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「死」の自己劇化 : The pardoner's taleにおける アイロニ

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「死」の自己劇化 : The pardoner's taleにおける アイロニ

著者 下田尾 誠

雑誌名 主流

号 49

ページ 1‑18

発行年 1988‑03‑20

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014986

(2)

「死」の自己劇化

一一一ThePardoner包Taleにおけるアイロニ一一一

下 回 尾

拙論

I

RADIX MALORUM EST CUPIDIT AS‑ChaucerのPardon‑ er'sTleにおける罪の諸相とそのアイロニ ー」では,同説教例語中にて 論難される金への執心(cu pidi tas )以外の諸罪悪のレゾン・デートルが確 認された cupiditasを spiritualdeath'の概念を介して再考すると,同罪 が「地上愛

J

を意味する広義のcupiditasをさしている事が理解された.即 ち, spiri tual death'とは,人が,愛穂、(caritas )の精神を忘れ,際限な き現世の利己的欲求を満たすべく地上的価値へ固執した結果陥る罪なる状態、

をさす事をPardonerは説くのである.従って話中に列挙される罪の数々は 凡てがcupiditasの根から生じる 'spiritualdeath'の多様な実相ということ となる.そうした諸罪悪の描写は,物語としての最大限の効呆をもって地上 愛の恐ろしさを伝えんとしてチョーサーが施した,周到な配慮の跡である.

その意味でPardonerの説教話は説得力があり,聴衆に痛悔の念をおこさせ るに足る出来ばえといえる. しかし詩人はそうした巡礼衆を教化する有能な 一説教家としての役割をPardonerに与えることはしなかった.実は,詩人 の意図は,当時の堕落した宗教界を代表する,口ばかりが達者な Pardoner の偽善をアイロニを武器にして攻撃する事にあったのである.そこで詩人は この男の雄弁家としての面白を丸潰しにすべく 一つの劇中劇を物語合戦中 に設定する.その梗概は以下の通りである.

自慢の説教を語り終えたPardon引はご寄進に名を借りて聴衆より金品を

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2  「死Jの自己劇化

騎し取ろうとする.自らの話に感銘を受け,世'陀たる想いを抱く者なら誰し も,金への執心を捨てた証に跨跨なく喜捨を実践する筈だ,と踏む訳である.

ところが,自信満々, Host に向って寄進を促したPardonrは意外な現実に 直面する.Hostが俄然,怒りだし,更には侮辱の言葉までを彼に浴せ始め るのである.これにはPardonerの思惑も外れてしまい,果ては自らも立腹 するという失態を招いてしまう.

以上がチョーサーがカンタベリへの途上で展開される物語合戦という劇的 な状況下に仕組んだアイロニであり, Pardonerの悪徳ぶりに対して詩人が 示すpoeticjusticeである.客観的にみて説得力のある話が,カンタベリ巡 礼衆にたいしては結呆的に喜捨を促す効力を持たなかったという事になる.

ではなぜにPardonerの寄進要求の試みは激しく拒絶されたのであろうか.

本稿ではその原因を,説教がす

a

露される前後の状況と,説教モラルとの相関 関係の中に探りつつ,チョーサーの仕組んだ、アイロニの特質を考えていきた

Pardonerの話はその前口上とあわせて カンタベリの途上で繰り広げら れる物語合戦の中に位置付けられる.他の話の例に倣い,チョーサーはこの 話に関しでも一つのlinkepisodeを提供し,道中にみられる巡礼衆の人間 関係の実態の一端を伝えてくれる.Pardonerの性格とそれに対する彼等の 反応もそのepisodeを通して知ることができる.彼の説教の前口上が開始さ れる直前の状況は進行役のHostが,物語を終えたばかりのPhysicianに自 らの感想を述べるシーンから伝えられる.Physicianのする話とは,ある父 親が好色な判事の邪淫から愛娘Virginiaの純潔を守ろうとして,自らの手 でその若き生命を絶ってしまう話である.Hostはこの受難物語に痛く感動 させられた様子である.気の毒な Virginiaの身の上を想う余りp しんみり と心の痛みを覚えた彼は,気晴らしに triacle"として"amyrie tale"でも開

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「死jの自己劇化 きたい心境である,と Pardonerに訴える.(VI, 314‑316)2  かくてPrdon. erの出番が到来する.ところが彼がHostの催是に, Itshall be done."と 応え(VI,320),まずは話を始めるにあたり,一杯ひっかけ,腹ごしらえさ せてくれ,との意を伝えると,それに反対を唱える声が一部の巡礼衆より聞 こえあのであった.主に教養を暗むとされる紳士連の声である

N ay, lat hym telle us of no ribaudye! 

