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上司小剣「絶滅」から『灰燼』への改変をめぐって

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上司小剣「絶滅」から『灰燼』への改変をめぐって

著者 荒井 真理亜

雑誌名 國文學

96

ページ 213‑231

発行年 2012‑03‑01

URL http://hdl.handle.net/10112/9194

(2)

上司小剣﹁絶滅﹂から﹃灰燈﹄への改変をめぐって

こわ人〜ながら故郷の父のことを書いて見た︒そして後藤

宙外氏に頼んで新小説に職せて貰った︒

これが私の小説と云ふもの︑書初めである︒

﹁処女作﹂とは一般に︑その人が初めて創った作品︑または最

初に発表した作品をさす︒上司小剣は﹁神主﹂が﹁私の小説と

云ふもの︑瞥初めである﹂と述べている︒つまり︑﹁神主﹂は上

司小剣の﹁処女作﹂で︑上司小剣が初めて書いた小説︑もしく

は発表した最初の作品だというのである︒

上司小剣は﹁処女作時代﹂︵﹁女性﹂大正B年6月1日発行︑

第5巻6号︶でも︑﹁私が真に文壇へ出たのはわりあひにおそ

く︑後藤宙外氏の紹介で︑﹁新小説﹄に処女作﹃神主﹂を出した

時は︑小川未明氏なぞ︑既に小説家として有名であった﹂と語

っている︒

その小説﹁神主﹂は︑明治四十二年八月一日発行の﹁新小説﹂ 荒井真理亜

●●心●︒− 上司小剣は︑後年︑自己の処女作について︑﹁上京当時の回想﹂︵﹁文章世界﹂大正3年6月1日発行︑第9巻6号︶の中で︑次のように記している︒

東京に来てから間もなく︑寓朝報の懸賞短篇小説に三四度

出して見たが一回も当選しなかった︒あの懸賞募集は今で

もやってゐるやうであるが︑その頃の選者はたしか松井松

葉氏であった︒私はその三四回の落選に懲りて︑小説など

は通も書けるものではないと思ってゐた︒それから一二年

経って島村抱月氏に初めてお目にか︑つたのが︑私の初め

て真の文学者といふものに近づいた初めで︑島村氏から頻

りに小説を書けと勧められたが︑矢張り恐ろしくて手が出

せなかった︒それから五六年も後に﹁神主﹂と云ふ題で︑

(3)

文も︑﹁神主﹂を小説として読むに足るものと認めている︒片上

天弦が﹁この作者の作は初めて見た﹂と述べているように︑﹁神

主﹂は上司小剣が文壇で作家として注目されるきっかけとなっ

た作品と言えるかもしれない︒上司小剣は幸運にも﹁処女作﹂

によって︑作家として認められたというのであろうか︒

ところが︑﹁神主﹂は上司小剣が初めて曹いた小説ではない︒

上司小剣は﹁神主﹂以前に︑既にいくつかの小説を書いて︑発

表している︒

上司小剣が初めて発表した小説は︑明治四十年一月一日と同

年二月一日に﹁簡易生活﹂︵第4︑5号︶に発表した﹁三寸﹂と

いう作品である︒﹁三寸﹂は有楽町の仁愛新聞社で翻訳係をして

いる宇都宮太郎の日常を描いたものであるが︑物語が完結しな

いまま﹁簡易生活﹂の連載は中絶している︒明治四十年二月一

日発行の﹁簡易生活﹂︵第5号︶に掲載された﹁三寸﹂の末尾に

は﹁︵つずく︶﹂とあったが︑その後﹁簡易生活﹂に﹁三寸﹂が

掲載されることはなかった︒また︑﹁三寸﹂の続きが他の新聞や

雑誌に発表されることもなかった︒上司小剣は﹁三寸﹂が未完

だったため︑自分で初めて書いた小説と認めなかったのであろ

うか︒

次に︑上司小剣は﹁絶滅﹂という小説を書いている︒﹁絶滅﹂

二二 IJLI

に発表された︒﹁神主﹂は発表されてすぐに︑片上天弦によっ

て︑﹁新作月評﹂︵﹁文章世界﹂明治妃年8月過日発行︑第3巻n

号︶の中で︑大変好意的に評された︒

この作者の作は初めて見た︒今月の﹁新小説﹂中︑作品と

して読むに足るものはこの一篇のみ︒神主の直臣やその家

庭も︑ほず描かれてゐる︒神主といふ職とその生活との対

照が︑一層浅ましくも哀れに思はせる︒題材も新らしく着

眼も面白く︑描写の筆も可なり巧みである︒

また︑無署名ではあるが︑﹁創作界﹂︵﹁早稲田文学﹂明治妃年

9月1日発行︑第拠号︶にも︑次のように紹介されている︒

﹁新小説﹂八月号の内で小説らしいものはこれ一篇︒︿中略﹀

﹁神主﹄は﹁貧乏で︑短気で︑病気で︑年寄で︑先の見込は

一つも無い﹂と云ふやうな老朽した神主と其妻子を書いた

ものである︒妻は割合に若い︑が神主は既に性欲は無くな

った︒もう食ふ事と飲む事ばかりになった︑が好きな酒も

胃潰傷の為め医者にとめられてしまった︒﹁酒が飲めぬやう

なら生きてゐてもつまらん︒酒をやめてまでも生きてゐた

くはない﹂と云ふのである︒錐がパサノ︑して居ると評し

た人があった︒

片上天弦の﹁新作月評﹂も﹁創作界﹂における無署名の紹介

(4)

した作品であり︑上﹃

よい作品なのである︒ は﹁週刊社会新聞﹂に明治四十年九月十五日︵第略号︶から明治四十一年二月九日︵第拓号︶まで︑計二十一回連蔽された︒﹁絶滅﹂もまた︑作品の完結を待たずに︑連載が途中で打ち切られた︒しかし︑連載終了後も後半部分が書き継がれ︑さらに題名も﹁絶滅﹂から﹁灰燈﹂に改められて︑明治四十一年六月十五日︑単行本﹁灰峻﹂として春陽堂より刊行されたのである︒

﹁三寸﹂については︑上司小剣は未完だったことを考慮して︑

処女作とはみなさなかったのであろう︒しかし︑﹁灰儀﹂は完結

した作品であり︑上司小剣が初めて書き上げた小説といっても

﹁灰燈﹂は発刊された当時︑文壇において全く注目されなかっ

たのかというと︑そうではない︒﹁絶滅﹂という題で﹁週刊社会

新聞﹂に連載されていた時の批評は管見に入らなかったが︑単

行本として﹁灰煙﹂が刊行されてからの書評は数多く存在する︒

日本近代文学館には︑上司小剣の御遺族から寄蔵された資料が︑

﹁上司小剣コレクション﹂として所蔵されている︒その中に︑上

司小剣が﹁灰燈﹂の書評を集めた切抜帳︵﹁新案抜翠張﹂第3

版︑明治似年8月1日発行︑春陽堂を使用︶がある︒切抜帳に 上司小剣は﹁灰燈﹂については﹁なんの思ひ出もなく︑文壇意識といふやうなものは残ってゐ﹂ないというのである︒

