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足袋屋 洋品店 洋傘店 袋屋 )34 文化品店( 煙草屋 本屋 薬屋 玩具屋 かもじ屋 かんざしなどの金属加工をする錺 ( かざり ) 屋 写真屋 絵草紙屋 竹細工屋 仏師 ビラ屋 )56 食料品店( 和菓子屋 餅屋 もちがし屋 酒屋 フルーツ屋 豆屋 せんべい屋 焼き芋屋 今川焼屋 アイスクリーム

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横浜の寄席と青い眼の落語家快楽亭ブラックと横浜ゆかりの落語家たち I. 横浜には、どんな寄席があったのか 1861(文久元)年横浜沿革誌によると金花亭(堺町=日本大通)、吉村亭(南仲通)、清水 亭(弁天通)、松本亭(南仲通)、長谷川亭(野毛町)、港亭(港崎廓のち横浜公園)の6 件 がある。また、1870(明治 3 年)の大港光商君には、よし村、清水亭の他、港遊亭(廓移設 に伴い関外吉原町に開設。伊勢佐木町2丁目)、さの松(住吉町四、馬車道)がある。1871 (明治4)年横浜商名鑑には、清柳亭(住吉町)、常磐亭(常磐町)、深川亭(太田町)、村 田亭(のち、丸竹、太田町)、小泉亭(吉田橋)、木村亭(末広町)、甲陽亭(福富町東通)、 長谷川亭(野毛町)、大山亭(初音町)、新宮内(初音町)、藤本(元町三丁目)、田川亭(元 町二丁目)、福しま(長者町)、盛長亭(石川町)。1874(明治6)年横浜毎日新聞に鶴遊亭 (吉田町)とある。1878(明治 11)年には、富竹亭(真砂町)、次いで 1887(明治 20)年、 新富亭(松ヶ枝町)が開場、丸竹グループの時代となる。丸竹グループは、明治20 年代に は、富松(伊勢佐木町3 丁目)、新丸竹(元町)、新竹(松影町亀ノ橋)、長竹(長者町)、新 萬竹(伊勢佐木町2 丁目)、萬竹(松影町)と続々寄席を開場。また、1902(明治 35)年の 最盛期には、富竹亭(真砂町)、新富亭(松ヶ枝町)、日吉亭(旧賑町=伊勢佐木町3 丁目)、 長島座(旧長島町、伊勢佐木町七丁目)、萬竹(松影町)、壽亭(旧賑町=伊勢佐木町三丁目)、 富松亭(旧賑町=伊勢佐木町三丁目)、横浜亭(松影町)、松福亭(壽町)、高橋亭(戸部町)、 喜久廼家(旧松ヶ枝町=伊勢佐木町二丁目)、色川亭(野毛町)、若松亭(旧若竹町=末広町 三丁目)、若松亭(戸部町)、清港亭(戸部町)、新盛館(旧久方町=伊勢佐木町)、松影亭(松 影町)、橘樹亭、青木亭、神奈川亭、金石亭(以上4軒、神奈川区青木町)。また、大正に入 って福聚館(北方町)、新壽亭(旧賑町=伊勢佐木町三丁目)、都亭(不明)、本牧亭(本牧 町)、森下亭(不明)と34 軒を数える。また、震災後を見ると敷島館(伊勢佐木町四丁目)、 花月(元新富亭、伊勢佐木町一丁目)、壽亭(伊勢佐木町三丁目)、新旭亭(旧紅梅町=西区 中央1 丁目・戸部町)、青木館(神奈川区青木町)、生麦亭(鶴見区生麦町)、鶴見演芸場(鶴 見区鶴見町)、市場倶楽部(鶴見区市場町)、柳座(旧天神町=西区中央 1 丁目・戸部町)、 港劇場(末広町)、笑楽座(西区西前町)、昭和座(神奈川区反町)、藤棚座(西区藤棚町)、 松島座(千代崎町)、六橋館(神奈川区六角橋)、八幡館(港北区大曾根町)、昭和館(神奈 川区小机町)がある。 また、戦後であるが、横浜駅西口、相鉄文化会館の地下に相鉄演芸場が、1959(昭和 34) 年頃から、1961(昭和 36)~1962(昭和 37)年頃まであったという。その後は、ムービル (映画館)に転用された。 I-II. 横浜の浅草六区、伊勢佐木町の4つの寄席 明治36 年 2 月の伊勢佐木町通り商店街の業種構成を見ると以下のようになっている。衣 料品店(呉服屋、古着屋、フランネル屋、メリヤス屋)23、身辺雑貨店(和装用小間物屋、

