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支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程(1) : おかゆの会 7年のあゆみから

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(1)Title. 支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程(1) : おかゆの会  7年のあゆみから. Author(s). 北川, 和博; 二宮, 信一. Citation. 釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第43号: 35-50. Issue Date. 2011-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2878. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第43号(平成23年度) Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.43(2011):35-50. 支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程 -おかゆの会 7年のあゆみから- その1 北 川 和 博1・二 宮 信 一2 1 2. 帯広市立啓西小学校. 北海道教育大学釧路校地域学校教育専攻. Birth and developing process of regional association that supports it each other (1) Kazuhiro KITAGAWA1 and Shinichi NINOMIYA2 1 2. Keisei Elementary School in Obihiro, Hokkaido. Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. 要 旨 「おかゆの会」は、 「子どもの居場所・活動拠点づくり」を目的として、保護者、教育関係者、教育委員会のスタッフな どの協働によって2003年4月に幕別町に設立された地域の任意団体であり、「障がい」のある子どもたちや「不登校」 「ひ きこもり」の子どもたちの活動拠点として活動している。また、保護者・関係者の学習会や講演会の開催、各種イベント への参加など幅広い活動を展開している。 地域における人と人のつながりが弱くなってきている現代社会において、市民と行政の協働の動きの中で自立した個人 が地域の課題に主体的に関わる「新たな支え合い」が求められている。そこで「おかゆの会」という地域のアソシエーショ ンがいかに誕生し発展していったか、その条件について7年間の活動の分析から検証した。それぞれの立場の関係者が、 自ら学びを深めていった時期、それぞれが協同で学び合っていた時期、また保護者と関係者が出会い、具体的な地域実践 の議論の中で互いの利害を超えて繋がり、成長していった時期があり、それらが「おかゆの会」を誕生させ、発展させて いくための条件であったことが明らかになった。また、そのような中で、行政がいかに地域住民主体による地域づくりを 支えていくかが重要な鍵であることも示された。. 1.はじめに. 2.目的. 近年、様々な分野において、市民と行政の協働の動きが. 筆者(北川)は十勝管内幕別において「子どもの居場所・. 加速している。この動きは地方分権時代に入り行政が意識. 活動拠点づくり」を目的とした「おかゆの会」を設立し活. し始めた「まちづくり」の考え方が、様々な分野において. 動を重ね、その活動も8年目を迎えている。この活動は、. 波及していると考えられる。特に地域福祉の分野で、自立. 障害のある子ども・青年たち、不登校・引きこもりで悩ん. した個人が地域の課題に主体的に関わり、支え合う、地域. でいる子ども・青年たちと保護者と、地域の教員や保育士、. における「新たな支え合い」 (共助)の領域を拡大し、強. そして教育委員会が、同じ課題意識を持って始めたボラン. 化することが求められるようになってきている。しかし、. タリーアソシエーション型組織である。. 地域のつながりが弱くなっている現代社会において住民自. 今回、この「おかゆの会」を事例に、会が誕生していく. 身が主体となって、自発的に共通の課題認識に立って活動. 以前のそれぞれの人の歩みから、人と人がつながり合流し. を築いていくこと自体が難しくなってきているといえる。. て組織を誕生させていく一連の流れ、そして誕生後の発展. この住民自身が主体となってボランタリーアソシエーショ. 過程を検証し、地域のボランタリーアソシエーション型組. ン型組織を誕生させ発展させていくためにはどのような条. 織の誕生とそれを発展させるための要件を導き出すことを. 件が必要なのだろうか。その条件を検証することは、人と. 研究の目的とした。. 人のつながりが弱くなっている地域社会に対して意義があ ると考えた。. 3.方法 おかゆの会については、その会の独自性や発展性から小 川幸裕1)2)3)4)5)6)、小川恭子7)、高山8) らのいくつかの先. - 35 -.

(3) 北 川 和 博・二 宮 信 一 行研究が存在する。これらの論文を筆者なりに総括すると. エンゲストロームは、集団的であり、人工物(ツールや. おかゆの会は設立の背景として「人的条件」と「空間的条. 記号、コンセプトやテクノロジー)に媒介され、対象(目. 件」が整い、そこに集う人たちの「期待感」が生まれたこ. 的・動機)に方向付けられた「活動システム」を図1のよ. と、そして行政的支援を受けることができたことを明らか. うにモデル化している。この活動システムは、個人を単位. にしつつ、準備から3年目までの活動の中で、市民と行政. とした刺激と反応の図式ではなく、人間の協働的・実践的. による連携・協働が認められ、その協働によって「居場所. な「活動」を表現したものである。図1に示した「対象」 は、. 的機能」 「エンパワメント機能」 「社会福祉拠点機能」を兼. 集団的活動がめざしていく目的や動機のことであり、「主. ね備えた場が創り出されたことを整理したものとみること. 体」がその「対象」に働きかける時に媒介や手段となるも. ができる。そして、その中でエンパワメントされた会員の. のが「人工物(物質的な道具や資源、コンセプト、ヴィジョ. アイデンティティ形成に影響を与え、会員相互の関係性が. ン、理論等) 」である。そして「主体」 「対象」 「コミュニ. 共生世界を創り出すまでになっていることを示したといえ. ティ」との間でつくりだされ、互いに媒介しあっている逆. よう。. 三角形が活動システム基本関係となっている。この「コミュ. しかしながら、これらの研究が、会の独自性や発展性、. ニティ」は活動システムに加わっている諸個人のグループ. 会員同士の関係性については分析・検証したものの、観察. であり「対象」の共有によって特徴付けられ、 「ルール」は、. 期間が主に会の第1期といえる設立準備段階から設立3年. 活動システムの内部で諸個人の行為や相互作用を制約する. 目の活動検証であったことやインタビューがおかゆの会誕. もの、 「分業」は知識や課題や作業の水平的な分配、およ. 生以前の人の歩みとつながりについての聞き取りが不十分. び権力や地位の垂直的な分配のことである、としている。. であるために、会の誕生を可能にした背景や、なぜ発展し ていく中で居場所機能やエンパワメント機能を持ち、更に 共生的な関係を持つに至ったかの十分な検証はなされては いなかった。また、教育委員会の支援に関しても、地域分 析の視点が欠けているために、なぜそのような行政からの 支援が可能になったのかの視点が欠けていた。 筆者は、会の事務局長として会の誕生から現在に至るま で、その運営に携わってきた。今回の研究で会の誕生と発 展過程を検証するために、保護者や関係者へ主に会が誕生 するまでのそれぞれのインタビュー、そして、会の役員会 資料、会報、5周年記念誌等の記録を元にしながら、会の 誕生と発展過程を再構成していくことにした。尚、今回お かゆの会の誕生過程や発展の背景を検証していく中で、人 の成長過程や組織が誕生し合流していく過程について、鈴. 4.幕別町及びおかゆの会の概要. 木の「自己教育活動」と、 エンゲストロームの「活動理論」. (1)幕別町の概要. を参考にしながら分析を試みることとした。 この鈴木の「自. おかゆの会が誕生した幕別町は、北海道東部十勝管内の. 己教育活動」とエンゲストロームの活動理論の概要は、以. ほぼ中央に位置し(図2) 、町は本町地区・札内地区・忠. 下の通りである。. 類地区の3つの地区から形成されている町である。 (図3). (1)鈴木敏正の「自己教育活動」9). 人口は27,362人、世帯数は11,398世帯(2010,4)となって. 鈴木は、自己教育活動とは意識改革をとおして自己教育. いる。札内地区が帯広市に隣接しているために帯広のベッ. 主体になっていく過程であるとし、その過程は、日常にお. ドタウンとして人口が増え続けている一方で、他地域と同. いて「なりゆきまかせの客体」となっているような無意識. じように幕別町においても少子高齢化が進んでいる。. や虚偽意識の状態を脱して、. 幕別町は近年1996年の開基百年、2006年の忠類村との合. (イ)まわりの世界を批判的に捉え返して問題や課題を意. 併という、「まちづくり」についての節目があった。その 中でこれまで行ってきた「まちづくり」の振り返りと今後. 識し(意識化) (ロ)自分についての理解を深め、自らの力を信頼し(自. を展望し2000年に「幕別町まちづくり町民参加条例」の施 行、2005年には忠類村との合併に伴って「新町まちづくり. 己意識化) (ハ)自分たちに必要なものを現実的に、協同して創造す. 計画」を策定している。 その条例や計画の中で、地方分権時代を見据えた「まち. ること(現代の理性形成) (ニ)何のために何をどのように学習するかをみずからの. づくり」の方向性として「町と町民による協働によるまち. ものとしていく(自己教育主体形成)といった過程. づくりの推進」を大きな柱にしている。この「町と町民に. をたどるとしている。. よる協働のまちづくり」という行政のスタンスが、おかゆ 10). (2)エンゲストロームの活動理論. の会を誕生させる一つの背景になっていたと考えることが. - 36 -.

