リジナルが,1867年 の トルガ (か こニ死 亡 を もって滅 びた とされ る説 は,最近否定 された。 プ リンダーズ島出身のアポ リ ジナルが, タスマニア鳥人であると主張 した ことによる。 タスマニア島 におけ る 「ブラ ック・ドライブ (アポ リジナル追放作戦)」は1830年。アポ リジナルは 季節 ごとの半連動生活 を営んでいたが,入植者が牧場 として土地 を韓 ったため

に伝統的な暮 しが破壊 された。

7) クラーク 『オース トラ リアの歴史j83貢0

8) 百々佑利子著 Fキーウイと羊 と南十字星‑ ニュージーラン ド紀行jあかね 書房,1984年,38頁 にこのエ ピソー ドを収録。

9) キャプテン ・クック著 『太平洋航海記j (荒正人訳)教条文庫,1980年,106 頁. このエ ピソー ドは,筆者の聞 き薯の中にあるが, キャプテン ・ク ックは,

ニュ‑‑ジーラン ドの 「インデ ィアン」が釘 を珍重す る様 を何度か記 している0 10)ニ ュージーラン ドの国会議員の定員 は97名Oうちマオ リ議席 は40選挙民 はマ

オ リ人であることを自己申告で きる。

ll

) Wi t i J hi mae r a, 1 9 4

4年生 まれ。北島のテ ・77ナウ ・カイ部族の出身。 ビク トリア大学卒O外交官,作家。作品

Pou na m Pou nam

1972,

Tan gi

1973,

Whan au

1974.邦訳 「通夜」 (百々佑利子訳)は 夢l現代 ニ ュー ジーラン ド短編小 説集』 に収録,評論社,1981年。

12)

A. W. Re e d , Ma o n' Fa b l e s

,A

. H.

& A

. W. Re e d

,1964

, p

,13には

,

「ア リとキ リギ リス」が収録 されているO とすればこの追 い払 い術 は,マオ リ人が 口頭伝 承に関心をもって 寄 って くる人々 に用いる手段 として広 く普及 しているのか, 13) フィレム (ど/レ)・パーカーについては

,

軒キーウイと羊 と南十字星』29貢O

パーか‑氏 は,1985年死去。

1 4 j 汁 W. Wi mams . ADi c t i o na 町 O ft h eMa o r iLa ナ I gを k l ge ,Se ve nt he di t i on,A.

R

. She ar e r ,Go ve r nmen tPr i nt e r ,We l l i n gt (

m,1975.本文中のマが J語の意味 はこの辞書 による

1 5 )

軒キーウイと羊 と南十字星遜6‑8牽

石像が海に背 を向けて建 て られていることは, イースター島の謎 の一つ であ る。筆者 はイースター島に行 ったことがないので憶測 にす ぎないが,石像群 は,

生存の条件 ‑ 伝承に見る異文化遭遇の横式 123

(22)

悪 または窯 を もた らす客人 ‑未知 の来 訪者 を嚢 してい るので はないだ ろうかO 石像 を建 てて,永 遠 に子孫 にその来訪 を残 そ うとしたの は, とてつ もない災難 または (か ‑ゴカル トの よ うな)大 きな幸 いが もた らされ たか らで はないか。

1 6 ) An neSal mo r ) d,HU1 ‑ A S

ぬめ

・ ・o f Ma

tm

'C( n J e m( ) m' aiGal h e r i n ・ g s . A. H.

Re e d, We l l i ng t o

ll,1975..p.128.著者 は, タキ

t aki

の代 りにウェロ

we r o

を入れ, ワイアタを独立 させていない。筆者 の承知 す る ところでは, タキ とウェこ=ま, 地域 (部族 ) によって呼び名 が異 なるが,内容 は変わ らないc

l7) もしハ カが神聖 な もの な らば, な L+'観光客 に見せ る打か, とい う疑 問が あ る。

現代 のマ オ リ人 によれば,マラエ もしくはプア‑レ とい う場 が神聖 なのであ っ て,歌 や踊 りの一 つ一つには拘 らない。 けれ ども,戦争 でパ ケハ兵士 とともに ハカを歌 い踊 った こ とが きっか けで, この ようを心境 の変化が起 こったのか も しれない。現在小学校 では男子がハ カ,女子がポイダンスを習 ってい るO ポ イ ダ ンスはマオ リ ・カヌーの娯楽 で あ り,神聖 な儀式 とは関わ りない。

1

8J

A. Sal mon d.HU

T,A

, H. Re e d,We l l i l l gt On.

P.143.

19) Ibid̲.p‑134̲

2

0) ロラ・パ キ ‑ティテ ィ

古 い網 と新 しい網」 は]中明子訳)

,

現代 ニ ュー ジ

ーラン ド短編小説集j評論社,1981年, 126頁0

21) K

nNgt lUpo k oEu I i i u,Po y 1 0 9i l iA Ra ni e 和 :Po r t J f , i i iA Ho na ,1 8 4 0 .

22)

Ge o geFr e nc hAnga . a:TheAn ga sPr i n . L s .

1973

,TheAl exande rTu r n bul l

Li br ar

y,1973.

]24 国際経常論集 No1 199(I

参照

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