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元初の愈族の叛乱について
植 松
正 自 次 はしがき 1… 元初江南の諸叛乱 2陳吊眼の叛乱 3.黄華の数乱 4 鍾明亮の叛乱 5問題の整理 (1)時期をめぐる問題 (2)元朝への抵抗 ほ)ゲリラの生態 (4j 元朝の江南支配との関係 はしがき しゃ(ショウ) 愈族とは中国南部,ことに福建,漸江,江西,広東,安微の5省に分布する 少数民族である。1978年の統計によれば,その人口は約33万人であり,そのう ち福建省が約19万7千人(58.8%),新江省が約ユ3万人(38′′8%)と,こ の2省ではとんどを擁する。多く山村において小集落を形成して居住し,ま た中国人と雑居する場合もある。命語はもとよりシナ・チベット語系に属する はっか が,中国語の客家方言に近いということである。固有の文字はもたず,漢字を 用い,日常生活の上でもそれぞれの地方の中国語方言になじんで使用している。 衣装,工芸,習俗,民謡などに独特の文化的伝統を保持してきたが,解放後, 次第に変化もあらわれてきているようである。 l) しん姐、るいしょう r清稗類砂山にもこの種族に関していくつか言及があり,漸江省処州の愈族 の履きものが日本の下駄に似ており,女子の髪を結って布きれをつけたところが日本の郷婦の如くであるとみえているが,その意味するところはいまひとつ 判然としない。愈婦の頭髪の上には長さ2寸ばかりの竹簡を着けて赤い布で覆 い,替でそれをとめる。この柱のような装飾がちょうど犬の頭のような形をし
くとうこうしゅ ているところから,処州の人々は愈婦を「狗頭公主」と称していた。2)この狗
或と称されるのは理由のあることで,彼らは犬を始祖とす−る説話を有していたからであるゴ)また焼き畑を愈という例が唐詩にみえ,史料の上では南末期に,この
焼き畑農耕民を舎民と称したが,彼らはよはど古くから南中国に居住していたご)
はんれい この種族の起源については,越王勾践あるいは龍鹿の子孫で,古代の越族の後 よう(ヤオ) 育という説もあるが,言語学,人類学方面の研究から,湖南地方の堵族,とく に武陵蛮との関係を重視す・る見方が有力のようである。 5) 古くは焼き畑農法によって,さつまいも,とうもろこしなどを植えていたと 思われ(もっとも,中国におけるとうもろこしの栽培は非常に古いことではないとみら れる),また茶の栽培も盛んである。民謡も各種あり,祭礼や婚礼の際には酒 とともに歌は欠かせない。若者の間では,我が国古代の歌垣のような求愛の掛け合い歌の風習があったというタ清代には合族の中でも,中国の学術に親し
んで科挙を受験するものもあらわれたク このような平和的で勤倹な合族であるが,中国史上の歩みは決して平坦なも のではなかった。彼らは時に結束して王朝政府に対して叛旗をひるがえした。 ぴん 漸江省処州の西北−・帯の仙霞嶺は古来,盗賊の巣窟といわれた。また閏(福建),えつかん 卑(広束),鞍(江西)の交界地区は愈族の主要な居住地域のひとつであったと
みられるが,ここも昔から盗賊が多発するきわめて治安の悪いところとされて きた。一省から軍隊が討伐に出動しても,ゲリラ部隊はたちまち他省に逃げ込 んでしまう。政府軍の方でも管轄を異にする地域にあえて深入りしようとしな いというわけで,反政府軍はわりあい容易に勢力を温存することができたので ある。 政府の側ではこうした反政府活動を「盗賊」「蛮族」の叛乱として記録に残 した。叛乱はもとより王朝政府にしてみれば,許しがたき謀叛の行為であり, 即刻討伐し,厳重に処罰すべき法的根拠を確保していた。−・方,現今の中国で は,愈族にかぎらず,こうした叛乱は封建王朝に抵抗した輝かしい闘争として評元初の命族の叛乱について 95
価をうけている。8)私としては単に評価を覆えすだけでは不十分であると思う。
叛乱者には必ずや鋸起しなければならない理由と環境があったはずであり,政 府の方でも盗賊の騒動をさしあたり鎖圧すれば足りるといったものではなく, 叛乱の背景となっている事態が政府にとって深刻な問題であったということな どを少しく追求してみなければならないと考える。実際,叛乱者側にせよ,鎮 圧者側にせよ,双方の動きは時として単純なものではない。そうした両者の関わ りあいの中に,当該の時代における中国社会の実相を見たいというのが筆者の 願望である。 さらにこの場合,少数民族問題にかかわるわけであるが,多数の漢民族に比 園1‖ 元代江南図して少数だから,それなりの位置を占めさせればよいというわけにもいかない ようである。問題は決して小さくはない。むしろ基盤の弱少な勢力であったが 故に,その社会のしわよせを深刻に被らなければならない環境にあったとも考 えられるのではないかと思う。たとえば,唐末以来,末代を通じて南中国の地
かん 域開発が進行するが,越州(紹興)とか,さらには洪州(隆興),馴、l(虚州)の,
滞州(長沙)など,揚子江の南方の内陸部で急速な人口増加がみられる。こうし た地域はかつては蛮族の多く居住するところと考えられていたであろうから, 新しい開発が旧住の少数民族を圧迫するような事態も想定しうるのではなかろ うか。そうなれば,少数民族のかかえる問題は中国社会のかかえるものという ことにもなってくる。l.元初江南の諸叛乱
いまここにいう元初とは,元軍が南宋の首都臨安(杭州)に入城してから,ウイ サ㌢ガ(センゲ) グル人宰相桑苛の専権期の終末まで,すなわち世祖フビライの至元13年(1276) 前後から同28年(1291)あたりを直接には射程においている。この時期には舎 族に限らず,江南の叛乱が頻々と生じ,元朝政府の南中国への支配体制もまだ 不安定であった。元末の諸叛乱はもとより別問題として,至元28年以後にも叛 乱は生じないわけ■ではなかったが,この時期に比べればずっと少なくなってく る。いわばモンゴル人の南中国支配に対する抵抗が一つの頂点に達し,元朝政 府としてもまだ江.南に対する支配の方式を確立できていない模索の時期という こともできる。 一体,南中国が中国の北方に興った異民族の征服,支配を受けるということ は初めての体験であったのである。それまで中国ほ両宋時代を通じて,北方の キタイ族(契丹,遼),ジェルテン族(女其,金)によって圧迫を受け,国境線を 南に後退するのを余儀なくさせられてきたが,とうとうモンゴル族(蒙古,元) は揚子江を越えて中国を征服してしまったのである。ここに少なからぬ混乱や 抵抗が起るのは当然のことである。それにしても1368年,明朝の成立に至るま で元朝の江南支配がまがりなりにも継続したことは,元朝の支配の方式がある 程度の成功を収めたものと見なければならないだろう。元初の諸政乱がひと段97 元初の愈族の叛乱について 落したのちの新体制の政策が,その成功の理由を見いだしうるものとして注目 されるゆえんである。 元代江南の叛乱について,研究史をふりかえってみよう。陶希聖氏は「元代 長江流域以南的暴動」において,F元史』に記載された至元11年(1274)から 至正8年(1348)までの叛乱の事例113件を表示し,これらの叛乱の性質につ いて言及し,(1)宋の復興のスローガン,(2)宗教的徒党,(3)非宗教的徒党,(4)経
