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神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と 金堂薬師如来立像

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(1)

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と 金堂薬師如来立像

著者 井上 一稔

雑誌名 文化學年報

号 67

ページ 1‑24

発行年 2018‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027591

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神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と 金堂薬師如来立像

著者 井上,一稔

雑誌名 文化學年報

号 67

ページ 1‑24

発行年 2018‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027591

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神 護 寺 ﹃ 弘 仁 資 財

帳 ﹄

・ 盛 淳 勘 出

﹃ 承 平 実 録 帳

﹄ と 金 堂 薬 師 如 来 立 像

井 上 一 稔

は じ め に 神護

寺薬 師如 来立 像の 研究 にと って

︑避 けら れな い検 討課 題と して

﹃弘 仁資 財帳

﹄と

﹃承 平実 録帳

﹄に 関す る問 題 が ある

︒後 述す るよ うに

︑﹃ 弘 仁資 財帳

﹄は

﹃神 護寺 略 記﹄ の 引用 し か 残ら な い が︑ こ の記 録 が 神願 寺 の もの か 高 雄 山 寺の もの かで

︑薬 師如 来立 像の 歴史 的 文脈 が 異 なっ て く る︒

﹃承 平 実 録 帳﹄ も﹃ 神護 寺 略 記﹄ など に 部 分的 に 引 用 さ れる 箇所 と︑ 応永 七年

︵一 四〇

〇︶ に盛 淳が 勘出 した 比較 的ま とま りの ある

﹁神 護寺 実録 帳事

︿已 下盛 淳私 勘出 取 意 也﹀

とし て知 るこ とが でき るが

︑盛 淳勘 出の もの には 金堂 薬師 如来 立像 をは じ め 灌 頂堂 の 両 界曼 荼 羅 や経 蔵 の 一 切 経な どが 記載 され てい ない ので ある

︒ 先学 にお かれ ては 後者 の問 題に 配慮 しつ つも

︑深 く追 求し た論 考は あら われ てい なか った ので

︑未 熟な 拙稿 を発 表 し た こ とも あ っ た

︒ し か し 近 年︑ 歴 史 学 に お け る 牛 山 佳 幸 氏

や 川 尻 秋 生 氏

の 資 財 帳 お よ び 実 録 帳 の 研 究 か ら

﹃承 平 実録 帳

﹄の 理 解が 深 ま り︑ そ れを 受 け た皿 井 舞 氏

の 薬 師如 来 立 像 の研 究 が 登場 し た︒ こ こで は

︑こ れ ら の 研

― 1 ―

(4)

究 に学 びつ つ︑ 改め て上 記の 問題 に検 討を 加え てみ たい

︒ 尚混 乱を 避け るた めに

︑承 平元 年に 作成 され た﹃ 承平 実録 帳﹄ を単 に﹃ 承平 実録 帳﹄ とし

︑応 永七 年に 盛淳 が勘 出 し た﹁ 神護 寺実 録帳 事︿ 已下 盛淳 私勘 出取 意也

﹀﹂ を

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄と して 以下 に述 べて いき たい

︒ 一︑

﹃ 弘 仁資 財 帳

﹄の 帰 属

﹃ 神護 寺略 記﹄

︵以 下﹃ 略記

﹄︑ 第 二章 参照

︶の 金堂 条に

︑現 在 金 堂に 安 置 され る 薬 師 三尊 像 に 当た る 記 事が 次 の よ う にみ え︑

﹃ 弘仁 資財 帳﹄ と﹃ 承平 実録 帳﹄ が引 用さ れて いる

︒ 奉

安置 檀像 薬師 仏像 一躯

︿長 五尺 五寸

﹀ 同脇 士菩 薩像 二躯

︿各 四尺 七寸

﹀ 已上 三尊 奉安 置錦 帳内

︑此 錦者 爲 後白 河院 御願 被懸 之︑ 右 弘仁 資財 帳云

︑薬 師仏 像一 躯︑ 脇士 菩薩 像二 躯︑ 承 平実 録帳 云︑ 檀像 薬師 仏像 一躯

︿長 五尺 五寸

﹀ 同 脇士 菩薩 像二 躯︿ 各長 四尺 五寸 云々

︿

﹀内 は割 書︑ 以下 同様

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 2 ―

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そも そも 神護 寺は

︑奈 良時 代の 道鏡 事件 に際 して

︑八 幡神 の信 託を 受け た和 気清 麻呂 が︑ 延暦 年中 に神 願寺 を建 立 す るこ とに 始ま る︒ 神願 寺は 定額 寺と なる が︑ その 後︑ 天長 元年

︵八 二四

︶に 神願 寺の 立地 条件 の悪 さか ら定 額寺 と い う 寺 格と 共 に 高雄 山 寺 に 移さ れ

︑新 た に寺 名 を 神護 国 祚 真 言寺

︵現 神 護 寺︶ とす る

︒こ の 歴史 の 中 で︑

﹃ 弘 仁 資 財 帳﹄ が神 願寺 のも のか 高雄 山寺 のも のか とい う問 題が 浮上 して きた ので ある

︒ 最 初に

﹃弘 仁 資 財帳

﹄は

︑官 寺 で ある 国 分 寺 や定 額 寺 が国 家 の 管 理を 受 け るた め に 提出 す る の が 資 財 帳 で あ る か ら

︑定 額 寺 であ る 神 願寺 の も の であ る と いう 説 が 唱え ら れ た

︒ と ころ が

︑定 額 寺に つ い ては 延 暦 十 七年

︵七 九 八

︶ の 太政 官符 によ って

︑こ の年 から 天長 二年

︵八 二五

︶ま で提 出が 停止 され ると いう 命令 が発 せら れて おり

︑弘 仁年 間 は この 提出 停止 期間 にあ るの で︑ 神願 寺が 資財 帳を 作成 する はず はな く高 雄山 寺の もの であ ると の説 が出 され た

︒ 結論 から いう と︑ この 問題 は皿 井氏 等の 研究 によ って

︑神 願寺 のも ので ある こと がほ ぼ確 定し たと 判断 でき る︒ た だ さら に考 慮し なけ れば なら ない 点も あり

︑以 下に 述べ てい きた い︒ 秀平 文忠 氏は

︑延 暦十 七年 から 天長 二年 まで の資 財帳 提出 停止 期間 に神 願寺 の資 財帳 が作 成さ れな かっ たと いう 意 見 に対 して

︑左 の延 暦 十 七 年の 太 政 官符 の 解 釈か ら 弘 仁 年間 に 神 願寺 で 資 財帳 を 作 る こと が あ った と 反 論 され た

︒ そ れを 皿井 氏も 追認 され てい る︒ 太

政官 符 応停 定額 寺資 財帳 進官 事 右

︑被 大納 言従 三位 神王 宣䆑

︑奉

︑准 例五 畿七 道諸 国定 額諸 寺資 財等 帳︑ 附朝 集使 毎年 進官

︑自 今以 後︑ 宜 停 進之

︑但 遷替 国司 相続 検校

︑其 国分 二寺 一依 先例

― 3 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

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延暦 十七 年正 月廿 日

この 官符 の解 釈と して 早く に松 田和 晃氏 は︑ 資財 帳を 毎年 朝集 使に 付し て官 に提 出す るこ とを 停止 する 内容 で︑ 作 成 を禁 止し たも ので はな いと 指摘 され てい る

︒ 秀平 氏も 同様 の解 釈を され た 訳 で ある が

︑拙 稿 でも 賛 同 すべ き 見 解 だ と考 える

︒た だこ の解 釈に は︑ 資財 帳と 実録 帳を 混然 とし たと ころ があ り︑ まだ 川尻 氏の 指摘 され た資 財帳 は交 替 公 文︵ 実録 帳︶ と勘 会す るた めに 必要 とさ れた とい う視 点

は ない ので

︑こ の点 を加 えて 肯定 する 必要 があ る︒ また 上記 の官 符で は︑ 国分 二寺 に関 して は従 来通 り資 財帳 が進 官さ れて いる ので ある から

︑少 なく とも 定額 寺に お い ても 国司 交替 時に は進 官さ れた とみ られ よう

︒こ の点 は︑ 改め て資 財帳 提出 を命 じた

﹃貞 観交 替式

﹄の 天長 二年 五 月 二十 七日 太政 官符

から もう かが うこ とが 可能 と思 われ る︒ この 官符 に は 先 の延 暦 十 七年 官 符 の﹁ 但遷 替 国 司︑ 相 続 検校 者﹂ まで を引 き︑ 続い て﹁ 自爾 以来

