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ウィリアム・モリスの棲家 : 「赤い家」と「ケルムスコット領主館」

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ウィリアム・モリスの棲家

─「赤い家」と「ケルムスコット領主館」

◆はじめに   ウィリアム・モリスのいかにもモリスらしい発言から始めたい。モリスの断章「中世採飾写本に関する若干の考 察」の冒頭部分である。   「芸術」の最重要にしてかつ最も望まれるべき創作は何かと問われれば、私は「美しい家」と答えるだろう。 そ し て、 つ ぎ に 重 要 な か つ 望 ま し い 創 作 を 挙 げ よ と 問 わ れ れ ば、 「 美 し い 書 物 」 と 答 え る だ ろ う。 自 ら を 貶 め ることなく、充足感のうちに良き家と良き書物を享受することこそが、すべての人間社会がいま追求しなけれ ばならぬ喜ばしい目標であるように思えるのである。

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  ウィリアム・モリスの「棲家」といえば、誰しも「赤い家」を真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。それ に続くのが「ケルムスコット領主館」ではなかろうか。過ごした時間に長短はあるけれど、それぞれがこの美術工 芸家が生涯を賭けて愛した住まいであり、創造の場であった。その意味で、両者はモリスの人生の里程標というに ふさわしい。   ロ ン ド ン 北 東 部、 モ リ ス 出 生 の 地、 エ ッ ピ ン グ の 森 に 隣 接 し た ウ ォ ル サ ム ス ト ウ 村 の「 楡 の 家 」 も「 ウ ォ ー ター・ハウス」も、あるいは最晩年住みついたロンドン南西部テムズ河畔のハマスミスの「ケルムスコット・ハウ ス」も、やはり上述二か所の棲家同様に、人間モリスの形成あるいは円熟に資するところすこぶる大であった。た だパブリック・スクールとオックスフォード大学の学生時代、ロンドンを離れて、ウィルトシャーのモールバラと オックスフォードに生活したことがあったが、それは短期間であり、むしろ例外的であった。後半生、染色・織物 工房として稼働させたマートン・アベイにしてもロンドンの南西郊外だった。モリスは終始、ロンドン市内(レッ ド・ ラ イ オ ン・ ス ク エ ア、 ク ウ ィ ー ン・ ス ク エ ア、 タ ー ナ ム・ グ リ ー ン な ど ) あ る い は 近 郊 か ら 離 れ る こ と は な かった。ウィリアム・モリスは終身ロンドンの「 地 ジーニアス・ロウサイ 霊 」の篤い守護の下にあった。   そのことはモリスの生涯とテムズ川の深い結びつきに繋がる。モリスは基本的にはロンドンから離れて生活した ことがなかった、と言えると同じ意味で、彼は基本的にこの川から離れたことはなかった。いかにこの川に愛着を 懐いていたか、そのことは一八七〇年代後半、壁紙・チンツに認められる顕著な特徴である、垂直反転構造と称さ れ る デ ザ イ ン に 反 映 さ れ た。 学 生 時 代 か ら 北 フ ラ ン ス へ 旅 し た り、 後 半 生 に は ア イ ス ラ ン ド へ 思 い 入 れ を 深 く し て、この北国を繰り返し訪れたりもしたが、装飾芸術家モリスの生活と仕事場がテムズの川岸から離れたことは一 度もなかった。

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  本稿は、決して少なくないモリスゆかりの地から、ロンドン東南郊外、ベックスリ・ヒースの「赤い家」とテム ズ 上 流 の「 ケ ル ム ス コ ッ ト 領 主 館 」 を 取 り 上 げ る。 盟 友、 建 築 家 の P.ウ ェ ッ ブ と 最 初 の 協 働 の 成 果 と し て の「 赤 い家」の斬新さ、モリスとその仲間たちの活気あふれる創造の喜び、後のアーツ・アンド・クラフツ運動の素朴な 胎 動 な ど が 看 取 で き る だ ろ う。 一 方、 「 ケ ル ム ス コ ッ ト 領 主 館 」 は「 赤 い 家 」 の 斬 新 さ に 欠 け は し た が、 コ ッ ツ ウ ォ ル ド 地 方 の テ ム ズ 源 流 に 近 い 牧 歌 的 別 天 地 と し て「 赤 い 家 」 を 凌 駕 す る 理 想 郷 と し て 独 自 の 魅 力 を 具 え て い た。   ロセッティもその魅力に抗しきれず、共同賃借を希望した。仕事の都合上、ロンドンに居て、モリスは領主館を 留守にすることが多かったにもかかわらず、ロセッティの希望を聞き入れた。おそらく一通りでない不安があった と思われる。当時、ロセッティは画家としての存在をジェイン一人に賭けていた感がある。領主館がこの二人の芸 術家の理想郷として成立する道理はなかった。モリス不在の領主館、たとえ娘二人が一緒だったといってもジェイ ンとロセッティの共同生活、この不自然な関係が長続きするはずがなかった。早晩、どちらかが身を引くより仕方 がなかったろう。   九 月 上 旬、 二 か 月 の 旅 を 終 え て、 モ リ ス が ア イ ス ラ ン ド か ら 帰 国 し て も、 ロ セ ッ テ ィ は 領 主 館 に 滞 在 し 続 け た。 それをモリスは「居座っている」と受け取った。ロセッティにも同じ滞在の権利があったはずなのだが。結局、借 地権を放棄した(一八七四)のはロセッティだった。しかし、一度傷ついた理想郷は最早原状回復は望むべくもな かっただろう。それかあらぬか、モリス一家は一八七八年一〇月、長いとはいえない七年間で領主館に見切りをつ けて、ロンドン西郊ハマスミスに転居した。断腸の思いだったろう。モリスは転居先を愛惜の情をこめてケルムス コット・ハウスと名付け、終の棲家とした。

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  「 赤 い 家 」 か ら「 ケ ル ム ス コ ッ ト 領 主 館 」 へ、 さ ら に「 ケ ル ム ス コ ッ ト・ ハ ウ ス 」 に 至 る 一 〇 数 年 の 歳 月、 そ れ はいかにもウィリアム・モリスならではの充足の時間でありながら、同時に波乱と鬱屈の痛々しいまでのモリスの 時 間 で も あ っ た。 順 調 な 滑 り 出 し を 見 せ な が ら、 モ リ ス・ マ ー シ ャ ル・ フ ォ ー ク ナ ー 商 会 を 襲 っ た 改 組 と い う 難 題、 妻 ジ ェ イ ン の 画 家 ロ セ ッ テ ィ と の 親 密 な 関 係( 一 八 七 五 年 ま で 続 い た )。 こ の 不 条 理 に 際 会 し て、 モ リ ス は ど う身を処したか。傍目にも苛立たしいまでに無策だった。初めて手掛けた渾身の作、彩飾手稿本『詩の本』をバー ン=ジョーンズ夫人の誕生日に贈るモリス。そればかりか、もう一人のコンフィダントであるアグレイア・コロー ニオに寂寥を吐露しづけたモリス─それしもモリス流儀の対処であったのか、どうか。   本 稿 は、 そ ん な 錯 雑 す る ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス を 次 の ふ た つ の 表 題 の も と に 跡 づ け る も の で あ る。 ( 数 字 は ペ ー ジ を示す) 「赤い家」……“家というより一篇の詩だ” ・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 4 「ケルムスコット領主館」……“太古の安らぎを秘めた最高の隠れ家” ・ ・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 22 ◆「赤い家」─“家というより一篇の詩だ”─   「 赤 い 家 」 は ロ ン ド ン 東 郊 外 ベ ッ ク ス リ ー ヒ ー ス に 残 る、 美 術 工 芸 家 ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス が 手 掛 け た い か に も モ リスの流儀にあふれた魅力的な住まいである。ウィリアム・モリスはここに一八五九年から六五年まで住んだ。短 い期間だったが、ジェイン・バーデンとの新生活、すばらしい仲間との多くの出会い、青年期の夢を託した商会の 設立など、モリスの生涯をさまざまに予示する舞台となった。

