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パウロにおける主の晩餐は贖罪論的か : 十字架の視点からの批判的検討

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原 著

パウロにおける主の晩餐は贖罪論的か

― 十字架の視点からの批判的検討 ―

古川 敬康

︿要 旨﹀  主の晩餐の記述には、基本的に「マルコ版」(マルコ14:22-25)と「パウロ版」(Ⅰコリント11:23-26)がある。 現在、パウロ版の解釈として、贖罪論が主流であるが、その機能は「交わりの創設にすでに変化している」という 見解が提示されている。しかし、そのような立場からの展開は未だに十分になされていない。本論文は、パウロに とってのコリント教会の主の晩餐に関する問題の概況、パウロ版のテキストの言語上の分析、贖罪論的理解(15:3) の神学的問題点を順次扱った上で、当該テキストを理解する上でパウロとコリント教会の信徒との間での前提的了 解事項が「十字架の使信(2:2)」であったと推論する。罪(複数)の赦しに焦点を当てる贖罪論を超え、パウロ に見られる十字架の視点から積極的に他者に仕える関係論的な主の晩餐の意味を読み解く試論である。 キーワード:わたしの体・わたしの血、主の死、前提的了解事項、贖罪論、       「十字架につけられてしまっているその方」 Ⅰ.序  主の晩餐の記述には、基本的に、通称でいえば「マ ルコ版」(マルコ14:22-25)と「パウロ版」(Ⅰコリ ント11:23-26)があることが指摘されている。パウ ロ版には、コリント人への第一の手紙では、第11章26 節にだけ見られるθάνατοςというイエスの死を表現す る用語がある。現在、パウロ版の主の晩餐の解釈とし て、贖罪論が主流であるが、「その機能は︿穢れの排 除﹀から︿交わりの創設﹀にすでに変化している」と いう見解が廣石望氏により提示されている1。しかし、 そのような立場からの展開は未だに十分になされては おらず、研究者のほとんどが主の晩餐を贖罪論的に解 釈している。  そこで、パウロにおける主の晩餐は贖罪論的かとい う問題を検討した上で、パウロに見られる十字架の視 点からの関係論的解釈を提示したい。方法論としては、 パウロにとってのコリント教会の主の晩餐に関する問 題の概況、パウロ版のテキストの言語上の分析、贖罪 論的理解の神学的問題点を順次検討した上で、パウロ がコリント教会の読者に読み取ることを期待した当該 テキストの意味は何かを検討する。 Ⅱ.パウロにとってのコリント教会の主の晩餐に関す   る問題の概況  パウロのコリント人への第一の手紙執筆の意図は、 教会からの質問への回答、乃至、その直面している問 題に対する解決である。主の晩餐のテーマは、パウロ が持ち出している(17節)。その狙いは、「貧しい人々 たちとの交わりに対して富める共同体構成員が犯す過 ち」を正し、「共同体の生活を形作ってゆく」こと、 つまり「共同体の構築」にある2  富める信徒が犯している「過ち」に関して、J. A.  Fitzmyerは諸説を検討した後で、主の晩餐の前にあ る愛餐で各自が持参した食事に応じて食事をしたこと であると言う3。しかし、G. Thei㌼ enは、食事はパン の言葉と杯の言葉との間で行われたと言う4。いずれ にせよ、問題は、愛餐の時に富める信徒が好き勝手に

