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鈴木正道

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失敗の結晶作用

-『エロストラート」へ,

そして『エロストラート』から-

鈴木正道

1936年,サルトルは壮年期の小説としては,第二作にあたるn1rエロストラー

ト』という短編を書く。悪が扱われる。暴力が,サディズムが,殺人が語られ

る。しかしそれはサドの世界とも,バタイユの世界とも異なる。悪は主人公の

想像の中で展開し,現実には不徹底なまま,あるいは不発のまま終わる。失敗

するのである。主人公は,黒いダイヤモンドのように,人類史に残る悪の権化 として永遠に輝きたいと願いつつ,せいぜい三面記事にしかならぬ,ありふれ た犯罪者に終わるのである。

この短編のテーマは寧ろ失敗である。ところで失敗は,サルトルの他のテク ストにおいてしばしば副主題の一つとなっている。『エロストラート』では,

失敗のテーマが凝縮し,かつ炸裂する。本論では,比較的扱われることの少な

いこの作品を軸にして,サルトルの失敗のテーマを主に創作テクストにおいて

考えてみたい。そしてそれによってこの作品を考え直したい。

まず『エロストラート』の主人公の失敗を,その文化的基盤と時代背景をも とに読み解き,次にそれを書いたサルトル自身の失敗を,彼の他の作品及び,

他の作家の作品との関連において検討する。最後に,この失敗のテーマの発展

である「負けるが勝ち」というテーマを,「エロストラ-Mの主人公の言わ

ば継承者である,サルトルの他の作中人物に焦点をあてて考えたい。

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I・主人公イルベールの失敗

1.シュルレアリズムの失敗

少なくともある程度の文学的素養のあるフランス人の読者にとって,この作 品はまずシュルレアリズムに対する作者のパロディ的な批判を提示しているよ うである(2)。雑踏の中で無差別に人を殺そうという主人公の企ては,「最も単 純なシュルレアリスト的行為は,拳銃を握りしめて,街中に下りていき,可能 に任せて手当たり次第に,群集に向かって撃つことである」(3)というアンドレ・

ブルトンの言葉につながる。qlF実,サルトル自身,プルトンの言葉を実行する ことを想像しているという友人と語り合ったことが執筆のきっかけであったこ とをプレーヤード版の編者に打ち明けているM〕。『第二宣言』の言説を真に受 けた滑稽とも惨めとも見える人間を描くことで,サルトルはシュルレアリズム を批判していると言える。また『エロストラート』と同様短編集「壁』に収め られた『一指導者の幼年時代』において,主人公リュシアンは「シュルレアリ ズム作家」のベルジェールのアパートで,女の両足に乗ったクッション,スプー ンが植え付けられた石膏の乳房などを見る(ORp,345)。実在した作品(5)を 浅薄な作中人物の部屋に登場させることで,シュルレアリズムを茶化している

と考えられる。

さらに1947年に『現代』に発表される「文学とは何か」においてはシュル レアリズム批判が徹底する。サルトルはこのプルトンの文句を引用し,シュル レアリズムこそ,18世紀以来文学が辿ってきた否定性の道の最終点であると 述べる。「絶対的な『否定』としての文学は,反文学となる。文学がこれ以上

●●0

文学的であったことはない(6)。」18世紀以来のフランスの文学を否定`性の文学 と形容し,そのうえでシュルレアリズムをその極致とみなすことで,サルトル は肯定としての文学,つまり自由への呼びかけとしての新たなるアンガージュ マンの文学を提唱するのである。観念において破壊するだけで,現実には何も 変えないシュルレアリズム。実際イルベールの無差別殺人の計画は,空回りす るだけで,人類の記`億に汚点を残すような大事件には発展しない。いや,たと え計画通り五人の通行人を殺し,自殺するに至ったとしても,一時的で,或る 程度の騒ぎ以上のものを引き起こしたであろうか。この意味で,『エロストラー ト』は,シュルレアリズム的行為の失敗を描くことで,サルトルの批判を表現

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失敗の結晶作111 81

していると言える。

ただサルトルのシュルレアリズムに対する感情は両義的であることを付け加

えておかなくてはならない。彼のテクストには,シュルレアリズム的なイメー

ジに対する魅惑を感じさせるものがある。往来を跳ねる血まみれの腐った肉の 塊,子供の割れた頬から生じる目玉,巨大な百足となった舌といった,『11側吐』

においてロカンタンがプヴィル滞在最後の日に見る幻想(ORp、188)はシュ

ルレアリズム的である。

2.「小男」の失敗

ところで『エロストラート』の一人称の語り手は,ブルトンに全く言及して いない。彼は,群集に対して嫌悪と恐怖を抱いていたがゆえに拳銃を買い,ま た世界の七不思議のひとつであるエフェソスの神殿を破壊したエロストラート の如き悪の英雄になりたいと思って無差別殺人を思いついたと述べている。そ の群集とは,体の小さな彼をいたぶる「大きな奴等くlesgrands>」である。

「奴等は,俺を通りで突き飛ばすのだった。笑いものにするために,俺がどう するかを見るために。(OR,p263)」犯行の予定日にも,群集の中に入り込ん だ彼は,興奮と恐怖の余り,実行を断念する。「モンパルナス通りは,人で一 杯だった。奴等は俺を突き飛ばし,押し飛ばし,肘や肩で小突くのであった。