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  住 ま い の 新 築 を モ リ ス に 思 い 立 た せ た の は、 ご く 平 凡 に 結 婚 を 控 え て の 新 居 の 算 段 だ っ た ろ う。 「 平 凡 な 算 段 」 だ っ た が、 「 非 凡 な 結 果 」 を 招 来 し た。 ウ ィ リ ア ム 青 年 は 二 五 歳、 一 八 五 九 年 四 月 二 六 日、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド の セ ント・マイケル教会でジェイン・バーデンと結婚式を挙げた。ラファエル前派を代表する、自他ともに認める「ス タナー」 、ジェイン・バーデンをロセッティとともに発見したのは二年前、オックスフォードの劇場であった。   新婚の二人は六週間の大陸旅行に出る。モリスお気に入りのパリ、ベルギー、ラインラントへの旅であった。帰 国後、 「赤い家」の完成する一八六〇年六月まで、フィリップ ・ ウェッブの建築事務所のあるロンドン、グレート ・ オーモンド・ストリートの家具付きの借家に仮住まいした。   モリスは、新婚旅行から帰ると、新居のための土地探しを精力的に行う。新居は中世趣向に適い、自然豊かな場 所でなければならなかった。そればかりか、室内装飾についても、ウェッブの協力を得ながら自在に用意しなけれ ば な ら な か っ た。 マ ッ ケ イ ル の 言 を ま つ ま で も な く、 「 そ れ は モ リ ス で あ る こ と を 証 す る 住 ま い で な け れ ば な ら な かった 」 (1 ( モリスは前年の夏、フォークナー、ウェッブと北フランスを再訪の途中、新居の相談をすでにウェッブに 持ちかけていた。相談はすぐに正式な依頼にまで進展したと思われる。何故なら、ウェッブはストリートの建築事 務所を辞め、自分の事務所を構え独立したからである。モリスは「赤い家」の建築を住宅と装飾芸術との融合の試 金石と捉えただろう。おそらく、この時初めて総合芸術家としての建築家であることを強烈に意識しただろう。た と え こ の 時 の モ リ ス が 画 家 へ の 転 身 を 公 言 し て い た と し て も で あ る。 建 築 家 モ リ ス は た っ た 一 軒 の 家 し か 建 て な かったけれど、その一軒が「赤い家」であり、生涯モリスは「建築家」であることをやめなかった。   「 赤 い 家 」 の 建 築 に モ リ ス は 野 心 的 に 立 ち 向 か う。 既 存 の デ ザ イ ナ ー に 家 具 調 度 を 発 注 す る つ も り は 毛 頭 な か っ た。一八五六年の夏の終わり頃、バーン=ジョーンズとともに借りたロンドンのレッド・ライオン・スクエア一七

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番の部屋のために創意をこめた椅子、テーブルなどの家具その他を自前で準備した達成感がまだ生々しかった。そ の時の歓びを他人に手渡してしまうことなど論外だった。   実見、そして選ばれたのが、穏やかな表情の牧草地と果樹園(とくに林檎の木)に恵まれたケント州アプトン村 のベックスリーヒースだった。そこはロンドンから南東へ一〇マイル、最寄りの駅アビ・ウッドから三マイルの田 園だった。今でこそロンドン南東部に接続する住宅地であるが、当時はまだ英国の典型的な田園風景が台地状に広 がる田舎だった。旧ローマ街道ウォトリング・ストリートがその台地を縦断してドーヴァーに通じていた。モリス にはチョーサーのカンタベリ巡礼路が走る土地柄であることも魅力だったはずである。   結婚の翌年一八六〇年六月、ベックスリーヒースに林檎と桜桃に囲まれた「赤い家」が完成する。クレイ川とダ レンス川の低地が見晴らせる開けた風景と果樹園がモリスの想像力を捉えた。ウェッブの設計は、図 1(九頁)で わかるように、二階建L字型の赤煉瓦作りだった。北側翼部と西側翼部がL字を形作り、両者が出会う出隅部分の 内側角に階段が設けられて、ここを両翼部の結節点として東と南の二方向に廊下がのびる造作である。   敷 地 の 北 側 に 沿 う レ ッ ド・ ハ ウ ス・ レ イ ン か ら、 鉄 製 の 蝶 番 が 装 飾 的 な オ ー ク 材 の 白 く 塗 ら れ た 門 を 入 る と、 ゆったりした感じの玄関の前に立つ。玄関ホールに入ると、階段が目の前で、左が応接間と来客用寝室に、右が食 堂に通じる。廊下は南側と東側に設けられているから、応接間も食堂も通常予想される明るい日差しのある配置に 合致しない。厨房とそれに付属する食料・食器貯蔵室などが西側翼部を構成する。   二階も一階の間取りの上に乗っかった格好だから、食堂の上の客間もやはり北西隅にある。二階の両翼部を占め るのは、客間のほかに書斎、主寝室、子供部屋など数室だが、いずれも階下と同様、南東からの明るい日差しは期 待 で き な い。 F. マ ッ カ ー シ も「 間 取 り は 当 時 と し て は 風 変 わ り だ っ た。 主 居 間、 ア ト リ エ、 客 間 そ れ に 寝 室 を 加

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えた部屋が二階に、広い玄関ホール、食堂、書斎、モーニング・ルーム、それに厨房が一階にあった。厨房は例外 的にゆったりした場所で、前庭に面した窓付きの明るい感じのよい部屋だった 」 (2 ( と解説する。使用人には家中でい ちばん日当たりのよい、二階の南側部分をあてがった。そして「モリスとウェッブは、さすが社会主義者の卵だけ あって、使用人には優しい例外的な条件を準備した」と言うが、確かに家中で一番日当たりが良い部分だった。   こうした型破りな間取りは、設計者の無能がもたらしたとは考えられないが、ただ設計者の未熟とする考えがな いわけではない。まさか建築依頼主モリスが設計者ウェッブをいくら信頼していたからといって、設計を丸投げし た と は 考 え ら れ な い。 い ず れ の 資 料 も 異 口 同 音 に 二 人 が 稀 に み る 共 同 作 業 を 展 開 し た こ と を 指 摘 す る か ら で あ る。 仮にウェッブの独走・独断の結果だったとしたら、モリスはその性分から激怒し、絶交さえ意に介さなかっただろ う。逆に二人の友情は一八六一年四月のモリス・マーシャル・フォークナー商会の設立、その後の商会の活動を通 じて一層深まりはすれ、損なわれることはついになかった。   では、合点のいかない間取りは(日本では「南側の日当たり」にこだわり過ぎるのかもしれない。そう、イギリ ス 人 が こ だ わ る の は な に よ り も 暖 炉 で あ る )、 ど う し て 現 実 の も の と な っ た の か。 指 摘 が あ る よ う に、 い く ら 暑 さ を 苦 手 に し た モ リ ス だ っ た と は い え、 寒 く て 薄 暗 い 部 屋 を 所 望 し た と は 考 え ら れ な い。 「 敷 地 と し て 制 約 が あ っ た 訳ではないのだから、こうした間取りはウェッブの経験不足のせいにしていいかもしれない。あるいは昔から南向 きは健康によくないという信仰があったから、モリスが必要以上に北向きにこだわったのかもしれない 」 (3 ( という考 えは一理あるだろうが、それとてもやはり説得力に欠けると言わざるをえない。   こ の 使 い 勝 手 の 悪 さ に つ い て、 W.ゴ ー ン ト は 一 つ の 卓 見 と も い う べ き 評 言 を 記 し た。 モ リ ス は い わ ば「 夢 食 い 人」であったから、例えば、商会を設立して日常品を作ることにあれほど腐心しながら、夢を紡いで拵えられた商

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品 は、 「 い っ た ん 出 来 上 が っ て し ま え ば、 そ れ が 実 用 的 か ど う か は も う ど う で も よ か っ た 」、 「 大 切 な の は 製 品 よ り 夢 で あ り、 物 質 に 対 す る 想 像 力 の 勝 利 が 手 放 せ な か っ た 」。 「『 僕 だ け の 芸 術 の 小 殿 堂 』 で あ っ た『 赤 い 家 』 は そ う し た こ と の 最 初 の 実 例 で あ っ た。 『 神 憑 り の 居 心 地 の 悪 さ 』、 『 神 々 し い ま で の 居 心 地 の 悪 さ 』 が 滞 在 客 の 口 か ら 洩 れ た“ 賛 辞 ” だ っ た 」 (4 ( 。 一 八 五 九 年 の 雨 の 少 な い 暑 い 夏 の 普 請 だ っ た の で、 冬 場 の 対 策 な ど モ リ ス に も ウ ェ ッ ブ に もまるで念頭になかった、という。   『 赤 い 家 』 の 設 計 は「 剥 き 出 し の 台 地 に む か っ て 北 向 き に 建 て ら れ た。 そ れ ば か り か、 窓 か ら は 中 世 の 光 が、 そ れもわずかばかりの光が差し込むだけだった。寒く、暗く、日常生活には不便な建物であったが、こんな欠陥住宅 も モ リ ス に は こ れ っ ぽ っ ち も 苦 に な ら な か っ た。 『 赤 い 家 』 は あ ら ゆ る 点 で 完 璧 だ っ た 」 こ と に よ る と、 ジ ェ イ ン は不平・不満を言ったかもしれない。それでも「完璧だった」のは絵付き家具などを日光から守ることができる設 計が実現した満足感があったからに相違ない。そればかりか、庭の植木のための日当りにも配慮した挙句の間取り だったとも考えられるのである。   「赤い家」の外観について。   このよく知られた住居について、わが国でも一九一一年(明治四四年)英国留学から帰国した陶芸家、富本憲吉 によって、一九一二年『美術新報』誌上に「ウィリアム・モリスの話」と題して次のように紹介された。 「赤い家」 に関するわが国初の文献である 。 (5 (   赤煉瓦を美術的な見地から住宅建築に応用した最初の例として最も貴重なものと考へます。絵の様な複雑な