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食事をしたことである。すなわち、彼らは貧しい者を 待たずに(11:33)「自分自身の晩餐を我先に取って 食べ」(11:20-21)、主の晩餐は社会的に貧富の間に 分裂を生じる機会となっていた。それにも拘わらず、 富める信徒たちはそのことを何ら異に感じなかったの である。  この問題状況に対し、パウロは、主の晩餐が「ふさ わしくない仕方」(27節)となっていることを明示し て彼らの過ちを正し、あるべき共同体の構築を達成す るために、主の晩餐に「新しい明らかな意味づけ」を 与えたのが第11章23節から26節にある主の晩餐の記述 である5。そこに伝承された定型句が引用されている が、その引用の意図は、富める信者たちの主の晩餐で の振舞いが如何にイエスの最後の晩餐での振舞いから 遠ざかっているかを対比して示すことにあった6。因 みに、この記述の後で、具体的改善策として、パウロ は、互いに待つ(33節)か空腹なら自宅で食事を済ま せる(34節)ように勧告している7 Ⅲ.パウロ版のテキストの文言上の分析  パウロ版のテキストを記述する第11章23-26節の釈 義に当たって、ここではその内、テキストの文言自体 が贖罪論的読み方を要求しているかという問いを念頭 に置いて分析する。   ま ず、 第23節 に あ る「Ἐγὼ γὰρ παρέλαβον ἀπὸ τοῦ κυρίου, ὃ καὶ παρέδωκα ὑμῖν (わたしがあなたがたに伝 えたことは、わたし自身、主から受けたものです)」 という文言を見ると、パウロは、直接に受取る時に 用 い るπαρά( ガ ラ1:12) で は な くἀπόを 用 い て い る。しかも、パウロが用いるπαρέλαβον(受けた)と παρέδωκα(伝えた)とは、第15章3節にも見られる ように伝承の「受領と伝達」を表現するラビの定型的 な対句的用語である8。つまり現存する最古の主の晩 餐に関するこの定型句は、パウロが復活の主イエスか ら直接に啓示されたものではないと考えられる。では パウロが「παρέλαβον ἀπὸ τοῦ κυρίου(主から受けた)」 と言う狙いは何であろうか。それは、ὄτι 以下の伝承 された定型句はキリストがその創設者であり保証人で あることを示し9、この定型句にはその性質上権威が あることを明言する意図があったと思われる10。従っ てここのγάρは、定型句の言葉が主の晩餐のすべてを 支配することを強調する狙いをもつものであると言え よう。  しかしὄτι 以下の定型句を史的にどう理解するかと いう点は必ずしも自明ではない。確かに、「何らかの 形で」生前のイエスに遡り11、パウロの創作とも言い 切れないが12、今やパウロ版の原型を明確にしえない からである13。実際、マルコ版とパウロ版の基礎資 料が横並び的に共通な資料である可能性を示唆する Lindemannの見解もあるが14、「マルコ型はもともと 第1コリントに由来する」 15という佐藤研氏の見解も あり、両者の比較でもパウロ以前の原型にはたどり着 けない16。イエスの言語の原型がパウロ以前に変更さ れ、パウロがそれを受領し自らも共同体の形成という 目的に照らして手を加えた上で伝達していると見る方 が蓋然性が高いと言われており17、史実に近いと思わ れる。つまり、パウロが受領した段階の定型句には、 イエスの死の救済論的解釈がすでに影響している可能 性がある18  第23節にある「ἐν τῇ νυκτὶ ᾖ παρεδίδετο (引き渡され る夜)」に関して、共観福音書が過越祭の第一日目の 夜とするのに対し、ヨハネ福音書はその前夜となって おり、こちらの記述が史実に合致すると言われてい る19。勿論パウロは過越の犠牲としてのイエス理解を 知っている(5:7)が、主の晩餐の定型句には過越の 要素がない。つまり最後の晩餐は「簡単な共同の夕 飯」 20でしかなく、過越の文脈で解釈することは不適 当であろう21。従って、C.K. Barrettはイエスの死を過 越の羊の死と同視し贖罪論をとるが22、その根拠がな い。  次の第24節にある「τοῦτό μού ἐστιν τὸ σῶμα τὸ ὑπὲρ ὑμῶν (これは、あなたがたのためのわたしの体であ る)」という文のτοῦτο(これ)は何を指すのであろう か。τοῦτοは、中性代名詞でありパンは男性名詞であ るから、パンそれ自体を指すのではなく、「自分の体 としてパンを与えるイエスの行為」 23を指し示してい ると解釈できる。中心部にあるὑπὲρ ὑμῶν (あなたがた のため)という句は、 τὸ σῶμα (体)に掛かる。従って、 この句に関して、ContzelmannがLXX訳のイザヤ書 53:6に παρέδωκεν αὐτὸν ταῖς ἁμαρτίαις ἡμῶν (われわれ の罪のために引き渡された)とあることを引き合いに、 ὑπὲρ ὑμῶνをταραδιδόναι (引き渡された)と結合させて 贖罪論を説くことは24、ὑπὲρ ὑμῶνがτὸ σῶμα (体)に掛 かる文脈に反する。また、ὑπὲρ ὑμῶν (あなたがたのた め)という句に着目して贖罪論的死と解釈する立場 もあるが25、賛同できない。というのは、τὸ σῶμα τὸ ὑπὲρ ὑμῶν(あなたがたのためのからだ)という表現 はイエスの死が「人間のため」(um der Menschen)

