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2002年度修士論文
「金魚【きんぎょ】」:その姿による私的印象論
[KINGYO]: Impression of Goldfish
多摩美術大学大学院
美術研究科 デザイン専攻(染織)
Graduate School of Tama Art University Art Research Department
Master's Course in Design [Textile]
江成えり子
Enari Eriko
論文指導教員 檜垣 檀
「金魚【きんぎょ】」 その姿による私的印象論
目次: 序章 金魚、そのきっかけ 第1章 金魚の系譜 1-1中国から日本に入ってきた経緯 1-2日本に浸透した経緯 1-3現在の種類 第2章 金魚をモチーフとした工芸品 2-1モチーフにとりあげられた時期 2-2意匠における金魚の姿 2-3中国ではどのようなものがあるか 2-4二カ国の工芸品をみて 第3章 金魚とその「言葉」「イメージ」そしてその相違 3-1金魚に対するイメージとは 3-2身の周りできかれるイメージ 3-3意外性を持つイメージとは 第4章 金魚と作品 4-1染色で金魚を扱うことについて 4-2過去の作品について 4-3現在の作品について 終章 そして、金魚
序章:金魚、そのきっかけ 目の前に水槽がある。そこには金魚がいる。夏から再び飼い始めたものだ。 緑味がかった水の中で時折見せるその赤い姿は、見る度にドキリとさせられる。 染色で何か表わす際に必ず取りあげるのが金魚である。金魚がいてこその染色といって も過言ではない。魅かれるのは赤い姿なのか、それとも小さくその可愛らしい姿なのか。 はたまたゆらり、ゆらりと泳いでいる姿なのか。それとも魚類としてのその形に目を奪わ れているからなのか。とにかく、強い執着の上に成り立っていることは明らかである。 世間にも金魚をテーマに取りあげたものがあるのではないだろうか。どのようなイメー ジを纏っているのか。以上のことをあげていきたい。そうすれば、自分の執着の源を垣間 見ることが出来そうだからである。ちなみにこれは、その金魚の印象に対する非常に私的 な論述である。そのことをまず、ご容赦いただきたい。 第1章:金魚の系譜(発生) 1-1 中国から日本に入ってきた経緯 日本で広く愛玩されている金魚たちだが、元は中国からの外来品であった。どのような 経緯で日本へとやってきたのか。 金魚の原産地は中国大陸の南部地方で、今からおよそ千数百年前に浙江省、江蘇省、江 西省あたりで野生の鮒の中から赤色のものが見つかり、珍しいものとして捕獲し、泉地で 飼育したものであるといわれている。 やがて、北宋(10世紀)の時代になると盛んに飼育され、いろいろな品種が人為的に 作り出されたのが今日の金魚であると伝えられている。 中国では古い時代の文献が多数残されていて、中でも明の李時珍が編集した「本草網目」 には、金魚の起源について「晋ノ桓冲、蘆(ロ)山ニ遊ビ、湖中に赤鱗魚ノ有ルヲ見ル」 としている。その晋の時代というのは西紀280∼419年であるから、約1600年余 り前、既に金魚の原種が見つかっていたと考えられる。 これらの金魚は動物学的には野生の鮒が突然変異によって体の色が赤くなったものとい われていて、中国では金チイと呼ばれ、日本のヒブナに似たものと想像されている。 そして宋時代(960∼1126)からは盛んに飼育されていた。更に明の時代になる と、金魚の種類や飼育の方法などが記された書物があらわれる。その中には「金魚品」と して簡単ではあるが、金魚も上品、下品のあることや、時の移り変わりによる人の好みの 違いなどが書かれている。 書物の「珠砂魚譜」には、著者が自らエサを与えて飼ったり、見聞したりした金魚の形 態や素質、愛育の方法などが20項目に分けて述べられている。 1
