• 検索結果がありません。

心理的幸福主義の妥当性(五)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "心理的幸福主義の妥当性(五)"

Copied!
29
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

37一一『奈良法学会雑誌』第3巻4号 (1991年3月〉 説

V

心理的幸福主義の妥当性

目 次 序 言 第 一 章 幸 福 の 概 念 第一節思想史的省察(以上第二巻四号) 第二節言語的事実(第三巻一号) 第 三 節 導 出 ( 第 三 巻 二 号 ) 第二章心理的幸福主義 第一節必然的帰結(第一一一巻三号) 第 二 節 弁 証 ( 本 号 ﹀ 第三節心理的幸福主義者

(2)

第3巻4号一一38

第二節

証 以上論じてきたように、我々は幸福の普遍的な概念規定から出発して、最終的に心理的幸福主義に到達した。それ によれば、人聞は(少なくとも究極的に)自己の内面的な充足しか欲求することができないが故に、(少なくとも究極的に) いつ如何なる場合も自己自身の幸福を求めているというのである。従って、完全に自己否定的な行為や殆ど反射的な 行為、例えば、全く純粋な動機からの倫理的行為や拙瑳の場合の人命救助のような行為においですら、実際には(究 極的には)そうだというのである。しかしながら、このような理論は我々の一般的な観念や意識からはおそらく妥当で ないように思われるであろう。我々の日頃体験し見聞している広汎な事実に反するように感じられるであろう。とい うのも、自己の幸福を否定ないし抑制するような、或は顧慮しないような行為、自己の幸福ではなく他人の幸福を追 求するような行為が、明らかに存在しているからである。もちろん既に、そのような行為においてもその真の動機は 自己幸福にあるということを、指摘しておいた。また、そうした主張の当然の前提として、常に自己幸福を(むしろ) 求めざるをえないメカニズムについて(新しい視点から)既に解明し終えたつもりである。しかし、そうした、本稿に おいてこれまで展開してきた論理をもってしても、(既述の意味における)心理的幸福主義が人々によって直ちに受け入 れられることは、期待できないかもしれない。通念や常識ほど強固なものはなく、それらに逆らうことは常に大きな 反発を呼び起こすからである。従って、心理的幸福主義の十分な基礎づけとそれによる普遍的な確立のためには、前 節までの推理に加えて、なおそれを補強するいくつかの弁証論を必要とするであろう。特に、これまでのような正面 的又は直接的な考察ではなく、側面的もしくは間接的な議論が望まれるであろう。そこで本節では、心理的幸福主義 を弁証すると思われるその種の論点をいくつか提出してみたい。

(3)

まず第一の弁証論であるが、それは人間と動物との比較という視点に立脚する。そしてその趣旨は、人間の行動を 普遍的・統一的に説明しうる最も妥当な概念が幸福であるというものである。即ちそれは、普遍的・統一的な説明原 理としての資格という観点からする弁証論である。始めに、そもそもそのような原理自体の存在根拠について言えば │││第一に、各個人はそれぞれ異なった性格をもっており、その行動も様々であるが、人間としての基本的性質を 共有しているはずである。従って、あらゆる人聞に当てはまる(抽象的ではあれ、否、抽象的なればこそ) 一定の行動原 理が存在しているに違いない。また第二に、 一人一人の人聞についてみても、その行動の仕方や内容は時と場合によ って大きく異なるが、それは決して無原則ではない。それぞれ一定の人格をもっている以上、多様な行動の根底には、 その人格に基づく(抽象的ではあれ、否、抽象的なればこそ)統一的な行動原理が存在しているはずである。そうである ならば、即ち、このように人間一般及び各個人という二つのレベルからして、 人間行動には普遍的且つ統一的な(抽 象的)根本原理が存在しているとするならば、 そのような原理たりうるものは幸福だけであろう。普遍性及び統一性 という条件を満たしうる原理は、幸福以外に考えられないであろう。それは何故であろうか。 39一一「心理的幸福主義の妥当性的 人間の本質に関るいくつかの要素の中で最も基本的なものは、人間も一個の生命であり動物であるということであ る。むろん、これだけで人間の本質を語ることはできないが、しかしそれが人間存在を根本的に規定していることは、 直観的に全く自明の事実であろう。人聞は何よりもまず生命のある存在、動物の一種なのである。だとすれば、人聞 は生命としての自然的傾向性の制約の下にあることになる。あらゆる動物のもつ必然的な性向を人間も共有している ことになる。では、そのような性質とは何かということになるが、それは言うまでもなく自己保存の本能であり、ま た、それに基づく諸々の先天的な欲求であろう。そして、こうした欲求には本質的な共通性がある。それは、欲求が その主体に対して快楽又は苦痛として(その意識の有無と程度はともかく)現れるということである。つまり、快楽の獲

(4)

第3巻4号-4(} 得又は苦痛の回避が欲求の基礎にあるもの、即ちその生起の原因であり目的なのである。︿少なくともより進化した)動 物の普遍的・統一的な行動原理の核心は快楽にあると言うことができる。動物は常に、直接的にせよ間接的にせよ、 快楽と苦痛に従って行動しているのである。 しかし、人聞は単なる動物ではない。基本的には一個の動物にすぎないが、同時にまた、それを超える側面をもっ ている。即ち、動物的・物質的・本能的要素とは(完全に質的にというわけではないが)異なる理性的・精神的・自覚的 な側面である。そのような能力(但し、実体ではなく機能としてのそれ﹀によって、人聞は禁欲し(狭義の直接的な﹀快楽 の追求を抑制することができる。 のみならず、苦痛を甘受することもできるし、更には、自ら生命を断つことすらで きるのである。それは、自己保存を宗とする動物性の完全な否定であり、反動物性の極致と言えよう。そうすると、 人間とは本質的に、相反する性質から成る複合的・自己矛盾的な存在だということになる。即ち、人聞は動物である と同時に、また動物ではないのである。そしてここに、このような本質をもっ人間の行動原理が問題となってくる。 そうした原理とは何か 1 1 -それは幸福以外にはあるまい。動物性と非動物性を止揚しうる概念、それ故、快楽の延 長であると共にその超越であるものとは、(快楽と区別された意味における﹀幸福のみである。しかも幸福にあっては、 その﹁内容﹂における無限の多様性、従ってまた自己否定の可能性と、その﹁形式﹂たる普遍的な欲求充足、従って その意味における絶対的な自己肯定とが、両立している。 つまり、理性に基づく自由と本能的な必然性とが、そこで は統一されているのである。 かくして、動物との関りにおいて人間存在を根本的に捉えてみると、その普遍的・統一的な行動原理を構成してい るものは幸福であるということ、が、判明する。動物は快楽に従い、人聞は幸福を求めるのである。そしてこのことは、 単に動物と人間の相違(と同一) のみならず原始人と文明人のそれをも説明する。 それはどういうことかと言えば、

(5)

