• 検索結果がありません。

1  条坊遺構 と西隆寺

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "1  条坊遺構 と西隆寺"

Copied!
38
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第Ⅶ章  

1  条坊遺構 と西隆寺

西 隆寺 の造営 が神護景雲元年 (767)イ こ開始 され、 右京一条二坊九・ 十 。十五・ 十六 坪 の4 町 を 占めていた ことは、本書「第 Ⅱ章 。西 隆寺 の歴史」 で述べて いるとお りであ る。

西 隆寺 の寺地 を取 り囲 む条坊道路 は、 南 は一 条 々間路、北 は北京極 大路、東 は西二坊 々間路、

西 は西二坊大路 で あ るが、西隆寺造 営以前 に は この寺地 を東西及 び南北 に三分す るか た ちで、

西二坊 々間西小路 と一条 々間北小路 が通 って いた。 本節 で は、 まず、西隆寺 の四周 を巡 りあ る いは横切 って いた この

6本

の条坊道路 の配 置 につ いて述べた後、西隆寺 の主要堂塔 の配置計画 につ いて これ らの条坊遺構 との関連 もふ くめなが ら述 べ る。

A  西隆寺造営以前の条坊遺構

(1)南

北方 向 の条坊

西 隆寺第

3次

調査 (金堂地 区 の調査

)に

お いて金堂直下で検 出 した南北 溝S D 095、 同

SD

l10及 びその間 に挟 まれた道路 S F 105の 各遺構 は、西二坊 々間西小路 とその東西両側溝 に比定 されて い る (『西 隆寺 発 掘 調 査 報 告 』1976)。 同書 で は、 奈 良 時代 の条 坊 計 画 線 の振 れ を

N

15′41″

W(北

15/41″西 に振 れ る)、 造営 尺 を0.296mと仮定 した うえで、

S F105(の

)

が西二坊 々間西小路 の計画線 よ りも「 20尺 ほど西へずれて」 いることを指摘 し、「 右 京 二 坊 の 西半部 に限 られた条坊計画 と施工 の誤差」 と結論 づ けて いる。

西 隆寺 と西大寺 の寺地 を含 む右京一条及 び二条 の条坊計画線 の推定復原 につ いて は、 その後

『 西大寺防災施設工事 。発掘調査報告書』

(1990)で

、 1)条 坊計画線 の振 れ を南北方 向NO°19′

50〃W、 東 西 方 向WO°18/58〃 S、 2)南北 方 向計 画 線 で は朱 雀 門心

(X=‑14599450、 Y=

‑18586.32)東

西方 向計画線 で は玉手F聯

(X=‑145753.54、 Y=‑19093.26)を

基準 とす る ことを仮定条件 と して、右京 の二条大路以北 の推定条坊計画線を方程式であ らわす試みを行 っ て い る。 この仮定条件 をそのまま採用 して算 出 した西隆寺関連 の

6本

の条坊道路 の推定計画線 の方程式 はTab.10の とお りであ る。

これによれば西二坊 々間西小路推定条坊計画線 の方程式 は、

X=―

cotO°19/50″

Y‑3529173.929

で あ り、遺構検 出位置の

X座

標値 の一 つ

X=‑145110.80を

代入 す ると、

Y=‑19523.83と

な る。 この地点 の実測

Y座

標値 は

Y=‑19529,05な

ので、推定条 坊計 画線 よ り

5.22m(17〜

18 尺

)西

へずれていることにな り、『 西隆寺発掘調査報告』 とおおむね同様 の結論 を得 る。

(1)1990年 の奈良市第207次調査で西二坊 々間西 小路 と一条 々間路 の交差点 の西南 角 で南北 溝 S D03が 検 出 され た。 溝 心 の座 標 値 は

X=

‑14523100で

Y=‑1953189と

な り、 S D l10 の南延長線上にあたる。 これが西二坊 々間西小 路西側溝であることは間違 いない。

間 路 坊々 小 西二 西

′θ′

(2)

西 二 坊 々 間

   

Tab 10 

西隆寺関連条坊道路の推定計画線の方程式 西二坊 々間路

西二坊 々間西小路 西二坊大路 北京極大路 一条 々間北小路 一条々間路

X=―

cOtO° 19′ 50″ Y‑3506086010

X=―

cotO° 19′ 50″ Y‑3529173929

X=―

cOtO° 19′ 50″ Y‑3552261848 X=tanO° 18′ 58″

Y‑144848986

X=tanO° 18′ 58″

Y‑144982188

X=tanO° 18′ 58″ Y‑145115̲390

と ころで、西隆寺 の東 を走 る西二坊 々間路、西 を走 る西二坊大路 の実際 の遺構 と推定条坊計 画線 との関係 はどうで あろ うか。 まず西二坊 々間路 は平城宮跡第142次調査 と同第

18314次

調 査 でTab.11の よ うな実測値 を得 てい る。 それぞれの路心位 置 の

X座

標 値 を、 西 二 坊 々 間 路 の 条坊 方程式

  X=―

cotO°19′50〃

Y‑3506086.010

に代入 してみ ると、第142次 調査で は

X=‑145287.00で Y=‑19389.62、

第 183‑14次 調 査 で は

X=‑145328.00で Y=‑19389.38の

計算値 を得 る。 これ は実測値 とほぼ一致 して い る。 す な わ ち、西二坊 々間路 は推定条坊計画線 どお りに施工 されて いたわけである。

次 に西二坊大路 で あ る。西二坊大路関連 の条坊遺構 と しては奈良 市第213‑3次 調 査 で東 側 溝

S D102が

検 出 されてお り、

S D102心

の実測値 は

X=‑14620000で Y=‑1964788で

あ る

(『奈 良市埋蔵文化財調査概要報告書・ 平成

2年

度』)。 西二坊大路 の道路幅 につ いて は、遺構 と して確認 されていないが、西一坊大路 が70大 尺、西三坊大路が60大 尺 とい う例か ら、60大尺 あ るい は70大 尺 と考 えて差 しつかえないだ ろ う。 ここで60大 尺

(1大

=0.296m× 1.2=0.3552

m)と

仮定 して、奈良市第213‑3次 調査 の東側溝実測地点での路心の座標値を算出す ると、

X=―

146200,00で

Y=‑19658.54を

得 る。 この

X座

標 値

X=‑146200.00を

西二 坊 々間路 推 定 条 坊 計 画線 の方程式

  X=―

cotO°19′50〃

Y‑3552261848

に代入す ると、計算値

Y=‑19650.75を

得 るので、実際 の西二坊大路 は推定条坊計画線 よ り も

779m(26尺)西

にあ った ことにな る (道 路 幅70大 尺 と仮定す るとさ らに西 にあ った こ と に な る)。

以上 の結果か ら、西二坊 々間路、西二坊 々間西小路、西二坊大路 と条坊計 画線 との関係 を ま とめてみ ると以下 のよ うにな る。

① 西二坊坊 間路 が推定条坊計画線通 りに施工 されているのに対 し、西二坊大路 と西二坊 々間西 刈ヽ路 は推定条坊計画線 よ り大 き く (17〜 26尺

)西

にずれた位置 に施工 されて いる。

② 西二坊大路 と西二坊 々間西小路が大 き く西 にずれた原因 は不明であ るが、 同方向へのず れで あ る ことか ら西二坊 々間西小路 は西二坊大路 を基準 に して位置を設定 された と考 え られ る。

(劾

 

西二坊々間西小路西側溝 は推定条坊計画線か ら約27尺西 にずれた位置にある。このことか ら、

西二坊大路心か ら450尺東の位 置 に西二坊 々間 西小路西側溝を設定 した可能性はなくはないが、

西二坊大路東側溝(市調査S D 102)と西二坊 々 間西小路西側溝(S Dl10)の 検 出地点 は約1090

m離

れてお り、 ただちに断定 はできない。なお、

2

平城京条坊道路の位置設定 について、山中章 が

「南北条坊道路 の小路 は、(中略)東 また は西 側 溝に条坊計画基準線をお く例がある。」と述 べて いる (「古代条坊制論」―『 考古学研究』38巻4号

/1992)が

、 これ も幅20尺前後の小路の どの部 分が条坊計画基準線 と合致す るかは仮定条件次 第であ り、必ず しも説得力を もつ ものではない。

西二坊 大路

(3)

Tab■  

西二坊々間路心 の実測座標値

―‑14528700

‑14532800 西二坊 々間路心 (第142次)

   (第

18314次)

