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〈論説〉蒲生俊文小伝

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Academic year: 2021

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(1)蒲生 俊文 小伝. 蒲生俊文小伝. 堀. 目. 口. 良. 次 は じめ に 1前. 史1883-1911年. 2東. 京 電 気 時 代1911-1924年. 3産. 業 福 利 時 代1924-1945年. 4戦. 後1945-1966年. お わ りに 謝. 辞. 文. 献. 付. 記. は じめ に が もう と しぶ み. 蒲 生 俊 文(1883-1966年)は. 日本 の安 全 運 動 史 に お いて 最 初 に想 起 され. るべ き人 物 で あ る。 しか し、 彼 につ い て の本 格 的 な伝 記 は、 ま だ書 か れ て い な い。 実 際、 い くつ か の短 い 評伝 な どが あ るが、 これ らは彼 の生 涯 を詳 し く辿 った もの で は な い。 本 稿 で は、 こ う した欠 落 を 多少 と も補 う作 業 と して、 蒲 生 俊 文 の伝 記 を 安 全 運 動 史 との 関 わ りに お い て 略述 す る。 す で に小 論 「蒲 生 俊 文 と安 全 運 動 」(堀 口良 一2002)に. お い て彼 の生 涯 につ い て触 れ た こ とが あ る が、 以. 下 で は、 そ の後 の調 査 で 明 らか に な った点 を含 め、 彼 が 安 全 運 動 を 開始 す る ま で の前 半 生 も含 め て述 べ て み た い。 小 伝 につ い て記 述 す る前 に、 過 去 に書 か れ た蒲 生 の評 伝 に関 す る資 料 に 一81一.

(2) 近畿大学法学. 第59巻 第2。3号. つ いて 整 理 して お きた い。 まず 、 蒲 生 自身 は 自伝 を 著 して いな いが 、 (1)履 歴 書3通 (2)辞 令 各 種 が 残 され て い る。 と も に、 堀 口良 一(2010)で. 紹 介 して い る。. 次 に蒲 生 の 近 親 者 が 彼 の 略 歴 を書 き留 めて い る。 年 代 順 に並 べ れ ば、 以 下 の とお りで あ る。 (3)「 先 生 の人 とな り」1930年 (4)「 墓 誌 」1967年 (5)「 蒲 生 俊 文 、 人 と生 涯 」1977年 (3)は蒲 生 俊 文 が 存 命 中 に俊 文 の親 族 で あ る芦 野 太 藏 が 書 いた も ので 、 彼 が 編 集 ・発 行 した 『安 全 の 闘 将. 蒲 生 俊 文 先 生 』(1930年 、 非 売 品)の. か に 「先 生 の 人 とな り」(22-24頁)と な り」 は、 堀 口良 一(2011a:65-67)に. な. して 収 め られ て い る。 「先 生 の 人 と 全 文 を 掲 載 して い るの で 、 参 照 さ. れ た い。 (4)は俊 文 の 長 男 ・俊 仁 が 作 成 した もの で 、 俊 文 の一 回 忌 の 際 に建 立 す る 予 定 で あ った 墓 誌 の 文 案 と して 作 成 され た が 、 実 際 に は何 らか の 事 情 で 墓 誌 は建 て られ な か った 。 そ の 全 文 は堀 口良 一(2011b:72-73)を. 参 照 され. た い。 (5)は、 保 険 六 法 新 聞 社 編 集 ・発 行 『週 刊 保 険 六 法 』 の 記 事 「蒲 生 俊 文 、 人 と生 涯 」(1977年6月17日. 、607号 、5頁)で. あ る。 この 記 事 は末 尾 で 、. 「蒲 生 俊 文 の長 男 俊 仁 氏 ら関係 者 の話 と、 中災 防編 「日本 の安 全 衛 生 運 動 」 を 参 考 に して ま とめ ま した 」 と断 って い る よ う に、 名 目上 の 執 筆 者 は記 者 で はあ るが、 記述 内 容 につ いて 俊 仁 に負 う と こ ろが 少 な くな い。 な お 、 文 中 の 「日本 の 安 全 衛 生 運 動 」 は、 中 央 労 働 災 害 防 止 協 会 編 集 ・発 行 『日本 の安 全 衛 生運 動. 五 十 年 の 回 顧 と展 望 』1971年 を 指 す。 同 記 事 は現 在 入 一82一.

(3) 蒲生俊文小伝. 手 が 困 難 で あ る が 、 堀 口 良 一(2011d:63-68)に. 、 そ の 全 文 を 掲 載 して い. る ので 、 参 照 され た い。 3番 目 に 、 人 名 事 典 に お け る 記 述 と して 唯 一 の も の と 思 わ れ る が 、 次 の もの が あ る 。 (6)『 大 衆 人 事 録 に登 載 され た. 東京篇. 第 十 四 版 』(谷 元 二 編 、 帝 国 秘 密 探 偵 社). 「蒲 生 俊 文 」 の 項 目 、1942年. こ こ に は 、 次 の よ う に 記 さ れ て い る(谷. 蒲生俊文. 協調会常務理事. 元 二1987:293)。. 産業福利部長. 杉並区馬橋一 ノ九. 電中. 野六二二二 【閲歴】岐阜県俊孝長男明治十六年四月九 日生 る同四十年 東大政治科卒業東京電気庶務課長産業福利協会常務理 事を経て昭和十 二年五月現 職就任. 宗教 浄土宗. 趣味読 書和歌俳句. (明二 二)鹿 児島県長 谷場源 四郎 二女神戸女学 院卒 〇)二. 【 家庭】妻純 子 長男俊仁(大 一. 女智恵子(昭 元). 蒲 生 は1942年. 発 行 の 『大 衆 人 事 録 』 で は 「協 調 会 常 務 理 事. 産 業 福 利部. 長 」 と な っ て お り、 辞 令 と照 ら し合 わ せ る と、 そ れ は1937年4月30日 る こ と が 判 明 す る(堀. 口 良 一2010:136-137)。. ま た 、1942年. であ. の 段 階 で は、. 蒲 生 は 大 日本 産 業 報 国 会 に 移 り労 務 局 安 全 部 長 や 理 事 を 務 め て い た(堀 良 一2010:137-138)こ. 口. と か ら 、 『大 衆 人 事 録 』 の 記 載 内 容 は 、 そ れ 以 前 の. 版 の もの を踏 襲 した よ うで あ る。 4番. 目に、 筆 者 が 著 した もの と して、 次 の ものが あ る。. (7)「 蒲 生 俊 文 と安 全 運 動 」、2002年 (8)「 蒲 生 俊 文 の 著 作 目録 」、2011年 (7)は蒲 生 の 伝 記 が 主 題 で は な い が 、 そ れ を 部 分 的 に 含 む 論 文 で あ る(堀 口 良 一2002)。(8)は. 伝 記 で は な い が 、 彼 の 著 作 物 を 一 覧 表 に した も の で 、 -83一.

(4) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. 網 羅 的 で は な いが 現 段 階 で は唯 一 の 目録 で あ る(堀 口良 一2011c)。 最 後 に、 蒲 生 の伝 記 が 主 題 で は な いが 、 次 の文 献 が 部 分 的 に彼 に言 及 し て い る。 (9)全 ⑩. 日本 産 業 安 全 連 合 会 編 集 ・発 行 『安 全 運 動 の あ ゆみ 』1963年. 中央 労 働 災 害 防 止 協 会 編 集 ・発 行 『日本 の 安 全 衛 生 運 動 一50年 の 回 顧 と展 望 』1971年. ω. 中央 労 働 災 害 防 止 協 会 編 集 ・発 行 『安 全 衛 生 運 動 史 一. 労働保護. か ら快 適 職 場 へ の 七 〇 年 』1984年 q2》 鎌 形 剛 三 編 著 『エ ピソー ド安 全 衛 生 運 動 史 』 中 央 労 働 災 害 防 止 協 会 、2001年 (1)から⑫ は、 本 格 的 な 伝 記 が な い な か で 、 蒲 生 の 生 涯 を 知 る手 が か りと な る貴 重 な 資 料 で あ る。 と くに、(3)「先 生 の人 とな り」、(4)「 墓誌」 および (5)「 蒲 生 俊 文 、 人 と生 涯」 は、 蒲 生 の 近 親 者 だ け が身 近 に知 りえ た事 柄 を 含 ん で い る。 本 稿 で は 、 将 来 、 よ り詳 細 な 伝 記 が書 か れ る とき の 参 考 とな るよ う、 現 設 階 で解 明 で き た 事実 を 記 録 して お き た い。 本 稿 の 小 伝 は、 蒲 生 が安 全運 動 を 始 め る 出 発 点 とな った東 京 電 気 株 式 会 社 に 入社 す る1911年 か ら実 質 的 に戦 前 期 安 全運 動 が幕 を 閉 じる1941年 ま で の約30年 間 を 中心 に、 次 の4つ の 時期 に分 け て記 述 す る。 1前. 史1883-1911年 一. 東 京 電 気 で 安 全 運 動 を 始 め る以 前 の 時 期. 2東. 京 電 気 時 代1911-1924年 一. 東 京 電 気 にお け る社 内安 全 運 動 お よ. び安 全 第 一 協 会 等 を拠 点 と した安 全 運 動 に取 り組 ん だ 時期 3産. 業 福 利 時 代1924-1945年. 東 京 電 気 退 社 以 降 、 敗 戦 に至 る ま. で、 社 会 局 、 協 調 会 、 大 日本 産 業 報 国会 で安 全 運 動 に取 り組 ん だ 時 期 4戦. 後1945-1966年. 公 職 追 放 後、晩 年 に至 るま で 個人 の立 場 で安. 全 運 動 に携 わ っ た時 期 一84一.