Telle us som moral thyng, that we may leere 

Som wit, and thanne wol we gladly heere. (V ,I324‑326) 

彼等はPardonerと言葉を交わさぬまでも,既にその時点に到る迄の道中で,

彼の身体的特徴よりその特異な性格を見抜いていたと想像できる 3 彼等は 既にMillerとReeveの二人より ribaudye'を聞かされている.案ずるのは 更にもう一つのfilthystoryを聞かざるを得ぬ状況である. amyrie tale"と 称して Pardonerが卑俗な話を披露する可能性はその性格から判断して十分

に考えられることであるO 然るが故に彼等はHostの意向を遮り,かわりに som moral thyng"をPardonerに要求する.

Pardonerはこの要求に 1graunte, ywis,"と即座に応じる.(VI, 327)しか しこの承諾は紳士連の筆制への屈服を意味するものでは決してない.言って みればPardonerは,言葉を交わさぬ先より彼等に要注意人物と院まれ,

Physicianの話により損なわれた陽気な物語合戦のムードを回復せんと願う Hostより託された, amyrie tale"を語るチャンスまでも一方的に剥奪され た訳である.彼にしてみれば出鼻を挫かれた格好なのである.職業柄,道穂 話の蓄えは十分あるにせよ,彼がその一つをおいそれと披露し難い心境にあ るのは容易に察しがつく.然らば道徳話を語る約束を守った上で更に,物語 合戦中の然るべき時機に紳士連に対する何らかの抵抗を彼が試みたく考える のは当然で、あろう.その際にp 巧みな言葉の魔術師たる Pardonerであればp

修辞上のトリックを通して彼等に一泡ふかせる一計を案じてもよさそうであ

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「死」の自己劇化

る.その結果, しんみりとしたHostの気分が晴れるなら,それ何をか言わ んや,である.前口上直前の 1moote thinke/Upon som honest thyng  while that 1 drynke." (VI, 327‑329)との科白は,正にHostと紳士連の両者

よりょせられた相対立するこつの要求にそれぞれ応えんとして板ばさみに なったPardonerの複雑な心境を物語るものである.

Pardonerの前口上は,自らの卓越した説教技術を誇示する内容である.

聖遺物の見せびらかしが聴衆の信心を煽る絶大の効果を持つ事について,デ モンストレーションを交じえて一頻り説明すると, Pardonerはいよいよ自 らの説教活動の動機を明かす段を迎える.得意の説教とは『ティモテオの手 紙

t

六章十節にある「悪ノ根ハ金ヘノ執心デアル

J

との聖句を主題に掲げ たものだが,同主題の選択についてPardonerは以下の如き大胆な意見を開 かせてくれる:

Of avarice and of swich cursednesse  Is al my prechyng, for to mkehem free 

To yeven hir pens, and namely unto me. (VI, 400‑403) 

これは何とまた衝撃的な告白であろうか avanceの罪を戒める説教をする 動機が,聴衆の金銭への執着心をなくす為といった説教家の良心に基づくの ではなく,専ら自信の食欲に根ざしているというのである.これより Par‑ donerがavanceの罪を戒める聖パウロの言葉を説教テーマにすえつつも,

使徒とは全く異なる意図を持って同じ罪を話のテーマとしている事実は明白 である.

聖パウロによる,

i

悪,根ハ金ヘノ執心デアル」との命題についての詳説は,

同使徒がティモテオへ書き送った最初の書簡の最終章にみられる.

If any man teach otherwise, and consent not to wholesome words of  our Lord 

esus  Christ, and  to  the  doctrine  which isccording to 

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f死Jの自己劇化 5  godliness; He is  proud, knowing nothings, but doting about the ques‑ tions and strifes  of words, whereof cometh envy, strife, rai1ings, evil  surmlSlllg, Perverse disputing of men of corrupt minds, and destitute  of truth, supposing that gain is  godliness: from such withdraw thyself.  But godliness with contentment is  gratgain. For we brought nothing  into  this  world, and it  is  certain we carry nothing out.  And having  food and raiment let us be therwith content.  But they that wil1 be rich  fal1  into  temptation and a snare, and many foolish and hurtful lusts,  which  drown men into  destruction  and perdition.  For the  lov of money is  the root of al1 evil (Radix enim omnium malorum est  Cuρidi tas): which while some covtedafter, they have erred from the faith,  and pierced th lselvesthrough with mnysorrows. (1. Tim. vi. 3‑

10)4 

聖パウロはここで,聖職に就いていながらも,神のメッセージを伝達する事 には無関心で,己の金銭欲を満たす事ばかりに現つをぬかす悪徳説教家達に 注意せよ,とテイモテオに警告するのである.彼等の関心とは神への奉仕に はなく,ひたすら己に仕える事にある.自ずと彼等の説教のレトリックも己 らの利益を増す為の方便と化してしまう.聖パウロはそうした紛いの説教家 達の言葉のわなにはまらぬよう,ティモテオの注意、を促し,かかる趣旨にそっ て「悪ノ根ハ金ヘノ執心デアル」との教訓を伝えるのである.

