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日本教育杜曾學の意義と課題

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神戸市外国語大学 学術情報リポジトリ

日本教育杜曾學の意義と課題

著者

河合 愼吾

雑誌名

神戸外大論叢

2

2

ページ

1-23

発行年

1951-07-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1085/00002036/

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日本教育就會學の意義ご課題

㌧ご

1  こ、に所謂﹁日本教育学誓書﹂とは,云ふまでもなく ﹁日本に於ける.日本の教育の野里學﹂を意味するもので あって.今假にこれを極めて一般的に規定すれば,それは 現實の日本の肚曾と教育の科學的な調査研究を通じて、そ こから日本教育の目標や内容や方法を論証的基礎の上に確 立することを,究極の課題とするものであると云へるであ らうが。か﹂る・ものとしての日本教育肚會學が,未だ十分 な學間的成果を示してみないことは云ふ、までもない。否. 端的に云へば.それは未だ學閥としての目鼻立さへも定か でないものであり,從ってその健全な厳達と結滞は一に. 今后.志を同ふするもの玉協力にまたねばならないもので あることは明である。我々も亦,その關係者の末端に身を 連ねるものとして,今后建設さるべき日本教育肚會學の基 本性格と,それが現代日本の野里と教育の改革に堕しても つべき意義と課題に關し,李素,自分は自分なりに考へて るる所の一端をつとめて調戯な轡型的粉飾をさけつ、,牽 直に開陳して大方の批判と教示を乞ひたいと思ふ。

2

 さて,一般に,所謂教育杜會學とは何でのるか。その學 問的性絡,甥象と問題領域並に方法の如何なるものである かについては.既に幾多の外國文猷の紹介がなされ,それ に關黙してこの國の學者によっても亦種々の影面が試みら ︶ 1 ︵

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れてるるのであるがし今その一々について比較搬討するこ とは,もとよりその所ではなく,更にそれらの憶説の間の 調停を試み,何れの主張にも反しないやうな具足円満な墨 問概念を構成することも亦,現在の我々の興味の外にあ る。我々は一切の内外の諸説への氣がねを去って,云は讐 全き白紙の上に自由な素描を試みる如唐氣持を以て,我々 の二型日本教育肚受託の基本性格を端的に描き出すことか ら出歯しよう.  我々の信ずる所に從って.日本教育肚會學の基本性絡を 一言で云へば,それは日本の肚會と教育、.殊にその間の相      ︵1︶ 互作用。相互雲上の亀裂的な認識を課題とするものであり この課題の追求を通じて,日本の肚會と教育の改革に賢聖 せんとするものであると云ふにっきるであらうが,これに は次のやうな意味が含まれてみる。即ち,B本教育凝性 墨の謝象領域は.云ふまでもなく日本の鮭曾と教育り二つ にわたるものであるが,それはこの芸者の相交る点にその 研究活動の焦点を定め.この一点に讃する限りに託て,雨 者の旺確な認識を得ん︸する所に.その特質と學問的存在        ︵2︶ 理由を有してみる。部ち,それはまつ第一に.日本の教育 を,それがさ玉へられてるる基盤であり.また現實に規定 されてるる條件でもある日本肚會の基礎構造,就魯的現實 との關聯に於て理解しようとずる。、從って冷ここでは教育 は云はば審訊の依存的痩激として理解されるのであり,一 般に從來教育雨雪學乃至は教育の肚曾學的研究の圭要任務 と考へられてるた教育現象の枇會的制約性,杜會上里定性         ︵3︶ の解明と樗されるものはこれに含まれるであらう。これ が要するに肚會によって教育が如何に制約ざれるかの面を 通じての日本の教育の計量の究明であるとすれば.目本教 育殖曾學は第二に,日本肚會に於ける教育の肚會的機能, 即ちそれが日本肚會に於て如何なる役割を果してみるか. とりわけ教育によって工程が如何に愛革されるかと云ふ面 を通じて目本営會を問題としなければならない。こ﹂では 云はば教育政策的立場から.教育によって曾τそり一部が、 作られたものとして.そうして現にまた教育によって挑戦 され聖主さるべきものとしての日本の肚曾三聖實そのもの     ︵4︶ が究明される。かくて結論的に云へば,日本敦育野里墨は 日本就曾に於ける教育事象を一つの肚會事象として肚緊要 的に究明するのみならず、ひるがへって,教育の立場から

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日本杜曾に於けるあらゆる胱會事象を統岡的に,しかも具 燈的に把みなほすことを.目的とし課題とするものであ ︵5︶ り、そうしてこの目的と課題の追求を蓮じて,即ちこの観 点の下に獲得された日本の冠會と教育に黙する正確な認識 に基いて現實に教育活動に從離してみる人々の必要や要求 に磨すると﹂もに,この國の肚曾と教育の改革のために. 若干の寄與を果さんとするものであると云へるであらつ. この意味に煽て.日本教育杜曾學は,明に一つの實践就曾      ︵6︶ 學,磨用手智歯,としての性格をもつべきものであり.更 に些かの誤解と危験をおそれすに云へば,それはハンス・ フライヤーの所謂﹁現實科學﹂︵霜π箆8げ貯虫房ミ冨器β1 。自 B冨津︶として規定されるのが一畳懸守であらう。以上のや うに,日本教育芝桜學は,その封象と資料を專ら現代日本 敵會とそこに於ける教育現實に限定すると瓦もに,究極に 於て.日本の肚曾と教育の改革のために奉仕せんとする科 學であり,輩に思辮的興味から,全世界にその材料を求め 高い抽象論を試みる學問の好事家の具でもなければ,所謂 畢者の饅系化の趣味に製するためのものであってもならな い.欧米に調ても教育聖書學の成立や畿展が專ら園丁的關 心によって促されて來た事は周知の所であるが,我々は この聖血の出馬点に於ける,このやうな強い實践的意欲の 存在する事實をまつ確認したいと思ふ。併しそれが些かで もこの學問の科墨的態度の軟化を意味するものでないこと は勿論である。否,か玉、る強い實践的課題の故にこそ,日 本教育耐會學は,却って一暦嚴密な科學的態度を堅持せね ばならないのである。 一品hが我々の所謂昌本教育就會學の基本性格の簡軍な 素描である。勿論,それは極めて杜撰なものであり、またそ れ自今多くの問題を含むものであるが,大ざっぱに云って 右の規定の中には,少くとも三つの特質を指摘し得るであ らう。郎ち第一に,日本教育肚曾學の課題として.軍に日 本就會に於ける就會によって制約されるものとしての教育 の究明のみならで逆に教育によって挑戦され愛革されるも のとしての肚曾の究明をあげ、この課題の追求を通じて、そ れがこ、に相貸するものとして把へられた日本の敏育改革 と肚會改造に奉仕すべきものとしたこと,三って第二に, その野郎を專ら現代日本肚會とそこに於ける教育現認に限 定し,まつこ、から出賛すべきことを設いたこと。かくて ︶ 3 ︵