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足袋屋、洋品店、洋傘店、袋屋)34、文化品店(煙草屋、本屋、薬屋、玩具屋、かもじ屋、 かんざしなどの金属加工をする錺(かざり)屋、写真屋、絵草紙屋、竹細工屋、仏師、ビラ 屋)56、食料品店(和菓子屋、餅屋・もちがし屋、酒屋、フルーツ屋、豆屋、せんべい屋、 焼き芋屋、今川焼屋、アイスクリーム屋)66、家具・インテリヤ店(建具屋)4、日曜雑貨 店(下駄屋、道具屋、笊屋、ランプ屋、油屋、桶屋、空樽屋、草履屋、提灯屋)40、飲食店 (そば屋、すき焼き、寿司屋、めしや(食堂)、ラムネ屋、牛めし屋、南京料理屋、洋食店) 59、遊技場(玉ころがし(パチンコ)屋、大弓(だいきゅう)など)9、劇場・寄席7、サ ービス(床屋、女髪結、宿屋、人力車駐車場、湯屋、仕立屋、桂庵(職安)、貸下(かしさ げ)(貸衣装)屋)36、各種小売4、その他(両替屋、度量衡(ものさしはかり)屋、せり (古物商)屋、質屋、ブリキ屋、活版屋、塗師(ぬし)など)21 となっている。劇場・寄 席7つのうち、芝居小屋が3、寄席4であった。その後、活動写真小屋(映画館)の時代に なる。4つの伊勢佐木町の寄席には、新富亭(現在、トモズ薬局)、壽亭(現在、シダック スがある附近)、新壽亭(現在、かつどん屋や駐車場がある附近)、若松座(現在、ファッシ ョンヘルスや駐車場がある附近)があった。 そのうち、新富亭と新壽亭の様子については、圓生が次のように書いている。新富亭は、 土蔵造りのような三階建てで、1 階向かって右のほうに木戸口がある。左は、なんらかの店 が入っていた。正面に梯子段があり、それをあがると2階がずっと客席。三方に桟敷があり、 四、五百人くらいは入り、詰めれば千人以上も入ると思われ、客留めになったことはない。 3階は、高座の裏、下手側のお囃子部屋の脇の階段を上ると四畳半くらいの楽屋があった。 上手の方の3階は、座敷があり、席亭の住居になっている。新壽亭は、2階寄席で、三方桟 敷になっていた。京橋の金澤亭の席亭が一時期、ここの席亭をしていた。三遊派と柳派は、 三遊派が新富亭で落語会をやっている時は、柳派が、新壽亭でやり、その反対の時は、その 反対にやると言う具合に交互にやっていたとも書いている。 I-III. 元町の寄席 前述の通り、明治4 年の名鑑には、元町三丁目に、藤本、元町二丁目に田川亭とあるが、 どこにあったかは、正確には、分からない。明治20 年代には、丸竹グループの新丸竹が載 っている。明治35 年頃、元町四丁目の寄席は、新萬竹となっている。「中区わが街」に掲載 の元町記憶絵図(震災前)には、この寄席と思われる寄席という記載がある。 I-IV. 現在の横浜の寄席 現在は、1930(昭和 5)年、開場の三吉演芸場(南区万世町)と 2002(平成 14)年、開 場の横浜にぎわい座(中区野毛町)がある。前者は、1998(平成 10)年に鉄筋のビルにリ ニューアルされ、1 階には店舗(テナント)が入っていて、2 階に上がると寄席(劇場)に なっている。以前の建物は、1 階が、草津温泉という銭湯になっていた。また、後者は、南 税務署跡地に建設され、玉置宏館長でスタートし、2010 年に同氏が亡くなってから、桂歌

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丸が館長になっている。 II. 横浜の寄席には、どんな落語家たちが出演したのか 橘右近コレクションのビラによると、明治3~8年の万竹のビラでは、三代目立川談志 (三宅岩太郎、生年未詳~1876(明治 9))と三代目三遊亭円生(嶋岡新兵衛、1839(天保 10)~1881(明治 14))の二枚看板。さらに明治 10~20 年代の丸竹系の 4 席または 3 席ビ ラには、林家正鱗(のち五代目正蔵、吉本庄三郎、1824(文政7)~1923(大正 12)、沼津 の正蔵、百歳正蔵とも)、初代柳亭燕枝(のち初代談洲楼燕枝、長島傳次郎、1838(天保9) ~1900 明治 33)、六代目桂文治(桂文治、1843(天保 14)~1911(明治 44))、三代目柳 家小さん(豊島銀之助、1857(安政4)~1930(昭和5)、夏目漱石に、同時代に生きてい て幸せと言わしめた)、二代目三桝亭小勝(富沢常吉、生年未詳~1872(明治5)、新派俳優 の伊志井寛の祖父)、二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859(安政6)~1898(明治 31))、 二代目三遊亭圓馬(竹沢斧次郎、1854(安政元)~1918(大正 7))、二代目桂才賀(増田平 助、1830(天保元)~1898(明治 31))、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852(嘉永 5)~ 1900(明治 33))、三代目柳亭左楽(高山長三郎、1856(安政 3)~1889(明治 22))、七代 目船遊亭扇橋(清水栄造、生没年不詳、八代目より亭号が、入船亭になる)、初代春風亭柳 條(加藤力松、1845(弘化2)~1896(明治 29))、ション・ベール(森兼吉、明治30 年 代?~大正初?、帰化人)、六代目司馬龍生(永島勝之助、幕末?~明治20 年代)らの名前 が見え、昭和初期の新富の臨時演芸会のビラには、初代三遊亭小遊三(のち六代目橘家圓太 郎、鈴木定太郎、1861(文久元)~昭和?)、八代目朝寝坊むらく(籾山藤朔、生年未詳~ 1931(昭和6))、初代三遊亭圓遊(竹内金太郎、1850(嘉永3)~1907(明治 40))の名 前が見える。また、六代目三遊亭圓生(山崎松尾、1900(明治 33)~1979(昭和 54))の 落語家としての初高座は、新富亭で、五代目・六代目の円生の師匠である四代目橘家圓蔵(松 本栄吉、1864(元治元)~1922(大正 11))の最期の高座も新富亭である。弘明寺に、愛人 である関内芸者お千代さん(中山千代)が建てた碑がある。また、圓蔵が降板したので、代 わりに出たのが、二代目三遊亭小圓朝(芳村忠次郎、1857(安政4)~1923(大正 12))で あったと、六代目圓生が著書に書いている。また、同書には、円生が、師匠のトリで、新壽 亭出演の折り、暇なとき、柳派がでている新富亭を訪ね、四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868 (明治元)~1927(昭和2))の楽屋を訪ねると初高座で出ていた六代目春風亭柳橋(渡辺 金太郎、1989(明治 32)~1979(昭和 54))に引き合わされたとも書いている。 エピソード1:一月の初席で、五代目三升家小勝(1859(安政 5)年 6 月 6 日~1939(昭 和14)年 5 月 24 日 加藤金之助)が真打で出た時に、当時 90 何歳かで、落語界では、最 年長の五代目林家正蔵(1824(文政 7)年 11 月 11 日~1923(大正 12)年 3 月 6 日 吉本 庄三郎)さんが高座をつとめたことがあった。ところが老人のこととて、正蔵さん声も小さ く場内に声がよくとおらない。そこでお客さんがわいわいいいだしたが、正蔵さんは耳が遠 いのでこの野次がさっぱり聞こえない。自分への声援と拍手とばかり思いこんで正月とゆ