行動原理としての快楽のそのような幸福化は、生物的な進化のみならず、人間の社会的・文化的・精神的な進化(又 は発達)にまさに対応しているということである。 そうした進化に伴って、 単純な内容しかもたない快楽が、多様で 豊富な幸福へと発展してきたのであり、人間は快楽以外にも様々の幸福を享受しうることとなった。幸福の概念は人 間行動の本質を最も適確に示すものと言えよう。このように、動物との比較という視点からする根本的な人間把握、 それに立脚した、人間行動についての原理的な考察の結果は、心理的幸福主義の主張を支持するものと思われるので あ る 。 ﹁ 序 一 マ 一 口 ﹂ で 述 べ た よ う に 、 心 理 的幸福主義を受容する上で最大の障害となってきたのは、倫理的行為の存在であった。倫理的行為は明らかに自己の 次に、第二の弁証論として取り上げるべきは、倫理的行為の問題に関してである。 幸福よりも他人の幸福を優先する、或は少なくとも、そのような一般的可能性が認められるからである。それどころ か、倫理的行為においてたとえ一度でも自己の幸福が後回しにされることがありうるならば、確かに、心理的幸福主 義は成立しないと言わざるをえないであろう。そこで、心理的幸福主義は倫理的行為というものをどう捉えるかとい 41一一心理的幸福主義の妥当性旬 うことが、重要な問題となってくる。その問題を克服しないならば、心理的幸福主義の妥当性は大いに減退してしま うであろう。そこには心理的幸福主義の命運が懸っていると言っても、過言ではない。従って、利他的・自己否定的 な倫理的行為について、心理的幸福主義の立場から首尾一貫した説明がなされなければならない。そのような行為に おいてもなお自己幸福の原理が貫徹されているということが、十分な説得力をもって示されなければならない。それ は果して可能であろうか。 既述の如く、人聞のあらゆる行為は何らかの欲求、しかも自己の内面に関する何らかの欲求に、由来している。そ れが人間行動の(形式的ではあるが)普遍的な動機である。従って、少なくとも究極的にそうした欲求がなければ、如

(6)

第 3巻 4号一一42 何なる行為もなされえないのである。その点、倫理的行為も決して例外ではない。我々は確かに倫理的価値(そのもの に対する何らかの内的欲求をもっており、それは他の諸々の欲求と全く変わりがない。それ故、 うな倫理的欲求(良心など﹀と他の動機との聞の対立も、単に諸欲求の聞のそれにすぎないのであり針。そして、その 対立情況において、もし何らかの倫理的行為が選択されるとすれば、その根底には必ずそれに対するヨリ強い欲求が 問 、 +ihhia 、事ミ J ﹃ 、 tφttv , 刀 ﹂ そ の よ 存在しているはずである。その行為がたとえ本人の﹁不幸﹂をもたらすようなものであるとしても、それを超克しう るヨリ強い倫理的欲求が存在しているのである。そうである以上、少なくとも彼にとっては、そのほうが綜合的・最 終的には(他の選択技よりも﹀より幸福であるということになる。幸福とは(単純に言えば)欲求の充足だったからであ る。本人に大きな苦痛をもたらす献身的或は犠牲的な行為も、それがなされるということは、それに対する欲求が最 も強いということであり、それ故、結局はそれが(そのような限定的情況においては)最も大きな幸福なのである。そう した利他的な幸福は一般に倫理的(又は宗教的)幸福とでも呼びうるであろうが、 ハ 2 ﹀ は逆に不幸に映る。そのため例えば、﹁悲しみの中に幸福を求めるがよい﹂とか、 ハ 3 ﹀ ( 4 ﹀ ない/﹂、﹁不幸のうちの幸福﹂などといった一見自己矛盾的な表現が、なされることになるのであるが、しかし、そ うした倫理的幸福はあらゆる倫理的行為において事実として認めることができる。そして、倫理的行為に対してこう その種の幸福は世間一般の目から ﹁あたし仕合せになんかなりたく した見方をとることは、幸福観念からしでも倫理観念からしでも決して不自然ではないのである。 このことを理解するについては、 ヒルティの主張が参考になるであろう。倫理的(宗教的)幸福の内容には、(むろ ん 、 幸 福 観 で あ る 以 上 各 個 人 に よ り 多 様 で あ る が 、 し か し ま た 例 え ば ﹀ 各々の学説や信条に対応した一般的な傾向がある。 そのいくつかの具体的種類について彼は次のように語っている。 ﹁最も厳格なストア主義者でも、他の人々が幸福と 認めるものを断念することによって、彼の流儀で幸福を得ょうとするのだし、極端に世を逃れようとするキリスト者

(7)

ですら、別の生活のうちに幸福を求めるのにすぎぬ。また、厭世家も結局、設の密かな誇りの中に幸福を感じ、仏教 徒は無、即ち無意識のうちに幸福を置くのであるよ ﹁彼らはいっそう優れたものを求める ために、或はむしろ、求めると思い込んでいるために、所謂 H 幸福 μ が余りにも下らぬものに見えるのである。だが、 この見解は上辺だけ尤もらしく見えるにすぎず、少し深く考えれば、容易に次のようなことが判る。即ち、この人々 ただ大多数の人々の乞い願うものとは違った幸福を求めていること、例え その理由はこうである。 の求めるものもやはり幸福なのであるが、 t玄

一般の人々とは違った人生の目標や活動の中に幸福を求めるとか、又は幸福を総じて此世の生の彼方、 つまり来 世に移して、これを求めるということである。たとえそれが現世においてであろうと来世においてであろうと、この ような人々の欲するものもやはり幸福であることに変わりはない。彼らは、あわよくば得られるかも知れないつまら より大きな幸福のために犠牲にするというだけの相違である。﹂ ぬ幸福を、彼らにとって確実な、 このような見解の個別的な真偽はともかく、何らかの倫理的幸福の普遍的な存在自体は事実であろう。そしてそれ はまた、前述の如く、本稿で展開してきた論理からの必然的な帰結でもある。倫理的行為の問題に関しては、そうし 43 心理的幸福主義の妥当性問 た倫理的幸福の存在ということを(以上のように)まず指摘することができよう。 それに続いて論ずべきは、やはりこれまでの論理から当然出てくることであるが、人聞は他人の幸福をもちろん求 めることができるということである。なるほど、心理的幸福主義は、人聞は常に自己の幸福を求めているとする。し かしこのことは、人聞が自己の幸福を抑えたり捨てたりしえないということ、それによって他人の幸福を求めること ができないということを、些かも意味してはいない。何故なら、心理的幸福主義の言う幸福とは、自己の内面に関す る最終的な欲求に基づくそれ、即ち、あくまで究極的な幸福(とはいえ、既述の如くもちろん正真正銘のそれであるが)だ からである。従って、それは究極的でない諸々の幸福の拾捨選択と完全に両立することができるのである。人々は確

(8)

第3巻4号一一44 かに自己自身の幸福を抑制し或は断念する。だが、そうした場合の幸福とは、無制約な情況における言わば一次的な それであって、決して究極的・最終的なそれ、即ち、制約された現実情況における相対的な最大幸福、 ではない。も し人々がそういうこと(自己幸福の抑制や断念)を実行するとしたら、それは、それにもかかわらずそれによって生み 出される、白己のヨリ究極的な(最終的にヨリ大きな)幸福のためなのである。そのような幸福は他人の幸福と対立す るどころか、しばしば両立する。例えば、困っている人を救うことは、一方で自己の物質的な利益を損う(従って、そ うした情況に直面しない場合と較べれば、不幸を意味する﹀かもしれないが、他方で(例えば)人格的・精神的な充実感をも たらしうるのであり、少なからぬ人々が (与えられた情況においては﹀そちらのほうをより幸福と感ずるのである。む ろん、それは人により、また時により相違するし、倫理的行為が常に自己幸福をもたらすとは限らない。そして、倫 理的行為は、それが(与えられた限定的情況における相対的に最大の究極的な)自己幸福と合致する場合にのみ実践される。 なるほど、それは我々の社会的生存にとって不都合である。しかし、それが人間世界の現実なのであり、だからこそ、 倫理的実践というものが我々にとって困難且つ重大な問題であり続けているのである。それはともかく、上述のよう に、心理的幸福主義の言う自己幸福とは究極的なそれであり、人聞は一次的な自己幸福に代えて他人の幸福を追求し うるが故に、心理的幸福主義は、他人の幸福をめざす倫理的行為の事実と決して矛盾するわけではないのマある。 この議論のポイントは、倫理的行為における自己の幸福と他人の幸福とのレベルの違いという点にある。言い換え れば、自己の幸福には、他人の幸福の追求によって自然必然的に損われるものと、逆にそれによって促されるものと の二つのレベルがあり、心理的幸福主義が意味しているのは後者のほうなのである。しかるに、利他的な倫理的行為 の故に心理的幸福主義が論駁されるとき、その場合の自他の幸福はレベルを異にしてはいない。それらは同一レベル における幸福なのである。確かに、(所謂)快楽や利益が一般にそうであるように、自他の幸福は、同一レベルにおい