聖パウロによる avanceの戒めはかようにして gainis  godliness"と考え る説教家達を念頭において発せられる.ところがPardonerはこの「悪ノ根 ハ金へノ執心デアル」とのテキストを 聖パウロが同命題を提示するコンテ キストを無視して,私腹を肥やす目的の為に用いるのである.更に興味をひ く点は,皮肉なことにPardoner自身が聖パウロが非難するえせ説教家の実 例となっていることである.Pardonrは wholesomewords of our Lord 

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6  「死jの自己劇化

esus Christ"に心を向けぬ不届き者である.常に godliness"を装い the questions and strifes of words"に没頭する事もしばしばあるという.彼は 自身の説教を他人を攻撃する武器として用いる習慣のあることを以下の如く 誇らしげに語って聞かせる

. when 1 dar noon oother weyes debate,  Thanne wol 1 stynghymwith my tongsmerte In prechyng, so that he shal nat asterte 

To been defamed falsly, if  that he  Hath trespased to my bretheren or to me  F or though 1 tel1e noght his propre name,  Men shal wel knowe that it  is  the same,  By signes, and by othere circull).stances  Thus quyte 1 folk that doon us displesances;  Thus spitte 1 out my venym under hewe 

Of hoolynessε, to semen hooly and trewe. (VI, 412‑422) 

こうみていくと疑いもなく Pardonerは,人を destruction"と perdition"

へと導く snare"と lust"に陥った説教家達の一人ということとなる.とい うのも,説教効果をあげるべくして Pardonerが企てる方策とは凡て an hundred mark" (V ,I390)を彼にもたらしたところの巧みな gaude"(= 

trick) (VI, 389)に他ならないからである.

聖パウロはティモテオへ書き送った書簡の第一章に於いて,聖職に携わる 者の責務についての意見を延べている.彼によれば,宣教活動の究極の目的 とは charityout of a pure heart, and of a good conscience, and faith un‑ feigned" (1. Tim. i.  5)を広めることであると言うO この点からしても Par‑ donerは意識的に使徒の教えを曲解している一つのケースとなる.いわば Pardonerは,聖パウロの説く理想的な説教家についての心得に対して一種

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「死」の自己劇化 のパロディーを試みていると考えられるのである 彼の説教は邪な動機を もって,時として敵に対する復讐の念を持って語られることはあっても,け して apure heart"や agood conscience"に基づいて語られることはない.

説教の最終目標とは飽くまでも儲けること( forto wynne"  [VI, 403])で あり, charity"を伝えることでは決してないのである.Pardonerが「悪ノ 根ハ金へノ執心デアル」という聖パウロと共通のテキストを用いながら,理 想的説教家の責務について同使徒が提唱する教説の向こうを張った自説を,

頑なに主張していることが理解されよう 6

こうみていくと,問題の命題が提示されるコンテキストは明らかにPar. donerにとり不都合となってくる.同説教家自身が,聖パウロがテイモテオ に警戒を促したところの好ましからぬ説教家の一例となっているからであ る.ところが注目すべきは, Pardoner自身がそうした自らのアイロニカル な立場をよく心得ている点である.彼は率直に, Thuskan 1 preche agayn  that same vice/Which that 1 use, and that is  avarice."  (VI, 427‑428)と 告白して'陣らない.ある意味でこの種の発言は,当面の聴衆であるカンタベ

リ巡礼衆にこれから説教を披露しようとする自らを,はなはだ不利な状況に 追い込むことが予想される.特に,優れた内容をもっ説教であればある程,

その語りの効呆を減ずる結果を招く恐れがあるからである.一体,何故に Pardonerは語りの前口上にでかくも明け透けに自己の悪徳、ぶりを暴露して

しまうのだろうか.

Pardonerの 告白'は,いわば中世紀のアレゴリカルな文学にみられる一 つのコンヴェンションであると考えられる。そうした意味で前口上にて自己 の偽善ぶりを暴露する Pardonerのprototypeを,十三世紀フランスの一大 寓意詩 LeRoman de la Roseに登場する Faux.Semblant  (Hypocricy)に みとめる事ができょう 7 しかしながら,そうした照応関係の確認は必ずし もカンタベリへの途上の物語合戦におけるPardonerの自己暴露のレゾン・

デートルを明らかにする事とは繋らない.前口上ではPardonerにLeRo‑

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8  「死」の自己劇化

man de la Roseにおけるように寓意的人物としての役割が期待されている訳 ではない.そこで矢張り,カンタベリの道中にてPardonerが係わりをもっ 幾人かの巡礼衆との人間関係の中に,同説教家の 告白'の動機を探る必要 が出てこよう.その際に自ずと想起されるのが先にみた,前口上に先立つ状 況である.そこではPardonerは通常とは異なる条件の下に,要注意人物と のレッテルをはられた上で説教を開始することを余儀なくされている.さら ば仕方なし,と Pardonerはおとなしく手持ちの説教を始めるのであろうか.