済財政的原因,に分けて,例を挙げて考察したご0)また近年,黄清連氏は「元
初江南的叛乱(1276∼1294)」において,叛乱の背景,叛乱の経過及び分析, 元政府の叛乱事件に対する処理などについて検討したごl)有名な陳吊眼や黄華 の叛乱もここにとりあげられており,叛乱者の身分として,元朝の官吏,宗教 的指導者,南宋の遺臣,塩徒,愈民その他が指導し,また参加したと指摘され ており,私もこれに対して付け加えるべきものはあまり多くないものと思って いた。ところが,さきこ、ろ停衣凌氏から氏の旧稿「福建愈姓考」のあることを教えられた。12)それによると,従来愈族の姓としては富,奨,藍の3姓,ある
いはこれに鍾を加えた4姓が知られていたが,元代江南の諸叛乱の指導者の多 くが愈族の出身であり,その愈族の姓氏は4姓に止まらず,陳,黄,李,呉,謝,劉,邸,羅,蜃,許,張,余,蓑,盛,寧,章,何の17姓について,事例
を挙げて検討がなされていることがわかった。 上記の先行諸論文に刺激を受けて調査を進めてゆくうちに,研究史の中で挙 例的に指摘されてきたことが,現状ではまだ総合されていないのではないかと 思えてきた。そして各地で勃発した叛乱相互の関連を見出すかぎのひとつは愈 族の問題ではないかと見当をつけた。さらに,南中国の山中で展開されたゲリ ラ戦が,実は元朝治下の中国と日本,高麗,安南,占城(ヴェトナム)との交渉 史にも無関係ではなさそうなのである。日本に対するモンゴル軍の進攻,いわ ゆる元遥の中止が江南の諸叛乱の頻発と関係あることは,漠然とした形で提起 されたことはあるが,これについても踏みこんだ検討の余地が残されているよ うに思われる。本稿はこれらの問題に対する見通しを提示するために書かれた。 ちんちょうがんこうかしょうめいりょう 以下に陳吊眼,黄華,鍾明亮らの叛乱の経過について検討するが,これらの 叛乱を指導したり,これに参加したものに命族が多かったとするならば,ここで解決すべき課題をはしめに設定しておきたい。それは第1には,愈族をして
元朝への抵抗に向わせたものは何かという点である。第2には,叛乱軍と討伐 軍との応接をみていると,討伐する側では謀叛人どもを鶴滅してやまないという弾圧一方の姿勢に終始したわけではなく,叛乱者の側でも官軍の動向をにら
んで,降板の間で揺れがあることがみてとれるようであるが,そのことは−・体 いかなる:理由によるかということである。 2ル 陳吊眼の叛乱 福建の樟州,汀州のあたりを中心に活動した陳吊眼は,F元史』をはじめと して,文集や地方志などにも比較的多く断片的な記録があらわれる。吊眼はそ の本名というより通称のようであり,弔眼と正字につくるものもあるが,今は 『元史』本紀の表記にしたがっておく。その最も早い時期の記録は『宋季三朝 政要』附録「広王本末」にみえる。宋の景炎2年,また元の至元14年(1277) のことである。ひき 七月壬申,張世傑,泉州を囲む。准軍及び弔眼・許夫人の諸洞の愈軍を将
はじゅこうとざ ゐ,兵威やうやく振ふ。蒲寿庚,城を閉して拒守す。興化の陳肇,家丁・
民義五百人を起して世傑に応ず。八月,謝洪永,任じて進んで泉州の南門
かつと を攻めて克たず。蒲寿庚ひそかに愈軍に賂し,城を攻めて力めざらしめ,
しかして救ひを唆都元帥に求む。ゆ ノト
泉州の蒲寿庚は桑原鴨蔵氏の有名な研究があるように,アラブ商人の出身で, 泉州に住みついて宋の政府の役人となっていたものであるが,すでに前年12月にモンゴルの軍門に降っていた。14)南宋の首都臨安を追われ,幼帝を奉じて沿
海地方を南下してきた張世傑は,陳吊眼や許夫人といった頭領にひきいられる愈軍の協力を得て泉州城を包囲した。寵城する蒲寿庚は愈軍にこっそり賄賂を
贈って攻撃に手加減をさせ,その間に元軍の到着をまっていた。愈軍について は,上の記事にさきだつ6月のこととして,文天祥が江西で手痛い敗北を喫し, 敗残兵をまとめて汀州に集結すると,南剣,建寧,郡武で元に帰するものも多 くあらわれ,「もろもろの愈軍みな騒動し,ついで元兵のために収復せられ」たというから,15)文天祥の募った義勇軍の中にも愈族の部隊が多かったと察せ
99 元初の愈族の叛乱について
られる。百家奴が至元13年r1276),福建北部を経略している際,愈軍と遭遇
してこれを撃退したこともあった016)元朝に最後まで屈服しなかった剛直の状元宰相として知られる文天祥は江西の吉州の出身であり,宝祐4年(1256),吉州の
隣の鞍州の知事に任ぜられたときにも,モンゴル軍に抵抗するための義勇軍を
募ったことがあった。そののち元軍に使して,その軟禁を脱し,鼻炎元年(至
あんぎいしょ元13年,1276)6月,福州の行在所に合流したとき,彼は江西を回復すべきこ
とを主張し,みずから南剣州におもむいて兵を募り,ついで汀州に入り,緻州
を攻略しようとしたが,やがて到着した元の李恒の軍隊に打ち破られた。文天
祥のこうした内陸部における痛動は,彼がこの地方の事情に精通していたから
図2一.陳吊眼以前の江南の抵抗運動と叛乱できたことである。合族がはじめ元朝に抵抗した契機の一つには,文天祥のこ の活動を数えねばならないだろう。 陳吊眼はその後も元に降服せずに,福建南部で勢力を保持していたと思われ オルジュイト る。『元史.巻131,完省都伝に,至元16年(1279)のこととして,陳吊眼が 数万の衆をあつめて汀州,削、卜lの地方を荒らしまわり,「七年いまだ平らがず」
とあるからであるJ7)その間,愈族の動向として注目すべきものとしては,至
ちんい 元14年(1277)10月,宋の都統であった陳託兄弟5人が番兵7千人とともに潮
ハラタイ 州潮陽県において吟刺鱒に降ったことがある。18)そして彼らが張弘範の傘下に
入り,宋の二王を攻撃し,文天祥を捕え,さらに日本遠征を助け,海運にたず さわったのであるから,その役割は決して小さくはない∩潮州は今日でも愈族 が居住する地域の1つである三9)陳氏兄弟が命族であった可能性は大きいと思 われる。いずれにしても,愈族で海上に活動したものもいたのである。 〔陳舐,陳義ら兄弟について〕もと海賊といわれる彼らは,賊を破るのに 功労あり,かつ戦船100膿を供出して宋のこまを征伐したというので,元 帥の張弘範の推挙によって,陳詫は招討使兼潮州路軍民総管に,その弟の 20ノ忠,義,勇の3人は管軍総管に任ぜられた。兄弟5人のうちいま1人
の名は明らかにできない。陳義(はじめ五虎と名づく)はなかでも頭角をあ らわし,至元20年(1283),みずから海船30膿をととのえて外国遠征に備アクハイ ぇ,21)また阿塔海が日本遠征用の戦艦3,000膿を建造するのに資金援助を
申し出た。ところが福建行省の宮人は,彼に謀叛の心があるのではないか マンタタイ と疑っていた。そこで世祖フビライは江准行省平章政事の忙几台を派遣し て調査させることとした。忙花台は陳義をともなって入朝し,その二心なパヤン きことを保証し,なお丞相伯顔の口添えもあって,彼は同知広東道宣慰司
