日中戦争と上海の日本語放送
孫 安 石 ( 神奈川大学)
は じめに一束アジア近代史 とラジオ放送
1920年代の東アジアをメデ ィア史 とい う観点か ら捉 えるときに、ラジオ放送 の誕生はひ ときわ大 きな意味をもつ。
従来の新聞、雑誌 な ど活字 を用いた情報の伝達はいずれ も活字を媒体 にす るがゆえに生 じる 「時差」を克服す ることができなかった。しか し、「空中」の電波 を通 じた情報の伝達 は遠 く離れた遠隔地の人々がそれぞれの地で同時に情報を共有す ることに可能 に したので ある。また、1920年代 の東アジアのラジオ放送 は近代的な 「国民国家」 と 「国民」の建設 にも大 きな役割 を果た した もの と思われ る。例 えば、 日常生活 における天気予報、標準時 刻、ニュース とい う 「常識」を共有す る国民の登場 は近代的な国民国家形成 に必要不可欠
なものであっただ ろ うことは容易に推測できよ う。
しか し、東アジアのラジオ放送の発展はきわめて歪んだ形の道 を歩む ことになるO特 に、
1930年代の満,州事変、上海事変、 日中戦争 とい う 「戦争」を経験す るたびに技術的な進歩 をな し遂 げるラジオ放送は戦争 と表裏一体の関係 で発展 していった。それ を端的に現 して いるのが、1930年代 中ごろに台湾 と朝鮮 とい う植 民地 と満州国、そ して、中国の一部 を含 む 「大 日本帝国」を中心に した放送勢力圏が成立 した ことであろ う。例 えば、1938年版 の
『ラジオ年鑑』はその状況 を次の よ うに述べ る。
「日本 のラジオは内地一円は『社団法人 日本放送協会』、台湾は『社団法人台湾放送協会』、
朝鮮 は 『社 団法人朝鮮放送協会』が夫々独 占経営す る所であ り、樺太及我が委任統治領南 洋には未 だ放送施設な く日本放送協会の聴取 区域 に属 し、関東州 を含み満州一 円に於ては
『満州電信電話株式会社』が之が経営の衝 に当って居 るが、四者倶 にその運用 には緊密 な る連絡 を採 り、相提携 して 日酒文化 の興隆 とその交流に資 している」 1
いいかえれば、台湾 と朝鮮半島は 1945年 の解放 を迎 えるまで、日本語に よるラジオ番組 を一 日中、そ して 365日聴取す る とい う異常な事態 を経験 していたのである。韓国ではい まで も韓国の放送史の始ま りを戦前の京城放送局 (コールサイ ン
J O D K )
にお くべきなのか、または解放以後の 「中央放送局」 にお くべ きのか をめぐって議論が分かれてい る2。
東アジア (日本 と中国を含 めた)のラジオ放送が、 とくに 「政府」による電波 と情報 の
「統制」の上にな りたっていた こ とはラジオ放送 と戦争 との関連 を考 えるときに再度、吟 味 され るべ きであろ う。
とくに、 日本の場合 はラジオ放送が国策 に順応 し、国策 を代弁す る異常な事態が長期間 にわたっていた。例 えば、 日中戦争勃発の‑年後 の 『ラジオ年鑑』 (1938年)は 「支那事
‑
31 ‑変 とラジオの活動」 とい う特輯のなかで 「ラジオは全機能を挙げて戦時体制下の国策 に順 応 し其の遂行に寄与す る事に万全 を期 して居る」ことを冒頭で述べた後、「 そのほか時局に
関連 した特報番組 としては皇室尊崇 日本精紳振作を一層国民に徹底せ しむるため四大節国 民奉祝の時間」の特別放送 を実施 し
、8月
1日
〜24日まで 「 国民心身鍛練期間」
、9月
22日よりの 「 国民協力週間」
、10月
13日よ りの 「 国民精神総動員強調週間」
、12月