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形の組合せをやった此の建物のエレベエションが当時一般に使はれて居りました拙悪な四角いマッチ箱の様な ものに比べて、非常に立派な別段な面白みがあるものと言わねばなりません。誰れもコウ言ふ事を心付かぬ時 代 に、 只 美 し い 良 い も の を 造 る と 言 ふ だ け の 目 的 だ け を 見 あ て に 今 迄 の 悪 い 習 慣 を 打 ち 破 っ て や っ た 勇 気 と、 自分を信用して居た点だけでも実に感服の外ありません。   作 り 手 に 信 頼 を 寄 せ る 文 章 で あ る。 富 本 が 指 摘 し た「 四 角 い マ ッ チ 箱 の 様 な 」、 実 利 主 義 の 時 代 に 多 数 設 計 さ れ た 功 利 的 箱 型 の 建 物 を、 モ リ ス 本 人 も 槍 玉 に 上 げ、 「 な ん と も 胸 糞 悪 い 醜 悪 な 古 典 的 建 築 の 模 倣 で あ る 衒 い の 多 い 建 物 」 (6 ( と 非 難 し た。 富 本 は 続 け る。 「 大 き い 重 い 瓦 の 屋 根、 赤 煉 瓦 の 厚 う 見 え る 壁、 四 角 い 窓、 低 い 大 き い 出 入 口、 大 き い 重 い 戸、 等 を 使 っ た 家 が、 古 い 果 樹 や 種 々 な 草 花 を う ま く 取 り 合 は し た 庭 に 囲 ま れ て ド ッ シ リ と 建 っ て 居 る。先づ見た処一幅の良い絵の前に立った時と同じ様に整った、バランスの取れた感じをあたえる」   赤煉瓦によるシンメトリを排した造形的な面白味のある特徴的な急傾斜の屋根はだれもが指摘する外観の魅力で ある。茶褐色のスレート葺き屋根、階段を暗示する縦長の窓、屋根に突き出た高い風見、そこにW・Mの頭文字と モ リ ス 家 の 紋 章 の 馬 首 が 唯 一 の 装 飾 と し て 取 り 付 け ら れ た。 簡 素 な 赤 煉 瓦 の 使 用、 堅 固・ 明 快 な 構 造、 「 赤 い 家 」 はこれみよがしな装飾とはまったく無縁である。   A.ヴ ァ ラ ン ス は、 一 八 六 三 年 に「 赤 い 家 」 を 訪 れ て、 「 驚 き と 喜 び 」 の 手 記 を 残 し た。 「 濃 い 赤 い 色、 急 傾 斜 の 瓦タイルの屋根、小ガラス張りの窓、幅広の低い玄関、どっしりした扉、スイートブライアと野ばらの生垣に囲ま れた庭はいくつもの区画に仕切られて、それぞれにさまざまな花が植えられていた。……なにもかもが生き生きと し て 絵 の よ う に 美 し く 際 立 っ て 独 創 的 だ っ た 」 (7 ( 「 絵 の よ う に 美 し く、 不 規 則 な 構 成 を も つ 赤 い 家 は、 当 時 国 中 ど こ

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1  「赤い家」平面図 玄関ポーチ 玄関 ホール 応接間 ( モーニング ルーム) 寝 室 (来客用) ガーデン・ ポーチ 通 廊 通 廊 書 斎 食 堂 収納(食料) 収納(食料) 厨 房 食器置場 S N E W 使用人部屋 寝 室 寝 室 主寝室 化粧室 客 間 井戸 地下ワイン 貯蔵室へ 1 階 2 階

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にも見られたと思われる醜悪な四角い箱型の建物にまじって、際立つ存在だった。その頃としては大胆な革新だっ た。……世のしきたりという暴君に抵抗することを可能にする不屈の意志と夢の両者を兼ね備えていた一人の人間 の実験として、 『赤い家』が住宅建築に新時代を開いた名誉はウィリアム・モリスのものである 」 (8 ( と賛辞を呈した。   一方、 「赤い家」の独創性を否定するわけではないが、 J.リンジは、ピュージンによるバーミンガム主教邸を一 例としながら、先行した事例は多数存在すると言う。ジョージ・ストリートやウィリアム・バターフィールドが手 掛 け た 都 会 お よ び 田 舎 の 牧 師 館 は ピ ュ ー ジ ン の 世 俗 建 築 の 引 き 写 し で あ り、 「 赤 い 家 」 は、 そ の 赤 煉 瓦 と い い 煉 瓦 のアーチ通廊といい階段部分の明かり窓といい、多くが上記建築家たちを下敷きにしたと見做すことができると指 摘 し た 。 (9 ( そ の 上 で、 「 赤 い 家 」 の 全 体 を 独 自 の 魅 力 あ る マ ッ ス に ま と め 上 げ た 功 績 は あ く ま で 設 計 者 ウ ェ ッ ブ の 手 柄であると評価を惜しまなかった。そして、完成当初は格別注目されなかったが、美術工芸家としてのモリスの名 が高まるにつれて、ようやく近代建築におけるモリスの役割が認識されるにいたったとも言う。公平・自在な所見 で あ る。 た ぶ ん、 J.リ ン ジ の 言 い た か っ た こ と は、 外 観 も さ る こ と な が ら、 「 赤 い 家 」 は 全 体 と し て 意 外 と 均 衡 の とれた、落ち着いた雰囲気の建物である、ということではなかったか。   ま た、 F. マ ッ カ ー シ も 同 じ よ う に、 ス ト リ ー ト や バ タ ー フ ィ ー ル ド に よ る 学 校 や 牧 師 館 の 先 例( 赤 煉 瓦 の 使 用 も 含 め て ) を 指 摘 し な が ら、 「 赤 い 家 」 は 前 者 の 影 響 を 受 け た 教 会 建 築 と い っ て も い い く ら い だ と 述 べ な が ら、 す ぐ続けて「だが、ウェッブはおそらくヴィクトリア朝のどの建築家よりも建築に憑かれた、独創的な建築家であっ ただろう。そして、今回の依頼に際して、多年の地道な研鑽の成果と英国中世に寄せるその並々ならぬ情熱を注ぎ 込んだのだ 」 (10 ( と付け加えて、リンジーと相通じる所見を記した。多数の先行例があったとしても、それがウェッブ

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の業績を必ずしも貶めるものではなく、先人の達成の上に「赤い家」の成功があったとしても、むしろ喜ばしいこ とではなかったか。   中世僧院風の「赤い家」はどっしりした頼りがいのある、訪ねる者に一度住んで見たいと思わせる、そんな親し みを感じさせる住まいである。印象として強く心に刻まれるのは、モリスの構想が達成した調和ある心地よい住ま いの雰囲気である。滋味ある統一感こそがこの建築物のなによりの美点である。ジョージアーナは、たぶんそのこ と を ふ く め て、 「 大 き な 屋 敷 で は な か っ た が、 建 物 の 目 的 と 広 さ が 設 計 上 巧 み に 勘 案 さ れ、 そ れ 相 当 な 要 求 の す べ て に 適 い、 家 中 た っ ぷ り し た 余 裕 が あ る と い う 印 象 の 住 ま い で あ る 」 (11 ( と 好 感 を 寄 せ た。 ( 現 在 は ナ シ ョ ナ ル・ ト ラ ストが管理、一般公開されている) 。 (12 (   次に「赤い家」の室内装飾について。   外 観 と 同 様 野 心 的 で あ る。 モ リ ス の 壁 紙 は 一 八 六 四 年 が 最 初 だ っ た か ら、 装 飾 に は 絵 画 お よ び 壁 掛 け を 多 用 し た。壁とドアと天井はいうまでもなく、収納戸棚などの家具までも室内装飾の対象とし、しばしば中世物語に題材 を求めた。なかでも二階の客間は「イギリスでもっとも美しい部屋 」 (13 ( に仕上げる計画を立てた。新婚の二人のため に、ロセッティやバーン=ジョーンズ、ウェッブはいうまでもなく、ジェインの妹エリザベス・バーデンやリジー をふくめた多くの仲間がそれぞれ好みの題材による絵付き調度を祝品として贈った。モリス本人によるすばらしい 出来栄えの板絵をもつ収納戸棚もある。それらの保全、ことに板絵の保全を考えると、直射日光は避けなければな らなかった。身近なところにあって日常を美化する意図に適う板絵こそ優先して保護し、そのための多少の犠牲は 厭わなかった。日光が強敵であるのは、オックスフォードでの壁画制作(一八五七年、ロセッティ主導で行なわれ

