• 検索結果がありません。

マルセル・シュウォッブ―― 例外の追求

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "マルセル・シュウォッブ―― 例外の追求"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

マルセル・シュウォッブ― ― 例外の追求

川 本 恭 久

<序論>

十 九 世 紀 末 の 文 学 作 品 の 特 徴 と は . イ タ リ ア の マ リ オ ・ プ ラ ー ツ

(Mario Praz 1986-1982 )

はその『肉体と死と悪魔』

(La carne, la morte e il diavolo nella letteraturaromantica,

1966

)

において,十九世紀末の頽廃 的で病的な特徴を丹念に論じた.プラーツの著作は「宿命の美女」や「ア ンドロギュヌス」などの適切なキーワードを巧みに使いこなして,多数の 作家たちをつなぎ合わせて整理し,当時のヨーロッパ文学の特異性を際立 たせることに成功したので,以後十九世紀末文学について考える場合,プ ラーツを避けて通ることはできないし,プラーツの用語をそのまま使うこ とも多くなる.プラーツ後にもジャン・ピエロやパスカル・ピアなどが十 九世紀後半の文学の頽廃的傾向を論じている通り,死や恐怖,サド侯爵譲 りの残酷さこそ,世紀末文学の土壌であった.前世代のロマン主義や次世 代のシュールレアリスムのような政治性を持たない世紀末の文学が病人の ように蒼ざめた貧弱な色合いであることは否めない.ロマン主義の熱が冷 め,自然主義の運動が行き詰まりつつあった時代の活力のない文学なのか もしれない.

その時代はミシェル・レイモンが論じたように「小説の危機」の時代で もあった.現実を克明に正確に写し取ろうとしたレアリスムの破綻は小説 を技法的な袋小路に追い込んだ.レアリスムを信奉していようと反感を持 っていようと,どちらの作家にとってもそれは「危機」と呼ぶに相応しい 事態であった.一度レアリスムが興った以上,たとえそれが失敗に終わっ たとしても,以前には戻れない.レアリスムなどなかったような顔をして 新たに小説を書くのは無責任な態度である.「現実とは?」という問いか けに多くの作家が悩んだ.レアリスムが当時の科学に依存する姿勢を見せ ていただけに事態は深刻であった.十九世紀末のヨーロッパにおいて理数 系科学は転換期に突入していた.

(2)

ロマン主義の熱狂と万能と思われた科学の確実性が失われ,閉塞観の中 にとり残された文学者たちはデカダンスの刻印を捺されるしかなかったの か.過去を愛し,死に出口を見いだし,全てを破壊し尽くすこともできず に病的なサディズムに快楽を求め,現実に背を向けることしかできなかっ たのか.十九世紀末のフランス文学を指して世紀末文学と呼ぶとき,そこ にはどうしても否定的な意味合いが込められてしまう.マリオ・プラーツ やジャン・ピエロのようにその否定的側面もまた文学的財産であると評価 するにしても,それはロマン主義の最後の煌めきぐらいにしか思われない であろう.

だが本当にそうであろうか.プラーツによって決定づけられたデカダン スの枠に封じ込めたままで,世紀末文学を充分に語り尽くしたことになる のであろうか.

相容れないはずのものの同居,それは多様性である.多様性こそ十九世 紀末の重要な要素ではなかろうか.それも十九世紀末フランス文学の多様 性は,土台を失った根元的深さを持っているようである.「現実とは何 か?」と問いかけずにはいられない時代であったのだ.新たに土台固めを する者,深みへと下りてゆく者,別世界を夢想する者,各々が様々な方法 で対処した.十九世紀末は総括されることを拒む.アルフレッド・ジャリ

(Alfred Jarry

1873-1907

)

のパタフィジックなる考えこそ世紀末文学の宣 言と捉えて良いだろう.普遍ではなく,例外を追求する科学.同様の考え をマルセル・シュウォッブ

(Marcel Schwob

1867-1905

)

も表明していた.

個を個たらしめている要素を追求することで,一度失われた現実を文学に 取り戻そうとしたのだ.世界を体系化するのではなく,多様性を増幅させ 無秩序へと向かわせる.それは社会の動向に全く逆行していた.二十世紀 の不気味な管理社会,全体主義は目前に迫っている.

十九世紀末文学はもう一度,彼らの理論に従って研究されるべきである.

同じ主題を描きながら,実は彼らは何も共有してはいなかったのではない だろうか.例えばジャン・ロラン

( Jean Lorrain

1855-1906

)

とシュウォッ ブはともに「仮面」を主題として好んだことで有名であるが,二人は共通 性より,相違性によって理解されるべきではないだろうか.

ただ研究するにあたって,色々な作家を並べてその相違点を次々指摘す る方法を採れば,それは全く不毛な作業に終わるであろう.重要なのは作 家たちが個性的であろうとした態度を明確にすることなのである.そうし てなぜ個を追求したのかを解き明かすことなのである.なぜ普遍ではなく

(3)

例外を求めるのか.十九世紀末の発する問いかけは意外に重たい.

そこで浮上するのがマルセル・シュウォッブという一人の作家である.

彼はマリオ・プラーツが世紀末的頽廃の特徴を顕著に備えた作家として好 んだ一人である.そして写実主義の限界を認識し,新しくそれに代わる現 実描写の方法を確立する必要を感じていた作家でもある.さらにいえば,

シュウォッブは従来の教科書的なフランス文学通史ではほとんど取り上げ られることのなかった傍流の文学者であるのだが,象徴主義グループやメ ルキュール・ド・フランスを拠点にしていた作家たちなど,当時の中心的 な文学者たちと密接なつながりを持っていた.十九世紀末的性格を体現し ながらも,十九世紀末を客観的に観察できる存在が彼なのだ.マルセル・

シュウォッブという作家の特異性を徹底的に研究し,そうして浮かび上が った問題点を通してもう一度世紀末フランスを見直してみたら,新しい世 紀末文学の様相や世紀末の社会像がみえてくるかもしれない.シュウォッ ブ研究の狙いはそこにある.

<周縁からの視線>

『黄金仮面の王』

(Le roi au masque d’or,

1892

)

の序文で別の世界の住人 がこの世界を観察したらと仮定してシュウォッブは事物の類似と相違につ いて語っている.別の世界から来た観察者の眼差しこそ,マルセル・シュ ウォッブの眼差しであろうか.

西欧人の目には,ある一人の中国人ともう一人の中国人の区別がつかな い.蟻が全て同じように見えるのと一緒である.この中国人を見る西欧人 の眼,蟻を見る人間の眼が,シュウォッブのいう別の世界から来た観察者 の眼なのである.蟻が十匹いれば,十のそれぞれ異なる存在があるはずな のだが,人間にその見分けはできない.差異を識別できないその視線を今 度は自分のよく見知っている世界に向けたならどうなるのか.類似と相違 の問題はシュウォッブの全作品を貫く主題である.同じと思っていたもの が違っていて,違うと思っていたものが同じという騙し絵のような世界像 は見る角度にも大きく左右される.ただこの別の世界からの眼差しは,十 九世紀の小説,特にイギリスの小説に多く見られる,神の視点とは根本的 に違う1).神と同一の視点に立って語られる小説の世界は,語り手にとっ て全てが既知のことがらで満たされている.それに対してシュウォッブの 別の世界からの眼差しは語られる世界に対してほとんど無知なのだ.神の 視点が高みにあるとするなら,別の世界からの視点は周縁部に位置する.