3日より の 「 国民精神総動員産業週間」等 には夫々政府 と協力 して其の趣 旨の徹底を期するため各 種の特別番組 を放送 した」 ことが述べ られているO
そ して、太平洋戦争の勃発はラジオ放送 と戦争協力の実態を余す ところな く見せて くれ る。『ラジオ年鑑
』1942年 に掲載 された 「 戦争 と放送」は、総力戦における放送が担 当す べき使命 として、放送の 「 国家的管理」を取 り上げ、放送宣伝 は武器 を持たない作戦であ
ると位置づけ、「 我が国 (日本)の放送」は次のよ うに宣言す る。
「 アジアの盟主たるわが国は、アジアに於て最 も組織化 された放送事業を有 してお り、
聴取者数、放送局数、使用電力・ ・ ・ 放送は実に一億 国民を一瞬に して抱擁 し、これを同一の 思考 と感情の響きの中に置 く国民指導の近代的武器であると共に、戦時下にあっては姿な
き大砲である。」
以上、東アジア近代史 とラジオ放送 との関連を論 じるときに想定 され る幾つかの問題 に ついて触れてみたが、本稿はそのなかでも、 日中戦争を前後 した時期 における 日本側 のラ ジオ放送の統制 と上海でラジオ放送を始める日本語大東放送局 ( XQHA) の放送の実態な
どについて紹介を試みたい。
‑.
上海のラジオ放送の始ま り
中国放送事業の発祥地である上海で最初のラジオ放送が始まったのは
、1922年の冬、ア メ リカ人の
E.G.Osbornが上海の大束洋行の屋上に
50ワッ トの放送設備 を構 え
、Radio CorporationofChina( 中国名 『中国無線電公 司』)を組織 したことを噂矢 とす る
30このラジオ放送の様子について 『申報』は次のよ うに伝 えていた。
「( 前略)火曜 日の夜か ら毎晩の
8時か らニュース、音楽、演説な どを空中に伝播 して いる。上海付近の無線装備 と受信機 を持つものは
500箇所を下 さらず、みな聴取できると い う。昨 日の午後 にも試験放送を実施 し、上海付近の船舶や北京、蘇州、南京等 との電報 交信 も行なった とい う。また、上海か らの音は極 めて鮮明で遥かに奉天か らも聴取できる
とい う
」 4その後
、1924年の夏 にはアメ リカ人が経営す る 「 ケロッグ社」 ( 中国名は開洛公司、
KelloggSwitchboardandSupplyCo)
が上海に
100ワッ トの放送局 ( コールサイ ン
KRC)を設立 し、広告 とレコー ド放送を開始 した
(1929年、閉局) 。上海 を代表す る中国系新聞 の 『申報』 も早速、
‑32‑
無線電話部 を設置 し、ケロッグ社のラジオ放送 を利用 し、ニュースを報道 し、上海の著名 な音楽家である大同学会会長鄭観や 中華音楽会会員 ( 甘時雨、呂文成、楊祖永な ど)の演 奏を企画 した
5ol 表 1 】は 1 9 2 4 年 1 2 月におけるケロッグ社のラジオ放送の番組表である が、上海で娯楽番組 を中心にラジオ放送が定着 され る過程を うかが うことができるO
【表 1】1924年 12月 19日のケ ロッグ社放送時間
時間 番組 備考
午前 9時 45分‑ 10時 中国 と西洋音楽及 び商業ニ ュー 日曜 日を除 き毎 日放 送
15分 ス
午後 1時〜1時半 西洋音楽 日曜 日を除 き毎 日放送
午後 6時〜6時半 西洋音楽 とニ ュー ス 毎週水曜 日には午後特別音楽 あ り 8時〜9時 に 午後 8時半〜9時 中国 と西洋音楽及び ニ ュー ス は特別番組 あ り日曜 日を除 き毎 日放送 、土曜 日に 午 後 10時〜11時半 西洋音楽 カール トンの舞踏音楽 、毎 日放 送
