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「国家神道」論の再検討─近世末・近代における「神道」概念の転換─

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Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B Vol.51,No.1(2006) pp.10~50

「国家神道」論の再検討

─近世末・近代における

「神道」概念の転換─

井上 寛司

情報科学部 情報システム学科

(2006 年 5 月 25 日受理)

Reconsiderations of the Theories on “State Shinto”: The Changes in the Concepts of

“Shinto”in Late Early Modern and Modern Periods.

by

Hiroshi INOUE

Department of Information Systems, Faculty of Information Science and Technology. (Manuscript received May 25, 2006)

Abstract

In this paper the development of “State Shinto”and its historical developments have been reexamined, especially

noting the concept of“Shinto”and it's development in history. As a result the following conclusions were

reached:(1)“State Shinto”is a national religious system which combined the doctrines of “Shinto”,which is nationally

ideological by nature, with shrines which were religious institutions peculiar to Japanese society. The infusion of Tennoism and statism into the minds of the common people was intended through that combination.(2)The basis

of“State Shinto”was founded in 1871 and established in 1889-1890.(3)“State Shinto”underwent restructuring during the

Shino-Japanese War and the Russo-Japanese War. The restructured“State Shinto”remained intact until the end of the

Second World War.(4)There were some theoretical flaws in the work of Kunio Yanagida, the most severe critic of“State Shinto”,which have resulted in today's mistaken concept of“Shinto”.

キーワード; 「神道」,「国家神道」,国家的宗教システム,神社,「固有信仰」,柳田国男

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「国家

道」論

の再検討

近世末・

近代に

ける「神道

概念

の転換

情報 科学部 情報 システム 学 科

(二 〇〇六年 五 月 二 五 日受理 ) 目 次 一、は じ めに │問題の 所 在 と 課題の 設 定 │ 二、 「国 家 神 道」 の 成 立 1明治初期に おける維新 政 府の政策基調( 1 ) │「神 道国教」 化の 理解をめぐっ て │ 2 明 治初期に おける維新 政 府の政策基調(2) │「国 家神道」 の基本的枠組みの 成立 │ 三 、「神道」概念の転換と「国家神道」の体制的確立 1教部省・教 導職 設置の意味するもの 2「信教の自由 」 論争 と「宗教とし て の 神道」の成立 3新 たな 「 宗 教」 概念 と「神 道 非 宗 教」 ・「 神 社 非 宗 教」 論 の 成 立 四 、柳田 国男「 固 有信 仰」論 の 歴史 的位置 1「 国家神道」の 再編成と神社 整理 2柳 田国 男 「 固 有 信仰 」 論 の提 起 と そ の 意味 する もの 五 、むすび 一、はじ めに │問題の所在と課題 の設定 │ 戦後 にお ける「国 家神 道」 論の 研究 が藤谷 俊 雄 ( 1) ・村 上重良 ( 2) 氏 、 とりわ け 村 上 氏の問題提起を踏まえ、それに対する批判的検討 と い う形で進められて きたこ と は周知のところ で あ る 。 そ の研 究 史 の概要に つい ては、近 年、 磯 前 順一 ( 3) ・桂 島 宣 弘 ( 4) の両氏によ っ て 宗 教学 及 び 歴史 学 の立場からのそれぞれ的 確 な総括が なされてい て 、 改 めて屋上 屋を 架す必要も な いと ころと い え よう。 そ し て そ こで 桂島氏も指摘するように、近 年 の新しい動向として 、 「宗 教 」 や 「 神 道 」など の 諸 概 念 そ のも の に まで 踏 み 込 ん で問題 を 捉え 返そ う と する 研究 が現れ、 「国 家神 道」 論の 再構 築に 向けた 新 しい 展望 が開 か れ つ つ あ る と い う の が今日 の 重 要 な 特 徴 で あ り 、 そ の 研究 動 向 を 代表しリードする一人 とし て 、 磯前 氏の 研究 を あ げる ことができる 。 磯前氏の場合とくに重要だと考えら れるの は 、近代日 本における R e l i g i o n の訳語として の新たな「宗教」 概念の成立につ い て の 体系的 な 考察 を踏まえつつ、明治維新から アジア・太平洋戦争の終結に至る、 「国家神道」 の成立から解体ま での全過程 を 視野に収 めることによっ て、 以 下 の よ う に 体 系 的 な 形 でそ の 全 体 像 を 提 示 し て い る ( 5) こと であ る。 磯前氏は、宮地正人氏 ( 6) に従 って 、 「 国家神道」を 「神社を通して 天皇制 ナ ショ ナリズム を 国 民に教化しようとする戦前の社会体制」 と捉 えた上 で 、 こ れ を次 の よう に三 つの 段 階 に 区 分 し てい る 。 〔第一段階 ( 前史) 〕 神 道 国教化政策の 時代。慶応四 年( 一 八 六 八 )の 神 祇官布 告 か ら 、明治 十 五 年 (一八 八 二) の官国 幣 社 の 教道職 兼 補禁 止まで。 これはさらに、①神祇 祭祀を 軸 と し た神祇官 ・神祇省期 と 、 ②三 条の教 憲 と呼 ばれる 教 を 軸 とした教 部省 期に区 分 され る 。 ともに政教分離に基 づ く 信 教の自 由 及 び 宗教という 理 念が社会に定 着する以前の段階で、近世的な「神祇」ないし「教」 と い う 概 念の もと で、 キ リ スト教 に対 抗 しな が ら 斉 一 的な国 民 教 化 が目指 さ れた 時期 。そ こ で は、 祭 祀の 場 所 と し て の 神 社 が 最 大 の 拠 点 で は な く、 むしろ宣教使 や教導 職 とい う教化 を 担う 官吏やその 教 化対象 ( 講社 集団) を 梃 子 と し て国 民 教 化 が 進 め られ た 。 〔 第 二段 階〕明治 十七 年(一八八四)の 教 導 職 廃 止にともな う公認 教 制 度と、明 治 二 十二年 ( 一八八九) の 大日本 帝 国憲法の 公布 を通し て、 信 教 の 自 由 が 日 本 に 定 着 し て い き 、 そ れ ま で 未 分 化 であ っ た 教 が 、 公的領域として国民の義務とされる道徳と個人の 裁 量に委ねら れ る 宗教 という 私 的領 域とに 区 分さ れる時 期 。 そ のため 、 こ の 時 期 には 、グレーゾーンたる神 社を 国民教化のイデ オ ロギー装置として 積極 的 に 活 用 す る ことはせず 、 そ れ を支 え る 財政的援 助も 打 ち 切る

