片桐ユズルと若者たちの〈うた〉 : フォーク・ゲ リラの登場
著者 瀬崎 圭二
雑誌名 人文學
号 206
ページ 41‑77
発行年 2020‑11‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/00027850
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の ︿ う た
﹀
│
│ フォ ー ク
・ゲ リ ラ の登 場
│
│
瀬 崎 圭 二
︿ ア メ リカ
﹀ が もた ら し たも の 一
九三 一年
︑片 桐ユ ズル は英 語教 師片 桐大 一の 長男 とし て現 在の 東京 都杉 並区 に生 まれ た︒ 片桐 の幼 少期 は︑ 満州 事変 に始 まる 戦争 期に その まま 合致 して おり
︑片 桐も 軍国 主義 的な 教育 を受 けて 育っ たこ とに なる
︒敗 戦に よっ てそ れま での 価値 が急 速に 転倒 し︑ 自由 と民 主主 義の 象徴 とし て︿ アメ リカ
﹀が 意味 づけ られ てい く中
︑片 桐は 一九 四九 年に 早稲 田大 学の 英文 科に 入学 した
︒し かし
︑そ の翌 年に 生じ たレ ッド パー ジは
︑片 桐が 在学 して いた 早稲 田大 学を も巻 き込 み︑ 片桐 の︿ アメ リカ
﹀に 対す る信 頼は 揺ら ぐ︒ 一九 五二 年頃 から 詩作 を始 めた 片桐 は︑ 一九 五五 年に 大学 院を 修了
︑都 立高 校の 英語 教師 とし て勤 務し 始め
︑五 月に 詩誌
﹃
POETRY
﹄を 創刊 した
⑴
︒ 鶴 見俊 輔が
﹃
POETRY
﹄創 刊号 に詩 を寄 せて いる とこ ろを 見る と︑ 片桐 が思 想の 科学 研究 会に 参 加し
︑鶴 見 を 知っ たの はこ の頃 のこ とで あっ たら しい
︒片 桐は 鶴見 を介 して アメ リカ のプ ラグ マテ ィズ ムを 知り
︑そ れが 片桐 の詩 論の
― 41 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
土台 を形 作っ てい った よう に考 えら れる
︒片 桐が
﹁詩 とプ ラグ マチ ズム
﹂︵
﹃ 現代 詩﹄ 一九 五九 年七 月︶ の中 で参 照し て いる 鶴 見 の﹃ プ ラグ マ テ ィズ ム
﹄︵ 河 出文 庫 一 九 五 五年 一 月︶ に は︑ プラ グ マ テ ィ ズ ム が
︑﹁ 考 え は 行 為 の 一 段 階﹂ であ るこ とを 主張 する もの であ り
︑﹁ 功 利 主義 的 傾 向﹂
︑﹁ 実 証 主義 的 傾 向﹂
︑﹁ 自 然 主 義的 傾 向﹂ と いっ た 三 つの 展開 を示 すこ とが 説明 され てい る︒ 同時 に︑ これ らは アメ リカ 人の 気質 とも 結び つい てお り︑ 思考 が一 般人 の日 常生 活に も実 利を もた らす べき もの であ るこ と︑ それ が自 分の 手に 取っ て見 られ るほ ど確 かな もの であ るこ と︑ それ が歩 く︑ 食う
︑眠 ると いっ た人 間の 自然 行動 と同 じレ ベル のも ので ある こと も説 かれ てい る︒ その 理論 に乗 る形 で︑ 片桐 はア メリ カ詩 の特 徴が 具体 的な 提示 の表 現に ある こと を強 調し た︒ 同 時に 片桐 は︑
Ⅰ・ A・ リチ ャー ズら の ニ ュ ー・ クリ テ ィ シズ ム
︵新 批 評︶ にも 接 近 し てい た
︒﹁ 詩 とプ ラ グ マチ ズム
﹂の 中で は︑
﹁ 英米 では
︑う たが いぶ かい 人 に︑ 科 学に ち か い方 法 で 意味 を 分 析 して み せ て︑ ほら
︑い い こ とが わか るだ ろう
︒と いう わけ で新 批評 とい われ る傾 向 が で てき た
﹂と ニ ュー
・ク リ テ ィシ ズ ム の 方法 を 紹 介し な が ら︑
﹁ プラ グマ チズ ムが
︑十 九世 紀に なつ て科 学が 実生 活に 浸透 し て きた た め にお こ つ てき た い ろ んな 問 題 に応 じ る ため に生 れて きた のと
︑詩 に対 する 意味 論的 近づ き方 のあ いだ には
︑平 行な 関係 があ るよ うに おも う﹂ と︑ プラ グマ ティ ズム の思 考と ニュ ー・ クリ ティ シズ ムの 方法 を接 続し て捉 えて もい る︒ よ く知 られ てい るよ うに
︑ニ ュー
・ク リテ ィシ ズム の方 法は
︑文 学作 品を 作家 の伝 記的 事実 や心 理︑ 時代 環境 から 切り 離し
︑作 品本 文の レト リッ ク や構 成 に 分析 の 中 心 を置 く も のだ
⑵
︒実 際
︑片 桐 たち
﹃
POETRY
﹄の 同 人 は︑ 当初 ニュ ー・ クリ ティ シズ ムを 共同 研究 の方 法と して 採用 して いた
⑶
︒鶴 見を 経 由 した 片 桐 の こと ば を 借り れ ば︑ も とも とプ ラグ マテ ィズ ムは
﹁意 味を あき らか に す る 方法
﹂で あ り︑
﹁ 意味 論 的 近づ き 方﹂ を す るニ ュ ー・ ク リテ ィ シ ズム
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 42 ―
とは
︑こ とば と意 味︑ 記号 が人 間を 方向 づけ
︑解 釈を 呼び 込む その 現場 を捉 えよ うと する 点に おい て共 通す る︒ ただ し︑ 片桐 は既 に こ の外 部 へ と 足を 踏 み 出し て も おり
︑﹁ 批 評 の 組立
﹂︵
﹃
POETRY
﹄ 一 九五 六 年 一〇 月
︶で は︑ ニ ュー
・ク リテ ィシ ズム が﹁ 既成 の秩 序の ワク 内で の︑ 花火 の爆 発力 程度 にし か︑ 詩に みと めな い﹂ 限界 を持 って いる こと を指 摘し
︑同 時に プラ グマ ティ ズム につ いて も︑ 世界 に対 して 善を なす ため にそ の外 側か ら目 的意 識が 付さ れる べき であ ると いう 鶴見 の見 解⑷
を 紹介 して いる
︒ 詩 人で もあ る片 桐は
︑こ うし た意 味に 対す る問 題意 識の 中で 現代 詩も 捉え てい た︒ 以下 は︑ 片桐 の﹁ 現代 詩と コト バ﹂
︵﹃ 文 学﹄ 一九 五八 年六 月︶ の冒 頭で ある
︒ 現 代詩 は︑ その 難解 性か ら論 じは じめ るの が習 わし みた いに なっ てい る︒ 批評 家は
︑伝 達性 がな いこ とを
︑詩 人が 読者 を意 識し ない ひと りよ がり で︑ 自慰 的な メ タ フ ァー 遊 戯 にふ け っ てい る と し て非 難 す る︒ 詩人 の 側 は︑ 現代 社会 の状 態が 詩人 と読 者の 間を 絶ち 切っ てい る︑ そし て読 者に 詩を 読む 忍耐 力が 欠け てい るこ とを 責め る︒ ニ ュー
・ク リテ ィシ ズム を経 過し てい た片 桐は
︑こ の批 評の 中で
︑メ タフ ァー に依 存し 過ぎ る現 代詩 の傾 向を 具体 的に 作品 から 抽出 して みせ てい る︒ 特に
﹃荒 地﹄ や﹃ 荒地 詩集
﹄に 集っ た詩 人た ちの 表現 にそ の批 判は 向け られ
︑同 年に 行わ れ た関 根 弘
︑嶋 岡 晨︑ 関口 篤
︑山 本 太郎
︑中 村 稔︑ 伊 藤尚 志
︵司 会
︶と の 座談 会
﹁﹁ 荒 地﹂ の功 罪
﹂︵
﹃ 荒地 詩集
1958
﹄ 荒地 出版 社 一九 五八 年 一 二 月︶ でも
︑﹃ 荒 地 詩集
﹄の 難 解 さ︑ 厳粛 さ を 批 判的 に 捉 えて い た︒ こ うし た現 代詩 に対 抗す る表 現と して 片桐 が位 置づ けよ うと した のが アメ リカ 詩で あっ た︒ 片桐 は﹁ 現代 詩と コト バ﹂ でカ ール
・サ ンド バー グら アメ リカ の詩 人た ちの 表現 を紹 介し た上 で以 下の よう にま とめ てい る︒ アメ リカ の新 しい 詩人 たち は︑ ハナ シ・ コト バ を 意 識し て 使 うこ と は もち ろ ん︑
︵ 中 略︶ 他人 の 言 った こ と を平
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桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
気で かっ ぱら って きて 使う
︒つ まり 彼ら は︑ 一般 に信 じら れて いる よう に詩 人自 身の コト バを
﹁発 明﹂ する ので はな くて
