第2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察 : 日本画家 小早川秋聲を通して
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(2) はじめに 目中戦争以降、多くの画家達が志願し、または陸海軍に委嘱されて従軍し、戦地を取材 して作品を制作したが、その作品群は一般には「戦争画」と呼ばれている。戦後、それら. の作品はGHQに戦争宣伝のための絵画であると認識され、接収、昭和45年153点が 無期限貸与の形で東京国立近代美術館に返還、収蔵されている。だが、その作品群は昭和. 52年、50点近くを一斉公開する予定であったが、急遽、「近隣諸国の国民感情に配慮 する」という理由で、その企画は見送られた。それ以降、「戦争画」は一斉公開されるこ となく、戦後、長い間タブー視されてきた。. 筆者も数点の「戦争画」を見た経験があったが、戦場の様子を写実的に描いた作品であ り、「戦時中、戦意昂揚の為に描かされたのだな。戦時中は軍部の統制が厳しくて、画家 たちも好きな絵が描けなかったのだろうな」くらいの認識でしかなかった。. それが、昨年、姫路市立美術館で行われた企画展「美術と戦争展」において、小早川秋聲. 作のr國之楯」という作品に接し、それまでの考えに疑問を感じた。 その作品には、真っ黒な背景に、一人の戦死した兵士が横たわっており、顔には出征時に 友人たちから贈られたであろう、激励の言葉の書かれた日の丸が掛けられている。一見、. 凄惨で、またその兵士の死を悼む印象の画面であった。その印象から「戦争画は戦争を賞 賛する目的で描かれたものとばかり言えない。こんな悲惨な印象を与える作品が、あの当 時、存在できたのか」という驚きすら感じたのだった。. それからというもの、その作品を制作した小早川秋聲という目本画家に興味を持ち、そ の他の作品や、その生き方、さらに、従軍していったその他の画家達について調べていこ うと思ったのが、今回の研究の動機である。. 戦後、長い間、日本史上はじめての敗戦というトラウマとアメリカの占領政策、ソ連と. 中国の宣伝攻勢から、「戦争」というものは「絶対悪」で、それについて知ろうとする事. や、語る事、考える事すらも「悪」と言った風潮が続き、悪い「戦争」が描かれているか ら、「戦争画」は「悪」といった、単純な二元論的な決めつけが行われてきた。. そして,筆者はそのような風潮に疑問を感じていた。. 今回の研究において、小早川秋聲をはじめ、従軍した画家達の生き様や作品を通し、「戦 争画」を単なる「戦争宣伝」と決めっけて見るのでなく、あの時代に描かれた美術作品と して見直してみる事、従軍した画家たちも、あの時代を懸命に生きていた一人一人の人間 であったと検証して見る事、これらがこの研究の目的である。. 一1一.
(3) 第一章 従軍画家について. 1節 昭和初期からの社会状況と戦局 (1)満州事変勃発 昭和という時代は、大正12年の関東大震災に始まり、翌、大正13年は、アメリカで の排日移民法制定、大正14年、治安維持法制定などと、暗い事件の続く中での始まりで あった。. 昭和2年の金融恐慌、そして、昭和4年10月、ウォール街での株の大暴落から始まった 世界大恐慌が波及しての不景気、東北、九州での農村部の不作、凶作など、大変な状況の 連続であり、国民の大半は、苦しい生活状況にあった。. 農業国であった日本の明治初期の人口は3,000万人であり、その当時は食糧が自給 できていた。しかし、昭和初期にはすでに人口6,000万人を突破、食糧や資源は不足 し、明治時代に始まった海外への移民も、アメリカでの排目移民法、排日土地法が成立す. るなど、困難な状況だった。当時の目本は新しい生活圏の拡大に迫られており、「満蒙は 帝国の生命線」と松岡洋右が発言したのもこの頃であった。. そのような状況下、関東軍参謀、石原完爾をはじめ、関東軍上層部は謀略により、昭和6. 年、満州事変を起こし、翌年、「満州国」を建国。「五族共和」をうたいながらも、事実 上、目本の植民地とした。. その後、国内においても、5・15事件、2・26事件など、体制に不満を持った陸海 軍の将校たちが、r昭和維新」を呼号し、テロやクーデター未遂を引き起こした。その背. 景には、単純に軍部の独走があっただけではなく、国内の長い不景気、農村の疲弊(全人 口の7割)を背景とした国民の不満が存在していた。農民の子弟たちが、徴兵制度下の陸. 軍には多数入隊しており、その悲惨な状況を聞き及び、生活を共にしていた若手陸軍将校 たちが、どのような感情と、考えを持ったかは想像できる。. 「昭和天皇独白録」で、今上天皇は、「あの戦争の遠因は人種差別問題であり、近因は経 済問題だった」と述懐している。. 眼を世界に向けてみると、世界大恐慌を引き金に、植民地を持つ国々は、本国の経済を 植民地とリンクさせ、経済を地域的にブロック化することによって自国の経済を守った。. 第一次世界大戦に敗れ、ベルサイユ条約によって莫大な賠償金を科されたドイツは、主 婦が買い物に行くのに乳母車一杯に札束を持っていった等のエピソードで語られるほどの ハイパーインフレーションに襲われ、国民は苦しみにあえいでいた。その国民の不満の中. で勢力を得た国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、政権を獲得、1933年(昭和 8年)、ヒトラーは首相に就任。ムッソリー二率いるファシスト党が政権を獲得したイタ. リアも、1934年(昭和9年)エチオピアに侵攻するなど、「持たざる国の生存圏の拡. 大」が始まった時代であった。また、中国では1931年(昭和6年)に毛沢東が党主席 に就任するなど、まだ、小さいながらも後の中国を決定していく新しい動きが見られた。 一2一.
(4) 目本、ドイツ、イタリアなど、のちに枢軸国と呼ばれた国に対し、イギリス、アメリカ、. フランス、オランダなど、のちに連合国と呼ばれた国々は、世界各地に植民地を持つ国々. であり、当時の戦略物資であったr石油」を持つ国々であった。 この時期は確かに、大正時代の好景気と自由な世相からは遠い、不況が続き、国内での 引き締めも始まり、暗い時代のように思われるが、目々の生活を生きる庶民にとっては、. やはり、普段の生活の中で、苦しいながらも楽しみを見つけ、懸命に生きていた時代と言 えるだろう。プロ野球球団が設立されたり、子供たちの問には「のらくろ」や「黄金バッ ト」が人気であった。まだ、排目移民法が成立したとはいえ、ヘレン・ケラーやベイブル ース、チャップリン等が来日するなど、目米関係は模索を続けていた時期であった。. (2)日中戦争始まる 昭和6年の満州事変以来、諸外国の眼は満州に向けられた。陸軍の一部の者たちは、そ の眼をそらすため、翌年、上海において武力を行使した。(上海事変)しかし、国際社会 は「満州国」を承認せず、昭和8年、日本は国際連盟を脱退した。. また、昭和8年、陸軍は熱河作戦において長城線を越えるなど、その行動は、長城線以 南を漢民族の領域と考えていた当時の中華民国政府に警戒感を懐かせた。大正4年の対支 二十一ヵ条要求以来、中国国民には反目、侮目の空気が拡大しており、目本製品の不買運 動をはじめ各地でデモ、暴動が起こっていたが、さらに、その運動が激化した。それは、. 昭和12年、日本人居留民の虐殺(通州事件)にまで発展していった。. 目中間の緊張は続き、昭和12年の盧溝橋事件(北京近郊の盧溝橋において目支両軍が 軍事衝突を起こした事件)をきっかけに、っいに、日中戦争(支那事変)が始まった。目. 本は国力のかなりの部分を大陸での戦争にっぎ込み、昭和20年の敗戦時には百万人に及 ぶ将兵と莫大な兵器、資材を中国大陸につぎ込んでいた。陸軍は当初、半年で戦争を解決 するつもりでいたが、南京攻略後も、国民党政府は首都を重慶に移し、国民党政府との戦 闘は続いた。その後、近衛首相が「南京政府を相手とせず」との声明を発表するなど、停 戦のめどはつかなかった。. その後も、ナチスドイツのヨーロッパでの戦勝に乗じて、昭和15年9月、北部仏印に進 出、翌年7月には南部仏印に進駐するなど、目米関係は悪化の一途を辿っていった。. 国内では、昭和13年、国家総動員法が成立、綿製品、革製品の供給禁止、翌14年に は、米穀配給統制法が公布され、昭和15年7月には奢修品の製造販売も制限された。物 資の多くは代用品に変わっていくなど社会全般で統制がすすめられていった。また、政治. の世界では、昭和15年2月、衆議院の斉藤隆夫議員が、「名目のない長期戦が国民を苦 しめている」と支那事変に対する批判演説を行ったが、大勢では戦争の拡大が承認され、 大政翼賛会が結成、着々と戦時体制が整えられていった。. また、昭和15年は、「皇紀二千六百年記念」のため、各地で奉祝の式典が行われた。そ して、アジアで初の東京オリンピックも開催を予定されていたが、各国の不参加の表明と q3一.