2) 事を授けられ,彼の部下の林雄ら10人も上百戸に任命された ところで,陳吊眼が至元19年(1282)に樟州で刑死するまで,南中国で盗賊 として討伐されて殺されたり招安をうけたりした盗賊で,P元史』にその姓名 の伝わるものも数多い。盗賊というのは元軍に抵抗を試みたり,謀叛の疑いを かけられたものというにすぎないが,その地域的分布をみてみると,漸江,福 建,江西,湖南,広東,広西のいずれにもわたっている。この段階で梅州,循元初の命族の叛乱について 101 州のあたりの記録が欠けているのは,ここには実際上,元軍の力が及んでいな
いものとみえる。これらの叛乱勢力の中でも有力だったのは,高日新と黄華で
あった。いずれも南宋末期に武官に任命されていたものであり,23)高日新は至
元14年,張世傑と連絡して邦武において叛乱を起した。 24)黄華については後に述べることとするが,陳吊眼にとって悲劇であったのは,
同じ愈族出身でこのとき元に降っていた黄華を敵としなければならなくなったことである。元朝政府にしてみれば,福建の北部と南部の愈族を分断すること
にひとまず成功したのである。至元16年5月辛亥−,合族の釆降をうながす次の ような詔勅が発せられた。樺,泉,汀,郁武等の処,および八十四番の官吏軍民に諭す。もし能く衆
を挙げて乗降する官吏あらば,例として遷賞を加へ,軍民接堵することも
との如くせよご5)ここに官吏というのは,当然南宋の時の官吏であって,黄華の投降はこれに応
えるものであったと考えられる。¶方,陳吊膿は至元ユ5年(1278),捧州城にたてこもって公然と叛旗をひる
がいざん がえした。2年経って,陳吊眼らは福建行省に降服を申し出た。時に康山の戦
図3..陳吊眼振乱関係図も終り,行省も懐柔策に傾いていたから,これを受けいれて愈民が城内で住民
と雉処す・るのを許した。ところがそこに陳吊眼は再び城内で叛乱を起したから,
不意を衝かれた官軍は甚大な被害をうけたご6)播招討なるものは支えきれずに,
はうはうの体で泉州に逃がれたが,福建行省の宮人は彼の責任を追及して縛り
あげ,死刑に処せんとした。王道はそのとき福建行省左右司郎中をつとめてい たが,三晶官である招討を朝廷の裁可もなしに勝手に殺すことはできないと主 27) 張して,藩の命を救ったという。かんぷんこう 〔働文興の妻王氏のこと〕闘文興は建康の人,建康の土軍をひきいて招討
ふぜん の停全にしたがい,元軍に降って万戸府知事となった。美人の妻の王氏は
名を醜醜といい,夫と同郷の民家の娘であった。闘文興が停招討とともに
馴、匿赴くこととなると,王氏はどうしても夫に同行したいと言って,とも
に痺州にやってきた。そこに陳吊眠が城内で叛乱を起した。闘文興は奮戦 し,大いに叛乱軍を罵ったが敗れ,そ・の舌を断ち切られて死んだ。王氏は 捕えられ,叛乱軍のものにその実色をみそめられ迫られた。王氏は「夫の屍を焚いてから従いましょう」とあさむき言い,許されて薪を積みあげて夫
の屍を焚いた。火が燃えさかるころ,彼女は火中に身を躍らせて自殺した0
のち王氏は烈女と称えられ,至順3年(1332),政府は聞文興に侯爵を追おくりな 贈し,英烈と諾し,王氏を貞烈夫人といって表彰した。そのもと住んだ軍
営のあとを烈女坊といい,繚州城の東門の外には夫妻を記念して双節廟が 建てられた雲8) また『繚浦県志。に,至元17年陳吊眼が蕗州を攻撃するに際して霊著王廟に祈 祷して吉凶を卜したが,思うような吉兆をあらわさないため,腹立ちのあまり この廟を破壊したという逸話が載せられている◇29) 至元18年(1281),元窺いわゆる弘安の役がおこり,元の海船は暴風のため に転覆し,2度目の日本遠征は失敗した。ちょうどそのころが陳吊眼が繚州城 を占拠して威勢のよい時期であった。F心史」に載せる「元鞋,日本を攻めて 敗北するの歌」の序に,陳吊眼が痺州で山洞,山薬80余所を連絡して強盛を誇 っており,昌泰の年号を立て,元軍も容易にこれを攻め落すことができないありさまだと記されている。30)
元初の愈族の叛乱について 103 おそらく日本遠征が終ってからのことであろう,完者都,高興が淳州に到着 した。降将の黄華も同行したと思われる。陳吊眼の叔父の陳桂竜らは樟州城の 西北方の高安実にたてこもった。険固なこのとりでを攻略するために,高興は 一言ナを案じ,兵に薪の束でその身をおおい,山の半ばで薪を棄てて退くように させた。とりでからは矢石が降りそそぐが,6日間この作戦をくりかえすに及 んで,矢石がばとんど尽きてしまった。そこで薪に火をつけて,とりでを焼き
討ちして陥落させ,2万人を殺害した。31)陳桂竜はかろうじて命洞に逃れた㌔め
陳吊眼は樟哺県の峰山案を根拠地として,10万の軍勢を結集し,50余寒を連ね て抵抗した。陳三宮,羅半天,陳大婦らが−・党の有力者として『元文類』にみ えている。高興はその15寡を抜き,ついに陳吊眼を千壁嶺に追いつめた。そし 3) て申し入れて,山腹の中間で会談した折,突然腕をねじあげて捕えてしまったかくして陳吊眼は至元19年3月,酬城内において公開で処刑されたぎd)翌4
月,陳吊眼の勢力は完者都の軍によって完全に平定された。陳吊眼の父の陳文桂,父の兄弟の陳桂竜と陳満安は降服し,抵抗をした呉満と張飛は誅されたど5)
陳吊眼の一・党の処刑は至元18年11月にも行なわれたことがあり,武装解除のうぇで京師に護送されたものもあったど6)至元20年6月,陳桂竜はモンゴリアの
カン タ スン 7) 慈答孫に流された 至元19年5月,江西,福建両行省を−・時合併することとなったが,そのとき に福建の山岳地帯の県の鎮店の宣課を免ずる措置が講ぜられたり,命洞の人を 招諭し,その叛乱の罪を免ずるなどの布告が発表されたのは,陳吊限ら愈族の叛乱後における政府の対応とみられる㌔8)なお,成宗の元貞3年(1297),陳
吊眼の余党を汀州,馴、lの屯田軍として江漸行省の管轄下に編成したプ9)
3..黄華の叛乱 黄華の名がr元史.にみえるはじめは,同巻10,世祖紀至元15年11月辛丑の 次の記事である。 かっそう 建寧政和県の人黄撃,塩夫を集め,建寧・括蒼及び愈民の婦みづから許夫人と称するものを聯絡して乱を為す。詔し,兵を調してこれを討たしむ。4の
黄華自身が命族の出身であったことは,停衣凌氏の考証によって明らかであるが,41)問題は「愈民の婦の許夫人」である。前述のように,陳吊眼とともに張
世傑に協力したのも許夫人であったのだが,はたして同一人物なのだろうか。ぴん もし同一人物とすれば,閥南の陳吊眼と閻北の黄撃の二つの叛乱がこの許夫人
の存在によって連結されることになり,大変興味深い事実が浮かびあがってくる0 しかし,今はもう少し慎重な判断のありうることを考えておいた方がよいかも しれない。F元史。には許夫人はここ以外にはみえないのだが,単にその名を いうのならば,「合民婦許夫人」でこと足りるはずである。それを「自称」と するのは,陳吊眼とともに行動した許夫人とはまた別の愈族の女丈夫であったか もしれないからである。招蒼とは漸江処州の麗水県,今日でも愈族の多く居住するところであるご2)さらに注意すべきは塩夫を結集したことである。塩の運
搬に従事するものに合族が多くいたことが推測できる。勝手知ったる山中の交 通路であれば,叛乱に際してもかなり機動性を発揮しえたものと思われる。その勢力は3万人あるいは4万人といわれ,頑陀軍と号した乞3)
