Author(s)
古座, 文彦
Citation
沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL
OF LAW & ECONOMICS(19): 1-10
Issue Date
2013-03-29
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/11202
《状態》は、それが人や物に生じるとき、発生してすぐに消えてなくなるようなものでは なく、一定時間持続する、静的な現象のことをいう。状態を客体的にみるなら、こんなふうに簡 単に規定することができるだろう。そして、このような、一定時間持続する現象を、主体はみず からの体験としてとらえたりするのだが、この体験を、そのあらわれ方とする状態では、《いま》 という時間的なありか限定をうけとるところの、一定時間持続する現象がとらえられている。こ こでの現象は時間のながれとともに推移していくが、主体はみずからの意志でその時間のながれ を速めたり、遅くしたりすることはできない。体験する主体は、現実の世界にながれる時間に身 をおき、そのながれに身をまかせるしかない。たとえば、つぎにあげる用例のように。 背中の火傷に蛆をわかしてかゆがる患者は、「かゆいかゆい、小母さん背中を掻いて」と甘っ たれるのがいた。(黒い雨) あの時彼女は泥酔していて、痺れて役に立たぬ腕を歯痒いがって、 「なんだこんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの」と肘に激しくかぶりついたほど であった。(雪国) 松代先生が、ひどくもだえはじめた。 「い、いたい、く、くるしい、お父さんッ」(私は忘れない) 「こんなに遅くまでめずらしいことね。どなたとどこでお飲みになったの?」 「ねむい、ねむい!」(満ちて来る潮) 上述の用例では、人間のもとに生じる一定時間持続する現象がいいあらわされているが、その 現象を知覚・体験する主体をぬきにしては、《状態》としてあらわれる現象を正確にとらえるこ とはできない。したがって、《状態》について考えるにあたって、客体的なものと主体的なもの とのからみあいのなかでみる必要がある。この報告では、そのことを考慮に入れて《状態》を考 察していく。その際、形容詞を分析の対象とする。 【論文】 専 門 分 野:日本語学 キーワード:《ただの状態》、《相対的な状態》、《因果的な状態》 On the Meaning of the State
古 座 文 彦*
Fumihiko KOZA
現実の世界に生じる、じっさいの《状態》では、客体的なものと主体的なものとがひとつにと けあっているとはしても、分析の手つづきとしてそれらを切り離してとらえることはできる。そ こでまず、状態を客体的な側面からみてみることにしよう。では、そもそも状態はどんなふうに 人や物に現象するのだろうか。状態の現象のし方については、奥田靖雄1997「動詞(その1)・ その一般的な特徴づけ」において、つぎのような規定があたえられている。本稿も、この規定か ら出発する。 状態動詞は人間や物の表面、あるいは内面に一時的に生じてくる自然発生的な自己運動を とらえている。言語的な意味としての状態は、他のはたらきかけのもとに一時的に生じてく るバランスのくずれであり、そのくずれをとりもどそうとする運動である。バランスがたも たれている、正常な状態はむしろ言語的な意味の対象にはならない。安定したバランスのも とでは生じてこない、調和のこわれたときにのみ生じてくる、一時的な現象である。したがっ て、状態はおおくのばあいは否定的な評価をともなう。たぶん、変化動詞の継続相が表現す る《結果的な状態》とはことなるだろう。状態動詞が表現する状態は、これと区別するため に、《ただの状態》とよぶことにする。 上述の規定では、状態動詞が表現する状態を《ただの状態》とよんで、変化動詞の継続相が表 現する《結果的な状態》から区別しているが、そのばあい変化動詞の継続相が表現する《結果的 な状態》は、①変化するまえのふるい状態、②変化したあとのあたらしい状態、③変化のモメン トを言語的な意識にうつしだしていることを前提としている。ある物がふるい状態からあたらし い状態に変化することによって、そこに結果性が生じてくるからである。