(5) 蒲生俊文小伝 な お、 以 下 の 引用 文 中 で使 わ れ て い る 〔 〕 は、 引用 者 に よ る注 記 を示 す。. 1前. 史1883-1911年. 誕 生 か ら安 全 運 動 へ. 蒲 生 俊 文 は 日本 の安 全 運 動 に お け る先 駆 者 の一 人 で あ り、 そ の思 想 と運 動 に お い て最 も重 要 な影 響 を及 ぼ した人 物 で あ る。 彼 が 安 全 運 動 を主 導 し た時 期 は2つ に大 別 で き る。 一一つ は東 京 電 気 株 式 会 社 に勤 務(1911年12月 23日 ∼1923年11月30日. お よ び嘱託 と して1923年12月1日. ∼1924年3月31日). しなが ら、 社 内 の安 全 運 動 と並 行 して 、 社 会 運 動 と して の安 全 運 動 を安 全 第 一 協 会(1917年. 設 立)な. 気 時 代 」 と呼 ぶ)で. ど を拠 点 に推 進 して い た 時 期(以 下 、 「東 京 電. あ る。 他 は、 産 業 福 利 協 会 お よ び協 調 会 産 業 福 利 部 を. 拠 点 に労 働 災 害 防 止 運 動 を 中心 とす る安 全 運 動 に取 り組 ん だ 時 期(以 下 、 「産 業 福 利 時 代 」 と呼 ぶ)で. あ る。 産 業 福 利 協 会 は 当初 、 内務 省 社 会 局 の. 外 郭 団体 と して1925年11月 に設 立 され、1929年 の 財 団法 人 へ の 移 行 を経 て、 1936年4月. の協 調 会 へ の 合併 に よ り協 調会 産 業 福 利部 へ と名 称 を 変 え るが、. そ の 後 も機 関 誌 『産 業 福 利 』 が 発 行 され 続 け、 実 質 的 に、 蒲 生 を 中 心 とす る体 制 が 維 持 され て いた こ とか ら、1925年11月 の 社 会 局 産 業 福 利 部 設 立 か ら1941年3月. の 協 調 会 産 業 福 利 部 の 廃 止 に至 る全 過 程 を 一 つ の 連 続 した 活. 動 と見 な す こ とが で き る。 また 、1941年4月. か ら敗戦 に至 る時 期 は安 全運. 動 が 形骸 化 して い た とは い え 、 引 き続 き 『産 業 福 利』 が 発 行 され て い た の で 、以 下 で は 産 業 福 利 時 代 に含 あ る。 蒲生 が主 導 した安 全運 動 が実 際 に成 果 を あ げ て い た約30年 間 の 時期 は、 1923年9月. に起 き た 関 東 大震 災 を境 に、 そ の前 の12年 とそ の 後 の18年 に 区. 分 す る こ とが で き る。 こ こで 関東 大 震 災 を持 ち 出 した の は便 宜 上 の理 由 か らで は な い。 彼 は、 この震 災 の結 果、 安 全 運 動 の拠 点 を産 業 福 利 協 会 に移 一85一.

(6) 近 畿 大学 法 学. 第59巻 第2・3号 しん じょっ よ し お. す こ と に な る か らで あ る。 そ れ は 、1921年 に 理 解 あ る 上 司 ・新 荘 吉 生 (1873-1921年)の. 病 死(東 芝n.d.)に. 続 い て、 東 京電 気 で 彼 の安 全運 動 を. 支 え て き た 多 くの仲 間 を震 災 で 失 った こ とや(蒲 生 俊 文1959:152)、. 安全. 第一 協 会 の流 れ を 汲 む安 全 運 動 が低 迷 し衰 退 して い た こ とに よ り、 東 京電 気 時代 の安 全運 動 の続 行 を 困難 に した か らで あ る。 こ こで は、 ま ず彼 が安 全運 動 に初 め て取 り組 み は じあ る拠 点 とな った 東 京電 気 株 式 会 社 に就 職 す る1911年 以 前 の 時期 に つ い て概 観 して お こ う。 「墓 誌 」 に よれ ば 、 「父 〔 蒲 生 俊 文 〕 ハ 明治 十 六 年 四月 九 日野 州 宇 都 宮 二 生 ル。 〔 … 〕 昭 和 四 十 一 年 九 月 九 日遂 二 魂 塊 天 二 帰 ス鳴 呼 。 享 年 八 十 三 歳 」 (堀 口良 一2011b:72)と. あ る。 蒲 生 は1883年4月9日. 人 の履 歴 書 で も確 認 で き る が(堀 口良 一2010:102)、. に生 ま れ た こ と は本 出生 地 は現 在 の栃 木. 県 宇 都 宮 市 で、 当時 は町 村 制 が施 行 さ れ る1889年 以 前 で あ った た め、 地 名 と して の宇 都 宮 町 あ る い は単 に宇 都 宮 と呼 ば れ て い た(宇 都 宮 市 史 編 さ ん 委 員 会1980:126)。. それ は彼 の父 ・俊 孝 が 裁 判 官 と して宇 都 宮 治 安 裁 判 所. 判 事 補 長 を務 め て い たか らで あ る(彦 根 正 三1884)。 しか し、 戸 籍 は岐 阜 県 大 野 郡 高 山町 大 字 三 町 九 百 二 十 二 番 地 で(堀 一2010:102). 口良. 、現 在 の 高 山市 に あ った 。俊 文 自身 、墓 参 な どで 戸 籍 地 を訪. ね た 可能 性 は否定 で きな い ものの 、そ こに住 ん だ形 跡 は 見 当 た らな い。父 ・ 俊 孝 が 高 山 を去 って か ら高 山 に は先 祖 の墓 だ けが 残 され た 。 その 墓 は、 真 宗 高 山別 院 の墓 地 に あ る(堀 口良 一2011b:71)。. 俊 文 の 父 ・俊 孝 まで 蒲 生. 家 は高 山 で 暮 ら し、 そ こ に骨 を埋 め て き た か らで あ る。 「墓 誌 」 の 記 す と こ ろ に よれ ば、 俊 文 の 父 か ら遡 る こ と4代 、 つ ま り曽祖 父 に 当た る蒲 生 秀 俊 が 高 山 に活 動 の 拠 点 を 移 した 最 初 の 人 物 で あ る。 そ して 、 秀 俊 か ら百 年 ほ ど蒲 生 家 は高 山で 生 計 を 営 ん で きた 。 俊 文 の 長 男 ・俊 仁 が 作 成 した 「墓 誌 」 に拠 れ ば、 蒲 生 家 の 系 図 は次 の と お りで あ る。 な お。 口 は一 字 アキ を 示 す。 一86一.

(7) 蒲生俊文小伝 蒲 生 氏 ノ近 州 蒲 生 郡 二 捺 ル 初 メハ マ コ トニ 悠 久 ノ古 ヘ ニ シ テ、 古 事 記 二 伝 ヘ テ 日 ク、 口 天 照 大 御 神 ノ御 子 天 津 日子 根 命 ハ 蒲 生 稲 寸 ノ祖 ナ リ ト。 サ レ ド中 世以 降 武 門 ノ故 ヲ以 テ 秀 郷 流 藤 原 氏 ヲ称 ス。 蒲 生 俊 賢 ハ 現 存 系 図 ノ太 祖 ニ シテ 源 頼 朝 ト世 ヲ同 フ ス。 一 時 家 運 大 イニ 興 リテ 五 大諸 侯 二列 セ ラル ル モ 徳 川氏 ノ世 トナ リテ 家 ハ 改 易 、 一一族 離 散 、 飛 州 高 山 二 隠棲 セ ル ヲ蒲生 大藏 秀 俊 ト称 ス。(堀 口良 一2011b:72). あ まつ. ひ. こ ね のみ こ と. この一 文 に よれ ば 、蒲 生 家 の 祖 先 は 天照 大 御 神 の子 で あ る天 津 日子 根 命 だ と され て い る。 また 、 「近 州 蒲 生 郡 」 は、 現 在 も滋 賀 県 蒲 生 郡(日 野 町 と竜 王 町 か ら成 る)と. して地 名 を残 して い る。 た だ、 直 接 辿 る こ とが で き. る祖 先 は 「現 存 系 図 ノ太 祖 」 と して蒲 生 俊 賢 に遡 る と して い る。 俊 賢 か ら 秀 俊 に至 る系 図 の詳 細 は判 然 と しな い もの の、 芦 野 太 藏 に よ れ ば、 秀郷 の 子 孫 で あ る蒲 生 氏郷 が この系 図 の なか にい る とい う(堀 口良 一2011a:66)。 氏 郷(1556-95)は. 近 江 国 日野 城 主 で 織 田信 長 に仕 え た 賢 秀(1534-84)の. 子 で、 織 田信 長 に次 い で豊 臣秀 吉 に仕 え て戦 功 を た て た だ け で な く、 歌 や 茶 に も親 しん だ 「文 武 兼 備 の器 量 人 」 と して知 られ、 ま た キ リス ト教 信 者 で もあ った(三 省 堂 編 修 所1993:363)。. 秀 郷 か ら氏 郷 に至 る系 図 は詳 らか. で な いが 、 蒲 生 俊 文 は、 滋 賀 県 日野 町 に建 て られ た氏 郷 の銅 像 の前 で写 真 を撮 って お り、 氏 郷 を慕 い、 親 近 感 を持 って い た よ うで あ る。 俊 文 自身 、 仕 事 も趣 味(短 歌 、 俳 句 、 絵 画 な ど)も 兼 ね 備 え た 「文 武 兼 備 の器 量 人 」 で あ り、 また 後 述 す る よ う に キ リス ト教 に も親 しん で い た の で、 自分 の姿 を 氏 郷 に重 ね 合 わ せ て い たの で あ ろ う。 いず れ にせ よ、 戦 乱 の 時 代 を 経 て 、 徳 川 時 代 に入 り 「家 ハ 改 易 、 一 族 離 散 、 飛 州 高 山二 隠 棲 セ ル ヲ蒲 生 大 藏 秀 俊 ト称 ス」 こ と にな った 時 点 か ら、 岐 阜 の 高 山 に4代 にわ た り暮 ら し続 けた 。 そ して 、 高 山 に移 っ た蒲 生 秀 俊 以 降 の 家 系 図 は、 次 の とお りで あ る。 一87一.

(8) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. 家系図. 蒲 生 秀 俊(1712-1784). 1 俊 義(1763-1827). 1 俊 恒(1804-1866). 一 一一 俊 孝(184」1912)丁. 粂 子 騰19°3) すみ こ. 文 (1883-1966). 純子 (1891-1974). 1. 1. 俊 子(1918-1919)俊. 仁(1921-1985)智. 恵 子(1926-). 俊 敬(1952-). 高 山 に移 った蒲 生 家 の4代 の 出」(堀 口良 一・2011d:64)で. 目に 当 た る俊 孝 は、 「岐阜 県 高 山 の酒 造 の 家 、 「裁判 官 ・弁 護 士 。 高 山 町大 字 三 町生 ま. れ。 明治2年 上 京 し森 春 濤 の 門弟 とな って法 律 を学 ぶ 。 宇 都 宮 、 土 浦 、 鶴 岡 な どの裁 判 所 に勤 務 」(飛 騨 人 物 事 典 編 纂 室2000:81)と. され て い る。. 俊 孝 が酒 造 を営 ん で い た事 実 は 『高 山市 史 』 で は確 認 で き な い が(高 山市 1981:946-955)、. 近 親 者 の話 で は、 俊 孝 は上 京 に際 し、 家 業 を原 田家 に嫁. いだ 妹 夫 婦 に任 せ 、 現 在 、 原 田酒 造 場(高. 山市)に 引 き継 が れ て い る と い. う。 ま た、 明 治2年 、 つ ま り1869年 に青 年 俊 孝 は理 由 はわ か らな いが 家 業 しゅん とう. を継 が ず に東 京 に 出て 森 春 濤 に 弟子 入 りす る。 春 濤(1818-1888年)は. 漢. 詩 人 で 『春 濤 詩 鋤 』 な どを 残 した 明 治 期 の 著 名 な 詩 人 の 一 人 で あ るが 、 医 一88一.