(4) 支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程 できる。そしてこの「町と町民の協働の町づくり」の根幹. 住んでいる1人ひとりが主役であり、子どもの成長をま. となる「人づくり」や「人と人のつながり」を意識して取. ち全体で支え、包み込むことが大事だと思う。そのため. り組んでいたのが、教育委員会であった。. には、各地域でさまざまな取り組みを展開し、『努力と いう水をかけて、幸福という芽を出し、花を咲かせるこ と』が教育委員会という行政の務めであり、教育委員会. 図2 幕別町の位置. の形骸化からの脱却への道だと考える。」 そのS氏が教育長時代にこのことを具現化したものとし て2005年度幕別町教育行政執行方針がある。その中の教育 行政に対する理念として、「21世紀を生きる子どもたちの ために『教育の風は幕別から』 『教育に贅沢なし』を合い 言葉に、幕別ならではの教育の創出に向けて努力する」と 表現し、まちの宝である子どもを主役とした幕別町独自の 取り組みをしていこうという意志が表現されている。その 一方で地域の現状として「青少年の凶悪な犯罪が新聞等を 賑わすことが多くなっているし、いじめ、不登校、引きこ もり等、青少年を巡る問題は憂慮すべき状況にある。この ことは、地域に住む身近な人同士のコミュニケーションの (幕別町町勢要覧2008資料編より抜粋). 減少、地域コミュニティの空洞化などと決して無関係でな いことから、地域のコミュニティを回復させ、活気ある地 域を取り戻すために、社会の問題を自分自身の問題と考. 図3 幕別町地形図及び隣接市町村. える『新しい公共』の観点に立った自主的、自立的な地域 づくりの取り組みと、その地域にかかわるあらゆる主体と の協働による地域づくりに向けた継続的な活動が必要であ る」とのべ、現状として「人と人のつながり」の弱さを指 摘し、社会の問題を自分自身の問題として考えることがで きる「人づくり」と「人と人のつながり」の重要性を指摘 している。 このように見てくると幕別町のまちづくりの基本理念で ある「町と町民の協働」、そしてS氏の「子どもは町の宝」 「教 育の風は幕別から」 「教育に贅沢なし」という理念、幕別 の教育行政執行指針の中に見られる理念、それらを具現化 したものの一つがこれから検証していくことになる「おか ゆの会」であったといえる。 (3)おかゆの会の実践概要 ①会の理念・目的 (2)幕別町の教育風土. おかゆの会は「子どもの居場所・活動拠点づくり」を目. おかゆの会の設立に関与し、1995年から2005年まで幕別. 的に2003年4月に設立され、活動は主に幕別町教育委員会. 町教育委員会教育長であったS氏は、その著書「子どもと. が管理している民家(名称「まっく・ざ・まっく研究所」. ともに創る学校」の中で、幕別町のこれからの教育行政の. 以下 まっく・ざ・まっく)を拠点としている。会の理念・. あり方として、地方分権の時代にあった教育委員会と学校. 目的は設立時に作成された「設立趣意書」の中に以下のよ. 現場の新しい関係性と意識改革の必要性を次のように述べ. うに整理されている。. 11). 「様々な理由から、周囲の関係の中でつまずきやすい. ている 。 「これからの教育行政は教育委員会と学校現場とを上. 子どもたちが、生き生きと活動する拠点を探せずにいた. 下の関係ではなく、対等でオープンな関係でとらえなが. り、自分の居場所や行き場所を見失っているという状況. ら、前例踏襲という過去志向ではなく未来志向を持つこ. があります。また、地域の中で子どもたちが集い、そこ. とが大切である。そして自分たちで物事を決め、自分た. で育ち合っていくような環境が年々減少しているという. ちで執行し、最後に自分たちで責任をとる『自己決定・. 状況もあります。このような状況を少しでも改善し、 『子. 自己責任』の原則を貫徹する力量を持つことが肝要であ. どもたちの生きていく糧となるような居場所づくりや活. る」とし、著書の最後をこう締めくくっている。. 動を展開したい』という願いは日頃子どもたちと生活し. 「子どもを”まちの宝”として育てるには、幕別町に. ている保護者の方々、関係機関の方々がそれぞれ長年抱. - 37 -.

(5) 北 川 和 博・二 宮 信 一 いていた夢希望でもあります。そのためには周囲の理解. ラムは特に決まったこともなく、大まかに「外での活動」. と平行して、今困っていることに直面している子どもた. 「室内での活動」に分かれて活動し始め、会員がそれぞれ. ちに大人として何ができるのかということに目を向けて. 自分のやりたいことを自由に選び活動していく。そして決. いかなければなりません。色々な理由で様々な個性があ. められた時間に集合しておやつを食べて解散するという緩. るために生き生きと活動する場所が限定されてきたこと. やかな活動で展開されている。. は、同じ時代を生きている大人としてしっかりと考えて. 設立2年目からスタートした活動として「まっく・もっ. いかなければならないことです。子どもたちが生き生き. く」がある。この活動は、当初近隣で借用した畑の管理運. とした夢と希望を持った人生を送れるよう、環境を保障. 営のために保護者が毎週木曜日の午後に「まっく・ざ・まっ. していくことはわれわれの責任であり、願いでもありま. く」に常駐したことがきっかけとなった。そこへ作業所の. す。子どもたちが『生まれてきてよかった』と思い、家. 仕事を終えた青年たちや不登校・引きこもりで悩んでいる. 族が『この子を授かってよかった』と思い、周りの人が. 子ども・青年、近隣の小学校の特別支援学級に在籍する子. 『この子に出会えてよかった』と思えるような環境を共. どもたちが放課後の活動場所として集うようになっていっ. に築いていきませんか。 」. たのである。畑の管理運営という役割を終えた2005年から. また趣意書と同時に作成された会則の第2条(目的)と. は、仕事後や放課後の居場所としての機能へと移行し現在. して「本会は、会員相互の学び合い、育ち合う活動と、理. に至っている。活動の運営を担っているのは保護者で、自. 解されにくい子どもたちへの理解が深まるような啓発活動. 身の子どもがすでに高等養護学校進学や就労を迎え、子育. に努め、支援の輪を広げることを目的とする。 」とし、第. てから手が離れた時期となっていることからこの活動を切. 3条(事業)でその目的達成の事業として「1,子どもた. り盛りすることを可能としている。毎年の回数は約40回で. ちの活動の拠点づくり 2,会員の親睦と研修 3,理解. 毎回2名~ 10名ぐらいの利用があり年間で述べ500 ~ 600. されにくい子どもへの理解が深まるような啓発活動 4,. 名となっており、この活動も「おかゆの会」にとって大き. 義務教育終了後の活動拠点づくり 5,その他、会の目的. な役割を果たしている。. 達成に必要な事業」をあげている。このように「設立趣意. これらの活動以外にも、会員の声や他団体とのつながり. 書」 「会則」の中に会の理念や方向性が示されているわけ. から誕生し、その後定着していった活動として、 「畑作業」. であるが、設立された当初から会員として想定された対象. 「ダンスチーム結成」 「青年合宿」等があり、会員相互の. を「障がい」のある子ども、 「不登校」 「引きこもり」を中. つながりが深まるきっかっけを多く創り出していっている. 心にしながら、あえて明確に枠を限定していないことや、. ことがわかる。. 事業内容も「子どもの活動拠点づくり」を第1に掲げるこ. ④運営資金. とで、集う会員の状況によって柔軟に対応できる余地があ. 運営資金は、基本的に会員と賛同会員の年会費と共同募. ること、保護者と関係者が共に学び育ち合いながら会を運. 金助成で運営している。設立から4年間は、幕別町教育委. 営していくことが示されている。このように設立時より会. 員会からの様々な助成金や補助金の情報提供を受け申請し. 員の障害種にこだわらず、保護者と関係者による会の運営. てきたことや、教育委員会の呼びかけに応じた町の校長会. など、他の会にはない独自性を持った理念と方向性を持っ. や教頭会からの支援を受けてきたことで会の基盤を作って. ていたことがわかる。. きた。