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また第三に.それを明確に現實科學として規定したこと, 以下に於て我々は,圭として右の三点について,これを現 在のこの國の墨界の動向と甥照しつ紮や﹂詳細に考察する ことによって,日本教育耐會學のもつぺ壷意義と課題を更 に閥明して行きたいと思ふ。 註︵1︶例へば、日本に於ける市民肚會の璽達の歪みが議育の上に   如何なる影響を及ぼしてみるか、逆にまた激育はその維持の    ために如何なる役割を演じたか等の問題り唯、我々は后述の   如ぐ、この問題の飽識に於て將來の攣革のためと云ふ現貿科   學的立場に立ってるる所に特色を有してみる。  ハ2︶では、この学間は本動乱曲学に騰すべきものであるか、は   たまた激育学の一部門であるかの如き.從來この國の学者が   まつ販あげたがったやうな問題は現在の我々の興味の外にあ   る。それは本來この学問が日本の融會と激育の進歩のために   如何に寄與し得るかと云ふ問題に比べれば極めて本質的なら   ざるものである。 ︵3︶ 例へば、﹁教育肚會学の主翼際題は⋮教育現象の灘會的制   約性肚強奪規定性を解明するものである﹂云々。安藤発雄﹁激   言忌砒會悶学原論﹂二六頁9 ︵4︶アジアの后進國として、明治開國以來常に.そ5して現代  に於て一暦張く教育によって急速な砒會改革を計らねばなら  ない蓮命をもつ日本としては特にこの鮎が重観されねばなら  ないであらうQ ︵5︶ このことはまた激育を中心として云ふ時、次のやうに云へ  るであらう。即ち、日本教育砒會学は日本肚會によって作られ  るものとしての教育乏エもに目本融會を作るものとしての激  育を研究すると9これは、教育が元來耐會によって制約され  ると同時に、その制約を脆して新しい曲説を作って行かねば  ならないものである事、換言すれぽ、それは、O●臼ヨ89の   ﹁国育は不完歪なのが普通であるQそれはそれぞれの働きに  よってゴつの甥立する傾向即ち解放と束縛とに仕へねばなら  ないからである﹂との菱しい書葉によって表現される如き激  育の二つの機能、帥ち一面に於で被教育者を現存の一月秩序  の勲績のためにそれに甥して束縛しながら。他面枇會の逡歩  のために、それから解放しなければならないと云ふ二つの作  用をもつものであることに相即ずるものでもある。 ︵6︶ ﹁教育融會学は肚會生活に於ける教育闘係の三三を科学的         に研究する見地から云って純正砒歯科学である9唯それが学  校及び他の肚會略体によって與へられる激育を改善するため         に用ひられる時は懸用強起学となる。﹂ ︵>9089  国αロ。二二8p5ユω090ざσq︶・︶﹁激育甦會学は、基礎的純正科  学たる理論的形相を持つ9その上で特殊な燈用的形相に於て  学校作業に鳳門体概念及び團体活動の法則を利用することエな        り        る9かやうにそれは事實に託する基礎科学と實踵指導の鷹用         科学との二面を持つものであって、箪に一般粗製学の一部門   以上であらう。︵≦﹁・カ’○リヨ謬貫℃﹁貯。首一〇“。oh国α錫O母δロ巴  ㏄Q∩幽○ざ畷団傍点何れも筆者り︶以上教育杜會學は送れも基礎  理論と鷹野科學の二面を別々にもつものとして考へられてる  るQ併し我々はむしろこれを端的に現實科學として把へるこ  との生産的なるを信ずるのであるり現實科学の何であるかに   ついては第六節参看9

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 まつ第輔に.我々は日本教育就會學の課題として,肚會 によって規定され制約されるものとしてのこの國の教育の 究明と・もに、教育によって挑戦され改革されるものとし ての日本難平の分析をあげ,この課題σ途行を通して.こ の墨問が日本の教育の改革と玉もに肚會の改造に寄回すべ きことを規定した。これは,提要的見地からの日本教育の 改革と敦育的見地からの日本肚會の改造とが相即せねばな らないこと,敏育の目的たる人聞像と肚會改造の目標たる 就會像とが相助せねばならないことを意味し,また現代日 本に於けるこの二つの理想像の科學的究明のために,更に その古習方法の實証的探求のために奉仕することこそ,日       ︵1︶ 本教育肚撃破學の最大の課題の一であることを意味する。  元來.教育はこれを最も畢純な形に立てつかめば.それ は我々の日常生活の中で.現實におこなわれてみる文字ど ほり﹁教へ育てる﹂と云ふ事實に存しており.この教育者が 被教育者を一定の債値に向って組織的計画的に形成すると 云ふ具体的な關係をぬきにしては,教育はあり得す.從っ てこ﹂に一切の教育的探求の出畿点があることは明であ る。ところで.こエに最も大切なことは.このやうな教 育,郎ち一定の二値への人間形或の事實が常に現實には一 定の就會的な場に於て,特定の肚曾的條件に規定されて, 云は望特定の耐會体系の一環としておこなはれるといふこ とである。從って日本の教育の杜會學としての日本敏育肚 會⋮學が,日本の教育をこのやうな肚倉的基盤や條件との關 聯に於て究明しなければならない事は云ふまでもないであ らう。これ我々がさきにこの學問の課題の一として肚倉に よって規定されるものとしての教育の究明と呼んだものに 嘗るであらうが,これは后にも鏡く如!、,輩に日本⋮教育の 就曾的某.盤,條件を明にすると云ふのみではなく.それと の山尽に於て、現實の日本教育を實質的に形成し動かして みるもの自体の正体の究明から進んでは、その中核をなす 現實の教育面係者のパースナリテイ、メンタリティの究明 の閲題にまで及ばねばならないであらう。更に.これに劣 らヂ大切なことは,人間を形成するカが軍にこのやうな教 育のみではないと云ふことである。人は現實には日本肚會 の中にひしめき合ふ無量識な諸々のカによって.計画的な ︶ 5 ︵

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敦育活動の外部に於て一肩張力に形成される。 患ふ早教 育は元來,このやうな別の方向に人聞を形成しようとする 諸山と圖ひつ、,被管育者を噌定の債値に向って形成せん とする所に.本來の使命を有するものであり.この点への 自己を欠き敏育を人聞を形成する唯一のものと誤認し自負 した所に,從來の日本教育の徒なる孤高と無力と維望とが 存したとも云へるであらう。從って日本教育野里學が,日 本肚會に渦まくこのやうな敏育と闘ふものとしての有名無 名の諸力の究明に向ふべきは陶然であって,こ﹂に我々が さきに。教育によって挑職され鍵革さるべきものとして の肚會の究明と古したこの學問の今一つの課題が見出され るであらう。勿論㌃戦后の日本の砒會的上告から生み出さ れた必然的要素としての日本の教育の努力と数果を嘲笑す る如きこれらの人間形或の諸善を直接に虚思するのは所謂 政治の任務であり,政治によるこれら諸力の適切な庭理に よってのみ教育も亦眞の数力を稜揮発來るものであること は明である。併し教育が本來血會進歩の最も根本的な力因 としてもその溢血の直面する問題をその成員の根本的な生 活態度と能力の問題として解決しようとする努力である限 り。⋮教育はまた教育の立、場かむそれが圖ふべき霊力の艶態 を究明し,更にその背后にあるものとしての日本国會が直 面する暗い霜命的な問題の解決を求めねばなるまい。こ、 に所謂宿命的な闇黒とは,云ふまでもなくアジアに位する 后進国日本が明治以降常に解決.を志しつ﹂果すことの拙意 なかった前近代的.牟封建的色彩に濃く色どられた就會の 循環匿系からの睨出の問題であるが,今それが肚會二二濟 的人間的の三者を含むとすれば,實に現代の日本の教育の 最大の意義は.この人間的過程に干渉することによつて,       ︵2︶ この循環燈系を切斯することに求めらるべきであらう。こ れ我々が,就會によって制約されるものとしての教育の究 明と﹂もに,⋮教育によって挑戦され攣革されるべきものと しての就會の究明を説き,就會改革と敦育改革の相即並に 雨者の目標としての肚忘種と后者の目標としての人間像の 相卸を云ふ所以である。  なほ.このことの意味を明にするために,一つの例を近 來高唱される所謂薫育の肚會化に求めてみよう。藪育の肚 會化が叫ばれて既に久しいが,現在もなほ就會の語は我 が教育界の流行語の一つである。まことに,この語の悲し.