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の「救済の力」(Heilmacht)であることを意味し26 さらに、ὑπὲρ ὑμῶν の句もὑπέρ自体が贖罪を指し示す とまでは言えないからである(Ⅱコリント5:21参 照) 27。最後に、τὸ σῶμα (体)については、テキスト 上はその解釈は失われているとSchrageは言う28   次 に、 第25節aに「ὡσαύτωϛ καὶ τὸ ποτήριον μετὰ τὸ δειπνῆσαι (食事の後で杯も同じようにして)」とある のは、パンと杯との間に食事が行われ29、ユダヤ教の 食事の通り、食事の後に祝福の杯に対する祈りがなさ れたことを指している30  第25節bには「τοῦτο τὸ ποτήριον ἡ καινὴ διαθήκη ἐστὶν ἐν τῷ ἐμῷ αἵματι (この杯はわたしの血によって立てら れる新しい契約である)」とある。αἵμα (血)に関し て、マルコ版がτὸ ποτήριον (杯)と結びつけているの と異なる点は、血を飲まないユダヤ人としてのイエス に遡る蓋然性が高いことである31。ἡ καινὴ διαθήκη (新 しい契約)は、暴力による死を象徴するイエスの血を 通して成立しており、その契約の基盤はイエスの血で ある32。αἵμα (血)への言及のこのような意味につき、 Klinghardtは、パンの定型句では不明瞭であったイエ スの死と共同体の一致との関係がこれによって明らか となるとコメントしている33。Wolffは、通常は各自の 杯を用いていたと推測し、1つの杯から共通に飲むこ とには新しい契約の事柄がすべての者に及ぶという特 別な意味があると見る34  しかし、杯の定型句にいうἡ καινὴ διαθήκη (新しい 契約)が旧約聖書のどの箇所を念頭においたものと見 るかでその意味は大きく異なるので、その同定につき 議論がなされている。候補に、エレミヤ書 31:31-34 と出エジプト記24:8が挙げられるが、以下の理由か ら両者であると考える35。すなわち、エレミヤ書31: 31-34は、神がイスラエルの罪を原因として国家に審 判を下した場合にも国家回復後、「神の創造的な愛の 力によって、イスラエルを構成する人々の心の上に契 約を記す」 36という予言を内容とし、杯の定型句にあ るδιαθήκη (契約)の意味内容とは「神の厳かな決断に よる救済の秩序」 37という点で合致する。それを根拠 としてエレミヤ書の成就と捉える時、未来を見据え、 定型句にあるκαινή (新しい)の解釈は、このエレミヤ 書の予言する新しい終末論的救済の設立を含むという 観点からなされることが求められよう38。一方、エレ ミヤ書の「契約」には「血」との関連がないことに着 眼するとき、出エジプト記24:8に「契約の血」への 言及が儀礼の習慣39として存在していることは看過で きず、その影響がこの定型句の背後にあることは排除 できまい40。両聖句を根拠に併せ見る時、イエスの「血」 とは契約を成立させ41、かつ「新しい聖なる秩序の実 現を保証する」 42法的意義をもつものと解釈できよう。  ところで杯の定型句の意味に関して、Schrageは、 エレミヤ書31:34との関係において、終末論的にイエ スの血による罪の赦しとして理解すべきことを主張す る43。しかしすでに見たように、エレミヤ書の「契約」 は血とは関連せず不適切な主張である。加えて、出エ ジプト記24:8との関係においても、イエスの「αἵμα (血)」には贖罪論的意味がないことを付記したい44 すなわち、出エジプト記24:8にいう「契約の血」は、M.  Nothによれば、「人間同士の間」での「契約締結の形 式」であって、その意義は両契約当事者を「互いに結 びつける」ことにある45。つまり古代社会では、生活 が祭儀と切り離されず契約の締結も犠牲を捧げる行為 によってなされた。そのような祭儀を用いての契約設 立への言及であり、いわば民法・商法という私法レベ ルの事柄が神と人間との関係へ転用されたものと言え よう。これとは対照的に、贖罪はいわば違反行為に対 する刑事法レベルの恩赦などの内容を転用した事柄の 次元のものである。つまり、新しい契約を設立しその 実現を保証するイエスの血は贖罪の血とは法的次元を 異にするものなのである46  これまで見て来たパンと杯の両定型句には若干の 相 違 は あ る が、 両 者 に は「τοῦτο ποιεῖτε εἰς τὴν ἐμὴν ἀνάμνησιν (わたしの記念としてこのように行いなさ い)」というイエスの言葉が共通にある。この意味に つ い て、Klinghardtは、ἀνάμνησις (11:24c, 25c) と καταγγέλλετε (11:26)とに並行関係があり、この並 行関係は祈りにおいてイエスの死が思惟されることの 指示であると指摘している47  最後に、主の晩餐のテキストの結びとなる第26節に 見られる「ὁσάκις γὰρ ἐὰν ἐσθίητε τὸν ἄρτον τοῦτον καὶ τὸ ποτήριον πίνητε, τὸν θάνατον τοῦ Κυρίου καταγγέλλετε, ἄχρι οὗ ἔλθῃ (実際、このパンを食しその(定冠詞)杯 を飲む度に、主の死を、主が再臨する(文字通りには、 来る)まで宣べ伝えるのである)」という文言は、パ ウロ自身の言葉であると理解するのが一般である。こ このθάνατοςは「死ぬこと」(ヘブ7:23等)または「死」 (フィリ1:20等)を字義とするが48、単なる死ぬべき 運命とか性質ということではなしに、罪の結果であり 罰であるということを指し示す神学的用語である49 パウロにおける意味はコリントの信徒への第二の手紙 5:21とローマ人への手紙8:31に見られるように、イ エスを「罪」(単数形)そのものとした結果による断