あげてみると、金魚の色彩、からだつき、尾の形、飼育水の良否、エサ、容器なども詳細 に書かれている。特に飼育方法について、この当時すでに泉地における半飼育方法から小 形のかめや、木製の桶を用いた完全飼育がなされていたことがうかがえる。これらの時代 の金魚は赤、白、と斑の品種だけであったようで、明の嘉靖以降になると桶での飼育が定 着し大衆飼育が大流行する。そこでは選別淘汰が繰り返され、そこから透明鱗やまだら、 二重尾、出目、短体などの新品種が出現する。 1-2日本に浸透した経緯 日本にやってきた経緯は「金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)」(寛延元年、1748 年、安達喜之著)によると、文亀2年(1502年)正月二十日に泉州左海の津、現在の 大阪府堺市に渡来したことが記されている。文亀2年はポルトガル商船による種子島への 鉄砲伝来をさかのぼること40年前のことになる。当時、対外貿易として栄えた堺港に隣 国である明から金魚がもたらされたとしても不思議ではない。だが、これを渡来説として 断定するとは云い難い。しかし、現在ではこの説が最も有力とされている。 こうして金魚は江戸時代にはほぼ定着していく形となる。場所としては、江戸、堺港の 周辺(渡来地)、大阪、京都。あるいは外国船の入港する九州の博多およびその周辺にも かなりの金魚が飼われていたと想像される。四代将軍、徳川家綱の時代頃から広く庶民に 観賞されるようになり、更に江戸時代の中頃より幕末の頃にかけては急速な勢いで大衆化 されていったのである。元来、金魚は原産地中国での文人趣味的な愛玩物として伝来され たので、渡来後直ちに大衆化するようなものではなかった。最初は珍しく、貴重であった 為に貴族達の愛玩物だったのである。そして次に日本の文人達に広まる。 「中国文学の影響を受けた日本の学者、文人達は金魚の実物を初見するよりも先に、書物 によって金魚の存在を知っていたと考えるべきである。云いかえると金魚を見る目も文学 的で、むしろ文人達の清玩の対象であったのではないだろうか。」(石田貞雄 「金魚の系 譜」1986年 光琳社出版 ) 彼らはときを同じくした渡来の画帳などの文献による金魚の知識が優先していたと考え られる。まず、輸入品として日本にやってきた金魚は物珍しさと高級品であったところか ら、貴族の間で愛玩品として観賞され、それから中国文学の影響を受けた文人達の間に知 られ、そして大衆のもとへと広まっていったのである。 やがて幕末の頃になると、金魚はますます大衆化され、愛好飼育家も増えてくる。同時 に観賞のみを対象として家庭に持ち込むという人達も増えてくる。したがって夏季には金 魚を商う行商人も街を行き交い、夏の風物詩としてなくてはならない存在となってくるの である。また、金魚の飼育は比較的にたやすく、生きた魚類を家庭で観賞するということ の興味は金魚が唯一のものであったこともその理由であると考えられる。 1-3現在の種類 現在、日本に於いては愛好家と同じくして金魚の種類は多い。もとはすべて中国産で、 導入した品種をもとに日本で改良したものを日本種、中国で改良され、そのままの形で土 着したものが中国種とされている。鮒が突然変異で赤くなった姿からヒブナと命名され、 ヒブナの中から突然変異でさらに斑模様のワキンが発生し、さらにヂキンやリュウキンが 生まれた。中国から伝来した品種には、古くはワキン、マルコ(胴体が短体)、リュウキ ン(a-1)。明治以降はデメキン(a-2)、スイホウガン(a-3)、チャキン(a-4)などがある。日 本で改良された品種にはランチュウ(a-5)、ヂキン、トサキンなど古い時代に成立した品種
のほか、明治に入ってから品種をかけ合わせて作り出されたアズマニシキ(a-6)、シュブン キン(a-7)、キャリコ(a-8)などがある。 品種の成立は、大方が遺伝的な突然変異による。しかし、品種をいろいろと交配して新 しいものを作り出す試みも盛んに行われている。現在、日本で飼育されている品種は30 あまりであるが、形質を細かく分けるとさらに多くなる。中国では品種間の組み合わせが 盛んに行われるので、品種は100を超えるといわれている。 (a-5)ランチュウ (a-6)アズマニシキ (a-2)デメキン (a-3)スイホウガン (a-4)チャキン (a-7)シュブンキン (a-8)キャリコ 3 (a-1)リュウキン (a-5)ランチュウ (a-6)アズマニシキ
