『江戸紫』モデル考
著者 黒澤 暁
雑誌名 國文學
巻 99
ページ 109‑117
発行年 2015‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/9241
﹃江戸紫﹄モデル考
一︑はじめに たため︑久松町の古着問屋坂松屋善兵衛の養子となる︒後に善
兵衛の実子が生まれ︑宗治郎は実子に家督を譲るため放蕩生活
を送る︒勘当された後︑宗治郎は許嫁のお組と別れ︑一人上州
へ旅立つ︒上州では絹問屋の手代として働き︑この縁により江
戸で商売をはじめる︒ある日宗治郎は︑得意先の家で琴の師匠
をするお組と再会する︒さらに得意先で宗治郎は︑実の祖父と
会いこれまでの経緯を語る︒実祖父の働きかけにより︑宗治郎
は坂松屋からの勘当が解かれ︑お組の零落していた家を再興さ
せる︒宗治郎とお組は無事結ばれ︑坂松屋とお組の実家はとも
に栄える︒
稿者が問題としたいのは︑﹁江戸紫﹂の舞台が久松町の古着問
屋と設定されている点である︒従来の研究では︑この点には言
及されておらず︑坂松屋の所在地として久松町がふさわしい場
黒津暁
109
﹁江戸紫﹂は︑文化年間︵一八○四〜一八︶に成立したとされ
︵1︶
ている写本小説で︑刊行されずに︑貸本によって流通した︒作
者は不明だが︑職業作家ではなく繊維業関係者で素人作家では
︵ワニ
ないかと推察されている︒また﹁江戸紫﹄は︑﹁清談峯初花﹂︵十
︵3︶
返舎一九著︑初編文政一一年刊︶の粉本としても知られている︒
﹁清談峯初花﹂が人情本初作品とされていることから︑﹁江戸紫﹂
は人情本史にとって重要な作品と位置づけられる︒その上︑現
︵4−
在までに三十一一一本の諸本が確認されており︑当時広く読まれて
いたことが想像できる︒
まずは︑﹁江戸紫﹂のあらすじを簡単に紹介する︒主人公の宗
治郎は︑西国から駆落ちした浪人夫婦の子供で︑両親が早世し
本節では︑久松町がどのような場所であったのか︑作品描写
と成立時期の資料を比較し︑久松町に古着問屋があったか検証
する︒
まずは﹁江戸紫﹂において︑久松町と坂松屋がどのように描
かれているかを確認する︒
・久松町辺に広々住ひ︑古着丹物木綿物数々あきのふ商人
にて︑名は坂松屋善兵衛辿︑代々続きし富貴の家有り︒
夫婦中むつましく︑下ノ〜迄も慈悲深く心に任せし身な
︵5︶
れ・・・︵巻之一︶
・扱又愛に西国辺の浪人にて︑人がらも賎しからぬ若き夫
婦︵中略︶二入り連れにて当処もなしに迷ひ来たりて︑
少しの知る家を便り︑彼の善兵衛か地面内に店を借り︑
渡世の業も知らされは︑妻は琴の指南をして︑一日二日 二︑﹃江戸紫﹂の舞台久松町 と立つ⁝︵巻之ご
右引用部にあるように︑坂松屋は久松町で代々古着屋を営む富
商で︑宗治郎の実父母が江戸で浪人となった際には︑敷地内に
店を貸し与えている︒また︑宗治郎が勘当される場面に︑﹁狐久
松町にては︑京都の大番頭下りて︑段/︑宗治郎が事を聞いて︑
今夜中に宗治郎返り候は雰直ぐに寄合て相談最中︒︵巻之二︶﹂
と記されることから︑坂松屋は京都に本店があることがわかる︒
一般的に︑江戸の商家は︑大きく二つに分けることができる︒
一つは︑本店が上方にあって︑江戸の需要に応えるために江戸
に店を持つ出店︒もう一つは︑武士から商人になるなどして︑
江戸で商売をはじめる地店である︒出店は家康入府以降︑御用
商人として長く江戸の需要を支えていた︒また上方や伊勢・近
江などに本店があるため資本力があり︑有力な商家であった場
合が多い︒さらに出店の場合︑働く人間は全て男性であった︒