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い濫用の下に人は常に何かに酔ってみなければ為れない糠 なこの國の⋮教育關係者の頼りなさを見さ出さ’ずにはおれな いであらう。しかもその肚會と云ふ語の意味は必ずしも明 でない。甚しきに到っては.同一の語の下に正反封のこと すら叫ばれてみるのが青函の相である。併しこ、た唯一 つ疑をいれないことは,教育の肚獣化が叫ばれる場合の肚 會が,少くとも現在の日本就會を意味するものであっては ならないことこれである。從來教育と肚會生活の置型に注 目し.現在の就會生活をそのまムに肯定して,教育とは青 少年を今日の肚會生活に適鷹⋮せしめるために形成すること であると解平し.これを以て教育の肚會的理解をたて、み るものが往々にして見られた。併しながら.このやうな現 在の歯群環境への簡主な適鷹⋮によって所謂教育の肚善性を 示そうとする立場がとり得ないものであることは明であら う。 勿論, 敬育が被教育者を教へ育て、現在の環境へ の適量々計るべきは當然である。併しスコヅ︸●ニヤリング も云ふ如く、﹁適慮は環境の要求に磨するやうに人聞を慶更 させることによって,或は.人間の要求に磨つるやうに理       ︵3し 境を愛更させることによって確保される﹂のであって.翠 に退いて自己を理境に適慮させおのみならす進んで新しい 環境の創造による適慮の達成こそ,現在の教育が被教育者 に望むべきものであらう。では。その創造さるべき新しい 環境新しい肚會とは,果して如何なるものでなければなら ないか。この將來の就・曾改造の理想としての就會像を明、に する事によってのみ,また教育がその形成につとむべき人 間像も明になるであらう。一般に、早番の目的が二丁によっ て規程されると云ふことは,周知の如くデユルケムの説     ︵4︶ く所であるが、我々は逆に馬入的な筆墨目的を達製するた めには.個人の生活と人間性の獲展が肚會的な意義にまで 籏大されねばならないことを云はねばなるまい◎かくて, 所謂教育の肚會化の問題は必然的に耐曾改造の問題に連っ て叢るのであり,それがまた個人の成長を達.成‘する所以で もある。ところで.こ﹂で最も大切なことは,こしに相即       ち するものとして細へられた二つの理想像があくまで日本の 趾會と教育の諸問題の中で.その翌翌の手段と玉もに現實 的に考究されねばならないと云ふごどである。そうして. 我々はこの鮎への野比の中にこそ,日本教育田上學の主要 な課題の扁つがあると云ふのである。,五って,この學問 ︶ 7 ︵

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が.まつこの國に於ける教育の實際やその肚會生活に於け るあらゆる敏育力の現實に手をふれ,そこから研究を出牢         ほ させよう尽するのは常然であ9,こ玉に我々の所謂日本教 訟學枇會學の第二の特買が見出されるのである。 註①曾て或論者は﹁我囲就曾の實証的現實一分折による枇會改造 への貢献とその反面をなす入間璽形への寄与という二つに、我國計  會学最大の課題を見出す﹂とされた。︵幅武直、﹁砒會學の現代的課題﹂ 二四八頁︶。そうして、我々はこ製に説く繊に、この二つの課題を自ら に統一する所にこそ日本教育砒転学の最大の課題があると云ひたい のである9 ︵2︶教育はある意昧に於て常に現實への挑職である以上、日本教育  肚會学が日本の融會と激育の現實に妬して諸職を試み、その攣革  を計るべきことは当然であら5Qそうして、その挑職に於て我々  はそれが政治との協力を得なければならないことをも忘れるべき  ではないQかくて、閃・O℃℃oロげ虫ヨ。﹁が﹁政治が可能性の技衛で  ある如く、趾會学は可能性の科学である﹂と云ふ意味に於て、日本  教育肚會学も正に可能性の科学として規定さるべきであらう9 ︵3︶qo・Zo9ユロαq噛ωo瓜巴﹀αUロ。。侍白。巨糟おお讐勺●㊤  因に、﹁妄に道徳に反するものは、纒濟の念に乏しいものである9  妄.に道徳に届するものは臆病ものか、怠けものである﹂と云ふご  國のある詩人の癸しい言葉は、同檬のことを別の方面から云った  .ものと云へるであらうり. ︵荏て︶国L︶眉毛げ9箪財9∩pけざ5窪。。oユ90αq冨 6堅。鵠田邊壽利氏  國訳本︵富山房版︶第.一篇教育の本質と役割︵四〇頁以下︶参照         4  口悪教育枇會學を特質づける第二の鮎として.我々はそ の封象を專ら現代日本馬會とそこに於ける教育現實に限り 一切の研究がこΣから出稜すべきことをあげた。これはこ の學問に從事する者か,從來の如き欧米の學界での問題を おひかけまはす態度を一烈して.日本の就會と教育の改革 につながる明確な問題意識乞もち,自らの地盤と環境か ら,現代の日本の杜魯と教育の現實から問題をくみとって 來ねばならないことを意昧する。自分の奉ずる,或は他人 の紹介する外壁の學者の下説や理論に義理だてする代り に.この國に於ける轍育の三際や,その就會生活の中に於 けるあらゆる教育力の現實に手をふれて,そこから研究を 進め.そこに磯見された困難な問題の解決のため有数適切 な方法を襲見するやうに努めねばならないことを意味す る。現に我々がどのやうな段階と條件の上に立ってるるか、 肚會的に從ってまた教育の面に於τどのやうな困難な問題 に直面してみるか,それを正確に把むことがまつ必要であ る。それを忘れて,これらの困難な問題の影すらさしてみ ないような西洋の三三な教育理論に感激したり、コア●カリ

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キユラムやガイダンス∼ホ 、ーム●ルーム﹂の歌を唄ってみても       ︵1︶ ’ 致し方がないと云ふのである。外界の學者の理論の忠實な 組述に於で徒に﹁良心的﹂でめったり,その學説の幾つか をそれが生れた環境と時代を早早して形式論理的に,或は 辮証法的に一と云ひたければ云ってもよい一つなぎ合       ︵2︶ せることに曾て﹁野心的﹂であったりする前に、外車の學者 の耳に入らないことを頼9にしてこっそりその理論を批判 したり統一したりする前に,例へば封建制度と血みどろに 岡つたルソーの情熱を以て﹁日本に於ける一つの文化的ル ネサンスを阻止せんとして人々を拘束し抑画する戸々の勢        ︵3︶ 力の在威をつきとめようと努力﹂し,更にその破砕の方法 の探求に向ふ事こそ大切であると云ふのである.これはま た現代日本の肚會と教育現實は如何に些細な卑俗なもので あっても凡てこの墨問の封象となり得ると云ふ事であり, 從來のこの國の教育關係の學問の如く,一定の王統的な規 絡版的問題のみをとりあげ,限りなき水かけ論に終始した り。或はいとも高遠にして精緻な教育理論のサロン談議に ふけるのみで、用ひ得る卑近な研究資料を十分用ぴす、取あ ぐべき周題を看過した怠慢と怯儒をさける事である。勿論、 現代の日本σ肚會と教育の現實を重視し.こ瓦かち出慰す べきであると云ふ事はそれを是認しそれと妥協し,現状維 持に奉仕せんとするのではない。我々はこの國の現實の 制約に浸入し,所謂写本的なるものをふりまはし,これを       ︵4︶ 奮き慶棄さるべきもの、隠蟹とするためにではなく,却っ てそれを改革せんがたのにこそ,現實から游離することな き改革の方法を得るためにこそ,それを究明せんとするの である。從って,研究が日本の現實を離れ,抽象的絹織に 浸入してしまひ,日本と云ふ根本の條件を忘れることを特 に警戒したいのみ。更に,廻章な誤解をさけるために一言 すれば,我々はこ﹂で外國研究の債値を疑つπり,況や外 國に學ぶ必要がないなど無茶なことを云ってみるのでない ことは勿論である。  現代最も重連されねばならないものが,﹁知識を世界に 求める﹂と云添明治の教訓であることを誰が否定するであ   ︵5︶ らうか。我々は自己を知るためには外を知らねばならア, 殊に現代,一切のものが世界的なつながりに於て,世界的 硯野から見ることによってのみその本質が把握されること は明である。我々はこの愛撫の時期に於ける外翼思想の果 ︶ 9 ︵

