Ⅳ 奈 良時代 の遺構
調 査地域 は左 京 八条三 坊 内の東北
4町
を 占め る九・ 十。十五・十六坪 にあた り、坪 と坪 の間の小路の交又点 を 中心 に住宅 、寺 院 な どの遺構 を検 出 した。主 な遺構 は九 坪 の 中央 を南北 に貫 流す る堀 河 と坪 境 いの小路 お よび道 路状遺構 とその側 濤 、九・十坪 を中心 に掘 立柱建 物90棟 余 と井 戸
9基
、十五坪 の寺 院建 物 跡 な どで あ り、 これ ら 平城 京 時代 の遺構 と重 複 して弥生 時代 の小 河 川 、濤 、土 坑 、小 ピッ ト群 を検 出 した。以上 の遺構 は水 田耕上下 に堆積 す る30cm前 後 の厚 さの 床 上 の下 に あ る暗褐 色 土 層上 面 で検 出 した もの であ る。
暗褐 色 土層上面 は 多少の凹凸が あ るが発掘 区の南半部 と 北 半 の一部 に広 が る。発掘北 半部 の西 では茶 褐 色粘 質 土 に変 り、東 では灰褐色砂 質上 に変 る。 と くに発掘 区 中央 部分 に は東西方 向 に流路 を もつ 奈良 時代 以 前 の川 の影 響 で砂 層が広範 囲にみ られ る。発掘 区全般 につ いてみ る と 遺構面 はほぼ平担 で、東北部がやや 高 く西南方 に したが
って わずか に下 降す るが その差 は
0.lm程
で あ る。また、発掘 区内では、九坪 内 を東西 に流 れ る旧河川の 付近 と北端 部分 には一部 整地層 が み られ たが 、広 範 囲 に わた る整地層 は存在 しなか った。 なお畑地部 分 の川の氾 濫 堆積 土 は北 にな るほ ど厚 く、
1.5mか
ら2m程
の砂礫 層 とな ってお り、す くな くとも二 回にわ た る堆積 が認 め られ た。十六坪 では砂礫堆積 が厚 い と同時 に遺構面 の流 出 も著 し く、この部分 の遺構 の密度が他 に比較 して低 いの は この よ うな理 由に よる もの であ る。
以上 の こ とか ら本地域 に於 け る京造営 以 前 の状 況 は、
細 い流れが東北か ら西南 方 に数 条 あ るほぼ平坦 な地形 で あ った とみ られ 、京造営 時 に部 分 的 な削平 と整地 が お こ な われ たのみ で 、大 きな地形 の改変 は なか ったよ うであ る。む しろ造営 に際 して 旧河川 を廃 した こ とで、排水 に 問題 を生 じた もの と思 われ る。
今 回の調査 で検 出 した各遺 構 につ いて条坊遺構 と各坪 内 の遺構 にわけて記す こ とにす る。
∪
左京 八条三坊九・十 。十五・ 十六坪遺構配置図
‑7‑
◎ 堀河
堀 河
発掘 区西北 の東西 トレ ンチ
2個
所 か ら、九坪 の 中央 を北 か ら南 に縦 断 して流 れ る堀 河 S D 1300を 確 認 し た。堀河 は当初 、幅約 10m、 深 さ1.4mの
素掘 りで 、の ちに幅約6mに
せ ばめて シガラ ミに よる護岸 を行 な って い る。河底 はほぼ平担 で、両岸 とも急傾斜 の掘込 み とな る。東岸 の上端 は河沿 いにあ る幅3m程
の浅 いテ ラス状 の くばみにつ なが ってい る。堆積 層 は両岸近 くは粘 土層 、 中央部 は砂 層 で 、砂 層 は シガ ラ ミを設 け て護 岸 を施 した 以 前 とその後 の堆積 層 の二 層 に大 き くわか れ る。上 層砂 層 の下 部 お よび下 層砂 層か らは木簡 をは じめ として木製 遺 物 、土器 、金属 器な どの 多量 の遺物が 出上 した。堀 河 の両 岸 では柱 穴列 を数 条検 出 してお り、建 物 あ る いは柵が堀河沿 いに接 してあ った とみ られ 、 したが って 堀 河両 岸近 くに道路や築 地塀 の よ うな施 設 は な く、屋 敷 地が両岸いっぱいに設け られていた可能性 が強 い。 ご く一 部 の調査 にお わ った北側 東西 トレンチ の堀 河西 岸地 区 で も、柱穴 多数 を検 出 し、堀 河 に接 して 多数 の遺構 が存在 して いた こ とを推 測 させ る。
堀 河の廃 絶期 は遺 物 か ら
9世