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うのに汗を流さんほどの大熱演をつづけてゆうゆうと楽屋へ引き上げた。さあ気をもんだ のは寄席の番頭さんやら芸人仲間、それでも党の正蔵さんは自分の勘違いとも知らないで すこぶる好きげんになっているので同夜はそのままにすませ、翌日から五分ほどの小ばな しに変えて興行をつづけたものでした。老人落語家まかり通るといった場面だった。 エピソード2:寄席はいつも夜の六時に幕が開き、はねるのが十一時で、昼間はやらないの が普通だったが、大正も半ばをすぎるころからは、日曜、祭日などには昼間の興行も行うよ うになった。 開場前にはお客さんたちが行列をつくってずらりとならんで待ちかまえ、大いに寄席の 味を満喫していた。七月の盆興行に三代目古今亭今輔(1869(明治 2)年 6 月 27 日~1924 (大正13)年 8 月 18 日 村田政次郎)さん一行が新富亭にやってきた時、昼間興行はやら なかったので一座の人たちがぶらりと町に出て羽衣町の弁天神社もうでをした。ちょうど 境内でサル芝居がかかっていて黒山の人だかり、落語家一向も人々にまじってのぞき見し ていたまではよかったが、初代横目家助平(1862(文久 2)年 2 月~?)さんという話し家 のどこが気に入ったのか踊っていたサル君がするすると近寄って来て助平さんが着ていた 紋つき羽織にとびつき、びりびりとばかり破いてしまった。驚いた助平さん、はっとして退 散におよんだが間に合わない。同夜は仕方なく羽織なしで高座をつとめました。するとなん と楽屋に「染代」として無名で金二円なりが送られてきた。 話し家一同が助平さんを囲んで“だれか心当たりあるか”とたずねたところそんな人とて ないということで、一同よく考えたところ昼間の一件を見ていたお客さんのひとりが“おか わいそうに”とばかりそっと届けてくれたものとわかって一同芸人に対するその細かい心 づかいにおおいに感激した次第。 東京よりハマのお客さんのほうが芸人を引き立ててくれたことは寄席の数にもよりまし ょうが、横浜には各地出身の人たちがどっと集まっていて、同じ土地の出身ということだけ ですぐ後援会をつくって激励してくれましたね。こんな点でハマの人たちは実に情が厚か った。 しかしこの半面、寄席の常連客にきらわれたら実につらい思いをしなければならない。寄 席には「常連の客」というのがあって初出演者がいやなやつだと思われたら最後一生懸命高 座をつとめても常連たちは舞台に尻をむけていっこうに見てくれない。こんなことをされ るとうまい話し家でも上がっちゃってよくしゃべれないで失敗してしまう。あとでお師匠 さんに連れられて常連の家を廻って歩き顔をつないでもらってひいきにしてもらうなど口 ではいえぬ芸人の苦労な面もありましたよ。 常連客がつくようになると、舞台をつとめていてもお客のほうで、竹のハシをちょっと割 ってその間に一円札をはさみ、大根にぽんとさしてひいきの芸人の前に届けたり、寄席がは ねた後に料亭でごちそうしてくれたり、一円札をかんじんよりのように細くひねったのを 何本もサラの上にならべ、その横に刺身のツマとわさびや大根おろしを添えさせ「刺身」な