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すべき役割を過少評便するものでもなければ,それに謝す る不寛容の危険を知らぬものでもない。況や、固目な國粋主 義を説いて國外に目を閉すことなど我々の意圖から最も遽 いものである。我々は今こそ世界に學ばねばならない。併 し間題はその學び方如何である。現代のこの國の肚會、殊に 敏育界の現状が.眞に正しく外國に屡ぶ所以ではないこと は,これまた誰しも否定しないであらう。そうして實は我 々は日本の教育が眞に敷果的にはじめから足を地につけて 外國に墨ぴ得るように.なるためにこそ,       ︵6︶ るとも曇へるのである。 この提言をしてゐ 註︵1︶ しかもこれが我々が眼薗に見る激育界の現状である。中央   の所謂大家のタクトによって、全國の激師がサーカスの樂隊   よろしく、わけも鋼らず撤育流行歌を唄ひちらす、今も昔も   攣らない植民地風景こそ.新生日本の激育に於てまつ改めら   るべきことであらうのに9そうして、この根本的改革のため   に,伺故に然るかを根本的に究明することが、噺本教育砒會   学の主要な謀題の一になるべきことは后に説く如くであるQ ︵2︶ 現代の﹁良心的﹂であり、﹁野心的﹂で渉る学者が、多く日本   の具体的現實を考慮の外においてみる事實は伺と解繰すべき   であら5かQこの点に於て全般西感化の罪を問はれてるる明   治の人々が決して﹁良心的﹂でも﹁野心的﹂でもなかったことは   潔く考へるべきである。彼等の左眼は三訂にそ玉がれると伺 時に,右眼は明に日本の現實を見てみたQ輻澤諭吉はこの態 度を自らコンパスを以て喩へ、 一方の足を世界的に鑛げると 同時に今︸つの足はあくまで日本の現實の上に立てるべきこ とを力設してみる。それから現状への霊化を我々は駈謂学問 の二歩として讃へねばならないのであらうかQ ︵3︶閃9。二。h9。q三峠9もり3冨の団含6註自   旨騨℃騨P戸詮ρH暮おユ錫2一〇P ]≦労aO昌峠O ハ4︶從來の日本の肚會と教育との研究は、一部特定の立場に立つ   人の業績を除いては概ねこの種のものであったQ從って我々  はそれを参照しつ製新なる一点からやりなほさねばならないQ ︵5︶ 前掲レポートも﹁教育の諸司的﹂の項でこの点を強調してゐ   る。 ︵6︶ これに關聯して、最近他民族の文化研究が所謂﹁外工学﹂な   る名の下に、新しい麟点の導入により一つの科学として確立   されんとする氣蓮のあることは、極めて興味ある現象である   が、我々はこエに我々が提唱したやうな態度こそ、所謂外項学   の根本的立場に最も密接な關聯を有するものではないかと思   ふQと云ふのは、私見によれば所謂外編學とは、從來の文化を   一つのトタリデτトの範疇によって把握し、凡ての民族に婁   塾する唯一の耳元と慣値の存在を前提とする傳統的な學間概   念に反鍬して、﹁カントの範疇表は胆に西心的思惟の三聖表に   渦ぎない﹂と嘱冒した7臼・QQoプ。冨吋の丁零を以て、それぐの   民族、それる\の文化に特殊な構成原理と暴落を認め、それ   が如何なる肚魯機構と政治纒濟約地盤の上に、如何なる間題   に結びついで成立したかを、一口で云へばその﹁存在との機能   納聯關︵qnoぎのh錫謬犀二〇コ巴津鋤亨竃拶昌5ゴ。一ヨ︶しを誠は野知識批

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敷設學的に究明せんとする、細辛と眞理の複勲爵嚢に立つ︸ つの反抗斜日︵O毛。男三〇蜜乱。・召諺9鱒津︶であり、︵具体的 な例をあげれぽ、普遍的な人間性、入間精神のみを収上げた 二二的な学問に亡し,諸民族の精神的差異.民族性の問題を とりあげ、西洋訓化のみを唯一の文化とせず、他民族のそれ にも特殊な構成原琿と価値を認める眞理と価値の複籔主燕︶、 傅統的な科学への革新蓮動であるとxもに、それぞれの民 族文化を野象として諸々の科学を綜合的に動員する意昧に穿 て、従來余りに細分された諸科學の再組織運動、続二科学蓮動 と見られるものであるからであの、それと瓦もに、最も大切な 事であるが、既に﹁外圓﹂と云5以上自國が前提されこの意味 で、それは自己意識にはじまるものであるとも云ひ得るから であるQ我々は更にこれに自國の進歩につながる明確な問題 意識の存在をつけ加へたいのであるが、之を要するに、我々 のような意味に於て、日本撤育融會学を提唱する事は、所謂外 回学への一つの基礎を定めるものと云へないであろうかQ

5

 では,このやうな見地から.更に前述の如き日本教育敢 會學の封象領域と課題に照して,現代日本の肚會と教育の 現實を見る場合.そこには果して如何なる問題が見出され るべきであらうか。まっかエる自明のことを敢て提言せね        り ばならない所以のものが,即ち,一般にこの國の學問が殊 に教育に關するそれが纐㈱訳と紹介に終戯し,外國の學読の 邊迎に手一杯でありそのために著しく抽象的観念的であっ て多く豊本の就會と教育現實にふれることなく,從って℃ れを墾ずるカともならなかったことの原因が、しかもこれ が職時中の一時を除いて現在もなほ細いてるることの原因       了︶ がまっさきに究明されねばなるまい。思へば,明治遊君. 幾度か新しい思想と⋮教育理論がこの國の肚會と⋮教育界を風 廃した。併しその嵐のすぎさった后に残ったものは.依然 たる日本そのものであった。そうして,現在も亦然ρであ るとすれば,徒なる民圭主義的新教育の高唱の下に同署の ことが再びくりかへされるとしたら,我々は敗職の最大の 意味を再び見失ふことになるであらう。かくて,日本教育 肚會學は,このやうな一・切の外來敏育理論の日本的愛形の 秘密な解くものを.このやうな幾多の外國の思想や⋮教育理 論の表面的流行の底にひそむ云は寒日本的意識形態を,教 育に於ける日本的なるもの曳正体の究明を,それを支へて        ︵2︶ みる’甘言構造との聯關に撃て果さねばならない。もとより 云ふまでもないことであるが、外國の教育文化をうけ入れ るべき日本の肚曾と敷育は.決して描かれるのをまってゐ       、﹁ ︶ 11 ︵

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る白紙の如きものではない。人はそこに幾多の表面的な流 行の底に一貫してひそむ複雑怪奇な日本的を以て稽すべき 思考と行動と生活の特殊な様式を見出すであらう。そうし てこのもの﹂正瞳の徹底的な究明と根本的な反省の上にこ そ,賢しい就會も敏育もはじめて建設され得るものである       ︵3︶ こと、は明であらう。とすれば.こ玉にこそ,この教育に於 ける日本的なるもの﹂廻覧の究明の中にこそ,日本教育肚 會撃はその意義と課題の最大なるもの玉一を見出すべきで あらう。我々は今こそ,教育に於ける﹁日本イデオロギー ﹂を書くべき必要にせまられてるるのではないか。このこ となくしては,日本の肚會と教育は一歩も前進しないので はないか。 元來。日本の堅手と教育の問題は,外國の何等かの思想乃 至は丈量の借用によって解決の緒につき得る如きものでは ・ ︵4︶ あるまい。勿論或る一つの教育理論によって,敢育の機構 と方法とを改革する如き、塞に易々たるもりであらつ。例 へば承る學設に從って.明治以來の我國敦育の特質となし て來た教科書中心の蕃習を難ずることは一考手一投足の螢 で足りるであらう。併し.この教科書鄭重を中心とする教 育の方法こそ日本濫獲の封建的な生活倫理を最もよく反映 したものとして,現在なほ日本肚會の聖堂によって根強く 支持されてみるとしたら如何。教育に於てまつ教科書を欲 すちょうな考へ方こそ,■現實の目本就曾の生活の倫理に封       ︵5︶ 慮しさΣへられてるるものとすれば如何。また,教育の肚 會性の探求がよく力読される。併し,これが多かれ少かれ 教育の相撃観の上に立っていることは明なるにもか義はら ナ,現實にこれをロにする教師が八紘一宇に代るべき絶封 的の原理として,恰も一つの護符の如き態度でζれを取扱 ってみるとすれば如何。或は,罰が見童に與へる恐怖の害を 読いて、所謂罰なき教育を、彊制なき教育を悉くことはいと たやすい。併し。見童の住む現實の肚會に於て、多くの問題 が正義や知性や読響ではなくて.恐怖によって虚理されて るる時.これを即行することの深い困難が果して十分自畳         ハ6︶ されてみるであらうか。一般に形式的なスローガンやモツ       ︵7︶ トーの輪入や鼓吹によってすむ事ではないのである。否、噌 般に形式的なモットーやスローガンに簡輩によりかエって        ︵8︶ それで事をすませてみる日本教育關係者のパ、ースナリデ イ,メンタリティこそ教育に於ける日本的なるもの﹂中核

