豊
ピューリタン革A叩.、﹂商業ブルジョアジー
白杉
庄
一
郎
唖 イギリスのピューリタン革命勺⊆葺9。コ閑Φ<oぎ鉱。旨︵一六四〇一六〇年︶はいうまでもなくブルジョア革命であった。しか も へ し、それは産業ブルジョア革命といったものではなく、産業ブルジョアジーの商業ブルジョアジー打倒というような定式 化を許すものではなかった。産業ブルジョアジーが革命陣螢の有力な↓翼を形成していたことは事實であるが、だからと いって簡軍に、商業ブルジョアジーは反動の陣螢に所属していたはすだなどと想像しては、公式主義の誤謬におちいるこ とになるであろう。 たとえば、冒瞼商人組合でさえ、革命に際しては、議倉に味方して國王に反抗した。ルーカスによれば、 コ六四三年 二周の下院議事録には、帝王は組合に二万ポンドの借入れを申出たが、下院は組合に請うてその貸付けを拒否せしめ、か っこの件を下院に通報したことを組合に感謝したむねが記載されている。同じ年に、胃二者たちは議倉に著して三士ポン ドの金額を八分の好利で、かつ海軍の使用というよき目的のために貸付けた。彼等はその報酬を得た。その年の秋に、上 院と下院は、彼等の灌利に完杢に合致した法令を可決した。この導管の議事録は、彼等が宮島に金融した烏鷺をしめす記 ピューリタン革A叩と商業ブルジョアジー 一ピューリタン噛早A叩と商堂禾ブルジョアジー 二 面をもってみたされている。そして、その結果は彼等の將來を阻害した負債の重荷であったように思われる。巨魚商人の 場合以上に、特許會耐の長い生命と、それらがイギリス史におよぼした影響とをよりょく読明するものはあbえなかっ た。十五世紀の疑りにおいては、彼等はフランダ⋮ズ人に封抗せんとする國王ヘンリー七二の大支柱であった。また、彼 等は、治世の初めにあ伽11つて窮迫していたエリザベス女王のために金策した。しかるに、十七世紀の中頃になると、彼等 は言言に反封ずる下院の有力な味方となっていたのであるoL ︵O・雪ζ§♂、一、︻δ一8鷺旨葺石竃自一屯ζ戸○ぎ巌霧。。﹂旨︹。﹁三認。。・℃ ○諸8乙一〇︻評⊇︾.岩OI¶.︶ G・M・トレヴェリアンも書いている。束インド會羅その他の﹁、遠距離貿易倉杜は莫大な損害はあるが、さらに一層大 きな利釜があって、スチュアート朝時代における肚會的・政治的生活の[つの重要な要素となっていた。内証の時には、 ラウンドヘソド それらの富と勢力とは一般に王冠に反抗して投ぜられた。それは、 一つは宗教的理由およびロンドンが主として円頭堂⋮で あったという理由、一つは商人たちがジェームズ一世とチャールズ一世から受けた取扱いに不予であったという理由から ① であった。﹂ ︵﹃英國肚會史﹄、林健太郎謬、中、一二頁︶ O ①同じ著者はまたこうも書いている。﹁み股的な言い方をすれば、勤王主義は暗黙一世紀の三二出目春気攣化がほとんど感じられなか つたところに最も強かった。國王と教會は、首都から最も遠く海外貿易と最も關係のうすい農村地方や市場町で最も愛せられた。議 會とピューリタンに封ずる同情は、最近の逐濟的愛化が最もはげしかった所に最も強かった。たとえば、エリザベス時代にできた 大貿易曾肚の勢力下にあるロンドンにおいて、港町において、トーントンやバーミンガムおよびペソニン山脈の暑寒の織物のさかん な谷間地方のことき新しい型の工業都市ないし地方において最も強かったのである。・ンドンないしその他どこかの商工業と事業蘭 係のあった郷士尤ちは、政治と宗教とにおいて、ほと61ど円頭円派におもむいた。ケント、サリーおよびエセックス雲州をふくめた ロンドン地方は、ただちに議會側に獲得され、國壬派である少数振はけっして頭をもたげることができなかった。おなじ現象は、 ﹃東部蓮合﹄として組織されオリヴ﹁ノー・クロムウェルによってしっかり握られていたイースト・アンダリア諸州でもおこったG﹂ ︵同五九一六〇頁︶
これらの解鐸には小正確なところがないわけではない。けだし商業ブルジ3アジーを代表する長老派は、革命が急進化 するにつれて委協的となり、革命の進行に著して保守的・潰極的であったからである。しかし徹底的な革命の前に逡巡し 動揺したのは、長老派だけではなかった。産渠ブルジョアジーを代表した茎立濱といえども、けっして徹底的に革命的で あったわけではなく、挙党階級を代表する急進派︵レヴエラーズ︶に押されて革命をブルジョア革命としてのそれの頂点に まで推し進めた後は、その薫蒸の喪失を恐れたところがら、革命の微底を要求した急進派を裏切ってこれを弾温したばか りでなく、次第に後退して長老派と愛協するにいたった。このように見てくると、商架ブルジョアジーも、その動揺は否 定しえないにしても、産業ブルジョアジーにおとらす重要なブルジコア革命陣督の一翼を形威していたといわなければな るまい。彼等も、なかんづく資金の調蓬を通じて、筆命に協力するところがあったのである。いな、それどころか、革命 を も も へ も も め し カ も セ も も の金主ともいうべき地種を占めていたところがらして、王政復古に餅記した革命の方向を最経的に決定すべ尊指導構をに ぎっていたのは、農村もしくは地方都市の爺楽ブルジョアジーではなくて、むしろ大都市なかんづくロンドンの商業H金 ② 融ブルジョアジーであったといわなければならないところがある。おなじことは名轡革命についてもいえるのであって、 商業“11金融ブルジョアジーは産業革命によって産業ブルジョアジーの勢力が確立するまでイギリス・ブルジョアジーの指 導的階層であったといってよい。もしそうだとすれば、ピューリタン革命はヨーマンリーを背景とした鼠落ブルジョアジ ーの勝利だつたというような解舞は、一面的にすぎるG ② このような二二は、すでに早くトーマス・ホソブスによって提超されている。彼の見るところによれば、 ﹁ロンドン市およびその他 の大貿易都市は、低地患部がその君主たるスペイン王に叛いた後に享受した繁盛を讃美.していたので、この國における政治の同様の 饗化は彼等.に二二の繁榮をもたらすであろうと考える傾きがあった﹂のであるが、事實、 ﹁議二軍﹂は﹁ロンドン市の大きな財布と ロ イングランドにおける殆んどすべての自治市の醸金によって維持されたレのであった︵、 、・﹂ぎ享窪L⋮多︻ゴ戸主二窪=禦。受oP一歴 ︵﹂四二鉢窃。コぎ︵凝望一二凶帥5H爵3丁張テ置 圃G﹁す一’﹃薯・;.≠じ一︶¢・︶。もっとも亀ホソブスは、 ﹁大抵の場谷、彼等︹商入︺は自分の ピューリタン革命と商菜ブルジョワジー 三