1 9 2 7 年 には中国系資本の百貨店 「 斬新公司」が屋上に 5 0 ワッ トの放送局 ( コールサイ ン ⅩGX) を設置 し、音楽 ・株式市況 ・ニュース ・広告な どを始めた60その後 、1 9 31 年 の満州事変以後、上海には諸外国の放送局が急増す ることになるが、中国のラジオ放送 を 概観するときに特 に注 目すべきことは、国民党中央党部が 1 9 3 2 年に ドイツの 「 テ レフン ケン」株式会社による放送局を設立 したことであろ う。 この放送局はコールサイン ⅩGO
A
、空中線 出力 7 5 キロワッ ト、週率 6 6 0 キロサイ クル ・波長 45 メー トルで当時、アジア において最 も性能の良い放送設備 を備 えていた。その後、国民政府の交通部 は 1 9 3 5 年 に
Sha ng ha iRa d i oSt a t i o n ( ⅩGHC 、美霊登電台 ・空中線出力 25 0 ワッ ト・週率 1 3 0 0 キロ サイクル)を買収 し、 「 上海交通部電台」 ( 空 中線 出力 2 0 0 ワッ ト・ 過率 1 3 0 キロサイクル)
を運用す ることになった。 この放送局は水晶制御式送信 と同じマイクロフォンの設備 を有 し、放送 は極 めて明瞭で、フェ‑デイグもな く 、Swi ng i ng ( 送信機 の電波周波数が動揺す るため受信感度が変化す ること) も皆無であった とい う。
上海のラジオ放送の急速な発展は、放送開始後、僅か
3年 を経過 していない時点で 「 都 市の人々は言 うまでもなく、農民、商人の家でもラジオ受信器 を設置 し、新聞に掲載 され
たラジオ番組 を聞いてお り、娯楽 を提供 している。統計によれば、ラジオ販売の総数 はす でに蓄音機 の販売 を超 えている
」 7とい う『東方雑誌』の記事か らも窺 うことができよ う。
勿論、聴取者か らまった く不満がなかったわけではなく、例 えば、ラジオ放送局が上海 に集 中してお り、内陸部の人々はラジオを聴取す ることができず、ラジオ番組 の内容 は重 複が多 く、聴取者は放送の内容に食傷ぎみであることがラジオ放送に対す る批判 として頻 繁 に登場 していた
8。「 『
■」‑ 33 ‑
【表 1】は 1934年の中国のラジオ放送局設置状況 を表 しているが、そこか らラジオ放 送の急速な発展 と共に、上海一極集 中の現象をよみ とることができる
[表 2】中国 (北京 ・南京 ・上海)の放送局 (1934年現在)
負 放送 局名 キ叫イタi里中A, 呼称 t力
南at 中央 660 XGOA 75∝IO
北京 交う舌部北京t台 950 XGOP 100
北京 育英 中国 1190 n XA 30
上 眉寿堂 560 XLHA 15
上* *# 560 XLHB 15
上 大東 5名0 ⅩQHA 250
上海 華 美公 司 6∝) ⅩMnA 5(X)
上海 亜束 760 m J 15
上海 兼 達 840 ⅩⅡⅠ丑 1
上海 華価 700 m C 5(X)
上 同楽 720 ⅩLHC 50
上# * # 720 XLHD 60
上# 達筆 740 XHHB 100
上 席協定 760 ⅩLm 15
上 薪薪 780 ⅩⅠ.EM 50
上 敦jl生 800 XLm 15
上海 教 本皇 800 ⅩLHL 16
上海 労 自生 820 ⅩLHS 60
上 福音 840 Xm loo
上* 安 定別監 860 ⅩHlⅡ) 100
上滴 友 好 880 ⅩEHV 100
上 市政府 900 XGOS 500
上* 積 量 920 ⅩEEE 1α)