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をなすものとしてまつ、究明さるべきものでばないか。一般 に教育ジャーナリズムの上で顯著な存在を示してみる思想 がそのま﹂日本の教育關係者を動かしてみるとみるほど大 ぎな誤解はあるまい。教育の改革が必要であると著くこと と藪育の改革を行ふこと﹂は別である。眞に日本の敏育關 係者を動かしてみるものは別にある。このもの工正醗を,そ れをさ﹂えてみる肚會的基盤.政治経濟的事情との關聯に 於て明にすることがまつ必要である。 一般に日本の所謂 封建的な肚會機構の特殊な倫理.それをみたしてみる思想 と云ひ得ないほどの無名の,しかも現實に實生活に於いて 人々をつき動かしてみる思想,一言でつくせば.日本の人 間と肚會の笹野を實際に託しでるるもの,このもの瓦正髄        ︵9︶ を明にすることが先決問題である。これらのものは坦にこ れを封建的と呼び,前近代的と非難することによってその 力を減じたり,被曝したりするようなものではない。そう してそれが愛らない限り.新しい教育も新しい肚會もない のである。周知の如く。これらのものX形成に當って,こ の國の政治生活や経管生活の特殊な構造が果して來た役割 の大なることは云ふまでもない。併し.從來の日本教育も 亦、これを作って歴たのであり︵10︶、これは聖なる日本の政 治や泄會経濟機構の分析一所離日本資本主義の後進性だけ で説明のつくちのではない。日本の肚會経費の後門進性を説 き,そこから十把一からげに日本甦會の封建的逡制.日本 敏育の前近代性を論証することはいともたやすい。,併し, 我々はこ、では,そのやうな外部的な梅力組織,脛濟機構 の分析のみならす,更に進んで富民の心理的傾向なり行動 なりを一定の溝に流しこむ心理的張型力を,日本人と云ふ 人間の内部に刻みつ・けられた行爲の溝をまで問題とせねば ならない。教育に於ける日本的なるもの蕊反省は、かくて 我が民族的性絡の根底にまでにふれて來ねばならないので ある。即ち,教育に於ける日本的なるものは.肚曾制度的 に存在すると、も忙一方では個々人の精神生活に存してみ るのであり、廣い意味の心理的側面をもつてみることは明 である。今や,この制度的なるものは,一鷹⋮外部の強力に より取除かれたかの如くである。しかもなほそれにもか、 はらず依然としで根深い存在を誇ってみる教育に於ける日 本的なるもの、正賞,これを単離縦濟的基盤から或は個々 人の心理の分析によって究明すると、もに,それに基いて ︶ 13 ︵

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その愛護の方策を求めることこを,教育と云ふ人間の形成 た關する學問としての日本教育耽會學に艶然課せら払た任 務であらう.  この日本の人間と就縛の深屠を充すものに封ずる深い反 省なくしτ.徒に欧米け新しい心理學的知識や教育按舞を 導入してみても,それは所詮はかない室醇をかさねるのみ   ︵11︶ であらう.否,根本的には教育の技術を以て機械いじりの 技術と同署に、肚禽機構、民族心性などとは寝耳急な道其と 考へて怪しまない立場が,或は教育の實質的問題よりも好 んで毅育に堕する思想を論じ.問題は生活や行動にあるの ではなく観念のシステムにあると無意識の中に信じこんで       ︵12︶ みる機な立場自筆が.かエる室轄の底に潜むものとして批 判されねばなるまい。こ、から、外型の例をひき或は高名な 學者の所読を引用する事によって一切が解訣すると信ずる 標な,問題が始まる所に問題を終らしめて怪しまない檬な       ︵13︶ 態度も生れて理るのであらう。か、る態度への根本的批判 のない所.新しい灘會と教育への一切の努力は耳掻者の善 意や熱心さに關かなく察輻してと思まる所を知らないのみ か、塗には軍なる室醇に、と讐まらア、軽量をすらもたらすも のである事は,我々が眼前に見る事實である.例へば,職 前戦中のこの國の教育を、否、現實の我々の生活をあれほ即ご 強く支配していた忠義孝行というやうな考へ方は今ど0や うに盧理されているか。このやうな忠義や孝行という基本 的な生活の倫理に封ずる根承的な反省や産制を怠って,ア メリカの新教育の方法を既成の民謡々義の倫理から演繹的 にうけとり形式的な既成デモクラシーの美徳をた、えて満 足してみた所,再び修身科が復活して煽る事ともなるので ある。勿論この道徳教育の復活に封ずる耐會の要望が,眞 の新敏育の目ざす近代的メンタリティに封ずる無理解の要 素を持ってるることは明である.從って人はこの修身糾復 活の反動性をいかに難じてもよい。併しεの反動的な現象 を惹起した事に解し、日本の新教育の信奉者達はその責任 を見出すべきではないであらうか。即ち.彼等が日本の就 會の問題をまるで考へないやうな教育を墨髭でやってみる 結果、學校の内外にひきおこされた混鑑に着し、道徳教育が 復活されねばならぬと云ふ聲に相當の支持が與へちれたと すれば.そこに彼等の直輸入を誇る新教育に座し日本の現 實の杜會と民族心性を根嫁として.もう一度教育を考へ直

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そうと去ふ名もなき民衆の知慧がかくされてるるとは云ひ       ︵14︶ 得ないであらうか。一民族のソウシアル●キャラクタと合 致しない所,一切の思想はその営倉と人間を動かす力とな り得ない事は,エリヒ・フロムが例へばナチスドイツの事       ︵15︶ 例の分析に於て無事に實証した所であると云ふ。﹁新しい思 想を財用して成功する道は.それを過去の慣習と現在の必 要とに適合させる事でなくてはならない﹂と或るアメリカ        ︵16︶ の學者も教へてるる。我々は現在、眞に何を必要としてみる のか、我々の過去の慣習の本質は果して何嘘にあるのであ るか。日本の所謂新教育が、この現實に日本の肚會と聖慮を 形成七てるるものへの根本的なる究明を試みない限り流行 のコミユー一=アイ・スクールはその本質に覧て昔乍らの郷 土科と痩じ.幸幅感と肚曾的能率を規準とすると云ふ精紳 衝生は環境の細革よりは唯心術の修養によって一切をおさ めようFとする徳川封建期の心學と化し、歎育ボス挑撃の爲 の諸々の新制度が蓮kボスの養或機転や牙城とな9,一切 は室尽して止る所を知らで,途には反動的なるもり﹂再現 への契機とすらなるに到るであらう.この日韓の秘密を明 にし,反動的なるもりΣ撞頭を封じ、眞に日本の人聞と批 會の上に立って、それが直面してみる薄々の困難な問題を 教育の側面から断ち切る如き,新しい敏育の目的と内容と 方法とを見出す事こそ,我々が日本教育肚會學の究趣の課 題とする所でなければならない。これ我々が少くともこの 墨問の研究者の目がまつ外に向けられ.そこで何が流行し てみるかを問題とする前に,まつ内に,日本の肚會と人間 の現實に向けられなければならぬことを設く所以であウ. またこの⋮學問の封象を,日本肚曾とそこに於ける⋮教育現實 に限り.一切の研究がまつそこから出発すべきことを説い た所以である。 註︵r.︶このことは今や反動を以て綱⋮さるべき固願な特催的アカデミ   ズムを打破し、永遠に天土にと黛まり、直接にも聞接にも現出   の日本教育の上に舞ひ下わることのなかったこの國の激育に關   する學間を地上におろすと髭もに、他方この國の撤回現實と聲   協し現状辮護の理論としてあった轄聞的激育理論の欧革に役   立つであらう9な微一般にこの原因として,天皇制を申心とす  る絶封性の存在とそれによる市二二會の未腰蓮があげられるの  は周知の如くである9郎ちこの絶封的な引力の下、入は御用學  者となって神がかりの論をなし、或は日本の重質の研究をタブ   一として麟念的抽象的思辮や、外回の理論に逃遜したと云ふ   のである。併し我々は更に天皇制が力を失った現代に於セ.ド   イッとアメリカの相蓮はあるにしても.依然たる馬絹的観念的 ︶ 15 ︵

