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ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、どのように労働利用されたか

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(1)

ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、ど

のように労働利用されたか

著者

村井 淳

雑誌名

研究論集

91

ページ

117-135

発行年

2010-03

URL

http://doi.org/10.18956/00006161

(2)

ソ連 におけ る強制労働 と建設

囚 人 と捕 虜 は 、 どの よ うに労 働 利 用 され たか

村 井

要   旨   ロシ ア 革 命 後 、 ソ ヴ ェ ト当局 は 反革 命勢 力 な どを 弾 圧 す るた め に、 収 容 所 を設 け た。 そ の後 、 ソ連 邦 が 成 立 す る と、 白海 に浮 か ぶ ソ ロヴ ェツ キ ー島 に本 格 的 な強 制 労 働 収 容 所 が建 設 さ れ た 。 1930年 代 の ス タ ー リン時 代 に は 、 イ ン フ ラ整 備 な どで 労 働 力 が 必 要 な こ とか ら、 強 制 労 働 収 容 所 とそ れ を 管 理 運 営 す る グ ラ ー グ(収 容所 管 理 総 局)シ ス テ ム が 必 要 に応 じて構 築 さ れ て い った 。 そ の 切 っ掛 け を提 案 した の は 、 自 ら も最 初 は 囚 人 で あ った フ レンケ リで あ っ た。30年 代 の 大 粛 清 な どに よ り無 実 の 人 が 逮 捕 され 、新 し く建設 され た 強 制 労 働 収 容 所 で 過 酷 な無 賃 労働 を 強 い られ た 。 ま た 、 第 二 次 世界 大 戦 期 に は 、 ドイ ツ 軍 や 日木 軍 な どの 捕 虜 も 同様 の労 働 を強 い られ た 。 そ の 結 果 、 ス タ ー リン時 代 に、 数 百万 もの 人 々が 死 亡 した 。1953年 ス タ ー リン の死 と と もに 、 この 強 制 労 働 シス テ ムは 急 速 に崩 壊 し、 囚 人 や捕 虜 は 釈 放 され て い っ た。 しか し、 これ らの 強 制 労 働 は ソ連 の 産 業 に 貢 献 した が 、 長 い 目で 見 る と ソ連 崩 壊 の 一 因 に な った 。 キ ー ワ ー ド:強 制 収 容 所 、 捕 虜 労働 、 シ ベ リア 抑 留 、 ス タ ー リニ ズ ム 、 大 粛 清

は じめ に

  1917年 のロ シ ア 革 命 以 後 、 ソ ヴ ェ ト政 権 は 、 そ の 政 権 ・経 済 基 盤 を 確 立 す る こ とに 腐 心 し て き た 。 政 権 確 立 に つ い て は 、ボ リ シ ェ ヴ ィ キ 以 外 の エ ス エ ル や メ ン シ ェ ヴ ィ キ も 弾 圧 の 対 象 と な っ た 。1922年 末 の ソ 連 邦 結 成 の2年 後 に レ ー ニ ン が 死 去 す る と、 ス タ ー リ ン と ト ロ ツ キ ー の 権 力 闘 争 が 、 表 面 化 し た 。 ス タ ー リ ン は 公 然 と、 ト ロ ツ キ ー や 権 力 に 近 い 党 幹 部 の 排 除 に 乗 り 出 した 。   さ て 、 収 容 所 ・監 獄 に つ い て は 、「19l7年9月1日 、 ロ シ ア で712の 拘 禁 場 所 が あ り、36,468 人 が い た 」1)とイ ヴ ァ ノ ー ヴ ァ は 述 べ て い る 。 革 命 後 「収 容 所 の 数 は 急 増 した 。1919年 末 ま で に は 、 ロ シ ア 共 和 国 領 内 で21、1920年 夏 に は49、11月 に は84、1921年1,月 ま で に107、11月 に は 122の 収 容 所 が あ っ た 。」2)また 、モ ス ク ワ に は1919年ll月12日 時 点 で7つ の 収 容 所 が あ り、3,063 人 が 収 容 さ れ て い た3)。 ア ップルボ ー ム は 、 「一 九 ニ ー 年 に は も う四 三 県 に 八 四 の 収 容 所 が あ っ

(3)

た が 、 そ の 大 多 数 は これ ら最 初 のr人 民 の 敵 』 どものr更 生 』 を 目的 とした もの だ った 」4)と

べ て い る。 ロ シ ア全 体 につ い て は、1920年 末 で18万 人、1921年 末 で17∼20万 人 ほ どの 囚 人(チ ェ

カ、 内務 人 民 委 員 部 、 司 法 人 民 委 員 部 な どの 監 獄 ・収 容 所 な ど)が 存 在 した とされ る5)。

  ア ッ ブル ポ ーム は 、 初 期 の 収 容 所 は 更 生 な い し矯 正 を 目的 とした もの で あ る と主 張 す るが 、

強 制 労 働 も存 在 した 。1918年1月24日

に 監 獄 労 働 隊 に つ い て の 司 法 人民 委 員 部 決 定 が 出 され 、

監 獄 に監 禁 され て い る労 働 可 能 者 か ら、 国家 に必 要 な労 働 生 産 の た め に労 働 部 隊 を組 織 す る。

そ れ は 、 雑 役 夫 の 労 働 を 上 回 る もの で は な い 」6)と

され た。 ま た、1919年4月15日

に は 、 強 制 労

働 収 容 所 につ い て の 全 ロ シア 中 央 執 行 委 員 会 決 定 が 出 され 、 県 執 行委 員 会 各 支 部 に 、 強 制 労働

収 容 所 が 組 織 され た7)。そ の 一 方 で 、1924年10月16日

に 、 全1コシ ア執 行 委 員 会 は 、 ロ シ ア ・ソ

ヴ ェ ト連 邦 社 会 主 義 共 和 国 矯 正 労 働 法 を 制 定 した 。

  革 命 直 後 か らお お よそ ソ連 邦 成 立 ま で の 期 間 に お い て 、 監獄 ・収 容 所 な どの 役 割 は 、反 ソ分

子 や 犯 罪 者 を 社 会 か ら隔 離 し、 主 に 労 働 に よ って 矯 正 させ る こ とで あ った 。 しか し、 ソ連 邦 成

立 後 の1920年 代 後 半 に な る と、 囚 人 労 働 が 注 目され る よ うに な った 。 当 初 は 、 囚 人 あ って の 労

働 で あ っ たが 、 そ の 後 、 労 働 あ って の 囚 人へ と本 末 転 倒 す る。 つ ま り、 労働 力 の 必 要 性 に よ り、

囚 人 や 収 容 所 が 生 み 出 され て い った で あ る。 本 稿 で は 、 ソ連 に お い て 強 制 労働 が どの よ うに 組

織 され 、 どの よ うに利 用 され た か を 考 察 す る。 そ れ に よ り、 ソ連 ス タ ー リン全 体 主 義 体 制 の 一

端 とそ の 後 の ソ連 へ の 影 響 に つ い て も考 えた い 。

1.強

制 の ため の 矯 正 労 働 収 容 所 の 始 ま り

  ソ 連 邦 成 立 直 後 の1923年5,月 、 北 極 海 に 近 い 白 海 に 浮 か ぶ ソ ロ ヴ ェ ツ キ ー(ソ ロ フ キ)島 に 調 査 団 が 入 っ た8)。 同 年10月13日 、 ソ 連 人 民 委 員 会 議 は 、 ア ル ハ ン ゲ リス ク と コ ミ の 囚 人 留 置       ス ロ   ン 所 を 基 礎 に 、 ソ ロ ヴ ェ ツ キ ー 特 命 強 制 労 働 収 容 所(CJIOH)の 設 置 を 決 定 した9)。 そ し て 、 島       ラ     ゲ  リ に あ っ た 修 道 院 な ど を 接 収 し 収 容 所(πarePL)と し た 。 ソ ロ ヴ ェ ツ キ ー 収 容 所 は 、 設 立 直       オ ゲ へ ウ 

後 に新 た に設 立 され た 統 合 国 家 政 治 局(orHy)に

移 管 され た 。 この ソ ロ ヴ ェ ツキ ー収 容所

が 、1930年 代 ス タ ー リン時 代 に 巨大 化 す る グ ラ ー グ ・シス テ ム の 直 接 の 出発 点 で あ る と考 え ら

れ て い る。 グ ラ ー グ ・シス テ ム とは 、 強 制 収 容 所 とそ の 労働 を 管 理 す るい くつ か の 管 理 総 局 の

総 体 を 指 す 。

  この 収 容 所 は 、 の ち に 「

強 制 」 か ら 「矯 正 」 と変 更 され 正 式 名 称 が ソ ロ ヴ ェ ツキ ー矯 正 労働

収 容 所 とな った 。1923年10月13日

に 正 式 に 開 設 され た この 収 容 所 は 、1931年11月16日

に 閉 鎖 さ

れ 、 白海 バ ル ト収 容 所 に移 管 され た ⊥o)。

囚 人 、 所 員 、 施 設 な どは 、 白海 バ ル ト収 容所 に 移 され

た 。 囚 人 は 、 森 林 伐 採 ・加 工 、 泥炭 採 掘 、 漁 業 、 農 業 、 煉 瓦 製 造 、 皮 革 ・陶 器 ・石 灰 の 製 造 、

機 械 工 場 や ム ル マ ンス ク鉄 道 線 で の 労 働 、 道 路 建 設 、 日用 品 製 造 、 魚 の 加 工 な どの 労働 に使 用

(4)

さ れ た 。 囚 人 数 は 、 最 初2,557人 、 最 大718,000人(1931年1,月1日)、 閉 鎖 直 前 の1932年15,130人 、 1933年19,287人 で あ っ た11)。囚 人 の 死 者 数 に つ い て は 、 資 料 が 不 足 して い る が 、1932年971人 、 1933年3,482人 の 記 録 が あ る12'。上 記 の 囚 人 数 を 基 に 単 純 計 算 す る と 、 囚 人 死 亡 率 は1932年 は 6.4%、1933年18.1%と な る 。   ソロ ヴ ェ ツ キ ー 収 容 所 は 、1929年 頃 ま で は 、 ソ 連 で 唯 一 の 公 式 収 容 所 で あ っ た 。 次 に 設 立 さ れ た 収 容 所 は 、 ヴ ィ シ ェ ー ラ 矯 正 労 働 収 容 所(1928-1929年 設 立)か 、 北 方 収 容 所(1929年6 月28日 設 立)ま た は 極 東 矯 正 労 働 収 容 所(1929年 設 立)に な る 。   ソ 連 は 、 世 界 的 に 有 名 な 作 家 ゴ ー リキ ー ま で 動 員 し て 、 強 制 労 働 収 容 所 を 「矯 正 」 の た め の も の だ と 宣 伝 し た 。 そ の た め に も 、1930年4月7日 に は す べ て の 公 文 書 で の 「矯 正 労 働 収 容 所 イビアヒエル                                     グ ラ ヒ ク (14T∫1)」 の 使 用 を 決 定 し た 。 同 じ 日 に 、  OFHyの 下 に 収 容 所 管 理 総 局(Fy.HAF)13,の 設 置 が 決 定 さ れ た 。 こ れ 以 降1930年 代 に 入 る と、 収 容 所 の 数 は 爆 発 的 に 増 え て い く。 そ の 理 由 と し て 、 ス タ ー リ ン の 権 力 が 確 立 し て い く こ と、1928年 か ら 第1次5力 年 計 画 が 進 行 中 とい う こ と、 そ して 何 よ り も 囚 人 の 労 働 利 用 に 着 目 し た こ とが 挙 げ ら れ る 。 そ れ と と も に 、1929年 か ら 収 容       エヌカ ヴェ デ 