第2章:金魚をモチーフにした工芸品 2-1モチーフにとりあげられた時期 渡来した金魚が人々に定着していくと、当然のことながら実物の他に金魚は登場して くる。日本に於いて金魚の姿を意匠(デザイン)に用いるようになったのは、そんなに 古い時期ではない。江戸中期以前に遡るものはないのではないかとみられている。 どのようなものがあるかというと、浴衣の文様や陶磁器、伊万里や九谷、瀬戸などの染 付磁器や色絵磁器。漆器では印籠(b-1)や膳、重箱、絵替わりの銘々皿がある。他には 漆絵や蒔絵の盃や杯洗、かんざし(b-2)や飾櫛(b-3)、帯留め(b-4)、帯地(b-5)等である。そ の数は決して多くなく、 「主として幕末、明治、大正期に遡る時期のものがせいぜいであろう。これらは日本文 様史の流れにあってごく特殊な展開を示していて、金魚そのものの飼育、鑑賞の歴史と 深くかかわり、流行や普及の度合に大きくかかわりをもっていることが推測される。」 (河原正彦 「工芸にみる金魚文様」光琳社出版 1986年)とある。文様の種類では 魚紋に入るが、魚紋といえば大概の場合、立身出世の象徴である鯉や夏らしさを表現す る鮎、祝事に用いられる「めでたい」の鯛が最も一般的である。ごく特殊な展開とある ように金魚そのものが大衆の家で飼育、観賞されるようになってから「金魚紋」が出現 したと考えられる。工芸品以外では屏風や歌川国貞の「金魚百物語」に代表されるよう な、錦絵に見ることができる。 2-2意匠における金魚の姿 金魚資料の研究家でもあった、故石田貞雄氏の金魚コレクションには杯洗が多く集め られている。これが興味深い。 杯洗は酒の醸造の改良により、温めた燗酒を飲むことが普及した江戸時代の後期に登 場する。文字通りに杯を洗う器で、杯のやりとりの中で自分が使っている杯を人にすす めるときに、水を入れた杯洗でさっとすすいでから杯を渡す。もとは手近にあった小鉢 や丼を使っていたが、幕末から明治にかけて独立した器種として作られるようになる。 酒席では終始座に出されているところから装飾性が求められ、見込み(器の底)や見込 みの側面、外側に文様が描かれた。その中で金魚紋もあらわれる。 もとからあった魚紋や魚藻紋、双魚紋の魚を金魚におきかえて、赤絵や色絵、金彩や 染付で描いてある。文様的に描かれているのではなく、写実的、絵画的である。頭を下 にした、上から覗き込むような構図で描かれているのは面白い。パターンとして組み込 むのではなく、何匹かで泳いでいるような、そしてそれでは何だか物足りないような気 がするのは、使う時に水を入れることによってその中で泳いでいるように見せるという 「おもんぱかり」があったのではないだろうか。(b-5~b-10) 意匠に取りあげられそうで意外とそういうわけでもないのが、浴衣や着物等の染織 品である。 同じく石田コレクションにあるのは、子供の浴衣や帯地、帯留めの金具で ある。 残された浮世絵にも何点かの金魚の着物を見ることが出来る。豊国の錦絵にある女児 の着衣(b-11)や,延一の「江の島美人の賑い」の中に貝殻を拾う女児(おそらく芸妓の 卵)の着物に金魚が取り入れられている。(b-12)子供の絵だけでなく、春信の「風俗四 季の華」には婦人の着物に丸子(マルコ)金魚が見られる。(b-13) びいどろという丸型の硝子容器に入っている姿(b-14)や、水槽や池で泳いでいる姿は 多くの錦絵や絵画に残されているのに着るもののパターンとして残されているものは染 4