こうして、変化動詞の 完成相はふるい状態からあたらしい状態への移行のモメントを、変化動詞の継続相は変化の結果 として生じ、持続する現象を表現することになる。しかし、それに対して《ただの状態》は、上 述の①~③が言語的な意識のなかにはうつしだされてはいない。そこにあるのは、主体の体験の なかにとらえられる、一定時間持続する現象のみである。さきほど用例としてあげた「かゆい」「だ るい」「いたい」「ねむい」などの状態形容詞を述語にする文は、この《ただの状態》を表現して いるとみてよいのだろう。そこでは、ただ単に主体の内部に生じる生理的な状態がいいあらわさ れているにすぎない。そして、その状態が結果として生じたものなのか、それがいつはじまり、 いつおわるのか、それがなぜ生じたのか、そしてことなる時間帯の状態と比較してどうなのかな ど、このような観点から状態をとらえる、観察者としての《私》は、そこには存在しない。 形容詞のかなには、程度の差はあるにしても、このような《ただの状態》をうつしだしている 一群の単語がある。たとえば、つぎのような形容詞をおおざっぱにあげることができる。 Ⅰ.人間の生理的な状態 いたい、かゆい、くすぐったい、ねむい Ⅱ.人間の心理的な状態 うれしい、かなしい、さみしい、ふあんな、しんぱいな、たのしい、こわい、おそろしい、 せつない、つらい、うらやましい、みじめな、なさけない、はずかしい、むなしい、もど
かしい、じれったい、めんどうくさい、くやしい、うらめしい Ⅲ.自然の状態 ①あかるい、くらい、しずかな、おだやかな ②あつい、あたたかい、すずしい、さむい Ⅳ.物の状態 あつい、ぬるい、つめたい つぎに、《ただの状態》をいいあらわしている形容詞の用例をあげる。 「いいの。今夜はやめて! 明日ゆっくり聞くわ。ああ、眠たい!」 本当に多枝子は眠そうであった。(若き怒涛) 「あ、いたい、かゆいわ。あらへんだわ」 万里子は急に、身をよじらせた。(私は忘れない) 「からい」 なめてみて、君雄は顔をしかめた。(私は忘れない) もういちど地下鉄の風が吹き上がった。すると、少年は嘘のように泣き顔を晴らして、み ち子の胸から起き上がった。 「うわあ、あったけえ……おいら、いつもここで足をいっぺんあっためるんだよ。元気がで るんだ」(地下鉄に乗って) 「手がつめたい……」 「ナニ、手がつめたい? そんならはやくいってお炬燵へあたれ」 凍った娘の手をにぎりながら、辰さんは家の内へつれていった。(千曲川のスケッチ) 「ああ、あついあつい」 ツネは帯にはさんでいた扇子をひらきながら、 「あついのも、もうおわりになるかもしれませんね」 と、庭のコスモスに目をやった。(果て遠き丘) みち子は眼がさめた拍子に香取の床の空なのに気づいて、びっくりした声と一緒に身をお こしたが、 「おお、さむい!」 と肩をすくめて身ぶるいした。(私も燃えている) 夕暮れになって微風が出てきたのか、さし出した凛子の手に花片がとまり、それがさらに 眼下に落ちていく。 「静かだ……」 ここまできたら、もはや仕事も家庭も離婚のことも遠い別世界のことのように思われる。 (失楽園) 前にものべたが、状態は一定時間持続する現象のことをいうが、それが《ただの状態》として とらえられるとき、それはどのようなかたちで生じてくるのだろうか。このことについて、もう
少しくわしくみてみることにしよう。 たとえば、上述のいちばんはじめの用例のように、「ねむたい」と私たちが感じるとき、その ねむたさは時間のながれにおいては点ではなく、一定のながさをもつものとして現象してくる。 「ねむたい」という生理的な状態にとってこの一定のながさは、それが現象するためには必要な ながさなのである。つまり、ここでの状態は発生それ自体が、一定の時間的なながさのもって生 じてくる、といえる。 また、一定時間持続する現象は、それが《ただの状態》としてとらえられるときには、その持 続が開始するはじまりの部分も、それが終了するおわりの部分も主体の意識の外にある。私たち が「ねむたい」と感じるとき、いつの間にか生じ、いつの間にか消えてなくなるような、そして そのはじまりも、おわりも意識することのないような、一定時間持続する現象が、単にとらえら れているにすぎない。そして、このこととかかわって、《ただの状態》としてとらえられる、一 定時間持続する現象は、時間としては《いま》生じているものとして、時間的なありか限定をう けとることになる。