科学的道徳学と道徳の科学、あるいはデュルケーム
の弁明
著者
田村 康貴
雑誌名
文化
巻
84
号
1,2
ページ
99-120
発行年
2020-10-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129708
令和 2 年 10 月 31 日発行
科学的道徳学と道徳の科学、
あるいはデュルケームの弁明
科学的道徳学と道徳の科学、
あるいはデュルケームの弁明
田 村 康 貴
1 消された序論 デュルケームの『社会分業論』には二つの前書きがある。1893 年の出版当 初からある初版前書き(TS, XXXVII-XLIV)と、1902 年の再版時に追加され た第2版前書き(TS, I-XXXVI)である。その第2版前書きの冒頭には、こう 記されている。「本書を再版するにあたり、われわれは初版の構成を変更しな いことにした。書物には変えずにおくべき個性があり、書物のよく知られた相 貌はそのまま残さなければならない」(TS, I)。ところが、同書の初版と第2 版を仔細に見比べてみると、前書きと本論とのあいだに位置する序論に大きな 違いがあることに気づく。初版で 45 ページにわたって記述されていた長大な 序論が、第2版ではたった9ページのものに差替えられているのだ。つまり デュルケームは、「書物のよく知られた相貌はそのまま残さなければならない」 という言葉とは裏腹に、『社会分業論』初版序論の約8割を「そのまま残さ」 ずに、第2版から削除しているのである。 それにしても、なぜこれほど大胆な変更が施されたのだろうか。この点に関 してデュルケームは、第2版の縮小された序論に新たな脚注を設け、次のよう に弁明している。「われわれが見たところ 、道徳学では不毛な方法が用いられ ているのだが、それを論証するために本書の初版ではかなりの紙幅が割かれて いた。しかしこんにちではもっと簡潔にしてもよいと思われる。いつまでも引 き延ばすべきでない論争もある」(TS, 7n)。 しかしこの短い注釈だけでは読みとれないことも多く、かえって疑間は増す ばかりだ。まず『社会分業論』初版序論において、デュルケームは当時の道徳学 (道徳哲学・倫理学)の「方法」の何を、どのように批判したのか。また、その 批判をめぐって道徳学者とデュルケームとのあいだで繰り広げられた「論争」とはいかなるものであったのか。そして「論争」のさなか、デュルケームが件の序 論を「簡潔に」したのはなぜか。これらの疑問に答えるべく、以下では、19 世紀 末のフランスで勃発した、道徳をめぐる論争の顚末を辿りながら、『社会分業論』 初版序論が消された理由を検討していく。 2 道徳学の方法 その書名からするといささか意外に思われるかもしれないが、『社会分業論』 の主題は「モラル」である。それは同書の初版冒頭にある次の宣言からも明ら かだろう。 本書は何よりもまず、実証的科学の方法を用いて、道徳的生に関する事実 を論じようとした努力の成果である。ただし、われわれの言う「実証的科 学」は、本来のものとは異なる意味で用いられてきた「実証的科学」では ない。道徳学者たちは、アプリオリな原理から自説を演繹する代わりに、 ひとつないし複数の実証的科学、たとえば生物学や心理学や社会学などか ら借りてきた諸命題から自説を演繹することで、科学的道徳学をもって任 じている。われわれが採るべき方法はそんなものではない。われわれは、 科学から道徳を導出しようとしているのではなく、道徳の科学をつくろう としている。これはまったく別のことである(TS, XXXVII)。 つまり、「科学的」と称される「道徳学(morale)」とは別の、いわば真に 「科学的」な方法を用いて「道徳(morale)」のあり様を論じた書物、それが 『社会分業論』というわけだ。まずは、当時のフランスにおける道徳学の情勢 を確認しておこう。 デュルケームが活躍した第三共和政期のフランスでは、主に二つの学派が道 徳学の覇権を争っていた。一方は、直観主義や合理主義と呼ばれる学派、他 方は、帰納主義や経験主義や功利主義と呼ばれる学派である(cf. Janet 1894 : 3-6 ; Fouillée 1883 : v-viii)。この分類はデュルケームの『社会分業論』でも踏 襲されており、同書のなかで、たとえばカントは「合理主義者」、スペンサー は「経験主義者」として扱われている(TII, 258-266)。 それでは、このうちいずれの学派が「科学的道徳学」であると考えられてい たのか―というと、答えは「いずれも」である。当時の主要な道徳学は、い
ずれも「科学的」であるとみなされていたのだ。しかしそれはなぜか。その理 由は、道徳学の各学派において用いられていた方法にある。 当時の証言。哲学者エミール・ブートルーは「科学的道徳学」の例として、 カント、ミル、スペンサーの道徳学を挙げている。それによると、当時、 カントの道徳学は、数学や幾何学と類比的に語られていた。カントは「数 学のように、まず前提となる原理をおき、そこから推論を展開していた」 (Boutroux 1895 : 39)からである。また、ミルたちは物理学の方法を用いて いるとされた。「功利主義者は、われわれの心の本性を観察することで、人の 活動を司る法則を探り出し、この事実の法則を行動の格率にしようとしてい た」 (Boutroux 1895 : 41)からだ。そして「スペンサーの道徳学は、人間の幸 福の条件についての科学であり、その条件は、生命の一般法則と生物の生存条 件から演繹されていた」(Boutroux 1895 : 45)。これが生物学に依拠している と考えられたことは、いうまでもないだろう。 要するに、当時の主要な道徳学は、いずれもなんらかの科学の方法に範を とってい(ると考えられ)たために「科学的」だとみなされていたのである (cf. Tissot 1866 : 1-6 ; Janet 1890 : 135-139)。このいかにも問題含みの見解に 対して異を唱えた者は少なくなかった。デュルケームもそのひとりである。 3 デュルケームの批判 道徳学に対するデュルケームの批判が比較的まとまったかたちで見られるの は、『社会分業論』初版序論をおいてほかにない。ただ、上述のとおり、その 批判の大部分は第2版で削除されている。そこで、ここでは消された初版序論 を繰りながら、当該箇所で展開されている道徳学批判のアウトラインを追って みようと思う。 デュルケームによれば、「広大で多様な世界を統べる法則を見つけるには、 至るところで法則を観察することから始めなければならない。道徳学者はこう したことをせずに〔……〕推論することから始める」(TII, 269)。具体的に言 うと、彼らは「まず人間を概念的に定義し、そこからその存在にふさわしいと 思われる理想を導出する。そして、その理想を実現するためにすべきことを、 行為の至高規則である道徳法則にする」(TII, 269-270)。要約すると、次のよ うに表わせるだろう。