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罪の死を意味し、他者の罪(複数形)を贖う贖罪論と 直結するものではない。パウロの狙いを解釈するに当 たり注目すべきことは、第23節前半のγάρと26節のγάρ とが定型句をサンドイッチ的に挟む対的構造になって おり、このγάρの用法が導入的文言と結語とを強調す る(to strengthen) 50パウロの修辞学的工夫と言える ことである。つまり、この結語(結び)にこそ、パウ ロが両定型句の引用によって何をどのように解決しよ うとしたかを理解する鍵があると見ることができよう 51。いずれにせよ、テキストの文言自体の分析による、 以上の釈義から見えてくることは、両定型句にはイエ スの死を贖罪論的死と断定する自明的なものがないこ とである。 Ⅳ.贖罪論的理解の神学的問題点 1.先決問題としての前提的な「主の死」の理解  これまで見て来たことは、主の晩餐の定型句にある 「主の死」の意味を説明するものは、第11章23節から 26節の文言自体には存在しないことであった。そのこ とは何を意味するであろうか。それは、「イエスの死」 の意味については、ここでパウロがあえて指示しなく ても良いように、手紙の発信者と受領者との間には了 解している共通な前提的事項が既存している、という ことであろう。つまり、この前提的了解事項とは何か を明らかにすることなしには、パウロが富める信徒た ちに訴えようとしていることを正しくは理解できない ということである。 2.贖罪論的立場  コリント教会の信徒とパウロとの間におけるイ エスの死に関する了解事項として、贖罪論的解釈 をとる立場は、パウロの召命以前に成立していた 「ἀποθνῄσκειν ὑπέρ (~ の た め に 死 ぬ )」( 1 コ リ15: 3)という「メシアの死についての定型句」を挙げ る。M.Hengelは、『イエスの聖餐のことば』 52の著者 J.Jeremiasへの記念出版『贖罪―新約聖書におけるそ の教えの起源』で、この立場をとり、パウロがこの定 型句の「死」の意味について特別な説明をしない理由 は「この定型句で語られている『事柄自体』(‘that’)が、 ガラテヤにおいてさえ、そして、彼には未知であった ローマの教会においてさえ、けっして論争されていな かったからであろう」 53と言う。その上で、Hengelは、 この定型句のイエスの死の意味は贖罪論的死であると 断言し、理由を詳説する。すなわち、Hengelによると、 この定型句は「旧約聖書およびセム語領域には類を見 ない」非セム語的なものであって、ヘレーニスタイの ケーリュグマの定型句であるが54、それにも拘らずイ エスの死を贖罪論的に理解するのは、贖罪論的意味が 「ヘレーニスタイがすでにその概要を述べていたイエ スの死の救済論的意味」 55であったからであると説明 する。  Hengelは、さらに論を進め、ヘレーニスタイのケー リュグマの定型句の「本質」的な「根源」が「さらに 深いところ」にあり、その根源は、「ペトロのケーリュ グマ」 56であると論じている。その根拠として、「パウ ロの伝道をとおして成立した諸共同体においても、ペ トロが特別な神学的権威をもっていた」 57というテー ゼを立てて、パウロの主の晩餐のパウロ版の定型句を 受け取ったコリント教会もペトロの神学的権威を認め ていたと主張する58。つまり、主の晩餐の贖罪論のペ トロ起源説によって、マルコ版もパウロ版も究極的に エルサレムの共同体のペトロに遡るとする59  では、Hengelは、そもそも「ἀποθνῄσκειν ὑπέρ (~ のために死ぬ)」(1コリ15:3)というヘレーニスタ イのケーリュグマの定型句は旧約聖書およびセム語領 域に類がないから非セム語的なものであるとした推論 との整合性をどのように図るのであろうか。Hengel は、元来神殿の祭儀には贖罪的効力があったが、イエ スの死によって、「神殿の祭儀自体はその贖罪的効力 を失っ」たという点に焦点を当て、そこでイエスの死 による贖罪とは正確には「普遍的な代理的贖罪」とい うものであると説く。旧約聖書およびセム語領域にお いて、イエスの死の意味をこのような代理的贖罪の意 味で解釈することを促したと考えられる「唯一の旧約 聖書テクスト」があり、それがイザヤ書53章であると いう。Hengelは、イザヤ書53章説をとる強い理由と して、旧約聖書の他の箇所は「代理的贖罪」や「他の 者たちの罪のためのひとりの人の死」を「拒否」する 「傾向」にあることをあげている60  このように、Hengelは、主の晩餐の意味を贖罪論 的にとり、その贖罪論的起源につきペトロ起源説をと ることによって、マルコ版もパウロ版も究極的にエ ルサレムの共同体のペトロに遡ると主張するのであ  る61 3.贖罪論的立場への批判  しかし、コリント人への第一の手紙11章23節以下の 主の晩餐のパウロ版の定型句にある「死」を贖罪死と