︑不 進件 帳﹂ とい う事 態が おこ り︑ 勘解 由使 が把 握す る実 態と して

︑諸 国 が 不与 解由 状を 申上 して も︑ そこ に載 せる 定額 寺の 資財 堂舎 の無 実破 損等 の真 偽を 検討 する 基︵ 資財 帳︶ がな い状 態 で ある ので

︑六 年に 一度 資財 帳を 進上 する よう に命 じて いる ので ある

︒こ れは 勘解 由使 が︑ 貞観 十七 年か ら天 長二 年 ま で の 状態 を 指 摘し た も の であ る が︑ こ こに は 本 来な ら 国 司 交替 の 際 には 資 財 帳を 提 出 す る必 要 が あっ た の で あ る が

︑そ れが 出来 てい ない とい う実 態を 記し てい ると みる こと がで きよ う︒ 故に 本来 の規 定に 従っ て︑ 資財 帳を 作成 し て いる 定額 寺が あっ ても 不思 議で はな いと 判断 でき よう

︒ 以上 のよ うに 定額 寺で ある 神願 寺に おい て弘 仁年 間に 資財 帳が 作成 され ても 不思 議で はな いこ とが 証明 され たと い え るの であ るが

︑ま だ問 題が 解決 した わけ では ない

︒そ れは

︑長 岡龍 作氏

・皿 井氏 によ って 官寺 以外 の寺 が資 財帳 を 作 成す る場 合が ある こと が指 摘さ れて いる から であ る︒ つま り高 雄山 寺に おい ても 弘仁 年間 に資 財帳 が作 成さ れる 可

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 4 ―

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能 性が 存在 する こと にな る︒ 長岡 氏は 松井 氏

の 指摘 され た﹃ 広隆 寺縁 起

﹄に

︑延 暦 年 中に 別 当 泰鳳 が 流 記資 財 帳 を 取 って 逃亡 した こと が記 され るこ とや

︑﹃ 安 祥寺 伽藍 縁起 資財 帳﹄

︵貞 観九 年︶ が官 印を 得て いな いこ と︑ そし て﹃ 多 度 神宮 寺資 財帳

﹄の 存在 など から

︑皿 井氏 は川 尻氏

が指 摘さ れた

﹃観 心寺 資 財 帳﹄ が 四年 一 進 の定 額 寺 資財 帳 で も 僧 綱に 加署 を得 た資 財帳 でも なく

︑座 主交 替の 際に 作ら れた とい う制 作目 的な どか ら︑ 官寺 以外 で資 財帳 が制 作さ れ て いた こと を指 摘さ れた

︒ よっ て﹃ 弘仁 資財 帳﹄ の帰 属は 別の 面か ら の考 察 が 必要 と な って く る

︒そ こ で皿 井 氏 は︑ 牛山 氏 の﹃ 承 平 実録 帳

﹄ の 研究 から 解決 を導 かれ た︒ 牛山 氏は

︑﹃ 承 平実 録帳

﹄は 別 当 観宿 の 入 滅に よ り

︑新 別 当に 仁 樹 が補 さ れ るに と も な っ て作 成さ れた 公文

︵巻 首に

﹁勘 解由 使謹 奏 勘神 護寺 交替 実録 帳事

﹂と ある

︶で あり

︑延 喜勘 解由 使式 の書 式と 巻 首 と巻 末を 照合 する と奏 文で ある と判 断さ れ︑ 冒頭 部分 に卒 去し た前 司別 当の 僧位

・僧 名に 続い て︑ 上座

・寺 主・ 都 維 那お よび 新司 別当 の僧 位・ 僧名 が列 記さ れて おり

︑こ のよ うに 任用

︵三 綱︶ と長 官︵ 新司 別当

︶が 対置 され てい る 点 は︑ 令任 用分 付帳 に当 たる ので はな いか とさ れた

︒ 尚牛 山氏 は交 替実 録帳 は︑ 有実 無実 や破 損状 態等 の記 述が なさ れる 特質 があ るこ とを 指摘 され

︑﹃ 盛 淳勘 出実 録帳

﹄ に それ がみ られ ない のは 盛淳 の私 に勘 出の 故 であ る と して い る︒ こ の点 に つ い て加 え る と︑

﹃略 記

﹄五 大 堂の 五 大 尊 に つ い ての

﹃承 平 実 録帳

﹄の 引 用 が 注意 さ れ る︒

﹁五 大 忿 怒彩 色 木 像 五躯

︑在 各 木 光 銅 火 炎 石 形 座︑

︿ 各 着 鉄 耳 金 四 枚

﹀不 動尊 居長 三尺 四寸

︑降 三世 立長 五尺 三 寸︑ 但大 后 在 損四 析 頭 也︑ 軍荼 利 立 長 五尺 三 寸︑ 六 足尊 居 長 三 尺五 寸

︑ 金 剛夜 叉立 長五 尺三 寸︑ 天長 皇帝 御願 云々

﹂と いう 記述 で︑ 古代 の資 財帳 にみ える 形状

・法 量・ 技法 を交 えた 記述 に 交 じっ て︑

﹁ 但大 后在 損四 析頭 也﹂ とい う破 損の 記述 が注 目 さ れる

︒こ れ は 降三 世 明 王 が踏 み 従 える 大 自 在天 と 烏 摩 妃 の う ち︑ 烏摩 妃 の 頭が 四 つ に 折れ て い る破 損 状 態を 記 述 す るも の で ある

︒も う 一 点注 意 し た い の は︑ 同 じ く﹃ 略

― 5 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

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﹄宝 塔院 で﹁ 承平 実録 帳云

﹂と す る記 事 の 中で

﹁䈝 盧 遮 那宝 塔

﹂と

﹁五 大 虚 空蔵 菩 薩 彩色 木 像﹂ に 続 いて

︑﹁ 右 宝 塔 破損

︑以 去延 長五 年十 月十 三日 勅使 左少 史内 蔵朝 臣維 範等 勘録 損色 已畢

︑然 則更 不勘 同破 損失 物之 由﹂ と記 して い る 箇所 であ る︒ 延長 五年 に宝 塔院 破損 のた めに 勅 使が 派 遣 され て そ の報 告 書 が あっ た と みえ て

︑﹃ 承 平実 録 帳

﹄作 成 時 には 破損 失物 を勘 しな いと して いる ので ある

︒こ れは 交替 検校 にお いて 信頼 すべ き既 存の 史料 があ る場 合に

︑そ れ を 利用 する こと があ った こと を示 して いる

︒ さて

︑皿 井氏 は﹃ 承平 実録 帳﹄ がこ のよ うに 勘解 由 使に よ っ て厳 密 に 検校 を 経 た 公文 で あ る故 に

︑﹃ 盛 淳勘 出 実 録 帳

﹄内 の﹁ 一︑ 縁起 資財 図券 勅書 宣命 目録

﹂と して 列記 され るこ とに も信 憑性 があ ると 判断 され

︑勅 書と 宣命 は盛 淳 に より 省略 する との 書き 入れ があ るの でみ られ ない が︑ 縁起

・資 財・ 図券 につ いて は﹁ 神願 寺縁 起帳 二巻

・神 願寺 資 財 帳二 巻・ 神護 寺図 二枚

﹂と 同じ 順で 記さ れて いる こと を指 摘さ れた

︒ゆ えに 承平 時点 にお いて 資財 帳と 認め られ て い るも のは 神願 寺資 財帳 しか ない こと が判 明し

︑﹃ 弘 仁資 財 帳﹄ は 神願 寺 資 財帳 で し か あり え な いと 結 論 され た の で あ る︒ 首肯 すべ きお 考え であ ると 思わ れる が︑ 実は まだ 完結 しな い面 があ る︒ それ は長 岡氏 が薬 師如 来立 像は 高雄 山寺 の 像 であ った とす る立 場か ら︑

﹃ 弘仁 資財 帳﹄ は高 雄山 寺の もの であ る場 合に は官 寺で ない 寺の 資財 帳で ある から

︑﹃ 承 平 実録 帳﹄ では 省か れた ので はな いか とさ れて いる から であ る︒ つま り神 願寺 資財 帳と 弘仁 資財 帳︵ 長岡 説の 高雄 山 寺 資財 帳︶ はそ れぞ れ存 在し た可 能性 を説 かれ たこ とに なる