(5) 軍部の反対により、取りやめとなった。. ヨーロッパに眼を向けると、ドイツは、1938年3,月、オーストリアを併合、9月に はミュンヘン会議によって、チェコのズデーデン地方を割譲させた。この時の、イギリス. 首相、チェンバレンの宥和政策はヒトラーの判断を誤らせる事となり、その後、ヒトラー にポーランド侵攻を決断させることとなった。. 1936年5月、イタリアはエチオピアを併合、1939年3月、スペイン内戦でドイ ツに支援されたフランコ将軍が内戦に勝利するなど、全体主義国家が勢力を伸ばした時期 であった。. そして、1940年8月、ドイツは、ソビエト連邦と独ソ不可侵条約を結び、9月には ポーランドに侵攻。ポーランド領土をソビエト連邦と分割する。それに対し、イギリス、 フランスはドイツに対し、宣戦し、第二次世界大戦が勃発した。. (3)太平洋戦争の開戦と敗戦 昭和16年12,月8日、目本の真珠湾への攻撃により、ついにアメリカとの戦端が開か れ、太平洋戦争が始まった。この戦争は、勝算があって始めた戦争ではなく、日本軍の南 部仏印への進駐を見たアメリカの石油の禁輸政策によって、数年もしないうちに、ヴィン. ソンプランによる圧倒的なアメリカの戦力の拡充と、当時700万トンあった石油のスト ックが2年程度で尽き、連合艦隊が動けなってしまうことを恐れ、陸海軍とも、清水の舞 台から飛び降りる決意で戦端を開いたものであった。. ここまで、何度も目米間では、交渉が持たれたが、アメリカ側は中国大陸からの撤兵を 求め、それを呑む事は、日本として、満州事変以来の政策をすべて否定しなければならな い状況であり、結局、交渉は決裂せざるを得なかった。. しかし、開戦後は、緒戦の大勝にかまけ、どこで講和を結ぶかなど、終戦に向けての用. 意はほとんど為されず、結局、国力以上に戦域を広げすぎ、戦前から用意周到に、戦争準 備を行ってきたアメリカの前に敗れてしまった。. 国民感情では、太平洋戦争が始まった当時、「長く日本やアジアに対し、人種差別、経 済的な搾取を行ってきた驕敵米英によくぞ宣戦してくれた」といったものが大半であった。. 常識的に「アメリカ相手の戦争では大変な事になる。」と考えた人々も数多くいたが、大 恐慌以来の不景気と、国内外の閉塞状況を長く感じていた国民はどこかにその解決と打開 をこのアメリカに対する戦争に求めていた部分があった。しかも、緒戦は欧米列国の植民. 地軍に大勝した事もあり、多くの国民はその勝利に沸いた。そして、戦局も、昭和18年 の末までは、何とか中部太平洋において、アメリカ軍の侵攻を抑え、戦っている状況であ った。. 目中戦争(支那事変)が始まって以降、国民の生活は一部の軍需成金を除けば長い戦争. に圧迫され、物資や食料が欠乏していた。昭和18年3月、金属回収が始まり、同年6月、 衣料簡素化のため、もんぺと国民服が標準服とされた。当時の映画は「ハワイ・マレーシ ア沖海戦」「姿三四郎」「無法松の一生」などが大ヒットしていた。そして、同年10月、 一4一.
(6) 学徒出陣が始まった。さらに、昭和19年になると、都市部では危機的に食料が欠乏しは じめた。. 昭和19年6月、マリアナ沖海戦が行われ、敗北。これにより、サイパンをはじめ、マ リアナ諸島が陥落。このため、都市部への空襲が懸念され、学童疎開が始まった。国内に. おいては、以上のように国民の大半は厳しい生活に耐えていたが、依然、空襲もなく、国 民は、明治以来の「戦争とは国外で戦われるもの」といった印象を持っていた。. また、マリアナ沖海戦によって、目本海軍は空母機動部隊を失い、まったく、対米戦勝 の望みを失ってしまった。この敗戦により、国内では東条内閣が辞任。しかし、政府は国 民に真実を知らせず、今後、1年以上にわたって、無謀な戦争を継続した。この後、フィ. リピンでの戦いで陸海軍航空隊は「体当たり攻撃」さえ行わなければならないほど、通常 の戦闘ができなくなってしまっていた。. そして、同年11月、サイパン島テニアン基地を拠点としたB29の目本本土への本格 的な空爆がはじまった。. さらに、米海軍潜水艦の活動によって多くの輸送船が沈められていったため、南方占領 地域からの石油やゴム、ボーキサイト、亜鉛などの戦略物資が輸送できず、内地では兵器 等の生産、航空機の訓練が出来なくなっていった。スマトラ島パレンバンなどの油田では、. せっかく採掘した石油を運ぶタンカーがないために、石油を現地で焼却していたほどであ. った。同年10月末にはフィリピン沖での海戦に敗れ、南方での制海権を完全に失って以 降、南方占領地域からの物資はまったく目本本土には届かなくなった。. 昭和20年2月からは、瀬戸内海や関門海峡など、日本近海すらもB29による機雷封 鎖によって国内の船舶輸送に危険を伴う状況になっていった。同年3月、硫黄島の陥落、. 艦載機によるB29の護衛が可能になると共に、中小都市へ攻撃がはじめられた。同年6 月、沖縄が陥落し、北海道を除く全国各地が艦載機の攻撃にさらされ、国土は恐るべき速 さで焦土化していった。すでに当時の日本陸海軍の戦力は枯渇し、軍部と政府は「一億特 攻」を呼号したが、連合軍の上陸が予想される九十九里浜や南九州の陣地の築城も進まず、. 急遽動員した老兵達に支給する小銃等の武器すら不足していた。そして、8月、広島、長. 崎への原爆の投下、連合国に対し和平の仲介を期待していたソ連が参戦するに至り、目本 はポツダム宣言を受諾、敗戦をむかえるに至った。. ヨーロッパでの様子を見てみると、ナチスドイツは1939年9,月のポーランド侵攻以 来、デンマーク、ベルギー、オランダと席巻し、1940年6月にはパリが陥落、ヨーロ ッパの大半は独軍の占領下となった。1941年6月、ソビエト連邦に侵攻した独軍は破 竹の勢いを示し、モスクワは陥落寸前であった。. しかし、様々な理由で独軍は作戦上の齪酷をきたし、モスクワは持ちこたえ、赤軍の反. 攻が始まった。1943年1月にはスターリングラードで敗北。その後、東部前線での戦 況の回復はなかった。. そして、同年、独伊軍は北アフリカで連合国に敗北、さらにイタリアが降伏。1944年 6月、連合国はノルマンディーでの上陸作戦を行った。最終的に、ドイツは目本にも勝る. 嫡5一.
