ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の 位置づけ
その他のタイトル American Elements in Re‑building Polish Civil Society
著者 大津留(北川) 智恵子
雑誌名 關西大學法學論集
巻 53
号 4‑5
ページ 849‑872
発行年 2004‑02‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/12322
* は じ め に
大津留
九
t (
︶
( i l
智恵子 ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
一九八一年のクリスマスを前に︑レーガン大統領はアメリカ国民に対して︑各戸に蝋燭を燈して︑戒厳令下に苦し
むポーランドの人々への同情の念を示すように呼びかけた︒それから一0
年も経たないうちに︑ポーランドにおいて 戒厳令はおろか共産党の一党支配すら終結した︒そして二
0年も経たない一九九九年にはポーランドは大西洋条約機
構
(N AT o) の一員として迎えられ︑二
0
0四年五月には欧州連合
( E u ) の一員にもなろうとしている︒その ポーランドは一九九一年の湾岸戦争︑さらに二
0
0三年のイラク攻撃や︑それに続く治安維持︑復興活動に積極的に
貢献することで︑﹁新しいヨーロッパ﹂を代表する国家としてアメリカ政府から認知されようとしてきた︒
冷戦の終結は︑第三の波と呼ばれる発展途上国の民主化に加えて︑旧共産圏を新たに民主化する可能性をもつ地域 として組み込み︑世界規模での民主化にさらに拍車をかけることになった︒しかし︑ポーランドのように市場化と民
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
︵八
四九
︶
ポーランドは︑こうしたアメリカやヨーロッパ諸国の民主化支援政策の対象国として︑多大な援助を受けてきた︒
E
U加盟はそうした民主化移行の完了を意味し︑ポーランドを対象とした民主化支援は打ち切られた︒今度はポーラ
ンドが拠点となって︑さらに東方の旧ソ連地域に対する民主化支援が始まっている︒ポーランドの民主化が短期に完
了した要因を︑どれほどアメリカなどの外部勢力の貢献に婦すことができるのかに関しては︑評価する立場によって︑
あるいは評価対象とする支援項目によって見解が分かれる︒本稿では︑
概観した上で︑特にアメリカが自己像と重ねて重視してきた市民社会育成に関する支援を中心に分析し︑ポーランド
の市民社会︑特に政治文化の変容に関わる側面で︑ て
いる
︒
第五三巻四•五号
︵ 八
五
0 )
主化を柱として急速に西側に近づいた国々もあれば︑旧ユーゴスラヴィア連邦のように暦年の対立が激化することで 民王化移行以前の問題の解決に多くの人命や時間を費やすことになった国々もある︒さらに︑表面的には順調な民主
化移行であっても︑社会内部に軋みが生じている場合もある︒
一言で民王化移行と称しても︑近代以前の社会から植民地支配後に独裁政権を経て民主化する国々と︑近代社会か
ら全体主義支配を経て民主化する国々とでは︑それぞれの経験は異なる︒それにもかかわらず︑そうした様々な民主 化の過程全てに一様に関与しようとしてきたのがアメリカの民主化支援外交である︒そして︑民主主義は本来︑内側
から生育するのが大原則でありながら︑ 関法
アメリカを始めとする多くの西側諸国において︑民主主義の﹁輸出﹂が外交政
策の柱であるのみでなく︑民間も含めた一大産業にもなったのが一九九
0年代の特徴であった︒さらにイラク攻撃を
経た今日では︑民主化の名のもとに軍事侵攻に訴えて体制転換を行うことまでもが︑民主化外交の範疇に入ろうとし
アメリカによるポーランドヘの民主化支援を
アメリカによる支援の持った効果と限界について考えてみたい︒
九
ポーランドは︑ロシア
(l )
今日アメリカが対外援助の対象としている国々は︑世界の隅々にまで広がっている︒しかし︑外交政策の一環とし て行われる対外援助政策は決して慈善事業ではなく︑そのどれをとってもアメリカの国益という観点から行われてい る︒アメリカのポーランドに対する関心も例外ではない︒ポーランドが歴史的に︑そして今日も持つ地政学的な重要
性は
︑ アメリカの対ポーランド政策の土台をなしているといえよう︒
大問題で︑
︵ ソ
連 ︶
とドイツに挟まれ︑
こうしたポーランド自身のもつ意味に加え︑