織品同様に少ない。 さて、コレクションに残されている子供の浴衣であるが、いずれも型染が用いられてい る。型染は反物を染める際、頻繁に用いられる技法である。(b-15)群泳を思わせるような 、金魚のシルエットのみで構成されている(b-16)は、上から俯瞰するような視点で仕上が っている。大柄の金魚が1つのパターンの中に2匹ずつ入っているもの(b-17)、泳いでい る姿なのであろうが、地に水を思わせる色をもってくるのではなく、白地に金魚と同じ色 で流水紋を入れてある。流水紋は平面的に入っているが、金魚は立体的に染められている 。最後の(b-18)は、楕円のパターンの中に1つ、ポイントとしてイラストのように金魚と 藻が染められているのがみえる。 染織品のみならず、「金魚紋」は金魚と藻の組み合わせが多い。これは魚藻文にならっ ている、と考えられている。 2-3中国ではどのようなものがあるか 中国の北京にある故宮博物院にも魚紋や鯉、金魚を意匠とした工芸品が残されている。 明、清時代に各々つくられた陶磁である。 ここにあげるのは明時代の A 釉裏紅三魚文碗(ゆうりこうさんぎょもんわん) (b-19)、B 五彩魚藻文大壺(ごさいぎょそうもんおおつぼ)(b-20)、C 青花紅彩魚藻文大 壺(せいかこうさいぎょそうもんおおつぼ)(b-21)、清時代のD 藍地描金粉彩遊魚文転心瓶 (らんじびょうきんふんさいゆうぎょもん)(b-22)である。各々の印象は違う。Aは白磁体の 外側で魚紋を三方に描いている。ここでは、紅釉だけで水墨画のように一息で描かれてい る。Bは五彩全盛の嘉端期の作品。五彩とは青花で釉下に着彩し、釉上に紅彩や緑彩、黄 彩で濃厚な彩色を加えたものをさす。その技法によってつくられている。 Cは青花による装飾を主文様として、鯉だけを紅彩で描いている。Bより印象は堅いが、 青花と紅彩の対比が目に鮮やかである。 Dは二重になっており、内側の瓶が回転して金魚が泳いでいるようにみえる「転心瓶」 である。細い線で丁寧に描き込まれている。 2-4二カ国の工芸品をみて この2カ国の意匠について、いずれも金魚(魚)に藻をあしらった魚藻文が使われてい るが、泳いでいる水の表わし方が異なる。 中国では背景の色を青系の色にしているか、もしくはそのままであるが、日本では金魚 の背後に線(流水紋)を入れてあるか、波紋を思わせる円を用いている。 水の中を泳ぐ姿をイメージとして表現しているのは同じなのだが、中国では金魚(魚) の姿を装飾的要素としてとりあげ、日本では水の要素を加えることによって動きを出そう としている違いが生じているのではないかと考えられる。 5
第3章:金魚とその「言葉」「イメージ」そしてその相違 3-1金魚に対するイメージとは 次に金魚というその言葉、イメージについてあげるにあたり、まず最初にここでの「イ メージ」(image)の意味をあげておく。 イメージ(名詞)の意味について、「角川新国語辞典(角川書店 第103版)では、 ①像。映像。姿。②心に浮かぶ姿、かたち。心象。おもかげ。 と、ある。②の項目にある「心象」も調べてみると、 「心象(名)感覚、記憶などが心の中に再生されたもの」となっている。ここでは②の項 目の中にある「心象」の意味を「イメージ」としてとらえ、進めていく。 元来からある金魚に対する(形容する)言葉には、暑い盛りに「きんぎょーオェー、金 魚」の売り声と共に歩く金魚売りや夏祭りの屋台にある金魚掬い、暑中見舞の絵葉書とい う夏の風物詩としての「季節的なイメージ」、駄菓子屋や玩具屋に並ぶ派手なブリキのお もちゃ、あるいは子供の浴衣の柄や金魚掬いに興じている姿を題材に絵になったものや、 江戸時代から雛市では金魚が売られ、ひなまつりの日にひな壇に金魚を供える習慣があっ たことから「子供のイメージ」がある。このようなイメージが多く浸透しているのは、そ の小さく、赤く、水の中でひらひらと涼し気に泳ぐ姿から連想されていると考えられる。 また、『金魚には水がつきものだ。焼き物の皿や茶碗や鉢であっても、あるいはついたて や箱や持ち物であっても、金魚が描かれているとそこに「水」を感じる。』(「江戸の金 魚」田中優子 2002年)とあるように、人は水中に遊ぶかのように涼しく心地よい感 覚を味わい、また『涼しさだけでなく、尾を振り鰭を動かして心のままに泳ぎ遊ぶ自由や 楽しさをも味わわせてくれる(同)』、『その姿も愛された(同)』とも書いてある。 もっともこれは明確な四季をもつ日本の雰囲気や気分から涼をとる、という発想から表わ されてきたものである。 