なぜ上司小剣は﹁灰燐﹂ではなく︑﹁神主﹂を﹁処女作﹂と

し︑﹁木像﹂を﹁処女出版﹂だと言ったのであろうか︒

どうやら︑上司小剣が﹁処女作﹂︑﹁処女出版﹂という言葉を

使う時︑そこには﹁文壇意識﹂が関係しているようである︒で

は︑上司小剣の﹁文壇意識﹂とはどのようなものであったのか︒

上司小剣のいう﹁処女作﹂﹁処女出版﹂とは︑文壇で初めて認め

られた作品という意味なのであろうか︒

・・一応 上司小剣は﹁私の処女出版I文壇諸家の思ひ出ばなしl﹂︵﹁大

阪毎日新聞﹂昭和4年2月4日発行︶においても︑﹁明治四十四

年の一月︑今古堂から出した﹁木像﹂といふのが︑小説の処女

出版です︒その一二年前︑春陽堂から﹁灰憾﹄といふ百四五十

ページの小冊子を出しましたから︑それが本当の処女出版にな

りませうが︑﹁灰燈﹂については︑なんの思ひ出もなく︑文壇意

識といふやうなものも残ってゐません﹂と語っている︒上司小

剣は︑明治四十四年一月五日に今古堂より刊行した﹁木像﹂を

もって︑﹁私の処女出版﹂としている︒上司小剣にとって﹁灰

儀﹂こそが単行本化された最初の小説であるにもかかわらず︑

(5)

⑪小川未明﹁机上雑感﹂︵﹁秀才文壇﹂第8巻Ⅳ号︑明治

4年8月過日発行︶

⑫無署名﹁新著紹介﹂︵﹁都新聞﹂明治佃年7月羽日発行︶

⑬無署名﹁新刊紹介﹂︵﹁文章世界﹂第3巻9号︑明治4

年7月晦日発行︶

⑭岡田孤煙弓灰燈﹂に現れたる当代の青年﹂︵﹁新声﹂第

四巻2号︑明治4年8月1日発行︶

⑮無署名無題︵﹁独立評論﹂第似年6号︑明治仙年8月

1日発行︶

⑯島村抱月﹁対墓庵漫筆﹂︵﹁早稲田文学﹂第調号︑明治

虹年Ⅲ月1日発行︶

⑰安倍生﹁新刊紹介近刊十二種﹂︵﹁慶腫義塾学報﹂明

治紐年8月賜日発行︶

⑱無署名題未詳︵﹁毎日電報﹂初出未詳︶

⑲無署名﹁近刊小説﹂︵﹁文芸週報﹂明治似年n月皿日発

行︶

これらの書評を簡単に紹介しておくと︑まず︑⑰﹁慶腰義塾

学報﹂には﹁尤も小剣君の本職は小説家ぢやないのだから︑甚

だ感服しない所もあるけれども︑其の代りにまた所謂小説屋の

作物に於て味ふ事の出来ない旨味がある﹂とあり︑⑲﹁文芸週 ↓一↓︑廻〆

帖付されている﹁灰儀﹂の書評は十九点で︑上司小剣によって

掲載紙誌名が記されている︒切抜帳にある﹁灰燈﹄の書評を︑

貼付順に次に挙げておく︒

①XYZ無題︵﹁読売新聞﹂明治虹年6月記日発行︶

②無署名﹁新刊批評﹂︵﹁やまと新聞﹂明治姐年6月羽日

発行︶

③無署名﹁新刊批評﹂︵﹁菖朝報﹂明治4年7月7日発行︶

④無署名﹁新刊紹介﹂︵﹁東京二六新聞﹂明治似年7月肥

日発行︶

⑤無署名﹁人事片々﹂︵﹁社会新聞﹂初出未詳︶

⑥KK生﹁一風変った小説上司小剣の﹁灰燈匡︵﹁中央

新聞﹂明治4年7月週日発行︶

⑦SY﹁新刊紹介﹂︵﹁帝国文学﹂第皿巻7号︑明治虹年

7月皿日発行︶

③無署名﹁新刊紹介﹂︵﹁報知新聞﹂明治虹年7月廻日発

行︶

⑨長谷川天渓﹁文芸時評l吾をして自由に語らしめよ﹂

︵﹁太陽﹂第u巻n号︑明治虹年8月1日発行︶

⑩無署名題未詳︵﹁火柱﹂第1巻6号明治似年8月過

日発行︶

(6)

さを指摘されている︒

⑫﹁都新聞﹂でも︑﹁作者は確かに人世のさまみ〜を一つの盤

上に盛り来るの伎涌ありて而も之を庖丁し得るには未だしとい

ふべきか︑但し近刊中の佳作なるは論なし﹂と評されているよ

うに︑これらの書評は︑上司小剣の技術的な未熟さを指摘しな

がらも︑﹁灰憾﹂の題材や視点の面白さを評価した﹁灰燈﹂に対

する好意的な批評であるといえるだろう︒

一方︑③﹁寓朝報﹂は﹁灰燈﹂を厳しく批判した︒﹁著者の意

は何事かを暗示せんとしたものであらうが︑十分に現はれてゐ

ない上に︑人物の印象も極めて不明瞭だ﹂と述べ︑﹁要すると駄

作︑故に︵?︶序文で﹁耕作﹂と題して智きつずけやうとも思

却も↓屯ってゐる﹂と逃げた﹂と﹁灰避﹂を﹁駄作﹂として否定してい

る︒

﹁灰駿﹂の主人公の寺田については︑②﹁やまと新聞﹂で﹁巻

中のヒーロー寺田の遂に自然主義実行者の一人となれるは其本

来の主義よりいへば別に非難すべき所これ無きにしもあらずと

難も其実行の場所並に動機に於て卿か叙事を欠くの嫌ひあり﹂

と評された︒寺田がお吉の色香に抵抗できなかったことは︑寺

田が﹁自然主義実行者の一人﹂となったと解釈されている︒ま

た︑同じ場面を︑⑤﹁社会新聞﹂では﹁濃艶締麗︑殆ど自然主

一仁

報﹂にも﹁素より小説家に非ざる著者の事とて︑構想は勿論︑

文章にも今一ト息と思わる︑節少からざる代はりに︑また他作

家には見られぬ旨味あり﹂とある︒注目したいのは︑当時上司

小剣は既にジャーナリストとして知られていたということであ

り︑﹁灰燈﹂の執筆は新聞記者が本業である上司小剣の余技と見

なされたようである︒しかし︑それゆえに他作家には見られな

い﹁旨味がある﹂と評価された︒

⑱﹁毎日電報﹂では﹁灰燈﹂は﹁小説としての想櫛は上乗の

ものではないが︑小剣独特の奇警な筆致篇中の人物もよく活動

して読んで面白い作である﹂と評された︒それに対し︑③﹁報

知新聞﹂には﹁小山田家の密生にして私立大学を卒業せる寺田

の革命思想等尤も著者の意を用ゐたる所なるべく特に寺田が感

情と理智の心的葛藤の如きは本書中の主なるべけれど惜しい哉

対話の生硬にして性格描写の不充分なる為め往々隔靴掻捧の感

あらしむ中に就て平五郎の娘お吉は比較的に善く描かれたり﹂

とあり︑⑬﹁文章世界﹂の﹁新刊紹介﹂には︑﹁処女作にしては

中々よく書けて居ると思った︒殊に目黒の特色の出て居るのに

は敬服した︒作中の人物は今少し明かに出るやうにして貰ひた

い︒それに作者の立場が芸術的よりも実行的に傾いて居るので

精々もすると同情文学になる﹂とあって︑人物描写の物足りな

(7)