所 や 監 獄 を 司 法 人民 委 員 部 か ら 内務 人民 委 員 部(HIくB皿)に

移 管 し始 め た。

  囚 人 の 労働 利 用 につ い て は 、 不 思 議 な 人 物 が か か わ って い る。 フ レン ケ リ(ΦpeHKe肪,

HaΦTa■HhApoHoBHq:1883-1960年)で

あ る。 最 近1コシ ア で 刊 行 され た、 収 容 所 関 係 の 資

料 集 には 、 フ レ ン ケ リの 経 歴 に つ い て 、 次 の よ うに 出て い る。1923年 に 越 権 罪 、 強 要 罪 で 逮捕

され10年 の 労 働 刑 を 言 い 渡 され 、1927年 に 刑 を 免 除 され 釈 放 され た 。1927年5月27日

ソ ロ ヴ ェ

ツキ ー特 命 収 容所 管 理 局経 済 部 長 とな り、 そ の後 、 白海建 設 労 働 長兼 技 師 長補 、 モ ス ク ワ ・ヴ ォ

ル ガ運 河 建 設 副 長 官 、OFHyバ

ム建 設 長 官 、

 HKB双(内

務 人 民 委 員 部)バ

イ カル ・ア ム ー

ル 矯 正 労 働 収 容 所 長 兼 バ ム建 設 長 官 、 極 東HIくB月 鉄 道 建 設 管 理 局 長 官 兼 ア ム ール 鉄 道 収 容所

      でムウ  テ 

長 、 鉄 道 建 設 管 理 総 局 長 官 兼 ソ連HKB且

グ ラ ー グ副 長 官 、

 HKB皿

一MB且(内

務 省)鉄 道 建

設 管 理 総 局 長 官 な どを 歴 任 し、 最 終 階 級 は 技 術 中 将(1943年10月29日

か ら)で あ った 。 功 績 に

よ りレ ーニ ン勲 章 な どを 授 与 され 、1960年3月3日

死 去'4,。これ が 、彼 の公 式 経 歴 で あ る。

  ナ チ ス の 強 制 労 働 収 容 所 とは違 い 、 ソ連 の 強 制 労 働 収 容 所 は 、 民 族 的 な 差 異 は あ ま り関 係 し

な い。 ナ チ ス=ド イ ツで は、 ユ ダヤ人 で あ る こ と自体 が罪 で あ り収 容 所 に入れ られ る理 由 とな っ

た 。 しか し、 ソ連 で は 、 ロ シア 人 で あ ろ う とな か ろ う と民 族 に 関 係 な く、 収 容 所 に 入 れ られ た 。

理 由は 、 反 体 制 以 外 に は 、 逮 捕 時 に 「

そ こに い た か ら」 で あ る。 した が って 、 ソ連 で は 、 囚 人

と看 守 の 垣 根 が 低 か った 。 い つ 何 時 看 守 が 囚 人 とな るか 分 か らな か った 。 逆 に 、 囚 人 か ら解 放

され るだ け で な く、 看 守 さ らに は 所 長 な どに な る例 もあ った 。 フ レ ンケ リは 、 そ の 代 表 的 な 例

と言 って よい だ ろ う。

      ヘ    ヘ    ヘ    へし   ヨし   ヘ    ヨし   ヘ    へし   ヘ    ヘ    ヨし   ヘ    ヘ   ソ ル ジ ェ ニ ー ツ ィ ン は 、 「《 群 島 》 に は 、 《 フ レ ン ケ リが 収 容 所 を 考 案 した 》 と い う根 強 い 伝 説 が 生 き て い る 。 …  (中 略)ε 収 容 所 とい う も の は フ レ ン ケ リ 出 現 以 前 に も あ っ た に は あ っ

(5)

た が 、 ま だ 完 壁 を 誇 る よ うな 最 終 的 で 統 一 的 な 姿 に は な って い な か った の だ 。 す べ て の 真 実 の

予 言 者 は 、 彼 が 最 も必 要 と思 わ れ る瞬 間 に 出現 す る もの だ 。 フ レ ンケ リも また 癌 腫 を 移 転 させ

は じめ た こ ろの 《群 島 》 に現 れ た の で あ る。

」b,と述 べ て い る。 ま さ し く、 フ レン ケ リは絶 妙 の

タイ ミン グで 出現 した人物 で あ る。 ソル ジ ェニ ー ツ ィン に よれ ば 、 フ レンケ リは ソ ロヴ ェツキ ー

に囚 人 と して い る ときか ら頭 角 を あ らわ し優 遇 され て きた 。 そ して 「一 九 二 九 年 の あ る 日、 フ

レ ン ケ リを 迎 え る た め に モ ス ク ワか ら飛 行 機 が とん で きて 、 彼 を ス タ ー リン との 会 見 へ 運 ん

だ。

」'6)と

い うの だ 。 彼 は、 そ の 「才能 」 の お 陰 で 、 ス タ ー リンの 大 粛 清 も生 きの び た だ け で な

く、 ス タ ー リン に も認 め られ 栄 達 を 果 た した 。

  さて 、 フ レ ンケ リは 、 どの よ うに 囚 人 労 働 利 用 組 織 で あ る グ ラ ー グ ・シス テ ム 建 設 に 寄 与 し

た の で あ ろ うか 。 イ ヴ ァ ノ ー ヴ ァは 、 こ う述 べ て い る。 「

ず ば抜 け た組 織 力 、 才 能 、 労働 能 力

の あ る この 人 物[フ

レ ンケ リ]が 、 収 容 所 経 済概 念 を 創 出 した とされ る。 す で に1920年 代 に 、

1924-1927年

は ソ1コヴ ェ ツキ ー強 制 収 容 所 の 囚 人で あ りな が ら、 フ レ ンケ リは 独 立採 算 制 の 収

容 所 転 換 計 画 を 立 案 し、 各 段 階 に 広 げ た と述 べ られ て い る。 フ レ ンケ リの 提 案 は 、 根 本 的 に 強

制 収 容 所 の す べ て の 労 働 シス テ ム を 変 え、 囚 人労 働 利 用 に よ り最 大 限 の 利 益 を 国 家 が 得 る こ と

が 出来 る よ うに した。」'7)そ

して 囚人 を 労働 可 能 レベ ル で カ テ ゴ リー分 け し、 ノル マ を課 し、 達

成 度 に よ って 、 食 料 増 配 な どの 待 遇 や 早 期 釈 放 な どの 餌 で 労 働 意 欲 を絞 り出 した18)。そ れ だ け

で な く、 彼 の 昇 進 と ともに グ ラ ー グ ・シス テ ム が 整 備 され て い く。

2.白

海 バ ル ト海 運 河 の 建 設

  現 在 ロ シア で は 、 大 河 と運 河 で モ ス ク ワを 中 心 に 、 北 は 白海 や バ ル ト海 か ら南 は カス ピ海 や

黒 海 、 東 は ペ ル ミま で 結 ば れ て い る。 結 氷 す る冬 以 外 は 、 木 材 や 石 油 な どを 船 で 運 搬 す る輸 送

の 大 動 脈 とな って い る。 そ の 手 始 め が 白海 バ ル ト海 運 河 の 建 設 で あ った 。 そ れ は 、 運 河 建 設 だ

け で な く、 す べ て の 囚 人 労 働 大 規 模 利 用 の 始 め で もあ った 。 そ して 、 白海 バ ル ト海 運 河 建 設 の

成 果 は 、 ソ連 の 技 術 力 ・建 設 力 を 世 界 に 宣 伝 す る手 段 に も され た 。

(6)

表1.白

海 バ ル ト矯 正 労 働 収 容 所 の 囚 人 数 と死 者 数(人)

囚人

死者

4月 7月 10月 74,715 77,404 80,558 1,362 10月 79,232 1932 1月 4月 7月 10月 64,400 80,200 122,800 125,000

1,438

(2.24)

1939 1月 4月 7月 10月 86,567 84,772 77,025 76,408 2,462 1936 1月 4月 7月 10月 90,210 74,900 44,045 36,796 1,298 1933 1月 4月 7月 10月 107,900 119,660 66,971 41,428

2,010

(2.03)

1940 1月 4月 7月 10月 76,863 55,651 51,042 52,723 2,139 1937 1月 4月 7月 10月 58,965 61,918 59,071 68,050

2,271

(3.50)

1934 1月 4月 7月 10月 70,375 68,003 61,211 58,632

8,870

(10.56)

1941 1月 4月 7月 71,269 73,194 67,673 1,888 1938 1月 4月 7月 79,882 83,810 77,278 3,945

合 計

29,819 1935 1月 66,418 ※()内 は 死 亡 率(%)、 死 者 は 各 年 の 合 計 。 死 者 の 全 合 計 が 各 年 の 死 者 の 合 計 と 一 致 し な   い が 、 出 典 に 載 っ て い る と お り 示 し た 。 各 月 は 、1日 時 点 で の 数 字 。 な お 、 死 亡 率 の 記 載 し   て い な い 年 は 、 参 考 資 料 中 の デ ー タ 欠 落 の た め 不 明 で あ る 。

出 典:A.H.1くoKypHH,10.H.  MopKoB(cocTaBnTe■H),C〃2α 捌 〃cκz'θo〃2p蝕 κz`8脚 α8α   1930-1953,rPo60朋H8θ κ,δ〇六Wθ 〃〃副,,MaTepHK,  MocKBa,2005,  cTp.522.