(7) 投弾量の連合国側の空爆と、赤軍と連合軍の侵攻による地上戦で、国中は荒廃し、800 万人以上ともいわれる戦死者を出した。4月末、赤軍のベルリン占領により、5月3日、 ドイツは降伏した。. (表1)満州事変以降、敗戦までの主な出来事と物価、社会情勢 年 代. 政治・軍事・海外. 1931昭和6年. エンパイアステートビ. 昭和6年度予算14億. ル完成. 4852万円. 経済・物価. 社会の出来事 「のらくろ」「黄金バッ ト」大人気. リンドバーグ夫妻来目 ナショナル製ラジオ受 古賀政男「酒は泪か溜息. 満州事変起こる. 毛沢東主席に就任. 信機45円. か」大ヒット. ロート目薬20銭. 大阪城天守閣復活. 理髪料50銭. 米大リーグチーム来目. 北海道、東北飢鐘. 1932昭和7年. アイシヤドー一色1円. 満州国成立. 円安で1円=20ドル び金メダル. 5・15事件起こる チャップリン来目. 1933昭和8年. (年平均は28ドル). 円タク市内は50銭. 欠食児童全国で20万人 映画「ターザン」大ヒッ. 米、大統領選、ルーズ 映画入場料50銭. ト. ベルト圧勝. 白木屋火災死者14名. ヒトラー独首相就任. ビスコー箱10銭. 三陸大津波死者二万人. 国際連盟脱退. 胃薬わかもと50銭. 小林多喜二拷問死. ドイツ国会議事堂炎上 パイロット万年筆5円. ナチス660全議席獲得. 廉価版レコード80銭. 「東京音頭」大流行. 前畑秀子400m平泳ぎで 世界新記録. 皇太子明仁誕生. 1934昭和9年. ロス五輪南部忠平三段跳. 上海事変勃発. ヒトラー、全権を掌握 大学卒の初任給70円 室戸台風死者、行方不明. 国際連盟ソ連加盟承認 満州事変以来の軍需景 3200人以上. 九州地方で干ばつ. 中国共産党長征を開始 気. 伊、エチオピア侵攻. 1935昭和 10 米、アリゾナ州排目土 年. エビスビール34銭. 東北地方冷夏で凶作. 10銭バー人気. 満州移民開始. *1. 忠犬ハチ公死亡. 地法提出. 満州国皇帝薄儀来日. ヒトラー再軍備を宣言. 出口王仁三郎ら大本教弾. ロンドン軍縮会議. 圧. 1936昭和 11. 2.26事件. 年. イタリア、エチオピア タバコ「光」10銭「敷 阿部定事件. 洋梨1個10∼20銭. 双葉山の69連勝始まる. 併合. 島」20銭. 目本隊ヒマラヤ初登頂. スペイン内戦. 講談社の絵本35銭. D51蒸気機関車完成. ベルリンオリンピック 南洋拓殖株式会社創立 日独伊防共協定成立. 1937昭和 12 独軍、ゲルニカを爆撃 戦艦大和建造費1億6 ヘレンケラー初来日 ・6一.
(8) 年. パリ万博開催. 300万円. ひとのみち教団弾圧、教. ターリン赤軍を粛正. 界的鉄鋼不足で鉄価. 幹部逮捕. 溝橋事件、日中戦争. 屯90円が200円に. 楽園球場開場. まる. 騰サントリー角瓶8円. ロ野球タイガース優勝. ンデンブルグ号炎上. 海、南京占領. 型カメラミゼット 0円. 1938昭和 13 パリで国際シュールレ マッチ100本入12銭 女優の岡田嘉子、杉本良 リスム展開催. 名スターの月給. とソ連に亡命. 、オーストリア併合. 岡千恵蔵6200円. 家総動員法成立. 、ズデーテンの割譲. 東妻三郎5500円. 神大水害933人死亡. 、水晶の夜事件. 大出身者の官僚が3 歳で150円程度. 需物資代用品展覧会. 本興業「笑わし隊」を 地へ派遣. 1939昭和 14 スペイン内戦終結. インフレ抑制のため 双葉山69連勝. モンハン事変起こる. 9.18停止令」決定. ロ戦試験飛行. 、ポーランド侵攻. 京の小売物価、前年. 穀配給統制法公布. 2次世界大戦始まる. より20%上昇. 一回聖戦美術展開催. 空軍、英本土空襲. 酒銘柄品一升2円. 鮮人強制連行始まる. 介石北伐を命令. 1940昭和 15 注兆銘、南京政府樹立. 0銭 *2. 米禁止令公布. マッチの製造配給の統制. 軍、パリ無血入城. 味噌等の切符制導入. 空軍ロンドン爆撃. 修品禁止令(7,7禁令). 独伊三国同盟締結. 元二千六百年記念式典. ーズベルト三選する. 1941昭和 16 独、対ソ戦始まる. グリコ10粒入り5銭. 「新太閤記」「智恵子抄」. 部仏印進駐. バコ金鶏9銭. ストセラーになる. ルゲ事件. 易生命保険の契約高. 香蘭大人気. 平洋戦争始まる. 百億円を突破. 画会社を10社から3. 劇の入場料80銭. に統合. 1942昭和 17 シンガポール陥落. 宇津救命丸1袋30銭 関門トンネル開通. ニラ陥落. バコ桜25銭. ハワイマレー沖海戦」. ッドウェイ海戦敗北. リヤスシャツ3円. ヒット. 、目系人の強制収容. 生堂クリーム1円. 国人、朝鮮人の強制連. 合軍、アフリカ上陸. 7銭. 1943昭和 18 スターリングラードで うどん、そば13銭. 始まる. 通天閣が炎上. 軍降伏. 弁40銭. 糧事情が逼迫. ッツ島玉砕. 1升公定価格50銭. ニメ 「くもとちゅうり. タリア無条件降伏. 値では3円. ぶ」公開. 徒出陣はじまる. 野動物園で動物の処分 一7一.
(9) 1944昭和 19 インパール作戦開始 年. 国鉄運賃東京一大阪間 スイカ、メロン等作付け. 印度政庁ガンジー釈放 ll円50銭. 禁止. 連合軍ローマ解放、ノ セルロイド万年筆3円. 宝塚歌劇団最後の公演. ルマンディー作戦開始 買い出しの禁止通達. 東京に「国民酒場」開設. マリアナ沖海戦. 野菜等の闇値高騰. 噴火により昭和新山誕生. サイパン陥落. 雑炊一杯30銭. 学童疎開始まる. 連合軍パリ解放. 雑誌は古紙との引き替 プロ野球最後の試合. B29による空襲激化 え販売になる 1945昭和 20 東京大空襲 年 (8月まで). ドイツ敗戦. 沖縄陥落. タバコ配給一目三本. 敗戦. 三河大地震死者1961名. 軍需インフレで二百円 米軍、機雷を投下し、目 紙幣発行. 広島、長崎に原爆投下 ガス料金四割値上げ ソビエト参戦. 特攻はじまる. 本周辺の海上封鎖 国民勤労動員令発令. 食糧配給1目2合1勺 長距離乗車券販売制限 (東京府). 外食券食堂実施. (「目録20世紀」1931年∼1945年を参考とし、表としてまとめた。なお、*1, *2は資料がないため不明). 一8一.