[M1]「人間」を定義する。 [M2]「人間」から「理想」を導出する。 [M3]「理想」を実現するために従うべき「道徳法則」を定める。 これが、道徳学でおこなわれている(と想定される)演繹的推論である。 デュルケームによれば、こうした推論をおこなう点では「学派による違いはな い」(TII, 269)。とすれば、学派ごとの違いは畢竟[M1]に、つまり最初に定 義される「人間」の違いに由来することになるだろう。たとえば、「人間」を 理性的な存在として定義すれば、自律のための命令を下す「道徳法則」が導か れ、あるいは「人間」を快楽を追求する存在として定義すれば、より多くの快 楽の獲得を目標とする「道徳法則」が導かれる、といった具合だ。しかしデュ ルケームは、「こんな方法では真に客観的な結論に到達できない」(TII, 270) と断じ、その理由を三つ挙げている。 ①前提の恣意性―道徳学における「あらゆる演繹の起点となる人間概念 は、科学的な方法を用いて検討されたものではない」(TII, 270)。確かに経験 主義などは人間の観察を重視している。だがその観察は、「自分自身の内部を 注視するだけの不充分なものである」(TII, 267)。しかもこの種の内観によっ て「私的な信念や憧憬に合わせて人間を定義する恐れ」(TII, 271) さえある。 推論の前提がこのように恣意的に定められたら、そこから導出される結論が客 観的であるはずがない。また、そもそも人間を客観的に観察できるのか、とい う疑問もある。「人間の構成要素の識別から始めても、未知の要素はいくらで もあり、要素からなる全体の概念は隙間だらけになる」(TII, 270-271)。人間 全体を客観的に観察する方法がないということも、道徳学の前提が恣意的にな らざるをえない理由をなしている。 ②検証の欠如―よしんば前提となる「人間概念が完璧なものだったとして も、そこから導出される帰結は、結局のところ、憶測の域を出るものではな い」(TII, 271)。上述の①はいったん脇に措き、なんらかの方法によって人間 を完璧に定義できたとしよう。さらに、その人間の理想を実現するための道徳 法則を導出できたとしよう。だとしても、これだけでは、導出された道徳法則 が正しいことにはならない。「演繹だけでは充分な証明にならず〔……〕事実 による検証に耐えられなければ仮説の域を出ない」(ibid.)からだ。さて、道
徳学者はこの種の検証をしているだろうか―否である。なるほど、事実によ る検証の必要性を説く道徳学者もいることはいる。しかし「その遅きに失した 検証作業は、かなり拙速におこなわれる」(TII, 270)ため、彼らの結論の客観 的な正しさが証明されることはない。 ③目的の自明視―道徳学の「すべての論理演算には、ある素朴な公準があ る」(TII, 271)。すなわち、「人間を確実に発展させることが道徳の唯一の存在 理由である」(ibid.)、言い換えれば、人間をよりよくすることこそが道徳の目 的である、というのがそれだ。ところが、いずれの学派も、道徳の存在理由に 関する「命題そのものを論証していない。道徳の目的がなんであるかを知らな ければならないはずなのに」(ibid.)。これもまた、道徳学を客観的な結論から 遠ざける要因となろう。 以上が、道徳学の「方法では真に客観的な結論に到達できない」とデュル ケームが断ずる理由である。同時代の「科学的」と称された道徳学は、科学た るにふさわしい客観性を有しておらず、「その学説は主観的な見解、あるいは 何かそれに類する見解にすぎない」(TII, 267)。翻って、道徳を真に科学的に 研究するのであれば、研究方法そのものを抜本的に改めなければならない。 ―19 世紀末のフランスにおける道徳学の実態と課題をこのように理解した デュルケームは、かくして「実証的科学の方法を用いて、道徳的生に関する事 実を論じ」(TS, XXXVII) るという企画に着手することとなったのである(1)。 4 道徳の科学の方法(1)―感情の問題 『社会分業論』初版序論の前半部で道徳学批判を展開したデュルケームは、 続く後半部で、道徳学に代わる新たな方法論として道徳の科学の説明をしてい る。しかし、この後半部もやはり同書の第2版では消されてしまった。ここか らは、道徳学と道徳の科学とを比較しつつ、道徳の科学の全体像を把握してい こう。 はじめに、デュルケームが科学について、より正確に言えば、科学の方法に ついてどのように理解していたのかを確認しておきたい。というのも、同時代 の道徳学に対するデュルケームの批判も、彼自身が提唱する道徳の科学の成否 も、「実証的科学の方法」の用い方に懸かっていたからである。 そこで、『社会分業論』を繙いてみると、次の言葉が目に入る。「原因を科学
的に知るには、結果に依拠するほかない。複数の結果のなかから、最も客観的 で最も観測に適したものを選ぶことで、原因の性質を特定する。それが科学で ある」(TS, 30)。この想定にしたがえば、科学は二つの方法―現象(結果) の観察と、その原因の特定―の組合せによって成立していることになろう。 この二段階構成の方法を道徳研究に応用しようというのが、デュルケームの主 張だ。彼は道徳学の方法と対置させるかたちで、道徳の科学の方法についてこ う述べている。 道徳の問題に演繹的方法が使えるとしても、なんらかの想定から道徳の一 般法則を導出するには、少なくとも道徳の機能がどんなものかを知って おく必要があろう。さらに、そうした機能を知るには、複数の道徳的事実 を、言い換えれば、行為を実質的に司る個別の規則を観察するほかない。 だからこそ、道徳的現象を分類し、しかるのち類型ごとに原因となる条件 を調べ、その役割を特定する科学、すなわち道徳の実証的科学を真っ先に 確立しなければならないのである(TII, 271)。 