俺は揺さぶられるままであった。奴等の間をすり抜ける力が俺にはなかったの だ。突然,俺はこの群集のど真ん中にいることに気付いた。おそろしく孤独で

小さかった。」(ORpp273-274)

シモヌ・ド・ポーヴォワールの証言によると,彼女とサルトルは「エロスト

ラート』の執筆当時,アルフレッド・アドラー(1870-1937)のnIII経性気質』

(1912年)を読んでいた(7)。子供は,大人に対して,巨人に対する小人のよう な関係を感じて劣等感と不安を抱き,それに対する補償作用として力に対する 意欲が惹き起こされるというものである。明らかにイルベールの「大きな奴等」

に対する恐怖と憎悪,及び拳銃による自己の力の拡張は,この「劣等感」を具 現していると考えられる。〈lesgrands〉が「大人」という意味で使われるこ

とも思い起こしたい。イルベールは「大人」に囲まれて劣等感を抱く「子供」

のようなものなのだ。サルトルとポーヴォアールは,アドラーにフロイトの性

還元主義がない点を評価したものの,その「劣等感」還元主義には疑念を抱い

たということである(/bid)。しかしアドラーの理論が,人間の心に潜む「砕

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くことのできない闇の核」(必』。.)を描く上で助けになったことは疑えまい。

その上でサルトル自身の小柄な体格を考えると,「大きな奴等」に対するイル ベールの恐怖と憎悪は,いくらかでもサルトル自身の感情(恒常的ではなく,

間歌的なものであるとして)を反映していると言えるかも知れない。そうなる と,主人公の失敗は,この劣等感を自覚する著者の自潮ともとれるだろう。ち なみに「嘔吐』の主人公ロカンタン,および『自由への道』の主人公マチュー は大柄で腕力のある人物として設定されている。これは,逆にサルトルの補償 作用を表わしているとも考えられよう。

3.「人間」としての失敗

しかし主人公は,前半で「大きな奴等」に対する憎しみを述べたあとで,

「もっと重要な理由がある」ことを言う。それが明らかにされるのは,後半に おける,102人の「有名な作家」にあてた犯罪予告状の中である。彼は「人間」

そのものが愛せないと訴える。「それでも申し_上げます。私は人間を愛するこ

●●●●●●●

とカバできないのです。貴兄がどのように感じていらっしゃるかはよくわかりま す。しかし貴兄にとって人lillの魅力であるものか,私にとってはいやらしいも のなのです。」(OR,P271)これは,『噛吐』のロカンタンが,「独学者」の開 陳するヒューマニズムに対して激しい反発を感じたことに通じる(OR,p、140)。

ただし,イルベールの`憎悪は,ロカンタンの一時的な激発(あらゆる人間を憎 悪するというよりも,ヒューマニストという部類に一緒くたにされることに対 する怒り)よりも恒常的で,根が深い。イルペールは,自分が冷静に己の感情 を述べていることを強調するのである。「従ってお分かりでしょう。私は『猛 り狂って』などおりません。それどころか至って冷静でございます。敬具。」

(ORp273)

そもそも,語り手としての彼は,予告状に至る前に,他者との肉体的および 精神的接触を極端に嫌がることを述べている。同僚との握手を嫌い(OR,p、

268),娼婦には指一本触れないしまた触れさせない(ORpp、264-267)。そも そも冒頭の,自宅のアパートから下界を見下ろして感じる満足感,往来で失神 した自分を介抱してくれた人々に対する憎悪も(pp262-263),それを予告し ている。またイルベールが使おうとする拳銃は,離れた距離から人を殺せる武 器である。

自分の犯罪が,人間に対する嫌悪と憎悪に起因することを主張する彼は,そ

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失敗の締,Bi作用 83

れゆえ常に人間たち(つまりヒューマニストたち)の社会からはじかれていた

と言う。この点は興味深い。徹底して人間との接触を嫌っていたと主張する彼

が,実は人間たちの集団に入りたかったと告白しているように思われるのであ

る。好悪とは同じ強い感情の裏表を表わすとすれば,イルベールの人間に対す る激しい憎しみも,受け入れられない愛情の裏返しともとれる。やはり興味深 いことに,精神分析的発想が明らかなこの作品において,主人公の過去は一切 語られていない。いつから彼がこのように人間を雌悪しているのか(学校時代 も級友に対して同様の感情を抱いていたのか),親との関係はどうであったの かはわからない。人間との接触を雌う主人公による一人称の語りであるから,

それも当然かもしれない。また作者自身の作品制作この理由(短編という形式

」この理111,執筆期間が短かったことによる失念)もあるかもしれない(81。いず れにせよ,イルベールの根深い感情の「根源」に立ち入ることはできない。し かし,人間の社会から排除されていると主張する彼は,人間として失敗したと

言えるであろう。

Ⅱ、作家サルトルの失敗

このようにイルベールは,歴史に残る犯罪を夢見ながら,ある意味では凡iii

●●●

な犯罪(比較的手に入りやすい拳銃を用し、てわずか五人の殺害に甘んじる)を 企み,あげ〈は失敗する。このような主人公を設定したサルトルは,この作品 の執筆にいかなる意図をこめたのであろうか。無兼別殺人の無意味さを訴える という「ヒューマニスト的な」意図だったのだろうか。