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らぬ「札見」の余興をしてたくさんの祝儀をはずんでくれたものでした。こんな粋な客がハ マには実に多かった。 III. 青い眼の落語家快楽亭ブラック 初代快楽亭ブラック(石井貌刺屈)1858(安政5)年~1923(大正 12)年 (1)ブラック来歴 父、ジョン・レディ・ブラック(John Reddie)は、1867(慶応 3)年、日刊紙「ジャパ ンガゼット」を創刊したことで知られる。元々ブラック家は、スコットランド系海軍士官だ が、オーストラリアに金鉱が発見され、ゴールドラッシュがおこったのにともないオースト ラリアに引っ越し、息子ヘンリー・ジェームズ・ブラック(Henry James Black)は、オー ストラリア、北アデレード市でうまれた。1866(慶応 2)年、「ジャパン・ヘラルド」紙の 編集長だった父を追って母と横浜に上陸。1871(明治 4)年、横浜居留地より東京築地に引 っ越す。父は「日新真事誌」をおこす。1876(明治 9)年、手品師柳川一蝶斎の一座で、南 茅場町と浅草西鳥越の寄席で西洋手品師として初舞台。1878(明治 11)年、講談師松林伯 円の一座で、横浜富竹亭に出演。1879(明治 12)年、横浜元町物産陳列所で政談演説をす る。講談師としては、「チャールズ1世伝」、「ジャンヌダルク伝」などで人気がでる。1880 (明治13)年、横浜―小田原間の東海道本線沿いの駅で、国会開設請願運動、自由民権、 徴兵制反対の政治演説をする。1886(明治 19)年には、友人たちの反対を受けて、英語教 師に転身。その一方、翻案物の講談を出版。1887(明治 20)年英会話本「容易独修英和会 話篇」を出版。1891(明治 24)年、真打落語家快楽亭ブラックを名乗る。1893(明治 26) 年7 月、三遊派に加入。木村アカと結婚、菓子商石井みねの養子となり、帰化し、石井貌刺 屈となる。べらんめぇの変な外人といったキャラで明治30 年代まで活躍したという。 1894(明治 27)年の三遊社一覧の住所:京橋区入舟町(中央区入船町) 墓所:山手外人墓地9 区 29 両親と一緒 (2) ブラックの業績1(古典落語の原作) 今や、古典落語となっている「試し酒」は、ブラックが1891(明治 24)年に発表した「百 科園」の中の一編が原典で、それを今村信雄(1894(明治 27)~1959(昭和 34)、落語速 記者・研究家)が新作落語にしたという。また、1985(昭和 60)年第一回快楽忌で、五代 目三遊亭圓楽(吉河寛海、1933(昭和 8)~2009(平成 22))が演じた「二人書生」は、ブ ラックの原作だと師匠の六代目圓生から聞いたという。 (3) ブラックの業績2(芝居) 1894(明治 27)年、本郷の春木座(本郷座)で、講談師連中の芝居の中幕で「鈴ヶ森」 の長兵衛をやってほしいと、松林伯知さんと初代大林伯鶴(1857(安政 4)~1912(大正 元))さんに頼まれて幡随院長兵衛を演じた。九代目団十郎に教わった。その後、横浜の蔦 座(1876(明治 9)年増田座として開場、羽衣座、港座と並び、横浜三座と呼ばれた。伊勢 佐木町1 丁目、1899(明治 32)関外大火で廃座)からも声がかかったが、一座の七代目沢 村訥子(1860(万延元)~1926(大正 15)、紀伊國屋)さんが、苦情を言ってきたので、港

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座(1874(明治 7)年開場、住吉町 1 丁目)の七代目市川八百蔵(1860(安政 7)~1936 (昭和11)、立花屋)さんの一座でやったという。

(4) ブラックの業績3(翻案)

翻案で、原典が知られているものが2つある。一つはメアリー・ブラドン(Mary Elizabeth Braddon、1835(天保 6)~1915(大正 4))の「花と雑草(Flower and Weed)」(1884(明 治17)年発表)の翻案である「草葉の露」と、チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens、1812(文化 9)~1870(明治 3))の「オリバー・ツイスト(Oliver Twist)」(1838 (天保9)年発表)の翻案である「孤児(みなしご)」がある。また、ブラックの影響か、初 代三遊亭圓朝(出淵次郎吉、1839(天保 10)~1900(明治 33))にも、地名や人名を日本 の地名や人名に置き換えた「英国孝子ジョン・スミスの伝」(1885(明治 18)年発表)の他、 モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant、1850~1893(明治 26))の「親 殺し(Un Parricide)」(1882(明治 15)年日刊紙ゴロワ(Le Gaulois)に発表)の翻案で ある「名人長二」(1894(明治 27)発表)やリッチ兄弟(Luigi Ricci、1805(文化 2)~ 1859(安政 5)、Federico Ricci、1809(文化 6)~1877(明治 10))によるイタリアオペラ 「クリスピーノと死神(Crispino e la comare)」(1850(嘉永 3) 初演)の翻案だという 「死神」などがある。 (5) ブラックの業績4(推理小説) 毒殺トリックを扱った「車中の毒針」1891(明治 24)年発表や、法廷推理である「切な る罪」1891(明治 24)年発表、拇印、爪印、手形などの指紋認証の必要性を説いたと言わ れる「岩出銀行血汐の手形」1892(明治 25)年発表などがある。 (6)ブラックの業績5(レコードマネージャー) 1903(明治 36)年1月に英国グラモフォン(現、EMI ミュージック)の米人技師フレッ ド・W・ガイスバーグが来日。ホテルメトロポール(東京築地明石町、現、聖路加ガーデン) の一室で、レコーディングを行った。ブラックの仲介で、三代目柳家小さん、初代三遊亭円 遊、初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目雷門助六(三代目古今亭志ん生)、六代目朝 寝坊むらく、三遊亭小遊三(六代目橘家円太郎)らがSP レコードを残した。 <リスト> 〇 初代快楽亭ブラック 1858(安政5)年~1923(大正 12)年 10 インチ(25.4cm)盤 「孝子の人情噺」、「滑稽噺蕎麦屋の笑」 7 インチ(17.8cm)盤 「風土言葉の噺」、「待身音曲入滑稽噺」、「滑稽芝居稲川の夢」 「江戸東京時代の噺」、「英日結婚の噺」 〇 初代快楽亭ブラック・都古紫郎(共演) 7 インチ(17.8cm)盤 「横浜居留地ミーラー」 〇 初代快楽亭ブラック・初代三遊亭円右(共演) 7 インチ(17.8cm)盤 「俳優声色―幡随院長兵衛・白井権八」 〇 三代目柳家小さん 1857(安政4)年~1930(昭和5)年