(4)

そして後者はそのままマルセル・シュウォッブの位置なのである.パリで は地方新聞の記者として,文学的には象徴主義にも写実主義にも積極的に 与しない作家として,イギリスではフランス人として,シュウォッブは中 心から逸れた場所に位置し続けた.さらに社会的にはユダヤ人として,こ こでも周縁に立たねばならない存在であった.

ユダヤ人であることがフランスでどれほどの比重を占めることなのか.

シュウォッブ本人は直截に自身の出自について語っていない.だが世の中 の空気は次第にあやしくきな臭くなっていった.やがてドレフュス事件が 発生する.その時,シュウォッブが友人を失う様は痛々しい.彼は予め疎 外されるべき存在だったのである.それを予知していたかのように,シュ ウォッブは本来の自己とは違う仮面に支配されて生きる人々を描いてい た.疎外される側に立つ者は仮面の下の本性を見極める必要がある.別の 世界からの眼差しは,疎外される者の眼差しとも一致する.

シュウォッブは中心でなく周縁部にいる.それでは中心とはどこなのか.

いやそれがどこであろうと中心なるものは果たしてあるのか.そう,中心 はもはや消え失せていたのである.印象派のある絵画では遠近法が故意に 歪められた2).絵画の遠近法で画面内に架空に定められる消失点,つまり 世界の仮想中心は否定された.遠近法の破壊は絵画の世界に於ける現実の 破壊ではない.より現実に近い描写を求める行為なのだ.破壊されたのは あるように思われていた中心なのである.

政治の世界でも一人の王による統治は時代遅れであり,多数決を前提 とする議会が重役を担った3).カール・シュミット

(Carl Schmitt

1888- 1985

)

が何かを決定するのではなく,決定を先延ばしにして回避している だけだと苛立つことになる議会制民主主義の世界的普及もまた中心の消 失を裏付けするものであった.理論上では,誰が決定したのか,誰が責 任を負うのか定かではない多数決による決定には中心が欠けている.王 のためでも王の名の下にでもなく,王の首をはねればことが足りるわけ でもない.

物理学においては当時,自然認識の根幹であるとみなされ物理学体系 の中心に据えられていた力学に対して,エルンスト・マッハ

(Ernst

Mach

1838-1916

)

による攻撃が加えられていた.純粋な力学的現象など

は存在せず,実際には熱力学や電磁気学,化学,光学もその現象に関与 しており,同時にそれを生理学によって記述することも可能なのだとい う説は,力学のそれまでの特権を剥奪し,物理学体系から中心を消し去

(5)

るものであった.

すでに十九世紀末の世界から確固たる中心は姿を消しつつあったのだ.

その中でもともと周縁部に位置していたシュウォッブは明確に自分の役割 を認識していた.別の世界からの観察者となってこの世界を見つめ直すこ とである.

中心の消失が直接に作品上に見出せるのが『少年十字軍』

(La Croisa- de des enfants,

1896

)

である.この作品は八人の語り手がめいめい勝手に 物語る構成をとっている.全体を通してみれば一篇の物語なのだが,語り 手たちのそれぞれの話は連続性が希薄で,八つの短篇をあつめたものとし ても読める.物語の主軸,つまり中心が欠落しているのだ.そして八人の 語り手全員が,自分たちが目の当たりにしている出来事の全体像を俯瞰的 に捉えることもできずにいるのだ.少年十字軍に加わった一人の男の子は 自分がエルサレムを目指していることは知っていても,それが地理的にど こにあるのかは知らない.物語の中で象徴的に中心となるはずの聖地エル サレムもここでは消失してしまっているのだ.

それでは断絶した八つの物語をつなぎ合わせているものは何なのか.そ れは語られなかった部分である.シュウォッブが『少年十字軍』の語りの 技法の着想を得たのはスティーヴンスン

(Robert Louis Stevenson

1850- 1894

)

の『宝島』

(Trasure Island,

1883

)

からなのだが,シュウォッブは

「スティーヴンスン論」

(Robert Louis Stevenson)

で問題の部分に触れつ つ,スティーヴンスンが物語の各所で語り尽くさず余白の部分を効果的に 残す術に長けていることを称賛している.シュウォッブが『少年十字軍』

において語られぬままの部分を意識的に残したことは明白である.そして その語られなかった部分が語られた部分と比べて相当な量になることも想 像に難くない.登場人物たちは唐突に現れてはすぐに退場しそれっきりと なる.物語の求心力は再び彼らを呼び戻せるほど強くない.中心を失った 物語とは余白だらけの物語でもあるのだ.しかしその余白は雄弁である.

自分は無知であると繰り返す法王インノケンティウスの呟きは,二十世紀 に,語り得ぬものについては沈黙しなければならないと言ったウィトゲン シュタイン

(Ludwig Wittgenstein

1889-1951

)

の思考と遠く呼応している ようにさえ思われる.中心を失った世界はその領界が,次第に曖昧になり,

沈黙の領域に浸食されていくのか.

作中で二人の教皇はしきりと少年十字軍の意味を自分に問いかけ,答え を見出せずに苦しむ.教皇たちだけではない.語り手全員がこの事件を理

(6)

解できないのだ.シュウォッブは読者に答えのようなものを提出している のだろうか.おそらくシュウォッブはこの事件に意義や答えのようなもの を期待しはしないだろう.大勢の子どもたちが何故だかは判らないが突然 エルサレムを目指して行軍し始めた,というだけの歴史上の永遠の謎とし て提示しているのである.永遠の謎は,パタフィジックの文脈に載せて,

永遠の例外と言い換えても良い.例外を例外として追求するために,シュ ウォッブは解説めかした記述も思わせぶりも排して,中心を欠いた語りと 余白で表現したのだ.

<中心と自己>

中心の消えた世界を別の世界から来た観察者の眼差しで見るとどう見え るのか.シュウォッブの代表的短篇「黄金仮面の王」は中心そのものが問 題となる.

主人公は権力の中枢にある王である.王は仮面をつけた臣下たちに囲ま れて生活しており自身も仮面をつけている.物語は王にとって禁忌である 素顔をさらした目の見えぬ乞食を気まぐれから王が招き入れるところから 始まる.この乞食は王にとって別の世界の住人であり,乞食にとってもそ うである.そして乞食は目が見えぬことによって,かえって王には見えぬ 臣下たちの仮面に隠された顔が見透かせてしまうのだ.乞食によって好奇 心を焚つけられた王は,その夜こそっりと,七重にめぐらされた城壁に取 り囲まれた七つの同心円を形づくる内庭を通り抜け城の外に出てしまう.