なぜなら、発生それ自体が一定時間持続する現象であるということから、私 たちが「ねむたい」と感じたとき、その言葉を口にする発話時をまたぐことになるからである。 さらに、一定時間持続する現象は、それが《ただの状態》としてとらえられるとき、その現象 が成り立つ具体的な場面を設定する。その場面には、一定時間持続する現象をいま、その場で体 験している主体がかならずいなければならず、その体験する主体が具体的に特定化される。 《ただの状態》は偶発的に生じ一定時間持続するところの、一時的な現象をとらえている。 しかし、状態のあり方はこれだけではない。なぜなら、状態は他の時間・空間における状態との 関係のなかにもあるからである。とすれば、《相対的な状態》もそのあり方のひとつとしてあげ ることができる。ここでは、人や物に生じる状態は、時間・空間的な移り変わりのなかで、そう なることが必然的なものとしてとらえられている。たとえば、「あかるい」/「くらい」、「しず かな」/「にぎやかな」、「あつい」/「あたたかい」/「すずしい」/「さむい」などの形容詞 では、それがさししめす自然の状態は、それが時間のサイクルのなかで、あるいはことなる場所 によって可変的である、ということを背景にしながら、他の時間・空間における状態との関係の なかにもおかれていて、相対的である。 近い森や道や畠は名残なく暮れても、遠い山々の頂はまだ明るかった。(田舎教師) 夜のあけないうちに帰らなければならないと言って、 「まだ暗いわね。この辺りの人はそれは早起きなの」と、幾度も立ち上がって窓をあけてみ た。(雪国) この俺のような、知的な人間が、こうも頭のめぐりが悪いというのは、やはり酒の故なの だ、と思った瞬間、原稿用紙のマス目が格子に見えて来た。牢獄の格子である。原稿を書き 上げるまでには自由に外へ出られぬ格子である。 「静かだね、ここは」 今泉は茶碗や茶たくを並べている阿高に言った。(ぜったい多数) 「昨日、信越の旅から来たのですが、東京はあたたかですね」 「そうですか」(放浪記)
「さむくありません?」 「そりゃ、東京にくらべれば大分さむい。しかし、すこしぐらいさむくったっていいじゃな いか。きれいだよ。どこもかも」(憂愁平野) 「飯を食って、又交替か」 「今日はすこしさむいぞ」(坑夫) さらに、状態のあり方としてつぎのようなものもあげることができる。それは、ある状態と、 その状態をひきおこす出来事との、原因・結果的な関係である。たとえば、人間に生じる心理的 な状態は、ある出来事によって偶発的に人間のもとにひきおこされる、一時的な現象だが、その 一方で、このような状態をひきおこす出来事との、因果的な関係のなかにもおかれていて、何が 原因でこのような感情がひきおこされたか、その原因になるものもとらえられている。 大柄で恰幅のよかったはずの勇太郎が骨と皮だけの痩せ細った身体で横たわっていた。 「なにはともあれ、お父さん、無事に帰ってきてくれて嬉しいわ」(赤い月) 「氷室さん、あなたが生きてこの阿片窟を出ていくのを見られて私はうれしいよ」(赤い月) 「どうして、お父さま、里子がいやなの……。私、お父さまが、そんなことおっしゃるの、 さびしいわ。いやにならないで……」(めし) 「わたし、かなしいわ。本当に心の底からかなしいわ。今までずいぶん貴方のことをかんが えて、貴方のためにつくしてきたつもりだったけど、それがこんなことになってかえってこ ようなんて! わたしより、むかしのお友達の妹さんの方が大事なのね」(憂愁平野) 「私のことで、あなたを困らせるのは辛いの。私は今日、あなたがあってくれたことだけで 気持が助かるわ。だからもう、私のことは考えないでちょうだい」(体の中を風が吹く) 「もう池本屋も、広島や長崎が原爆されたことを忘れとる。みんなが忘れとる。あのときの 焦熱地獄――あれを忘れて、何がこのごろ、あの原爆記念の大会じゃ。あのお祭騒ぎが、わ しゃあ情けない」(黒い雨) シゲ子は病院から帰ってくると、折から庭先に出ていた重松に云った。 「ほんと、口惜しいわ。矢須子さんは、みんな秘密にしておったんよ」 「おじさん、すみません」と矢須子はうなだれて通りすぎた。(黒い雨) 「正木は、笹子さんと何も私のことなど話さないっていうのに、笹子さんの手紙には、ちゃ んと私のことが書いてあるんですもの。