︒ そこ で注 目で きる のは

︑近 年川 尻氏 が発 表さ れた 神護 寺五 大堂 一切 経目 録に 関す る研 究の 中で の当 該問 題に つい て の 指 摘 であ る

︒川 尻 氏は 論 文 の 注記 で は あり な が ら︑ 皿井 氏 の 見 解に 加 え て︑

﹃承 平 実 録帳

﹄に は 薬 師 如来 像 の 安 置 され た﹁ 三間 桧皮 葺根 本堂

﹂と 両界 曼荼 羅の 安置 され た﹁ 六間 檜皮 葺根 本真 言堂

﹂と いう 二つ の根 本堂 がみ え︑ 後

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 6 ―

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者 は神 護寺 が真 言系 寺院 にな った 際に 建て られ たこ とは 明白 であ り︑ 前者 の﹁ 根本

﹂と は和 気清 麻呂 の発 願に かか わ る とみ るべ きで ある から

︑こ の堂 に安 置さ れた 薬師 如 来像 は 神 願寺 由 来 のも の と 考 える こ と がで き る と され た

︒﹁ 根 本

﹂に 関し て︑ 氏は 本文 中で 五大 堂 の一 切 経 は︑

﹃続 日 本 後紀

﹄天 長 十 年︵ 八 三三

︶十 月 二 十八 日 条 から

︑神 願 寺 建 立 目的 に含 まれ る和 気清 麻呂 が八 幡神 の神 託を 受 けた こ と に発 す る 写経 と さ れ︑

﹃ 略記

﹄で も 経 蔵に 記 さ れる 三 本 の 一 切経 の内 で﹁ 一本 者不 具古 経︑ 当寺 根本 御経 也﹂ に当 たる と指 摘さ れて いる

︒ こ のよ う に﹃ 略 記﹄ にみ え る﹁ 根 本﹂ は八 幡 神 が 神託 に よ り和 気 清 麻 呂と 交 わ し た 誓 約 を 意 味 す る︒ よ っ て﹃ 略 記

﹄が

﹃承 平実 録帳

﹄の 根本 堂で ある とす る金 堂条 に引 用さ れる

﹃弘 仁資 財帳

﹄は

︑根 本堂 に関 する 資財 帳︑ すな わ ち 神願 寺の 資財 帳で しか あり えな いこ とに 導か れる

︒言 い換 えれ ば︑ 仮に 高雄 山寺 の資 財帳 が存 在し

︑か つそ の資 財 帳 が﹃ 承平 実録 帳﹄ では 省略 され てい たと して も︑ それ は﹃ 略記

﹄に みえ る弘 仁資 財帳 では ない と考 えら れる ので あ る

二︑

﹃ 神 護寺 最 略 記﹄ の 特 徴

﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ に金 堂薬 師如 来像 の記 載 が ない 問 題 に進 も う

︒先 述 のよ う に︑ 皿 井氏 は

﹃承 平 実録 帳

﹄の 記 載 に 信頼 をお いて 立論 され たの であ るが

︑こ の問 題に 関し ては 誤写 と脱 字が あ る と して 片 付 けら れ た

︒ ま たこ の 問 題 に 言及 した 丸山 士郎 氏は

︑﹃ 盛 淳勘 出実 録帳

﹄の 元で あ る﹃ 承 平実 録 帳﹄ に 薬師 如 来 像 の記 載 が なか っ た とい う 説 を 提 出し てい る

﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ の問 題は 本尊 だけ でな く神 護寺 の様 々 な 寺宝 に も 波及 す る が︑ 先 述の よ う に交 替 実 録帳 と し て

― 7 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

(10)

の 性格 が見 出さ れた こと を踏 まえ て︑ 改め て考 え直 す必 要が 生じ てい る

︒ そこ で こ の 問題 を 解 決す る 視 点と し て 取 り 上げ たい のは

︑以 前の 拙稿 で不 十分 なが ら提 出し た﹃ 最略 記

﹄と

﹃盛 淳 勘 出実 録 帳﹄ の 関係 で あ る

︒ 現在 こ の 二 記 録 は 一続 き の 文書 と し て 伝わ っ て おり

︑神 護 寺 に現 存 す る もの は

︑本 帖 の紙 裏 末 尾の 墨 書 よ り 文 政 七 年︵ 一 八 二 四

︶正 月に 神護 寺翫 玉院 権少 僧都 禅盛 の筆 写し たも ので ある

︒尚

︑丸 山氏 の論 文に は︑ 当記 録の みな らず 神護 寺の 記 録 類の 全文 写真 を掲 載さ れて おり 極 めて 有 益 であ る

︒た だ 丸山 氏 は

︑﹃ 最 略記

﹄と

﹃盛 淳 勘 出実 録 帳﹄ は 現在 一 続 き と して 伝わ るが

︑本 来は 別記 録で ある から

︑二 記録 を関 係づ けて 考え るこ とを 批判 され た︒ しか し﹃ 最略 記﹄ は︑ 奥書 に﹁ 応永 元年

︿甲 戌﹀ 十月 三日

︑以 迎接 院大 僧都

︿宰 相 弁暁

﹀自 筆本 書写 之畢

法 印 権 大僧 都盛 淳︿ 歳花

六 十八 年﹀

﹂ とあ り︑ 応永 元 年︵ 一 三九 四

︶に 盛 淳が 弁 暁 の 自筆 本 を 書写 し た もの で あ る︒ つ ま り︑ 盛淳 は応 永七 年の

﹃承 平実 録帳

﹄の 勘 出に 先 立 ち︑

﹃最 略 記﹄ を 書写 し て い るの で あ るか ら

︑早 急 に二 記 録 が 無 関係 とは 言え ない

︒そ して 盛淳 は﹃ 最 略記

﹄の 書 写 にあ た っ て︑ 五大 堂 の 五 大尊 に

﹁五 尺 三寸

︑盛 淳 勘 実 録帳 云

︑ 是 降軍 金ノ 立長 也﹂

︑ 灌頂 院に

﹁盛 淳私 云

︑実 録 帳云

︑根 本 真 言堂 當 此 院 歟︑ 余堂 皆 有 其名

︑無 灌 頂 院名

︑又 有 根 本 称

︑可 尋之

﹂と 注記 して いる

︒こ のよ うに 盛淳 は﹃ 最略 記﹄ 書写 時に

﹃承 平実 録帳

﹄に も関 心を 持っ てい たこ とは 間 違 いな いが

︑も う少 し﹃ 最略 記﹄ の史 料と して の性 格の 理解 を深 めて おき たい

﹃ 最略 記﹄ の記 述内 容と 構成 は整 然と して おり

︑堂 舎ご と に 項目 が 立 てら れ

︑堂 名 の 下に 割 書 で当 初 の 建立 年 代 や そ の事 情と いっ た歴 史が 記さ れ︑ 後は 順不 同と なる が安 置仏 や寺 宝と その 由来

︑そ して 堂の 再興 の年 代や 事情

︑堂 の 修 造の 年代 や事 情が 記さ れて いる

︒こ のよ うな 構成 で注 目で きる のは

︑堂 舎の 建立 年代 を含 む由 来と その 再建 年や 修 造 年と いう 情報 を全 ての 堂舎 にわ たっ て記 入し よ うと し て いる 点 で あり

︑﹃ 略 記

﹄の 記 事内 容 を 補う 点 も 見受 け ら れ る こと であ る︒

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 8 ―

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ここ で︑ 本記 録を 遡る

﹃嘉 禄二 年 神 護寺 供 養 願文

﹄︵ 以 下﹃ 嘉 禄 二年 願 文﹄

︶ 及び

﹃略 記

﹄と の 関係 を み て おこ う

︒ 平 安初 期以 来の 歴史 を誇 る神 護寺 であ るが

︑平 安末 期に は荒 廃し てお り︑ 文覚

︵一 一三 九〜 一二

〇三

︶が その 復興 に 当 たっ たこ とは よく 知ら れて いる

︒そ の復 興は

︑嘉 禄二 年︵ 一二 二六

︶に 一応 の完 成を 迎え たよ うで

︑こ の時 勅願 に よ って 惣供 養が 行わ れた 際 の願 文 が﹃ 嘉 禄二 年 願 文﹄ であ る

︒こ の 供 養願 文 は︑

﹁ 敬白

﹂に 続 い て金 堂

・五 大 堂・ 根 本 真言 堂・ 護摩 堂・ 法華 三昧 堂・ 多宝 塔・ 経蔵

・鐘 楼・ 納凉 坊・ 中門

・平 岡八 幡宮 が︑ そこ に祀 られ る尊 像と 共に 簡 単 な由 緒を 添え て列 記さ れて いる

︒ゆ えに ここ に記 され る事 項は

︑嘉 禄二 年に 実在 した 神護 寺の 建物 や寺 宝で ある と 判 断で きる

︒ この 供養 願文 でも う一 点注 意し てお きた いの は︑ 復興 され た堂 舎の 規模 であ る︒ 全て の堂 舎に 規模 が記 され てい る 訳 では ない が︑ 金堂 三間 四面