七重の壁と七つの庭に囲まれた城はまさに,王にとっての世界の中心であ る.その城から王が抜け出すことは,中心からの脱走である.一方城から 見れば,王こそ城の意義を保っている核なのである.その王が出ていって しまったことは城にとって,中心点の喪失を意味する.かくして王はアウ トサイダーとなり,城の秩序は崩壊する.

黄金仮面の王は城の中で臣下たちに囲まれていてこそ王として威厳を備 えた存在であった.城の外で王は仮面を取り外し,遂に自分の病に冒され た恐ろしい素顔を知る.動揺した王は何とか城の戻るが,そこはもうかつ ての居心地のいい場所ではない.見てはならぬ自分の素顔を見てしまった 王は,城にとっては部外者なのだ.王は臣下たちを集めて,彼らの仮面も とらせると,自ら両の目を潰し,全てを捨てて流浪の旅に出る.

かくして王は病んで両眼を失い無一物の哀れな存在となる.その姿は,

物語の契機となる,乞食の姿と重なる.中心が,ひたすら排除しようとし

(7)

ていた周縁に住むべき存在と,合致してしまったのだ.王から乞食への変 身は世界の脆さを表している.核となるべく権力の中枢に座る王は豪華絢 爛たる黄金の仮面をつけ,臣下たちも各々の役割にあわせた仮面によって 揺るぎない秩序を形成し,七重の城壁で囲まれた城は,不動で堅固な世界 の縮図となっている.しかし城壁内の堅固な世界はそもそも幻想でしかな かった.その世界を構築する中心となる黄金仮面の王が代々自分たちの恐 ろしい病を仮面の下に隠していたのに皆が気づかなかったか,気づかない 振りをしていただけなのだ.そして城の中心に,表面とは全く異質のもの を抱えながら,外面だけの秩序を保ち続けていた.それはまやかしであり 脆弱なものである.城の中心,権力の中枢に座っていたのは,権力が排除 しようとつとめる存在だったのである.

『架空の伝記』

(Vies imaginaires,

1896

)

の「ヘロストラトス」

(E-

rosrate)

の主人公は自分では王になる存在と考えているが父親もわからぬ

し素性の知れぬ人物である.彼は女神アルテミスの大神殿がある古代のエ ペソスという町で育った.女神は二つの固く先の尖った乳房を持つ円錐系 の黒石であり,その女神は神殿内の秘密の部屋に宝物を隠し持っていた.

そこに通じる扉の下の基壇には神殿が建立されているときに哲人ヘラクレ イトスが封じ込めた,火の支配する世の到来を予言した手稿があった.主 人公ヘロストラトスは幼い頃からアルテミスの神殿を遊び場としており,

女神に身を捧げたつもりでいたが,素姓も確かでない彼は神官たちから疎 んじられ,司祭にしてもらえなかった.ヘロストラトスは自分が比類のな い存在であると信じ,ヘラクレイトスの哲学の奥義に触れたいと思ってい た.神官たちはそんな彼を危険人物と見なし,エペソスの総督は彼を城外 へ追放する.彼は山の洞窟で生活し,なぜだか自分が王であり哲人でもあ り,神であると考えるに到る.そうして啓示を受けたヘロストラトスはあ る夜,女神の秘密の部屋に押し入る決心をする.彼は部屋にはいると,財 宝は盗らず,ヘラクレイトスの手稿だけを盗む.彼はその場でそれを読み,

全てを悟り神殿に火を放ち,夜の闇を包む炎の中で自分の名を叫んでいる ところを,捕らえられる.

この物語の中心はアルテミスの大神殿である.そして主人公はそこから 追放された男だ.神殿には何が書かれているのか誰も知らない手稿が隠さ れている.おそらく誰がそれを読んだとしても,神殿が焼かれるという結 果に変わりはなかっただろう.神殿は建設中からずっと自らのうちに破滅 の種子を抱いていたのである.黄金の仮面をつけた王が予めその下に破滅

(8)

を隠していたのと同じである.ヘロストラトスは中心から追放された存在 であるが,それは彼が根拠もなしに世の中心人物だと考えていたからであ る.彼はそれを確認しようとするかのように,神殿に押し入り,火を放つ.

神殿を焼き払い,彼は自分の名を叫ぶ.あたかも今から自分が世の中心と なるぞと宣言しているかのようだ.

「黄金仮面の王」でも「ヘロストラトス」でも中心となる存在は自らが その核に破滅の力を秘めていた.その核心を確認しようとすると同時に世 界の中心は消え失せてしまう.中心が消え失せれば辺境も消える.もし世 界に中心も辺境もなく,王も乞食もなく,神がただの放火犯であるなら,

自己とは一体何を基準に理解したら良いのだろうか.

<他者と自己の境>

シュウォッブの「黄金仮面の王」では,城内に鏡が一つもないため,王 は自分の素顔を見るのに七つの城門を抜けなければならない.「ヘロスト ラトス」では,主人公にとって運命的なヘラクレイトスの手稿は秘密の部 屋の敷居部分に封じ込められている.内と外を隔てる敷居はまさにそこを 通過することで世界が変わる象徴なのだ4).だがすでに論じたように,門 や扉で仕切られた内側は外側と互換性を持つ不安定な世界としてシュウォ ッブ作品において描かれている.

「阿片の扉」

(Les portes de l’opium)

はその扉そのものの物語といえる.

主人公は「私」である.彼は巨額の財産を持っているが,単調な生活に飽 き飽きしていた.

「私は自分自身であることを放棄して,兵隊や乞食や商人やあるいはスカート を揺らして通り過ぎる女や淑やかにヴェールを被り菓子屋に入っていった娘に なりたいという,悲痛なまでの欲望をしばしば感じた」5)

主人公のこの欲求はシュウォッブ自身のものでもあるだろう.古代の哲 人や,中世の盗賊,海賊の生をシュウォッブは作品の中でもう一度生きる かのように再現してみせた.「自分自身であることを放棄して」他人の生 を生きたいというのは,自己に関してほとんど何も記さなかったシュウォ ッブの素直な述懐かもしれない.そして,そのような欲求を持つ主人公は 自分の好奇心が,町外れの一角にある,高い塀に対して不釣り合いなほど 小さな一つの扉に引き寄せられたのも当然だと言う.錠も錆び付いたその

(9)

奇妙な扉の向こうでは誰がどのような生活を送っているのか,「私」は思 いを馳せる.ここでの扉に仕切られている内と外は,自己と他者の関係に 置き換えられる.「私」は扉の向こう側に,扉の負けず劣らずの,奇妙な 他人の存在を意識している.扉が仕切っているのは単に空間だけではなく,

「私」と中にいると思われる見ず知らずの他人の存在なのだ.その「私」

は,「自分自身であることを放棄して」他人に変身する願望を抱く人物と して設定されているので,この場合,扉を開ける行為はそのまま自分では ない他人の世界に入っていく行為と等しくなるのである.