芸時評l吾をして自由に語らしめよ﹂の中で︑次のように評

している︒

︒﹁灰煙﹂は︑上司小剣子の処女作である︒トルストイ流の

行き方で︑一種穏健なる社会主義的思想を述べてある︒

農家の貧乏なる状態や︑田舎の模様は︑よく描写されて

あるが︑人物は︑余りに作り過ぎてあるやうだ︒殊にお

吉が︑不自然に個人主義的である為に︑全篇の自然の成

行を破壊してゐる︒末段に寺田が日記を焼く所は面白い

が︑その前夜の光景は︑壮士芝居的で面白くない︒とは

言ふもの魁処女作としては成功してゐる︒

◎皮相の写実主義の行はれた頃には︑一方には空漠たる理

想主義︑観念小説などが行はれた︒然るに今日︑写実主

義を一歩進めた自然主義的傾向が起ると全様に︑一方に

は明確なる人道上の主義を含蓄した小説が出るやうにな

った︒これ文学者の思想が︑人生に接近した証で︑前代

に比すれば一階進んだものと謂ふべきである︒

◎小剣子の作は︑一種の主義を持って︑人生に接近せむと

するもので︑自然派の勃興と相並んで︑必ず現れねばな

らぬ傾向である︒又木下尚江子の﹁乞食﹂も︑此の流れ

を代表する作である︒吾人は此の傾向は︑其の盤にて大

ノL

義の小説を読む心地す﹂と評された︒さらに⑫﹁都新聞﹂でも

寺田を﹁自然主義に常識の是を掛けたる学生﹂と述べている︒

これらの書評は︑主人公の寺田の言動に注目し︑﹁灰燐﹂の自然

主義小説的傾向を指摘したものといえる︒

⑦﹁帝国文学﹂の﹁新刊紹介﹂で︑SYは﹁要するに本篇は

文に特別の彫琢のあらはれてゐるでも無く︑事実に大発展があ

るわけでも無いが︑吾人をして読んで興味あらしむるは遥に﹁婦

系図﹂の上にある︒吾人は此種の作物を喜ぶ︒現代は﹁純正美

術﹂を歌ってすまして居るべき呑気な時代では無いと思ふ﹂と

述べ︑泉鏡花の﹁婦系図﹂と比較した上で︑﹁純正美術﹂とは異

なる新しい傾向を﹁灰燈﹂に見出している︒⑥﹁中央新聞﹂で

KK生は︑﹁新旧思想の衝突を書いたものも幾許もあるが︑これ

ほど際立って書かうとしたものはないヰットに任せて書いたも

のも幾許もあるが︑これほどハイカラ式の警句に富んだものは

ない此の二点に於て此の小説は一風変って居る﹂﹁確に読書壇の

注意を惹く価がある﹂と述べている︒④﹁東京二六新聞﹂は﹁本

書は新時代の表徴として︑将た時代潮流の指針として︑小説以

外に亦見る可き処あり﹂という︒﹁灰憾﹂はそれまでになかった

新しい傾向の小説として受け止められたようである︒

この新しい傾向について︑長谷川天渓は︑⑨﹁太陽﹂の﹁文

(8)

だらうと思ってゐる︒余は小倹氏が益々自重自愛せられて︑

深刻なる社会問題に携はれて筆を下されん事を希望する︒

﹃灰燈﹂に出た人物では︑害沓家で小人物の正式の性格が目

に見るやうに活躍して︑そずろに其の人の面影を偲ばしめ

るお吉の侠なる性質も動いてゐる︒たず主人公の寺田が何

んだか物足りない︒革命思想を抱く青年としては余りに意

気地がない処がある︒兎に角此書は近来での文壇の快著で

ある︒

明治という時代も四十年経過し︑社会のひずみが次第に露わ

になっていく中で︑文学においてもさらに一歩踏み込んで社会

問題を扱うような作品が求められたのであろう︒

﹁灰燈﹂の書評は毅誉褒瞳あり︑描写や構想の未熟な点を指摘

されながらも︑題材や視点の面白さが評価された︒瞥評の数や

内容を見ても︑刊行当時﹁灰燈﹂は確かに話題になったといっ

てよいであろう︒

このように︑上司小剣は﹁神主﹂を発表する以前に︑既に﹁灰

燈﹂で広く注目されていたのである︒にもかかわらず︑上司小

剣は﹁灰燐﹂を﹁処女作﹂﹁処女出版﹂として認めていない︒

上司小剣の﹁灰煙﹂刊行当時のことを回想して︑中村星湖が

﹁材料二三﹂︵﹁文章世界﹂大正6年5月1日発行︑第廻巻5号︶

二二 Jし

に発展せむことを望む︒

長谷川天渓は︑﹁灰駿﹂にある﹁一種穏健なる社会主義的思

想﹂を指摘し︑﹁自然派の勃興と相並んで︑必ず現れねばならぬ

傾向﹂として﹁灰燈﹂を評価している︒岡田孤煙も︑⑭﹁新声﹂

の弓灰燈﹂に現れたる当代の青年﹂で︑﹁灰燈﹂を﹁日本に於

ける社会小説として尤も注意すべき創作の一といふくし︒尤も

好き意味に云ふ社会小説の模型は初めて﹁灰燈﹂に現はれたり﹂

と述べており︑﹁灰憾﹂を社会小説として位置づけた︒

また︑小川未明も︑⑪﹁秀才文壇﹂の﹁机上雑感﹂において︑

ママ﹁上司小倹氏の﹁灰燈﹂を読んで頗る感心した﹂として︑次のよ

うに述べている︒

ママ上司小倹氏の﹁灰燈﹂を読んで頗る感心した︒余は思った︒

将来氏のやうな人によってゾラの如き社会問題に触れた大

作が書かれるのであらうと︒少なくも小倹氏は多くの作家

と異った頭を有ってゐる︒筆に力がある︒力といっても石

を切る如き火花の出る力だ︒全篇を通じて厭味な匠気とい

ふものが少しもない︒飽迄素人の書いた小説といふ風があ

る︒其所が頗る気に入った︒叙景の筆も新しく︑一種肺肺

を貫かんとして用意せる熱気が字底に潜んでゐるやうな感

がする︒何時かきっと此の気が凝って大作をなす日がある

(9)