︑自 分の 外の 材料 の中 から
﹁発 見﹂ して 詩の 中へ 移植 する
︒す でに 存在 して いる 伝統 を︑ 利用 し︑ 変形 し︑ 再創 造し てる んだ
︑と いう 意識 にお いて アメ リカ の詩 人た ちは 一致 して いる
︒ 平 易な 口語 的表 現の 導入
︑そ して 表現 の共 有と 再利 用は
︑後 の片 桐が 積極 的に 展開 して いく フォ ーク
・ソ ング 運動 の理 論的 基盤 とも なっ てい くが
︑一 九五 八年 の片 桐に まだ その 視点 はな い︒ ここ で確 認し てお くべ きこ とは
︑詩 が書 かれ るも のと して のみ 定位 され るこ とで メタ ファ ーを 増殖 させ
︑そ こに 生じ た拘 束が
︑読 者と のデ ィス コミ ュニ ケー ショ ンを 生み 出し てい るこ と︑ そし て︑ それ が現 代詩 にお ける 最大 の難 点と して 捉え られ てい たこ とだ
︒一 方で
︑片 桐は メタ ファ ーの 機能 その もの を否 定し てい るわ けで はな く︑ ひと びと には 本質 的に メタ ファ ーの 能力 が備 わっ てお り︑ 日常 的な 会話 の中 でそ れは 繰り 返さ れて いる とい うの であ る︒ 詩人 の役 割は
︑そ のよ うな メタ ファ ーの 消長 を定 着さ せ︑ 意識 化さ せて いく とこ ろに ある とも いう
︒片 桐 が 重 視し た の は︑ 説明 の 手 段と し て の メタ フ ァ ーで は な く︑ 発想 を生 み出 すメ タフ ァー の機 能で あっ た︒ こ うし た片 桐の 認識 は︑ 一九 五九 年か ら六
〇年 のア メリ カ留 学に よっ てさ らに 展開 して いく
︒フ ルブ ライ ト奨 学金 で渡 米し
︑サ ンフ ラン シス コ州 立大 学で 学ん だ片 桐は
︑こ のと きポ エト リー
・リ ーデ ィン グと ビー ト詩 に出 会っ てい る︒ 既に この 時期 には 日本 国内 でも 諏訪 優ら がビ ート 詩を 紹介 し始 めて おり
︑ア レン
・ギ ンズ バー グら を模 倣す るよ うに
︑ジ ャズ 演奏 とポ エト リー
・リ ーデ ィン グの コラ ボレ ーシ ョン が実 践さ れ始 めた
︒一 九六
〇年 五月 二七 日に 草月 会館 で行 われ た谷 川俊 太郎 によ るポ エト リー
・リ ーデ ィン グと ジャ ズ︑ 映画 との コラ ボレ ーシ ョン はそ のよ うな 流れ の中 で生 まれ たも ので あろ うし
⑸
︑ジ ャズ
・フ ァン であ った 白石 かず こも ジャ ズ と 自作 朗 読 と のコ ラ ボ を頻 繁 に 行っ
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 44 ―
てい た⑹
︒ 帰国 後の 片桐 も﹃
POETRY
﹄ の同 人た ちと 一緒 に その よ う な活 動 を 始め
︑一 九 六 一 年五 月 二
〇日 に は 東中 野の 喫茶 店﹁ モカ
﹂で 朗読 会を
⑺
︑一 九六 三年 一二 月一 二日 には 草月 会 館 で﹁ ジャ ズ の 小 冒険
﹂と い う イベ ン ト を行 って いる
⑻
︒ こ の 頃 の 片桐 は
︑ア メ リカ 留 学 中に 知 り 合 った 中 山 容︵ 矢ヶ 崎 庄 司︶⑼
や 片桐 ヨ ウ コ らと ビ ー ト詩 を 翻 訳︑ 紹介 し た﹃ ビー ト詩 集﹄
︵ 国文 社 一九 六二 年三 月︶ を刊 行︑ 六
〇 年代 初 め には ビ ー ト・ ジェ ネ レ ー ショ ン や ビー ト 詩 につ いて 頻繁 に記 事を 書い てい る︒ 例え ば︑ その 一つ
﹁ア メリ カの 詩人 たち
﹂︵
﹃ 詩学
﹄一 九六
〇年 八月
︶を 見る と︑ 片桐 がビ ート 詩に 惹か れた のは
︑そ れが
﹁は なし こと ば﹂ のリ ズム を駆 使し た読 まれ るも ので あっ たと いう こと
︑そ して それ が朗 読会 など の場 に集 った 聴衆 との 関係 の中 で生 まれ るも ので あっ たと いう こと にあ るよ うだ
︒ま た︑ 片桐 はビ ート
・ジ ェネ レー ショ ンの 作家 たち の社 会的 ス タ ン スに も 注 目し て い る︒ 例え ば
︑﹁ ビ ー ト・ ジェ ネ レ ーシ ョ ン と政 治性
﹂︵
﹃ 早稲 田大 学新 聞﹄ 一九 六〇 年一
〇月 五日
︶で は︑ 極端 な個 人主 義者 であ るビ ート たち が︑ 全体 主義 的に なっ てい る現 在の アメ リカ を批 判し
︑政 府︑ ビジ ネス
︑教 会︑ 学校 とい った あら ゆる 機構 から 脱出 しよ うと して いる こと を紹 介し てい る︒ 片桐 は︑ こう した ビー トの 不参 加と いう 態度 こそ が反 体制 的な スタ ンス を確 保し てい ると 理解 して いた こと にな ろう
︒そ の結 果︑ ビー トた ちの 中に は西 欧思 想の 論理 性や 合理 性を 否定 し︑ ゲー リー
・ス ナイ ダー のよ うに
︑東 洋文 化に 向か った り︑ 原始 的な ライ フス タイ ルを 選択 した りす る者 も現 れた
︒そ の延 長上 にヒ ッピ ー文 化が ある こと は言 うま でも ない
︒ 片 桐は
︑こ こに 取り 上げ たよ うな 論考 を集 め︑ 一九 六三 年一 月に 思潮 社か ら﹃ 詩の こと ばと 日常 のこ とば
﹄を 刊行 した
︒こ こま で確 認し てき たよ うに
︑片 桐の 問題 意識 は︑
﹁ 日常 のこ とば
﹂︑ つま り﹁ はな しこ とば
﹂に よる 詩的 表現
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桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
の確 保に ある わけ だが
︑さ らに 重要 なの は︑ この 発想 を論 考と いう 形で 残し てい く際 にも 片桐 は学 術的 な文 体を 採用 して いな いと いう こと だ︒
﹃ 詩の こと ばと 日常 の こ とば
﹄の 刊 行 時︑ 大岡 信 は﹁ こ の本 自 体 が 非常 に 個 性的 な ハ ナシ
・コ トバ で書 かれ てい て︑ 文体 も相 当つ よい 伝染 力を もっ てい るが
︑全 体を 通じ て︑ 高度 に学 問的 な話 題を
︑こ れほ どざ っく ばら んな 調子 で展 開し た本 もめ ず らし い の で はな い か﹂
︵﹁ 詩 人 の 独創 と は﹂
﹃ 朝 日ジ ャ ー ナル
﹄一 九 六 三年 三月 三日
︶と 評し た︒ 片 桐自 身も
﹁文 体と は何 か﹂
︵﹃ 現 代詩 手 帖﹄ 一 九 六三 年 五 月︶ の中 で
︑﹁ 学 問は 大 衆 の ため に あ るべ き
﹂で あ ると いう こと を訴 え︑ 文学 につ いて の学 術的 な論 文 と さ れる も の が︑
﹁無 色 透 明ら し く︑ 客 観 的ら し く みせ か け て︑ その じつ
︑ぜ んぜ ん主 観的 で︑ なか みは 混乱 し て﹂ お り︑
﹁ その 目 的 は︑ 自然 科 学 のよ う に︑ 自 分 の発 見 し た真 理 を つた える こと でも なけ れば
︑文 学批 評の よう に︑ すき きら いの 訂正 でも ない
﹂と して いる
︒こ の片 桐の 認識 は︑ プラ グマ ティ ズム やニ ュー
・ク リテ ィシ ズム を経 過し た上 での アカ デミ ズム 批判 で も あろ う⑽
︒片 桐 は その ス タ ンス を パ フォ ーマ ティ ブに 演じ るべ く︑ この
﹁文 体と は何 か﹂ とい う記 述自 体も
︑片 桐に 対す る応 答者 を設 定し た問 答形 式で 表現 して いる
︒こ の形 式は
︑片 桐の 記述 に度 々採 用さ れて おり
︑﹃ 意 味論 入門
﹄︵ 思潮 社 一九 六五 年七 月︶ では
︑当 時の NH Kの 人気 テレ ビ番 組﹁ こん に ゃ く 問答
﹂﹁ こ ん にゃ く 談 義﹂ に模 し た﹁ ご 隠 居さ ん
﹂と
﹁八 っ つぁ ん
﹂の 問 答形 式が 用い られ た︒
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 46 ―
フ ォ ーク
・ ソ ング へ の 期待 片
桐が 神戸 に移 った 一九 六五 年四 月⑾
︑ 鶴見 俊輔 が小 田実 に 代表 を 依 頼し て
﹁ベ ト ナ ムに 平 和 を!