そして会の運営の基盤が整ってきた4年目以降は、. ②会員. 会員・賛同会員と共同募金助成のみで活動を行っている。. 会員数は設立当初70名程であったが2年目以降は150 ~. 会員数が150名近くいる会が、わずかな運営資金で活動が. 170名前後で推移している。会員の内訳は、特別支援学校・. 順調に展開できている背景には、通常このような会が支出. 学級に在籍していたり、不登校や引きこもりで悩んでいた. しなければならない会場費・施設使用料及び備品使用料な. りする子どもたち・青年たち、地域の作業所に通所してい. どが、活動拠点となっている「まっく・ざ・まっく研究所」. る青年たち、そして保護者・関係者・学生ボランティアと. を光熱費等も含め無償で借用できていることや、町内の公. なっている。. 共施設を利用した活動をする場合、施設利用費の免除が受. ③活動概要. けられるなどの幕別町教育委員会はじめ地域の関係機関、. 会の設立当初から活動の中心は、子どもの活動拠点や居. 住民の理解ある対応に負うところが大きい。. 場所づくりを目指した「子ども広場」である。 「子ども広 場」は毎月1回行われ内容は当初「まっく・ざ・まっく」. 5.おかゆの会誕生前史. を拠点とした活動を中心としていたが、現在は「まっく・. おかゆの会が誕生するまでに、保護者と関係者がどのよ. ざ・まっく」を拠点とした活動が年5回、地域イベントへ. うなあゆみを経て共通の活動や思いに到っていったかを、. の参加を主とした活動が年2回、大きな行事としてサマー. 会の中心的役割を担っている4名の保護者(40~50代、母. キャンプ、バスツアー、クリスマス会等を行うなど内容も. 親)と2名の教育関係者(40~50代)へのインタビューや. 広がりを見せている。子ども広場への参加は強制ではなく. 役員会記録、会報、5周年記念誌等の資料に基づき再構成. 毎回30 ~ 80名の会員が集っている。毎回その日のプログ. し検証する。. - 38 -.

(6) 支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程 (1)保護者のあゆみ. ビューの中で述べられているのは「理解ある教員との出会. ①保護者の歩んだ時代. いと学校での対応」のことが多く、そのことが保護者の大. 知的障害児・者の親の会の歴史的な変化と、親の会の志. きな関心事となっていた。. 向の変化を考察した嶋崎は、歴史的な流れから制度変革・. しかし、教員や学校の理解や対応が時として保護者と子. 自己変革の変化の過程を大きく2つに分けて考えると、. どもの精神的な負担になってしまうことも多く、そのこと. 1950年代最初の「親の会」の発足の時期と社会福施策その. が、同じ悩みを持つ保護者同士の接点やつながりを強く意. ものが在宅福祉・地域福祉型へと転換した1970年代以降で. 識する機会となっていくものと考えられるが、 「手をつな. は、制度変革の運動目標自体に変化があり、それに伴って. ぐ親の会」についてのインタビューの中では、親同士のつ. 12). 親たちの自己変革も転換する と指摘した。おかゆの会の. ながりがお互い顔見知りになる程度の接点しか語られてい. 中心を担っている保護者の多くは、1980年代後半に子ども. ない。中でもAさんが地域を出て他地域の親同士のつなが. が誕生し療育を開始していることから、時代は施設入所か. りを求めていることからも、当時の地域の「手をつなぐ親. らノーマライゼーションの社会へ進もうとしている中での. の会」が悩みを共有し課題を解決してくれるような場では. 療育であり、親の志向も入所を望む時代から地域の中で過. なかったことを物語っている。. ごすことを望む志向に変化し、そのことを前提としながら. ④義務教育終了後. 子育て・療育を始めていたと考えられる。. 4人の子どもたちの義務教育終了後の選択は、地元の近. ②乳幼児期. 隣市町村に障害のある子どもたちを受け入れる高等学校が. 4名の保護者のインタビューから子どもが誕生し発達の. ないということから住み慣れた幕別町から約20km離れた中. 遅れや障害を告知された時、 「どうして我が子が」 「やっぱ. 札内高等養護学校への進学ということで共通している。こ. り」 「もう少ししたら追いつく」 等、 それぞれの母親がショッ. の頃から保護者たちの関心事は高等養護学校卒業後の地域. ク・落胆・否認・不安という混乱の中にいたことがわかっ. 生活や親亡き後の地域生活という子どもの「自立」や「就. た。その混乱した気持ちの中、少しでも追いつくようにと. 労」そして「地域生活」という障害者を抱える家族にとっ. 向かわせたのが早期療育であった。多い人で5カ所、少な. て共通の大きな課題へと直面していくことになる。この大. くても2カ所の療育機関をかけ持ちしていた。しかし、当. きな課題に向かっていくためには家族単位では限界がある. 時の幕別町本町地区には乳幼児の療育機関はなかったため. という危機意識が高まり、顔見知り程度であったつながり. に、住んでいる地区から約7kmから20kmも離れた場所へ. が、中札内高等養護学校で同じ町村の保護者が集い始め、. 行っている。まさに療育に駆け回る日々であったことがわ. 地域の情報を共有しながらつながりを深めていくというこ. かった。しかし、この4名の保護者は、同じ町に住み、同. とに発展し、学年が同じであったり、同じ時期に進学した. じ場所の療育機関を利用している時期が重なっていたので. りした人たちがそれぞれに情報を提供しあうことによって. あるが、地区の違い、年齢の違い、編成されたクラスの違. 点が線になり、その後の2000年の「あいねぎの会」の設. いで当時は全く接点が無いことがわかった。また、ことば. 立や、2003年の「おかゆの会」設立、2006年の「NPO法. の教室の親と教師で組織されている「ことばを育てる親の. 人幕別町手をつなぐ親の会 幕別町地域活動支援センター. 会」にもそれぞれ入会し行事などで顔を合わせているはず. 『ひまわりの家』」設立へとつながっていくのであった。. であるが、インタビューの中ではこの会に関する記憶も少. ⑤保護者のアイデンティティの成長と親同士のつながり. なく保護者同士の接点はない。不安と混乱の中「普通の子. 子どもの誕生から、義務教育終了後の地域生活に向けた. に追いつかせたい」 「治るものなら直したい」と親として. 活動までの保護者の成長とつながりの経過を概観していく. 可能な限りのことはしたいという思いから我が子の療育に. と、生きてきた時代背景や環境の変化によって「障害を知. 一心に向かい周囲を見るゆとりもなく「親同士のつながり. らされて」から子どものライフステージが進行していくこ. を考える余裕もなかった」というのが誕生から小学校入学. とによって、保護者の思いが「どうして我が子が」という. までの状況であったことがわかった。. 落胆・不安の段階から始まり、我が子の「療育・教育への. ③義務教育期. 関心」そして次第に我が子が将来生きていく「地域」へと. 小学校と入学と同時に通常学級在籍か特殊学級(当時). 向かっていったことが確認できた。また、それと同時につ. 在籍かという大きな選択を迫られることになる。インタ. ながっていく対象が、子どもが利用している「療育機関や. ビューに応じた保護者の子どもは4名の内、3名は入学時. 関係機関の人たち」から次第に同じ悩みを持つ「身近な地. 通常学級を選択しているが、1~2年後には特殊学級へ在. 域の保護者同士」のつながりへと変化していっていること. 籍を移している。特殊学級に在籍することにより、全国組. も確認できた。つまり、子どもの障害が知らされてから身. 織である「手をつなぐ親の会」の幕別地区の組織にそれぞ. 近な地域に療育機関がないために「乳幼児期の療育に駆け. れ入会している。入会することで、特殊学級合同行事で顔. 回る日々」を過ごし、義務教育機関での「就学の問題」 「子 、. を合わせたり、一緒に活動したりすることを通して、地域. どもと学校の関係の中で起こる様々な葛藤や課題」 、 「周囲. の同じ悩みを持つものとしての接点は生まれていった。し. に理解されず孤立した状況」という地域社会からの疎外状. かし、義務教育期間の9年間について、それぞれのインタ. 況をくぐり抜け義務教育を終了している。そして我が子の. - 39 -.