(9)

ては資源の有限性の故にしばしば対立する。従って、倫理的行為は自己幸福の否定の上に成立するように見え、心理 的幸福主義と相容れないように感じられる。しかし、人間のもちうる幸福内容は ( 既 述 の 如 く ) 極めて多様であり、 それ故例えば、他人の物質的幸福と自己の精神的幸福とは十分に両立しうるのである。前述の如く、まさにそのよう な事態に、心理的幸福主義と倫理との接点がある。即ち、心理的幸福主義が倫理的行為においても貫徹しているとい うことは、そこでは常に自他の幸福が一致しているということである。その場合の自己幸福は、無制約な情況におけ る一次的・即自的なそれではなく、また、それより小さいことが多いが、与えられた限定的な情況においては最大で あり、そのような白己幸福は他人の一次的・即自的な幸福と一致しうる。斯く異なったレベルにおいて、またそうで あ る か ら こ そ 、 一致しうるのである。逆に言えば、その場合にのみ、 つまり自己幸福の動機なるが故に、利他的な倫 理的行為が成立しうるのである。心理的幸福主義の立場から、利他的行為は基本的にこのように説明される。その論 旨は少なくとも理論的一貫性を保持していると言えるであろう。 以上、倫理的行為の問題について、心理的幸福主義が倫理的行為においても妥当しうること、両者が決して矛盾し 45一一心理的幸福主義の妥当性同 ないことが、ニ点にわたって論じられた。即ち、 一つは、倫理的行為もまた自らの内面的状態に関する欲求に基づい その動機は(倫理的幸福と呼びうるような﹀自己幸福にあるということ、 も う 一 つ は 、 しかしそれは究 て い る が 故 に 、 極的な動機であるが故に、その動機は他人の幸福の追求と両立しうるということである。これらについては、合理的 な説明を既に加えたつもりであるが、命題としての完全な確立のためには、更なる論証が求められるかもしれない。 だがいずれにせよ、そうした議論は理論的・抽象的であって、それだけでは十分な説得力をもちえないであろう。従 って、できればもう少し具体的に考察することが望ましいが、そのためには何らかの事例を設定し、それについて分 析してみる必要があろう。そこでここでは、友人に親切にするという倫理的行為(通常の情況において一応倫理的価値の

(10)

第3巻4号一-46 そのような行為は本当に自己幸福のためになされるのであろうか。 そのことを具体的 ある行為)をとり上げてみる。 に示すために、果して何が言えるであろうか。 これまで論じてきたように、心理的幸福主義からすれば、この事例の場合、我々は友人に対する親切から生ずると 予想されるその友人の幸福(又は不幸の回避)そのものを欲求することは、自然必然的にできない。また、そのような 行為の倫理的価値そのもの又は倫理的義務そのものを動機としてそれを行なうことも、自然必然的にできない。何故 なら、人聞が真に或は究極的に欲求しうるものは、白己の内面的状態についてだけだからである。他人の幸福とか倫 理的な価値や義務は、それ自体としては自己の内面的状態と何の結びつきももっていない。それらは自己自身の状態 とは無関係な、外的対象に関する単なる意識或は観念にすぎないのである。もちろん、それらが動機に関ってくるこ とはありうる。しかしそのためには、それらは何らかの内的欲求の対象と結合しなければならない。例えば、他人の (或る種の)幸不幸が共感によって自己自身の(その種の)幸不幸に転化するとか、倫理的義務の意識が神の観念を媒介 として不安感もしくは期待感をもたらすというようにである。そのように内的欲求を積極的又は消極的に満足せしめ ることによって、即ち、満足せしめうる対象と結合することによって、初めて、自己の内面的状態以外の諸々の要因 は行為の動機となりうる。ともあれ、他人の幸福や倫理的な意識といったものはそれ自体としては動機たりえないの であるが、それでは、この事例においてどのような動機が考えられるであろうか。そして、それらは自己の内面的状 態に関する欲求であると言えるであろうか。 友人に親切にするという行為の究極的な動機として、次のような諸々の可能性が推定されうる。そうした諸動機は むろん網羅的ではないし、分類上も完全なものではない。しかし、それ以外に何か考えられるとしても、それらの間 に質的な違いはないであろう。その質とは、以下に見るように、内的な欲求を満足せしめるというもの、即ち自己幸

(11)

つまり、推測されうるあらゆる動機は、先に形式的に規定さ れた自己幸福を本質としており、各々の動機内容はその具体化なのである。 福であり、その点において全ての動機は一致している。

ω

人間の意識は自我として存在し、それは自己意識を中心とする同心円的な広がりの構造をもっている。そして、 全ての意識対象はその広がりの中に位置づけられ、中心からの距離の近いものは、拡大された自我を構成する。言わ ば拡大自我であるが、親しい友人というのはその拡大自我の大切な一部である。従って、そうした友人の幸福の如何 は自己の幸福に直接関るように思われるであろう。

ω

それと部分的に共通する現象であるが、共感や感情移入によっ ても同様に感じられるであろう。

ω

そのような現象に起因する面もあるが、一般に、幸福な人や機嫌の良い人と交際 するのは楽しく、不幸な人や不機嫌な人と接するのは気が重い。特に、身近な人の場合は尚更である。制親切にする ことによって自分に対する有形無形の見返りを期待しうると共に、良好な関係を維持及び増進することができる。そ 47一一心理的幸福主義の妥当性@ うした相互的扶助や親善の関係、広く言えば愛の存在は、人生における大きな楽しみ、というより殆ど死活的な要素 である。伺これは友人その他親しい人々に限らないが、人に親切にすることは、自分の印象を良くし評判を高めるで あろう。制同様にまた、それは自分の力を意識させ、優越感を与える。明倫理的価値のある行為を自ら実践すること は、人格的な満足感をもたらし、自負の念が強まる。制倫理的義務(そのような意識があるとすれば) を 果 せ ば 、 良 dむ の苛責にさいなまれることもなく、精神的に楽である。 友人に親切にするという行為に関して、さし当って以上のような動機群が考えられる。それが妥当であるとして、 それぞれの内容を見ればわかるように、それらが全て自己幸福に根ざしていることは、明らかであろう o そしてこの ことは、他のあらゆる倫理的行為についても当てはまると思われる。即ち、如何なる具体的事例をとってみても、そ の動機として推定されるものの本質は、全て自己幸福にあると予想されるのである。 一見そうでないような動機がた

(12)

第3巻4号一一48 とえ考えられうるとしても、それは実際には表面的な動機であって、更にその根底には究極的な自己幸福の動機が存 在しているのである。とはいえ、それはもちろん蓋然的な予想にすぎない。そして仮に、労を忌わず一つ一つの具体 的事例について考察してみたとしても、その種の問題の性質上、客観的な答えを得ることは困難であろう。従って、 具体的行為に関する心理的幸福主義の実証には、越え難い限界がある。そこで、それを比一一かなりとも補完するものと して二つの点を指摘しておきたい。 その一つは、少なくとも、かいゆか倫理的行為の中に何らか自己幸福的なるものを