1.『メランコリア』の失敗

「エロストラート』の書かれた経緯はよく分かっていない。ボーヴォワール によると1936年に執筆され,雑誌に掲救されることなく,短編集『砿』に収

められた91゜これは結局三年後に『嘔吐』として発表されることになる『メラ

ンコリア』の原稿が,ポール・ニザンの仲介でガリマール社に渡されたものの,

出版を断られた時期に相当する。「それは私にとって,かなりこたえました。

私はこの本に自分の全てを注ぎ込んだし,また長い時間を費やしたのです。そ の拒絶によって,私が拒絶されたわけだし,私の体験が排除されたのです。」

サルトルは40年近くも後になって,このことを回想している(10,。「エロストラー

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卜』の執筆が,『メランコリア』の拒絶の直後であり,サルトルの自尊心が傷 つけられた時期にあたると考えることは的はずれではないだろう。その意味で,

『エロストラート』における主人公の犯罪の失敗は,作者のエクリチュールの 失敗を転換した表現だとも言えよう。

実はイルベール自身,犯罪ばかりでなく,エクリチュールを実践している。

彼は勤めを辞めて犯罪予告状を書くことに専念し,さらにそれを102通写す。

そしてそれを警察でもなく,新聞社でもなく,102人の「有名な作家」に送る のである。そしてあわよくば,彼の犠牲者の-人が,彼らのうちの一人である ことを望むのである。「これで失礼します,場合によっては,私がお会いする のは貴兄かも知れません。しかしそうなると私がどれほどの喜びを持って貴兄 の脳味噌を吹っ飛ばすか,決してご存知にはなれないわけです。」(OR,p272)

イルペールも作家になりたかったのか。また『エロストラート』は,主人公が 警察に逮捕された後,己の犯罪の失敗を語るという設定で話が展開する。まさ に獄中作家(あるいは出所後?)の作品といった様相を呈している。彼のエク

リチュールが失敗であるかどうかは,明らかではないが。

2.ポール・イルベールとジュリアン・ソレル

作家としてのデビューを試みたサルトルの失敗の無念さが『エロストラート』

に投資されていることをうかがわせるもう一点を考察したい。冒頭の,主人公 が自宅のアパートの窓から下を眺める場面を見よう。

七階のバルコニー,そこで俺は一生過ごすはずだったのだ。精神的な優越 性は,物質的な象徴で支えなくてはならない。さもないと崩れてしまう。

ところで人間どもに対する俺の優越性とはまさに何だろう。位地の優越性,

それ以外の何者でもない。俺は自分の内にある人間的なものの_上に自らを 据えて,それを眺めるのである(ORp、262)。

これは『赤と黒」の第十章の一場面を奇妙に想起させる。ジュリアン・ソレ ルは,レナール氏に昇給を約束させた後,岩場に上って下界を見下ろす。

まもなく,かろうじてそれとわかるような,山羊飼いだけが使う狭い小道 を上って,ジュリアンはある大きな岩の」堂に立った。あらゆる人間たちか

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失敗の結晶作111 85

ら隔たっていることは確かだった。この肉体の位地に,彼はほくそえんだ。

彼が精神的に到達したくてたまらない位地を描いていたのである(11)。

どちらの場合も,自らが軽蔑する(いうまでもなく劣等感の裏返しである)

人間たちに対する精神的な優越性を象徴する高い位置に主人公が君臨している。

ただし『赤と黒』の場合,農民の貴族に対する憎しみ,つまり王政復古時代の 階級意識が問題となっているのに対して(勿論そこには,自分がそこから抜き 出るはずの農民階層に対する侮蔑が含まれている),『エロストラート』におい ては,凡庸なプチ・ブルの,同族に対する憎悪が描かれている。イルペールは

「人間が」愛せないと主張する。サルトルに言わせると,ブルジョワは自らを 普遍的な人間,ブルジョワジーを普遍階級とみなすのであるから,人間とはブ ルジョワのことである(S2,pI59)。

スタンダールの主人公とサルトルの主人公の間には,さらに共通点とそれを 軸とした対照点を見出すことができる。どちらも,非常に激しい感情を抱きな がら,それを偽善的に押し隠し,目的達成のために一見冷徹な計算をするが,

両者とも,感情のたかぶりゆえに計画を台無しにしてしまう。しかしジュリア ンは世に出るという「肯定的な」目標を目指すのに対して,イルベールはヒュー マニストたちの世界を破壊するという「否定的な」目標を掲げる。ジュリアン は国民的英雄ナポレオンに憧れ,イルベールは国民のタブーとなったエロスト ラートを夢見る。ただし,ナポレオンは『赤と黒』の黒であり,エロストラー トは「黒き英雄」である。ジュリアンは,レナール夫人とマチルダに対して確 かに愛を感じる。それに対してイルベールは自分が雇った娼婦を寄せ付けな い《121.最終的に死刑を宣告されるスタンダールの主人公は,読む者をひきつけ る英雄であるc無差別殺人をやり損なって〔131,取調室でリンチを受ける主人公 は,情けない凡庸な犯罪者である。このように,サルトルの短編小説の主人公 は,スタンダールの長編の主人公のアンティテーゼのような設定で提示されて いる。