上海 学務徳堂 940 ⅩHl王E 100
上海 明達 960 Ⅹm 1(X)
上海 仏教浄兼 980 XEEZ 100
上溝 東方 1020 ⅩEHG 100
上# 中西 1040 XHHH 100
上海 華 美 loco ⅩHHⅠ 100
上稚 永生 1080 ⅩⅠ江ⅠJ 1(X)
上 重美 ll(X) XHES 100
上 元 昌 1120 XLEH 50
上 重′ 1120 XHHW 100
上 中華 一140 ⅩⅠⅡ Ⅰ1 loo
上# 大 中華 1160 ⅩEH U 100
l上 油長 1180 ⅩHHM 100
上韓 国華 1200 孤 100
上 利 達 1220 Xm O 100
上海 利利 1240 Ⅹm loo
上手毎 苧輿 1260 Xm 1α)
上 環氏 1280 )江EA 50
上海 美圭萱 1300 XQHC
上海 市昔 1340 ⅩLHZ 50
16 草 丈 1360 XQHD 2(X)
上 薪 ■ 1380 ⅩLHE 50
上海 牡t書 1380 XLEF 15
上 電7r 14(X) jW O 50
上 孔氏 1400 Ⅹ皿 15
上稚 佐奈 1420 ⅩヨHX 1(X)
上★ 屯吐 1440 ⅩLHq 15
上 蓬莱 1440 XLHR 15
上海 英美 1460 XQHE 250
上溝 華光 1480 XqrrF 250
(出兵 :共車臨華 中連絡怒 f'支那に放 ける放送事事発半の甘況j1940年 2月よ り作成)
その後、ラジオ放送は中国社会の映画産業 と百貨店などの大衆消費文化 の発展 とともに 商業ニ ュース と広告、そ して、娯楽の捷供 とい う役割を中心に大きく発展 して行 く。
‑34‑
「 都市生活者並び農村生活者 の放送に対す る興味、関心は非常なもので、就 中国内大衆 の大多数 を占める非知識層 に とって放送 は娯楽機 関であると共に其の 日常生活 に於ける 諸々の出来事及生活環境に於ける諸種の事件 を知 り得 る唯‑の機 関なのである
」 91935
年 当時の上海では、すでに総数
100余 りの放送局が営業を開始 してお り、 とくに フランスの放送局は
「A ll i a nc eFr a nc e i s e 」に属 し 、1 日 3 回、各 1 時間半放送 を してお り、
同局のプログラムのほか、徐家匪天文台の天気予報 を放送 し、フランス語及び 中国語の講 習番組を編成す る他、夜はクラシック音楽の レコー ド番組 を放送 し、聴取者 も多かった と い う。
このようなラジオ放送の急速な発展か ら考 えれば
、1932年当時、上海の諸外国人居留民 の中、第
1位 の人 口 ( 約
2万人)を占めている 日本人が 日本語 のラジオ放送局をもつ こと
を希望 していた理 由が良く分かる。
三. 日本語 「 大東放送局
」ⅩQHAIO上海の
XQHA大東放送局が 日本語を主 とするラジオ放送を開始 したのは
1936年
8月
21
日である
11。しか し、この大東放送局の開局にいたる過程について今まで詳細が述べ られ ることはな かったように思われ るので、以下、大東放送局の開局にいたる経緯を中心に話 しを進 めて みたい。
上海での 日本語 ラジオ放送局の開局が試み られたのは、実はこの時期が最初ではない。
すなわち
、1929年 には電通社が 「 上海 日々新聞社」後援の下で放送局を開局す ることを 試み
、1933年
8月には新昌洋行が 「 林楽器店」にて放送局を開設す る試みがなされた。
しか し、これ らの計画は間もなく中止になったO
1935
年
11月