ピューリタン革命と商業ブルジョアジー 加 力を思いめがって謀反の最初の漿働者であるごとく、彼等はまた大抵は彼等の力を支配する人々に欺かれて第一番に後悔する﹂と附 加えてはいる︵同三一二頁︶。これらの飼筋を豪照してであろう、C・ヒル氏は書いている。﹁ホップスは、いかにしてロンドン市の 長老派商入階級が動乱の最初の申心となり、オランダやヴェ一一スの典和國のごとく商事によって彼等自身の利盆のために統治される 國家を建設しようと試みたかを叙述している﹂と︵︵、・霞∫﹁一’ぎ︼、ゴ告閃二二西。引。葺一︵葦囲零ρ賭影画﹂い塁二︶﹄・。.︶。 ついでに、イギリスのブルジョアジーがオランダ葬.手本とした理由をもうすこし詳しく確めておけば、 ﹁オランダのブルジョアジ ーが最初に國民的な規瑛で弱国王政と迫害的な國教會とに饗して!彼等の場合にはそれはスペイン王とローマ・力トリヅク識會と であったが一反逆した。彼等の先例はヨ韮山ソパを、そしで特にイギリスを感動させた。というのは、イギリスでもスペインは國 民的な仇敵であり、かつそこでもブルジョアジーが心しい力を惹識しつつあったからである。スペインの再征服に封ずるネザFラン ドの防衛は、すべてのプロテスタントにして愛國的なイギリス入にとら非常に親しみがもてた。そしてオランダ撃榮の實例は一暦世 俗約な精神をもつた晶々をして彼等︹オランダ︺の政治制度には摸倣に値する多くのものがあると確信させたのである。﹂︵.戸、ぎ︵︷○〇二 ︵︶=︵犀三港”二一①写り琶筆一一ぎき三一一2爵亀H忌︵r−3”o^醐.︸︾k︵︸.一崖=一三罫︻︸。=”ちち二一●boOP︶ もっとも、 ﹁イギリス・ブルジョアジーがスペインと闘雫するオランダ入に⋮概して感じπ同情は、勝利を得たネザーランド國家の 杢.主力が商業約覇灌をぬざす郊外政策の背後におかれはじめたとき、複難な感情に繭化した。﹂全曳のところ、﹁ピューリタニズムの 環は商業の竸孚よりも弱いことを証明したのである。﹂ ︵同ご〇九頁︶ 一 一 無論、 ﹁産業的ならびに商業的蟹田に封ずるに髪長の爆爽はむそらく室硫時代の経濟ならびに靴魯史の最も特徴的な特 色である﹂といってよく、なかんづく﹁産業史の領域においては疑いもなく、濁占の事聖上の魔手は一六四〇年と一六六 ・ ③ ○年との岡におこなわれた量も出置的にて成功した脅展であった﹂ ︵7ぎ碧・起き二丁、・・訟&三旨、・・堂2・匡・巳・髪山祝ぎ︸充9。 ℃=問題.一剛冥。く^、三一。ρ︸り・目こ。一・︶。けだし、 ﹁テユーダー王朝下およびなおのことステユア1ト王朝下の猫占の特徴的標識は、 それが聖王の大灌と緊密に結びついていたことであって﹂︵向上︶、﹁議含の正式の承認による歳入以外の歳入を聖王の特
樺をもちいて増大させる一手段としてチャールズが櫃算したこの︹猫占勝馬︺政策は、 一般の法律家や議員の眉をひそめ させ、また、きわめて蛍然のことながら、物品の債格が上ったのを見た治費者や、取引が制限され妨害されたのを知った 商人耽禽に不人氣であった﹂からである︵トレヴェリアン、上掲、二二頁︶。 ③﹁空位時代を通じ、イギリスの忍業は、大陸の営業がはるか後代まて着せられていた毒筆という窮屈なチョソキの脱却に重要た.電置を 講じた。この時代の輿論は墨口同普に濁占を非難した,實際、ある入または制度を猫占的とよぶことは、しばしば、議論り有効な代 用物となったほどであった。政府もまた、特許に歯する﹁定の例.外を認めばしたけれども、チャールズ一世の氣にいったようないか なる産業政策にも野南であった。王政復古後、濁占はもはや産業粗織の上で軍通な地位を占めなくなった、そしてその縫更の曹回点 は室位時代に生じたのである。﹂ ︵M・ジェームズ、上掲、一四三一四四頁︶ も し も も も も も しかしながら、そのさい注意されなければならないのは、革命が屡止したのは生として封建的・ギルド的猫占にほかな らなかったということである。この種の猫占は、手工業、者およびこれと結びついた封建的・前期的商人にとっては死活的 關心事であったが、重商主義的商業贅本家にとっては旋業資本家にとってとおなじく有害無釜な制度にほかならなかつ 九。したがって、この種の猫占の節止をもつてただちに自由主義的な産業費本の勝利などと特丁づけるわけにはいかない のである。 M・ジェームズも明言している。﹁経濟的自由主義の若干の部門における爽展にもかかわらす、この時代には貿易に關 する政府の統制を康止しようとする試みは存在しなかった。個人的な私の利釜は奮い道徳観念によって課された制限に封 して擁設され、⋮⋮かつあらゆる形態の猫占を打倒しようとする廣、汎な試みがあったが、しかし最も進歩.的な著者といえ ども政府は監督と統制とに關する義務を放棄すべしとは提議しなかったのである。﹂﹁一六五〇年に、議含は貿易の促進と 統制を目的とした包括的な條例を可決したが、それの示すところによれば、議會は統制のある傳統的な局面を批判するの 用意をもつたかも知れないが、貿易と産業をそれ自身の拘衷されることのない焚展にまかすの意圃はもたなかった。﹂﹁共 ピューリタン革命と商業ブルジョアジ1 五
ピュ蓄リタン革命と商業ブルジョアジー 山 ノ、 和國の顧問や政治家は、産業問題のもうすこし有効にして集中的な虞理方法を手探りしていたが、彼等の現實におこなつ ④ た行政は大憲において肉習的な線上を進行した。笹身︵oo唇。﹃舞ざ罫︶を濁占的と疑う強い傾向にもかかわらす、三体は けっして統綱用具として全面的に信用されなかったわけではない。﹂﹁眞實、共和政論の有力な意見はチャールズがおこな った管理の若干の局面に反封した、そしてそれは教ノ淳の干渉に封ずる非難以外の何物をももたなかった、しかしこの時代 も ね カ も も も へ の政治家たちはけっして経馬食係におけるレ1セ・フェール政策の採用をもくろまなかった。從等は、彼等の便宜親にか なうかぎり、統制政策を留保した。﹂ ︵上掲、︸五八、一七〇、︸七て一七四頁︶ ④﹁二葉統制においては、共和國政府は幕切の政策に修するかぎりほとんど猫創性を示さなかったのであって、同じことは貿易と琵業 を漿適しようとする試みについてなお旧暦鎮實である。計書は多かったが、これを有効な實簸に移すことは王政復古の︸暦確立した 政府に淺されたのである。﹂ ︵M・ジニームズ、同一七九頁︶ もっとも、ジェームズも室泣時代り積極面を看過しているわけではない。 ﹁塞位時代を通じて、⋮⋮琵菓的獲展の否定的局面が 一掲占の打倒・貿易の沈滞および統制の屡屡が一おそらくはこの時代の建設的業績以上に重要であった、粗織と監督との傳統的 形態の信用を失墜させることによって、それは王政復古期の新しい晴業的ならびに財政的護展の道を準備したからである。しかし、 再建への一切の試みを無意義としてかたすけるのは、正しくないであろう。