I
は じ め に
「5 人の経済学者が一堂に会したとき,6 つの対立する意見が出るであろうが,そのうちの 2 つ はケインズによってなされたものであろう」(Clarke 2009, 5 / 訳 8―9)とは,広く知られたジョー クだが,良く言えば融通無碍,悪く言えば無節操に政策提言を変えるケインズという像は広く普 及している. しかしながら,実のところ,ケインズの政策論はむしろ相当に首尾一貫していたと言ってよい. 第 1 次大戦直後のブームが崩落した 1921 年以降,イギリスは 1930 年代にかけて慢性的不況に陥っ たが,ケインズは 1924 年から一貫して公共事業による失業対策を主張し続けた.同時に,こう した内需拡大政策が国際収支によって制約されないためにも,彼は金本位制と海外投資の双方に 対して否定的な姿勢を堅持したのである.ケインズ理論の形成過程を克明に追跡した平井(2003, 175)も,ケインズが反自由放任主義という点では生涯一貫していたことを確認している.小峯 (1999, 184)も同様に,「管理経済」という政策思想の面でケインズが一貫していたと論じている. それでは,変節漢ケインズのイメージが何に由来するかと言えば,ほとんどその貿易政策論に よると言ってよい.確かに貿易政策の面では,1920 年代まで公式通りの自由貿易論者であった ケインズは,大恐慌が深化する中で 1930 年から保護主義へ接近し,以後は保護主義と自由貿易 主義の間を揺れ動くようになる.それでは,他の面では相当に一貫していたケインズは,貿易政 策論に関しては,何故そのように二転三転したのだろうか? ケインズの貿易政策論についても既にかなりの研究史の蓄積はあるが1),Nurkse([1947] 1961, 『経済学史研究』62 巻 1 号,2020 年.Ⓒ 経済学史学会.―経済的ナショナリズムと自由貿易主義国際平和論との相克―
松 永 友 有
* 本稿は,科学研究費・基盤研究(C)(研究代表者:松永友有;課題番号:15K03910, 19K02155)による研 究成果の一部である.本稿の一部は,2017 年 6 月 24 日に釧路公立大学で開催されたマルサス学会大会報 告を基にしている.コメンテーターを務められた中澤信彦氏(関西大学)をはじめ,有益なコメントをい ただいた参加者に深く感謝申し上げる. 1) 有益なサーヴェイとして,Gomes(2003, 276―92); Markwell(2006, 152―65),岩本(1999, 183―208),服 部(1999, 220―26),田淵(2006, 52―64),松川(2009).chap. 3 / 訳 3 章),Harrod(1951, 424―31),Eichengreen(1984),Wolf and Smook(1988),Irwin(1996, chap. 13)はケインズの国際経済思想のエッセンスを自由貿易主義者とみなしているのに対して, Willoughby(1982),Crotty(1983),Radice(1988),Newton(2000),佐伯(1999),中野(2008, 176―80)はケインズのエッセンスを保護主義者,もしくは経済的ナショナリストとして捉えて いる2).いずれの見方にも史料的根拠はあり,この論点は未だ決着を見ていないが,その中で Eichengreenは,貿易政策論に関するケインズの矛盾が生じた原因を正面から主題にとりあげ, 影響力の大きな説を唱えている. Eichengreen の説は,非常に論旨明快である.すなわち,1920 年代から 30 年代にかけて,ケイ ンズの最大の関心は内需拡大政策による失業対策であり,その際可能であれば常に自由貿易政策 を選好した.しかしながら,1925 年から 1931 年までの金本位制・固定為替相場制の時代におい ては,内需拡大政策は国際収支を悪化させるリスクがあったため,やむを得ずケインズは保護貿 易政策の必要を認めた.しかし,ケインズにとって保護貿易はセカンド・ベストの選択肢に過ぎ ず,金本位制停止後は一時的な例外期はあったとはいえ,本来の自由貿易主義の立場に復帰した, というのである. しかし,この Eichengreen 説は,それほど説得力をもつとは思われない.まず,1925 年の金本 位制復帰以後もケインズは 1929 年までは自由貿易主義の立場を堅持していた.さらに,ケイン ズによる最も臆面のない保護主義の態度表明として知られる論説「国家的自給」 National Self-Sufficiency は,金本位制停止後の 1933 年に発表されている.内需拡大策にとっての国際収 支の制約が存在するかどうかがケインズの貿易政策論を大きく左右したという点では,筆者は必 ずしも Eichengreen 説を否定するものではないが,それのみで説明できるというほど単純な問題 でないことは確かである. その他,Cammarosano(2014)は,その著書全体でケインズの国際経済思想・貿易政策論を克 明に論じている.彼によれば,1920 年代までのケインズはオーソドックスな自由貿易主義者で あった.しかしながら,1930 年代の大恐慌を背景として,特に 1936 年の『一般理論』刊行以後 は,完全雇用時には自由貿易が有効だが,不況期には一定の管理貿易が必要であるとの新たな 理解に達したとされる.つまり,ポール・サミュエルソンによって定式化された,完全雇用時 には自由放任主義経済政策が有効,不況時には国家介入政策が有効との新古典派総合の見方を, Cammarosanoはケインズの貿易政策論に応用していると言える.近年にケインズの評伝を著した Barnett(2013, 215―18)も同様に,1930 年代以後のケインズは自由貿易主義と保護主義との折衷 的立場に至ったと論じている. 自由貿易と保護主義の是非をめぐる問題に関して,最終的にケインズがどちらか一方に偏らな い両義的,ないしは折衷的なスタンスに到ったという点では,本稿は概ね Cammarosano, Barnett 2) ケインズの代表的な評伝を著した Skidelsky(1992)と Moggridge(1992, 575)に関して言えば,前者は, この問題に関しては不明確であり,後者はやや Harrod に近い見解を示している.
に同意するものの,彼らも,大恐慌の渦中にあって保護主義に対するスタンスが非常に肯定的に なったり冷淡に変じたりするという,ケインズ貿易政策論の微妙な変化を十分に解明するには 至っていない. 本稿の目的は,保護主義イデオロギーが政治的右派によって独占される一方で,政治的左派は 専ら自由貿易主義イデオロギーと結びつくというイギリス独自の政治的伝統,およびその中で形 成されたケインズの政治的理念から捉え直すことを通じて,ケインズの一見矛盾に満ちた国際経 済思想を整合的かつ体系的に理解可能とする新たな視点を提示することである.結論から先に言 えば,ケインズは常に海外市場よりも国内市場を重視し,国民経済における製造業の役割を不可 欠とみなす点で,本来ならば保護主義と親和性が高い経済的ナショナリストであったが,その強 烈な左派的政治志向と自由貿易主義国際平和論への思い入れのゆえに,1933 年前後の一時の例 外を除いては,保護主義への忌避感情を完全に払拭することはできなかったのである. なお,経済的ナショナリズム(economic nationalism)という概念に関しては,近年に国際政治 経済学(International Political Economy, IPE)の分野において注目が集まっている.その中にあって Harlen(1999)は,代表的な経済的ナショナリストとみなされているアレクサンダー・ハミルトン やフリードリヒ・リストが必ずしも高率保護関税を主張せず,一定の発展段階に達した後は自由 貿易を望ましいと考えていたことを根拠として,経済的ナショナリズムを保護主義,およびオー タルキー主義と同一視すべきでないと主張する.Helleiner(2002, 325)はさらに進んで,経済的ナ ショナリズムは,保護貿易のような特定の政策ではなく,「ナショナリスト的内実(nationalist con-tent)」を有するもの,もしくは「現実主義の経済論の系譜(an economic strand of realism)」として 定義されるべきと提言している.彼によれば,状況次第で経済的ナショナリストが自由貿易や自 由主義的経済政策を支持することも大いにあり得るのである. しかしながら,このように経済的ナショナリズムを単なる現実主義的経済政策と同一視してし まうならば,経済的ナショナリズムという概念から有意味性はほとんど失われてしまうのではな いか.例えば,特定の一次産品輸出に特化して世界市場への参入を目指す政策論であっても, Helleiner的な定義に基づけば,それがその国の国情を踏まえて経済力の向上を目指す「現実主義」 的な政策である限りは,経済的ナショナリズムと捉えるしかないであろう. これに対して,本稿においては,海外市場よりも国内市場を重視し,国際分業の徹底よりも均 衡のとれた国民経済を望ましいとする思想を経済的ナショナリズムの不可欠な要素とみなしてい る3).こうした見方は,伝統的な常識的理解にも合致しているであろう. 以下,II 節では,保護主義が保守党の右派イデオロギーと排他的に結びつくというイギリス特 有の政治状況を剔出するとともに,ケインズが一貫してニュー・リベラルと呼ばれる左派寄りの 政治党派にコミットしていたことを確認する.III 節では,ニュー・リベラルの国際経済思想を 理解するうえで示唆的な第 1 次大戦以前の海外投資論争をとりあげる.IV 節では,1920 年代に 3) このような捉え方は,経済的ナショナリズムに関する先駆的著作である神武(1991)と共通している.