ここで見落とさずにおきたいのは、道徳の科学における「事実」の観察と、 その原因となる「条件」の特定には厳然たる順序があり、その順序は科学の方 法を踏襲したものになっているということだ。結果の観察は、原因の特定の必 要条件をなしており、前者は後者に先行しなければならない。これは文字どお り「科学」として道徳の科学を確立しようとしたデュルケームによる意図的な 選択であったと思われる。この点を踏まえつつ、道徳の科学の方法を要約する と、以下のようになるだろう。 [S1]「道徳的事実」を観察する。 [S2]「道徳的事実」を生じさせた条件を特定する。 さらに、先程の引用箇所では[S2]を必要条件とする第三の段階へと歩を進 める可能性が示唆されていたのだが、それが道徳学の方法[M3](「道徳法則」 の導出)と同一の事態を指すのかという問いはひとまず放置したまま、論を進 めることにする。 さて、デュルケームは道徳の科学について説明する際、さも当たり前のよう
に「道徳的事実」なるものを導入していた。が、これは決して自明のものでは ない。そこで、道徳の科学の方法[S1]の内実を明らかにするべく、改めて 『社会分業論』初版序論に目を移すと、次の定義が読める―「道徳的事実 は行為の規則である」(TII, 274)。これが定義として不充分なのは明らかだろ う。いうまでもなく、「行為の規則」には、道徳とおよそ無関係に見えるもの も含まれるからだ(文法の規則、建築の規則、ゲームの規則、精神指導の規則 ……)。とすると、「道徳的事実」である「行為の規則」は、そのほかの「行為 の規則」と何によって区別されるのか。 デュルケームの回答。「道徳規則は、二つの特徴によって、ほかの行為の規 則と区別される」(ibid.)。第一に、「遵守すべき道徳規則に違反する行為がな され、かつ、社会がそのことを知った場合、〔……〕社会は違反者に対して積 極的な仕方で反応する」(ibid.)。道徳と関係のない行為の規則に違反しても、 このような社会的反応は起こらない。また第二に、「社会的反応は、違反行為 に対して必然的に生じる」(ibid.)。これら二つの特徴をまとめると、ある行為 の規則が道徳規則であるための条件は、次のように定式化できる―ある行為 の規則が、違反者に対する社会的反応を必然的に惹起するならば、その規則は 道徳規則である。 だが、道徳規則とほかの行為の規則は、必然的な社会的反応の有無によって 区別される、と言うだけでは問題を先送りにしたにすぎない。新たに導入さ れた「社会的反応」なるものの意味が明らかにされていないからだ。そこで次 に、デュルケームが言うところの「社会的反応」とは何か、これを問わなけれ ばならない。 この「社会的反応」を、デュルケームはさまざまにパラフレーズしており、 「全員の憤慨」(TS, 40)や「全体の反感」(TS, 43)、あるいは簡潔に「怒り」 (TS, 40)とも表現している。ただ、いずれにしても、これらはすべて感情で あり、しかも社会全体で共有される感情である。社会を構成する「全員の意識 に道徳規則が刻み込まれている」(ibid.)ため、違反者を見つけると、全員に 同じ感情が惹起されるというわけだ。これを踏まえたうえで、ある行為の規則 が道徳規則であるための条件を定式化し直すと、こうなる―ある行為の規則 が、違反者に対する反感を社会の成員たちに必然的に惹起するならば、その規 則は道徳規則である。 とはいえ、成員たちの「意識に道徳規則が刻み込まれてい」たとしても、そ
の規則が常に明文化されているとはかぎらない。人々が規則をぼんやり意識し ているだけ、ということもあるだろう。そのような場合、当の規則を客観的に 観察することはできまい。かといって、直観なり内観なりに頼っては、主観的 な道徳学と同じ轍を踏むことになる。とすれば、道徳の科学の方法[S1]は、 そもそも不可能であるか、かなり限定的な条件のもとでしか成果を上げられな いのではないか。 こうした疑問に対するデュルケームの回答。勿論、「社会で最も一般的な意 識のなかで起きていることを、直接知ることはできない。だから、行為の規則 が意識でどのように表象されているかを知るには、そうした内的状態を反映す るなんらかの外的事実に頼るしかない。が、その役割を担いうるのは制裁だけ だ」(TII, 275)。なぜなら、違反者に対する社会的制裁は「空間内の運動とし て外界で表現される」(TII, 277)ため、「客観的で、観察や測定さえ容易にで きる」(TII, 276)からである。道徳の科学における観察対象として「制裁が表 象するものよりも、制裁そのものを選ぶべきである」(ibid.)とデュルケーム が言うのは、以上の理由による。 話がややこしくなってきた。ここでいったん整理しよう。道徳の科学の方法 [S1](「道徳的事実」の観察)とは何か、というのが目下の問いであった。こ の問いに対するデュルケームの説明を簡略化して表わすと、以下のようになる だろう。 (1)道徳的事実とは、社会の成員たちの意識で表象される行為の規則である。 (2)当の規則に違反した者は、成員たちの反感を必然的に惹起する。 (3)成員たちの反感は、違反者への制裁として外界で表現される。 (4) よって、制裁の観察により、道徳的事実を間接的に知ることができる。 率直に言って、受け入れがたい推論である。検討すべき点は複数あるが、な かでも(1)の「表象」や(3)の「表現」など、デュルケームがなんの断りも なく心理学的用語を導入している箇所は説明不足で、曖昧さが際立つ。事実、 こうした曖昧さがのちの論争の火種となるのだが、その確認は後に回す。いま は、道徳の科学の全体像を把握するために話を進めることにしよう。
