唐代科挙制度と韻書・唐詩との関係
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(2) たのである。. しかしながら、 《切韻》以後も韻書がでている。唐・中宗皇帝の畑鼠2年(706年) にでた《刊謬補鉄切韻》。この編者である王忌日句は自序の中で「陸法言の《切韻》は、. 巷間で広く重んじられ、規範とされてきた。しかし、字義を載せないところもある。誤り を正し欠を補った切韻をつくる必要があろう。」(注②)と言っている。さらに、唐・玄. 宗皇帝の三宝10隼(751年)にでた《四韻》。この編者である孫・1面は《切韻》につ いて「注に間違いがあり、文字にも誤脱があったりする。これらを校訂しないままにして おくならば、いったい何をたよりに音韻に可否を論ずればよいのか。… そこで、本書 では取るにたらぬことはすべて抜きさり、もれ欠けていることは積極的に補うことにした。. 」(注②)と言っている。このことからもわかるように、《切韻》も完全ではなかったの である。. さらに「《唐山》など唐人のテキストによって校訂をくわえ、宋・真宗の大中晶晶元年. (1008年〉にその名を《大忌重修広韻》と定めた。」(注②)ことからもわかるよう に㍉ 《跳鼠》も完全ではなく、 《大品重湯広韻》をもって、完全なる漢字の発音の統一と. するべきではないだろうか。すなわち、階・唐から五代十国という長い期間を通して、徐 々に完全なる漢字の発音の統一に向かったのではないだろうか。. この完全なる漢字の発音の統一に向かわせたのは、科挙制度ではないかと考える。科挙 の試験科目として、詩や賦が課される。詩や賦は、韻をふまなければならないきまりになっ ている。韻(発音)が間違っていると落話となり試験に合格できない。科挙試験に合格す るためには、必死で漢字の発音も勉強する必要があった訳である。. では、詩や賦は、いつごろから課されたのであろうか。史料に明確に記載されているの. は『新出書・巻44・選挙志下』にあるように、「先高、進士試詩、賦及時務策五道、明 経策三道。 (以前、進士には、詩や賦および時務策五題、明経には、策三題を試験した。). 」とあるのが最初である。この「以前」とは、李二六氏によると、玄宗の開元年間(71. 3年∼741年)である(注④)といわれている。 また、 『新唐書・巻44・選挙志下』に「進士科起二階大業中、是時猶試策。高宗朝、. 劉思立加進士雑文、(進士科の起こりは、階の大業年間(605∼617)であり、この 時は、策だけで試験をした。高宗の頃になって、劉思立が進士に雑文を加えた)」とある、 雑文を詩や賦と同じような韻文であると考える研究者も多い。 また、感文瀾氏は、 「階場帝本人出品文学家、創立進士科、以考試詩賦為主、是不足為 奇的。 (階の亡帝自身が文学家であったので、進士科をつくり、詩や賦でもって試験をし. たのは、当然なことである。〉」(注③)と述べられいる。また、『自書・巻3・場帝上』 によれば、幽囚は、「上好學、善説文、沈深嚴重、朝野屡望。 (学問を好み、文章を書く. ことにも、たけているし、思慮深く、人民の人望もある。)」とあり、『旧六書・巻10 1・辟登伝』によれば、「場帝嗣興、又礎宗法、置進高等科。 (場帝は、世継ぎをたてて、. 以前の法を改めて、進士などの科目を設けた。)」とあり、場帝自身が文学を好み、進士 科を置いたことは事実であるようだ。しかし、階代に詩や賦を試験したという史料はない。. 一112一.