A

r

p

必や見出すことができると いうことである。それは紛れもない事実であって、どのように立派な人物のどのように完全な行為についても、或は どのように純粋な人間のどのように美しい行為についても、そうである。そして同時に、そのような自己幸福の動機 によって倫理的行為を解釈することは、炉停わか事例に関しても可能であり、また不自然でも不適切でもないのであ る

もう一つは、内省の重要性と私自身の内省結果についてである。人間性や人間の心理について哲学的・理論的に究 明する場合、内省ということが極めて重要な役割を果す。これはむろん、(前節で指摘した)人間の絶対的な個別性・ 主観性の制約からくるものであると共に、人々の聞の本質的な共通性の存在を前提としており、その意味では方法と して限定的である。しかしそれを言うならば、科学もまた、その基礎たる観察経験(知覚﹀の究極的な主観性の故にそ もそも限定的であるとせねばならない。従って少なくとも、内省が本質的に非科学的であるというわけではないので ( 9 ) ある。それはともかく、 内省は我々の人間認識を深化せしめる有力な手段と言えるであろう。 そ こ で 、 他人に関する 内省がありえない以上、私自身の内省についてである、が l i -その結果は如何。私は自らの内心を徹底的に省みて、 恥 ん い わ わ 骨 骨 骨 一 や か 、 ん い ゐ わ い 小 か い か か 一 や t r

4 w ι r A か 辛 一 砕 い 骨 骨 か わ 動 札 前 ハ ) い や い か ひ h ﹂ 軒 、 認 か や か か 争

b

b

(13)

ぃ。私は到底それを否定することができない。それは私にとって全く疑う余地のない鮮明な事実なのである。. あなたはどうか。もし自己幸福以外の動機から行為しうると公言する人がいるとすれば、私は敢えて、その人は無反 省な人、自分を真に見つめることのない人であると言いたい。彼は自分を知らないのである。自己の心の奥底を本当 に凝視するならば、そこに誰でも自己幸福への絶対的な根本衝動を見出さざるをえないであろう o このように、如何なる倫理的行為においても、少なくともその根底には常に自己幸福の動機が認められる。それは、 およそ人間である限り免れることのできない現実なのである。しかし、だからと言って、それは、人聞は全て(所謂) エゴイストであるということを意味しているわけではない。既述の如く、人間はそれにもかかわらず自分を抑制し他 人の幸福を求めることができるからである。とはいえ、究極的にはどうであろうか。最も根源的なレベルにおいても、 我々は自らのエゴイズムを否定しうるであろうか。ここで、心理的幸福主義に絡んでエゴイズムの問題について少し 付言しておきたい。 私の結論は、心理的幸福主義の放に、 しかしまたその意味においてのみ、全ての人聞は究極的にはエゴイストであ 49一一心理的幸福主義の妥当性伺 るというものである。確かに、心理的幸福主義は現象的にはエゴイズム と無関係である。両者の聞には ( 利 己 主 義 ) 必然的な連関も蓋然的なそれも見られない。しかし、前節で述べたように、人間存在の絶対的な個別性及び主観性と いう事実からして、欲求の対象は究極的に自己の内面に限定されざるをえないのであり、そこに根本的な自己中心性 (その意味でのエゴイズム)が存在するのである。そのため、人聞は自己を忘れ去ることが絶対にできない。自己を完全 に忘却すること、或は自己から完全に離脱すること、即ち言わば無たることは、主観的にはともかく、自然必然的に できない。それがもし可能であるとしても、(例えば座禅の如き﹀静的且つ即自的な状態においてのみであり、 お よ そ 行為しようとする限り不可能であろう。動的又は対他的な行為にあっては如何なる場合にも、最後の最後まで自我が

(14)

第 3巻 4号- 5 0 残るのである。そして常に、その自我の立場から、自我を基準にして、自我のために、判断し行動せざるをえないの である。それは、どれほど自己否定的・利他的な行為であろうとも避けることができない自然の法則である。そのよ ハ 9 ) う な 意 味 に お い て ( の み ) 、 人 聞 は や は り エ ゴ イ ス ト な の で あ る 。 ( 言 わ ば ﹁ 根 源 的 エ ゴ イ ズ ム ﹂ ) こうしたエゴイズムの問題はさておき、先に述べてきたように、心理的幸福主義は倫理的行為においても貫徹して いると言うことができる。自己幸福の動機から最も縁遠いと思われる倫理的行為ですら、それを免れることができな 一般に言われる如く、それは問題であろうか。倫理にとって決定的な事実であろうか。 いのである o だ と す れ ば 、 ここで、是非指摘しておくべき重要な命題がある。十分に理解し自覚しておかねばならない根本的認識がある。そ れは、(心理的幸福主義にもかかわらず倫理的実践が可能であることについては、既に述べたが、更に)そのような心理的幸福 主義の事実は倫理の意味や価値を些かも損うものではないということである。既述の如く、従来、倫理とは利己主義 の否定であるが故に、或は、純粋な利他的動機や遵法的動機に価値が認められるが故に、自己幸福は倫理と相容れな いように見られてきた。従って、心理的幸福主義は倫理に敵対する思想であるとされてきた。しかし、倫理的行為が 自己幸福の動機によって支配されているからと言って、それによって倫理の神髄が台無しにされたり破壊されたりす るというわけではない。それは全く逆であって、実は倫理的行為を自己の幸福内容となしうるところに価値が存在す るのである。倫理に自己の幸福を見出すこと、他人の幸福(或はそれへの貢献)が同時に(或る時と所における)自己の最 大幸福たりうるということが、尊いのである。それがまさに倫理性の本質であり、それこそが人間としての倫理的な それは単なる(実は自己目的化した)理念からすれば限定的な倫理 性かもしれない。しかし、そのような﹁限定性﹂は人間にとって絶対に不可避であって、そうである以上、我々は人 間としての倫理を問う以外にはないのである。そして、そのような観点からするとき、自己幸福に基づく倫理は決し 偉大さ、人格的尊厳性の所以なのである。確かに、

(15)

て限定的ではない。何故なら、それは倫理の根本目的(抽象的な意味における﹁全体の幸福﹂﹀ と両立しうるからであり、 のみならず、倫理的実践を自己の最大幸福とすることは全く容易なことではないからである。倫理と自己幸福との一 致は、崇高なる倫理的人格にして初めて可能な偉業なのである。かくして、自己幸福の故に倫理を実践することは、 断じて倫理性を汚すものではない。それは何ら恥ずべきことではなく、我々は自分の幸福のために、究極的にはそれ だけのために、堂々と倫理的義務を果せばよいのである。 ところで、更にまたこのことに関して、少し付け加えておきたいことがある。それは何かと言えば、その際にも言 及した伝統的な倫理観念、即ち、行為者の内面的な純粋性に価値を認める所謂﹁動機論﹂についてである。動機論は 人々の倫理観として一般的であるのみならず、周知の如く思想史的にも有力な考え方であるが、私に言わせれば、そ れ t土 (如何に在るべきか、如何に行為すべきかという)義務又は規範の理論としては全くの誤りである。それは根本的な ﹁動機﹂においては幸福主義が普遍的・ 錯誤に基づいており、 一種の虚偽意識でしかない。何故なら、上述の如く、 絶対的に妥当するからであり、また、仮にそうでないとしても、動機は本人(人間)の自由にはならないからである。 51一一心理的幸福主義の妥当性向 むろん、動機と違って行為と直接結びついている﹁意図﹂は、自由になりうる。従って、意図を価値判断の対象とす ることは(それが唯一の又は究極的な基準であるというわけではないが)妥当であり、動機論の否定は必ずしも﹁結果論﹂ を帰結するわけではない。そして先に述べたように、利己主義的な幸福観ではなく利他主義的なそれをもちうること が尊いのであり、自己幸福の動機にもかかわらずそれを倫理的な意図と結合しうることに価値が存在するのである。 そもそも、人聞の特質或は偉大さは理性によって欲求をコントロールするところにあるが、しかしそれは、精確に言 えば、欲求の外的発現即ち行動化をコントロールするということである。しかもそれは、 コントロールすべき欲求に 別の欲求を対置させることによって初めて可能となる。従ってそのように、本来的・一次的な欲求を消し去ることは