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方針に転 じる と同時に (= 神社政策の不活発期) 、 前 段階までの神 道 国教化 政 策から 撤 退 し 、代わ っ て啓蒙 主 義的な政教 分 離政策を推 進、 天 皇制 ナ シ ョ ナ リ ズム の 教化 手 段 も 教育 勅 語 や 御 真影 の 配 布、 ある いは 神 話 を含 まない歴史教 育など、 学 校教育という 回路が 前面 に押し 出 され る。 〔第 三段 階(神社 を積 極 的 に 活 用した、 厳密な 意 味での国 家神 道体制の 時 期 ) 〕 官国幣 社 国 庫供進制度が 施行 され 、 神 社合祀が 本格 的に 開始 される明治三 十 九年( 一 九〇六) 頃か ら昭和二十年(一九四 五)の 十五 年 戦争 の 敗北 ま で 。 こ こでは 、 神 社 非 宗 教 論 が積 極的 に 利 用さ れるようにな り、神 社 崇 敬 は宗教 で はなく国民 道徳 の範疇に 属すと の論理に基 づ いて 、地域改 良運 動などと結び ついて、神社が国民教 化の地 域 的 拠 点 と さ れ る よ うにな る 。そ して 大 正 末 年 から昭 和 初期 にかけ て 、 神 道は宗教・道徳など を 包摂 する究 極 概念 で あ り、国体 すな わ ち 天 皇 制 ナ シ ョ ナ リ ズム と ほ ぼ 同 義語だ と す る 主 張 が提 起さ れる とともに、戦 時体 制への移 行とも関わ っ て 、 神社崇敬が あ から さまに国民 に 強要さ れる よ うにな り 、 十 五年戦争の激化とと も に国 家神道体 制は そ の 絶頂 を迎 える こと とな る。 ここに示 され た磯前氏 の見解は 、 「国家 神道=神社神道」論の立場か ら 、 こ れ まで に 進 めら れてき た 理論 的・実証 的な研 究 の 成 果を 、新た な 「宗 教 」 概念の 成立を 梃 子 と し ながら 、 極 め て 体 系 的 な 形 で ま と め あ げ たも の で 、今日に お け る「国家 神道 」論研 究 の一つの到達 点 を 示すも の と評価す ることができるで あ ろ う。しかし極めて 整 合 的に 見 え る そ の 見 解も、 少 し 踏 み 込 ん で 考 え る と い く つ か の 点 で 疑 問 を 抱 か ざ る を 得 な い 。 その まず第一は第一段階の捉え方の問題。具体的には、① こ の時期を 「国 家神道」 成立の 「前 史 」 と 位 置 づけ、 「 国家神 道 」 を 新 た な 「 宗教 」 概念の 成 立後 の時期 に 限定 して捉 え て い る こ と、② こ の第一 段 階を通説 に従っ て 「神 道国教」化政 策の時 代 と捉 えて い る こと、③「 国 家神 道」 の内容 を これま た 通説に従 っ て 「神社 神 道」 という形 で捉 えて い る こ と 、 すなわち「国家神道 」 の概 念規定に再 検 討の必要が あ ると考えら れ るこ とで ある。 その具体的な内容につ い て は 、 後ほど改めて述 べ る こ ととするが、 こ うし た問題 が 生 じて く る 背景には 、磯前氏が 言 説論の立 場から 専 ら R e l i g i o n の訳語として の新たな「宗教」 概念の成立に視点を 据 えて分 析 を 試 みて いて 、 「 国家 神道 」 そのも の に つ い て の 歴 史 的 分 析を 必 ず し も 正 面 に 据 えていない こ と、 あ る い は 宗教 学と歴 史 学と の違という、 分析 視 角 や方 法 論 に 関 わる 問 題 もあ る と 考 え られ る 。 以 上 の こ と か ら、 本 稿 で は 磯 前 氏の見 解 を念 頭 に 置 き な が ら、 と く に 磯前 氏のいう 第 一 段 階 ( 「 神道国 教」化政策期 ) につい て 、 い ま少 し踏 み込ん だ 検討 を加 える こと により、さき に掲げ た 三つ の疑 問 につい て考 えて みることとしたい。その際 、とくに「神道」概念のあり 方 に注目 し 、 「神道」 概念のどのような理解 に基 づい て「 国家神道」 が 成立 して いったの かを考えてみることとしたい。 「 神 道」 概 念 の歴史的な変化に 関しては、前稿 ( 7) において中世 末から近世 ( 「神 道」 概念の「 宗教」 化への 第 一・ 第二 段 階 )に つい ての不十分な考察 を 試 みたと こ ろである が、 本 稿 では これ を 受 け て 近 世 末 か ら近 代 に 至 る 過程 の 中 で、 そ れ がさ らにど の よう に変化 し てい くの か、 とく に「国 家 神道 」 の 成 立 とそ の後 の展開 過 程 を 通してどのように変 化 していった の かを 考えてみる こ とと し た い。 磯 前 氏 の いう 新 し い 「 宗教 」概念 の 成立 と い う問 題も 、恐ら く これ に よっ て 改 め て見 直さ れ る こ と にな る で あ ろ う と 考 える 。 これ が本 稿の 第一 の 課 題 で あ る 。 磯前 氏の理 解につい て の疑問の 第二は、 かつ て中島三千男 氏が行った 問題提起 ( 8) を受 け て 、 第 二期 を「神 社 政 策 の 不活 発期」 、 そ し て 第三 期を 「厳 密 な 意 味 での 国家神道 体制の時期 」と捉え て いること 、すなわ ち 「 国 家 神道」 を 日 清 ・日 露戦争後に本 格 的 に成立する帝 国主義イデオ ロ ギ ーと して の 本 質を 持 つ も の と評 価 し て い るこ とで ある 。こ うした 理 解はさ き の第一点とは逆に、今日 の通説的理解 と は大 きく異なると ころ とい わな けれ ばな らない が 、 し か し 通説的理解とされる側にあってもこ の 問 題に 十分な対 案 を 示 し 得 て い る とはい えず、そ の こと が 「 国 家 神 道 」の理解をいっそ う の混乱と困難へと導く大 き な要因に なって い ると 考えられる。 こ の問題について 考 え る際の最も重要 な 論 点 は、磯前 氏 の いう第二 段階 を そ れ以前( 第 一 段 階 )との関係に おい て い かに理解 する か、 そ し て日 清・日 露 戦争 後 の 第 三 段 階 を「国 家 神 道 」 の 歴 史 全 体 の 中 にい か に位 置 づけ、 評 価す るかに あ ると い え よ う 。 こ の 問 題 に つい ての 筆 者 な り の理解を 示 して 大 方のご批判を仰ぎたい。これが 本 稿 の第二 の

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課題で あ る。 さら に 、 こ う し た 「 国 家 神 道 」 の 成 立 と 展 開 の 中 で 、 こ れ に 対 抗 す る 新た な 「 神道 」概 念が 提起 され 、 そ れが 今日 一 般 に用 いら れ る 「神 道 」 概念( 「 神道」 概 念の「宗教」 化の第三ない し第四段階)へとつな がるこ とになった と 考 え ら れ と ころから 、柳田 国男氏 の 「固有信仰」論につい て若 干の検討を加 えることと し たい。 こ れ が 本 稿 の 第 三の 課題である 。 二、 「国家神道」の成立 1 明治 初期 に お ける 維新 政 府 の政 策基 調( 1) │「神道国 教」化の理 解 を め ぐって │ 前節 でも述べた よ うに、 磯 前氏 を初め と して、 こ れ ま での 研究 では明 治初年の維新政府の政策基調を 「神道国 教 」 化政策と捉え 、そしてそれ が挫折 す る中 で「国 家 神道 」 が 成 立 していった と する点 で ほ ぼ 共 通 の理 解の上 に 立っ て い る 。 もっ とも、 そ の時期設定 は 論者 によっ て 大 き く異 なり 、今日では主とし て 次 の三つの意 見 が 提 示されている ( 9) 。 ( A ) 教 部省設置 以前の明治 四 年 ( 一八七 一 )まで 。 宮地正人 ( 10) ・ 高木博志 ( 11) ・羽賀祥 二 ( 12) 氏を初めと し て 今 日 に お ける最も一 般的な理解 と 考 えられ、 そ こ では キリ ス ト教の 禁止 や 廃 仏毀釈な どに見 ら れ る ように、外 来 宗教たる仏 教 やキリスト教 (とくにキ リスト教) を 押さ え込 み 、 「神道」 を 「 日本 の国教(国 家 公認 の 宗教) 」 とすることに よっ て 「 国 民 」の思想的 ・ 宗教的 一 元化を 推し進め よう とした、 と考 えられている 。 (B ) 明 治 八 年(一八七五)の大 教院の解散と「信教の自 由」 口達ま で。安丸 良夫 氏 ( 13) など 。明 治 四 ・五年を 画 期 として 前 後 の 二 期 に分け、第一 期は国学 者 や 神道家が祭政 教 一 致の神政国家イデオ ロギーを掲げ て 活 動した の に対し 、 第 二 期には神仏合 同に基づく 人為 的に 折衷され た新時代にふ さわ しい国教を 樹 立する た め の 壮 大な試み が 展 開された、とされる。 (C )明治 十 五年 (一八 八 二) の官国 幣 社の 教道職 兼補禁止ま で。中 島三 千男 ( 14) ・磯前順一 ( 15) 氏な ど。 「 信 教の自 由 」 や 「政 教分 離」原則 が成立する以 前の、 「 神 道 」 を 国 教 と し て 天 皇 制 ナ シ ョ ナ リズ ムの支柱にすえようと試みた時代、 と考えられている。 し かし 、 こ う した理解に は ともに次 のような疑問が あ る。 その第 一 は 、 「 神 道」 を 「 国教 」( = 国 家が 特 定 の宗 教を 公認し そ れに 特権 的 な 地 位と保護とを与え る こ と ) と捉えるこ と がで きるのか、す な わ ち 維 新政 府が 重視し た 「 神 道」を 仏 教 な どと 同 性 格 の 一個の 「 宗 教 」と 捉えるこ とができ る の か 、 第二 に 、そも そ も 維 新 政 府 は「 神道」を そうし た 「 国 教」 (国 家 公 認の 宗 教 ) と する こと にそ の政 策 基 調 を 置い てい たの か、 という こ と で あ る 。 要 する に、 これ らは 「神道 国 教」 化政策 と いう 場合 の「神 道 」 や 「国教」 を い かなる も のと して理 解 する かとい う こと にほ かな らな い 。 い ま 一 つ 、 「 神 道 国 教 」 化 政 策 と す る捉 え方 に つ い て の疑 問 は 、それが挫 折 ・失 敗して 「 国家 神道」が 成立す る と い う、その挫 折 や失敗 の 具体 的な歴 史 過程 や内容、そ し て新た に 成立 する「 国 家神 道」 の内容 をかつ ての「 神 道国 教」 化 に おけ る「神 道 」 と をどの よ うな 関係 におい て 理解 するの か 、 と い う こと であ る。 本 項 で は 、ま ず 前 者 の 点( 第 一・ 第 二 ) に つ いて 考え る 。 明 治 初 期 に おける維新 政 府の宗教 政策 を 「 神道国教」化 政 策 とする通説的理解に対 して は、早 く か ら 藤 井貞文氏 ( 16) が一 人 こ れ に 異 論 を 唱 え て きた 。 藤 井 氏が提 起 した 批判点 は 主に次の 二つ で あ る。そ の 第 一 は、 「神 道国 教 」 化政 策 の 根 拠 とされ る 慶 応 四 年(一 八 六 八)三 月 十 七 日の太 政 官 符 案 ( 17) ( 「 皇国内宗 門、復古神道 ニ御定被 二 仰出 一 、諸国共産土之神社・氏子 且人数改被 二 仰付 一 候事、 但仏道帰依之輩 ハ私 ニ 取 用候儀者 不 レ 苦候 事」 ) が 単な る私 案 に 止ま り、 実 際 には 発令 さ れ な か った こと、そ し て 第二は、 初期 維新政 府 の政 策基調 が 祭政 一致にあっ て 、政教分離へ と帰 着 す べ き もの であ っ た から、 こ れ を 「神 道の国 教 」 化 を目指 す もの と考 える こ と は で きない と い う こと であ る。 このう ち 第二 の点 に 関 し て は、 後述 の よ うに直ち に従 うことはでき ない が 、 第一の 点 に関して は 藤 井氏 の指摘 の 通り で 、 氏 子 調べ一つをとっ て も、そ れ が 実 際に始 ま った のは 明治四 年 ( 一 八七一 ) 七月 で あ り ( 18) 、 こ の太 政官符 が 実際に発令され ることはなかった。 で は 、藤 井氏 の 見 解 は なぜ その後も まっ た く 無 視 され 続けるこ とと な ったの か 。一 つには、 こ の 太政官 符 の発布如何に関わらず、 実 際に 進め られた政策の内容が こ の布 告の趣 旨 に沿ったもの で あ ったと 考 えられる ことに あ る。そ し て 二 つに は、そ の こと を裏づ け る よ う に 、 実 際に そ れ