笹子さんなんて、何も私のことなんか知ってもいな いのに、私たちのことが二人の間で話されるなんて、たまらないですわ」(体の中を風が吹く) 以上みてきたように、状態を客体的にみれば、そのあり方として《ただの状態》、《相対的な状 態》、《因果的な状態》などがとりだされるのだが、これらの状態は主体のどのような意識的な活 動のなかにとらえられているのだろうか。そこでこんどは、状態における主体的な側面ついて考 えてみることにしよう。 状態のあり方のひとつとしての《ただの状態》では、具体的な場面において、一定時間持 続する現象がとらえられているが、状態を《いま》、そこに現象しているものとしてとらえるた
めには、その現象を直接知覚・体験する主体がその場面にいなければならない。そして、主体が 知覚・体験しているかぎりにおいて、一定時間持続する現象は《ただの状態》としてあらわれて くる。つまり、場面の具体性、特定化される主体の体験性が《ただの状態》にとっては特徴的で ある。ところで、《ただの状態》は知覚・体験という感性的な認識によってとらえられるばかり ではない。人間の感情・体験としてもあらわれてくる。 <知覚・体験> 「あっ、いたっ」 えつ子は、思わず小指をなめた。(夜明け朝あけ) やりこめられた形だが、安彦はいっこうにそんなことに応えなかった。依然として、激し い眠気が彼をとらえていた。 「ねむい、ねむい!」(満ちて来る潮) 上原桂二郎は、留美子に一礼してタクシー乗り場へと歩いていった。 「涼しい。こんないいお天気なのに」 留美子は駐車場へと小巻と並んで歩きながら言った。(約束の冬) <感情・体験> 「どこか、お寺にでも行ってみようか」 「うれしい」 霧子がこんなにはっきりと、喜びをあらわにするのもめずらしい。(化身) 「これ、どこにおく?」 夏代は二人で写った写真を見つけると、そう言って甘えたまなざしをした。 「うん」 谷本は、夏代から写真を受けとり、ベットのそばの壁にあてて、 「こうやって貼っとこうか」 「いやだ、はずかしい」(振り向いたあなた) 以上のように、《ただの状態》は知覚、感情という人間の意識的な活動によってとらえられる のだが、知覚にしても、感情にしても、その内に理性的な認識の萌芽をすでにふくんでいる。ま えにも書いたように、《ただの状態》のほかに、状態のあり方として《相対的な状態》や《因果 的な状態》がとりだされるが、物事の本質を探求する理性的な認識なしには、知覚・体験がとら える物の状態の相対性も、感情のなかにあらわれる状態の因果性もとらえることはできないから である。 ところで、理性的な認識が《相対的な状態》をあきらかにしていくとき、具体的な場面におけ る主体による知覚・体験性は後退する。たしかに、人や物の状態は、主体が知覚・体験している かぎりにおいて、いま、そこに一定時間持続する現象としてとらえられるが、《相対的な状態》 をあきらかにするばあいでは、状態を、他の時間・空間における状態との関係において特徴づけ るところの、人間の意識的な活動が前面化する。特に、つぎにあげるおしまいの用例では、論理
的な操作によって、ある時間・空間に生じる現象が特徴づけられているが、ここでは、主体によ る知覚・体験性は感じられない。 「この土地は」 と安田の妻は、ガラス戸の陽ざしに、目を細めて話した。 「冬はあたたかくて、東京とは三度ぐらいちがうんだそうでございますが、なんですか、やっ ぱり寒うこざいますわ。近ごろは、ほんとうにたすかりますの」(点と線) 「いつも、こんなに涼しいのかね」 賢行がきくと、 「いつも涼しいことは涼しいんですけど、こんなに風のとおることはめったにありません。 今日は特別でございます」 女中は、賢行と美沙子をすっかり新婚旅行者とおもいこんでいる風だった。(憂愁平野) 本多は話しだした。 「京都から直行で朝着く急行列車は、一本しかないのです。京都を23時50分に発つ《日本海》 で、金沢は5時56分です。まだ金沢は真っ暗ですよ」(ゼロの焦点) つぎにあげる用例において、「貧乏」、「満員」、「病気」、「不景気」、「平和」、「赤字」などの単語 は、時間のサイクルのなかで移り変わっていく、一定時間持続する現象の相対的な意味あいを特 徴づけていて、その特徴づけに特化している。この種の単語は、知覚・体験によってとらえられ る現象を直接名づけているのではなく、現象の、あるいは諸現象の側面である。