  ス タ ー リ ン 名 称 白 海 バ ル ト海 運 河 は 、 白 海 南 に 位 置 す る ベ ロ モ ル ス ク か ら オ ネ ガ 湖 へ 出 て 、 そ の 南 部 か ら ラ ド ガ 湖 南 部 へ 抜 け て 、 ネ ヴ ァ 川 を 通 っ て ペ テ ル ブ ル ク や バ ル ト海 に 出 る ル ー ト で あ る 。 こ の 運 河 建 設 の た め に 、1931年11月16日 、 白 海 バ ル ト矯 正 労 働 収 容 所 が 、 ソ ロ ヴ ェ ツ キ ー 収 容 所 を 基 に オ ネ ガ 湖 北 端 の メ ドヴ ェ ジ ェ ゴ ー ル ス ク 市 付 近 に 設 立 さ れ た 。 こ の 収 容 所 の 囚 人 労 働 は 、 白 海 バ ル ト海 運 河 の 建 設 を 中 心 に 、 白 海 バ ル ト ・コ ン ビ ナ ー ト建 設 、 木 材 調 達 、 セ ゲ ジ ャ ・パ ル プ ・コ ン ビ ナ ー ト建 設 、 ト ゥ ー ロ マ 水 力 発 電 所 、 モ ン チ ェ ゴ ー ル ス ク ・ニ ッ ケ ル ・コ ン ビ ナ ー トな ど 白 海 バ ル ト海 運 河 周 辺 の 労 働 に も 利 用 さ れ た19,。   囚 人 数 は 、 表1に よ る と 、36,796人(1936年10月1日)∼119,660人(1933年4月1日)で あ る 。1年 の 間 で も 季 節 に よ っ て 囚 人 数 の 変 動 は 、 激 し い 。 死 亡 率 は 、 お お よ そ2∼5%程 度 で あ る が 、1934年 は10.56%と 目立 っ て い る 。 そ の 原 因 は 、 「飢 饅 、 収 容 所 で の 囚 人 の 食 事 の 急 激 な 悪 化 、 春 の 増 水 徴 候 や 作 業 施 設 の 開 設 が 迫 っ た た め の 激 し い 労 働 強 化 で あ っ た 。」20)つま り 1933年6月20日 に 白 海 バ ル ト海 運 河 が 開 通 し た の で 、 こ の 年 は 工 期 を 予 定 通 り進 め る べ く無 理

(7)

を した ため 、死 者 が増 え た もの と思 われ る。1933年6,月 に運 河 が 完成 して か ら釈 放 や モ ス ク ワ ・

ヴ ォル ガ運 河 建 設 へ 移 動 させ られ た り して 、 同年7月1日

の 囚 人 数 が66,971人 に減 少 した 。

  1933年 に発 行 され た パ ン フ レ ッ トに よ る と、 第1次5力

年 計 画 の 目玉 で もあ った 白海 バ ル ト

海 水 路(運 河)は 、 間 門19、 運 河33を 擁iする大 規 模 な 水 路 を短 期 間 に 完 成 させ た と賛 美 され て

い る21)。しか し、 短 期 間 で工 事 を した た め もあ って 水 深 が 浅 く、 喫 水 の 浅 い比 較 的 小 型 の船 し

か 航 行 で きな い 。 と くに 間 門 は 他 の 水 路 の 間 門 に 比 べ て 狭 く、 一 度 に 入 る船 の 数 が 少 な い 。 こ

の 白海 バ ル ト海 運 河 建 設 を 実 質 的 に 指 揮 し たの は 、 白海 バ ル ト矯 正 労働 収 容 所 の 労働 長 で あ っ

た フ レ ン ケ リで あ る。 収 容 所 長 が 替 わ ろ う とも、 フ レ ン ケ リは 建 設 の 当 初 か ら終 了 時 ま で 労働

長 と して 建 設 を 指 揮 した 。 白海 バ ル ト収 容 所 は 、 運 河 完 成 後 も 白海 コ ン ビナ ー ト建 設 を 始 め 、

白海 バ ル ト海 水 路 周 辺 の さま ざま な 建 設 や 労 働 に 囚 人 労 働 を 提 供 して い た 。1941年9,月18日

に、

この 収 容 所 は 閉 鎖 され 、 そ の 資 材 と囚 人 は 国 防 建 設 関 係 の 収 容 所 建 設 に 移 転 され た22)。

  こ う して 、 ソ ロ ヴ ェ ツキ ー収 容 所 で 芽 生 えた 囚 人労 働 利 用 が 、 白海 バ ル ト収 容 所 で 組 織 化 さ

れ 、 大 規 模 な 事 業 で あ る 白海 バ ル ト海 運 河 の 建 設 に 利 用 され た 。 科 学 技 術 が 発 達 して い な い ソ

連 で 人海 戦 術 に頼 らざ るを得 な い事情 が、 囚 人労 働 を 生 ん だ と言 って もよ いだ ろ う。 そ の ス イ ッ

チ を い れ た の が 、 フ レ ン ケ リで あ った と思 われ る。 しか し、 も し彼 が い な くて も、 そ れ ほ ど遅

くな くス イ ッチ は 入 った で あ ろ う。

3.収

容 所 の 組 織 化 と グ ラ ー グ ・シ ス テ ム の 構 築

  ソ連 初 期 の 建 設 は 、 ま ず は 運 河 や 鉄 道 とい った 交 通 路 の 建 設 で あ る。 と くに僻 地 に 石 炭 や 金

な どの 鉱 物 資 源 が 見 つ か る と、 そ れ を 運 び 出す た め の 鉄 道 な ども必 要 とな る。 そ して 、 交 通 路

に沿 って ダム や 発 電 所 、 コ ン ビナ ー ト、 工 場 が 建 設 され 、 必 要 とあ れ ば 都 市 も建 設 され た 。 そ

れ と と もに 各 地 に 強 制 労 働 収 容 所 が 建 設 され た 。 そ うな る と、 もは や 一 つ の収 容 所 管 理 総 局

(グ ラ ー グ)だ け で は 、 収 容 所 や 建 設 事 業 を管 理 で き な くな った。 地 域 や 事 業 ご とに管 理 下 に

複 数 の 収 容 所 を 擁 す る管 理 総 局 あ るい は 管 理 局 が 設 立 され る よ うに な った 。

  最 初 の 管 理 総 局 と そ れ と同 等 の もの は 全 部 で26あ っ た 。 ま ず 、 最 初 に 収 容 所 管 理 総 局

  グ ラ     グ (FyJIAF:1930年4月25日 開 設)23)が 設 立 さ れ 、 そ の 後 、 極 北 建 設 管 理 総 局(1931年11月13日 開 設)、 鉄 道 建 設 収 容 所 管 理 総 局(Fy>K旦c:1940年1月4日 開 設)、 鉱 山 事 業 収 容 所 管 理 総 局 (ryJIFMH:1941年2月26日 開 設 、 ノ リ リ ス ク 鉱 山 開 発)、 ヴ ォ ル ガ ・ ドン 連 絡 運 河 建 設 収 容 所 管 理 総 局(1949年ll月5日 開 設)、 ヴ ォ ル ガ ・バ ル ト海 水 路 建 設 収 容 所 管 理 総 局(1952年7 月3日 開 設)な どが 設 立 さ れ た 。   そ れ ら 管 理 総 局 の うち い くつ か は 、 管 轄 下 に さ ら に 管 理 局 を 持 つ も の も あ っ た 。 例 え ば 、 鉄 道 建 設 収 容 所 管 理 総 局(Fy>K且c)の 下 に は 、 バ ム 建 設 ・収 容 所 西 方 管 理 局 、 バ ム 建 設 ・収

(8)

容 所 東 方 管 理 局 、 鉄 道 建 設 収 容 所 北 方 管 理 局 な ど6つ の 管 理 局 が あ った 。 収 容 所 管 理 総 局 には 、

極 東HKB双

収 容 所 鉄 道 建 設 管 理 局 、 北 東 矯 正 労 働 収 容 所 管 理 局 の2つ の 管 理 局 が あ った 。

  白海 バ ル ト海 運 河 建 設 や 最 初 の 極 東 で の 鉄 道 建 設 な ど初 期 の 収 容 所 労働 利 用 は 、 す べ て 収 容

所 管 理 総 局 が 管 理 して い た 。 しか し、 と くに 極 東 で の 鉄 道 建 設 は 、 管 理 総 局 本 部 か ら離 れ て い

た の で 、 そ の 下 に 極 東HIくB皿 収 容 所 鉄 道 建 設 管 理 局 が設 置 され た。 そ の後 、 ソ連 各地 で鉄 道

建 設 な どが 計 画 され る と、 別 に 管 理 総 局 を 創 設 し、 そ の 管 轄 下 で 地 域 ご とに 鉄 道 建 設 管 理 局 を

必 要 に応 じて 設 立 あ る いは 廃 止 を し たの で あ る。 管 理 局 の 管 轄 下 に は 複 数 の 収 容 所 が あ り、 管

理 局 の 改 廃 な どに ともな い 、 収 容 所 の 移 管 、 再 編 、 廃 止 、 新 設 が 必 要 に 応 じて な され た 。

  1923年 に ソロ ヴ ェ ツキ ー収 容 所 が 設 立 され て 以 来 、1929年 まで 囚 人 の 労働 利 用 に つ い て 試 行

錯誤 が繰 り返 され、 強 制労 働 体 制 が形 成 され て い った 。 さ らに1930年 に初 め て管 理 総 局(グ ラ ー

グ)が 設 置 され た が 、 管 理 総 局 は、1930年 代 に は 合 計3つ

しか 設 置 さ れ な か っ た 。 しか し、

1940年 以 降 、 管 理 総 局 管 轄 下 の 管 理 局 も含 め 急 増 した 。 当 局 は 、1930年 代 に 管 理 総 局 一収 容所

シス テ ム の 効 率 的 な 利 用 方 法 を 確 立 した の で あ る。 そ れ と ともに 囚 人 数 も増 加 し、 収 容所 囚 人

数 は1941年 ピ ー ク に 達 す る(1,500,524人)。

強 制 収 容 所 とは 別 の 緩 や か な 収 容 場 所 で あ る居 留

地 の 囚人(429,205人)を

加 え た 、 囚 人1,929,729人 に対 す る1941年 の死 者 は117,484人 で 死 亡 率

6.0% で あ る。 そ の 後 、 囚 人 数 は 、 死 亡 や赤 軍 へ の 入 隊 な どで や や 減 少 す るが 、 逆 に死 亡 率 は、

1942年 が24。9%、1943年

も22.4%と 急増 す る も、1944年 に は9.3%と 急 減 し、 そ の後 も緩 や か に

減 少 して い く。2の

この 死亡 率 急 増 の原 因 は、 独 ソ戦 の 影 響 に よる と ころ が大 きいが 、 グ ラ ー グ ・

シス テ ム 確 立 に ともな う労 働 強 化 も考 え られ る。

  こ う して1940-41年

頃 に 、 内務 人 民 委 員 を 頂 点 として 、 管 理 総 局 一(管 理 局)一 収 容所 とい う

ヒエ ラル キ ー状 の 内務 人民 委 員 部 の グ ラ ー グ ・シス テ ム が 確 立 した 。

4.グ

ラー グ 管 理 下 にお け る収 容 所 一囚 人 の 生 活 と労 働 利 用

  さて 、 い くつ か の 代 表 的 な 収 容 所 の あ る時 期 に つ い て 、 代 表 的 な 事 業 別 に 、 囚 人 の 動 態(在

数 や 死 者 な ど)や 待 遇 、 労 働 利 用 の 実 態 な どに つ い て 特 徴 を ま とめ て み た い と思 う。

  ソ連 初 期 の 大 規 模 建 設 の 中 心 の 一 つ は 、 運 河 建 設 で あ った 。 第1次5力

年 計 画 で は 白海 バ ル

ト海 運 河 、 第2次5力

年 計 画 で は 、 モ ス ク ワ ・ヴ ォル ガ運 河(1947年

に モ ス ク ワ運 河 と改 称)