(10) 第2節 美術界の動き (1)帝国美術院改組 美術界は戦争中、「物資が統制され、画家達は召集され美術界は衰えた」と思われがち だが、調べていく内に意外と活況を呈していた事、また、美術界に対して軍部及び政府が 戦争遂行のため、案外協力的であった事が垣間見られた。. まず、勘違いを起こしやすいのは、物資がr統制」されていたという事は、誰もが街で 簡単に購入できない反面、物資を「統制」しているが故に、手に入れる資格を持つ者達に とっては、逆に安定した入手ができたという事実だ。. 「召集」されたのは、普通、20歳時の徴兵検査で甲種合格した者だった。もしくは、事. 変のために新たな兵力を動員する際、予備役兵や後備兵から再度召集された40歳以下の. 者であった。しかし、30歳前後の者の召集は、昭和19年以降、戦局が極めて悪化した 頃からであり、画家として認められていた者は、その技能を生かし軍属として働くなどす れば召集されなかった。また、著名な画家たちは、とっくの昔に40歳を超えていたのだ。. あの時代、戦地で戦った者の大半は、20歳から後半の数年間の世代だったのだ。 大正時代、第一次世界大戦での好景気もあり、多くの洋画家たちが、パリに遊学するな ど、自由な雰囲気の美術界であった。しかし、関東大震災以来の不況、労働運動や社会運. 動の勃興とその弾圧など、社会状況の悪化により、その自由でのんきな雰囲気が、だんだ んと窮屈なものに変化していった。. 大正時代末に始まった、プロレタリア美術運動も、大正14年の普通選挙法と抱き合わ せで成立した治安維持法公布後、特高警察等に弾圧され、ほとんど壊滅状態になってしま った。さらに、昭和6年に始まった満州事変以来、国内では、国粋主義的な雰囲気が高ま っていった。. 昭和10年5月28目、松田源治文部大臣が帝国美術院改組の声明を出した。そして、 これまでの帝国美術院を解消し、新たな会員50名の決定、新たな規程の発表が行われた。. 目的は、それまで、在野の美術団体に属していた著名な作家たちを、官展に取り込み、美 術界への統制を強めようとしたのである。. それによる、美術界の反応は、決して良いものではなかった。文展以来、長年にわたっ. て認められた無鑑査出品の特権が失われた者や、これまで官展に対して、アカデミックだ と批判をしていた者が、新たに帝院の会員になった事への反発、また、その改組が、美術. 界全体に何ら意見を求めず、抜き打ち的に行われた事に対する反発などで、美術界は混乱 を呈した。さらに、美術界では、それについて様々な意見が出されたが、その改組は、「癌. を除くつもりで、新たな癌を作った」等、失敗であったと批判する意見が大半であった。. 文部省は、「目本美術の発達、美術界の挙国一致、美術による日本精神の高揚、目本精 神に反する美術の排撃」を、改組の目的とし、美術界への統制を強めていったのだが、そ れに対し、在野の各美術団体は批判の声明を出し、帝展への作品の不出品、新しい美術団 一9一.
(11) 体の結成等が行われた。そして、その影響は翌11年まで続いた。 ただ、美術界の混乱の本質は、表向きには「美術界への政府の統制の反対」であったが、. 内実は、作家たちの地位や特権への執着と確執であり、その改組の背後では、政界と結ん. だ様々な美術家たちの暗躍があった。(r美術」昭和10年7月号2∼42p) 参考 当時の画家と政治家のつながりを見立てたもの 『. 両田英幽 鳳塁號一 嘱崎邦幽 顧高武国 圏竹誌一 蘭叢太匹 同取秀四 閥山大殴 同圏劃]. 辱. 折. 松. 加. 崎. 田. 藤. 邦. 源. 輔. 次. 岡. 安建謙藏. } 一. 朝倉文夫. ﹁し 唱. 国業. 語槻履啄悌﹄. 暫. 再野正剛. 町. 逝. 府撃篇. 糞1田. 斜. 郎. 不. 足崎行雄. 明. 村. 病藤興里. 素. 薫. 1中. 秋田 濾. 城. 井. 南 一. 宥井柏亭. 安. 曾太. 緒. 一川合玉堂. 一甲. 閥本彌囲. 豪立見界政家術葵. 政 之 助. …. (図1)「美術」昭和10年7月号37p この時期から、国粋主義的思潮の高まるなか、洋画の題材が国粋主義的なものになる傾 向が強まっていった。ただ、その後も海外のシュールリアリズムやキュビズムの作品が紹 介されたり、展覧会が開かれるなど、前衛的活動も盛んであった。. そして、昭和12年7月、目中戦争が勃発すると、献納画運動や献金が盛んに行われる ようになった。また、陸海軍に従軍する画家達も増加しはじめ、各地で従軍作品展が頻繁 に行われるようになった。. (2)目中戦争以降 昭和13年7月、大目本陸軍従軍画家協会が設立されるなど、美術界では、この戦争を アジア解放のための「聖戦」として位置づけ、「彩管報国」との呼びかけが盛んに行われ はじめた。. 当時、描かれた題材に関しては、軍人や戦争に関する物を扱った絵が少しずっ出てきたが、. 日本画では花鳥風月に美人画、風俗画が主流であり、洋画では裸婦、彫刻でも裸像が見ら れるなど、戦時下とはいえ、まだ、そんなに窮屈なものではなかった。. ただ、目本画と比して洋画の方が、写実的に描く技法に向いているためか、多くの若手洋. 画家がこの時期から戦争画を描き始めている。陸海軍も作戦記録画を描かせるため、洋画 一10一.
(12) 家を依嘱して中国大陸に派遣し始めた。. また、当時同盟国であったドイツに贈るため、文部省の依頼で横山大観がヒトラーのた めに絵を描いたり、来日したヒトラーユーゲントたちに「目本美術の精神」と題した講演 を行っている。. 意外にも、この頃から軍需インフレの波に乗って、日本画の値段が高騰していた事実が. 見受けられた。昭和13年10月の第2回文展の入選作家の作品の値段が、最低でも18 0円、大多数が1,000円、2,000円と記録されていて、橋本明治の作品には5, 000円の値段が付いている。 同年、6月に東京美術倶楽部の主催した、本山竹荘還暦記念展では平均3,500円から. 4,000円、竹内栖鳳、川合玉堂、上村松園らの著名作家は10,000円以上の高額 で取引されている。(搭影13年7月号45p) 「軍需成金旅出で、此の頃のデパート展に於ける売約は一人で一万円位の買い上げをし ていくお客がざらにあると云う。某デパートで出品中の最高値の絵を売約させて呉れと申. 込んだお客があると云う」(r都市と芸術」288号12、13p)、同年5月、r京都美 術倶楽部の主催した、創立三十周年記念展では、一手に7万円も買い占めた人がいた。」. (搭影13年7月号45p)等の話が美術雑誌に掲載されている。 この値段が、どのくらいのものかというと、当時としてはエリートであった大学卒の初. 任給が70円前後、帝大卒の官僚の35歳時の給料が150円程度という時代だったから、 それらが、いかに高額な取引であったかがわかる。. 当時の雑誌を見ていく中で、目本画の高値の原因は、美術品の評価が高まったと云うよ りは、軍需成金の道楽と、そこにうま味を見つけた画商、骨董商の暗躍によって、値段が 高騰したというのが実際の所のようだ。. 美術展の様相は、デパート展をはじめ、大小の展覧会が数多く開催されていた。昭和1. 3年の第2回文展の東京展入場者数は15万4千人にもなり、さらに大きなものでは、昭. 和14年7月、第1回聖戦美術展が開かれ日本各地、及び満州、朝鮮まで巡回し、大変な 盛況であった。. その当時の美術展の盛況ぶりが、美術雑誌である「都市と芸術」(292号12p)に 「展覧会洪水で、人気作家は催促ぜめにあって、大抵病気になっている。第一デパート、. 画商新聞社、雑誌社等々、毎日五六箇所鉢合わせの展覧だから、気の弱い先生方はテンカ ンで泡を吹いてしまう始末である」と掲載されている。. 昭和15年は、10月、11月に、紀元2600年記念奉祝の美術展覧会が行われるな ど、美術界はさらに活況を呈した。この頃の作品のモチーフとしては、裸体画や裸体彫刻 は姿を消していき、神代に題材を求めたものや、英雄や忠臣を描くものが増えてきている。. また、同年5月、陸軍が「戦争記録画」の作成のため画家を中国大陸へ派遣した。その画 家は、中村研一、田村幸之助、小磯良平、田中佐一郎、清水良雄、硲伊之助、伊原宇三郎、. 橋本八百二、宮本三郎、川端龍子、川崎小虎、吉村忠夫の12名である。 一11一.