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た大学学生会館討議場の共同壁画制作)でいやと言うほど知らされていたからである。モリスは住み心地より美を 優先させたのだ。   二階の客間はモリスの個性的な空間として評価が高い。客間へ通じる廊下は南に面して明るい。ステンドグラス の丸窓と装飾模様が描かれた天井をもつ廊下が「世界一美しい」客間に通じる。屋根の急勾配と構造が剥き出しの 客間は、天井が高く、納屋を連想させる造りで広くゆったりとした空間である。モリスがケルムスコットに近いグ レート・コックスウェルの巨大な納屋を「大聖堂のように美しい」と絶賛したことを思い出す。   異 彩 を 放 つ の は、 ウ ェ ッ ブ 設 計 の 大 型 の 暖 炉 と と も に、 レ ッ ド・ ラ イ オ ン・ ス ク エ ア か ら わ ざ わ ざ 運 ん で 来 た、 モリスとウェッブの共同製作による独創的な家具だった。通常セトルと呼ばれる戸棚を兼備した大型の長椅子(幅 約二メートル半)である。普通、セトルは椅子の下部が物入れになっているのが特徴だが、現在、そこには暖房機 が嵌め込まれているなど、かなり手が加えられている。三つに仕切られた戸棚の扉には、ロセッティによってダン テとベアトリーチェを題材にした三点の油彩が描かれたが、いずれも三年後の一八六三年夏までには取り外されて しまった。内一点《ダンテの愛》 (一八六〇)は現在テート・ブリテンが所蔵する。   この大型長椅子の独創の真骨頂は、上部に手摺りを加え、左側面に取りつけられた梯子で上れるように工夫され た 一 種 の 桟 敷 席 を 特 設 し た こ と で あ る。 ク リ ス マ ス な ど に 聖 歌 を 仲 間 と 歌 う こ と を 考 え て い た ら し い。 ジ ョ ー ジ アーナはこの桟敷席を「吟遊楽人の席」と呼んだ 。 (14 ( こうした一連の発想は、言うまでもなく、中世の封建領主の館 に特徴的だった大広間の造りに倣ったものと考えられる。   一 般 に 領 主 館 は 大 広 間 中 心 の 間 取 り で、 広 間 の 一 端 に 出 入 口 が、 そ れ と 相 対 し て 床 面 よ り 二、 三 段 高 い デ イ ス と 呼 ば れ る 舞 台 が 設 け ら れ る の が 定 石 で あ る。 こ の 舞 台 は 一 家 の 主 人 お よ び そ れ に 次 ぐ 上 位 の 者 や 客 人 な ど の 食 事・

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宴会の際の上席であり、そこにおかれる頑固な食卓はハイテーブルと称された。読者の中には、創設が中世に遡る オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 の 学 寮 の い ま な お 続 く 食 事 風 景 を 想 起 す る 方 も 多 い だ ろ う。 ハ イ テ ー ブ ル に 席 を と る 貴 人・ 賓客に対面して、通常、出入り口の上部に楽師などのために桟敷席が、さながらオーケストラ・ボックスのように 設けられた。 「赤い家」の客間はこうした中世の構造を遊び心も豊かに反映した造作だった。   客 間 は、 七 点 の テ ン ペ ラ 画 に よ っ て 壁 面 を 帯 状 に ぐ る り と 囲 む 構 想 だ っ た が、 結 局、 仕 上 が っ た の は バ ー ン = ジ ョ ー ン ズ が 一 八 六 〇 年 夏「 赤 い 家 」 に 滞 在 中 に 描 い た 三 点 だ け、 英 国 中 世 の ロ マ ン ス の 主 人 公 サ ー・ デ グ ラ ヴ ォ ー ン ト を 主 題 に し た《 結 婚 》、 《 結 婚 の 行 列 》、 《 婚 礼 の 祝 宴 》 だ け だ っ た。 《 婚 礼 の 祝 宴 》 に 描 か れ た 騎 士 と 花 嫁はモリスとジェインがモデルである。   玄関ホールに備えられた大型彩色キャビネットに設けられた幅広の二枚の扉には一枚絵としてモリスが手掛けた が、未完のまま終わった。 「物語は語られていないが、人物から人物へとリズムが続き、 『赤い家』の理想である喜 び に あ ふ れ る 庭 園 を 表 現 し た 扉 絵 で あ る。 …… こ の 地 上 の 楽 園 で あ る 囲 ま れ た 庭 で、 九 人 の 男 女 が 楽 を 奏 し、 歌 い、 踊 る。 庭 の 向 こ う の 家 々 は 樹 に 覆 わ れ て い る。 こ の テ ー マ は マ ロ リ ー か ら 示 唆 を 受 け て い る 」 (15 ( と ウ ィ リ ア ム・ モリス協会会長だったレイモンド・ワトキンソンは解説する。   バーン=ジョーンズはチョーサーの『カンタベリ物語』の「女修道院長の物語」に拠る一場面を描いた絵付け衣 裳箪笥をジェインに贈った。ジェインを処女マリアとして描いたこの家具は彼女の寝室に置かれた。リジーはジェ インのために木製の宝石箱に宮廷場面を描いて結婚の祝品とした。ジェインの妹エリザベス・バーデンは姉のため に、 モ リ ス が チ ョ ー サ ー の『 善 女 列 伝 』 に 拠 っ て デ ザ イ ン し た 客 間 用 の 刺 繍 パ ネ ル の 完 成 に 協 力 し て 実 績 を 残 し た。ウェッブは設計者として建物全体をはじめ家具調度、ステンドグラスなど実に広範にして確実な仕事を成し遂

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図 2 「赤い家」井戸屋がある中庭と南東側面 ―諸特徴が文字通り一目瞭然。

図 3  「赤い家」西側面 ―暖炉の煙突の存在感。こんなところにも寄贈者の名

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げた。一階の廊下のための、小動物や小鳥を図柄にしたステンドガラスと銅製の燭台一対を、そして子供部屋用に 黄 色 を 基 調 と し た 向 日 葵 と 鳥 の ス テ ン ド グ ラ ス を デ ザ イ ン し た。 数 点 の テ ー ブ ル・ グ ラ ス の デ ザ イ ン も 手 掛 け た。 マ ッ ケ イ ル の 言 う と お り、 「 椅 子、 テ ー ブ ル、 あ る い は 寝 台、 壁 に 掛 け る 布 あ る い は 紙、 暖 炉 や 廊 下 の 縁 取 り タ イ ル、 カ ー テ ン、 燭 台、 葡 萄 酒 を 容 れ る 広 口 の 容 器、 葡 萄 酒 用 の グ ラ ス な ど、 ど れ ひ と つ を と っ て も、 当 代 流 行 の 品々の無味乾燥な醜悪さから逃れようとすれば、改めて一から作り直さないで済むものはなにひとつなかった 」 (16 ( の である。   次は庭について。   「 広 く て も 狭 く て も、 庭 は 秩 序 が あ っ て 豊 か で な け れ ば な ら な い。 外 の 世 界 か ら し っ か り 隔 て ら れ て い な く て は ならない。自然の気まぐれをあるいは荒々しさを模倣してはならないが、家の近くにあるなら別だが、眺める対象 とすべきではない。もっと言えば、家の一部であると思えるようでなければならない。そう考えると、個人的な歓 びの庭はそう大きくあってはならない」とは一八七九年モリスが行った講演「最善を尽くすこと」における発言で あるが、モリスは庭を生活から切り離せない親しい空間としてイメージを喚起する場所でなければならないと考え ていた。刈り込まれた古いイチイの生垣が仕切る庭は衒いがなく心地よく、家の一部であるように思えること、せ めて家の衣服であると思えることが肝要と信じていた。   庭は「部屋」の延長・連続に等しく、生垣や編垣や樹木がプライヴァシを守る壁の役割を果たし、真っすぐな小 道や縁取りの花壇が調度となり、溢れかえる花々が室内装飾の役を果たすという。庭を住まいに近づけるというこ の発想はモリスの次の住まい、ケルムスコット領主館にも確実に受け継がれた。

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  こうした住いと庭の統合関係を、 F.マッカーシは「 『赤い家』の庭は文字どおり建物の中に流れ込んでいる 」 (17 ( と 表現して、モリスにおける庭と建物との一体感を指摘した。この思想がイギリスの庭園設計に新しい動きをもたら し た と も 言 う。 具 体 的 に、 例 え ば、 因 襲 打 破 の ウ ィ リ ア ム・ ロ ビ ン ス ン 著『 イ ギ リ ス の 花 の 庭 』( 一 八 八 三 ) や 独 創 的 な 造 園 師 J. D.セ デ ィ ン グ 著『 造 園、 今 と 昔 』( 一 八 九 一 ) な ど を 名 指 し し な が ら、 「 ひ ょ っ と し た ら モ リ ス の 庭 は 家 よ り 大 き な 影 響 力 を 持 っ た の で は な か ろ う か 」 と 述 べ た。 ま た、 も し モ リ ス が い な け れ ば、 ガ ー ト ル ー ド・ジェキルは存在しなかっただろうとも述べた。 『薔薇とイギリスの庭』 (一九〇二)の著者であるジェキルはサ リー州生まれ、モリスより九歳年下で、ラスキンの思想を逞しく造形化するモリスに傾倒したモリスの信奉者のひ と り だ っ た。 彼 女 は 造 園、 デ ザ イ ン、 刺 繍、 織 物 な ど を 手 掛 け た が、 自 然 に 対 す る 感 性 と 畏 敬 は モ リ ス に 共 通 す る。一八六九年クイーン ・ スクエアでウィリアム・モリスに実際に会っている。   F.マ ッ カ ー シ に「 流 れ 込 ん で い る 」 と 言 わ せ た の は、 お そ ら く 北 翼 部 の 東 端 に 設 け ら れ た 中 庭 へ の 出 入 口 部 分 であろう。そこにはどっしりした赤塗りのテーブルと壁に沿って腰掛けが用意され、中世僧院の井戸のある中庭と 薔薇がからんだ格子垣を眺めることができた。それは、たんなる出入口ではなく、立派な「ガーデン・ルーム」と いってよい独自の空間だった。天気さえよければ、イギリス人が大好きな日光浴を楽しむことができただろう。   中 庭 は 北 側 と 西 側 が 建 物 に よ っ て 囲 ま れ、 南 と 東 に 向 か っ て 開 い て い る。 植 物 に は 理 想 的 な 庭 で あ る。 「 多 く の 花を咲かせる蔓植物が建物の壁面に絡んで、早くから植え込まれていたせいだろう、植えたばかりという生硬な感 じはなかった 」 (18 ( 、と細やかな視線を注いだのはジョージアーナ。   「 赤 い 家 」 の シ ン ボ ル・ マ ー ク が、 中 庭 に し つ ら え ら れ た 中 世 の 僧 院 を 意 識 し た 井 戸 屋 で あ る。 む ろ ん、 ウ ェ ッ ブの設計で、L字型平面図上の焦点として入念に計算された位置に設けられた。それは茶褐色の円錐形の屋根をも