彼が高日新とともに,もと宋の武将としての地位を得ていたことは陳吊眼の 頓に述べた通りである。なお『元史』巻162,高興伝によれば,高興が黄華を 討って降したのを至元15年とす・るものの,本伝の素材のひとつとなったはずの 『惰河集』巻6にみえる高興の神道碑によれば,至元14年となっている。 至元17年,陳吊眼を討伐するための軍隊が編成され,完者都が福建等処征蛮 郡元帥,高興が右副郡元帥となった。この際,完者都は真筆を副元帥にとりた て,征蛮のことについて諮問した。完省都は黄華を味方に引きいれながら,な お同じ愈族を攻撃させようというわけであるから,黄華がねがえることがない かと−・抹の不安を禁じえなかった。そこで一・日,狩猟をもよおして武勇を示そ うと計画した。そしてみずから鷲の大空に翔けるのをひと矢にて射おとし,な お狩猟の大成果をあげたから,黄華はすっかり感服してしまった。完者都は朝 廷に上奏してともに賊を討つこととし,ここに黄華は正式に征蛮副元帥に任ぜ ささがけ 4) られた。それ以後彼は討伐軍の前馬区となって5つの薬を破った 陳吊眼の叛乱ののち,黄華は建寧路管軍総管に任命され,故郷にもどってい たと考えられる。ところが至元20年(1283)8月,彼は10フラの軍勢を以て建寧 を中心に大叛乱を起した。やはり頭陀軍と写し「努髪文面」すなわち坊主頭元初の命族の叛乱について 105 図4..真筆叛乱関係図 にして顔に入れ墨していた。頭陀はもとより仏教用語で,托鉢の僧のことであ
ちょうへい る。そして宋の最後の皇帝超崗の年号を採用して祥興5年と称したご5)
叛乱軍のルートは,政和県で頗起したのち,崇安県,浦城県を攻略し,武夷 山を越えて信州の南門を焼いたが,鉛山県で高興の軍と戦って敗れ,8千人が 捕えられた。分水嶺で追撃する高興と戦ったのち,同年10月,建寧府城を包囲し プリンギティ て攻めたが,ト憐吉帯,史弼,高興,劉国傑,伯顔の兵2万2千人と,福建行 フラチュ 省左丞の忽刺出の合撃にあい大敗した。このとき彙都統,梁都統ら有力な部下 が捕えられた。黄華は一旦は江山洞に逃れたが,追われて赤巌の山中に至り,半日の戦闘の末,火中に身を投じて自殺した。その2人の弟と妻子も捕えられたごの
至元21年正月のことであった。赤巌とは政和県城の乗南の赤巌鎮のこと,また 同県の北に位置する飛鳳山は一名真筆山ともいい,黄挙が山上にとりでを築いたところと伝えられているご7)黄撃と戦って功労をあげたものとして,『元丸
チドゥル に直脱児,貰文備,賀祉の記事があり,48)『滋渓文稿』巻15に趨伯成の神道碑
文がみえているご9) フラチュ この間,忽刺出が疲乱の民衆をことことく殺歎しようとしたのを,劉国傑は 招安の策を堅持して投降をまつべきことを主張した㌔0)また元の蒙古待衛親軍 パフタイ 都指揮使の八忽帯(八忽鱒)が蒙古軍1万人をひきいて仙霞嶺に駐屯していたとき, 至るところで一・般の人民を殺害したり捕虜にするようなことがあったが,これも 劉国傑が早速やめさせたので人々は安堵したと彼の神道碑文に記されている051)
ところがその八忽帯は都に凱旋して,捕虜171人を差しだしている㌔2)当時同
様のことば他にもみられ,江西の叛蓮の妻子を鷹坊戸や虎を飼育するものに賜ったり,瑞州の叛民姜順ら33人と妻肇を京師におくるなどのことがあった㌔3)ぉ
そらく再び故郷に送還されることばなかったであろう。 泰州総管の劉発は黄華の軍に投じようとしたのが発覚して,死刑に処せられ 4)た『元史。にはこれを秦州とするが,江蘇揚州の東の泰州の誤りに相違な
い。彼はかつて宋の李庭芝の部下で,元軍が泰州を攻撃したとき,孫良臣らと ともに城の北門を開けて投降したものであろうど5)おううん 黄華の叛乱は,数年ののち王将が「福建一・道収附ののち,戸ほとんど百万,黄
章一度して十にその四を去る」と回顧しているように,56)福建北部を中心に大
変な動揺をまき起した。政府は江南が内附したといっても,なお真の征服の容 易ならざることを痛感し,かつ宋の復興を図るものが出るのを恐れ,乱後ただ ちに宋の宗室やかつて大臣として宋に仕えたものを内地に移住させ,翌年には宋の広王,陳宜中を追討する命令を発した㌔7)広王趨局は産山で陸秀夫に抱か
れて海中に死し,陳宜中は占城に落ちのびたが暴風に遭って死んだはずである。 58) 当時,南中国では彼らの生存を信じ,元の朝廷でもその死亡は確認できてい なかったのである。また民間に流行している天文,占い,暦の書を学習したり 隠し持つことを禁じ,武器を没収して役所に保管することとした。その際,行 省,行院,行台ではそれぞれきちんと管理できるが,それができないところで ダルガナウイグル は達魯花赤や畏九人,回回人で官職にあるものに掌らせることとし,漢人や新 附の南人にはたとえ役人に取りたてられているものでも,絶対にこれにあずか元初の愈族の叛乱について 107 9) ることはできないようにした 至元21年4月,江南の塩徒の軍を接収したと『元史』にみえるのは,もちろ
ん黄華の叛乱軍をさしている㌔0)8月には福建の愈軍について武装を解除し,
その部族の長は近いところの州県の民官に運転させ美㌔1)この命令は至元24年 閏2月にも,「宋の命軍の将校を以て管民官を授け,郡邑に散ぜしむ」という形で繰りかえされている㌔の至元22年8月には黄華の愈軍の解体が行なわれた。
財産のあるものほ民戸として登録し,財産と妻子のないものについては守城軍として編成することとした㌔3)『元丸巻100,兵志,屯田にみえる枢密院所轄
の忠期待衛屯田の中の「黄華の領せる新附屯田軍一千人」とは,64)さきの待衛
親軍都指揮使の八忽常に帰属させられたものであろう。 なお鍾明亮の叛乱のさなかの至元26年11月に,黄華の弟の黄福が陸広,馬勝というものと結んで叛乱を謀り,発覚して誅殺されたど5)
4一.鐘明亮の叛乱 政府の江南叛乱に対する予防策,愈族対策にかかわらず,黄撃の叛乱終息の のちにも,なお各地で叛乱の続発を免れなかった。鍾明亮について検討する前 に,それらのうちで主だったものをここでかいつまんで述べておこう。よう 黄挙が自殺して間もない至元21年(1284)2月,広西の邑州,賓州の民貴大
しょう 成らが叛乱を起こし,これがきっかけとなって梧州から,広東の青州,湖南の
衡州にも波及した㌔6)同じころ瑞州の嬰順の叛乱のあることはさきにふれた≡7) イェトミシュ 同年11月には広東の海賊黎徳が江西行省参加政事の月的華失によって捕えられ てその場で誅せられ,その一堂ユ33人が降服した。黎徳の弟の黎浩と招討を称していた呉興は厳書に京師に護送された㌔8)『養蒙先生文集。巻4の劉鐸の先
埜碑によれば,黎徳は船千膿を集めて州県を荒したので,劉鐸は製塩場の人夫 をひきいて襲撃からまもり,叛民を服属させ,また販塩の戸の周従竜ら40家も 賊軍をはなれて帰順してきたというどのまた『牧苺凱巻23の王守信の神道碑 O) によれば,黎徳の勢力は船7千媛,その衆は20万と号したという 黎徳の余寛がようやく平定されたのは至元22年2月のことであったさl)休む間もなく,
月的迷失は潮州,恵州で活動していた郭逢貴を討ち,45薬を抜き,1万余戸,兵3,610人を降した三2)広東方面で150余案を陥落させて月的迷失は,郭逢貴ら