‑1938914

‑1938910

(2)東

西方 向 の条坊

奈良市第 207次 調査 は、一条 々間路 と西二坊 々間西小路 の交差 点付近 の調査 で あ り、 一 条 々 間路南側溝

(S D02)と

西二坊 々間西小路西側溝

(S D03)を

検 出 して い る。

東西方 向 の条坊道路 で あ る一条 々間路 は、 これ まで第

959次

調 査 で南側溝 (S D100)、 北側 溝

(S D 101)を

検 出 して いる。『 西大寺 防災施設 工事。発掘調査報告書』 では、 その位置が一 条 々間路 の推定条 坊計画線 の方程 式 か ら相 当北 にずれて い る ことにつ いて、「平城 京造営 当初、

平城宮 の推 定 西面 北 門か ら秋篠川 まで60な い し70大 尺程度 で延 び る一条 々間路 が秋篠川以西 で は路心 を北 によせ なが ら一気 に幅 を狭 めていたが、西大寺及 び西 隆寺 の造営時期 にあわせて秋 篠川以 西 で も以東 と同様 の幅 に拡 幅 され た」 とい う主 旨の試論 を提 出 して いる。 しか し、市調 査

S D02の

検 出 と西 隆寺 南面築地S A160の存在 か ら、 この試 論 の後半部 は否 定 しな けれ ば な らな い。 また、S D100と市調査S D02の計測値 か ら一条 々間路 南側溝 の振 れ を計 算 す る と、

国上方 眼 に対 してWO°48′ 22″

Sの

振 れを持つ ことにな る。 この角度 は、推定条坊方程式 に用 い た東西方 向 の振 れ に比 べて30′以上大 きい値 であ り、 この溝 が一 直線 で通 って い た とす れ ば、

この一帯 で は条坊設定 に際 しての測量 の誤差 が相 当大 きか った こと、換言 すればそれ ほど正確 を期 した測量 が行 われていなか った ことを示 して いる。

また、『 西 隆寺 発掘調査報告』 で は、西隆寺南面築地 S A 160の 南側 で北肩 を検 出 した東西溝

S D260が

一 条 々間路北側溝であ る可能性 を しめ して い る。 も し、 そ うだ とす ると市調査

S D0

2の 実測値 と考 え合わせて、一条 々間路 の道路I菖 (側溝心 々間距 離

)が

16〜

17mで

あ った こ と

にな るが、 その場合道路心 の位置が推定西面北F聯きの推定位 置 と比 べて相 当北 とな る

(X座

標 値 で約

10m北

)。 これ は西隆寺 に南面す る一条 々間路 を西隆寺側 (右 京一条二 坊 十・ 十五坪)

に拡幅 したため と考 えてお きたい。

B  主要堂塔の配置

西大寺蔵 の「 西大寺伽藍絵図」 (元禄 11年 。

1698)は

、 西 隆寺 の伽藍配 置 を描 い た唯― の絵 図 で あ る。 この絵 図 は、奥書 きによれば、宝亀11年

(780)の

絵 図流記 を模 写 した もの とい う が、 その信憑性 につ いて は、「 第 Ⅱ章西隆寺 の歴史」 でのべて い るよ うに若子 の問題点 を残す。

しか し、 この絵図 に描 かれた西隆寺 の堂塔 の うち、寺地 の中軸線上 の「弥陀金 堂」 (以 下「 金 堂」 とい う)、 寺地 東南部 の「 宝塔」、寺地 の東面 に開 く「 東 門」 の遺構 が西隆寺第

1〜 6次

の 発掘調査 にお いて、 また金堂 を取 り囲む回廊 の うち東面 回廊 と】ヒ面 回廊 が第209・ 212・ 219次 の各発掘調査 にお いて検 出 された ことによ り、 この絵 図が一定 の信頼 を置 くに足 る ものである ことが明 らか にな って いる。 これ らの堂塔 の配置計画 につ いて は、『 西隆寺発掘調査報告』 で、

西 隆寺 の伽藍 中軸線 が西二坊 々間西小路心 に設定 されて いる こと及 び東 門心 が金 堂 心 の東440 尺、北 110尺 、塔心 が金堂心 の東250尺 、南210尺 の計画 で あ る ことがすで に指 摘 され て い る。

ここで は、主 に今 回の一連 の発掘調査 によって、新 たに明 らか にな った堂塔 の配置計画 を以下

―条 々間路

(4)

に示 してお く。 なお、配置計画 の検討 の基礎資料 とな る、堂塔位置等 の実測座標値 及 び推定座 標値 はTab.12の とお り。

① 金堂心 か ら東面回廊棟通 りまで及 び金堂心 か ら北面回廊棟通 りまで の計画寸法 は、 それぞれ 130尺 、110尺 であ る (金堂心 ―東面 回廊棟通 りの実測距離、金堂心 ―北面回廊棟通 りの推定距 離 はそれ ぞれ3885m、 32.50m)。

②東F聯いは、北面回廊棟通 り延長線上 に設定 され、中軸線か らの計画寸法 は440尺 で あ る (中 軸線 ―東F聯いの実測距離 は129,98m)。 東F聯心が一条々間北小路心の延長線上 に来 な い (推定 条坊計画線 の方程式では東F■とヽの位置 は一条々間北小路心の北約11.4mの 位置にあたる

)の

は、

この設定方法のためである。

③金堂心か ら南面築地心 までの計画寸法 は300尺である (金堂心 ―南面築地心の推定距離 は89 20m)。

④中軸線か ら東面築地心 までの計画寸法 と西面築地心 までのそれとは、等 しくなか ったと見 ら れる。東面築地心 までの計画寸法 は440尺 (東面築地 は東門棟通 りに取 り付 く

)で

あ るが、 西 面築地心 までの計画寸法が もし440尺 であるとすれば西面築地 は西二坊大路 の路面 上 に来 るこ とになる。中軸線か ら西面築地心 までの計画寸法 としては410尺が もっとも妥 当性 を持 つ。 す なわち、西隆寺寺地の東西幅は850尺であった可能性が高い。

⑤寺地の南北方向の計画寸法 は790尺と見 られる (築地東北隅 ―同東南隅 の推定距 離 は233.21 m)。 900尺に比べて相当短い寸法 にな っている理由としては、北京極大路が相当大 きい路面幅 を有 していた可能性が考え られる。

金堂心 塔心 東F動い 東面回廊棟通 り 回廊東北隅 南面築地心 築地東北隅 築地東南隅 (推定)

‑1952905

‑1945461

‑19399.07

‑1949020

‑1949030

‑1943300

‑1939980

‑1989837

塔心 と東F■とヽの座標値 は『西隆寺発掘調査報告』 による。金堂心の座標値は、西隆寺第 3次 調査 (金堂地 区)と一部重複 した場所を調査 した第209次調査の成果 に基づ き『西隆寺発掘調査報告』 で採 用 してい る 座標値を修正 した もの。東面回廊棟通 り、回廊東北隅 (東面回廊棟通 りと北面回廊棟通 りとの交 点)、 南 面築地心、築地東北隅の座標値 は、実測図か らの読み取 り値 (読み取 り単位5 cm)。 築地東南 隅 の推定座 標値 は、傾 きtano° 18′ 58〃 で南面築地心を通 る直線 と傾 き―cotO° 19′ 50〃 で東 門心 を通 る直線 との 交点の座標。

)奈

良市第213‑3次調査 で検 出 した西二坊 大路 東側溝心

(X=‑14620000,Y=‑1964788)

を通 り傾 きが一cotO°19′50〃の南北方 向の直線 と、東F弓

(X=‑14507784,Y=‑1939907)

を通 り傾 きがtanO°18′58″の東西方 向の直線 と の交点 との座標値を求めると

X=‑14507925, Y=‑1965435を

得 る。 この点 と東F聯いとの距

′θを

離 は

25523mで

あ り、

 1尺 =0296mで

計算 す ると8624尺 となる。 したが って、 西 隆寺西面 で西二坊大路の道路幅を縮めていない限 り西隆 寺寺地の東西幅はこの値 よ り短 いはずである。

側溝の幅、築地の幅等 を考え ると西隆寺寺地の 東西幅は850尺の可能性が高い。

Tab 12 

西隆寺堂塔等の実測及び推定座標値

‑14511080

‑‑14517282

‑14507784

‑14511080

‑14507825

‑14519950

‑14496610

‑14519931

(5)

2  寺地 と伽藍

西 隆寺 が平城京左京一条二坊 の】ヒ西 四町 (九・ 十・ 十 五・ 十六坪

)を

占め た ことは、種 々の 史料 か らも明 らかで あ る。 これ まで の調 査 で、金堂 。塔 。東 門 な どの主要遺構 の位置が確定 し、

上記四町の 占地 は正 しく裏付 け られてい る。 まず、1976年 刊行 の『 西隆寺』発掘調査報告書 に よ って 旧調査区の成果 を要約 しよ う。

金堂 は、奈良時代前半 に十坪・ 十五坪 を分 か った坪境小路 とその中心 をそ ろえてお り、寺地 の東西中心 に位置す る。基壇 の規模 を、 旧調査で は127×79尺 と して いたが、 再 検 討 の結 果、