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が 「 国 教 」と呼ばれ て いた ことが確認できるか らで あ る。例 え ば 、 明 治 七年 五月に伊勢 神 宮大宮司田中頼庸が 神祇官再 興 を要請し た 建 白書に は、 次の よう に記され てい る。 臣謹テ案ルニ、政教ノ国家 ニ於ルヤ車ノ 両 輪ノ如 ク 、 其一 ヲ 偏 廃シ テ不可ナル ハ 論ヲ 待ズ。 蓋 シ教 ハ道 ヲ 脩 テ政 ヲ 佐 ケ、政ハ道ヲ行 テ 教ヲ 護シ、政 教 一 致ニシテ 亳釐モ相 悖ザ ルハ、国 ヲ 治 メ 民 ヲ 安 ズル ノ要法 ナ リ。方今泰西 ニ行ハルヽ基 教ノ類ハ、其 起源 ヲ 政 府ニ依ズ シテ自立 セシ 宗旨サヘ モ 其 勢猶 神法 ヲ 以 テ国法ノ 部属 トセザル ヲ 得 ズ。加之 実 用 窮理ノ学益盛 ニ開テ宗 教ノ 勢漸ク衰 微ス ト雖 モ、 各国 亦自 ラ信崇宗旨 ヲ 立テ 国教 ト シ 官員 悉其 宗ヲ 奉ズル者ハ、教 ハ 民 ヲ 治ルノ要務ニシテ、一 日 モ 国家ニ欠 クベ カラザル ガ故 ナリ。 ( 19) 同じく同 月 に 出雲大社 大宮司千家 尊福ら 三 名 が 提出 し た 建白書 に も 、 次のよう に記 され て い る。 民心ノ愚 蒙ヲ啓キ 、疑 惑 ヲ 解キ 、朝旨 ヲ 曉リ 、朝廷 ヲ 戴カ シム ルコ ト 実ニ 今 日ノ最 大 急 務 ニ シ テ 、 遂ニ通 国 ノ民ヲ シ テ権利ヲ 享 ケ義務 ヲ尽シ、 国 ト 休戚 ヲ 共 ニシ 、君臣上 下同 気一 貫、 死生 不遷ノ心 志 ヲ 興サ シムルハ、国教ヲ 拡充スル ニ在リ 。 〈国教ノ体、頼 庸・正 邦 等 ノ論 ズ ル所粗 備 ハ ル ヲ 以テ、復タ贅 セ ズ。特 ニ 其宗 教ニ非 ズ ト ス ル者 、固ヨリ 允当ト雖ド モ、外国ニ対シ テ之ヲ 言 ヘバ、 日 本宗ト称スベキ モ ノ ナ リ。 〉 之ヲ 拡 充ス ル ハ 神 祇官 ヲ 復 シテ 国教ノ標準 ヲ立ツルニ 在リ 。 ( 20) 神祇 官 を 再興 して「日本 宗 」 と も称すべき「 国 教 」 を 拡充 すべき だと す る 、 こ うした 主 張か ら す れ ば 、明 治初期 の 日本で 「神道 」 が 「 国 教 」 と理解されていた こと、そ して維 新 政府 の宗教政策が「神道国教 」 化に あった こ とは疑う余地 のな いところとも 考えられ る。 しかし 、 果たして 本当 にそうなの で あ ろ うか 。 「 神道 」 を 「国教 」 と す る 、こ う し た 表 記 に 関 し て は 、こ れ ら 二 つ の 史 料 か ら も 明ら か な よ う に 、 それを 明 確 に 「宗 教 」 と し て 、 ある い は 「宗 教 」 と の 関わ り に お い て捉 え る こと と一体 的 な 関 係にあ る こと にまず 以 て注 意 し ておく 必 要 が ある。す なわち 、 「神道 」 を 「 国教 」とす る 、 こ う し た 理解や 表 記 は 、 政府 の 進 める政策 に対 する 批判 が高 まり、 「 宗 教」 と は何 か が 議論され る状況 の中 で 新たに 登 場し てきた も のな の で あ っ て 、 明治初期 からそう 呼ばれ て いた と いう わ けではない ( こ の 点について は 、次節 で 改め て 論 じる ) 。 従っ て 、 問題はやはり 第一 の論点、 すな わち実際の と ころ明治 初年における 維新政 府 の宗 教政策 が 紛れ もなく 「 神道国教 」 化 政策 とい えるもの で あ ったかどうかという こ とになる。 明 治 初 期 におけ る 維 新 政府の宗教 政 策の基 本 が 、 後期 水戸学 以 来の 国 体イデ オ ロギーを踏 ま え た 祭政教一致( こ の 場合の「 教 」 は「宗教」 で は な く「教化」 ・ 「教法」 ・ 「 治教 」 を 意味す る )の 実 現に あ ったこと、 そ し て そ れ を主 導的 に 推進し たの が、 かつ て考 え ら れた ような 平 田派 国 学 ではな く 、 エ タテ ィ ス ト( 国 家 至 上 主 義 者) た る 維新 官 僚 と 結 ん だ 、大 国隆正 ・ 福羽美静な ど によ っ て 代表される津 和野派国 学で あった こ と は、近 年 の 島 薗進 ( 21) ・子安宣邦 ( 22) 氏ら の研究に よって い っ そ う明確 に な っ て きたところ と いってよ い ( 23) 。問題は、 こ れらの政 策が 「神 道」 概 念 の如 何な る 理 解の 上 に 立 っ て進 められ た の か 、そ し て そ こ での 「神道」 概念と 「 国教」化と い わ れ る問題とがどう関 わ り 合っ て い たの かという こと にあ る。 この ことに つ い て 考 え る た め、 明治 初 期 にお ける「 神 道」 概念の あ り 方について 少 し 検 討 して み るこ ととしよう。この問題につ い て 考える た め の 一つ の材料 を 提供して いる のは 大 国隆 正 で あ る 。 隆 正 は浦 上問題 に 関し て 提 出し た 慶応 四 年 三 月の意見書 ( 存念書 ) の 中で 、日 本の「神 道」 には 四 つ があ ると し て、以 下の よう に述べ て い る 。 日本四流 ノ神道ト申候ハ、 家伝 流 コレ ハ卜家 伝 、 橘 家伝、 両 部、唯一 ナ ド 申 モ ノニテ 旧 神道ト モ 可 レ 申モ ノニ御 座 候。 本居 流 コレ ハ伊勢ノ人 本居宣長発明ノ神道ニテ、理モ 道 モ上 古ニ ハ無 レ 之様ニ申□ □候神道 ニ テ、古事記 伝 四 十 四巻御坐候 。 平田 流 コレ ハ平田 篤 胤発明ノ神 道 ニテ、古事 記 、日本書紀ノ 文 ヲ モ 自 己ノ見識ニテ 刪 定 イタ シ、 語学ヲ ス テ、 モロコ シ玄家ノ説ヲ 多 クトリコ メ 申 候神道ニテ御 坐候。 臆説 流 コレ ハ本居流、平田流ニモヨリ不 レ 申自 己ノ見識 ヲタ テ候神道

