普賢寺塔心礎周辺の地形測量調査報告
− 2007 年度−
岩塚祐治
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浜中邦弘Ⅰ.はじめに
現在、同志社大学歴史資料館では南山城総合学術調査として、南山城の古代寺院のデータ集成作 業を実施している。この研究の一環として、2006 年度に同志社大学京田辺キャンパスの南(京田辺 市普賢寺下大門)に位置する古代寺院普賢寺の塔心礎が今も残る丘陵部の測量調査を行い、2007 年 度は前回の調査期間中にできなかった部分の補足的な測量調査を行った。本稿は前回測量図面と合 成して、塔心礎がある丘陵部の概要を主に報告するものである。測量調査は 2008年2月18日から27 日にかけて、同志社大学歴史資料館の指導・監督の下、同志社大学の学生 5 人が測量実施にあたっ た。2006 年度調査の方法・成果や普賢寺の概略については、2006 年度の報告(若林 2007)を参照 されたい。測量の基準点については前回に設定したものをそのまま利用した。なお寺院の名称につ いては近年その典拠となる史料が疑問視されている(馬部 2005)。正徳元年(1711)刊行の『山州 名跡志』では「寺號不詳」とされ、塔跡は現在と同じ位置で記載がされている。ここでは報告内容 と直接的な関係がないため、当地に存在した古代寺院についてはこれまでと同じく普賢寺という名 称で説明していく。
Ⅱ.測量調査の方法と成果
測量調査の範囲は、普賢寺の後身とされる現在の大御堂観音寺の本堂西側丘陵のやや東に突き出 た尾根の東側及び北斜面上である。その尾根の東側に塔心礎が正位置で存在する。その地点からは 南側に眺望が開け、その南には東西に流れる普賢寺川に沿って広がる普賢寺谷を一望することがで きる。現在は樹木が生い茂り、鳥も多く飛来し緑豊かな自然景観を残している。調査ではこの景観 に極力配慮して、測量に伴う伐採は原則行なわずに実施した。
2007 年度の測量調査も前回に設置した、GPS 測量によって国土座標系に準拠した座標値をもつ基 準点(図1の No. 1・2)と、前回に No. 1・2からトータルステーションによる観測を行って丘陵 上に設置したNo.3基準点を用いて可能な限り測量を行い、適宜基準点をNo.3から増設して等高線 測量作業を進めていった。この方法は、地形の形状を、国土座標系を基盤としたデジタルデータと して等高線地図を作成・利用することを目的としている。このため、水準高も公共測量水準点から の観測値ではなく、GPS 測量にもとづく数値となっている。この水準高は、京田辺市作成 1/3000 地 形図にみえる直近の観測地点の標高値とほとんど同じであり、GPS 測量による標高値と公共測量水 準からの観測値のずれが僅少で問題は少ないと思われる。
測量は基本的にレベルで目的の標高値の地点を探し、トータルステーションでその地点の座標値 を測って等高線を作成していったが、樹木が多い、あるいは急斜面のためにレベルを用いるのが困 難な西部分・南部分はトータルステーションでランダムな地点の座標値・標高値を測り、そこから 等高線を想定した(破線部分)。測量の成果が図2である。
Y=-21500m
X=-133500m
Y=-22000m
X=-133500m
測量範囲
No.2 X=-133651.829m Y=-21756.251m H=54.975m
No.1 X=-133645.243m Y=-21656.318m H=54.086m No.3
X=-133620.857m Y=-21844.950m H=74.370m
塔心礎 瓦片
分布域
Y=-21870 Y=-21865
Y=-21875
Y=-21880
Y=-21885
Y=-21890
X=-133620
X=-133615
X=-133610
X=-133605
X=-133600 X=-133625
Y=-21860 Y=-21855 Y=-21850 Y=-21845
X=-133630
X=-133595
X=-133590
Y=-21895
Y=-21900 80.0m
81.0m
82.0m 81.0m 74.0m
75.0m
76.0m
77.0m
78.0m
79.0m
74.0m
75.0m 76.0m