5 道徳の科学の方法(2)―実践の問題 いうまでもなく、道徳規則に違反した者への制裁の内容は社会によって異な りうる。また、同一の社会でも、時代とともに制裁の内容が変化することはあ るだろう。このような制裁=道徳規則の変遷の原因は何か。デュルケームの答 えはこうだ。それらの「時代ごとの変遷を説明しうるとすれば、大幅に変化し てきた社会環境をおいてほかにない」(TII, 278)。そこで彼は、道徳規則の違 いを社会環境によって、具体的には、地理的条件、専有面積、密度、歴史等の 違いによって説明することとなる(実際、『社会分業論』第 1 編では制裁ごと に異なる社会類型が提示され、第 2 編では道徳規則の違いの原因と目される社 会条件が検討されている)。 以上で、道徳の科学を支える二段階構成の方法については、ひととおり確認 できた。デュルケームに言わせれば、「道徳的事実の科学は骨の折れる厄介な 仕事」だが、その労を惜しんだばかりに「道徳学者の試みは失敗に終わらざる をえなかった」(TII, 273)。確かに、そうなのかもしれない。しかし道徳の科 学の方法[S1]と[S2]が、社会に関するある種の事実確認にとどまるとい うのもまた確かではないか。これだけだろうか。道徳の科学にできることは、 これですべてなのだろうか―というと、これが微妙なのである。一方でデュ ルケームは、[S1]と[S2]の遂行こそが道徳の科学の目的であるかのように 述べており (cf. TS, XXXVIII ; TII, 280, 286)、「科学的研究を実践的考察と一 緒くたにするつもりはない」(TII, 282n) と断言している。しかし他方で、彼 は以下のように述べてもいるのだ。 科学は予見するが命令しないと言われる。そのとおり、科学は生存に必要 なことをわれわれに伝えるだけだ。だが、もし人が生きようとしていれ3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 ば3 、科学が解明した法則を、ごく簡単な操作によって、そっくりそのま ま、行為を命ずる規則にするというのは自明の理ではないだろうか。確か にその場合、話は科学から技術に移ることになるが、この移行は間断なく 進められる (TS, XL)。 ご覧のとおり、ここでは科学と実践(技術)とがつながる可能性が示唆され ている。だがこの見立ては、「科学的研究を実践的考察と一緒くたにするつも りはない」という先に見た断言と両立するのだろうか。また、道徳の科学が道
徳法則をもたらすのだとすれば、それと道徳学の方法[M3](「道徳法則」の 導出)との違いはどこに存するのか。これらの問いに答えるには、デュルケー ムが想定した、科学法則から道徳規則への「移行」について明らかにしなけれ ばならない。 まず着目すべきは、例の消された序論にある次の言葉である。「社会の良心 は誤りやすい。道徳規則ではない行為の規則に道徳性の外的指標〔制裁〕を 関連づけたり、逆に、必要なはずの制裁をつけずにおいたりする」(TII, 282-283)。しかし道徳の科学なら、そうした「誤り」を見つけることができる。「自 然科学で用いられる方法に倣う」(TII, 283) ことを旨とする道徳の科学は、こ こでは生理学に範をとる。すなわち、特定の種に属する諸個体において平均的 に観察される現象を「正常」、平均から外れる現象を「異常」と判定するよう に、「ある道徳的事実が、特定の社会類型において平均的に観察される場合、 それを当の類型における正常、平均から外れる場合は病的」(ibid.) と判定すれ ばよいと、デュルケームは考える。無論、判定するには、そのための基準が必 要になるが、道徳の科学にあってはそのために新たな作業を始めるには及ばな い。というのも、道徳の科学の方法[S1]と[S2]によって、道徳規則に関 する膨大なデータが準備されているからだ。あとは、それらのデータを比較、 分類し、社会類型ごとに平均をとるだけで、道徳の科学は「正常」と「異常」 を判定するための基準が得られるというわけである。 興味深いのはここからだ。ある社会の道徳規則が、当の社会類型の平均を外 れ、「異常」だと判定されたとしよう。このとき、その「異常」な規則を「修 正するための唯一の手本」(TII, 286) を社会の成員たちに示すことも、道徳の 科学にはできるとデュルケームは言う。では、その「手本」とは何か。それ は、当の社会類型における平均的な、つまり「正常」な道徳規則にほかならな い。「人口に膾炙した異論の余地のない道徳、当の時代と環境において最も多 くの人々が従っている道徳」(TII, 287) を「手本」にすれば、「異常」な規則 を「修正」できる、というのがデュルケームの主張である。集合の平均から外 れる要素があれば、その要素に平均を示してやればよいというのは、なんとも 素朴というか杜撰というか御目出度い発想であり、事実、これものちに多くの 批判にさらされることとなった。 いずれにしても、以上が、道徳の科学から道徳の技術への「移行」として デュルケームが想定した事態だと思われる。ここで重要なのは、道徳の科学は
ある種の事実を「手本」として人々に「提示する (offre)」にすぎず、特定の 行為を人々に「命ずる(commande)」のではないということだ (TS, XL)。そ のとき、「科学が解明した法則を〔……〕行為を命ずる規則にする」(ibid.) か どうかを決めるのは、科学者でもなければ道徳学者でもなく、社会の成員たち である。このように「実践的考察」を社会に委託することによって、デュル ケームは、道徳の技術とは一線を画す道徳の科学の領域を確保しつつ、その閉 域から道徳学を完全に排除することを目論む。実際、道徳の科学が「道徳的事 実」の観察をとおして道徳の「自然法則」(TS, 4)を帰納し、それを「道徳法 則」にするか否かは社会が決めるという按配に分業が成立するのであれば、恣 意的に定義された「人間」から「道徳法則」を演繹してみせる道徳学など、も はや無用の長物でしかあるまい。 6 道徳の科学の反響 道徳学を批判し、新たな道徳研究の可能性を示唆した『社会分業論』は、そ の後のデュルケームの活躍と相俟って、フランス国内で一大センセーションを 巻き起こした。同時代の哲学者や道徳学者は言うに及ばず、社会学者や心理学 者や教育学者、さらには政治家やジャーナリストまでも、デュルケームによる 道徳学批判の妥当性や、道徳の科学の有用性をめぐって大論争を繰り広げたの である。そこで、ここはいったんデュルケームのテクストを離れ、毀誉褒貶相 半ばする周囲の反応を見てみることにする。 まず確認したいのは、『社会分業論』で苛烈に批判された道徳学者を中心に展 開された、道徳の科学への批判である。それらは以下の三点に集約できよう。 ①道徳の科学の非科学性―『社会分業論』が出版された 1893 年、『社会学 国際評論』に掲載された書評のなかで、社会学者ルネ・ヴォルムスは、道徳の 科学の「科学的精確さは見かけ上のものにすぎない」と看破し、「デュルケー ム氏の定式によって、現行の想定以上に明確な観念が定義すべき事象に与えら れるのだろうか」と疑問を呈している (Worms 1893 : 361n)。これと同様の批 判は、哲学者ギュスターヴ・ブロが 1894 年に発表した論文「功利主義とそれ に対する新たな批判」にも見られる。それによると、道徳の科学は一見すると 道徳学と比べて「より科学的に見える」が、じつのところ、その「精確さや実 証性はいずれも中途半端な」ものにとどまっている(Belot 1894 : 409-410)。