(9) 蒲生俊文小伝 家 の 出 で は あ ったが 、法 律 と は無 縁 で あ った(三 省 堂 編 纂 所1993:1256)。 したが って、 俊 孝 が ど の よ うに して 「法 律 を学 ぶ 」 こ と にな った か は明 ら か で な いが 、 裁 判 官 と して 勤 務 した事 実 は確 認 で き る(彦 根 正 三1884)。 蒲 生 俊 文 自身 が 記 した 父 俊 孝 につ い て の 一 文 「先 人 を憶 ふ」 で は 、 「森 春 濤 氏 の門 弟 とな つ て 蛍 雪 の 苦 を 積 ん だ こ と は度 々話 に聞 いた 、 其 後 父 は ママ. 職 を 秋 官 に得 宇 都 宮 、 土 浦 、 水 戸 、 下 妻 、 龍 ヶ崎 、 鶴 岡 、 新 荘 〔 庄〕等の ママ. 裁 判 所 を 転 任 した の で あつ た 、 新 荘 〔 庄 〕 の 裁 判 所 を 終 りと して 宮 城 控 訴 院 判 事 に任 ぜ られ て や が て 退 職 にな つ た 、 晩 年 は弁 護 士 を 業 と して 居 た 」 と語 って い る(蒲 生 俊 文1927)。. 裁 判 官 と して の 俊 孝 は 「地 方 の 裁 判 官 で. 一 生 を 終 え た が 、 不 正 を 許 せ ぬ 性 格 か ら世 故 に と り入 ろ う と しな か った 」 (堀 口良 一2011d:64)と. いわ れ て い るが 、 俊 文 は具 体 的 に次 の よ う に語 っ. て い る。. 私 は 詳 し くは 知 らな い が 龍 ヶ崎 の 裁 判 所 に居 た 時 代 に 何 か 事 件 が 有 つ ママ. て 父 は 其 判 事 で あ つ た 、 処 が 父 の 裁 判 に対 して或 関 〔干 〕 渉 が 来 た の で 父 は憤 然 と して 我 は 陛 下 の 御 名 に 於 て 裁 判 を 為 す の で あ つ て 何 人 の ママ. 制 〔禦 〕 肘 も受 け な い と言 ふ て 断 固之 を排 して しま つ た 、 父 が 鶴 岡 の 裁 判 所 へ転 勤 させ られ た の は 其結 果 の左 遷 で あ つ た の だ と私 は叔 父 に 聞 い た こ とが あ る、 父 に 有 りそ うな事 だ と思 つ た、 従 つ て所 謂 泳 ぐ と 言 ふ や うな事 は 全然 不得 手 で あ つ た(蒲 生 俊 文1927). 俊孝 の最 初 の任 官 は、 史料 と して確 認 で き る もの は宇 都 宮 治 安 裁 判 所 判 事 補 長 で あ る が 、 そ れ は1882年. ま た は1883年. の こ と で あ る(彦 根 正 三1884)。. そ の 後 、20年 少 し の 間 、 判 事 生 活 を 送 る が 、 裁 判 官 と し て 職 に 就 い た の は 遅 く 中 年 期 に 入 っ て い た 。 しか し、 俊 孝 は 定 職 を 得 て 所 帯 を 持 ち 、 「五 男 五 女 」(堀 口 良 一・2011d:64)に. 恵 ま れ 、 長 男 ・俊 文 が1883年4月9日 一89一. に生.

(10) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. まれ る。 俊 文 の 学齢 期 は、 父 の 赴 任 先 が 変 わ る ご と に各 地 の 学 校 を 転 々 と した 。 実 際、 父 の赴 任地 に従 って 、 茨 城 県 下 妻 尋 常 小 学 校 、 同 県 龍 ヶ崎 高 等 小 学 校 と進 む(堀 口良 一2010:102)。. そ して、 同校 を 修 了 した1895年3月. 山 形 県 荘 内 中学 校 の4学 年 に転 校 す る1898年9月 親戚 の 家 へ あ ず け られ」(堀 口良 一2011d:64)、 に学 ぶ(堀. 口良一2010:102)。. から. ま で の3年 半 は、 「一 時 東 京市 の 私立 錦城 中 学 校. 再 び、 「父 の転 任 先 き山 形 へ移 」 り、 荘 内. 中 学 校 を卒 業 した 年 の7月 、 「父 の 赴 任 先 の仙 台 にあ った 二 高 へ 」 進 学 す る(堀 口良一2011d:64)。 二 高、 す な わ ち第 二 高 等 学 校(現 、 東 北 大 学)で は 英 法 科 に進 み、 「語 学 が好 きで 、 独 語 は トップ の成 績 、 ラ テ ン語 、 英 語 に も通 暁 」(堀 口 良一 2011d:64)し. た とい う。 二 高 時代 の青 年 俊 文 は 「夙 に基 教 宣 教 師 「ブ ラ ツ. ドシ ョ ウ」 嬢 に親 ん で基 教 の生 活 を送 り」(堀 口良 一2011a:66)、. 聖書 を. 読 み、 キ リス ト教 に身 近 に接 す る機 会 を得 る。 洗 礼 を受 け た か 否 か は 明 ら か で な い もの の、 青 年 俊 文 の キ リス ト教 との 出会 い は、 の ち に東 京 電 気 時 代 の ときYWCAの. 「ミセ ス、 ウ ツ ド」 の言 葉 に促 さ れ、 安 全 運 動 に専 心. す る こ とに な った重 要 な背 景 と して無 視 で き な い要 因 の一 つ で あ ろ う(蒲 生 俊 文1959:152)。 さ らに、1903年9月. に進 学 した東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学政 治 学 科 で は、「仏. 教 の説 に親 しみ、 爾 来 宗 教 的修 練 漸 く深 く」(堀 口良 一20Ua:66)な とい う。 俊 文 の信 仰 は浄 土 真 宗(真 宗 大 谷 派)に. った. あ った が、 そ れ は 「父 母. の信 仰 の賜 」 で あ る と次 の よ うに語 って い る。. 父 は又 篤 信 な真 宗 の信 徒 で あつ た、 朝 夕 に 自 ら香 花 を手 向 け て仏 壇 に 参 詣 して 居 つ た 、 私 が 今 日信 仰 に生 き る の は亡 父 母 の信 仰 の賜 で あ る と感 謝 して 居 るの で あ る。(蒲 生 俊 文1927) 一90一.

(11) 蒲生俊文小伝 しか し、 浄 土真 宗 を 信 仰 す る俊 文 は、 前述 した よ う にキ リス ト教 に親 し む と と もに、 「建 長 寺 派 管 長 菅 原 曇 華 老 師 は実 に 先 生 〔 俊 文 〕 に対 し最 も 強 き印 象 を与 へ た る老 先覚 で あ る」(堀 口良 一2011a:66)と. あ り、 禅 宗 か. ら も感 化 を受 けて い た。 ま た、 俊 文 は信 仰 と並 ん で、 そ の実 直 な気 質 を父 か ら受 け継 い だ。 俊 文 ヘ. ヘ. へ. ま が. は、 上 に 引 用 した 彼 の 一 文 に続 け て、 「従 つ て 父 は柾 つ た事 、 良 心 の許 さ ぬ事 は一 切 実 行 しな い もの で あ つ た」(蒲 生 俊 文1927)(傍. 点 ・ル ビ引用. 者)と 書 い て い る が、 そ れ は父 ・俊 孝 が 「篤 信 な真 宗 の信 徒 」 で あ った こ とが 「柱 つ た事 」 を許 さぬ態 度 を付 与 した と も解 釈 で き る。 これ に 関連 し て、 俊 文 は次 の よ うな父 の思 い 出 を書 き留 め て い る。. 晩 年 父 は 私 に語 つ て 曰 く、 「己 の仲 聞 に は 己 の 運 命 ま で も奪 つ て 行 く は ん もん. か と思 ふ 程 ドシ ドシ出世 して行 く者 もあつ た が、 皆 精 神 的煩 悶 に病 を 得 た りな ど して早 く世 を去 つ て しまつ た、 己 は 出世 を しな かつ た が、 やま. 今 日まで 無 事 に長 らへ て居 る、 今 に なつ て過 去 を顧 み る の に疾 しい事 は一 つ もな い、 誠 に心 の 中が す が す が しい こ と は 己 の誇 りだ、 己 は晩 年 に至 つ て 誠 に心 が 安 らか で あ る」 と、 私 は此 点 に於 て 父 に敬 服 して 居 る(蒲 生 俊 文1927)(ル. ビ引用 者). 「柾 つ た 事 」 を 嫌 う父 を 「敬 服 」 して い た俊 文 も、 自分 の人 生 に お いて 不 正 を 嫌 い、 良 心 に恥 じる こ とな い生 き方 を 貫 いた 。 この 姿 勢 は、 信 仰 の 中か ら生 じた と と もに、「柾 つ た事 は大 嫌 ひ で あつ た」(蒲 生 俊文1927)父 の 生 き方 か ら も影 響 を 受 けた と考 え られ る。 1907年7月. に大 学 を 卒 業 した あ と、 俊 文 は官 吏 や 大 企 業 の 管 理 職 な どの. 当 時 の 法 学 士 に期 待 され た 職 種 に直 ち に就 か な か った 。 辞 令 に よれ ば、 卒 業 後 、 半 年 以 上 経 った1908年3月2日 一91一. に東 京 市 事 務 員 にな るが(堀. 口良 一.