したがって、主 体による知覚・体験性ははじめから問題とならない。そして、この種の単語は、その特徴づけが 一定時間持続する現象の側面であるとすば、持続性が成り立つ一定の時間的な幅を、時間的な性 格として帯びることになる。 「一しょは困る。だって、母に相談しなくちゃあ、あなたのようにひとり決めできないんで すもの。私の家、貧乏なのよ。お客さまをむかえるとなると、やっぱり用意がいるわ。貧乏っ て大変なのよ」(あしたの風) 「すまないな、まともなホテルは満員で、こんなホテルしか取れなくて」 上杉がすまなそうに云うと、木戸は、 「いや、君の抜群の交渉力をもってしても、駄目なんだから仕方ないさ」(不毛地帯) 「あさって……だめかも知れないわ」 「どうしてだめなんだ」 「お父さんが病気なの。破産したでしょう。そのあと、何だか苦労したらしいのね。一週間 ほど前からずっと寝ているんです。頭の血管が何とかしたんですって。右手が動かなくなっ て、うまく物が言えないのよ。―― 略 ――」(青春の蹉跌) 「だけど、どうして失業なすったの?……あの人はまじめだし、仕事はよく出来るんでしょ う」 「軍需工場はいま不景気だからね。それに、行員をくび切ると、組合が強いからうるさいで
しょう。職員の方が組合は弱いし、何も造るわけじゃないんだし、月給は高いし、結局かよ わきインテリの方が槍玉にあげられたらしいね。そんなような事をいっていたっけ」(自分 の穴の中で) 「しかしねえ、鬼童子君、現在世の中は一応平和で日本人の生活は楽になっているように見 えるけれど、八ケ岳山荘事件ばかりでなく、次々いろんなことは起っているなあ。去年の秋 のハイジャック事件なんて、戦後の政治犯罪のうちで画期的なものだろう。―― 略 ――」(食 卓のない家) 「この病院はたしかに赤字ですが、でもそんなことはいっておられません。町には自分達の 病院があるということは、町民にとっては、一つの心の拠りどころですからね。まず住民の ためのよい環境づくり、これがわたしの狙いです」(風の岬) 理性的な認識が《因果的な状態》をあきらかにするときも、具体的な場面における主体による 感情の体験性は後退する。人の感情は、主体が体験しているかぎりにおいて、いま、そこに一定 時間持続する現象としてとらえられる。しかし、《因果的な状態》をあきらかにするばあいでは、 感情を、それをひきおこす出来事との関係のなかで特徴づけるところの、人間の意識的な活動が 前面化する。つぎにあげる用例では、感情をひきおこす出来事をきっかけに、あるいは条件にし て、そのもとで生じる感情がいいあらわされている。こんなふうに、人間の感情は因果関係のな かに一般化されていくのだろう。 「相変わらず強いね。久しぶりに君の強いのに出っくわすとやっぱり嬉しい。僕なんかもう すっかり、そういう元気から見放されちゃってるんだ。ねぼけた惰力で暮らしてる毎日になっ ちゃって、ほんとに君みたいにそうぴんぴんしてるのを見ると、羨ましい」(北愁) 「いまの仕事も、思ったほど楽じゃないけど、踊っている時はたのしいのよ」(うず潮) 「駄目なんだ。志乃がいなくては淋しくてたまらんよ。宿屋で寝ていると夜中に汽車の汽笛 が聞こえるだろう。そうすると目茶々々に帰りたくなるんだ」(泥にまみれて) 「何をご馳走した?」 「ステーキ。もともと私のところの患者なの。おとなしくて、行儀がよくて、そりゃ良い子 よ。理屈っぽくてね。若い人の理屈を聞いていると楽しいわ」(洒落た関係) 「今度、御感想をうかがわせて下さるとうれしいわ」(体の中を風が吹く) 人間の感情のなかには、いちいちの、具体的な出来事によってひきおこされる感情だけではな く、いちいちの、具体的な出来事は抽象化され、そのようなことをしたり、生じさせたりする人 や物や生き物を対象にして、それに対する感情がいいあらわされることがある。そのばあいには、 具体的な場面性も、特定化される主体の体験性もそこにはない。あるのは、対象となる人や物や 生き物に対して主体がもつところの、評価的な意味あいである。つぎにあげる用例のうち、あと の4例が評価的な意味あいをあきらかにしている。 江藤は聞いていなかった。細い山道は二人が並んで通るのもむずかしいほど狭くて、両方