︑五 大堂 三間 四 面︑ 根本 真 言 堂六 間 二 面︑ 納凉 坊 五 間 一面

︑平 岡 神 宮三 間 一 面 など は

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄の 規模 と同 じで ある こと が知 れる

︒こ のよ うに 鎌倉 の神 護寺 復興 では

︑﹃ 承平 実録 帳﹄ の規 模に 基 づ いた 再興 がな され てい たと 推測 でき よう

﹃ 略記

﹄は

﹃嘉 禄二 年願 文﹄ に続 く神 護寺 の重 要 な 記録 で あ るが

︑本 文 中 に 正和 四 年︵ 一 三一 五

︶が 最 も新 し い 年 号 とし て認 めら れ︑ およ そ︑ その 頃の 成立 と推 定さ れて いる

︒よ っ て

﹃略 記﹄ は︑ 嘉 禄二 年 か らほ ぼ 一 世紀 後 に 作 成 され たこ とに なる が︑

﹃ 嘉禄 二年 願文

﹄に 記さ れる 堂舎 と比 較し てみ ると

︑鐘 楼を 除い て全 ての 堂舎 が確 認で きる

︒ た だ し 鐘楼 の 項 目 立 て は な い が︑ 鐘 銘 が 収 録 さ れ て い る の で 存 在 し た と み な し て よ か ろ う︒ そ し て﹃ 略 記

﹄で は

﹃嘉 禄二 年願 文﹄ にな い堂 舎 と して

︑講 堂

︵五 仏 堂︶ が加 わ る ほ か︑ 阿弥 陀 堂・ 巌 窟堂

・食 堂

・仙 洞 院・ 閼伽 井 そ れ に 別院 の高 山寺

・善 妙寺

︑翫 玉院 がみ られ る︒ 講堂 は︑ 文覚 が再 興し 運慶 が造 像し た三 仏が 安置 され たが

︑嘉 禄二 年 に 遅れ る寛 喜元 年︵ 一二 二九

︶に 完成 した こと が﹃ 最略 記﹄ によ って 知ら れる

︒こ の他 の堂 舎は

︑嘉 禄二 年以 後か ら

― 9 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

(12)

正 和四 年以 前に 復興 ある いは 新造 され たも ので ある と考 えら れる

︒ さて

﹃最 略記

﹄で ある が︑ 護摩 堂の 修造 の貞 和三 年︵ 一三 四七

︶が 最も 新し い年 紀で あり

︑こ れ以 降︑ 盛淳 によ っ て 書写 され る応 永元 年︵ 一三 九四

︶年 まで に完 成し てい るこ とが わか る︒ よっ て﹃ 略記

﹄か ら最 短で 約三

〇年

︑遅 れ て 約八

〇年 後に 編ま れた こと にな る︒

﹃ 最略 記﹄ の記 載堂 舎を

﹃嘉 禄二 年願 文﹄ およ び﹃ 略記

﹄と 比較 する と︑

﹃嘉 禄 二 年願 文﹄ は全 ての

︑﹃ 略 記﹄ では 巌窟 堂と 別院 を除 いた 堂舎 が含 まれ てい る︒

﹃略 記﹄ に項 目立 ての なか った 鐘楼 も み える ほか

︑塔

と曼 荼院

︑神 宮寺

が加 わっ てい る︒ もう 一点 異な るの は︑ 納凉 坊が 金堂 の次 に記 され てい るこ と で ある

︒強 く弘 法大 師の 寺で ある こと が意 識さ れて いる 表れ であ ろう

︒ こ のよ う に﹃ 最 略記

﹄の 記 事 から 考 え ら れる 寺 院 景観 は

︑ほ ぼ﹃ 略 記﹄ の 寺観 を 保 って い た と 考 え ら れ る

︒﹃ 略 記

﹄と 同じ よう に︑

﹃ 最略 記﹄ は作 成当 時の 神護 寺の 堂舎 の 状 況と

︑そ の 歴 史を 書 留 よ うと す る 目的 が あ った と 言 え よ う︒ そし て﹃ 略記

﹄が 史料 を引 用し て入 念 な編 纂 を する の に 対し て

︑﹃ 最 略 記﹄ はそ の 名 の通 り

︑堂 舎 と寺 宝 の 現 状 と歴 史を コン パク トに 分か りや すく まと めた 記録 と言 える

﹃ 最略 記

﹄の 性 格を 探 る 最後 に

︑書 写 さ れる 前 の 原文 の 状 態に つ い て 若干 考 え てお き た い︒ そ れ は 先 述 の よ う に

︑ 灌 頂院 や五 大堂 の五 大尊 像に 盛淳 の実 録帳 によ る注 記が あり

︑そ の他 部分 につ いて もど こま でが 原文 かに 迷う とこ ろ が ある から であ る

︒ ただ 堂舎 に関 して は︑ 講堂 のよ うに

﹁講 堂

︿ 承平 実 録 帳 五仏 堂 者 是也

﹀﹂ と し て︑ 基本 的 な 記 述 構成 に則 り︑ 堂舎 の下 に割 書文 とな って いる 個所 は︑ 原文 のま まと 言え るの では なか ろう か︒ そう でな いと 講堂 の 下 が空 欄と なる こと から も理 解で きよ う︒ 他に 講堂 のよ うな 記述 の個 所は

︑鐘 楼・ 法花 堂・ 食堂

・閼 伽井

・平 岡等 が あ げら れる

︵次 章の 表を 参照 され たい

︶︒ こ れら は文 が短 い こ とも 共 通 する が

︑堂 舎 の 建立 年 代 や創 建 事 情を 何 も 記 し てい ない 所に

︑﹃ 承 平実 録帳

﹄所 載と いう こと から

︑そ の建 立 年 代の 下 限 が承 平 元 年 に遡 る こ とを 示 す とい う こ と

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 10 ―

(13)