77.0m 78.0m
79.0m 80.0m 82.0m
83.0m
83.0m
図 2 今年度測量図(中心部の薄い等高線は前年度分)(1/300)
塔心礎のある平坦面から北・東・南の 3 方向については、現地踏査ですでに明らかなように極めて 急な崖面であることが図面上に作成できた。それらの形状は周辺の地形状況とあわせて考えても齟 齬をきたすものではなく、問題としてはどの程度地形が侵食・崩落しているかであろう。測量調査 ではそこまで踏みいった議論にはいけないが、塔心礎の存在から平坦面には古代の塔跡が想定され ており、今後発掘調査の機会があれば、その調査成果如何によってその問題は十分解消されるであ ろう。西方向については若干の地形変化がうかがえ、西に緩やかに標高は高くなるものの概ね平坦 な面が続いている状況を表すことができた。なお北側の 80.0 m以下の等高線は、東西方向に走る小 さな谷の底面を押さえていったポイントとなっている。したがってそこから北側へは再び隆起して いく地形となっており、平地部から見れば平地部に張り出した独立丘陵の先端部が当該地の景観で あったと考えられる。
そしてその地点に一基の塔が建っていたのである。塔の規模については残念ながら判断がつかな い。現地形と南山城の古代寺院の塔跡とを比較検討すると、高麗寺の塔基壇が一辺 12 メートル程で あり(山城町 1989)、規模としては概ね合致する。いずれにせよ当地点に塔が聳えていたその風景 は、普賢寺谷のシンボリックな存在として映っていたことであろう。
Ⅲ.今後の課題
前回の測量の補足はできたものの、課題として挙げられていた他の建物や伽藍の有無、推定塔跡 の所属時期、塔跡の詳細などは依然として不明のままである。これらの解決にはやはり一定程度の 発掘調査が必要であろう。また、普賢寺にはこれまで採集された瓦資料が数多くある。それらの資 料は量的には豊富であるものの、採集という宿命であるがゆえに詳細な寺院の実態にせまるのは極 めて難しい(上原 2006)。採集地点についても学問の俎上にのせるほどには定かな状況ではない。
星野氏の報告によれば、天沼俊一が普賢寺を大正8年9月に訪れ塔跡で自ら瓦掘りをして、唐草文 軒平瓦を採集しているという(星野 2000)。昭和 5 年の京都府報告には塔心礎が現在みるような正 位置ではなく横転して半分が埋まっている写真が掲載されている(京都府 1930)。人為的行為によ る土地改変が幾度にもわたって行われてしまっていると現状ではいわざるをえない。周辺に散布す る瓦溜りの理解には十分な検討が必要である。これらの課題を解決するには、前述したように発掘 調査を行うことが必要であろう。課題を克服するための最低限の規模の発掘調査である。
南山城の木津川左岸地域に点在する古代寺院の実態は現状ではあまり把握できていない。今後、普 賢寺の調査が大きく進展することがあるとすれば、南山城全体の古代を語る上で、重要な布石を残 すことができるであろう。
なお、測量調査作業に参加した学生は、以下の通りである。
岩塚祐治(同志社大学大学院)
反田実樹・綱島京子・山下奈津美・渡辺美那巳(同志社大学文学部)
報告文のⅠ・Ⅱを岩塚、Ⅲを岩塚・浜中が執筆分担した。
追記)普賢寺のご住職やご家族の方々には、調査期間中だけではなくその後も、様々な面でご配 慮ならびにご教示をいただいた。所蔵する「普賢教法寺四至内之図」の調査及び写真撮影において もご快諾をいただいた。末筆ながら厚く感謝の礼を述べておきたい。
参考文献
京都府編 1930『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告』第 11 冊
山城町教育委員会 1989「史跡高麗寺」『京都府山城町埋蔵文化財発掘調査報告書』第7集 星野猷二 2000『塩澤家蔵瓦図録』伏見城研究会
馬部隆弘 2005「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」『史敏』2 号 pp.43-82 上原真人 2006「南山城の古代寺院」『京都府埋蔵文化財論集』第5集 pp.257-270
若林邦彦 2007「古代寺院普賢寺の建物・基壇跡について―2006 年度測量調査中間報告―」『同志社大学歴史資料館 館報』第 10 号 pp.35-39