11日、中華民国特命全権大使 の有吉明は 「 上海 における 『ラジオ』放送 所開設方に関す る件」 とい う報告 を外務大臣に報告 している。
それによれば、上海に 日本語放送局を設立す ることは上海在留 日本人の要望でもあ り、
外務省 としてもラジオ放送局の設立を強 く希望 していたことがわかる0
上海の 日本人居留民を統括す る上海総領事館はラジオの宣伝機 関 としての機能を充分承 知 し、「 ニュース放送を指導 し、当地陸海軍及び居留民団に随時これ を利用せ しめ」ること
を放送局設立の当初か ら計画 していた。 この計画は上海 に駐屯す る陸海軍か らも賛成 をえ たことで、いよいよ実現に向か うことになった。
計画の最初は 日本本土か らのラジオ放送 を聴取す る方法 も考慮 されたD しか し、上海 の 聴取者が保有す る受信装置は 日本か らの電波を受信することができなかった。そこで、上 海の共同租界に放送局を開設す る計画が浮上す ることになった。
上海総領事館側は上海現地の新聞社等に補助金を与 えて放送局を運営すれば、事務費、
ー
35‑家賃 な どで節約ができ、一 ケ月約 1000 ドル をもって放送局の経営が可能である、 と見積 もっていたOしか し、聴取料金 を とる制度がな く、広告 による収入 も期待できない上海 で、
ラジオ放送局の収支を合わせ ることは簡単なことではなかった。
ここで、Howard(アメ リカ人)が所有す る放送局 ⅩQHA (580KC、5172m、共 同租界
LoveLane80号)を買収す る話 しが飛び込んできた。この放送局は共同租界の中央部 に位 置 し、すでに、上海で高い評価 を得てお り、買収 の可能性が積極的に検討 された。
1936年 5月 には 「上海放送局設置問題打合会」が外務省第二会議室で開催 され、同放 送局の買収が決定 し、大東放送局は 8月 21日よ り日本語放送 を開始 した。
しか し、中国における 日本 のラジオ放送の実施は 中国側 の許可 をえなければな らない。
日本は 8月 18日、国民政府 の交通部上海電報局に対 し、ⅩQHAの営業許可 をえたい 旨 を通報 したo Lか し、中国側 は 1932年 に公布 した 『民営広播電台暫定取締規則』第 11条 の放送局の 「ライセンス」は他 に譲渡又は転売す ることができない条項 を取 り上げ、放送 局の営業許可を認 めない、 とい う通告 を出 したo
中国政府 は 8月 23日にはチ ャイナプ レスに声明文 を発表 し、ⅩQHA の譲渡 は不法であ り、規則 に よれば所有権 の譲渡は交通部に登録す る必要があることが再三にわたって確認 されたO 日本側 は このよ うな中国側 の放送局不許可方針 に対 して同取締規則は治外法権 を 行使できる 日本人には適用 されない とい う見解 をもって対応 し、放送 を強行 した。
大東放送局は開局後、 (1)放送局の運営資金 の確保、 (2)放送電波 に対 して中国側 の 妨害電波の発信 とい う二つの難 関に悩ま された。す なわち、1937年 1月 29日、交通部は 大東放送局 の放送が不法であるので、コールサイ ン及び波長 を取 り上げるにつ き広播 を停 止 し、機械 を撤去すべき旨を通知 してきたのであるO中国側 は 1月 10日頃か らⅩQHW と
い うコールサイ ンで大東放送局 と同一の波長の電波 を流 し、東京か らの中継 とニュース放 送 を遮断す る とい う強硬 な措置 を とった。
早 くも、 日 ・中間のラジオ放送 をめぐる激 しい攻防が上海 を舞台に展 開 されたのである (以上、外務省外交史料館『在支満本邦放送局関係雑件』 (請求番号 :F‑2‑3‑2‑9)0