(16)

第3巻 4号一一52 で き な い 以 上 、 そうした理性的コントロールとは、内面と外面、動機と行為を︿但し本来的・一次的なレベルで﹀切断し たとえ反倫理的な内面的動機であっても倫理的な外面的行為をなしうるということなのである。我 うるということ、 々は天使ではないのであるから、動機を問うことは無意味であり、同時にまた、非人間的と言うべきであろう。 以上、倫理的行為の問題を取り扱ってきたが、 それについては ( 後 述 の 論 点 と も 大 い に 関 り が あ り 、 別 の 観 点 か ら 事 実 上更に取り扱われることになるが)ひとまずこれくらいにして、次に第三の弁証論に移る。それは、行為の動機又は目的 と行為の結果との区別の問題についてである。というのは、次のような議論、即ち、幸福とはそれ自体漠然として掴 みどころのないものであり、求めて得られるものではないとか、それはあくまで行為の不確実な結果として派生して

( m )

しばしばなされてきたからである。 くるものであって、行為の普遍的な動機又は目的とはなりえないという議論が、 それによれば、例えば、溺れている人を発見して哨嵯に飛び込むというような場合、そうした善き行為の実践に基づ く倫理的満足感や自負などの幸福は、結果的に生ずるものであって、行為の動機ではない。動機は、ただ助けたい、 或は倫理的義務を果したいというそのことだけである。従って、人々は常に幸福の故に或は幸福のために行為すると は言えないというのである。このような駁論は果して有効であろうか。心理的幸福主義はそうした反駁に対してどの ように答えることができるであろうか。 そのような駁論には、 二つの基本的な誤解がある。 ま ず そ の 一 つ は 、 行為の動機としての幸福(即ち、行為の動機 として抱かれる幸福内容)をその行為の結果として発生するものとのみ考えている点である。例えば、名誉(による幸福) を得ょうとして慈善を施すというようなケ 1 スである。しかし、心理的幸福主義の言う幸福とはそれだけではない。 つまり、どのような情況の下で、行為に関る意志決定がなされる 動機としての幸福の在り方は情況によって異なる。 かということである。時間的・精神的に余裕があり、熟慮の末に行為がなされる場合には、確かに、動機における結

(17)

果的な幸福(結果として発生すると予想される幸福についての観念﹀の比重は高いであろう。また、反価値の克服︿例えば、 病気の治療﹀或は回避ハ例えば、事故の防止)ではなく、新たな価値の創出(例えば、受験の準備) のために行為がなされ る 場 合 も 、 一般に同様であろう。しかし、情況はそれらに止まらない。特に、困難な情況はいくらもあり、 ちょうど それらと逆の場合には、結果的な幸福の比重は著しく低下するであろう。即ち、不幸な情況からの緊急の離脱が求め られている場合や、不幸の到来が切迫しているような場合であり、そうしたときには、行為の結果ではなく行為自体 が幸福かアもたらし、それが動機となる。そのように、行為の動機或は目的としての幸福には、行為を決断する時点に おける不幸又はその可能性から逃れるという幸福も含まれているのである。 溺れている人を目撃して哨墜に飛び込むという先の例で考えてみよう。 ﹁ 渇 き ﹂ の 場 合 に そ れ が 妥 当 す る こ と は 、 明 白 で あ ろ う 。 ) ( よ く 引 き 合 い に 出 さ れ る ﹁ 空 腹 ﹂ や そ れ を 、 その場合の判断は殆ど瞬間的であるから、 助けること自体又は そのような行為自体が目的であるように、従って、その根底にある究極的な動機を云々することはできないように、 思われるかもしれない。しかし、そもそもそうした瞬間的判断が可能であるのは、それを生み出す素地ないし基盤が 53-~,心理的幸福主義の妥当性的 (言わば﹀判断回路が性格(人格)の構成要素として可能的・ 潜在的に形成されているからであり、そのような回路は、当然、結果を含む全体的な経験の繰り返しによって綜合的 存在しているから、 より具体的に言えば、既に一定の な見地から、従って幸福主義的に、形成される。そしてその実際の作動(判断) は、その時々の何らかの個別的動機 によってなされるのである。そこで、この事例の場合の動機についてであるが、 一般的には、それはもちろん倫理的 なものであろう。また、それは確かに結果的なものではなく、即時的なものであろう。ではその内容は何かと言えば、 最も基本的な動機は、前述したように、現在の不幸な情況から逃れるという消極的な、そして同時に利他的な、幸福 であると思われる。即ち、溺れている人を手を扶いて眺めていること自体が、既に苦痛であり不幸なのであり、従つ

(18)

第 3巻 4号一一54 て、そこから逃れようとするのである。その際、自分に対する(自分も溺れるかもしれないという)危険の確率とその度 合の予測、及びそれに基づく綜合的な幸福計算が、なされる場合もそうでない場合もあろう。ともあれ、もし飛び込 むとすれば、それは現実の不幸の故であり、そしてその不幸の原因としていくつかの(重複する部分があるが) ケ ー ス が考えられる。例えば、悲劇を直視することやそれが存在することに耐えられない、或は、共感によって恰も自分が 溺れているように感ずる、更には、助けよという良心の命令に抵抗することができない、といったケlスである。そ れ故、彼を救うべく飛び込むという行為は、究極的には実は、そのような自己の不幸な状態を救うためのものなので ある。従ってまた心理的にも、彼を救うというよりむしろ自己自身を救うのである o ( 但 し 、 先 述 の 如 く 、 こ の こ と は そ う し た 行 為 の 倫 理 的 価 値 を 些 か も 損 う も の で は な い 。 そ の よ う な 仕 方 に よ っ て 自 己 を 救 う こ と が 、 即 ち 、 そ の よ う な 仕 方 に よ っ て し か 自 己 を 救 い え な い こ と が 、 尊 い の で あ る J そのため、もし飛び込まないならば、事後的にも後悔や良心の苛責などによ っていっそう大きな不幸に陥ることであろう。 駁論に見られるもう一つの基本的な誤解は、心理的幸福主義において動機が自己幸福にあるという場合、それは抽 象的な幸福そのものを目的としている、と見なしている点である。そこから、幸福は動機たりえないという主張が出 てくるのである。幸福そのものは、既述の如く、内面的な欲求充足の状態、即ち、或る種の精神的・感情的な状態で あり、従って確かに、暖昧模糊としていて捉えどころがない。それ故、それを直接目的とすることは、なるほど不可 能であろう。しかしながら、心理的幸福主義は決してそのようなことを意味しているわけではない。幸福が動機であ るという場合、直接目的とされているのは、それぞれの幸福と密接な連闘をもっと考えられる具体的な事物なのであ る。我々は経験や学習を通して、或はその限りで、種々の幸福内容とそれらを実現するための手段や方法との聞の必 然的又は一般的な関連性についての知識を、豊富にもっている。そしてそれは、幸福内容によって程度の差はあれ、

(19)