市 民・ 文 化団 体 連合
﹂︵ べ 平 連︶ が 発足 す る と︑ 片桐 も そ の運 動 に 加 わっ た⑿
︒阿 部 知二 ら の 呼び か け で﹁ ベ トナ ム 戦 侵 略 反 対・ 国民 行動 の日
﹂と して 設定 され た同 年六 月九 日︑ 全国 二百 か所 で反 戦集 会や デモ が繰 り広 げら れる 中︑ 片桐 も﹁ ベト ナム 侵略 反対 の夕 べ﹂ で﹁ すべ ての 人間 は 平 等 につ く ら れた
?﹂
︵﹃ 新 日 本 文学
﹄一 九 六 五 年八 月
︶を 朗 読し て い る︒ 一九 六六 年八 月に は︑ べ平 連代 表と して
︑ベ トナ ム戦 争反 対ニ ュー ヨー ク五 番街 パレ ード に参 加し
︑ア レン
・ギ ンズ バー グ︑ ピー ター
・オ ーロ フス キー と共 にデ モに 加わ った
︒そ の際 に片 桐が ギン ズバ ーグ から 耳に した のが
︑フ ォー ク・ シン ガー
︑ボ ブ・ ディ ラン と︑ ビー ト詩 人た ちに よる ロッ ク・ バン ド︑ ファ ッグ スへ の賛 辞で あっ た⒀
︒ 一 九六 三年 にフ ォー ク・ グル ープ
︑ピ ータ ー・ ポー ル& マリ ーが ディ ラン の﹁ 風に 吹か れて
﹂を カバ ーし てヒ ット さ せて い た た めに
︑日 本 国 内で も デ ィラ ン の 名 は一 部 に 知ら れ て お り︑ 詩人 の 野 上彰 は
﹁私 の 好 き な 1枚 の レ コ ー ド﹂
︵﹃ 朝 日 新 聞
﹄東 京 版 朝 刊 一 九 六 四 年 一 月 五 日
︶の 中 で そ れ を﹁ 詩﹂ と し て 大 絶 賛 し て い た
︒片 桐 も︑
﹃
PO-
ETRY
﹄ 第一 六 号 に掲 載 し た﹁ こ んな い き かた も あ る﹂ の中 で⒁
︑ウ デ ィ・ ガ スリ ー や ピー ト
・シ ー ガ ー
︑ボ ブ
・デ ィラ ンら フォ ーク
・シ ンガ ーの 系譜 を伝 え︑ ビー ト詩 人 の ロ ーレ ン ス・ フ ァー リ ン ゲテ ィ に よ るデ ィ ラ ンの 評 価 や︑ フォ ーク
・ソ ング を受 容す るア メリ カの 若者 たち の﹁ 消費 者で さえ ない 生き 方﹂ の可 能性 に言 及し てい る︒ 一九 六〇 年代 半ば の片 桐は
︑フ ォー ク・ ソン グを ビー ト詩 の延 長上 のも のと して 位置 づけ
︑ビ ート 詩人 たち が模 索し たラ イフ
― 47 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
スタ イル を︑ フォ ーク を送 受信 する 若者 たち のそ れ に 重 ね合 わ せ てい た の であ ろ う︒ 片 桐 は﹁ ビー ト に つづ く も の﹂
︵﹃ 現 代詩 手帖
﹄一 九六 七年 三月
︶で も︑ ビー ト詩 人た ちの ポエ トリ ー・ リー ディ ング や放 浪性 の文 脈の 中に フォ ーク
・シ ンガ ーを 置き
︑ガ スリ ーや シー ガー を取 り上 げた 上で ディ ラン を詩 人と して 位置 づけ
︑デ ィラ ンら 若い 世代 のプ ロテ スト
・ソ ング の特 徴を 以下 のよ うに 整理 して いる
︒ こ れ ら の わか い ニ ュー
・レ フ ト の歌 が
︑オ ー ル ド・ レフ ト と ち が う と こ ろ は
︑む か し は 主 語 が
“We”
だ っ た が︑ この ごろ は
“I”
にな った
︒む かし は解 決の 答え があ った が︑ この ごろ は答 えが なく て︑ 疑問 をだ す︒ む かし は組 織に 属し てい て︑ ファ シス ト︑ 反動
︑資 本家 など の︑ きま り文 句を つか った が︑ わか い連 中は どの 組織 にも
マ マ
属さ ず︑ みず から の正 義感 で︑ 見た り聞 いた りし た不 正に プロ テス トす る︒ デラ ンの
﹁風 に吹 かれ て﹂ はこ の点 でも 代表 的で ある
︒ 確 かに ディ ラン の﹁ 風に 吹か れて
﹂に は明 確な 攻撃 対象 があ るわ けで はな く︑ 世界 が抱 えて いる 問題 が問 いか けら れ︑ その 答え は﹁ 風﹂ の中 にあ ると され るだ け で 解 決策 の 提 示は 先 送 りさ れ て い る︒ この エ ッ セイ は
︑﹁
Ⅰ﹂ と いう 主体 から 疑い を突 きつ ける そう した 特徴 を﹁ ニュ ー・ レフ ト﹂ のプ ロテ スト
・ソ ング 全体 に押 し広 げて いく やや 乱暴 な整 理を して いる のだ が︑ 注意 すべ きは
︑こ れが 書か れた 一九 六七 年頃 のデ ィラ ンは
︑既 にプ ロテ スト
・ソ ング ばか りを 歌う フォ ーク
・シ ンガ ーで はな くな って いる とい うこ とだ
︒当 時の ディ ラン は︑ スタ ーダ ムに のし 上が った ミュ ージ シャ ンと して 位置 づけ られ てい る一 方︑ 先述 した よ う に︑ ギ ンズ バ ー グら に よ って そ の 詞 が評 価 さ れて も い た︒ ちな みに 学生 時代 のデ ィラ ンは ギン ズバ ーグ らの ビー ト詩 に触 れて いる の で⒂
︑ 両 者の 影 響 関 係を 認 め るこ と も でき るだ ろう
︒ 片桐
ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 48 ―
片 桐が 注目 して いる のは
︑そ のよ うな 同時 代の ディ ラン の姿 では なく
︑プ ロテ スト
・ソ ング を歌 って いた 一九 六〇 年代 初頭 のデ ィラ ンで ある
︒片 桐は
︑こ のエ ッセ イの 中で
︑デ ィラ ンが
﹁フ ォー ク・ ソン グ︑ ポピ ュラ ー︑ 文学
︑現 代詩 のあ いだ の壁 をぶ っこ わし てし まっ た
﹂と し︑
﹁ 詩 が︑ 感情 に う った え る 方法 で
︑価 値 を 伝達 す る もの で あ るな らば
︑あ る人 数の ひと びと があ つま って きけ ば︑ ひじ ょう に共 通の 感情 をも ちや すく なり
︑こ れこ そ連 帯で ある
﹂と 述べ ても いる
︒つ まり
︑︿ う た﹀ を介 した 場 で の声 と 価 値︑ 感情 の 連 帯の 中 に こ そ︑ 片桐 は 自 らの
︿詩
﹀の 可 能 性を 思い 描い てい たの であ り︑ その 代表 例が 一九 六〇 年代 初頭 のデ ィラ ンで あっ たの だ︒ 日 本 の フ ォー ク
・ソ ン グは 一 九 五〇 年 代 の うた ご え 運動 に 遡 るこ と も 可 能で あ る よう だ し︑ 一 九六
〇 年 代 に 入 る と︑ アメ リカ のフ ォー ク・ グル ープ であ るブ ラザ ース
・フ ォア やキ ング スト ン・ トリ オら の影 響を 受け たカ レッ ジ・ フォ ーク が商 業主 義的 な流 通を 示す よう にな る⒃
︒ こう した アメ リカ のフ ォー ク の 動き に 影 響 され な が ら関 西 に 登場 した のが 尻石 友也
︑後 の高 石友 也で あっ た︒ ピー ト・ シー ガー やボ ブ・ ディ ラン の影 響を 受け てい た高 石は