も 通じ てい る︵ 講堂 は堂 名の 特定 とい う意 味も ある

︶︒ この よう に﹃ 最略 記﹄ の原 文に おけ る﹃ 承平 実録 帳﹄ の引 用は

︑建 立年 代が 特定 でき ない 堂舎 にた いし て︑ 承平 元 年 以前 の建 立と いう 歴史 を示 すこ とに あっ たと 考え られ よう

︒ 三︑

﹃ 盛 淳勘 出 実 録帳

﹄ と

﹃最 略 記

﹄の 関 係

﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ と﹃ 最略 記﹄ の関 係 に 進も う

︒適 宜 次頁 の

﹃盛 淳 勘 出実 録 帳﹄ と﹃ 最 略記

﹄の 比 較 表を 参 照 願 い たい

︒こ の表 は堂 舎︵

﹃ 最略 記﹄ の名 称︶ ごと に︑

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄・

﹃ 最略 記﹄ の順 で︑ 堂舎 と寺 宝︵ 仏像

・仏 画 等

︶に 関す る記 事を 比較 する 目的 のた めに 作成 した

︒空 欄は 二記 録間 で対 応す るも のが ない こと を示 す︒ また

︑明 ら か に

﹃承 平 実録 帳

﹄当 時 に存 在 し な い﹃ 最略 記

﹄の 堂 舎や 寺 宝 は省 き

︑﹃ 承 平 実 録 帳﹄ の 諸 国 庄 々 田 地 䮒 券 契 目 録

︑ 縁 起資 財帳 図券 勅書 宣命 目録 の項 も省 いた

︒ こ れよ り の 考察 も

︑堂 舎 とそ の 安 置 寺宝 に 分 ける の が わ かり 易 い と思 わ れ るの で

︑ま ず﹃ 最 略 記﹄ を 基 準 と し て

﹃盛 淳 勘出 実 録 帳﹄ の堂 舎 の 記 事を 対 応 させ て み よう

︒双 方 と も に 対 応 す る も の は︑ 金 堂︵ 根 本 堂︶

・ 納 凉 坊︵ 納 凉 殿

︶・ 五 大 堂

︵五 大 堂

︶・ 灌 頂 院

︵根 本 真 言 堂︶

・宝 塔 院

︵宝 塔 院︶

・講 堂

︵五 仏 堂

︶・ 鐘 楼︵ 鐘 堂

︶・ 法 花 堂︵ 法 華 堂

︶・ 経 蔵︵ 不 動蔵

・動 用 倉︶

・ 食堂

︵食 堂

︶・ 平 岡︵ 平岡 神 宮

︶と な る

︒こ の 対 応 の 内

︑経 蔵 を 不 動 蔵・ 動 用 倉 に 当 てる のは 盛淳 の考 えで あり

︑﹃ 盛 淳勘 出実 録帳

﹄に も 二 つの 蔵 に 入っ て い た と思 わ れ る寺 宝 を﹁ 私 云﹂ とし て 注 記 す る︒ しか し︑ 川尻 氏の 指摘 され るよ うに

︑承 平時 には 経蔵 はな いと 考 え ら れる か ら︑ 盛 淳の 考 え は誤 り で

︑経 蔵 に 対応 する 堂舎 はな いと いう こと にな る︒

― 11 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

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盛淳勘出承平実録帳 最略記

三間檜皮葺根本堂一宇〈四面庇、戸六具〉

五間檜皮葺礼堂一宇

金堂 称徳天皇神護景雲年中有神託/光仁天皇 宝亀十一年有詔書/天応二年又奏聞之/桓武天 皇延暦年中建立/伽藍名神護寺 和気清麿奉勅 造之

本仏 白檀薬師如来〈五尺五寸〉

脇士〈四尺七寸〉

金色十一面観音像〈長五尺三寸〉

檀像薬師仏像一躯〈長二尺六寸〉

檀像阿弥陀仏一躯〈長二尺七寸〉

八幡大菩薩像一鋪 御座床二前、前机二前、白 木礼盤二基

内陣 桓武天皇延暦二三年大師御渡唐時、於船 中顕御形給時/大師令写留御影也

六間檜皮葺根本真言堂一宇〈在二面庇 戸二 具〉

灌頂院〈大師造立 秦成御願〈日本記意〉/嵯 峨天皇弘仁三年十一月十五日被始行灌頂是日本 最初灌頂/也伝教大師以下受之給〉

両界曼荼羅 一説云八祖相伝三国伝来云々、或 説云、大師於唐土令書給云々、或説云、金界ハ 八祖相伝也、胎蔵界ハ御筆云々

三間檜皮葺五仏堂一宇〈四面庇、戸六具〉 講堂〈承平実録帳五仏堂是也〉

金色金剛界等身五仏

五間檜皮葺五大堂一宇〈戸七具〉在額 五大堂〈淳和天皇天長年中御建立/亭子親王命 和気有翊寛平二年御修造〉

不動尊〈居長三尺四寸〉降三世〈立長五尺三 寸〉軍荼利〈立長五尺三寸〉六足尊〈居長三尺 五寸〉金剛夜叉〈立長五尺三寸〉〈私〉此堂五 十三代淳和天皇御願

五大尊 天長皇帝御願弘法大師御作/四寸六足 尊ハ居長三尺五寸也不動三尺/不動居長三尺四 寸六足尊ハ居長三尺五寸也

宝塔院 宝塔院〈仁明天皇承和三年八月有勅宣同七年五

月有事始同/十二年造畢䮒断所散用了実恵少僧 都和気真綱〈参議右大弁〉沙汰之〉

一重檜皮葺毘盧遮那宝塔一基

五大虚空蔵菩薩彩色木像五躯〈中台三尺、四方 各二尺五寸〉

五大虚空蔵〈中台三尺四方各二尺五寸〉光孝天 皇御修理

〈私云〉東西檜皮葺廊二宇、西五間檜皮葺護摩 堂一宇、東五間僧坊、南三間中門一宇〈在額〉

各檜皮葺

檜皮葺法華堂一宇〈在額〉 法花堂〈承平実録帳在之〉

一重小塔一基安胎蔵白檀九仏

不動蔵〈私云、此内者多分安経教〉 経蔵〈景雲年中和気清丸依神詫造営之〈承平実 録帳不動蔵動用倉ト云是也〉〉

動用倉〈私云此内者、皆安宝幢幡二雜物二ケ之 経蔵歟〉

一切経〈天長年中一切経二本被安置之内、一本 太宰府弥勒寺、一本ハ神護寺ニ安置云々〉

三間檜皮葺鐘堂一宇〈戸一具〉 鐘楼〈承平実録帳所作載是也〉

序橘広相作、銘菅原是善作、書藤原敏行 三間檜皮葺廟殿一宇

一 十九間僧房一宇〈在三面板葺庇〉

二十二間僧房一宇 十八間僧房一宇

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 12 ―

(15)

次に

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄の 堂舎 を基 本 と して 比較 した とき

︑﹃ 盛 淳勘 出実 録帳

﹄ に あ っ て

﹃最 略 記

﹄に 見 え な い 堂 舎 が

︑ 不 動蔵

・動 用倉 以外 にも 確認 でき る︒ 宝 塔 院で 私云 とし て記 載さ れる

﹁東 西檜 皮 葺 廊二 宇︑ 西五 間檜 皮葺 護摩 堂一 宇︑ 東 五 間 僧 坊

︑南 三 間 中 門 一 宇﹂

︑廰 殿︑ 僧 房 のう ち納 凉坊 を除 く全 て︵ 十九 間・ 二 十 二 間・ 十 八 間・ 五 間 古 廟 殿

・湯 屋

・ 厠

︶︑ 政 所 雜舎 の う ち 食 堂 を 除 く 全 て で あ る

︒こ れ ら は﹃ 嘉 禄 二 年 願 文﹄ に も み えな いか ら︑ それ まで に亡 失し てい た と 考 え ら れ る も の で︑

﹃最 略 記

﹄の 時 点 で も同 様で あっ たと みて よい

︒ この よう に﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ は︑ 盛 淳 が勘 出し 作成 した 応永 七年 の時 点で 存 在 しな い堂 舎が 含ま れる こと にな る︒ な ぜ 盛淳 は︑ この よう な勘 出の 方法 を取 っ

五間古廟殿一宇

五間納凉殿一宇/書壁六間弘法大師筆跡但 両満字不分明(下略)

納凉坊〈弘法大師御住坊云々小野僧正記意也/

御影者延暦御渡海之時八幡大菩薩御手令写本紙 也〉

五間板葺湯屋一宇 二間板葺厠一宇〈在板敷〉

一政所町雜舎

五間檜皮葺廰殿一宇 六間檜皮葺納屋一宇

十一間檜皮葺食堂一宇 食堂〈承平実録帳載之〉

聖僧文殊 弘法大師御作、実録帳所載也 六間檜皮葺大炊屋一宇

甲双子倉一宇〈戸三具鏁子二具〉

五間板葺客房一宇 三間板葺番屋一宇 大門鳥居〈在額〉

橋一道〈長九丈七尺広一丈四尺〉渡清瀧河

平岡神宮 平岡〈御殿 武内社 拝殿 廊 中門 若宮

同拝殿 鳥居三基皆是承平実録帳所載也〉

御在殿二宇〈各三間〉並桧皮葺 中門一宇板葺

内陣鳥居釘貫一廻 三間板葺礼殿一宇

齋殿三間板葺一宇〈在戸一具〉

中垣鳥居一具〈在額〉

五間板葺政所屋一宇 外陳鳥居一具〈在額〉

― 13 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

(16)

た ので あろ うか

︒一 つに は︑ 盛淳 は当 時現 存し てい た納 凉坊 が承 平以 前か ら続 く僧 房で ある こと を示 し︑ 同様 に食 堂 も 承平 以前 から 政所 雜舎 に含 まれ てい たこ と等 の歴 史的 位置 づけ を明 らか にし たか った ので はな いか と思 われ る︒ こ れ は第 二章 の最 後で 述べ た﹃ 最略 記﹄ が行 った 堂舎 の創 建の 歴史 を﹃ 承平 実録 帳﹄ に記 載さ れる こと を示 して 明ら か に する とい う方 法を

︑盛 淳も 行い

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄の 記載 にな った と考 えら れる

︒そ して さら に︑ これ らの 失わ れ た 堂舎 とと もに

︑全 く﹃ 最略 記﹄ と関 係が みえ ない 廰殿 が加 えら れて いる のを 考慮 すれ ば︑ 後に 寺宝 の検 討か らも 指 摘 する が︑ 盛淳 の勘 出の 目的 の一 つは