(3) もちろん、記載がないからといって、詩や賦を試験しなかったとも言い切れるものでもな い。萢文瀾氏の説にしたがえば、蝪帝自身が文学を好んだのであれば、詩や賦を試験した 可能性は充分、考えられることである。. どちらにしても、科挙の試験科目にあった詩や賦が、《切韻》から《大宋重修広韻》へ の韻書の発展に大きく寄与したと言えるのではないだろうか。. 3.科挙と唐詩との関係 唐詩の特徴はどのようなものであろうか。馬積高氏によれば、「盛唐的詩確実気象比較 宏闊、反映的生活面比較深山、中唐巳鳥山、晩唐則更趨繊巧狭窄。 (盛唐の詩は、気象 (詩全体から感受されるような生気のようなものをいう)が広く生き生きとし生活面が反. 映して比較的深くて広い。中唐は、すでにやや劣り、晩唐は、さらに繊細で精巧になり狭 く小さいものへと向かっている。)」 (注⑤)と述べられている。. 盛唐とは、いつ頃を指すのであろうか。「玄宗が実権を握った唐隆元年(710)から 開元・天宝の盛世、安史の乱を経て丸丸元年(765)に至るまで」 (注⑥)を指す。ちょ うどこの時期は、李白や杜甫が活躍した時期と一致する。科挙試験において詩や賦が課さ れたことが、唐詩の発展に大きな影響を与えたことであろう。. 唐詩の発展に寄与したものとして、行巻があげられる。行巻とは、「科挙の受験者が自 分の文学作品に手を加え、清書して一巻にしたうえ、試験の前にそれを当時の政治・社会・ 文壇において高い地位を占めていた人たちに送ったもので、彼らから主司、すなわち試験 を主宰する礼部侍郎に推薦してもらうことによって、合格の可能性をいっそう高めるため の一つの手段」(注⑦)である。これは、何度も詩を作ることになるので詩文の能力を高 める効果をもたらしたのではないだろうか。生き生きとした生活を反映した傑作が生まれ た可能性もある。. しかし、一方で弊害ももたらす。劉三振氏は、「二名法(氏名を隠してしまう方法)は、 わずかに吏部の試験のみで用いられた。したがって、「直感」が流行することになったが、. これは、一種の事前活動であり、公正な評価を妨げたと指摘し、試験の前から合格者が決 まるようになり、試験は形骸化していった。」(注⑧)と述べられている。もちろん、何 事も一長一短であり、良い面ばかりでなく悪い面も必ずあるものである。. 唐詩にとつでは、科挙試験が弊害であった可能性の方が大きいのではないだろうか。馬 積高氏の考えによれば、自由な文学活動の妨げになったのではないだろうか。. 3.おわりに 唐詩については、勉強不足から充分な検討ができておらず、今後さらに検討する必要が あるものと考えている。. 試験は、学問について一定の成果をあげることは事実であるが、逆に弊害ももたらす。. 一l13一.
(4) 何が成果で、何が弊害であるかについては、ある価値基準の上に立たざをえない。その価 値基準が正しいのかどうかも、さらに検討を要する。一つのものをある立場から見れば成 果であると言えても、ある立場からみれば弊害であるとも言えるのではないだろうか。ど ういう立場に立って、どのように検討するのかを今後、さらに検討していきたいと考えて いる。. 試験に求められるものは、公平性ではないだろうか。これは、誰もが納得できる価値基 準である。しかし、いったい何が公平性なのか、これについても定義することは、非常に 困難ではないか。仮に、公平性というものがあったとして、それを実現することも、また 極あて困i難なことである。. 階代から始まった科挙試験であるが、唐代にはいって、この公平性を実現するべく様々 な改革が行われている。もちろん、その後の王朝についてもしかりである。しかし、今日. に至っても、この公平性は実現されているであろうか。もうすぐ、21世紀、科挙が実施. されてから1400年以上も経過している。公平性という要求があったにしても、あと1 000年以上経過しても、これは、実現できないのではないか。悲観的ではあるが、試験 がもつ限界性があるように考えている。. 最後に、宮崎市定氏の『科挙』 (中公新書・1963年)の一節を引用しておく。 「ど うも試験というものには、その効果に一定の限界があるらしい。あまりに競争が激しくなっ てくると、もう厳密に答案の出来不出来の差等をつけることができなくなり、合格しても まぐれあたり、落ちるのは不運ということになって、そこに不正のつけこむ隙もでてくる のである。」. (注). ①宮崎市定著『科挙一中国の試験地獄一』中公新書、1963年 ②意思敬著、慶谷壽信・佐藤進編訳『音韻のはなし一中国音韻学の基礎知識』光生館、. 1987年 ③萢文亀著『中国通史(第三珊)』人民出版社、1965年 ④李新臨画『中国科挙制度史』奥津出版社、1992年 ⑤馬積高著「唐代的科挙考試与詩的繁栄」 (唐代文学論叢3)1983年 ⑥興北柏著『中国文学を学ぶ人のたあに』世界思想社、1991年 ⑦程千帆著、松岡栄志・町田隆吉訳『唐代の科挙と文学』威風社、、1986年. ⑧世智亭著『唐代科挙制度及其流弊』(陳西師範大学報)1983年. 一114一.
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