︑プ ロモ ー ター の 秦 政 明が 開 催 した フ ォ ーク 集 会 に 出演 し て 秦に 評 価 さ れ︑ 一九 六 六 年一 二 月 にレ コ ー ド・ デ ビュ ー し て い る︒ 高石 は︑ その 前月 に︑ べ平 連︑ ワー ルド
・フ レン ドシ ップ
・セ ンタ ー︑ 広島 YM CA 主催 の集 会に も講 師と して 参加 して 歌を 披露 する など
︑社 会的 な活 動も 行う よう にな った
⒄
︒ こ の頃
︑大 阪勤 労者 音楽 協議 会︵ 大阪 労音
︶が フォ ーク
・フ ェス ティ バル を開 いた り︑ ラジ オ関 西が フォ ーク の番 組を 放送 した りす るな ど︑ フォ ーク
・ソ ング に対 する 関心 が社 会的 に高 まっ てお り︑ こう した 実態 的な 動き も片 桐の フォ ーク
・ソ ング に対 する 期待 と呼 応し てい る︒ 一九 六七 年七 月二 九︑ 三〇 日に は︑ 高石 や秦 を中 心と した フォ ーク
・キ ャン プが 京都 の高 雄で 開催 され
︑ザ
・フ ォー ク・ クル セダ ーズ の北 山修 やジ ロー ズ︑ 中川 五郎 ら一
〇〇 名を 超え
― 49 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
る参 加者 が集 まっ た︒ 高石 が回 顧し てい るよ うに
⒅
︑こ の場 に片 桐や
︑フ ォー ク を 支援 し て い た大 阪 の 新森 小 路 教会 の牧 師村 田拓
︑音 楽評 論家
︑ラ ジオ 局の 関係 者も 集ま って いた こと が重 要で あり
︑若 者た ちを サポ ート
︑プ ロモ ート する よう な階 層︑ 世代 がフ ォー ク・ ソン グを 認知 し て い たこ と が︑
﹁ 関西 フ ォ ーク
﹂と 呼 ば れ る大 き な 動き に つ なが って いっ たの であ る⒆
︒ こ のフ ォー ク・ キャ ンプ が開 催さ れた のと 同じ 一九 六七 年七 月︑ 片桐 はフ ォー ク・ ソン グの 動向 を紹 介す るミ ニコ ミ誌
﹃か わら 版﹄ を創 刊し た︒ この
﹃か わら 版﹄ や︑ その 後も 何度 か開 催さ れた フォ ーク
・キ ャン プ︑ 一九 六八 年一 月か ら新 森小 路教 会で 開催 され 始め たフ ォー ク・ スク ール
︑秦 政明 の高 石事 務所 が一 九六 九年 二月 に設 立し たア ング ラ・ レコ ード
・ク ラブ
︵U RC
︶に よる レコ ード 販売
︑そ して この UR Cが 著作 権管 理会 社と して 設立 した アー ト音 楽出 版に よる
﹃フ ォー ク・ リポ ート
﹄の 刊行
⒇
︑こ の間 継続 的に フォ ーク
・ソ ン グ を取 り 上 げ てい っ た ラジ オ 番 組な どの 存在 が︑
﹁ 関西 フォ ーク
﹂を 支え てい たと 言え よう
︒ 様 々な 媒体 に発 表さ れて いた 片桐 のフ ォー ク・ ソン グ論 は︑
﹃ うた との であ い フォ ーク ソン グ人 間性 回復 論﹄
︵社 会 新報
一 九 六 九 年八 月
︶に ま とめ ら れ てい る
︒片 桐 が この 本 の 中で 繰 り 返 すフ ォ ー ク・ ソン グ の 特 徴 と 可 能 性 と は︑ それ が自 分た ちの 思っ てい るこ とを 自分 たち のこ とば で歌 にし たも ので ある こと
︑そ れぞ れの 楽器 の専 門家 に分 業さ れた オー ケス トラ など とは 異な り︑ 分断 され
︑疎 外さ れた 人間 性を 回復 させ るも ので ある こと
︑そ して
︑そ れが 詩で も音 楽で もな い領 域で 可能 にな る︿ うた
﹀で ある とい うこ とだ
︒む ろん
︑こ こに は︑ 自閉 的な 難解 さの 中に 陥っ てい った 現代 詩に 対す る片 桐の 批判 が存 在す るの であ ろう し︑ ビー ト詩 に見 出し てい たよ うな
﹁は なし こと ば﹂ によ る詩 的表 現の 可能 性を 模索 した 結果 を見 出す こと も で き よう
︒こ の 片 桐の フ ォ ーク
・ソ ン グ 論 の背 景 に あっ た の が︑
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 50 ―
思想 の科 学研 究会 への 参加 以来 交流 を続 けて いた 鶴見 俊輔 の﹁ 限界 芸術
﹂論 と︑
Ⅰ・ A・ リチ ャー ズに 師事 し︑ 英文 学者 とし てス ター トし たマ ーシ ャル
・マ クル ーハ ンの メデ ィア 論で あっ た︒ よ く知 られ てい るよ うに
︑鶴 見俊 輔の
﹃限 界芸 術論
﹄︵ 勁 草書 房 一九 六七 年一
〇月
︶は
︑芸 術を
﹁純 粋芸 術﹂
﹁大 衆芸 術﹂
﹁ 限界 芸術
﹂の 三つ のレ ベル に区 分 し て いる
︒﹁ 純 粋 芸術
﹂は
︑﹁ 専 門 的芸 術 家 に よっ て つ くら れ
︑そ れ ぞれ の専 門種 目の 作品 の系 列に たい して 親し みを もつ 専門 的享 受者 をも つ﹂ 芸術 様式
︑﹁ 大 衆芸 術﹂ は︑
﹁専 門的 芸術 家に よっ てつ くら れは する が︑ 制作 過程 はむ しろ 企業 家と 専門 的芸 術家 の合 作の 形を とり
︑そ の享 受者 とし ては 大衆 をも つ﹂ 芸 術様 式
︑そ し て﹁ 限 界芸 術
﹂は
︑﹁ 非 専門 的 芸 術家 に よ っ てつ く ら れ︑ 非専 門 的 享 受 者 に よ っ て 享 受 さ れ る﹂ 芸術 様式 であ ると する
︒鶴 見は
︑﹁ 二 十世 紀に 入っ てマ ス・ コ ミ ュニ ケ ー ショ ン 時 代の 成 立 と とも に 新 しく 急 激 に進 んで きた 純粋 芸術
・大 衆芸 術の 分裂
﹂が
︑﹁ 限 界芸 術を
︑新 し い 状況 の 脈 絡の 中 に おく こ と に よっ て こ れに 新 し い役 割を おわ して いる よう に思 える
﹂と もい う︒ さら に﹁ 限界 芸術
﹂の 価値 を見 出し た実 践者 とし て柳 田国 男︑ 柳宗 悦ら の活 動を 取り 上げ てい る︒ 片 桐 は︑ こ の﹃ 限 界芸 術 論﹄ を フォ ー ク・ ソ ング に 引 き 寄せ て 理 論化 し よ う と し た
︒例 え ば 柳 田 国 男 は
︑人 々 が 口々 に伝 えて きた 民謡 を︑ 発生 の起 源が 遡れ ず︑ その 意味 や表 現が 歌い 手に よっ て自 由に 変更 され ると いう 意味 にお いて
︑歌 い手 と作 り手 とが 同じ であ るよ うな 表現 とし て捉 えて いた が︑ 片桐 は︑ 柳田 が言 うこ の民 謡の 性質 をフ ォー ク・ ソ ング に 重 ね てい る
︒フ ォ ーク
・ソ ン グ も︑ その 歌 の 源 泉を た ど るこ と が で きな い 替 え歌 の よ う な も の で あ る し︑ そ の中 で 選 択 され た 決 まり 文 句 とテ ー マ の 反復 こ そ が聴 き 手 に︿ う た﹀ を印 象 づ けて い く と考 え て い た の で あ る︒ 柳田 の民 俗学 その もの が︑ 民謡 だけ を専 門的 に取 り上 げて いる ので はな く︑ 多く の民 間伝 承や 習俗 への 回路 を持
― 51 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