有力者をひきつれて京師にのぼり,世祖に事の次第を報告した。世祖が「彼ら は戦ってのちに降ったのか,それとも招安をうけてすぐに降ったのか」と問うはりつけ たのに対し,月的迷失は「首謀者で抵抗したものはすでに礫にいたしました。
これらはみな招降したものでこさいます」と答え,なお,叛乱後の現地に対し 3) ては良吏を派遣し,ゆきとどいた撫治の必要なことを説いた む ちんそんし 至元23年には,婆州永康県民の陳巽四が普済寺に結集して謀叛を企てたかどで摘発されて処刑された。74)同じ婆州の施再十の叛乱は高興によって平定され
さゆう たさ5)はかに湖南の李万二76)嵐惜仁県の察福一一・77)微州績渓県,欽県の村三
図5..黄華の敗北より鍾明亮の蜂起に至るまでの江南の諸叛乱
元初の愈族の叛乱について 109
八,法子十78)の叛乱討伐の記録があり,さらに衰州宜春県で朱子こが神降を
称したり.79)漸東で天降大王と称するものが現れたりした㌔0)
鍾明亮の蜂起のあった至元24年には,新東嬰州の林洪,柳分司が討伐をう軋 gり ちょうちきょう 福建では張治国が捕えられたが,彼は翌年のはじめには泉州の山中の湖東から泉州城を攻撃している。8の泉州晋江県の安渓の土威張大老と方徳鎮は,傘族や
無頼のもの2万余人をあつめて長年にわたり勢力を維持していたが,さきに陳 吊眼の項でふれた王道が至元24年,泉州路総管として赴任するに及んで,賊酋 23人を捕えて泉州でこれを処刑した㌔3)「福建の首賊」といわれた張治国が張 大老と同一人物である可能性があろう。 至元25年のはじめには,賀州の賊7百余人が封州の諸郡を,循州の腋ユ万余人が梅州,また繚州樟浦県を,泉州の賊2千人が痺州長泰県を,汀州,敬州の愈
とうけんきょ 族千余人が酬竜渓県を攻撃したプ4)同4月には広東の董賢挙ら7人が大老と 称して叛乱を起こし,吉州,敬州,撫州,竜興,南安,額州,雄州,汀州と広い範囲を掠奪してまわった㌔5)また処州の柳世英,β6)潮州の察猛,柳州の黄徳
清が討伐をうけた㌔7)劉国傑は湖南から広西方面において,大繚と称するもの
を次々に平定した。a8)大繚は大老に通じ,愈族とは称されなかったが,おそら
く堵族系統の洞蛮とみられる。 鍾明亮が命族出身であると明記された史料を発見しえていないが,鍾氏が愈 族ではきわめてポピュラーな姓であることに加えて,彼自身汀州の出身で叛乱軍の大首領となったことから,8の『命族簡史止にみえるように,これを愈族の領
袖とみるのが妥当であろう。至元24年(1287)の冬,鍾明亮が蜂起すると,南トコン 剣州に駐屯していた趨伯成は,福州路達魯花赤の脱歓とともにこれを捕えたと
『滋渓文軌巻15,趨伯成の神道碑にみえている。90)『元史』にあらわれる最
初の記録は,至元26年正月,鍾明亮が敬州から寧都県を攻撃し,秀嶺を根拠地 としているので,江准行省と江西行省とが協力して掃討にあたることとなったというものである。91)同知江西行枢密院事の月的迷失はこのころの叛吉Lには,
江西,江准,福建の3省の軍隊を出して事に当らなければならないと説いていた㌔2)至元26年2月,この作戦が成功し,同年5月,鍾明亮はその衆18,573
人をひきいて降服してきたど3)ちょうどそのころ,台州寧海県の人楊鏡竜が元軍が
移動したすきをついて12万人を結集し,大興国皇帝を称し,東陽県,義烏県を攻
略し,漸東の情勢がにわかに緊迫してきた折であったので,94)鍾明亮の降服を
買駅 受けいれると,早速3省の兵はそれぞれのもち場に帰っていった。 叛乱勢力をできるだけ招安するのが月的迷失の方針であったから,彼は鍾明 亮を循州知州に,末子賢を梅州判官に,丘応祥ら18人を県声や巡尉に任命する ように請うたが,世祖はこれを許さず,鍾明亮と丘応祥を直ちに都に赴かせる ように命じた。月的迷失は鍾明亮の貢物を献上するなどして,とりなしを図っ たようであるが,結局うまくゆかなかった。同年間10月,彼は丘応祥と董賢挙をつれて京師におもむいた。96)月的迷失が鍾明亮を同行しなかったのは,恐らく
鍾明亮を意のままに動かすはどの力が月的迷失の方になかったからであろう。 鍾明亮は愈族を中心として江南で多くの支持を得ていたから,そもそも力屈し て降ったのではなく,ある一定の約束のもとに招安の取り引きをしたのだろう。 鍾明亮は月的迷失が丘応祥と竜賢挙を連れ去ったのに憤慨したとみえ,直ち に循州で顔起し,1万人をひきいて梅州を攻撃し,江躍というものも8千人を ひきいて淳州を攻撃すると,轟州,雄州など20余処であいついで呼応して挙兵し,叛乱軍の勢力は再び燃え広がった㌔7)建昌の丘元,馴、l,割、卜lの謝主簿,
らいがいこう劉六十,撫州楽安県の慮大老,南豊の冨文江らが
そうであるど8)さらに胡海が額州で,陳機察が馴、lで叛乱を起こした㌔9)黄撃の弟の黄福が叛乱を企てたの
‖ⅩⅨ もこのころであった。 福建,江西合同で討伐すべきことを命ぜられたとき,月的迷失は世祖から叱 責をこうむらざるをえなかった。 鍾明亮が降ったとき,朕はこれを閲に赴かしめるよう命じたにかかわらず, 汝はぐずぐずしてよこさなかったから,このような変事を起こしてしまったではないか。今後は賊を降したならば,直ちにこれを遺すようにせよとOl)
ちょうどそのころ,婆州の賊菓万五が1万人を以て武義県に攻め入り,江准行 省はこの対策に忙殺されていたが,翌至元27年2月には千人を江西に派兵する 102) ことが命ぜられている。同月,鍾明亮はまた降服した。103)このたびの降服は江西行省左丞の管知徳が
アウルクチ 説得に努めた結果であった。江西行省左丞の奥魯赤が鍾明亮を殺そうとしたの元初の愈族の叛乱について 111 に対し,管知徳ほ「元朝は人道的で,いまだかつて降服したものを殺す−ような ことをしたことはない。鍾明亮は叛人ゆえ惜しむことはないが,ただ問題は, 信頼が失なわれてはならないということだ」と主張して譲らなかったご04)至元 27年5月,首謀者を縛して京師に連行すべきことがかさねて命令された。ところが 今度は管知徳が鍾明亮を都にやろうとしないでいるところに,鐘明亮はふたたび
衆をひきいて擬州に冠した。105)責任を追及された管知徳は44歳の若さで,軍中
でそのまま亡くなってしまった。106)彼はもと南宋の軍人の家に生まれ,父ととも
に元に投降した人物であったご07)なお至元27年2月,鍾明亮が降ってそのわず
か7日後には,別の愈族で華大老,貴大老と称するものが裔州楽昌県を攻撃し, 江西行枢密院が出兵しているJO8)5月以後,江西地方ではさまさまな動きがあった。江西行枢密院を廃止し,
ようぶんさんオイラタイ 省治を捕盗の便宜のため竜興から吉州に移し,楊文壌や外刺帯が行省官として 派遣され,パトロールには弓矢を携帯させることとなり,江西行省の印を別に給して討賊の便をはかるなど,109)いずれも鍾明亮の度重なる叛乱がひきおこし
た混乱とそれに対する政府の苦慮を物語っている。おま桝こ7月には江西省一・
帯に大雨が降り,竜興の城もはとんど水に没するほとになった。鍾明亮の乱の 被害のために特別減税も実施されたJ10)さて鍾明亮はどうしたのか。その後の彼の具体的な足蹟を伝える史料は見付
けていない。ただ至元28年(1291)正月に権臣の桑守が失脚し,江南の諸行省
に派遣されてかなりの混乱をもたらしたその一派が駆逐せられるに及んで,鍾明亮の叛乱も新しい局面を迎えたのではないかと思われる。F水雲村東山巻13