が 、 目玉 建 設 で あ った 。 さ らに ヴ ォル ガ ・ドン運 河 とヴ ォル ガ ・バ ル ト海 運 河 の 建 設 と併 せ て

4つ の 運 河 ・水路 建 設 が 行 わ れ た。5つ

目の大 トル クメ ン運 河 は建 設 が 中止 され た 。 モ ス ク ワ ・

ヴ ォル ガ運 河 は 、1932年 に 建 設 が 始 ま り37年 に 完 成 した 。 間 門 は11あ る。 この 運 河 建 設 の 中 心

で あ っ た収 容 所 は、 ドミ トロフ 収 容 所 で あ る。 表2で 示 され る よ うに約6年

間 で22,842人 の 囚

人 が 死 亡 した 。

(9)

表2.主

な収 容 所 の 囚 人 数 、 死 者 数 、 逃 亡 者 数(1)(人)

ド ミ ト ロ フ

バム収容所

囚 人

死者

囚人

死者

逃亡

1933 1934 1935 1936 1937 1938 10,400 88,534 192,229 192,034 146,920 16,068 8,873 6,041 4,349 2,472 1,068    39   3,800 62,130 153,547 180,067 127,483 200,907

4,774(12.65)

5,788(5.19)

6,952(4.27)

3,372(2.11)

2,306(1.35)

7,272(2.95)

10,102 14,241 12,537 9,030 6,585 死 者:22,842 死 者:30,464 ※ 囚 人 数 は 、 各 年1月1日 時 点 。()内 は 死 亡 率(%)。 死 者 数 は 年 間 の 数 字 で あ る か ら 、 表   の 囚 人 数 よ り 数 字 が 大 き い 場 合 も あ る 。 死 亡 率 は 、 年 間 の 囚 人 数 で 割 っ た も の で あ る 。 出 典:A.H.  KoKypHH,10.H.MopKoB(cocTaBHTe■H),  C〃2α脳 〃oκ〃ε α塑o簾 〃2脚 α∼α   1930-1953,rPocc瑚 ∬8θ κ,δoκアw〃 〃副,  MaTepnK,  MocKBa,2005,  cTp523,525.

  独 ソ 戦 が 終 わ る と、 あ ら た な 運 河 建 設 が 始 ま っ た 、1948年 か ら52年 に か け て 、 ヴ ォ ル ガ ・ ド ン 運 河 が 建 設 さ れ た 。1949年 に は ヴ ォ ル ガ ・ ド ン 連 絡 運 河 建 設 管 理 総 局 が 設 置 さ れ 、 そ の 管 理 下 に6つ ほ ど の 収 容 所 が あ り、 お お よ そ5万 ∼12万 人 の 囚 人 が い た 。 「1948-1952年 の 間 に 、 236,778人 の 囚 人 が 送 り込 ま れ た 。 そ の うち 、 釈 放114,492人 、 死 亡1,766人 、 逃 亡1,123人 で あ る 。 最 高 囚 人 数 は 、1952年1月1日 の118,178人 で あ る 。」2ろ)     さ ら に こ の 後 、1940年 に 建 設 が 始 ま っ た が 独 ソ 戦 に よ り中 止 さ れ て い た ヴ ォ ル ガ ・バ ル ト 海 運 河 ・水 路(オ ネ ガ 湖 ・チ ェ レ ポ ー ヴ ェ ツ)が 、1952年 か ら 、 ヴ ォ ル ガ ・バ ル ト海 水 路 建 設 収 容 所 管 理 総 局 も 設 置 さ れ て 、 そ の 建 設 が 再 開 さ れ た 。 管 理 総 局 の 配 下 に ヴ ィ チ ェ ゴ ー ル イ 収 容 所 、 シ ェ ク ス ナ 収 容 所(の ち こ の2つ は 、 ヴ ォル ガ ・バ ル ト海 収 容 所 に 統 合)、 ヴ ァ ル ナ ヴ ィ ン 収 容 所 が あ っ た 。   交 通 輸 送 の も う一 つ の 大 き な 手 段 は 、 鉄 道 で あ る 。 飛 行 機 も 交 通 輸 送 手 段 と し て は 、 と く に 僻 地 で は 有 効 で あ り、 飛 行 場 建 設 管 理 総 局 を 設 置 し て 飛 行 場 を 各 地 に 建 設 し た 。 し か し 、 飛 行 機 輸 送 は 、 大 量 輸 送 に は 不 向 き で あ る 。 大 量 輸 送 手 段 と し て 運 河 と と も に 整 備 さ れ た の が 、 鉄 道 で あ っ た 。 一 方 、 道 路 の 整 備 は 、 鉄 道 建 設 や そ の 補 助 とい う場 合 が 多 く、 幹 線 道 路 の 整 備 は 、 と く に シ ベ リア で は 進 ま な か っ た 。 も ち ろ ん 幹 線 道 路 管 理 総 局(1938年 設 立)を 設 置 し 、 道 路 建 設 も 行 っ た が 、 鉄 道 建 設 の 比 で は な い 。   鉄 道 建 設 収 容 所 管 理 総 局 が 設 置 さ れ た の は 、1940年1月4日 で あ る が 、 そ れ よ りず っ と以 前 に 、 収 容 所 管 理 総 局 の 下 で バ イ カ ル ・ア ム ー ル(バ ム)収 容 所(1932年11,月10日   38年5月20

(10)

日)な どが 鉄 道 建 設 に 乗 り出 した 。 と くに シベ リア 中 東 部 で は 、 鉄 道 の 整 備 が 遅 れ て い た 。 バ

ム 収 容 所 も シベ リア 鉄 道 の 整 備 や そ れ に 連 な る支 線 な どの 建 設 を 行 った 。1934年7月15日

、 白

海 バ ル ト海 運 河 や ヴ ォル ガ ・モ ス ク ワ運 河 の 建 設 に お い て 手 腕 を 発 揮 した フ レ ンケ リが 、 バ ム

収 容 所 長(第2代)に

任 命 され 、 極 東 鉄 道 管 理 局 長 官 に もな った 。 こ うして 独 ソ戦 開 始 直 前 に

は 、 鉄 道 建 設 の 総 体 制 が 整 備 され た 。

  さ ら に戦 後 は 、 管 理 総 局 の 下 に 管 理 局 が 地 域 ご とに 設 け られ 、 鉄 道 整 備 が 進 め られ た 。 そ の

建 設 には 、 ドイ ツ 人や 日本 人の 捕 虜 も多 数 使 用 され た。 初 期 の バ ム 収 容 所 は 、 タ イ シ ェ ッ トや

コム ソモ リス ク、 ウス チ ・ニ マ ンを 中 心 に 鉄 道 建 設 な どを 行 った 。 表2に

よれ ば 、 バ ム 収 容所

にお け る1933年 の 囚 人 の 死 者 は4,774人 で 死 亡 率 は12.7%に

も達 した 。 最 初 は、 収 容 所 そ の も

の の 建 設 が 必 要 で あ り、 居 住 環 境 な どが 整 備 され て い な か った もの と考 え られ る。 そ の 後 死 亡

率 は 低 下 す るが 、1938年 に 収 容 所 が 閉鎖 され る まで に 、30,464人 の 死 者 を 出 した。 年 平 均5千

人の 死 者 で あ る。 冬 は 零 下40度 以 下 に な る極 寒 の 地 で 、 さ らに 食 料 や 生 活 環 境 が 劣 悪 な 状 態 で

の 強 制 労 働 が 、 多 数 の 囚 人 の 命 を 奪 った 。 そ の よ うな 状 態 で あ った の で 、 厳 しい 気 候 や 広 大 な

無 人 地 帯 な どの 自然 環 境 が 収 容 所 を取 り囲 ん で い る とは い え 、 「バ ム 収 容 所 で は 、 大 量 の 囚 人

逃 亡 を 出 し、 半 数 以 上 は 捕 ま らな か った 。 囚 人 の 多 くは 反 革 命 罪 で あ る。

」26/

  表3は 、 鉄 道 建 設 を 担 当 した 収 容 所 の 代 表 的 な もの で あ る。 ニ ジネ ・ア ム ール 矯 正 労働 収 容

所 は 、1939年5月13日

開 設 、47年9,月10日 閉 鎖 した 。 北 方 鉄 道 矯 正 労働 収 容 所 は 、1938年5月

10日 開 設 、50年7月24日

閉 鎖 した 。 北 ペ チ ョー ラ鉄 道 矯 正 労働 収 容 所 は 、1940年5月14日

開 設 、

50年7,月24日 閉 鎖 した。 ニ ジ ネ ・ア ム ール 収 容 所 で は 、9年 間 に16,698人 の死 者 を 出 した 。 年

平 均1,855人 で あ る。 北 方 鉄 道 収 容 所 で は 、13年 間 で20,455人 、 年 平 均1,573も の 死 者 を 出 した。

逃亡 者 も死者 とほ ぼ比 例 す る よ うに増 減 し、1940年 に最 高 の1,694人 を記 録 して い る。 北 ペ チ ョー

ラ鉄 道 収 容 所 で も、14年 間 で34,377人 、 年 平 均 約2,456人 もの 死 者 を 出 した 。 どの 収 容 所 に お

いて も、1941-44年

頃 に は 死 者 が 増 加 した 。 そ れ は 、 独 ソ戦 に よ る食 糧 事 情 の 悪 化 な どが 影 響

して い る もの と思 え る。1945年3,月10日

の グ ラ ー グ調 査 局 の 報 告 で は 、 「

戦 争 初 期 に は 、 健 康

な 囚 人 の 大 部 分 を 釈 放 し軍 に 入 れ た こ とに よ り、 ま た 、 極 め て 悪 条 件 に 大 量 の 囚 人 を 放 り込 ん

だ こ とに よ り、 と くにHKB八

収 容 所 で の 生 産 へ の 労 働 可 能 率 が 急 低 下 し、 病 人 数 が 増 加 し

た 」27)と

述 べ られ て い る 。 つ ま り、1941-43年

頃 に 一 部 の 収 容所 で 囚 人 の 釈 放 数 が 増 加 して い

るの は 、 単 純 に刑 期 を 全 うした た め 放 免 した の で は な く、 人員 不 足 を 補 うた め 、 優 良 囚 人 を 赤

軍 に半 ば 強 制 的 に徴 兵 した か らで あ る。

(11)