一方地店は︑大きな資本力を持っていない場合が多く︑店の規
模と数において出店に劣る︒
﹁江戸紫﹂の場合︑京都に本店があり坂松屋は出店となるが︑
﹁夫婦中むつましく﹂とあるように夫婦住まいであることから矛
盾が見られる︒加えて﹁江戸紫﹂の結末で︑宗治郎の勘当がと
かれる場面が描かれるも︑京都の本店は登場することなく︑宗
1 1 0
所であるか検証されていない︒そこで本稿では︑﹁江戸紫﹂の舞
台に着目し︑久松町がどのような町であったか︑また古着問屋
が存在していたかを明らかにする︒その上で﹁江戸紫﹂が実在
の商家をモデルとしていた可能性を提示したい︒
11]
【図一一A1「日本橋北神田浜町絵図」(国方同会図密館デジタルコレクション)
治郎の実祖父が直接養父
へ働きかけることでそれ
が成立している︒つまり︑
﹁京都の本店﹂が登場する
のは︑坂松屋が大きな商
家であると印象づけるた
めの効果と考えられる︒
ただ︑このような描写が
あるにしても︑坂松屋が
老舗で裕福な商家として
描かれ︑その地域に久松
町が選ばれている点には︑
何らかの意図があったの
ではないだろうか︒
では︑実際に久松町は︑
どのような地域であった
のだろうか︒まずは久松
町の位置を︑図一として
掲げた﹁日本橋北神田浜
町絵図﹂︵嘉永三年﹇一八
︵6︶
五○﹈刊︶の地図から確認する︒これによれば︑久松町は浜町
堀に架かる栄術の東詰にあることがわかる︒また︑﹃江戸買物独
案内﹄︵文政七年﹇一八二四﹈︶によれば︑久松町周辺には︑古
着問屋が軒を連ねており︑そこには江口屋仁平治の名前が挙が
︵7︶
っている︒
この古着問屋江口屋について︑詳しく記述されている資料に
︵8︶
﹁古着問屋旧記︵以下﹁旧記﹂し﹂略記︶﹂がある︒この﹁旧記﹂
は古荊問屋が榔典される際に︑幕府への返答として出されたも
ので︑歴代江川屋に関する記述をはじめとする様々な文普が収
められている︒まず初代の江口屋に関する記述は︑次のような
ものである︒
一難波町裏川岸古着問屋江口屋仁平治祖先は︑武家の浪人
にて︑江口藤兵衛と申候︑但し︑競上出羽守様御幕下羽
州機屋の城主江口五郎兵衛の男と承り候︑機屋落て上方
に登り︑後に上野国に住し︑元和の始頃御当地に来り︑
【図一一B】久松町周辺拡大図(「図一一Aの拡大)
一先祖藤兵術奥筋に木綿出来不し申候儀は承知し候に付︑元
和八成年より古着を買入︑奥筋に売渡し申候︑苗字を其
のま曾屋号と仕候︒
引用部では︑江口屋を﹁難波町裏川岸﹂としているが︑延享三
1 1 2
年︵一七四三︶から文政十二年︵一八二九︶の間︑江口屋は久
︵9︶
松町にあった︒そのため﹁江戸紫﹂成立時点では︑江口屋は久
松町に存在し︑開業から約百八十年続く老舗の古着問屋であっ
た︒つまり﹁江戸紫﹂の坂松屋が︑久松町の老舗古着問屋とし
て描かれるにあたっては︑江口屋という実在する老舗の古着問
屋を下敷きとしている可能性が考えられる︒
三︑宗治郎と江口屋当主との共通点 それは武士の血筋であることが影響していると考えられる︒宗 治郎の実父母は元々西国の武家で︑由緒正しい家柄であった︒ 小説において︑武家の血は優れた人物の条件として設定される ことが多いが︑先に引用した﹁旧記﹂の記事にあるように︑江 口屋は武家の出身であった︒つまり︑宗治郎と初代江口屋が武 士という点で共通している︒よって宗治郎が武家の血を引く存 在としたのは︑優れた人物として造形する以外の目的があった のではないか︒
また︑宗治郎のもうひとつの特徴として︑血のつながりを重
視する姿勢が挙げられる︒
其上此程母の遺言にて初て此家の血脈にあらん事を知り︑