に載せる「汀完鍾明亮事略」は大徳2年(1298)に書かれたものであるが,鍾
明亮の叛乱を回顧して以下のようにいっている。彼は廟堂と諸行省に対応を余儀なくさせ,数年その力を出しつくさせたあ
げくに,ようやく軍前にまかり出たのだが,詐り降服して誠意なく,その 倣慢な態度,意1気も変わることがなかった。しかもいまだかつて一度として政府軍と鋒を交えて決戦したこともない。そしてついに安らかに首領の地位
を保ったまま亡くなった。死後も人々の畏敬の念はおとろえず,位碑をまつり,
その残された影響力によって今なお組織を結束させ,ただちには壊滅する
ことばない。彼は−・体どうしてこのようになったのか。これを盗賊という
111)
のは簡単だが,やはりこうなるべくしてなったのではないだろうか。 王慣も,鍾明亮の叛乱は黄華の場合よりもはるかに深刻で,一挙にこれを討伐 することは難しく,長期にわたって包囲して勢いの衰えるのをまち,かたわら 12) 重臣を派遣して招諭するのがよいと提案していたご元朝官憲が鍾明亮の生命 を奪うこともできず,また都に護送することもできなかったのは,鍾明亮が単 にひとりの叛乱首謀者であったにとどまらず,その背後に合族をはじめとする 江南の人民のあと押しがあったからである。要するに彼にはうっかり手出しを 許さないだけの実力があったのだ。かかる状況のもとでの降服や招安というも のは,しばしば双方の妥協,歩み寄りなのであった。 5.問題の整理 これまで陳吊眼,黄撃,鍾明亮の3つの叛乱の経過をたどってきたのは,そ の経過の中に叛乱の性質をみきわめようとしたからである。次にいくつかの視 点から考察してみよう。 (‖ 時期をめぐる問題 ここにみた江南の諸叛乱は宋,元交替の過程の中で起こったことである。し たがってこれらの叛乱を歴史的にとらえようとするには,元朝の江南支配の過 程との関連において考察することが是非とも必要である。まず南宋の残存勢力 による宋室の復興超勤,ついでそうした傾向の名残りとしての反元朝のスロー ガン,そして桑苛の専権期における江南支配に対する抵抗といった段階が考え られる。陳吊眼,黄撃ともに南宋末期に宋の軍隊の部将であった。張世傑や文 天祥ら宋末の大官との関係は,愈族にとって浅からぬものがあったと考えられ る。とくに文天祥が首都臨安が陥落したのち,故郷の江西を宋室興復の根拠地 としようとしたことは想像するに難くない。江西に入る前に福建山中で義勇 軍を募るなど,軍隊を建て直す際に命族が頼りとされたことは十分考えられる ことである。彼は敬州を攻略するのに,南あるいは乗から攻めず,元軍との連 絡を断ち切るために,まず敬州の北方に展開して北からこれを攻めたのである元初の愈族の叛乱について 113 が,元軍の支援は意外に敏速であった。そのため彼は江西山中で手ひどい敗北 を喫し,その意図は挫折してしまった。 モンゴル軍の征服活動にしたがい,各地で宋の役人,武将は態度決定を迫ら れた。元初の江南の諸叛乱の首謀者には当然ながら宋に仕えていたものがみら れる。またひとたびは元軍に編入されながら,あとになって叛したものもある。 降服して元の管軍総管あるいは招討便などの肩書をうけ,元の征服活動に協力 したものも相当多かったはずであり,かえってこれを転機として元朝政権のも とでの昇進を願うものもいたに相違あるまい。但しそれが彼らに常に幸運をも たらしたとはかぎらない。黄華に関してみた泰州総管の劉発,また鍾明亮に関 してみた江西行省左丞の管如徳のディレンマ,悲劇を想え。 至元ユ6年(1279)産山で宋室の命脈が絶たれたあと,膜吊眼,黄撃は拠るべ きところを失ない,元朝から盗賊として追及されざるをえなくなる。この過程 で両者は連合するどころか,元朝によって分断され,経過は単純ではないにし ろ,それぞれ敗北に追いこまれていった。そしてこの元軍の叛乱鎮圧の行動が他 の貪族や一般の江南の人民に元朝の支配に対する不安をかきたて,その後の叛 乱頻発の伏線ともなったであろう。 桑苛の専権期(至元24年間2月∼28年正月)には江南に対して積極策がとられ, 特使を各地方に派遣して徴税体制を強化するなどしたため,各地でさまさまな
乱轢をひきおこした。113)その底辺の民衆の動向として,江南の諸叛乱に注目す
べきであろう。鍾明亮の叛乱はちょうどこの時期にあたる。桑苛は彼の計画を 完成させることなく,政変によって失脚して処刑された。鍾明亮が元朝の招安 を結局は受けいれずに生涯を全うしたことは,そうした中央の動向と関連する ともみられる。『元文頬』巻41,経世大典,政典,招捕にかほどに有名な鍾明 亮の叛乱について何ら言及されていないのは,その叛乱の成り行きに元朝政府 として甚だ不満な点があったからであろう。そして桑苛が失脚したその後には, 江南の叛乱の発生が以前はどの頻度でないことは,やはり桑苛の時期の江南に 対する政策と叛乱の発生との因果関係を推測させるものと考えられる。(2)元朝への抵抗 元軍に抵抗したとなると,特に初期においては宋への忠誠,追慕ということ が前面にでてしまいがちになるが,それのみを以てしては律しきれない側面が ある。一方,愈族がモンゴル族の支配に抗して立ちあがった民族運動というと しても,それだけで片付けられない。愈族の叛乱の経過をみる中で反元朝の契 機を探りたい。黄華や鍾明亮にみられるように,一度降服したものが再び蜂起 することがある。後者に至っては,双方が相手の出方をはかっているような印 象もある。官吏が都に護送するのをためらったり,また鍾明亮が降服して元軍 の陣中に居りながら,抜け出して叛乱を起こすのが可能であったことなどは, 降服の事実の何たるかを疑わしめるはどである。つまり双方が決戦を避けよう とする,徹底しない態度であっても妥協してゆこうとするのは何故であろうか。 私には不徹底であらざるをえない理由があるように思われる。 もともと宋の軍隊は遼あるいは金と対時しなければならなかったから,精鋭 部隊は北方の国境線に集結配備せざるをえなかった。となれば南は当然手薄に なるのであり,山中の愈族をはしめとする蛮族とも妥協してゆかねばならなか った。そこで末代から愈族を郷丁,槍使手などと称して,現地軍として召募し て編成した。末代に愈軍といわれるものが存在したことは黄撃の項でみた通り
である。こういう現地軍の編成は全国各地で行なわれたが,いま『宋史』巻
191,兵志によって江西,福建の事例をみてみよう。 0興寧7年(1074),詔し,虔・汀・樽の三州の郷丁・槍手等を籍す。制置 う 盗賊司の「三州は嶺外に壌界し,民,塩を販るを喜び,かつ盗をなす。土 l14) 人にあらされば制すあたはず」と言ふを以ての故なり。 けんしゅうは りょうおん 0元豊元年(1078),(福建路)転遵便賽周輔言ふ。「摩恩盗をなし,槍使 手を以て捕殺せしめしに,すなはち槍使手の名を冒して賊勢に乗じ,村落を驚擾し,患,蓼恩より甚しきものあり。」115)
じょうかんきん 0元祐元年(1086),御史上官均言ふ,「福建路,往年,冠盗に因りて槍手 を召募し,多きは数百人に至り,少きもー・,二百人を下らず,毎歳監司み づから至りて按試,稿賞するに,閲祝するころほひ,その老弱にして武技に閑せざるもの十の七,八なり」116)
