Ⅰ.はじめに
現代社会においても,大学の存在理由が「真理の探 究」にある事に変わりはない。そして「真理の探究」 は,あらゆる権力と日常性の怠惰から自由で,しかも 「知的誠実性」1)が極限までに貫かれることを前提とし なければ,とうていなしえない峻厳な「知的営み」で あることも変わらない。大学が,こうした存在である ことから一歩も後退することなく,同時に現代社会に おける最も有力な教育機関の一つでもある大学におい て,大学が為し得る教育の,その本質とは何かについ て若干の考察を試みてみたい。Ⅱ.大学教育の課題とは何か
現代社会における日本の大学が,課題とすべき教育 機能の側面から,「生涯学習大学」と「大衆大学」と いう,日本の大学に関する二つの「理念型」2)を提示 したい。3)この大学類型は,もっぱら大学教育を受け る側(学生)の諸事情(立ち位置)と,時代(人々= 大衆)が求める新しい大学教育理念の視点(大学の孤 高な設立理念を求めるのではなく)から論理的に矛盾 なくその内容構成を構築するものである。 1.「生涯学習大学」 「生涯学習大学」は,学生の年齢層に偏りが無く幅 広い。この大学の教育目的は,「職業生活に限定され ないトータルな人間教育」で,「今は役に立たないか もしれないが,何十年後には何かの役に立つ」という 曖昧な,それゆえに壮大な教育カリキュラム4)が提供 される。 学生は,卒業後にどこかに就職しなければならない という状態に置かれていない。この大学では,教員の ユニークな研究活動に魅せられて学生が入学し,研究 する教員の背中をみて成長することが期待されている。 この大学の教員は,学生に対する教育的な配慮に関心 はない。彼にとって教育は「負担」であり,彼自身は あくまで「研究者」であって教員であることの自覚は ない。したがって,不熱心で出来の悪い学生がいれば, その学生はすぐにでも排除される。例えば,授業中に 私語をしたり,居眠りをしている学生は,即座に教室 から退出を命じられる。この大学では,学生自身もま たそうした教員を歓迎し,不真面目なやる気のない学 生を排除する。もっとも,この類型の大学には,初め から「やる気のない」「目的意識のない」学生は入学 してこない。この大学の入学合否判定は,入学目的の 明確性・純粋性によってのみ判断されるからである。 したがって,この大学では,大学入学時点で必要な基 礎学力の有無は問題ではない。それらは大学の独自な, その後のカリキュラムに接続した初年次教育プログラ ムが準備されているからである。その意味で,この大 学はなん人に対してもその門戸は広く開かれている。 2.「大衆大学」 「大衆大学」は,学生の年齢層のほぼ 100% が 18-22 歳で占められている大学である。この大学では,卒業 後の進路を決めるという明確な目的をもった教育カリ キュラムが提供されている。卒業後の進路には,大学 院進学,海外留学も含まれるが,ほとんどの学生は一 般社会への「就職」先の決定が,この大学に入学する 動機となっている。「一流企業に就職したいからこの 大学に入学した」という学生から,「自分がどのよう な職業につきたいのか分からないので,とりあえず入 学した」学生まで,その入学動機は様々だが,要する に卒業後の進路を決定するために役立つ大学である。 その意味で,この大学は就職の「予備校」であること を自ら宣言し,そのことを大学の教育目的(広義の キャリア教育)とする事を当然なこととする。そうし た教育理念を裏付ける大学本質論の構築と,「就職」大学におけるキャリア教育の
本質論的諸問題
─現代大衆大学教育論序説─
The Journal of Economic Education No.31, September, 2012Philosophical Approach for Career Education in University
Usami, Yoshinao
概念,「予備校」概念の新展開を常に問い続けている。 この大学の教員はクールな「研究者」であると同時 に熱い情熱の「教育者」であるという「二足のわら じ」を履きこなす能力を要求される。例えば,授業中 に私語があれば,単に退出を命じるのではなく,なぜ その学生が授業に集中できないかを考え,「授業は学 生の為にある」5)という信念のもとに,どうしたらひ とり一人の学生が最大限にその能力を発見し,成長さ せる事ができるのかという教育課題に取り組む。この 大学の教員は,研究と教育の二兎を追い,二兎を追う ことでの両者の二律背反性のジレンマを突き抜けた高 み(教育活動の中で研究が深められ,研究活動の中で 教育が深められていくという研究と教育の相乗効果) に至り,「職業としての学問」6)に携わる大学教員の使 命を知ることになる。つまり,あらゆる分野の研究活 動が,それが人間による知的営みである限り,教育と いう人間活動の壮大な営みの中でのみ無限の可能性を 切り開くことができると信じて疑わない。このことは, 教育とは一見無縁のように思える自然科学の最先端研 究分野においても当てはまる。