(7) 北 川 和 博・二 宮 信 一 成長という関心から「自立」 「就労」 「地域生活」という具. で24名、少ない時で4名の参加で活動している。「あいね. 体的な課題が浮かび上がってきた時に改めて視野に入り始. ぎの会」という組織は、その理念や会則から保護者たちが. めたのが、自分たちの住んでいる「地域」であったと考え. 共通の理念と目標を持ち自発的に集い営利目的ではない組. られる。そして地域の現状を意識した時に、 「我が子の将. 織であることから、佐藤が「人々が自由・対等な資格で、. 来への不安」というリアルな「危機意識」が芽生え、家族. かつ自由意志に基づいてボランタリー(自発的)に共通目. 単独では乗り越えられないという思いや地域における「課. 的のために結集する非営利的・非政府の民主的協同組織 (ア. 題意識」を持った時、保護者同士のつながりが動き始めた. 15) ソシエーション)」 と定義している「ボランタリーアソ. と考えられる。. シエーション」であり、その活動自体が障害者家族である. 親の障害の受け止め方、いわゆる障害受容について田中. ということから「なんらかの問題・課題を抱えている本人. 康雄は、キューブラーロスによる①「否認・拒否」②「怒. や家族自身が仲間同士で支え合うグループ」16) いわゆる. り」③「取引」④「抑うつ」⑤「受容」という5段階を紹. セルフグループということができる。活動としては主に地. 介し、更に6番目に「希望」という段階があることを指摘. 域で生活していくための情報交換や意見交流そして施設見. 13). している。 また、中田は親の内面には障害を肯定する気. 学とその報告会、そして年2回程度の親子レクレーション. 持ち(適応)と障害を否定(落胆)する気持ちの両方の感. を行っている。このように会の活動も順調に進んでいたの. 情が存在し、家族は紆余曲折しながらも螺旋の階段を登る. だが、設立して2年目を迎える頃になると、ある親が「あ. ように少しずつ適応へと進む14) としているのであるが、. いねぎの会ではグループホームが欲しいと全員がそう言っ. 今回インタビューした保護者たちもそれぞれのライフス. ていたんだけれど、何をどうしたらいいのかわからなかっ. テージにおける様々な出来事によって「適応」と「落胆」. た」とインタビューで語っているように、保護者同士の学. を繰り返しながら成長していっている姿が見えてくる。そ. び合いや活動だけでは前に進めないというジレンマを抱え. して、お互いの道のりにもそれぞれの課題解決の向き合い. るようになっていた。当初「地域でのつながりを確実なも. 方にも違いはあるが、同じ地域で同じ時代背景を歩んでき. のにし、交流し学び合う」という目的に向かって歩み始め. たことが、最終的に同じ条件の中で「我が子の将来への不. たわけであるが、その協同の学びが、次なる目標「子ども. 安」という「危機意識」が共有され引き寄せられるように. たちの地域生活への具体化」という段階へ導いていってい. 合流していった。そして、幕別町本町地区の障害のある子. た。この段階で参画していた保護者は、保護者同士のつな. 供がいる10家族が集い「我が子の豊かな地域生活の実現」. がりだけでは限界があるということを感じ、次なるつなが. という同じ思いと課題に向かって誕生したのが「あいねぎ. りを求める時期に至っていったと言えるであろう。. の会」である。この「あいねぎの会」の設立が田中(康). また、設立時の「あいねぎの会」をエンゲストロームの. が指摘している親の障害受容の最終段階として指摘してい. 活動システムモデルにあてはめモデル化したのが図4であ. る「希望」への第一歩であったと言える。表1は、その保. る。. 護者の成長とつながりの様子をまとめたものである。 図4 あいねぎの会設立時の活動システムモデル. 今までのつながりの少なかった地域の保護者同士が「我 ⑤あいねぎの会. が子の将来の地域生活」に対する「危機意識」を共有し「あ. 「あいねぎの会」は、2000年10月に幕別町本町地区の障. いねぎの会」という組織を作り出し、 「地域でのつながり. 害のある子どもがいる10家族が集い誕生したのであるが、. を確実なものにし、交流し学び合う」という対象に向かっ. 「おかゆの会」が誕生する2003年4月までの約2年間の間. て歩み出し2年間の活動を経た成果として「子どもたちの. に、定期的に月1回、合計約30回の会合がもたれ、多い時. 地域生活への具体化」という課題が浮かび上がってきたと. - 40 -.