(12) 近畿 大 学 法 学. 2010:117)、. 第59巻 第2・3号. 理 由 は 定 か で は な い が 、 間 もな く同 月13日 に統 監 府 属 兼 大 蔵. 属 に 就 き、 同 月28日 に 東 京 市事 務 員 を辞 め た あ と、1909年5月 2か 月 の 聞 、 統 監 府 属 兼 大 蔵 属 の身 分 で 在 職 して い た(堀 104,121)。. ま で の1年. 口良 一2010:. 属 と い う身 分 は、 文 官 高 等 試 験 を経 て高 等 官(親 任 官 、 勅 任. 官 、奏 任 官)を 目指 す法 学士 、す なわ ち帝 国 大 学 法 科 大 学 卒 業 者 に と って 、 長 く身 を 置 く地 位 で は な く、 一 時 的 な職 位 に過 ぎ な か った。 蒲 生 は 官 吏 を 目指 して試 験 準 備 に励 ん で い た の か も しれ な い。 しか し、 彼 は官 界 へ は進 ま ず、 結 局、1909年5月 口良一2010:104)。. に退 職 す る に 至 る(堀. そ して 、1911年12月 に東 京 電 気 に就 職 す る ま で の2年. 以 上 は無 職 の状 態 に あ った。 官 吏 の道 を選 ば な か った の は 「役 所 務 め が膚 に合 わ ず」(2011d:65)と. い うこ とが あ っ た と い う。 しか し、 「本 人 は文 学. ママ. が好 き だ った が、 法 曹 会 〔 界 〕 に い た父 の意 向 で法 学 部 〔 法 科 大 学 〕 に学 ん だ」(2011d:64-65)と. い う俊 文 が、 大 学 卒 業 後 、2年. も経 た な い うち に. 勤 め先 を辞 め た の に は深 刻 な事 情 が あ った に違 い な い。 なぜ な ら、 父 ・俊 孝 は 当 時、 裁 判 所 を退 職 した あ と弁 護 士 を続 け て い た が、 す で に60歳 代 の 老 齢 で あ った。 ま た、 母 が1903年 に亡 くな った あ と の蒲 生 家 は多 くの兄 弟 姉 妹 を抱 え、 長 男 ・俊 文 へ の期 待 は大 き か った か らで あ る。 単 に 「役 所 務 め が膚 に合 わず 」 と い う事 情 だ け で は説 明 で き な い何 らか の深 刻 な事 情 が 推 測 さ れ る。 大 学 卒 業 の の ち最 初 に職 に就 くま で の約7か 月 の空 白期 間 と 度 支 部 事 務 嘱 託 を依 願 退 職 した の ち東 京 電 気 に就 職 す る まで の約2年7か 月 の空 白期 間 の う ち、 説 明 が 困 難 な の は後 者 の ほ うで あ る。 前 者 は文 官 高 等 試 験 の準 備 と い う説 明 が 可 能 か も しれ な いが 、 後 者 は 「役 所 務 めが 膚 に 合 わず 」 に辞 め た のな らば、 短 期 間 の う ち に別 の 職 に就 いて い る はず で あ る。 しか し、 そ うな ら なか っ た。 な ぜ で あ ろ うか 。 筆 者 の推 測 で あ るが 、 そ れ は、 「若 き 時病 に 罹 り医 師 は残 余 一 二 年 の 生 命 を告 げた 」(蒲 生 俊 文1959:156)と 一92一. い う事 情 と関 係 が あ った の で はな い.

(13) 蒲生俊文小伝 だ ろ うか 。 病 名 は明 らか に して いな いが 、 結 核 で あ った 可 能 性 も考 え られ る。 期 待 され て いた 長 男 が 官 職 を 辞 し、 か つ 長 期 間 、 無 職 で あ った の は、 単 に 「役 所 務 め が 膚 に合 わ ず 」 と い う こ とで はな く、 突 然 、 彼 を 襲 った 病 そ れ も、余 命 「一 二 年 の 生 命 」 と宣 告 さ れ る よ うな重 篤 な病. こ そ、. そ の 本 当 の理 由 で は な か ろ うか。 幸 い青 年 俊文 は死 に直 面 した 危機 的 な状 況 を 脱 し、 さ ら に1911年12月 の 東 京電 気株 式 会 社 へ の入 社 で、 自 らの 活路 を 見 出 す こ とが で きた。 この入 社 は、同社 の技 師長 で あ った 新荘 吉 生 が要 請 した の で あ っ た(俊 文 の二 女 ・ 山 本 智 悪 子 氏 へ の2007年8月4日. の聴 き取 り に よ る)。 新 荘 との 接 点 は詳. し くは わ か らな い が、 この両 者 の 出会 い は 日本 の安 全 運 動 史 上 、 決 定 的 な 意 味 を有 す る こ とは以 下 で述 べ る とお りで あ る。 2東. 京 電 気 時 代1911-1924年. 東京電気社内安全運動と安. 全第 一協 会 東 京 電 気 株 式 会 社 は合 資 会 社 白熱 舎(1890年. 創 業)を 起 源 とす る電 球 の. 製 造 販 売 企 業 で 、1899年 に社 名 変 更 に よ り東 京 電 気 株 式 会 社 と な り、 さ ら に1939年 に 田 中製 造 所(1875年. 創 業)の 後 身 企 業 で あ る株 式 会 社 芝 浦 製 作. 所 との 合 併 に よ り、 東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社 、 そ して1984年 に東 芝 株 式 会 社 へ 社 名 変 更 し現 在 に至 って い る(東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社1977:649-662)。 白熱 舎 の 創 業 者 の 一 人 で 当 時 社 長 で あ った 藤 岡 市 助(1857-1916年)は. 、. 社 の 生 産 体 制 を 整 備 し拡 大 させ るた め 、1899年 に新 荘 吉 生 を 技 師 長 兼 電 球 製 造 部 長 と して 招 き入 れ(東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社 総 合 企 画 部 社 史 編 纂 室 1963:13)、. ま た、1908年 の 川 崎工 場(神 奈 川 県 橘 樹 郡 御 幸 村 、 現 ・神 奈. 川 県 川 崎 市 幸 区 堀 川 町)お. よび1911年 の 大 井 工 場(東 京 府 荏 原 郡 大 井 町 、. 現 ・東 京 都 品 川 区 大 井 町)の 建 設(東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社1977:26-28) に 着 手 す るな ど、 増 産 体 制 へ 準 備 を 進 め て い た。 こ の た め 、 東 京 電 気 は 一93∼.

(14) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. 「明 治 の 末 か ら大 正 の 初 め に か け て の 営 業 成 績 は 、 ま さ に 画 期 的 な 飛 躍 を 遂 げ 」(東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社1977:28)、 1904年 か ら1914年. そ れ に と もな って 従 業 員 数 も. ま で の10年 間 に138人 か ら2,102人. して い る 。 こ の う ち 工 員 に 限 定 す れ ば1904年 へ と 約14倍 の 増 加 と な っ て い る(東. へ と 約15倍. の123人. か ら1914年. の伸 び を示 の1,745人. 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社1977:624)。. 東 京 電 気 は、 こ う した飛 躍 的 な拡 大 基 調 の なか で 、 小 規 模 で 家 族 経 営 的 な 企 業 組 織 を 大 規 模 で 近 代 的 な 企 業 組 織 へ と 転 換 を 図 る 必 要 に 迫 られ て い た 。 と りわ け 、 従 業 員 数 の 増 加 と 経 営 合 理 化 の 動 き は 経 営 者 側 に 労 務 管 理 の 導 入 を 促 して い た 。 そ して 、1911年12月. に 乞 わ れ て 入 社 した 蒲 生 俊 文 の. 任 務 は 、 「労 務 部 長 の 様 な 仕 事 」(蒲 生 俊 文1959:150)と. 自 ら語 っ て い る. よ う に 、 労 務 管 理 で あ っ た 。 も っ と も、 当 時 は 労 務 管 理 の 手 法 が 模 索 さ れ て い た と き で あ り、 こ の 時 期 に 東 京 電 気 に お い て 労 務 管 理 を 実 践 し、 ま た 後 年 、 そ れ に 関 す る 著 書 『S式 労 働 管 理 法 』(日 東 社 、1926年)、 理 」(厳 松 堂 書 店 、1928年)、. 『労 働 管. 「新 労 働 管 理 』(保 健 衛 生 協 会 、1937年)な. ど. ベェ ブ ギル. を 書 い て い る蒲 生 は 、 斐 富 吉 に よれ ば 、 日本 の 労 務 管 理 史 にお い て 先 駆 者 の 一 人 と評 価 され て い る(斐 富 吉1997:261-279)。 労 務 管 理 の必 要性 は 、 東 京 電 気 の 固 有 の 事 情 に よ る もの だ けで は な か っ た。 社 内 事 情 に 加 え 、1911年3月. に制 定 され た 工 場 法 も無 視 で きな い 。 な. ぜ な ら、 工場 法 は 労 働 条 件 に つ い て 定 あ るだ けで な く、 そ の 第13条 お よ び 第15条 に お い て、 労 働 災 害 の 予 防 お よ び 補 償 に つ い て も規 定 して い た か ら で あ る。 労 働者 の労 働 条 件 や 労 働環 境 に配 慮 す るた あ に も労務 管理 は必 要 で あ った。 工 場 法 の施 行 は1916年 ま で 待 た ね ば な らな い が、 そ の 施 行 が近 く実 施 され る こ とを 見込 ん で、 社 内体 制 を整 え て い く こ とは経 営 者 に と っ て の 合理 的 な 対応 で あ った。1911年12月 に 決 ま った蒲 生 俊 文 の入 社 は、 工 場 法 へ の対 応 策 で あ った とい え る。 しか しな が ら、 た だ単 に労 務 管 理 の必 要 性 か ら法 学 士 を一 人採 用 した だ 一94一.

(15) 蒲生俊文小伝 けの こ とで あ った な らば 、 これ が安 全 運動 の 出 発 点 に結 び つ か な か った で あ ろ う。 蒲生 俊 文 の 個性 と彼 の 安 全運 動 を 支 援 す る新 荘 吉 生 を は じめ とす る社 内 の理 解 と協 力 が 重 な り合 う こ と に よ って安 全運 動 が誕 生 した の で あ る。 次 に、 これ に つ い て述 べ て み た い。 蒲 生 俊 文 は彼 が安 全 運 動 を 始 め た動 機 につ いて次 の よ うに説 明 して い る。. 偶 々感 電 即 死 事 件 が発 生 した。 け た 、ま しい電 話 の通 知 に急 い で現 場 に行 つ た余 は兎 も角 も遺 族 に人 を走 らせ た の で あ つ た。 口か ら泡 を 吹 き乍 ら死 ん で行 つ た。 高 圧 電 流 が左 手 か ら心 臓 を貫 き流 れ た の で あ っ た。未 亡 人 が駆 け付 け て其 死骸 に取 継 つ て泣 くよ り外 に語 は無 かつ た。 余 は只 \胸 を打 た れ て 自然 に涙 の に じみ 出 る の を禁 じ得 な かつ た。 余 の 安 全 運 動 は 此 の 涙 か ら 出 た も の を 言 ふ こ と が 出来 る。 『さ う だ! 安 全 運 動 を猛 然 と起 して彼 等 を助 け よ う』 斯 う言 ふ 心 持 ち で あつ た。 (蒲 生 俊 文1942:4). 蒲 生 は、 こ れ と同 様 の 記 述 を、 「日本 に於 け る我 が安 全運 動 と其 哲 学 」 (堀 口良一2011a:59)や. 「吾 が安 全運 動 の思 出」(蒲 生 俊 文1959:150). に も繰 り返 し残 して い る ので 、 それ だ け心 理 的 シ ョ ックが 大 きか っ た よ う に思 わ れ る。 こ の 「感 電 即 死 事 件 」 は1914年 に起 き た と蒲 生 自身 が 語 って い る の で (蒲生 俊 文1959:150)、. こ の事 故 が 直 接 の動 機 とな って 、 「大 正 三 年 同 社. 〔 東 京 電 気 〕 内二 安 全 運 動 ヲ創 設 ス」(堀 口良 一2010:113)と. 、 直 ち に安. 全 運 動 を 開 始 した こ とが わ か る。 この 事 故 が 起 きた 月 は特 定 で きな いが 、 同 年5月 に結 婚(蒲 生 純 子1975:25)し. て い る こ とを踏 まえ る と、 この 事. 故 が 一 般 的 な意 味 で 悲 劇 で あ った の で な く、 事 故 で 亡 くな った 職 工 と 「其 死骸 に取 縄 つ て 泣 くよ り外 に語 は 無 か つ た」 未亡 人 の 姿 を 自分 の こ と と し 一95一.