紀前半 とみ られ る。なお 、 この堀河は水 田な どの遺存地割か らは、南 は地 蔵 院川 (京 外
)ま
で 、北 は大安寺 の西北 までのびてお り、これが京 内の東堀 河に当 る可能性 が強 くな った。
堀河断面模 式図 (北側 トレンチ)
﹁ 引
バ ラス層
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可の しが らみ (東か ら)
‑9‑
◎ 小路と積 J滞
東 西小 路
(S Fl160)
九・ 十坪 境 の小路 で、道路両 側 に側 濤 (SD l155。 S D l156)を ともな う。 南 側 濤 は 幅 3.4〜 3.8m、 深 さ1.2mあ
り西 に流 れ堀河 に落 ちる。中央部 に十坪 内に入 る小 橋
(SX l157)が
あ る。北イ員J濤 は幅1.2m、 深 さ0.4mあ
り西へ 流れ る。両側 濤 の心心幅 は6m(20尺 )で
あ る。南北小 路
(S Fl170)
九 ・十六坪 境 の小 路 で 、両側 に側 濤 (S D l171'S D l172)を ともな う。東 側 濤 は幅 1.0〜 3.2m、 深 さ 0,6m、 中央部 で濤幅 は くびれて細 くな る。 この部分 には桁行5間
の建 物(SB 1234)が
重複 す る。建 物 柱 穴 は濤 よ り新 しいが 同時存 在 の可 能性 も あ る。 さらに北側 には十六坪 内に入 る
1間
×2間
の橋 脚(SX 1240)が
あ る。側 濤 の南端 は濤幅 をせ ばめ て東西 小 路南側 濤 につ なが る。西側 濤 は幅lm、 深 さ0.3m前
後 で東側 濤 と ともに落差 は ほ とん どない。南端 は小路交 叉部 の北側 で止 まる。両側 濤 の心心幅 は東西小 路 と同 じ
6m。 南北小 路 の西側 に は濤SD l173で区切 られ る幅5
mの
道 路状 遺構SX l174があ る。西側 を限 る濤 S D l173 は幅 1.0〜 1.5m、 深 さ0,4mあ
り、中央部 で3.5mほ
どの問が とざれ る。 この部分 には間 口
6尺 1間
の 門SX
1229が あ る。 また道路状遺構 の北端 には南北 を仕切 る形 で
2つ
の柱 穴が東西 にな らぶ。濤 S D l173の 南 端 は西 に 折 れて東西小 路北側 濤 につ なが る。南北小 路
(S F1331)
十 。十五坪 境 の小 路 で道路両 側│こlR」濤S D 1330。 S D 1334を ともな う。東 側 濤 イよ幅 2 m、 深 さ
0.6mで
、北 に流 れ 、北端 では 当初 西北 方45度 の方向に折 れて暗渠(SD l166)と
な り、の ちに暗渠 は 廃 されて直進 して東西小 路南側 濤 に流 入す る。西側 濤 は 幅 1.Om、 深 さ0.3m程
で北流 して東西小路南側 濤 に流入 す る。両側 濤 の心心 距離 は6m。
西側 濤 の西側 に は九坪 の歩合 と同 じ く道路状遺構が あ る。 これの西側 を限 る南 北 濤 SD 1334は 幅 1.5m、 深 さ0.2mあ
り、北 流 して東西 小 路南側 濤 に流入す る。道路状 遺構 上 の2個
所 に は道 を 仕切 る形 で2つ
の柱 穴が東西 にな らぶ。東 西小 路
(S F1430)
十五 ・ 十六坪境 の小路 で、南 北 トレンチで検 出 した。南側 濤 S D 1404は 幅 l19m、 深 さ 0。7mあ
り、北側 濤 は幅 0.9m、 深 さ0,2mで
あ る。両 濤間は,とヽ心 で
6m(20尺 )あ
る。側 濤の外側 には十六 坪 の南面 を区画す る7尺
等 間の棚 S A 1431と 、十五坪 の 北 面 を区画す る8尺
等 間 のtBI S A 1403があ る。両III間の 距離 は9m(30尺 )で
、各 濤′bか
ら二 つ の棚 まではそれ ぞれ1.5m(5尺 )あ
る。暗 渠
(SX l165)
東西小 路 と南北小路 の交叉点 で東 西小 路 の南側 濤 にかか る木製 暗渠 であ る。全長 3.lm、幅 1.2m、 開 口部高 さ
0.5mで
、南北小 路 の軸 線 よ りや や西 に寄 る。構造 は、直径15cm、 長 さlmの