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ニテ 、備前ノ黒 住 流又ハ拙老ノトキ 候タ グ ヒ 、臆 説流ニ御 坐 候。家伝流 ヲ 旧神道ト申 、 本居流、平 田 流、臆説流 ヲ新神道ト 唱可 レ 申奉 レ 存候。コ レ ハ 蛍光ノゴ トキ モノト奉 レ 存候。 右ノゴ ト ク四 流御坐候 ヘ ド モ、イヅ レモ正大 昭明 ト申 ホ ド ノ モ ノニ 無 二 御坐 一 、月 光ノゴトキ異 国ノ教法 ヲ 圧 倒イタ シ 可 レ 申程ノ神道ト ハ覚エ不 レ 申候。 ( 24) そして 、 こ う した認 識 を踏 ま えて 隆 正は 、今後のある べき「 神 道」興隆 の方向性につ い て 、同月「極意存念書 」に おい て 次 のよ うに 提案し た 。 御一新之 折柄 、神道モ御一 新御 確定 ニテ 日本国中ヘ御 布告ニ相 成申 度奉 レ 存候。 右 ニ付拙 老愚存無 二 腹蔵 一 奉 二 申上 一 候。 先神道 ヲ 二途建テ 御布 告被 レ 遊候様 ニ 奉 レ 存候。其一ハ 聖行神道、 一ハ易行神道ニテ、両様トモ教諭士夫々 被 二 仰付 一 可 レ 然奉 レ 存候。 聖行神道ハ、 古事記、 日本 書紀之神 代巻 ヲ 究 明イ タ シ 、且又唐土之 儒老、印 度之 婆羅門、 仏家 諸宗ニワ タリ、西洋教法モワキマヘ、天 文、地 理 、 格 知之 学モ イ タ シ候テ、 日本 国之 教法 ヲ以 テ 異 域 ヲ モ化 導イタ シ候程ノ者ニ被 二 仰付 一 可 レ 然ト 奉 レ 存候。易 行神道モマタ聖 行神 道ノ 内 ニ テ 、 弁 舌 サハ ヤ カ ニ 愚 夫 愚 婦 ヲ ヨク イ ヒ サ ト シ 可 レ 申、 平常 之 諸 行篤実 ナ ル 者 ニ被 二 仰付 一 度奉 レ 存候 。 … 臆 説 家 ノ 内ニ テ聖行道ヲ 専 ラト心 掛 申候モノ ハ先々 隆 正ニテ可 レ 有 レ 之候。易 行 道ヲ 心 掛 候モ ノ ハ 黒 住 左 京 ニ テ 可 レ 有 二 御坐 一 候。乍 レ 去黒住左京 ハ 一向之不学 者 ニテ相立申候 事故、其説行届兼、御採用ニ相成兼可 レ 申奉 レ 存候。 ( 25) こ の 隆正 の記し た 二つ の文 書で 注目 され る第 一は 、 「 神道」 が 「旧 神 道」 と し ての 家 伝 流 と、 「 新神 道 」 と し ての 本 居 流 ・ 平 田 流 ・ 臆 説 流 の 二つに大 きく 区分され てい る こ と で あ る 。 「 旧 神 道」 とされた 家伝流 は、両部・唯一など を 含むところからも知ら れ るよ う に 、 仏 教 などの外 来思想の影響 を 受 けた、篤胤のい う 「俗神道」 を 指し、 こ れ に 対し「新 神道」 が 宣長以下のい わ ゆ る「復 古 神道」に相 当 する こ と は明らか で あ ろう 。 そ し て 、 こ の 「 旧 神 道」 の 中 に 「 唯一 ( 神 道 ) 」 が 含 ま れ て い る ことからも、 前 稿 ( 26) で 指 摘し た中 世末 ・ 近 世以来の 、 「 神祇道 」 を 以 て「神 道 」 と する考 えがす でに過 去のものとさ れ て い た こ と が確認 でき る。 そ の ことは、同 じ 津和野藩校 国 学教授岡熊臣の「 学本論」の次の一 説からもうかが う こ と ができる。 神道と称 ふる ものは、 禰宜 ・神主等 が行 ふ祭祀神 事の みと申 す 事の 様に存じ候 ふ 族のみ 之 有り候。笑 止 千万の事に 候 。時世に 神道と 申 し 候 は 、 天 皇 の 天 下 を 治 め 給 ふ 大 道の 事にて 、 ただ 御国 其 の 儘の 治 乱盛衰を押し込めて 、 世間 に行はれ ゆく 人道と称 ふ る 名目と御 心得 なさるべく候 。 ( 27) 第二に注目されるのは、 隆 正 が 自ら の「神道」説を臆説流 と称し て 宣 長や篤胤のそ れと明 確 に区別していることで あ る 。こ こで 、 隆 正 が 宣長 や篤胤、 とく に篤胤 と の違い を 強調 しているのは 、篤胤と違って ア マテ ラスを中心と する古 代 の天 皇神 話 ( 記 紀 神 話 ) 解 釈 を 重視 した ( 28) こと に加え て 、 何 よりも「政 治 的な実 効 性 を 重んじ」 、 「 天 皇 統治 に力点」を 置い て 「 神 道 」 の 理 論 的 再 構 築 を 図 ろう と し てい た ( 29) ことに よる 。 ア マテラスによって示された「政治的・道徳的 教え としての神道」 と い う、 こう した隆正の「神道」 理 解 ( 30) は、 「昔、天 祖(アマテ ラ ス…井 上 ) 、神道を 以て 教を 設 け 、 忠 孝を 明 か に して 以 て 人 祀 を 立て た ま ふ 」 とい う 、 会 沢 正 志 斎 が『 新 論』 で提 起 し た国体 論 に 基 づく 「 神 道 」 論 ( 31) との基 本 的な共通認識の 上 に立ち 、 その延長線 上に 位置して いたと 考え ることがで き る。 そし て第三 に 注目されるのは、 明 治維新に際し 、そ うした 「 神道」論 を さ らに 一新、発 展させて「聖行神道 」 へと 高 め る必要が あ る と 指 摘し て い るこ と 、 ま た その 「 聖 行 神 道 」 の 中 に は 「易 行 神道 」 も含 ま れ る と して 、それを「聖行神道 」 の下 位に 位置づ け ていることで あ る 。ここで 隆正 が「易 行 神道」 と して具 体 的 に念頭 に置い て い る の は 黒住 教 ( 32) で 、 太 陽 神=アマテ ラ スを万物の根源 、 宇宙の最高神 として、アマテラ スへの 絶 対的 な帰依 を 説く この民 衆 宗教 が、幕 末 期の 十九世 紀 初頭 以来 急 速 に 発 展 しつつ あ った状況を 踏 まえ 、それをも組 み込むことによって 一般庶 民 も教化する こ との できる新たな 「神道」論を構築し よ うと した ので あっ た。し か し、 それが 「 聖行 神道」の 一部として 「 愚夫 愚 婦 ヲ ヨ クイヒサト 」 す 手 段 としてのみ位 置 づけ られていることからも知られる よう に 、 隆正 が構 想 す る新 「神 道 」 は国 民 教 化 の た め の理論 で あ っ て、 黒住教などの「宗教」その も のとは明らかに次 元を 異 にする も のであっ た。そ の こ と は 、 「 聖 行神 道 」 が日 本の 古典 は も ちろん、 儒 教 ・道 教・

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仏教・ キ リス ト教な ど の諸宗教か ら 、さ らには 西洋の 学問に ま で 至 る知 識の 集積 を通 じて 、 「 異 域 をも 教導 」 で きる「日 本国 の教法 」 の構 築を 目 指 すものと位置づけ ら れ て い ると ころからも知ることがで きる ( 33) 。 以 上 、明 治維 新 期 の宗 教政策 の方向 付け に極めて 重要 な役割を 果たし た津和野派、 その理 論 的支 柱の一 人 でもあった大国隆 正の「神道」 論に つ い て 検 討を加え てき たが 、こ れによ っ て 見 ると 、維新 期 の隆 正の「 神 道」論 に は次 のような特徴 が あ っ た と考 えることができるであ ろ う 。そ の第 一 は 、天 祖 = アマテラス に よって 定 めら れた天皇による日本の国家 統治の理念を示すものとし て 捉 えら れていること 、第二 に 、 仏 教やキ リ スト教などの 諸宗教 と は次 元を異 に する、それ らを超 越する も のと 考え られ ている こ と、 第三に、 国民へ の 教化 を通じ て その 浸透、 定 着 が 図ら れるべ き もの とされ て いる こと 、 な どである。隆正 が 追求し よ うと した 「聖行 神 道」 が そのまま直 ち に 実 現 した とは い え ない が 、 「神道」 につ い ての こ う した 理 解 は 基 本的 に明 治 初 期 の 維 新 官 僚 に共 通の も の であ り、 それが「皇道」 ( 明治 二年五月二十 一日「皇道興隆の御下問」 ) ・ 「 惟 神の 大道」 ( 同三 年 一 月 三 日 「 大教宣布の 詔 」 ) などという形で表記されるこ ととなっ たの で あ った ( 34) 。 さてこ のように、明治維 新期におけ る 津和野派や維新官僚 の 考える 「神 道」 が、 「 天 皇の 天下 を治め給 ふ 大 道」=「 皇道」 = 「惟神の大道 」 とい う も の であ っ た と すれ ば、そ れ が仏 教やキ リ スト 教な ど の 諸宗 教と 性格や次元を異にする のはいうま で も な いところ で あ って 、 基 本的には 国体論に基づく政治的な国 家 的イデオ ロギ ー(= 国 家・ 天皇によ る民 衆 統治のため の 政治 支配思想)とし て の本質を持つも の で あ ったと考 え な けれ ばな らな いとい う こと にな ろう 。すな わ ち 、 「神 道」 を仏 教や キリ スト教などと同次元・同性 格の一 個の宗 教とし て 国家 がこ れ を 公認 し 、 特 別 に国家 的 な保 護 を 加えるこ とによ っ て 、 国民 への浸 透 を図るという 「神道国教」 化 政 策が 、成立 期 の維新 政 府の政策基 調 で あ ったと は 考え るこ とがで きない。 で は、なぜそれが「 神道国教 」主義 な いし 「神道 国 教 」化政策として 理解さ れ てきたのか。こ の 点につい て考 えるた め 、い ま一度慶応四 年三 月 十 七日の太 政官符 案 につい て 見 て みる ことと しよう 。さき に も述べた よ うに、実際に発 布された か否かはともか く 、 こ の官 符案が旧津和野藩 主亀井 茲 監に率いられた神祇事務局で作成された文書 で あ る こ と 、 そし て そ こ に は 「 皇 国 内宗 門 、 復 古 神道 に 御 定 仰 せ出 さ れ 」と あって 、 明確 に「復 古 神道」 を 「 皇国内 の宗門 」 に定 めると 謳 わ れ て い る こ と、 これ が 「 神道国教」化と考えられる直接の根拠と されて き たので あ った ( 35) 。 し かし 、 こ の 官 符案 の理解 に 関しては、次 の二 つの こ と に注意して お かな け れ ばな らな い 。 その一つ は、 「 皇 国内 宗門 、復 古神 道 に 御定 仰せ 出され」の文言が 、 そ れに続く「 諸 国共 産土の神社・ 氏子かつ人数改仰 せ 付 けら れ 候事 」 とセ ットを な して いるこ と 、す なわち 「 復古 神道」が 「皇 国の宗門」だという の は 神 社との関わ り において唱えられたもので あ っ た こ と、 二つ に は 、 「 仏道 帰 依 の 輩 は私 に 取 用い 候 儀 は 苦 しか らず 候事」 との 但 し書きが付されて い て 、 「 復古神道」が仏教に対す る 信 仰 とは次 元 を異 にする も のと 捉 え られ て い る こ と で ある 。この う ち 、 後者 に関し て は、 国教とされた「神道」と そ うで はない仏 教との 違 いと する 理解もあり 得 るかも知れないが 、 前 者との関 連 を 考えると 、その理解が 正確 と は いえ な い で あ ろ う 。 さ て 、 問題は産土社やその氏子調べ を行う こ とと、 「復 古 神道」 を 「皇 国の宗門」と定めること と の間に ど のような関 係 が 存 在する の か に ある。 産 土 社 の特徴 は 日本の国土 に 住むす べ て の住民( = 「 日本国 民」 ) が い ず れ か の 神 社に 氏子 と し て帰 属す る と され ると こ ろ にあ り、 日本固 有 の宗 教施設 で ある神社と結ぶことによっ て 、 少なく と も理 念的 には「 神 道」 がすべ て の「日本国 民 」 を 一 人 残 ら ず無 条件的 に 組織 する こと が 可 能と な る 。 い わば この 宿 命 的 と もい う べ き神 社と「 神 道」 との 関係 が、 個 々 人の主 体 的な 信仰 に 基 づい て取 り結 ばれ る、 「 宗 教」 とし て の 仏教 などと異 なる のはいうま で も な いところ で あ って ( こ れが但し 書き の 意 味す る内 容 と 考えるべ き も の で あ ろ う) 、 近 世以 来 の 伝統 的な 区 分 法に従え ば 、 神社と い う宗教施設 と の関わ り からして 、 そ れは 寺 院・仏 教 とは 異なる別の「 宗門」 と いう ことになる。 すな わ ち 、さ きの 官符案に いう「復古神道」 を 「皇国の宗門」と定めるとは、 国家的 イデ オロギー と し て の 「神 道」と神 社 と を 結 び合 わせる こ と に よっ て「神 道」 と 「日本 国民」 との 宿 命的な 結 びつ き を強 調 し、 そ の こ と によ っ て よ り ス ム ーズか つ 包括 的 な 形で 日本 国 民全 体 の思 想 的 ・精 神的 統 合 を 図 ろ うとする 、 そうした政策意図を表明したも の にほかならず、それ こ そ