表3.主

な収 容 所 の 囚 人 数 、 死 者 数 、 逃 亡 者 数(2)(人)

下 流 ア ム ール

北方鉄道収容所

北 ペ チ ョ ー ラ 鉄 道

囚人

死者

逃亡

囚人

死者

逃 亡

囚人

死者

逃亡

1938 *20,803 2,344 114 1939 *5,743 194 172 29,809 2,386 393 1940 23,211 2,550 389 26,548 2,225 1,694 *3,851 3,664 266 1941 50,535 2,980 243 84,893 2,775 378 34,959 6,504 1,015 1942 50,992 4,519 104 53,344 1,290 302 102,354 8,756 346 1943 64,056 4,877 195 29,741 4,809 49 58,825 9,386 122 1944 33,746 830 105 14,757 1,294 34 23,019 821 46 1945 25,221 428 35 ll,981 612 39 28,232 1,170 31 1946 12,409 227 26 13,388 387 102 34,667 720 60 1947 7,719 93 12 26,599 907 59 56,615 845 47 1948 23,780 861 49 45,944 686 16 1949 29,210 399 28 39,823 399 14 1950 27,686 166 11 42,028 403 44 1951 59,408 433 11 1952 38,926 323 41 1953 47,001 267 12 1954 23,678 死 者 合 計:16,698 死 者 合 計:26,450 死 者 合 計:34,377 *7月1日 の 数 字 。 ※ 囚 人 数 は 各 年1月1日 時 点 。

出 典:A.H.1くoKypHH,nH.  MopKoB(cocTaBHTe∬H),  C'η α膨 〃cκ〃εc〃2po飲 〃8脚 α3α   1930-1953,β)occ朋 ∬6θ κ,δoκWθ 脚 砂,  MaTepHK,MocKBa,2005,  cTp.528-531.

  極 東 の 鉄 道 建 設 は 、 最 初 、 ソ連HKB且

バ ム 建 設 が 担 当 した。 お お よそ269,000人 の 囚 人 が 投

入 され た 。 そ の 後1938年 に バ ム 収 容 所 以 外 に 、1938年5月22日

ア ム ール 収 容 所 、 ブ レ イ ンス ク

収 容 所 、 東 方 収 容 所 、 西方 収 容 所 、 南 東 収 容 所 、 南 方 収 容 所 の6つ の収 容所 が 新 設 され 、 計7

つ の 収 容 所 を 統 括 す る た め フ レ ンケ リを長 官 とす る極 東HIくB双 鉄 道 建 設 収 容 所 管 理 総 局 が 設

立 され た(ア ム ール 収 容 所 長 兼 任)。 そ の後 、 バ ム 収 容 所 は廃 止 され 、1939年 に は、 管 理 総 局

管 轄 下 の 収 容 所 は 、 ブ レ イ ンス ク収 容 所 、 東 方 収 容 所 、 南 方 収 容 所 、 南 東 収 容 所 、 沿 海 収 容所 、

ニ ジネ ・ア ム ール 収 容 所 とな った28)。

  この よ うに1940年 頃 ま で に は 、 運 河 や 鉄 道 な どの 交 通 輸 送 イ ン フ ラが 整 備 され た 。 そ れ は 、

物 資 や 人員 の 輸 送 の た め で あ る。 と くに 戦 時 に お い て は 兵 員 や 物 資 ・兵 器 の 輸 送 に も役 だ った

が 、 と くに貢 献 した の は 、 僻 地 で 採 掘 され た 石 炭 ・石 油 や 金 、 ニ ッケ ル な どの 鉱 物 資 源 の 輸 送

で あ る。 ソ連 成 立 直 後 の 重 要 な 資 源 は 木 材 ぐらい で あ った が 、 そ の 後 調 査 隊 を シベ リア や 極 北

各 地 に派 遣 し、 あ らた な 地 下 資 源 を 発 見 した 。 そ の よ うな僻 地 で の 地 下 資 源 採 掘 あ るい は採 掘

(12)

資 源 を 精 錬 加 工 す る た め の コ ン ビ ナ ー ト建 設 に 囚 人 労 働 を 利 用 し た の で あ る 。 極 東 コ リマ で の 金 採 掘 に 関 連 して 、 マ ガ ダ ン 州 の マ ガ ダ ン 市 は 、 中 心 都 市 で あ っ た 。   地 下 資 源 採 掘 で は 、 シ ベ リア 収 容 所(ク ズ バ ス 炭 田)やボ ル ク タ 収 容 所 で の 石 炭 採 掘 や ノ リ リス ク 収 容 所 の ニ ッ ケ ル 採 掘 、 北 東 収 容 所 で の 金 採 掘(コ リマ)な どが 有 名 で あ る 。   さ て 、 と く に 極 東 コ リマ で の 金 採 掘 を 見 て み よ う。1931年 共 産 党 中 央 委 員 会 で 金 採 掘 問 題 が 討 議 さ れ 、 極 北 建 設 管 理 総 局(1931-53年)が 設 置 さ れ た 。 翌 年4月1日 に 、 極 北 建 設 管 理 総 局 管 理 下 に 北 東 収 容 所 が 設 置 さ れ た 。 こ の 収 容 所 は 、 表4の よ うに 人 員 、 設 置 期 間 と も 最 大 規 模 の も の で あ る 。1940年 に は 、18万 人 も の 囚 人 を 擁 し た 。 そ の 後 増 減 す る が 、 常 に7万 人 以 上 の 囚 人 を 擁 し、22年 間 で119,647人 、 年 平 均5,439人 も の 死 者 を 出 し た 。1941年 に は 、15,676人 も の 最 高 死 者 数 を 出 し た 。 そ れ ら の 囚 人 労 働 に よ り、1932年 か ら1941年 ま で に 、 純 金 で 合 計 358.1tを 採 掘 し た 。1932-1955年 で の ソ 連 で の 金 採 掘 量 は 、2521.4  tで 、 そ の う ち 極 東 建 設 で の 採 掘 量 は1148.4tで あ る 。 実 に45.5%に な る 。   極 北 建 設 で の 中 心 は 北 東 収 容 所 の 囚 人 で あ っ た が 、1946年 に は 、 ウ ラ ソ フ 隊 員29)や 日 本 軍 捕 虜 も 労 働 に 利 用 さ れ た 。1948年9月1日 に は 、 極 北 建 設 領 域 に は 、250,800人 が 存 在 し、 そ の う ち 非 労 働 者26,754人(子 供17,922人 含 む)、 全 労 働 者 は224,046人 で あ り 、 労 働 者 の う ち 、 雇 用 人 一ll5,749人 、 囚 人 一104,828人 、 捕 虜 一3,469人 で あ る と記 録 され て い る 。 大 量 の 雇 用 労 働 者 も 投 入 さ れ る よ うに な っ た ♂o)   収 容 所 の 囚 人 は 、 内 務 人 民 委 員 部 の 管 理 総 局 あ る い は 管 理 局 の 下 で 、 運 河 や 鉄 道 、 道 路 、 飛 行 場 、 港 湾 、 工 場 な どの 建 設 、 あ る い は 石 炭 や 金 な どの 鉱 物 資 源 の 採 掘 、 そ の 他 、 木 材 伐 採 、 農 業 、 漁 業 、 畜 産 な どあ り とあ ら ゆ る 労 働 に 利 用 さ れ た 。 し か し 、 こ れ ら 内 務 人 民 委 員 部 の 管 理 下 だ け で 囚 人 が 、 利 用 され た だ け で は な い 。 囚 人 は 、 他 の 各 人 民 委 員 部 の 要 請 に 基 づ き、 様 々 な 労 働 に 貸 し 出 さ れ た 。 各 人 民 委 員 部 に 、 少 な い も の は 数 百 人 か ら 多 い も の に は2∼3万 人 も の 囚 人 が 貸 し 出 さ れ て い た31)。

(13)

表4.主

な収 容 所 の 囚 人 数 、 死 者 数 、 逃 亡 者 数(3)(人)

北東収容所

北東収容所

特 別 収 容 所No.5

囚人

死者

逃亡

囚人

死者

逃亡

囚人

死者

逃亡

1933 11,100 1946 69,459 3,931 402 1934 29,659 1947 79,613 10,312 453 1935 36,313 1948 106,893 4,648 576 **3,896 146 3 1936 48,740 1949 93,ll5 1,946 562 15,570 383 15 1937 70,414 *4,000 1950 129,411 2,114 591 23,906 303 2 1938 90,741 12,400 1951 154,242 2,546 759 28,716 325 2 1939 117,926 9,577 19 1952 167,737 1,690 309 31,989 268 0 1940 161,946 9,274 22 1953 151,069 679 171 24,009 184 0 1941 179,041 15,676 838 1954 88,077 32,388 1942 147,976 14,933 1,114

合計

119,647 7,778 1,609 22 1943 96,341 ll,156 1,225 全 合 計:入 所:859,911、 釈 放:445,171、 1944 76,388 6,657 437 1945 87,335 7,608 300 死 亡:21,256、 逃 亡:7,800 ※ 囚 人 数 は 、 各 年1月1日 時 点 。*1932-1937年 の 合 計 。**10月1日 時 点

出 典:A.H.  KoKypHH,10.H.  MopKoB(cocTaBHTe∬H),  C〃1α剛 〃oκ耀o〃2po脈 〃 ∼1即α∼α   1930-1953,ρ)066朋 ∬8θ κ,δoκ脚 θ〃〃2b〃, MaTepHK,MocKBa,2005,  cTp.411-412.