抗 を濤両側に五 本ずつ対 向 してな らべ杭 外側 に土留め の横板 を重 ね て側壁 とす る。天丼 は杭 に10cm角 の柄 穴 を穿 ち、角材 を 差 渡 して、 これに天丼板 を
9枚
な らべ た もので あ る。さ らに天丼板 の上 に
O.6m程
の盛土 を して暗渠 を形成 し て い る。暗渠の西端 か ら西へ6mの
区間の両岸 には暗渠と同幅 の護岸用側 壁が設け られ る。 なお当初 は暗渠 では な く橋 をかけていた らし く、北岸 に接 して橋桁 を受 けた
と考 え られ る
2個
の礎石 が あ る。このほか に南 北 小 路 S F 1331を 横切 って十坪 と十五坪 に わ た る東 西 濤
(SD 1380,S D 1390)が 2条
あ る。南側 の濤 S D 1380は 南 北 小 路 お よび道路状遺構西側濤 よ り 古 く、遺物 は きわめ て少 ない。北側 の滞 S D 1390は 東 西 小 路 の南約
10mの
位 置 に あって十五坪 内ではやや 曲折 す るが十坪 まで続 き、小路側 濤 の西方30mで
止 まる。南北小路側 滞 と併 存 した とみ られ るが 、出土遺物か ら奈良末 の もの とみ られ る。
一 H一
規 日中 晏 O匿 ヨ 雛 ∴ 。
廻 )九 坪の遺構
九坪東南部 に あた る東西37m、 南北
73mの
調 査地 内に 掘立柱建 物45棟、井 戸4基
、地割 り薄 な どを検 出 した。屋敷地 の状 況 は、南辺 と東辺 を道路側 濤 で区画 し、南辺 では4BIが設 け られ る。 さ らに南辺 は奈 良時代 後 半 に な っ て屋敷地 を縮 少 して東辺 と同様 に道路状 の空間地 を設 け る。建 物 は敷地全般 に分布 す るが 、相互 の重複 関係か ら 五期 にわた る造替 、変遷 が認め られ た。 また一部 の建物 に重複 して東西方 向の細濤が ある。 この うち遺物 を含 む
3本
の濤(SD 1258・ 1271・1310)は 、南端 の東西概SA l175 を加 えて 、各間隔が南か ら32m、 15m、30mあ
る。 これ は坪 の南北長400尺 の孝 、き にあた り、堀 河 と南北小路 問 に は さまれた九坪 の東半分 の敷地 を、2行
8F弓制 に よって き 町 、島 町 に区画す る地割 の濤 であった可能性が 強 い。第
1期
南寄 りに■ 町 の宅地 が あ り、北側 に それ よ りや や 大 きい宅地が あ る。南 の宅地 では中央南寄 りに主 屋S B l190を 建 て 、その東 西 に付 属 屋S B 1202・ 1220。1206と 井 戸 SE l195。 1180を 配 置す る。主屋 は
5間
×3 間 、北廂付 き東西棟建 物 で、付属屋S B 1220と の 配 置関 係 か らみ る と主屋 は北側 を正 面 に して いた よ うで あ る。宅 地 の 入 口は井 戸 S E l180の 東 に あ り、宅地 の南 面 か ら 東面 の一 部 に概 を設 け る。東面 では柴垣程 度 の塀 を門の 両 脇に設けて いた らしい。北 の宅地 では、東半部 に主屋 S B 1266と 付 属 屋S B 1242・ 1250。 1251・ 1267の
5棟
を 方 形 に配置 して内庭 をつ くって い る。主屋 は その西北 隅□こ り 5頸 重 を 露
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に位 置 し、
4間
×3間
、南廂付 き東西棟 で 、南 の宅地 に 比べ て主屋 、付属屋 ともに規模 は小 さい。井 戸S E 1230 は 付 属 屋 S B 1242の 東 に あ り、入 口は宅地 の東南端 に設 け る。第
H期
宅 地割 りは南 のき 町 は前期 の引継 ぎであ る が 、北 は分割 されて島 町 の宅地が三 区並 ぶ。南 のき 町 では主屋 S B 1222は 宅地 の西方北寄 りに建 て られ 、付属屋 は主屋 の南 に SB l197と 東側 に SB l181・
1179,1210の 3棟
が ほぼ棟 を揃 えて南北 に並 ぶ①≒ 町 の宅地
3区