つ体 系的 なも ので ある こと も︑ 個別 の楽 器の 専門 家に よる 演奏 によ って 成り 立つ ので はな い︑ フォ ーク
・ソ ング のイ メー ジと つな がっ てい たよ うだ
︒ ま た︑ 柳宗 悦の 民芸 をめ ぐる 認識 もフ ォー ク・ ソン グに 援用 し︑ 日用 品と して 反復 に耐 え得 る強 度と
︑そ のた めの 単純 な様 式が フォ ーク にも 必要 であ るこ とを 説い てい る︒ 作り 手︑ 使い 手の 上下 や︑ 作ら れ使 われ る物 の上 下な どが 美の 必須 条件 では ない
︑柳 の言 う﹁ 美の 浄土
﹂の よう に
︑ 才能 の有 無や 楽 器 の良 し 悪 し にか か わ らず
︑誰 が う たっ ても 素晴 らし いの がフ ォー ク・ ソン グで ある とい うの だ︒ ただ し︑ 柳は 民芸 に対 して
﹁浄 土﹂ とい う仏 教的 概念 を適 用し てい るの であ り︑ それ をフ ォー クに 見出 すの はや や牽 強付 会と 言わ ざる を得 ない
︒鶴 見は
︑柳 の思 想に
﹁限 界芸 術﹂ の発 想に 通ず るも のを 見出 して いる ので あっ て︑ フォ ーク は﹁ 限界 芸術
﹂で はあ って も﹁ 美の 浄土
﹂を 得る 表現 であ ると は言 い難 く︑ これ は単 なる 比喩 でし かな い︒ 鶴 見の
﹃限 界芸 術論
﹄に 掲載 され てい る﹁ 芸術 の体 系﹂ とい う図 によ れば
︑例 えば
︑﹁ か なで る︑ しゃ べる
↓き く﹂ とい う行 動に おい て﹁ 純粋 芸術
﹂に あた るも のは
﹁交 響楽
︑電 子音 楽︑ 謡曲
﹂で
︑﹁ 大 衆芸 術﹂ にあ たる もの は︑
﹁流 行歌
︑歌 ごえ
︑講 談︑ 浪 花節
︑落 語
︑ラ ジ オ・ ド ラマ
﹂︑
﹁ 限 界芸 術
﹂に あ たる も の は︑
﹁ 労働 の 合 の手
︑エ ン ヤ コラ の歌
︑ふ しこ とば
︑早 口言 葉︑ 替え 歌︑ 鼻唄
﹂な どで ある とい う︒ 粟谷 佳司
﹃限 界芸 術論 と現 代文 化研 究 戦後 日本 の知 識人 と大 衆文 化に つい ての 社会 学的 研 究﹄
︵ ハ ーベ ス ト 社 二〇 一 八 年九 月
︶が 詳 細 に検 討 し てい る よ うに
︑片 桐は この
﹁限 界芸 術﹂ のイ メー ジで フォ ーク
・ソ ング を捉 えて いた ので あり
︑そ れは
﹁流 行歌
﹂と は異 なる 表現 だっ たの だ︒ つま り片 桐は
︑同 時代 に流 行し てい たカ レッ ジ・ フォ ーク とは 全く 異な るフ ォー ク・ ソン グの 文脈 を創 り出 そう とし てい たこ とに なる
︒
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 52 ―
鶴 見の
﹃限 界芸 術論
﹄の 議論 と共 にし ばし ば参 照さ れて いる のが
︑一 九六
〇年 代後 半か ら日 本で も紹 介さ れ始 めて い たマ ク ル ー ハン の メ ディ ア 論 であ る
︒マ ク ル ーハ ン の 功績 は メ デ ィア の 役 割を 可 視 化し た こ と にあ る と 言え よ う が︑ 前述 した よう に︑ 片桐 は活 字と して の詩 では な く︑ 声 に よっ て 朗 読さ れ る 詩を 定 位 し よう と し てい た
︒そ れ は︑ マク ルー ハン の理 論が 炙り 出し た活 字の 物質 性や
︑活 字メ ディ アを 自明 なも のと して 内面 化し た社 会を 乗り 越え よう とす る片 桐の 試み でも あっ た︒ マ クル ーハ ンは
︑電 子メ ディ アに よる 情報 網が グロ ーバ ル・ ヴィ レッ ジを つく り上 げる こと も予 言し てい るが
︑片 桐 はそ の 認 識 もフ ォ ー ク・ ソン グ に 対す る 期 待 へと す り 寄せ て い る︒ 例 えば
︑テ レ ビ がも た ら す豊 富 な 情 報 に よ っ て︑ 専門 家と 素人 の区 別の ない 非専 門家 の時 代が 到来 した り︑ 亡び かけ て顧 みら れる こと のな い事 物や 民俗 が再 生し たり
︑個 別に 分断 され た人 間の 感覚 が総 合性 を取 り戻 した りす ると いっ た点 は︑ いず れも フォ ーク
・ソ ング と親 和性 が高 い事 象で ある とし た︒ ある いは マク ル ー ハ ンは
︑参 与 性︑ 補 完性 が 高 いメ デ ィ ア を﹁ クー ル
﹂と 捉 えて い る が︑ クー ルな こと ばと クー ルな 音楽 で構 成さ れる のが フォ ーク
・ソ ング であ ると 片桐 は言 う︒ 片
桐 がう た う
︿死 の 商 人﹀ た ち こ
の頃
︑片 桐は 自ら フォ ーク
・ソ ング を制 作し てい る︒ 以下 は︑ ベト ナム 戦争 にお いて 米軍 に軍 需物 資を 輸出 する 日本 の企 業を 批判 した
﹁死 の商 人﹂
︵﹃ 現 代詩 手帖
﹄一 九六 七年 八月
︶の 第一 連だ
︒ 死の 商人 の 工場 にな らん だ/ 品物 み て ご らん
/よ く み てご ら ん か んが え て ご らん
/︵ だ れ かひ と り︶ ナ パー
― 53 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
ム弾
/︵ み んな
︶ナ パー ム弾
/あ ーあ こ の曲 のメ ロデ ィは
︑フ ラン ス民 謡の
﹁
Alouette
︵ひ ばり
︶﹂ で
︑日 本で はレ クリ エー ショ ン等 で行 う﹁ 八百 屋 のお 店﹂ とい う遊 戯歌
︑現 在で は子 ども 向け の手 遊び 歌 と し て知 ら れ てい る も ので あ る︒
﹃ 現 代詩 手 帖﹄ 掲 載時 に は ギタ ーコ ード も併 記さ れて おり
︑G とD 7の 二つ の簡 単 な コ ード の み で構 成 さ れて い る こ とが 分 か る︒
﹃現 代 詩 手帖
﹄掲 載時 のバ ージ ョン なら ば︑ この 連 が繰 り 返 さ れる 度 に﹁ 品 物﹂ は変 わ り︑
﹁ 原子 爆 弾
﹂﹁ エ ンタ ー プ ライ ズ
﹂﹁ 豊 和産 業の 機関 銃﹂
﹁ 日特 金の カー ビン 銃﹂
﹁ホ ンダ の ケ ー タイ 発 電 器﹂
﹁パ イ ナ プル 爆 弾﹂ へ と 変化 し て いる
︒こ の 詩 の付 記に
︑﹁ 有 刺鉄 線と か︑ ジャ ング ル・ シュ ーズ と か︑ ミ サイ ル と か︑ ヘリ コ プ ター だ と か︑ 品 ぎれ に な るま で つ づけ る﹂ とあ るよ うに
︑歌 われ る際 には その 場で 思い つい た品 物が 付け 足さ れて 歌が 延長 され てい くイ メー ジで あっ たよ うだ
︒片 桐は
︑前 述し た京 都の 高雄 での フォ ーク
・キ ャン プで この
︿う た﹀ を披 露し たと いう
︒ ベ トナ ム戦 争を 戦う 米軍 に日 本か ら軍 需物 資が 輸出 され てい るこ とが 知ら れる よう にな るの は︑ 米軍 によ る北 爆の 開始 と︑ 首相 の佐 藤栄 作が その 支持 を表 明し た後 のこ とで ある と推 測さ れる
︒例 えば
︑﹃ 東 京新 聞﹄
︵朝 刊 一九 六五 年八 月三 日︶ の﹁ アン テナ
﹂欄 には
︑﹁
!