否,それは流石に同説教家のプライドがゆるさぬ屈辱であった.何はさて置 き, Pardonerは過去にナイーヴな善男善女よりひたすら金品を踊し取って きた実績をもっペテン師である.そうした自らの如才なさと雄弁のなせる妙 技に酔う自信家であればある程,語るに際しハンデイーを与えられた場合,

しかもそれが普段の聴衆とは異なる,知的に洗練された人々を多く擁してい るカンタベリ巡礼衆より与えられたものであれば尚更;Pardonerの自らの レトリックにょせるプライドは余計に操られることが予想できる.相手が難 敵であればある程,彼らをペテンにかけ翻弄するといった離れ業は実践する 価値かで、てくるからである.そしてこの離れ業を更にスリルに満ちた難解な ものとすべく Pardonerが自らに科す,更なるハンディーこそ実は前口上に おける自己暴露なのである.彼は自らのセールスポイントを以下のように整 理する.

through myself be gilty in that synne,  Yet kan 1 maken oother folk to twynne  From avarice, and soore to repente.  But that is  is  nat my principal entente; 

1 preche nothyng but for coveitise. (VI, 429‑433) 

これは明らかにカンタベリ巡礼の一行に対する挑戦である.かくて説教の動 機を明かしたPardonerは,更に自らの日常の説教活動における飽くなき強

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「死Jの自己劇化 9  欲ぶりの実態を次々と明かしていく.(VI,447‑453)そうしたPardonerの 態度が'障りを知らぬものであればある程,その背後に覗くのは彼の、自身の レトリックによせる並々ならぬ自信である.つまり彼は,説教そのものの出 来ばえが,予め明かす自身の邪な動機すらをも彼らに忘れさせるまでの効果 を発揮することを信じてやまぬという訳である.まさに自らの説教によって 聴衆を陶然とさせる事こそがPardonerの意図する,彼らを翻弄する事に他 ならないのである.従って前口上における彼の悪穂、ぶりの暴露とは,自らに 警戒の色を見せる巡礼衆さえも手玉にとらんとする離れ業を実践する際の,

不可欠な御膳立てとなるのである.

Pardonerの説教は,今までみてきたリンク・エピソード並ぴに前口上の 後に位置付けられるが故に,同説教家の性格との係わりをぬきにその存在を 考えることはできない.勿論,説教それ自体は,罪と死に対する恐怖が情緒 的な反応を聴衆の心に引き起こす効果をもっ秀抜の作である.では次に,カ ンタベリへの途上の劇的なコンテキストの中で当説教がいかなる効果を発揮 するかに注目してみよう.前口上の告白によれば,巧みな言動よりなるパ フォーマンスを通して獲得する多大な収益こそ説教家としての成功のバロ メータとなるはずであった: Bythis gaude have 1 wonne, yeer by yeer,!  An hundred mark sith 1 was pardoner."  (VI, 389‑390)呆してカンタベリ 道中における説教効果の程ゃいかに.まずはスピーチの終了後に実践される 免償証の売りつけに対する巡礼衆の反応を通してそれを確かめてみよう.

説教が終り間近になると Pardonerはそろそろ自らの弁舌の効呆の程を確 がたい衝動にかられだす.聴衆は説教に深く感じ入っている様子である。話 の内容に陶然とさせられている状態より彼らが覚めやらぬうちにPardoner は, Now,goode man, God foryeve yow your trespas, • .."  (VI,904) と語

りかけ,すかさず免償証の買い入れを聴衆に促し始める.この時,彼は語り

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10  [死Jの自己劇化

かけの対象を,いつもの聴衆からカンタベリ巡礼衆へと巧みに移し変えてし まう 8 語り口調も俄に丁寧さを帯てくる:"And, 10 sires, thus 1 preche." 