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が「祭政一 致 」 と い わ れる ものの 一 つの 具体的 な 内容 でもあ ったと 考え られるの であ る。 前稿 ( 36) で検討したよ うに 、吉見幸和を初めとす る近世中期から幕末 期に至 る 「吉 田神道」 に対 する厳 し い 批 判と、 そ れ を受けた 吉田家 自身 の自己 批 判を通じて、国家的イデ オ ロギーとし て の本質を持つ思想的な 「神道」 論(隆正流の「復古 神 道」 論は幕末・維新 期 に お けるその一つ の理論的到達点を 示 す も の と考えるこ と がで きよ う ) とは区別された 、 いま 一 つ の「神道」 ( =「神祇道」 ) と して の神社祭祀はすべて天皇 統 治 権の中 に 吸収 され てい った が、同 じ く幕 末期 に お ける 天 皇 ( 国 家) へ の 祭祀権の 一元化と そ の 整備・体系化を 通 して 安定し た 国民的統合と国家 統治と を 実現するという国体論の 登 場 ( 37) にともなっ て 、 この両者 ( 国 家的 イデオロギ ーとして の 「神道」と 神 社祭祀)は一つに結び 合 わ さ れ、そ れ が「 祭政一 致 」 の 理念と し て維 新政府 の政 策 基調 を構成 す る こ ととな っ たの で あ っ た 。し かし 、 神 社祭祀(国 家 的儀礼体系) を媒介と する国 民の国 家的統 合 とはいっ ても、そ の具体 的 な内 容は国 家・天 皇へ の国民 の 一方 的な服 属 と忠 誠とを求める もの であった から ( 38) 、そ れは 「愚夫愚婦」 たる国民にそ れを知 ら しめると い う 、 「 国民教化 」 という 手 段が とりわ け明 治 初年 に あ って は中心 的 な 位 置を 占めるこ とと ならざ る を得な かっ た 。 「 祭政一 致 」 の ス ロ ー ガ ン が 実 際 に は 「 祭政 教一 致 」 ( こ の場 合の「教 」は 、先述のように「宗教 」 で はなく「教化 」 ・ 「 教 法 」 ・ 「治 教 」 などを 意 味する ) の 実 現とい う形を取って 進 め ら れたの は 、こ うし た事情に基づ く も のであった と 考えら れ る。 神祇官を再興して全国 の神社 ・ 神官 を 一 元的に掌握・統 制 する ことに 加 えて、それ と は別 に新 たに宣 教 使や教 導 職 を 設け て 強 力に国民 教化を推進すると い う 、古代の 神祇 制 度 とは本質 的 に 異な る維 新期 の政 策が 、 「 神 道 」 を 「国 家公 認の 宗教 」 として定立し、その 「国教」への 権力的 な 信仰 強制を通じて国民 の思想的・精神的一 元 化を図るという「神道国 教 」化政策に 当 たらない ことは明 らか だとい え よう 。 2 明治 初期 に お ける 維新 政 府 の政 策基 調( 2 ) │「国 家神 道」 の基本的 枠 組 みの成立 │ 「王政復古」 ・ 「 祭政一 致 」のスロ ーガン のもとに「祭 政 教一致」の 実 現を求 め て推進された維新政府の 宗教政 策のう ち 、先 述した 国 家的 イデ オロ ギーとして の「神道」と神社祭祀 と の結合( 前者による 後者の接 合・吸収)という観点から見 て とくに重 要と考 え ら れ るのは、①「神仏 分離」と、② 神社の再 編成の二つである 。 ま ず 「 神 仏分 離 」 に つ い て 見ると 、 安丸氏 を 初 め として 、 こ れ まで 一 般的に は これ を廃仏毀釈と一体の も のと して 、 あ るい はそう し た仏 教・ 寺院の 否 定と 抑 圧 という文脈に おいて 理 解され て きた ( 39) とい え る 。し かし、 慶 応四 年三月 十 七日 の神社 の 別当・社僧 復 飾令 といい 、 同月 二十 八 日の神仏判然令といい、そ こ では 寺院と 神社との明 確 な区別、神官に よる 神社の管理と仏教 色の排除が命じられて はいるが、寺院 や 仏 教その ものの 否 定がその理念的・政策的 な 趣旨 とされ て いた わ け では決し て な い ( 40) 。 そ れは 、 同 年 四 月十 日を初 め として 「 神仏 分離 」を慎 重 にす べ しとの 指 示 が 繰り返 し 政府 から発せ られ た ( 41) とい う だ け で なく、 さ き の太政 官 符案 の但 し 書 きに 即してみ ても、 宗教 と しての仏教そ れ自 体の 否 定 が維新 政 府の政 策 基調 で あ ったとは考え る こ とがで き ない ( 42) から であ る 。 改 め て指 摘 す る ま で も な く 、 「 神 仏 分 離 」 政 策 は 天 皇 を中 心 と した 国 づ く り の観 点 か ら、 「復 古 神 道」 の理 念 を 現実 の も の と し、 そ れ によっ て 国民の思想的・精神的統 合 を図 ろ う と す る目的を 以 て 実施され たも の で あった。 神 と 仏との関係を絶ち 、ま た神社から 仏 教色を 徹 底的 に排 除することを通 し て 、 「仏 教 が 日本 に伝 えられる以前の神 々 の 祭り の 場 へと 神 社 を 整 備し 直 す 」こ とが 、 そ こ で の最も 重要 な 課題 と され た ので あった。 しかし 、 こうし た 政策を「神仏分離」 と 呼ぶこ と 自体に 大 き な矛盾が 含まれ て い る ことに、私た ちはま ず 以 て 予め十分注意 して お か なけ れば なら ない。 前 稿 ( 43) でも指 摘 した ように、常設 の神殿 を 設け、そ こに祭 神を 祀って 信 仰の対象とする 、 こうし た 信 仰 形態や 宗 教施 設( =神社 ) そ の も の が仏 教や寺 院 を前 提 と し、そ れ との 関 係 な し には成 立 し得 な か ったものなの で あ っ て 、 これは「神仏隔 離」の 理 念を踏まえた「神 仏習 合」の一形態と考えなければならない。す な わち 、真の意味 で 神仏分離 を い う の で あ れば、 本 来そ れは神 社 その ものの 廃 棄に よっ て こ そ達成さ れる べ き もの なの であ っ て 、 「 神 社 」 と いう そ もそ も 「神 仏 習 合」 によ って 生ま れ た 宗 教 施設を そ のま まにして 、ただそこ か ら 仏 教的要 素 のみ