﹁六五〇年の條例は王政復古時代の貿易委員會︵︵㎞^旨ぎ= 竃、一、妻写︶をさきぶれしたが、他國からのプロテスタント移住民の奨働はナントの勅令の馳駆につすいたユグノーの流入に道を開い たし、ユダヤ入の入國を再び許可したことはこの時代の金融ならびに商業史に数えがたい重要た.影響をあたえた。實現されなかった 計薔の頒域においては、銀行を設立するための運動がその星行をさきぶれしたし、金華關税と自由港とのための運動は同世紀後年の 理論の蘭兆となった。﹂ ︵同一九二頁︶。のみならす、 ﹁叛乱と戦響と革命政治の厭 迫下に、就會組織は政治的構造に影響したものに おとらす顯著な壁化を纒隠したが、しかし、それらは深所によこたわっていて實瞼的な取扱いをうけることが少かったのて、その歴 史は目をひくことが一暦少く且つ午時に︸層翼下的にして意議ふかいものがあるのである。﹂ ︵同三三九頁︶ しかし、留保されたのは猫占以外の國家的膳立統制ばかりではなかった。猫占そのものも、慶止されたのはただイギリ ス内部におけるものだけであって海外貿易に關するものは存綾せしめられたのであった。全くのところ、 ﹁大商業凋占の
場合は、それの産業上の原型の場合と非常に異っていた。後者の大多敏は國王とその貧しい廷臣との便宜に供するために 生じてきたものであって、経湾的には大体は不成功によって特徴づけられてきたが、貿易受認は新しい領域を開沖せんと する黒田の欲求にもとづき、通常はその存在を正賞化してきたのであった。﹂ ︵M・ジ五二ムズ、ヒ掲、一四四頁︶。したがつ ⑤ て、この種の猫占的貿易脅瀧は從來も反猫占蓮動に堪えて生き残ってきたし、ピューリタン革命もこれを慶止することが なかったのである。そして、そこに、 ﹁室位時代の政治家たちは、彼等の競争者オランダ入の例にならい、商業的基礎の 上に國民的偉大の新時代を建設するよう刺戟された﹂ ︵同一七九頁︶といわれうるピューリタン革命の一つの重要な側両が 浮彫にされている。 . ⑤コ六〇四年にまきおこされた津業上の猫占に封ずる反封蓮動は、商業上の猫占に封ずる同様の扇動を随伴した。ごつの法案が下院 に提出されたb帰つは﹃すべての商入は他の諸國民においておこなわれているごとく凡ての白々への貿易の束縛なき自由をもつべし ということを目的とする﹄ものであり、いま一つは﹃諸外罰への貿易ω学説をH的とする﹄ものであった。これらの法案は、サンデ ィズ︵敏8︻ぞ訟︶により、巨利の宣言をさきぶれするような言葉で雄魂に支持された。彼はいった、﹃すべての自由な臣民は生れなが らにしてその土地に噛封ずる左利を取得するとおなじく、彼等の耳益し且つこれによって生くべき事業において自由に勤螢するの灌利 を坂得する。﹄商業はこれらの生計手段のうちの最も最要た手段であったので、彼等が坂引するのを制限することは、イギリス人の 自然的な灌利と自由に反することであった。提出されたいま︸つの法案は、從來諸會祉に留保された國々において貿易するの楠能を 誰にもあたえることを目的としたものであったが、しかしこれらの團体はひきつすき存在することができ、かつそれの提供する便宜 を利用する重々に樹し定期的賦諜をなしてよいむねを規定していた。これらの法案は上院によって否決された。そして一見したとこ ろでは、上院の行爲は上院の頑迷な保守雫義に饗するまた﹁つの例を僕するように思われる。しがし、サンディズの調子の高い演説 も あ はあまり文字通りにとられてはならない。十七世紀においては、自構自由貿易論者︵櫛70し陰C一一島一も睦曽”︼仲即6にけh騨二〇﹃︶は、しばしば、ひと りよがりの石印主義者︵叶︸お’く〇三︻γび。ぎ。口。℃乞剛み︶であった、そしτ帰會杜を攻整・している人々がしばしば他の會肚で有利な地位を 占めていた。一六〇四年の扇動はまもなく滑滅し、それにつすく好況期を通じ諸會肚は非常に繁濡した。猫占古例の通過した︸六二四 年には、組織上のある点は批判されたけれども、輿論は貿易猫占の一般原則に賛成した。﹂︵M・ジ.ームズ、上掲b一四四−−四五頁︶ ピューリタン革A叩と商業ブルジコアジー 七
の ピュ璽リタン革命と商業ブルジョアジー 八 td一 一 もっとも、ピューリタン革命も貿易上の夢占を全然不問に放置し江わけではなかった。 ﹁リルバーンはいった、大樺政 治︵O﹁①﹃oぬ鉾叩く①ぬ。<⑦遷ヨ⑦謬け︶は、 つねに貼薬の最も恣意的な支配を實施し且つ彼に費金を供さんとするの用意をもつ 諸愈砒によって支持されてきた。それらは一切の貿易樺︵叶﹃貴誌一嵩騎 ﹃圃笈ずけω︶を自分自身のそれを除いてくつがえしてきた が、 ﹃しかし貿易樺はイングランドの自由人各個の・しかり最も卑しい靴直しや鋳掛師ならびに最も高貴な紳士や實族の 共逓の生得樺であり相績財産なのである。﹄と︹U・鋤9葺ρ﹀障.︻糞。・。3︶二♂、身心躊冒多。、弓。ミ霞竃ピ8.︷。∼凌、圏︵己。T.ジコン ソンという商人は、 一六四六年に一書をあらわして、︹國家内の諸倉肚を自然人の腸内にいる虫になぞらえた︺ホッブス の有名な小室會攻撃に先鞭をつけた。彼は指摘した、金玉國は同様の利害によって結びつけられた人々の一集團または一 溢會であるが、 ﹃しかし特定の人々すなわち悪魔の精々をもつてみたされた特許愈愈は、秘密の不正な特許によって團体 をつくり、もつばら全体に嘉して破壊的となっている⋮⋮﹄と︹ラ筒。百。・。7>覧工高宰8≧鶏.・ζげ①丘①㎝”.目鼠。・︺。別のパ ンフレット筆者は個人の樺利の自由な行使は有効な貿易維螢に謝する最善の保証であると指摘したし︹嵯ぎO。﹁焦巴国$8 b。設三銀︺、自分自身商人であっ江リューイス・ロバーツは私の利釜は自動的に自己を公の目的に調節するということを認 め、すべてを﹃その帥労働は自分自身に利釜をあたえることではあるが、しかもそのすべての行爲においてそれによりそ の國王と國と同胞臣民とに恩恵をあたえる思慮ふかい商人﹄にまかせることを望んだ︹Pぎぴ。量・日ぎ弓・①鎚彊お気弓鎚き。・ 鵠自・︺。さらに純経験的観点から、諸二選は言止さるべきだと主張された。ある著者はいった、 ﹃貿易の幼年時代に人民 を刺戟してそれを増進し改良せしめるためにあたえられた冤税制度は、現代においてはそれほど適當ではない。﹄と︹﹀ 葺。。。。ξ。。。ご。ロ印葦ぼ駒。﹁ンーハ冒置く。し奪島。筐黒ρ追2ξ託物一瞥。9。=μ亀、一.曇5賓ΨO・﹂。⋮⋮ヘンリ・ロビンソンは、會漱は全体と