原産国の中国ではどうか。中国では赤い魚あ8金魚、またはそれ以前の緋鮒といわれて いた種類も含む。)は、福、特に財運を招んでくれる縁起の良い動物として、吉祥文様と して表わされている日本のある金融機関にブリキの金魚に似たキャラクターが使われてい るのも、この中国のいわれをもとにつくられている。 他にも、「珍珠鱗(チンシュリン)」、「高頭パール」というように、名前の中に宝石 を想起させる文字が入っている。このことから、中国では福を招ぶ動物であると同時に姿 かたちから「動く宝石」というイメージも入っているようである。中国のみならず、米国 や日本でもこの「動く宝石」として愛好する人は多い。日本では奈良県大和郡山市を中心 として全国んい存在し、品評会が頻繁に開催されている。品評会にあげられる品種は頭に 瘤をもち、背ビレがない蘭鋳(らんちゅう、(a-5)参照)、尾ヒレが花のように複雑に分か れている土佐金(トサキン)である。 このような品評会で勝つとされる条件の1つに丸々と太った腹部、とある。しっかりと 張り、形が整っているのが評価のポイントであるらしい。だから品評会で良いセンをいく 金魚はあまり長生きしない。生き物としては少々可哀想な気もするが、「動く宝石」に生 まれついた運命ゆえなのだ、と考える。 6
3-2身の周りできかれるイメージ 一方、現在身の周りできかれるそのイメージは(金魚の愛好家は別として)、その姿が グロテスク、気持ちの悪い容姿、鱗をずっと見ていると寒気がする、などの惨憺たるもの ばかりである。このようなイメージを挙げられてしまう根源は度重なる品種改良の末に生 まれたデメキンに見られる異様な大きさの眼をもつ種や、頭に瘤がある種、眼が真上を向 いている種、顔の両サイドに袋状の器官がついた種、鱗が半球状に盛り上がっている種( これは愛好家の中では真珠のように盛り上がった鱗だと賛美されている。)、また比較的 新しいものには胴体がピンポン玉のように球状になっており、更に鱗が半球状に盛り上が っている種(c-1)等の奇怪といえば非常に奇怪な姿によるものである。他には無表情な顔、 瞬きをしない眼、密集している鱗、という魚本来の姿に対して嫌悪感をもっている場合が 多い。 「狂人日記」で知られている色川武大は突然眠気に襲われる持病があり、睡眠中によく夢 を見ていたという。見た夢の中で魚類が出てくる夢に対しては怖いといっていたそうだ。 彼の夢の話だけでなく、幼い頃の体験等によって魚類に姿について怖いと感じている人は 少なくない。確かにヒトや哺乳類などのように皮膚をもたない、そのむきだしの、鎧のよ うな硬い頭や、鱗で埋めつくされている胴体は見れば見るほど気味が悪いというのもわか る。金魚の姿それ自体では嫌悪感をもちやすいということになる。 前項では、季節や対象者、象徴や状況という「金魚プラスα」により、可愛らしい、綺 麗である、泳ぐその姿も好まれる、というイメージがあるのに対して、ここでは金魚その ものの姿から想起される怖い、気味が悪い、グロテスク、という違いがある。 ここで矛盾するようだが、前項でも『その姿も愛された』とある。このようになってい るのは以下のように、 金魚と水から泳ぐ姿が連想され、そこからヒレを動かし自由に泳ぐ動作を思い浮かべ、さ らに、涼し気な様子や可愛らしいと感じる。 という流れにより金魚そのものの姿に対し 好感度が高くなる。このことからやはり状況との関わりがあるかないかで、プラス指向の イメージとマイナス指向のイメージ両方がはっきり出ると考えられる。 3--3意外性をもつイメージとは 意外性をもつイメージ、というものもある。金魚が日本で広く定着したのは江戸時代中 期頃に入ってからである。後に大衆にまで広く観賞物として文字通り「愛玩」するもので あったが、ここであげるのはそれとは異なるものである。ここでのイメージのとらえ方は 人々の創作的な部分によって確立していったものである。これらは想像力の強さを感じさ せる。 ■闇の金魚 現実にこのような事が実践されていたのかは定かではないが、蓋をして闇の中で金魚を 飼う、というものである。