(8) 支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程 言えるであろう。. られる。. (3)関係者のあゆみ. ①幼少期の記憶. ①関係者の歩んできた時代. 2人とも現在の「おかゆの会」の活動に関わる根源的な. 田上・高橋は、戦後障害児教育における言説を、4つの. 体験・経験としてG氏は親戚の中に障害のある子どもがい. 時代に区分し、「地域と教育」言説を構成する5つのファ. たことや通学路で出会う障害のある子どもとの記憶を次の. クターに分けてそれぞれ分析している。この分析によると. ように述べている。. 第1期(1950年~ 1960年半ば)は、特殊教育に対する無. 「小児麻痺の従兄弟がいて、あたしよりいくつ上なん. 理解・偏見・差別という根本的な問題のため特殊学級は学. だ…5つぐらい上なのかな…。中学校まで真駒内(養護. 校内でも孤立してしまう状況にあり、障害児の主体形成の. 学校)の方に行ったんだよね。池田で生まれ育ったんだ. 場は、地域はおろか学校内でも十分に保障されていなかっ. けれども、早くに親元を離れたんだよね。その従兄弟の. た。第2期(1960年後半~ 1979年)は、第1期の反省に. 存在もきっと直接的ではないけれども、影響はあると思. たち、障害児の学習権保障を軸として、学校において障害. う。それから私が小学校に通う通学路で毎朝中学校に通. 児の発達保障、 主体形成を保障しようとした。第3期(1980. う男の子との出会いがあった。それはお母さんがその子. 年~ 1990年初頭)は、ノーマライゼーション思想に基づ. を自転車に乗せて送り迎えをしていた。何か病気を持っ. く生活の質を高め、主体的な生活を送り、地域社会に参加. ていたんだね。きっと。筋ジスなのかどうかわからない. しようという理念に支えられ、社会的自立や、地域の理解. けれども。何かそれを、きっとつながっていると思う。. と交流を進め、障害児学校・学級が地域から理解されるこ. 今にね。それが何ていうの幼少期の自分の中に残ってい. とを通して障害児や障害児教育の理解・啓蒙を促進しよう. る記憶。今につながるものじゃないかと思う。」また、. としていた時期である。そして第4期(1990年代中期~現. 筆者は、学童期に公共施設での障害のある青年との出会. 在)になると、選択権、QOL、本人参加、アドボカシー. いの記憶を小川が筆者に行ったインタビューの中で次の. などの新しい理念を含みながら、インクルージョン社会を. ように述べている。「生まれたのが1965年。ちょうど障. めざす中で、地域における障害者の主体形成という課題を. 害児教育でいえば就学猶予免除の時代で、自分が子ども. 見通すに到っているとしている。17). 時代の風景の中に障害を持った人は身近にいなかった。. おかゆの会に参画している教育関係者のG氏は、50代の. でも今でも覚えていることなんだけれど、帯広には冬は. 中学校の養護教員である。また、筆者は、40代の小学校特. スケート場、夏はプールになる公共施設があって、そこ. 別支援学級教諭である。G氏と筆者が幼少期を過ごした時. でスケートをしていた時に自分の前を滑っていた青年が. 期は、第1期から第2期であり障害児者を取り巻く学校教. 突然転んで大きな声で泣き出したんだ。それが障害者に. 育や地域の状況は無理解・偏見・差別という中にあり、現. 出会った一番最初だった。そのことが、子ども時代の自. 在のように障害児者が学校や地域の中で過ごしている姿. 分にとって非常にインパクトがあって、気持ちの中に。. を見ることも難しい時代であったことがわかる。そして、. その印象って非常にね、鮮明に覚えている。なぜか、わ. 教員生活を始めた時期が、G氏は1979年の養護学校義務化. かんないんだけれど。そのときに、この人たちはどうやっ. の時期と重なり、筆者がその10年後の1989年であることか. て生活しているんだろうって、何となくそれを感じたん. ら、第3期から第4期のノーマライゼーション思想からイ. だと思う。よくよく考えたらそこなんだよね、障害児者. ンクルージョン社会をめざす思想の中を実践してきたこと. との関わりの根本は。」. になる。それは特殊教育の障害種別の専門性の追求の時代. 幼少期におけるこの2人の記憶は、その後の活動に少な. から通常学級も含んだ特別支援教育への移行期とも重なっ. からず影響を及ぼしていることがインタビューからもうか. ている。. がい知ることができる。幼少期を1979年の養護学校義務化. そして現在は、田上・高橋が指摘しているように「学校. 以前に過ごしてきた2人にとって、地域や学校で障害のあ. が中心となって地域との諸関係を取り結ぶようなことでは. る子どもや青年と出会う機会も少なかったことが逆にそれ. なく、地域における障害児の『主体形成』を核に、学校は. らの記憶を鮮明にさせていったと考えることができる。. それを支える重要な基盤であり、地域における障害児の主. ②子どもとの出会いが及ぼした自己教育活動の始まり. 体形成を支えるネットワークの資源として再定位し、相. G氏は養護教諭、筆者は特殊学級の担当者として教職の. 互のネットワーク構築の促進が学校の主要課題と考える時. スタートを切り、子どもと出会い教育実践を展開していく. 17). 代」 に至っている。. ことになっていくのであるが、ここで共通しているのは自. このことは、 これからの障害児・者を取り巻く教育は「地. 分の常識や考え方を根底から変えるような子どもとの出会. 域」がキーワードであり、その先にはインクルージョン社. いや出来事があったということである。G氏はある「場面. 会に向けた「地域づくり」が見えてくる。このような時代. 緘黙」の生徒が卒業式で初めて話をしたという出来事、筆. の流れは、学校教育という枠を超え個人の学びや協同の学. 者は教員となって初めて出会ったのが「登校拒否」や「自. びを求め、地域実践へと導かれていったG氏と筆者の実践. 閉症」であったということがインタビューで語られてい. や考え方にも大きく影響を及ぼしていっているものと考え. る。これらが鈴木の言う「自己教育活動」へと導かれるきっ. - 41 -.

(9) 北 川 和 博・二 宮 信 一 かけになったと考えることができる。2人は、学校現場で. を確保することが難しい立場であり、既存の組織に依存せ. 出会いとかかわりの中で、養護教諭、特殊学級教諭という. ずコラボレーションの活動自体によってお手製の『コミュ. 立場から知識や技術よりもまず自分自身と子どもとの関係. ニティ』を確保することを目指すと考えられる」19)と指. 性を築かなければならない状況に置かれることで、それま. 摘している。その状況は特殊教育を担当しているものにも. で自分自身が築いてきた「子ども理解」や「人間理解」と. 共通の感覚があり、通常教育の大きな流れが主流の学校現. 現実に向き合う子どもとのギャップに直面することになっ. 場において自分の心理的な居場所を求め既存の組織から出. た。. て他機関との学びの場を求めていったと考えることができ. 田中孝彦は「子ども理解」を深めていくために「子ども. る。. 理解カンファレンス」の機会を持つことの重要性を指摘し. G氏と筆者の2人にとって個人的な学びのレベルから協. ている。そして、それと同時に「教師たちが、子どもを理. 同の学びのレベルへと導いていったのが1998年12月に十勝. 解し、共に生きようとするならば、そうしようとする教師. の関係者と保護者によって設立された「十勝ADHD&L. たち自身が、自らの生活史・実践史を、その子ども時代も. D懇話会」であった。この学びの場が、G氏と筆者の接点. 含めて振り返り「負」の経験・感情も含んだ自己の生活感. を作り出したのである。表2が2人の足どりと自己教育活. 情を反芻し、人間の生存・成長にとっての本質的条件につ. 動についてまとめたものである。その学びの過程は、教師. いての洞察を深めることがどうしても必要であるとも考え. としての成長の過程であり、養護教諭、特殊教育担当とい. ている」18) と述べている。このことは、より個別性の高. う特殊性から、子どもとの出会いとかかわりによって「今. いかかわりを実践してきた2人にとって、 「子ども理解」. まで気にとめていなかったこと」や「無関心でいたこと」. と「人間理解」のギャップを埋めるために「自己理解」へ. に対する向き合いの繰り返しでもあり、そのことが今まで. の問いも繰り返され、 そのことから逃れられない状況が「な. の自分に対する「否定的な感情(自己否定) 」を呼び起こ. りゆきまかせの客体」という状況から一歩歩み出させたと. すことにもつながっていった。よってその学びと成長の過. いえる。そして、その意識化を引き出した根源は、自己理 解の過程の中で呼び起こされた幼少期の記憶の中にある漠 然とした弱い立場の人に対する出会いの衝撃と、自分の中 にある差別感や無関心さとの向き合いの中でそれらが交差 していったということも考えられる。 必要に迫られるようにG氏は教育臨床カウンセラー2級 や日本LD学会認定の特別支援教育士の資格取得へ、筆者 は北海道教育大学旭川校の特殊教育特別専攻科への長期 研修、アメリカで行われた「発達障害とLD問題国際セミ ナー」への参加、各種研究会や学会への入会等、個人的な 「学び」と共通の課題意識を共有できる人とのつながりを 求めて動き出している。これらの学びを通して自分自身と 向き合い、自分の限界も知りつつ学んだことを実践の中で. 程は技術を身につけ直線的に進むというより、自分自身と. 活かしながら自分自身の力量を自己意識化していったもの. の向き合いとの繰り返しの中で螺旋形のように進んで行っ. と考えることができる。そして、このことはやがて自己教. たと考える。. 育活動の次のステップとして「自分たちに必要なものを現. 表2で示したように、G氏と筆者は「十勝ADHD&LD. 実的に協同して創造する」という理性形成の段階へと導い. 懇話会」で合流する以前に、既存の学校現場における子ど. ていくことになったと考えられる。. もたちとの出会いから、 「意識化」から「自己意識化」の. ③協同の学びから反省的実践へ. 過程が導いた個人的な学びの段階があることが共通してい. 時代は1990年代後半に入り、不登校の増加、学級崩壊現. る。この段階がなければ、個人的な学習レベルで懇話会に. 象、発達障害の学校現場での認知、虐待の問題、そして子. おける「学び」を求めることになり、お互いが求める「学び」. ども自身が被害者になったり、加害者になったりするよう. の質と思いのレベルに差異が生じていた可能性があると考. な凶悪事件が多発する等、大人たちは子どもが分からなく. える。懇話会以前の「意識化」 「自己意識化」の過程となっ. なったと嘆く時代になっていった。これらの課題の一つ一. た個人レベルの学びの時期があったからこそ、共通のレベ. つどれをとってみても、学校現場だけでは解決できない問. ルで新しい活動の形成へと導かれていったものと考えるこ. 題ばかりで、養護教諭または特殊教育の担当者としてその. とができる。. 時代の波を大きく感じ取っていたG氏と筆者は、必然的に. ④十勝ADHD&LD懇話会. 学校現場以外の人たちとのつながりを求めて、動き始めた. 十勝ADHD&LD懇話会は1998年12月当時北海道立緑丘. のである。亀口は、養護教諭などの援助専門職は、その特. 病院医師のTY氏の呼びかけに応じた教育関係者や医療関. 殊性からして組織内で孤立し「ニッチ(心理的な居場所). 係者、福祉関係者が世話人となって準備委員会が立ち上が. - 42 -.