しての貿易を促進するために形成されたのではあったが、根際は特定の入々の利釜を促進したと指摘した︹算=・・謀要9ポ 中ざ諭。。崖監臼暮ざ冨け。言三農箪φ≧ぎ’琴。三。気転6、門鱒三。菖、一Zミ曜暮圃。♪HOお・︺。一般民衆の批判はポーツマスおよびその他の 町の守備隙の欝欝や兵士からの講願のなかに聞かれる、彼等は一般的には國が・特殊的には貧民が諸會瀧の制限政策によ って招來された貿易の破壌によって非常な困窮におちいってきたと訴えた。彼等は、すべての自由な.臣民が自分たちの所 ストック 有地と資本の改良に劃する自分たちの樺利を享有し、かつすべての航測特許歌が破棄されることを求めた︹、一.ぎ;菖ごε 鴫O寓寓OゴOh仲70C門識。①﹃島島帥冨島訟O汀富Oh㏄A︾らh︾O洋こ陰一昌O=二ご一〇回り。・︺。﹂ ︵M・ジェ ームズ、 上掲⋮、 一四五r四︻六頁︶ 猫占的な貿易倉吉のうちで、最も一般的にして敵封的な批判の封象となったのは、毛綴物工業の沈滞との關蓮におい て、胃瞼輿入組合であった。﹃金羊毛嶽迂論﹄︵目ぼΦOo鉱①P固Φ①oΦ∪Φh窪α①鮎︶の著者は、冒瞼商人組合の支配下に羊 リ クロシイァーズ 毛工業のあらゆる部門は自的を拘束されると言明した。すなわち、毛織物業者は意氣阻喪せしめられる、けだし彼等の販 費は若くて力のない業者を自分の欲するままに扱うことのできろ少敏の有力な商人に制限されるからであるGこの鷹迫は 織布工に反作用する。多くの商人もまた、轡型商人がその貿易をきわめて狭隔な限界内に靭限するがゆえに、損害をあた えられる。組合は、多額の入門金を支奮うことのできる少数の徒弟を採用するにすぎない。のみならす、胃険商人自身の 特梅的なサークルの内部においても、堅迫が存在している。けだし奮い優勢な業者は多量の販費惨事を認められ、 一切の マーク入り毛織物を猫占し、損をしてもこれを賛却して、それが望粥な業者の手に蹄するのを妨げるからである。毛織物 の販責が外國でおこなわれる場合には、小規模の商人は不利な地位にある、けだし彼等が大規膜の商人と同じ利潤率で販 記することを許されるにしたところで、彼等はほんの僅かしか販逸しないからである。そのうえ、大商人は多額の金を低 利で踏入れることができるといった金融上の便宜をもつている。かくして、この組織形態の結果は貧富の爾極を創造し、 イギリス毛織物の廣い分配を妨害することである、というのである。 ︵M・ジエームで、ヒ掲、一四七頁︶ ピューリタン革命と商業ブルジョアジ霧 九
ピューリタン噸早命と商業ブルジョアジー 一〇 リルバーンは、 ﹁急診的特許棲者たる胃険⋮商入﹂︵9窪ぎ,2>困、。﹁み。・。ξ二’﹃一,聲。︼二・二ぎ﹁一’三§。=し§︻。じ響旨。門︹r︶に封ず る反封において特に雄藩となった。彼は、羊毛は王國の電要商品であるから、すべてのイギリス人にそれを取引すること を許すことが必要である、と指摘した︹・判・︻・一斗≡︵・L旨箒三・証ヨ障︸三η澤シ二二。︵r一丁二己。彼は予算商入に罰する一般的な誹 誘で満足したが、彼の公けにしたパンフレットのなかに、毛織物貿易の猫占によって惹起された害悪について緯平したサ イクズ︵≦.ω葵Φω︶およびジョンソン︵↓.鴇075ωoづ︶という貸入の商人の請願書を牧録している。彼等はいった、毛織 物貿易の猫占は臆主・毛織物業者・紡績婦および幾千の賃民に困窮をもたらし、關税糊入を減少せしめ、海運を破壊し た。外國における我が毛織物の黒門・は下落せしめられ、海外から輪入される一切の商・川の慣格は縢貴せしめられた、胃瞼 商入の数があまりに少くて、活生な貿易を螢むことができなかったからである、と︵きζ録§ρ﹀℃。話。ξ﹂三山。・︶。いま 一人の著者︵♪・dおoo貫首Oo諺剛の菖づぬO喘︼≦O江く①の隔O﹃窪①国三自。触9qΦ∋o欝鋤巳零話①島。ヨ亀↓欝鉱ρH∩畠︶は、冒険商 入の濁占ほど國に有害なものはない、けだしかかる特許樺は夢魔のごとく生命力そのものを吸いとり、一つの血管のなか へ全身を養うにたるほど多量の血液を追いやるからである、ということに同意した。もし毛織物貿易が自由であるなら ば、俳席過剰がおこって、全國・苦しむであろう、と馬耕されてきた。しかし、實際は利釜のみが結果するであろう、け だし貿易は、 一山か二山に積み上げておけば悪臭を焦するが・廣くばらまけば土地を肥沃にしてこれを結着せしめる肥料 のようなものだからである。冒瞼商人のなすごとく乏しい冬木により高率でもつて取引するよりは、豊富な資本により遮 度の料率でもつて取引する方がよい。貿易を繁乱せしめるにあずかって力のある二つの重罰事がある、商調の豊富なこと と思入の多数であることである。胃険商人の掲占は、これと矛盾する。この濁占の悪結果のゆえに、オランダは我々の貿 易を纂侵しつつある、そしてこの濁占を打破してオランダ入の求める智慧と豊富を實現する以外に、オランダをして再び 我々と取引せしめる道はないであろう、と主張した。︵M・ジェームズ、上掲、一四七一四八頁︶
冒瞼商人に⋮封ずる反言運動はけっして軍なる文書職にとどまったのではなく、議論内においてもそれにおとらす活濃に 展開されたのであった。そして、この場合にも反抗はまず第一に、組合の統制に樹する一般的反手よりは、むしろ毛織物 業の不況に封ずる不満のせいであったように思われる。一六四一年に、上院は、多敬の毛織物業者から、商人が毛織物を 買おうとしないと訴えた請願書を受取つた。その結果、冒険商人をして毛織物の購入に努力せしむべし、しからざればそ の購買と輪途を何入にも自由とすべしという命令が爽せられた。しかし、實効はなかった。下院もまた委昌を鶴里して冒 瞼商人の特許擢を考究し、それをめぐる一切の不入を調査せしめた。しかし、その丁令を制限するなんらの方策も講じら れ駐なかった。 ︵M・ジェームズ、上旧伽、 一四八百ハ︶ 塞紘時代を通じ、胃瞼商人の樺力を制博しようとする方策にはなんら見るべきものがなかったばかりでなく、むしろ反 封に、その地位は、棄インド専心のそれとともに、以前よりは張化したといわれうるような側而がないではかった。けだ し、財政上の必要が政府をして冒瞼商人に封し彊硬な態度をとるをえせしめなかったからである。すでに早く一六四一年 の五月、下院は委員を任命して胃険人入と自誓商計︵ζΦ言冨馨QQけ鑓コ7q巽ω︶とを招致して、借入金につき商議せしめた。 胃瞼熱雷は十五万ポンドの貸付を約束した。一六四二年を通じ、政府と冒瞼商人との聞におなじような商議が進行した。 その年の一月に、下院は感謝をもつて胃下之入がさしあたり三万ポンドを貸付け、さらに二丁ポンドを調蓮するとの約束 を引合に出している。そして一六四三年の十月には、三万ポンドの貸付金の代償として、胃謬説入の從來の一切の特槽を 確認し、入會金を二倍に引上げることを認めた法令が制定されたのであった。 ︵M.ジーームズ、上掲、一四九、一五〇頁︶ もっとも、このような胃瞼商人の樺力の確認と言動とに面しては、反訴がないわけでばなかった。一六四四年に、コル チニスターの市長と市参事倉員は、サフォークの多くの住民や二二ゾクスの毛織物業者とともに、下半に著し、毛織物の 取引に試して彼等が一六四三年置法令以前に享有していたとおなじ自由をもちうるよう講願した。しかし、請願書を取扱 ピューリタン革・命と商業ブルジョアジー ︸一