おけるケインズの自由貿易主義思想を分析する.V 節では,1930 年代以後のケインズの国際経 済思想の変遷を考察するが,「国家的自給」の分析は一つの焦点となる.VI 節では,ケインズの 国際経済思想について総括的な考察をおこなって結びとする. 本稿において,右派,もしくは保守派(conservative),対するに左派,もしくは進歩派(pro-gressive)という表現は,専ら同時代人の政治党派認識を指して用いられている.19 世紀のイギ リスにおいて保守党は右派,自由党は左派に位置していたが,20 世紀に入って労働党が台頭す るとともに,自由党は右派の保守党と左派の労働党の中間やや左寄りのポジションを占めること となる.自由党内部においては,保守党との提携を重視する側が右寄り,労働党との提携を重視 する側が左寄りということになる.第一次大戦前において,保守党に対抗して自由党と労働党は 選挙協力をおこなったが,この自由党・労働党連合は,進歩派連合(Progressive Alliance)と呼 ばれた.
II
イギリス自由貿易主義の政治文化とケインズの政治党派
自由貿易対保護主義という争点においてケインズが揺れ動いた原因を解明するにあたっては, その前提として,イギリスの貿易政策論争が置かれていた特有な状況を理解しておくことが必要 である.イギリスの自由党は,19 世紀半ばのリチャード・コブデンやグラッドストンの時代以来, 国内で産出しないごく少品目に課せられる収入関税を例外として認めるのみで,保護関税を全く 課さないという徹底した自由貿易主義を採用してきた.同時代の他国の自由主義政党は,カナダ の自由党やドイツの国民自由党に見られるように,保護主義政策を支持することもあったから, 自由主義政党が自由貿易を支持することに必然性があったわけではない. 歴史社会学者 J. M. Hobson(1997, 148)によれば,欧米の議会制国家においては 20 世紀初頭 に至るまで,左派政党は低関税政策,右派政党は高関税政策を支持する傾向があった.当時にお いて各国の税収に占める関税の割合は高い水準に達していたので,逆進的課税を嫌う左派は低関 税水準を支持する一方で,右派は関税によって税収を賄うことを好んだからである.しかしなが ら,保護関税を全く容認しないというラディカルな自由貿易政策を左派が一枚岩的に支持すると いうのは,イギリス特有の状況であった. イギリスの左派および自由主義勢力が徹底した自由貿易主義をとり続けた背景には,イギリス の保護主義が保守党の利害ととりわけ緊密な関係をもっていたことが関係していた.大土地所有 制の下で農業資本主義が進行したイギリスでは,1901 年センサスの時点で農業人口は既に 1 割 を切る低水準に落ち込んでおり,農業人口の大半は農業労働者によって占められていた.農産物 の高価格に利害を有する小作農民とは異なり,賃金労働者である農業労働者は安価な食糧に利害 を見出すことができたため,農業保護主義の有力な支持基盤にはならなかった(Trentmann 1998, 222; Howe 2002, 210).結果としてイギリスでは,他国に見られたような小農による農民政党が 存立する余地がなくなり,農業利害は専ら地主階級の支配的影響下におかれることとなった.同時にイギリスの保護主義は,常に保守党サイドによる地主階級の権力強化の動きと結びつくこと となったのである. さらに,広大な自治植民地を擁するイギリスにおいては,外国産食糧への差別的関税を通じて 自治植民地産食糧の輸入を優遇し,自治植民地との統合強化を図ろうとする帝国主義的な企図が 保護主義運動と結合した.1903 年以降は,南アフリカ戦争の立役者であった保守党(正確には 自由統一党)政治家ジョゼフ・チェンバレンの下で,大規模な関税改革運動が展開される.関税 改革運動は 1906 年,1910 年の総選挙において敗北を重ねたものの,1909 年にかけて保守党内自 由貿易派(Unionist Free Traders)は一掃され,保守党は関税改革派によって統一されるに至った (Rempell 1972). 他方で,Howe(1997)や Trentmann(2008)によって克明に描き出されたように,19 世紀以 来イギリスでは自由貿易主義は独自の政治文化として機能しており,自由な国際貿易が国際平和 をもたらすというコブデンの国際主義的理念や,パンへの課税が穀物法廃止前の「飢餓の 40 年代」 を再現させるといった言説が自由党サイドによる各種のプロパガンダを通じて国民の間に深く浸 透していた.一種の国民的信仰の域にまで達した自由貿易主義のおかげで,自由党・労働党連合 は総選挙で勝利を続けることができたのである. こうして,イギリスにおいては,自由党,労働党という左派陣営が一切の保護関税を受け入れ ない全面的自由貿易に固執する一方で,保護関税支持派は保守党・右派陣営によって排他的に占 有されるという特異な状況が成立するに至った. 自由貿易主義の主張は左派陣営に政治的な勝利をもたらしたとはいえ,その結果,ニュー・リ ベラリズムと呼ばれる自由主義左派は深刻なディレンマに直面した.19 世紀末期以降,保護主 義政策で武装したアメリカやドイツの急速な工業化に対するに,自由貿易政策の維持を以て対峙 したイギリスの国民経済は,軽工業から重工業への産業構造転換の遅れとともに,金融・サービ ス産業主導経済への変容を遂げつつあった.ラッセル・リー(Russell Rea)のような古典的自由 主義者,もしくはオールド・リベラルは,サービス産業主体の経済構造へのこうした転換を産業 の進歩とみなして肯定的に捉えることができた(熊谷 1991, 212―14).これに対して,J. A. ホブ スン(J. A. Hobson)や J. M. ロバートソン(J. M. Robertson),チオザ・マニ(Leo Chiozza Money) といったニュー・リベラルの経済学者は,国民経済において製造業が占める役割を特権的に重視 しており,リカード流の比較優位論者ではなかった4).その点では,むしろホブスンらニュー・ リベラルは,関税改革・保護主義を支持するアシュレー(William Ashley),カニンガム(William 4) 例えば,ホブスンの初期の論説(Hobson 1891)は経済的ナショナリズムの理念を典型的に示しているし, チェンバレンの間税改革構想を批判する論説(Hobson 1903, 368; Hobson 1904, 176)においても,製造 業の地位を維持するという関税改革の目的自体に反対しているわけではない.ロバートソンは,Robertson (1892, 105)で金利生活者批判を展開し,Robertson(1899, 84)では,Hobson(1891)を肯定的に参照し ている.チオザ・マニも,Money(1905, 14)と Money(1914, 74, 112)において,ランティエ国家批判 と生産者国家擁護論を明確に展開している.