四. 日中戦争 と大東放送局
大東放送局開局の翌年 1937年 7月、 日本 と中国は戦争状態 に突入 した。大東放送局は この戦火 の影響 を受け、放送は中断 と復 旧を繰 り返 した。
そ して、 占領地が拡大 され るにつれ 日本は大 きな宿題 を抱 えることになった。 中国にお けるラジオ放送の強化 を どのよ うに進 めるべきなのか、 とい う重大な課題の解決 を迫 られ たo
当初は大東放送局を増強す る方法 も検討 されたが、1937年 の 9月の 日本放送協会 より 派遣 された放送技師による調査の結果は、中国内陸‑の放送 のため 2000キロワッ トの短
‑36‑
波 ラジオ局 を新設す る必要がある とい うものであった。上海に新たな大出力の放送局を設 置す ることは、陸軍の強い要望 とも合致 していた。
このラジオ局の新設 は 日本放送協会の協力 を得た上、早いス ピー ドで工事が進み
、1 93 7
年
1 2
月 には上海 の 日本人倶楽部 の四階にスタジオ を設けた 「大上海放送局」が正式 に放 送 を開始 した。 コールサイ ンⅩOJ
B、9 0 0 KC
の華 中地域最大の放送局の誕生である。石坂氏によれば、大東放送局 と大上海放送局の最 も大きな差異 は、大東放送局が 日本人 居留民を対象 に した 日本語番組 の放送 を中心に したのに対 して、大上海放送局は中国人の 聴取者 を対象に中国語 と英語 によるニ ュースや時事解説な どの放送事業を展開 した ことに
あるとい う。
確かに
、 1 93 8
年 に入 る と外務省 は独 自の立場か ら対 中国宣伝及び時局 に対す る居留民指 導 を開始す る時期がきた とい う認識 の もと、大東放送局の単独経営を希望す る動 きも一部には見 られた。
しか し、戦局の悪化 につれて、 このよ うな役割分担 自体が意味をもたな くなる。
福 田敏之 『姿なき尖兵 一 日中ラジオ戦史』 (丸山学芸図書
、1 9 93 )
は 日中戦争以後の 「大 東放送局の活躍」を次のよ うに述べ る。 「何 しろ開局当時、約 3万人だった在留邦人が (昭 和)1 2
年か ら1 3
年 にかけて、実に1 0
万近 くにも膨れ上がった。加 えて、上海近郊 には 進駐駐屯 している多 くの 日本軍将兵がいる。その1 0
余万にものぼる 日本人たちが 『正 しいニュース』 を求 めて大東放送局
5 8 0
サイクルだけにダイアル を合 わせていたO」中国 と日本 向けに国策 を宣伝す るために様 々なラジオ番組が製作 され
、 1 9 3 7
年 の大晦 日 には特別番組 として満州 と中国、 日本 を結ぶ番組 が企画 された。また、前線で戦 う兵士の 声を録音 し、東京か ら放送す る 「戦地た よ り」は人気 を集 めた とい う0この大東放送局の ラジオ放送 を孤 島上海 の人 々は どの よ うに聞いていた のだ ろ うか。
『広播周報
』( 1 93 9
年9
月1 4
日) は次のよ うな記事 を掲載 しているO「敵人 (日本)側は
ⅩQJ
B ラジオ放送局の他 にⅩQH
A (大東放送局)を設置 してお り、両方 とも 日本政府 の統制下に置かれてい るOその番組 は普通の番組 を装ってい るが、放送 局は完全 に軍人に統制 されて居 る。それ故 に外務省文化局は大量の資金 を 日本文化 の宣伝 に投 じてい るが、上海 の 日本の軍官 らはこれ らの ことには全 く興味がないO上述 した二つ の放送局は散人 (日本)が上海で ラジオ宣伝 をす る大本営であるD」