たとえば、デュルケームは「優れた徳や、純粋な自己犠牲によっておこなわれ る行為」のような「肯定的な」事実を無視し、制裁のような「否定的な」事実 だけを「道徳的事実」とみなしているが、しかし、こうした区別の基準は「ア プリオリ」に設けられており、論証もされていない(Belot 1894 : 414n)。とす れば、道徳学に負けず劣らず、道徳の科学も恣意的な考察をしていることにな るだろう。また、『暴力論』の著者として知られるジョルジュ・ソレルも、道 徳の科学の方法や用語の曖昧さを批判している。「デュルケームの方法論は非 常に科学的だ」(Sorel 1895 : 16) と評価する向きもあるが、実際はその逆であ る。本来であれば「心理学の対象となる作用」をも、デュルケームは「社会学 的現象における客観的特性とみなしており、そうした点はまったく科学的とは 言えない」(Sorel 1895 : 17)。このように、主観的なものを客観的「事実」と 強弁する、道徳の科学の非科学性を批判した論者は少なくない(2)。 ②個人心理学の排除―道徳の科学の基礎についても批判が集まった(3)。 たとえば、レオン・ブランシュヴィックとエリー・アレヴィという二人の哲学 者によれば、『社会分業論』における「デュルケーム氏の想定は、まさしく個 人の意識にかかわる」ものであったにもかかわらず、デュルケームは「個人 の意識の主体的な働き」を無視し、「無意識的な社会法則」だけを論じている (Brunschvicg et Halévy 1894 : 568)。そうすることで、デュルケームは「道 徳学を機械論に置き換えようとした」(ibid.)ようだが、「置き換え」ただけで は、「功利主義やカント主義が提起しえた道徳学上の問題を解決したことには ならない」(Brunschvicg et Halévy 1894 : 569)。そこで、二人の哲学者は注意 を促す。「社会学が、科学であると同時に道徳学でもあろうとするのなら、個 人という要素を無視してはいけない」(Brunschvicg et Halévy 1894 : 568)。あ るいは、シャルル・アンドレは、「これまでのところ精確な基礎を手に入れて いない社会学」が学問として確立されるには、「個人心理学3 3 3 3 3 と、不完全ながら も一応かたちにはなっている精神物理学3 3 3 3 3 が全面的に必要だろう」と述べている (Andler 1896 : 244)。 ③実践への応用不可能性―社会類型において平均的に観察される「正常」 な道徳規則は、「異常」な規則を修正するための「手本」になるというデュル ケームの主張を、最も早い時期に批判したのは、社会学者ガブリエル・タルド である。タルドは、1895 年の論文「犯罪と社会的健常」のなかで、次のよう に述べている。「群衆における平均的な知性や教養、平均的道徳性のことを考
えてみてほしい。その正常さの程度の低さといったら! 19 世紀初頭の平均 的教養はどうだったかというと、それは文盲であった。まだ広く知られていな かった上位文化は、それゆえ、ある意味、異常だったのである。無論、この 場合、科学や徳よりも、無知や背徳のほうが健常で正常ということになる」 (Tarde 1895 : 158)。だから、「異常」が「正常」を手本にしても、事態が好 転するとはかぎらない。それどころか、かえって悪化する可能性さえある。こ の種の批判も多く寄せられた(4)。 いうまでもなく、道徳の科学に対する批判はこれに尽きるわけではない。ま た、三つの分類はあくまでも便宜上のものであって、別の視点からより細かく 区分することも可能だろう。ただ、『社会分業論』初版の消された序論が多方 面からの批判にさらされたという事実は、さしあたり以上で確認できたかと思 う。 だがその一方で、既存の社会学に不満を抱いていた者や、「哲学を専攻して いた学生たちが大挙してデュルケームのもとに救いを求めていった」(Parodi 1920 : 150)というのも、また事実である。彼ら、いわゆるデュルケーム学派 のなかには、開祖の思想を継承し、それに接ぎ木するかたちで、みずからの道 徳論を形成していった者もいる。そんな彼らは、道徳の科学についてどのよう なことを口にしていたのか。 手がかりとなるのは、デュルケームに勝るとも劣らぬ影響を後続に及ぼした リュシアン・レヴィ=ブリュールの『道徳学と人倫の科学』である。1903 年 に出た同書には、道徳学者とデュルケーム学派との論争に関する以下の総括が 読める。 道徳学の理論と実践の関係をめぐる新たな想定や帰結に、皆が皆、同意し ているわけではない。自然と道徳を対置する人は未だにいる。物理的自 然の摂理は不変で、われわれのあずかり知らぬものであるのに対し、道徳 的命令は意識で生じ広まるもので、人間の自由にかかわる、といったふう に。以上が、デュルケーム氏の率いる学派に属する社会学者と、かつて 「道徳科学」と呼ばれたものを代表する諸氏とのあいだで勃発した大論争 における本質的な争点のひとつである (Lévy-Bruhl 1971 : 24)。