Cunningham),ヒュインズ(W. A. S. Hewins)のような保守党系の歴史学派経済学者と共通する 均衡経済論者であった5).ニュー・リベラルの均衡的国民経済論からすれば,本来ならば,工業 国家から金融国家への転身を阻止するための保護主義政策が支持されるはずであったろう. それのみならず,ホブスン,ロバートソン,マニといったニュー・リベラルは,富裕層から貧 困層への再分配政策を通じて国内消費需要の拡大を意図する過少消費説を唱えたが(Robertson 1892; Hobson [1909] 1910; Money 1914),その内需拡大論も本来的にはむしろ自由貿易主義より も保護主義と親和的であった.国際金本位制・固定為替相場制の下で内需が拡大するならば,保 護関税によって輸入を削減しない限り,国際収支の悪化が避けられなくなるからである. このように,ニュー・リベラルは,二重の意味で保護主義との親和性を有していた.それにも かかわらず,イギリスの保護主義が明確な右派的含意を有する以上,ニュー・リベラルが保護主 義を支持することはきわめて困難であった.同様に,ニュー・リベラルの国際平和主義も,保護 主義の受容を困難とした.第一次大戦後に自由党左派の中心的理論家となるケインズもまた,こ れと同じディレンマに直面することとなる. 若き日にエドマンド・バークを高く評価する論文を書いたケインズは,保守主義思想の影響を 受けていたとみなされることもあるし,インド人民への冷酷な姿勢からその社会ダーウィン主義 的一面が指摘されることもある(Toye, J. 2000, 146).本稿は,ケインズのそうした側面を否定す るものではないし,彼のイデオロギーの内実が真に左派的であったかどうかを問うものでもない. 単に本稿は,ケインズが支持した政治党派と彼自身の自己認識が一貫して左派であったことを確 認し,それを以てケインズを左派の人脈に位置づけるのである. 同時代における政治党派という点では,ケインズが生涯を通じて左派に位置していたことは, 容易に立証できる.ケインズは自由党と労働党の協同を一貫して提唱するとともに,反保守党の 点でも最後まで一貫していた.1926 年におこなった演説でケインズは,「私は,平均的な労働党 支持者にくらべても保守的傾向が少ない方だと確信している.…私の想像上の共和国は,聖なる 空間の最左翼に位置を占めている」(CW, IX, 308―09 / 訳 371)6)と語ったが,彼の政治行動はこ の発言を裏づけている. ケインズは青年時代から自由党の熱心な支持者として知られ,1910 年総選挙にかけて,保守 党の関税改革計画を批判する一方で,地主階級を徹底的に狙い撃ちした重課税を導入した自由党 内閣の「人民予算」を擁護した(CW, XV, 39―59 / 訳 52―73).第 1 次大戦期に自由党は,保守党 と連立政権を組んだロイド・ジョージ派と野に下りたアスキス派に分裂したが,ケインズは両派 が 1923 年に再統一するまで後者に属した.両派の再統一後,特に 1926 年のゼネスト後はむしろ アスキス派が自由党右派,ロイド・ジョージ派が左派という性質を強めたが,ケインズは後者に 5) 歴史学派の均衡経済論的な保護主義思想に関しては,服部(1999, 179―86),西沢(2007, III)を参照. 6) ケインズからの引用は,E. Johnson and D. Moggridge, eds., The Collected Writings of John Maynard Keynes
(CW と略記), 30 vols., 1971―89, Cambridge, UK: Cambridge University Press の巻号と頁数を記載する.邦 訳は,ケインズ全集(東洋経済新報社)の頁数を記載する.訳文に関しては,改変している場合がある.
傾斜していった.ゼネストに際してケインズは,「私の判断ではなくて,私の感情は労働者たち とともにある」(CW, XIX, 532 / 訳 658)と述べ,やはり労働組合に同情的であったロイド・ジョー ジへの共感を示した(ibid., 538―41 / 訳 665―69).
1931 年総選挙後,自由党は再度分裂し,しばらくの間ケインズは自由党との公式の関係を断っ たが,1935 年総選挙の際は労働党に投票し,労働党候補に献金した(Skidelsky 1992, 536; CW, XXI, 373 / 訳 422―23).1938 年 4 月に自由党党首シンクレア(Archibald Sinclair)に宛てた書簡 では,労働党との共闘による進歩派勢力の大同団結を要請している(CW, XXVIII, 107 / 訳 151). 1942年にはケインズは貴族院議員となり,自由党に党籍を戻すが,労働党を完全に見放したわ けではなかった.1946 年 1 月のキングズリー・マーティン(Kingsley Martin, ケインズが取締役 を務める New Statesman and Nation 誌の編集者)宛の書簡では,労働党政権を「哀れで愚かな内閣」 (the poor, silly Cabinet)と呼びつつも,「もし労働党政府が〔1929 年時に引き続いて,〕再び対外
的金融状況によって崩壊させられるとすれば,それは真の災厄であったろうと私には思える」と 述べ,英米金融協定が妥結したことによって労働党政権が延命したことに安堵していることを打 ち明けた(ibid., 220 / 訳 315). ケインズは,労働党が自由党と提携して穏健派社会民主主義路線を採用することを期待したも のの,労働党が共産主義者を追放することは望まなかった(CW, XXI, 495―96 / 訳 568―70).実際 1939年 2 月にはケインズは,共産党との提携を目指す人民戦線を唱道して労働党を除名された クリップス(Stafford Cripps)への資金援助もおこなっている(ibid., 502―03 / 訳 577―79). 1931 年以降長期政権を維持した保守党中心の挙国内閣に対しては,ケインズは部分的にその 政策を肯定することはあったものの,未だに「反動的」だと非難し,「〔挙国内閣を〕何としてで も放逐する以外に良い策はない」(Cited in Williamson 1992, 471―72)と書簡で述べている. 1937 年からボールドウィンに代わって挙国内閣の首相となったネヴィル・チェンバレンに対 しては,その対独宥和政策のゆえにケインズはいっそう敵対的になり,1938 年 9 月末のミュン ヘン会談直後にキングズリー・マーティンに宛てた書簡においては,「最重要の当面の政治的課 題は,チェンバレンに対抗する勢力の結集である.…間違いなく反チェンバレンと目される候補 者は,所属政党に関わりなく,我々全てによって支持される」(CW, XXVIII, 123 / 訳 174)と言 うまでに至る. 大戦間期を通じてケインズが主張し続けた内需拡大政策は,本来的には,国際収支の悪化を阻 止するための保護主義政策と強い親和性をもっていた.ケインズが製造業を核とする均衡的国民 経済を望んでいたことは,イギリスの金融資本主義への傾斜に対して彼が非常に警戒的であった ことからも見てとれる.コスモポリタンな金融・サービス産業に偏った国民経済よりも製造業を 核とした国民経済を志向し,海外市場よりも国内市場を重視するという意味で,ケインズが経済 的ナショナリストであったことは明らかである.それにもかかわらず,ケインズが保護主義政策 に対してアンビヴァレントであり続けた背景には,ケインズの反右派思想とコブデン流の国際平 和主義があったというべきである.