(16) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. て受 け止 め た の で あ ろ う。つ ま り、新 婚 家 庭 を 持 った ばか りの(あ る い は、 近 く持 つ こ と に な って い る)自 分 の家 庭 を重 ね 合 わ せ た と き、 蒲 生 は、 こ の悲 劇 を 他 人事 で は な く、 自分 の こ との よ うに感 じた ので あ る。 こ こに は、 青 年 期 に親 しん だ 「基 教 の 生 活 」か ら受 け た影 響 を 読 み 取 る こ と もで き る。 彼 が 「只 \胸 を打 たれ て 自然 に涙 の に じみ 出 る の を禁 じ得 な か つ た」 の は、 キ リス ト教 の 隣 人愛 の 精 神 と新 しい家 庭 に対 す る家長 と して の責 任 感 が 彼 の な か で結 び つ い た か らで あ ろ う。 さ ら に、 自 ら も 「若 き 時病 に罹 り医 師 は残 余一 二 年 の生 命 を告 げ た」(蒲 生 俊 文1959:156)と わ い、 また 、慈 しみ深 い 「慈 母 」(堀 口良 一20ユ1d:64)や (堀 口良 一2011d:64)の. い う辛 い体 験 を 味 敬愛 す る 「厳 父 」. 死 に接 す る こ とを通 して、 彼 の死 に対 す る想 念 が. 深化 して い た と も考 え られ る。 した が って、 東 京 電 気 で彼 が始 め た安 全 運 動 は、 彼 自身 が 語 って い る よ うに、 こ の 「涙 」 か ら始 ま った。 そ して、 こ の社 内 の安 全 運 動 に深 い理 解 を示 し、 惜 しみ な い支 援 を した のが 上 司 の新 荘 吉 生 で あ った 。 新 荘 は蒲 生 が入 社 した1911年 当時 は 「技 師長 兼 電 球 製 造 部 長 」(の ち1913 年 に職 制 変 更 に よ り 「技 師 長 兼 工 業 部 長 」)で 、1915年 に 「取 締 役 」、1918 年 に 「専 務 取 締 役 副 社 長 」 と、 創 業 者 の 藤 岡 の 片 腕 と して 社 を 盛 り立 て て きた 幹 部 社 員 で 、 藤 岡 亡 き後 の1919年 以 降 は 「専 務 取 締 役 社 長」 に就 き、 名 実 と も に社 の トップ と して 経 営 に関 わ って い た(東 芝n.d.)。. 蒲生 は 新. 荘 の も とで 安 全運 動 に 着手 し、 そ れ を社 内 に根 付 か せ て い った。 ま た、 後 述 す る よ うに、 新 荘 は部 下 の蒲 生 に対 し、 勤 務 しな が ら社 外 の安 全 運 動 で あ る安 全 第 一 協 会 の 活 動 に従 事 す る こ と も許 し(中 央 労 働 災 害 防止 協 会 1984:42-43)、. そ の た め の支 援(協 会 へ の寄 付 、 機 関誌 へ の寄 稿 な ど)も. 惜 しま な か った(機 関 誌 『安 全 第 一 』の 各 号 に賛 助 会 員 に東 京 電 気 の 名 が 、 特 別 会 員 に新 荘 の名 が、 さ らに東 京 電 気 の広 告 が載 っ て い る)。 な お、 鈴 木 文 治(1885-1946年)は 一96一. 「労 働 者 講 話 会 」 を 三 田 四 国 町 の 日.

(17) 蒲生俊文小伝 本 ユニ テ リア ン教 会 の会 堂 で あ る惟 一 館 で1912年2月 尊 莞1993:53-55)。 京 電 気 本 社(三. に始 め て い た(松 尾. そ の 場 所 は、蒲 生 が 当初 、勤 務 して い た と思 わ れ る東. 田四 国 町2番 地 第18号)の. す ぐ近 くで あ っ た。 東 京 電 気 本. 社 は1913年 に三 田か ら川 崎 に移 るが 、 三 田本 社 時 代 の1911年 に入 社 した蒲 生 は庶務 課長 と して労 務 管 理 に携 わ って いた 関 係 上 、 この 「労 働 者 講 話 会」 の こ とを 知 って いれ ば、 興 味 を 示 したで あ ろ う。 二 高 に学 ん だ 蒲 生 と仙 台 の 近 くで 中 学 時 代 を過 ご し二 高 の 学 生 で あ った 吉 野 作 造(1878-1933年) と懇意 で あ った鈴 木 は、 の ち に2年 差 違 いで はあ る もの の 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学政 治 学 科 に学 び 、 学 生 時 代 に何 らか の 交 流 が あ った か も しれ な い。 た とえ 両者 に 交流 が な か った と して も、 蒲生 が 友愛 会 の機 関 誌 『労 働 及 産 業』 に寄 稿 す るな ど友愛 会 と近 い 関係 に あ った た あ、学 生 時 代 は と もか く、 東 京 電 気 時代 に交 流 が あ った こ とを推 測 させ る。 ま た、 東 京 電 気 で の 上 司 で あ る新 荘 が 「鈴 木 文 治 が組 織 した友 愛 会 に 名 を つ らね、 労 働 問題 に理 解 を示 した進 歩 的 な経 営 者 で あ った」(中 央 労 働 災 害 防 止 協 会1984:42-43) とい う指 摘 もあ り、 実 際 、 新 荘 も 『労 働 及 産 業 』 に寄 稿 して い る の で、 鈴 木 、 蒲 生 、 新 荘 の3者 は身 の置 き場 の違 い こそ あれ 、 労 働 者 の境 遇 の改 善 に関 心 を寄 せ 、 労 働 問 題 へ それ ぞれ の立 場 で取 り組 ん で い た こ とは 間違 い な い。 東 京 電 気 に お け る安 全 運 動 は、単 に労 働 災 害 防 止運 動 と して だ けで な く、 新 荘 の 経 営 方 針 と して お こ なわ れ て いた 点 に特 徴 が あ り、 労 務 管 理 と一 体 とな って 実 践 され て いた 。 蒲 生 は、 これ を 「S式 労 働 管 理 法 」 と呼 び、 高 く評 価 して い る(蒲 生 俊 文1926)。Sは る(堀 口良 一2005:99-100)。. 新 荘 の 名 前 の 頭 文 字 を 表 わ して い. この 労 働 管 理 法(蒲 生 は労 務 管 理 よ り労 働. 管 理 と い う語 を 好 ん で 使 って い る)は 、 蒲 生 と新 荘 の 合 作 と して 生 み 出 さ れ た 経 営 組 織 論 で 、 両 者 の 二 人 三 脚 に よ って 実 践 され て いた が 、 不 幸 に し て1921年 に 新 荘 社 長 が 他 界 した こ とで 終 止 符 を 打 つ 。 一97一.

(18) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. 蒲生 が 取 り組 み続 けた安 全運 動 は、 単 に社 内 にお け るS式 労 働 管 理 法 の 実践 の一 つ で あ った だ けで な く、 この労 働管 理 法 を東 京 電 気 以 外 の場 所 で も実 践 して い く こ と にあ った 。 蒲 生 の 言 葉 で い え ば、 「統 一 団 体 主 義 」 の 実 践 で あ っ た。 こ の 「統 一 団 体 」 と は 「有 機 的生 命 活 動 団体 」(蒲 生 俊 文 ユ942:92)と. も言 い 換 え られ て い るが 、 そ れ は工 場 を 通 じて 労 使 双 方 が. 「一 丸 と な り融 合 一 体 」(蒲 生 俊 文1942:95)と. な った 団体 を意 味 す る。蒲. 生 の巧 み な例 で説 明 す るな ら、 「手 と槌 とが 物 を打 つ とい ふ 共 通 目的 に融 合 一 体 とな つ て始 あ て ホ ン トウ の仕 事 が 出来 る」(蒲 生 俊 文1943:148)よ うに、 労 使 は 「工 場 を 通 じて 相 繋 合 す る」(蒲 生 俊 文1942:93)の. で あ り、. 「工 場 を 離 れ て 工 場 主 も従 業 員 も共 に有 り得 な い」(蒲 生 俊 文1942:93)と い う。 新 荘 の 「最 も根 本 的 な る思 想 は、 一 端 採 用 し雇 傭 した者 は 〔中略 〕 決 し て解 傭 しな い と言 ふ 一 事 」 で あ り、 労 働 者 の福 利 増 進 は 「経 営 者 の義 務 」 で あ る点 に あ った(蒲 生 俊 文1926:3)。 い て従 業 員(職 工)を. した が って 、新 荘 が 労 使 関 係 に お. 「経 済 戦 に於 け る戦 友 」 と して 遇 す る態 度 は、 職 工. の 「信頼 」を 作 り出 し、仕事 に 「没頭 」す る結 果 を 産 ん だ(蒲 生 俊 文1926: 5)。 こ のS式 労 働 管 理 法 は工 場 を 蒲 生 の い う 「有 機 的 生 命 活 動 団体 」(蒲 生 俊 文1942:92)に. 変 え、 労 使 が 「一 丸 とな り融 合 一 体 」 とな る こ とを 可. 能 に し(蒲 生 俊 文1942:95)、. また 、 そ れ に よ って 「隣 り工 場 に罷 業 が 起. つ て 宣 伝 に来 た 時 に も、 自分 達 は会 社 に反 対 す る理 由が 無 い と言 ふ て 断 つ た」(蒲 生 俊 文1926:5)よ. うな 状 況 が 生 まれ た 。. そ れ は同 時 に、 蒲 生 の 主 導 す る安 全 運 動 が 「真 実 の 安 全 運 動 」 にな る条 件 で もあ った 。 す な わ ち、 彼 は次 の よ う に い う。 労 使 の 「協 力 の 無 い と こ ろ に真 実 の 安 全 運 動 は 有 り得 な い 」(蒲 生 俊 文1937:265)。. ま た 、 この 労. 使 が 融合 一 体 と な っ た工 場 団 体 を通 して安 全 運 動 が完 成(蒲 生 俊文1937: 348)す るだ けで な く、 そ れ に よ って 「個 人 生 活 が 完 成 」(蒲 生 俊 文1937: 一98一. 禍` ・. ・ 馬 冒.