Ⅲ.大学教育の混乱の要因
日本の多くの大学教育現場の「現実」においては, 「生涯学習大学」と「大衆大学」との要素が混在した 形で存在している。このことを多くの大学教員も学生 も気が付いていない。 また,「生涯学習大学」における教員(研究重視) とそこに在籍する学生(意識が高い)は,自分たちが 「大衆大学」にいることに気が付いていない。他方, 「大衆大学」にあって,無気力学生に対する教育に悪 戦苦闘する教員(教育重視)とそこに在籍する学生は, しばしば自分たちが「大学」教育機関であることの意 味を見失ってしまう。 こうした事態が,大学教育の混乱(ピントはずれな 教育改革と無意味で中途半端な授業改善。例えば, 「学生による授業評価アンケート」にしても,ただ, 形ばかりで,アンケート評価結果を即座に授業改善に 反映させるシステムを作ることもなく,したがってア ンケート調査結果の第三者による検証をすることもな く,ひどい場合は教員当事者にすべてを「お任せ」す るという,それはまるで FD 活動の義務化に対応させ た「アリバイ作り」にすぎない様相を呈している。)7) を引き起こしている根本要因になっているように思え てならない。Ⅳ.「大衆大学」の教育理念と方法
大衆大学に入学してくる学生には,高校教育を終え た段階では明確な職業観を持てず(高校の進路指導教 育の失敗)に,とりあえず入学できる大学をえらび (偏差値),4 年間でじっくり考えるという就職に対す るモラトリアム期間として大学を考えている傾向があ る。いわゆる「無目的な大学進学」「自分探しの大学」 という消極的,受動的な大学進学動機の幼弱性が,虚 弱な学習意欲とあいまって,学習モラルの低下(授業 放棄,遅刻,授業中の私語,うつ伏せ居眠り,携帯 メール,内職)をもたらし,その結果として,卒業後 に就職できない学生を大量に生み出すことになってい る。8) 1.大衆大学は就職の予備校か 「大衆大学」の教育目的は,学生が卒業後の進路を 決定できることであり,多くの学生にとっては「就 職」の実現である。その意味で,教育目的は「就職」 に対する強い意志と意欲の形成と,実際の「就職」を 可能とする十分な能力を獲得することである。こうし た意味で,「大衆大学」は「就職の予備校」である。 この場合,「予備校」とは「戦略的に目的を達成する ことができる教育組織」を意味する。 では,こうした「大衆大学」は「専門学校」とどこ が違うのか。「大衆大学」が,「大学」であるための要 件は何か。それが十分に確立していなければ,「大衆 大学」は大学とは名ばかりの,「専門学校」のまがい 物にまで堕してしまう。ここに新しい「大学」の本質 論と「就職」概念の構築が必要になる。「大衆大学」 がその教育目的とする「就職」とは何か。 2.「大衆大学」における「就職」の意味 「就職」(職業)が,その人の人生の「ありよう」 (生活様式)を規定することはよく知られている。人 は職業によって,しばしば人生観をも変えられてしま う。その意味で宮台真司が言うように,「適職という 幻想を捨てる。仕事はただの糧と腹をくくれ」9)は, あまりに短絡であり,学生を愚弄している。人は, 「就職」(職業)によって,四つの効用を得る。①生活 資金,②職業能力の開発・向上,③生きがい,④他者 への貢献(他者の役に立つ喜び)。これらの効用に よって,人は生きる喜び,職業人のプライドを手にす ることが出来る。人がこうしたプライドを持てなくなったとき,社会には犯罪が溢れ,貧富の格差が広が り,社会は混乱状態に陥る。 「大衆大学」に学ぶ学生が,生涯にわたって自己の 生き方を規定する「職業」への精神(エトス)と技能 を身に着けることに成功したとき,大衆(人々)に よって支えられている現代社会は「より良い社会」に 向かって大きく前進するだろう。 3.高校教育と大学教育の関係 大学教育は,高校教育の延長線上にあるとの認識が, 高大接続教育や高大連携教育(リメディアル教育,入 学前教育,出前・出張授業)を生み出す根拠になって いるが,これには賛成できない。