其時より何卒此家を善治郎に譲り度思ひ︑是よりお組をも
難面くあしらい︑︵中略︶何卒善治郎と中能く夫婦にならば
さいわい︒︵巻之二
右の通り︑養母の遺言によって宗治郎は︑家の血を引いていな
いことを知り︑実子善治郎に家を相続させようという考えに至
る︒一方許嫁のお組の家に対しても︑同様の姿勢が見られる︒
わたしも室町のしんしやうを取り立てるのはお組を思ふ所
ではない︒︵中略︶母へ一つの恩をかへそふと思ひ此説其普
請最中︑出来たならは︑お賎さんの子蔑之介を主にして︑
113
前節では︑﹁江戸紫﹂で描かれる久松町と実際の久松町を比較
し︑坂松屋に類似する実在の古着問屋に江口屋の名前が見られ
ることを確認した︒本節では︑具体的に坂松屋宗治郎との共通
点を明らかにし︑宗治郎のモデルとなりうるかについて述べた
いO 宗治郎は左の引用のように︑若くから家業を手伝い︑そのう
え孝行を尽くす理想的な人物とされている︒
発明なる事は一チを聞いて蔦を悟り︑十四才の時より︑し
よ/〜の屋敷表向見世のしめ括り︑一入りしてするくらい
の︑其上に親孝行の事ゆへ︑廿四孝の其中に︑またとある
まじきといふ・・・︵巻之一︶
1 1 4
別の古着問屋山田屋としている︒つまり︑五代目仁平治から︑
六代目六郎兵衛への相続は︑血縁が重視されたものと言える︒
こうした五代目の姿は︑宗治郎の特徴につながると考えられる︒
また作品の結末で︑善治郎が坂松屋を継ぎ︑宗治郎がお組の
実家を再興させた後に︑それぞれの子供についての描写が見ら
れる︒
︹図二︼江口屋家系図︵﹁古筋問屋旧記﹂をもとに作成︶ 元の通り糸店を椿へやふと其心掛て・・・︵巻之五︶
お組と宗治郎の養母とは︑姪と叔母の関係であり︑右の引用の
通り︑宗治郎がお組の実家を再興させれば︑養母への恩返しに
つながる︒ただお組の家を再興させるといっても︑宗治郎自身
が家業に関わるわけではなく︑寓之介︵お組の甥︶を当主とし
ている︒ここでも宗治郎は︑相続において血筋を重視している︒
このように︑血筋による相続を重んじる姿は︑宗治郎という人
物を特徴づける大きな要素といえよう︒こうした特徴を踏まえ︑
﹁旧記﹂における五代目仁平治の記事に着目したい︒ちなみに︑
江口屋の家系図については︑図二に系図を掲げたので︑適宜参
照されたい︒
︵Ⅲ﹀
五代目江口屋仁平治
ママ
右は五代目は︑甚右衛門召仕に有し之候処︑相続人幼少に
付︑甚右衛門養子に相成︑古着問屋相続仕︑甚右衛門残置
候幼少の体六郎兵衛に六代目相続為し致︑右仁平治実体の
跡山田屋平右衛門と仕︑本家同様古着問屋渡世為し仕候︑此
平右衛門後に仁平治と改名仕候︒
五代目仁平治は︑四代目甚右衛門のもとで働いたが︑甚右衛門
の子六郎兵衛が幼かったため︑養子となり江口屋を相続した︒
六郎兵衛が成長した後︑仁平治は江口屋を譲り︑自身の実子は
両家の賑わい善兵衛隠居して世の中の事は宗治郎善治郎に
任せ︑さいわい宗治郎の一子金次郎を善治郎の娘お幸と行
/〜は夫婦にして久松町の跡を取らすれぱ︑宗治郎の窪も
たち︑兄弟中能く繁盛の元ならん⁝︵巻之五︶
善治郎と宗治郎のそれぞれの子が︑夫婦になることで︑二つの
家が一つとなり︑ますます栄える︒こうした出来事は︑江口屋
においても見るられる︒
七代目江口屋六郎兵衛
右七代目古着問屋相続為し仕候処︑享保八卯年中早世仕候︑
依し之六代目六郎兵衛事甚右衛門︑江口屋の家名断絶を相
嘆き︑前書五代目仁平治の枠にて別段古着問屋渡世罷仕候
平右衛門事山田屋仁平治を以︑八代目相続為し仕︑此節両