作家スタンダールは,哲学者スピノザとともに,若きサルトルの野心を象徴 する人物だったことを思い起こしたい(lIjcスタンダールに憧れた人間が,その 野心を打ち砕かれたかのように感じた直後,反スタンダール的主人公の登場す る小品を書き上げたと推定することは的はずれではないだろう。〈Hilbert〉は,

<HenriBeyle〉に発音されない〈t〉を加えたもののアナグラムだと見ること

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もできる。サルトルがどこまでそれを意図していたかは不明であるが。

3.失敗のエクリチュール

ここで注意したいのは,それまでの自身に満ちた天才青年サルトルが,厳し い現実を前にして初めて挫折感を味わい,このようなニヒリスティックな作品 を書いたと短絡してはならないことである。少年期から,彼にエクリチュール の失敗は強迫観念的につきまとっていたのであり,それがまさに彼が青少年期 に書いた小説作品の中心テーマになっている。

サルトルの現存する作品のうちで初めて発表された『病的嗜好者の天使 くLlAP0gPdWmoγbjac>』は,1922年,彼が17歳の時の作品である。同人誌

『題名のない雑誌〈LaReMesα"slIi舵>』第一号(1923年1月15日)に褐iliIi された(腺'・アルザスの高校教員が,休暇中に知り合った結核患者との恋を夢想 するが,相手の発作に恐れをなして逃げ出し,その後は健康な女と結婚して平 凡な生活に落ち着くという筋立ての短編である。主人公は,作家になることを 夢見ていたが,授業中に生徒に向けて読んだ自作の詩は馬鹿にされる有様で,

結局頓挫したアヴァンチュールの後は一切書くということを止めてしまうので ある。ルイ大王高等学校のエコール・ノルマル準備学級に在籍していたサルト ルは,祖父に課せられた教員という職業を現実のものとして思い描く他なかっ た。祖父によれば,教員であれば安定した収入が得られ,休暇中にものが書け るということであったが,サルトルとしては,たいした文学活動もせずに一生 を終わるのではないかという当然と言えば当然の恐れを抱いたのであった。

やはり『題名のない雑誌』に発表された『巣イエス(田舎教師)化s"skz Cho"ette(P、/igssc脚rdePmiノノノ,Ce)>』には,生徒,同僚,妻や娘にいびられ て自殺をしてしまう教員が描かれる。サルトル自身が通っていたル・アーヴル の高校の教員をモデルにしたらしい。生徒たちにひどいいびりを受けたことが 町中に知れ渡り,さらに在職'|'にダピ亡した点は,サルトルの作'11人物の場合と 一致するが,自殺したと言う記録はない`'釦。この人物が作家を目指している,

あるいは目指していたとははっきり述べられてはいないが,常に自らを演劇の 登場人物と見立て,しかし「文学的」とはおよそいいがたい自らの家庭生活を 嘆くことから,彼もそのような野心を抱いていたとは-1.分想定できる。少なく とも,語り手が「失敗」とみなす彼の人生は,サルトルにとって,自分の将来 のおぞましき姿を映し出していたことは確かであろう。

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失敗の結晶作用 87

ここで注意したいのは,サルトルがこうした失敗像を彼のエクリチュールの 題材とすることで,創作活動の第一歩を踏み出そうとしたことである。そこに 見て取れるのは,あまりにもおぞましいがゆえに「排除」の対象となるイメー ジではなく,語ることによって「抑圧」から解き放たれるべきものとして認識

されるイメージである。それはおぞましくもひきつけるものである。

4.誘惑の失敗

幼い頃から書くことを夢見てきたサルトルが,また少なくとも『言葉』によ ると,シュヴァイツエール家において王子様として崇められてきたサルトルが,

現実を知るようになったのは,まさにその家の外に出た時であった。常に注目 の的であった彼は,人をひきつけることに失敗するのである。この体験は,ま さに自分の人生の目的そのものであるエクリチュールに対する自分の適性を疑

わせるきっかけとなったとも言える。二つを取り上げよう。

-つ目は,サルトルが59歳にして発表した,つまり回顧の幻想を帯びた自 伝的作品『言葉』の第一部「読む」の終りの部分である。ブルーは汗母親に連 れられてリュクサンプール公園に行く。今日言うところの「公園デビュー」で ある。自らをミシェル・ゼバコ(1860-1918)の剣豪パルダイヤンにたとえる ブルーは,しかしながら他の子供たちから相手にされない。「(…)私は彼らに 近づいた。彼らは私を見ることなく,掠めるように通り抜けるのであった。私 は哀れっぽく彼らを見つめていた。何と強くすばやいことだろう。何とかっこ いいのであろう('ア'。」「私は,彼らによって自分というものを発見して,驚きか ら醒めなかった。私は,奇跡でも化け物でもなかった。誰の関心も惹かない,

-人のチビ助に過ぎなかったのだ。」(/bid.)彼はル・ゴフ通りl番地の5階 に位置するシュヴァイツエール家のアパートに戻り,パルダイヤンになった自 分を想像するのである。6階のアパートから下を見下ろし優越感に浸るが,地 上に降りるや,「大きい奴等」に小突かれるイルベールのように、`)。