︑﹃ 承 平実 録帳

﹄当 時の 全 て の伽 藍 の 規模 を 示 し たか っ た こと に あ るの で は な い かと 推測 され てく る︒ ここ まで

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄と

﹃最 略記

﹄の 堂舎 の対 応か ら考 えら れる こと を述 べた が︑ より 踏み 込ん でこ れら の 堂 舎の 記載 内容 を対 比し てみ たい

︒表 を参 照い ただ きた いが

︑金 堂に おい て﹃ 最略 記﹄ は﹁ 称徳 天皇 神護 景雲 年中 有 神 託/ 光仁 天皇 宝亀 十一 年有 詔書

/天 応二 年又

奏 聞之

/桓 武天 皇延 暦年 中建 立/ 伽藍 名神 護寺

和 気清 麿奉

勅 造 之

﹂と する

︒﹃ 盛 淳勘 出実 録帳

﹄は

﹁三 間檜 皮葺 根本 堂一 宇︿ 四面 庇︑ 戸六 具﹀

/五 間檜 皮葺 礼堂 一宇

﹂と ある

︒二 つ の 記述 を較 べる と︑ 内容 的に 全く 重な る所 がな いこ とに 気づ く︒ 前者 の記 述に は︑ かつ ては 根本 堂と 呼ば れて いた 歴 史 は記 され ず︑ その 規模 も記 され ない

︒こ の歴 史と 規模 を後 者が 記述 して いる

︒そ して かつ ては 礼堂 が付 属し てい た が

︑現 在は 礼堂 がな いこ とも 知る こ とが で き る︒ よっ て

﹃盛 淳 勘出 実 録 帳﹄ の 記載 は

︑﹃ 最 略記

﹄書 写 時 に現 前 し た 堂 の歴 史や その 復元 規模 の根 拠︑ そし て失 われ た部 分を 補う 意味 を持 って いる こと にな る︒ この 他の 堂舎 の記 述は 逐次 引用 はし ない が︑ 表に おい て灌 頂院

・講 堂・ 五大 堂・ 宝塔 院・ 法花 堂・ 鐘楼

・納 凉坊

・ 食 堂の 記載 を比 較し てい ただ くと

︑金 堂と 同じ 対応 関係 が見 出せ る︒ よっ て﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ と﹃ 最略 記﹄ の各 堂 舎 にお いて は︑ 全く 一致 した 記述 は見 出せ ず︑ 前者 は後 者を 歴史 的内 容に おい て補 完す る関 係に ある と言 えよ う

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 14 ―

(17)

次に 堂内 の寺 宝に つい て検 討す るが

︑堂 舎と 寺宝 に関 して 異な る点 があ るこ とに 注意 して おき たい

︒﹃ 承 平実 録帳

﹄ に 対 応 する

﹃最 略 記﹄ の 堂舎 は ほ と んど が 再 建と み て よい が

︑﹃ 最 略 記﹄ の寺 宝 に つい て は 創建 期 に 遡 るも の も あ る が︑ 少な くと も承 平元 年か ら全 てそ のま ま伝 来し てい るも のと 考え てよ いの であ る︒ 金堂 では 白檀 薬師 如来 及び 脇 士 と八 幡神 画像

︑灌 頂堂 の両 界曼 荼羅

︑五 大堂 の五 大尊

︑宝 塔院 の五 大虚 空蔵

︑経 蔵の 一切 経︑ 鐘楼 の梵 鐘︑ 納凉 坊 の 御 影︑ 食 堂の 聖 僧 文殊

の 九件 で あ る︒ こ の中 で

﹃盛 淳 勘出 実 録 帳﹄ に みえ な い もの は

︵表 参 照︶

︑ 白 檀 薬 師 如 来 及 び脇 士︑ 両界 曼荼 羅︑ 一切 経︑ 梵鐘

︑御 影︑ 聖僧 文殊 の六 件と 多い

︵納 凉坊 の御 影は 実録 帳に は見 えず 違う 記述 が あ る

︶︒ こ の理 由 は 先に 堂 舎 の 二記 録 間 で記 事 の 内容 が 全 く 重な ら な かっ た こ とを 参 考 に す れ ば︑ 盛 淳 が﹃ 最 略 記

﹄ 記 載の 情報 で十 分と 判断 した から に他 なら ない と考 えら れよ う︒ そし て残 る三 件︵ 八幡 神画 像・ 五大 尊・ 五大 虚空 蔵 菩 薩︶ は﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ に記 載が ある のだ が︑ 一体 この 三件 はな ぜ先 の六 件と 違っ てい るの であ ろう か︒ 拙稿 の 中 心的 課題 であ る金 堂本 尊の こと は改 めて 最後 に触 れる とし て︑ 具体 的に みて いこ う︒ 最初 は金 堂の 八幡 神画 像に 関し てみ てみ よう

︒﹃ 最 略記

﹄の 八幡 神画 像は

︑﹁ 内陣

桓 武天 皇延 暦二 三年 大師 御渡 唐 時 於船 中顕 御形 給時 大師 令写 留御 影也

﹂と して

︑神 像へ の配 慮な のか もし れな いが

︑名 称を はっ きり と記 さな いの に 対 して

︑﹃ 盛 淳勘 出実 録帳

﹄は

﹁八 幡大 菩薩 像一 鋪/ 御座 床︿ 二前

﹀ 前机

︿二 前﹀

/ 白木 礼盤

︿二 基﹀

﹂と して

︑そ の 尊 名と 数量 を明 記し てい る︒ そし て後 者は

︑こ の画 像に 対し て御 座床 や前 机︑ 白木 礼盤 など の祭 祀用 具が 各二 付属 し て いる こと を記 して いる

︒特 にこ の点 は他 では 知ら れな い情 報と して

︑八 幡神 像の 名称 と共 に盛 淳が 勘出 した 理由 で は な か ろう か

︒そ し て前 者 に は 八幡 神 像 の制 作 理 由と い う 重 要な 記 述 があ る が︑ 後 者に は 記 さ な い

︒﹃ 承 平 実 録 帳

﹄ に この 由来 の記 述が 存在 して いた であ ろう こと は︑

﹃ 略記

﹄平 岡神 宮の 八幡 神像 の注 記と して

﹁大 師御 筆第 二傳 云々

︑ 承 平実 録帳 委細 在之

﹂と ある こと から 想像 でき る︒ 平岡 神宮 の画 像に 大師 御筆 の第 二傳 とあ るこ とは

︑金 堂の 八幡 神

― 15 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

(18)

像 こそ 第一 傳で あり

︑そ の由 来を 記さ な いは ず は ない か ら であ る

︒よ っ て﹃ 最 略記

﹄が 由 来 を示 し て い るの で

︑﹃ 盛 淳 勘出 実録 帳﹄ には この 記事 を記 録し なか った と考 えら れる

︒こ こに 他の 堂舎 や寺 宝に つい て︑ 双方 の記 事は 重な ら な いと いう 基本 的な 傾向 とし て見 出し たこ とに 一致 する とい える

︒ 五大 尊に 関し ては

︑﹃ 盛 淳勘 出 実 録帳

﹄で

﹁不 動 尊︿ 居 長三 尺 四 寸﹀ 降 三世

︿立 長 五 尺三 寸

﹀軍 荼 利︿ 立長 五 尺 三 寸

﹀六 足尊

︿居 長三 尺五 寸﹀ 金剛 夜 叉︿ 立長 五 尺 三寸

﹀︿ 私

﹀此 堂 五十 三 代 淳 和天 皇 御 願﹂ と記 載 す る︒ これ に 対 し て

﹃最 略記

﹄は

︑盛 淳の 注記 を除 いた 原文 は﹁ 五大 尊 天長 皇帝 御願 弘法 大師 御作

/四 寸六 足尊 ハ居 長三 尺五 寸也 不 動 三尺

/不 動居 長三 尺四 寸六 足尊 ハ居 長三 尺五 寸也

﹂と なっ てい たと 考え られ る︒ 原文 につ いて は先 述し たが

︑そ の 確 定に は今 後の 検討 が必 要で ある とは いう もの の︑ 明ら かに この 部分 の記 述に は不 動尊 と六 足尊 の名 称と 寸法 しか 記 さ ず︑ 語順 にも 混乱 があ る箇 所が ある