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10 インチ(25.4cm)盤 「豊竹屋」、「小言幸兵衛」 7 インチ(17.8cm)盤 「みかんや」、「浮世風呂」、「葛の葉抜裏」、「九年母」 〇 初代三遊亭円遊 1850(嘉永3)年~1907(明治 40)年 10 インチ(25.4cm)盤 「野ざらし」、「成田小僧」、「菅原息子」 7 インチ(17.8cm)盤 「寿司屋の噺」、「地獄めぐり」、「郭巨の釜の唄」、 「湯屋番の鼻歌」、「裁判の噺」 〇 初代三遊亭円右 1860(万延元)年~1924(大正 13)年 10 インチ(25.4cm)盤 「俳優声色―尾上菊五郎(五代 or 六代)、坂東秀調(二代)、 尾上松助(四代)、桃川如燕(講談)」、「アズサメ」 7 インチ(17.8cm)盤 「向嶋」、「仏教の笑」、「芝居噺楽屋の穴」、「俳優ノ声色―市川 團蔵(七代)、市川權十郎(初代)」、「俳優ノ声色―中村芝翫(五 代)、尾上菊五郎(五代or 六代)」 〇 四代目橘家円喬 1865(慶応元)年~1912(大正元)年 10 インチ(25.4cm)盤 「菖蒲売の噺」 7 インチ(17.8cm)盤 「曾我打丸小噺」、「大学芋と足の喧嘩」、「三題噺佃島・三月 節句・囲物」、「角力の噺」、「柿と栗の喧嘩」 〇 五代目雷門助六(のち三代目古今亭志ん生) 1863(文久3)年~1918(大正7)年 10 インチ(25.4cm)盤 「俳優声色―團十郎(九代)、市蔵(三代)、團蔵(七代)」、 「俳優声色―加藤清正」、「俳優声色―團蔵(七代)、市蔵(三 代)」 7 インチ(17.8cm)盤 「俳優声色―團十郎(九代)、市蔵(三代)」、「俳優声色―團 蔵(七代)、市蔵(三代)」、「俳優声色―團十郎(九代)、 八百蔵(七代)」 〇 六代目朝寝坊むらく 1859(安政6)年~1907(明治 40)年 10 インチ(25.4cm)盤 「人情噺塩原多助之伝」、「人情噺士族の商法」、 7 インチ(17.8cm)盤 「角力将棋の噺」、「田舎下男」、「書生幽霊」 〇 初代三遊亭小遊三(六代目橘家圓太郎) 1861(文久元)年~不詳 10 インチ(25.4cm)盤 「音曲入噺ツッコケ」 7 インチ(17.8cm)盤 「雪獣鍋」 レコード研究家岡田則夫氏によて、米ビクターにブラックのレコードがあることが分か った。1907(明治 40)頃、出張録音されたものと思われる。 ブラックのものは以下の通り 七インチ盤 大笑い 製品番号不詳 小唄甚句(三遊亭萬橘共演) 製品番号不詳 江戸鈴ヶ森(三遊亭恋遊共演)製品番号不詳

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十インチ盤 廓の改良 1137 同じころ録音されたと思われるもの 雷門小助六(四代目古今亭志ん生) (鶴本勝太郎 1877(明治 10)~1926(大正 15)) 吉原ぞめき 11467 調子しらべ 11468 初代三遊亭小遊三(六代目橘家圓太郎) (鈴木定太郎 1861(文久元)~没年不詳) 菅原息子 11199 ただし、当時のレコードには、以下の問題点がある。 1. 昭和初期にマイク(拡声器)を使った電気吹込みが主流になる前のラッパ吹き込み であるため、直径30cm くらいのラッパに正対し、大声でしゃべる必要があった。その ため、上下(かみしも)を切ることもできないし、声の強弱による芝居もできない。 2. SP で片面録音であるため、収録時間が、2分~3分と短く、本来の間(ま)も持 てないし、早口になる。また、1席やるのは、難しいので小噺のようなものになる。 また、白米一升が、十銭台の時代に、レコードは、1 枚2円~4円と高価であるため、一 般に普及するところまでは、なかなかいかなかったと思われる。 (7) ブラックのライバル ブラックの時代には、柳派から出た、ション・ベール(前述)、他に、英国軒ハレー、ジ ョンデーという外国人が高座に出たという。他に萬國斎ジョン、アサヒマンマロ、バカント ラ、江川ハンステー、ヘンリペレストンなど横文字の名前が、見える。 (8) ブラックの弟子と養子 ブラックには、著名な弟子が1 人、養子が 1 人いた。 弟子は、二代目談洲楼燕枝(町田銀次郎)1869(明治 2)~1935(昭和 10)で、ブラッ ク門下で、快楽亭快楽として初高座。二代目禽語楼小さん門下に移り、1894(明治 27)二 代目柳家小山三、さらに1895(明治 28)に二代目柳家小三治、1897(明治 30)三代柳亭 小燕枝、1901(明治 34)二代目柳亭燕枝、1912(明治 45)二代目談洲楼燕枝となった。 養子は、快楽亭ホスコ(石井清吉)1879(明治 12)?~1945(昭和 20)。1903(明治 36) 頃には、奇術の松旭斎天一門下となり、天左となった。ブラックは、その影響で、催眠術に 凝ったという。また、ホスコの夫人は、ローザ(ジュリー・ペキーニョ(Julie V. Pequignot)、 1885(明治 7)年~1949(昭和 24))を芸名とする青い目の義太夫語りで、フランスから横 浜に渡ってきて、横浜のフランス人女学校(1872(明治 5)年に、サンモール修道会によっ て設立された、サンモール・インターナショナル・スクール(女子校)のことか?なお、こ の系列が、横浜雙葉学園)を卒業し、藁店の席亭であった佐藤廉之助の養女になり、女弁士 若柳燕嬢の口上でデビューしたという。