から伸びた草を踏分けて行くようだった。ところどころに杉や檜の古木が枝をひろげており、 その下はもう夜になろうとしていた。人の気配は全く絶え、湖水の岸からもやや離れていた。 「ねえ、どこまで行くのよ。こんなところ、こわいわ」(青春の蹉跌) 「泣いたわ。うちへ帰ってからも泣いたわ。あんたと離れるのこわいわ。だけどもう早く行っ ちゃいなさい。言われて泣いたこと、私忘れないから」(雪国) 「つまり、吉武君のために証言をして頂きたいんです」 「証人って、あれでしょう。裁判官から質問されるんでしょう。わたしこわいわ」(洒落た関係) 「どうだっていいじゃないか。それより、僕はもう覚悟したんだ。このままでいるのはおた がいにいけないよ。今度の話で自分の気持もはっきりしたし、それなら、そう進展させるよ りほかないとおもった。君はどうなんだ?」 「あたし、あなたにそんなふうにいわれると、こわい」(体の中を風が吹く) しばらくしてから、竜ロンフェイ飛はつぶやくように、 「虎は恐ろしい。お前さん、虎の恐ろしいの、まだ本当にわかってないんだ。わし、三十年以上、 虎を撃ってきたが、もうこれでお終い、思ったこと何度もある。わし、昔、―― 略 ――」 (白色山塊) 「じゃ、久代さんはその過去の人を愛していらっしゃるの」 「いいえ、愛しているのなら、誰かと結婚したかも知れませんわ。でも……」 久代はちょっと言葉を切った。 「……わたし、男の人って恐ろしいのよ」 「恐ろしい?」 敬子には、意外な言葉だった。 「じゃ、杉浦先生も恐ろしいの」 「恐ろしいわ。男の人は誰も恐ろしいのよ」 どんな恐ろしい目に遭ったのかと、敬子にはただ想像をめぐらすより仕方がなかった。(積 木の箱) 「でも、感心ね。先生のところをお訪ねするなんて」 「こわい先生なんだ」 「あなたにもこわい先生がありますのね」 「そりゃ、あるさ。本当に心から尊敬している人はこわいよ。心のそこまで見すかれそうな 気がする」(憂愁平野) 「―― 略 ――。ホルモンは癌になるって言う人があるし。癌はこわいわ。主人もね、初め は肝臓癌だと思ったの。とうとう罰が当ったとわたし思いましたわ。―略―」(洒落た関係) 人や物の状態のあり方としての《ただの状態》、《相対的な状態》、《因果的な状態》はばらばら にあるのではなく、それらは関係しあっている。《相対的な状態》にしても、《因果的な状態》に しても、その内に《ただの状態》をふくんでいる。《ただの状態》は主体の直接的な知覚・体験 によってとらえられるが、《相対的な状態》、《因果的な状態》をあきらかにするとき、その知覚・
体験性は後退し、状態の相対性あるいは因果性をみいだし、その状態の意義をあきらかにすると ころの、人間の意識的な活動が前面化してくる。この意識的な活動には、理性的な認識や評価な どがかかわっている。認識では物の本質がとらえられていくとすれば、評価では人間にとっての 物の意義があきらかにされることになる。 ところで、上述の恐怖の感情において、対象の意義が一般的にあきらかにされるばあい、そこ での感情は人間の《状態》なのだろうか。それとも《状態》の域をでて、人間の《特性》へと移 行しているのだろうか。用例にあげた「虎は恐ろしい」「男の人は誰も恐ろしいのよ」「尊敬して いる人はこわい」「癌はこわいわ」などにおける人間の感情は、いちいちの、具体的な場面で生 じる感情をもとにし、それを一般化することで形成されるところの、その人なりの感情・評価的 な態度をいいあらわしている。この感情・評価的な態度は特定の場面に限定されるものではなく、 ある対象への、固定化された、その人間の一定のかかわり方である。したがって、ここでの感情 は人間の特性であるということができるだろう。しかし、こんなふうにみることができるのも、 感情が因果関係のなかでとらえられる、ということとかかわりなしにはありえない。感情をひき おこす出来事は原因でもあるし、評価の対象でもあって、評価の対象がとりだされなければ、対 象に対する、一定の評価的な態度も形成されない、という意味で。 <参考文献> 奥田靖雄1994「動詞の終止形(その2)」 教育国語2・12 むぎ書房 奥田靖雄1997「動詞(その1)・その一般的な特徴づけ」 教育国語2・25 むぎ書房 А.А. Камалова 1998「Семантические типы предикато в состояния в системном и функциональном аспектах」 * 沖縄大学法経学部 講師