ヨーロッパの国際政治の中では決して強国ではなかった︒そし て︑三回にわたる分割により国としてのまとまりすら奪われてきた︒東で東方正教のロシアと接するカトリックの国 ポーランドは︑伝統的なヨーロッパ社会の東の端としても認識されてきた︒第二次世界大戦期には︑多くのユダヤ人 がホロコーストの犠牲となり︑政治的イデオロギーとしての民主主義とファシズムとの境界としても認識された︒
ポーランドは︑冷戦期においてはソ連圏の西の端として︑共産主義冊界と自由主義世界の境界をも成し︑
の反共政策において重要な位置を占めていた︒そのポーランドが︑最終的に冷戦体制の崩壊の突破口となったことで︑
アメリカにとって非常に象徴的な意味をポーランドに与え続けることとなった︒冷戦の終結後も︑
ポーランドは自由世界の最先端としての意味を持ち続けた︒
ランドは民主化に成功しなくてはならなかった国であった︒
アメリカにとってポーランドは︑国内の大きなエスニック集団の出身
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ 1
アメリカにとってのポーランド
I
ア メ リ カ の ポ ー ラ ン ド 支 援 の 背 景
九
NATO
の東方拡
アメリカの地政学的利害関係からして︑
︵八
五一
︶
ポー アメリカ
国でもある︒
世界大戦のホロコーストを逃れた難民はユダヤ系のポーランド人として加わった︒そして冷戦期の共産体制を逃れた 政治的亡命者は反共勢力としてアメリカ政治に影響を及ぼしてきた︒ポーランド系はこうしたいくつもの波を形成し てアメリカに渡っており︑体制転換後の今日においても新しいポーランド系移民の波は途絶えたわけではない︒
こうしたポーランドからアメリカヘの移民•難民の流れの多くが、経済よりも人権・自由というアメリカが重視す
る価値観に関わるものだったために︑
一九
六
0年代︑七
0年
代︑
ポーランドからアメリカヘの移民は国別では上位を占めた︒
( 3
)
勢調査ではポーランド系アメリカ人は九三六万人を数え︑アメリカで九番目に大きなエスニック集団を形成している︒
アメリカの約四分の一をしめるカトリック教徒の中でも︑
な割合を占めるし︑
アメリカ政治においても︑第一〇八議会で上院議員二名︑下院議員一
0名がポーランド系である
(4 )
のをはじめとし︑州・地方政体でもポーランド系の集住地域を中心に無視できない存在となっている︒ポーランド系 アメリカ人の団体も数多く設立されており︑たとえばポーランド系アメリカ人会議
(P AC ) 員を有し︑国内のポーランド系の利害に関わる問題だけではなく︑
心事であった︒四千万人近い人口を抱えるポーランドは︑
チェコ共和国に並んで︑ こうした地政学的関心や︑ に影響力を行使している︒
関法
第五三巻四•五号
︵八
五二
︶
ハン
ガリ
ー︑
一九世紀末の移民第二波を構成するポーランド系移民は︑シカゴをはじめとして集住している︒第二次
アメリカ社会は建前としてはポーランド系に門戸を開いてきた︒特に冷戦期の
八0
年代
は︑
一九
九
0年の国 ポーランド系はアイルランド系︑イタリア系と並んで大き
は一千万人を超える会 アメリカの対ポーランド政策などに関しても政府
エスニック集団としての勢力に加えて︑
ポーランドの経済もアメリカにとって重要な関
ヨーロッパにおいては比較的大きな国である︒
ポーランドは市場経済化の第一期の国として︑
アメリカのビジネスが進出する上で大きな期
九四
ソ連と隣り合わせに存在していたポーランドは︑前述のようにアメリカにとって自由主義世界を拡大するための前
線基地という象徴的な意味を持っていた︒そのため︑
を払わず︑外からの影響力のみを重視しがちであった︒しかしポーランドでは︑他の共産主義諸国に比べると共産党 がソ連からの直接の圧力に対してうまく緩衝的な役割を果たし︑共産主義体制の中においてカトリック教会をはじめ
とする市民社会の空間が比較的大きく残されていたという特徴も持つ︒
がソ連の介入を招いたのに比べ︑同年にポーランド労働者が生活水準の向上を求めて起こしたポズナム蜂起は︑
の介入前にポーランド共産党によって対応されていた︒また一九七
0年や一九七八年にも︑共産党体制に対する抵抗
が生じるのだが︑それがソ連の直接介入を招き︑残された自由な空間である市民社会を押しつぶすという事態は避け られてきた︒そうした空間で繰り広げられていった発言や発想が︑体制転換へとつながる反体制運動として展開して
(5
)
一九
八
0年にグダンスク造船所にて共産党の支配下に置かれない独立系の労働組合が生まれた︒これが単なる労働
組合に留まらず︑反体制知識人とともに連帯
( S o l i d a r n o s c )