蓋に小さな穴を開けておき、光はその穴を通してしか中に射る ことはない。あとは闇だけである。 その中で飼いならすうち、畸型の金魚が造成されるらしい。闇の中で飼いならされた金 魚の身になってみれば、狂わんばかりの生活環境であったから、姿かたちが恐ろしいくら いの畸型になっても当然の成りゆきであろう。ここからは想像の域にしかすぎないのだが 突然変異により発生した金魚がその後の品種改良を経て珍しいといえば珍しく、畸型とい えば畸型の姿になってしまっている。 姿こそ金魚ではあるものの、似たようなことが人間にもある。例えば家にかかわるよう な失態を犯した者を暗い土蔵に閉じ込め、「陽もあたらぬ座敷牢」となることである。 7
このような刑を受けた中には本当に狂人となる者もいたようである。以上のことも含めて その畸型にされた姿を見て当時の人々がフィクションとしてつくった話なのではないだろ うか。 ■女性に対するイメージ 2つめにあげるのは女性のイメージである。女性といっても少女ではなく、どちらかと いえば大人の女性のイメージである。金魚鉢の中で泳ぐ金魚を見る女性たちについて、こ んな記述がある。 「…彼女たちは、ぐるぐる回る魚の運動に我が身に通じるものを感じているようだ。江戸 の女子はそのものずばり閉じ込められた存在だった。…(略)」(「大江戸視覚革命」 タイモン・スクリーチ 作品社 1998年) 大人、という範囲も難しいのだが、ここでは子供を産むことが出来る女性とする。と、い うのもその女性のイメージは娼婦と妊婦だからである。 娼婦、とはっきりあげると差別語にきこえるかも知れないが容赦願いたい。今の日本で はあからさまにこのような商売は見掛けることもないだろうが、江戸時代から昭和31年 の売春防止法の施行までは公然と男性が女性を「買う」ことは普通だった。江戸時代は吉 原をはじめとする遊廓、女郎屋があり、戦後には「鳩の街」があった。いわゆる赤線地帯 である。街のどこにでもある、というわけではなく吉原だったら浅草のはずれに小さな街 のように外壁で区切ってある、などのきちんとした区分けがなされていた。 「雅び」といわれる京都では、隣近所と同じように並んでいる建物の軒先に金魚鉢が置 いてあり、その中には金魚が一匹泳いでいる。 これは「うちには可愛い金魚ちゃんがいます」という意味であり、符牒であったようだ。 ここでは、これが看板だったのである。 赤いその姿が部屋の調度品の色を想起させているか、姿の可愛らしさを金魚が表わして いたのではないかと考える。 もう1つは妊婦である。それも妖怪、名前は「金魚妖怪」である。 1807年に刊行された山東京伝著の「梅之四兵衛物語、梅花氷裂(うめのよしべえもの がたり、ばいかひょうれつ)」による。金魚妖怪は人間の女と金魚が合体した姿をしてい る。「嫉妬から殺された妊婦、藻の花の絶命の時の血が恨みとともに金魚にとりつき、金 魚はその姿が全身真紅となり(血を浴びたから)、腹がふくれ(妊婦であったから)、目 の玉は飛び出て頬がふくらんだ(怒りの表情)。」(「江戸の金魚」 田中優子 200 2年) 「らんちゅう」と呼ばれる種類はこうして出来た、とされている。そのらんちゅうが人 間となって現われる。また「長い髪を振り乱して目の飛び出た出目金型の女性の姿は、一 度見たら忘れるものではない。」(同)。 ここでは恨みと共に死んだ藻の花の執念がこのような姿にさせたのである。なぜ金魚か というと、設定でこの藻の花が暮らしていた屋敷には堺で購入して増やしていた金魚が水 槽にたくさん飼われていた、となっている為である。妖怪とはいえ、山東京伝の金魚妖怪 の発想には驚かされる。このような妖怪がつくられたものだとわかっていても、殺された 血だらけの妊婦と金魚の姿が上手く合致する。そしてそこからよりリアルな恐怖を感じさ せる。 この2つは女性の肉体的な特徴や女性特有の職業のイメージが金魚の性質、身体的特徴 を上手くとらえて、金魚に対して新しいイメージをつくり出すことに成功している。 女性の本能的な部分が見えるような、そんなイメージである。 8