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つ。 こ れ を「 巨 き な 蝋 燭 消 し 」 (19 ( に 譬 え た の は F.マ ッ カ ー シ で あ る。 「 女 魔 法 使 い の 帽 子 み た い だ 」 (20 ( と 言 っ た の は E. メ イ ネ ル だ っ た。 建 物 と 一 体 を な す 形 で、 中 庭 は 薔 薇 の 格 子 垣 に よ っ て 外 界 か ら 隔 て ら れ、 中 世 の 僧 院 の 空 気 が濃い。マッケイルは「夏至の頃には百合、秋には向日葵、色々な花が咲き乱れる庭は、薔薇が絡んだ格子垣がめ ぐらされて、庭は建物とともに当時としては、きわめて斬新な作りだった。建物は果樹園の木をほとんど一本も切 らずにすむように設計され、暑い秋の夜に窓を開けておくと、林檎が家の中に落ちて来た 」 (21 ( と、自然に優しいモリ スの庭の勘所を見事に捕らえた。やがて、庭を飾ったたくさんの花々は庭木とともに壁紙デザイン発想の重要な手 掛かりとなる。   モリス自身は、ショイ宛て書簡(一八八三年九月五日付)で「中世精神の旺溢した家」と言及した。ロセッティ はチャールズ・エリオット・ノートンへの手紙(一八六二年一月九日付)で「金持ちのモリスがケントに建てた自 邸をぜひ君に見てほしいな。あらゆる点でこの上なく高貴な作品、家というより一篇の詩だ。どう知恵を絞っても 思いつかない程の建物で、住むとしても惚れ惚れする家だ 」 (22 ( と絶賛した。また別に友人のウィリアム・アリンガム に は「 君、 現 代 の 紛 れ も な い 奇 跡 を 見 て お か な い と ね、 そ の ト プ シ の 家 を さ。 ど う 説 明 し た っ て お っ つ か な い の だ 」 (23 ( とも書いた。そのアリンガムは「赤い家」を訪問して(一八六四年七月) 、日記にこんなふうに綴った、 「ロン ドン・ブリッジ駅まで蒸気船で、あと汽車でプランステッドへ。少し道に迷ったが、やっと薔薇の植え込みの中に 『赤い家』を見つける。ウィリアム・モリスと独特な黒髪の女王様のような奥方の姿があった」 。また七月一八日に は、 「 月 曜 日、 午 前 七 時 半『 赤 い 家 』 で。 薔 薇 の 格 子 垣。 目 を き ら き ら さ せ た 巻 き 毛 の お つ む の ジ ェ ニ ー と メ イ ……仏頂面の呑気屋の大柄の靴姿のW. M. 」とも。

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  「 赤 い 家 」 は す ぐ に ロ セ ッ テ ィ、 バ ー ン = ジ ョ ー ン ズ ら 仲 間 の 社 交 の 場 と な っ た。 「 赤 い 家 」 の 完 成 一 カ 月 前 の 一八六〇年五月、ロセッティは、六年越しの交際の後、南英ヘイスティングズでようやくエリザベス・シダルと結 婚 式 を 挙 げ た。 シ ダ ル は 恋 人 の 神 経 質 な、 時 に は 不 条 理 と も 思 え る 長 い 婚 約 関 係 が も と で 著 し く 精 神 を 病 ん で い た。シダルの死は結婚から二年も経たない六二年二月だった。ロセッティの結婚の翌月、バーン=ジョーンズがマ ン チ ェ ス タ ー で ジ ョ ー ジ ア ー ナ と 結 婚 式 を 挙 げ た。 二 組 の 新 婚 夫 婦 を は じ め、 フ ォ ー ド・ マ ド ッ ク ス・ ブ ラ ウ ン、 コーメル・プライス、フィリップ・ウェッブ、チャールズ・フォークナー、ウィリアム・アリンガムなど入れ替わ り立ち替わり「赤い家」を訪れた。バーン=ジョーンズ夫妻は秋口まで客人となった。モリスにとって生涯で最も 幸 せ な、 「 完 璧 と い っ て い い 充 実 」 (24 ( の 時 が、 わ ず か 五 年 間 で あ っ た が、 訪 れ る。 「 英 国 一 の 美 し い 」 客 間 の あ る、 「 一 篇 の 詩 」 に も 譬 え ら れ る「 赤 い 家 」 に 仲 間 が 会 し て 陽 気 で 幸 福 で な い は ず が な か っ た。 し か も 仲 間 た ち そ れ ぞ れがモリス夫妻への贈り物とした多数の祝品が、玄関にも客間にも食堂にもアトリエにも廊下にも、家中にあった のだから。みんなで作り上げた家、という強い連帯感と高揚感があった。   「 赤い家」の滞在をジョージアーナは次のように記録した 。 (25 (   訪 問 は 当 時 ま だ 田 舎 だ っ た ア ビ・ ウ ッ ド 駅 に 到 着 す る こ と か ら 始 ま っ た。 プ ッ ラ ト フ ォ ー ム に 降 り 立 つ と、 甘 美 な 香 り に み ち た 清 々 し い 空 気 が 出 迎 え て く れ た。 「 赤 い 家 」 か ら 使 い に 出 さ れ た ワ ゴ ネ ッ ト 型 の 馬 車 が わ たしたちを出迎えてくれた。それから丘を一気に駆け上がり、高台の曲がりくねる道を三マイル馬車に揺られ て、 …… よ う や く 友 人 の 家 の 門 の 所 で 馬 車 が 止 ま る の だ っ た。 わ た し は モ リ ス が ロ ン ド ン か ら わ た し た ち を ずっとここまで連れて来てくれたような錯覚を起こしそうになった。玄関口に背の高い若い女性が一人だけで

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立っている姿が目に入ったからだった。   そして、仲間と共有した時間にはこんな一時もあった 。 (26 (   ある時、取っ組み合いの最中に、大型セトルの「吟遊楽人の席」に上がって騒いでいるうち、勢いあまって フォークナーが手摺りを越えてドスンと物凄い音を立てて転ろげ落ちたことがあった。また別に、風で落ちた 林檎を「楽人の席」に溜め込んで、侵入者に向かって誰彼となく投げつけ防戦を繰り返しているうちに、とう とうこの林檎がものの見事にモリスに当たって、目のまわりに黒い痣ができてしまった。   ジョージアーナがジェインと過ごした幸福な記録も残る 。 (27 (   わたしたち、ジェニーとわたしはなんと幸せだったでしょう、午前中は刺繍や木彫りに精を出し、午後にな る と ケ ン ト 州 の 地 図 を 頼 り に 周 辺 の 田 園 を 馬 車 で 動 き 回 り ま し た。 ク レ イ 低 地 に 行 っ た り、 ま た 別 に チ ズ ル ハーストに行ったりしました。どこへ行ってもなにか新鮮な楽しみが発見できて、二人の冒険を仕事のために 留守番をした殿方に語り聞かせました。時には、滅多にないことでしたが、男性もわたしたちに同行すること がありました。   あるいは、

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  ある朝、ジェニーとわたしが縫い物をしている時、見ると彼女の籠の中になにやら見慣れぬ服があるではあ りませんか。可愛いらしい小さな服です─男児か女児の小さな肌着です。友人の顔を見ると、針の手を動かし ながら、彼女が幸せなのが分かりました。……この後もモリス夫妻を何回か訪ねたことがありますが、当たり 前ですが、この時にすぐる訪問はありませんでした。   こ う し た「 赤 い 家 」 の 歳 月 を、 次 女 メ イ・ モ リ ス は ま だ 生 ま れ て 間 も な い 頃 で あ る は ず な の に、 「 な に か 不 思 議 なことですが、赤子の心に鮮明に刷り込まれた夢のような場面がいまも心に残っています」 。「そうした場面が白紙 状 態 の ち っ ぽ け な 脳 に 刻 印 さ れ、 子 供 時 代 を 経 て、 そ の 重 要 な 意 味 合 い が 把 握 で き る 年 頃 ま で、 ず っ と 色 褪 せ な か っ た の は 不 思 議 と い え ば 不 思 議 で す。 そ の 場 の 美 し さ が 心 を 突 き 刺 し た の で す。 そ の 一 瞬 間、 そ れ は 現 実 と 化 し、夢と記憶、現在と過去の一切が不思議に混り合い、最後には夢見る本人が『赤い家』の客人となって、その場 のさんざめきを共有している気分になるのでした 」 (28 (   一 八 六 一 年 一 月 一 七 日、 モ リ ス 夫 妻 に 長 女 が 生 ま れ る。 母 親 と モ リ ス の 一 番 下 の 妹 に 因 ん で ジ ェ イ ン・ ア リ ス (「 ジ ェ ニ ー」 ) と 命 名 さ れ た。 翌 一 八 日、 モ リ ス は フ ォ ー ド・ マ ド ッ ク ス・ ブ ラ ウ ン 宛 に「 素 っ 気 な い メ モ 」 (29 ( を 送 っ た。 「 子 供 が 生 ま れ る と い う の で、 親 切 に も 奥 様 は 貴 兄 が 迎 え に く る こ と に な っ て い る 月 曜 日 ま で 居 て く れ る ということです。アビー・ウッドでバスに接続する夕方のロンドン・ブリッジ駅発の汽車の時刻を列挙します、午 後二時二〇分、四時二〇分、六時、七時一五分です。母と子(女児)ともにすこぶる元気です 」 (30 ( 。   当時、出産には危険がつきまとった。母親が感染症に罹って命を落とすなど、現代から考えれば、信じられない くらい母子の死亡率は高かった。妊娠中のジェインが「赤い家」への引っ越しと年子の出産にもよく耐えたのは健