(13) 同年7月、「奢修品等製造販売制限規則」(7・7禁令)が交付されるが、美術品は例 外とされる。美術振興調査会第3回総会で、「東亜新秩序建設のための善隣友好のために は美術の振興が必要で『美術品を贅沢とせず』とする」と決定。商工省、文部省の折衝に より、制作に必要な金属やカンバスの配給、作品の販売が認められる。ただし、書画骨董. の売り上げの1割以上を国債もしくは貯蓄債権の購入に当てる事となる。. 10月には大政翼賛会が発足した。はじめ、翼賛会は近衛首相の「昭和研究会」から発 足し、軍部勢力を牽制する事が期待された団体だったが、次第に翼賛会内の財界勢力、軍 部勢力の発言力が高まり、っいには国民を統制するためだけの団体になってしまった。. その流れの中で、美術界も国策に基づいた美術団体の統合が行われていく事となる。工芸 界では工芸美術作家協会、洋画壇では美術団体連盟が結成された。. 12,月には「大政翼賛促進の会」に文壇、画壇などの文化人の代表約700名が出席。段 々と国家を総動員しての思想、芸術運動、体制固めのための組織作りが行われていった。. 昭和16年7月、「芸術保存のための7.7禁令並びに公定価格制の特例に関する」商 工省次官通牒が発令され、「芸術家」の資格を規定する事となった。また、8月、商工省. は文展2回以上入選の技術を持つ者に高級工芸品の製造許可を与えるなどの措置をとっ た。展覧会自体は各地で盛んに行われており入場者も多かった。. 昭和10年、帝国美術院の改組に始まって、敗戦に至るまで、美術界の統制を目指す文 部省の意向と、それに反対する動き、逆に迎合する動きが見られたが、日中戦争が始まっ てからは、国策に応じ、各種の美術団体が結成されたり、統合されたりし始める。 以下にそれらを列挙する。. 月月月月月 5 2626. 昭和10年 11年. 文部省が帝国美術院改組を発表 第一回帝国美術院改組展覧会. 帝国美術院会員16名が辞表提出. 12年. 大目美術院結成. 海洋美術会結成 帝国美術院開設. 10月 13年 4月 5月 6月 14年 3月 4月. 新国画協会結成 日本画院結成. 傷疲軍人慰問美術家連盟結成 大目本従軍画家協会結成 美術記者連盟結成 建築美術協会結成 報道美術協会結成 陸軍美術協会結成. 工芸輸出美術報国会結成 6月. 戦時下芸術振興の為、文部省が諸学振興委員会内に芸術学部を設置. 10月. 美術問題協議会結成. 15年 1月. 目東美術院結成. 一12一.
(14) 2月 東洋美術国際研究会結成 4月 美術行政の合理化の為、美術振興調査会設置 5月 目本産業美術協会結成 7月 自由美術家協会が美術創作家協会と改称 9,月. 商業美術家協会、図案家協会が統合、新東亜産業美術家連盟結成. 10月. 日本挿絵画家協会結成. 国策に沿った大同団結を目的とした工芸美術作家協会結成. 11月. 洋画壇の統合を目的とした美術団体連盟結成 (一水会、二科会、東光会、独立美術協会、旺玄社、太平洋画会、 光風会、春陽会、新制作派協会). 12月. 海軍従軍美術家倶楽部結成. 16年 2月. 詩人、文芸家、美術家等で国防文化協会結成 大日本海洋美術協会結成. 3,月. 彫刻会の合同を目的とし全日本彫刻家連盟結成. 4月. 日本画壇連盟結成. 6月. 南洋美術連盟結成. 7月. 出征帰還芸術家による文化奉公会結成 満州国美術家協会結成. 目本美術雑誌会結成(美術雑誌38紙を8紙に統合) 8月. 日満支の美術交流の為、大東南宗院結成. 以上のように、目中戦争が泥沼に陥り、政府が次第に国内の統制を強めていき、美術界 も時代の流れに飲み込まれていった様子が見て取れる。. (3)太平洋戦争の開戦と敗戦 そして、いよいよ太平洋戦争が始まったが、相変わらず、美術品の値段は向上、特に目. 本画の値段は高騰している。献納、献金運動はますます盛んになっていった。昭和17年 の献納、献金の様子を列挙してみると。. 1月 日本画家連盟600名が2作ずつ制作し海軍部に献納 大阪日本画家報国会300名が軍事保護院に献画 2月 西山塾青甲社が海軍記念目に艦名に因んだ作品を献納. 竹内栖鳳が陸海軍に1万円ずつ献納. 大東南宗院が産業報国会に献納. 女流洋画家100名が紀元節に際して海軍省に作品を献納 向井潤吉がフィリピン、バターン半島での戦争画を献納. 横山大観、斉藤隆三が陸海軍省にそれぞれ7万5千円を軍用機1機分として献納. 京都目本画家連盟の作品800点を陸海軍に慰問献納 一13一.
(15) 3月 中京画壇で活動する彩交会が名古屋師団憧兵部に色紙を献納. 文展無審査作家、院展、青龍社の作家190名が展覧会作品代20万円を献納 滝野川美術協会が作品を即売、陸海軍省に代金を献納 4月 藤田嗣治の「ハルハ河畔皇軍奮闘の図」を遊就館に献納 西山翠障、堂本印象、上村松篁、川上拙以が呉海軍人事部に作品献納. 福岡美術会が西部軍司令部に作品献納 台湾在住の木下静涯、郭雪湖、野村泉月らが台湾各地の神社に作品献納. 5月 滝野川美術協会が献納展を実施、売上金を陸海軍に献納. 福田翠光が帝展出品の「撃搏」他を鎮守府に献納 横山大観が「鹿島洋朝激」を鹿島神宮に献納 6月. 目本美術協会の有志が海軍傷疲兵慰問のため35作品を献納 7月. 荒木十畝が満蒙開拓青少年義勇軍訓練所にr富嶽」を寄贈 8月 東丘社の共同制作r大東亜戦争画」を陸海軍に献納 9月 目本画家報国会、目本美術院が艦上攻撃機、爆撃機を献納. 10月 帝国芸術院会員28氏の作品を満州建国十周年記念のため寄贈 横山大観が院展出品の「正気放光」を江田島海軍兵学校に献納. 11月 矢野知道人が「鯉跳る」を靖国神社に献納 12月 日本赤十字社が川合玉堂の「揺るぎなき大和島根」を皇太子に献納. これ以降も敗戦まで、献納、献金は行われ、昭和20年6月、「菊池塾、青甲社等、各 画塾、及び海軍軍需美術研究所、軍需美術生産隊ら72名が色紙、短冊を制作。特別攻撃 隊隊員に献納」との記録がある。. また、国策に迎合した美術団体も数多く結成された。開戦より、敗戦までの流れは以下 の通り。. 昭和17年 3月 日本画家報国会結成 目本画制作資材統制協会設立. 5月 美術団体連盟が全洋画家を包含する美術家連盟として改称 6月 目本自由画壇解散. 情報局に大東亜宣伝文化政策委員会設置. 8月 大東亜美術協会結成 11月 共栄圏の文化振興の為、興亜造形文化連盟結成. 昭和18年 1月 歴程美術協会、明朗美術連盟、美術新協会が合同し目本作家協会結. 成 5月 情報局、文部省、大政翼賛会の支持で日本美術報国会結成、会長は. 横山大観、目本美術及工芸統制協会結成 7月. 美術家連盟が美術報国会、美術統制会に発展的解消. 11月. 仏教美術協会設立. 昭和19年 4月. 軍需生産美術推進隊結成. 8月. 大政翼賛会が全国各地に国民美術展示所を設置する事を決定 一14一.