の うち南2区
に はそれ ぞれ東狽1に寄せ て井 戸 と主屋 を配 り、付属屋 は宅地 の西半部 に置 いてい る。主屋 は ともに3間
×3間
の廂付 き建物 であ るが棟方 向 は異 な る。き 町の宅地 に比べ る と主屋 の規模 は小 さ く な り、付属屋 の数 も少 ない。北端 の宅地 では小建物4棟
で構成 され 、南の宅地 とは配 置状 況が 異 な る。
第Ⅲ期
宅 地割 りは第
H期
と同 じであ る。南の孝町 では主屋 S B 1219はH期
の主屋 の南 に移 して建 替 え、北 廂 を付 け る。付属 屋は主屋 の南 に SB l192・ 1193の2棟
、宅 地 の東寄 りにS B 1205。 12H・ 1178の
3棟
を配 置す る。先 町 の宅 地 では第 Ⅱ期 の よ うな廂 付 の主屋 は な く小規模 建 物数棟 で構 成 され る。
第 Ⅳ期 以後 は九坪 の南辺 に空 閑地 を設 け て 、屋敷 地 を 縮 少す る とともに 、宅地害1り は乱 れて小規模 な建 物が分 散 配 置 し、履 末期 では建 物 方位 も少 し乱 れ て くる。
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Bイ 2きむ
│■●lr●1韓■―
=
1180
井戸
S El180
東辺 の南井 戸 で 、一辺90Cm、 深 さ1.8m
の方形横板組 であ る。構造 は井戸底 に12× 6.5 Cm角 の材 で土 台 を組み 、四隅 に1 2Cm角の柱 をたて、各柱 の内側2 面 に掘 り込 んだ濤 に側 板 を落 し込 ん だ もの であ る。側 板 は幅30cm、 厚 さ 6 cmで
5段
分 が遺存 して いた。井戸底 よ り須 恵器 、土 師器 が 出上 して い る。井戸
SE 1230
東 辺 中央 の井 戸 で 、方位 がやや 傾 いて い る。一辺90Cm、 深 さ1.6mの
方形維板 組 で あ る。構 造 は 10cm角 の上 台の 四隅 に直径 10cmの 九柱 を立 てて、各柱 に 上 中下3段
の柏穴 を穿 ち、 これ に両端 を尖 らせ た径6 Cm の丸材 を渡 して側板受 けの機 とす る。各柱 間に幅5 Cm〜20cmの 板 を数板 の重 ね置 きに して側 壁 とす る。井 戸底か ら須恵器 、土師器 とともに漆塗小壷 が 出土 した。
井戸
SE1260
東辺 北部 にあ り、1辺
lm、深 さ1.3mの
方 形掘 形 の底 に礫 を敷 きな らべ 大形 の曲物 を据 えた もの で あ る。 曲物直径 は62cm、 高 さ45cmあ り、側 板 は二重 に か さねて桜皮 で綴 じた もの で上下端 に タガ を巻 く。一段 のみ遺存 してい る。 と くに遺物 は出上 しなか った。
井戸
SEl195
発掘 区西 端 にかか ってその東半部分 を検 出 して い る。方形縦板 組 で あ るが 、恨I板 が数 枚遺 存す る のみ で、底部 は砂 層 に達 し、湧水 の ため調査 中に土壁 が 崩 壊 し、 細 部 の構 造 は不 明 で あ る。 掘 形 は 直径 約3mの
円形 で深 さ3.5mあ
る。遺存す るイ員I板 は幅20cm、 長 さ1.5mあ
り、 S E1230と 似た構 造 の ものであろ う。ヽatti浴Ⅲ工,,
‑15‑
SXl1 57□
SF1 331
◎ 十坪 の遺構
十坪 東北隅 の東西25m、 南北
55mの
調査地 内に掘立柱建 物26棟 、井戸5基
を検 出 した。坪 の東辺 は小路 との間に 道路状 の空 間地 を設 け 、北 辺は東西小 路南側 濤にかか る 橋 S X l157お よび この南側 にあ る掘 立柱 穴列か ら側 濤 に 沿 った東西 に延 び る築地 の ような構 造物 の存在が想定 さ れ る。 この坪 には九坪 にみ るよ うな東西方 向の地割 り濤 は な く、発掘 区西端 に建 物群 と井戸 のあ る地域の西 を限 る南北濤 S D 1365が あ る。 この滞 は堀 河 と小路 との中間 に あた り、小 路 西 側 濤 か ら100尺 の位 置 にあ る。 したが って この濤は十坪 を維 に孝 に区画す る地割 りの濤 と考 え られ る。建物群 は この区画 内の西北寄 りに集 中 し、建物 の重複が顕著 であ り、五期 の変遷が認 め られ る。北部 で重複 す る建 物 の前後 関係 はS B 1381・1385。 1384