(19) 蒲生俊文小伝 349)す. る こ とに もな る とい う。. 蒲 生 は、 「個 の 充 実 健 全 を 図 らず して何 処 に 全 の 充 実 健 全 を期 待 し得 よ うか 」(蒲 生 俊 文1942:95)と. 述 べ て い る よ う に、 個 人 が 団 体 のな か に埋. 没 して しま う よ う な全 体 主 義 的 な姿 を描 いて い た ので は決 して な いが 、 労 働 者 個 人 が 「幸 福 な る生 活 を実 現 し得 」(蒲 生 俊 文1937:434)る. たあにも. 工 場 が 「有 機 的 生 命 活 動 団 体 」 に な る必 要 あ った 。 蒲 生 は、 新 荘 のS式 労 働 管 理 法 が これ を可 能 に し、 そ れ に よ って 経 営 上 の利 潤 のみ な らず 、 労 働 者 個 人 の職 場 で の安 全 や 福 利 お よ び私 生 活 で の 幸 福 が 実 現 す る こ と を確 信 して い た。 蒲 生 が1910年 代 に東 京 電 気 で 始 め た労 働 者 の 「幸 福 」 を 追 求 す るた め の 活 動 は、 や が て1917年 に設 立 され る安 全 第 一 協 会 を 拠 点 に、 今 度 は社 会 の 人 々 の 「幸 福 」 を 追 求 す る活 動 へ と向 か って い った 。 安 全 第 一 協 会 は 日本 で 最 初 に設 立 され た 安 全 運 動 を 社 会 運 動 と して 推 進 す る民 間 団 体 で 、 当 時 逓 信 次 官 で あ った 内 田嘉 吉(1866-1933年)が. 代 表を務 あていたが、逓 信. 省 の 関 連 団 体 で は な い。 同協 会 は、 安 全 運 動 を 社 会 に普 及 させ る こ と に よ って 「社 会 ノ幸 福 ヲ増 進 」(会 則 第1条)す 会1917:75)と. る こ と を 目的(安 全 第 一 協. した安 全 運 動 啓 蒙 団体 で、内 田 と蒲 生 を 中 心 に活 動 を 展 開. して いた 。 そ の 成 果 の 最 も大 きな もの に、1919年6月. に実 施 した 安 全週 間. が あ る。 これ は蒲 生 の発 案 に よ る もの で(蒲 生 俊 文1942:7)、. そ の後 、 全. 国 安 全 週 間 に発 展 し、 現 在 に至 って い る。 た だ 安 全 第 一 協 会(会 頭 ・内 田 嘉 吉)は 財 政 面 が脆 弱 で 、 内 田 を は じめ と して 協 会 の 幹部 や 他 の メ ンバ ー も全 員 が ボ ラ ンテ ィア で 活動 に携 わ って い た た め 、 活動 の継 続 性 と発 展 に限 界 が あ った。 実 際、 安 全 第一 協 会 が 発 行 して い た 月刊 の機 関誌 は2年 間 で実 質上 廃 刊 に追 い込 ま れ、 組 織 も1919 年 の安 全週 間 を機 に 発 足 した 中央 災害 防止 協 会(会 長 ・内 田嘉 吉)と. の並. 存 を経 て、1921年 に 日本安 全協 会(会 長 ・内 田嘉 吉)に 統 合 され るが、 活 一99一.

(20) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. 動 は徐 々 に停 滞 して い っ た。 幸 いな こ とに、安 全 第一 協 会 に は じま る これ ら3民 間 団 体 の 安 全運 動 は、 す べ て 団 体 の 代 表 を 務 あ る 内 田 と、 理 論 と実 務 の 大 半 を 担 う蒲 生 の 、 いわ ゆ る内 田=蒲 生 体 制 が 維 持 され て いた 。 そ の た め 、 内 田が 安 全 運 動 の 第 一 線 か ら身 を 引 き、 こ う した 活 動 が 自然 消 滅 した あ と にお い て も、 これ らの 遺 産 を 蒲 生 が継 承 し、1925年 に設 立 され た 産 業 福 利協 会 の 中心 メ ンバ ー と して安 全運 動 を継 続 す る こ とが で きた。 産 業 福利 協 会 に始 ま る産 業 福 利 時代 へ の蒲 生 の参 画 は、 内 田 が代 表 を務 め る団体 の安 全 運 動 の衰 退 と産 業 福 利'協会 の発 足 に と もな う安 全 運 動 の新 しい拠 点 の誕 生 が 時期 的 に重 な って い た こ とに よ る が、 これ は単 な る偶 然 で は な く、 蒲 生 を介 して必 然 的 に起 き た流 れ で あ る。 そ して、 こ こに は、 蒲 生 が東 京 電 気 を離 れ て、 彼 の生 活 のす べ て を安 全 運 動 に投 入 す る人 生 の 転 機 も重 な って い た。 そ れ を促 した もの は、 東 京 電 気 で彼 の安 全 運 動 を支 援 し続 けた 上 司 。新 荘 の 突 然 の 死(1921年3月)、. 東 京 電 気 で彼 に 協 力 し. て き た 同 僚 た ち を関 東 大 震 災 で 失 った こ と(1923年9月)、. そ して、 こ の. 伏 線 とな っ た 「ミセ ス、 ウ ツ ド」 の言 葉 で あ った 。 「ウ ツ ド」 と い う人 は、 蒲 生 に よ れ ば、 「日本 女 工 の 状 況 視 察 」 に 米 国 「ニ ユ ー ヨー ク」 の 「YWCA」. か ら来 日 した 人 で 、 蒲 生 が 東 京 電 気 川 崎 工. 場 を 案 内 した と き に知 り合 った の で あ るが 、神 戸 で 「再 会 」 した とき、「日 本 に取 つ て 最 必 要 な 仕 事 を 御 気 付 き にな り乍 ら何 故 万 事 を 抱 つ て 之 に没 頭 しな い の です か」 とい わ れ た言 葉 が、 蒲 生 に 「天 の 使 命 」、 す な わ ち 「凡 て の 仕 事 を 捨 て て 世 の 嘲 笑 を も顧 み ず して 専 心 安 全運 動 に 没 頭 す る」 こ と を悟 らせ た とい う(堀 口良 一2011a:61)。. そ して、 この言 葉 が 彼 の心 に重. くの しか か り、 「自分 の勇 気 の無 い こ と を恥 ぢ」(堀 口良一2011a:61)て い た 矢 先 の1923年9月. に 関東 大 震 災 で 、 「同僚 全 部 の 圧 死 に遭 い、 私 は 只. 一 人 病 を以 て 自宅 に 臥床 して居 た の で助 か つ た こ とが 深 く心 に 刻 み. 、遂 に. 一100一. '門. ・'飾.

(21) 蒲生俊文小伝 一 身 を 安 全 運 動 に投 入 した」(蒲 生 俊 文1959:152)と. 赤 裸 々 に語 って い. る。 彼 らの死 を 無 駄 に しな い 生 き方 と して蒲 生 が 「片 手 間 の仕 事 」(蒲 生 俊 文2011a:60)で. はな く 「専 心 安 全 運 動 に没 頭 」(蒲 生 俊 文2011a:61). す る こ とが 今 や 自分 に課 せ られ た 使 命 で あ る と決 断 した の で あ る。そ して 、 彼 が 安 全 運 動 に専 心 す る場 は、 産 業 福 利 協 会 で あ っ た。 なぜ な ら、 理 解 あ る上 司 ・新 荘 が 亡 くな っ た こ と と協 力 的 な 同僚 た ち を 失 っ た こ とで 、 も はや 東 京 電 気 に お いて 安 全 運 動 を 継 続 す る こ と は困 難 で あ っ た し、 内 田が 代 表 を務 あ る安 全 運 動 団 体(安 全 第 一 協 会 の 後 継 団 体 ・ 日本 安 全 協 会)は 、1923年9月 実 行 委 員1937)に. に内 田が 台 湾 総 督(故 内 田嘉 吉 氏 記 念 事 業. 就 くな どの事 情 もあ って、 休 眠 状 態 に陥 って いた か らで. あ る。 蒲 生 は震 災 の の ち、1923年11月30日. に東 京 電 気 を 依 願退 職 し、 嘱 託 の 身. 分 で 翌 年3月 末 日 まで 勤 め た の ち、 正 式 に退 職 して い る。 当 時、 蒲 生 は妻 と幼 い長 男 を抱 え て い た の で、 生 活 の こ とを考 慮 す れ ば、 生 計 の 目処 な し に 「専心 安 全運 動 に没 頭 」 す る こ とは無 謀 な行 為 で あ った に違 い な い。 彼 に と って、安 全 運動 に専 心 で き る環 境 を 自 ら整 え る必 要 に迫 られ て い たが 、 か きち. そ れ は 内 務 官 僚 の 河 原 田 稼 吉(1886-1955年)か. ら乞 わ れ て社 会 局 の嘱 託. に 就 く こ と で 適 え ら れ る 。 実 際 、1924年3月10日. 付 け で 内務 省 社 会 局 第 一. 部 事 務 取 扱 と し て 勤 務 す る こ と が で き た(堀 た だ し、 給 与 は 月 額100円 円 」(堀 口 良 一2010:128)か 単 純 に 比 較 す る な ら、3分 に 協 調 会 か ら 月 額 約230円. に 過 ぎ ず 、1921年9月1日. 1922年4月. 時 点 の 「年 棒1850. ら 計 算 して 東 京 電 気 時 代 の 月 額150円 の2以. 以上 と. 下 に 減 っ た こ と に な り、1936年4月. 以降. を 受 け 取 る よ う に な る ま で の12年 間 は 、 帝 都 復. 興 院 か らの 臨 時 収 入 と して1923年10月 良 一2010:129)や. 口 良 一2010:131)。. か ら翌 年2月. 明 治 大 学 講 師 と して の 収 入(収. か ら複 数 の 講 座 を 担 当 して い た)な 一101一. ま で の 約1000円(堀. 口. 入 額 は不 明 で あ るが 、. ど を 勘 案 して も、 決 して 贅.