島村抱月は︑⑯﹁早稲田文学﹂に発表した﹁対墓庵漫筆﹂で︑

﹃灰健﹂について︑次のように述べている︒

暗い材料の割に暗くない︒篇中で一番よく書けてゐるのは

平五郎の家であるが︑それが今一息と思ふ︒最も目につく

のは寺田といふ瞥生を中心にして理学士や令嬢やらが寄せ

集める一系の思想である︒近代人といふよりも︑寧ろ近代

思想そのもの︑一辺を寓せんとした作と評してよからう︒

初作で長篇の為でもあらうが︑作り過ぎた所がある︒初の

平五郎一家がてんノーに不平を述べるあたりなども︑並べ

過ぎた︒会話の活動力が足りない︒要するに次の長篇には

もつと真実の度を加へて欲しい・同じ作者の短篇﹁神主﹂

が寸金の光を放つのも真実だからであらう︒

島村抱月は﹁灰燈﹄を﹁作り過ぎた﹂として批判した︒そし

て︑真実が描かれているとして﹁神主﹂を﹁寸金の光を放つ﹂

と評した︒

周知の如く︑当時の文学界は自然主義文学が隆盛で︑島村抱

月は自然主義文学の理論的指導者であった︒島村抱月の批評は︑

自然主義文壇を先導していくだけの力を有していたと言っても

過言ではない︒そのような意味でも︑島村抱月の批評は︑上司

小剣にとって重要だったのである︒そして︑島村抱月は﹁灰儀﹂ 一一一一つ

の中で︑次のように語っている︒

上司氏がその処女作﹁灰燈﹂を発表した頃は︑ちやうど私

が学校を出て早稲田文学社へ入った頃だったと記憶する︒

その作はたしか島村抱月氏に宛て︑寄贈されたのであった

が︑多忙な島村氏は直ぐに読んで批評を醤かなかったと見

えて︑上司氏から催促の端書が来た︑それを島村氏が何う

したわけでか私達に見せた︒その端瞥には何でも︑﹁多士

済々の文壇には読むべき物が多くて僕のやうな者の書いた

物は目を通す暇もないかも知れぬが︑何とか批評して下さ

い﹂といふやうな文句が記されてゐたやうである︒

中村星湖の回想によると︑上司小剣は島村抱月に﹁灰燈﹂を

寄贈し︑批評をしてもらいたいと願っていたようである︒上司

小剣が島村抱月の批評を所望した理由については︑先にあげた

﹁上京当時の回想﹂から推察される︒もともと小説家を志してい

た上司小剣は︑懸賞小説の落選に懲りて︑小説を書くというこ

とに臆病になっていたという︒その上司小剣に︑小説を瞥くよ

うに勧めたのが︑同じ読売新聞社に籍を置いていた島村抱月だ

ったのである︒小説家になることを諦めかけていた自分に︑再

び小説を書くことを勧めてくれた島村抱月に︑上司小剣は﹁灰

煙﹂を読んで批評してもらいたかったのである︒

(10)

より﹁神主﹂を評価したのである︒ゆえに︑上司小剣は﹁灰駿﹂

ではなく﹁神主﹂を﹁処女作﹂だと述べたのではなかったか︒

上司小剣にとっては︑自作が時評で取り上げられたというだ

けではなく︑文壇のどういう位置にいる人に︑どのような点で

認められたかが問題だったのである︒それが上司小剣のいう﹁文

壇意識﹂ではなかったか︒そのような﹁文壇意識﹂が︑上司小

剣の﹁処女作﹂に対する認識には深く関わっているのである︒

まず︑この挿画について︑触れておきたい︒﹁︵二の一︶﹂︑﹁︵三︶

の二﹂︑﹁︵四︶の二﹂の挿画にある﹁夢﹂という署名は︑のちに

大正ロマンを代表する画家として活躍する竹久夢二のものであ

る︒明治三十四年に上京した竹久夢二は︑翌三十五年︑早稲田

実業学校に入学した︒﹁読売新聞﹂の﹁日曜附録﹂に投書したも

のが活字になったり︑﹁中学世界﹂に投稿したコマ絵や﹁ハガキ

文学﹂に応募した図案が入賞したりした︒この頃から﹁夢二﹂

という署名を用いる︒さらに︑明治三十九年には︑島村抱月編

﹁少年文庫﹂壱之巻の装頓や口絵などを担当している︒明治四十

年に岸たまきと結婚し︑たまきをモデルにした﹁夢二式美人﹂

が生まれた︒同じ年︑竹久夢二は読売新聞社に入社し︑時事ス

ケッチを担当している︒

上司小剣と竹久夢二とは︑﹁絶滅﹂の発表以前から親交があっ

たようで︑竹久夢二は明治四十年四月七日に上司小剣に宛てて︑

﹁四月七日/さきほどは/突然/御じゃまいたし御馳/走に相成

候/奥様へも/よろしく/御伝へ下され度候/上宮比町四/幽

冥路﹂︵長田幹雄編﹁夢二書簡I﹂平成3年2月n日発行︑夢寺

書坊︶という絵葉書を送っている︒竹久夢二は上司小剣と︑突

然自宅を訪問し︑﹁御馳走﹂になるほどの間柄だったのである︒

さらに︑明治四十年六月二十五日には︑上司小剣に宛てて︑﹁ま

勾与○吾凸 先にも述べたように︑﹁絶滅﹂は﹁週刊社会新聞﹂に明治四十

年九月十五日︵第略号︶から明治四十一年二月九日︵第調号︶

までに計二十一回連載された︒

﹁絶滅﹂には時々挿画が付けられており︑連戦中に掲載された

挿画は全部で四枚である︒そのうち︑﹁︵二の一︶﹂︵第四号︑明

治如年皿月6日発行︶︑﹁︵三︶の二﹂︵第調号︑明治如年n月3

日発行︶︑﹁︵四︶の二﹂︵第記号︑明治⑩年吃月8日発行︶に付

された挿画には︑﹁夢﹂の署名が入っている︒頁五の一︶﹂︵第釦

号︑明治虹年1月1日発行︶に付された挿画には︑署名はなく︑

﹁松の内わが女房よチョット惚れ﹂という句が記されている︒

(11)