ベ ト ナム 戦争 を利 用し てま たぞ ろ死 の商 人が 活躍⁝⁝
"
と のウ ワサ が流 れて いる が通 産省 の調 べに よる と武 器は 売っ てい ない が︑ ジャ ング ルシ ュー ズや 鉄条 網用 有刺 鉄線
︑弾 丸よ け砂 袋な どが ベト ナム に流 れて いる こと が確 認さ れた
︒︵ 中 略︶ 米軍 の国 内 調 達に は 明 らか に ベ トナ ム 戦 争 用と 思 わ れる ジ ャ ング ルシ ュー ズが 昭和 三十 八年 度百 六十 七万
㌦︑ 三十 九年 度二 百七 万㌦ と大 口の 引き 渡し を済 まし てお り︑ 今年 には いっ てか ら六 月に は弾 丸よ け土 のう が二 十二 万六 千㌦
︑鉄 条網 用の 有刺 鉄線 が九 万六 千㌦ と新 しく 顔を 出し てい る﹂ とあ る︒
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 54 ―
ジ ャー ナリ スト 梶谷 善久 の﹃ ベト ナ ム 戦 争と 日 本 の労 働 者﹄
︵ 労働 旬 報 社 一 九六 五 年 一一 月
︶は
︑当 時 の﹃ 人民 日報
﹄や 米紙
﹃ク リス チャ ン・ サイ エン ス・ モニ ター
﹄が
︑米 軍が ベト ナム で使 用し てい るナ パー ム弾 の約 九〇
%が 日本 製で ある と報 じて いる こと を紹 介し てお り︑ 当然 この 情報 はべ 平 連 でも 共 有 さ れて い た
︒ 片 桐は
︑ナ パ ー ム製 造会 社の 一つ であ るダ ウ・ ケミ カル 社製 品の 不買 運動 がア メリ カで 始ま って いる こと を取 り上 げ︑ ダウ
・ケ ミカ ルと つな がり のあ る旭 ダウ 社の
﹁サ ラン ラ ッ プ﹂ で はな く
︑呉 羽 化学 の
﹁ク レ ラッ プ
﹂を 買 う こと を
﹃べ 平 連ニ ュ ー ス﹄
︵ 一九 六六 年一
〇月
︶上 で呼 び掛 けて いる
︒﹃ 現代 詩手 帖﹄ 掲載 の﹁ 死の 商人
﹂で は﹁ 豊和 産業
﹂と なっ てい るが
︑小 銃や 追撃 砲な どを 生産 して いた 豊和 工業 や︑ 機関 銃を 生産 して いた 日特 金属 工業
︵﹁ 日 特金
﹂︶ が槍 玉に あが って いる のも こう した 事情 を反 映す るも のだ
︒日 米地 位協 定は
︑米 軍が これ らの 企業 から 軍需 品を 直接 調達 し︑ 無検 査で 戦場 に運 ぶこ とも 許可 して おり
︑当 時こ うし た企 業を 直接 行動 で激 しく 糾弾 す る よう な 出 来 事も 生 じ てい た
︒ア ナ ーキ スト 系の 学生 たち を中 心に 構成 され たベ トナ ム反 戦直 接行 動委 員会 は︑ 一九 六六 年一
〇月 一九 日に 東京 都北 多摩 郡田 無町 の日 特金 属工 業に
︑同 じく 一一 月一 五日 に愛 知県 西 春 日 井郡 新 川 町の 豊 和 工業 に 侵 入 し︑ ビラ を 巻 くな ど し て︑ それ ぞれ 逮捕 者を 出し てい る
︒ 片 桐の 詩﹁ あと は読 者が つづ ける 詩﹂ は
︑こ の出 来事 を取 り上 げた もの だ︒ 2才 のこ ども が工 事場 であ そん でい て/ コン クリ ート のパ イプ のな かに おち
/と ちゅ うで ひっ かか って いた が/ 救出 にて まど り すで にし んで いた
/わ ざと した こと では なか った のだ が カー ブの ふみ きり でエ ンス トの
/ト ラッ クを みと め 急ブ レー キを かけ たが
/時 速6 0キ ロの 電車 がと まる には 40 0メ ート ルか かる
/1
︑2 輌目 は川 原へ 転落
死 者5 重軽 傷2 05
/わ ざと した こと では なか った のだ が/
― 55 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
運転 手は タイ ホさ れた ナパ ーム 弾は わざ とや くた めに ある
/パ イナ プル 爆弾 はわ ざと ころ すた めに ある
/機 関銃 もラ イフ ルも わざ とこ ろす ため
に つく られ てい るが
/つ くる やつ はタ イホ され ない
/つ くる のを やめ ろと ビラ まき をし たひ とが
タ イホ され る べ 平連 でも 軍需 工場 に抗 議の ビラ を配 布す るよ うな 動き はあ った が︑ 構内 に侵 入し たこ のベ トナ ム反 戦直 接行 動委 員会 の活 動は やや 過剰 性を 帯び てい たよ うだ
︒当 時の 世論 にも 賛否 両論 あり
︑例 えば 初期 のべ 平連 の活 動に 積極 的だ った 開高 健は
﹁日 本人 のた くさ んの 人が 心中 ひそ かに この 学生 たち の行 動を 応援 して いる ので はな いか
﹂と 評価 する 一方
︑井 上光 晴は
﹁こ んど のよ うな やり 方は 宣伝 にし ても 幼稚 で︑ 実際 の効 果も うす い︒ 銃を つく る工 場も だが
︑そ れを つく らせ てい る体 制に より 問題 があ る﹂ と して いる
︒ 片 桐の この 詩で は︑ 救出 しよ うと した にも かか わら ずそ れに 手間 取っ て生 じた 子ど もの 死︑
﹁ 急ブ レー キを かけ た﹂ にも かか わら ず生 じて しま った 電車 の乗 客の 死と いっ たよ うに
︑第 一連 と第 二連 の展 開の 中で
﹁わ ざと した こと では なか った
﹂に もか かわ らず 生じ た死 の度 合い が高 まり
︑第 三連 にお ける
﹁わ ざと ころ すた め﹂ の兵 器の 製造 に抗 議し た 者の 逮 捕 が︑ そ の落 差 と の関 係 の 中で 皮 肉 ら れて い る こと に な る︒ こ の詩 の タ イト ル が﹁ あ とは 読 者 が つ づ け る 詩﹂ であ るこ とを ふま えれ ば︑ この 詩が 描く よ う な 死や
︑逮 捕 の 不条 理 に 対す る 問 い かけ を
︑﹁ 読 者﹂ が行 為 と して 実践 し︑ その 中で 連帯 が強 化さ れて いく こと が期 待さ れて いる こと にな ろう
︒ 片 桐の フォ ーク
・ソ ング
﹁死 の商 人﹂ も︑ こう した 日 本 の 軍需 産 業 に対 す る アイ ロ ニ ー から 生 ま れて き た︿ う た﹀ であ った こと は言 うま でも ない が︑
﹁ 原子 爆弾
﹂や
﹁エ ンタ ープ ライ ズ﹂ とい った よう に︑
﹁品 物﹂ がよ り過 剰性 を帯
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
― 56 ―
びた 形で 表象 され てい る点 にそ の特 徴が あろ う︒ また
︑日 本に おけ るこ の歌 の原 曲が 遊戯 歌の
﹁八 百屋 のお 店﹂ であ るこ とを ふま えれ ば︑ ベト ナム 戦争 を支 える 日本 の軍 需産 業を ユー モラ スに 茶化 して いく 力学 がこ の曲 全体 を覆 って いる こと は自 明で ある
︒し かも
︑具 体的 な企 業名 が挙 げら れる こと によ って