︒こ の よう な

﹃最 略 記﹄ 五大 尊 の 記載 を

︑盛 淳 は 確認 す る 必要 が あ っ たた め

︑ 先 述 の よう に 既 に﹃ 最略 記

﹄書 写 時 に﹁ 五尺 三 寸 盛 淳勘 実 録 帳云 是 降 軍 金ノ 立 長 也﹂ と して い る︒ よ っ て 改 め て

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄を 作成 する 際に

︑五 大尊 の全 文記 事を 引用 した もの と考 えら れる ので ある

︒ 五大 虚空 蔵菩 薩に 関し ては

︑﹃ 盛 淳勘 出実 録 帳﹄ は﹁ 一 重檜 皮 葺 毘盧 遮 那 塔 一基

/五 大 虚 空蔵 菩 薩 彩色 木 像

︿中 台 三 尺 四方 各二 尺五 寸﹀

﹂ とす るの に対 して

︑﹃ 最略 記﹄ は﹁ 五大 虚空 蔵︿ 中尊 三尺

/四 方各 二尺 五寸

﹀光 孝天 皇御 修 理

﹂と な っ てい る

︒﹃ 最 略記

﹄に は 毘 盧 遮那 塔 が 出て い な いし

︑五 大 虚 空 蔵の 下 に 記 さ れ る 光 孝 天 皇 御 修 理 は

︑﹃ 略 記

﹄が 引 用 する 当 該 部分 を み れ ば

︑ 次行 に 続 く 宝 塔 院 の 修 理 の 文 章 で あ る︒ さ ら に こ の 修 理 の 部 分 は

︑﹃ 最 略 記

﹄ で は﹁ 朱雀 天皇 当寺 行幸 之 次︑ 更 増宝 塔 院 荘厳 御 ス︑

︿ 実 録帳 意

﹀﹂ と なり

︑﹃ 略 記﹄ の﹁ 以 去昌 泰 二 年宛 賜 料 物﹂ を 抜 き﹁ 実録 帳意

﹂と して いる こと が指 摘で きる

︒こ の昌 泰二 年︵ 八九 九︶ の部 分を 抜い たの は︑

﹃ 最略 記﹄ が﹃ 略記

﹄ の 朱雀 院太 上天 皇︵ 宇多 院 八六 七〜 九三 一︑ 在位 八八 七〜 八九 七︶ を朱 雀天 皇︵ 九二 三〜 九五 二︑ 在位 九三

〇〜 九

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 16 ―

(19)

四 六︶ と誤 記し てい るゆ えに

︑時 代が 合わ ない と判 断し た故 であ ろう

︒や はり 盛淳 は﹃ 承平 実録 帳﹄ の記 載を 確認 す る 必要 があ った と認 めら れよ う︒ この よう に二 記録 の記 載が 重な る八 幡 神画 像

︑五 大 尊︑ 五大 虚 空 蔵菩 薩 に 関 して は

︑﹃ 最 略記

﹄の 記 載 を補 訂 し て 理 解し

︑当 初の 安置 状況 を知 るた めに

︑﹃ 盛 淳勘 出実 録帳

﹄に 勘出 する 必要 があ った こと が理 解で きる ので ある

︒ 以上 の比 較検 討か ら︑

﹃ 最略 記﹄ の記 事を 何ら かの 形 で 補う た め に﹃ 盛淳 勘 出 実 録帳

﹄に 記 事 が勘 出 さ れて い た と 考 えら れる

︒こ れら の分 析を 踏ま えて 金堂 にお いて

︑薬 師如 来立 像が 記載 され る﹃ 最略 記﹄ と︑ 当薬 師如 来像 では な い 三軀 の像 が記 載さ れる

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄を 検討 しよ う︒

﹃最 略記

﹄ 本 仏 白檀 薬師 如来

︿五 尺五 寸﹀

/ 脇士

︿四 尺七 寸﹀

/大 師御 作也

被 奉納 大菩 薩御 本尊 云々

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄ 金 色十 一面 観音 像︿ 長五 尺三 寸﹀

/ 檀像 薬師 仏像 一躯

︿長 二尺 六寸

﹀/ 檀像 阿弥 陀仏 一躯

︿長 二尺 七寸

﹀ 改め

て﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ に誤 記や 脱落 ある いは 省略 があ った と す る考 え をみ る と︑ 二 番目 の

﹁檀 像 薬師 仏 像 一 躯

︿長 二尺 六寸

﹀﹂ に 関し て︑ 長さ の二 尺六 寸が 五尺 五 寸 の誤 記 で︑ 三 番目 の 檀 像 阿弥 陀 仏 像の 前 に﹁ 同 脇士 菩 薩 像 二 軀

︿長 各 四尺 五 寸﹀

﹂ が 省略 あ る い は脱 落 し てい る と 考え る の で ある

︒し か し これ ま で 綿密 に

﹃盛 淳 勘 出実 録 帳

﹄ を 検討 して きた が︑ この よう な類 の誤 記・ 脱落 は全 く見 られ なか った

︒五 大尊 に関 して は﹃ 最略 記﹄ の寸 法の 記述 の 混 乱 を 正す た め に勘 出 さ れ てい る こ とを 見 て きた

︒ま た 省 略 の例 と し ては

︑宝 塔 院 の﹁

︿ 私 云﹀ 東 西 檜 皮 葺 廊 二 宇

― 17 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

(20)

西 五間 檜皮 葺護 摩堂 一宇

︑東 五間 僧坊

︑南 三間 中門 一宇

︿在 額﹀

︑ 各檜 皮葺

﹂の 例が ある

︒﹃ 略記

﹄の この 部分 の引 用 は

︑各 建築 の規 模や この 他に 東西 高欄 や石 畳の 記事 がみ られ るの であ り︑ この 詳細 な記 事を

﹁私 云﹂ とし て要 約し て い るの であ る︒ また 荘園 の省 略で は﹁ 如是 四 十箇 庄 諸 国有 之

﹂︑ 勅 書や 宣 命 な どを 省 略 する に は﹁ 神 護寺 図 二 枚︿ 乃 至 中 間 略之

﹀﹂ と い うよ う な 注 記が み ら れる の で ある

︒故 に 何 も 記さ ず に 本尊 の 脇 士を 省 略 す ると は 考 え ら れ な い

︒ よ って

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄に 本尊

・脇 士が 見ら れな いの は︑ これ まで 述べ てき た特 徴か ら︑ 両界 曼荼 羅・ 一切 経・ 梵 鐘

・御 影・ 聖僧 文殊 と同 様に

︑﹃ 最 略記

﹄に 記載 があ る故 にあ えて 勘出 する 必要 がな かっ たと 考え なけ れば なら ない

︒ では

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄の 金色 十一 面観 音像

・檀 像薬 師仏 像・ 檀像 阿弥 陀仏 の三 軀は

︑ど の様 に捉 えら れる であ ろ う か

︒ ここ でこ れま で検 討し てき た当 記録 で︑ 不動 蔵・ 動用 倉︑ 廟殿 をは じめ と し て 多く の 失 われ た 堂 舎が 記 載 さ れ てい るこ とを 想起 した い︒ また 五 仏堂 に

﹁金 色 金剛 界 等 身五 仏

﹂︑ 法 花 堂﹁ 一重 小 塔 一基

安 胎 蔵 白檀 九 仏

﹂と あ り

︑﹃ 最 略記

﹄に は別 の本 尊が 記載 され てい るこ とか ら失 われ てい たこ と が 判 明す る 例 もあ る

︒つ ま り︑

﹃盛 淳 勘 出 実 録帳

﹄に は失 われ た堂 舎・ 寺宝 も記 載さ れて いる とい う特 徴が あり

︑当 該の 三軀 像も 失わ れた 像と して 勘出 され た と 考え られ る︒ 盛淳 はこ の二 つの 記録 を用 いて

︑か つて の金 堂に は︑ 本尊 の薬 師如 来立 像と 脇士 像を はじ めこ の三 軀像

︑そ して 八 幡 神像 が祀 られ てい たこ とを 復元 的に 記録 した かっ たも のと 思わ れる ので ある

︒ 結

び 以上

をま とめ ると

︑は じめ に﹃ 弘仁 資財 帳﹄ は﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ にみ える

﹁神 願寺 資財 帳﹂ に当 たる こと を︑ 主

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 18 ―

(21)

と して 交替 実録 帳の 研究 を基 に確 認し た︒ 続い て﹃ 弘仁 資財 帳﹄ 問題 の拠 り所 でも ある

﹃盛 淳勘 出資 財帳

﹄に

︑主 要 な 寺宝 であ る金 堂本 尊薬 師如 来立 像お よび 両脇 士像 や 両界 曼 荼 羅等 が 採 録さ れ て い ない 問 題 を検 討 し た︒