(VI,915)そして謹厳なる結びの言葉をもって説教を締め括る:

And Jhesu Crist, that is  oure sou1es 1eche,  So graunte yow his pardoun to receyve, 

F or that is  best; 1 wo1 y0W nat deceyve. (VI, 916‑918) 

これにて,説教と免償証の売りつけを含む,彼が日頃,一般聴衆にむけて行 う言葉のパフォーマンスの実演は凡べて終了する.すると次に, Pardoner  は再び百苦り口調を素早く変化させたかと思うと,巡礼の一行に聖遺物の供物

としての金品を要求しだすのである.(VI,919‑940) G. G. Sedgewickは Pardonerのこの試みを ashift from mora1 revu1sion to wild jesting"と解 説している

Y

厳粛なconcludingformu1aの直後に続く語りのトーンの激 変が一つの戯れの効果を醸すのである.そうした Pardonerの要求はやがて 意図的にHostにさし向けられることとなる:

1 rede that oure Hoost heere sha1 bigynn

For he is 'moost envoluped in synne.  Com forth, sirHoost,and offre first anon,  And thou sha1t kisse the re1ikes everychon, 

Ye, for a grote! U nboke1e anon thy purs. (VI, 941‑945) 

この頓降法を用いた件に,言ってみればPardonerはHostのしんみりとし た気分を清新する効果を託した訳である.彼にしてみれば,真面白な mor‑ al thyng"を語るという条件を守った上で初めて講じえた絶妙なトリックの つもりであった. ところがHostの反応は意外であった.気分の爽快さを覚 えるどころか彼は俄然,激しく怒りだしたのである Nay, nay! thanne  have 1 Cristes curs!" (V ,I946‑947) 

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「死」の自己劇化 11  かくて説教の成功のバロメータとなるべき免償証の売りつけは,カンタベ リ巡礼衆に対しては不成功に終る.説教に感じ入っていた Hostが, Par‑ donerのトリックの対象とされた事実を自ら認識する時,一種の情緒的混乱

と侮辱を覚えるのは想像に難くない.だが不成功の原因を, Hostの心の平 静を失わせたと思しき Pardonerが仕掛けた戯れにのみ求めるのはどうであ ろうか.どうみても Pardonerの説教が人を悔俊へと導く力を有する事実は 疑うべくもない.語りの真意が単なる戯れの一つで損なわれるとは到底,考 えられないのである.では彼の試みがHostの激しい拒絶を招いた主因とは 何なのであろうか.一つ明らかなのは,彼が説教家としての初の失敗を,他 ならぬカンタベリへの途上の劇的な状況下で体験した,という事実である.

この事実に注目した時に,それぞれリンク・エピソードと前口上に於いて認 められる Pardonerの生態と,彼の説教内容との相関関係を探る必要が生じ ることとなる.

すると実はPardonerこそが自身の説教例話の中心人物である事が理解さ れる.習慣といった点で比較すると,確かに同説教家と話中のならず者との 問にはある程度のパラレリズムが認められる.つまり説教中で論難する悪習 の幾っかにPardoner自身が染まっているのである.物語合戦の進行役の Hostが sommyrthe or japes"  (VI,319)を催促すると,彼は誓言の下に以 下の如く応答する.

It  shal be doon, by Seint Ronyon! 

But first, heere at this alestake 

1 wol bothe drynke and eten of acake. (VI, 319‑324) 

実に Pardonerは貧食に纏わる幾つかの罪を実践する旨をここに公言してい るのである 10 したがって説教例話に耳を傾ける巡礼衆は,やがて同説教 家とならず者の生態を比較し始めることとなる.説教の前半部では食食の派 生悪が詳述されるからに他ならない.さて問題は, Pardonerの生態の前もっ

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12  「死」の自己劇化

ての自己暴露か吉見教の前半部で早くも聴衆の反感を買い,更にその先に続く 例話に彼等が耳を傾ける気を全くなくさせるのかどうかである.ここで見落

とせないのは,説教を披露している聞はPardonerが例話中のならず者とは 正反対の立場に身を置いているということである.説教を聞く聴衆には前口 上で耳にしたPardonerの悪徳説教家たる実態を確認することはできない.

同説教家の語り口は厳格なモラリストのそれである.Pardonerは日頃のペ テン師ぶりを告白ずみであるO しかし,だからといってその告白は,当面の 聴衆であるカンタベリ巡礼衆の面前で、 Pardonerが貧欲家である事を彼自 らが実証したことにはならない.動機のいかんにかかわらず彼の説教は至 極,説得的である.従って,前口上で得た情報にもかかわらず聴衆は最後ま で説教に聞き入ることを余儀なくされる.そして,背徳者と思しき人物がか

くも力強く神の言葉を語れるものか否かについての判断を保留したまま,彼 等は確実にメメント・モリの教訓lを心に刻んでいくのである,

故に,少なくとも説教のスタイルを守り続ける間はPardonerは巡礼衆の 反感を免れているといえる.従って語り終えるや速やかに物語合戦の進行の 役割を Hostに再び、委ねたならば,彼は説教家としての成功を収めることが できたであろう.ところが当の本人はそうした終わり方を望まなかったので ある.多大の収益をもたらした過去のパフォーマンスの成功例を思い起こす と、カンタベリ巡礼衆に対しても,自らの雄弁がどれ程の効呆を発揮