III
第 1 次大戦前の海外投資論争
第 1 次大戦前の特に 1909 年から翌年にかけて,イギリスでは激増する海外投資の評価をめぐっ て自由党と保守党との間で激しい論争が展開された.貿易政策を対象としていたわけではないが, この海外投資論争は,ケインズを含むニュー・リベラルと保守派双方の国際経済思想が抱える矛 盾を理解するうえで,はなはだ示唆的である. 1909 年以降急増する海外投資に関して,保守党サイドは,自由党内閣が所得再分配を推進す るために遂行した急進的財政改革による資本逃避の帰結であると主張した.資本逃避によって資 本不足に陥った国内産業は危機に陥っているというのである.これを以て保守党は,資本逃避を 招いている自由党内閣の急進的財政改革に代えて,保護関税を導入すべきと論じた. こうした保守党からの批判に応えるべく,自由党サイドは海外投資が国民経済におよぼす効果 を肯定的に評価する論陣を張った.ニュー・リベラルを代表する経済学者であるホブソンは,自 由党政権が成立する以前の 1905 年まで,および第 1 次大戦勃発後は,海外投資の影響を否定的 に論じたにもかかわらず(Hobson 1903, 367―69; Hobson 1916, 117―18; Hobson 1930, 119),この 時の海外投資論争に際しては,Hobson(1911 a)において海外投資の好影響を手放しに評価した. 同様にニュー・リベラルの金融ジャーナリスト,チオザ・マニ(Money 1905)も,海外投資が 国内産業の空洞化を招くことに警鐘を鳴らしていたにもかかわらず,下院議員になった後の 1909年の議会討論ではその海外投資批判を撤回した(2 Parl. Deb. H. C. (5th ser.) (1909) col. 1167). 第 1 次大戦後,ケインズは過大な海外投資が国民経済に有害な影響をおよぼすことを一貫して 主張するようになるが,この海外投資論争に際しては,1910 年に「イギリスの海外投資」とい う論説を著して,海外投資を擁護した.ケインズは,「大量の未開発の資源をもつ新しい国への 投資の収益率は,既に多くの有利な事業が開発されてしまっている古い国の収益率よりも,大き い傾向をもつに違いないことは明らか」だと述べ,イギリスの投資家が海外投資を増やすことは 避けられないと指摘する.次いで,第 1 に関税改革が国内投資を増やす,第 2 に高率の所得税・ 相続税が国内投資を阻害する,第 3 に社会主義への恐怖が資本を海外に追いやっている,との保 守党サイドの議論をケインズはことごとく論駁する(CW, XV, 44―54 / 訳 57―68). 結論として,ケインズは次のように述べる.「我々の議論は,全体としてみれば,現在の情勢 の下では,イギリスの海外投資額に関する不平不満には根拠がないという結論に到達する.…た とえ海外に投資される資本総額が増加しているのではなくて減少しているとしても,関税改革論 者が不平不満をいうのは,容易に想像できることである.…ドイツあるいはアメリカが世界の債 権国としての首位を占めており,これらの国が我々に代わって,インド,カナダ,南米の開発に 融資していると想定してみるがよい.はたして自由貿易主義の政府は非難を免れるであろうか」 (CW, XV, 59 / 訳 72―73).このようにケインズは,保守党の海外投資有害論を党派的な,為にする議論に過ぎないと一蹴 した.しかしケインズ自身の議論も,自由党政権に肩入れする党派的な議論の色彩をまとってい ることは否定しがたいだろう. この海外投資論争を表面的に見るならば,国内産業利害に与した保守党関税改革派に対して, 自由党サイドはニュー・リベラルも含めて海外投資・金融利害に与したかのように見える.しか し実際の状況は,はるかに逆説的であった.貴族院ではシティ金融界・海外投資利害を代表する マーチャント・バンクの二大巨頭ロスチャイルド卿とレヴルストーク卿(Lord Revelstoke, ベア リング商会代表)が保守党を支持する立場から,自由党政権の急進的財政改革に起因する資本逃 避によって国内産業が危機的状況に陥っていると警告した(4 Parl. Deb. H. L. (5th ser.) (1909) cols. 796―99, 1155―56).彼らにとっては,自由党政権による富裕層への不当な攻撃の結果として 資本逃避が発生している以上,責められるべきは自由党政権であって投資家ではないのであった. Tomlinson(1981, 54―55)も指摘するように,保守党関税改革派もこの見方に同調しており,海 外投資規制を唱えることはなかった(例えば,1 Parl. Deb. H. C. (5th ser.) (1909) cols. 1148―50, 1180).彼らは,専ら自由党政権を攻撃の標的としたのである. 対する自由党サイドにとっては,海外投資の悪影響を認めた場合,その財政改革が間接的に悪 影響をもたらしたことを認めざるを得なくなってしまう.とりわけ,富裕層の不労所得重課税を 骨子とする財政改革を推進するニュー・リベラルは,保守党の議論を論駁する必要に迫られた. すなわち,ケインズを含めてニュー・リベラルが 1909 年前後の時期に海外投資擁護論を唱えた ことは,急進的財政改革を正当化するためのポレミークとしての意味合いをもっていたのである. 他方で,ニュー・リベラルの海外投資擁護論は,必ずしも海外投資利害の擁護を意図していたわ けではなかった.むしろホブスン,チオザ・マニといったニュー・リベラルは,シティの金融業 者に対しては敵対的であった(Hobson 1911 b, chaps. 5 and 6; Money 1905, 147; Money 1914, 139 参照).ケインズに関しても,『インドの通貨と金融』(1913 年)では,後年に露わとなる金融業 者への反感が既に示されている(CW, I, 101―02, 135 / 訳 105―07, 140).
海外投資論争の渦中の 1909 年 11 月,左派の金融ジャーナリスト,ノーマン・エンジェル (Norman Angell)が公刊した Europe s Optical Illusion は,翌年に『大いなる幻影』(The Great
Il-lusion)に改称して再刊され,一大ベストセラーとなったが,ニュー・リベラルの海外投資擁護 論にとってきわめて好都合な論拠を提供した.この著作においてエンジェルは,活発化する国際 的資本移動と国際貿易の結果,ヨーロッパ列強間の経済的相互依存は未曽有の水準に達したため, もはや大規模な軍事紛争は非現実的になっていると論じた(Angell 1910).つまりエンジェルは, コブデンの自由貿易主義国際平和論を国際的資本移動にも適用し,海外投資の平和誘発効果を論 じたのである. しかしながら,1914 年の大戦前夜にかけて海外投資は未曽有の急増を続け,マニ(Money 1914)は海外投資批判を再開した.同年 7 月,自由党政権は海外投資を放任する従来のスタンス を変更し,海外投資収益への課税を新設した.税収は当初は 2 万ポンドとごく少額が予定されて
いたが,漸次 50 万ポンドにまで引き上げられることとなった.管見の限り,この海外投資課税 には Offer(1983)のみが着目している.この新政策に対して保守党は,下院議員となっていた 歴史学派経済学者ヒュインズも含めて,結束して反対票を投じた(65 Parl. Deb. H. C. (5th ser.) (1914) cols. 401―06).議会討論の中で,自由党の一下院議員は,「我々は,海外に投資されてい
る資金が本国に投資されることを望んでいるのだ.あなた方は,これに異存でもあるのか?」(64 Parl. Deb. H. C. (5th ser.) (1914) col. 1635)と保守党を論難したが,これは保守党サイドの急所 を射抜いた発言であったと言える. 海外投資課税をめぐる議論から見てとれることは,逆説的なことに,自由貿易主義の自由党の 方が保守党よりも国内産業利害の擁護に熱心であり,関税改革派の保守党の方が自由党よりも海 外投資利害の擁護に熱心であったことである.自由党,保守党両党下院議員の経済利害構成に関 する諸研究(Thomas 1958, 28―30; Rubinstein 1977, 123―24)によれば,相対的に自由党は工業利 害関係者が多く,保守党は金融利害関係者が多い傾向があったとされるし,自由党の支持基盤は 工業地帯のイングランド北部,保守党の支持基盤は金融・サービス産業の中心地であるイングラ ンド南部であったことを考慮すれば(Kinnear 1968, 28―32),これは必ずしも意外な結果ではない. 以上のように,ケインズが属したニュー・リベラルの人脈は,自由貿易主義を熱烈に奉じなが らも,比較優位論的にイギリスの金融国家化が進行することは決して望まなかった.他方で,保 守党に属する保護主義者は,その経済的ナショナリズムの言説とは裏腹に,ロンドン・シティの 海外投資利害と妥協する傾向があったということになろう.