なぜならば,高大連 携教育は,大学ともたれ合う高校教育(出前授業と体 験授業はその典型)でしかなく,また高大接続教育は, 大学に従属する高校教育でしかないからである。 こうした短絡的な教育は,高校,大学の双方にとっ て決して有益ではない。高校と大学は,それぞれの教 育目的が違うことの原点に立つならば,こうした高大 接続,高大連携教育がどれほど有害であるかは明白で ある。 また,大学教育が高校教育の延長線上にあるという 認識は,大学入試の在り方を決めてきたが,そうした 大学入試の在り方が,日本の高校教育全般をどれほど 根本からゆがめてきてしまったか。いわゆる「大学受 験のための高校教育」10)の弊害である。「大学受験の ための高校教育」によって,15-18 歳というもっとも 重要な年齢期に,本来身に付けるべき「人間教育」が おざなりにされている。 高校と大学の関係は,私は「高大断絶」,「高大分 離」によって,つまり,「大学から独立した高校教育」, 「高校から独立した大学教育」によって初めて,お互 いがそれぞれの教育目的を十全に果たし得る環境が整 うと確信している。 4.義務教育としての高校教育の確立 近年の高校進学率 95%以上は,明らかに高校教育 が実質的に「義務教育」化していることを意味してい る。そうであるならば,「義務教育としての高校教育」 が,その教育理念はもとより,カリキュラムもまた新 たに構築されなければならないことは言うまでもない。 「義務教育としての高校教育」とは何か。「義務教育 としての高校教育」に関する広範な議論が急がれる。 それは,日本の教育の根幹にかかわる最重要課題であ るだろう。「義務教育としての高校教育」の確立に よってのみ,日本の輝かしい未来を期待することが出 来る。逆に,それなくしては,いかなる大学・高校教 育改革も,小手先だけの,その場しのぎ,問題先送り の解決しか得られはしない。その結果としての日本社 会の荒廃は目に見えている。
Ⅴ.「大衆大学」における初年次教育の在り
方
それぞれの大学独自の初年次教育(高校とは切り離 された)の開発が必要である。この初年次教育は,単 なる高校教育の復習でもなく,いわゆる基礎学力の補 充を意味してはいない。それは,その大学に固有な学 問体系の一環として位置づけられる。例えば,入学か ら四か月間(4,5,6,7 月)を初年次教育学期とし て,特別なカリキュラムを作る。大学全体(学部の垣 根を越えて)として,大学論,人生論,職業論,情報 リテラシー,学びの作法,ボランティア,サークル活 動,アルバイトを教育課題とする。その活動の中で, 夏休み以後に始まる大学学期に備えた強固なモチベー ションと能力を身に付ける。初年次教育学期の運営に は,教養部の設置が不可欠になる。 1.教養部の復活と再構築が急務 日本の大学では,かつてカリキュラムの構成上,学 生は 1・2 年次を教養部に在籍して主に教養科目を履 修し,3・4 年次で学部専門科目を履修するという形 が一般的であった。しかし,1・2 年次での教養科目 内容が高校教育の繰り返しのようだという学生からの 不満,専門科目を 1・2 年次からでも履修したいとい う学生の要望から,教養科目の配当年次が 1 - 4 年次 に広がり,合せて専門科目の 1・2 年次配当がおこな われるようになった。この延長線上で,多くの大学で (当時の文部省の指導もあって),教養部の解体が進め られた。その結果,教養部の教員はその所属先を専門 学部に「分属」される形をとらされたが,このことで, 実に異形な専門学部が生まれ今日に至っている。例え ば,経済学部に純文学研究を専門とする教員が所属す る,あるいは法学部に原子物理学を専門とする教員が 所属する,体育研究の専門家がなぜ経営学部の所属教 員なのかという形容矛盾した事態の出現である。教養 部解体による,こうした教員の専門学部への分属を実 行した当時の大学執行部はこの形容矛盾をどのように 説明していたのであろうか。今となっては知る由もな いが,奇妙なことは,この異形な専門学部教員組織が そのまま変えられることもなく現在に至っている大学が珍しく無いことである。この現実を変えることの問 題意識も情熱も持てない教員は,典型的な「タコつ ぼ」(丸山真男)に入り込んだ「自称研究者」に多い。 2.学生主体の教育11) 「大衆大学」における授業は,学生主体の授業が行 われる。学生主体の授業とは何か。少なくても,教員 の研究成果を得意げに,学生が分かろうが分かるまい がお構いなく一方的に伝達する「教員主体」の授業と は真逆に位置する。