補足しておこう。レヴィ=ブリュールによれば「〈∼であるもの〉の認識こ そが科学の役割である」(Lévy-Bruhl 1971 : 10)。だが「道徳科学」と呼ばれる 「理論道徳学は、〈∼であるもの3 3 3 3 3 〉の認識ではなく、〈∼べきであるもの3 3 3 3 3 3 3 〉の制 定をこととする」(Lévy-Bruhl 1971 : 15)。したがって、これは科学ではない。 翻って、真の道徳の科学であれば、「意識に主観的に表われる、義務、良心の 呵責、あるいは功績や罪過、非難や称賛などの感情」ではなく、「外界におい て、ほかの社会的事実との関係のもと客観的に考察される道徳的事実」を研究 するに違いない (Lévy-Bruhl 1927 : 7-8)。デュルケームがもたらしたものは、 まさにそのような「科学」だったというわけだ。 それでだけではない、とレヴィ=ブリュールは言葉を継ぐ。「〈∼であるも の〉の科学は〈∼べきであるもの〉の科学の必要条件をなしており、〔……〕 心理的実在や社会的実在をどう修正すべきかを決める〈∼べきであるもの〉の 科学の可否は、そうした実在の科学的認識に懸かっている」 (Lévy-Bruhl 1971 : 16)。このように語るレヴィ=ブリュールが、「科学から技術への移行は間断な く進められる」(TS, XL) という例の一文への参照を指示している点には注目 すべきだろう (cf. Lévy-Bruhl 1971 : 99n)。つまり彼は、『社会分業論』の消さ れた序論に依拠するかたちで、「道徳学の理論と実践の関係をめぐる新たな想 定」を論じているのである。 もっとも、『社会分業論』の著者よりもはるかに慎み深いレヴィ=ブリュー ルは、周到に条件を設ける。「科学が充分に進歩したあかつきには3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 、われわれ は社会的実在に力を及ぼせるようになるはずだ」(Lévy-Bruhl 1971 : 100 以下、 強調は引用者)と。フランス語原文だと直説法前未来形で書かれているこの従 属節からは、道徳の科学は発展途上にある、というレヴィ=ブリュールの偽ら ざる感想が窺えよう。 だが、どうやらこれは、デュルケーム学派の共通見解と言えそうなのだ。た とえば、セレスタン・ブグレは、「社会学によって基礎づけられた科学的道徳 学は未だ存在せず3 3 3 3 3 3 、『来たるべき』道徳学となろう」(Bouglé 1904 : 296) と述 べているし、アルベール・バイエは、「人倫の科学は未だに揺籃期の真っ只中3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 にある3 3 3 」(Bayet 1907 : 99)と記している。ベルクソン哲学からデュルケーム 社会学に転向したモーリス・アルプヴァクスに至っては、「道徳的事実の科学 は、まったく前に進んでいない3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 」(Halbwachs 1918 : 392)と吐露している。道 徳学の難点や道徳の科学の革新性についてはなんら疑いを挿まないデュルケー
ム学派の面々が、異口同音に道徳の科学の不備を語る様子はどこかしら滑稽で さえあるが、ともあれ、ここでふたたびデュルケームに目を向けることにしよ う。これまで見てきた批判や指摘への応答として、『社会分業論』初版序論の 削除を読めるかどうか検証するためである。 7 道徳の科学の展開 改めて『社会分業論』第2版に付されたデュルケームの弁明を思い出してお きたい。同書の序論から道徳学批判と道徳の科学の解説を削除した理由につい て、彼は「いつまでも引き延ばすべきでない論争もある」(TS, 7n) と述べて いた。実際、すでに見たとおり、件の序論は多くの反論を惹起したため、デュ ルケームは道徳学批判を撤回したのではないか、あるいは、道徳の科学をつく るという企画を放棄したのではないかと推測するのは、ごく自然なことかと思 われる。 しかしながら、道徳学批判の撤回というのは、端的に言って、事実に反す る。たとえば『社会分業論』刊行から2年後の 1895 年に出版された『社会学 的方法の規則』で、デュルケームはこう述べている。「道徳学の抽象的な思弁 は、やはり厳密な意味での科学たりえない。道徳学は、至高の道徳規則が実際 どんなものであるかではなく、どんなものであるべきかを決めようとしている のだから」(MS, 26 ; cf. EM, 43)。あるいは、1906 年のフランス哲学会の例会 では、「道徳を論じる哲学者が、何も付け足さず、何も差し引かずに、特定の 道徳的実在を忠実に記述しようとしたことは一度もなく、むしろ彼らは、新た な道徳をつくろうとして大風呂敷を広げてきた」(SP, 111) という挑発的な発 言をデュルケームはしたようだ。さらに、遺稿となった『道徳論』序論には、 「道徳学者は、みずから措定した人間概念を根拠にして、より望ましい行為規 範を勧告する」(TII, 315) と書かれている。 このように、デュルケームによる道徳学批判は『社会分業論』初版から晩年 の『道徳論』まで一貫しており、その批判の内容は驚くほど変化していない。 「いつまでも引き延ばすべきでない論争もある」という言葉とは裏腹に、デュ ルケームは 1917 年に亡くなるまで道徳学を執拗に攻撃し続けていたのであ る。そんな彼が、『社会分業論』第2版で例外的に論争を忌避し、その結果、 道徳学批判を含む初版序論を削除したと考えるのは、いささか無理があるだろ う。
それでは、『社会分業論』でデュルケームが「つくろうとしてい」(TS, XXXVII)た道徳の科学のほうはどうか。論敵からあれほど難詰され、身内で さえ期待よりもむしろ失望の声を洩らしていた道徳の科学をつくるという企画 そのものをデュルケームは放棄し、いわば「論争」の仕切り直しを図ったので はないか。 だが、これもやはり件の序論が消された理由になるとは考えにくい。確か に、ボルドー大学(1887 年∼ 1902 年)とパリ大学(1902 年∼ 1916 年)で、 毎年のように道徳に関する講義をおこなっていたデュルケームであるが(5)、そ れにもかかわらず、道徳に関する彼の論考は(『社会分業論』を除き)すべて 死後に、弟子たちによって編纂、刊行されたものである。このことから、デュ ルケームが自身の道徳論の公表を躊躇していた、もしくは、その完成に難儀し ていたことは容易に見当がつく。しかし、だからといって、彼が道徳の科学を 見限ったことにはなるまい。実際、彼のテクストからは、むしろその逆の事態 が読みとれるのだ。 たとえば 1902 年の講義で、デュルケームはこう話している。「われわれは道 徳の科学がつくれるのです。この科学が完成したと仮定してみましょう3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 。われ われは他律的であることをやめ、道徳世界の主人になるはずです。〔……〕道 徳が異常な要素を内に含んでいても、道徳の科学が完成していれば3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 、道徳を正 常にする術を手にしていることになりましょう」(EM, 119)。