L

たの かを,免償証の売りつけを通して確かめたく思う衝動を彼は抑え難くなって いた。それに何よりも,説教に先立つての紳士連との因縁は忘れ難いもので あった。悪徳説教家との先入観念を持った当面の聴衆すらをも自慢の弁舌の 術で自らの説教に引に入れる事ができると自負してやまぬPardonerであっ たが、彼はその離れ業の効果を確かめる時機の到来を,説教の終わり間際に 察知したのであった.そしてHostの免償証の売りつけというかたちをとっ た戯れの助けをかりて語りの効果を確かめんとした結果、彼は先にみたよう な, Hostを立腹させる事態を招いてしまうのであった.

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「死jの自己劇化 13  Hostの立腹はPardonerにとり予想外のハプニングであった.しかし説 教技術を用いたたわいない戯れも,かかる状況にあっては単なる戯れではす まぬ,真実味を帯ぴた行為と巡礼衆には映ったのである 11 何故ならばそ の戯れは,それ迄,説教に聞き入っていた彼等をその呪縛より呼び覚ます効 果を発揮したからである.正にその戯れを通して彼等が想起した一事こそ,

前口上で聞かされていた,聖遺物や免償証を用いた同説教家のトリックその ものであった.彼等はその時初めて, Pardonerが説教中で非難したavarice の罪を同説教家自身が実践する様をみてとったのである.かくてHostを含 めた巡礼の一行は単なるパラレリズムを越えた,語り手の,ならず、者への完 き変容12を目の当りにする.瞬時にして,秀でた説得の術もベテンの術へと 改変されてしまうのであった。

本質的には説教家の才知とは徳性に根ざして然るべきものであり,説得の 力とは単なる修辞技巧とは別の,より深い心の源泉より生まれるはずのもの である 13 説教家が信徒に痛悔の念を覚えさせるには,信仰生活を通して 養われた高潔な人格を自身が備えていることが肝要である.それは技芸を越 えた問題である.平生の生活がいかがわしいものでない事が認められて初め て,説教家は神の言葉を聴衆を真理への忠順に導く手段とする事ができるの である 14 カンタベリ巡礼衆の中にあっては差し詰めParsonこそがそうし た模範的な説教家の一例となろう.彼は自らの羊に尊い手本を示し,まずは 行ない( firsthe wrote" [1, 496])それから教える( andafterward he  taughte" [1, 496]) 15  といった態度を忘れない.常に言葉と行ないを通して 信徒を教化する責務を自覚した人物である.

当然の事ながらPardonerも一説教家として神の言葉の相応しき用い方を 心得ているべきであった. しかし実のところ,被は営利追求の目的で聖なる 御言葉を御用するのが常であった.従ってカンタベリ巡礼衆に向けて語る説 教の言葉の背後にも,機をみて彼等より金品を嬬し取らんとする邪な思いが 潜んでいた.図らずもその思いが表面化した時こそPardonerがHostに戯

(15)

14  「死Jの自己劇化

れを交じえた免償証の売りつけを実践した時であった.その瞬間に彼は自ら 語った言葉とは裏腹の行為を巡礼衆の面前で示してしまう.この, Pardon‑

erによる,説教家に本来期待される職務の意識的な倒錯は,正しく既に拙 論で考察した,有価値の材料, substance"を無価値の存在物, accident"

へと変質させてしまうパターンを示す一例である 16 即ち,自らが貧食の 罪を詳説する際に例に挙げる料理人が,堅い骨より骨髄を削り落として屑を 得るのと同様,同説教家自身も聖書に基づく価値ある神の御言葉を,民衆を 真理へと導く力を有さぬ無価値の戯言へと変質させてしまうのである 17

Pardonerの御言葉の誤用にみられる,神の意志の倒錯した理解の表われこ そは,彼が陥っている spiritualdeath'のー症状なのである.

中世も十四,五世紀にはいると,巡礼行為も次第にその本来の理念から離 れ,信心の旅に名をかりた余興の旅としての様相を色濃く呈するようになる.