ピューリタン革A叩と商晶束ブルジョアジー 一二 つた委員含は胃瞼商人以外のものもドイツやオランダで自由に貿易することを許さるべきだと報告したけれども、堤案は 否決された。一六四七年には、上院がおなじ猫占の艇迫について訴えた講願書を受取つたけれども、なすとこスはなかっ た。一六五〇年には貿易の促進を目的とした條例が爽布され、それによって任命された委員倉の任務のうちには、カムパ ニーよりは一僑開放的にして自由な貿易方法を採用することが望ましいかどうかを考究することがふくまれていた。しか し、具体的な方策がとられたわけではなかった。そのため冒険商人に封ずる攻撃はつづき、一六五六年にはドルトレヒト に胃瞼商人の根糠地を設けようとする提案がなされたのをきっかけとして彼等の猫占に劃する批判が再燃した。しかし、 彼等はプロテクターに訴えて、こんどもまた危機を乗りきることができた。翌一六五七年、貿易委員愈︵Oo∋邑暮8ho﹃ 目轟山Φ︶は、 一躍の重要商口㎎か一ヵムパニーによって猫占されているのは有害だと主張する自由商人たちの講願書を討議 した。委員脅は胃険商人側の猛烈な反隈を押しきって、すべてのイギリス細入にドイツおよびオランダへの毛織物貿易を 開放することに決定し、自由貿易法案の導出を染備するにいたった。しかし、胃調馬入側の反⋮封運動が効を奏したのか、 あるいは政治的ならびに財政的危機のためか、この法案もついに陽の目を見ることなしに絡つたのであった。 ︵M.ジ‘ー ムズも上杷伽、 一五〇一一五一頁︶ ・ このように見てくる、M・ジ.ームズもいっているごとく、たしかに、 ﹁胃丁零入組合においては、共和政下の自由貿 易蓮動は、一六〇囚年の法案を生み出したそれとは性格の異ったものであった。初期の蓮動は一般に、自分たちは分前に あすからないが、自由貿易の利釜について眞正の信念をもたない商業懸濁占に反潤した人々の所行であった。共和政下に おいては、組合に⋮封ずる理論的ならびに實践的反響は、本物でないにしてはあまりに廣愚な一般的野猫占運動の一部分で あった、そして胃険商人は毛織物の自由貿易は耳蝉でもあれば便宜でもあると信じた一切の階麿の入々によって攻撃され た。明かに議會はけっして全面的に組合の味方をしたわけではない、そして財政的必要の塵池がなかったならば、おそら
くは、その特灌は磯止されたか、あるいは少くと煮縮限されたであろう。﹂︵ヒ娼、一五二一五一一.頁︶。しかしながら、電命 が財政的必要からして戯事商人の猫占を磯止ないし縮限することができなかったということは、その反面として、胃険商 人的商業資本の勢力を無古しては、すくなくとも財政的に、革命が途行されえなかったということを含意するであろう。 いいかえると、産業資本はまだ猫力で革命を途行ずることができるほど十分.に成熟していす、商業資本とのあいだに一 相互信頼的とはいえないまでも一すくなくとも打算的な結婚を確保することによってのみ、それを途行ずることができ たということを含意するであろう。 四 胃険商人組合について述べたとぽぽおなじことが、他の貿易猫占事体についてもいえる。ます、東インド會瀧はチャー ルズ一睡の治下において聖王の支援するコートン愈耽︵OOq﹃けOコ︾ω ﹀ωωOO凶二こけ一〇P︶に燈まされていたが、零位時代にはいる と含就は革命政府に歩.みより、コートン愈就を放逐しようとした。−すなわち、=ハ四九年、命枇は枢密院に、コートン脅 耽の競孚によって困難のおこってきたことを指摘して、特樺の更新を講養した。枢密院は算崩瀧の商議を推奨したが、こ の商議起おいてコートン商人は東インド禽耽との合同を提案したので,命就は議愈に寓しそのための條例の制度を請願し た。一六五〇年、下院は、東インド貿易は一年靴により合同の資太により窪まるべきむね決議し、三重、コートン商入は 法律上別個に存在することを止めた、もっとも、東インド五玉に吸牧されたにもかかわらす、彼等の折議は蚕然しすまっ たわけではなかった。一六弄二年には一パンフレット︵ωけ吋9ρ”強① 2①≦69 h﹁Oヨ 汁ず① 図βへ諾①のり 同①α卜⊇︶が公けにされて、東イン ド愈靴は破墨的な濁占團休であり、地金を流出せしめるばかりでなく、その貿易経瞥は矢敗であることを論証しようとし た。 一六丑四年には、制規禽職の方法によってインドと貿易しようと欲した胃瞼者の一鎖から新しい反封がおこってき ピューリタン革A剛と商叢ハブルジョアジー ︸三
ピューリタン革・A叩と商轡来プル“ンヨア“ソー 一四[ 亡。彼等は橿密院に請願して、インド貿易は一号耽によっておこなわるべきであるが、その成員は資本や從業員や納舶を 思うままに使用するの自由をもつべきだと主張した。これに饗して會靴は惜用の議論をもちだし、遠隔地貿易をこのよう な方渉によって螢むことは不可能だと答えた。論争は決着をあたえられないままに持ち越され、冒険者たちはますます雄 欝に合本會就の鋏盤をかぞえあげ、無規嵐窓の右利なことを彊毒した。しかし艘等の雄辮もついに効を奏せす、 一六五七 年二月、枢密院はついに束インド貿易は合本組織の墨継的管理のもとにおかるべきむねを宣言した。プロテクターはこれ を認許し、束インド脅肚にあたえる特許歌の起草委n其が任命されたのであった。︵M・ジ.ームズ、上福、 五三一読四頁︶ モスコー霊鑑︵㎡プΦ象ヨ℃ppく。陥一≦βωoo︿鴫]≦①巴。プρ虚9>飢く①β葺吐霞Q9︶も、グリーンランド溝で捕鯨漁業に從肥するの 秘利を要求した自由貿易論者によって攻撃されたが、東インド単一の場合とおなじく、この転身の本質は商業資本柑互悶 の斗争たるにとどまった。けだし、猫立の乱入たちもしばしば五体を形成したのであって、その團体はけっして貿易を猫 識しようとするの意志を置いていたわけではなく、むしろそのためのカを聴いていたにとどまったからである。それはと にかく、一六五二年、毒口殺は、その特樺がイギリス人共通の樺利にもとづいて行動すると稲する胃険寝たちによって脅か されていると訴え出π。議會が仲裁し、雨方の顔を立てて、行動範團を折激せしめることにしたが、紛争は最絡的な解決 を見たわけではなかった。一六五四年には紛争が樽燃したが、 =ハ五七年にいたりプロテクターは愈魔の要求をいれて、 その特樺を確認した。︵M・ジLンムズ、上掲、一五四⋮五五頁︶ 最後に、レヴァント倉融に墾するピューリタン政府の態度もほぼ同様であって、政府は自由貿易論者と引言との言分を きいた上、レヴァント貿易に從訳しようとするすべての移入は會粧に分担金を支彿わなければならないと定めることによ って、その特灌を存績せしめることに決定した。︵M・ジェームズ、L掲、︸五五一五八占︶ かくして、ピューリタン革命によって封建的・ギルド五濁占は腹棄されたが、重商主義野猫占の多くは革命後も生き残