既に上司小剣と竹久夢二は面識があったと思われる︒そのよう

な両者の交流に加え︑﹁絶滅﹂の発表の場が﹁週刊社会新聞﹂だ

ったこともあって︑上司小剣の﹁絶滅﹂の挿画を竹久夢二が描

くようになったのではなかったか︒

﹁絶滅﹂連載中の明治四十年十月三十日にも︑竹久夢二は上司

小剣に宛てて︑﹁御起居いかず︒/実にたまらない気候で忙しい

事︒/函館の末司といふ方の宿所御/しらせ下さい︒次の﹁絶

滅﹂のさし絵の説明と共に︒お願ひし/ます﹂という絵葉書を

送っている︒この絵葉書から︑挿画のために上司小剣が﹁絶滅﹂

の内容を予め竹久夢二に知らせていたことがわかる︒

また︑竹久夢二は︑明治四十一年五月二日に上司小剣に宛て

て﹁御ぶさたしました︒/春陽堂から本をお出しになるそうで

すがもし絵が入るのでしたら画かせて下さい︒/絶メッとは別

のものですか﹂と上司小剣の単行本の挿画を描きたい意思を示

していた︒しかし︑上司小剣は挿画を必要としなかったようで︑

﹁灰燈﹂には挿画はない︒代りに烏山悌成の撮影による目黒周辺

の写真が挿入された︒

さて︑単行本﹁灰煙﹂は︑明治四十一年六月十五日︑春陽堂

より刊行された︒﹁灰餓﹄は紙装仮綴の四六判で︑目次はなく︑

本文が全二百四十四頁である︒ 句②︒●■■

た汽車にのりおくれました︒買っておいた︑オミヤゲは腐りは

すまいかと環は申候迩も/夜分はダメに候近い休暇にゅるノ︑

訪ねます︑僕ダケならいつでもい︑けど︑是非ゆきたいと言ひ

ますゆへ︑さよならぱ﹂︵長田幹雄編﹁夢二書簡I﹂前掲︶とい

う番簡を出しており︑近々新妻・たまきとともに上司小剣宅を

訪ねるつもりだというから︑この頃には竹久夢二は上司小剣と

家族ぐるみの付き合いをするほど親密になっていたと言えるだ

ろう︒

竹久夢二は︑明治四十年に読売新聞社に入社し︑上司小剣と

同じ社で働いていたのであるから︑そこで二人は知り合い︑親

しくなったのだろうか︒しかし︑先の明治四十年四月七日付上

司小剣宛絵葉瞥の竹久夢二の署名に注目すると︑﹁夢二﹂ではな

く︑﹁幽冥路﹂となっている︒この﹁幽冥路﹂という署名は︑竹

久夢二が﹁平民新聞﹂でコマ絵や川柳を発表する際に用いてい

た筆名である︒竹久夢二は︑明治三十八年頃から︑友人であっ

た荒畑寒村の紹介で平民社発行の﹁直言﹂にコマ画を掲載した

り︑﹁光﹂や﹁日刊平民新聞﹂に調刺画を発表したりして︑社会

主義者たちとの親交を深めていった︒同じ頃︑上司小剣もまた

社会主義者たちの集まりに参加していたから︑竹久夢二が読売

新聞社に入社する以前に︑社会主義者たちの集まりを通じて︑

(12)

しかし︑﹁絶滅﹂の連載開始より︑三か月前の明治四十年六月

二日発行の﹁週刊社会新聞﹂の﹁同志の消息﹂欄には︑﹁▲上司

小剣君目下﹁絶滅﹂と題する翻訳のやうな創作のやうな小説

ママのなうな論文のやうなものを書きかけて居ります︵五月十九日︶﹂

とある︒明治四十年五月十九日には︑上司小剣は﹁絶滅﹂を櫛

想していたのだろう︒しかし︑この時点では﹁絶滅﹂を翻訳に

するか︑創作にするか︑小説にするか︑論文にするかを決定し

ていなかったのである︒このことから︑上司小剣には﹁絶滅﹂

という題に関係する︑何か明確な主題があったと思われる︒

また︑上司小剣は﹁灰燈﹂の﹁序﹂で︑﹁篇中に現はれてゐる

人物で︑まだ書き足らぬのが多い︒それはさらに︑﹁耕作﹂と題

して︑書きつずけやうとも思ってゐる﹂と述べていた︒しかし︑

続篇の﹁耕作﹂は結局書かれていない︒上司小剣は﹁灰駿﹄の

出来に満足していなかったのであろう︒だから︑﹁灰燈﹂の﹁序﹂

において︑自ら﹁書き足らぬ﹂点を認め︑続篇を書くことをも

って︑その言い訳とせねばならなかったのである︒

では︑なぜ﹁灰燈﹂は﹁序﹂でわざわざ言い訳をせねばなら

ないほどの不完全な作品になってしまったのだろうか︒

明治四十一年二月九日発行の﹁週刊社会新聞﹂には︑﹁絶滅﹂

の連載終了に関し︑次のようなお詫び文が掲載された︒

ご一宇一宇■ 上司小剣は﹁灰燈﹂の﹁序﹂で︑次のように述べている︒

この小説を書き始めたのは︑去年の九月五日で︑それか

らヒマヒマに少しづ︑書いて︑今夜漸く書き終った︒随分

長くか︑つたものだと︑自分ながら呆れる︒

初めから読み返へして見ると︑気に入らぬところが多い

が︑一寸面白いと思ふところも少しはあるので︑度胸を据

ゑて出版した︒

篇中に現はれてゐる人物で︑まだ書き足らぬのが多い︒

それはさらに︑﹁耕作﹂と題して︑書きつずけやうとも思っ

てゐる︒

四十一年三月二十日夜

東京郊外目黒村に於て

著者

﹁この小説を書き始めたのは︑去年の九月五日﹂だというか

ら︑上司小剣が﹁絶滅﹂という小説を書き始めたのは明治四十

年九月五日である︒﹁週刊社会新聞﹂で﹁絶滅﹂の連載が開始さ

れたのは明治四十年九月十五日であるから︑﹁絶滅﹂は連載開始

の直前に起筆されたことになる︒つまり︑上司小剣は﹁絶滅﹂

を書き溜めてから﹁週刊社会新聞﹂に発表したのではなく︑﹁週

刊社会新聞﹂の連載と並行して執筆していたのである︒

(13)

何うしても今年一杯はか︑ります﹂というから︑﹁後篇﹂も

︑社会新聞﹂に連載された﹁前篇﹂と同じくらい書かれる予

あったことがわかる︒しかし︑単行本﹁灰駿﹂として刊行

た時︑書き継がれた﹁後篇﹂にあたる部分は︑わずか六章

全三十一章のうち︑﹁絶滅﹂に相当する部分は十九章

﹁灰燈﹂と﹁絶滅﹂の章立てを一覧表にして示すと︑

ある︒ 小剣日く︑この小説を書き始めてから既に半年になります︒長い間貴重な紙面を塞いで︑さぞ皆さんがお困りであったらうと思ひます︒この上全部完結するまで掲載するには︑何うしても今年一杯はか︑ります︒さう/︑長く皆さんに御迷惑をかけては済まないのみならず︑少し早く全部を纏めて出版したい事情もありますし︑一週間おきに切れ人︑に書いてゐては︑創作の感興も切れ人︑になって︑書きに