しかし元来は,巡礼とは現世の罪を償うべくしてなされる償罪行為で,苦行 の一つのはずであった 18 図らずも Pardonerが得意の説教を通じて巡礼衆 の心に罪と死の恐怖を焼き付けたのも,カンタベリ聖堂への巡礼の途上で あった.所詮,物見遊山の旅とはいえ,巡礼という状況にかこつけて彼の名 説教は聴衆に死に対する畏怖の念を抱かしめ,日頃の生活が死後の魂の救済 を約するに足る,義に満ちた内容か否かを彼等が自身に問う機会を与えたこ とは疑うべくもない.ところが問題はPardoner自身であった.説教中で説 いた spiritualdeath'の概念を,彼自身が十分に把握していなかった様子な のである. もしそれを把握しておれば,自らが試みる戯れをとりまく状況が いかなる意味合を持つものかを即座に判断した筈である.何故ならば,その 戯れこそが,宣教活動における彼の言動の不一致を表示する行為であり,神 の意志の倒錯した理解の表われに他ならないからである.つまり,そのト

リックこそが愛徳の精神 (caritas)と対立する地上愛(cupiditas)を具現

(16)

「死jの自己劇化 15  する行為であったのである.従って,人が神を忘れた結呆,現世で覚えるは てなき利己的欲望こそ諸罪悪の根源である事をかくも力強く説いたPardon‑ erであれぽこそ,神より与えられた言葉と修辞の術を自己満足の為に誤用 する事は断じて避けるべきだったのである.

ところが結呆的にはPadonrは最後まで悔俊の意は示そうとしなかった.

肝心の岐路にあって彼の関心は専ら当面の聴衆をベテンにかけんとする一事 に注がれていたのである.説教効果を過信する余り,前口上で明かした自ら の語りの動機を彼等が想いおこすなどといった事態の発生を,彼はよもや予 想していなかった.かくて彼の修辞的技巧にょせるプライドは,複雑な構成 をもっ物語合戦の中に誤った位置付けを与えられることになる 19 彼は最 も危急の時機に自己の説教の効果を確かめる段をむかえるのである.という のも Pardonerが免償証の売りつけを開始しだすや,一つのアイロニが,同 説教家には感知されぬかたちであらわれるからである.それは聴衆より金品 を踊し取れるという彼の予想、と,それとは正反対の現実との聞に生じるコン トラストより生起するアイロニである.そしてPardonerが,自身の置かれ た窮地には全く気付かずに,自らが予期する事態の発生について自信に満ち た推測をたてている事実が,当アイロニの効果を一段と高めることとなる.

かくて,迂潤にも Pardonerが,自らの弁舌の力を確かめんとして案じた言 葉のトリックを実践するや否や,そこに巡礼衆は,先に情報として耳に入れ ていた同説教家の偽善と食欲を思い出し,実際に確認してしまう.更に重要 な点は,その時点で,彼等がPardonerの犯したavanceの罪をある種の情 緒的な恐怖をもって感知する,ということである.即ちPardonerの説教中 のメメント・モリの教訓が彼等をしてavanceの罪を,現世で準備される死 との関連において捉える事を可能ならしめるのであった.つまりはPardon‑

erによる免償証の売りつけは,同説教家による spiritualdeath'のself‑ dramatizationを示す行為と化したのである̲Hostにしてみれば戯れなど楽

しむどころではなかった.説教終了直後,まだしもメメント・モリの警笛の

(17)

16  「死jの自己劇化

余韻をしかと耳にのこしていた彼にとり, Pardonerの寄進の要求は,正に 人のかたちをとった「死」の接近以外の何ものでもなかった.そして教訓を 銘記していたHostであればこそ,その際に示しうる然るべき反応こそ,忍 ぴよる「死」の民にはまることへの激しい拒絶であったのである.この Hostの怒りの反応を前にして脆くも自らの予想が覆されてしまった事態を 認識する Pardonerは,言葉もなく,ただ唖然とするばかりである.かくて チョーサーの仕組んだζhunters',hunted'のアイロニは完成される.自らの 説教例話中のならず者が フロリン金貨'に目が肱んで自業自得の死をとげ たのと同様, Pardonerは自らの偽りの免償証の前に自身を死と化したので ある.実にPardonerこそ 自ら説いたメメント・モリの教訓の犠牲者なの である.

Pardonerの自慢の言葉によるパフォーマンスは,聴衆をベテンにかける どころか,手痛いしっぺ返しを招いてしまう.これこそチョーサーがPar‑ donerの偽善を批判せんとして物語合戦中に設定した劇中劇のポエティッ ク・ジャステイスである.詩人は予めPardonerの背徳性についての情報を 本人自身の前口上を通して聴衆に提供した上で,問題の背徳性が同説教家に とり最も危急の時機に露呈される瞬間を,説教終了後の劇的状況下にっくり だすのである.確かにPardonerの説教それ自体は説得的であった.ところ が,当の本人はその説得的な説教が聴衆をベテンにかけ,喜捨を促す効果を もつことを過信していたものの,同説教が説得的であるが故にもたらす禍を 予期することはできなかった.つまり自らが講じるトリックこそ「生きなが らの死」を具現する言動であるとの事実を,説得的なメメント・モリの教訓 が聴衆に知らしむるという事態の発生を,彼は予期できなかったのである.