  この よ うに、 ソ連 ス タ ー リン体 制 下 の 収 容 所 は 、 当 初 に は 反 ス タ ー リン派 、反 ソ派 な どの 投

獄 とい う側 面 は あ った として も、1930年 代 に グ ラ ー グ ・シス テ ム が 整 備 され る と、 巨大 な 産 業

複 合 体 へ と成 長 した 。 そ して 、 そ の 産 業 の 必 要 に 応 じて さ らに 収 容 所 と囚 人 が 生 み 出 され て い

くよ うにな る。

5.捕

虜 の 労 働 利 用

  ソ連 で は 、 あ らゆ る人 間 が 囚 人 として 労 働 利 用 され た 。 独 ソ戦 で 荒廃 した 国 土 や 生 産 を 立 て

直 す に も、 戦 後 多 数 の 労 働 力 が 必 要 とされ た 。 そ こで 、 目を つ け られ た の が 、 ドイ ツ軍 や 日本

軍 な ど交 戦 国 の 捕 虜 で あ る。 捕 虜 に つ い て は 、 戦 中 か ら ドイ ツ軍 や ハ ン ガ リー軍 な どの捕 虜 の

強 制 労 働 を 開 始 し、 終 戦 直 後 に は これ に 日本 軍 捕 虜 が 加 え られ た 。 一 般 囚 人 とは 別 に 捕 虜 収 容

所 が 作 られ た が 、 労 働 利 用 に つ い て は 、 基 本 的 に 囚 人 と同 じで あ る。 各 人 民委 員 部 に も労働 力

と して 貸 し出 され た 。

  第 二 次 世 界 大 戦 期 に お け る最 初 の 捕 虜 は 、 ポ ー ラ ン ド軍 捕 虜 で あ る。1939年9,月 、 ドイ ツ軍

(14)

が ポ ー ラ ン ド に 侵 攻 し 、 大 戦 が 始 ま っ た 。 数 日後 、 ソ 連 軍 は 、 独 ソ 不 可 侵 条 約 の 秘 密 議 定 書 に 基 づ い て 、 東 か ら ポ ー ラ ン ドに 侵 攻 した 。 こ の 時 点 で ソ 連 は 第 二 次 世 界 大 戦 の 交 戦 国 とは な っ て い な い が 、 同 大 戦 期 に お け る 最 初 の ソ 連 に お け る 捕 虜 が 発 生 し た 。 そ の 後 、1941年6月22日 、 独 ソ 戦 が 始 ま る と ド イ ツ 軍 及 び そ の 同 盟 軍(イ タ リア 軍 、 ハ ン ガ リ ー 軍 、 ル ー マ ニ ア 軍 な ど) の 捕 虜 が 発 生 し た 。   ヤ ル タ 会 談 で 決 め ら れ た ソ 連 の 対 日参 戦 は 、 太 平 洋 戦 争 そ し て 戦 後 の 極 東 地 域 に ソ 連 が 影 響 力 を 及 ぼ そ う とす る 意 図 が あ っ た が 、 多 数 の 捕 虜 を 労 働 利 用 し よ う とす る 意 図 も あ っ た 。1945 年8月23日 に は 、 ソ 連 国 防 委 員 会 は 、 「ソ 連HKB且 捕 虜 管 理 総 局 は 、 以 下 の 労 働 に50万 の 日 本 人 捕 虜 を 使 用 す る 」32)こと を 決 定 した 。 バ イ カ ル ・ア ム ー ル 線 や ザ バ イ カ ル 線 な どの 鉄 道 建 設 、 木 材 伐 採 、 コ ン ビ ナ ー ト建 設 、 サ ハ リ ン 油 田 、 道 路 建 設 、 兵 舎 建 設 、 炭 坑 労 働 、 鉱 山 労 働 、 工 場 建 設 な どの 労 働 に 、 沿 海 地 方 、 ハ バ ロ フ ス ク 地 方 、 チ タ 州 、 イ ル ク ー ツ ク 州 、 ブ リヤ ー ト ・ モ ン ゴ ル 自 治 共 和 国 、 ク ラ ス ノ ヤ ル ス ク 地 方 、 ア ル タ イ 地 方 、 カ ザ フ 共 和 国 、 ウ ズ ベ ク 共 和 国 な どで 労 働 利 用 さ れ た 。   表5は 、1949年1月1日 時 点 に お け る 捕 虜 管 理 総 局 の 報 告 で あ る 。 そ れ に よ れ ば 、 捕 虜 総 数 は 、3,899,397人 で そ の う ち 日本 軍 関 係 の 捕 虜(日 本 人 、 朝 鮮 人 、 中 国 人 、 満 洲 人)は 、617,778 人 で あ る 。1946年8月1日 時 点 で 、 ドイ ツ 軍 捕 虜 は 、 ソ 連 内 務 省 収 容 所 に1,336,059人 、 病 院 に85,757人 、 労 働 大 隊 に109,047人(計153,863人)、 日 本 軍 捕 虜 は 、 ソ 連 内 務 省 収 容 所 に392,583 人 、 病 院 に12,556人 、 労 働 大 隊 に45,275人(計450,414人)で あ る 。 階 級 別 内 訳 は 、 ドイ ツ 軍 捕 虜 、 将 官351人 、 将 校83,312人 、 下 士 官 ・兵1,447,300人 、 日本 軍 捕 虜 、 将 官168人 、 将 校 、 22,675人 、 下 士 官 ・兵427,571人 で あ る33)。表6に よ れ ば 、1945年9月 以 降 に 日 本 軍 捕 虜 が 急 増 し、 収 容 所 建 設 が 急 ピ ッチ で 進 め ら れ 、1946年1月1日 時 点 に は267と 最 大 数 と な っ た 。1945 年 の 収 容 所 廃 止 が111と 多 い の は 、 労 働 内 容 に よ り捕 虜 を 移 転 さ せ た た め 、 廃 止 に な っ た 収 容 所 も 多 か っ た た め で あ ろ う。

(15)

表5.ソ

連 にお け る主 な民 族 別 捕 虜 数(人)

民   族

捕虜総数

帰 還

死 亡

現在数

ド イ ツ 2,079,717 1,315,510 317,512 430,670 オ ー ス ト リア 156,966 137,838 10,746 7,760 イ タ リア 48,957 21,096 27,683 20 ハ ン ガ リ ー 526,604 418,782 51,005 8,021 ポ ー ラ ン ド 62,999 54,434 3,115 115 ル ー マ ニ ア 181,967 106,243 50,959 2,551 チ ェ コ ス ロ バ キ ア 68,889 55,701 4,033 281 ユ ー ゴ ス ラ ヴ ィ ア 21,629 17,207 1,456 187 ウ ク ラ イ ナ 5,561 87 679 94

西 ウ ク ラ イナ

5,354 5,017 2 一 フ ラ ン ス 22,115 20,762 1,329 21 ロ シ ア 1,859 141 181 51

ソ連 市 民

571 一 12 314 フ ィ ン ラ ン ド 2,475 1,969 403 2 リ トア ニ ア 955 26 89 22 ラ ト ビ ア 3,354 28 507 9 エ ス トニ ア 6,398 49 1,292 2 ベ ル ギ ー 2,021 1,734 175 96

日本

590,830 440,387 52,165 91,226

朝鮮

10,312 9,913 70 222

中国人

16,150 15,713 135 94

満洲人

486 486

そ の 他

総  合  計

3,899,397 2,644,963 569,115 542,576 ※ 帰 還 者 数 、 死 亡 者 数 、 現 在 数 は 、1949年1,月1日 時 点 の も の 。

出 典:M.M.3aropy∬bKo(cocTaBnTe∬b),励 θ""o枷 ε""b1θ8CCCP1939-1956πoκ 卿 θ"脇 護   〃Mα 耀 ρ〃α胴,JIoroc,MocKBa,2000,  cTp.331.   捕 虜 は 、 強 制 収 容 所 の 囚 人 と 同様 、 さ ま ざ ま な 労 働 に 使 用 さ れ 、 ま た 各 人 民 委 員 部(1946年 か ら 省 に 名 称 変 更)に も 貸 し 出 さ れ た 。 も ち ろ ん 内 務 省 で の 労 働 利 用 が 最 大 で 、1946年6月1 日現 在 で 、 ドイ ツ 軍 捕 虜154,216人 、 日本 軍 捕 虜126,890人 、 計281,106人 が 内 務 省 で 使 役 さ れ て い た 。 そ の 他 、 主 な も の を 挙 げ る と 、 国 防 省(ド イ ツ 軍 捕 虜159,120人 、 日 本 軍 捕 虜48,989人)、 重 工 業 企 業 建 設 省(ド イ ツ 軍 捕 虜106,248人 、 日本 軍 捕 虜16,933人)、 燃 料 企 業 建 設 省(ド イ ツ 軍 捕 虜82,567人 、 日 本 軍 捕 虜21,482人)、 交 通 省(ド イ ツ 軍 捕 虜74,627人 、 日本 軍 捕 虜22,915人)、 東 部 地 区 石 炭 工 業 省(ド イ ツ 軍 捕 虜19,844人 、 日 本 軍 捕 虜51,750人)、 西 部 地 区 石 炭 工 業 省 (ド イ ツ 軍 捕 虜74,767人)、 林 業 省(ド イ ツ 軍 捕 虜23,224人 、 日本 軍 捕 虜56,567人)、 陸 海 軍 企 業

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建 設 省(ド イ ツ 軍 捕 虜46,638人 、 日本 軍 捕 虜21,977人)、 発 電 所 省(ド イ ツ 軍 捕 虜54,444人 、 日 本 軍 捕 虜7,170人)、 非 鉄 金 属 省(ド イ ツ 軍 捕 虜29,151人 、 日本 軍 捕 虜27,950人)、 セ ル ロ ー ス ・ 製 紙 工 業 省(ド イ ツ 軍 捕 虜37,279人)、 航 空 工 業 省(ド イ ツ 軍 捕 虜30,079人 、 日 本 軍 捕 虜4,944 人)な どで あ る 制)。

表6.ソ

連 内 務 人 民 委 員 部 ・内 務 省 の 捕 虜 収 容 所 数(1941-1950年)

年 月 日

在数

新設

廃 止

年 月 日

在数

新設

廃止

1941.6.22 8 10 4 1946.1.1 267 15 52 1942.1.1 6 31 6 1947.1.1 213 ll 69 1943.1.1 31 25 4 1948.1.1 172 一 87 1944.1.1 52 ll6 12 1949.1.1 85 一 75 1945.1.1 156 222 lll 1950.1.1 10 一 一 出 典:M.M.3aropy∬bKo(cocTaBHTe∬b),βoθ 〃〃o襯 ε〃〃b1θ8CCCP1939-1956π ∼,κWε""塀   〃 惚 〃2θμ α胴,JIoroc,MocKBa,2000,  cTp.205.   と く に 日本 軍 捕 虜 が 労 働 に 投 入 さ れ た の は 、 バ イ カ ル ・ア ム ー ル(バ ム)鉄 道 建 設 で あ り、 1946年2月26日 時 点 で 、 日本 軍 捕 虜 総 数594,000人 、 そ の うちHI〈B八 の 管 理 下 に499,807人 、 捕 虜 総 数 の18.9%に あ た る112,444人 が バ ム 鉄 道 建 設 に 投 入 さ れ た35)。   日本 軍 捕 虜 の 場 合 、 ソ 連 当 局 は 旧 日本 軍 の 階 級 組 織 を 温 存 し 、 将 校 に は 労 働 を さ せ ず 、 下 士 官 ・兵 に 対 す る 労 働 現 場 監 督 と し て 利 用 し た 。 そ れ は 、 多 くの 日本 兵 が 日本 軍 将 校 に 狂 信 的 服 従 心 が あ っ た か ら で あ る361。   生 き て 「ダ モ イ(πOMO貢)」(帰 還)を 果 た し た 捕 虜 と ダ モ イ で き ず に ソ 連 の 土 と な っ た 捕 虜 は 、 どれ く ら い い る の で あ ろ う。 表5に よ る と、1949年1月1日 時 点 で 、 ド イ ツ 人 捕 虜 は 、 ド イ ツ 人 捕 虜 総 数 の63.3%の1,315,510人 が 帰 還 、15.3%の317,517人 が 死 亡 、 日本 人 捕 虜 は 、 日 本 人 捕 虜 総 数 の74.596の440,387人 が 帰 還 、8.8%の52,165人 が 死 亡 し て い る 。 捕 虜 全 体 で は 、 総 数 の67.8%の2,644,963人 が 帰 還 、14.6%が 死 亡 し て い る 。 表5に ロ シ ア 人 、 フ ラ ン ス 人 な ど の 捕 虜 が 存 在 す る の は 、 お そ ら く ウ ラ ソ フ 将 軍 磨 下 の ド イ ツ 軍 外 人 師 団 や 武 装 親 衛 隊 フ ラ ン ス 人 師 団 な どの 捕 虜 で あ ろ う。   日本 厚 生 省 援 護 局 作 成 資 料 で は 、 シ ベ リ ア 抑 留 者 総 数 約575,000人(満 蒙 開 拓 団 民 や 満 洲 国 官 吏 な ど も 含 む)、 こ の う ち 帰 国 者 約474,000人 、 死 者 約55,000人 で 、 バ ム 鉄 道 建 設 に5万 人 以 上 が 投 入 さ れ た と し て い る 。 抑 留 者 は1950年4月 末 ま で に ほ と ん ど が 帰 国 し、 戦 犯 と な っ た 者 も1950年 末 ま で に は 帰 国 した とい う37)。   1956年10月18日 の ソ 連 内 務 省 の 報 告 書 で は 、 も っ と具 体 的 な 数 字 が 示 さ れ て い る 。1945年 満