扉の中は実は阿片窟で,「私」はそこで全財産をだまし取られて着てい るものも乞食のものと換えられ,一人扉の前に取り残される.「私」は阿 片によって全財産を失ってしまったと嘆くが,この扉は結局男の願いを叶 えているのだ.彼は望んだように,以前の金持ちの自分とはうって変わっ た無一物の乞食となって路上にいる.自分自身ではないと,かつて考えて いた存在になったのである.

とすると扉が隔てていた内側にいたのもやはり「私」であったのだろう か.ヘロストラトスがヘラクレイトスの手稿に読み取ったものは自分自身 であったに違いない.だからヘロストラトスは確信を持って神殿に火を放 ち,自分の名前を世界に向けて叫んだのである.彼らは敷居に幻惑され,

内にも自分自身がいる可能性に気がつかなかったのだ.扉を外から眺めて いた「私」にとって,自分はあくまでも自分であり,他人は他人でしかな いという認識があった.他人になり変わりたいという男の欲求は,所詮そ んなことは無理だとの前提に基づいた気楽なものであったのだ.しかしそ の欲求はあっさりと実現される.阿片の誘惑に負かされるだけで彼は以前 と全く異なる乞食として放り出されるのだ.黄金仮面の王も仮面を取るだ けで違う存在となれた.自己は確立されておらず不安定な状態にある.

存在は絶対的な個ではなく,複数性の内にあるのだ.シュウォッブは一 つのものに固定することを拒否し続ける.『モネルの書』

(Le livre de

Monelle,

1894

)

の主人公モネルは何人もの女性の結晶に思われる.ナポレ

オンやトマス・ド・クィンシーやドストエフスキーの愛した女性たちが実 はたった一人のモネルであったかのように.だがモネル自身も「モネルの 妹たち」へと分裂していく.それは分裂や結合を繰り返して生命を維持し ていた単細胞生物時代の記憶の反映かもしれない.ダーウィンの進化説や それを汲んだヘッケル

(Ernst Haeckel

1834-1919

)

の学説を考えるならば,

様々な機会に他の存在から分化してきた結果として自分が現在ここにいる

(10)

のだが,元を辿って行けば同一の源に発する他者が自分であってもおかし くはない.個々を仕切っている境界はたやすく侵犯されてしまうのである.

<ジャン・ロランの仮面とシュウォッブの仮面>

内と外の関係のあやうさは,外からの視線をあらかじめ規定しようとす る,あるいはごまかそうとする仮面のテーマにもあらわれる.

ジャン・ロランの「仮面の孔」はマルセル・シュウォッブに捧げられて いる.物語の主人公は友人に誘われて仮面舞踏会へ出かける.馬車で長い 行程を経て城壁外の酒場に着くが,店では誰もが仮面をつけている.舞踏 会は店の奥にあるホールで行われていたが,そこは見捨てられたかつての 教会であった.そして仮装舞踏会だというのにオーケストラも居らず,誰 一人身動きしないでじっと突っ立っているだけだ.しかも華やかな仮装を 楽しんでいる者はなく,皆がお揃いの緑と黒の服をまとい,深緑の頭巾を 被っている.不安になった主人公はそのうちの一人の頭巾をむしり取るが その仮面の下には誰も居らず空虚があるのみだった.主人公は恐怖を感じ 鏡の前に行く.そこに映し出された自分の姿は他の出席者と同じ姿であり,

仮面を外すとやはりその下は空虚であった.

ジャン・ロランもシュウォッブも世紀末において仮面をテーマとして好 んだ作家であるが,二人の仮面に対する考えは異なっていたようだ.そし てその相違はこの「仮面の孔」に如実に現れている.ジャン・ロランは仮 面の物語を多く紡いだが,その多くは仮面に対する恐怖を描いている.仮 面そのものがロランの興味を惹き付け,仮面そのものが人を恐怖させる.

仮面の下はどうなのか.答えは「仮面の孔」にある通り虚無なのだ.ロラ ンの仮面が人を恐れさせるのは,仮面をまとっているのが,多くの場合死 や妄想などの超人間的存在であるからだ.仮面は超自然現象の具象化と言 っても良い.登場人物たちは仮面の下に馴染みの人間の気配を感じとれな いとき,仮面に得体の知れぬ何かを感じ恐怖する.仮装舞踏会で仮面は非 日常を演出するが,舞踏会が済んで仮面をとれば日常は回復される.だが 舞踏会の演出された非日常空間を利用して,本当に異質なものが入り込ん でいたら,というのがロランの仮面の恐さである.それは祝祭の後にまた もとの日常が戻らないのではという感覚である.

ジャン・ロランの小説の視点はほとんど日常の側に置かれている.語り 手はしばしば麻薬によって非日常的世界に踏み込むが,結局はこちら側,

日常の世界に戻ってきて自分の体験を語るのである.彼の作品では日常と

(11)

非日常の境界は保たれたままなのだ.仮装舞踏会などを契機にその関係が 混乱することはあるが,語り手の視点はいつも日常の側に置かれ,境界が 破壊され消失することもない.シュウォッブの作品において,日常と非日 常の境界が一つのきっかけによって,なしくずしの格好で消失して行くの とは全く異なる.

ジャン・ロランとマルセル・シュウォッブは世紀末フランス文学の中で も性質的に似ているように思われる二人の作家であるのだが,根本的に相 違しているのだ.仮面のテーマだけでなく,死と恐怖を自作の中心に据え,

売春婦をよく登場させ,作品中にはいつも雨が陰気に降り続いているなど,

二人の共通点は多い.しかもそれらのテーマは二人の作品の核心ともなっ ている.そうしたテーマは世紀末文学共通のものかもしれないが,二人に は特に顕著であり,アンリ・ド・レニエやローデンバック

(Georges Rodenbach

1855-1898

)

などと較べてみると,やはりロランとシュウォッ ブは異質である.それはこの二人が世紀末的特徴を自分がはっきりと示し ながらも,その世紀末をどこか冷めた視線で眺めることができるだけのイ ロニーを共に備えていたことにもよるであろう.二人とも世紀末的死や恐 怖を題材としながらそこに笑いを加えられる作家であった.それなのに二 人は全く異質なのだ.ロランがはぎ取る仮面の下は空虚である.後に残る 日常世界には何の痕跡も留めない.シュウォッブがはぎ取る仮面の下には 病に冒された,そこにあってはならない顔が現としてある.その顔はそれ までの世界が存続することを許さない.

マルセル・シュウォッブは言ったはずである.芸術家は分類せず個性的 なものだけを抽き出す,一本の線でさえ真の芸術家の手になれば個性的に なる,と.同じ仮面を描いてもシュウォッブとロランでは別のものになる.