東西 は129尺

(38.2m)が

妥 当 と考 え られ、 復原平面 もFig。51のよ うに改訂 した。

東 門 は、二条 々間路 に面 して開 くことは明 らかで あ るが、寺地東面 で の位 置 は、 南】ヒ中心 に 当 た らず、 やや北へずれて いる ことが判明 して いる。東門の遺構 は、親柱筋 と西控柱筋 の切石 の礎石計八個 を存 し、平面 を完全 に復原 し得 る。三間一戸 の門で、桁行 の柱間寸法 は中央間十 四尺、脇間九尺、梁行 は十尺等 間であ る。僧門で あ り、八脚門 と推定 され る。遺構面 を勘案す ると基壇 は低 く、 また宮城 門 と比較 すれば明 らか に規模 も劣 るが、切石 の礎石 を用 い るな ど、

京 内寺院 におゝさわ しい格式 を備 えて いた ことが想像 され る (Fig.51)。

寺地東面 の築地塀 は、 この門 の棟通 りに と りつ き、新 しく調査 した寺地東北 隅部分 で の知見 を合 わせ ると、 そのまま東北 隅 まで直線状 に伸 び ることがわか る。従 って東 門 は築地面 か らか な り道路側 に張 り出す こととな り、道路 との間 に一定 の幅の犬走 りを取 って いたので あろ う。

築地 の規模 は明 らかで はな いが、 や は り東北 隅 の暗渠

(S X429)の

状況 か ら、 そ の基 底 幅 を

6尺

程度 と推定 した。

東 門 を入 ると、 バ ラス敷 の道路

(S F 006)が

寺域 内 を西へ導 く。 そ の南 北 は

12,7mを

へ だ てて両側 とも築地塀 (S A004・

005)で

画 されてお り、寺域 内が区画 されて いた ことが 明かで あ る。

南側 の区画 内 には、南方 に塔 が所在 す る。塔 の遺構 S B0501ま 長辺約

6mの

、 南 北 にや や長 い方形平面 の地業であ って、 その位置 と基壇規模 がおおよそ推定 され るにす ぎない。 また、塔

金堂基壇 は 129× 79尺

東門 は三間 一

 

 

 

 

塔は長辺6

mの方形平 面の地業を

°13° 15°

17° 17° 17°

15°

Fig.51 金堂 (左)。 東門 (右

)復

原平面図

(11500)

′θσ

(6)

寺 地 内 の 区

   

の周辺一帯 には、他 の建物 な どはほ とん どない。

以上 の成果 に加 えて、新調査 にお いて も多大 な知見 を得 た。特 に道路 S F 006の 】ヒ側 の区画 内 に、整然 と した配置を持つ、 ま とま った建物群 が あ ることが判明 した。 これ につ いて は次節 で詳述す る。

一方、道路予定地 と、 その周辺 とい う調査 の性格 か ら、新調査の発掘区 は伽藍 中心 部 か ら寺 地東北隅へ斜 め帯状 に亘 り、寺地 内の利用状況 を、全域 に亘 って推測す る手がか りが得 られた

ことも大 きな成果 とな った。 まず、寺地 と伽藍 の関係 につ いて述べよ う。

寺地 は、 すで に述 べ たよ うに四町分、 したが って一坊 の四分 の一 の一 辺 900尺 の正 方 形 の内 に収 まる。 いま、回廊で囲 まれ た伽藍 の規模 を復原す ると、東西 は心 々で260尺 で あ り、 基 壇 の出を勘案す ると、およそ

82m(275尺 )と

な る。 すなわち、寺地全体 の東 西 幅 の 中 央

1/3

が、伽藍 にあて られていると考 え る ことがで きる。

東 門 は北面回廊 の棟通 りにその心 を合 わせてお り、寺地 の南北中心 よ りやや北 に位置す るが、

いずれ にせ よ これに続 く東西道路 によ って、寺地 の残 り東側

1/3は

大 き く南北 に三 分 された 区画 とな る。 当然、 西側 も対称 に南北二 つ の区画 とな ることが考え られ るが、寺地 の西半 には 発掘調査 はほとん ど及んでお らず、 ひ とつ の推定 に留 まる。主伽藍 の北側 をど う解釈 す るか は 問題 が あ るが、講堂 。尼房 の所在 す る、主伽藍 と一連 の区域 と考え、以上 をま とめ る と、概念 図 に示 したよ うな伽藍地及 び四区画 によ る寺地 の構成が想定 されよ う。 (Fig.52)

このよ うな寺地 内の区画 を「 院」 と称 して いた ことは、東大寺や西大寺 など、 いず れ も当代 の寺院 の史料 によ って明 らかで あ る。近接 す る西大寺 においては、東西三町、南北 四 町 の十二 町分 を、 ほぼ条坊 に従 う町 ごとに区画 し、 中央四町分 に東西両塔・ 薬師金堂 。弥勒金堂 な どの 主要堂塔 を配 し、東西 に計八 院 を構 えて いた。

次 に主伽藍 の復原 を試 み よ う。 ほぼ確定 しているといい得 るのは、金堂 の基壇範 囲 と、東北 隅 を含 めた東面・ 北面 の回廊 の一部 の柱位

置 で あ る。 また旧調査第

4次

の調査 区北端 で、回廊 の南雨落溝 とな る可能性 を持つ東 西満

S D192が

検 出 され て お り、 これ らか らまず回廊 の規模 を推定す ると、棟通 り間 で東西260尺 (77.6m)、 南北286尺 (84.8

m)と

な る。東面回廊 は隅を含 まず に27間 とな る。北面回廊が講堂 にと りつ くか否 か は確定 で きないが、調査 の知見で は否定 的 な要素 があ り、復原図で は金堂背後 で閉 じ ると仮定 した。

中門 。南大門 の平面 を示す史料 はないが、

中門 は「 西大寺伽藍絵 図」 に、 こ とさ ら

「 楼 門」 と記載 が ある ことに い くば くか の 主伽藍 復原

︱ 十土

引しF可

H

I薗

I十

日 =│

!!」!

西 門

﹁ 刊

= 謂

= 刊 出

(1)東西は築地心々で金堂中軸線か ら東側440尺、 西側410尺、計850尺に復原 される。

′θひ

)宮

本長二郎「奈良時代における大安寺・ 西大寺 の造営」(『西大寺 と奈良の古寺』昭和58年 1月)

(7)

真実の伝承 を認 めて、東門 とほぼ同規模の三間の楼門 と推定 し、一方南大門は、東大門よりひ とまわ り大 きい五間の門を想定 した。南大門は、南側 の道路 の状況を勘案 し、南面築地 よりや や引込んで建つ と推測 した。講堂 の規模及び位置 は、尼坊 に推定 した建物S B542・ 545がその 仮定の根拠である。

西隆寺 の伽藍配置において特色 となる点 は、塔 の位置である。西隆寺の塔 は回廊の外 にあっ て、 しか も寺地のかな り南寄 りに位置す る。 これ は東大寺や唐招提寺、 さらには興福寺などに も通ず る要素である。その位置か らいって、塔 自体の周囲に独立 した回廊を持つ余地は少ない とはいえ、西隆寺 の東南の院は全体が塔院であった可能性 もあ りえよう。今次の発掘調査の主 要部 とな った東ゴヒの院は、その位置 と建物配置か ら、次節 に述べ るように食堂院と推定できる。

残 る西北・ 西南 の院については、全 くの仮説 とな るが、西大寺 の例 に照 らしあわせれば、政所 院ない しは正倉院であったことが考え られよう。

このように、寺地を東西二等分す る全体の配置計画や、院 による構成 は、西大寺 との共通性 が高 く、 その強い影響を物語 っていよう。 また一方では、伽藍配置に、規模 こそ違え特 に東大 寺 との強 い類似性があるのは注 目される。法華寺が塔二基であることを考えあわせると、西隆

の 性 院 能 塔 可

Fig.53 西隆寺伽藍配置復原図

(1:2000)

ヱθ7

(8)

寺 も、 B S050と 東西対称 の位置 にもう一基の塔を想定すべ きか も知れない。

なお、上 にも引用 した「西大寺伽藍絵図」(西大寺蔵

)に

描かれた西隆寺 の伽藍 図 について であるが、金堂・ 回廊 。塔の位置関係 は発掘成果 とほぼ等 しく、『 西隆寺発掘調査報告書』 に おいて も、「少な くとも主要堂塔 の配置では真実を伝えたものとしてよい」 との評価 を与えて いる。 しか し、寺地 に比 して回廊一画の規模が甚 しく大 きい点をは じめとして、東門の形式 と 規模、寺地東北部の様相 などは、発掘調査成果 とは一致 しない。 ただ し、塔 の周囲に建物が見 られないこと、金堂 。講堂 の背後 に多数の堂舎を描 くことなどには大勢 として調査成果 と共通 す るものがあり、史料 としての この絵図の限界 と同時にある程度の価値 を も示 している。