(22) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. 沢 な暮 ら しは で き な か った で あ ろ う。 ま た、 職 位 も正 社 員 か ら臨 時職 員 へ 変 わ った こ とで、 身 分 も不 安 定 で あ った。 この こ とか ら、 彼 の決 断 は、 自 なげう. らの生 活 を螂 って安 全 運 動 に 「専 心 」 す る覚 悟 を意 味 して い た。 次 節 で蒲 生 が 「専 心 」 す る舞 台 とな った産 業 福 利 協 会 とそ の後 継 団体 で あ る協 調 会 産 業 福 利 部 な どにつ い て述 べ よ う。. 3産. 業 福 利 時 代1924-1945年. 社 会 局 、 協 調 会 、 大 日本 産. 業報 国会 かきち. 蒲 生 よ り2年 遅 く東 京 帝 大 政 治 学 科 を卒 業 した河 原 田稼 吉 は、 内務 省 入 省 後 は主 と して 警 保 局 を歩 ん で い た が、 社 会 局(外 局)の 設 置 と と も に 1922年11月 に社 会 局 第 一 部 長(の. ち労 働 部 長 に名 称 変 更)に 就 き、 労 働 行. 政 を指 導 す る。 彼 は ス トラ イ キが 国 家 に対 す る 「不 忠 不 義 の行 為 」 だ と さ れ て い た 時 代 に 、 「労 働 運 動 と云 ふ も の と治 安 問 題 と云 ふ もの を な るべ く 明 確 に区 別 を して 、 純 粋 の 労 働 運 動 即 ち労 資 間 の 経 済 問 題 と云 ふ もの に就 き ま して は無 用 な 〔 政 府 の 〕干 渉 を取 除 いて 行 く」(河 原 田稼 吉1926:33) べ きだ と い う持論 を も った 進 歩 的 官 僚 で あ った 。 した が って、 彼 は新 設 さ れ た社 会 局 を舞 台 に、 労 働 運 動 を敵 視 し取 り締 ま りを お こ な う警 察 行 政 (規制)に. よ って で はな く、 穏 健 な労 働 運 動 を 取 り込 み 労 働 政 策 で誘 導 し. 緊 迫 した 事 態 を 未 然 に防 ぐ社 会 行 政(予 防)に. よ って労 資協 調 を 目指 そ う. と して い た。 そ こ に は、 「労 資 の 協 調 を行 ふ こ とが 出 来 るな らば是 に 因 つ て 産 業 の発 達 を来 し、 是 に因 つ て 国家 の 興 隆 を 期 す る事 が 出 来 る」(河 原 田稼 吉1936:4)と. す る彼 の官 僚 と して の立 場 が 反 映 され て い た。. ま さ にそ う した とき に河 原 田 が 目を つ けた の が蒲 生 が取 り組 ん で い る安 全運 動 で あ った。蒲 生 は、上 述 した よ うに、労 使 が 「一 丸 とな り融 合 一 体 」 とな った 「有 機 的生 命 活 動 団体 」 と して の工 場 に お い て真 の安 全 運 動 が展 開 され る と説 いて い た が、 逆 も真 で あ った。 蒲 生 は い う。 「安 全 は協 力 よ 一102一.

(23) 蒲生俊 文小伝 り 」(蒲 生 俊 文1937:260)で 1937:265)で. あ り、 ま た 「協 力 は 安 全 よ り」(蒲 生 俊 文. あ る 。 つ ま り、 安 全 運 動 を 工 場 に 導 入 す れ ば 、 労 使 が 「協. 力」 し合 い、 労 資協 調 が 促 され る こ とを意 味 した。 河 原 田 は、 こ こに着 目 し た の で あ る。 どの よ うに して河 原 田 が蒲 生 を知 った の か は 明確 に で き な い が、 安 全 週 間 に 協 力 し参 加 し て い た 池 田 清(蒲. 生 俊 文1942:7)な. どの警 視 庁 の 関係. うわ さ. 者 か ら蒲 生 の 噂 が警 保 局 勤 務 が長 か った河 原 田 の耳 に入 った可 能 性 は考 え られ る。 いず れ にせ よ、 河 原 田 が蒲 生 に大 き な 関心 を示 す だ け に と どま ら ず、 蒲 生 を社 会 局 の職 員(嘱 託)に 抜 擢 した の は、 何 よ り も河 原 田 の構 想 を実 現 す る た め に蒲 生 の経 験 と手 腕 が不 可 欠 だ ったか らで あ る。 反 対 に、 「専 心 安 全 運 動 に没 頭 」 しよ う と望 ん で い た 蒲 生 に と って も、 願 って もな い誘 い で あ った。 いつ 誘 わ れ た か は断 定 で き な いが 、 社 会 局 嘱 託 の辞 令 が1924年3月10日. 付 けで 出 され て い るの で(堀 口良一2010:131)、. 震 災 後 、 遅 く と もこ の 日付 以 前 とい うこ とに な るが 、 それ が 東 京 電 気 の依 願 退 職 の前 か 後 か は、 わ か らな い。 た だ、 「大 正 十 三 年 〔1924年〕 内 務 省 し ょうよ う. 社 会 局 が 安 全 運 動 に力 を 注 が ん とす る の意 を以 て 、 余 に参 加 方 を 懲 悪 され た事 に よつ て 余 は之 と結 びて 社 会 局 の背 景 に於 て 安 全 の 指 導 を 為 す 事 にな 〔つ た〕」(蒲 生 俊 文1942:17)(ル. ビ引 用者)と 、蒲 生 が 語 って い る記 述 を. 素 直 に受 け取 るな らば、 蒲 生 が 誘 わ れ た の は1924年 で あ り、 東 京 電 気 を 退 職 す る こ とを 決 断 した1923年11月 の 後 と い う こ と にな る。 つ ま り、 将 来 の 生 計 の保 障 もな い ま ま安 全運 動 に 身 を 捧 げ る決 意 を した あ と、 「参 加 方 を 懲 愚 され た 」 こ と にな る。 さて 、 河 原 田が 蒲 生 と力 を 合 わ せ て 労 働 政 策 を 実 施 しよ う とす る拠 点 と して1925年11月 に立 ち上 げた 組 織 が 産 業 福 利 協 会 で あ った。 発 足 当 初 は 社 会 局 の 外 郭 団 体 で あ った が 、 の ち1929年2月 1936年4月. か ら1941年3月. に財 団 法 人 とな り、 さ ら に. まで 協 調 会 産 業 福 利 部 と して 存 続 す る。 内 務 省 一103一.

(24) 近畿大学法学. 第59巻 第2。3号. 社 会 局 が1938年 に 新 設 され た厚 生 省 に 統 合 さ れ た の ち も一 定 の 独 立 性 を 保 って 活 動 を続 けて い た。 産 業 福 利 協 会 が 社 会 局(と の ち労 働 部 へ 名 称 変 更)と. くに社 会 局 第 一 部 、. は別 組 織 と して作 られ た の は、 一 一つ に は蒲 生 の. 処 遇 の問 題 が あ っ た もの と思 われ る。 社 会 局 に呼 び寄 せ た河 原 田 は蒲 生 の 2年 後 輩 で あ る に もか か わ らず官 職 で は勅任 官 二 等 で 部 長 の ポ ス トに あ り、 年 棒5,200円(月 給 に換 算 して約433円)で. あ るの に対 し(内 閣 印刷 局1914:. 13)、 蒲 生 は 嘱託 に過 ぎ ず、 月 給 は100円 で(堀 口良 一2010:131)、. 両者 に. 大 き な格 差 が あ った 。 もち ろん 蒲 生 に と って は 「凡 て の仕 事 を捨 て て」 取 り組 む こ と にな っ た 「天 の使 命 」 で あ ったが 、 そ う した彼 の心 情 を理 解 し て い た にせ よ河 原 田 は、 安 全 運 動 の経 験 豊 富 な先 輩 で あ り盟 友 で あ る蒲 生 に対 し、 それ に相 応 しい処 遇 に努 め たで あ ろ う。 位 階 制 に拘 束 され な い別 組 織 を社 会 局 の外 に作 り、 そ こで 蒲 生 に安 全 運 動 の た め に活 動 で き る地 位 と権 限 を 提 供 した い と考 え た ので は な い だ ろ うか 。 た しか に、 発 足 当初 は 社 会 局 の外 郭 団 体 で あ っ た た め、 産 業 福 利 協 会 は完 全 に社 会 局 に従 属 し、 産 業 福 利 協 会 の 役 員22名 の う ち蒲 生 は最 後 に位 置 して い た が(理 事 の 末 席)、 財 団法 人 とな って か ら は、 役 員9名 の う ち4番 目の地 位(常 務 理 事) に上 が り、社 会 局 の職 位 で は課 長 ク ラ ス に相 当 した(産 業 福 利 協 会1927: 56;産 業 福 利 協 会1929:95)。. さ らに、 協 調 会 に移 って か ら間 もな く、 産. 業 福 利 部 は 同部 長 とな った 蒲 生 の全 権 の下 に委 ね られ る。 も し産 業 福 利 協 会 で はな く社 会 局 で 活 動 して い たな らば、 いつ まで も末 席 を 占 め る こ と に な った で あ ろ う。 河 原 田 は官 僚 で あ る た め、 いず れ 自分 は異 動 す る だ ろ う こ とを 思 う と、 蒲 生 自身 の 意 向 にか か わ らず 、 蒲 生 に 出来 る限 りの 保 護 を 与 え て お こ う と考 え た で あ ろ う。 社 会 局 と は別 組 織 の 産 業 福 利 協 会 を作 った もう一 つ の理 由 は、 英 国 の産 業 福 利 協 会 に倣 った こ と に よ る。 す で に河 原 田 と蒲 生 が 社 会 局 で 活 動 を始 め て いた な か 、 英 国 ヨー ク市 の 製 菓 会 社 ラ ウ ン トリー 社 の 経 営 を 指 揮 し、 一104一.

(25) 蒲 生俊文小伝 福 利 厚 生 事 業 の 導 入 と充 実 に 努 め て い た フ ィラ ン ソ ロ ピ ス トで あ る シー ボ ー ム ・ラ ウ ン ト リー(1871-1954年)が. 来 日 し、1924年11月6日. に 内務. 省 社 会 局 主 催 の昼 食 会 が 開 か れ る こ とに な った(山 本 通2006:59)。 ン トリー は英 国産 業 福 利 協 会 に 「深 く係 わ」(山 本 通2006:54)る. ラウ ととも. に、 同昼 食 会 で労 働 者 に対 す る福 利 厚 生 事 業 は 「傭 主 の社 会 的 義 務Social obligationで. あ る」(河 原 田稼 吉1927:9)と. 述 べ た と い う。 こ の ラ ウ ン. トリー が 唱 え る 「社 会 的 義 務 」 は、 河 原 田 と蒲 生 に よ って 「産 業 福 利 の精 神 」 と呼 ばれ 、 日本 に お い て産 業 福 利 協 会 の発 足 を促 す る こ とに な った。 実 際 、 産 業 福 利 協 会 は労 働 者 の福 利 増 進 を図 る こ と を主 要 な 目的 と して掲 げ、 会 則 第1条. に 「被 傭 者 ノ福 利 ノ増 進 ヲ図 」 る こ とが 目的 の一 つ に挙 げ. られ て い る(産 業 福 利 協 会1926a:1)。 河 原 田 は、 この 産 業 福 利 の精 神 を 日本 に普 及 させ る拠 点 と して 産 業 福 利 協 会 を 立 ち上 げた と いえ る。 そ して 、 名 目上 、 協 会 の 代 表 で あ る会 長 は社 会 局 長 官 長 岡 隆 一 郎 が 就 いた が 、 実 際 上 は協 会 の 理 事 長 で あ る河 原 田が 協 会 に強 い 影 響 力 を 持 って いた 。 そ れ は、 河 原 田が 協 会 の 生 み の 親 で あ るだ けで な く、 協 会 の 事 務 局 も彼 が 部 長 を 務 め る社 会 局 第 一 部(の. ち労 働 部). に置 か れ 、また 、長 岡 は 河原 田 の あ と に社 会 局 に入 って きた新 参者 で あ り、 年 齢 も1年 の 差 しか な い た め 、 河 原 田 の 手 腕 抜 き に協 会 は 運 営 で きな か っ た し、 社 会 局 全 体 を 統 率 して い た 長 岡 は 産 業 福 利 協 会 に専 念 す る立 場 に も な く、 ま た 河 原 田 を 信 頼 して 協 会 の 運 営 を 委 ね て い た た め で もあ る。 産 業 福 利 協 会 の事 実 上 の 長 で あ る河 原 田 は 、 産 業 福 利 の 精 神 な どを 普 及 させ る た あ に 開 い た 協 会主 催 の最 初 の工 場 災 害 予 防 及 衛生 講 習 会(1926年 10月)に. お い て 、 「産 業 福 利 の 精 神 」 と い う講 習 課 目を 担 当 し、 そ の 内容. を 「産 業 福 利 の 精 神 」 と い う タ イ トル で 協 会 の 機 関 誌 『産 業 福 利 』 誌 上 (1927年2月)に. 公 表 して い る(産 業 福 利 協 会 は 設 立 され て ま もな く して. 機 関紙 『産 業 福 利 』 を発 行 し、 翌 年 か ら機 関誌 の体 裁 と して毎 月 発 行 し続 一105一.