(10) 支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程 り、月1回の例会を中心に準備を進め2000年2月に正式に. て自分が住み、自分が働いている地域の当事者への支援活. 設立し活動を開始している。設立時の「十勝ADHD&LD. 動に対する関心へと導かれていくのである。そして2000年. 懇話会」を活動システムとしてモデル化したのが図5であ. 4月に筆者が幕別町に赴任することによって、懇話会活動. る。関係者や保護者がそれぞれの日常抱えている困難な課. でお互い顔を合わせていた保護者のAさん、すでに養護教. 題や矛盾を解決しようと他職種とのつながりを求め、 「十. 諭として幕別町内の中学校に勤務していたG氏が同じ地域. 勝ADHD&LD懇話会」という組織で合流し、まずは「他. で合流することになり、幕別町を拠点にした活動の可能性. 職種によるつながる場をつくり、交流し学び合う」という. が生まれていったのであった。. 対象に向かって歩み出したのであった。. このことは、懇話会での学びや活動を、鈴木のいう自己. この組織もまた「あいねぎの会」と同様に、共通の理念. 教育活動でいえば、 (ロ)自分についての理解を深め、み. と目標を持ち自発的に集い営利目的ではないこと組織であ. ずからの力を見直し信頼し(自己意識化)、(ハ)自分たち. ることから「ボランタリーアソシエーション」の一つの形. に必要なものを現実的に、協同して創造すること( 「現代. 態として考えられ、十勝という広域ではあるが、会員が新. の理性形成」 )の段階と見ることができる。そして、3人. たなつながりを求めて自発的に集まり交流し学び合うとい. が同じ地域を見つめだすことによって、 「理性形成」から. う、地域に根ざした研究組織の誕生を意味していた。. 具体的に(ニ)何のために何をどのように学習するかをみ ずからのものにしていく(自己教育主体形成)段階として 次なる目標「具体的な地域実践」へと必然的に導かれていっ. 図5 十勝ADHD&LD懇話会設立時活動システムモデル. たものと考えられる。この段階がG氏と筆者が実践の場を 学校教育という枠を超えた「地域でのつながり」を求める 時期であったといえる。 懇話会活動でつながりのあったAさん・G氏・筆者が懇 話会の学びとつながりを生かして地域での具体的な取り 組みとして企画したのが「幕別町子どもの育ちを見つめ る会」であった。この会は3人が尊敬していたYM氏(帯 広子ども研究所) 、TW氏(札幌学院大学教授 故人)を 招いての講演会を、幕別町で行うことを企画するために結 成した会である。十勝ADHD&LD懇話会の地域版を模索 するための会でもあったわけであるが、小さいながらも計 3回の講演会を行っている。この時すでに幕別町ではAさ んも含め親同士が集う「あいねぎの会」が2000年に設立し 会の活動は定期的に月1回のペースで学習会・講演会・. ていたので共通意識を持った親たちと、地域で何か活動し. 職種別分科会などを行っている。特に立場に分かれて話し. たい関係者が接近し始める最初のきっかけともなったとい. 合いを行う職種別分科会において、それぞれの立場で悩み. える。あともう一つの条件さえ加われば地域で何かの活動. や課題が共有化されていくことになり、そこで親の部会に. が実現できそうな雰囲気が出来上がってきていた。それゆ. 参加していたAさん、教育関係者の部会に参加していたG. え、この活動を「おかゆの会」設立への助走として位置づ. 氏と筆者は個人的な課題が誰もが抱いている悩みであり課. けることができるであろう。. 題であることに気づくことになった。当時代表であったT Y氏は、その著書で、 「今、子どもに向き合う専門職に求. 6.おかゆの会の誕生. められているのは、ドナルド・ショーンのいう技術的合理. (1)星槎国際高等学校視察. 性を求める技術的熟達者よりも行為の中の省察に基づき他. 筆者が幕別町に赴任した2000年、幕別町の教育研究所所. 職種と共に格闘する反省的実践家である」20) ことを指摘. 員に任命され2年間、町の教育研究活動に携わることに. しているのであるが、懇話会で関係者たちは共に保護者の. なった。その任務が終わる2002年3月に行われた懇親会の. 思いを聞きながら学び合う中で反省的実践家としての素地. 席で偶然隣に座ったのが当時幕別町教育委員会教育長のS. が培われていったものと考えられる。この協同の学びの時. 氏であった。自己紹介の後、これからの特殊教育のことや. 期がG氏と筆者にとって重要な位置を占めている。やがて. 不登校への対応などに話が発展し、芦別市でLDやADHD. 懇話会の活動は特殊教育から特別支援教育へと時代が加速. 等の発達障害の生徒や不登校の生徒を受け入れ開校3年目. していく中で、地域へ「子ども理解」のより質の高い情報. を迎えていた「星槎国際高等学校」の実践にまで話が及ん. 提供を一つの柱として講演会や学習会がメインの活動へと. でいった。その学校に興味を抱いたS氏はその場で視察研. シフトし始めることになる。学習を進め意見交流していく. 修の方向を打ち出したのであった。. 中で、自分自身の子育てや指導など具体的な実践上の課題. このように短時間で話が展開していった背景として、①. がそれぞれの立場で明確になっていき、そのことが、やが. 2001年に文科省に設置された「21世紀の特殊教育の在り方. - 43 -.