いずれにせよ、西隆寺が上記のよ うな構成を持つ四町占地の大寺 として奈良時代後期に成立 し、少な くとも東北の食堂院の一画 は10世紀 まで生 き続 けたことは明 らかとなった。なお講堂・

中門・ 南大門などが明 らかでないうらみはあるものの、伽藍の主要堂塔 ばか りでな く、寺地周 辺部の様相 までが このように発掘調査 によって明 らか となった例 は少ない。

甲 国 げ □

固 国 国 叫 詠 咽 胸 警

酢   岡 ピ ︲ ︲

﹈4円﹈ 中向﹈脚 出日﹈付

酢   ピ 鳳

食 堂 院

一 ﹈ 切 □

臨 ェ 騨颯 ぽ

.胡 拠 榊 鳴

中﹈ 的﹇

□ ﹈呻

四 王 院

回寺    寺 国

国 岬  □   日 H 日 国 呻           □ =

東南 角 院 西南

角院

中中  ﹇凹

︐︲.早 一﹈ =

,        1        17Э

Fig。

54 

西大寺建物配置図 (1:4000)

(9)

3  遺構変遷 と寺地東北部の性格

すで に前節 で触 れたよ うに、新調査 によ って寺地東北 に一院が検 出 され、食堂院 と推定 した。

本節 で は この部分 を中心 と して全体 の遺構 の時期 区分 を述 べ、次 いで食堂 院推定 の根拠 を述 べ る。

[A期 ] 

古墳 時代。 南西 か ら東北 に斜行 す るい くつか の大溝 と、 これ に直交 あ るいは平行 す る小溝、及 びその周辺 の多 くの掘立柱建物 か らな り、 このあた リー帯 が

6世

紀 を前後 とす る古 墳 時代 の水 田ない し集落 で あ った ことを示 す。

なお、 よ り古 い縄文時代 の斜行溝

(S D440)や

、布留式土器 の時期 の遺 構 も見 られ る こ と をつ け加 えてお く。

[B期 ]奈

良 時代前 〜中期。 西隆寺造営前 の平城京 の宅地 にあた る。坪境小路側溝 (S D095・

110)の

存在 によ って この四町が一 町以下 の宅地 に分割 されて いた と想定 で き る。 九 坪 に は七 間一面南北棟 の建物 (S B510)、 十坪 には同 じく七 間一面東西棟 の建物

(S B 040)が

あ って いずれ も井戸 (S E492・

060)を

伴 な い、 それぞれの主屋 と推定 され る。 ただ し十坪 に小規模 な建物が い くつか あるほか は全般 に遺構 は少 な く、宅地 と しての建物密度 は低 い。

一方、十五坪 には S B120、 S E130が あ り、池S G140を伴 な う。 また、 十 六 坪 で はそ の一 部 で はあ るがS B200を検 出 し、柱 間 の規模 な どか らも主屋 に相 当す る もの と推 定 され る。 そ の北方 にはや は りこの時期 の井戸

S E203が

あ る。以上、後 に西隆寺 の宅地 とな る四坪 に はい ずれ も建物 と井戸が配 され、各一町以下 の宅地 であ った ことはほば裏付 け られたとい って良 い で あろ う。 しか しその敷地 のいずれ もが、 あま り建物数 が多 くない様相 を示 してい るのは、九 坪 内 に池状 の施設S G530が あ る こととあわせて、 この地域 の特殊性 ない しは開発途上 の状況 を示 してい るのか も知 れない。九坪 の坊 間路 に面す る位置 の掘立柱塀S A425も 、 宅地 の外 周 を画す るとす るには、築地 と比べ るとやや貧弱 な施設 で あ るが、 同様 の状 況 は左京 三 条二坊 (長屋王邸

)で

も見 られ る。

[C期 ] 

西 隆寺造営期。奈良時代後期。 西隆寺造営 に伴 な って、 この地 の様相 は一変す る。

伽藍 内外 は言 うに及 ばず、敷地 内 のすべて の建物 は破却 され、 整地 を行 な って寺地 とな る。

まず伽藍北方 で は、廻廊地面か ら

145mを

へ だてて、桁行七 間以 上 の東西棟

S B541が

建 て られ、 その北 は東西塀S A547で画 され る。S B541の東妻 は廻廊東面 よ りわず か に西 に位 置す るが、伽藍 に付属 した施設 と見 な され よ う。 その位置 と桁行が長 い ことか らは、僧房 の機能 が 最 もおゝさわ しいが、次期 に これを南北棟 に建 て替 えて整備 が進 む状況 をみ ると、仮設 的 な もの の可能性 もあ り得 よ う。S A547の北方 に も、 さ らに東西棟

S B546が

配 され る。

さて、絵図や、当時 の伽藍配置 の類型 か らは、北面廻廊S C450は講堂 に と りつ くの が 当然 と考 え られ るが、少 な くとも金堂 と同等 ない しはそれ以上 の規模 の講堂 の遺構 は、調査区内 に は検 出 されて いない。 また、次期 に位置付 けた廻廊北方 の井戸S E548は、 遺 物 か らい って こ

西隆寺造営 前の平城京 の

 

 

θ

(10)

の時期 まで遡 る可能性 を有 してお り、 いずれ に して もや は り金堂 と同規模 ない しそれ以上 の講堂 が回廊 に連 な るとい う想定 には否定 的な事実 である。 した が って講堂 の解明 には伽藍 中軸上 の さ らに北方 の調 査 が不可欠で あ り、】ヒ面回廊が講堂 にとりつかずに、

金堂周囲で完結す る可能性 も今後考慮 す る必要があ ろ う。

次 に寺地東北部 で は、池状 の湛 水 施 設

S G530が

整地 に伴 って埋 め立 て られ、 四周 を築地塀 で画 した 一 院が形成 され る。 その当初 の建 物配 置 は、Fig.

中 心 建 物

 55の

よ うであ る。 すなわち、桁行七間の大規模 な建

S B490 A tts B490Aを

中心 と して、 そ の背 面 三 方 を囲 む よ うに

3棟

の桁行五間の建物 (S B 485・ 495・ 520) が配 され、 さ らに北方 に桁行七 間 の建物

S B505が

建つ。 S B505は 塀で囲まれている。

        Fig.55 C期

の食堂院遺構配置 (1:1500) 食

 

 

  

この中心建物 S B490を 西隆寺食堂 と、 またこの院を食堂院 と推定す る。その主要な根拠 は、

次の三点である。

S B490Aは

次期に同位置 。同規模で礎石建の建物

S B490Bに

建て替え られ、長期に亘 って 存続 した大規模な堂であること。

②その位置が、伽藍東北 にあること。食堂を伽藍中軸か ら東方 にはず して建てることは、奈良

::夏 ::

Aど

k

西隆寺食堂院建物配置復原図

(11)

時代 の新風 と考 え られ、興福寺 。東 大寺 な どで食堂 は この位置 にあ り、 また史料 か ら、西大寺 も食堂院 は寺地 の東北隅 に復原 されてい る。

③ 院 内 の建物配置 。構成 が、西大寺 に近似 す ると考 え られ ること。西大寺 の「 資財 帳」 で は食堂院の構 成建物 を、「 瓦葺食堂 (一宇)、 桧 皮 殿、桧皮雙軒廊 (三宇)、 瓦葺大炊殿、東桧皮厨、 瓦葺倉代、西桧皮 厨、瓦葺倉代、瓦葺 甲雙倉、 中間、 馬屋房」 と数 え 上 げてお り、 これ を も とに宮 本 長 二 郎 はFig.56の よ うな復原図 を提 出 して い る。 これ をFig.55の遺 構配 置図 と比較 す ると、 ほぼ同一 の構成 で あ ること は瞭然であ り、S B490を食堂 、 S B 495を 「 殿 」、

S B505を「 大炊殿」、S B485を「 東 厨 」、 S B 520 を「西厨」 に比定 しうるもの と思 われ る。倉代・ 甲

Fig.57 D期

の食堂院遺構配置図

(1:1500)倉

の類 は検 出 されていないが、 院 内の未発掘部分 に 充分 あ り得 るところで、横 板組 の上質 の井戸S E491の存在 も、食堂 院 にふ さわ しい もの で あ る。南限の築地塀S A004に 1よ、食 堂 中軸線上 に当然南 門を開 いて いたので あ ろ う。 一 方 、 院 の西限 につ いて は、食堂西方 やや南寄 りに掘立柱 の棟門S B540が検 出 され て お り、 痕 跡 は残 さな いが、 この南北 に当然築地塀 が連 な っていた もの と想定 した。 したが って食堂院の規模 は、