■田名網敬一の「kingyo」(キンギョ) グラフィックデザインの中に金魚を用いた作品がある。田名網敬一(1936∼)の 作品は、また異なったとらえ方をしていて面白い。手のひらに金魚がいて(勿論、水の 中ではない)、じかに握ろうとしている絵がある。(d-1) 大概、金魚や魚を表現したものといえば、水の中を泳いでいるか、空中に漂っている( 飛んでいる)ものが多い。なぜ手のひらなのか。田名網氏の手記には、 「…水面に口をだし、呼吸困難でアップアップしている苦しそうな金魚に気がついた。 手ですくい上げるとピクッピクッと痙攣し、弱々しくからだをよじった。私は両手から はみ出すくらい大きな金魚の感触を確かめるために、握っている指に力を入れた。」( 「踊る金魚」 田名網敬一 アムズアーツプレイス 2002年) と、衝撃的なことが書かれている。その後、少年時代の彼は感触をもっと確かめようと 力を強め、金魚を破裂させてしまう。この時の感覚が作品に繋がっているようである。 ここでの金魚たちの姿は全てユーモラスで、その上その触った感覚(冷たくて気色の 悪い、ぬるっとした感触)が、画面からなんとなくにじみ出てくるかのような印象であ る。自身の体験(これは他人があまり体験しないようなものである)をもとに意外性を 与えるイメージを提示している。このようなイメージを持ち続ける、ということはあま りない。 (d-1) 9
第4章:金魚と作品 4-1染色で金魚を扱うことについて(自分でそれを扱うようになった経緯) 何故、金魚をモチーフとして扱うようになったのか、ここではその経緯をあげてみた い。 昔から家で金魚を飼っていた。とはいっても品評会に出すとか、特定の品種を増やす 為ではなく、単純にペットとして、家の中での「彩り」「観賞物」として飼ってきた。 そして毎日見ていたせいか、よく夢に出てきた。例えば、水道の蛇口から金魚が出て きて、排水口に流れていくとか、金魚に触る(前出の文章と似ているが、これは本当) とその胴体が熱をもっていた、触ってみたらものすごく固かった、などの類いの夢であ る。夢なので何の脈略も持たないが、特にそれらに対しては嫌悪感を抱くなどというこ とはなかった。そこではただ「金魚が出てくる夢を見た」という程度である。 後に金魚をモチーフとして扱うようになるのだが、その時には赤い姿に対して少なか らず受けるインパクトと可愛らしさを感じるくらいでしかなかったのだ。 4-2過去の作品について (今までの作品に関して、その金魚に対しどのように思い入れるようになったのか) 以降、ずっと金魚をモチーフとして作品にしている。モチーフとして取りあげていく 過程で調べることも多くなった。それまで観賞物として存在していたとばかり思ってい たのが、様々ないわれや作品があることに知るに至る。何よりも思い入れを強くしたの は赤い姿である。 赤い色は色の中でも明度、彩度と共に強さを与える色である。原始美術で名高いスペ インのアルタミラには旧石器時代の洞窟画があり、その彩色には赤褐色、褐色、黄、黒 の色土が用いられている。そこには緑や青は見られない。フランスの文科人類学者ジャ ック・モーデュイはこのことについて、 「人類は今日われわれが知覚するような色彩を以前から認めてきたわけではない。人間 の視覚はその当初、質よりも量に敏感だったから、微妙な中間色よりも強い色を知覚し た。そのため、すべての色を正確にとらえることができず、弱い色は灰色に感じたであ ろう。そして始めに赤系統の色が知覚され、後に緑や青のような色が知覚されるように なった。」(「現代美術の四万年」 ジャック・モーデュイ 角川書店 1962年) と、述べている。 しかし、その色が感じられなかったといえば決してそうではなく、この壁画に緑や青 が用いられていないのは獲物の獲得を呪う(まじなう)為に活動的で生命的、そして強 い色である赤や、黄系統の色が用いられたのではないかと考えられる。姿は可愛らしい が、そんな生命力ともいわれる色をもつアンバランスな印象に対していわば「惚れ込ん だ」のである。 10