二つ目は,再婚した母親と義父に伴って引っ越した先のラ・ロシェルでの11}

来事である。『言葉』の妓後の部分でⅨめかされているが,具体的には語られ

ていない「自分の醜さの発見」(MT,p210)である。14歳の時,彼の同級生

たちは,彼に一杯食わせてやろうと考え,彼が思いを寄せている年上の少女に

会わせてやるともちかける。何も知らぬ彼は,精一杯のお酒落として,買って

もらったばかりの趣味のよくない帽子をかぶって,指定された場所に出向く。

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つきまとわれて苛立った少女は彼に面と向かって「何の用なの,このでかい帽

子をかぶった馬鹿は?」あるいは「何の用なの,片目がもう片方にあかんべし ているこいつは。」と言ったとのことである119)。サルトルにとって,それまで

は意識していなかった,自分の醜さを思い知った経験であった。

書くことこそ生きることであったサルトルは,すでに幼少の頃,また思春期 においても誘惑の失敗という経験をしている。書くことが読む者をひきつける 行為であるならば,こうした経験が,書くことに関する絶対的な自信を揺るが せる唯一ではないにせよ,一つの原因になったことは疑い得ない。

5.エクリチュールという失敗

『嘔吐』,『壁』の発表によってサルトルは作家として世に認められることと

なる。しかし失敗の観念は彼のテクストにつきまとう。アンガージュマンを掲 げた戦後のサルトルにとって,エクリチュールの射程は拡大する。戦前のサル

トルにとって,それは一つの閉じられた世界としての作品の創造であった。そ

れが現実の世界に開かれた行為となる。読む者に対して,作品を作者とともに 創りあげようと呼びかける行為である。「このように著者は,読者の自由に呼 びかけるために書くのであり,また彼の作品を存在させるよう,読者の自由に 求めるのである。」(S2,plOl)しかし,このようにエクリチュールが拡大し ても,今度は現実に直接働きかける行動と,エクリチュールそのものとの葛藤

が生じることになる。たとえ書くという行為が読み手の自由に働きかけること によって,何らかの社会変革を目指すとしても,社会変革を目指す行動に比べ

ると,価値が劣るのではないかという疑念が生じるのである。つまり,直接行

動をとることに比べて,書くということに行為が限定されてしまうことは,失 敗ではないのか。これをサルトルは作中人物の葛藤として表現している。

1948年に発表された劇作『汚れた手』のユゴーは,会社の副社長である父 の元を飛び出して,労働党に加盟した青年である。インテリの彼は党の機関紙 の編集に桃わるが,直接行動を夢見て,党の異端となったエドレルの暗殺役を 買って出る。つまり,彼にとって,革命のためのエクリチュールは失敗でしか なく,直接行動のみが意味を持つのである。さらに彼は,自分の行動があくま でも政治的な意味を持つことにこだわる。方針が変わったため,暗殺を単なる

痴情による事故として葬りたいとする党の方針を受け入れない。サルトルは明

らかにこのナルシシックな主人公を批判的に描いている。エクリチュールであ

(11)

失敗の結晶作用 89 れ,自分にできる革命に有効な仕事をすることが必要なのであり,英雄主義は 無用である。「オルガ:(…)でも私たちはボーイスカウトじゃないのよ・党は,

あなたに英雄になる機会を与えるために作られたんじゃないの。なすべき仕事 があって,それがなされなければならない。誰がやるかはどうでもいいこと よ(鋤)。」エクリチュールでない直接行動が直接行動として意味を持つことに執 着するインテリに対する作者の批判は,作者の自らのナルシシックなファンタ スムに対する批判ともとれよう。しかし,いずれにせよ,エクリチュールの失 敗は,エクリチュールであるが故の失敗という新たな形でサルトルのテクスト

につきまとうのである。

Ⅲ.負けるが勝ち

このように,サルトルのテクストは何らかの形で失敗をテーマのひとつとし て展開する。それは登場人物の失敗であり,そこには作者自身の失敗が読み取 れる。しかし時代の異なるテクストを重ね合わせると,失敗の描き方,捉え方 が展開していることがわかる。それを通して浮かび上がるのは,「負けるが勝 ち」というテーマである。ここでは再び『エロストラート』に戻り,さらにそ の後のテクストを援用して,このテーマを考察したい。

1.イルベールとロカンタン

『エロストラート』と時期を重ねて書かれていた『メランコリア」は結局 1938年に『嘔吐』として出版される。犯罪とおそらくはエクリチュールに失 敗するイルベールと同じように,ロカンタンも実はエクリチュールの失敗を経 験する。彼は,ロルポン侯爵に関する歴史書を書く目的で,ブヴィルの市立図 書館に通っている。しかしある日,その完成が不可能であると判断して,止め てしまうのである。「僕はもうロルポンについての本は書かない。それは終わっ

●●●●

た。僕はもうそれを書けなし、。これからの人生をどうしたらよいのだろう。」

(OR,pll3)謀くことができなくなり,人生そのものの意味を失ってしまっ たロカンタン。言うまでもなく,この体験は,彼がその後,人間が与えた意味 を一切失った存在に向き合うことになるクライマックスの伏線となっている。

しかし,迫ってくる存在が惹き起こす吐き気から逃れる希望を彼に与えるのも エクリチュールである。それは「何か存在しないようなもの,存在を超えたよ

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うなもの」(ORp、210)である。ロルポンのような歴史上存在したはずの,