(11) 北 川 和 博・二 宮 信 一 についての調査研究協力者会議」が「21世紀の特殊教育の. 例上の財産でも普通財産でもない形として残していたので. あり方について」という答申を打ち出していたこと、②同. あった。. 年に不登校が全国で13万8733名となりその数がピークを迎. 「帰路途中の車の中でも『どげんかせんかいかん』と. えていたこと、③2002年4月からは学校5日制が始まろう. いう思いは、G先生、H先生、T課長の熱き会話から膨. としていたことがあげられる。このように教育界全体が大. らむばかりで、頭には企画室長時代に手がけた『まっく・. きな変化と打開策を求めていた時代であった。また、教育. ざ・まっく研究所』が思い浮かび、この研究所に『不登校、. 長が一教員の話を熱心に聞いた背景には、以前役場内で. 障がいを持つ子』の活動拠点を置こうという構想案を固. 福祉関係の仕事に従事した経緯があったことと、当時の教. めたのがきっかけで、それが今日のような『おかゆの会』. 育委員会が抱えていた課題が不登校・LD・ADHD等の対. に結びつくとは、予想もしていませんでした。」21). 応について対応策を思案していた時期であったからであっ. このように「星槎国際高等学校視察」という出来事が、. た。当時のことをS氏は「おかゆの会」5周年記念誌の中. 視察内容もさることながら、その道中や食事での意見交流. で次のように述べている。. 等を通して短時間の中で教員と教育委員会のインフォーマ. 「当時、教育委員会内部の検討事項の一つに、町内. ルな関係性を作り出している。その中で教育現場で直面し. における不登校や不登校傾向の児童生徒対策とLD・. ている具体的な課題と当時幕別町教育委員会が抱えていた. ADHD児の教育のあり方、学校週5日制に対する取り. 課題を結びつける場となっているのである。このことが教. 組みについてどうあるべきか考える時期でした。こうし. 員と行政が共通の思いを固め、ここへ保護者を加えた協働. た問題は、何も幕別町だけの問題ではなく全国的な傾向. の動きを始めるきっかけが生まれたのであった。. であり、国も都道府県、市町村などの共通の課題として. (2)まっく・ざ・まっく研究所とその周辺環境. その対策を行っていたが、その対策も手詰まり状態で、. 「まっく・ざ・まっく研究所」(写真1)は、幕別町札内. 発想の転換を求められていた時期でもありました。そう. 地区の東側に位置するスマイルパークという、パークゴル. した迷いと施策を打ち出せないジレンマにおちいってい. フ場、スポーツセンター、幕別町百年記念ホール(管内に. たとき、G先生、H先生との出逢いから、芦別に開設さ. は図書館・調理室・木工室・学習室・視聴覚室等がある). れた『星槎高校』の情報を得て、研修視察に行ったのが. を兼ね備えた公園の一角にある。. 平成14年7月でした。 」. 21). このような経過と背景から星槎国際高校への視察が実現. 写真1 まっく・ざ・まっく研究所. した。この時の視察メンバーは、 S元教育長、 T教育課長、 I教育主査、G教諭、そして筆者の5名である。視察の当 日は平日で生徒達の実際の授業場面を見ることができたわ けであるが、その時の様子をS氏は次のように述懐してい る。 「星槎(国際)高校では、かつて不登校、引きこもりを 経験・体験した生徒や様々な障害を持ち、周囲の理解を 得られない生徒が通信制ながらスクーリングで生き生 き、のびのび、キラキラした輝きの活動、授業を見て感 動いたしました。また、そのあとの校長との懇談でも、 聞くこと、見ること、なるほど教育とはこういうものか 等々、校長の熱き思いが言葉の一つひとつから感じ伝わ り、『どげんかせんかいかん(何とかしなければならな い) 』という思いで星槎(国際)高校を後にし、道中の中. ここを利用していく利点として、①百年記念ホールの付. や食事中行ったメンバーで意見交換を行いました。」21). 属施設として位置づけ、条例上の財産でも普通財産でもな い形として残してあったために、地域の福祉センターや公. この意見交換の中でS氏の脳裏に浮かんだのが現在おか. 民館、コミュニティセンターと違い、地域住民の利用や他. ゆの会が使用している建物「まっく・ざ・まっく研究所」. 団体利用があるための制約や時間的制限が無いために利用. である。この建物はS氏が役場の企画室長時代に手がけた. に当たっては自由度が高く、気兼ねなく使用できる状況が. 幕別町百年記念ホール建設時に、その土地を所有していた. あった。②周囲に民家が無く目の前には広い芝生があり周. 地主が立ち退いた時に残った家であった。この残った建物. 囲の環境に影響を受けずに気兼ねなく活動できる。③元民. を壊すか残すかが当時問題となり、①解体費用と残した時. 家であったので家庭的な雰囲気があり、おおよその生活で. の維持管理費の比較検討、②土地建物の売主の気持ちを大. きる備品が既に備わっていたために活動する状況が整って. 切にする、③建物を自由に使えるようにしたい というこ. いた。④多くの部屋があり、活動によって選べる空間が備. とを考え、百年記念ホールの付属施設として位置づけ、条. わっていた。⑤まっく・ざ・まっく研究所から歩いて移動. - 44 -.

(12) 支え合う地域アソシエーションの誕生と発展過程 できる範囲内に、幕別町百年記念ホール(図書室・調理室・. 員会のT氏やI氏のつながりから地域の保護者や関係機関. 視聴覚室等がある。 ) 、札内スポーツセンター、武道館、パー. の職員など会の中心メンバーとなる約20名の者が3回目の. クゴルフ場、テニスコートなど教育的施設が整っているた. 話し合いまでに顔を揃えていった。保護者としては、すで. め、活動のバリエーションが広がる可能性があることなど. に活動を開始していた「あいねぎの会」の殆どのメンバー. があげられる。. が合流し、関係者としては地域の教員、保育士そして帯広. 住田は「子どもの『居場所』は、子ども自身が解釈し、. 大谷短期大学の講師等が合流した。. 実感した自己受容感、自己肯定感、安心感、居心地の良さ、. 話し合いの中では、様々な立場・職種の人が集まり意見. 安らぎといった感覚的意味(主観的条件)を(関係性-空. 交流をしたのであるが、それぞれの背景の違いから今後期. 間性)という形で一体化された一組の客観的条件に付与す. 待する方向性に関して立場による意見の相違が出てきてい. ることによって形成される」22) としているのであるが、. る。保護者は「あいねぎの会」を設立し活動を初めて2年. 「まっく・ざ・まっく研究所」とその周辺環境は、当時集. が経過し、思いはすでに子どもたちが今後地域で暮らして. うことを想定していた障害のある子どもや青年、不登校や. いくための環境作りのために動き出したいが、親たちだけ. 引きこもりに悩んでいる子どもたちや青年たちに、安心感. の限界が語られた。教育関係者は、学校5日制における障. や居心地の良さ、安らぎといった主観的条件を十分提供で. 害のある子どもたちの放課後・休日の課題、不登校の居場. きる可能性を秘めていたことがわかる。また、子どもたち. 所という課題、LD・ADHD等の発達障害の子ども・青年. や青年たちを支援していく支援者にとっても他の公的施設. たちのための地域連携の課題や義務教育期間に生じる教育. と違って制約が少ないことや、周囲に民家がないために環. 背景に応じた課題があげられている。福祉関係者からは、. 境に左右されず活動できること、近くに様々な文化施設や. 幼児期の子育てに悩む保護者の居場所の課題や義務教育終. スポーツ施設があるため子どもや青年たちの動きに合わせ. 了後の障害のある青年たちの受け皿という課題など地域の. 柔軟に対応できる環境があり、関係性を築きやすく子ども. 実情に応じた問題があげられた。. たちや青年たちに自己受容感や自己肯定感を感じさせる条. このように出された思いや課題を一つにまとめ、今後の. 件が整っていると感じさせるものであった。. 具体的な活動を展開していくことの困難さも指摘される一. (3)おかゆの会設立に向けた役員会と趣意書の作成. 方で、「まっく・ざ・まっく研究所」とその周辺環境が集. 星槎国際高等学校の視察がきっかけとなり、教育委員会. う人たちに、自分たちが描く活動に期待感を抱かせ、 集まっ. より「まっく・ざ・まっく研究所」を紹介されたG氏と筆. たメンバーで具体的に「できることから始めてみよう」と. 者が中心となって、その利用を巡って話し合いの場を設定. いう共通認識が生まれた。そして、3回目の話し合いの中. していった。この話し合いは「おかゆの会」が誕生するま. でまずできることとして①クリスマス会の開催と来年の4. での8ヶ月の間に7回設定されている。その経過を示した. 月に本格的な会としてスタートさせること、②その準備と. のが表3である。. して出てきた意見や課題を一つにまとめる作業を行い「設 立趣意書」を作成し、理念や方向性を整理していくこと、 ③また実際の活動を通してその可能性を探るために12月か. 表3 おかゆの会設立までの動向 活 動 まっく・ざ・まっく 2002. 7 研究所見学 9. 9 第1回 話し合い. 参加人数. 内 容. ら月1回ずつ子どもや青年を集め活動の試みを始めること. まっく・ざ・まっく見学と説明を受 3名 ける. を決めている。. 4 名 施設利用について具体策を立てる. ②趣意書の作成. 9.30 第2回 話し合い. 7 名 意見交流. 4回目以降の話し合いは、月1回ずつの活動の試みとし. 10.18 第3回 話し合い. 18 名 意見交流. て「クリスマス会」 「子ども広場」の実施に向けた準備と. 11. 8 第4回 話し合い. 21 名 意見交換 クリスマス計画. 平行して、会設立に向けた会の方向性や理念を共有してい. 11.20. クリスマス会ボラン ティアと打ち合わせ. 7 名 学生ボランティアとの話し合い クリスマス会の計画・準備・意見交 流. 12.16 第5回 話し合い. 20 名. 12.21 クリスマス会. 57 名 ケーキ作り・ゲーム. 2003. 1. 8 1月の子ども広場. くための話し合いがもたれている。特に4~5回目の話し 合いから会の方向性として関係者の一部から「作業所設 立」を大きな柱とすべきという意見が出てくるようになっ た。この意見は「あいねぎの会」の保護者にとっても望む. 35 名 外遊び・室内遊び. 1.18 学習会. 30 名 支援費について 会として企画. べき方向性であったため作業所設立に向かうべきか、子ど. 2. 1 2月の子ども広場. 30 名 節分 豆まき. も・青年たちの居場所・活動拠点へ向かうべきかで迷いが. 2.14 第6回 話し合い. 23 名 趣意書の検討. 出てきた時期でもあった。しかし、月1回の子ども広場と. 3. 1 3月の子ども広場. 35 名 卒業・進級を祝う会. いう活動の試みを通して、話し合いに参加する人々の気持. 3.28 第7回 話し合い. 23 名 趣意書・会則の作成. 4.18 おかゆの会 発会式. 25 名 設立総会. ちは次第に「作業所設立」よりも「居場所・活動拠点」と いう気持ちへ傾斜していくのであった。その気持ちを更に 推し進めたのが「設立趣意書」の作成である。. ①1~3回の話し合い. 筆者が示した設立趣意書の原案を基に話し合いを行った. G氏や筆者、そして星槎国際高校視察で同行した教育委. のであるが、その反応の中に「家(うち)の子はダメかい」. - 45 -.