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
2.歴史的文脈ー̲体制移行への支援 待がかけられていた︒したがって︑要な場合のみ言及することとする︒
九五
アメリカによる東欧の民主化支援では︑民主化と相互に補完する移行として市場 経済圏の拡大にも重点が置かれていたが︑本稿では主として政治的な民主化に重点を置き︑市場経済化に関しては必
アメリカがポーランドを見る場合︑その独自性にはあまり注意
という大きな政治運動へと展開していった︒冒頭に述
︵八
五三
︶
ソ連
一九五六年に生じたハンガリーの反体制運動
第五三巻四•五号 べた一九八一年の戒厳令で連帯は非合法化され地下活動に転向せざるを得なくなるが︑それまで短期間であっても共 産党と連帯が共存していたというのも︑
ポーランドの例外的な事情である︒
連帯のような独立系の労働運動こそが︑
を続けたものだった︒
アメリカが冷戦期の対ソ戦略の一環として東欧諸国に生じさせようと支援 アメリカ生まれの熟練工を組織したアメリカ総同盟
(A FL ) て社会正義を求めたアメリカ産業別労働組合会議
(C IO )
とは対照的に︑
は︑未熟練の移民労働者を抱え 的な組織であった︒冷戦期には
A F
Lの国際部局を始めとし反共政策に大きく加担しており︑
︵八
五四
︶ C
I
Oとして合併した後も︑反共産主義色の強い組織であった︒労働組合はアメリカの国内政治では︑共和党が代表
するビジネスの利害と対抗し︑社会的弱者の党である民主党と手を組む存在である︒ところが︑国際的には共産主義 と対立するため保守的な政治勢力と提携することになり︑
アメリカの国内外で政治的関係にねじれ現象を示してきた︒
一九八三年に非営利団体として設立され︑議会から歳費を割り当てられる形で活動を始めた全国民主主義促進財団 (N ED
︑N a
t i o n a l E n d o w m e n t f o r D e m o c r a c y ) は︑こうした独立系労働組合を民主化支援の︱つの柱とした︒そし
て
AFLICIO
の傘下に自由労働組合機関
(FTUI ︑
F r e e T r a d e U n i o n I n s t i t u t e ,
一九九七年に
ACILS
︑
A m e r i c a n C e n t e r f o r I n t e r n a t i o n a l L a b o r S o l i d a r i t y
に改称︶が作られた︒
を通して地下活動を行っている連帯の存続のために支援が行われた︒また︑
た支
援は
︑ 関法
AF L│
│C IO
国際部に加え︑
FTUI ポーランド系アメリカ人民間団体や教会
(6 )
関係者により︑連帯に関わったことで投獄された労働者の家族に対し︑必要な物資や資金の支援も行われた︒こうし
アメリカ政府から
N E
Dへ︑そしてブリュッセルにあった連帯の拠点や︑パリやニューヨークで活動する
NGo を経由してポーランド国内へと流れていた︒連帯が地下活動をしていた一番苦しい時代を支えたのは自分たち
一九五五年に
A F L
│ ヨーロッパから流入する左蔑思想に敵対
九六
1 アメリカの民主化支援の柱
I l .体制転換後のアメリカの支援
であるというのが︑
NED
関係者の見解で︑
九七
へと移行していく︒
ポーランドの体制転換へのアメリカの支援の貢献度が刊行物等で繰り返 アメリカが自らの支援でポーランドの体制転換が可能になったと自負することは︑体制転換後のポーランドをアメ
リカ的な民主主義に仕上げていこうとする根拠ともなる︒しかし︑
持っており︑民主化支援という意味でもヨーロッパ諸国によるもの
うした認識差は︑
(P HA RE ) がアメリカの存在を上回った︒こ
(7
)
ポーランドが
E
U加盟を重視するようになると︑ますます拡大していった︒
冷戦の終結とともに︑民主化支援から体制転換を目的とする内政干渉という色彩が消え︑むしろ相手国から支援が 要請されるほどになる︒そうなると︑
委託され︑傘下の団体へと助成する形をとった︒後に︑ されている︒
ポーランドはヨーロッパヘのアイデンティティを アメリカ側の支援の主体も前述の﹁民間﹂色の強い
NED から︑外交の一環と し て の 米 国 国 際 開 発 庁
(USAID ︑
U n i t e d S t a t e s A g
e n c y
f o r
I n t e r n a t i o n a l D e v e l o p m e n t ) ポーランドヘの民主化支援もこうした変容を辿るが︑移行期にあっては︑後ろの表の通り