しかし具体像がつかめない人物を再度存在させるような,不可能な行為でなく,

存在しないものを,存在を超えた形で表わす,つまりフィクションとして表わ

すという行為である。勿論,状況に自らの自由を役企することの重要性を主張 する,サルトルの立場と考え合わせると,いかにも釈然としない結末である。

その意味で,その後ロカンタンのエクリチュールが成功するかどうかは,かな り心もとないとも言える。

しかしここで,考えたいのは,歴史書という形のエクリチュールの失敗が,

新たなる虚構のエクリチュールのきっかけとして提示されている点である。サ ルトル自身が,存在の偶然性の発見を「論駁書くfactum>」という一種の論説 形式で初めは書こうとしていたものの,結局フィクションへと変更した事実を 思い起こしたい。ひとつのエクリチュールに失敗しても,何らかの新たなるエ

クリチュールへの道が開かれるというサルトルの希望を『嘔吐』の最終部分に 読み取ることができるのではないか。

2.イルペールとマチュー

サルトルが戦後に発表した『自由への道』はロカンタンを引き継ぐ兄弟分と も言えるマチュー・ドラリュを主人公とする。何にも投企しない自由を持て余 したマチューは戦争を通じて,真の催111]を見出すという設定である。この作品 の第3巻『魂の中の死』の第1部の最終部分が,『エロストラート』の冒頭の 場面を想起させる。マチューは仲間とともに村の教会の鐘楼に立てこもり,ド イツ兵に向かって乱射する。地面を道いつくばるドイツ兵を立った姿勢で狙う マチューは,優越感に浸ってせせら笑う(OR,ppl335-l336)。地面に押しつ

ぶされたように見える,歩道を歩く人間たちを上から立って見下ろすイルベー

ルも笑う(ORp、262)。マチューは冷静に狙いを定めて相手をしとめる。人

間を殺した彼は「何か決定的なこと」が自分に起きたと感じるのである(OR

pp、1336-1337)。これはまさに犯罪計画の実行に失敗したイルペールと対照的 である。彼は,冷静さを失い,通りがかりの男に三発撃った後,計画とは逆方 向に逃げ出すのである(p、276)(211。こうして自分の取り返しのつかない行為

を警察の到着まで味わうこと(OR,p、273)ができない。あたかもかつての

「反ヒーロー」の失敗したことを,自由を担ったヒーローがやり遂げているか

のどと〈である。

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失敗の結晶作川 91

ただし注意したいのは,『目11]への道』のこの場面が,まさに「目H1」の達 成を表わしているとは言いがたい点である。『自由への道』第3巻とほぼ同時 期の1947年から1948年に書かれた「倫理学」のためのノートにおいで22),そ れまで互いに他者であった者同士が,祝祭のごとく高揚した暴力により一体化 する革命の瞬間が記述されている(CM,pp429-430)。死を前にした乱射の中 で主人公が自由を感じるこの場面は,『倫理学ノート』における記述と一致す るように思われる。しかしフランスが降伏した時点で行なわれるこの行為は戦 略的に意味のないのであり,いたずらに死に向かうという点で,自己欺備だと も考えられるのである。1945年の時点で,この第3巻が,『最後のチャンス』

という題名のもとで『自由への道』の完結編となり,そこでマチューが自由を 遂げることが予告されていたこと,しかしその後サルトルはこの巻でマチュー

に自由実現を達成させることはできないとして,この題名を『魂の中の死』と

改めて完結編を4巻目に委ねたこと《麹)を考えると,少なくとも第3巻執筆の 時点では,サルトルはマチューの乱射を自由の実現とみなしていたものの,そ

の後考えを改めて続編を企画したとも言えそうである。実際,マチューの行為

は,むしろ『倫理学ノート』で自由の実現としての革命と対立させて述べられ ている「反抗」,つまり「些細で局所的な混乱」にとどまる「具体的で個人的

な拒否,すなわちアナーキーなテロ行為」(CM,pp412-413)にあたるように

思われる。すなわち,マチューは,サルトルの自由の具体的なイメージに関す る暖昧さを具現しつつ,かつてのイルベールによって表わされた「アナーキー なテロ」に対する魅惑を実現しているとも言えよう。その意味で,負けた主人

公を継いだ新たなる主人公は,少なくともこの時点では勝ったとは言えないだ ろう。いや真に自由を実現する場面が書かれなかった限りにおいて,勝利は永

久に延期されているとも考えられよう。

3.イルペールとユゴー

「自由への道』が未完のまま放棄された理由の一つとして,戦後の執筆当時

の状況が,作品の扱うレジスタンスの状況から大きく変わってしまったことが 挙げられる。冷戦下においていかに生きるか,これが政治的アンガージュマン の課題であった。その意味で,イルベールを引き継ぐのは「汚れた手』のユゴー

である。イルベールと同様,ユゴーはアナーキスト的傾向を持つ。ロシア皇帝

に自爆テロを決行する夢を何度も見るイルベール(ORp、270)と同様,彼は

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ロシア大公に自爆テロを仕掛けることならできると豪語する《鋼)。イルベールは 後戻りすることをもはや許さない,自らの犯罪の重さを味わいたいと願うもの の,本当に相手を殺したのかどうか確かめる間もなく,逆方向に逃げてしまう。