四周 の築地 の心 々で東西

804m(270尺

)、 南北

11l m(375尺 )と

みな され る。

この時期 の食堂院 の遺構 の存続期間であるが、尼坊 に比定 したS B541と 同 様 に、 比 較 的 短 時間で あ った と推定 され る。 そ の根拠 は、

1)ま

ず食堂 自体 を含 めすべ て の建物 が掘立柱建 で あ り、 この後礎石建 に改 め られて い るものが多 い こと、

2)建

物 の方位 が、 いず れ も北 で西 に か な り (約30つ 振 れて い る こと、

3)柱

抜取穴 に、整地土 と推定 され る責 色土 を含 んで い る ものが多 い こと、 な どで ある。特 に

2)の

方位 の振 れ は、伽藍廻廊 や想定 東面築地 の方位 と 比較 して も顕著 な もので あ り、「 殿」 に推定 した建物S B495ない しは S B 505と 、 次 期 の

SB

500(七

間二面

)と

を比較 して も、仮設的な状況 を示 しているといえ よ う。

[D期 ] 

奈良時代末期 か ら平安 時代初頭 にか けて。 西隆寺 々域 内が整備 され た時期。

伽藍北方 で は南妻 をそ ろえて

2棟

の南北棟建物 S B542・ 545が 建つ。 S B 542は 桁 行 10間 以 上 で、 さ らに北 に伸 び、 S B 545も 同等 の規模 と推定 され る。 これ らは、

S B541の

建 て替 え に よ る整備 をされた尼坊 と推定 され、西方 に も伽藍 中軸線 を心 と して対称 に配 された と考 え られ よ う。S A545の西南 に は

S E548が

あ って講堂 の位置 に疑間を投 げか けてい るの はすでに述 べ た所 である。遺構面 は全般 に削平 がみ られ るとはいえ、他 の礎石建物 は随所 で その痕跡 を留 め てお り、西隆寺 において は尼坊 が一貫 して掘立柱建で あ った ことは注 目され よ う。

東北方 の食堂 院 の区画 はその まま存続 して い るが、建物 はFig.57の よ うに大 改 修 を受 け る。

食堂 は礎石建 に改 め られ、 その西方 に も小規模 な礎 石建物 が付加 され る。東 厨 の位 置 には礎石 建九 間二面南北棟 とい う建 物 S B 480が 建 ち、大規模 な厨 と して ここに機 能 が 集 約 され た と推

食堂は食事 を す る 所 殿は配膳室 大炊殿は食 堂

 

 

管 理 棟

厨 は食物 を 調理す る所

の 修

鋤 改

食 大

′′′

(12)

定 したが、西大寺資材 帳 の記 載 か らはむ しろ これ に大炊殿 を比定すべ きか も知 れ な い。「 殿 」 は位置をやや後退 させて七 間二面 の建物S B500と な り、後方 に後殿

S B507を

従 え る。食堂 。 殿・ 厨 の中間 に位 置 す る井戸

S E491Bは

、扉板 を井戸枠 の補強材 と して付 加 す るな どの改修

を受 けなが ら、10世紀 まで存続 した ことが遺物 か ら確 かめ られてお り、 それ は この食堂院その ものの廃絶時期 に も示唆 を与 え る。

食堂 。厨 が礎石建 とな った この時期 の食堂院 こそ、 その完成 された姿 と言 うべ きであろ う。

「 殿」 が食堂 に匹敵 す る規模 とな った こと も、資材帳 に記 す西大寺 の状況 と相 等 しい。 さ らに 隠

 

この S B5001こ は、建物前方 に中央三間 と柱筋 をそろえた四つ の柱穴 が あ り、 これ らを階隠 と 推定 した。側柱 との距離 は

3.9m(13尺 )で

あ るが、 これは この建物 が床 張 りで、 お そ らく周 囲 に縁 を巡 らし、 さ らに木 階 を と りつ けて いた ことを示す のであろ う。床高・ 縁 の出を共 に5 尺程 と仮定す ると、階隠内 に これ に見合 う木階を設 けることがで きる。古代 の建物遺構 に階隠 が確認 された例 はまれで、食堂 院 の「 殿」 の建物 に このよ うに具体的 なイメー ジを与 え得 た こ

とはい ささかの意義 があろ う。

なお、上記 の四つ の柱穴 につ いて は、独立 した三間の 目隠塀 とい う推定 が あ り得 ると思われ るが、 あえてそれを採 らなか ったの は、先 に引用 した復原案

(Fig.56)の

通 り、 西 大寺 の場 合 は食堂 と殿 とが三条 の軒 廊 で結 ばれ、 む しろ密接 なつなが りを保 って いた と考 え られ るため で あ り、 ことさ らその中間 を閉 ざす よ うな塀 を設 けることはおゝさわ しくない と判断 したのであ る。東大寺・ 興福寺 も、食堂 とその後方 の建物 は軒廊 で結 ばれていた と復原 されている。

[E期 ] 

平安時代 以降

 

伽 藍北方 で は、僧坊が建 っていた場所 に、倉 と推定 され る二棟 の総 柱建物 S B543・ 544が 建 つ。 僧坊 が失 われ、倉が とって代 わ ったので あるが、 これを もって回 廊一郭 も廃絶 した とす る根 拠 に はな らな い。 む しろ寺地 が縮小 され、本来院 を形成 して いた倉 の機能が ここまで近接 して きた可能性 を考 えたい。

一方、 旧食堂院で は食堂S B490と 重複 して南北棟片廂 の建物S B515お よびそれに連 なる塀 S A522・ 525が 、 また殿S B500と重複 して小規模 な建物S B504が、 それ ぞれ検出されてお り、

いずれ も食堂院廃絶後 の もの と推定 したが、 その時期 につ いて手がか りに乏 しく、確定 しがた い。井戸S E491も、 この時 まだ利用 されていた可能性 も大 いにあ り得 よ う。

しか しいずれにせ よ、西大寺 の衰退 と同様 に、平安時代 に西隆寺 がその勢 力 を急速 に弱 めて い った状況 は看取 され る。奈良時代後期 に創建 され、迅速 に造営 され、寺地 内が くまな く整然 と整備 された、大伽藍 といい得 るほどの寺勢 を ほこった この寺 も、すで に第 Ⅱ章で述べた通 り、

鎌倉 時代 には田畠 に帰 して いた と推 測 され る。近世元禄十一年 の年記 が あ る、「 西大寺 伽藍 敷 地弄現存堂舎坊院図」 には、未 だその礎石 を地上 に留 めて いた様子 が描 かれて いる。 しか しこ れ らの礎石 もすべて失 なわれ、現代 その跡 は都市 の ビルの下 に没 し去 ろ うと してい る。

′′2

(13)

S E491出 土 の扉板 とその復原

井戸S E491の井 戸枠 内側 に は、 四面 に板材 が添 え立 て られて お り、扉 板 の転 用 で あ る こ と が判 明 した。 それぞれの材 の上半 は腐朽 していたが、下半で はいずれ も当初 の幅を完存 して い た。各材 は、片側 の端面 を丸 く仕上 げ、 その下端 に軸 を造 り出す。幅 の寸法 か ら

A〜 C材

D

材 の

2種

に分類 で きる。

D材

のみ は他 と細部手法 も異 な り、別 の建物 か、 あ るいは違 う部位 に 用 いて いた もの と推 定 され る。

各材 の所見 を述 べ ると、 まずA・

B材

は同一規格 で、厚 さ 7 cm弱 の板材 か らな る。

A材

は軸 部分 を破損 した とみえ、 その部 分 を切 り取 って後補 してい る。 後補材 の短 辺部 分 は日違 で本体 と接合 し、長辺 の端面ニ ケ所 に角穴 をあけ、穴内 に釘 を打 って留 め、埋木 を して いる。 また扉 の召 し合 わせ側 の端部、 幅9 cmの部 分 も本体 と別木 で あ るが、接合部 分 は本実 矧 で、 さ らに釘 留 めの上埋木 を施 してお り、木 日の端 喰 のお さま りか らみて、 当初 か らこの形 で全幅 を形成 し て いた と考 え られ る。

これに対 して

B材

は完全 な一枚板 であ り、造 り出 しの軸 も残 されて いる。全 幅99.5cmで 、 木 回の端喰 は80,5cmに 及 び、三 ケ所 で釘留 め とす る。表裏 の面 のいずれ に も、金具 や桟 の痕 跡 が 一切認 め られず、戸締 りのための仕 口 もないため、現在残 されてい る部分 は、扉 の上側 にあた るので はないか と推定 され る。A・