詩人の意図したアイロニとは正に,説教終了後の状況下に講じられるトリッ クのもつ意味合いについての, Pardonerと, Hostを含めた聴衆の認識の差

(18)

「死jの自己劇化 17  よ り 生 み 出 さ れ た の で あ っ た . そ れ に し て も Pardonerが 招 い たHostの 怒 りは痛烈であった.怒りのあまり彼は物語合戦の進行の役割までもそっちの けにしてしまうからであった.かくてカンタベリ詣での道中,それまで愉快 に笑いさざめいていた余興の世界もにわかに険悪な様相を帯びはじめる.そ こでチョーサーは独りの仲裁者をその場に登場させ,事態の収拾をはからん とする.仲裁者こそ徳、の誉れ高き Knightである.すでに自らの話しを終え,

そ の 中 でThesusと い う 人 物 を 通 し て 自 然 の 法 に よ る 合 議 的 な 地 上 の 秩 序 を主張したKnightで あ る . こ のKnightのとりなしにより HostとPardon‑

erの 不 和 は 解 消 さ れ , 物 語 合 戦 の 秩 序 が 回 復 さ れ る . こ う し て 再 び , か り そめの和がたもたれ,健全なビューモアのもとに巡礼の旅は続けられるので ある.

下 回 尾 誠 fRADIXMALORUM EST CUPIDITAS‑ChaucerPardoner's Taleにおける罪の諸相とそのアイロニ

r主流~ 47号(昭和61年)所収.

2 カンタベリ物語

J

からの引用はすべて F.N. Robinson (ed.), The Works of  Geoff Chaucer,2nd ed.  (London: Oxford University Press, cl957)によった.

3 チョーサーを含め,中世紀の教養人は人物の身体的特徴の観察を通して,当人 の気質,性格をある程度の正確さをもって推測することができたとされている.

W. C. Curryはそうした前提に立って当時の人相学 (physiognomy)の知識に基づ き, Pardonerの身体的特徴 ぎらぎらした日,細い声,髭の生えない顔ーーを 分析した結果,同説教家が邪悪で、好色,かつ性的能力のない人物である,との判断 を下している.W. C.  Curry, Chaucer and .tMedievalScience (N ew Y ork: Barnes 

& Noble, Inc., 1960), pp. 50‑60. 

4 聖書からの引用は TheHoly Bible. An Exact Reprint in Roman Type, page for  page, of the Authorized Version Published in  the year 161l.  Oxford University  Press (Tokyo: Kenkyusha, 1985)によった.

5 斎藤勇『中世のイギ、リス文学一一聖書との接点を求めてj (東京 南雲堂,1978),p. 242. 

6 Ibid.,  p.  242 

7 Germain DempsterはPrologeにおけるPardonerとLeRoman de la Roseに登場 する Faux‑Semblantの相方が,共にhypocricyとself‑interestの罪を犯す事実を

(19)

18  「死jの自己劇化

自白している点を指摘している.W. F. Bryan 

G. Dmpster,Sources and Ana.  logues  of Chauce Canterbury Tales (New York: Humanities Press, cl985), pp  409‑414. 

8 Susan Gallick,A Look at  Chaucer and His Preachers", Speculum, (1975), p  468. 

9 G.  G.  Sedgewick,The Progress of Chaucer's Pardoner, 1880‑1940", Modn Langz!geQuarterly, 1 (1940)  rp ,.tEdward Wagenknecht (ed.), Chaucer, Modern  Essays in Criticism (New York: Oxford UniversityPress, 1978), p.  154. 

10  cf拙論, pp. 2‑7  11  Susan Gallick, p.  470 

12  Martin Stevens and Kathleen Falvey,Substance, Accident, And Transforma.  tion: A Reading 'of  the PardonerTale",The Chaucer Review, No. 2, p.  148 

13  Charles  Sears  Baldwin, Medieval  Rhetoric  and Poetic  (to  1400)  (Gloucester,  Mass: Peter Smith, 1959), p.  67 

14  Ibid, p. 71 

15  この箇所は,聖書のMtt.v.  19についての言及と考えられる.

Whosoever therforshallbreak one of these least commandments, and shall teach  men so, he shall  be clledthe  least in  the  kingdom of  heaven: but whosoever  shall dondteach them, the same shall be called the kingdom of heaven. [Italics  mine] 

16 拙論, p.14. 

17  Martin Stevens and Kathleen F alvey, p.  154 

18  Encyclopaedia of Religion and Ethics, eds.  by J ames Hasting et  'al  (N ew Y ork:  Char1es Scribner's Sons, 1908‑1927) 

19  Janet Adelman,That We May Leere Som Wit" rpt., D.  W. Faulkner (ed.),  Twentieth Century Interpretation of The Pardoπer's Tale (Englewood Gliffs 

Prentice Hall), p:  103 

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