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解釈することには、問題がある。というのは、先に述 べたように、パウロが主の晩餐の定型句を引用する意 図は、主の晩餐における富める信者たちのその時点に おける「現在の振舞い」をイエスの最後の晩餐での振 舞いと対比して正すことにある。だが、イエスの死を 贖罪論的に理解することによっては、パウロが望むほ どにはその意図は達成され難いからである。その理由 を詳説する。   ま ず、H. Conzelmannは、「 贖 罪 論 は 長 い こ と 持 ち こ た え ら れ る も の で は な い 」 と 主 張 す る。 Conzelmannによると、贖罪とは「過去の過ちだけを 包括する、という点に限界がある」ことがその理由 である。この理由からパウロは自作の文に「罪の赦 し」という「概念を用いない」し、パウロ書簡には 「ἄφεσις ゆるし」の語はなく、「ἄφεσις ゆるす」という 語も旧約聖書からの1度の引用(ロマ4:7)に留まり、 「πάρεσις みすごす」という語も引用された定式に1度 でてくるだけである。問題点を詳説すると、「罪のゆ るしの理念は過去の方を向いている」ため、贖罪論の 「罪」(複数)とは「神の命令に対する個々の違反」と いうことになる。しかし、パウロの視線は「未来に、 つまり新しい自由な歩み」として「罪の力」からの「解 放」に向けられている62。このパウロのいう「力」と しての「罪」は常に「単数」で表現され、律法規定の 個々の違反ではないのである。W.G. Kümmelは、原 始教団が罪の贖いという贖罪の観念を招致したことが 「不当にも視線をきたるべき救いから人間の過去の禍 へと転じしめ」たと指摘した上で、このことが「従来、 繰り返し議論されてきた」と述べているが63、まさに、 Conzelmannはこの点を明確に示したと言えよう。  もちろんConzelmannが指摘するように、贖罪論 にも「信仰は過去(罪過)、現在、未来(新しい契 約)への新しい関係の設立」という面がある。しかし Hengelが指摘したように、イエスの贖罪死の理解を 正当化する旧約聖書およびセム語領域の文献は、唯一、 イザヤ書53章だけである。この聖書箇所は、第二イザ ヤに属し、過去へと視線をいざなうものなのである。 というのは、この箇所は紀元前6世紀のバビロン捕囚 民としての第二イザヤが、イスラエルの民がエルサレ ム陥落、神殿崩壊、捕囚という憂き目に至った原因を 省察し、民の重大な律法規定違反という罪の歴史を振 り返り、その罪(複数)が原因で神がこのような目に 遭わせたという反省に基づき記した箇所だからであ る。つまり、贖罪論による「未来(新しい契約)」とは、 過去の律法違反に対する「過去の反省」を踏まえる「未 来」の生き方というものに留まってしまうのである。  しかしパウロが、読者に対し、主の晩餐において自 分の在り方を、繰り返し描くイエスの死と照らし合わ させるようにさせる意図は、Conzelmannが指摘する ように「罪の力」から解放され、「未来に、つまり新 しい自由な歩み」をすることを奨励することにあると 言えよう。それは、創造される新しい実存的在り方を 提示することにあると言えよう。つまり、パウロの意 図の把握には、贖罪論のような律法違反の罪の赦しと いう消極的な意味への言及では十分とは言い難いので あって、もっと積極的な意味を探求する必要があるの である。 Ⅴ.パウロがコリント教会の読者に読み取ることを期   待した当該テキストの意味 1.前提的了解事項としての「十字架の使信」  パウロとコリント教会との間における前提的了解事 項として、より決定的なキリスト論が第2章2節にす でに記されている。それは「οὐ γὰρ ἔκρινά τι εἰδέναι ἐν ὑμῖν εἰ μὴ Ἰησοῦν Χριστὸν καὶ τοῦτον ἐσταυρωμένον (なぜ ならば私は、あなたがたのうちにあっては、イエス・ キリスト、しかも十字架につけられてしまっているそ の方以外にはなにごとも知ろうとはしない、という決 断をしたからである)」 64というものである。  この「十字架」を主の晩餐の定型句の前提的了解事 項とパウロが考えていると思われる根拠は幾つかあ る。第1に、手紙の構成上であり、Thei㌼enによれば、 手紙の中心主題は「十字架」と「復活」であるが、構 成的には、この「十字架の使信」が「信仰の決定的根 拠」となっており、「復活」は最後に第15章で「キリ スト教の希望」である「死者の間からの甦りの希望」 として論じられ65、先の贖罪論者の根拠となる句(15: 3以下)もこの第15章に見られる復活の議論の中で扱 われていることである。  第2に、「十字架の使信」はこの手紙の第1章で描 写している貧富等の差による問題に対し解決をもたら す決定的な言葉としてパウロが語ったものであるが、 その第1章で問題視されている富める信徒と、主の晩 餐の時に問題を起こしている富める信徒とは同一であ ることである66。つまりパウロにとって、第1章の貧 富等の差による問題と11:17-34における主の晩餐の 文脈で見られる問題は並行関係にある訳であって、第 1章での問題の解決としてパウロが提示した「十字架

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の使信」は主の晩餐の議論でも前提となっていると見 て取れよう。 2.富める信者たちの特徴  パウロによる十字架の使信は、富める信者たちの貧 富差などに起因する不適切な振舞いとそれを正当化し ている信仰上の誤解を正すことにあった。そこでま ず、富める信者たちの神学的また倫理的特徴を見るこ とにする。彼らは「熱狂主義者」という「神がご自分 の霊を通して人間の中に住み、その人間を新しい存在 に変容させる」という信仰をもつ者で、この点はパウ ロも同じであった67。しかしパウロとは大きく異なっ て、彼らは「自分たちはすでに救済の到達点に達して しまっていると信じている」 68という具合に終末論を 誤解し、そのために、「われわれは自由だ」とか「わ れわれにはすべてが許されている」等という「スロー ガンを持って自分たちのリベラルな立場を標榜し」 69 貧富差が当然とされている「古代ギリシャ・ローマ の慣習」を教会へ持ち込んで平然としていたのであ る 70。つまりパウロが正そうとする富める者たちには、 貧しい者たちを配慮して食事を待つということは最初 から思いもしないことだったのである。 3.「十字架の使信」の内容  先にテキストの釈義において、主の晩餐のテキスト の解釈の鍵は結びとなっている第26節にあると述べた が、その文脈に照らすことでこの第26節の意味が明ら かになるように思われる。  まず、パウロは、熱狂主義者の終末論の誤りを訂 正するために、「ἄχρι οὗ ἔλθῃ (主が来る(=再臨す る)まで)」と述べて、主の未来の再臨があること を示し、現在は救済の到達点ではなく救済の途上で あること、そして、再臨の時までは途上の生を生き ていることを示している。次に、熱狂主義者たちの 振舞いとは真逆である「τὸν θάνατον τοῦ κυρίου (主 の死)」を「καταγγέλλετε (宣べ伝える)」ことを繰 り返すことの大切さを語る。Garlandは、パウロが 主の晩餐の定型句を引用したことの力点がイエス の過去の実際の「θάνατος (死)」自体にあることを 強調し、「イエスの死は過去のことではなく、救済 の始まりとしての終末論的出来事である」 71という Jeremiasの解釈をパウロの意図に対して的外れで あると批判する72。同様に、Wolffが「ἡ καινὴ διαθήκη (新しい契約)」の効力は「復活の主から来る」と 解釈することも、イエスの「θάνατος (死)」自体に 集中するパウロの意図からは外れていると言えよ  う73  この「τὸν θάνατον τοῦ κυρίου (主の死)」の意味につき、 H-J. Klauckは、それが信者の熱狂主義的諸傾向に対し て対極にある、歴史的な過去の救済行為との結びつき 及びイエスの死のモチーフを想い起こさせ、「十字架 につけられたイエス」を際立たせるためのものである と述べ74、パウロとコリント教会との間における前提 的了解事項として「十字架の使信」が対極的キリスト 論として存在することを指摘している。つまり、この 「τὸν θάνατον τοῦ κυρίου (主の死)」は単なる「Ἰησοῦν Χριστόν」の死ではなく、「τοῦτον ἐσταυρωμένον (十字 架につけられたままの方)」の死を意味しているので ある。その違いは、Hengelによると、後者の死は、 ローマ統治下において「特に残虐で恥ずべき死」 75 あり、「究極的屈辱」 76であり、しかも古代文献から吟 味するとその神学的意味は「人間の残酷さによって拷 問され殺害された者の言語を超えた苦難に対する神の 愛の『連帯性』を明示した」ものであって、「十字架 につけられたメシア」の死なのである77。つまり、W.  Schrageが言うように、熱狂主義的論敵に対する批判 として重要なことは、主の再臨への言及と同時に十字 架の状況下で弱い者、特に空腹な者のためであったイ エスの死を中心に据えることであった78  このような意味をもつ十字架の使信から解釈し直す と、「わたしのαῶμα (体)」とは、食事における富裕層 の熱狂主義者たちの利己主義的振舞いに対し真逆な 他者に仕える実存を対比させた79、架刑に至るイエス のすべての連帯的愛の行為を包括的に表現するメタ ファーと言えよう80。そして、その「αἵμα (血)」とは、 不正な暴力により殺害されたイエスの究極的自己犠牲 のメタファーと言えよう。つまり、両者相まって、最 も貧しく弱い者に対し自らもその一人としてのアイデ ンティをもって連帯したイエス・キリストの実存のす べてを表現している訳である。  だがここで新たな問いは、主の死を「καταγγέλλετε (宣べ伝えるのである)」ことの具体的意味である。つ まり、それがパンと杯の摂取という非言語的行為なの か、それとも、言語的発話なのか、という問いであ る81。S.K.Stowersは、連帯性の強調を認めた上で、共 同体の理想はその教師の言語によって実現する(11: 17-26, 29)と主張し82、M. Klinghardtも言語的出来事 であるとしている83。しかし、パウロが「食すること」 及び「飲むこと」に11:26-29の間に5回も言及する のは、イエスの死の物語を、単なる言語での反復以上