そもそもロランの「仮面の孔」の原型はエドガー・ポーの「赤死病の仮面」

に求められるだろうが,ロランとポーの間にも相違は見られる.ポーの作 品の結末も,捉えられた仮面をつけた謎の人物は空虚であり,その空虚な 仮面によって疫病が城内にも蔓延するというものだった.ロランの作品は,

仮面の下の空虚が死を意味するという点において,ポーの着想に忠実であ る.しかしポーの仮面の下の空虚にこめられたのは,疫病による死であっ て,人を誰彼構わず襲う破壊的な力を秘めていたのに対して,ロランの仮 面の下の空虚にはただ静かで寂しい死がこめられているのみなのだ.従っ て仮面をつけた謎の人物を追い回す城主の狂乱がもたらすポー作品の活動 的な印象は,ロラン作品には見当たらない.そこでは死はかえって気怠い

(12)

ぐらい静かで不動なのだ.作者の気質の違いもあるだろうが,ロランの時 代のせいでもあるだろう.英雄たちのローマ帝国ではなく,緩やかに衰退 へと向かったビザンティン帝国と重ね合わされる黄昏の時代.死はうち棄 てられた教会の中で単調な装いの下,静かに不動で待っている.仮面を剥 ぐと下には死の空虚があったという着想はポーそのままでも,ロランの作 品は単なる焼き直しではなく,仮面の下の空虚が,世紀末デカダンス的な 死に変身していたのである.

同じものは一つもなく世界は多様なのだ.デカダンス的なテーマの下で シュウォッブはずっとそう言い続けていた.衰退の時代に死と恐怖を描き ながら,シュウォッブは新しい時代に目を向けていた.『二重の心』

(Cœur double,

1891

)

の序文で彼は,あらゆる恐怖の段階を経た後に,人 は憐みの心を持つに到る,という奇妙な思想を語った.世紀末を覆う終末 の予感の中,シュウォッブは恐怖が恐怖を取り除き憐憫へと人を導くと説 く.そして彼は十九世紀末がその転換点であることに気がついていた.だ から彼はデカダンス的な恐怖の物語を次々と書いた.書き尽くしてそれに 終止符を打つつもりだった.いずれにせよシュウォッブにとって世紀末は,

一つの時代が終わろうとしているというよりも,一つの時代を終わらせる べき時だと映っていたのではないだろうか.ジャン・ロランやロベール・

ド・モンテスキュー

(Robert de Montesquiou

1855-1921

)

がビザンティ ン帝国ぶりの頽廃を享受し,アルフレッド・ジャリが十九世紀なんかすで に無視して来るべき二十世紀を先取りしていた時代に,マルセル・シュウ ォッブは自分たちの時代に止めを刺そうとしていたのだ.

従ってシュウォッブの描く仮面は死や虚無の象徴ではなく,仮面を被る 者をして他の存在たらしめる,別世界へ導くものの役割を担わされている.

仮面を外せばまた元の世界に戻れる,仮面を被ってもその下の自分は前の 自分のままだ.その種の保証はどこにもない.「ペスト」

(La peste)

で牢 獄に繋がれた二人の男がそこから逃れるために一人の男の顔を粥と血でペ スト患者に見せかける計略を思いつくが,その仮面の下の素顔はやがて真 に病気の症状を帯び始める.仮面はもはや一時の約束された非日常空間を 演出するための道具ではない.シュウォッブ作品にあってそれは被る者の 外観だけではなく,内部の本質までも変えてしまうものであり,また内面 をひたすら隠し外界の秩序を保つ役割をする場合もある.仮面に託された この二つの役割は矛盾しているかもしれない.それでもいずれの場合も仮 面を被るか取るかで,それまでの世界が変化あるいは破壊を余儀なくされ

(13)

る点においては一致する.外からの視線が人間の内面までを変えてしまい,

隠されていた内部の露出が外界の秩序を崩壊させる.一個人と世界の間の 均衡を失いやすい関係が仮面一つに仮託されているのだ.

しかしシュウォッブの作品では一人の人間の内面と外の世界の関係があ まりにも脆く壊れやすい.それはシュウォッブがある程度意識して内と外 との境界を取り壊そうとしていたためである.だがそのような世界で人は どこに自己の存在を見出せるのだろうか.シュウォッブは果たして作品中 にその答えを示しているだろうか.

<個体の同定に関して>

『二重の心』の序文でシュウォッブは,人間の心は二重であると記した.

利己心と慈悲,個人と群衆,自己保存と他者のための犠牲,これら一見 相反するものが二重の極として人間の心の内にあるとシュウォッブは説 く.

Cœur

は心であり,中心である.相容れない両極が両極でありながら 中心になる.それは一つの構図のうちに二つの消失点を持った遠近法であ る.議会制民主主義と専制君主制の並立する国家である.

「顔なし」

(Les sans-gueule)

というコントには戦闘で顔面を削がれてし まった二人の身元不詳の男が出てくる.飛んできた金属片によって顔の表 面部分をきれいに吹き飛ばされた二人の男は同じような体格なので,どち らがどちらなのか区別できない.どちらかが自分の夫であると一人の女性 が名乗り出るが,彼女にもどちらが夫なのかわからない.そこで女が二人 を引き取って共に生活をし,自分の夫を見極めるという解決策がとられる.

このようなことが実際に起こり得るかどうかは問題ではない.シュウォッ ブがここで提起しているのは,社会に対して名札の役を果たしていた顔を 失った人間のイダンティテの問題である.そして二重の人間,二重の心が 問題となるのだ.

十九世紀末,フランスでもイギリスでも犯罪者が変装などによって身分 や名前を偽った場合,どのようにしてそれを見破るかが問題となっていた.

指紋が犯人の同定に正式に採用されるのはロンドンで

1901

年のことであ る.指紋による同定が確立するまではパリでもロンドンでも,アルフォン ス・ベルティヨン

(Alphonse Bertillon

1853-1914

)

の人体測定法が有効な 手段と考えられていた6).人体の様々な部位を測定し,それらの数値が合 致するかを調べる方法である.頭蓋骨の大きさや指の長さなどが測定され カードに記録される.これならば変装をして名前を偽った犯人でも,身体

(14)

の各部位の大きさから前歴を辿ることができるわけなのである.だがベル ティヨンの方式が有効であるためには,できるだけ多くのデータが必要で あった.そのためにロンドンではすぐに情報が処理しきれないほど膨大な ものとなってしまった.さらに身体測定の数値が各地で行われた結果に基 づくため,数値に多少の誤差が出るのはどうしようもなかった.そしてベ ルティヨンの方式による犯人の同定において多少の誤差は致命的欠陥なの である.

ただそれでも,客観的なデータに基づくベルティヨン方式は当時の犯罪 捜査の先端であり,その有用性はシャーロック・ホームズ7)も認めている とおりだった.全く違う外見の人物が同一であるのか,ないのか.ベルテ ィヨンの方法は理論上,その問題に解答を示すものだったのである.以後,

人物の同定に関しては,指紋,歯形,

DNA

と技術は方法を進歩させ,よ り確実なものとした.ベルティヨンの方法はその出発点となる.そしてそ れは,人間の身体を,内容とは無関係に取り扱う,不気味なものでもあっ た.客観的な人物の同定とは,実はそれが何者であるかはどうでもよく,

数値と数値が一致すれば良いだけの乱暴なものでもあるのだ.もし万が一,

「顔なし」の二人の兵士が8),あらゆる部位の測定で一致した数値を示した としたらどうであろう.