IV
1920 年代におけるケインズの国際経済思想
第 1 次大戦戦時期から戦後にかけて,ホブスンとチオザ・マニは自由党を見限って労働党に移 籍した.一貫してアスキス派に所属し続けた J. M. ロバートソンは,古典的自由主義の方向へ傾 斜した(Davies 2012, 8).代わって戦後には,ケインズ,レイトン(Walter Layton),ヘンダーソ ン(Hubert Henderson)といったケンブリッジ大学出身の経済学者がニュー・リベラルの系譜を 引く自由党左派の中心的経済ブレーンとなる. 戦後に激しいインフレを伴うブームとなったイギリスでは,イングランド銀行の高金利政策に よって 1921 年以後は一転激しいデフレ不況に陥り,1920 年代を通じて慢性的不況状況に陥った. 戦前平価での金本位制復帰を目指してデフレ政策を強行する大蔵省・イングランド銀行を手厳し く批判するケインズは 1924 年 5 月,公共事業の拡大による不況対策を求める議論を初めて本格 的に打ち出した(CW, XIX, 219―23 / 訳 241―46).この論説では,「相対的に不毛な対外投資から, 国内で国家が促進する建設的企業に向かうように,国民の貯蓄を転換すること」(ibid., 223 / 訳 245)が要請されたが,同年 8 月の「対外投資と国民の利益」と題する論説において,海外投資 批判が詳細に論じられた. 1910 年論文とは全く裏腹に,この論説でケインズは海外投資に対して徹底的に否定的な見方を示している.彼は,海外投資と国内投資をほとんど差別しないというイギリスの制度は全く例 外的であり,海外投資から得られる利益が国内投資に比べて特に高いわけでもなかったと指摘す る.にもかかわらず,1889 年以後の植民地投資優遇政策の結果として,海外投資は過度に促進 されてきた.ケインズによれば,海外投資が支払い不能になった場合,イギリス国民には何も残 されないが,国内投資が支払い不能になったとしても,国民には鉄道や住宅といった投資の果実 が残されるのである.ケインズは,海外投資が輸出貿易を促進する効果を認めはするが,「私は 輸出が,所望の輸入に対する支払いのために必要とされるのでない限り,輸出それ自体に価値が あるとは思わない」とまで述べる.さしあたってケインズは,植民地投資優遇政策の撤廃を提言 した(CW, XIX, 275―84 / 訳 315―25). この論説においてケインズは,海外市場よりも国内市場を重視する経済的ナショナリズムの理 念を典型的な形で示している.ケインズら自由党左派によって 1928 年に公刊された自由党の政 策文書『イギリス産業の未来』は,公共事業による失業対策と並んで,海外投資規制による国内 投資誘導措置を公約に盛り込んだ(Liberal Industrial Inquiry 1928, 110―15).ホブスンら 4 名が 1926年に公刊した独立労働党(労働党下部組織である社会主義思想団体)の政策綱領『生活賃金』 も同様に,海外投資規制を提言している(Brailsford et al. 1926).このように,ニュー・リベラ ル全体は,国際的資本移動の自由に対するノーマン・エンジェル的な信頼を戦後には完全に放棄 したのであり,海外投資規制と国内投資優遇政策への積極姿勢に本格的に転換したのである.こ こからは,彼らと経済的ナショナリズムとの親和性を見てとることができるだろう. 他方で,ケインズらニュー・リベラルは,大恐慌勃発までは商品貿易の自由を神聖視し続けた. 1923年 1 月,ケインズは大戦からのヨーロッパ復興を論じた一連の特集記事の中で,次のよう に述べている. 我が国は,例外が一切認められない,不屈の信条として,その最も広い解釈において,自 由貿易を堅持するべきである.それは,その決定が我が国の力のおよぶところならどこで も,そのようにするべきである.我が国が互恵的な取扱いを一切受けられないような場合 であっても,また,互恵的な取扱いを破ることによって我が国が直接的な経済的利益を実 際に受けることができるような稀な場合であっても,我が国はこの原理を堅持すべきであ る.我が国は,単なる経済的利益の原理としてではなく,国際的な道義の原理として,自 由貿易を堅持するべきである. (CW, XVII, 451 / 訳 618) 以上の議論は典型的なコブデン主義のそれであり,経済的というよりむしろ政治的・倫理的な 観点から,例外を許さないラディカルな自由貿易主義が擁護されている. 同年末に保守党内閣のボールドウィン首相は保護主義政策の是非を争点にして総選挙に打って 出たが,ケインズは自由貿易の旗印の下に再統一を果たした自由党を支持する選挙キャンペーン のため,一連の論説を寄稿した.1923 年 11 月の論稿においては,確かにケインズはリカード流 の比較優位論に基づいて,自由貿易を擁護している.すなわち,「我々の資本と労働は,我々が
他国の人々よりも相対的に能率的である産業において雇用するのがより良いのであり,これら産 業の生産物を,我々がその生産について相対的に非能率的である商品と交換するのがより良いの である」(CW, XIX, 147 / 訳 158). しかしながら,この論説は自由党への投票を呼びかける政治的言説の一環であったことには留 意すべきであり,既述のように,翌 1924 年からはケインズは明確に国内市場重視論を唱えてい くこととなる.また,1923 年 1 月時点では自由貿易にいかなる例外も認められないとしていた ケインズは,この論説では,保護主義が例外的に認められる可能性がある 4 つのケースを列挙し た.第 1 に非経済的な理由に基づく農業保護,第 2 に「基幹産業」の保護,第 3 に「幼稚産業」 の保護,第 4 に「ダンピング」への対抗がそれにあたる.しかしながら,ボールドウィンは食糧 関税を提起しているわけではなく,「幼稚産業」に該当する自動車産業は既に高率の関税で保護 されており,1921 年に制定された産業保護法によって「基幹産業」と「ダンピング」も既にカバー されていることから,以上の 4 つのケースはいずれも妥当しないと結論づけられた(CW, XIX, 147―56 / 訳 157―69).とはいえ,農業,幼稚産業としての自動車産業,および代表的基幹産業で ある鉄鋼業に関しては保護が認められる,という論点をケインズは 1930 年代まで繰り返すこと となる. 1923 年 12 月総選挙における保守党敗北を受けて,自由貿易派の労働党が自由党の閣外協力に より初の政権を獲得したが,労働党内閣は 1924 年 11 月に瓦解する短命政権に終わった.これ以 後,保護主義の公約を取り下げて総選挙で大勝したボールドウィンの保守党内閣が 1929 年 6 月 まで長期政権を維持する. 1925 年 4 月,保守党内閣はケインズの激しい反対を押し切って,戦前平価での金本位制復帰 を強行した.金本位制・固定為替相場制へイギリスが復帰したことは,公共事業による失業対策 というケインズの構想を困難に陥れるものであった.公共事業による国内市場の拡大は,輸入増 加を通じて国際収支を悪化させるからである.海外投資規制に関しては一致を見たニュー・リベ ラルであったが,『イギリス産業の未来』の中で認められているように,金本位制の評価に関し ては分裂した(Liberal Industrial Inquiry 1928, 410―11).ホブソン(Hobson 1925)は,ケインズ の金本位制復帰反対論を支持した. Eichengreen に従えば,金本位制と内需拡大政策を両立させるためには,保護関税という手段 を余儀なくされるということになる.しかしながら,1929 年まではケインズは,公共投資によ る失業対策と自由貿易政策の双方を支持し続けた. 1925 年 7 月,不況対策の方法を協議するために組織されたバルフォア委員会の証言者として 喚問されたケインズは,次のように述べる.当時の不況の原因は,専ら戦前平価での金本位制復 帰を目指して遂行されてきた高為替政策に起因する輸出不振に求められる.そこで,現状では 3 つの選択肢のみが可能である.第 1 は,本来ベストな選択肢である平価切下げであるが,保守党 政権下では実現可能性はないであろう.第 2 は,「失業を限りなく増大させて,賃金が下がるよ うにする」ことである.しかしケインズは,実質賃金が不当に高いという見方を否定し,この選