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全・健康な身体の賜物だった。初産という緊張と不安にもかかわらず、妊娠中ずっと体調がよく、新居での社交を 楽 し む だ け で な く、 刺 繍 や 絵 を 描 い た り し て 積 極 的 に 室 内 装 飾 の 手 伝 い を し た。 家 に は 使 用 人 兼 乳 母 が い た が、 ジェニーは母乳で育てられた。人工ミルクはまだなかったし、乳母による授乳は安全性についてさまざまな風評が ないわけではなく、それを嫌ったからだった。   ジェニーの洗礼式は生憎風の吹く雨降りの日だった。にもかかわらず、ロセッティ、マドックス・ブラウン、ス ウィンバーンをふくむ大勢の友人がベックスリー教会に集まってジェニーを祝福した。翌年六二年の三月二五日に は 次 女 メ ア リ ー( メ イ ) が 生 ま れ た。 そ し て 翌 四 月 に は 商 会 の 設 立 が あ っ た。 「 赤 い 家 」 の 完 成 と 長 い と は い え な い「 赤 い 家 」 の 日 々 は、 そ の 後 の モ リ ス が 労 働 の 本 質 に つ い て 思 索 を 深 化 さ せ、 発 言 を 重 ね る こ と の 土 壌 と な り、 商会設立へと飛躍するバネともなった得難い田園の日々であった。 ◆ケルムスコット領主館   ─“太古の安らぎを秘めたまたとない隠れ家”─   テムズ川の源流に近いオックスフォードシャのケルムスコット村にのこる一六世紀の領主館─モリスがこよなく 愛したコッツウォルド地方の田園の住まいである。   「 妻 と 子 供 達 の た め に 一 軒、 家 を 探 し て い る と こ ろ で す。 今 度 は ど こ に 目 を つ け て い る と 思 い ま す か? ケ ル ム ス コ ッ ト で す、 ラ ド コ ッ ト 橋 の 上 流 二 マ イ ル ば か り の 小 村 で す が、 地 上 の 天 国。 …… エ リ ザ ベ ス 朝 の 石 造 り の 古 い 家、それに庭がなんともすばらしい!土曜日にもう一度、妻とロセッティといっしょに行ってみるつもりです。な ぜ ロ セ ッ テ ィ か と い う と、 事 情 が 許 せ ば 一 緒 に 住 み た い と 彼 が 考 え て い る か ら で す 」、 と モ リ ス は は じ め て ケ ル ム スコット領主館の話を友人のC. フォークナーにした 。 (1 (

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  同じ頃のモリスのもう一通の手紙は、ケルムスコット村の新居をこんな風に紹介した 。 (2 (   奥 ま っ た 田 舎 に 小 さ な 家 を 借 り ま し た。 妻 と 子 供 達 が 毎 年 数 カ 月 過 ご す は ず で す ─ す で に 実 行 済 み で す が。 美しい不思議なほどに衒いのない建物で、外観はエリザベス朝ですが、そんなに昔のものではありません。こ の 人 里 離 れ た 辺 鄙 な 土 地 に 前 世 紀 の 始 め か 半 ば 頃 ま で に ゴ シ ッ ク 風 に 建 て ら れ た も の で し ょ う。 オ ッ ク ス フォードシャの最南西部で、すぐ近くを誕生したばかりのテムズ川が流れる、ケルムスコットという名の、も のすごく美しい灰色をした僻村です。   受取人はチャールズ・エリオット・ノートン(一八二七─一九〇八)である。ノートンはハーバードの美術史教 授、ダンテ研究家、ラスキン、ロセッティの旧友でもある。公私の別を意識した文面である。フォークナーが受信 者だった、いわば仲間内の文言とは違って、私的な筆は控えられている。新居の土地柄を讃えることに終始してい る。ロセッティには触れていない。それもそのはず、この書簡は、すぐ後で触れるように、転居して一か月もたた ないうちに、モリスが三人の知人と試みたアイスランド旅行のいわば報告として書かれた長文の手紙であり、その 末尾に遠慮がちに添えられた新居紹介だったからである。   こ の 頃 の モ リ ス は、 「 ロ セ ッ テ ィ 問 題 」 と で も い う べ き 難 題 を 抱 え こ ん で い た。 私 事 中 の 私 事 と い え た だ ろ う。 それは画家とモデルの「親密な関係」と言ってしまえば身も蓋もないが、ロセッティとジェインの二人にはすでに 一 八 六 八 年 五 月 頃 か ら 一 年 間 ほ ど 南 英 ス カ ラ ン ズ で 同 棲 同 然 の「 実 績 」( ?!) が あ っ た。 直 接 の 発 端 は、 双 方 が 健 康を害し、それぞれに転地療養が求められていた事情があった。画家は極度の神経衰弱に悩み、モデルは執拗に続

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く仕事に耐え切れず虚脱感に襲われた。モリスは妻を連れてドイツの温泉地に滞在した。ロセッティはスコットラ ンドに知人を頼って静養に努めた。だが、二人の書簡の往復が明かすように、亭主と知人の誠意も善意も報われな かった。 (この間の事情の解明にはまた別の一章に譲らなければならない) 。   モ リ ス が 新 居 探 し を 思 い 立 っ た 背 後 に は、 そ の 全 部 に で は な い け れ ど、 二 人 の「 実 績 」 が 関 係 し た と 思 わ れ る。 「 親 密 な 関 係 」 に 区 切 り を つ け よ う と し た の で は な い か、 と 推 測 さ れ る。 だ が、 モ リ ス は、 先 刻 の フ ォ ー ク ナ ー 宛 手紙で、妻ジェインと画家ロセッティの相変わらずの共同生活の継続となりかねない事態を黙認するに等しい文言 を 綴 っ た。 そ れ も、 モ リ ス が 探 し 当 て た 理 想 郷 で の 継 続、 多 分、 両 人 の 健 康 問 題 が 絡 ん だ の っ ぴ き な ら な い 状 況 の、つまりスカランズの状況の延長線上にあるやむを得ない成り行きだったのかもしれない。   そ れ に し て も、 モ リ ス の 決 断 ひ と つ で、 そ れ ま で の 状 況 に 終 止 符 を 打 つ こ と が で き た は ず で あ る。 と は い っ て も、ロセッティが「またとない隠れ家」と絶賛して、共同賃借までも望んでいる状況では、端が言うほど簡単なこ と で は な い だ ろ う が。 と も か く モ リ ス は 転 居 の 意 味 も 絶 好 の 機 会 も 自 ら 放 棄 し た の だ っ た。 ス カ ラ ン ズ で は、 ロ セッティもジェインも、形式上だろうが、それぞれが「正式に」招待を受けてのことだった。そして、別荘内の別 棟に滞在したのだった。   だが、ケルムスコットでは事情が全く異なる。たとえモリスの二人の娘、ジェイン・アリス(ジェニー)とメア リー(メイ)が一緒だったとはいえ、テムズ川岸の人里離れた領主館での、いわば文字どおり同じ屋根の下での暮 らしである。それを承知の上で、商会の仕事のためとはいいながら、モリスは「地上楽園」であるケルムスコット を 留 守 に し て、 相 変 わ ら ず ス カ ラ ン ズ の 時 と 同 じ よ う に、 む さ 苦 し い ロ ン ド ン に 居 残 っ た。 ( ケ ル ム ス コ ッ ト 領 主 館をもってモリスの夏の別荘とする牧歌的楽園論は真実の半面を伝えるに過ぎない) 。