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を 排 除すると称えるのは、まことにご 都合主義的で 一 面的な 「 神仏分 離 」 だといわ なければならな い 。そ して そう で あ るからこ そ 、 「復古 神 道」実 現 のた めの「 神 仏分 離」 が、 客観 的 に は 仏 教や寺 院 に 対 する 抑圧 として現れざ るを 得なかったのであっ て 、それ は現 実 には近 世 幕藩制下 に お け る 国家 権力と癒着した仏教・寺院の特権的地位の否 定 と その神社 への 交代( = 寺院に代わ っ て 神 社に国 家 的な特権 的地位を 付 与 するこ と ) という形 を取 っ て 現れるこ とと なった(宗門改めに代わる氏子調べ や神 葬 祭 へ の 移行はそ れ を 示 し てい る) 。 これ らの点 を念頭 に 置 い て 、 改 め て 「 神 仏分 離」 の 持 つ歴 史的 な 意 味 を整理 すれば、とく に 重要 な論点 と して次の三つが指摘 で きる であ ろ う。 その第 一 は 、 観念 的 な 「 復 古神道 」 の 理 念に 基づく 寺院と 神 社、 神 と仏と の 分離 ・分 断政 策 が、日本 の 伝統 的な 宗 教のあ り方 に 対 する 極め て重大 で 深 刻 な 権 力 的 挑戦 であ り 、 そ れ が客観 的 には 日本 の 宗 教 を 理論 的に支 え 担っ てきた 仏 教や、その 具 体的 な活動 の 場 で ある寺 院・僧 侶へ の厳 しい抑 圧 として現 れ ざ るを 得なか ったこ とで ある ( 44) 。とく に そう し た 傾向が 顕 著に表れた背景に 、 平田派国学やその理論に 導 か れた 各 地 の 神 官・ 豪農層 な どの 動きが あ ったこ とは周 知 のところ と い って よい。 同じ く「復古神 道 」と いっても 、篤胤を初めとす る平田派の 説 く「神 道」論は大国隆正な ど 津和野派のそれとは異な り 、個 々人の霊魂の 行 方 や幽冥界の主 催神 ( オ オク ニヌシ ) に大 きな 関 心 を寄 せるな ど 、 む し ろ 「神道」 を「日本固 有 の宗教 」 と捉 え る こ と によって仏教などと 対 置 さ せ、激 し い排 仏論を展開するとい う 、一 種の「 宗 教 」 論とし て の特 徴を 持っ ていた ( 45) とい う こ とができる か らであ る 。安丸 氏 な ど が、 「神 仏 分離」 を 廃仏毀釈という脈 絡にお い て 捉 えて い る こと と、維 新 政府 の政 策基調 を 「神 道国教」化と して捉 えて い る こ と と の間 には相 互 に密接な 関係があり、 それは 平田派国学を基軸に 据えて維新期 の宗教政策を読み 解こ うとす る こ と とも つ な が る 問題で あ って 、 と も に 再 検 討の必要が あ ると考えられ る。 「神 仏分離 」 の歴 史的 評 価 と関 わ っ て 第二に 注意すべきことは、 仏 教 との関 係 を絶たれた 神 社 が 、それ に代 わる新た な 理論 的支 柱 を 改め て天 皇神 話その も のに求 め ざる を得 ず、その こと が 宗 教施 設 で あ る 神社 のい っそう の 世俗 権力(天皇制 権力・ 国 家) への直接的な 癒着と 従属と を招 く 結 果と な ったこ とで ある。 中 世と 異 な り 、 近世 幕藩制下 の宗 教が 世俗 権力へ の 屈服 を強い ら れ、 その特 権 的な 地位の 獲 得と ともに支配 権 力機 構の 末端とし て の 機 能 を担 わ さ れた ( 「 鎖国」 体 制下に お け る 宗門 改め =檀家制など)のは周知 の ところで あるが 、 しかし そ こで は世俗権力が 教義内 容 にま で踏み 込 ん で 直接統 制 を加 える ことはな く、そ の 限り で宗 教 や 宗 教 勢 力 の「 自 立 性 」 はそ れ な りに 保 持 さ れ てい た ( 真宗 でい う 「真俗二 諦論」などはその具体化に他なら な い) 。それが 、 「 神仏分離 」 以後 の神社で は そ の「教義 」とも い う べ き天皇神話の持つ政治的性格 と、そ の 天 皇 神 話 に 支 えら れ、 祭 祀 権 を も掌握 し た神 権的 天 皇制 の 下に あっ て、世俗 的な政 治 権力への全 面 的 で 直接的 な 癒着 と従属 と を強い ら れることとな ったのである ( 46) 。 その結果 、本来は信 仰 対象として の 宗教施 設 で あるはず の 神社が、現 実 に は 専 ら世 俗的な 政 治的 イデ オ ロ ギー (=国 体 イデ オロギ ー )実 現の 場 と して 機能 さ せ ら れ る と い う 、宗 教 施 設 と して は 極 め て 特異 な 、 そし て宗教 と し て の自 立 性 に著 しく 欠 け る姿 で立 ち 現 れる ことと な った 。国 家 的 イデオ ロギ ーとして の 本 質 を持つ 「 復 古 神道」が 、現 実には 「 (国 家的な ) 宗 教 」 ( =「国 教 」 ) で あ るか の よ うな 相貌 を以 て現 れ、 機 能 し たのは 、 こう した 特 徴 を持 つ神 社 を 具体 的な 媒介 とし ていた か らに 他な らない ( 47) と考え ら れる の で あっ て 、 ここ に 明 治 維 新期に お け る 「神仏 分離 」の持つ第 三 の歴史 的 特徴を 指 摘するこ とがで き るで あ ろ う。 さ て 、 維新 政 府 に とっ ての「神 仏分離 」 に続 く次な る重要な政策 課題 は、 「 神 仏分 離」 の 過 程 を 通じ て明 確となっ た 方 向、 すな わ ち「復 古神 道」 理 念の実 現に相 応 しい 形に神 社 そ の ものの あ り方 を改 め、 再編 成し てい く こ と で あ っ た 。 この 神 社 再 編 成 の 問 題 に 関 し て は、 す で に 多 く の 先学 によ って その具体的な歴史過程や 実 態が 解明 され て き たところで あ るが 、中 でも とくに重 要だ と考えられる のは次の 三点 で あ る。 その 第 一 は安丸氏のいう「神々の再編成と新たな体 系 化 」 ( 48) 。一つ には、 「 神 仏 分離 」 に よっ て 分 離 ・ 奉斎 され た の が神 々 一 般 で はな く、 記紀 神話や 『 延 喜 式 』 神名 帳 に よ っ て 権 威づ けら れ た 特 定 の 神 々で あ り、 これによっ て 神 社祭神 の「記 紀 神 話体系へ の統合 と 再編成」 が一挙 に進めら れて いっ た こ と 、 そして二 つ に は 、皇族と 国 家 の 功臣などの新 たな神 々が創出され、神社そのものの天 皇主義 化 が強 力に推 進 され て い