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(9)ブラックの寄席姿

1899(明治 32)年刊行の ジュルス・アダム(JULES ADAM)の「AU JAPON LES RACONTEURS PUBLICS (日本の噺家)」に載っている挿絵では、ブラックは和服を着 て、テーブルを前にして椅子に腰かけている。また、神戸ウィークリー・クロニクルの記者 は、「舞台の中央に座る日本の噺家とは違って、ブラックは洋服を着こみ、舞台にあらわれ、 水差しとコップが置かれている四角いテーブルを前に椅子に着席する。みかけたところ、ブ ラック氏は想像通り日本人離れしている。がっちりとして、太り気味・血色がよい。声は並 外れて力強く、朗々としている。彼はあらゆる階級の日本語の弁を会得している。彼の芸は 西洋人にも日本人にも驚歎に価する。眼をつぶって耳をすますと、日本人が話しているので はないとは外国人には及びもつかないし、日本人もその判断はむずかしい位だ。」と書いて いる。 (10)ブラックとゲーテ座 貿易会社のO. M. Poole(1880(明治 13)~1978(昭和 53)年)氏が、その書簡の中で 喫煙自由の音楽会において、「部屋の真中に、魔法のように人知れず姿を現わし、噺家が場 面に融けこむあの伝統的なやり方で、小さな煙草盆の脇にすわって、片手に扇子をもち、物 静かに、まるで独り言を呟くように話した。突然皆は彼の存在に気づき、声を落としたので、 あたりはしいーんと静まりかえり、皆自分の席へ戻った。いつのまに彼の声がきこえるよう になった。いとも優雅に落ち着いて、彼は自分の話の中に流れこんでいき、あれこれの役柄 を演じわけていく。それは完ぺきな芸であり、一席終わるや日本人が群がっていき、「おめ でとう」を連発していた。彼の話を理解するのは私のささやかな日本語の知識の域を越えて いたが、彼の技は人を魅了したのだ。この音楽会の時、ブラックは街の呼び声をあれこれや ってみせた。」と書いている。 (11) 2 人の二代目快楽亭ブラック (1) 架空の二代目快楽亭ブラック 小学館の「ビックスピリッツ」連載の「美味しんぼ」(原作:雁屋哲、画:花咲ア キラ)に登場。豆腐の研究に来日したアメリカ人ヘンリー・ジェイムズ・ブラッ クが、快楽亭八笑に弟子入りし、快楽亭ブラックとなる。初登場は、1986(昭和 61)年 5 月 26 日掲載の 57 話「大豆とにがり」。7 巻に所収。アニメでは、1989 (平成元)年9 月 18 日放送の第 42 話、声は、青野武が担当した。 (2) 実在の二代目快楽亭ブラック 本名福田秀文で、1952(昭和 27)年 5 月 26 日生まれ。父がアメリカ人のハーフ だが、英語はできない。1969 年七代立川談志門下となり、立川ワシントンとなる。 一時期、桂三枝(現、六代文枝)門下だったこともある。1992(平成4)年真打 になったのを機に、二代目快楽亭ブラックを襲名。ただし、初代の系譜ではない。 また、ブラックになるまで、17 種の名前を名乗っている。