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に強調したい意欲の表れと思われる。つまり、意味を 説く言語的発話はもちろん不可欠であるが、「このパ ン」を食し「この杯」を飲むという行動の事実そのも のが、イエスの連帯的死は言葉以上のものであったと いう現実を描き出し、「主の死を宣べ伝えている」の であると思われる84。これが二人称複数形の命令法で はなく直説法で記されている理由であろう。 Ⅵ.むすび  主の晩餐に関する記述によるパウロの狙いは、コリ ントの共同体の貧しい人々たちとの交わりに対して富 める共同体構成員が犯す過ちを正し、連帯的愛による 共同体を形作ってゆくという「共同体の構築」にあっ た。伝承された主の晩餐の定型句を引用する意図は、 富める信者たちが主の晩餐でしている振舞いを、イエ スが最後の晩餐で行ったメタファー的な振舞い及びそ の死と対比させることで是正させ、さらに、貧しい者 や弱い者に対する連帯的な愛の意識を喚起することに あった。  パウロが主の晩餐の定型句と「主の死」の意味内容 を特別に解説しないのは、コリント教会の信徒との間 に、イエス・キリスト、しかも十字架にかけられたま までいるイエス・キリストについての前提的了解が少 なくとも手紙上ですでに存在していたからである。そ の了解事項とは、決して、イエスの「死」(15:3)に 焦点を当てる罪の赦しという消極的な贖罪論的理解で はなく、「十字架につけられてしまっている方(=イ エス・キリスト)」(2:2)に焦点を当て、もっと積極 的に他者のために自己犠牲を引き受ける連帯的愛の関 係論的実存についての「十字架の使信」であった。  以上の結論に至るために、コリント教会の主の晩餐 執行の実情、パウロ版テキストの言語上の分析、贖罪 論的理解の消極性にまつわる問題点、パウロとコリン ト教会の読者との間にある前提的了解事項の解明を 行った。今後も残る現代的課題の一つは、信者でない 人の陪餐について、パウロの十字架の神学から何が示 されるかということであることを挙げて結びとした い。 引用文献 1  廣石望、書評「青野太潮著『最初期キリスト教思想の軌 跡―イエス・パウロ・その後―』」新約学研究第42号、 2014年、86頁。 2  G. タイセン『聖書から聖餐へ―言葉と儀礼をめぐって』 吉田新訳、新教出版、2010年、144-146頁。 3  J. A. Fitzmyer, First Corinthians,  The Anchor Bible, 

New  Haven  and  London:    Yale  Univ.  Press,  2008,  pp.427-428. 