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な踊坂、例へば我國の教育に封して何等責任を持つものでな い。旨Uoξo翼を万能樂の如くふりまわしたり、或は所謂實証継 々が胆なる好事家的認証主義、”二字依存的實証主養の抽象性に 將ってみる原因を,一切の教育理論の日本的攣形、抽象化の秘 .密を、問はねばならないQ ︵2︶所謂激育に於ける日本的なるものは云ふまでもなく,日本砒  會の制約の下に形成されたものであるがそれは同時に、新しい  拶育が挑職し、憂革すべき日本肚曾をみたしてみる諸々の力と  その本貿を同ふするものである9かぐて教育に於ける日本的な  るもの﹂究明は、二二の日本激育肚書學の一’つの課遡を同時に  解くもの、換言すればこ﹂に二つの課題が算中的に表現されて  みるとも云へるであらうQ ︵3︶我々はこΣで、、從來からよく云はれて來た激公理論の風土馴  化︵>8野寄軍隊p二〇瓢︶の如きを事新しく設こ5とするのでは  ない。もとより、これが教育肚曾學の重要課題たることは明で  あるが我々がζxで力補してみるのは、その前提となり更にそ  の根底にあるもの改究明の必翼であるQ ︵4︶元來、一つの教育思想がそれ自体としては、如何に美しくかつ  論理的に整合してみても、その理論の文脹の中で更にそれと現  責との監護の性楕にもとづいて、全く反勤のものになり得るこ  とは歴要の証する所である9例へば識育を入間の先天的可能性  の陶冶形成と考へることに覧て、それ自身としては高遭なヒユ  マニズムの立場に立ってるる筈のドイツの教育學が簡閏下にナチ  ス的な思想の根底を供することになり、またそれを丈字どほわ  麟襲模倣した日本に於ける陶冶形成の敏育論が、皇義民の錬成 と云ふ國民怪童の基礎理論となったことは我々の記憶に醸しい 所であるQ況や一つの理論や思想が本当ある融會のある閲題を 解くために出來たことを忘れ、その生硬な用語が魔法の力でも 持つかの如く.ふりまわしてみる限りは、この國の偵の悶題の 解決の如きはあり得ないのであるQ ρ5︶﹁本校には、大豆などはいざ知らず新制高校たる本校には激  科曹と云ふものがちやんとあるのだから、殊に砒工科ではそれ  以外のことは緻へてくれるなと何時も戒めてゐます﹂云々9筆  者が自ら耳にした或る新制高校長の話である。 ︵6︶﹁ある教育書の議に從って罰なき教育を一ケ月やりました9  併しその結果は尤も私のやり方もまっかつだのでせうが、牧拾  がっかなくなり、もっとひどい罰の議育を三ヶ月やらないとも  とへもどりませんでしたQ﹂或小亭教師の述懐である。勿論我  々は恐怖を原理とする肚會を改革し、正養と知性と合理と説得  の肚會︵それが民圭主幾肚會である︶を作らねばならず、教育が  そのためにこそあることを疑ふのではないQ併しその困難さの  自畳こそ、眞の改革の第一歩であることを信ずるが故に、現實  に目をそらせて記しい歌を唄ってみる所謂新教育指導者の責任  を問ひたいのである。 ︵7︶否、實際は、我々は新教育のスローガンの貧しさを指摘せね  ばならないのであら59即ち、職攣以蘭から廣く世に行はれて  みた多くの軍國主義的スローガンがこの國の入聞と肚會のより  よき理解の下に、日本人の深溝に訴へ、これをつき動かして來  たのに封し、戦后の新教育が、これに延敵する唯一つのものも  持ち得ないことこそ問題とされねばならないであらう。

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︵S︶こ改に所謂⋮教育關係者とは、浮管の激切行政の衝に曲る教育  官僚ば勿論、教育者としての教師のみではなく被教育者として  の学生も含むQ我々は今、結構づくめの理想の教師の型を天下  りに論Eたり、專ら学生の當爲のみを論ずる教晦論や畢生論で  はなくて、新しい日本教師論と学生論が、この三国の中から書  きあげられねばならないと思ふ9 ︵9︶このことは、もとより最も根本的な從ってまた極めて困難な  問題であり、諸々の肚會科学、否、一切の學問の協力によって試  みられるべきものであるが、併し前記の如き学問的性格より、  日本教育祉會學がこの問題を最も中心的な躁急として正面にと  りあげるべきものであることは当然であら5Q ︵10︶さきに、日本教育砒會學の課題の一面として、このやうに曾  て教育によって作られたものとしての、翼に后に教育によって  心強され、改革されるものとしての日本砒會の究明を云った所  以である9. ︵11︶例へば、我國の教育技術は、 一盛の近代的扮装の下に封建時  代からの遺風を如何に残してみるか、明治以后のアジアに位す  る后進費本主義國としての性格が如何に反映してみるか、これ  等を明にしない時、・その教育技術が科墨的認識の上に立つもの  であっても往々に反動的な役割を果して來たことは、軍國時舟  の日本の歴史がこれを語ってみるQ ︵12︶これ、日本文化の特色としてく①二︶騨に猛旨が非難される所以  であらう。これは明治以來西洋の文物が思想と.本ふ形式を以て﹂  しかも思惟する活動から一口切りぱなされて受入れられた事  情にもよるものであり、更には尊意の不満足を唯思想で、言葉 の上で満⋮そうとする㏄■閃﹁①自臨の所謂﹁思惟の全能﹂にも麗人 して來るものであら50 ︵13︶R木の學會に於て、紛糾した議論が外國の高名な學者の一句  の引用で結末をつけられるのはしばノ\見る、併しそれだけに  驚くべき光景であるゆ ︵雄︶我々は、そこにかくされた反動性をおぼろげに意引しつL  も、なほ多くの人々が傳統的なるものへの訴に耳をかたむけざ  るを得ないや5な状況を作り出したことに鍬する新教育論者の  責任を問ひたいのであるQ ︵15︶国.鳴層。ヨ巳矯国鴇曽℃o⇒oヨ閃﹁oo島。日戸O戯﹂9 昭和二五年  秋、日本倫瑚墨.會記念講演に於ける日高六郎氏の紹介によるQ  なほフロムについては、南博氏の簡単な紹介があるが︵﹃思想﹄  昭和コニ年六月、﹃精神分析學と文化人類學﹄︶、この種の研究  は、新しい砒會と入聞の形成を必翼としてみる現代日本に於て  他山の石として顧みられてよいものX一であらうQ ︵16︶旨・切ρ﹁N鐸Pρ、o碧プ。﹁営﹀ヨ。﹁ぽP戸詮Φの矢川徳光氏によ  る繹本 ﹁アメリカ教育の反省﹂ に正し、原著者がよせた序文  ﹃日本の聖者たちへ﹄の一節Q

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我々の所謂日本教育肚會學を特質づける第三の鐵は.そ れが明確に﹁現實科墨﹂として規定ざれた事である。これは、 こ.の警手の研究分野に吊する全研究が、日本の杜會と教育 ︶ 17 ︵

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 の改革につながる明確な間題意識をもつて貫かれなければ ならない事を意昧する。換言すれば一切の研究者が自己の 研究がこの國の肚會と教育の進歩の爲に如何なる奴果を噺 らし得るかを常に反省せねばならない事を意味する。併し ながら,とれがもとより輕卒な實践主義や安債な實用主 義によって科學を非科撃化する事ではない事は去3.迄もな い。我々とても,純粋科學的研究としての教育科學と實践 科學としての教育學とを偏着したデユルクムの深い用意を       ︵−︶ 忘れるものではない。確に、⋮教育肚正理は砒會や⋮教育と云ふ 事實を改革ずること,そのための實踵に封しての指針を與 へる事とは全く無智係に純粋に事實を事實として記早し, また設明すれば足わると云ふ立場もあb得るであらうσ即 ち扁口で云へば科學の問題にするのは存在であって常爲で はないと云ふ考へ方であり,この國に於ても多くの論者に よって,いろ/\の理由によって支持されて來たものであ る。思へばこのロ實の下に如何に多くの墨者が圓らかな夢 を結んで來た事であらう。併し,我々は一般にこの檬な考