家一軒に相成︑村松町え引移り申候︒ る点︑血縁による相続を重視する点の二点に集約できる︒これ らの特徴を︑江口屋の当主と照らし合わせたところ︑以下のよ うな共通点が見られた︒ ①宗治郎と初代藤兵衛は武家の出身であること︒ ②宗治郎の血縁による相続を重視している姿が︑五代目仁平
治に見られること︒
③もとは別々の二つの家がひとつとなること︒
つまり︑﹁江戸紫﹂の主人公である宗治郎と︑久松町に実在し
た江口屋の当主との共通点が多いことから︑宗治郎のモデルと
してかれらを想定することは妥当であるといえよう︒
本稿では︑﹁江戸紫﹂が︑久松町にある老舗の古着問屋を舞台
としていることに着目し︑﹁江戸紫﹂が実在の商家をモデルとし
ていた可能性を検証してきた︒﹁江戸買物独案内﹂によれば︑久
松町周辺には古着問屋が軒を連ねており︑そこに江口屋仁平治
の名前があがっていた︒江口屋仁平治を﹁旧記﹂で確認すると︑
開業から二百年近く続いた老舗であった︒また﹁江戸紫﹂の主
人公である宗治郎と江口屋当主との共通点が多く︑それらを下 四︑おわりに
1 1 5
この記述によれば︑七代目の早世による︑家名断絶を嘆いた六
郎兵衛が︑山田屋として別家していた五代目の実子を八代目仁
平治とした経緯がわかる︒また江口屋の当主は︑甚右衛門や六
郎兵衛の名を用いていたが︑八代目以降は仁平治を名乗ってい
る︒すなわち︑仁平治という名前を継承することで︑五代目を
特別な存在として位置づけていたのではないだろうか︒
以上のように︑﹁江戸紫﹂の宗治郎の特徴は︑武家の出自であ
︵注︶
︵1︶鈴木圭一﹁﹁江戸紫﹂諸本考﹂︵﹁鯉丈往来﹂一五︑二○一
四年一二月︶︒
︵2︶前田愛﹁﹁江戸紫﹄I素人作者の役割l﹂︵﹁国語と国文
学﹂三五︑一九五八年六月︶︒
︵3︶注︵2︶前掲書︑前田氏は﹁江戸紫﹂粉本とする作品とし
て︑﹁清談峯初花﹂・﹁洗鹿子紫の江戸染﹄︵墨川亭雪麿著︑初
編天保六年刊行︶・﹁琴声美人録﹂︵山東京山著︑初編弘化四年
刊行︶・﹁春色江戸紫﹂︵山々亭有人箸︑初編元治元年刊行︶の 四作をあげている︒ ︵4︶注︵1︶前掲書︒ ︵5︶本文の翻刻は︑国立国会図書館所蔵本︵五巻五冊︶を底
本とした︒また翻刻には︑適宜句読点・濁点を加えた︒
なお﹁江戸紫﹂の翻刻は︑拙稿﹁写本﹁江戸紫﹂翻刻紹介
︵一︶﹂︵﹁人間文化﹂三三︑二○一四年一月︶︑﹁写本﹁江戸紫﹂
翻刻紹介︵二︶﹂︵﹁人間文化﹂三四︑二○一四年四月︶︑﹁写本
﹁江戸紫﹂翻刻紹介︵三︶﹂︵﹁人間文化﹂三五︑二○一四年九
月︶を参照のこと︒
︵6︶国立国会図書館デジタルコレクションによる︒
︵7︶早稲田大学図書館蔵本︵古典籍総合データベース︶によ
る︒巻之二﹁ふ﹂項には︑伊勢屋又次郎︵新大阪町︶︑松坂屋
小兵衛︵元浜町︶︑大惣屋又兵衛︵富沢町︶︑井筒屋善次郎︵田
所町︶︑松坂屋治兵衛︵元浜町︶︑富田屋四郎兵衛︵富沢町︶︑
松坂屋佐吉︵元浜町︶︑江口屋仁平次︵久松町︶︑近江屋与兵
︵富沢町︶︑美濃屋宗三郎︵室町二丁目︶の名前が見られる︒
﹁江戸買物独案内﹂では︑﹁江口屋仁平次﹂とあるが︑﹁旧記﹂
では﹁江口屋仁平治﹂とある︒以降本稿では︑﹁旧記﹂の﹁仁
平治﹂表記に統一する︒なお︑久松町に古着問屋があったこ
とは︑白石孝﹁日本橋村松町・久松町商業史覚書﹂︵﹁三田町
1 1 6
敷きとした可能性が高いことがわかった︒
以上のことから推測すると︑﹁江戸紫﹂は江口屋周辺の人物に
執筆されたのではないだろうか︒また︑実在する人物を想起さ
せる記述が見られることから︑出版されず貸本を通じて流通し
ていたと考えると︑﹁江戸紫﹂が出版されなかった点に説明がつ
く︒