少なくともより単純な幸福については、各人にとって殆ど確実である。例えば、テニスをすればどのような気分にな る か 、 ピ l ルを飲めばどのような感覚が得られるか、私は知っている。そこで私は、そのような幸福を求めてテニス を し ピ 1 ルを飲むのである。なるほど、それは直接的な目的ではない。直接の目的は言うまでもなく行為そのもので ある。しかし、それが一定の幸福観念と分かち難く結びついていること、究極的にその幸福観念によって導かれてい ることは、明らかである。そしてこのような事態は、より精神的或はより複合的な幸福についても変わりがないであ ろう。そのような幸福の実現方法についての知識は、かなり大まかであり不確実である。従って、その種の幸福の獲 得は確かに容易ではない。しかし、我々はあらゆる行動がそうであるように蓋然性の下に行動するほかはなく、また、 心理的幸福主義が主張しているのは、常に幸福を求めているということであって、得ているということではないので あ る 。 55一一心理的幸福主義の妥当性伺 更に、こうした問題の考察に当たって留意すべき或る一つの根本的事実がある。それは、幸福の手段の多様化と自 己目的化ということである。手段の多様化や自己目的化は様々の人間行動に関して生ずる一般的な現象であるが、そ れは幸福の追求においても広汎に見られる。例えば、種々のスポーツや芸能が成立し分化・発展することは、幸福手 段の多様化であると言えるし、本来的には手段である金銭や権力の獲得及び増大がそれ自体として求められることは、 幸福手段の自己目的化であると言えるであろう。(但し、両者は互に他の性質を多少とも合わせもっており、それほど明確に 区 別 す る こ と は で き な い J そして、実はこのようにして、人間のもつ幸福観念、その具体的内容が次第に豊富になって いくのであるが、この多様化・自己目的化ということは、上述の問題にとって重要な意味をもっ。というのは、その ような形で幸福がより具体化・個別化するということは、(種々の)幸福そのものがそのそれぞれの実現手段の中に内 在化する、また、それによって両者が一体化するということであり、従って、我々はそれら具体的・個別的な手段を

(20)

第 3巻 4号一一56 通じて幸福を求めることができるからである。つまり、幸福そのものの観念を明白にもてなくとも、それ故また、幸 福そのものを直接目的としなくとも、幸福は求めうるのであり、従ってそうであるならば、心理的幸福主義に対する 我々は行為の判断の際に幸福(そのも 先の批判は当たらないということになるであろう。 日 常 的 な 経 験 か ら し て も 、 の﹀という目的を殆ど意識していない。それにもかかわらず幸福の手段を選択し、幸福を獲得しうるのは、幸福と一 体の多くの事物が存在しているからであり、それを直接の目的としているからである。先にも述べたように、心理的 幸福主義において普遍的な動機とされているのは、ハ究極的・論理的にはともかく)このような意味における幸福であり、 幸福そのものではないのである。 そして、このことはまた、既に説明した第一の誤解の問題とも関連する。その問題について、幸福は行為の結果と してのみ発生するものではなく、行為そのものによっても生み出されると、先に指摘したが、更に今述べたように、 多くの幸福は具体的事物と結合しており、その場合、両者は殆ど一体的である。そこで、これらを考え合わせるなら ば、幸福と行為の関係は様々であり、幸福は行為の一連のプロセスのあらゆる段階において成立する可能性があると、 言 う こ と が で き る 。 一連のプロセスとは、大雑把に言えば、行為の前、最中、そして後ということであり、それは幸 福の種類によって異なる。但し、幸福とは連続的・波動的なものであって、そのように裁然とは区分できないが、と もあれそうした、幸福と行為の多様な関係は、言い換えれば、行為の動機を形づくる欲求とその充足との間の距離に は長短があるということであり、長い場合の幸福はより結果的であるし、短い場合のそれは行為そのものとの同時性 .一体性がより強いのである。そして、そのうちのどのような幸福が動機となるかは、主体の状態や外部の情況など ﹁距離﹂の短かい幸福が選ばれたときには、行為そのものが目的 によって決まってくるであろう。そこでその結果、 であるように見えるし、直接的にはそのように言ってもよい。しかし、上述の如く、それは決して心理的幸福主義と

(21)

矛盾するわけではないのである。そのような場合においても、真の目的、究極的な動機は、あくまで幸福に存するか ら で あ る 。 このように、幸福と行為の関係は幸福の種類によって、逆に言えば、行為の段階によって異なるが、このことに関 連して更にまた、是非処理しておかねばならない問題がある。というのは、幸福について、追求の幸福とか過程の幸 福ということがよく指摘されるからである。即ち、幸福とは或る行為の結果として或る目的の達成の後に生ずるだけ ではなく、目的の追求そのもの、その過程の中にも存在しているというのである。そして、その種の幸福は結果的な それより一段と偶然的・付随的であり、従って動機とはなりえないが故に、その存在は心理的幸福主義を否定するも のと主張されているのである。確かに、そのような幸福の存在は(広い意味では、実は既に結果の幸福の中に含まれている のみならず、それはなるほど我々の幸福の大切な要素を成している。しかし、それは果して心理 が ) 事 実 で あ ろ う 。 的幸福主義にとって不都合な事実であろうか。その誤りの証拠となりうるものであろうか。決してそうではあるまい。 何故なら、心理的幸福主義は、動機が全て幸福であると言っているのであって、その逆ではないからである。即ち、 57一一心理的幸複主義の妥当性伺 意図せざる幸福は当然ありうるし、それは心理的幸福主義と矛盾するわけではない。そして、そのような幸福の発生 も本来的な幸福追求の過程においてのみ、 つまり、本来的な動機たる一定の幸福観念の存在の下においてのみ、可能 なのである o 少なくとも、究極的な幸福への志向がなければ、そこに至る道が幸福を生み出すことはないであろう。 より精確に言えば、追求や過程の幸福には二つの種類がある。即ち、追求そのものや過程自体がもし幸福であるとす れば、そこにはそれらによって充足される何らかの欲求が必ず存在しているのであるが、そうした欲求の対象となり 一つは直接的に、もう一つは手段の自己目的化によって間接的に、それらの中に含まれているのである。 そして後者は、本来的な幸福目的の存在なしにはありえないのである。 う る 要 素 が 、

(22)

第3巻4号一一58 そのことを、例えばテニスの試合の場合を取り上げて説明してみよう。それがもたらす幸福には(大雑把に言っても) 様々な段階がある。まず、試合の後に予想される、勝利の喜びゃ運動による爽快感といった幸福があるが、それらは (その内容も存在も経験的に確実とはいえ)なるほど結果的であるかもしれない。しかし、幸福はそれだけではない。試合 そのものの中にも、勝利への熱中や肉体的な躍動感といった幸福がある。そのうち、後者は明らかに直接的な目的 (動機﹀たりうるのに対し、前者は手段の自己目的化の色彩が濃いが、それも勝利の喜びという本来的な幸福観念なし にはありえない。更にまた、試合の前にも幸福はありうる o 例えば、ラケットの手入れといった試合の準備や、試合 の予想・作戦計画なども、それ自体として幸福をもたらすであろう。それらの幸福はなるほど直接的な動機とはなり ' -h ぃ 、 や 述 、 占 2μL カ しかしそれらも、実際の試合に関する全体的な幸福観念なしには、即ち、それに基づく準備・予想等でな ければ、ありえないのである o このように、追求や過程の幸福はそれ自体確かに欲求の直接的対象とすることはでき ないが、それが生まれるためには、本来的な目的としての一定の幸福観念がなければならない。そうした動機が存在 する場合にのみ、それに発する行為が追求や過程の幸福を生み出すのである。 以上が第一二の弁証論であるが、それが対象としている、心理的幸福主義に対する既述の如き批判、即ち、幸福とは 行為の結果として、或はまた(それと厳密に区別すれば)行為の途中において、生ずるものであるが故に行為の動機と はなりえないという議論から、 よく知られた或る考えが導き出される。それは﹁快楽主義(幸福主義)のパラドクス﹂ と呼ばれる観念である。その趣旨は、幸福とはそれを目的としないことによって得られるというもの、 つまり、幸福 のことを意識しそれを直接の目的とすれば却って得られやす、逆に、他の目的に集中することによって随伴的に得られ るというものであるが、実はこれもまた、心理的幸福主義に対する攻撃の有力な論拠とされてきたのである。しかし、 そのような批判は果して有効であろうか。そこで、それに対する反批判を次に第四の弁証論として提示しておきたい。