(16) 10月. 二科会、旺玄社解散. 目本彫刻家協会、日本木彫家協会、直木会、構造社解散. 昭和20年 4月. 海軍軍需美術研究所設立. 10月 目本美術報国会解散 二科会再結成、新日本美術会結成 11月 文展は目展と新発足. 行動美術協会結成 また、戦時下ではあったが、多くの美術展が各地で開かれており、入場者も大変な数で あった。また、一般の展覧会では戦争画も多く展示されていたが、目本画では人物画や風. 景、花鳥風月を題材とした作品が相変わらず主流であった。以下に敗戦までの大きな展覧 会とその入場者数を列記してみる。. 昭和16年10月 17年 1月 19年 2月 19年 5月. 「仏印派遣日本美術展」. 11万人、会期を延長. 「大東亜戦争美術展 大阪展」. 26万人 15万人 11万人. 「戦艦献納帝国美術院会員美術展」 「陸軍美術展 大阪展」. 最終的に昭和19年9月、美術展覧会取扱要項が発表され、公募展の開催を中止、美術 報国会の主催、もしくは、共催でなければ展覧会は開けなくなった。10月には、文部省 が戦時特別美術展覧会規則を公布した。しかし、r大東亜戦美術展」などの、戦時色の強. い美術展は開かれており、結局、小さな美術展はr昭和20年6月、目華倶楽部にて、中 西現代名画展開催」r同7月、女流美術家絵画展、浅草本願寺で開催」等、各地で開かれ ていた。. また、昭和16年、東京において38種類もの美術雑誌が出版されていたが、内務省の 統制により、同年6月、r国画」r国民美術j r新美術」r生活美術」r画論」r旬刊美術新 聞」r美術文化新聞」r季刊美術」の8紙に統合された。(都市と芸術301号8p) 最終的には昭和19年1月「美術」が創刊され、1誌に統合されてしまう事となる。. 昭和17年、物資に対する統制から、表装裂地が全面的販売禁止となるが、3月、日本 画制作資材統制協会が設立、商工省から発券団体として公認され、絹地の配給を行う事と なる。. しかし、美術界は太平洋戦争緒戦の大勝を受け、大いに盛り上がり、相当数の画家が中国 をはじめ、南方の占領地に志願従軍していった。また、陸海軍も多くの画家達に依嘱し、 マレー、タイ、インドネシア、ビルマ等に画家達を派遣していった。. そのため、戦争画を展示する美術展も多数開催された。例えば、「聖戦美術展」「海洋美. 術展」「航空美術展」などである。また、10月には「満州建国十周年慶祝献納画展」が 行われた。. 昭和18年、金属資源の回収の為、銅像や美術品等の回収が始まった。しかし、国内に 一15一.
(17) おいて戦況の悪化という雰囲気はまだ無く、実際の戦況もこの時期、アメリカ軍の本格的 な反抗がはじまり、目本軍は中部太平洋で一進一退を続けていた時期でもあったから、物. 資は不足していたとはいえ、目本本土への空爆も未だ行われていない時期でもあり、国民 は勝利への希望をまだ失ってはいなかった。. 昭和19年、いよいよ戦況の悪化に即し、美術家の疎開が増加し、地方において美術活 動が増えるという現象が起こる。また、美術活動を停止して、工場や農村で働く美術家も. 多くなった。また、団体の解散や展覧会の中止が相次いだ。同年3月、目本美術及工芸統. 制協会が目本画の資材受給者を査定し、甲種525名(最も資材を多く配給される)、乙. 種1028名を決定した。 美術雑誌も、用紙の確保が厳しくなり、内務省の統制から、開戦前の8紙が、この年の. 1月に、「美術」1紙に統合された。その「美術」は最終的に、昭和20年3月号まで発 行されている。その号の目次には、「本号に掲載予定の原色版口絵は戦災を蒙り印刷所に 於て再び焼失しましたので収載不可能となりました。ご了承願います」と記載され、創刊 時と比べると、紙質もかなり悪くなっている。大変な状況の中、懸命に出版していた事が わかる。. また、そんな状況下でも、3,000部の限定ではあるが、r大東亜戦美術 第2号」が 出版されている。当時、物不足等からのインフレの為、かなり物価は上昇していたが、値. 段は78円もするもので、その中の数枚は、カラーで印刷されており、紙質もしっかりし. た物である。当時としては、かなりの豪華本といえるだろう。発行は昭和20年3月30 目であり、沖縄での悲惨な地上戦の行われている中でも、それが発行され、購入者がいた ことに、まったく驚きを感じる。. 昭和20年、戦況の致命的な悪化の中、それでも各地で美術展は多数、開催されていた。. また、敗戦後も9月、京都において「現代美術展」が開催されるなど、社会が大混乱して いた時期ではあったが、美術界の動きは案外と速かったと言えるだろう。. 日本各地の大都市及び、中小の都市に至るまで、アメリカ軍の空襲により、甚大な被害. があったが、例えば東京では、有名な昭和20年3月10日の大空襲があり、10万人と も言われる死者を出したが、2、3目で死体は片付けられ、数目後には、街は整然と機能. を取り戻したという。そして、終戦時、240万人が生活しており、当然、焼け残った部 分もかなりの面積であった。他の各都市も同じであり、被害は大きかったが、市街のすべ てが焼失したわけではなかった。また、京都のように文化財保護の為、空爆の対象から除 外されていた都市さえあった。その様な状況から、戦後まもなく、多くの場所で展覧会を 開く事は可能であったと考えられる。. *当時の美術界における団体の統廃合、展覧会の入場者数、献納献金の動きに関しては、. 姫路市立美術館「美術と戦争」2002年の「美術と戦争関連年表」80∼98pを参考 とした。. 一16陶.