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  モリスはロセッティの希望に沿って、領主館の共同賃借の契約を結んだ。その頃、ロセッティは、ジェインとい うモデルに向かい合っていたいという、単純だが、その実ものすごく錯綜した欲求に憑りつかれていた。神経衰弱 が高じてノイローゼ気味でもあった。すでに画家には晩年の暗い影がつきまとい始めていた。そのことは、モリス にもよく分かっていた。分かっていれば、彼の要望を無視することができなかったのだろう。ロセッティとの付き 合いを壊したくない気持もあっただろう。もっと言えば、かりに結婚生活に禍根を残すようなことになってもであ る。後々のモリスの言動をみると、そう考えざるをえない。   モリスのこの不可解な立場は、ロセッティとジェインの関係が消滅するまで、つまり一八七五年頃まで、時と場 合によって揺れを見せはするが、基本的には変わらなかった。モリスは知っていたと思う。だが、知ることを拒ん だのだろう、確かなことは分からないが。ただ確かなのは、モリスが妻とは関心を共有できない、自分はどうやら 独 り ぼ っ ち だ、 と 考 え 始 め た ら し い こ と で あ る。 友 人 に そ ん な 心 中 を 打 ち 明 け て さ え い る。 A.シ ョ イ 宛 に 書 き 送 っ た 自 伝 的 覚 書 の 締 め く く り に、 「 最 後 に な っ て し ま い ま し た が、 結 婚 は 一 八 五 九 年、 二 人 の 娘 に め ぐ ま れ ま し た が、 人 生 の 目 的 な ど も ろ も ろ に つ い て と て も 共 感 し 合 え る 娘 た ち で し た 」 と 書 い た。 で は 妻 と は?   訊 く も 愚 か、と言うべきだろう。   引 っ 越 し か ら 一 か 月 も た た な い う ち に、 モ リ ス は 三 人 の 知 人 と と も に ア イ ス ラ ン ド に 旅 立 っ た。 そ れ に し て も、 こ の 時 期 に ア イ ス ラ ン ド 旅 行 と は、 こ れ ま た 一 瞬 ど き り と さ せ ら れ る「 モ リ ス の 事 実 」 で あ る。 計 画 は ケ ル ム ス コットの状況に直面して急拵えされた逃避の旅としてしばしば受け取られるが、じつはすでに一八六八年春頃から 始められた周到な準備の末の旅だった。旅立ちが七一年夏だったのは、確かにケルムスコットの事情と無関係では ないだろう。が、第一義的にはモリス独自の内発的旅だった。モリスは一八七一年の春、 「隠れ家」探しと同時に、

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未知の北国の旅行計画に余念がなかったのである。   ケ ル ム ス コ ッ ト 領 主 館 は オ ッ ク ス フ ォ ー ド か ら テ ム ズ 川 を 上 流 へ 三 〇 マ イ ル、 あ る い は 当 時 の 最 寄 り の 鉄 道 駅 リッチレード(オックスフォードからの支線だが、現在は廃線)から三マイル、領主館はコッツウォルド丘陵の南 西 部 田 園 地 帯 に あ る。 ケ ル ム ス コ ッ ト 村 周 辺 の 流 域 に は 柳 の 木 が 目 立 つ。 そ れ に 楡 や サ ン ザ シ や ポ プ ラ が ま じ る。 両岸にひろがる 冠 ウ ォ ー タ ー ・ メ ド ウ 水牧草地 は春先から晩秋にかけてキンポウゲやシモツケ草などが思い思いの花を咲かせる。そこ は ま た モ リ ス 好 み の「 奥 ゆ か し い 」 ち っ ぽ け な 教 会 が あ る い は 石 橋 が 絵 に 描 い た よ う な 風 景 を ひ ろ げ る 土 地 で も あった。   上 流 へ 四 マ イ ル ほ ど 溯 れ ば、 イ ン グ ル シ ャ ム の 村。 そ こ は 支 流 コ ー ン と の 合 流 点、 テ ム ズ 船 遊 び の 起 点 で も あ る。 モ リ ス は イ ン グ ル シ ャ ム の 聖 ジ ョ ン 洗 礼 者 教 会 を 次 の よ う に 称 え た。 「 こ の 建 物 は た だ の 傍 観 者 の 目 に も、 絵 のように美しく、心惹かれる教会である。ただそれだけではない。初期ゴシック建築としてほとんど比肩するもの が な い き わ め て 優 れ た 作 例 で、 設 計 上 の 洗 練 と 美 し さ の 点 で こ の 規 模 の 建 物 と し て は 右 に 出 る も の は 決 し て な い 」 (3 ( またラドコット村のテムズにかかる石橋を、 『ユートピア便り』 (第二八章)で「テムズにかかる最古の橋、その小 さなアーチの一つを船でくぐりぬける時、…」と言及があるなど、この土地に寄せるモリスの並々ならぬ思いは枚 挙にいとまがない。橋は三つのアーチをもつ一五世紀の石造り、真ん中のアーチ頂部はゆるやかに弧を描き、左右 のアーチと好対照をなす、モリスならずとも心和むまことに情趣ある橋である。   モリス一家の新居はケルムスコット領主館と呼ばれるが、この地の領主の住いであったことはなく、ただ一目ぼ れ し た モ リ ス が、 そ の 佇 ま い に 敬 愛 を こ め て「 マ ナ ー・ ハ ウ ス 」 と 呼 ん だ に 過 ぎ な い。 し か し、 娘 の メ イ も 気 に

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図 4 ケルムスコット村 聖ジョージ教会 (W. モリスの墓) モリス記念館 設計 E. ギムソン (1934) 村会議堂 村のパブ プラウ・イン (17 世紀) 十字 モリス記念農家 設計 P. ウェッブ (1902) ケルムスコット 領主館 納屋 100 メートル テムズ川 領主館草地 母屋

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入った命名だったのだろう、ずっとこれで通したし、今や世界中の人がケルムスコット・マナー・ハウスと親しみ をこめて呼ぶ。そんな領主館について、モリスは『テムズ川上流河畔の古い家をめぐるとりとめない話』と題する 愛すべき小文を綴った 。 (4 ( …… 古 い 家 は 村 道 の 行 き 止 ま り に あ っ て、 そ の 先 は や が て 川 の 戻 り 水 が 作 る 水 た ま り に 行 き 着 き、 あ と は 川 辺 に 広 が る 牧 草 地 に 通 じ る 荷 馬 車 道 だ っ た。 …… 石 塀 に 作 ら れ た 木 戸 を く ぐ り 抜 け て、 石 畳 の 小 道 が 前 庭 を 通って、近頃作り足したとはいえ無難な感じの木造の入口に通じていた。この角度から見ると、家は低い感じ の 三 階 建 て で、 こ れ と 直 角 に、 大 き な 窓 と ペ デ ィ メ ン ト つ き の 小 窓 が 目 に つ く も う 一 つ の 部 分 が 接 続 し て い た。家は地元産の見事な荒石積みの薄い漆喰仕上げだが、その漆喰が長年の風化によって石と同じ色になって いる。屋根はやはり地元産の美しいスレート葺きだが、最高に美しい素材で、とくにこの家をふくめたこの地 方 の 伝 統 的 な 古 い 田 舎 家 に 見 ら れ る よ う に、 い わ ゆ る ス レ ー ト の 大 き さ が「 少 し ず つ 変 化 し て 」、 上 部 ほ ど 小 さく軒に近いほど大きく、ちょうど魚の鱗や鳥の羽根と同じ整然とした美しさがわれわれを楽しい気分にして くれる。   モ リ ス の こ の 記 述 は、 『 ユ ー ト ピ ア 便 り 』 の 口 絵 で よ く 知 ら れ た、 破 風 屋 根 の 三 階 建 て 領 主 館 の ユ ニ ー ク な 東 正 面とその前庭を描いた、 C. M.ギア(一八六九─一九五七)の木版画によってわれわれに馴染み深い。その口絵に はモリスが書物の美を求めて創出した理想の活字ゴールデン・タイプを用いて「この素描は物語の登場人物が訪れ た テ ム ズ 川 の ほ と り に 立 つ 古 い 家 で あ る。 以 下 に 展 開 す る 物 語 は ユ ー ト ピ ア 便 り、 あ る い は 憩 い の 一 時 と 題 さ れ、

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図 5  『ユートピア便り』(1891)の木版口絵でよく知られた「領主館」の正 面。一幅の絵に対面した情趣は少しも昔と変わらない。

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ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス が こ れ を 書 い た 」 と の 文 字 が 読 め る。 わ ず か な 余 白 に 私 家 版 印 刷 工 房 ケ ル ム ス コ ッ ト・ プ レ ス( 一 八 九 一 年 設 立 ) の い わ ば ロ ゴ マ ー ク と も い う べ き 小 型 な 花 と 葉 が さ り げ な く 配 さ れ た モ リ ス な ら で は 巻 頭のページである。   領 主 館 は 一 六 世 紀 の 建 築 だ が、 口 絵 の 右 の 部 分 が 一 六 七 〇 年 頃 の 増 築 部 分 で あ る。 石 塀 に 囲 ま れ た 庭 に 立 て ば、 一 幅 の 絵 を 眼 前 に し た 趣 向 で、 そ こ は す で に 外 界 と 切 り 離 さ れ た ユ ー ト ピ ア の 領 域 で あ る。 コ ッ ツ ウ ォ ル ド 地 方 に 産 す る 石 灰 岩 独 特 の 優 し い 蜂 蜜 色 の 石 造 り と 切 妻 造 り が 人 目 を 引 く。 訪 問 者 を 正 面 ポ ー チ に 導 く、 石 を 敷 き 詰 め た 真 っ す ぐ な 芝 生 の 中 の 通 路 も、 小 さ な ス レ ー ト 葺 き の 三 角 の 屋 根 を の せ た 素 朴 な 木 造 の 蔦 が か ら ん だ ポ ー チ も 全 体 に 調 和 し て 間 然 す る と こ ろ が な い。 「 庭 は 果 樹 園 を 活 か し た『 赤 い 家 』 と は ち が っ て、 旧 来 の や り 方 で 設 計 さ れ た。 土 壌 も ケ ン ト 州 の 粘 土 質 に 比 較 す れ ば 砂 土 質 だ っ た。 そ れ で も 中 途 半 端 に な ら ず、 モ リ ス に と っ て、 直 線 の 小 径 や イ チ イ の 古 い 生 垣 に 仕 切 ら れ た 庭 図 7  領主館の裏庭にみつけた朱い実をつけたクラブアップル(中央低木)の 添景。