二人のうちのどちらかの妻であるはずの女は,二人と生活しながら夫を 識別しようとするが,やがて諦めてしまう.女は二人に対して等しく愛情 を注ぐ.だがよりおとなしい方に,知らず知らず,愛着を感じてしまって いると,もう一人の方は陰鬱になっていき,病気になる.女は親身になって 看病するが,その時ふと,病人の仕草がかつて自分の夫だった男がみせたそ れと似ていることに気づく.病気になった方はそのまま死んでしまう.女は 初めて自分が夫を失ったことに気づき,もう一人に対して激しい憤りを感じ るが,彼の無邪気な姿を見て,憐れみを感じる.物語はそこで終わる.

蟻の群の中の蟻は見分けがつかない.別の世界から来た観察者から見れ ば,人間たちもきっと蟻の一群と同じに見えるに違いない.そして「顔な し」の女は二人の男を外から見ていたので区別できなかった.社会的に何 者でもない二人なのだ.群れの中の蟻と同じだ.でも,病気がきっかけと なって,女が別の世界から来た観察者の視点ではなく,男と同調した視点 に立ったとき,彼女は二人を識別することができる.個人とは何であるの だろうか.シュウォッブにとって,それがベルティヨン式で識別できる類 のものでないことは確かなようだ.

(15)

ベルティヨンの方法に始まり,指紋や

DNA

の鑑定へと続く人物の同 定に関わる技術は,ある一人の人間が何者でもない者として存在すること をひたすら否定しようとする.ある人物が国籍も年齢も経歴も名前すらも 特定されずにいるのを社会は拒否する.どんなに姿形を変え,いかなる場 所に現れようと,それが一人の人間ならば,どうしても一人の特定の人間 として同定されなければならないのだ.一方,ド・クィンシーの愛したア ンと,ドストエフスキーを見守ったネリーと,モネルとが同一の存在であ ることはあり得ない.彼女たちは三人の個人であるからだ.しかしシュウ ォッブには,彼女たちは,同一の存在なのである.確かに彼女たちは,そ れぞれ時代も場所も違うところで生きた別々の三人であり,科学的な同定 は不可能である.ただ,ある瞬間において,彼女たちは一つの存在になる.

それは,苦悩するド・クィンシーやドストエフスキーの傍らに寄り添って いるときである.

「いかなる衣にも,魂にも身体にも,隷属してはならない.……死に自分の姿 を映してはならない,流れる水にお前のイマージュを運び去られるままにする が良い」.9)

と,モネルは語る.彼女たちが一つの存在になる,と言うよりは,ド・

クィンシーやドストエフスキーの傍らにいる瞬間,彼女たちは個々の存在 への隷属状態から解放されていると言うべきかもしれない.なにものにも 囚われない瞬間を彼女たちは生きていた.その時にはそれがアンであろう とネリーであろうと関係ない.誰でも良いのだ.そこにいたのが誰であっ たのかを後になって,身体測定の数値や指紋によって特定しようとしても 詮無いことである.ド・クィンシーやドストエフスキーを癒して闇の中に 消えていった少女たちとその後の彼女たちは別人であるからだ.

「それ以外のことを考えてはならない.彼女たちが闇の中でしたかもしれない ことを考えてはならない」.10)

彼女たちは闇の中で,娼館に戻ったかもしれないし,酔いつぶれていた かもしれない.しかし,酔いどれ女になったアンと,ド・クィンシーの側 にいたアンは同一人物ではない.社会は同一人物だと認めるだろうが,シ ュウォッブには別人なのである.

(16)

『架空の伝記』の序文でシュウォッブは,いわゆる公式の伝記とその人 の真の人生のズレについて語っている.サミュエル・ジョンスンの人生の 一般的解釈において,彼がいつもひからびたオレンジの皮をポケットに容 れていたことは無意味に等しい.ジョンスンの功績とひからびたオレンジ の皮とは何も関係ないからだ.でも,ジョンスンの個性について考えるな ら,一般に評価されている彼の仕事よりも,オレンジの皮の方がより興味 を惹く.シュウォッブにとって,ジョンスンを知ると言うことは,このひ からびたオレンジの皮について知ることなのである.このオレンジの皮は 歴史家たちが,得てして語り落としてきた事柄のうちに含まれる.歴史家 は一般的な事柄との関連において個人を捉えるために,オレンジの皮につ いて語る必要がなかった.ジョンスンの業績が中心であり,オレンジの皮 はその周縁の瑣末なことである.しかしその瑣末なことはジョンスンのも う一つの側面を示してくれる.ひからびたオレンジの皮をポケットに容れ た男は偉大なサミュエル・ジョンスンとは別のもう一人のサミュエル・ジ ョンスンであり,二人のサミュエル・ジョンスンを無理に結びつける必要 はないのである.人は多様な生を生きている.ジョンスンは生涯に渡って 辻褄のあった理路整然たる生を送っていたわけではない.オレンジの皮を ポケットに容れていた彼が,公式的なサミュエル・ジョンスンの例外であ っても,彼であることに変わりはないのだ.そしてシュウォッブは例外の 方を追求する.酒好きの娼婦アンがド・クィンシーに寄り添ったのは,彼 女にしてみれば例外的に純情な行為であったかもしれない.だが,それが 気紛れから出た行為であったとしても,その例外的行為におけるアンの方 が,残りの全生涯におけるアンよりも重要なのである.

一人の人間はその生涯において,常に同一の,不変の存在でなくてはな らないわけではない.また,複数の人間が,ある瞬間,区別のつけようが ないくらい同じ存在に見えることもある.「顔なし」の二人の男のどちら かは,女にとって赤の他人である.だが彼女にはもうどうでも良いことな のだ.どちらが自分の夫であるのかわかった後でも,彼女は他人であるは ずの男を見捨てられない.群れの中の一匹の蟻がどれほど他の蟻と同じに 見えても,その蟻は他とは異なる一個の存在である.しかし,その蟻が他 の蟻とは違うと見分けられたところで,どうなるものでもない.それは観 察する側の変化であり,蟻自体に変化が起きたのではないのだ.観察する 側が群れの一匹一匹の持つ微妙な違いに気がついただけなのである.その ニュアンスはあまりに微妙なので気がつかなければ皆同じに見える.「顔

(17)

なし」の二人の違いもそのように微妙なものだったので妻でも気づかなか った.だが,あまりに微妙な相違だったので気がついた後も,夫でなかっ た男を追い出す理由にはならなかった.妻は,夫ともう一人の男を差別し なければならないとは考えなかったのだ.

シュウォッブにとって類似と相違は微妙な問題であった.ジョンスンを 他と較べて個性的にしているのは,ひからびたオレンジの皮をポケットに 容れていたという瑣末な事実であった.それは瑣末な事柄ではあるが,他 との比較を絶する,個性的な事柄でもある.「顔なし」の二人の男を区別 するのは,病気になったときの何気ない手の動き一つであった.親しい者 にしか識別できない,ほんの僅かな癖にシュウォッブは一人の人間の個性 を見出すのである.