くいと云ふやうなこともありますので︑こ︑に前篇の終る

と︑もに一先づ棚筆し︑後篇は一時に続けて書いて仕舞っ

て︑前篇と︑もに出版しやうと思ひます︒それで本誌へは

この回限り掲蔽を止めて別に時々読み切りの小品をばお目

にかけることにいたしますから︑あしからずおゆるしを願

います︒

上司小剣は﹁絶滅﹂の連載中止の理由を﹁少し早く纏めて出

版したい﹂﹁一週間おきに切れ人〜に書いてゐては︑創作の感興

も切れ人︑になって︑書きにくい﹂と説明している︒また︑﹁こ︑

に前篇の終ると︑もに一先づ柵筆し︑後篇は一時に続けて書い

て仕舞って︑前篇と︑もに出版しやうと思ひます﹂という︒つ

まり︑﹁週刊社会新聞﹂に連戦された分は単行本の﹁前篇﹂にあ

たるのである︒さらに︑﹁この上全部完結するまで掲載するに

(12(11) () (9) (8) (7) (6) (5) (4) (3) (2)(1)

戻狸の章立て

︵三︶の四 グ ー 、

ー 〆

例 一 、

、 = 〆

一 、

, 一 〆

一 、

、 − 〆

一 、

ー 〆

一 、

、 = 〆 グ ー 、

ー 〆

一 、

︵一︶ ﹁絶城﹂の軍立て

夢︵竹久夢二︶ 夢︵竹久夢二︶ 挿画

u月別日発行︵妬号︶ n月n日発行︵型号︶ u月3日発行︵認号︶ n月幻日発行︵犯号︶ 皿月加日発行︵創号︶ 皿月週日発行︵加号︶ 皿月6日発行︵四号︶ 9月羽日発行︵旧号︶ 9月躯日発行︵Ⅳ号︶ 明治側年9月賜日発行︵陥号︶ ﹁絶滅﹂の初出﹁週刊社会新聞﹂

(14)

の﹁序﹂には﹁今夜漸く書き終った﹂とあり︑その日

︲一年三月二十日夜﹂となっている︒﹁絶滅﹂の﹁︵六︶

︐週刊社会新聞﹂に発表され︑﹁絶滅﹂の連載が中絶し たのは︑明治四十一年二月九日であるから︑上司小剣は約一か月半の間に﹁絶滅﹂に﹁後篇﹂を書き足し︑﹁灰燈﹂を完成させたことになる︒﹁絶滅﹂の﹁後篇﹂は本来かなりの分量になるはずであった︒しかし︑﹁灰燈﹂において︑その﹁後篇﹂にあたる部分はわずか六章分しかない︒上司小剣は︑そのわずか六章で﹁灰燈﹂を完成させたのである︒そのために﹁篇中に現はれてゐる人物で︑まだ書き足らぬのが多い﹂というような不具合が起こってしまったことは想像に難くない︒つまり︑﹁灰駿﹂は上司小剣が﹁少し早く纏めて出版したい﹂と刊行を急いだために︑不完全な作品になってしまったのではないだろうか︒

上司小剣が﹁灰燈﹂を完成させる際に書き足したのは︑﹁後

篇﹂にあたる部分だけではなかった︒﹁絶滅﹂として発表された

﹁前篇﹂にもかなりの加筆訂正を行なっている︒それらは内容に

かかわる大きな異同である︒では︑﹁絶滅﹂を﹁灰健﹂として完

成させる際に︑上司小剣はどのような改変を行なったのであろ

うか︒

﹁絶滅﹂は平五郎一家の零落した暮らしぶりの描写から始ま

− ● 五 言

了壷

(31) (30) (29) (28) (27) (26) (25) (24) (23) (22) (21) (20) (19(18) (17(16) (15) (14) (13

ノ、

、 = 〆

ノ、

、 = 〆

︵五︶の四 ︵五︶の三 ︵五の二︶ ︵五の二 ︵四︶の三 ︵四︶の二 ︵四︶の一

無署名 夢︵竹久夢二︶

2月9日発行︵調号︶ 2月2日発行︵謁号︶ 1月調日発行︵釧号︶ 1月吃日発行︵記号︶ 明治伽年1月1日発行︵皿号︶ 廻月賜日発行︵羽号︶ 哩月8日発行︵銘号︶ n月1日発行︵号︶

(15)

このように︑﹁絶滅﹂では︑農村であった目黒に競馬場が出

来︑大資本のビール会社が進出してくるという過程で︑畑が奪

われ︑弱小な炭酸工場は倒産し︑資産家も無産家も関係なく︑

生活の安定を失うまでが描かれている︒﹁絶滅﹂の創作意図は︑

巨大資本の流入によって︑目黒村全体が﹁絶滅﹂の一途を辿っ

ていく社会櫛造を描くことにあったと考えられる︒

﹁灰燈﹂の︵別︶では︑﹁絶滅﹂で書かれてきた︑これらの登

場人物たちの生活について︑次のように総括されている︒

たまに東京から遊びに来た人の目には︑生存競争とかけ離

れた平和の村のやうに見えるところにも︑憂愁や︑不安や︑

恐怖や︑絶望や︑煩悶や︑叫喚や︑人の世の黒い影は︑村

に住む人々の周囲を取り巻いてゐるのである︒

﹁絶滅﹂として発表された部分には︑﹁生存競争﹂に破れてい

く人間の悲劇が描かれているのである︒

しかし︑﹁絶滅﹂から﹁灰燈﹂として完結させる際に︑目黒村

の悲劇を描き出すことより︑小山田家の普生・寺田他家士の内

面描写に作者の主眼が移っている︒﹁絶滅﹂から﹁灰儀﹂になっ

た時に書き足された︵u︶︵吃︶︵過︶︵必︶では︑出征する小山

田家の使用人・周吉を相手に︑寺田が居候生活の煩悶と自らの

恋愛観を語る︒﹁灰燈﹂で加筆された部分は︑寺田に関する描写 ︒︽今一心︑

|■一一一〆

る︒平五郎一家は︑目まぐるしく変化していく環境の中で︑職

を失い︑畑を失い︑明日の生活をも知れない極限まで至る︒食

いぶちを減らすために奉公に出されていた平五郎の長男・力は︑

不景気で奉公先から暇を出される︒また︑平五郎の長女・お吉

が女工として働いていた炭酸工場が倒産し︑お吉も失業してし

まう︒目黒に競馬場ができ︑地主が畑を売ったせいで︑平五郎

は借りていた畑を減らされ︑さらに残りの畑も競馬客に踏み荒

らされ︑仕事にならない︒一家六人が路頭に迷う事態に陥る︒

小山田一家は裕福ではあるが︑虚栄心が強く身分に固執する

両親とそれに嫌悪感を抱いている娘との間に次第に乳喋が生じ

る︒小山田政成は勤め先の中央銀行での地位が進んで富が増す

とともに︑また﹁一段上の存続に対する不安﹂に責められて︑

元からあまり肥えてなかった身体も︑ますます痩せていく︒政

成は︑毎日銀行へ出る前と帰った後との数時間を︑妻の京子と

娘の雅子とに対して起こすつまらぬ澗痢に費やしている︒京子

は夫の様子に恐れをなして何事にも口を出さぬようになり︑雅

子は父の様子が日増しに浅ましくなっていくのを卑しむととも

に︑またそれを悲しんで︑自分の室に閉じこもりがちになる︒

金銭的に豊かであっても︑精神的に充たされず︑家族関係も破

綻しており︑小山田一家もまた決して幸せだとは言えない︒

(16)