択肢が望ましいとは認めなかった.第 3 は,ヨーロッパ大陸諸国でインフレが生じるという可能 性に期待して,内需拡大政策を敢行することである(CW, XIX, 397―98 / 訳 470―71).ヨーロッパ でインフレが生じるならば,イギリスの国際収支への圧力は軽減されるからである.ケインズは, 強いて言えば,第 3 の選択肢を好むと言いつつも,この選択肢は一種のギャンブルであり,「本 質的に不健全である」ことも認めた(質問番号〔以下,Q.〕16530). ケインズは,保護関税という選択肢についても問われたが,これに対しては,「輸出産業がそ れによって被害を受けるに違いない」と述べて,それを言下に否定している(XIX, 406 / 訳 485). ケインズは,イギリスが目標とすべき長期的な政策としては,金本位制の放棄という通貨政策 を別にすれば,「国内産業を刺激することによって輸出産業から国内産業への移転」(Q. 16582) を遂行することであると論じた.公共投資による内需の促進を通じて輸出産業から国内市場向け 産業へと労働力が移動すれば,輸出不況による失業は解消するというのである.しかし,こうし た国内市場産業拡大・輸出産業縮小論は,輸出産業が被害を受けるからという上記の保護関税否 定論とは明らかに矛盾しているだろう.金本位制を,ケインズ自身が認めたように,さしあたっ て所与とするならば,彼が主張するような内需拡大政策は,保護関税による赤字の相殺を伴った 場合にのみ,現実的な政策となったはずである. 他方で,ケインズが一貫して対外貿易よりも国内市場を重視していたことは,彼が決してリカー ド的な比較優位論的自由貿易主義の信奉者ではなかったことを示している. ケインズの証言に関しては,その他にも興味深い点がある.バルフォア委員会の一部の委員は, イギリスの輸出産業はコスト高による競争力低下という構造的問題を抱えていることをケインズ に認めさせようと執拗に迫った.この追及に対し,ケインズは,「それは価格の問題です」(Q. 16597; Q. 16599)と繰り返し,為替レートの切り下げさえ可能であるならば,競争力の低下は容 易に打開可能であると反論した.つまり,この時点のケインズは,イギリス産業がサプライサイ ドの構造的問題を抱えていることを認めなかったのである. それにもかかわらず,1926 年から 1928 年にかけて,ケインズはランカシャー綿工業を集中・ 再編して産業合理化を図るプランを案出し,産業界のアドバイザー的役割を務めた(熊谷 1995, 281―95; CW, XIX, chap. 7).のみならず,同じ時期にケインズは『イギリス産業の未来』の作成 作業に携わり,ビジネス組織の再編を扱う第 2 編と通貨政策・銀行政策を扱う第 5 編第 18・19 章の主要作成者となった(Harrod 1951, 392―93).こうして 1926 年∼28 年という時期は,ケイン ズのキャリアの中で,産業のサプライサイド問題を是正するミクロ経済政策に彼が積極的かつ本 格的に関与した例外的な時期となった.金本位制を覆す展望をもてず,かといって保護主義政策 に訴える気にも未だなれなかったこの時期のケインズは,政策的に行き詰ってしまったから,そ の刷毛口を本来は重視していなかったサプライサイド問題への取り組みに見出したという解釈も 成り立ち得るであろう. 1926 年にアスキスに代わって自由党党首となったロイド・ジョージは,1929 年 5 月総選挙に
際して,起債を通じての大規模公共事業による失業対策を前面に押し出した選挙キャンペーンを 展開した.自由党の選挙綱領は,金本位制と自由貿易を維持することを前提として,大規模な内 需拡大策を提唱しており,国際収支の制約という問題に当然突き当たらざるを得ないはずであっ た.しかしながら,ケインズはヘンダーソンと共著で政策パンフレット『ロイド・ジョージはそ れをなしうるか?』を著し,自由党綱領を援護した.これにおいてケインズは,内需拡大策はイ ンフレでなくデフレ脱却をもたらすに過ぎないと論じ,金本位制と自由貿易の組み合わせが伴う はずの制約について言及することはなかった(CW, IX, 86―125 / 訳 101―49). 自由党候補として選挙に出たヘンダーソンを支持する声明の中でケインズは,「国際平和およ び軍備縮小と失業対策としての国内開発という2つの大目標が今回の総選挙の2つの主たる争点」 であると述べ(CW, XIX, 816 / 訳 991),別の自由党候補に宛てた書簡の中でも,「国際平和およ び軍備縮小と失業対策」が最重要であると強調した(ibid., 818 / 訳 994).保守党党首ボールドウィ ンの態度次第では,保護貿易の是非も争点になり得たはずであるとも付け加えられた(ibid., 818 / 訳 994).言うまでもなく,その際にはケインズは自由貿易を支持するのである.このように, この時期のケインズは,経済学者としての論理的一貫性よりも,自由党への政治的忠誠を優先さ せており,自由貿易と軍備縮小が国際平和を促進するという伝統的なコブデン主義者に留まって いたと言えるだろう. 結局,この時の総選挙では自由党の議席は伸び悩み,自由党の閣外協力によって労働党が再び 政権を獲得するという結果となる.同年秋に勃発した大恐慌の渦中に,ついにケインズは自由貿 易主義を放棄する.
V
大恐慌期におけるケインズ国際経済思想の変容
1930 年 2 月,金融と産業に関するマクミラン委員会の構成員として,ケインズは初めて保護 貿易政策の必要を容認するに至る(CW, XX, 113―17).同年 9 月,彼はマクドナルド首相のアド バイザーとして,食糧を含む全ての輸入品への一律 10% の関税と輸出補助金を明確に提言する に至った(ibid., 416―19). ケインズの保護主義への転向はセンセーションをひきおこしたが,この時期になって何故ケイ ンズは保護主義に転向したのだろうか? 疑いなく,最大の引き金は大恐慌の深刻化という緊急 事態の要請であっただろう.しかしその他にも,ケインズの転向を容易にした状況変化が既に生 じていたことにも止目すべきである. 第 1 に,Trentmann(2008, II / 訳 II)が説得的に実証したように,第 1 次大戦を経て,イギリ ス独自の政治文化としての自由貿易主義はその優勢な地位を失っていた.第 2 に,大戦期から進 行した所得税の大増税などを通じて,税収に占める関税比率は大幅に低下しており,逆進課税と しての関税の難点は既に軽微となっていた(Middleton 1985, 62―69).