・1382・ 1386の 順 に新 し くな り、その うちは じめの
3棟
は桁行
4間
な い し5間
の廂付 き東西棟建物 で規模 が大 き く、この宅地 の主屋 と考 え られ る。主屋 の南 に続 く建 物 群 は桁行3問
〜4間
で規模 が小 さ く付属屋 であろ う。したが って 、当地 区 の建 物構 成 は主屋 と付属屋数棟 、井 戸
1基
か らな る。第
I期
主屋 SB 1381は 北廂付 きの可能性 の あ る建 物 で 、柱掘 形 、柱径 ともに後の時期 の主屋 に比べ て大 き く、存続期 間 も長 か った と思 われ る。付属屋 は SB 1340ヽ。1370。 1383。 1391の
4棟
で 、 東 西 棟 を南 北1列
に 配 列 してい る。SB 1370と
重 複す る SB 1373は この時期 の建替 え と考 え られ る。第 Ⅱ期
主屋 SB 1385は 北 廂付 き建 物 で 、前期 よ り 桁行 が
1間
狭 く、梁行 は逆 に1間
広 くな る。主屋 と南 方0 10 2(
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十坪 の遺 構
‑17‑
の S B 1356と 、南東脇 のS B 1366と で 内庭 をつ くる。
第Ⅲ期
主屋S B1384は 南 廂 に改め 、身合 の梁行 を
2間
に もどして、面積 は前期 よ り狭 くなる。付属屋SB
1355・
1369,1337の
配 置 は 第H期
と同 じ構 成 であ る。第Ⅳ期
主屋 SB 1368は 宅地 の 中央 に移 され 、身合
3間
×2間
の市 面 と西面 に廂 を もつ南北棟建物 とな る。付属 屋
2棟
は主屋 の北 にS B 1382、南 にS B 1335を 配 す る。第
V期
桁 行3間
の建物2棟
と桁行2間
の建物2棟
で構 成 され 、
SB 1376は
規模 が大 き く主屋 と考 え られ る が 廂 をもたない。以上 の よ うに家屋 の規 模 、棟数 ともに時期 が降 るに し たが って月ヽさ くな って九坪 と同 じ傾向 を示 してい る。宅 地 割 りは
H期
以後 では縦 長 のき 町 にお さまる家屋 配 置 を 示 す が 、I期
では士 町 であ る可能性 が 強 い。本地域 内に は東北 隅 と中央部 に
5基
の井戸が あ る。 中 央部 の4基
の井 戸 は2基
ず つ 重複 して設け られ 、9m間
隔 で東西 に並 ぶ 。
井戸
SE1350 ‑辺
90 Cm、 深 さ35mの
方 形井 戸 で 、長 さ96cm、 幅20cm、 厚 さ 1.5cmの 枠 板 が8段
分 残存 してい る。井 戸掘 形底部 の 四隅 には方形柱 の当 り痕跡 があ るこ とか ら、井 戸構造 は九坪 内の S E l180と 同様 であ った と 推 測 され るが 、土 台組 を用 いず に直接 バ ラス層 に枠 組 をす る もの で あ る。
井戸
SE1354
深 さ33m、
底径07mの
円錐 形掘 形 を も つ が井 戸枠 は遺存 しない。SE 1350の
掘 形 で きられ る。井戸
SE1355
深 さ3.3m、 底が一 辺約lmの
方錘 形掘 形 を呈 し井 戸枠 は遺 存 しな い。井戸
S E1300 S E 1355の
北狽1に接 してあ り、 S E 1355 の掘形 に切 られ てい る。深 さ2.4m、
底 径40cmの 円錐 形 の掘 形 で井戸枠 は遺存 しない。井戸
SE1392 ‑辺
1.lm、 深 さ0.5mの
方形掘 形 の底 中 央 に直径05m、
深 さo.5mの
円形 穴 を一段 くばめ た中に 曲物 を置 い た井 戸 であ る。 曲物 本体 は 口縁部 の一部 分 が 残存 してお り、数段の組合せ が され ていた とみ られ る。以上 の井 戸 の うち、 S E 1350からは奈良時代各期 の上 器 が 出土 してお り、奈 良時代 末期 まで存続 した とみ られ