なりしてゐるものを誘拐して来て︑都会の不真面目な︑虚

偽な生活を覚えさせて︑月謝を取って卒業させて仕舞へば︑

後は飢に泣かうが︑路頭に迷ふが︑一切構はないんですか

らね︒これが為めに毎年々々︑不真面目な生活をしたがる

不生産的の人間がドッサリ僕の学校から出て来て︑社会の

各方面に漂流するのです﹂

﹁絶滅﹂では︑寺田は東亜大学の学生ではなく︑早稲田大学の

学生であった︒先の引用冒頭の﹁付け景気だけではまだ足りな

いんで︑仰山な広告をしたり︑方々へ人を出したりして﹂の部

分は︑﹁絶滅﹂では﹁詰まらないだけならまだ良いんですが︑早

稲田なんか実にひどいんです﹂となっていた︒当時の早稲田大

学の実状がどうであったかは別として︑実在の大学名を出すこ

とで︑上司小剣は﹁絶滅﹂で描く社会矛盾を現実の問題として

読ませようとしたのではないだろうか︒

寺田は︑人間の自由は何者であっても束縛することは出来な

いから︑自由であるために社会のあらゆる束縛に対して反抗し

なければならないと考えている︒しかし﹁絶滅﹂から﹁灰燈﹂

になった時に書き足された︵u︶︵皿︶︵過︶︵必︶で︑寺田の自

己矛盾が露呈するのである︒寺田は︑気持ちの上では小山田や

大学を厳しく批判しながらも︑主人に対しては礼を尽くし︑大

が主である︒﹁灰駿﹂という題も︑小説の最後で︑入営する前に

寺田が自分の書き溜めてきた日記を焼くところからきている︒

次のようである︒

寺田は︑全く過去の生涯を焼き尽したやうに思って︑強

い感慨に打たれつ︑︑畑の行方を見てゐたが︑覚えず梢高

い声で︑﹁灰燈″灰燈″﹂と︑叫んだ︒向ふを眺めると︑桐ヶ谷の丘

は灰色に冬枯れて︑火葬場の姻突が半分ほど見える︒

寺田他家士は︑二十三︑四歳の東亜大学の学生で︑父親の旧

友である小山田政成の家で書生をしている︒寺田の書棚には︑

﹁クロポトキンの露西亜文学の英訳と︑一番古くて汚い仏蘭西文

のバクーニン論文集とが目立って見えてゐる﹂ので︑寺田がア

ナーキズムに関心を持っていることがわかる︒その影稗からか︑

寺田は社会に対して非常に懐疑的である︒寺田は自分の大学に

ついて﹁缶工場の売り出しのやうな付け景気をやって︑無暗に

生徒を引シ張り込んで︑一夜造りの仮小屋見たやうなところへ

入れて置くんですから︑商売としては上手な商売でせうよ﹂と

いい︑さらに次のように述べている︒

﹁付け景気だけではまだ足りないんで︑仰山な広告をした

り︑方々へ人を出したりして︑故郷で真面目に百姓なり何

(17)

長谷川天渓は︑先にあげた﹁吾をして自由に語らしめよ﹂の

中で︑﹁殊にお吉が︑不自然に個人主義的である為に︑全篇の自

然の成行を破壊してゐる﹂と述べた︒しかし︑この自由気まま

なお吉の様子が﹁灰燈﹂の面白さにもなっている︒教育はない

が自由であるお吉が︑教育があるためにかえって自由でない寺

田や雅子を相対化する︒その点で︑やはりお吉は﹁灰燈﹂にお

いて重要な人物なのである︒

﹁いる/︑の苦みに煩悶して考え込む﹂寺田の理解者は︑﹁暗

愚庸劣醜随野蛮﹂な小山田家にあって︑一人娘の雅子だけであ

る︒二人は意気投合し︑﹁自由﹂のないお互いの現状について語

り合う︒一方︑お吉は︑親であっても︑吏員であっても罵倒し︑

食ってかかる︒炭酸工場を解雇されたお吉は借金を元手に競馬

で一捜千金を夢見る︒もちろんその夢は破れてしまうのだが︑

お吉はへこたれない︒お吉の家は今日食べる米もないほど困窮

し︑母親や弟たちは焼き芋で腹を膨らせているのに︑自分は父

親と手元に残った金で出前の鰻鈍を取って食べる︒このような

野放図なお吉は︑寺田や雅子にはない行動力とたくましさがあ

る︒お吉は︑寺田によって﹁旧時代の婦人の地位がどんなもの

:尺

学へもきちんと通う︒親に心配をかけたくないからである︒寺

田は大学卒業後︑入営することを決める︒それは︑寺田の父親

が小山田家にいることを出世の糸口のように思っていて︑訳も

なく小山田家を出ると︑父親を失望させるからだという︒その

ような寺田の言行不一致を︑小山田家で働いていた周吉は﹁お

前は始終己に︑人間の自由は親でも主人でも束縛することは出

来んから︑反抗しろ︑反抗しろと云ったが︑自分は全で駄目だ

な︒主人に悪く思はせないやうに︑親に心配をかけないやうに︑

一生懸命に勉めて︑自分の自由は忘れてるぢやないか﹂と指摘

する︒

寺田は﹁自由︑自由﹂と繰り返すのだが︑一体何をもって自

由とするのか︑その自由の中身は明らかにされていない︒また︑

束縛から解放されて︑どのような生き方を目指しているのか︑

その理想とするところがわからない︒しかし︑寺田は﹁今の青

年は皆いる/︑の苦みに煩悶して考え込むさ︒これが時代の憂

諺と云ふものだ﹂という︒新思想を現実で実行することの難し

さを知って悩み苦しむのは︑寺田だけはなく︑﹁今の青年﹂に共

通する﹁時代の憂諺﹂なのである︒一方で︑知識ばかりが先に

立って︑実行力に乏しい青年の姿もそこにある︒

(18)