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った ことで あ る。後 に 別格官幣社 として整備さ れる楠正成を祀る湊 川神 社や 、 国家(天皇) の ために戦死 し た 軍人・軍属を英霊=祭神とし て 祀 る靖国神 社な どがこ れ に当たるのは 周知のところで あ る。 こ れ に 対 し第 二 は 、 神 祇官を 再 興してす べて の 神 官・ 禰 宜 を 国 家に直 属させ るとと もに、 す べ て の神社 を 官国 幣社・府藩県 社・郷 社・村社に 分類・ 区 別し、皇祖神アマテ ラ ス を 祀る 伊勢神 宮 を頂点とし て それ ら 全 体を 一 元 的に掌握・統制する 、中央集権的でヒエラ ル ヒ ッ シ ュ な国家 的 神社制度 を作り 上げた こ と で あ る。 そして第三は 、その社格 決 定と合 わ せてすべて の 神社を 「 国家の宗 祀」 と 定 めた こと。 す な わ ち 、 明 治 四 年 五月 十四日 の 太政官 布 告 ( 49) に おい て 、 「神 社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一 人一家ノ私 有ニスヘ キモノニ 非 」 ずとして 、 「 伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ天下大小ノ 神 官社家ニ至ル 迄精 選補任可 レ 致旨」 が 命 じ られ た 。 これは、 同 年 正 月 五日 の社 領 の 没 収な ど と合 わ せ て 、 世 襲神 官 を認 め ず、 神 社 の 持 つ歴 史的 ・ 宗 教的 伝統 の否定 を 通し て 、 「国家の 宗祀」たるに相応しい も の に権力的 に再編 成 する こと を意 図した も の で あったとい え る ( 50) 。 この 明 治四 年五月 の太 政 官 布 告 の 評 価 を めぐ っ て は 、 安 丸 氏と阪 本 是 丸氏 との 間で論 争が交わ さ れ た ことも あ ったが ( 51) 、阪 本氏 自 身も認め てい る よ う に ( 52) 、近代神 社制度の基本 的な枠 組 みが こ れ に よ っ て整え られた と い う 点 で は 一 致し てい る 。 しか し重要 な のは 、 単 な る 神 社 制 度 という こ と で はなく、神 社を「国 家 の宗祀」 と定める こと が 、 さ き の 「神々の再編成と新たな体系化」 と も関 わ っ て、神社のあ り方その も の の重 大な歴史的転換、す な わち そ れ までの信仰対象として の宗教施設か ら、 国 家 的 儀 礼 の 場 へ の 転 換 を 意 味 し て い た こ と であ り、 そ れ は同 年九 月の皇霊殿の 創 建 に よ る天 皇親祭体制の 確立 、 及 び十月の神 社 祭式の統 一と表裏 一体 の関係に あった。皇霊を 宮 中に祀り 、天 皇が 自 ら 皇祖皇宗 を祀る と いう この祭礼形態は、明 治 天皇 が群臣 を 率い て五箇 条の誓 文を 天神地 祇 に誓 うとい う 形 で 発布 した こと の延長 線 上にあり、 全国の 神社 を 「 国家 の宗祀 」と定め る こ と は、こ の 「天皇を 祭 祀王とする祭 政 一致 制」 ( 53) の理 念に基 づ い て 神社を整備・ 再編成 す ることに他な らな かっ た。また、そ うで あ る からこ そ 国家 的儀礼の場 で ある神社の 祭 式の規格 化が 求 め ら れ 、それ が 神社祭 式 の統一という形 で 具体 化されたのであっ た。 宮地氏が強 調 する 、元始祭・神武天皇祭を初めとする天皇 主義的祭 祀の創出 や陵 墓確定 作 業な どに示 さ れる国家祭 祀 の天 皇主義 化 もまた こ れと表裏一体 の関係にあった ( 54) 。 以上 の よ う に 考 え て く る と 、近 代神社 制 度の 基本骨 格と神 社その も の のあり方を 基 本的に方向づけることと な ったこの明治四年 五月の太政官 布告(伊勢神宮〈及 び 宮中の皇霊殿〉を頂点と す る中 央集権的 でヒエラ ルヒ ッシュ な 神社 制度と 、 全国の神社 の 「 国 家の宗 祀 」化 )は 、さきに 述 べ た慶応 四 年 の 太政官符 案で 目指された方向の一つの到達点を 示 すも の で あ り 、そ れは「 国 家神 道」の 基 本的 枠組みない し 方向性 の 成立 にほ かな らな かっ た と 考 え る こ と が でき る。 「国 家神道」の理 解をめぐっ て は、 これを広義・狭義のい ずれに理解 するか を 初め として、今日 もなお 多 くの 議論の 存 する と こ ろ で あ る が 、 以上 に 述べ て きた と こ ろか らも明 ら かな よう に 、 次の よう に 理 解 す るの が妥 当 と い え る で あ ろ う 。 すな わ ち 、 国 家 ( 天 皇 ) へ の 国 民 の 一 元 的 な 統合と天皇 の 統治権を 正当化す る 、国家的イデ オ ロ ギーとして の 本質を 持つ「 神 道」 教説(=国体 イデ オ ロ ギー に基づく「復 古神道 」 論) を、 日本固 有 の宗 教施設 で ある神社と結び 合 わ せ 、それを媒 介 と す ることに よっ て天 皇制 ナシ ョ ナ リズム を 「 日 本国 民」 の 中 に注 入 し 、 も っ てそ の 思想 的・精神的 一元化を推 進 しようと した、近代 日本に特有 な神社と 「神道 」 の理 論的・制 度的 再編成と し て の国家的 宗教シ ス テム ( 55) 。 こう した筆者の「 国家神 道 」理 解は、 基 本的 にはそ れ を狭義に理 解 し よう と する立 場に立 つ もの とい え る が ( 56) 、次の 二 点 に おい て 諸 先 学 の それとは異な る。 そ の 第 一 は 、 方法論 上 の問題。す な わち 、 村 上氏を含 めて 、 従 来「国家神道」の概念はGHQによっ て 発 せられた「神道指 令」 に 基 づい てそ の 内 容 理 解 が 進 め られ てき た が ( 「 国 家 神 道 」 = 「神 社神 道 」 な ど ) 、 改 め て指 摘 す る ま でもなく 、 G HQ が問 題 と した のは ア ジ ア・ 太平洋 戦 争中 ( = 天 皇 制フ ァ シ ズ ム 期)に お け る 国家 と 宗教 と の関わりなの で あっ て 、明 治維新以後の近代日 本の全体が問題とさ れて いるわけで は もちろ ん ない 。ま た、そこで は 天皇の免 責と戦後に お け る 天皇制 の 存続 という マ ッカーサーの政治方針が前提とされていることも あって、天皇制との 関 わ り と い う最も深 刻 で 重要 な問題が 後方に 退 く こ とにもなった 。従っ て 、歴 史的概念とし て の 「 国 家神 道」に つ い て 論じ

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るた め には、 まず以 て 幕 末 ・明治 維 新以 後の歴 史 過程 に即し て その 基本 的性格や特徴を 明 らかにし 、その歴史 的展開過程との関わ り に おい て 「神道指 令」の問題(それ が 事 態をど れ だけ的 確 に 捉 えて いるのかど う かを含 め て ) は検討 さ れな ければ な らな い と い う こと にな ろう ( 57) 。第 二は 、 内 容上 の 問 題。 「 国 家神 道 」 とい う場 合 の 「神 道」 に つ い て、 従 来はこれを「自然発生的な 日本固 有 の宗 教」と す る理 解の上 に立ち、あ るいはそうした理解 を 暗黙の前提 と して検討が進められてきた ( 58) 。し かし、 こ うした一 種の社会的「通 念 」と もいう べ き「神道」 理解は 何ら の学問的な検 証を 経たも の とは い え ないので あって 、 実際には 、後 ほど 改め て論 じ る よ う に 、 「国 家神 道」 の成立と展開、及 び そ の解体の中で こ そ 成立して いったものと考え なければならない。 「 国家神道」という 場合 の「神道」 、及 び そ の 歴史的 前 提となった「神道」概念は、さ きに 大国隆正に即して 指摘した ように「自然 発生的な日本固有の 宗 教 」 など と い う も のとはまったく異質で あ り 、そ うで あ れ ば「国家神 道 」概念が 大国隆正などの提起 す る「神道」 概 念を踏まえて 構築されな け ればなら な い のは当 然 のこ とだと い うこ とに なろ う。筆者が 明 治 四 年に 至る維 新 政府の 宗 教政 策を「神道国 教 」 化 と いう 形で 捉 え ることに従い得な い最 大の理由も またこの点 に あ り 、 「国家神道 」 の基本的枠組みないし方向 性が 定 め ら れ たこ の時期こ そ 、 「国家神道 」 の成立 に 向 け た第 一の重要 な 画 期 ( = 第 一段 階) と し て捉 える の が 妥 当 であ ろう と考 える ( 59) 。 三、 「 神 道」 概念の転換と「国家 神 道」の体制 的 確立 1 教部省・ 教導 職設 置の意 味 する もの 前節 で検 討 し た 明 治 初 年 か ら四 年に か け ての 「 国 家 神 道」 の 成 立 過程 は、維 新 政府 が 天 皇 権 威の 絶対性 や 天皇支配の正当性 に対する国民的合 意の形 成とキ リスト 教 との 対抗という二 つの課 題を 、 同時か つ 緊急 に推 進し なけ ればなら ない時 期 に当 たって い て 、 国民教 化 を 通 して こ れ ら の 課題に 応 える べく設 け られ たのが、明治 二年三月の教導局及 び 同七月の 宣教使 で あった。しかし 、 宣教使 が 十 分 に そ の機能を発揮できなかった のは周知のと ころで、①廃 藩置 県以前であった こ と 、 ②教化内容が明確 でな く 、 また 諸説 の 対 立 に より 理 念 の 統 一 が困 難 であ っ た こ と、 ③ 教 化 を担 える十分 な 人 材 を確保 できな か った ことな ど が、 その主 な 理由 とし て指 摘 さ れ て い る ( 60) 。そ し て 、 こ う し た 事 態 を踏ま えて、 明 治五 年三 月十 四 日 にそ れまでの神祇 省(廃 藩置県 の翌月 に 神祇 官に替 えて 設 置 ) を 廃 して 新 た に教 部省を 、 同じ く同四月 二十 五日には宣教 使に代えて 教 導職をそれぞ れ設置 し 、同 二十八日にはその教導職に対して三条の 教 則 (①敬神 愛国ノ旨 ヲ体 ス ベ キ 事 、② 天理 人道 ヲ明 ニスベキ事、 ③皇上 ヲ 奉戴シ朝旨 ヲ 遵守ス ベ キ 事 )が交 付 された。 とこ ろで 、 こ の教部省と 教 導職 の設置に関し て は 、 そ れま で進め ら れ て き た「神道国教 」 化 政策 が行き詰まり、明治 初 年 以 来の宗教 政策の抜 本的な 方針転 換ない し 修正 として こ れが提起さ れ たというの が 、 これま で の 一 般 的な 理解(とくにA説) で あっ た こ とは前節 の最初に指摘 した 通りである。 こ う した理解 や評価の前提 にあるのは、 明治初 年 にお ける 維新政 府 の政 策基調 を 「神 道国教」化と 捉 え る こ とに 加えて、宣教 使の 任務を「神道国教 」 化 政策の推進、す な わちキリスト教や仏 教 など を 排 除し「神道」 によっ て 国民 の宗教的・思 想的一 元 化を図ること、逆 から いう と「 ( 日 本固 有の 宗教 で あ る) 神道」の布 教 を通 じてキリ スト教や 仏 教 など を 排撃 す るこ と に あ っ たと す る と こ ろ に 求 め ら れ るで あろ う 。 そして 、 そうし た 宗教 政策が 先 進諸 列強や 仏 教( と く に 一 向宗 )側など か ら の 厳 しい 批判に さ らさ れ る 中 で 方 針 転 換 を 迫 られ 、そ こ か ら改 め て 「国家神 道」 が 成 立し て い くことになったとい うのが、 これま で の一般 的な理 解 だと 考えられるの で あ る 。 しか し 、 こうした 問題の 立 て 方 や考 えには大きな 疑問があるとい わ な け ればなら ない。明 治初年の維新政府 の政策 基 調 を 「神道 国 教」 化と捉 え る こ とへの 疑 問や 問題点 に つい ては 前 節 で検討を試み たので 、 本節では宣教使及び教 部 省 ・教 導職の設置 と それ 以後の問題につ い て 、 若干 の検討を試みることとし た い。 ま ず 宣教使に 関して 問 題 と なるのは 、その任 務が果 た して 「神道国 教」化政 策の 推進にあ ったとい える かどう か という こ と で ある。確か に、 宣 教使設 置の主 要 な ね らい の 一 つ が キリス ト 教対 策にあ っ た こ とは 明らかで 、宣教 使 の具 体的な活動 が まず長 崎 において開始 され 、あ る い は長 崎 で の布 教がとりわ け 重視された ( 61) ことか ら も、 これ をう か が う こ と がで きる。問 題は宣教使 の 具体的な活動 内容と 性 格が どのよ う なも ので あったかと い う こ とにある。 こ の 点 で 、 まず 最初に 注 意す べき こ と は、宣教使の職務内容を 定 めた明治 三年 正月の「大教宣布の詔 」に、