⑥ つたといってよいのである。いな、それどころか、商業資本を支桂とするイギリス重商主義はほかならぬクロムゥニルに よって体系化されはじめたといってよいところがあるのである。 モ,ポリ富 コート マニユプアクチュア フリ薯・トレード プロヴィジョン ⑥大塚久雄氏は、﹁﹃猫占・.⋮は、その源泉たる宮廷とともに陵止せられ、製造工業の育成を伴う自由坂引と貧民の救櫨と ンウごールス コモ は 國 家 の手によってなされるであろう﹄ ︵一六四八年イングランド議會の宣言︶との意圖のもとに樹立せられたプロテクトレ め へ ぬ ート政府が、五平纒濟上の各部面に前期的商業資本的な專制的濁裁的構成を屡除しつつ民生制を確立して行った﹂となし︵隣、株式會肚 襲生史論﹄下巻、三=一頁︶、またつぎのごとくいっている。 事 ﹁歴史上もつとも典型的な稜育を潜けでいた産業資本家唐と、その基底とし︵これと不可離にからみあった自主農民厨︵ヨーマン リー︶、しかしてそれの肚三斜・宗教的な蕪派的表現としてのピ∴ーリタンがステユァτ卜絶罫王政をくつがえし、しかして同時に、 も も も 從二王擢と結合しつつ專制的支配によって産業資本家暦の一般的展開を抑止せんと試みていた前期的商業資本家層1一その中榎は も し む も へ も も も しり ロンドン商業ブルジョア!の支配を基本的に毒除して、太質上自己の要求するレジームとしての民主制を實現したのである。いま 少しく具休約にいうならば、絶無壬政下において前期的商業資本家暦が擦ってもって斬興産業資本家暦の饗蓮を抑止していた主要な も カ も 手段は、テユーダー王朝治下・特に前期スチュアート王朝治下において專制的な構成をもつて再編威されたギルドすなわちカムパニ モノポリヨ 一制度よびこれによる至親であったが、ピューリタンのプロテクトレート政橿はこれを慶除し、またそれが残存するかざりにおい も も も ても民主的な構成に移行せしめ、解清の方向にむかわしめたのである。﹂ ︵同三一四頁︶ この解繹の基調をなしているのはピューリタンを室として王業資本家層ないしその基底としての中産的生産者癬として把握し商人 暦を無視ないし輕覗するマックス・ウェーバー的見解であるように患われるがbそしてこれでは讃者はピューリタン革命がその太質 的内容においてあたかも産業資本家暦の商業資本に⋮封ずる反撃であったかのごとき印象をあたえられるように思われるが、虞意はは たしごどうであろうか。それはともかくとしても、この解繹は、すくなくとも電商主義的商業重心一曹はこれと封建的ギルド的商 業資本とを総別ぜす、豪者を一括して前期的商業資本となすのであるが︵拙稿﹃所謂﹁前期的商業資本﹂の無概念性﹄彦根論叢、一 通流一年一月︶一には愛目しにくいように思われる。赤裸々なブルジョア濁裁としてのプロテクター制は、多分に、軍商主義的商 業資本に通ずる非民主的な側面をもつていたのである。 ただし、大塚氏も、クロムウェルによる東インド會融に⋮封ずる猫占的特灌の賦盟ハを論ずるにおよんで、いっている。 ﹁濁占的な特 ピ山ーリタン革・命と商業ブルジョアジ雇 喝五
ピューリタン革A叩と商業ブルジョアジー 一六 許貿易鮨詰の廃止は、やっとアダム・スミス以後・十九世紀後孚に蓮成せらるべきことであって、常時はその客閣的塩、件が夫成熟で も セ リ も も あった、なぜなら、この電商主義の時代にめつて東インド會杜はなお原始的蓄積という偲越な職分をはたすべきであったからであ る。さらに・.・・この原始的蓄禎のチャムピオンは、日前にオランダ東インド風説という偉大な・むしろ自己の典型としつつあったほ どの競雫者に封抗して行かねばならなかったからである。﹂と︵L掲、三一七頁︶。 この解繹は全く正しい、しかしながら、この正しい解縄は、まさにそのゆえに、いわゆる大塚史墨の棲心に矛盾するものをふくん でいわしないか。というのは、このように﹁藻業資本のために原始的蓄積の役割をはたす﹂ ︵同三三七頁︶べく方向ずけられた商業 資本は、 いまだ産葉資本に從属するにはいたっていないが、しかも、その前提を形成する・どこまでも近代的なものとして、封建 的・ギルド的商業資本とともに彫工前期的商業資本の範瞭に︸括されることを許さぬではないかと考えられるからである。 五 M・ドップ氏は近業﹃資本主義の嚢展に歯する研究﹄においてイギリス資本主養放立史に封ずるピューリタン革命の成 某を要約するにあたり、外國貿易の部面における濁占含職政策の抑制をきわめて大きく評慣して、つぎのごとく書いてい る。 ﹁外・國貿易の領域においては、一六五一年の航海條例がイギリスの商業とイギリスの海聖業とに強力な剰戟をあたえたばかりでなく、 さらに濁占的諸會肚の特認は大いに削減された、そして一六六〇年以後におけるこれらの挫創の瞬王に⋮封ずる告訴が証擦だてるごとく、 それは描絵が至人し重要な譲歩を獲得した時期であった.レヴァント會勅は︵政府に封ずる貸付金の代償として︶その特権を確認された が、イースhランド曾祖の特許は五雲されなかった、そして薪特許欺が胃瞼商人とグリーンランド會肚に封して二布されたのは長い商 議の後のことにすぎず、その商議においては潜揃の利駒と會計の利釜との調停が試みられた。プロテクター時代の三年間、束インド貿易 は實際上自[由となり公事されて、特許諸會肚の諸敵手をよろこばせた。そして、インドにおけるその要塞と根立地のすべてを費資すると いってなされた會肚の脅迫のもとに、 一六五七年に東インド命砒の特許状が更新されたときでさえ、この更新はまた心象する利釜の委協