USAID
予算を
NED
が
NED 傘下の団体も︑他の
NGO や場合によっては営利企業 と競合しながら︑拡大していく
USAID
の予算を直接受け取るようになっていく︒
このように民主化支援の主体に変化は見られるものの︑
アメリカがポーランドに期待した民主化像は︑
いても
USAID
においてもそれほど大きく違ってはいない︒それはアメリカの経験をもとにした民主主義像であり︑
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
︵八
五五
︶
NED
にお
N E
D傘下の民主党系政党財団
(NDI ︑
N a t i
o n a l
R e p u b l i c a n
n s I
t i t u
t e f
o r
I n t e
r n a t
i o n a
l A f
f a i r
s , 後に
I R
I︑
I n t e
r n a t
i o n a
l R e p u b l i c a n
n s I
t i t u
t e
に改
称︶
げる可能性もあった︒ 共産党一党支配︑あるいは擬似多党制から民主化する場合の︱つの鍵が︑複数政党が政権交代の可能性をもった形で競合できる政党制度の確立であった︒ポーランドの場合︑いて︑共産党と対抗する勢力として連帯の存在が既に認められていた︒院︶は共産党議員が多数派を確保するよう割り当てられていたが︑上院は自由選挙で行われ︑その結果二六一議席のうち一議席を除き連帯の議員が占めた︒こうして︑共産党自身が認める形で共産党一党支配に幕が引かれた︒
しかし︑共産党一党支配が終わったことは︑対立する様々な政治勢力が自由に立場を表明することにつながり︑
九九一年に行われた次の選挙においては︑﹁原子化﹂とも称されるほどに︑多数の政党が分立した︒反共産主義の勢
力が分裂してしまうことで旧共産党の勢力は容易に多数派を形成することができ︑アメリカからはポーランドが再び
( 8
)
共産化する懸念が持たれた︒また︑地下での抵抗運動しか経験してこなかった連帯を母体とする政治勢力が︑政権政
党として政策を作り︑議会で立法化させていく責任をどう取ることができるかというノウハウも必要であった︒さら
には︑反共産主義ではあってもアメリカの目指すようなリベラルな民主主義とは距離のある政治勢力が支持基盤を広 政党制度への支援
関法
第五三巻四•五号
N a t i
o n a l
D e
m o
c r
a t
i c
I n s
t i t u
t e )
と共和党系政党財団
(NRIIA ︑ 一九八九年に行われた選挙では︑セイム その前提条件としての複数政党が存在するのみでなく︑地方分権が進み︑草の根の市民社会が発達しているという︑必要最低限の﹁部品﹂を移植することで︑その理想像を再現しようとした︒
は ヽ ︵ 下
一九八九年の体制移行に先立って行われた円卓会議にお
九八
︵八
五六
︶
地方自治への支援 め 労働者階級とリベラルな知識人が合流したものであったため︑具体的な政策の方向性は大きく隔たっていた︒そのた こぞってポーランドの政党制度の強化を目標として活動を行った︒連帯を母体とする政治勢力は︑もともと保守的な N
D
Iと
NRIIA
は︑保守・リベラルそれぞれの対象勢力に働きかけを行ったのである︒ポーランドが共産党の
手に戻ることを防ぐという共通の外交目標のために︑
越同舟的な現象でもあった︒
政党制度に対する支援が︑どのくらい個々の政党への支援と距離があり︑内政干渉にならないのかという点では議
論が残る︒常套句的になされる正当化は︑政党制度と政党は異なっており︑政党﹁制度﹂の弱点を補強することは民
主化の土台として必要なことだというものである︒しかし︑
NED
がラテンアメリカで行ってきた政党﹁制度﹂
支援は︑常にアメリカ的制度に近い︑すなわち反共勢力に有利なように政治的影響を与えてきたという問題を抱えて
︑こ
し︑
しtアメリカ国内で政党﹁制度﹂
九九
アメリカ国内では対立する両党の組織が力を合わせたという呉
の強化を掲げてソフトマネーが蔓延し︑政党活動そのものが変容することに
なった経緯を考えれば︑政党制度と政党の線引きがいかに微妙であったかは明らかである︒そもそも共産党政権復活
の阻止を目的として︑反共産勢力の一本化を狙う活動である以上︑アメリカの政党財団の活動が内政不干渉の原則に
反することは明白であった︒それでも︑市場経済化を急速に進めるためにアメリカの支援に依存していたポーランド
において︑そうしたアメリカの介入を拒む余地は共産党にはなく︑アメリカの政党団体の活動は黙認された︒