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「宣 下 明 二 治教 一 以宣 中 揚惟神之大道 上 也、因新命 二 宣教使 一 布 二 教天 下 一 」 ( 62) とあっ て、 「 惟神之 大 道」 ( = 「天 皇の天 下 を 治 め給 ふ大 道」=「神 道 」 ) の 宣 揚 と 「 布教 」( = 国 民に 広 く 知 ら しめ るこ と ) が そ の 職 務 だ と 明 記 されて い るこ と で ある。要するに 、 天皇及 び 天皇支配の正当 性 と絶 対性を国民に 周 知徹底する こ と 、 す な わち 国民 が 天 皇の絶対的権威 を 認 め、 そ れ に 服 する こ と で安 定 した 世 俗の 政 治 社 会 秩序 を構 築 し てい く、 そのた め に 資 すること 、 こ れが 基本任 務 とされたのであって、その趣旨 は先 述の明治 五年四 月 に取 りまと め られ た「三 条 の教則」 と本質的 に異 なると こ ろ が ないといわ な ければなら な い。この 点で 、宣教使と教導職 との間 に 決定 的な段 差 (質 的な差 異 ) を 設け、 前 者を「神道国教 」 化の 時代、 後者 をそれか ら の転 換の時 代 とし て区別 す る捉 え 方 に は 無理 が あ るとい わ なけ ればならない で あ ろ う ( 63) 。 さて その 上 で 改めて み る必要が ある のは 、国体 イ デ オ ロ ギ ー に 基づ く 「天皇の 絶対的権威」 や 「 天皇及 び 天皇支配 の正 当 性 ・絶対性」な どの 理念 の直 接 的 な根 拠 が 天皇神話(=記紀神話 ) に 置かれて い て 、国民 へ の教化活動がこ の 天皇神話を貫 く コ スモロ ジー(宇宙や 世 界 や 人 間 につ いて の包 括 的なビ ジョ ンを含 ん だ観 念や言 説 ( 64) )の社会的共有化( = 世俗権 力によるコス モロジ ー の独占と国 民 への 普及) と いう 形を取っ て 進められなけ ればな ら ず、 それは 必 然的 にアマ テ ラス を始め と する 特定 の神 々(天皇家の祖先神な ど )へ の 崇敬 を 求 めるなど、 キ リ スト教など の宗 教教義と 鋭 く 矛 盾 ・対 立せざる を 得 なかったことで ある 。もちろ ん、 これは理 論的に は 一向 宗(後 の 真宗) を 初 め とする仏教 諸 宗派 にも 共通するはずの問題 で あったが 、近世仏教が現実に 幕 藩 制 下に おけるキ リシ タ ン 禁制 の理論 的 担い 手 と し て 機 能 し て き た とい う歴 史 的 伝統 、 と りわ け十 九 世 紀 以 来の 国 体 イ デオロ ギ ーの社 会的浸 透 と 、 幕末 ・ 維 新 期 の変革 過 程 を 通じて、仏教 側では す でに この コスモロジーを共 有し て い て、 残 る の は キ リ ス ト 教 だ け で あ っ た 。 維 新 政 府 が幕 藩制 以 来 の 政 策 を 受け継いで 、 改めてキリ シ タ ン 禁制を発令し たのもこうし た理由に よる もの であ った と考 え ら れる 。そ し て 、そ う で あ る から こそ 宣 教使の 活 動 の重要な拠点 の一つ が 長 崎 とされたのであった 。しかし 、 こうした抽象 的・観念的で偏狭 な 理 念に基づ く 教 説をも っ て、強 固 な信仰 心 に 支 えら れたキリスト教徒 た ち を 説 得す る こ とがで き ないのは当 然 で 、 諸 列 強か らの 厳 し い 批 判もあ っ て、 新たな 妥 協 の 道 を 模 索 せざ る を 得 な い こ とと なった。 明治六年 (一八七三 ) 二月のキリ シ タン禁 制 の 高 札撤去(キ リ スト教の黙認)は、 そ の一 つの対 応 策 で あった と い え る。そ し て 、 以上 のこ とから も 明ら かなよ う に 、宣教 使 の 活動 は天皇 の 絶 対 的 権 威とその 背景をなすコスモロジー(宇宙観 ・ 世界 観・国 土 観) を広く 国民の間に 周知徹底するのを任務とするもの で あっ て 、 特定の宗教教義 や 信仰 を 国 民の 間に 浸透させるのが直接の目的で あ ったとは考えるこ とができ な い ( 65) 。 「 神道国教 」化 政策 の推進が 宣教 使の任 務 で あ ったとする従 来の理解 には再検討の必要が あ ると考えられるの で あ る。 で は 、なぜ宣教 使は教 導 職に 改めら れ るこ とと な っ た の か。 教 部 省・ 教導職 の 設 置 はい か な る理 由に基 づ く も の で あ っ たの か。そ の 背景 をな す大 き な 要因 の一 つ と し て 、 従 来 か ら共 通 に 指 摘 さ れ てきた の は 前 年の 廃藩 置 県 、す なわ ち 本 格 的な中 央集 権 国 家 の 成立 に と も な って 、中央 政 府 の 責 任とイ ニシア テ ィブ におい て 近 代 国民国 家の形 成 を推 進 する 、そ のためのより強力 な 国民教化の推進が 改 めて 強 く求めら れ 、 それに相応 し い 組 織とし て 教 部省・教導職が 設置 されたと いうことで あ る ( 66) 。ま た 、 宣教 使と異 な る教 導職の 最 も 大 きな特 徴 の一つが 神仏 合同 の布教 、 す な わちかつ て の一部 の 国 学 者 や 神 道 家 な どの官 吏 に 代 わ っ て、神 官 と 僧 侶 が共 同 し て 布 教活 動 の 中 心 を担っ た と こ ろか ら 、 失 地 回 復 を ね ら う 寺院・ 僧侶側、と り わ け島地黙雷 などの 維 新官 僚と結 んだ本 願寺僧 からの 積極 的 な働きかけが 、その一つの大きな要因として 指摘されてきた ( 67) 。 これ らの指 摘 はそ れぞれ に 重要 で、 教 部省・ 教導職 設 置の 理由 をそ れ なりに説明し て い ると評価することはできる。しかし改めて指摘するま でもな く 、 教 導職の 最 も中 心に位 置 し、 かつ最 も重要な 役 割 を担う こと を期待された の が 神 社 神官 で あ っ た こ と か らすれば、 こ れらの理解 や 説 明で はや はり不十 分だと い わ な ければ な ら な い。 なぜ神社 神官が 中 心 的 な位 置 と 役割 を担う 形 で教導職 が 新 設さ れる こ と とな ったの か 、そ の理 由が 明 確 でない ( 68) からで あ る。 結論 的にい っ て 、 前節で述 べ た よ う に 、 明治 四年に お ける 「 国 家 神 道」の 基 本 的 枠組 み の成 立 こ そ が そ の 最 大の 要因 で あ った とすべきなの ではない か。 「神 道」 教説に基 づ い て 再 編成さ れ 、天 皇の祭 祀・統 治権を支 え 、 その一 翼 を担 う「国 家 の宗 祀」 として、それ に相応 し い神 官組織 や 祭礼体系が整えられた官 幣 社以 下の

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