窮屈な学風の下にあっても︑若い人の胸には新しい血汐が湧い

て︑時代の思想が流れている﹂︒雅子は友人の勧めで読んだ﹁学

校の教室で聴くこと︑は全で反対のことを書いた﹂本の﹁心臓

の血の躍るを覚ゆる文章に︑云ひ知れぬ面白さを感じて﹂︑﹁其

の種の雑誌や本を買うやうになった﹂︒そして︑雅子は父母に反

抗するようになる︒この反抗は︑父母をできるだけ避けるとい

うような小さな反抗であった︒しかし︑﹁灰燈﹂で加筆された

︵犯︶で︑雅子は﹁独身主義﹂を主張して︑夫に従属しない生き

方を選択する︒雅子の反抗は︑﹁絶滅﹂における消極的な反抗か

ら︑﹁灰駿﹂では積極的反抗に改められている︒﹁灰燈﹂の雅子

は︑近代的自我に目覚めた一人の女性として︑明治期の新しい

女性像を仮託されていると理解することもできるのではないだ

ろうか︒

そのために︑小山田は﹁血統が絶えて︑折角これまで積み上

げた財産が赤の他人の手に渡ると云って大層心配﹂せねばなら

ず︑巨万の富を手にしたために︑存続の不安にさいなまれる︒

金持ちには金があるがゆえの苦しみがあることが示される︒小

山田は次第に痩せていき︑精神的にも不安定になって澗痢を起

こし︑家族に当たり散らす︒つまり︑金銭的な利益追求が幸福

と結びつくわけではないのである︒

ノし

やら︑新時代の婦人問題が何う云ふ風に進んでゐるのやら︑そ

んなことは少しも知らないで︑自分だけは非常に自由に︑非常

に気楽にやってゐる﹂と評される︒寺田は︑さらに続けて︑お

吉のありようを次のように分析している︒

私も初めは失敬なやつだと思ひましたが︑後で考へて見る

と︑あれでも流石に新時代の女性です︑反抗の気がありま

すね︒無論教育は無いが︑解放された婦人です︒父母の束

縛なぞは受けないし︑自分を抑える総べての力に反抗する

んですね︒

寺田によれば︑教育がないことで︑お吉はかえって﹁自由﹂

であるという︒また︑寺田は﹁自分を抑える総べての力に反抗

する﹂のが﹁解放された婦人﹂だと考えている︒この点からす

ると︑自分や雅子は﹁思想が進んで居ても︑肝腎の手足が古い

習慣や道徳に縛られてゐて﹂﹁全く駄目﹂なのである︒教育があ

るために︑社会矛盾や自己矛盾に気づき︑自己の存在にも懐疑

的になってしまう︒そのような近代知識人の苦悩が寺田や雅子

を通して描かれている︒

雅子は帝国女学院に通うため︑小山田家を出て寄宿し︑そこ

で質素な無雑作な生活に馴染んだ︒そして︑それまでの自分の

生活を虚偽だと思うようになる︒雅子の通う学校は︑﹁頑固な︑

(19)

酔った寺田は︑風呂帰りのお吉に介抱される︒寺田に思いを

寄せるお吉は︑まるで別人のように恥じらう︒﹁貧乏な生活をし

てゐても︑流石に青春の熱い血汐は彼女の五体に流れて︑肉の

香が浸みるやうに寺田の鼻を撲つ﹂︒そして︑﹁櫛巻きながらも︑

湯帰りの容色は棄て難く︑嬬蓋を帯びた眼元からは︑愛の露が

滴るやうに見えたので︑彼れは覚えず身体をぞくノーさせた﹂︒

この夜︑二人の間に何があったのか︑具体的には書かれていな

い︒しかし︑その翌日︑寺田は﹁日記に虚言を書くことは出来

ない﹂と言って︑日記を焼く︒このことから︑寺田はお吉との

間に日記には書けないようなことがあったことがわかる︒つま

り︑寺田の理想は肉欲に負けて完全に破綻してしまったのであ

る︒﹁灰儀﹂には︑一人の理想主義者の青年が︑挫折するまでが

描かれている︒

﹁絶滅﹂の創作意図は︑物質的欠乏からくる平五郎一家の不幸

と︑富めるがゆえの精神的不安からくる小山田家の不幸を中心

に︑巨大資本の流入によって目黒村全体が︿絶滅﹀へ向かって

いく悲劇を描くことにあったと考えられる︒しかし︑﹁絶滅﹂か

ら﹁灰燈﹂として完結させる際に︑寺田の描写が大幅に加筆さ

れ︑﹁時代の憂諺﹂を感じて煩悶する﹁今の青年﹂の姿を描くこ

とに主眼が移ったのである︒

自分の生き方を貫こうとする雅子に対して︑寺田は入営する

ことが決まって以来︑﹁自分の身の行末﹂を考えて︑﹁漠然たる

空想﹂に耽り︑﹁無限の憂愁﹂に悶える︒そのような時︑平五郎

一家が村税の滞納で家財を差し押さえられそうになっていたと

ころを助けてやった︒日頃は慈善ということに﹁軽侮と嫌悪﹂

を感じていたが︑﹁自身の前途に種々の恐怖を懐﹂くようになっ

て︑﹁善いことをすれば善い報ひが来る﹂という迷信を実行に移

したのである︒寺田は入営を前に動揺する︒確かに入営は寺田

自身が決めたことだが︑寺田にとって入営は︑小山田家を出る

ための手段であって︑目的ではなかったからであろう︒寺田に

は︑軍人となって国に奉仕するというような目的意識はない︒

寺田は死を意識し︑恐怖に苛まれる︒寺田は眠ることが出来ず︑

停車場のおでん屋で酒を飲む︒酔っぱらった寺田が︑﹁君死に給

ふことなかれ﹂を歌いながら行人坂を行く︒﹁君死に給ふことな

かれ﹂は︑明治三十七年九月︑﹁明星﹂に発表された与謝野晶子

の﹁君死にたまふこと勿れ﹂である︒周知のごとく︑日露戦争

の時に︑与謝野晶子が従軍した二歳年下の弟・簿三郎を思って

作った反戦詩である︒発表当時︑物議を醸したこの詩を寺田が

歌うことで︑﹁灰燈﹂の寺田には戦争そのものに対する懐疑的眼

差しもあると言えよう︒

(20)

付記本稿における上司小剣の﹁灰燈﹂切抜帳の紹介を御快諾

くださいました︑日本近代文学館に心より御礼申し上げます︒ ﹁灰燈﹂の中で︑言

は次のように応える︒

﹁平和な村にも時々騒動がありますが︑去年の今頃は目黒川

に大水が出て騒ぎでしたよ︒今年も今に雨が降るとまた洪

水ですね︒近年まではそんなことは無かったんですが︑川

上に発電所か何かぎ出来て︑水源を荒したので︑雨が降る

と直ぐ大水が出るやうになったんです︒人間の小ひさな知

識が︑自然の大威力に一寸でも指を触れると︑直ぐ恐ろし

い報ひが来るんですね﹂ ﹁目黒は平和な村だね﹂という斎藤に︑寺田︵あらいまりあ/本学東西学術研究所非常勤研究員︶

一一一一 経済発展のために自然を次々に破壊していく社会への警鐘が

鳴らされている︒しかし︑﹁人間の小ひさな知識が︑自然の大威

力に一寸でも指を触れると︑直ぐ恐ろしい報ひが来るんです﹂

という部分は︑﹁絶滅﹂にはなかった台詞で︑﹁灰燈﹂で加筆さ

れたものである︒このように︑﹁絶滅﹂に描かれた様々な社会矛

盾を︑寺田の視点から批判させることで︑﹁灰燈﹂では寺田の社

会に対する問題意識として描いたのである︒

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