共産党体制のもとで中央集権の進んだポーランドに︑本当の意味で民主主義を取り戻すには地方に政治的権限を分
散する必要があると考えたのは︑実はアメリカではなく︑ポーランドの政治家であった︒ポーランド上院に選ばれ︑
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
︵ 八
五 七
︶
へ の
下水道をめぐる決定から︑病院の運営︑教育政策など︑
第五三巻四•五号
一九
八九
年︑
ことができるというのが︑支援を推進する論理となっていた︒
一九九八年には︑国
︵八
五八
︶ 上院地方自治委員会の長を務めることになったイェージー・レグルスキー 財団
(FSLD ︑
F o
u n
d a
t i
o n
i n S
u p p
o r
t o
f L
o c
a l
D e
m o
c r
a c
y )
を設立し︑地方政体において民主的な組織と政治参 ポーランド系アメリカ人委員会
(PAC ︑
P o l i
s h A
m e
r i
c a
n C o n g
r e s s )
が
U S A I
Dの資金を獲得し
ラトガーズ大学
( R u t
g e r s
T ,
he
St a
t e U
n i v e
r s i t
o f y
Ne
w J
e r s e
y ) が同じく
U S A I
Dから委託され﹁ポーランド地方民主主義
( L o c
a l D
e m
o c
r a
c y
n i
P o
l a
n d
) ﹂という
プログラムを開始した︒ラトガーズ大学ではロシア・中東欧研究センター所長のジョアナ・レグルスカ
(9 )
R e
g u
l s
k a
) 教授が窓口となったが︑彼女は
F S L
Dを設立したレグルスキー議員の娘であった︒アメリカの民主主
( J
o a
n n
a
義を支えるのは建国にさかのぼり存在する地方自治であり︑そうしたアメリカこそがポーランドにモデルを提供する 体制転換後のポーランドでは︑共産党の支配のもとでは全く政策決定に関わってこなかった市民が︑選挙によって
突然政治家となり︑非常に多くの技術的な判断を必要とする内容に関して立法を行うこととなった︒例えば︑地元の
一度に国のレベルから地方のレベルに決定権が降ろされてし まった︒党の官僚に置き換わる形で︑市民自身が政策に関わることは︑草の根から民主主義を育てていくという点で は意味があるものの︑受け皿ができていない中での権限委譲は非常に非効率的な作業であった︒
と地方政体の間に中間的行政単位を作ることで︑全ての決定を一っ︱つの地方政体で行うことの非効率性に修正が加
えられた︒ て ︑
F S L
Dの
活 動 に 支 援 を 始 め た が
︑ 翌 一 九 九
0
年に
は︑
加を推進しようとした︒
関法
( J
e r z y
e g R
u l s k
i )
100
は︑地方民主主義支援
2
.市民社会への支援
として重点を置いたのが︑市民社会の育成であった︒
こうした状態の中で︑公共政策を運用していくノウハウの提供という形をとったのがアメリカの支援であったが︑
それがポーランドの人々にとって本当に必要な形で提供されたかどうかは疑問が持たれている︒
派遣されたアメリカ人コンサルタントの活動は︑首都ワルシャワを中心として数日にわたる無償のセミナーを行い︑
地方自治に必要な知識や技能を伝達していくという一方的なものであった︒
USAID
の資金が一九九五年頃から減
( 1 0 )
少しセミナーが有償となると︑地方政体の予算を使ってまでセミナーを受ける受講生の数も減少していった︒むしろ
細々と続いていたのは︑
ポーランド人自身が初めから対価を受け取って運営していた地方自治支援プログラムで︑こ れらはワルシャワ以外の都市に自治のノウハウを指導できる人材を育成しようとするものであった︒
国から地方への権限移譲という短期的なショック療法によって︑党に依存する中央集権的な政治が分権化されたこ とは事実であるが︑そうした政治を担っていけるだけの市民が育たない限り︑地方に民主主義が根付いたとはいえな
い︒地方自治を内側から支えていくものとして︑
10
USAIDの資金で
アメリカの民主化支援が自国をモデルとしながら最も基本的な要素 ポーランドは︑前述のように他の東欧諸国に比べて市民社会の空間が比較的広く守られてきた︒しかし︑基本的に
共産党の政治に対抗するものとしての市民社会のあり方は︑地下組織化した連帯に代表されるように︑政治を協働で 作り上げていくという経験を持たないものである︒政治と並立する伝統的なアメリカ型の市民社会︵市民社会