(18) 3節 従軍画家の位置づけ (1)従軍画家の身分. 多くの画家が、目中戦争の開始以来、志願したり陸海軍から委嘱を受け戦地に赴いた。. それらの多くは、新聞社などの団体から依頼を受けた者か、個人的に志願した者が報道員 として従軍したものであった。その際の規定は、目清戦争以来、「従軍新聞記者心得」とい. う陸軍の規程があった。ただ、防衛庁戦史資料室で専門官と調べてみたが、それについて の資料は発見できなかった。. 報道員として従軍した画家以外の、陸海軍から嘱託を受けた画家達は陸軍成規類聚第四 類分限の項にあるr陸軍嘱託制」に基づき、軍属という扱いで戦地に赴いた。 その後、目中戦争に従軍した当初、前線の部隊にとって、画家たちの身分が明確でなく、. 前線においても様々な扱いを受けた。そのため、明確な規定が必要となり、新しい規定が 昭和18年にようやく定められた。「陸軍従軍報道員心得」(陸軍成規類聚第二類官衛)に よれば、以下の通りであった。. 1234567. 新聞記者、通信員. 雑誌記者. 写真又は映画撮影者. 無線電信技術員. 放送従事者 画家. その他陸軍省において特に必要と認めたる者. 上記の者は個人が所属する団体(新聞社や美術団体など)の長が願書を陸軍省に提出し. 許可を得る必要があり、従軍を許可された報道員は適宜の高等司令部(師団レベル)の配 属となった。常に交付された従軍許可証を所持し、左腕に所属団体名及び職名を朱記した 白布を縫いつけることなどが義務づけられていた。また、拳銃の携帯までは許されていた。. なお、上記は陸軍においてのものであるが、海軍においても「海軍諸例則巻三第四款従 軍通信其ノ他」に「海軍従軍新聞記者心得」という同様の規則がある。陸軍と同じく、従 軍者は艦隊司令部において統括されており、大本営海軍幕僚の許可を得、所属艦隊の指揮 下におかれた。次ぺ一ジから陸海軍の規則に関する資料を付記する。その1はその「報道. 員心得」の内容で、その2は、従軍許可証の細目である。その3は「海軍従軍新聞通信者 心得」の内容である。海軍のものは、明治37年の規程であり、陸軍の「従軍新聞記者心 得」も大体において、同じ内容であったと思われる。. 次ぺ一ジから戦時中の資料を掲載するが、すべての資料は東京、恵比寿にある防衛研究 所図書館に収蔵されている物のコピーである。. 一17一.
(19) ご 量響辱齢隔−顧冒言既尋厩賢盲’且曝£西. 曲踊軍轟鴬観鴨墓 封 心 “. ﹃陶濫摺■. 監 7. 一 . 翫二聲 陰軍量箪棺童皿︵慰で耀”遺麺︸陥樗貞冒︸’.羅. =. 1 ■膨一亀. ll. 鎚瑠. P. 随. 一.. 蓄 : ⋮ ⋮ 2 1 ∫ 三 ︷⊥ 嘆串 亨’皐ζ ⋮ 3 ,. ﹄’. 141の7. (図3)陸軍成規類聚 第2類 官衛. 露駕阿. ” ’ 早 一 甲 凋 劃 一 虚叢﹄博. E置1、型. 幅1 一㎝鍔,∫緊. 鉢ヱ’凄壁昌康か除議灘昌崔躍熟〆蔀外贈,7:! 霊’各埜ン燭㌍就宮メ潤噸ノ,翻7 一 新鱒肥毒.題輪蹴. I 需 占. 罐艦専量. ’. 二;二. 一 脳 . ⑱︸. 一18一. ﹁刷欝祖. 「障 嘲験 ・P軋 9卜. 奮囑!﹄i宙 ・ . サ 瀞 何阿. 二漏二1繭偶一. l. 罵嶺口■. 調鞍多嬬の∫毫ハ帰 漂幽 亀轟ノ 月胴、島 ハ’個 6婁雌孟雪繋 警轟9 撃誕5鮒雪窒難夢糞言羅畦..タ謬メ蓋..誌.隷1よ︸. 艶P. マゐ嘱,.. 勝 置鰭魏遷浬鶏闇二鐸俸疇go費.費働帽身 ■一^,^. 一. P. 璽糟. ﹄ ・塵へ. 型.. ・. ■ 』 陽. 1 甲 璽 監. 費 ︸ 朋 ・ ・ 曝 零 卿 畷 爾 口 ’. 三1幽く」、』耳『1・息. 皐. 1. 幽. = 、F. 一. 一◎←一殉』一晦一r峨一擁. 扁. 1『噌一 一. 匹_=二二. 四 罵昌 “. 響讐饗 、懲. ” 一㌧9.. 蒲訪配“ 讐舞汎幽壊査撮懸者. (図2)陸軍成規蘇.箏獺.凛籔 141の3 一“瞳置』プ重. 伽蔽電儲控縮典 疏鱈雛串者. 一島璽日置〆耗’身元樋鐙貫職弐鋸ニザ、国憧“. y翼白磯岬唖ノ陛遇 ・・ 9 摩. 蕪ノ飽陳軍簿轟齢,雑昌慰響卜唇’タ擢喝’ 篇;縮 艦償飢ヲ簾量噸ン酔ハ〆棚雌ノ畏三圃傾一噂。鰐 崔 y ナ ︵ 絶 ︵ 曾 声瀕嘗 易噸 f F 譜呂 輩 噸 y 農 員 〆牢 ﹄ ︵重︵躍一=、志’轡載7岱鷺プ睦累艦呂塾出 呂 畦 か 但,累京菰墨婦 ノ 短 儲 准 副 田 慨 颯 在 , ナ 典 叢 ’ 濁 在 地所管ノ釦ロ韮羅、繭翼州長燭調顧橘在,ナ頴悪鯛. 叢. 一團−’三 一. 、. 七糞五四三二.
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(21) そして、陸海軍は、「戦争記録画」の制作のため、当時の著名な画家達に依頼し、中国、. 南方各地にその画家達を派遣した。彼等は、軍属として勅任官、奏任官といった好待遇で. 派遣され、資金の援助なども行われた。陸軍から今次戦争記録画制作のため、1942年 4月、南方に派遣された16名の画家の代表、藤田嗣治に対し、1万5千円を機密費から 支給していた事実が陸軍の機密電報に残っている。軍部は戦争の遂行に対して、美術家達 を利用する思惑があり、美術、工芸界に対して厚遇していた様子が伺われる。. 訣霊樹窒. 、1︸薯・書’一璽遷ち﹄、. 五抑遥葺量. 晶. …舞㌃ [. 闘. L. ‘ヤ. 、墓. 轡1’・一. へ塾r、. !之塞_. 1 ■.∫導﹄ , 唱1愛﹁. l ・∼ 、1b ,レ. レ. l罵憲 −慧糞響. 腎. 遷碧⋮5党据. F鴬. ﹃、 ..気蓋恥 ﹄, ・,:蓼 ,−堕鷺灘. 、・●∼一・ .運 識 ノ.. ’沸. 織.’£・キ・’、漫欄2雛・獅 弔 [. 叛. :. ’. ,塾、シ●[9. 軍 !謂.. 魯、=、堰槽﹄・i・導も署・τウ. 稼置』一. 一:. al遭“暢 ﹄鳳 Ill 1整・塵: . 穫. 8. 』 P 噂 』. 臨’. ン鱒 . 」. β∫}. ・四邦 o口旧 . “. 甕、設㍉雲 、 。・、解. 攣 寵. 三ム 月噸. 劃 鋼 ’7 ド’鶯 ■重 ’ 檀 1﹃. “. 濯. 轟i樫1. ,町. 、巖. ぐ 曹1 み﹃ , ■. ⑭…・,ノ告一蚕r1当呼. ・荒:詫. 巨講﹄, 、㌦・・. ロ ロロロ. ー. ノ. 管豊響当?聖ll1借i曇. 、1寧 蝕 名一監. ー . 畏バ 既脅.. きレ. 1勧一i鞭 、. − 償. 鳳七召颯糞蝕驚口. ,隅. 魂戦 ●墨鱒望郷飾口傭. 塁曝等一’誉猛. 鮨、書i層旨融倉1. 貰. ハ . 昌馴卿ガ初擁. 旨. 万1, 貞﹄講劇盧. 豊輔優 騒肇 濃 展届 黄隠. ﹃ − 1 ︸ ■ 1 ■ . 闘7に. i繰 !縁 ・馨 慮の『識・脅 趣. 軍. I I I. 繭 鷺壽’1雑, 1器 葦. 謝 . 盤. 一 』. 實ザ:. 宰今、憂 ’A 口. 1− 委 四榛酬…』 I蓬 甘. め薯−A 臆置a暫電導濫雛. 血喰厘,. l 臼 . コセか 騰…穿謂 艦1麗億鱒. 1可噛,﹄ヒ・・催. 一一』一. 壼 件!。歪醸 凹魏欄貿盆. 噂累 電 一. 鱗. ﹄唖︻葬錯翼邑雲. .醸畢.. 詠. 碩. 寸 噂. 喪桁糟泌. 的閃. 隅. (図5)機密費に関する機密電報 「陸軍省陸亜密大日記」昭和17年 452 軍属には大別して高等官と判任官の身分があり、高等官には勅任官、奏任官に別れてい. た。勅任官は将官待遇であり、奏任官は1等から6等まであり、軍隊で言う佐官から尉官 と同じ待遇であった。判任官は下士官であり(旧陸軍の階級で伍長、軍曹、曹長)、陸海軍. から依嘱を受けたような著名な画家達が判任官待遇であった事は、ほぽ無かったと思われ る。. その軍属の地位に関しての資料を掲載する。. ちなみに、ぺ一ジの境目で読めなくなっている部分は、「臨時依嘱二対スル扱ツキ興拉二解. 免ハ勅任官扱二在リテハ陸軍大臣之ヲ行ヒ奏任官扱以下二在リテハ所管」と書いてある。. 一20一.