(23)

とはいえ、その議論は簡単である。何故なら、 ﹁幸福主義のパラドクス﹂と心理的幸福主義はその理論のレベル又 は対象を異にしているからである。即ち、前者は事実に関する命題というより実質的に実践に関する命題であるが故 に、事実命題たる後者に対する批判とはなりえないのである。なるほど、 ﹁パラドクス﹂はいくらかの真理を含んで いるであろう。それは、しばしばというわけではないが、或る種の場合に妥当すると思われる。しかしそれは、真の 又は十分な(と考えられる﹀幸福という目的の最良の(と考えられる﹀実現方法についてであって、先にも一言言及し たように、心理的幸福主義は何も、人々は常に且つ実際にハ真の又は十分な﹀幸福を得ているなどとは主張していない のである。人々は常に幸福を求めている。しかし、それが客観的に見て人々に可能な真の幸福であるとは限らない。 人々は主観的に見て最大と思われる幸福を求めているだけである。それが最終的に人々にとり最大の幸福であるかど うか、或はそもそも幸福であるかどうかさえ、行為の時点ではわからないし、そのような幸福の実現に成功するとも むろん限らない。事実としての動機の如何と、幸福論の立場から見て目的及び手段として望ましい動機の如何とは、 別の問題なのである。 59一一心理的幸福主義の妥当性伺 むろん、幸福を目的としないことが、少しでも幸福を得る唯一の方法であるというのであれば、従って、それ以外 の方法では全く得られないというのであれば、事は重大である。それは、幸福が現に存在しているという事実からし て、心理的幸福主義と明白に矛盾するからである。しかし、最初から幸福を目的として意識するか否かということは、 要するに程度の問題であって、全く意識しないということもありえないし、それのみを意識するということもまたあ りえない。我々はそのような仕方によって通常そこそこの幸福を得ているのである。そして、我々が幸福を目的とし ないことによって、即ち、幸福を目的としないにもかかわらずそれによって、偉倖に恵まれるような場合にも、その 幸福については意識していなかったというだけであって、そこには常に、具体的行為と結びついたヨリ控え目な幸福

(24)

第3巻4

への動機か或はそれとは別の幸福への動機が、実は存在していたのである。大きな幸福を意図的に実現することは、 困難であるかもしれない。しかしそれは、大きな幸福が現実にありうるからといって、心理的幸福主義と何ら矛盾す るものではない。実際に存在しているのは、その時その時、その場その場の小さな幸福判断である。そしてそのよう な、幸福への動機の継起、その小さな積み重ねが、運が良ければ加速度的に、或はまた偶然的に、大きな幸福をもた ら す の で あ る 。 つまり、そうした幸福を意識的・直接的な目的としていないとしても、何らかの幸福は常に求められ ているわけであり、目的外の幸福という事実が心理的幸福主義の真理性に影響を与えることはないのである。 続いて最後に、心理的幸福主義の第五の弁証論をとり上げる。それはこれまでとはやや性格を異にする議論であり、 幸福そのものの性質に注目する。即ちその議論は、幸福の唯一不二なる自己目的性を指摘し、その論理的帰結に依拠 しているのである。周知の如く、目的と手段の関係は相対的であり、或る目的も高次の目的に対しては手段である。 しかし、普遍的な、従って究極的な目的(動機)とは、当然に、もはや他の手段たりえない目的であり、それ自体が 目的、即ち自己目的である。それ故、もし自己目的たりうるものが只一つしかないとするならば、それが唯一の究極 的・普遍的な目的であるということになるであろう。そこで、 ﹂ の 第 五 の 弁 証 論 は 、 宰 福 は 自 己 目 的 で あ り ハ こ の 古 川 に つ い て は 既 に 第 一 章 三 節 に お い て 若 干 触 れ た が ) 、 しかも唯一の自己目的であると論ずることによって、 心理的幸福主 義を基礎づけようとするのである。 それでは、自己目的たりうるものが幸福以外にないということは、如何にして主張されうるのであろうか。その根 拠は何であろうか。そのような命題の妥当性は、次の如き手続によって確認することができる。ー

ll

一つ一つの行 為には必ず何らかの理由が存在し、我々はそれぞれの理由を尋ねることができる。たとえ、或る行為についてその理 出が自覚されていないとしても、また、本人がその理由を明白に認識しえないとしても、正常な人間の行為である限

(25)

り、理由の探求は可能である。そこで仮に、或る行為についてその理由が示されたとしよう。それはむろん何らかの 判断を含んでいるが、判断には当然一定の基準がある。しかし、その基準は一般に自明ではない。従って、我々はそ の基準について更にその理由を問うことができる。それによって、 より根本的な理由(判断基準﹀が明らかとなるが、 それについてもまた、同様に問うことができる。このようにして、より根源的なレベルへと逆上っていくならば、や がて、その理由を更に問うことができないような、即ちそれが無意味であるような、判断へと必ず到達するであろう。 そこで、それは何かということになるが、そのような判断として考えられるもの、それ自体に完全な理由が含まれて いるもの、それは、幸福以外にはあるまい。何故なら

li

一方において、幸福はただ欲するが故に欲するとしか、言 いようがない。幸福とは(既述の如く﹀欲求充足に基づくが、(究極的な)欲求には本質的に理由がないからである。そ れは全く明噺判明な直観的事実であろう。しかるに他方、幸福以外のものについては、その理由を問う余地が常に残 されている。それは、そのような間いそのもののもつ合理性が示しているであろう。かくして、 幸福であるから(又 は幸福であるために﹀、或は、幸福をもたらすから(又は幸福をもたらすために)というのが、もはやその理由を問いえな 61--'LJ理的幸福主義の妥当性的 い唯一の理由(目的)なのであり、従って、幸福が唯一の自己目的なのである o より根源的な理由への遡及とその結論は、実際にやってみればよくわかる。例えば、学生の勉強とい うことをとり上げてみよう。学生に何故勉強するのかと尋ねれば、(ひょっとして/) こ の よ う な 、 勉強自体が楽しいからと答える かもしれない。その場合、楽しい理由はいろいろあろうが、それらについてもまた結局のところ(手段の自己目的化の 場合はさておぎ)、楽しい(幸福である)からとしか言いようがない。従って、勉強自体が楽しいからという答えに対し ては、基本的に、もはやその理由を問うことができないであろう。しかしまた、それ以外に例えば、良い成績をとり たいからと答えるかもしれない。そのような答えについては、明らかにその理由を問うことができる。そして更に、

(26)