具体的には,例えば,一つのテー マについて,最初に教員が問題を提起し,それに対す るクラス全員のリアクション(「受講レポート」によ る)を紹介(問題意識の共有)し,再び,今度は学生 のリアクションを取り入れた別な視点からテーマを再 考,検証する。または,学生による授業を行う。学生 が教員の指導によって授業プランを立て,実際に教壇 に立ち授業を行う。 授業運営に対しても,学生が主体的にかかわる。授 業の教室環境を整えるために,学生が積極的な役割を 果たす。例えば,私語をしている学生がいれば,学生 同士で注意をしあい,居眠りをする学生がいれば,近 くの席にいる学生が肩をたたく。教室の温度の調整, 授業資料の作成,配布なども学生自身が行う(授業運 営ボランティア学生)。学生と教員が協働して授業の 中身と外身を創る。それは,15 回の授業であれば, 回を重ねながら進化していくプロセスにおいて,その 科目による「学生主体の教育」が実行され,そのクラ スに特有なやり方で完成されていく。 3.学生中心の教育 「大衆大学」では,その運営の基本コンセプトは, 「学生中心」である。キャリキュラムの体系は,従来 のディシプリン中心から脱却して,学生一人ひとりを 中心としたカリキュラムが作られる。この大学では, ディシプリン(学問)は学生にとって目的ではなく, 手段に過ぎない。学問はその学生が成長するための肥 やしであって,その意味においてのみ価値を持つ。例 えば,教員は,経済学を学生におしえるのではなく, その経済学が学生にとってどのように有益なのか,有 益ではないのかを教える。学生もまた,経済学の知識 を単に学ぶのではなく,その経済学の知識が自分に とってどのように使えるのかを考える。そうであるな らば,大学教育における教員の学問研究とは何か。そ の在り方が根本から問い直されるはずである。 ところで,学生主体の教育が,このように学生一人 ひとりの問題関心と直接につながっていることから, 個人の問題そのものである「就職」(キャリア教育) が必然的に学生主体の教育論にならざるをえず,その 学生主体の教育論は,そのままキャリア教育論を導き 出す中核的概念であることに気付く。 4.学生中心の教育実践のための授業報告書 本来,大学の正規カリキュラムの中で行われる授業 は,その目的,方法,授業経過,試験問題の狙い,成 績評価,学生による授業評価などが,担当者による総 括・検証分析を含んだ「授業報告書」として作成され なければならない。さらにまた,「授業報告書」とは, 当該科目の次年度に向けた「教材」として,学生に利 用されるべきものである。「授業報告書」が,単なる 報告書で終わる時,その報告書の作成は作成者にとっ ては後ろ向きの苦痛の作業であり,しばしば,偽りの 報告書,報告書のための報告書に堕していく。それ故 に大学における「授業報告書」は,飽くまでも「教材 としての授業報告書」でなければならないと私は強く 確信している。また,大学における「授業報告書」の 作成に当たっては,「授業報告書」がその科目に関す る教育研究を狙う「学術書」としての視点を持つ必要 がある。 つまり,「学術書としての授業報告書」である。こ うした視点があってこそ,その授業が確かに大学で行 われている授業であることの証になる。こうした「授 業報告書」の内容は,Ⅰ部が授業の理念,教育方針, 授業経過,各種のデータ,Ⅱ部が学生による研究・学 習成果の一部,Ⅲ部には学内,学外からの科目関連の 広範なテーマを扱った論考を募る。つまりⅢ部の内容 は,就職,職業,労働に関して,様々な切り口から社 会問題,経済問題,政治問題,文化問題,教育問題が それぞれのテーマで取り上げられることが望ましい。12)
Ⅵ.「大衆大学」とキャリア教育
1.第 3 の教育ジャンル 亜細亜大学において 2002 年度から設置されたキャ リア教育科目の一つに「人生と進路選択」(全学共通 科目,1 年次配当,自由選択科目,半期 2 単位)があ る。13)この科目は 2011 年度で 10 回を終えた。開設当 時には,「人生と進路選択」の科目名から判断して, この科目がどのような学問の範疇に属するものなので あろうかとの疑念が話題になり,また,そのことがこの科目に対する批判の主な論点にもなった。この科目 は従来の伝統的な意味での「教養科目」なのか,「専 門科目」なのか,それとも第 3 の科目群を構成する全 く新しい学問の範疇に属する科目なのか。