B材

の よ うに木 口に埋 め込 みの隠 し端喰 を もつのは法隆寺 金堂 及 び五重塔所用 の扉 と同等 の手法で、貴重 な実例 を加 えた。

C材

はA・

B材

と同幅 であ るが、 ほぼ同一寸法 の

4枚

の板 を本実矧 で接合 し、一枚 の扉板 に 仕立 てて い る。総 幅96.5cmと 、

B材

よ りやや短 い。 四材 の接合方法は本実矧 と太柄 の併用であ っ て、表面 りには桟 な どの痕跡 を留 めず、すべて見 え隠れで処理 して いる。 また矧合わせの造 り 出 しを、下端 か ら60cm前 後 で凸凹逆 に してお り、綿密 な手法 といえ る。扉 の全長 に対 して、 こ の寸法が規則性 を持 って いると推定すれば、240cm、 あ るいは300cm前 後 とい う全長 の復原値 を 得 る。法 隆寺金堂 の扉 の縦 溝 の寸法 の比率

(033)か

らは、後者 が妥 当 とな るが、 この材 の厚 さ (約7 cm)は、 法 隆寺 金堂 のそれ (約

10cm)よ

りか な り薄 く、前者 の可 能性 もあ り得 る。 一 方太柚 の位 置 は、下 端 か ら約38〜 40cmの 所 にあ り、 その上少 な くと も60cmの 間 には仕 口が な い

ので、全体 で

3〜 4箇

所 で あ った と推定 され る。

D材

はやや幅がせ ま く、

2枚

の板 を

C材

と同様 に本実矧で接合 し、横桟 と八双金物 の釘跡 を 共 に残 す点 が他 と異 な る大 き な特色で あ るが、端喰 はない。

総 幅

889mmは 3尺

 2枚

板 幅 はそれ ぞれ

2尺

1尺

また横桟 の間隔 も

2尺

に復原 され、 きわ めて規格 的な造 り で あ ること も注 目に値す る。

八双金物 の形状 は、法隆寺東 院夢殿 の旧扉 金具 や、唐招提

崇 崩

B材

Fig.58 S E491出土の扉板

′′∂

(14)

八 双 金 物

A〜

C材

と D材の意匠 の

   

寺金堂所用の ものに類似 した、 おだやかな出ノ\双 に復原 されるが、およそ扉板 の半分 にも及ぶ 長 さをもつ点 は常識を覆す ものであ り、当代 に実用をこえた扉の飾 りとして も八双金物が活用 されたことが うかがわれる。 この材の場合 は、横桟の間隔が一定で、かつ上下 のあきが等 しい と仮定すれば、全長の適当な復原値 として245cm、 304cmと いう二つの値が得 られ、

C材

の場合 とほぼ一致す るのは注 目されよう。法隆寺伝法堂の場合、扉々の柱間寸法12尺 (天平尺

)に

対 して長押間の内法寸法 は

8尺

であ り、扉幅 は約114cmであるので、扉 の復原長 と して

8尺

とい う値 は充分 に可能性があるといえ る。 いずれにせよ、全長10尺の扉

(A〜 Cめ

は主要堂塔に、

8尺

の扉

(D材 )は

床張 りなどの堂 に用い られたと考えると、その意匠の差 も理解 されよう。

また、軸の欠損の状況か らは、かな り長期 に亘 って使用 されたこと、 また

D材

の表面 に焼損の 跡がみ られることか らは、 その廃絶 の状況 もうかがわれる。 なお、 これ らの扉板の他 に、中方 立 とも呼ぶべ き材の断片が出土 してお り、古代の扉日の工法の一例 として貴重である。

今回の発見 は、井戸への転用材 として平城京では宮跡内外を通 じて初 めての例である。法隆 寺金堂、五重塔所用のものと、 その規模や端喰の技法が一致 し、一枚板の もの として年代的に もそれ らに次 ぐ古 さを もつ こと、 さらに複数の材を集成する手法や、八双金物、横桟 などの細 部技法、 さらには当時の修理 の技法 を も知 ることができたことの意義 は大 きい。 また、その規 模 と意匠か らは、上記のように西隆寺内の堂 に用いていたものの可能性が高いと思われるが、

年輪年代の測定結果 とは必ず しも合致せず、宮内など他の場所か ら運 びこまれた可能性 も検討 しなければな らない。

八双金 物

ど′y

Fig。59 S E491出土の扉板復元

(15)

5  考古学か らみた土器埋納遺構 の性格

212次 調査で回廊東北 隅か ら土器埋納遺構S K499が発見 され た。調査担 当者 は、発見当初 こ れを、回廊建立 も しくは主要伽藍 の安寧静誰 を願 う地鎮 め遺構 と考 えた。 ところが埋納土器 内 の土壌

6点

をサ ンプル と した脂肪酸分析 の結果、 その うちの

3点

か ら動物性脂肪酸が検出され、

土器内 には胎盤 に類 す る動物遺体 が埋納 されて いた と判定 されるに至 った。現在 は本遺構を巡 っ て、胞衣壺 とす る見解 と地鎮 め遺構 とす る見解 が対立す る形 とな って い る。

本項 で は これ まで月旨肪酸分析 の結果 ばか りが強調 され、一部 に、出土状態や出土遺構 まで誤 っ て伝 え られ るに至 って い る現状 に鑑 み、調査担 当者 と して、本遺構 の調査成果を明確 に提示 し、

その性格判断 を行 お うと考 え る ものであ る。

まず第一 に、本遺構 の検 出状態 を確認 す るとともに、埋納時期 を確定す る必要 があると考 え る。第二 に、脂防酸分析 の結果 に対す る疑間点 を提示す る。次 に、 これ まで発掘調査 で検 出 さ れ た胞衣壷 の類例 を検討 し、胞衣壺説 の矛盾点 を提示す る。最後 に、地鎮 め遺構 の可能性 を示 唆 してお く。

A  検出状態

土器埋納遺構 S K4991よ 、複廊 であ る回廊 の東北隅、 中央柱穴 で検 出 した。 出土状 態等 の詳 細 は土器埋納遺構 の項 を参照 されたい。本例 の性格 を考えよ うとす るとき、 まずその埋納時期 を確定 す ることが必要 とな る。時間的な前後関係 か ら言えば、回廊建立前、 回廊建立時、 回廊 建立後 のいずれかで あ る。

回廊建立前

  

今 回 の一連 の調査 によ って、 回廊周辺 には奈良時代前半 に遡 る小規模 な掘立 柱建物 や土装 が点在 し、 居住 地 と して使 われていたよ うだ。本遺構 を胞衣壺 と考 えた場合、居 住地 の こう した小形掘 立柱建物 の近傍 に埋納 した とす るのが、 もっと も考 えやす い。 しか し、

本遺構 の土 師器甕

Aが

平城宮土器編年 Ⅳ〜

V期

に位置付 け られ る限 り成立 す る可能性 はない。

回廊建立後

  

この場合 も回廊建立前 とす る考え と同様 の困難が あ る。 回廊建立後 ほどな く して主要伽藍 は徐 々に衰微 して い ったよ うだ。 しか し回廊北東 の池状遺 構

S G530上

層 か らは

9世

紀 の遺物 が出土 す る とと もに、井戸S E491か らは10世 紀後半代 の供 膳 。煮 沸形 態 の土 器 が多量 に出土 して いる。主要伽藍 の東北部 で は、長 らく何 らかの生活 が続 け られた可能性 が あ

る。 それ らの人 々が回廊衰微後 に土器 を埋納す る可能性 は否定 で きない。

しか しまず土 師器甕

Aは

平城宮土器編年 Ⅳ〜

V期

の ものであ り、 この種 の上器 が伝世す るこ とは考 えがたい。遺構 の上 か らも、検 出 された楕 円形 の上壊 はその位置 は もちろんの こと、形 態・ 埋土等、一連 の回廊礎石据 え付 け掘形 と何等変 わ るところがない。 また新 しい土壊が切 り

あ って い る可能性 も、平面検 出・ 断割 り調査、 いずれの結果か らも否定せ ざ るをえない。

つ ま り本遺構 の時期 と して矛盾 な く解釈 で きる考え方 は、唯一、 回廊建立 時 に埋納 した とす る次 の考 えかたであ る。土器埋納遺構 は回廊建立時 に礎石据 え付 け穴 を開削 し、根石 を据 え る まで の きわめて短 い間 に埋納 され た ものであ る。

(1)「西隆寺跡か ら出土 した土器に残存する脂肪酸分析」『1990年度平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』1991

′′σ

回廊建立時 に

 

 

(16)