ユゴーは,相手を殺すが,その意味を見失い,結果として彼の「犯罪」には重 みが感じられないと言う(TC,pp348-349)。(彼は,非合法行為であれ党の 指令を実行したはずだが,自分の行為を奇妙なことに「犯罪」と呼んでいる。)

さらに興味深いことに,両者とも,妓終部分において,扉を開いて追っ手に身

を委ねるのである。イルベールは,立てこもったトイレの扉を(OR,p、278),

またユゴーは匿ってもらっているオルガの家の扉を(TC,p354)。しかし両

者の違いは決定的である。自称現代のエロストラートは,自害できずに拳銃を 捨てて投降するのに対して,自称革命家は,党の方針転換にもかかわらずあく

までも自分の行為の政治的意義に固執し,命を投げ出すのである。それでは,

ユゴーの行為は成功であろうか。行為の政治的有効性という点では,まさに彼 の行為は革命ではなく「局地的混乱」をもたらすだけの「反抗」にすぎない。

「犯罪の重み」が感じられないというのはそのせいではないのか。

5.イルベールとマラルメ

最後に,サルトルが1947年から1952年まで断続的に書いたマラルメに関す る論考I25jに触れておこう。母親の死,父親の再婚が幼いマラルメに,「世界か ら隔てるガラスに乗ったダイヤモンドの,軽いむしばむような滑りのような,

否定性を刻印された悦楽」を抽象性にまで推し進めるようし向ける。(ML,p ll7)己の存在の正当性を確信できない彼は,否定性を,生の不可能性を生き ることになるのである。教員生活を送りながら,彼はしばしば自殺を真剣に考 える。彼は自分の運命と人類の迎命を混同し,自殺を大虐殺,テロ行為と同一 視するのである(ML,pl55)。抽象化にまでいたる凝縮したダイヤモンドの 比噛,自殺の魅惑と象徴的大虐殺のファンタスム,まさにイルベールを引き継 いだイメージである。

彼は,詩を書こうにも書けない。白紙が強迫観念となる。そこでこの失敗を 詩にしようと考え付くのである。「(…)自分の無力を歌う無力な者であるマラ ルメは,自分の個人的な失敗を詩の不可能性へと転換する。それから新たなる 転回により,彼は詩の失敗を失敗の詩へと変形する6」(ML,pl44)マラルメ こそ,サルトルがアンガージュマンの詩人として称えた詩人である。失敗の詩

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失敗の結晶作用 93

という成功。まさに「負けるが勝ち」を成し遂げた詩人である。もちろん,

「負けるが勝ち」をめざして,つまり未来の視点で現在を傭鰍することは,未 来へと自らの自由を役企する行為とは相容れない,自己欺蝋である。しかしも し,負けで結構というアンガージュマンの結果として勝ったならば,結果とし

て永遠に輝く詩を残したならばどうだろう。

シュルレアリズムの批半Iとして,またアドラーの精神分析の応用として,ま た反ヒューマニズムの激発として捉えられるサルトルの『エロストラート』と は,サルトル自身の,小説家デビューの失敗に触発された,失敗の作品である。

そこにはスタンダールたらんと欲した野心の挫折,田舎教師としての一生とい うイメージ,幼い頃の屈辱が,相互テクスト性を通じて浮かび上がってくる。

そしてエクリチュールそのものが失敗であるとすれば?失敗そのものを書くこ とがいかに成功に転換されうるのか。『エロストラート』以降,問題提起は続 く。『エロストラート』へ失敗は集積し,『エロストラート』から失敗は発展す

る。原点(で)なき原点。

愛と名づけた瞬間,それは愛として結晶するなら,失敗と名づけた瞬間それ は失敗として結晶する。『エロストラート』は,文学や哲学でサルトルを語る

とき,あまり引用されることのないマイナーな作品である。サルトルのトレー

ドマークとも言うべき相互性のヒューマニズム“》に真正面から反発する主人 公ポール・イルベール。『エロストラート』は作品として失敗であろうか。し かし妙に印象に残るともしばしば言われる作品でもある。黒いダイヤモンドと いう結晶ではなく,失敗を語り,失敗を取り込んだテクストが,実は硬質の輝 きを放つのかもしれない。ポール・イルベールの「手記」?のように。

《注》

(1)第一作は,1935年に両親と行ったノルウェー旅行に発想をえた短編で,Soleil deminuitと題されている。白夜を魔法のようなものと思い描いていた少女が現 実を見て失望するという内容の作品であったらしいが,原稿は見つかっていない。

(2)CfGenevi6veldt,LejMiU7'。“んα〃PtZzJlSa汀アゼ,TBC〃"i9zdeseノCO"陀兀le d〃"eP7D"ocatio7l,Larousse,1972,p、181.

(3)Andr6Breton,Seco"d、α"狼sted皿s叫刀でα【is腕2,1930,Gallimard,《FoIio Essais》,1989,p74.

(4)CfJean-PaulSartre,⑱w”Sm碗α"es9Wes(6dition6tablieparMichel

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ContatetMichelRybalkaaveclacollaborationdeGenevieveIdtetde GeorgeHBauer),Gallimard,《Biblioth6quedelaPl6iade》,1981,pl840(編 者ミシェル・リパルカの解説).以下ORと略す。

(5)女の足に乗ったクッションはゼーリッヒマンの作品,スプーンをまとった蝋人 形はダリの作品で,いずれも1938年のシュールレアリズム博覧会に出品された。

CfGenevieveldt,。,LeMJr霊。@ノbαかHmlSu冗花,OP.c".,p、181.