﹃盛 淳 勘 出 実 録帳

﹄の 特徴 とし て︑ 盛淳 の時 代に は既 に亡 失 して い る 堂舎 や 寺 宝も 勘 出 し てい る こ と︑

﹃最 略 記﹄ に 記載 さ れ て い る記 事の 内容 と重 なり を避 けて いる こと

︑重 な る場 合 は﹃ 最 略記

﹄の 記 事 を補 訂 す る 目的 が あ るこ と を 指 摘し た

︒ 総 じて

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄は

﹃最 略記

﹄を 補完 する ため に盛 淳が 作成 した もの であ り︑ 失わ れた 堂舎

・寺 宝ま で勘 出 し てい るの は︑ 承平 時の 神護 寺の 全体 規模 を確 認す るた めで あっ たと 言え よう

︒故 に﹃ 最略 記﹄ に記 載さ れる 薬師 如 来 立像 など は︑

﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ には 記載 して いな いこ とを 明ら かに した

︒ 最後 に盛 淳が

﹃最 略記

﹄と

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄を 併せ て︑ 神護 寺の 現状 と歴 史を 捉え よう とし た意 識が 生れ た事 情 に つい て推 測し てお きた い︒ 盛淳 が﹃ 最略 記﹄ を書 写し た応 永元 年の 翌年 に︑ 神護 寺内 に混 乱が あっ たこ とが 応永 九 年 に了 経が 作成 した

﹃神 護寺 規模 殊勝 之条 々﹄ にみ える

︒応 永二 年十 一月 の頃 の錯 乱に より 金堂 の常 燈三 箇所 が共 に 消 え︑ 御影 堂の 仏舎 利が 紛失 して いる ので ある

︒そ して この 危機 後の 神護 寺の 状態 は︑ 了経 は記 録の 最後 に﹁ 而傳 聞 当 住寺 僧中 常称 䆑︑ 当寺 者所 謂辺 山僧 者山 法師 云々

﹂と 述べ てい る︒ そし て続 いて

﹁恐 是不 知案 内之 至極

︑不 知恩 者 之 所存 也︑ 為備 彼輩 之披 見︑ 縁起 以下 之中 取要 記之

﹂と

︑了 経が この 記録 を編 纂し た理 由を 述べ てい る︒ 即ち

︑神 護 寺 は弘 法大 師の 聖跡 であ り︑ 各時 代の 天皇 が造 営に 関与 した 御寺 であ るな ど︑ 往時 の輝 かし い歴 史が 忘れ 去ら れて い る 傾向 にあ るた め︑ 神護 寺の 歴史 を記 録す る必 要が あっ たと いう ので ある

︒こ れは

﹃盛 淳勘 出実 録帳

﹄の 二年 後の 状 況 であ るか ら︑ 盛淳 も同 様の 感慨 を抱 いて いて も不 思議 はな く︑ 同じ 思い で﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ を作 成し たと みら れ よ う︒

﹃ 盛淳 勘出 実録 帳﹄ を作 成し 終え た盛 淳は

︑そ の 奥 書に

﹁実 録 帳 内勘 文 了 可 哀々 々

﹂と 記 して い る︒ こ の哀 し む べ

― 19 ― 神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像

(22)

し との 感慨 は︑

﹃ 承平 実録 帳﹄ から 失わ れた 多く の資 財を 見出 して の故 であ った と思 われ る︒ 注

﹃ 承 平 実 録 帳

﹄ は

﹃ 神 護 寺 略 記

﹄ 等 か ら 断 片 的 に し か 知 ら れ な か っ た が

︑ 昭 和 十 五 年 に 福 山 敏 男 氏 に よ っ て 公 刊 さ れ た

﹃ 盛 淳 勘 出 実 録 帳

﹄ は

︑ そ の 欠 を 補 う も の と し て 注 目 さ れ た

︒﹃ 建 築 史

﹄ 二 ノ 二

︑ 一 九 三 六 年

︒ 後

﹃ 寺 院 建 築 の 研 究 下 福 山 敏 男 著 作 集 三

﹄︵ 中 央 公 論 美 術 出 版

︑ 一 九 八 三

︶ に 収 録 尚

︑ 本 文 中 で 取 り 上 げ た 神 護 寺 の 記 録 類 に 関 し て は

︑ 左 の 文 献 に 収 録 す る 記 録 を 用 い て い る

︒ ま た 各 記 録 の 書 誌 は

② を 参 照 さ れ た い

① 藤 田 経 世 編

﹃ 校 刊 美 術 史 料 寺 院 篇

﹄ 中 巻

︵ 中 央 公 論 美 術 出 版

︑ 一 九 七 五 年

﹃ 日 本 彫 刻 史 基 礎 資 料 集 成 平 安 時 代 重 要 作 品 篇 二

﹄︵ 中 央 公 論 美 術 出 版

︑ 一 九 七 六 年

③ 坂 本 亮 太

・ 末 柄 豊

・ 村 井 祐 樹 編

﹃ 高 雄 山 神 護 寺 文 書 集 成

﹄︵ 思 文 閣 出 版

︑ 二

〇 一 七 年

④ 丸 山 士 郎

﹁ 初 期 神 像 彫 刻 の 研 究

﹂︵

﹃ 東 京 国 立 博 物 館 紀 要

﹄ 四

︑ 二

〇 五 年

︶ 掲 載 の 写 真

⑵ 拙 稿

﹁ 盛 淳 勘 出

﹃ 神 護 寺 承 平 実 録 帳

﹄ の 性 格 に つ い て

│ 神 護 寺 薬 師 如 来 像 の 根 本 問 題

﹂︵

﹃ 文 化 史 学

﹄ 三 八

︑ 一 九 八 二 年

︶︒ 尚

︑ こ の 問 題 の 諸 学 説 の 詳 細 は

︑ 当 論 を 参 照 さ れ た い

⑶ 牛 山 佳 幸

﹁ 諸 寺 別 当 制 の 展 開 と 解 由 制 度

﹂︵

﹃ 古 代 中 世 寺 院 組 織 の 研 究

﹄ 吉 川 弘 文 館

︑ 一 九 九

〇 年

︑ 初 出

﹃ 古 文 書 研 究

﹄ 十 九

︑ 一 九 八 二 年

⑷ 川 尻 秋 生

﹃ 日 本 古 代 の 格 と 資 財 帳

﹄︵ 吉 川 弘 文 館

︑ 二

〇 三 年

︶ 第 二 部 第 二 章

﹁ 資 財 帳 と 交 替 公 文

│ 広 隆 寺 帳 を 中 心 と し て

﹂︵ 初 出

﹃ 日 本 歴 史

﹄ 五

〇 三

︑ 一 九 九

〇 年

︶ 及 び 第 三 章

﹁﹃ 観 心 寺 縁 起 資 財 帳

﹄ の 作 成 目 的

﹂︵ 初 出

﹃ ヒ ス ト リ ア

﹄ 一 一 六

︑ 一 九 八 七 年

︶︒

⑸ 皿 井 舞

﹁ 神 護 寺 薬 師 如 来 像 の 史 的 考 察

﹂︵

﹃ 美 術 研 究

﹄ 四

〇 三

︑ 二

〇 一 一 年

︶︒ 以 下 の 皿 井 氏 の 説 は

︑ こ の 論 文 に よ る

⑹ 神 護 寺 の 歴 史 に 関 し て は

︑ 注

⑴ の 福 山 氏 論 文 を は じ め と し て 多 く の 論 考 が あ る が

︑ 拙 稿

﹁ 国 宝 に ま つ わ る 人 々 和 気 清 麻 呂

﹂︵ 週 刊 朝 日 百 科

﹃ 国 宝 の 美

﹄ 一 三

︑ 二

〇 九 年

︶ な ど も 参 照 い た だ き た い

⑺ 足 立 康

﹁ 神 護 寺 薬 師 如 来 像 の 造 顕 年 代

﹂︵

﹃ 考 古 学 雑 誌

﹄ 二 九 ノ 十 二

︑ 一 九 二 九 年

︒ 後

﹃ 日 本 彫 刻 史 の 研 究

﹄ 龍 吟 社

︑ 一 九 四 四 年 所 収

︶︒ 毛 利 久

﹁ 神 護 寺 薬 師 如 来 立 像 の 問 題

﹂︵

﹃ 史 跡 と 美 術

﹄ 一 八 六

︑ 一 九 四 八 年

︑ 後

﹃ 日 本 仏 教 彫 刻 史 の 研 究

﹄ 法 蔵

神護寺『弘仁資財帳』・盛淳勘出『承平実録帳』と金堂薬師如来立像 ― 20 ―

参照

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