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IV. ブラック以降の横浜ゆかりの落語家たち (1)先々代(3 代目?)昔々亭桃太郎 1857(安政 3)年 8 月 9 日~1942(昭和 17)年 5 月 20 日 本名 木村兼次郎 初め2代三遊亭萬橘門下で千橘(初代萬橘門下で夢福トモ) 1907(明治 40)年~1912(大正元)三遊派。明治 40 年代桃太郎になる。大正中期には、 睦会に所属。墓所は、神奈川区東神奈川金蔵院。 甥は、(3 代目?)春風亭小柳三 1900(明治 33)年~1970(昭和 45)年 8 月 1 日 本名西宮吉之助 1918(大正 7)4 代春風亭柳枝門下青枝。1921 小柳三となる。 新国劇の沢田正二郎の声色をして吉本花月に出演。戦後、名古屋で春風亭小柳三演芸社 をする。 (2)初代柳家三語楼(山口慶二)1875(明治8)~1936(昭和 13) 生家は、運送業・輸出入商で、松影町3 丁目の山口新吉。セントジョゼフカレッジ(1901 (明治34)年にイエス会によって創立された男子校ミッションスクールで、2000(平成 12)廃校)出身のインテリ。四代目橘家圓喬門下で、右圓喬として初高座。1913(大正 2)年師匠没後、二代目談洲楼燕枝門下で、燕洲、さらに三代目柳家小さん門下で柳家三 語楼となり、1930(昭和 5)年に真打となる。全盛期の門人に柳家金語楼(山下敬太郎、 1901(明治 34)~1972(昭和 47))、初代柳家權太楼(北村市兵衛、1897(明治 30)~ 1955(昭和 30))、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890(明治 23)~1973(昭和 48))、 七代目林家正蔵(海老名竹三郎、1894(明治 27)~1949(昭和 24)、現正蔵の祖父)が いた。志ん生に次男が生まれた時、強次と名付けた。のちの三代目古今亭志ん朝(1938 (昭和13)~2001(平成 13))である。中区相澤墓地に墓所がある。 (3)六代目春風亭柳枝(松田幸太郎)1881(明治 14)~1932(昭和7) 横浜の消防組頭で、居留地のゴミ清掃をてがける家「ゴミ六」の生まれ。横浜商業学 校(現、横浜商業高校、Y 校)卒業後、商館で働きながら、天狗連(セミプロ)で一枝を 名乗る。1910(明治 43)年三代目柳家小さん門下で柳家きん枝を名乗り初高座。そのご 四代目春風亭柳枝門に移り、1913(大正2)に、三代目春風亭小柳枝で真打。大正 10 年、 師匠の名を継ぎ、六代目春風亭柳枝。 (4)八代目桂文楽(並河益義)1892(明治 25)~1971(昭和 46) 通称、黒門町の師匠。生れは、青森だが、1903(明治 36)年に、横浜市中区住吉町 1 丁目11 番地の薄荷問屋の多勢商店に奉公に出た。本町の第一銀行に大金を預けに行くの が仕事だったという。当時としては、めずらしい、土曜半ドン、日曜休みの店で、休日に は、横浜の寄席や劇場に通った。1908(明治 41)年初代桂小南(岩田秀吉、1880(明治 13)~1947(昭和 22))門下で小莚として初高座、師匠が帰阪したのを受けて、名古屋の 三遊亭圓都門下で小圓都、また小莚に戻ったのち、東京にもどり、七代目翁家さん馬(の ち八代目桂文治、山路梅吉、1883(明治 16)~1955(昭和 30))門下で、1916(大正5) 年に翁家さん生、1917(大正6)五代目柳亭左楽(中山千太郎、1872(明治 5)~1953

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(昭和28))門下に移り、翁家馬之助を名乗り真打。1920(大正9)桂文楽を襲名。門人 に、七代目橘家圓蔵(市原虎之助、1902(明治 35)~1980(昭和 55))、六代目三升家小 勝(吉田邦重、1908(明治 41)~1971(昭和 46))、九代目桂文楽(武井弘一、1938(昭 和13)~)など。 (5) 七代目橘家圓蔵(市原虎之助)1902(明治 35)~1980(昭和 55) 横浜元町生まれ。1923(大正 12)年、八代目桂文楽門下で文雀として初高座。翌年、 七代目柳家小三治(のち七代目林家正蔵)門下に移り、柳家治助、昭和3年頃から名古屋、 大阪で活動したのち、昭和5年頃東京に戻り文雀で2 年務めたあと名古屋に 1941(昭和 16)年頃、三度東京に戻り、文雀。1946(昭和 21)年、四代目月の家圓鏡で真打。1953 (昭和28)年七代目橘家圓蔵を襲名。1978(昭和 53)年、六代目三遊亭圓生が、落語協 会を会長の五代目柳家小さんと対立して飛び出し、「落語三遊協会」を設立しようとした 折に、三代目古今亭志ん朝一門と共に、初代林家三平を除く、圓蔵一門も参加した。圓蔵 は、副会長に就任し、注目された。しかし、席亭たちの協力を得られず、志ん朝一門、圓 蔵一門は、落語協会に復帰、幻の副会長となった。その後、圓生一門は、落語すみれ会を 設立するも圓生が死去。五代目圓楽一門のみが、圓楽一門会として存続したが、圓生の他 の弟子たちは、落語協会に復帰した。門人に、初代林家三平(海老名栄三郎のち泰一郎、 1925(大正 14)~1980(昭和 55))八代目橘家圓蔵(大山武雄、1934(昭和9)~、前 名五代目月の家圓鏡)。 (6)四代目 春風亭柳好 1921(大正 10)年 1 月 3 日~1992(平成 4)年 7 月 7 日 本名 小川清 保土ヶ谷生れ、家業は魚屋。1950(昭和 25)年三代目柳好門下笑好。 1953(昭和 28)二ツ目。1956(昭和 31)年 3 代目柳好没、六代目春風亭柳橋門下へ。 1958(昭和 33)年四代目柳好襲名、真打。 (7)初代 三笑亭夢丸(坂田宏) 1945(昭和 20)~2015(平成 27) 横浜市金沢文庫出身。市立金沢高校卒業後、1964(昭和 39)年、三笑亭夢楽門下で、 夢八として初高座。1969(昭和 44)年には、前田武彦司会時代の 8 人による2チーム制 だった時代のNTV「笑点」で、二代目三遊亭歌奴(現、三代目三遊亭圓歌)チームの座 布団配りをしていたこともあった他、NTV「ルックルックこんにちは」では、19 年間レ ポーターをつとめた。1978(昭和 53)年、真打に昇進、夢丸を名乗る。なお、夢丸の名 前は、生前贈与の形で、弟子の夢吉(前田就、1983(昭和 58)~)に継承された。 (8)現役 落語協会:金原亭伯楽(津野良弘)、三代目柳家小満ん(栗原理)、古今亭菊龍(皆川修一)、 林家錦平(飯島喜久雄)、五明樓玉の輔(鈴木隆司)、五代目柳家小せん(河野重信) 落語芸術協会:桂米丸(須川勇、根岸)、桂歌丸(椎名巌、真金町)、二代目三遊亭小遊三 (天野幸夫、保土ヶ谷)、九代目雷門助六(岩田孝允、戸塚)、三遊亭左遊(佐藤喜八郎、保 土ヶ谷)、三遊亭遊史郎(富崎十郎) 五代目圓楽一門会:三遊亭京楽(加藤孝之、六角橋)