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が、独立した『部屋』の感じで理想に近かった」 。 (5 ( モリス本人もその感觸を、 「庭がまるで室内であるかのように思 えた 」 (6 ( と表現して、 「赤い家」に実現した庭と建物の一体感がここでも再現されたことを示唆した。   おそらくモリスはケルムスコットを「発見した」とき、ある種の既視感に捉らわれていたのではないか。ずっと 思い描いてきた理想郷に適う風景がその時そこにあったという手応えである。土手を隔てて楡と柳の緑の樹間に切 妻の目立つ蜂蜜色の家が見え隠れする風景があった。ケルムスコットを「イングランド南部の中でもっとも眠たげ な 静 ま り 返 っ た 田 園 の た だ 中 に あ る 村 」 (7 ( と 的 確 に 言 い 当 て た の は マ ッ ケ イ ル だ っ た 。 「 豪 放 な あ る い は 強 烈 な 美 し さはほとんどないが、代わって比類ないこまやかさと持続する魅力がある。幼いテムズが平坦な牧草地を、周辺の 低い丘陵の間を、イングランド人の集落がここに営まれてからほとんど変化を知らないかのような風景の中を蛇行 する。平坦な時折テムズの氾濫で冠水する牧草地のかなた北のコッツオルドの支脈にむかってそれと分からぬほど の斜面が展がり、五指にあまる小さな流れがテムズに合流する。……商業活動から遠く離れ、すぐ手の届く所どこ にでも理想的な建材に恵まれた土地に、美しさの伝統がどこよりも長く息づいているのは少しも不思議ではない 」 (8 (   「 豪 放 」 や「 強 烈 」 に か わ っ て「 こ ま や か さ 」 の 心 象 こ そ が、 な に ご と に よ ら ず、 モ リ ス の 愛 す る 姿 形 で あ る。 モリスが心惹かれるのは磁器の磨きあげられた艶やかさより、陶器の素朴な温もりであり、仰々しいラテン名がつ いた品種改良の花より、路傍に咲く奥ゆかしい響きの古英語の気取らぬ草花である。   モリスの手紙に鳥の姿が反復される。週末を領主館で過ごしたモリスがアグレイア・コローニオに「帰ってくる 日は、かすんだ青空に遠く薄い白雲がかかって、それは美しい朝でした。庭のいたるところを駒鳥が跳びはね囀っ て い ま し た。 冬 鳥 で ノ ー ル ウ ェ イ か ら や っ て き た ノ ハ ラ ツ グ ミ が 小 果 実 の な る 木 の あ た り で さ か ん に 鳴 い て い る。 ムクドリは、この二カ月ずっとそうだったように、夕暮れ時に塒へ帰るまえ、大群となってひどくやかましい鳴き

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声を上げる。花のない秋の庭はなんとなく侘しげだが、それでも美しいことに変わりはない」と綴った 。 (9 ( 四季の推 移と庭の草花に注がれるモリスの優しい鋭い眼差しと同じ眼差しが捕らえた鳥たちの姿である。   モリスは生涯、テムズ川やその支流から遠く離れて暮らすことはなかった。随分あちこちと引っ越しを繰り返し た と い う の に で あ る。 出 生 地 が す で に テ ム ズ の 支 流 リ ー 川 が 形 成 す る 浅 い 川 谷 だ っ た。 ケ ル ム ス コ ッ ト 領 主 館 や マートン・アベーの工房は言うに及ばず、蛇行するテムズや支流を意識してデザインし、命名した数々の壁紙が明 示するように、モリスとテムズ川の結び付きはことのほか深い、と言わざるをえない。   一九世紀イギリス社会への手厳しい批判から出発して、モリス個人が住んでみたいと思える近未来を描く『ユー ト ピ ア 便 り 』( 一 八 九 一 ) は、 テ ム ズ 川 を 主 人 公 と し て 読 む こ と さ え 許 さ れ る だ ろ う。 物 語 の 後 半、 モ リ ス と 思 わ れ る 語 り 手 が 仲 間 と 連 れ 立 っ て 理 想 郷 を 求 め て テ ム ズ 上 流 へ 向 か う 川 旅 に 出 る。 目 指 す の は ケ ル ム ス コ ッ ト。 後 年、 下 流 の ハ マ ス ミ ス に 転 居 し た 時 も( 一 八 七 八 年 一 〇 月 )、 モ リ ス は 新 し い 住 い を ケ ル ム ス コ ッ ト・ ハ ウ ス と 名 付け、しかも、そこに理想の書物をめざして設立した私家版印刷工房をケルムスコット ・ プレスと名付けた。 『ユー トピア便り』はテムズに寄せる断ちがたいモリスの想念が生んだユートピア物語である。作中ケルムスコットへ溯 るテムズの川旅を、ちょうどモリス一家が領主館に暮らし始めた時と同じ夏の季節に設定して、こんな風に記述す る。 川 を 溯 っ て い く に つ れ て、 そ の 日 の テ ム ズ と わ た し の 記 憶 に あ る テ ム ズ と だ ん だ ん 違 い が な く な っ た。 そ れ は、株式仲買人など有産階級のロンドン風の別荘が恐るべき俗悪さでもって、木の枝が低く垂れる川辺の美し さをかつては台無しにしたのに、さすがこの辺りテムズの田園が始まる場所はいつ来きても美しかった。美し

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図 8 川風に光るテムズ川辺の柳。

図 9  ケルムスコット歩道橋 ─橋を渡って対岸へ、一時間ほど牧草地をいく と、バーン=ジョーンズの連作《眠り姫》を所蔵するバスコット・パー クにたどりつく。

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い夏の緑の間に船を滑らせていくと、青春の頃が蘇って、まるで、むかし大いに楽しんだあの船遊びを再現し ているような気持ちだった。……一年の今頃はテムズ河畔全体が庭園となる。僕なら、イングランドのどんな 庭園よりも、麦畑の境界に立つ楡の木陰に寝転がって、蜜蜂のささやきや畦から畦へ飛び交う水鶏の啼声に囲 まれていたいものだ。 (第二二章)   川 辺 の 風 景 を 描 く モ リ ス の 筆 に こ の 上 な い 共 感 と 優 し さ が こ も る。 第 三 一 章「 新 し い 人 々 に 囲 ま れ た 古 い 田 舎 家」に、ケルムスコットの「楽園」は「新生活」を託するにふさわしい表象の場として次のように綴られる。 村道は今述べた浅い淀みのところで尽きる。道を横切ると、わたしは思わず石塀の入口の掛け金を持ち上げて いた。するとわれわれは古い家に通じる石を敷いた小径に立っていた。……同行のひとりが驚きと喜びの声を 発 し た。 無 理 な い こ と だ っ た。 家 と 石 塀 の 間 の 庭 は、 六 月 の 花 々 の 香 り に み ち て、 薔 薇 は 重 な り 合 い 競 い 合 い、最初見た時には、見る者をしてただ美しさだけ、外の一切の思いを奪ってしまう、手入れの行き届いた小 庭園特有のあの甘美な豊饒を漂わせていた。つぐみはいとも高らかに歌い、鳩は屋根のてっぺんでくうくうと 啼き、かなたの高い楡の木立では若葉にまじってミヤマガラスが騒々しい鳴き声をあげ、アマツバメは哀れっ ぽい声を発しながら破風屋根のあたりを飛び交っていた。そして古い家そのものがこうした盛夏の美のすべて を見守るにふさわしい守護神であった。   『 ユ ー ト ピ ア 便 り 』 は、 「 宝 石 」 に も 等 し い「 古 い 田 舎 家 」 の 周 辺 に 広 が る 畑 地 で「 新 し い 人 々」 の 協 働 に よ る 乾

図 2 「赤い家」井戸屋がある中庭と南東側面 ―諸特徴が文字通り一目瞭然。
図 4 ケルムスコット村 聖ジョージ教会 (W. モリスの墓)モリス記念館設計 E. ギムソン(1934)村会議堂プラウ・イン村のパブ(17 世紀)十字モリス記念農家設計 P
図 6  石塀をふくめた調和の心地よさはモリスが発見したユートピアの風景。
図 7  領主館の裏庭にみつけた朱い実をつけたクラブアップル(中央低木)の 添景。
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参照

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