I )
‑)
対して︑市民杜会
I I とも称される反体制的な市民社会の活動を︑どのようにして政治の場の活動を支える市民的資質
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
︵ 八
五 九
︶
第五三巻四•五号
︵ 八 六
O )
を備え︑政治と協働することを目標とする市民社会
I I I
へと変容させうるかがポーランドの課題でもあった︒
一九九四年末には二万九五八0
件の団体が登録し︑これらの団体の地方組
( 1 2 )
織が一万二ニ︱六︑そして全国規模の財団が四四六五︑地方財団が七七五にのぼっている︒これらの団体の中でも︑
共産党体制との連続性が低く︑ポーランドの民主化にとって重要な意味を持つと思われる分類として︑若者育成︑
G
Oネットワーク形成の二つについて︑事例を検討してみたい︒
共産党の組織があらゆるレベルに浸透していた社会から︑そうではない社会へと急変する中で︑最も方向性を失っ たのが若者であるといわれる︒若者が新しい社会のあり方︑特に市場経済化に適応していくことを手助けするために
一九九二年に設立された団体に︑ポーランド子ども•若者財団(Polish
C h
i l
d r
e n
a n
d Y
ou
th
F o
u n
d a
t i
o n
)
があ
る︒
若者たちに自信を持たせ︑寛容さ︑和解という社会の規範を身につけるだけでなく︑社会に積極的に関わる姿勢を育 むこと︑すなわち市民社会の一員として求められる資質・態度の育成が活動指針となっている︒
この
団体
は︑
( l
) 地元において若者のために政府やメディアと連携をはかる︑
( 2 ) 未就学児の教育方法の変更に ついての訓練︑特にコミュニケーション能力︑創造力︑社会性︑自尊心の育成などを行う︑
( 3 ) 社会的資源として 若者を活用するなどを柱に活動をしている︒特に若者の活用においては︑助成金を出して若者が実際に地域で活動す ることを支援したり︑若者の能力開発としてコミュニケーション技能や大人との協調性を育成したり︑社会的技能︑
すなわち計画︑予算作成︑資金調達︑発信手段としてのメディアとの協力などを訓練したりしている︒
若者育成
体が数百存在していたに過ぎなかったが︑
市民社会の発達を示す︱つの指標が団体の結成と活動である︒
関法
N
一九八九年以前のポーランドには︑中央集権的な団
10
一九九六年度は活動の五九パーセントを若者への助成金に使っており︑特に一五ーニ
0オがその対象となっている︒
逆に︑収人のほとんどは財団︑特に外国の財団からの助成金に依存しており︑地元の銀行や企業からの寄付はわずか
に留まっている︒外国の資金には︑
トのような政府資金や︑
子どもや若者への働きかけが市民社会育成の中でも特に重視される理由は︑市民社会の必要とする資質や態度が︑
外から強制できるものではなく︑内側から自発的に生じるのを待つしかないという性質にある︒短期的な取り組みで は成果が生じないが︑それがすなわち支援の失敗と考えることはできない︒
NGo
ネットワーク形成
前述のように︑
フォード財団︑
USAID
の民主化ネットワーク・プロジェクトや
PHAREの対話プロジェク
( 1 4 )
コカコーラ財団︑日本の笹川平和財団なども含まれている︒
モッ
ト財
団︑
ポーランドの市民杜会の活動は外国の助成金に多くを依存しており︑それらの財源が短期的に成果 をみながら助成の方針を変更することで活動にも影響が及んでいる︒そうした中で︑
ような土台作りとして︑
NGo 同士や NGo と公的機関を結ぶネットワーク形成が試みられている︒これは現地
N G
0
のエンパワメントと称することができる動きで︑支援国の決めた方針を一方的に受け入れる立場から︑自らの目的 や主張に沿った支援を求めていく主体性を手に入れようとした︒その一っとして︑
t h
e M ov em en t o
f S
e l f , H
el
p I
n i t i
a t i v
e F o
u n
d a
t i
o n
)
一九九二年に設立されたBORIS
は ︑ ての育成や資金調達のノウハウなど︑初歩的な訓練をはじめとし︑
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ の活動があげられる︒
︵八
六一
︶
コンサルティング︑訓練︑ボランティア・ス
NGO が安定した活動を行える BORIS
NGO
や政府機関に対して︑
( 1 5 )
タッフの組織化︑情報交換などを主な柱として活動を行っている︒
BORISが提供する内容は︑