発掘地 は現 代 の汚染 を 受 けやす い 地 であ つた

B  脂肪酸分析結果 に対す る疑間点の提示

脂肪酸分析 はズ コー シ ャと帯 広 畜産大学 に依頼 し、両者 の署名入 りの報 告書 を受領 している。

ここでの記述 は、 すべて この報告書 の内容 に対す るものであ る。

報告書 によれ ば、脂肪酸分 析 は、次 の手順 で行 われて い る

1,資

料 の採取

2脂

防酸 の抽 出

3脂

防酸組成 の検討

4.ス

テ ロール組成 の検討

5脂

肪酸組成 の数 理解析

6.脂

肪酸組成 の種特異性 相 関

残念 なが ら、脂 肪酸 の分析値 そ の もの に対 して、批判 を加 え る力量 は持 ち合 わせて いな い。

しか し少 な くとも、分析値 の解釈 に対 して は、科学 的な推論 の過程 にお け る問題点 や疑問点 を 指摘 す ることがで きる。

各段階 それぞれ につ いて、疑 問 を提示 す る。

1.資

料 の採取

No lか ら

N66ま

6点

の資料 が採取 されて いる。 このなかで

1か

3が

土 師器甕 の外。

4か

6が

土 師器甕 の中で ある。 さて問題点 は

2点

あ る。 まず先 に も述 べ たよ うに、 この甕 は、表 土 直下で検 出 された。具体 的 には、表土 か ら土器 口縁部 まで50cm内 外 しか な い。つ ま り地表面 に非常 に近 い場所 に埋納 され、 かつ蓋 な どの遮蔽物 がない状態 の甕 は、地上 か らの様 々な汚染 をひ じょうに受 けやす い状態 であ った。 この地点 の調査以前 の状態 を順 に遡 ってい くと、百貨 店 の商品搬入 口近 くの廃 品置 き場 、百貨店建設 に と もな う事務所兼 作業 員宿 舎、個人住宅 出入 り口に近 い庭 で あ った。 と くに百 貨店 に関 わ る前二者 の時期 には、 動物質 を含 む雑多 な汚染 を たいへん受 けやす い地 で あ った ことがわか る。

第二 に、 こう した汚染 の有無 を判定す るために、 6カ 所 の資料採取 を行 った と推量 され るが、

この地 は、秋篠川 によると思 われ る砂層 を基盤 に してお り、回廊 の基壇 もこの砂層 で形成 され る。 とくに土器埋納遺構 の発見 された場所 は、砂層 に加 え、下層 に秋篠川 の旧流路 があ り、非 常 に水 引の よい、汚染物質 の透過 しやす い地層 で あ る。 つ ま り汚染物質 が あ った と して も、 甕 の外で は透過 して検 出 され ない可能性 が高 い。 したが って、甕 の外 の資料

1〜 3で

動物性脂 肪 酸 が検 出 されなか った ことを根拠 に、汚染 が なか った と結論付 ける ことは困難 で あ る。調 査前 の土地利用状態 よ り考 えて、動物質 を含 む汚染 を受 けていた可能性 を想定 す る必要 が ある。

2.脂

肪酸 の抽 出

この段階 には、 問題 とな る点 は存在 しない。甕 の中の土が、抽出率0,0188か ら

00786%で

あ っ た ことは、他 の分析例 に比 べ、分析 の確度が よ り高 い もの と考 え るに足 る結果 である。 ところ が この結果 は、 ステ ロール組成 の分析値 と一致 しない。つ ま り、脂肪酸 はた くさん抽 出され た が、 なかのステロールは少 なか った とい う矛盾 した結果 とな ってい る。

ど′δ

(17)

3.脂

肪酸組成 の検討

ここで問題 とな るの は、甕 内の上 4か ら

6の

試料 の示す脂肪酸組成 の理解 で あ る。分析結 果 には、「 試料陥

4は

他 の試料N65、 配6と は多少異 な る脂肪酸組成 パ ター ンを示 した」 と記 され る。 つ ま り陥

4は

、No 5、

6に

比 べ、「 もっ と も多 く分布 して いたの はパ ル ミチ ン酸 で27

%、 次 いで ステア リン酸、 オイ レン酸、 リノール酸 が ほぼ同程度分布 して いた。」 と され る。

これにつ いて報告 は「 ステア リン酸、 オイ レン酸 、

 

リノール酸 の分布割合 は植物脂質 にはない 脂 肪酸 パ ター ンで」 と述 べ る。 しか し一 番多 い はず のパ ル ミチ ン酸 は、報告 によれ ば「 主 と し て植物遺体 の土壌化 に伴 う腐植物 か らきて いると推定 され る。」 とい う。 脂肪酸 組 成 を動 物 由 来 とす るか植物 由来 とみ るかで、報告書 中 に既 に矛盾 を含 んで い る。配5と

6は

甕 の外 のNo l か ら3と明 らか に組成 の違 うことが、提示 された棒 グ ラフか ら推量 され るが、Na 4は その どち

らに も属 さない特殊 な組成 と考 え るのが至当であ ろ う。

個 々の数値 に関 して も、Na 4の 特殊性 が うかが え る。配5と

6は

「 典型 的 な動物性脂肪 が残 存 す る谷状 の脂肪酸組成 パ ター ンを示 した。 特 にベ ヘ ン酸、 リグノセ リン酸 な どの高級脂肪酸 の合量 は、両者 の合計 で45〜

50%と

い う高 い もので あ った。」 とされ るが、 問題 のNo 4では、

ベ ヘ ン酸、 リグノセ リン酸 の比率が低 く、パ ル ミチ ン酸 の比率が高 い。報告 は、「 甕 内 の土 壌 試 料 には動物性遺体 が残存 して いた可能性 が高 い。」 と結論 づ けるが、正確 には、Na 5、

 6に

は動物性遺体 が残存 して いた可能性 が高 い と言 うべ きであろ う。

4.ス

テ ロール組成の検討

ここで も配

4の

特殊性 が浮 き彫 りに され る。報 告 で は、「 植物 由来 の シ トス テ ロー ル は (中 略

)試

料No 4で はま った く検 出 されず、 コ レステ ロール以外 のその他 の ステ ロールが約

90%近

くを 占めて いた。 その他 のステロールの大部分 は動物性 ステ ロール と推定 され る。」 と述 べ る。

しか し、分析値 を見 ると、 コ レステ ロール は2.10%と試料

6点

の うち最低 の数値 を示す。 少 な くと もこの結果 か ら「 その他 のステ ロールの大部 分 は動物性 ステ ロール と推定 され る。」 とい うの は分析結果か ら逸脱 していると言 うべ きであ る。 また シ トステロールが まった く検 出 され な い ことか ら、配

4は

ステ ロール含有量が異常 に少 なか った と考 え るべ きだろ う。 資料 の分析 量 自体 が少 ない とき、含有量 の相対 的な評価 は、 当然不安定 な ものになる。少 な くともコ レス テ ロール2.10%と い う数値 を無視 して、 シ トステ ロールが検 出 されなか った ことを もって、 動 物 性遺体 の存在 を推定 す る ことは、無謀 で あ るといわ ざ るを得 ない。

さ らに脂肪酸組成 で動物性遺体 が残存 して いた可能性 が高いとされた

h6で

は、 コレステロー ル とシ トステ ロールの分布比が低 い。報告 も「動物性脂防酸 の存在 を示す脂肪酸 の結果 とは一 致 しなか った。」 と述 べ、 この事実 を認 めて い る。 これ は脂肪酸組成 か らみ た結 果 と明 らか に 矛盾 して い る。 これ に比 べNo 5の コ レステ ロール31.59%と い う数値 は、

N64・

6と比 べ 異 常 に高 い。No 4〜6も甕 の中 とは言 え、脂防酸組成 とステ ロール組成 の結果 が矛盾 す るな ど、試 料 の安定性 に疑 間が あ ると言 わざ るを得 な い。

5.脂

肪酸組成 の数理解析

報告 で は明言 しないが、 図 にあげ られ る ク ラス ター分析 の手法 を見 れば、 この分析 の 目的 が

試 料 Nc 4 の 特 殊 性

Z′7

(18)

試 料 4 につ いての 疑

   

奈辺 にあ るか、一 目瞭然 で あ る。 今 回 の分析 は、試料が どうい った物 資 の脂肪酸 に由来す るの か を見 るので はな く、 試料 のいずれが、人間の胎盤 と似 た組成 を もって い るか

"と

い う観点 か ら行 われて いる。報告 の は じめの部分 で は、「 この甕 は胞衣壼 と推定 されている。」 と断言 さ れて い る。全分析結果 の底流 に、 この先入観 が流れてい る。 これ まで述 べた とお り、 この先入 観 のために、分析結 果 にか な り無理 な解釈 が加え られて いると言 わ ざるを得 ない。

土器埋納遺構 の発見 当初 は、地鎮 め遺構 の可能性 を考 えてお り、胞衣壺 の可能性 は低 い もの と考 えていた。試料 の提供 に当た って ど うい う経緯 があ ったか は今 とな って は不明で あるが、