元初の命族の叛乱について 115 第1の例は郷丁,槍手の目的が私塩や盗賊の取り締りにあったこと,第2,第 3の例は槍使手にはどうも質のよくないものが含まれがちであったことを示し ている◇ということは,私塩を取り締り,盗賊を追捕することも容易ならさるこ とが推し測られるであろう。しかしながら,これはこれで宋の休制の中で位置 づけがあったとみることもできよう。山地の住民がこうして軍人としての職を 与えられ,私塩や盗賊の目こぼしなどしながらも,とにかく叛乱を起こさずに 宋の現体制の中に位置づけられるメリットは宋の政府にはあったというべきで ある。 それのみならず,官軍と盗賊の関係はもっと近接しているともいいうる場合が あった。南宋の淳興年間,福建路安撫使であった趨如愚は汀・額の盗賊の利害 を論じて興味深い指摘をしている。それによれば額州は江西で官吏の人民を苦 しめることがもっとも甚しく,汀州は福建で同様の意味で最悪のところである。 汀州では諸蒸の土軍と一般の人民との間が大変険悪になっている。それは経界 法の運用の仕方がまずく,取り立て不能の税賦を諸薬に与えて寡兵の衣糧とし, その分は寡兵みずから取り立てさせることにしたため,彼らは武器を携えて郷 村を巡り,納めろ納めないできぴしい対立状態になっている。しかも,その地 の安撫司に所属する数人の武宮はみなかつて招安をうけた盗賊であったという のである三17) また南宋劉克荘のF後村先生大全集。巻93,「樟州諭愈」には,金族に対し ては「不治を以て治め」てきたのであり,「愈民は役せず,合田は税せざるこ
と,その来るや久し」とみえているJ18)愈族には他の人々とはちがった税役徴
収上の特別待遇があり,またある程度の自治が黙認されていたと思われる。さ らにこの文には卓得慶が会族の叛乱をうまくおさめたことが記されているので こうかはでん あるが,卓得慶は興化府青田県の人,『宋季忠義録』に載せられている人物でぁることを思えば,119)愈族に理解ある人が元朝に抵抗する側に居たことになる。
さきに述べたように,陳吊眼の叛乱のあと「福建の山県の鎮店の宣課を免じ」 たことも,愈族を優遇して懐柔しようとする措置であったろう。F牧奄集』巻25の梁踪の神道偏によれば,梁環が至元24年,建寧浦城県の群盗に降服を説得
しにとりでに出かけたが,その時「汝らはみな平民,州県の董賦,繁役を逃れようと,このようなやむをえざる挙に出たのであろう」とまず理解を示してい
る三20)壌苛専権期に看い税賦の負担が民衆に及び,そのことが叛吉Lにつながっ
たことを物語っている。浦城県が黄華の根拠地であったことを想起するならば, この人々がはしめ味方した叛乱の指導者も命族である可能性がある。 愈族が保護されるどころか,南宋の残党に協力した危険分子として討伐され ると知ったとき,動揺して叛乱を起こし,元朝に抵抗し,その∵方で宋の時の ように妥協してゆけないかと和平のタイミングをはかるのは当然であろう。降 服した叛乱者は民官に任命するなどの措置に,元朝側としてもそうした対応を するのにやぶさかでない態度がみてとれる。叛乱者を政府の役人として取りた てることは末代からしばしばみられた。鍾明亮が月的迷失に降服する条件が, 結局実現しなかったのだが,循州の知州に任命されることだったのだろう。 (3)ゲリラの生態 これまでみてきた叛乱軍の中に,相当広い範囲に及ぶものがあった。もちろ ん根拠地のとりでの中にたてこもることもあり,1つの蜂起に呼応してあちら こちらに叛乱が飛び火する場合もあろうが,しばしば地域的に機敏に移動する。 至元25年のはじめにはそうした盗賊の移動が多くみられ,ひきつづいて起こっ た童賢挙,鍾明亮の活動範囲もきわめて広い。そういう機動性は愈族など山地 の住民の得意とするところであったとみえるが,ここで問題にしたいのは,そ れが交通や流通の問題と結びつくだろうということである。すでに佐伯富民は 宋代の茶塩の密売業者である茶賊,塩賊が軍隊に編入され,また義勇軍として 21) の茶南軍に編成され,南進する金軍と勇敢に戦ったことを論じているさら に佐竹靖彦氏は末代の緻州の環境を論じて,ひとつには私塩の流通の問題をとり あげ,准南塩流通と定められているこの地に広東方面から私塩が盛んに流入し, 122) 私墟密売の範州の商人たちが盗賊行為を働くこともあったと指摘した。 元代江南の諸叛乱の歴史的土壌は,末代の社会と通有の部分が多いはずである。 この意味で黄華が塩夫を集めて蜂起したのはとくに注目される。塩の運搬に従事し ていた愈族ほ,それが政府の官売塩の運搬であろうと,闇の塩の運搬であろうと, あるいはその両方を時によって使い分けようと,いずれにせよ交通路を一時元初の愈族の叛乱について 117 には秘密のルートをもー熟知していたものたちである。このことが叛乱軍のゲ リラ活動に計り知れない利便を与えたことは想像するに難くない。なお至元21 年頃,広東の黎徳の叛乱軍の中から販塩の戸が投降してきたことは鍾明亮の項 にふれた通りである。元朝政府でも叛乱の広域性に対応するため,しばしば各 省合同で討伐軍を編成しなければならなかった。
卓よう 末代の史料にも,汀賊の妻大老123)とか羅愈洞首の黄応徳124)など創戎の指
導者とおばしきものの名がみえている。今後,宋元時代を通して茶賊,塩賊な どの生態と重ねあわせて理解する必要があろう。 (4)元朝の江南支配との関野叛乱を平定したからといって,それが直ちに支配につながるものではない。
叛乱の経過についてみてきたように,政府の側と叛乱者の側と,その両者の乱
轢の中から新しい支配の方式が生みだされる。元朝の江南支配の上で積極策を
かっかんしょうすうとったのは桑苛であり,彼は土地と人民の登録,即ち括勘と抄数を推し進めて
徴税体制の強化をはかった。そしてその失脚ののちには,桑寄によって残され
た財産(括勘と抄数)に依りながらも妥協的な政策が採用された。125)その法制的
表現を我々は元朝で最初に頒行された法典F至元新格」の中に認めることができるJ26)その防盗の項6箇条は,全くここに扱った江南の諸叛乱に対応して定
められたものである。つまり桑守以後の比較的ゆるやかなところのある体制は
愈族との関係においても同様になったと考えられる。ただし,このことは南中
国の一・般人民にも命族に.も,平和と安寧がもたらされたということではない0
こののち延祐年間に新たな土地の調査である経理が実施されたときには,また
南中国でひと騒動がもちあがった。端的にいえば,元朝政府が南中国をその範
囲のうちに掌握するのに適当なさじ加減を,比較的に妥協的でゆるやかな支配