(17)

洲 で の 捕 虜639,776人(日 本 軍)で そ の う ち609,328人 が 日本 人 、30,328人 は 中 国 人 、 朝 鮮 人 、 モ ン ゴ ル 人 で あ る 。 将 官163人 、 将 校26,573人 、 下 士 官 ・兵582,712人 で あ る 。1945-1956年 に 帰 還 した の は546,752人(将 官ll2人 、 将 校25,728人)で あ り、 そ の 他 日本 に6,241人 の 拘 留 者 ・ 逮 捕 者 が 送 還 さ れ た 。 こ の 期 間 に 死 亡 し た 日 本 人 は 、61,855人(将 官31人 、 将 校607人)で あ る 。1956年1,月1日 時 点 で 、 ソ 連 残 留 日本 人 は713人 で あ り、 サ ハ リ ン 州 に577人 、 ク ラ ス ノ ヤ ル ス ク 地 方 に103人 、 女 性 は419人 で あ る38/。 ノ モ ン ハ ン 事 件 の 時 に は 、 「生 き て 虜 囚 の 辱 め 」 を うけ た と し て ソ 連 に 残 留 し た 日本 人 も い た が 、 こ の と き の 残 留 日本 人 の 理 由 は 、 現 地 の ロ シ ア 人 との 結 婚 や サ ハ リ ン(樺 太)の 旧 日本 領 で 朝 鮮 人 との 結 婚 が 主 な 理 由 で あ ろ う。 戦 後 、 旧 日本 領 南 樺 太 に 残 さ れ た 朝 鮮 人 は 、 日本 や 韓 国 に 引 き 揚 げ ら れ ず 見 捨 て ら れ た 。 そ の よ うな 配 偶 者 を 持 つ 日本 人 も 帰 還 を 諦 め た 人 が 多 か っ た 。 と も か く も 、 日本 人 捕 虜 は 、 約10%が ソ 連 の 土 とな っ た の で あ る 。 表6の 日本 人 捕 虜 総 数 と数 字 が 一 致 し な い の は 、 お そ ら く捕 虜 の 管 轄 当 局(内 務 省 あ る い は 国 防 省 な ど)の 違 い な どに よ る も の と思 わ れ る 。   ド イ ツ 軍 や そ の ヨ ー ロ ッ パ で の 同 盟 国 軍 の 捕 虜 総 数 は 、 表5で 示 し た とお りで あ る が 、 帰 還 者 や 死 者 の 最 終 的 な 数 字 は 不 明 で あ る 。 お お よ そ の 数 字 な どは 、 ド イ ツ や ソ 連(ロ シ ア)の 資 料 に あ る だ ろ う。 独 ソ 戦 最 大 の 激 戦 とな っ た ス タ ー リ ン グ ラ ー ド攻 防 戦 で は 、 パ ウ ル ス 将 軍 摩 下 の ド イ ツ 軍 第6軍 が 降 伏 し 、9万1千 人 が 捕 虜 とな り、 戦 後 帰 国 で き た の は5千 人 で あ っ た と い う39)。約5.5%の 帰 還 者 で あ る 。 ソ 連 に 残 留 し た ドイ ツ 兵 も い た か も 知 れ な い が 、90%以 上 が 死 亡 した の で あ ろ う。 一 般 的 に ドイ ツ 軍 捕 虜 は 、 捕 虜 期 間 が 長 い も の が 多 く、 侵 略 者 へ の 憎 しみ も あ っ た の で 、 過 酷 な 取 扱 を 受 け 、 日本 軍 捕 虜 よ り も2倍 ほ ど死 亡 率 が 高 か っ た 。   ま た 、 捕 虜 に つ い て も 囚 人 同様 、 ノ ル マ の 達 成 状 況 や 労 働 内 容 に 応 じ て 、 食 事 を 増 減 す る な どの 方 法 で 労 働 が 強 制 さ れ た40)。 こ う し て 、 戦 時 捕 虜 も そ れ 以 前 か らの 囚 人 労 働 力 と 同 様 に 活 用 さ れ 、 基 本 的 に は グ ラ ー グ ・シ ス テ ム に 組 み 込 ま れ た の で あ る 。

結 び 一

ス タ ー リ ン の 死 と そ の 後

  1953年3月5日 、 ス タ ー リ ン が 死 ん だ 。 捕 虜 に つ い て は 、 外 国 との 関 係 も あ りそ う長 くは 抑 留 で き な い の で 、1940年 代 末 に は 帰 国 が か な り進 ん で い た 。 問 題 は 、 多 数 の 囚 人 を か か え る グ ラ ー グ ・シ ス テ ム で あ る 。 グ ラ ー グ ・シ ス テ ム も徐 々 に で は あ る が 戦 後 変 化 し 、 ス タ ー リ ン の 死 に よ っ て そ の 崩 壊 が 加 速 し た 。 ス タ ー リ ン の 死 の 直 後 の3月27日 に は 大 赦 令 が 発 せ ら れ た 。   グ ラ ー グ は 内 務 省 か ら 司 法 省 に 移 管 さ れ 、 刑 期5年 以 下 の 囚 人 や18歳 未 満 の 未 成 年 、 妊 娠 中 や 子 連 れ の 女 性 が 釈 放 さ れ た 。 そ れ と と も に 、 大 トル ク メ ン 運 河 、 ヴ ォ ル ガ ・ウ ラ ル 運 河 、 ド ン 川 下 流 ダ ム 、 ドネ ー ツ ク 港 、 サ ハ リ ン 海 底(タ タ ー ル 海 峡)ト ン ネ ル 、 サ レ ハ ル ド ・イ ガ ー ル 鉄 道 の 建 設 な ど、 グ ラ ー グ の プ ロ ジ ェ ク トが20以 上 中 止 さ れ た 。

(18)

  こ れ ら 一 連 の こ とは 、 グ ラ ー グ ・シ ス テ ム の 解 体 と囚 人 の 労 働 利 用 の 廃 止 へ の 方 向 転 換 だ と 見 て い い で あ ろ う 。 収 容 所 ・居 留 地 の 囚 人 数 は 、1953年1月1日 に は2,472,247人 で あ っ た の が 翌 年1月1日 に は1,325,003人 と な り、1960年1月1日 に は582,717人 ま で 減 少 した 。 囚 人 死 亡 率 は 、1942年 に24.9%(死 者352,560人)、1943年 に22.4%(同267,826人)で 最 高 を 記 録 し た 。 そ の 後1944年 に9.3%(同114,481人)、1956年 に は0.4%(同3,164人)ま で 減 少 しだ'〕。   グ ラ ー グ ・シ ス テ ム の 解 体 は 、 ス タ ー リ ン の 死 が 切 っ 掛 け とな っ て い る が 、 そ れ ば か りが 理 由 で も な い 。 独 ソ 戦 の 復 興 の た め に は 、 大 量 の 労 働 力 が 必 要 で あ っ た 。 そ の 担 い 手 とな っ た の が 、 囚 人 と捕 虜 で あ っ た 。 囚 人 の 中 に は 、 ド イ ツ 軍 の 捕 虜 とな っ た ソ 連 兵 も 多 数 い た 。 独 ソ 戦 期 の 「人 民 の 敵 」 は 、 ト ロ ツ キ ス トか ら 外 国 の ス パ イ へ と理 由 付 け が 変 わ っ た 。 総 力 戦 で 国 家 が 疲 弊 して い る に も か か わ ら ず 、 大 トル ク メ ン 運 河 の 建 設 な どあ ら た な プ ロ ジ ェ ク ト も 計 画 さ れ た 。 しか し 、1946年 か ら55年 に か け て 、 コ リマ 収 容 所 、 カ ラ ガ ン ダ 収 容 所 、 ヴ ォ ロ ク タ ー 収 容 所 、 ノ リ リ ス ク 収 容 所 な ど 各 地 の 収 容 所 で 暴 動 や ス トラ イ キ が 起 こ っ た42)。そ の よ う な 状 況 の 中 で 、 ス タ ー リ ン の 死 が グ ラ ー グ ・シ ス テ ム 解 体 の 引 き 金 を 引 い た の で あ ろ う。 ス タ ー リ ン 体 制 下 の グ ラ ー グ ・シ ス テ ム は 、 権 力 と生 産 を 集 中 し 、 独 ソ 戦 を 勝 ち 抜 く こ とに 貢 献 し た が 、 独 ソ 戦 に も ま し て 人 的 経 済 的 損 失 も 大 き か っ た 。 ス タ ー リ ン の 死 後 、 こ の シ ス テ ム は 崩 壊 し た が 、 依 然 と し て 全 体 主 義 体 制 は 残 っ た 。 結 局 、 ソ 連 は 非 効 率 的 な 社 会 主 義 経 済 体 制 か ら 抜 け 出 せ ず 、 後 の ソ 連 崩 壊 に つ な が っ た 。

註記

1)F.MHBaH・Ba,刀 ・醒(脚 刃 乃 切 α8α1918-1958:C・ 卿 απ6〃・-9κ ・〃・M耀 θ6磁 〃 〃・π酬4κ ・一脚6・6・ 窃   αcη εκ1ηbz, HayKa,  MocKBa,2006,  cTp.127. 2)  TaM)Ke,  cTp.131. 3)  TaM>Ke,  cTp.131. 4)ア ン ・ア ッ ブ ル ポ ー ム(川 上 洗 訳)rグ ラ ー グ ー ソ 連 集 中 収 容 所 の 歴 史 一 』 白 水 社 、2006年 、15頁 。 5)Michae1,  Jakobson,Origins of the Gulag:the Soviet Prison Camp System 1917-1934  The  University

  Press  of Kentucky,1933,  P.24.