また、『社会分業 論』初版の約四半世紀後に書かれた『道徳論』序論には、「道徳の科学や、道 徳的事実の科学」と呼ばれるものの「構想を素描する3 3 3 3 3 3 3 」という同書の目的が明 記されている (TII, 330)。 要するに、1893 年の時点でデュルケームが「つくろうとしてい」た道徳の 科学は、1902 年になっても「完成して」おらず、1917 年、臨終の間際でもま だ「構想」段階にとどまっていたということだ。彼は、道徳の科学の完成を終 生夢見ていたと言ってもよい。とするならば、『社会分業論』初版序論が消さ れた理由は、道徳の科学の放棄とも別のところにある。では、それはいかなる 理由だったのか。 8 道徳の科学の転回 ここであえて、1902 年に起きた『社会分業論』初版序論の削除という出来 事の背景(前景?)に視線を外すと、道徳の科学の微々たる成果にデュルケー
ムを向き合わせるきっかけとなったであろう別の出来事に目を留めざるをえな くなる。1891 年からソルボンヌの教育科学講座の教授を務めてきたフェルディ ナン・ビュイッソンの後任にデュルケームが抜擢され、1902 年から同大学で 道徳教育についての講義を開始した、というのがそれである。しかも「1902 年の制度改革の際、教授資格志望者全員を対象とする理論教育学実習を学部単 位でおこなうこととなり、パリ大学ではデュルケームがその指導に当たること となった」(EP, 1)。当時、道徳の科学が完成から程遠い状態にあったことは すでに見たが、そんな事情を露知らぬ周囲の人々は、道徳の科学を(道徳)教 育へ応用するよう彼に要請してきたのである。そうした周囲の期待に、デュル ケームはどのようにして応えたのだろうか。1902 年の講義録のなかでも特に 肝要と思われる、教育の定義に焦点を絞って見てみよう。 教育とは、子どもの体系的社会化である。われわれのなかには二つの存 在が共存している。〔……〕一方は、われわれ自身とその周囲で起こる出 来事についての心的状態からなる、いわば個人的存在。他方は、われわれ の人格ではなく、われわれが属している多様な集団をわれわれに表わす観 念・感情・習慣からなる体系である〔……〕社会的存在。この社会的存在 をわれわれのなかに形成することこそが、教育の目的である (ES, 102)。 この「二つの存在」という主題は、1902 年以前も以後もデュルケームによっ てたびたび取り上げられてきた。注目すべきは、彼がこの主題を論じる際、た とえばピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズ、あるいはジャン=マリ・ ギュイヨーのような哲学者や心理学者による、無意識や催眠に関する理論を引 合いに出している点である (cf. SP, 32 ; ES, 64-65)(6)。「すべての時代すべて の国に当てはまるひどく曖昧な格率を何度熱心に語っても、子どもは道徳的に ならない」(EM, 124) と言って道徳学を揶揄し、「教育学にとって心理学だけ ではいまいち頼りない」(ES, 106) と皮肉ってみせるデュルケームが、「社会 的存在」なるものの形成こそが教育の鍵を握るという自説を論証する段になる と、臆面もなく道徳学や心理学の理論を根拠にしているわけだ。逆に言えば、 論敵に助けを求めなければならないほど、道徳の科学の成果は芳しくなく、事 態は逼迫していたのである。 実際、1902 年の講義でのデュルケームの言いぶりは、いかにも歯切れが悪
い。「行うは難し。なにしろ、道徳教育が依拠すべき科学は、先だってようや くつくられ始めたところなのだから」(EM, 122)。また 1906 年の講演では、 彼は嘆息まじりに、こう話している。「科学の進歩を待たずに行動を起こさな ければならないこともある。そんなときは、まだ現実には存在してない体系的 な科学の代わりに、急ごしらえの簡易的な科学でもって、それを感性の閃きで 補いながら、なんとかするしかない」(SP, 88-89)。だが、この「感性」頼みの 「科学」は、かつて『社会分業論』で「主観的な見解、あるいは何かそれに類 する見解にすぎない」(TII, 267) と批判されていた「科学的道徳学」と選ぶと ころがないだろう。そのことを誰よりも理解していたのは、ほかならぬデュル ケームだったのではあるまいか。 9 デュルケームの弁明 ここまで見てきた道徳学・道徳の科学・道徳教育という三つの立場の関係 は、下の図のように表わすことができる。デュルケームによれば、道徳学 (M)は人間にとって理想的な道徳法則について考察しているものの、そこに は根拠となる客観的な事実が欠如している。そうした事実を外界において観察 し、その社会的条件を明らかにすることで、現行の道徳法則を改善するための 手本を社会に提示しようとしたのが、道徳の科学(S)である。道徳学(M) の排除をもって成立するこの科学は、しかし、当初の予測に反して、充分な成 果をあげることができず、道徳法則の改善は望むべくもなかった。他方、道徳 の科学が完成していないにもかかわらず、世間はデュルケームによる科学的な 道徳教育に期待を寄せていた。その期待が頂点に達したとき、彼は、やむをえ ず、道徳の科学(S)ではなく、道徳学(M)に依拠するかたちで、道徳教育 (E)を論じることとなったのである。 以上のことからも明らかなように、デュルケームの道徳論は決して直線的に