「一片の萼を覆う皮,一細胞の繊維,ある木目の湾曲,ある習慣的な癖,一性 格の急な転換についての科学はない」11)

シュウォッブはそうした微妙な違いに個性を追求するのこそ芸術だと考 える.相違は他との比較から生じるのではない.対象が例外的に持ってい る特異さから生じるのである.

「ソクラテスと同じように,タレスも 汝自身ヲ知レ と言ったかもしれない が,牢獄の中で毒人参を呷る前にソクラテスと同じ仕方で脚をこすりはしなか っただろう」12)

汝自身ヲ知レ とソクラテスが言ったことは彼の個性とは関係ない.

その言葉はタレスが言っても,後世の誰かが言っても良かった.ただ服毒 する前に脚をこすったその仕草こそがソクラテスの個性の証なのである.

それは病気になった「顔なし」の一人の手の仕草と同じである.顔も名前 も言葉もどうでもいい.その仕草が全てだったのである.女はその仕草に よって夫に抱いていたあらゆる感情を取り戻す.彼女が愛していたものは 手の僅かな動き一つに集約されている.区別のつかない分身のようなもう 一人の「顔なし」と夫を前にして,身体でも社会的地位でもなく,手の動 きの癖が,愛を呼び起こし,男の存在の証をたてた.その手の動きにこそ 一人の男のイダンティテがあったのである.

ベルティヨン式の測定法なら手の大きさはわかるだろう.あるいはもう

(18)

少し後の警察なら指紋を調べて身元を特定するだろう.しかしその数値や 指紋は,他の数値や指紋との比較なしでは何も語らない.確かに指紋は,

同一のものが存在する可能性の極めて低い,一人の人間に固有のものであ る.それでも指紋で同定するためには,犯行現場などに残されたものと,

誰の指紋であるかはっきりしているものの二つを比較する必要がある.一 つの指紋を見ただけでは,それが誰のものであるのかわからない.指紋は 結局個性ではない.各人がそれぞれ違う形状の指紋を持っていることは例 外ではないので,そこにその人の個性を見出せはしないのだ.ベルティヨ ンの方法についても同じである.それは,個性を見出すための科学ではな く,群れの中から与えられた情報と合致する一個体を選別するためのもの なのだ.ベルティヨン以前は,もっと大雑把に人相や一目見てわかる身体 的特徴に頼るしかなかった.ほくろが額にある,腕が異様に長い,などで ある.そうした特徴は変装でごまかせるし,目立つ特徴のない者もいたの で,ベルティヨンの方法が考案された.しかし,シュウォッブの個性に対 する考えからみると,それらの人物の見分け方は根本において過ちを犯し ているのだ.

人と人との相違は極めて微妙なものでしかないのだ.シュウォッブが

「顔なし」で設定したのは,一般的な方法で識別できない二人の人物がい たら,という状況であった.そしてそれは決して異常な設定ではなく,別 の世界から来た観察者が見れば人間たちは同じように見えるであろうとの シュウォッブの考えの反映であり,実は自然な状況を誇張しているだけな のだ.二人の相違は見分け難いので,女は二人の存在を切り離して考えら れなくなり,二人を同時に愛す.その相違に気がつき,片方の男を失った 後でも,その相違があまりに微妙なので,女は生き残った一人をそのまま 愛する決心をする.「顔なし」の二人の相違はそれほど微かであり,差別 を引き起こさないが,個性はその微かな相違にしっかりと根づいているの だ.従って,何とか他の存在から区別できるように分類して差別しようと する考えでは,「顔なし」の二人は識別できないままであるだろう.計測 不能のニュアンスにこそ一存在の個性は宿る.もしも複数の存在がその極 微かなニュアンスにおいて一致したのなら,複数の存在は溶け合って,た だ一つの存在に見えるであろう.アンやネリーやモネルたちがそうであっ たように.類似もまたニュアンスの違いに係っている.類似と相違は二重 であり,表と裏である.

(19)

<結 論>

シュウォッブが夢みた理想郷は,現実の世界と見分けのつかない,紙一 重の世界であった.世界は多様で個々のものは絶対の個性を持っているの に,人はそのニュアンスを見分けられる目を持たないので,類似にしか気 がつかず,相似を見逃してしまっているのだ.そのためシュウォッブの作 品に登場する人物たちはすぐ目の前にある幸せを掴み損ねる.最悪の恐怖 の果てに訪れるシュウォッブの理想郷は,実は社会の変革などによって到 来するものではなく,単に世界の多様性を識別できる眼差しを人々が獲得 できるかどうかにかかっている.世界は多様でしかあり得ないので,そこ に差別は生まれようがないのである.オレンジの皮をポケットに詰め込ん でいたり,手の置き方や脚をこする仕草が見誤り様のないものだったり,

多様性は微妙なところに潜んでいる.あるものが個性的であるのは,その ものが独自に持っている例外的な部分にのみ関わることであり,他のもの との相違点によるのではない.その例外的な部分を見定める眼差しを獲得 するには,先ず中心がすでに失われていることの確認が不可欠であった.

判断の基準を置くべき中心の喪失は,対象に注がれる視線そのものを不安 定にし,対象と視線を共に漂流させる.存在を固定する座標軸は失われ,

他との比較からの区別は不可能になるその時,人は対象の持つ例外性に気 がつく.その例外性のうちにこそ全てがあるのだ.ニュアンスのうちに,

世界の多様性の証があり,個のイダンティテの証がある.例外性を見出し たとき,人はそこにしか存在し得ないものを見,愛や憐れみを感じる.

だからシュウォッブの作品の主人公は爆弾を外套のポケットに忍ばせて 街頭に立ち,国家と敵対する必要はなかった.世の中を転覆させるために 吹っ飛ばすような中心的存在はもはやなかったからだ.その代わりに,世 の中に満ちているはずの例外を見出す努力が必要であった.ポケットの中 に爆弾ではなく,ひからびたオレンジの皮をシュウォッブは探し求めた.

それは無政府主義者の爆弾よりもはるかに強力である.ひからびたオレン ジの皮は政府や社会など初めから問題にもせず,干渉も一切受けつけず,

個人の存在を主張する.権力はソクラテスを牢獄に閉じ込めることはでき ても,彼が毒を呷る前に脚をこすることまでは禁じられなかった.シュウ ォッブが人間の未来に対して楽天的な考えを示したのは,当時の社会情勢 を肯定してのことではない.彼が肯定したのは人間の持つ例外性であった のだ.

(20)

1)

P. E. Robert, Marcel Proust lecteur des Anglo-Saxons, pp.

96-102.

2) セザンヌ

(Paul Cézanne

1839-1906

)

の「台所のテーブル」(

Table de la

cuisine,

1888-1890頃)はその一例である.テーブルやその上の水差しなどが

複数の視点から捉えられた像として描かれている.