第 3 に,大戦期から急速 に大土地所有制が解体したため,農業保護関税が地主支配体制を復活させるという懸念は既に過去のものとなっていた(Thompson 2010, 262―63).第 4 に,当時の労働党政権下では,帝国特恵 関税による英帝国の統合強化という課題は問題とされていなかった.したがって,1930 年とい う時点では,イギリスの保護主義がかつて有していた右派的要素はごく薄まっていたということ になる.実際,この時期にはケインズに限らず,アーネスト・サイモン(Ernest Simon)のよう な有力左派自由党員が少数ながら保護主義へ転向しつつあった.Sloman(2015, 60―63)によれば, 同時期にはホブスンでさえも,サイモンに向けて,その決断を支持する旨の書簡を送ったという. 結局,第 2 次労働党内閣は,金本位制・自由貿易・均衡財政という正統派経済政策に固執し続 けた挙句,1931 年 8 月に倒壊し,マクドナルド挙国内閣が成立する.挙国内閣は翌 9 月に金本 位制離脱に踏み切り,ケインズはこれを「金の足枷の破壊」(CW, IX, 245 / 訳 291)と呼んで歓 迎した.しかしながら,この時ケインズは直ちに保護関税への支持を全面的に撤回したわけでは ない.同年 11 月の書簡でケインズは,「一般関税に関しては,さしあたって為替切り下げで十分 であり,たとえ一般関税が課せられるとしても,それは穏当な程度に留まることが望ましいとい う考えに私は傾いている」(CW, XXI, 8 / 訳 10)と述べるとともに,鉄鋼業と農業への保護関税 は容認する姿勢を示していた.つまり,この時点のケインズは,「穏当な程度」の一般関税であ るならば,それを認める姿勢であったのである. しかしながら,1931 年 10 月総選挙で歴史的圧勝を博した挙国内閣においては,保守党が単独 で議席過半数をはるかに上回る状況となり,保守党の発言力が圧倒的に強化されていた.結果と して,翌 1932 年 3 月の輸入関税法によって,保守党は念願の一般関税導入に成功したのである. しかし,輸入関税法はケインズの姿勢を明らかに硬化させた.翌 4 月,輸入関税法を含む予算を 論評した論説の中で,彼は次のように述べている.「今日の世界に存在するような関税は,第一 級の災いである.それらを増やしていくことは必要としても不快である.その上,スターリング の切下げは,関税によるよりもはるかに効果的に英国の費用を世界の費用に再調整しており,保 護関税擁護論を大いに弱めている」(CW, XXI, 103 / 訳 115―16).つまりケインズは,勝ち誇る保 守党への怒りから,保護貿易への態度を硬化させたのである. しかしながら,ケインズの怒りは長続きしなかった.同年 1932 年 11 月のラジオ講話を皮切り として,再度ケインズは保護主義に接近する.この講話の中で彼は,同年 7 月に英帝国特恵関税 を創設したオタワ協定を酷評しつつも,「自由貿易の限界」について語り,自由貿易派と保護貿 易派の双方に共感するという両義的な姿勢を示した.そして,少なくとも自動車,鉄鋼および農 業への保護は認められるべきと論じた(CW, XXI, 204―10 / 訳 233―40). そして,翌 1933 年 4 月 19 日にダブリンのユニヴァーシティ・カレッジでおこなった講演を基 にした論説「国家的自給」では,保護主義への共感が前面に押し出されるに至った.「国家的自給」 は,同年 6 月に Yale Review に掲載され,続いて 7 月に New Statesman and Nation に掲載された. 両者の内容にほとんど差異はないが,以下では,ケインズ全集所収の後者の論説を参照する7).
それによれば,「私は,国家間の経済上の関わりあいを最大化しようとする人々よりも,最小化 しようとする人々に親近感をもつ.…無理なく手軽に可能な時には,商品は自国製にしよう.ま た,とりわけ金融は主として自国のものにしよう」.「国の自足をより高めることによって一次産 品と工業製品の実際のコストがいくらか増加しても,それは,別の種類の利益と比較衡量した場 合,重大な影響力をもたなくなっているかもしれない」(CW, XXI, 236―38 / 訳 268―70).
Eichengreen(1984, 371―72)は,ケインズがこの時期に例外的に経済計画(central control of the economy, economic planning)に熱中していたことによる一時的な気の迷いに過ぎない,とこ の論説をかたづけている.保護関税は経済計画の円滑な進行を助けるからである.しかし Eichengreenは,この時期にケインズが経済計画に熱中していたとの明確な根拠を示しているわ けではない.翌年に迫る世界経済会議への期待を記した 1932 年 12 月の論説において,ケインズ が計画(the plan)について肯定的に論じていることが,おそらくは根拠であるのだろう.しかし, この論説でケインズが論じている計画とは,会議参加国が協同して金証券を発行し,この金証券 によって国際収支の調整を図るという計画であって,保護関税を必要とするような類の計画では ない(CW, XXI, 215―16 / 訳 245―46).国内資源の計画的な再配分をおこなうような経済計画は, むしろイギリスの再軍備が本格化する 1937 年以降の論説において本格的に論じられることとな る(ibid., 384―95, 408―09 / 訳 437―50, 464―65). 1930 年代イギリスの経済計画論争を詳細に考察した Ritschel(1997, 297―98)によれば,1920 年代に一時的に産業政策への関心を示したケインズは,1930 年代に入ると経済計画・産業政策 が生産抑制による価格維持という方向性をとったことに失望し,1936 年の『一般理論』刊行以 前は経済計画による産業再編に対して懐疑的になった(CW, XXI, 270 / 訳 304 も参照).西沢(1999, 77―99)も,1930 年代のケインズがサプライサイド的構造問題に総じて無関心であったことを指 摘している. 以上のように,「国家的自給」がケインズの経済計画への一時的熱狂を反映していたに過ぎな いという Eichengreen の説は,支持しがたい. 「国家的自給」は,自由貿易を真っ向から否定する点で,ケインズのキャリアの中では確かに 例外的な論説である.しかし反自由貿易・親保護主義のレトリックを別にすれば,実のところ, 前後の時期と大きな相違点が見られるわけではない.同論説は,反自由貿易と並んで反レッセ フェールを説くが,岩本(1999, 206)が指摘する通り,反レッセフェールの思想自体は,1924 年初出の論説「自由放任の終焉」(CW, IX, 335―66 / 訳 403―42)以来,首尾一貫している.海外 投資規制と内需拡大政策の主張,海外市場よりも国内市場を重視すべきという議論も,前後の時 期を通じて一貫している.保護主義へのシンパシーが繰り返されるにもかかわらず,「国家的自給」 において保護関税引き上げが正面から肯定されているわけでもない.実際ケインズは,1933 年 6 月に開催予定のロンドン世界経済会議が「関税の相互引き下げを達成し,また,地域協定への途 を準備するならば,それは真に賞賛すべきことであろう」(CW, XXI, 244 / 訳 276)と述べている のである.