︑知 らず 知ら ずの うち にベ トナ ム戦 争に 加担 して いる 日常 と︑ その 経済 構造 を﹁ よく み て﹂
﹁ か んが え て﹂ み るこ と が︑ こ のユ ー モ ア の中 に 訴 えら れ て いる こと にな るの であ る︒ そ して
︑﹁ だ れか
﹂が
﹁品 物﹂ を口 にし た 後︑ そ れが そ の 場の
﹁み ん な﹂ に 合唱 さ れ て いく こ と が︑ この ユ ー モア とア イロ ニー の共 有を 促し
︑さ らに
︑揶 揄と も自 嘲と もと れる
﹁あ ーあ
﹂と いう 嘆息
︑合 いの 手が それ らを 結ぶ こと にな ろう
︒何 より も︑ 朗ら かな メロ ディ と簡 単な コー ド編 成で ある こと
︑そ して 替え 歌で ある こと が︑ その 場に 集っ た者 たち によ って
︑ベ トナ ム戦 争を 遂行 する アメ リカ とそ れに 協力 して いく 日本 への 批判 を気 軽な もの にし てい くの であ る︒
﹁ 品物
﹂が 即興 的に 思い 起こ され るこ とで 歌が 延長 さ れ てい く 構 成も そ の 連帯 を な お 強化 し て いく こ と にな ろう
︒ ち なみ にこ の︿ うた
﹀は
︑一 九七
〇年 四月 に思 潮社 の現 代詩 文庫 から 片桐 の詩 集が 刊行 され た際 には
︑現 在の
﹁八 百屋 のお 店﹂ 同様
︑連 が繰 り返 され る度 に﹁ ナパ ーム 弾﹂
﹁ 有刺 鉄線
﹂﹁ エン プラ
﹂﹁ さ いる い弾
﹂﹁ ジャ ング ル・ シュ ーズ
﹂﹁ 核 ミサ イル
﹂と いっ た品 物が 一つ ずつ 増加 し︑ それ ま で に取 り 上 げた 品 物 を全 て 歌 う よう な 構 成に な っ てい る︒ 現代 詩文 庫の バー ジョ ンに は企 業名 は記 され てい ない が︑ それ はこ の︿ うた
﹀が 現代 詩文 庫に 収録 され るに あた って
︑軍 需産 業に 携わ って いる 実在 の企 業に 対す る考 慮が 働い たか らで あろ う︒ しか し︑ この 詩が もと もと フォ ーク
・ソ ン グ と して 制 作 され た も ので あ り︑ そ の 場で
﹁品 物
﹂が 任 意に 変 更︑ 追 加さ れ る も ので あ っ た こ と を ふ ま え れ
― 57 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
ば︑ 活字 によ る表 記の 問題 は二 次的 なも のと して 考え た方 が良 いだ ろう
︒片 桐が マク ルー ハン を援 用し なが ら何 度も 述べ てい たよ うに
︑活 字と して の詩 は単 なる 記録 でし かな いか らだ
︒ 日 本国 内に 潜在 化し てい るベ トナ ム戦 争へ の協 力体 制に 対す るま なざ しは
﹁拝 啓磯 崎国 鉄副 総裁 殿﹂ とい う詩 にも 顕 著だ
︒こ れ は 一 九六 八 年 一〇 月 二 二日 の
﹃朝 日 新 聞﹄ 夕刊 に 掲 載さ れ た 磯 崎叡 国 鉄 副総 裁 の 発言 を 批 判 し た も の で
︑ 同年 一 一月 に 神 戸の フ ォ ーク
・ス ク ー ル で発 表 さ れ
︑﹃ ベ 平 連 ニュ ー ス﹄
︵ 一 九六 八 年 一二 月
︶に 掲 載後
︑現 代詩 文庫 版の 片桐 の詩 集に 収録 され た詩 であ る
︒﹃ 朝 日 新聞
﹄紙 上 の 磯崎 の 発 言は
︑前 日 に 生 じた 反 代 々木 系 の 全学 連学 生に よる 新宿 駅占 拠に 対し て向 けら れて おり
︑片 桐の 詩は
︑﹁ 実 に不 愉快 だ﹂
﹁こ れら の損 害は 結局
︑運 賃そ のた で国 民が はら うわ けで すよ
︒/ 学生 たち はそ こま でか ん が え てい な い のだ ろ う︒ 彼 らの 行 動 は 無責 任 で デタ ラ メ だ﹂
﹁
①諸 君は なぜ 電車 をこ わす のか
/② 大衆 が利 用す る駅 が諸 君 の らん ぼ う やろ う ぜ きの 舞 台 に なら な け れば な ら ない 理由 はど こに ある のか
/な どの 点に つい て公 開質 問状 をつ きつ けた い気 持だ
﹂と いう 新聞 紙上 の磯 崎の 発言 をほ ぼそ のま ま引 用し た表 現と なっ てい る︒ その 上で
︑こ の磯 崎の 発言 を以 下の よう に皮 肉っ た
︒ ほん とに
あ んた はし らな いの です か/ 磯崎 国鉄 副総 裁さ んよ
/一 日に 一二
〇輌 のタ ンク 貨車
い わゆ る米 タン が/ 一三
〇万 ガロ ンの 危険 物を 立川
・横 田基 地に はこ んで いる のを
/ほ んと にあ んた はし らな いの です か/ 八月 から 米タ ン輸 送が 五〇
%増 車さ れ/ 一〇 月一 日の ダイ ヤ変 更い らい
/そ れま では エン リョ がち だっ たも のが
/こ の過 密ダ イヤ のな かを 公然 とは しっ てい るこ と を/
︵ 中 略︶ あん た が 本気 で こ れら の 公 開 質問 状 を つき つ け たい 気持 なら
/あ んた は国 鉄の 実情 をな にも しら ない
/あ んた は無 責任 だ/ あん たは クビ だ 片 桐の 批判 は︑ 国鉄 によ る米 軍の 燃料 輸送 を磯 崎が 全く 顧み よう とし てい ない こと に対 して 向け られ てい る︒ 引用
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
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は避 けた が︑ 詩の 中で は︑ この 出来 事が 起こ る一 年ほ ど前 の一 九六 七年 八月 八日 に︑ 新宿 駅構 内で 米軍 燃料 輸送 列車 が 衝突 炎 上 事 故を 起 こ した こ と にも 触 れ ら れて い る︒ こ のこ と に よ って ベ ト ナム 戦 争 に使 用 さ れ る燃 料 を 輸送 す る
﹁ 米タ ン﹂ の存 在が 広く 知ら れる こと にな り︑ 新宿 駅も ベト ナ ム 戦争 に 加 担す る 兵 站と し て の 役割 を 果 たし て い ると いう 認識 が共 有さ れて いた
︒べ 平連 でも 一九 六八 年一
〇月 八日 に新 宿駅 のホ ーム や線 路で デモ や座 り込 みを 行っ てこ の米 タン 輸送 に抗 議し てい る︒ 現代 詩文 庫に 収録 され た﹁ 拝啓 磯崎 国鉄 副総 裁殿
﹂に は︑ この とき 新宿 で巻 かれ たビ ラに 記さ れて いた 米タ ンの 時刻 表も 併載 され てお り︑ 一日 に四 度︑ 米タ ンが 安善 駅か ら新 宿駅
︑立 川駅
︑拝 島駅 を経 てベ トナ ムへ と至 る様 が図 示さ れて いる
︒ た だし
︑﹁ 新 宿騒 乱﹂ と呼 ばれ る一
〇月 二一 日の 出 来 事に 対 し ては
︑世 論 は 否定 的 で あ った
︒国 際 反 戦デ ー で あっ た当 日は
︑新 宿に 群衆 が集 まる こと が事 前に 予想 され てお り︑ 米タ ンの 運行 も中 止に なっ てい た︒ 全学 連の 学生 たち やそ れに 便乗 した 群衆 たち の行 動は