雰をとら奈・磐の目的は;の装蒼本書馨

學の理論的匿系を作りあげることではなく,現實の日本の. 肚會と教育の改革を・一歩でも進めるζとである。我々は混 齪と低迷の日本の枇會と教育の現身をよそに、そ、びへたつ 肚麗な日本教育肚會學の殿堂の如きには何の意味も認めな いものであり,その串間欝欝が如何に肚大でも精緻でも, それが日本の現量の耽會と薫育の縄験を素通りしてみる限 り,それが日本の肚會と教育の現態に食ひこみこれを痩す る力にならない限り,凡てはいとも軽挙なる遊戯にすぎ す,結局に於て閑人の道樂と選ぶ所のないことを確信する ものである。くりかへして云へば,こしに於ける一切の研 究は,今日のこの國の就會と軍馬の改革を結實させるため に集中されねばならす,それが正しいか否かは,その理論 的な整一さや完壁さからではなく,組紐による實果の心証     ︵2︶ を必要とする。併しこのことは決してこの學問の科填的態 慶の軟化を意起するものではない。我々の所謂至心科學は あくまで科學であって.決して主観的な教読ではなくエド        ︵3︶ ウアルト●シュプランガーの所謂︻,我⋮學﹂︵ぐ刈︸一一〇づωO︼口曽hけ︶ であってはならない。 圭観的な願望のみによって等差の

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動かし得.ないことは、我々の十分に知る所である。それ故 に ﹁まつ科學になぞ事﹂、これは,我々の第一の二面であ る。眞に嚴蜜な肩下心霊度㌃守ることによつてのみ、日本 戦三后工臨は逆に日本の鳶足と敏育の現態に動きかけこれ を改革すると云ふ教來の使命を果すことが出歯るのであ る.何故かなれば,眞理を眞理として追求することによ って實践に寄要する事こそ一切の科學の本質的課題であっ て.實践への科學の領導は,唯眞理を見ぬく事によっての み果されるからであり,我々ば日本教育就會學がその出嚢 に際して持つ實蹟的要求を肯定すると﹂もに.それは正に かムる虚位的な要求に慮へる爲にこそ,より嚴密な露霜的 態度を財持し,一槍正確に事實を究明し、事實を言明し、事 實の向ふべき所を指向し得るものとなら絵ばならないと恩 ふ。即ち.假令同一の問題であっても明確な現数科霊的立場 に立って.これを如何にするかと云ふ明確な⋮問題意識につ らぬかれ、この四壁に考察を集中する時は、殊にそれを現代 日本の解決を要する問題として考察する場合には,輩にこ れを喪碧問題として取扱ってみる時と異って,種々な 關聯が注目され學問的にも大なる磯見をなし得るものであ       ︵4︶  ることは,牧野巽教授も読かれてる芦冠所奪ありて、この明 確な出題意識、ない所 眞の意味に於ける日本教育就會 墨の磯陰も亦、望ま幻ないであらう。これ我々が﹁其の

意禁門の認撃譲づけ雀と云い・.また証會㌍

何事かを慾するもの、みが,盤景皐的に何事かを認識す ︵6︶ る﹂ と云ふフライヤーの言にむ多くの制約をなしつ﹂も 一慮の償値を認めようとする所以である。では、こ﹂に所謂 ﹁眞の意慾﹂とは我々の場合何であり,我々は﹁甦劇的に 何事を死してみる﹂のであらうか。それは云ふまでもなく 日本が現代崩潰に瀕してみると云ふ實感の上に打たてられ た日本の砒曾と教育.再建の意志であり,それに教育の側面 ・より寄興せんが爲の,日本の融會と敦育の研究の意志であ らう。これ、我々がさきに、日本教育杜曾學の課題として、ま つ日本01冠曾と教育の曲解より出血し,⋮教育に於ける臼本 的なるもの﹂徹底的なる究明批判と﹂もに,その底に潜む 日本の批會と教育の負ふ宿命的な問題,あの悪循環を繰り かへしつ玉崩潰の過程を辿る日本鼠取の循環髄系を人間過 ︶ 19 ︵

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程の側面に於て断切るための・万法の探求を響いた所以であ る。  最后に、日本教育瀧會學をこのやうに現真面墨として規 定する事は,必然的に我々をこの學問研究に於ける研究者 の立場,イデオロギーの問題の前に導いて行かすにはおか ないであらう。これは周知の如く、肚會科墨的認識に於ける 客観性の間題として,多くの人々によって設かれて來た極 みて困難な問題であると﹂もに,凡τの肚思恋嬰の研究者 が一度は通らねばならぬ關門でもあらう。併し今や,紙数の 鹸裕の全くつきた我々は,こ﹂では三男研究者は就會科墨        的認識に於ける自己の思惟の存在拘束と云ふ嚴粛な事實を 鍬蹴に認めつエー事實.科勝自髄が一つの丈化的形態と して長髪的に規定され,三脚上肉梓なる没等値性の確立の 不可能なζとは,知識就畳替が明瞭にζれを.冒してみる一 しかも,それが假令シュンペーターの謂ふ如く奇跡を以て         ︵7︶ 稔さるべきものであるにしても.自己の立場を出來るだけ 明瞭に意識するように努.カすべきであること﹁好ましい 事實に謝しても,好ましからざる事實に窪しても,事態を       ︵8︶ 全面葡に洞察し得るために自己の評便を抑制する﹂事によ って、研究者のモラルどしてマックス・ウエーバーの所謂禁 欲を守り,希望や意欲による認識のくもりを不断に警戒し て,事象そのものにせまるべくつとめ,少くともある観望        への偏執とある主義への排他的な信奉とによって.所謂當       爲拘束に堕し,自己の封建を特定の政治的勢力の手段とし ての純粋のイデオロギーに堕す事を嚴につ﹂しむべきであ る事を云ふにと碧めよう。勿論それは極めて困難なことで ある。我々はこれを常に努めて,しかもなほ及ばざる事へ の自戒として轟ふのである。併し、眞の耳芝科墨がこの困難 の克服の上にのみ成立し得ることも亦明である。建にその 其に困難なる所以を知ることこそ就寝薬事の第一歩とでも 云ひ得るずあらうか。そうしてか、る自毘に徹したものに しではじめて,曾てこの國の野駆科學に見られた如く一切 の憾寝的な就魯的政治的な状況に目をとじ,抽象的な艦系 の整備にふけったり.或は一切の贋値的立場に慨し,全く 中立無豪農である如く信じ,或はよそほひつ玉,その間に 無意識釣に,乃至は故意に一定の贋値葡圭張を忍びこませ

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る事によって..却って政治的影響を及すやうな似而非客醗 ︵9︶ 圭義を断固として拒否すると同時に,.學問をイデオロギー 忙堕せしめることをも救ひ得るであらう.かくて結論的に 云へば,一面に於てウエーバーに從って黒髭科學者のモラ ルとして前書の如き意味に於ける便値一日への禁欲を守 りつ亀.他面似而非客観主義に陪ることを戒め自己の立場 を明確に意識すると、もにその立場への不断の反省を彿ひ つ、,現實科學としての日本教育杜會學は,明確な問題意 識を以て日本の現實の肚會と愛育の科學的究明に向はねば ならないのである。 註︵−︶国.O属昏冨巨圃⑪含。彗8奪ω8剛臼。蕊。 ⑫旨田邊壽一葦   二本︵富山房版︶第二篇郭勤學の性質と方法︵七六頁以下︶参照 ︵2︶この國に於て、多分に誤解をまねき易いこの表現のために、  簡輩な髄をつけ加へれば、我々はこれをかの≦、唱斧山。ωがプラ  グマチズムの方法を云ひあらはすたみに用ひたトレースする  ︵静﹁曽OO︶と云ふ表現の意喋に於て用ひたQ即ち我々け、この學  問の一切の概念や廻論は﹁争の概念のそれる\のブラクディカ  ルないろくな結果をトレース﹂される事によって、現實にプ  ラクディカルなoo窮①ρロ。づ6霧を持ってるる事を明にせねぽな  らないと云ふのであるQその虞理としての6騒げ−<七三。を現  賞に生きて働く蓋果によって、實証せねばならないと云ふ事で  あるQ  ℃藁験ヨ簿房ヨ℃﹂O 以下参照Q﹂ ︵3︶この言葉を以ては国・q◎﹁﹁帥ロαq①同は最も痛烈に閏﹁o団。吋の肪  謂≦マげ属りげげ虫冨毛置ωO房∩げp津を非難する。彼によれば一切  の≦界8窮07鷺陣は≦、旨oN紹﹁≦昏昏①津によって貫かれて  みなければならないのに、≦貯ζぱプ押虫房罎ジ。。o霧6ゴphけは實  に‘芝已oNξ竃碧匿によって成立してみる似而非謬言であっ  て、﹁それは最早﹃科學﹄ではなくして﹃我學﹄である。﹂私事にわた  るや5であるが、筆者はこれを一九三七年春、常時交換激授と  して來朝中の激授が慶懸義塾に於てなされた講演も。。げざす90  ユ。﹁O①討8ヨく貯。no昌u降∩ぽ騨h帥。ロヨロ。同αqo頭。コ箋帥詳鎧①昌  国旦ε﹁に於て耳にしたQ激授が悪酒の叙情をこめて吐露した  この国ψαq皆けq騨づ昌昌β﹁コOoげこ類一昌Oづ湾プ曽H辞.、三〇びけ  ヨ。げ﹁”.毛冨ωoロω6ゴ鴇津.、なる一句は、以來筆者にとっても忘れ  難いものである。併し我々は教授の警告には十分の意味と共感  を感じつΣも、なほ﹁現實科學﹂夕、云ひ褥べくんば﹁眞理への意  志﹂によって貫かれた現蜜科學を要求するのであり、それが如  何に困難であらうともそこにこそ科躍本署の使命のあることを  信ずるものである。 ︵4︶同激授﹁撤育杜會学の性格﹂.日本教育學聖目﹁漱育塁壁学  論究﹂三二頁9尤も,勿論或問題の科學的分析を試みる時、一切  の砒會的意欲や願望は凡て、認識の要求に逆運させられるので  あり、學問はこのやうに環境的。パースペクティヴを捨て玉、純  梓にものがものを呼ぶ世界に入ることであり、かくしてのみ正  確な認識を果し得るものである9從って明確な問題意識を持つ  と云ふことが、現實の肚會的願望によって認識の目をくもらさ  れる事を許すものでないことは明である9併しそのやうなこと ︶ 21 ︵