この科目の 教育目的は,「人生と職業とのかかわりを総合的に理 解することによって,一人一人の学生が自分の将来設 計を描くための基本的なモチベーションと将来への目 的意識を育成・強化し,大学で就学することの意味と 意義を再認識して,アイデンティティの確立(個性の 発見と研鑽)をサポートする」ことを目的としている。 この科目が大学教育における第 3 の新しい学問の範 疇に属する科目で有るためには,今後,何が議論され ていかなければならないか。 2.大学教育改革の切り札 キャリア教育には,学生主体の大学教育を構築する ための要になる理念が包含されている。それは,多く の学生自身の大学教育に対する期待であり,大学進学 の強力な動機の一つになっている。しかし,残念なこ とに我が国の大学教育はその本質論において,こうし た学生の期待,要望に本気で応えようとはしていない。 「大学教育は誰のためにあるのか」。「大学教育は,学 生一人ひとりのためにある」との回答がここでの結論 であるが,この結論の「正当性」に異議を唱える人は 少ないが,それだからといって,彼らがこの結論を大 学教育の本質論として捉えて大学教育の中で実践して いる人は少ない。我が国の大学(教育)改革が,その 掛け声ほどには目に見える成果を上げ得ていない根本 的な理由の一つは,大学の教育カリキュラムの中には 明確に意識された「キャリア教育」への取組みが希薄 であること(「就職に強い大学」作りは大学生き残り のキャッチフレーズとして流行ってはいるが,その多 くは必ずしも大学教育の本質論に根差した教育プログ ラムレベルにおいて志向されているわけではない), それが大学改革を曖昧にして混乱させ,無力なものに している理由の一つであると考えている。 大学におけるキャリアプログラムの開発と実践が, 日本の大学教育の在り方を根本的に変革する突破口に なる。まさに,キャリア教育が大学教育を変えるので ある。 註 1) M ヴェーバー/折原浩訳『社会科学,及び社会政策に関 する客観性の意味』岩波文庫,2009 年。 2) M・ヴェーバーの「理念型」は,現実にはどこにも存在 しないものだが,論理的に矛盾なく構成された概念で, 現実を正確に認識するための分析ツールとして極めて有 効である。 3) いうまでもなく,この二つの大学に関する理念型は,「大 学」university, college を名乗る限りにおいて,大学の存 在意義である「真理の探究」を追求する本質を微塵も失 うものではない。 4) この意味で,開設科目は時には荒唐無稽であってもよい。 むしろ積極的にそうあるべきで,常識にとらわれない, 時代を超えた,人々が一般に想像し得ない研究に基づく カリキュラムであってよい。 5) 拙稿「大学で新たなキャリアをスタートするー初年次教 育」『大学生のためのキャリアガイドブック』(寿山泰二 編著)北大路書房,2009 年。 6) M・ヴェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』岩波 文庫,1980 年(改訳版)。牧野雅彦『学者の職分─マック ス・ウェーバー『職業としての学問』を読む』慧文社, 平成 18 年。 7) 学生による授業評価アンケートは,大学教育改革及び授 業改善の初期的役割をすでに終えている。木野成編著 『大学を変える,学生が変えるー学生 FD ガイドブック』 ナカニシヤ出版,2012 年。 8) この時点(2012 年 2 月 1 日・厚労省・文科省調査)で 79000 人の就職できない大学卒業生,大学の就職内定率 80.5%。 9) 児美川孝一郎編『これが論点! 就職問題』日本図書セ ンター,2012 年。 10) 大学受験科目以外は勉強しない高校生。受験科目に絞っ た高校カリキュラム(振り替え授業の横行)。偏差値教育 の弊害。 11) 学生主体教育論の理念と実践は,宇佐見義尚編『大学教 育を使いこなすーキャリア教育において学生にとって大 学とは何かを考える』亜細亜大学(2011 年)を参照され たし。 12) こうした内容の「授業報告書」が,亜細亜大学のキャリ ア科目「人生と進路選択」に関しては,『大学教育と進路 選択』のタイトルで,第 1-8 巻(2002-2010)が刊行され ている。 13) この科目の総括的論考は,宇佐見義尚責任編集『大学教 育と進路選択』8 号,亜細亜大学,2010 年。及び,拙稿 「キャリア教育で変わる学生と教員─学生中心の教育実践 と理念」『学生・職員と創る大学教育─大学を変える FD と SD の新発想』清水亨・橋本勝編著,ナカニシヤ出版 (2012 年)を参照されたし。