4  G. タイセン「社会的統合とサクラメント行為」、杉原助 訳『福音と世界』1982年1月号(上)、69頁。

5  タイセン『聖書から聖餐へ』、143頁。

  D.  Garland, 1  Corinthians,   Grand  Rapids:  Baker 

Academic, 2003, p.545.  7  Fitzmyer, Corinthians, p.427.  8  H.-D. ヴェントラント『コリント人への手紙』NTD、塩 谷饒・泉治典訳、ATD・NTD聖書註解刊行会、1987 年、7、201頁。C.K. Barrett, The First Epistle to the  Corinthians,  Harper’s New Testament Commentaries,  New York:  Harper & Rw, 1968, p.265は、そのことを認 めつつも、「しかし留め置くべきは、ユダヤ的用法によ る影響よりはるか以前に古代ギリシアではこのような意 味でこの両方の用語は使われていたことである」と述べ て、短絡的に全くラビ的と捉えることには問題があると している。 9  W. Schrage, Der erste Brief an die Korinther,  Zurich:   Benziger Ver, 1996, S.194.  10  Garland, Corinthians, p.545.  11  青野太潮『最初期キリスト教思想の軌跡―イエス・パウ ロ・その後』新教出版社、2013年、144-145頁。 12  廣石望『聖餐の豊かさ』、120頁。荒井献『初期キリスト 教の霊性―宣教・女性・異端』岩波書店、2009年、71頁 の引用。

13  A.  Lindemann, Der erste Korintherbrief,  Tübingen:  

Mohr Siebeck, 2000, S.257.  14  Lindemann, Korintherbrief, S. 257.  15  佐藤研「なぜ新約聖書学は必要か」『キリスト教学』第 55号、立教大学キリスト教学会、2014年、39頁。 16  Lindemann, Korintherbrief, S. 256-261のマルコ版とパウ ロ版の詳細な比較は、マルコの意図を探る上では役立っ ても、パウロの意図を見い出すには不適切な手法である と言えよう。 17  ヴェントラント『コリント』 , 202-203頁。 18  Lindemann, Korintherbrief, S.258.  19  J, ブリンツラー『イエスの裁判』大貫隆・善野碩之助訳、 新教出版、1988年は、詳細に論じている。 20  佐藤研『最後のイエス』ぷねうま舎、2012年、15頁。

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21  H.  Conzelmann, Der  erste  Brief  an  die  Korinther, 

Göttingen:  Vandenhoeck  &Ruprecht,  1981,  S.  240.   P.-B.  Smit, Fellowship  and  Food  in  the  Kingdom:   Eschatological  Meals  and  Scenes  of  Utopian  Abundance in the New Testament,  Tübingen: Mohr  Siebeck, 2008, p.179.   22  Barrett, Corinthians, p.267.  23  Fitzmyer, Corinthians, p.437. 24  Conzelmann, Korinther, S.240.  25  ヴェントラント『コリント』、201頁は、「あなたがたの ために」という句につき、パウロは「イエスの死を罪の ためのなだめの供え物と解している」と主張している。  C. Wolff, Der erste Brief des Paulus an die Korinther,  Leipzig: Evangelische Verlagsanstalt, 2000, S.271も贖罪 論をとる。

26  A.  Schlatter, Paulus,  Der  Bote  Jesu:  eine  Deutung 

seiner Briefe an die Korinther, Stuttgart:  Calwer, 1969,  S.322.  27  例 え ば、 Ⅱ コ リ ン ト 5:21に 見 ら れ る「ὑπὲρ ἡμῶν ἁμαρτίαν ἐποίησεν(私たちのために罪とした)」にὑπὲρ ἡμῶνという句が見られる。文脈を見ると、5:18から5:  21は一つのユニットであり、パウロ特有の単数形の ἁμαρτία (罪)が用いられ、それは贖罪論とは無関係で あり、従って、この句は贖罪論的なものではないと言え よう。 28  Schrage, Korinther, S. 33.   29  L. Goppelt “ποτήριον” in Theological Dictionary of the  New Testament(以下TDNTと略) , Ⅵ, ed. G. Kittel, tr.  and ed. G. W. Bromiley, Grand Rapids: W. B. Eerdmans,  1968, p.154. 従って、Conzelmann, Korinther,  S.242のよ うに、両定型句にまたがってパンと杯を結びつける解釈 は不適当であろう。Schrage, Korinther, S.33も論者と同 旨。 30  Strack-Biilerbeck, 4:630f. in Conzelmann, Korinther, S.  242.  31  Barrett, Corinthians, p.268.  しかし、「διαθήκη (契約)」 のモチーフがイエスにまで遡ることは疑問視されている (Lindemann, Korintherbrief, S.256以下)。 32  Schrage, Korinther, S.38. Wolff, Korinther, S.271はイエ スの死が「犠牲」であることを強調する。 33  M. Klinghardt, Gemeinschaftsmahl und Mahlgemeinschaft:  Soziologie und Liturgie frühchristlicher Mahlfeiern,  Tübingen: Francke Verlag, 1996, S.317. 34  Wolff, Korinther, S.271.  35  Garland, Corinthians, p.547. 36  R.E.  クレメンツ『エレミヤ書』現代聖書注解、佐々木 哲夫訳、日本基督教団出版局、274-248頁。 37  Schrage, Korinther, S. 38.  38  Schrage, Korinther, S. 38.  39  T.E.  フレットハイム『出エジプト記』小友聡訳、日本 基督教団出版局、375頁。 40  Schrage, Korinther, S. 40. 41  Garland, Corinthians, p. 547. 42  J. Behm, “αἵμα” in TDNT, Ⅰ, ed. G. Kittel, tr. and ed.  G. W. Bromiley, Grand Rapids: W. B. Eerdmans, 1964,  p.176.  43  Schrage, Korinther, S. 40. Garland, Corinthians, p.547な ど、他にも同様な見解が見られる。 44  反対の見解の例としては、Schlatter, Paulus der Bote  Jesu, S. 326.   45  M. ノート『出エジプト記』ATD、木幡藤子・山我哲雄 訳、ATD・NTD聖書註解刊行会、2011年、316頁。 46  F.  ハーン『新約聖書神学Ⅰ』大貫隆・大友陽子訳、日 本キリスト教団出版局、2006年、370頁も、イエスの血 の意義を贖罪性ではなく「新しい契約の秩序」の設立と し、杯を飲む行為とはこの「契約に所属することの表明」 と述べている。 47  Klinghardt, Gemeinschaftsmahl und Mahlgemeinschaft,  S. 319.   48  R. Bultmann “θάνατος” in TDNT, Ⅲ, ed. G. Kittel, tr.  and ed. G. W. Bromiley, Grand Rapids: W. B. Eerdmans,  1965, p.14. 49  Bultmann“θάνατος”p.15.