る。他 の
4基
の井 戸か らの 出土遺物 は殆 どなか った。カ
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◎ す五 。 十六坪あ遺構
十五坪
坪 の ほぼ 中央 に は東西40m、 南北30m、 比高
2mの
天神社 の境 内地 が あ る。 この上壇 の北恨1に接 して 推 定講堂基壇 と、 その西北方 に僧房 、寺域 を限 る北辺の 概 、西辺 のlMIな どを検 出 した。講 堂
SB1400
基垣 周辺 に瓦 を敷 きつ め た状 況 で検 出 し たが 、瓦敷 きを除去 して側 濤 を検 出 した。基垣 南北幅 は16m(54尺
)、 東西幅 は29.5m(loo尺
)で 、基壇 の築 成 は 地 山上 に直接 土盛 りした ものの よ うであ るが 、礎石痕 跡 は残存せ ず 、建物 の平面規模 は判 らない。僧房SB1401・
SB1402講
堂 の西北方 にあ る。SB 1401
は桁行
8間
、梁行4間
、南 北 廂付 き東 西棟掘 立柱建物 で 、 柱 問寸法 は 7.5尺 等 間 で あ る。講堂 の 中軸 線 の対 称位 置 に東僧房 の存在 が推測 され るが 、今 回は調査が 及 ばなか った。 S B 1402は S B 1401に 重複 して SB 1401の 廃絶後 につ くられた礎石建 物 で、礎石 お よび礎石 抜取痕 跡 を10 個 所検 出 したが 、規模 形式 はあ き らか でない。礎石 列 の 南側 にあ る雨落 濤 と東西 濤 SD 1390と の関係 か ら礎 石 建 物 に変 ったのは奈良時代 後半頃 とみ られ る。建物
SB1419
講堂 基壇 の西南 方 に あ る梁行2間
、桁行2間
の南北棟 の掘 立柱建物 で柱 間は梁行9尺
、桁行9尺
で ある。
塀SA1418。
SA1403
僧 房 の北側 で 、東西小 路南側 濤 に 接 して寺 域 の北 を限 るSA 1403があ り、南北小路東傾J濤 に そ って西面 を限 る塀SA1418が
あ る。 いずれ も8尺
等 間 で各2間
分 を検 出 してい る。難1韓
│「│││
懸
!││
―
‑21‑
影手つ
‑23‑
道 路造 構
SF1423
東西 方 向の道 路 で 、両側 に素掘 りの 側 濤 を伴 い 、濤心 心 で5mあ
る。十五坪 の南北 中軸 線上こ とか ら、 この道路 は南北小路廃絶後 の平安 時代 に寺域 を若千拡 張 して設け られ た可台Zl■が あ る。
十 六坪
坪 の南 面 を境 す る塀 と、坪の西面 中央で′JヽFglttI
濤 に接 してあ る塀 、建 物
7棟
、坪 内か ら小路恨1濤 に流 れ こむ濤 な どを検 出 した。塀SA1431・
SA1235
塀 SA 1431は小 路 北側 濤 の 内側 に 沿 って のび るもの で2間
分 を検 出 して い る。柱 間は8尺
等 間 で あ る。S A 1235は
小 路 東 側 濤 と併 行 す る6間
の 塀 で 、桂 間 は
8尺
あ り、 のちに規模 を縮 少 してSA
1236に つ く りか え られ る。
ま た こ の塀 は SB 1234と 重 複す るが建物 との先後関係 につ いては切合 いはな く不 明 であ る。ただ建物 S B 1234に つ いて は側 濤が埋 もれ た後 につ くられた ものであ る。
十六坪 内方 で検 出 した
7棟
の建物 の うち、規模 が わか ってい るのは3棟
に限 られ るが、規模 、柱 間寸法 な どは九 坪 の建物 と共通 す る小 型建 物 が 多い。幅5mの
トレ ンチ か らの 所見 ではあ るが 、建物 の密度 は九坪 より低 い よ う で あ る。 なお 、南 北小路 東側 薄 にかか る木橋 SX 1240の 北側 にあ る東西濤SD1285は
坪 内 を仕切 る宅地 割 の濤 で あ る可能性 が強 い。十六坪遺構配置 図
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SX 1240と′Jヽ路側 溝(北か ら)