(26) 近畿大学法学. 第59巻 第2・3号. け た)。 ま さに 協 会 が そ の活 動 を 本 格 的 に始 め た こ とを 印 象 づ け た もの で あ る。 と こ ろが 、 この 河 原 田 論 文 と同 名 で か つ 同 内 容 の 論 文 を 蒲 生 も 『産 業 福 利 』誌 上(1936年5月)に. 発 表 して い る。字 句 も、 ほ とん ど違 わ な い ので 、. この2つ の 同 名 論 文 の 執 筆 者 が 誰 で あ るか が 問 題 とな る。 筆者 が 分 析 した 結 果 、 この 論 文 の 「実 質 的 な 執 筆 者 は 蒲生 で あ る」(堀 口良 一2008b:75) こ とが 判 明 した。 した が って 、 河 原 田 が1926年 に お こな った講 習 課 目の原 稿 も蒲 生 が 準 備 した こ とに な る。 な お、 蒲 生 は 同講 習 会 で は 「安 全 第一 運 動」 とい う別 の課 目 も担 当 して い た(産 業 福 利協 会1926b:10)。 こ こか ら見 え て く る こ とは、 産 業 福利 協 会 の理 念 で あ る 「産 業 福 利 の精 神 」 を練 り上 げ た 中心 人物 は蒲 生 で あ った こ とで あ る。 もち ろ ん、 河 原 田 も付 随 的 に そ れ に加 わ った で あ ろ う。 しか し、 そ の大 半 は蒲 生 が作 り上 げ た もの で あ る。 実 際、 蒲 生 が この 時期 に発 表 した論 文 「労 働 管 理 に 関す る 一考 察 」(精 神 社 編 集 ・発 行 『精 神 』 第2巻 第12号 、1925年12月 、9-14頁) や著 書 『S式 労 働 管 理 法 』(日 東 社 、1926年9月)お 松 堂 書 店 、1928年4月)に. よび 『労 働 管 理 』(厳. お い て 同名 論 文 「産 業 福 利 の精 神 」 の 内容 と重. 複 す る点 が数 多 く見 受 け られ る か らで あ る。 蒲 生 は、1910年 代 の東 京 電 気 に お い て新 荘 と と もに実 践 したS式 労 働 管 理 法 が労 働 者 の福 利 増 進 は 「経 営者 の 義務 」(蒲 生 俊 文1926:3)で. あると. い う精 神 に よ っ て貫 か れ て い た こ と を、 ラ ウ ン トリーが 実 践 す る産 業 福 利 事 業 の な か に 再 発 見 した の で あ る。 蒲 生 が、 の ち ラ ウ ン トリー社 の オ リ ヴ ァー ・シ ェル ドン(OliverSheldon)が. 著 した 『労 働 管理 の哲 学』(7劾. P捌050助yρ 耀 侃 θ8ε 膨 η∂ を翻 訳 す る な ど、 ラ ウ ン トリー 社 の 福 利 事 業 や ラ ウ ン トリー の フ ィラ ンソ ロ ピー に強 い 関心 を示 した 理 由 は、 こ こに あ る。 それ ゆえ 、1924年11月 の ラ ウ ン トリー の 講 演 に強 い刺 激 を 受 けた 蒲 生 は、 S式 労 働 管 理 法 が 国 外 で も適 用 可 能 な 普 遍 性 を も った 思 想 と実 践 で あ る こ 一106一. ㌔. 唱σ『.

(27) 蒲生 俊文小伝 とを 確 信 した の で あ る。 労 働 者 の 福 利増 進 を工 場 主 や社 会 が受 け 入 れ る よ う働 き か け る産 業 福 利 協 会 の 啓 蒙 活動 は英 国 の フ ィラ ン ソ ロ ピー の理 念 に 強 く動 機 づ け られ な が ら、 そ の 出 発 点 は蒲 生 のS式 労 働 管理 法 に あ った こ とを 確認 す る こ とが で き る。 そ して、 下 の 表 に示 す よ うに、 蒲 生 の安 全 運 動 は、 そ の 目的 を 福祉(「 福 利 」 あ る い は 「幸 福 」)の 増 進 に置 き、S式 労 働 管理 法 を起 点 とす る一 貫 した理 念 で 支 え られ て い た。. 時期. 拠点. 理念. 目的 「福 利 施 設 」 の 「改 善 進 歩 」(蒲 生 俊 文1926: 3). 1910年 代. 東京電気. S式 労働管理法. 1917年 以 降. 安全第一協会. 安全第一主義. 「社会 ノ幸 福 ヲ増 進 」(会 則 第1. 中心人物. 新荘 と蒲生. 内 田 と蒲 生. 条). 1925年 以 降. 産業福利協会 お よび協調会産業 産業福利 の精神 福利部. 「被傭 者 ノ福利 ノ 増進 」(会則 第1 条). 河原 田と蒲生. こ の産 業 福 利 の精 神 は、 産 業 福 利 協 会 が 協 調 会 産 業 福 利 部 に姿 を変 え た あ と も継 承 され る が、 そ れ を 支 え た の は蒲 生 で あ った。 蒲 生 が 協 調 会 に 移 っ て ま もな くの1936年5月. に論 文 「産 業 福 利 の精 神 」 を再 び、 しか し今. 度 は 自分 の名 前 で 機 関 誌 『産 業 福 利 』 に発 表 す るが 、 それ は彼 が 、 い まや 産 業 福 利 部 の実 質 的 な統 率 者 に な っ た こ と を物 語 って い る。 産 業 福 利 部 に移 って 変 わ っ た の は、 事 務 局 の 協 調 会 館 へ の 移 転 、 蒲 生 以 外 の職 員 の異 動 、 予 算 の 増 額 な どで あ るが 、 実 質 的 な 変 化 はな く、 機 関 誌 も 『産 業 福 利 』 を 維 持 し、 活 動 内 容 も基 本 的 に踏 襲 され た。 これ は、 組 織 の 中心 に蒲 生 が いた た め で あ る。 協 調 会 は床 次 竹 二 郎 内 務 大 臣 が 主 唱 し、 財 界 の 重 鎮 で あ った 渋 沢 栄 一 ら 一107一.

(28) 近 畿大学法学. 第59巻 第2・3号. が 協 力 して設 立 さ れ た 官 製 組 織 で あ った が、1936年4月1日. に、 「産 業 福. 利部 は 内務 省社 会局 監 督 課 長 北 岡 寿逸 氏 を 部長 に嘱託 し、 元産 業 福 利協 会 常 務 理 事 蒲 生 俊 文 氏 を 副部 長 と して」、 「財 団法 人産 業 福 利協 会 よ り継 承 し た る事 業 と本 会 〔 協 調 会 〕の 在来 の事 業 の一 部 を併 合 し、工 場 災 害 の防 止 、 労 働衛 生 、 産 業 福 利 施 設 、 労 働 管 理 等 に 関 し其 の 改善 進 歩 を 図 り、 当 業者 の諮 問 に応 じ以 て 産 業 平 和 、産 業 協 力 の助 長 促 進 を 期 す る」 目的 を もって 、 そ の 活動 を始 め た(町 田辰 次 郎1965:77)。. この産 業 福 利 部 の創 設 を画 策. し実 現 した 中心 人 物 が河 原 田 で あ り、1935年10月 に協 調 会 の実 質 上 の長 と い って よ い常 務 理 事 に就 い た彼 は、 再 び蒲 生 を組 織 ご と協 調 会 に 呼 び寄 せ た の で あ る(堀 口良 一2008a:205-207)。 ち な み に、 協 調 会 は産 業 福 利 協 会 を 吸収 合 併 す る以 前 の1921年2月. に第. 1回 労 務 者 講 習 会 を 開 き、 「我 等 は労 務 者 た る前 に先 ず 人 で あ る、 資 本 家 た る前 に先 ず 人 で あ る」 を モ ッ トー に労 資 双 方 が参 加 す る合 宿 を企 画 し、 「社 会 一 体 の 信 念 の 下 に人 類 相 愛 の大 義 に 目醒 あ 」 よ う と啓 蒙 活 動 を お こ な った(町 田辰 次 郎1965:36)。. この講 習 会 は蓮 沼 門三(1882-1980年)が. 結 成 した修 養 団 と深 い結 びつ きが あ った。 事 実 、 修 養 団 の幹 部 で あ り、 ま た協 調 会 常 務 理 事 で も あ っ た 田沢 義 鋪(1885-1944年)を. は じめ 、 修 養 団. か ら後 藤 静 香 、 松 元 稲 穂 、 北 爪 子 誠 、 林 平 馬 らが 講 師 と して 参 加 し(蓮 沼 門 三 全 集 刊 行 会1972:303)、. 講 習 会 の 手 法 や 精 神 も修 養 団 の もの を 真 似 て. い た。 ま た、 修 養 団 は協 調 会 を 主 導 して いた 床 次 竹 二 郎 や 渋 沢 栄 一 か ら支 援 を 受 けて いた 。 と こ ろで 、1937年3月31日. に は、 北 岡 の 転 出 に と もな い、 蒲 生 が 産 業 福. 利 部 長 に昇 格 し、 また 同 年4月30日. に常 務 理 事 に就 い て 、 当 時 の 安 全 運 動. を 指導 す る最 高 の ポス トを 占め る こ とに な るが(堀 口良一一2010:135-136)、 蒲 生 の 活 動 に さ して 変 化 はな か った 。 しか し、1938年7月 会の主唱. と くに河 原 田 が 熱 心 に唱 え た 一 一108一. にな る と、 協 調. に よ り産 業 報 国 連 盟 が 発 足.

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