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立川流:立川志らら(柴田賢二)、立川志の八(濱永徹、戸塚) V. あとがき 前述のように、東京の落語会には、真打だけでも10 人以上を数え、立川流の 2 人は、ま だ、二つ目であるが、将来は、真打に昇進するだろうし、どんどん横浜出身の落語家も増え ていくだろう。また、関内ホールのホール落語会は、かつて馬車道に横浜を代表する寄席、 富竹亭があったということを思い起こさせるし、JRA エクセル伊勢佐木(旧、横浜松坂屋 西館)1 階で行われている木戸銭無料の木曜寄席も、伊勢佐木が、かつて 4 軒の寄席が共存 した場所であったことを忍ばせる。これからも、横浜出身の落語家たちが、活躍していくこ とを期待して結びとする。 参考文献 1971 「定本・艶笑落語」 小島貞二・能見正比古著 立風書房 1972 「明治の寄席芸人」 青蛙房選書 38 六代目三遊亭圓生著 青蛙房 1976 「古き横浜の壊滅」 O.M.プール著 金井圓訳 有隣堂 1979 「落語系圖」植村秀一郎編輯 名著刊行会 1980 「寄席の息子と英文学」 竹内秀雄著・発行 1982 「横浜三街物語―モトマチ・いせざき・西口」 山口辰男著 有隣堂 1982 「橘右近コレクション寄席百年」 橘右近著 小学館 1982 「落語家面白名鑑」 小島貞二、遠藤佳三、鈴木重夫共編 かんき出版 1985 「横浜市史稿」風俗編 横浜市役所編纂 臨川書店 1985 「横浜外人墓地―山手の丘に眠る人々―」 武内博著 山桃舎 1986 「快楽亭ブラックの「ニッポン」青い眼の落語家が見た「文明開化」の日本と 日本人」 佐々木みよ子、森岡ハインツ著 二十一世紀図書館0078 PHP 1986 「中区わが街―中区地区沿革外史」 “中区わが街”刊行委員会 中区役所 1987 「落語レコード八十年史(上)(下)」 都家歌六著 国書刊行会 1988 「よこはま芸人―痴遊からひばりまで―」 よこれき双書第8巻 港家千潮著 横浜歴史研究普及会 1988 「新版現代落語辞典」穴田音羽編著 光風社 1988~92 「快楽亭ブラック研究(二)~(六)」快楽亭ブラック研究会編 生出俊哉発行 1991 「角川日本地名大辞典 14 神奈川県」 角川書店 1993 「日本歴史地名体系第十四巻 神奈川県の地名」 平凡社 1995 「ハマ一番の寄席新富亭」金川利三郎著、『横浜今昔』淵野修編、毎日新聞横浜支局 所収 1998 「芸談あばらかべっそん」 八代目桂文楽著 ちくま文庫 1999 「東都噺家系図」 橘左近著 筑摩書房

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2000 「古今東西噺家紳士録寄席 150 年」 小島貞二著 丸善 2001 「寄席切絵図」新装版 六代目三遊亭圓生著 青蛙房 2002 「横浜」横浜市立図書館報 第 46 号 2003 「落語」36 号東京落語家名鑑 弘文出版 2005 「ご存じ古今東西噺家紳士録 思い出の楽我記手帳」 都家歌六著 丸善 2008 「横濱元町古今史点描」 大澤秀人 横浜元町資料館 2009 「戦後落語史」 吉川潮著 新潮新書 343 新潮社 2009 「彩色絵はがき・古地図から眺める横浜今昔散歩」 原島広至著 中経の文庫 青い眼の落語家快楽亭ブラック 初代柳家三語楼と生家 ゴミ六こと六代春風亭柳枝 奉公時代の八代文楽と奉公先がのっているリスト

(14)

サンモールとセントジョゼフの位置

尾上町の丸竹グループの寄席

(15)

伊勢佐木町の4つの寄席の位置

参照

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