を共.礎とするものであったように思われる。翫賞のこの緩和の正味の選果は、貿易が旛薄し、喩呂悟格と外國貿易會薩の利潤とが低下し たことであったという若干の註擦、がある︹︵5フ闘・︻、:∼£戸、さ一.。ヨ髄二三三舘監︹、9一二昌臼鼻二一㌧三言k三ミ古言さe門。葺 低箪茸一.﹁c零6陣ミ障5 =一一も。一し。﹂ ︵と・じ。ぴ丁”oロ貯︹篤霧冒夢。⇔ミΦ剛。㎏︾三〇艮︵︶h︵芝︾犀一二三”ご℃︸︶’⇒幽ーヨ.︶ 4 見られるごとくドッブ氏は、ピューリタン革命における濁戯画蔽的貿易政策の抑制を非常に大きく評心している。しか し、内部的な産業猫占の取止と必ずしも矛盾するものではなかった重商毛義的な貿易猫占は、 一部分緩和されたとはい え、ドヅブ氏自身も認めているごとく、その主要部分において生き淺つたといわれなければならないところがある。無論 ﹁東インド會瀧を別とし、外國貿易七三の排他的立襟はひどく掘りく争され、ために、これらの團体は以前の地位を回復 することができなかった﹂︵同一七六頁︶というのは、一面においてたしかに益男であった。しかし、ドッブ氏がこの面を どちらかといえば一面的に強調しているのは、産業資本の成立を主として商業資本との封抗において捉えようとする氏の 賓本主養成立史の方法に照慮するところがありはしないであろうか。 ドッブ氏は、 ﹁共和政は、その経濟政策において、資本素義の護展にとって不可歓の重要性をもつた多くの攣化を導入 した。この期間を通じて、地方的暑夏の聲は立法部から以前よりもはるかに大きな注意を受取つた、そして同じことは産 業的利釜の聲についても眞實であった。﹂といっている︵同一七四頁︶。私はけっしてこの種の解澤に疑いをさしはさもうと するものではない。私のいいたいのは、ただ、産業資本の成立は國内的關係のみをもってしては論明できないのであっ し し し も も も し て、それにあわせて國外的側面が考慮されなければならないではないか、ということだけである。 ピューリタン革命が内部的な産業猫占のほとんどすべてを贋止し、貿易猫占を一部分緩和したことは事實であった。し かし、貿易猫占がその主要部分において生き淺つたということ、いなそれどころか、商巽資本を支点とするイギリス重商 毒義は共和政下において初めて体系化されはじめたということもまた、同様に事實であった。もしこの高槻がなかったな ピューリタン呼早A剛と商四叢ハプルジョアジー 一七
ピューリタン革A叩と商鞘束ブルジョアジー 一八 らば、いいかえると國内關係だけからであったならば、十七世紀におけるピューリタン・ブルジ・ア革命が﹁次の牛世紀 における産業資本の護達を一まだこれに類似したいかなる政治的動胤をも襲いていた他の舞々のそれを凌駕する焚蓬を ll非常に促進し、かつ來るべき世紀における産業革命のために舞台襲置をするにたるだけの威果をおさめる﹂ ︵同一七 六頁︶というようなことは、到底不可能であったであろう。私は、ク・ムウェルによって代表される共和政時代の重商主 義的獲展が、内部的塗革とならんで、イギリス資本主義の成立にとりtなかんづくそのための本源的蓄積にとり一不 可歓の序曲的重要性をもったと考える。 といって、私は、無論、ブルジョア陣瞥の内部に茎立のあったことを、なかろつく商業U金融ブルジョアジ1と産業ブ ルジョア的要素との聞に封書のあったことを、そしてこの封事が長老派︵℃ω①ωび旨。ユΩ。蕊︶と猫立派︵ぼユ①o①巳窪窃︶と の封立の本質的内容であったことを看過するものではない。そして、その点に關逸したドッブ氏のつぎの叙述を興味ふか く讃む。 ﹁長期議會の開會にあたっては、ロンドンの貿易身延肚の特灌約諸成員でさえ議害側に傾いたように思われる。少量の市参事會員は王 黙員であり、︸六四﹁年には王黛員サー・リチャード・ガー二一︵誤門空。ぎ緊=率量 ミ︶が市長に潔ばれた。しかし、市會はほとんど一 致して論結派であった⋮⋮。胃陰商人でさえ一六四一年と﹁六四二年に謎會に面して多額の貸付をおこなった︹≧9。渥鴛曾智;。3エ^︶魯昌 ︸.﹁oこぎ葺訟鍵島売島8鴇︹欄弓ぽ39二呂℃=﹁詳§寓。ぎε伸一〇ρ一⑩ωこ一6。メに︵⋮一“し、しかし議瀬戸の大義に⋮封ずる熱誠からであったか、それとも 敵となるかも知れないものを宥和するたあであったか不明である。︹實際のところは會肚の内部に二軍があった、そして多敷振は王鴬派 であったという若干の証言がある︵︵57︻●︻U・>q・︸二〇さ摩、ぎ門已9自註乙︵5一E話、鼻二困、c=ok崔μ︵︻費鉱お○﹁︵旨署2困古事℃﹃08。8﹁診ρ鐸ド︶。 もと彼等はチャールズに四万ポンド貸していた。しかし彼等が屯税と硬税とを安掬うことを拒絶して泣面、画塾は報復として内乱の勃獲 に際し彼等の島民を剥奪しπ、爾後彼等は一六四ご年と一六四九年との間に議會に⋮封し進∠で総額およそ六万ポンドにおよぶ金額を貸付 けるにいたった。︺・とにかく、ロンドン大戸糺凪の個々の成員は、クロムゥェκの支持心中に、そしてさらには彼の士宮や顧問中にかそえら
れた︹On記・戸、・﹀肌︸一下。ざ£︾・。一∫笥−−ト。・︺。けれども、全く明瞭なことは、これらのサークルが議會派中の極右の宅要勢力であったこと で、彼等は國王に墜迫を加えてその大灌の若干の部分を放棄せしめることには反封ではなかったが、その反面、王冠との完奎な鋏別を欲 せす、ネーズビーの敗北後におけるチャールズとの協商に好意をよせ、その翌年︵長老派と掲立派との方晦が分れたとき︶軍隊の要求の 頑迷な反封者であった。たとえば、 ロンドン。ドラリバーズ︵ぎ三・︾同二︾・ξ︻・鞍︶のあいだには長老振に封ずる冷淡な支持者が多かった ように思われる、しかし彼鑑、のうちの多籔の感情は猫立派に晒して熱烈に敵勤的であった︹﹀・一野㍉cζ㏄︵︸ぎ曙剛診仲¢蔓亀ド︸5b毎℃震︸㏄ 09ξ鎚ざ’・or野駈O・︺。ロンドン市の政治を牛耳っていた麦藁的隼團が本質約には革命の黛派ではなくて愛協と和解の雪景をかたちす くったことは、明白である。議會そのものにおいて聞入および金融業者の数は明かに少かった、長期議會においては三十名をこえす、プ ・テクター時代の最初の議曾においては二十名以下であった︹ン剛・旨︾・ン昏窄3ξ●負二刈・︺c議員の多敷は癖護士︵写’<︸・9。。︶もしくはカ ントゥリ。ジェントルメン︵︵ζ三ぽ.累重三[窪μ①コ︶であって、後者は疑いもなく一庵二軍要なヨ,ーマン農業者︵kCG葺窪津三艮・⋮︶ならびに エンクロージュアをおこないつつあるイスクァイァ︵窪6同ラ=ひ震鳶φ毛一罪.︶および土地を政良しつつある地主をふくhていた。しかし、 ロンドンはその貿、易と産菜とをもって革命の中心的要塞であったのに賜し、⋮・革命に封ずる犬衆的支持の大部分が引出されたのは地方 からであった。そして地方における蓬業的もしくは牛謹言約階級︵夏ぎ﹃,凶三。﹁整島−貯7一署三ぎ霞窪∼ぎけξ茎︶<︷=G窪︶と百都の 一二特灌的な貿易資本とのあいだの⋮:競雫は、疑いもなく一六四〇年代の中頃にいたって長老派と濁立派とのあいだに尖鏡化しはじめ た敵千丁係の電要な要素であった。⋮⋮一般的にいうと、ブルジョアジーのうち産菜になんらかの根をもつていた部分は、一彼等が地 方の毛織物業者︵属。くぎ阜二〇一︷︶跨ぎヨ︶であったにせよ、あるいはその資本を用いて農村工業︵︵い^三艮受書含7蓼冒︶を組織したロンドン のリヴァリ・カムパニーの商入であったにせよ一、議画聖の大義の心からの支持者であった。この例外は少籔の國王の賦議した特許罐 の所有者であって、彼等は一矛盾したことではあるが一とかく資本乗鞍的に最も進歩した企業の所有者であることが多かった。他 も も も も セ 方、産菜への積極的蓼加に最も縁遠く・土地や欝位に投資して主として金利生活者︵﹁¢同︼片一〇﹃︶となって遊ゐでいる入監は、・.⋮その莉釜 が現存秩序に結びついていると感じ、國王を支持する傾きがあった。⋮・箪命の眞實の推進力であったクロムウェルの新軍隊と濁立派と ピューリタン革命と商業ブルジョアジー 一九