進歩したわけではない。道徳をめぐる彼の関心や用いられる方法が不変であっ たとみなす向きもあるが(7)、そのような解釈は事実に反する。デュルケーム の道徳論には、道徳の科学者デュルケームと教育学者デュルケームとの齟齬に 由来する、ある種の陥欠がある。それを「矛盾した態度」(Déploige 1912 : xii) と呼んでも、「ディレンマ」(Gurvitch 1963 : 176) と呼んでも、「デュルケミア ン・ミステリ」(Leclercq 1939 : 450) と呼んでもいっこうに構わないのだが、 いずれにしても、デュルケームが独自の道徳学をつくろうとし(て成功、もし くは失敗し)たという主張には、まったく同意できない。「デュルケームは、 義務の理論、善の理論、自律の理論からなる、いわゆる『理論道徳学』を完全 なかたちで遺した」(Fauconnet 2012 : v) のではなく、それらをほぼ丸ごと他 所から借り受けたにすぎないからだ (cf. EM, 103-104)。実際、彼が道徳の科 学の枠内で義務や善や自律に関する理論をつくり、その理論に基づいて道徳教 育を説いていたのだとすれば、『社会分業論』初版序論の大部分を削除する必 要はなかったはずではないか。道徳教育を論じるために、論敵である道徳学に 譲歩せざるをえなくなった教育学者デュルケームにとって、かつての自身の主 張は「無益」(TS, In) どころか不都合なものとなった。件の序論が消され、道 徳の科学者デュルケームの主張とは相容れない弁明が書き加えられたのは、そ のためである。とすると、『社会分業論』第 2 版におけるデュルケームの弁明 から読みとるべきは、さしずめ、道徳の科学を大成できないまま、道徳学の理 論を援用せざるをえなくなったデュルケームの忸怩たる思いであると言えない こともないだろう。ただ、そのような事情と、彼の道徳教育論に対する評価が 無関係であることはいうまでもない。 註 (1) 「道徳の科学 (science de la morale)」という言葉自体は、デュルケームが戦略 的に用いる以前から存在した。古くは Bentham 1834 に見られるこの言葉は、 19 世紀後半になると反形而上学的な道徳学の必要性を説く哲学者によって好 んで用いられるようになる。だが、デュルケーム以前の「道徳の科学」の実 態は、「観念論」と「功利主義」を対置したうえで後者を無批判に受け入れて いたり (Wiart 1862 : 58)、あるいは「意識による同意と承認」こそが「真理の 完全な証明には必要」と断言していたり (Renouvier 1908 : 9)、あるいはまた 「生命を維持し増強すること」を道徳の目的とみなしたり (Guyau 1921 : 88) というように、デュルケームが批判する道徳学と大差ない学説ばかりであった
(cf. TII, 263n)。
(2) 道徳の科学の科学性や客観性、実証性について批判したものは次のとおり。 Mazel 1899 : 681 ; Delbos 1900 : 141-143 ; Cantecor 1904 : 237-238 ; Fouillée 1905a : 527-529 ; Parodi 1920 : 151 ; Rauh 1926 : 247-248 ; Mauchaussat 1928 : 358.
(3) 個人という主題の排除や、心理学的知見の欠如を批判したものは次のとおり。 Fouillée 1905a : 548 ; Fouillée 1905b : 12-13 ; Tarde 1999 : 124-125, 128. (4) 道徳の科学の実践への応用に対して異議を唱えたものは次のとおり。Bayet
1908 : 50-51 ; Faguet 1910 : 226 ; Rauh 1911 : 102-103 ; Fouillée 1914 : 92, 118 ; Aron 1967 : 390. (5) Cf. Lukes 1985 : 617-620. (6) ジャネ、ジェームズ、ギュイヨーのテクストの対応箇所は次のとおり。Janet 2005 : 245 ; James 1950 : 174 ; Guyau 1889 : 12. なお、デュルケームの道徳教 育論とフロイトの精神分析理論(特にその後期の理論)との類似については、 Parsons 1949 : 386n ; Lukes 1985 : 433-434 を参照。ただし、ルークスも断っ ているとおり、「デュルケームがフロイトの業績を知っていたことを立証する エビデンスはない」(Lukes 1985 : 433n)。 (7) もちろん、細部に違いはあるが、以下の研究はいずれも、デュルケーム道徳論 を直線的に進歩したものとして捉えている。Gehlke 1915 : 180 ; Lukes 1985 : 410 ; Bellah 1990 : 10 ; Isambert 1990 : 130 ; Fabiani 1993 : 180-184 ; Fauconnet 2012 : vi.
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Morale scientifique et science de la morale,
ou apologie de Durkheim
Kôki TAMURA
Le but de cet article est de déterminer le sens de l apologie dans
de Durkheim en analysant le débat sur la morale à la Troisième République. À cette époque-là, il y avait beaucoup d écoles de la morale et chaque moraliste qualifiait sa doctrine comme étant scientifique, mais Durkheim les a accusées de manquer d objectivité et s est occupé d instituer la science positive de la morale. Depuis, une grande querelle entre les représentants des anciennes morales et les sociologues de l école durkheimienne s est déroulée. Pourtant, la science de la morale ne donnait guère de résultat contrairement à leurs attentes, bien que l on ait pressé Durkheim de l appliquer à l éducation morale. Ainsi le sociologue a été obligé d invoquer les témoignages des moralistes, alors même qu il avait blâmé sévèrement la stérilité des morales scientifiques.