(22) 瞳︻軍嘲託舗准ノ癒窓ム. ●陵写蜀託馴a整﹃﹂ ’酸軍輌託制. 異μ4項7緬刷£昌. 購一鶴本鑑︵髄軍嘱託ノ脅勇、分隈身分取抵鮮轟鱒 鏑二僚嚇託レハ撞軍ノ躍暮趣葡上4饗ヂ戸峯覗ノロ 嚢研裳躍鰭貢飽等轟付委■セ,レタ押奢7爾ヒ■託 ︵之7導在嘱託及臨時鳴能昌分,. 享径嚇隠一他‘壽7脊覗メ導,陸軍♪事晋昌鷲事 凶戸譜7鶴伊 瞳噂賜記︵,他昌聴務y有伊郭外箭ロノ身分ノ僚葭累. ノ事務 昌 礎 亭 メ 〃 毒 笑 ’ 短 期 悶 展 建 寒 8 昌 脅 曇 属 7 愛ケ專,醗軍ノ事轟“礎峯誤戸饗ヲ翻,. −咽,↑一,ぞ﹂、■. 附期. 呂〃魯レ,掃. 臨暗囑託幽軍ノ樫轟,魯ご公驚塗締中芭霞,勤伍 實、馨轟食翼﹄剣任管ノ撫鳥億メ戸所定ノ繧掌ヲ附. 警用呂〆霜レヲ得. 臨時■詑︵竃雪坐ジ宜讐噸シ︵劃噸ノレ伊軍ノ備瀞 ,響ピ公務鑑行中の之,軍島トヴタ欺痩ン辱ノトメ 鏑八僚欄託一纂馬窺難轟寧嬢伊膿駐3戸弓ノレ箇 驚九鶴導蕉幽配の曾奪曇己ロズ声酸軍軍馬礎翠簾7. 畏雷邑襲,之7行7 鏑七僚 櫓遇ヲ付轟セ到レタ〆寡任■諾︵掌鱒卜翼. 身7昌. ⋮ . ∼, .. 舞一. ﹃ . 夢鱒嘱.分 隠 ,. .・ ﹄.. 露菖餓 導 径 囑 髭 ハ £ 員 内 レ ン 塵 噂 ■ 紀 ︵ 露 員 鼻 レ 轟 簾四絡濯任翔託中饗磋實纏遇傷上ノ膏’命箆一陸軍 大隈之,行艦剣在官韓掲ノ者ノ◎蔦雄轟臨鱒鳴託ノ 命覧︵厨瞥曇宮︵飼口蓑翼幽之卜麗鯵旦上ノ糧ア汐. “. 本趣唾行ノ融現贔慶軍ノ事務y嘱託セ,レア戸者幽別 邑麟令,用艦ズ率麹昌俵,糞々享径嘱託著幽蘭跨鵬託. 一21一. 【 曹 〔. 一↓』陰rウ・. −. レヌ. 第2類 官衛 61、61の2 陸軍成規類聚 (図6)軍属に関する資料. 暑 實 7 臨 監 農 軍 大 露 竃轄ノ蔀簾ノ菖ヌ漸瞥基惚己離 奮翼以下之昌同リ︾以上轟鼓ク之ヲ行箔 箭 五 臓 導 征 囑 託 ハ 明 泊三十七串勃令纂ニナ三襲ノ箆 ムμ所昌偉ヲ勅伍官、套径官スハ判征官ノ縛遇レナ ヌ唖ノト潟縛廼ジ付鳥竜,レタμ饗︵運晶陸軍部内 縦,昌旋ナ貿等釦實ノ糞卜舞ヌ亀ノ﹄︵. 妻萎盃;蛍ラ番芸盃ノ鴛畢. ク声4ノレメ ・ 館時ロ託幽茜ノ質腰鞄膨昌磨り融軍郡肉腰Pノ勃藍. 窺算 径 樹 翼 幽 割 緩 實 ノ撫卜露︵3阜7轟. .、 塞●雪3’響薦重05覧■2喜墨禽,. 賛 7 ・ ¶. 鰯六盤享鉦■託昌ケタ饗鉦實縛鏑以上ノ者ノ官鯵鞘 賞ノ盤紛爵館轟欝蒐︵陰累爽巨之7囎ヒ剣侮實縛遇 ’饗,り齢’○韓轟麓昌鰯徹=爵讐轟管三麓伊2, ’. 藤田嗣治がエッセー「地を泳ぐ」の中で、奏任官のボタンを貰って喜んでいる場面が描. かれている。藤田が佐官待遇であった事が分かる。また、その中で、藤島武二は勅任官と. 紹介されているから、彼は将官待遇だったことがわかる。. 藤島武二は雑誌「搭影」13年7月号に中支に派遣されたときの様子をこう書いている。. 「今度の旅行は終始軍の非常なご厄介になった。軍の方ではいくら長くゐてもいいと云う. し、それは大いに自分の望むところでもあったが、余り厄介を掛け過ぎるので、用事が一. 段落ついたのを機会に挨拶に行くと、『老体なのに身体だけを持って来てくれただけで、ど. れ程若い者の精神作興になったか分からない、遠慮は要らぬからゆっくりして下さい』な. どと云われて、却って恐縮して了った」. そして、中支での行動中は、司令部に電話一本で、自動車が迎えに来て、遠距離の移動. は飛行機という破格の扱いであった。. 若手作家たちが勇んで従軍し、戦場で部隊も扱いに困ったとの記録もあるが、軍も「大先. 生」たちにはさすがに扱いが違っていたようだ。. 作家たちはそのように恵まれた待遇の者もいたが、厳しい前線で兵士と同じに大変な従. 軍行を行う者も大勢いた。ある画家が、中支において最前線の司令部に行ってみると、何.
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