6)A.H.1くoKypHH,  H.B.  HeTpoB(cocTaBHTe∬H),1918-1960π)occ麗 児H8θ κ,δoκ γvθ 〃1ηbり,

    MaTepHK,  MocKBa,2002,  cTp.14. 7)  TaM)Ke,  CTP.15.

8)r聖 地 ソ ロ フ キ の 悲 劇 一 ラ ー ゲ リ の 知 ら れ ざ る 歴 史 を た ど る 一 』(内 田 義 雄 、NHK出 版 、2001年 、46   頁)で は 、 「一 九 二 三 年 五 月 に 開 設 さ れ た 」  と な っ て い る が 、 正 式 に は 同 年10月23日 の 開 設 で あ る 。 9)  1ン 刀α3  1918-1966㌧   CTP.29.

(19)

10)そ の 後 、 ソ ロ ヴ ェ ツ キ ー 収 容 所 は 、1932年1月1日 一33年12月4日 再 設 置 の 後 、 白 海 バ ル ト収 容 所 の     支 所 と な っ た 。 さ ら に ソ ロ ヴ ェ ツ キ ー 特 命 監 獄 と し て 再 設 置 さ れ 、 最 終 的 に 、1939年11月2日 に 閉 鎖     さ れ た 。(MB.  CMHpHoB,(cocTaBHTe■b),C"翻 翻 α"o塑 σ8"溺a理6"o`耀"δ08bzκ 澱8ψ 顔6     CCα)1923-1960:C〃 μ80g〃 〃κ,3BeHLH,  MocKBa,1998,  cTp.394-395.)

11)  TaM)Ke,  cTp.394-395.

12)  B.B.>KHpoMcKa∬,(oTBeTcTBeHHbI孟PeπaKToP),Hαcα θ""εPoco""8  ∬8θ κθ'"rc"2ρP"qθoκ"θ     ov(ψ κ〃, ToM  I.1900-1939∼ ∼. POCCHgH,  MocKBa,2000,  cTp.319.

13)一 般 に グ ラ ー グ と言 え ば 、 ソ 連 ス タ ー リ ン 体 制 下 の 収 容 所 や 管 理 総 局 な どす べ て を ふ く む 矯 正 労 働 シ     ス テ ム 全 体 を 指 す 言 葉 と して 用 い ら れ る が 、 狭 義 に は 、 最 初 の 収 容 所 管 理 総 局 あ る い は 、 そ れ と1司列     の 鉄 道 建 設 な どの 目的 を 冠 し た 管 理 総 局 を 指 す 言 葉 で あ る 。 本 論 文 で は 、 前 者 の 意 味 で は グ ラ ー グ ・     シ ス テ ム を 使 用 し た 。

14)A.H.  KoKypHH,1αH.  MopyKoB(cocTaBHTe且H),  C1η α理〃〃6κ〃θ ご鵬 ρo脈 〃釧 刀α2α  1930-195夙     π)ooα 胴 ∬6θ κ,δ〇六ッ㍑θ1〃η6り, MaTepHK,  MocKBa,2005,  cTp516.乃 曜 α81918-196⑦cTp.853. 15)A.ソ ル ジ ェ ニ ー ツ ィ ン 、(木 村 浩 訳)「 収 容 所 群 島3』 ブ ッ キ ン グ 、2006年 、96-97頁 。 16)前 掲 書 、99頁 。 17)  HBaHoB灸TaM》Ke,  cTp.236. 18)ア ッ プ ル ボ ー ム 、 前 掲 書 、92-93頁 。 内 田 義 雄 、 前 掲 書 、86-90頁 。 19) C〃6〃2(∼Mα〃o塑 α6〃〃2eπ6〃o-〃2]ρツδ086zκ πα∼(ψ(∼勿6CCC/)  .1923-1966へ cTp.162-163. 20)  C〃2α刀〃〃oκ〃ε6〃ηつo箆κ24∼つゐ7α8α 1930-195夙  cTp.522.

21)10.A.几MHTPHeB,・6θ ・πo蔽 脚cκ 〇一・6α刀1ηπ窃α ぐ"宛60δ"わ1廊 ηy溺b(わ 切3αMわ1己 π08δ060η 刀o曜 θ"吻'     HeTpo3aBo耳cK,2003,  cTp.150. 22)  Czκ 〃∼¢ハ4αz4c塑 θ6z♂〃2ε刀b〃o-〃2]ρツδ0661κ 刀α8ゆ β窃6CCC1)1923-1960,  cTp.162. 23)1930年4月7日 、 ソ 連 人 民 委 員 会 議 の 決 定 に 基 づ き 、 同 年4月25日 、OFHyが 収 容 所 管 理 局 を 設 立 し     た 。 の ち 管 理 総 局 とな る 。 24)拙 稿 、 「ソ 連 ・抑 圧 シ ス テ ム の 囚 人 に つ い て の 考 察 一 強 制 収 容 所 ・居 留 地 ・監 獄 な ど に お け る 囚 人 の     数 、 死 亡 率 、 構 成 、 動 態 一 」(r法 学 新 報 』 第112巻7・8号 、2006年 、655頁)。 囚 人 数 は1月1日 時     点 の 人 数 で あ る 。 25)  C〃2α.π〃〃6κ〃〔∼o〃2]ρo勿κ〃∂ツ刀α∂α 1930-195昂  cTp.121. 26)  TaM)Ke,  cTp.219.

27)0.B.  XpeBHK)K,(cocTaBHTe肪),〃r6η2ρ ρ朋6溺 α,盟〃cκo∼o∼ッ灘 ∼ακo〃鍔1920一 κ  η(ψ8α牙ηo刀08〃〃α     1950一κ ∼oδ08,ToM3(つKoHoMHKa  ry∬arの,POCCHgH,  MocKBa,2004,  cTp.217-218.

28)  TaM>Ke,  cTp.218,219.

29)レ ニ ン グ ラ ー ド戦 で ドイ ツ 軍 の 捕 虜 に な っ た ウ ラ ソ フ 中 将 を 司 令 官 に 、 ド イ ツ 軍 の 下 に 組 織 さ れ た ロ     シ ア 人 師 団 で あ る 。 そ の 隊 員 は 、 戦 後 「祖 国 の 裏 切 り者 」 と して 死 刑 と な っ た り、 収 容 所 で 過 酷 な 労     働 に 従 事 さ せ ら れ た 。(KpH∬ ∬A且eKcaH即oB,1ラccκ 〃eごo刀 δα〃2b16角ρ濯 αw2α, Hy3a,  MocKBa,

(20)

    2005)

30)〃 『6〃2ρノ)〃刀  o〃2醐 〃〃oκ030  εツ刀α2α  1ぐo〃 ε4  1920一 κ   η(もρ8α刃  刀α理06z∫〃α  1950一 κ 20δ08,  ToM  3,

    cTp.369-411,431. 31)  TaM)Ke,  cTp.219-220.

32)B.H.  BapTaHoB,  H.M.HoHoB,  B.A.  FaBpH∬oB,  E.H.3K)3HH,  B.F.HcaKoBa,  A.H.HoqTaeB,

    B.A.  CyTyπoB,.ayocκ 襯gρ κ〃8β α24κ α刃01η ε肥 α η8θ〃〃α刃, Co8θ1ηoκo一 加o〃oκ απ80勿 〃α1945∼oδ α,     〃c〃2(4フz魏80ε 〃〃o-〃o.πz〃1z四 εcκ030η ρo〃2 zぜ806(4》c〃28α,δ8」 ノxδqρ2κ 三α8830-40一 θ30δbプ ノirb1〈μル昭 〃〃2 bl z1

    ル'α肱 写)〃α%1,T.18(7-2),  TEPPA,  MocKBa,2000,  cTp.175.

33)M.M.3aropy且bKo,  C.F.  C叩opoB,  T.B.  HapeBcKa∬(cocTaBHTe∬H),君oθ 〃〃o槻 ε〃〃b1θ8

    CCCP1939-1954,πoRッMε 〃溺b1〃Mα 服 勿 〃απ61,∫loroc,MocKBa,2000,  cTp.669. 34)  TaM>Ke,  cTp.661. 35)  Boθ 〃〃o〃πθ〃〃b1θ8CC(¥)  1939-19561  cTp.240-336. 36)阿 部 軍 治『 シ ベ リ ア 強 制 抑 留 の 実 態 一日 ソ 両 国 資 料 か ら の 検 証 一 』 彩 流 社 、2005年 、211-212頁 。 ヴ ィ     ク ト ル ・ カ ル ポ フ(長 勢 了 治 訳)r[シ ベ リ ア 抑 留]ソ 連 機 密 資 料 が 語 る 全 容 一 ス タ ー リ ン の 捕 虜 た     ち 』 北 海 道 新 聞 社 、2001年 、165-166頁 。 若 槻 泰 雄rシ ベ リ ア 捕 虜 収 容 所 』 明 石 書 店 、1999年 、50頁 。 37)高 橋 大 造 、 堀 江 則 雄 「シ ベ リ ア 抑 留 」(川 端 香 男 里 他 監 修『 新 版 ロ シ ア を 知 る 事 典 』 平 凡 社 、2004年 、     335-336頁)。 38)  Zヲoε〃〃oηπθ〃〃bJθ8CCCP  .1939-.1956,  cTp.337-338. 39)青 地 弥 一 郎 「ス タ ー リ ン グ ラ ー ド 攻 防 戦 」(「 新 版 ロ シ ア を 知 る 事 典 』385頁)。 パ ウ ル ・ カ レ ル 、 ギ ュ     ン タ ー ・ベ デ ガ ー(畔 上 司 訳)『 捕 虜 一 誰 も 書 か な か っ た 第 二 次 大 戦 ド イ ツ 人 虜 囚 の 末 路 一 』(学 研 、     2000年 、552頁)に よ れ ば 、 ス タ ー リ ン グ ラ ー ド で の1943年2月3口 ま で の ド イ ツ 軍 捕 虜 は 、107,800     人 で 、 そ の う ち 帰 還 者 は6,000人 で あ る と い う 。 40)阿 部 軍 治 、 前 掲 書 、303-306頁 。 若 槻 泰 雄 、 前 掲 書 、93-101頁 。 41)拙 稿 、 前 掲 書 、655頁 。 42)稲 子 恒 夫 編rロ シ ア の20世 紀 一 年 表 ・資 料 ・分 析 一 』 東 洋 書 店 、2007年 、555-556頁 。 (む らい ・じ ゅん  短 期 大 学 部 准 教 授)

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参照

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