体制の中に発見したという意味である。 本稿では,いわゆる海賊の招安,海軍の形成,日本との関係についてはあま りふれることができなかった。また命族の歴史のほんのひとこまを扱ったにす ぎない。あわせて今後の課題としておきたい。注 (1)『愈族簡史。(中国少数民族簡史叢番)1980。また愈族など山地民族の社会人類学 的研究として,竹村卓ニ『ヤオ族の歴史と文化』(1981,弘文堂)がある。 (2)『精粋類紗』巻91「処州愈客之服飾」にいう。 屠家着木履,則又似日本。婦人之首所蔵,有日狗東名,可置於頭,若柱然。其製為 長二寸余之竹筒,外包花布,辺鏡以銀,懸珠玉,後垂赤札結髪,亦有償着一巾・ 如日本郷婦者。 愈婦の狗頭冠の形式など,そのトーテム文化については,凌純声「愈民図騰文化的研究」 (『中央研究院歴史語言研究所集刊』第16冊,1947,所収)参照。 (3)胡伝楷「愈民見聞記」(『高貴半月刊』第1巻第12期,1934,所収)に引く沈作乾 「愈民調査記」。 (4)『\愈族簡史』(注(1))。 (5)注(1)に同じ。また蒋柄到「’愈族族源初探」(F民族研究』1980年第4期所収)参照。 (6)胡伝楷「愈民見聞記.」(『高貴半月刊』第1巻第12期,1934,所収)。 (7)『清稗類砂』巻21「愈客得与考試」。 (8)『愈族簡史』(注(1))。 (9)常州については,佐竹囁彦「末代磯州事情素描」(『青山博士舌稀紀念末代史論叢』 1974,所収)参照。 (10)陶希望「元代長江流域以南的暴動.」(『食貨半月刊』第3巻第6期,1936,所収)。 (11)黄清適「元初江南的数乱(1276−1294)」(『中央研究院歴史語言研究所集珊』第 49本第1分,1978,所収)。 (12)停衣凌「福建愈姓考」(F福建文化』第2巻第1期,1944,所収)。 (13)『架季三朝政象』附銀「広王本末」にいう。 七月壬申,張世傑園泉州,将准軍及弔眼・許夫人諸洞愈軍,兵威梢振。滞寿庚開城 拒守。興化陳環起家丁・民義五百人,応世傑。八月,謝洪永任進攻泉州南門不克, 而滞寿庚陰賂愈軍,攻城不カ,而求救於唆都元帥。 同内容の記事については,『宋史』巻451,張世傑伝,『宋季忠義録』巻2,参照。両 苔とも弔眼の上に陳の字を補う。 (14)桑原隣蔵『蒲寿庚の事蹟』1935(またけ漆原鴨蔵全集.』第5巻,1968,所収)。 (15)『宋季三朝政要止附録「広王本末」にいう。 時処置安撫衆兵数万,在永豊境。(カ天祥引兵就之。会其軍亦潰,収散兵復入汀.而 南剣・建寧・郡武,多有帰正者,諸命軍皆騒動,尋為大玩〕兵収役。 (16)『元史』巻129,百家奴伝にいう。 頃之,絢地福建,行定衝・姿・信等州城邑,至新安県,1‥‥り…道与愈軍遇,疾戦敗之。 (17)『元史』巻131,完者都伝にいう。 (至元)十六年,授昭勇大将軍,遷管軍万戸。樟州陳吊眼衆覚数万,劫掠汀・港諸
元初の愈族の叛乱について 11夕 路,七年末平。 (凋 『元史』巻132,吟刺鱒伝にいう。 (至元十四年)十月,進昭勇大将軍沿海招討使。…‖‥・進至潮陽県,宋都統陳部等兄 弟五人以命兵七千人降。 (1功 『中国少数民鼠』(1981,人民出版社)愈族。 (20)『元史』巻10,世祖紀要元16年2月庚寅の粂にいう。 張弘範以降臣陳蟹兄弟破賊有功,且出戦船百舷,従征宋二王,請授弦招討使兼潮州 路軍民総管,及其弟忠・義・勇三人為管軍総管。 俊1)『元史』巻12,世祖紀至元20年11月突丑の粂にいう。 総管陳義願自備海船三十般,以備征進,詔授義万戸,侭虎符。義初名五虎,起白海 盗,内附後,其兄為招討,義為総管。 (22)『元史』巻131,忙花台伝にいう。
(至元)ニ十一年,拝江准行省平牽政事。初宋降将五虎陳義嘗助張弘範檎史天祥,
助完者都討陳大挙,又資阿塔海征日本戦艦三千腰。福建省臣言共有反側意,請除之。 帝使忙花台察之。至是忙花台携義入朝,保其無事,且乞寵以官爵,丞相伯顔亦以為 言,乃授義同知広東道宣愚司事,授明珠虎符。其従林雄等十人,並上百戸。 但3)『滑河集』巻6,高興の神道碑にいう。 宋故将黄撃以四万人畔,公降之。宋故将高日新・従閻畔那武,公討降之。 高従開は『元史。巻162,高興伝の記事にしたがい,高従周の誤りとみておく。また 『読史方輿紀要』巻97,建寧府政和県,簿坑山にいう。 −・云,黄華宋時建寧左牽干天長。 紬 『宋季忠義録』巻2,端宗末帝本紀にいう。 (至元十四年七月)乙巳,張世傑囲泉州,避将高日新後部武。 『元史』巻11,憾祖紀至元18年正月発亥−の粂にいう。 郁武民高日新拠竜楼薬為乱,檎之。 『元史』巻11,世祖紀至元18年11月己巳の条にいう。 高日新及其弟鼎新等至開,以日新両為茨首,授山北蕗民職。 (25)『元史』巻10,世祖紀至元16年5月辛亥■の条にいう。 詔諭樟・泉・汀・郡武等処怪ノけ四番官吏軍民,若能率衆来降,官吏例加遷賞,軍 民按堵如故。 e6)『大明樽州府志。(正徳)巻23,礼紀「雁表烈婦王氏神記」に,至元15年の事情を 伝えていう。 至元戊寅,命題陳吊眼宅入拠城凱張元帥南征賊衆宵遁,於是停招討等領軍鎮焉。 題二載,戯衆乞降干福建行省 干時革命之姐姑審懐柔,適倖入城,与屠民雄処。 亡何復叛,官軍忽諸死者十八九,停招討遺書,(闘)文興馬賊而死,其妻王氏同郡 人也,文興之戊,以涯為盗渕薮,不欲僧行,王氏以同室同穴死生之義,不可独処, 至是王氏為賊所掠,将遂室之,王氏因藷之日,「今者不幸犬死於兵,未知死所,於心終不忘,若引我焚痙夫屍,以終結髪之義,兼夫有害蔵,当尽発之,#帰千枚。」賊 以為然,引至屍労,為之積□機火,王氏躍赴火中以殉。賊鷲謂日,「此真烈婦也。」 欲捧而不可得,遂火化之而去。 臣7)『秋潤先生大全文集』巻55,王道の神道碑にいう。 降将吊眼陳拠痔州叛,賊勢張甚,招討播力不文,愉城走泉。行省以失守罪縛出,将 戦焉。公日,「招討秩三晶,有罪当票於朝,不可檀殻。」上官奴退督将二人率甲士 環公,日,「字不同署,罪当相及。」公乃具朝服,望朗再拝日,「省官不有朝廷, 哲哉以兵,欲将何為,吾寧与播同死,字不可得也,彼莫能屈。」播責減死論。 (姻 也26)参照。また『元史』巻200,列女,閲又興妻王氏伝,『大明浄州府志』(正徳) 巻14,礼紀,斬文興の伝,参照。『元史』巻19,成宗絶大徳元年12月丁■末の条にい う。 旋表烈婦港州招討司知事闘文興妻王氏。 (29)『痺浦県志』(民国)巻19,叢雫。 β0)『心史』「元韓攻日本敗北歌」の序にいう。 且今痺州陳弔眼拠滞巳久,地通諸山洞・山塞八十余所,拠険相維,内可出,外不可 入,以−・当百,勒串難昇一 意欲攻出未能,年号昌泰,未知擁誰為主,元賊力攻渾不 可得。 (31)誓己史』巻162,高興伝にいう。 (至元)十七年,渾州盗数万,拠高安来,官軍討之,二年不能下。詔以(高)興為 福建等処征蛮右副都元帥。興与都元帥完省都等討之,直抵其壁上賊乗高撤下撃之。興 命人挟束薪蔽身,進至山半,棄薪而退,如是六日,誘其矢石殆尽,乃燃薪焚其棚, 遂平之,斬賊魁及其党首二万級。 『読史方輿紀要』巻99,樟州府竜疾県,高安砦にいう。 在府西北。元至元十八年,州人陳桂竜拠此,兼高為険,人英敢進。元将高興以計焚 其山桂竜遊入愈洞。 『滑河集』巻6,高興の神道碑にいう。 賊拠高安砦。公身攻砦西北,中考矢五,破砦斬渠賊黄総管,得首二万。 (32)『元史』巻11,世祖紀至元17年12月壬辰の粂にいう。 陳桂竜拠樺州反。唆都率兵討之。桂竜亡入愈洞。 (33)『元史』巻162,高興伝にいう。 (至元)十八年,盗陳吊眼衆衆十万,遵五十余薬,楯険自国,(高)興攻破其十五 塞,吊眼走保千壁嶺,興上至山半,誘与語,接其手,黎下檎斬之,溶州境悉平。 『椿河集 』巻6,高興の神道碑にいう。 賊陳弔眼衆衆十万,拠五十余砦。公(高興)進破十五砦,陳弔眼隆険,公歩与賊角 −・日,賊不支,弔眼手殺妻子潜遁∴狂馬五百,明日,弔眼塞千壁嶺拒我,公誘弔眼 秤兵面語,弔眼下至山半,公上与語,遽按其手,黎下弔眼,及檎賊二十四人,倶戟 以狗,余党悉平。