ピューリタン革・命と商業ブルジョアジー 二〇 は、その主力を、地方的な製造業の中心地および周知のごとく東部ならびに南東部において優勢であったイスファイアーの諸分派と中小 ヨーマソ皿屍業者[︵臨5。。葺陣を琶缶=げ讐管長亨、h・︹=︶﹁Ψ・。︵二三9、・毒ド︹、憎︶がら⋮得てきた。クロムウェル語口身はジェントルマン曲辰鞘丁丁︵芦 ぬ2二〇5葺箭﹁三〇﹁︶であったし、彼の副府アイアートンばカントゥリ・ジ∫ントルマン兼毛織物業者であった。彼等の背後には、書写な ﹃水解化的﹄傾向をもち、かつ曾正と長老・企業屋と掲占者・﹃悪性の﹄地心とヤ分の一二のいすれをも憎悪する職人や徒弟や借地入や コッテージャーの卒伍があった。﹂ ︵同一六八一七〇,一七一頁︶ 私は、ここでドッブ氏がピューリタン信命に封ずる商業資本なかんづくロンドンの貿易資本の進歩的側面と保守的側面 との爾面を指摘しているのは、至當だと思う。しかし、その叙蓮のなかには、疑問をよびおこす点がないわけではない。 ま命、私は、長老派としての首都の黒瀬的貿易資本に封正した掲立派産業資本的要素としての﹁地方における牽業的もし くは牛産業的階級﹂は、すくなくとも典型的には、問屋制的に生面を支配する﹁商量製造業者﹂といったものではなかっ たと考えなければなるまいと思う。この種の商人は、資本制生息様式の護曇に濁して進歩的な役割を演じがたいような性 格をもつていた。すくなくとも、首都の大商業ブルジョアジーにまさるブルジョア的進歩性をもつものではなかった︵拙 著﹃資太主義成立史の原型﹄第一分冊、一九四一九五頁︶。その観点からして私は、ただ一つの事例ではあるが、ドッブ氏がヒー トン殺授︵団■国○舞oP尾O噌評Qり三戦①ミOo嵩①七二β瓢≦O﹃Q。希αぎ山二の縛ユ①2冒℃・ひQON卜⊃b。刈・︶にしたがって、﹁全く興味のある ことには、リーズの市政を支配していた富裕な追入の小集團は王窯派であったように思われるが、これに反し該市の皇民 大衆は一致して東歌派であった﹂といっているのに︵ヒ福︸七〇頁︶、ふかい興味をおぼえる。地方都布商人のこのような 保守的傾向は、ある程度一般的な性格ではなかったであろうか。事實は史家の實証にまつよりほかない。私はただ方法論 的に、産業に根をもつもののみが進歩的でありえたことは疑いないが、しかし薩業に根をもつといっても、問屋制的にそ うであることもあれば、眞個の質業家としてそうであることもあり、これらを無差別に大貿易資本に筆立させるのは圖式
的であると、いうにとどめておきたい。と同時に、その反面として、大貿易資本家といえども、農村工業の・1問屋制 的ではなくして1國民維濟的な組織者として涜業に根をもつたといわるべきところがあり、そしてそこに彼等のブル ジョ’ア的進歩性の経濟的根撒があったことを認めなければなるまい。ただ、彼等が提村工業の︵國民設濟的︶組織者たる にとどまって、所詮眞佃の産業家そのものでなかったところに、猫立派の中核としての庫業ブルジョアジーに封し、かれ ら大商業ブルジョアジーが長老派の中軸としてこれと劃立關係におかれざるをえない蓮命を背負わされていπのではなか ろうか。 くりかえしいうが、保守的な傾向をもつた長老派.商業ブルジョアジーを強制して革命に協力させたのは、たしかに、猫 立派産業ブルジョアジーであった。しかし、そのさいます確認しておかなければな直、ない点は、葎業ブルジョアジーは、 商業ブルジョアジーのーーいやいやながらではあったにもせよ一協力を確保することなしには、革命を途行ずることが できなかったということである。彼等はまだ猫力で革命を逡行ずることができるほど÷分の戒熟をとげていなかったので ある。勿論、商粟ブルジョアジーの協力は、産業ブルジョアジーに強制された・どこまでも不承不承のそれであった。し かし、それでは、濁声汲産業ブルジョアジーは徹底的に革命的であって長老派商業ブルジョアジーの保守性をわけもっと も も ころがなかったかというに、けっしてそうではなかったのであって、彼等もまた共平政の三下にまで革命の完豫を強制さ れるところがあった。いうまでもなく、三業な勤勢人民によってである。産業ブルジ。アジーは軍に上から商業ブルジ ョアジーによって支援されるところがあったばかりでなく、下からの笑話な勤言入民の支持を確保していたが、それは彼 等自身が生産者として勤勢人民の一翼をーーいいうべくんぱ指導的な一翼を1形成し、これと直結するような側面をも つていたからである。その点はたしかに涜業ブルジョアジーが、生塵と直接の結びつきをもたぬ商業ブルジョアジーに封 セ を セ へ も も も し も してもつ強味であった。もっとも、商業ブルジョアジーも、封、建貴族に封しては、なかんづく峰業のいわば生民維濟的組 ピューリタン箪・命と商凱粟ブルジョアジー 二一
ピューリタン革命と商泌菜ブルジョアジー 二二 織者として、寸感者のカテゴリーに入れられてしかるべきところがないでぱなかった。そして、そこに彼等が革命陣螢に 参入しえた根本の理由があった。しかし、彼等が生産と直接の結びつきをもたなかったことは、なんとしても致命的であ った。彼等は転婆入民の極右をしか代表することができなかったのである。これに反し、猫立派産業ブルジョアジーは、 生産.と直接の結びつきをもって虚勢人民に支持されていたかぎり、長老派をおしのけて革命を完途することに努力した。 しかし、この努力も、そのすべてが彼等のイニシアティヴによるものとはいえなかった。彼等もまた、彼等を支持する大 も へ 衆によって張制されたところがあったのである。そして、自分たちがブルジョアジーであることを自下してくるにつれ て、彼等は次第に長老派の線にまで後退していった。革命がプロテクター制をへて王政復古に密着せざるをえなかった駈 以である。そうだとすれば、革命を軍に内飢の下聞に限定することなく、長期議魯の成立︵一六四〇年︶から王政復古︵一 ヒ セ た も も 六六〇年︶までとして見るかぎり、長老派商業ブルジョアジーはピューリタン・ブルジョア革命のブルジェア累累螢から 除外さるべきではなかろう。それどころか、革命を王政復古にまで臨着せしめした戦略は一もしそういわるべきものが あったとすれば−一彼等の指導理念に山來したともいえるであろう。 ●