まもな く、大東放送局は大きな変貌 を要請 された。 中国に対す る宣伝 工作、特 に占領地 域 内での中国の人々及び華僑 を対象 にす る華 中地域 における放送計画全体の根本的な見直
しが必要 になったのである。
ここで登場 したのが、 「中支放送協会」設立案で ある。 中支放送協会 は 日本 と中華 民国 維新政府 の指導の下に特殊社団法人た る中支放送協会 を設立 し、華 中地域 の放送事業 を統 制 ・運営す ることをもくろんでいた。 ラジオ放送が重点を置 くべ き ところは次のよ うな項
目であった。
‑
3 7‑
(1) 日本 の陸 ・海軍作戦 に関す る公式発表 、 (2) 占領 地 内 とくに上海 を中心 とす る中 国人の指導 と宣伝 、 (3) 日本居留民 と出征兵士 に対す る慰 問、 (4)中国奥地‑ の短波 宣伝 放送、 (5)現地在住の外 国人 に対す る宣伝放送。
以降、大東放送局は中華 民国維新政府 との複雑 な交渉 を‑て、1941年 12月 に 「中国広 播 協会」 の設立 と同時にその傘下 に入 るこ とにな る。
大東放送局 は大上海広播電台の第 2放送 (日本語放送) として コールサイ ンも ⅩGOH
に改称 され 、1945年 の敗戦 まで放送 を続 けた。 (以上は 『在支満本邦放送局関係雑件』 (請 求番号 :F‑ 2‑ 3‑ 2‑ 9を参照)0
【参考文献 】
上海通社編 『上海研究資料 一続編』 (上海 書店、1984年版)
上海市枯案館他編 『旧中国的上海 広播事業』 (中国広播電視 出版社、1985年) 上海市梢案館編 『上海市梢案館簡 明指南』 (枯案 出版社、1991年)
日本放送協会編 『ラジオ年鑑』1938年版、1941年版 (大空社、復刻版)
興亜院華 中連絡部 『支那 に於 ける放送事業発達の概況』 (興亜院、1940年 2月) 日本放送協会編 『放送五十年史』 (日本放送 出版協会、1972年)
福 田敏之 『姿なき尖兵 一 日中ラジオ戦史』 (丸 山学芸図書、1993)
外務省外交資料館所蔵 『在支満本邦放送局 関係雑件』 (請求番号 :F‑ 2‑ 3‑ 2‑ 9)
石坂丘 「植 民地時代 『台湾 の放送』20年
」(
『放送研究 と調査』1996年 6月)石坂丘 「『抗 日』 のなかの上海 ・大東放送局」 (『放送研究 と文化』1996年 10月) ノチ ョンパル 『韓 国放送 と 50年』 (韓国ナナ ム出版 、1995年)
【付記 】本稿 は 「上海的無線広播与 日語大東広播電台 XQHA」 (上海市梢案館編 『租界里的上海』上 海社会科学出版社、2003年)の原稿 に訂正を加 えたものであるO とくに、 日中戦争 と華 中地域の部
分 について
1日本放送協会編 『ラジオ年鑑』1938年
2 ノチ ョンパル 『韓国放送 と50年』ナナム出版、1995年
3上海通社編 『上海研究資料 一続編』 (上海書店、1984年復刻版)、714貢。
4 『申報』1923年 1月 22日。12頁
5 『申報』1923年 5月 24日。18貢
6 「上海広播無線電台的発展」『上海研究資料 一続編』上海通社編、1984年版。興亜院華 中連絡部
『支那に於 ける放送事業発達の概況』1940年 2月 を参照)a
7 「三年来上海無線電話之情形」、『東方雑誌』1924年 8月
8前掲 『旧中国的上海広播事業』
9 (前掲 『支那に於 ける放送事業発達の概況』)
10以上、外務省外交史料館 『在支満本邦放送局関係雑件』 (請求番号 :F‑2‑ 3‑ 2‑9)
11石坂丘 「『抗 日』のなかの上海 ・大東放送局」『放送 と研究』1996年 10月号
‑38‑