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 は、果して可能であらうか。この貼に闘しては、后に設くイデ  ォロギーと二巴科學的認識についての論越を参照り ︵5︶属・寄。饗﹁撃こocN三。αR冨潜7毛マ乙ぱ冥虫ヨく写。ヲ9農け  6coOQ自●こ。3・タガ7﹁3 ≦oに。ロ h自σ巳。二 考騨7δ    軍  図﹁評。づロヨ冒この有名な一句を以て彼はこの閲題の診断の論  述を結んでみるθ ︵6︶守峯噛Qり5。。3 ︵7︶シュンペーター﹁科學とイデオロギー﹂︵雑誌﹁思想﹂昭和二十  四年九月号︶ ︵8︶ 因∂H繋℃2、ρ 竃p×∼<oげ05話こ。巳ω特 ︵9︶似而非客飼主轟の危瞼は、日々の新揮の紙面がこれを示して  みるQ曾て馬場恒吾域が、現代の新聞は決して砒曾の木懲でも  何でもなく,唯肚會の流に浮び、客現的に洗の姿を映し示す泡  沫にすぎないと云ふ意味のことを設かれたのを記憶する9併し  これらの純造紙的に洗の萎を示すのみと自認する泡沫が、實は  その所謂客潮主義の誇示のためにより敷果的に枇曾に影響して  みるのである9この黙に嘱しては極めて馬上ながら我々も曾て  設いたことがある9拙稿﹁帽現代ジヤーナリ.スムの一つの悪傾向  について﹂︵﹁砒書思想研究﹂第一一巻、第二号︶

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 顧れば、﹁教育は眞室の中で行はれるべくもなく,また一 國の三民の文化遣産との完全な回縁と云ふことも考へられ ない.︵敗職日本の︶現在のような重大た韓換期に於てすら        ︵1︶ 何等かの町回がなければならない﹂が故に,決してアメリ カ教育の廉昔風を作るやうなことをせす,継承すべき自國 の交化ω徹底的な反省と改造に基いて目44の敦育の再建を 計るべきであると云ふことが。第二敦合衆國敏育使節團報 告書の勧告の誠意にみちた基本的態度であった.しかも. その金く逆の事が,職后五年間の日本に於て所謂新教育の 名の下になされた事ではなかったか。かくて、今や漸くにし て,所謂﹁新教育の反省﹂の聲が各所にあがりこれらのも のに消し熾烈な薄雪の目がそ玉がれはじめたことも平なき ことではない。併しながら,こ玉に最も注意すべきことは とれらの批判が、報告書の傳へる正しい日本教育の再建の 態度への復蹄ではなくして 逆に報告書の勧告に從って徹 底的に反省され改革さるべき蕎き敏育の復活への道である       ︵2︶ かの如き観を呈してみることこれである.  かくて,我々の信ずる所によれば,現在の日本教育の基 本方向は次の三鐵に要約されるであらう.一,報告書の勧 告する基本的態度はあくまで堅持さるべきこと。二,その

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ために,所謂新教育への反省と批判を怠ってはならないζ と。三﹂と同時に、所謂新教育の反省を醗く,形を愛へた 奮教育の復活に謝して闘はねばならないこと。そうして我 々は我々の所謂日本教育肚會學が,さきに縷蓮せる如き基 本的性絡を堅持することによって,このために若干の寄與 を果し得べきことを確信するものである。 柱︵1︶閃。習嵩oh昏oq三8伽も。冨倖。の国ユg舞ざ昌竃討﹂・一〇口8  匂騨℃坦Pお饗噌戸目げ。>一ヨ。。ρう鳥∩o簿。鼻oh匂ρ℃騨づ塁。  国島鐸Oρ鉱Oづ ︵2︶この﹁講和の氣運が張まるにρれて、今日ではかなり公然と﹂  語られるようになった新教育の反省が﹁多くは後を向いている  ように愚われる﹂ハ蘇昭氏、﹁新品育の原理的反省、﹂黎明身悶版  ﹁新教育の反省﹂四頁︶事は衆知の一致する所であらう。事實、我  々日本人の無意識の底に沈んでみる渦去の民族類化へのノスタ  ァルジアの彊さを愚ふ時、筒験なる態度を以てする改革と⋮進歩  のための日本的なるものエ究明が如伺に困難を極めるかは思ひ  牟に過ぎるものがあるであらう。尤も﹁新教育の反省﹂を設く立  場はこれのみにはと虻まらない。例へば矢川徳光氏の新著﹁新“  激育の反省﹂には、このや5な態度とは全く異った立場が、別  の憲味に於て我.々が批判しなければならない立場が示されてゐ  る。この輔に﹁反コプ●カリキュラム論﹂と副題された書が発刊  忽にしで示した異鴬な費行きは、この國の激育肚會の一面の牲  絡を示すものとして、極めて興味ある蕩賓であるが,併しこの やうに一方の端に甲を為せ他の端に乙を網せ、一方が上れば他 方が沈むと云ふやうなシーソーゲームがこの國の内部に於てく bかへされてみる限りは.眞の意昧に於ける.日本の近會と三三 の改革手書.の如きものが果してあり得るであらうか。我々はこ 乳を疑ふものであり、か﹂る態度への根本的反省を設くことこ そ、この小文の目的の一でもあった9  ︵昭二六、葺、=○︶ ︻附記︼ 余白を得たのを幸ひ、二.三のことを附記するQ 本稿とほ穿同糠の趣旨のことは,曾て近畿激育二一︵昭二六。 三︶に於て述べた軌もし学芸の報告に印刷の義務が伴ふもので あれば、これを以て代へたいと恩ふ9なほ.その際、司會に当 られた廣岡亮藏教授の御好意に充ちた御批評は、もとより溢美 の言ながら、些か筆者を力づけてくれたことを感謝したいQ やたらに多い註記は、一には紙蹴の制限のためであるが、しか も註記自体が意をつくすに到らない事を遣憾とする9例へば4 の︵6︶でふれた一種の学問の革新蓮動として槽ハ値の複厳主義に 立つものとした外國学の性格づけなどその一例であるが、﹁,こと 人毛の研究に限ってのみ,多くの砒會諸科学が、 一つの地域的 攣形にすぎない西洋交明の研究を以て雲隠全体のそれに代へ た﹂おかしさは、 界尉ΦコΦ9簿なども亦指摘してみる所であ って、こ瓦は唄.在では一般に受入れられる考へ乃ではないかと 思ふ9 ℃碧け06﹂・o︷6野獣一.p一.日冨㏄^旨δg①oh6自・きヨ 参照       ︵昭コ六●七・一ア几︶ ︶ 23 ︵

参照

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