(13) 北 川 和 博・二 宮 信 一 という質問があった。それに賛同したのが「ダウン症」や. 拠点(就労に向けての準備). 「肢体不自由」の障害のある子どもたちの保護者たちで. 2 保護者・関係者の集い. あった。それは設立趣意書の原案を作成した筆者の思いが. ・学習会や講習会の開催 ・夢を語る懇親会. 障害の中でも「発達障害」に重点を置いていたことや「不. ・悩み相談・悩みを語り合う会. 登校」の状況説明をしたからであった。 「家(うち)の子は. ・カウンセリング ワークショップの会. ダメかい」の質問に導かれるように、 「文面に誰でも行き. ・ボランティアの方々への研修講座の開催. 来できるという視点が欲しい」 「文面にある『障がいがあ. 3 支援の輪を広げる. るために』 『学校に行けないために等々の理由から』とい. ・各種イベントへの参加・各種団体への啓発と協力. う表現は、障害児・者及び不登校を浮き立たせた表現であ. 4 未来に向かって. り、限定的になってしまう」という意見が交わされ、結果. ・義務教育終了後の地域体制づくり. その部分を「色々な理由で様々な個性があるために」と改. ・作業所の開設. められたのである。この一連の意見交流は会の理念を方向. ・星槎国際高等学校のサポート校. 付けるために重要な議論となった。この議論は地域の多様. ・子どもの育ちをライフステージごとに支援できる体制づくり. 性を改めて認識する場となり話し合いの参加者にとって、. ・子育て支援センター. 我が子の状況または自分が関心を持っている分野や視点を 広げることにもつながり、地域には様々な状況の中に子ど. ③話し合いと「設立趣意書」の作成がもたらしたこと. も・青年そして家族がいるという、ごく当たり前なことを. 設立趣意書という形で、課題が共有できた最も大きな要. 参加者が改めて認識していくことになったのである。最終. 因は、設立の話し合いに入る前に、保護者は「あいねぎの. 的には、会の設立を翌月迎えた3月に行われた7回目の話. 会」での協同の学びによって「我が子の地域生活の具体. し合いで、趣意書と会則の最終確認、役員名簿の作成を行. 化」へ、関係者は「十勝ADHD&LD懇話会」での協同の. うことで、会の設立へと向かった。以下が作成された設立. 学びによって「具体的な地域実践」へという「意識化」か. 趣意書である。. ら「自己意識化」を経て、自分たちに必要なものを現実 的に、協同でつくりあげていく「理性形成」の段階に到達 「おかゆの会 設立趣意書」. していたこと、そこへ教育委員会が当時抱えていた「不. 様々な理由から、周囲の関係の中でつまずきやすい子どもたちが、生. 登校やLD・ADHDへの対応や学校5日制への地域対応の. き生きと活動する拠点をさがせずにいたり、自分の居場所や行き場所を. 具体化」のために「まっく・ざ・まっく研究所」という場. 見失っていたりする状況がみられます。また、地域の中で子どもたちが. の有効活用の可能性を見いだし、提供していくことで、保. 集い、育ち合う環境が年々減少しているという現状もあります。. 護者・関係者・教育委員会が課題意識を共有することが可. このような状況を少しでも改善し、「子どもたちに生きていくための糧. 能になったと考えることができる。そして3者の思惑が具. となるような居場所づくりや活動を展開したい」という願いは、子ども. 体的な「地域実践」の形として表現されたのが「設立趣意. たちを育てている保護者の方々や日ごろ子どもたちに接している関係機. 書」であり、会則であったと考えることができる。山住は. 関の方々の多くが長年抱いていた夢ではないでしょうか。. 「分断された諸領域を占めている複数の活動システムの間. 様々な個性があるために生き生きと活動する場所が限定されてきたこ. には、多かれ少なかれはっきりとした、通過可能な境界が. とを、同じ時代を生きている大人としてしっかりと受け止め、周囲の方々. 存在している」23) と述べている。この場合、保護者・関. の理解が深まるような活動と平行して、今困っている子どもたちに大人. 係者が話し合いの前段階で「あいねぎの会」「十勝ADHD. として今何が出来るのか、ということに目を向けていくことが重要なこ. &LD懇話会」という学びの場を得ていたために、はっき. とと私たちは考えています。. りした通過可能な境界として「地域実践」を見定めていた. 子どもたちがこれから生き生きとした夢と希望を持った人生を送れる. ことと教育委員会は「地域の課題への対応」を明確に意識. よう、環境を保障していくことは私たちの責任であり、願いでもありま. していたために、お互いの境界を越えることが可能であっ. す。子どもたちが「生まれてきてよかった」と思い、家族が「この子を. たと考えることができる。このように考えると、7回に及. 授かってよかった」と思い、周りの人々が「この子に出会えてよかった」. ぶ話し合いと「設立趣意書」の作成過程は、関係者と保護. と思えるような環境を共に築いていきませんか。. 者そして行政がそれぞれの境界を越えて合流していく過程 2003年2月28日 おかゆの会準備委員会. であったということができる。 また、話し合いに参加している人たちが立場と職種の違 いがあることから、この話し合いはエンゲストロームが活. ○これからのとりくみについて. 動理論の中であげている「多声性」に満ちた集合体「多声. 1 子どもたちの活動拠点作り. の空間」を作り上げたと考えることができよう。. ・ 「障がい」のある子どもたちの活動拠点(放課後・休日・長期休業). 平山は「”多声の空間”では合意の不可能性が承認され、. ・ 「不登校」 「ひきこもり」の子どもたちの活動拠点(居場所づくり). そのうえで「決定」が下される。重要なことは、多声の空. ・子どもたちの育ち合い・学び合う活動拠点・社会に出て行く前の活動. 間における「決定」とは、合意の産物ではなく、多数の「声」. - 46 -.

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