︑米 タン の運 行阻 止で はな く︑ 電車 や駅 構内 の単 なる 破壊 行動 とな り︑ これ に対 して 騒擾 罪も 適用 され た
︒ べ平 連代 表の 小田 実﹁ ふた たび ベ ト ナム 反 戦 を│ 運 動の 内 部 から
│﹂
︵﹃ 世 界
﹄一 九 六八 年一 二月
︶も
︑こ の行 動を 批判 的に 捉え た上 で︑ ベト ナム 反戦 とい う動 機を 再確 認す るよ う訴 えて いる
︒小 田は この 出来 事を 報じ た新 聞各 紙や 識者 の談 話︑ 各政 党の 声明 の中 に米 タン の存 在に 言及 する もの がな いこ とも 指摘 して いる が︑ とす るな らば
︑片 桐の 詩﹁ 拝啓 磯崎 国鉄 副総 裁殿
﹂は
︑こ の出 来事 を改 めて ベト ナム 反戦 とい う目 的へ と意 味づ け直 そう とす るも ので あっ たの か も し れな い
︒い ず れに せ よ︑ こ の詩 も
︑例 の﹁ 日 常 のこ と ば﹂
﹁ はな し こ とば
﹂を 用 いる こ と で︑ 潜 在的 に ベ トナ ム 戦 争を 戦 っ て いる 日 本 の日 常 を 浮 き彫 り に しよ う と する も の で あっ た こ とは 確 か だ︒
― 59 ― 片
桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
︿ う た
﹀
フ ォ ーク
・ ゲ リラ の
︿ うた
﹀ 周
知の よう に︑ アメ リカ の公 民権 運動 にお いて ジョ ーン
・バ エズ やボ ブ・ ディ ラン のフ ォー ク・ ソン グは 大き な影 響力 を持 った が︑ バエ ズや ディ ラン らが 歌う よう なプ ロテ スト
・ソ ング
︑ト ピカ ル・ ソン グは
︑数 年の タイ ムラ グを もっ てベ トナ ム戦 争と いう 状況 下の 日本 に広 まっ てい った
︒そ の動 きの 中に いた 片桐 ユズ ルは
︑自 身の 詩論 をフ ォー ク・ ソン グに 適用 し︑
﹁ 関西 フォ ーク
﹂と 呼ば れる 現 象 の一 端 を 担っ て い たの で あ る︒ 前 述し た よ うに
﹁関 西 フ ォー ク﹂ を支 えた 要素 は多 岐に わた るが
︑片 桐も 参加 して いた べ平 連の 反戦 運動 と︑ それ がか かわ って いた こと も重 要で あろ う︒ べ 平連 でも 早く から フォ ーク
・ソ ング は注 目さ れて いた
︒例 えば 一 九 六六 年 二 月 発行 の
﹃べ 平 連ニ ュ ー ス﹄ には バエ ズの 来日 を実 現し よう とす る記 事が 見え
︑そ れが 叶っ た翌 年一 月二 五日 には バエ ズを 囲む 集会 が開 催︑ 会場 全体 で﹁
We shall overcome
﹂ を歌 っ た とい う
︒そ の 中に は
︑べ 平 連 の活 動 に 顔を 出 し てい た 高 石 友 也 も 加 わ っ て い た
︒ 会に 参加 した 小林 トミ は︑ 日本 の反 戦運 動や 市民 運動 には
﹁私 を︑ 私た ちを かり たて るな にか が│
│バ エズ の歌 のよ うな なに かが
││
︑た りな いよ うな 気が する
﹂と 語っ てお り︑ フォ ーク やプ ロテ スト
・ソ ング の影 響力 に理 解を 示し てい る︒ 一九 六七 年三 月発 行の
﹃ベ 平連 ニュ ース
﹄で 組ま れた
﹁フ ォー ク・ ソン グに よせ て﹂ とい う特 集に は︑ 片桐 ユズ ル︑ 室謙 二が 記事 を寄 せ︑ 高石 に対 する イン タビ ュー 記事 も掲 載さ れた
︒高 石に 影響 され てフ ォー ク・ ソン グを 歌い 始め た中 川五 郎も
︑べ 平連 の活 動に 積極 的だ った
︒
片 桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
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平 井一 臣が 整理 して いる よう に
︑ べ平 連は デモ 活動 にも フォ ーク
・ソ ン グ を活 用 し て いた
︒例 え ば 一九 六 八 年一 一月 一〇 日に 関西 べ平 連が 開催 した
﹁ベ トナ ムと 沖縄 のた めの 10時 間﹂ では
︑大 阪の 中之 島公 園で フォ ーク 集会 を行 った 後︑ フォ ーク
・ソ ング を歌 いな がら 御堂 筋を デモ 行進
︑移 動の ため の交 通機 関内 でも フォ ーク を歌 い︑ 夕方 から は梅 田地 下街 でフ ォー クの 集会
︑夜 には 再び 中之 島公 園で フォ ーク の集 会を 行い
︑御 堂筋 をフ ォー ク・ デモ して 一日 を終 えて いる
︒こ の夜 に行 われ た大 阪︑ 梅田 の地 下街 での フォ ーク
・ソ ング を交 え た討 論 会 が
︑﹁ 梅 田 大 学﹂ もし くは
﹁梅 田地 下大 学﹂ と呼 ばれ る定 期的 な集 会に なっ てい った よ う だ
︒ 同じ く 一 二 月二 日 に は︑ 京都 ヤ ン グ・ べ平 連の 高校 生に よっ てフ ォー ク・ ソン グ集 会と デモ が行 われ
︑数 百名 ほど の参 加者 を集 めた とい う︒ ここ で中 川五 郎が 果た した 役割 は大 きか った らし く︑ 参加 した 奥野 卓司 は︑
﹃ べ平 連ニ ュー ス﹄
︵一 九六 九年 一月
︶上 に︑
﹁ 僕達 は今 日︑ 本当 に︽ 生き た︾ ので はな いか
︒︽ 人 間︾ とな った ので はな いか
﹂と この 日の 感慨 を綴 って いる
︒ こ うし た野 外や 街頭
︑集 会︑ デモ での フォ ーク
・ソ ング の活 用が
︑有 名な 新宿 西口 地下 広場 にお ける フォ ーク
・ゲ リラ の出 現へ とつ なが って いく
︒そ の端 緒は
︑一 九六 八年 一二 月二 八日 に新 宿で 行わ れた デモ にお いて
︑関 西か ら参 加し たべ 平連 の若 者た ちが フォ ーク を歌 いな がら 行進 し︑ デモ 終了 後に
︑西 口地 下広 場で フォ ーク を歌 った こと にあ るよ うだ
︒こ うし た光 景に 刺激 を受 けた 小黒 弘︑ 山本 晴子 らべ 平連 の若 者た ちが
︑大 阪︑ 梅田 の地 下街 での フォ ーク 集会 を見 学し て準 備を 進め
︑一 九六 九年 二月 二七 日︵ 一説 には 二八 日︶ に新 宿西 口地 下広 場で フォ ーク
・ソ ング によ るア ピー ルを 開始 した
︒こ の集 会は
︑通 行人 も巻 き込 んで 規模 を拡 大し
︑参 加者 がフ ォー ク・ ソン グを 合唱 する だけ でな く︑ 広場 の随 所で 通行 人と 学生 間の 討論 も生 んだ
︒こ の場 でフ ォー クを 歌っ た若 者た ちこ そが
﹁東 京フ ォー ク・ ゲリ ラ﹂ であ った
︒
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桐 ユ ズ ル と 若 者 た ち の
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