第3巻 4号一一-62 その理由の理由という具合に遡及していけば、例えば次の如き連鎖ができ上がるであろう。良い成績をとりたいから ふ │l良い会社に就職したいからホ││高い収入を得たいから→│裕福な暮らしがしたいから→│裕福なほうが仕合わせ このような遡及が可能であるが、 しかしこの最後の理由については、 前 述 の 如 く 、 ( 具 体 化 や 明 確 化 は 可 で あ る か ら 。 能であるが、その基本的判断自体については)もはやその理由を問うことはできない。幸福という理由に到達すれば、 そ れで遡及は停止せざるをえないのである。そしてそのように、理由の遡及が最終的には幸福に到るということは、如 何なる事例においても妥当するであろう。幸福に至らない限り理由の遡及は可能であり、事実、どのように深い理由 の根底にも、更に宰福を見ることができるのである。 ただ、一つ問題がある。それは、先に第二の弁証論で取り扱った倫理的行為についてである。倫理的行為の動機(理 由)もまた自己幸福にあることが、そこで論じられた。従って既に、倫理的な理由は究極的ではなく、自己目的たり えないとされたのである。しかし、ここで再びその問題をとり上げ、それについて(別の観点から)若干論及しておく 必要があろう。というのは、純粋に倫理的な理由は究極的であり、その理由を更に問うことはできないと、 一 般 に 或 はしばしば思われているからである。倫理的行為は自己目的であるという観念が、根強いからである。しかし、果し てそうであろうか。 或る行為についての純粋に倫理的な理由としては、それをすることが善いことであるからだとか、正しいことであ るから、また、それが義務でありまさになすべきであるからだということなどが、考えられる。そして、それらは一 見それ自体で十分な理由のように思われる。しかし、それらは本当に究極的な理由であろうか。決してそうではある まい。そのような理由に対しても、更にその理由を問うことができる。その聞い、即ち、善いことや正しいことを何 故行なうのか、なすべき義務を何故果すのかという聞いは、十分に意味のある間いであり合理的な間いである。その

(27)

証拠に、それに答えて、既述の如き(第二の弁証論において述べた)究極的な自己幸福に関る理由(動機)のほかにも、例 えば、菩き行為は結局は自己自身の所謂利益(自己幸福に含まれうるが﹀ になるとか、社会全体の利益になる、或は、 国家の要求であるとか、神の命令であるなどと、言うことができるのである。そしてまた、倫理の根拠についてのこ の聞いはそのように有意義且つ合理的であるだけではない。それどころか、その問いは、倫理は一般に行為者の自然 的傾向性に敵対するが故に、人閉そのものにとって根本的且つ重大な問題なのである。もちろん、その間いに答えて、 善・正・義務は自己目的であると、再び言うこともできる。しかし、その場合のそうした命題は事実命題ではありえ ない。それは実際には、白己目的たるべきだということ、即ち価値(当為﹀命題である。それ故、そのような答えは、 事実としての人間行動の問題に関しては無効なのである。かくして、善・正・義務などは自己目的ではなく、そのよ うな理由は究極的ではないと言うことができる。倫理的行為も少なくとも事実としては自己目的ではないのである。 そうであるならば、第五の弁証論にとって最大の障害が取り除かれたことになる。前述の如く、幸福が唯一の自己目 的であり、従って、それのみが普遍的な動機なのである。 63-一心理的幸福主義の妥当性伺 以上、心理的幸福主義のための五種類の弁証論を展開してきた。それらは別に体系的というわけではなく、また、 理論的にそれほど整理されてはいない。それらはただ、従来提起されてきた主な批判を念頭におきながら、思いつく ままに構想したものである o 従って、これ以外の弁証論も当然ありえようし、それぞれの論点にしても、 おそらくそ れらに対する批判又は再批判に対応してまだまだ補強する余地があろう。本稿の弁証論は斯く不完全なものであるが、 しかしそれでも、先に提出した﹁導出﹂︿第一章三節)や﹁帰結﹂(第二章一節)と共に、(真の意味での)心理的幸福主義 のための新たな議論を提出し、その基礎づけを強化しえたと信ずる。 いずれにぜよ、弁証論そのものの性質からして も、批判との聞の生産的な対話が望まれるところである。

(28)

第3巻 4号一一64 ︿ 1 ) 口 同 ・ ﹀ ・ 。 ・ の 日 1 H M 2 F q b w R R さ リ 由 民 ミ 札 q E w a s -m w H 虫 色 拍 子 三 時 な ( S N S L 崎 町 内 P H E W N R H 3 . hepg ∞ ∞ ) 円 再 開 戸 山 口 ﹄ 向 ミ 、 ミ 。 己 主 リ ミ w H h -開 品 ・ σ 可 一 ﹃ ・ 司 冊 目 白 σ 2

m

-。 同 同 門 ︾ 円 内 Y H 出 羽 田 市 y 。 ・ ∞ ∞ ・ ( 2 ) アリョ l シャに対するゾシマ長老の言葉︹ドストェ l フスキイ﹃カラマ 1 ゾフの兄弟﹄(米川正夫・訳)、岩波文庫、第 一巻一六五 l 六 頁 ︺ 。 ( 3 ) リ 1 ザの言葉︹ドストェ l ブ ス キ イ ( 前 出 ) 、 第 四 巻 四 三 一 貝 ︺ 。 ( 4 ) ヒルティ﹃幸福論﹄(草間平作・訳)、岩波文庫、第一部二四三長。 ( 5 ) 同右、二

O

六 頁 。 ( 6 ) 同右、第三部九頁。 (7)R ・ ノ l マン﹃道徳の哲学者たち﹄(一九八三年)、塚崎智・監訳、昭和堂、一九八 l 九・二八二・三一五 I 六 頁 参 照 。 ( 8 ) 坂本百大﹃意識と内観││!哲学的観点から﹄、﹁心理学評論﹂第二七巻一号(一九八四年﹀、八三 I 九一頁参照。 ( 9 ﹀人聞のそのようなエゴイズムが最も端的に現れる場合の一つは、他人の、特に死のような、極端な不幸に直面した際であ る。それを物語る印象的な事例を、文学作品に依拠して参考までにいくつか紹介しておきたい。 ﹁(ママの)葬式の前も後も、私はひっきりなしに泣き、悲しんでいたが、その悲しみを思い出すのは気恥ずかしい。何故なら、それ にはきまって一種の自尊心が混じっていたからだ│││時には、自分が誰よりも悲しんでいるのを見ぜたいという気持、時には、自分が 人にどんな印象を与えているかという懸念、時には、ミミ l ︿ 妹 の 家 庭 教 師 ﹀ の 室 内 帽 や 居 並 ぶ 人 た ち の 顔 を 観 察 せ ず に は い ら れ な い 、 目的のない好奇心などが、混じっていたのだ。私はただただ悲しみの気持しか味わっていないというわけではなかったので、自分を軽蔑 していた。そして、そのほかの全ての感情を隠そうとしていた。そのために、私の悲しみは不誠実で不自然だった。その上、私は自分が 不幸なのを知って、一種の楽しさを感じ、不幸の意識をかきたてようと努めていた。そしてこのエゴイスチックな感情が、何にもまして 私 の 中 の 真 の 悲 し み を か き 消 し て い た 。 ﹂ ( ト ル ス ト イ ﹃ 幼 年 時 代 ﹄ 、 藤 沼 貴 ・ 訳 、 岩 波 文 庫 、 二 ハ 入 i 九 頁 。 括 孤 は 引 註 。 ﹀ ﹁広子たちは、自分たちに近しい者に起こった突然の不幸に際して、最も親しい間柄の者にすら常に認められるあの不思議な内的満足 感を味わいながら、一人一人じりじりと、戸口のほうへくびすを返した。元来人間は誰しも、一方に同情同感という極めて真実な感情を も っ て い な が ら 、 例 外 な し に 、 こ う し た 感 情 の 起 こ る の を ど う し ょ う も な い も の な の で あ る 。 ﹂ ハ ド ス ト ェ l フ ス キ イ ﹃ 罪 と 罰 ﹄ 、 中 村 白

参照

関連したドキュメント

名の下に、アプリオリとアポステリオリの対を分析性と綜合性の対に解消しようとする論理実証主義の  

身体主義にもとづく,主格の認知意味論 69

被祝賀者エーラーはへその箸『違法行為における客観的目的要素』二九五九年)において主観的正当化要素の問題をも論じ、その内容についての有益な熟考を含んでいる。もっとも、彼の議論はシュペンデルに近

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という

経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)

ぼすことになった︒ これらいわゆる新自由主義理論は︑