1 0
1 ︱ ︱
NGO
の組織とし
NGO の活動に必要なデータベースの集積︑さら
( S
u p
p o
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f O
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財団
( S t e
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B a
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)
第五三巻四•五号
に
N G
oと地方政府とを結ぶ窓口を作る役割も果たしてきた︒中でも︑
BORIS
の働きかけで一九九五年にワル シャワ市政府が
N G
oを市の活動に系統的に組み入れる決議を採択したことで︑市の予算で行われる社会福祉プロ
ジェクトの実施を
NGO
が委託されるという官民の協働関係が生まれた︒
て政府と
NGO が政策に関して長期的な協働関係を作る﹁協力のための基盤﹂決議も採択され︑官民が一体となって また︑政府以外に市民社会の活動を支援できるパートナーとして︑﹁コミュニティ財団﹂という概念のもとに地元
の企業への働きかけも行われた︒
つまり官民の間のネットワークだけでなく︑営利・非営利間のネットワークも試み られている︒さらに
BORIS
では︑国内
NGo
と外国の
NGo とのネットワーク形成も試みられている︒助成や寄 付に頼らざるを得ない
NGO は﹁巨人の前のネズミ﹂に過ぎないが︑ネットワークを形成することで︑その力をある 程度集合化することが可能になるという考え方である︒
ポーランド人自身による市民社会作りとは言い難いが︑外国政府の民主化支援とは異なる︑民間による活動として 指摘しておかなくてはならないのが︑ジョージ・ソロスのオープン・ソサエティの資金によるステファン・バトリー
国政府との相対的関係において︑
アメリカの評価基準
複数政党制︑地方自治︑そしてそれを担う市民の育成という
真は
︑
の活動である︒ポーランド人自身がプログラムの主導権を握るという意味で︑外
ポーランド
NGO
のエンパワメントと考えることができる︒
ポーランドではどのように成功したのであろうか︒米国国際開発庁がプログラムの成否をみる一般的基準とす
ワルシャワの社会問題に取り組む態勢もできた︒ 関法
アメリカが自己の民王主義像に基づいて描いた青写
一九九七年には︑単なる資金の委託をこえ
10
四
︵ 八
六 二
︶
していると言える︒ 情報公開︑政治文化という五つの柱が立っている︒中でも︑
NGo
(C B0
︑
10
五
︵八
六三
︶
るガイドブックから︑市民社会支援の成功について引用したのが後ろの図である︒法整備︑政治参加︑
NGO
の発
達︑
コミュニティ団体と称される︶
が最大の点検項目を与えられており︑そこにはアメリカ社会が典型的に表わしていると思われる価値︑資金調達能力 も含まれている︒こうした項目は︑必ずしも現地の実情を反映していないだけでなく︑他国による民主化支援の評価 アメリカ的な市民社会像に基づくと︑活性化された市民社会では人びとは複数の市民社会団体に属することになる
のだ
が︑
ポーランド以外の体制転換国について行われた調査によると︑必ずしも団体への帰属が︑市民社会の成熟に つれて増加しているわけではない︒市民社会のより長期的かつ基本的指標として用いられるのが︑社会的資本と称さ れる信頼の度合いであるが︑これに関しても︑市民社会団体が活発であることがすなわち信頼の度合いを高めている
とは限らず︑むしろ歴史的な背景が人びとの信頼度に大きく影響を与えているという指摘もある︒
しかしながら︑様々な条件をコントロールして行われた調在によると︑参加型の市民教育を多く受けるほど︑人々 の信頼度に上昇がみられており︑その限りにおいてはアメリカや西側の民主化支援は︑市民社会育成の期待値を満た
むし
ろ︑
ポーランドの共産党支配下において︑市民社会に活動空間を残していた教会が︑今日ではラジオ・マリア に代表されるような保守的な︑非寛容な政治勢力の母体となっており︑問題を呈している︒これは︑民主化を支援し
ているアメリカ自身の足元で︑キリスト教保守派が政治に圧力を加えていることに相当している︒その意味で︑
リカの民主化モデルそのものに︑落とし穴があったのかもしれない︒
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
と一致するものでもない︒
アメ
の活動