試料提供 の時点 で、 か よ うな錯誤 が生 じた とすれば、調査担 当者 と して深 く反省せねばな らな い と考 え る。

実際 の ク ラス ター分 析 で は、 試料 のいずれが、人間の胎盤 と似 た組成 を もって い るか

"と

い う観点 か ら分析資料 を選定 して いる。今回採集 した資料

6点

と比 較 されているの は、 いずれ も同 じ分析者 によ って、胞衣壺 と判定 された、平城京右京三条三坊 一坪 の上師器壺資料

1点

平城京左京五条五 坊十坪 の土 師器壺 資料

1点

と人間の胎盤 で あ る。 分析方法が、各資料間の相 対 的 な相 関係数 か ら、類似度 を樹状構造 図 と して表 わす ものであ る限 り、結果 は分析 をす る以 前 に決定 して い る。 胞衣壷 に類似 す る以外 の結果 が得 られ るはず はな いのであ る。

6.脂

肪酸組成 の種特異性相関

種特異性相 関 の分 析 にお いて も、報告 の内容 に自己矛盾 が存在 す る。報告 は「第

2象

限か ら 第

3象

限 にか けて の原点 付近 に植物 と微生物」が分布す ると述べ る。「 試 料配

4は

単 独 で

B群

を形成 し、第

2象

限 の原点 か ら少 しはなれ た動物性脂防 の位置 に分布 した。」 と述 べ る。 図 で み る限 り、第

2象

限 の原点 に近 い位 置 と思 え るのだが。少 な くと もNo 4の 位置が、動物性脂肪 の分布域 にはいる ことを数値 で示すべ きであろ う。

以上 を総合 して、総括 と して分析結果 のまとめが行 われ る。

まず報告 は、「 試料No 4、 No 5、

N66に

は動物性脂肪 が残存 して い る可能性が高い。」 とす る。

先 に も述 べ たよ うに、

N65に

つ いて は問題 ない。配

4の

解釈 が問題 とな る。配5・ 6と くらべ、

ベヘ ン酸や リグノセ リン酸 と言 った高級脂肪酸が少 な く、 オイ レン酸 やステア リン酸が多 いと い う特異性 を、動物性脂肪 と して解釈 して良 いのだろ うか。 そ う解 釈 す るのな ら、少 な くとも 根拠 を明示 すべ きだ ろ う。

「 また、 ステ ロール分析 と数理解 析 の結果試料配4と配

5の

位 置 に は輸物性脂肪 が多量 に残 存 して いた可能性 が高 い。」 とす る報告 は、No 5に ついて は首肯 され る ものの、 No 4に つ いて は疑間が多 い。「 特 に試 料 4に は胎盤様 の ものが残存 していた。」 とい う結果 も、 クラスター 分析 が、胎盤以外 の他 の脂肪 酸 との相関行列距離 を検討 していない限 り、 にわかに信 じるわけ にはいか上iとヽ。

個 々 にあげた疑 間のいずれ もが、胞衣壷 の可能性 が高 い とす る先入観 か ら生 じた ものであ る ことは多言 を要 しない。 さ らに同 じ分析者 が別 の機会 に次 の よ うに述 べてい る。「 脂 肪 酸 お よ び コ レステ ロールだ けで は、動物種 を正確 に判定す ることが困難 な場合 があ る。」 と。 つ ま り (1)奈良市教育委員会『 奈良市埋蔵文化財調査概要報告書

 

昭和63年度』1989

′′∂

(19)

今 回 の分析 で は、 なん らか の理 由 (おそ ら く埋納後 の汚染 による ものだろ う

)に

よ って、分析 値 が不安 定 で、 これだ けで埋納物 を特 定 す る ことは困難 な場合 に相 当す るので あ ろ う。

C  胞衣壺説の矛盾

上記

2で

は胞衣壺説 の大 きな根拠 とな って いる脂肪酸分析 の結果が、 いろいろな矛盾 をは ら んで い る ことを述べた。次 に考古学 や民俗学 の上 か らこれ まで考 え られて いる胞衣こ の範疇で、

今 回 の上器埋納遺構 を理解 す る ことがで きるか の検討 を行 ってお きたい。

1.胞

衣 壺 の概念

画期 とな った水野正好氏 の論考以来、胞 衣 壺 につ いて次 の よ うな共通理 解 が得 られ て い ると 考 え る。

まず

1.胞

衣壺 とは、後産 を容器 にいれ、副納 品 とと もに埋納 した もの。

2.埋

納 の場所 は、

民俗例 で は、人 の よ く踏 む場所 と踏 まな い場 所 とい う、相反 す る二例 が知 られて い る。

3.副

納 品 は、民俗例 で は、男児 は筆 。墨 。銭。女 児 は針・ 糸・ 銭 で あ る。以上 の

3点

につ いて、順 次、今 回 の上器埋納遺構 との対比 を試 み る。

後産 の埋納

   

後産 の埋納 で あ る限 り、 出産 とい う行為 が西隆寺 で行 われ た と考 え ざ るを 得 ない。 しか しこれが いか に困難 な想 定 で あ るか は多言 を要 しな いで あ ろ う。 さきに述 べ たよ うに、土器埋納遺構 は、回廊建設時 の、礎石据 え付 け穴 を掘削 してか ら、根石 を据 え るまでの きわ めて短期間 に埋納 され る必要が あ る。 回廊 の柱建立 に伴 うなん らかの建築儀ネとを考 え る以 外 に、 この タイ ミングで埋納 で きる可能性 はない とい って良 いだ ろ う。 また回廊 建立 中 に、 す で に この地 で尼僧 の生活 が営 まれて いた と考 え ることがで きるであろ うか。

埋納場所 民俗例 で は、人 の よ く踏 む場 所 の場合、建物 の出入 口・ 土 間、馬屋、産所、

便 所 の近 くな どの事例 がある。逆 に人 の踏 まない場所 と しては、墓地 のなか とい うのが多 い。

出土例 で み ると前者、人 の よ く踏 む場 所 とい うのが多 い。奈良時代 の胞 衣壺 の典型例 と して有 名 な、平城京右京五条 四坊三坪 で は、SB025の入 口 と推定 され る柱 の脇 に埋納 され、 平 城 京 右 京八条一坊十 四坪 で は掘立柱建物SB1534の出入 回の庇部分 に埋 納 され た。 最 近 に わ か に事 例 の豊富 にな った、近世 の町屋 の場合、入 口や通 り庭 と呼ばれ る土間 に複数 の胞衣壺 が埋納 され る場合が多 い。 これ までの出土例 を見 る限 り、少 な くとも寺院の境内か ら発見 された例 はない。

ただ、 中世後半か らは寺院境 内 に墓地 が営 まれ るよ うになる。 この場合、寺院境 内か ら胞衣壺 が発見 され る可能性 はあろ う。 しか しこれ も墓地 の近辺 に埋納 した もので、寺 院 に埋納 したわ けで はない。

副納品

    

民俗例 で見 られ るよ うな、 男児 は筆・ 墨・ 銭、女児 は針・ 糸・ 銭 とい う整 っ た副納品がみ られ る出土例 は極 めて まれであ る。 と くに、今 の ところ、女児 の胞衣壺 と確認 さ れ た例 はない。男児 の例 で も、筆・ 墨・ 銭 が そろ うのは、古代で は平城京右京五条 四坊三坪 が 唯― で あ る。墨・ 銭 が残 る例 は、平 城京右京八条一坊十 四坪、鳥取県米 子市諏訪遺跡群 が知 ら れ る。胞衣壷 と考 え られ る例 の多 くは銭貨 の出土 を もって胞衣こ と推定 して いる。水野氏 の引 用 す る『 玉葵』 の記事 に、銭文 を上 に した銭貨

5枚

の上 に、絹 に包んだ胞衣 を、埋納 す るとあ

回廊建立時 に後産の埋 納を想定す るのは困難

(1)水

野正好「想蒼籠記費叢」『 奈良大学紀要』第13号 1984

′どθ

参照

関連したドキュメント

王宮にはおよそ 16 もの建物があり、その建設年代も 13 世紀から 20 世紀までとさまざまであるが、その設計 者にはオーストリアのバロック建築を代表するヒンデブ

看板,商品などのはみだしも歩行速度に影響をあたえて

ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出

バックスイングの小さい ことはミートの不安がある からで初心者の時には小さ い。その構えもスマッシュ

3 当社は、当社に登録された会員 ID 及びパスワードとの同一性を確認した場合、会員に

システムであって、当該管理監督のための資源配分がなされ、適切に運用されるものをいう。ただ し、第 82 条において読み替えて準用する第 2 章から第

注)○のあるものを使用すること。

るものとし︑出版法三一条および新聞紙法四五条は被告人にこの法律上の推定をくつがえすための反證を許すもので