4-3現在の作品について 今までは金魚そのものの姿、色をモチーフとしてとらえてきたわけだが、最近では違う 表現をも試みるようになった。より強さを求めるようになったのである。 テーマは金魚であることは同じだが、それにもうひとつ、墨象の印象を加えるようになっ たのだ。 墨象とは前衛的ともいえる書道の1つである。書道と同様に文字を書くことに変わりは ないが、一見書かれたそれは、絵なのか、文字なのか、俄には判断しにくい。 様々なやり方があるが、その中で線自体の強さを表わす表現を取り入れたのである。 線自体の強さを表わすならば、わざわざ布にやらずとも紙の上に行えばことは足りるし 思い通りの線を表わすことが出来るだろう。しかし、それを敢えて布の上でやろうとする にはわけがある。それは染料の強さによるところが強いからである。 鮮明さを一番引き出す化学染料は分子が大きく、それが鮮明さを出す要素になっている 。紙とインクでの表現と明らかに異なるのは、土台となる布と染料が凸凹がなく、マット に仕上がり、透明感あるその色が、光の下ではその色が生きるところである。だが、光の 下で色が生きる状態にまでもっていくのが、染色の難しいところである。 赤はもとより、他の色でもこのことは同様である。自分の作品の強さを求めるには最良の 手段だと考えている。 終章:そして金魚 作品をつくる時、金魚に対してはあまり深くは考え込まないようにしてきた。なぜなら 一度その深みに嵌まってしまうと、その考え方しか出来なくなってしまうからである。 このような作品をつくっていると、やはり、身の周りにも金魚は増えていく。おそらく 作品が金魚を、金魚が作品を呼んでいるのではないか、と思われる。いつでも、金魚が作 品を呼んできたらいいのに、と都合の良いことを考えてしまうのも仕方がないのかもしれ ない。 金魚のイメージについては、今後のテーマとして何らかの答えが出せるのではないだろ うかと考えている。いつでも、つくったものは金魚ゆえに「夏物」と見られてしまう。 そこから今一歩前に進むことが出来るような手掛かりだと思っている。 それにはもうひとつ、布の上での色彩の強さ、弱さについて何かをやってみても良いのか も知れない。楽しみが1つ増えたようだ。 家で飼っている連中は相変わらず、緑味がかった水の中で泳いでいる。時折見せる赤い 姿は眼に鮮やかに映ってくる。何の気もなしに彼らはただ、水槽の下方で静かに泳いでい る。今の大きさは3cmくらい、これもまた楽しみの1つとして、また新たな印象を探す ことにしよう。 2003.2.3 11
参考文献 「金魚グラフティ」 財団法人柳沢文庫 光琳社出版 1986年 「十八世紀日本の西洋科学と民衆文化 大江戸視覚革命」 タイモン・スクリーチ 作品社 1998年 「金魚伝来五百年記念展 金魚と杯洗」(図録) エキジビション・スペース 2002年7月12日∼8月18日 「田名網敬一乃金魚博覧会」(図録)エキジビション・スペース 2001年7月6日∼8月5日 「踊る金魚」 田名網敬一 アムズアーツプレス 2002年 「ドキュメント日本」 土門拳 小学館 1995年 「江戸吉原図聚」 三谷一馬 中公文庫 1992年 「赤線跡を歩く消えゆく夢の街を訪ねて」 木村聡 筑摩書房 2002年 「のり平のパーッといきましょう」 三木のり平 小学館 1999年 「図解染織技術事典」 柚木沙弥郎 監修 理工学社 1990年 「故宮博物院⑦明の陶磁」 長谷部楽爾 監修 NHK出版 1998年 「故宮博物院⑧清の陶磁」 長谷部楽爾 監修 NHK出版 1998年 「色・彩飾の日本史」 長崎盛輝 淡交社 1990年 「現代美術の四万年」 ジャック・モーデュイ 角川書店 1962年 インターネット [金魚探索コース」 (02.11.21) http://homepage1.nifty.com/monkiti/kingyotansaku/index.htm#oitati 「きんぎょのひとりごと」 (02.11.26) http://www.town.nagasu.kumamoto.jp/event/institution/inst_07/ knowledge.html