3) 1877年5月16日,先に解散した国民議会によって選出された君主主義的傾向 のある大統領マクマオン

(M. E. P. Mac-Mahon

1808-1893

)

が,下院の支持 を受けた共和派の首相シモン

( Jules Smon

1814-1896

)

を辞任させ,王党派の ブロア

( Georges Blois

1849-1906

)

を内閣首班に任命した.しかし下院は内閣 信任を拒否したため,マクマオンは上院の合意を得て下院を解散させる.憲法 では大統領と議会の関係が曖昧であったため,共和派と王党派とでは意見が対 立していた.共和派は,大統領は内閣に依存し,内閣は議会に基盤を置くと解 釈し,立法権力が優位に立つ一元的議会制と捉え,王党派は,大統領と議会の 権力が並立する二元的議会制と捉えていた.結局この対立は1877年10月の総 選挙で多く支持を得た共和派が優位に立ち,マクマオンは共和派のデュフォー ル

(Jules Dufaure

1798-1881

)

に内閣を組織させることで議会主義を認める形 となって終わった.

4)

A. v. Gennep, Les rites passage

参照.

5)

Œuvres complètes III, p. 85.

6) 1832年に焼き印が廃止されてから,累犯者の同定は大きな問題であった.博

物学者を祖父に,セーヌ県の統計局長を父に持って生まれたベルティヨンは警 察で働き始めて,犯罪者の資料に記された身体的特徴が実に漠然としたもので,

その整理もろくにされていないことを知り,独自の方法を研究した.そして 1885年,フランス全土の刑務所でベルティヨン式人体測定法が導入され,1888 年にはアメリカ合衆国で累犯者識別法としてベルティヨンの方法が正式に採用 される.

指紋は1870年頃から累犯者識別法として研究され始めていたが,本格的に研 究されるのは1888年フランシス・ゴルトンが乗り出してからである.そして 1896年アルゼンチンで指紋による犯罪者識別法が正式に採用され,1910年ま でにはフランスを除く各国が指紋に基づく方法を採用した.

7)「海軍条約紛失事件」でホームズはベルティヨン方式が役に立つと述べている.

8) ベルティヨンは全ての軍人に対しても人体測定法を行えば有益であると考えて いた.そうすれば,損傷の激しい遺体や,記憶喪失の帰還兵の同定に役立つと 主張した.

Pierre Darmon, Médecins et assasins à la belle époque, Edition du Seuil,

1989

.

参照.

9)

Œuvres complètes IV, p.

18.

(21)

10)

Œuvres complètes IV, p.

11.

11)

Œuvres complètes II, p.

8.

12)

Œuvres complètes II, p.

8.

参考文献

<マルセル・シュウォッブに関して>

Marcel Schwob, Œuvres complètes, Paris, Bernouard,

1927-1930

,

10

vols.

id., Chroniques, Genève, Droz,

1981.

id., Correspondance inédite, Genève, Droz,

1985

. id., Œuvres, Paris, Belle lettres,

2002

.

Pierre Champion, Marcel Schwob et son temps, Paris,Bernard Grasset,

1927

. George Trembley, Marcel Schwob, faussaire de la nature, Genève, Droz,

1969

. Sylvain Goudemare, Marcel Schwob ou les vies imaginaires, Paris, Le cherche-

midi,

2000

.

Agnes Lhermitte, Palimpseste et merveilleux dans l’œuvre de Marcel Schwob, Paris, Honore Champion,

2002

.

Nouvelle Revue nantaise n°3 : Autour de Marcel Schwob, Nante,

1997

. Marcel Schwob, d’hier et d’aujourd'hui, Seyssel, Champ Vallon,

2002

.

<19世紀末文学に関して>

Albert Thibaudet, Histoire de la littérature française de

1789

à nos jours, Paris, Stock,

1936

.

Pierre Castex, Le conte fantastique en France de Nodier à Maupassant, Paris, José Corti,

1951

.

R. M. Alberes, Histoire du roman moderne, Paris, Albin Michel,

1962

. André Breton, Manifestes du surréalisme, Paris, Paubert,

1962

. Michel Raimond, La crise du roman, Paris, José Corti, 1966.

Jean Pierrot, L’imaginaire décadent, P. U. F., 1977.

Jacques Noiray, Le romancier et la machine, tome

2

, Paris, José Corti,

1982

. Marcel Spada, Erotiques du merveilleux, Paris, José Corti,

1983

.

Jules Huret, Enquête sur l’évolution littéraire, Vanves, Thot,

1984

. Thibaut d’Anthonay, Jean Lorrain, barbare et esthete, Paris, Plon,

1991

. J. P. Bertrand, M. Brion, J. Dubois, J. Paque, Le roman célibataire, Paris,

José Corti,

1996

.

Juria Przybos, Zoom sur les décadents, Paris, José Corti,

2002

.

マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』国書刊行会,1986.

(22)

<ベルティヨンに関して>

Suzanne Bertillon, Vie d’Alphonse Bertillon, Paris, Gallimard,

1940

. Pierre Grapin, L’anthropologie criminelle, Paris, PUF,

1973

.

Pierre Darmon, Médecins et assasins à la belle époque, Paris, Seuil,

1989

.

(邦訳,

『医者と殺人者』新評論,1992)

渡辺公三『司法的同一性の誕生』言叢社,2003.

菅野賢治『ドレフュス事件のなかの科学』青土社,2002.

木田元『マッハとニーチェ』新書館,2002.

参照

関連したドキュメント

18 En rupture avec les formes dominantes d’organisation des enseignements de langues et comme pour mieux mettre en évidence les bénéfices à attendre, elle a pris le plus souvent

*9Le Conseil Général de la Meuse,L’organisation du transport à la demande (TAD) dans le Département de la Meuse,2013,p.3.. *12Schéma départemental de la mobilité et

Dans cette partie nous apportons quelques pr´ ecisions concernant l’algorithme de d´ eveloppement d’un nombre et nous donnons quelques exemples de d´eveloppement de

Philippe Souplet, Laboratoire Analyse G´ eom´ etrie et Applications, Institut Galil´ ee, Universit´ e Paris-Nord, 93430 Villetaneuse, France,

bottarga, butternut pumpkin, Mie “Tiger tail” green chilli, Italian parsley, Goto Islands' fish

Sabbah, Equations diff´ ´ erentielles ` a points singuliers irr´ eguliers et ph´ enom` ene de Stokes en dimension 2, Ast´erisque, 263, Soci´et´e Math´ematique de France,

Journ@l électronique d’Histoire des Probabilités et de la Statistique/ Electronic Journal for POISSON, THE PROBABILITY CALCULUS, AND PUBLIC EDUCATION.. BERNARD BRU Universit´e Paris

Two bottles of 2009 Dom Pérignon, Epernay or two bottles of Perrier-Jouët Belle Époque 2013, Epernay with Prawn Cocktail Roll , T36 French Fries, Assorted Cold Cut and Cheese