「国家的自給」の基となった 4 月の講演とほぼ同時期,1933 年 3 月から翌月にかけて,ロンド ン世界経済会議に向けてのケインズの期待を論じた論説は,『繁栄への道』というパンフレット にまとめられ,やがて『説得論集』に収められたが,これにおいても,「競争的な通貨価値の切 り下げと競争的な関税,さらに,為替管理,輸入禁止,輸入割当制のような,個々の国の国際収 支を改善する一層意図的な手段などは,それらが至るところで採用されるならば,どの国をも救 済しないばかりか,それぞれの国を害するであろう」(CW, IX, 352 / 訳 425)と述べられている. 他方で,ケインズは同じ論説の中で次のようにも言う.「会議がひたすら,関税,輸入割当,為 替管理の撤廃に関する偽善的な議決に終始するのならば,それは時間の浪費であろう.これらの 方策が,意図的な国家的ないし帝国的な政策の表明でない限り,各国は,不本意ながら,それら を自衛手段として採用してきたのであり,それらは外国為替の緊張をもたらす原因であるわけで はなく,それが発している徴候なのである」(ibid., 357 / 訳 431). 「国家的自給」と『繁栄への道』の双方を通じてのケインズの主張とは,要するに次のような ことである.各国は協調して同時に内需拡大政策を遂行すべきである.つまり,いかなる国も, 輸出主導の景気回復をオプションとしてはならない.輸出主導の景気回復戦略は近隣窮乏化政策 だからである.換言すれば,積極的に貿易黒字を増大するための保護関税や為替政策は許容され るべきでないが,内需拡大政策の妨げとなる赤字拡大を相殺するための保護関税や為替政策は許 容されるべきである. 輸出主導の景気回復戦略を否定し,各国が同時に内需主導の景気回復戦略を採用すべきという ケインズのこうした見解は,戦間期を通じて首尾一貫している.しかし,「国家的自給」には, 他の時期には見られない特異な点があることは事実である.それは何かと言えば,自由貿易主義 よりも保護主義の方が相対的に正しい,という明確な言説である.1929 年までのケインズは, 自由貿易主義が保護主義よりも正しい,という明確なスタンスを堅持していた.1930 年代以後 のケインズは,「国家的自給」を例外とすれば,自由貿易および保護主義に対してアンビヴァレ ントな姿勢に終始する.「国家的自給」では,保護主義の欠陥が注意深く何度も指摘されてはい るが,にもかかわらずケインズは,保護主義を自由貿易主義よりも明確に上位に置くのである. もっとも,ここでケインズが言う保護主義とは,必ずしも保護関税引き上げを意味するわけでは なく,経済的ナショナリズム,もしくは国内市場重視論とほぼ同義の言葉として使用されている. とはいえ,イギリスの左派および自由主義者にとってスティグマ・ワードとも言うべき保護主義 (protectionism)をケインズが明確に肯定したことの意義はやはり大きい. 「国家的自給」が,Eichengreen が言うように経済計画への一時的熱狂による気の迷いでなかっ たのだとすれば,同論説における例外的な親保護主義・反自由貿易の言説は,一体何に由来する のだろうか? 第 1 に,1931 年 10 月総選挙の際に自由党が三分裂したことを契機として,しばらくの間ケイ ンズは自由党との公式のつながりを断っていた(Clarke 1988, 286).その結果,ケインズは自由 党への政治的忠誠から解放され,保護主義に関してより自由な議論ができるようになったと言え
る.既述したように,保護主義政策の右派的インプリケーションも,この時期にはかなり薄らい でいたのであって,輸入関税法に対するケインズの怒りも一時的なものに終わった. 第 2 に,より重要なこととして,1932 年 11 月のラジオ講話から 1933 年の「国家的自給」に かけて,ケインズの議論の中には,各国による自給的な国民経済の創出こそが世界平和に寄与す る,という新たな論点が登場してくる.11 月のラジオ講話において,彼は言う.「国家的保護は, その理想主義的な側面も有している.その理想主義的側面においては,均衡がとれた国民経済を 目指す政策は,平和と真実,そして自由貿易の国際的公正取引と結びつくこととなろう」(CW, XXI, 207 / 訳 236). さらに,「国家的自給」においては,より明確に次のように述べられている.「現在,我々は非 常に強い信念をもった平和主義者なので,もし経済的国際主義者がここでポイントを稼ぐならば, 彼はすぐに我々の支持を取り戻すだろう.しかし,現在,海外貿易を獲得しようと国家的な努力 を大いに傾注することや,海外資本家の資本や影響力が一国の経済構造に浸透することや,我が 国の経済生活が変動する外国の経済政策に密接に依存することが,国際的な平和の保護や保障に なるのは明らかだとは思えない.経験や先見の明に照らせば,その全く反対の議論をする方が一 層容易である」(CW, XXI, 235―36 / 訳 267―68). このように,1932 年末から翌 1933 年にかけて,ケインズはかつてのコブデン主義的な自由貿 易主義国際平和論への信頼を失い,むしろ各国がそれぞれ内需拡大政策を通じて経済的ナショナ リズムの政策を遂行することが国際平和にも寄与するとの新たな見解に傾いていたのである.実 際,1933 年 3 月にアメリカ大統領に就任したフランクリン・ローズヴェルトが,イギリスやフ ランスとの為替安定協力を拒絶するとの爆弾声明により,同年 7 月にロンドン世界経済会議を決 裂に追い込んだ際,ケインズは「ローズヴェルト大統領はすばらしく正しい」との論説を発表 し,国内景気の回復を優先させるローズヴェルトの姿勢をむしろ称賛した(CW, XXI, 273―77 / 訳 309―12). しかしながら,ケインズの保護主義,もしくはオータルキー主義へのこうした高い評価は長続 きしなかった.これ以後ケインズは,自由貿易主義・保護主義に対してアンビヴァレントな姿勢 に回帰する.1936 年の『一般理論』では,「貿易制限が特別の根拠によって正当化されえないか ぎり,それに対しては一般的性質をもつ有力な反対理由がある.国際分業の利益は,古典派によっ て強調されすぎているけれども,本当のものであり,しかも重要なものである」(CW, VII, 338 / 訳 338)と述べられている. これを以て,ケインズは本来の自由貿易主義に復帰したとみなされることもあるが,決して 1920年代までのような手放しの自由貿易主義に回帰したわけではなかった.再軍備が加速し, 国際収支への圧力が増しつつあった 1938 年にはケインズは,各種の論説や書簡において,輸入 と輸出をリンクさせるバーター的な双務貿易を提唱した(CW, XXI, 467―68, 471―74, 482―83 / 訳 536, 540―43, 552―54).これは,関税という手段を使わないまでも,自由貿易主義がもつ多角主 義原理からの離反に他ならなかった.
第 2 次大戦中の 1940 年からケインズは大蔵省に参画し,戦後通商政策構想にも関与するが, 1943年の覚書では関税よりも輸入数量制限という手段を活用すべきと論じた(CW, XXVI, 257― 58, 261 / 訳 328―29, 332―33).翌 1944 年には,自由貿易主義の立場に基づき国際収支不均衡 に対しては為替レートの変動によって対処すべきと主張する国際経済学者フレミング(Marcus Fleming)に対して,ケインズは,むしろ輸入割当制のような輸入制限という手段の方が望まし いという反論をおこなっている(CW, XXVI, 287―89, 297―99, 303―04 / 訳 367―69, 380―82, 387―88). とはいえ,こうした輸入統制措置が戦後過渡期に限定されるべきか,もしくは恒久的になり得る のか,という点についてケインズは曖昧であった. このように,1938 年頃からケインズは,自由貿易よりも明らかに管理貿易の方向に傾斜したが, それにもかかわらず,「国家的自給」のように保護主義,および経済的ナショナリズムを高唱す ることはなかったのである. それではケインズは,何故保護主義・オータルキー主義,もしくは経済的ナショナリズムへの 高い評価を撤回し,保護主義および自由貿易主義に対して煮え切らない両義的な姿勢に回帰した のか. 「国家的自給」においてケインズは,主にムッソリーニ独裁下のイタリアとソ連を念頭にして, 「国家的自給の主唱者が権力を握った国では,私の判断では,例外なく,多くの馬鹿げたことが 実行されているように見える」とも述べ,この論説を次のように結んでいた.「〔自給自足経済と いう〕実験を望む全ての人々にとって,スターリンを恐るべき戒めとしよう.さもなければ,私 は何としてでも,私の古き 19 世紀の理想の下にすぐに舞い戻るであろう」(CW, XXI, 246 / 訳 279). 「国家的自給」の基となるダブリンでの講演がなされた時点では,ドイツでヒトラーが政権を 獲得してから 2 か月半ほどしか経過していなかったので,当然ながらケインズは,ドイツの実験 の成果を判断するのは時期尚早としていた(CW, XXI, 244 / 訳 276).しかしながら,一大オータ ルキー帝国を築き上げようとするヒトラーの野望が間もなく明らかとなった.同時に,保護主義 政策が有する近隣窮乏化的・右派的なインプリケーションが再度明瞭に浮かび上がってくること となった.こうして,保護主義は国際平和と親和的たりうるという見方をナチス・ドイツの台頭 によって動揺させられてしまったケインズは,「古き 19 世紀の理想」であるコブデン主義への信 仰を,あくまで部分的にではあるが,回復したと言えるだろう. 実際,大量の未公刊文書を渉猟してケインズの戦間期の国際関係思想を克明に分析した Markwell(2006, 190―91)は,ケインズが一貫して反ナチであり,宥和政策に対して批判的で あったことを実証している.さらに彼はケインズを,ホブソンやエンジェルと同様な理想主義的 国際主義者と特徴づけている. 他方で,国内市場志向の均衡経済論者という意味では根っからの経済的ナショナリストであっ たケインズは,大恐慌を経験した後では,かつてのドグマティックな自由貿易主義に復帰するこ ともなかったのである.