第五三巻四•五号 民王主義は輸出可能なのか︒二
0
0三年にはアメリカのイラク侵攻の理由としてイラクの民主化が掲げられ︑軍事
占領による民主化が第二次世界大戦後のドイツや日本の成功例によって正当化された︒軍事占領の正当性という大前 提をめぐる議論を別としても︑政治文化の違い︑歴史的経験の違い︑外国勢力の正統性の違いなど︑民主主義の輸出 が成功するか否かには︑個々の国の条件が加わることは︑イラクでのその後の混乱によって明白になった︒
それでは︑冷戦後の体制転換に西側諸国が多くの国々に対して行った民主化支援はどう評価されるのであろうか︒
一九
九
0年
代に
は︑
ていった︒その大きな流れの中では︑何が効果があり何が失敗するかを見極める時間もなかったことは確かである︒
USAID
のプログラムは﹁壁にスパゲッティを投げつけて︑何本かでも落ちなかったものが成功だ﹂という手探り
( 2 0 )
状態であったとも語られる︒
アメリカにおいては
NED
を先
駆と
し︑
においては
PHARE
を機軸とした民主化支援が︑それぞれアメリカ的︑
ンドの民主主義像を描いていった︒中でもアメリカが重視した市民社会の育成の成否は︑民主化支援の他の柱である 法の支配や複数政党制というような︑数値や客観性にもとづく判断にはなじまないだけに︑何を基準として評価する
( 2 1 )
のかという問題は今日でも残っている︒むしろ一九九
0年代の試行錯誤がようやく社会に対する影響を表わすように
なったことで︑それらの結果に関して最近数多くの研究がなされるようになった︒体制転換の必要に迫られた現実と
関法
アメリカはもちろん西ヨーロッパ諸国でも民主化支援が巨大産業のように台頭し︑予算を消化し
お わ り に
USAID
の大型予算を機軸とした民主化支援が︑また西ヨーロッパ諸国
ヨーロッパ的民主主義に沿うようにポーラ
10
六
︵八
六四
︶
距離を置くことで︑
10七
︵ 八 六 五
︶
かえって民主化支援をめぐる客観的な判断の難しさが浮き彫りになったと言えるのではないだろ うか︒外からの支援が外から評価されるのではなく︑
ポーランド社会の内側からの評価が待たれるところである︒
ポーランド市民社会におけるアメリカ民主化支援の位置づけ
表 体 制 転 換 期 の NEDからポーランドヘの民主化支援
年度 胤 餓 内 六介 甘的カテゴリー 金額($)
1989 CIPE 前稟団体設立,民間企業訓I練 市場経済化 19,275
ITUI 教員胤合による教員訓I練 市民社会育成 24,000
FTUI 労働紺合強化,人権教育 市民杜会育成 435,000
FTUI 連帯支援 市民社会育成 1,000,000
IDEE 人権,出版団体の支援 市民社会育成 177,000
IRC 連滞支援 市民社会育成 1,000,000
NDI 議員教育 民主政治 82,678
NRI 出版支援 市民社会育成 20,000
PAC 文化,人権,出版支援 市民社会育成 263,000
CIPE (USAID) 面業団休設立,民間企業訓I練 甫場経済化 42,500
Columbia Univ. (USAID) 経済問題をめぐる研究 市場経憐化 108,868
FTUI (USAID) ビデオ制作支援 市民社会育成 30,000
IDEE (USAID) 言論の自由協会支援 市民社会育成 30,000
PAC (USAID) ポーランド語B刊紙支援 市民社会育成 55,000
PAC (USAID) 他方政治の支援 民主政治 42,500
TOTAL 3,329,821
1990 CIPE 市場経済化のための法制度支援 市楊経済化 77,900
CIPE 民間企業に関する日刊紙支援 甫場経済化/市民社会育咸 122,265
CIPE (USAID) 商I会議所による経憐分析支援 市場経済化 113,280
Georgetown枷iv. 中東欧外交研究 民主政治 40,000
FTUI 健康保険組合の研究 実益供与 93,704
FTUI 連帯支援 市民社会育成 340,000
FTUI (USAID) 学校改革支援 市民社会育成 40,000
FTUI (USAID) 他方連帯の出版支援 市民社会育成 45,000
FTUI (USAID) 連需支援 市民社会育成 1,493,550
FTUI (USAID) 市場経済移行の負担軽滅 市場経済化 75,000
IDEE (USAID) 地下出版の合怯活動支援 市民社会育成 100,000
関法第五三巻四•五号
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