(6)Jean-PaulSartre,《QuDest-cequelalitt6Tature?》,Sit“"0打s,〃,Gallimard,

1948,p174.以下S2と略す。

(7)SimonedeBeauvoir,LaFb允edg〃igU,Gallimard,1960,p、133.

(8)他方,決して短くはない『嘔吐」においてもやはり,ロカンタンの過去に関す る説明はきわめて少ない。

(9)ORppl839-1840(編者ミシェル・リパルカの解説).

(10)1973年にジョン・ゲラッシ(JohnGerassi)が行なった未刊のインタヴュー。

CfOR,PLI,《Chronologie》、note5.

(11)Stendhal,伍測uねsわれα"es9"escomP随tesI(edition6tablieparYvesAnsel etPhilippeBerthier),〈BibliothGquedelaPl6iade),2005,p405.

(12)勿論,精神分析的解釈をこの登場人物に加えれば,「他者一原初的な母親像」

に対する拒絶と魅惑の両義的感情が表れているとも言える。

(13)結局,イルベールが撃った相手が死んだかどうか,また入ごみでの乱射で穣牲 が出たかどうかはわからない。一人称体の語り手は,知らないのか,あえて書か ないのか,それを明らかにしないまま,作品は終わる。

(14)SimonedeBeauvoir,M回机oi池sdW"e/ezme/IJlcm"扉e,Gallimard’1958, p342.

(15)Jean-PaulSartre,丘河tsdeルwessc・textesrassembl6s,6tablis,pr6sent6set annot6sparMichelContatetMichelRybalka,Gallimard,1990,p41(編者 の解説)。以下EJと略す。

(16)ELp、504,(p、60に対する編者注3)

(17)Jean-PaulSartre,LesMots,Gallimard,1964,p110.以下MTと略する。

(18)もっとも『奇妙な戦争日記』では,リュクサンブール公園において,幼いサル トルが,即席の人形劇を披露することで,同年篭の子供たちをひきつけたことを 語っている(Jean-PaulSartre,Qzmcts‘elQd洞ledegt4e"℃,Gallimard,1995, p503)。「現実に」どうであったかは問題ではないだろう。サルトルが生前に自 らの意志で発表したテクストにおいては,失敗の経験が語られていたということ である。

(19)ELpp、350-351.断片原1imrサチュルナン・ピコ」に関する編者の解説。編者 の1W報源は,1971年のジョン・ゲラッシによる未刊のインタヴュー,映画『サ ルトルによるサルトル』〈Sα汀池pa7Jm-机6mg〉のために1972年2月に収録さ れたが結局使われなかったインタヴュー,フランシス・ジャンソン〈Francis Jeanson〉によって1973年に行なわれ,SLJr舵αα"ssaDie(Seuil,1977,pp292-

291)に収められたインタヴュー,および「サルトルと女性たち〈Sartreetles femmes>」という表題で,1976年末にカトリーヌ・シェーヌ〈Catherine

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失敗の結晶作用 95 Chaine〉によって行なわれたインタヴュー(Le1Vb”elObseruatel4r1977年1 月3]日号所収)。

(20)Jean-PaulSartre,、“(ねCO加PJeノ(6ditionpubli6esousladirectionde MichelContat,aveclacollaborationdeJacquesDeguy,IngridGalster,

Genevi6veldt1Johnlreland,JacquesLecarme,JeanFrancoisLouette,Gilles Philippe、MichelRvbalkaetSandraTeroni,Gallimard,《Bibliothequedela Pl6iade》,2005,p319.以下TCと略す。

(21)両者とも犠牲者のうなじの餓に魅せられることも指摘しておこう(ORpP 276,1335)。

(22)これはサルトルの死後,『倫理学ノート」として刊行される:Jean-PaulSar‐

tre,QzノljeγSPO”皿"c机omJe,Gallimard,《Biblioth6quedePhilosophie》,1983 以後CMと略す。

(23)Cfプレーヤード版の編者注。ORP2012.

(24)TC,p263.なお,このような事件は-度ならず生じており,プレイアード版 の編者は,特に1905年2月に革命社会党の「闘争組織」の闘士が行なった,セ ルジュ大公テロ事件を指していると指摘している(Top、1395,第二場に対する 注3)。

(25)Jean-PaulSartre,Mnl/、w[6.LnJ脚cjdj(ccjsα/tzcedbれり花,Ga】limard,《Ar‐

cades》,1986.(以下MLと略す。)これは,1947年から48年に香かれ,52年に 手直しされたテクストと,52年に苫かれて,53年に発表されたテクストから成 り立つ。前者は,1979年にObli9t4es第18-19号に《LEngagementde Mallarm6》の表題で掲較。後者は,1953年にEとrjDaj打sc6ldb”sの第3巻

(RaymondQueneauとMazenod社)に掲赦,その後1966年にGallimard社 の《Po6sie》シリーズの「マラルメ詩集」の前書きとして採用,さらにSit"α‐

ビね"SIVに所収c

(26)Cf清眞人,『実存と暴力一後期サルトル思想の復権」,御茶ノ水書房,2004.

(フランス文学,思想・経営学部助教授)

参照

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