50  Liddell and Scott, Greek-English Lexicon,  Oxford Press,  1980, p.138. 51  Garland, Corinthians,  p.548. G. Theissen, The Social  Setting of Pauline Christianity:  Essays on Corinth,  Fortress Press, 1988, p.146は、コリント教会の社会的状 況を1コリ11:17以下の神学的議論と関連づけることで、 より理解できるようになると述べている。 52  J. エルミアス『イエスの聖餐のことば』、田辺明子訳、 日本基督教団出版局、1974年。 53  M. ヘンゲル『贖罪―新約聖書におけるその教えの起源』 川島貞雄・早川良躬訳、教文館、2006年、101頁。 54  ヘンゲル『贖罪』、93-94頁。 55  ヘンゲル『贖罪』、102頁。 56  ヘンゲル『贖罪』、103頁。 57  ヘンゲル『贖罪』、102頁。 58  Wolff, Korinther, S.270は、ペトロがコリント共同体と 特別な関係にあったことを指摘している(cf. 1:12; 3:22)。

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59  ヘンゲル『贖罪』、112頁は、「ヘレニズム的」ユダヤ教と「パ レスチナ的」ユダヤ教との区別は「不可能」であるとし ている。 60  ヘンゲル『贖罪』、106頁。 61  ヘンゲル『贖罪』、112頁は、「ヘレニズム的」ユダヤ教と「パ レスチナ的」ユダヤ教との区別は「不可能」であるとし ている。 62  H. コンツェルマン『新約聖書神学概論』、田川建三・小 川陽訳、新教出版、88頁。 63  W.G.  キュンメル『新約聖書神学―イエス・パウロ・ヨ ハネ』山内真訳、日本基督教団出版局、1981年、170頁。 64  青野太潮訳、『新約聖書』新約聖書翻訳委員会訳、岩波 書店、2005年、503頁。 65  タイセン『新約聖書―歴史・文学・宗教』大貫隆訳、教 文館、2003年、108頁。 66  タイセン『新約聖書』、111-112頁。 67  タイセン『新約聖書』、110頁。 68  E. Käsemann, “On the Subject,” 125, quoted in Fitzmyer,  Corinthians, p.77. 69  タイセン『新約聖書』、112頁。 70  Garland, Corinthians, pp.534, 540-541.  71  J.  Jeremias, The Eucharistic Words of Jesus,  tr. N.  Perrin, London: SCM, p.253. 72  Garland, Corinthians, p.549.  73  Wolff, Korinther, S.275.  74  H.  -J.  Klauck, Herrenmahl und hellenistscher Kult,  GmbH & Co., 1986, p.317.  75  M. Hengel, The Cross of the Son of God, SCM Press,  1986, p.175. 76  Hengel, Cross, p.179. 77  Hengel, Cross, p.180. 78  Schrage, Korinther, S.46.  79  Garland, Corinthians, p.547.  80  TDNT, Ⅷ, p.1067.   81  Schrage, Korinther, 44. 行動説には、Garland, Corinthians,   p.548.  言 語 説 に は、G. Bornkamm, Early Christian  Experience, tr. P. L. Hammer, Harper & Row, 1969, p.141;  Barrett, Corinthians,  270; G.D. Fee, The First Epistle to  the Corinthians, New International Commentary on the  New Testament, Eerdmans, 1987, p.556.  82  S. K. Stowers, “Does Pauline Christianity Resemblea  Hellenistic  Philosophy?,”  in Paul  beyond  the  Judaism/Hellenism Divide,  ed. T. Engberg-Pedersen, 

Westminster John Knox, 2001, p.98. 

83  Klinghardt, Gemeinschaftsmahl und Mahlgemeinschaft,  S.318.

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Beyond the Redemptive Understandings of the Pauline Lord’s Supper :

Based on Paul’s Theology of the Cross

Takayasu Furukawa

︿Abstract﹀

  There are two fundamental types of traditions of the Lord’s Supper, the Markan (Mk 14:22-25) and

the Pauline(1Cor 11:23-26). The redemptive interpretations of the Pauline text dominate, but it is said

that the function of the Pauline Lord’s Supper has already shifted to the creation of fellowship. This

shift, however, has not been theorized enough to change the trend of the interpretation of the Pauline

Lord’s Supper. This article begins by identifying the problematic situation at the Lord’s Supper in

the Corinthian community, then analyzes the text linguistically, and presents the theologically crucial

problems of the redemptive interpretations. Then, the article continues by inferring that there was a

common pre-understanding about the terminology employed by Paul in the text of the Lord’s Supper;

that is the critically significant meaning of “Jesus Christ and him crucified” (2:2) between Paul and the

Corinthian believers. This article is an attempt to decipher the text to identify the relational meaning

of the Pauline Lord’s Supper to serve others actively from the point of the cross in Paul’s perspective

transcending beyond the redemptive interpretations whose focus is on forgiving sins.

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