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貨幣の哲学と貨幣の経済学(上)
佐 伯 啓 思
1. 貨幣の経済学と価値の経済学 (1)経済価値と自然過程 かつてシュムペー画一は,「経済発展の理論」の冒頭に次のように書きしる した。 「社会事象は一つの統一的現象である。その大きな流れから経済的事実をむ りやりにとり出すのは,研究者の秩序を立てる腕である。われわれがある事 実を経済的と名づけることはすでに一つの抽象であって,それは現実を思考 の上に再現する技術的必要からやむを得ずおこなわれる数多くの抽象の最初 のものである。」 われわれが経済的事実というのはすでに一つの抽象であり,従って現実世界の 何らかの裁断に基いているという彼の認識は,ある意味ではあらゆる科学に妥 当する基本原則であると同時に,科学がいずれ跳躍しなければどちらの方向に も進み得ない踏脚台でもある。事実,シュムペータ・一は「われわれの問題は, つねに経済的事実に非経済的与件に結びつける因果関係の一般的形式を叙述す ることである。」(同訳書P29)と言いながらも,経済学の仕事を「思考的に表 現された経済機構の基本的特徴」 (同訳書P29)を描き出すことに限定するこ とによって,論理的に引き出された経済法則という自律した経済世界の上へす ばやく跳躍するのである。ワルラス以来の均衡理論は,すでに古典派が敷いた 土台の上を滑降すれぽよいとはいえ,あまりに容易に,しかも一見,見事な跳 1)J.A. Schumpeter“Theorie der Wirtschaftlichen Entwicklung”1926,(塩野谷 中山,東畑訳「経済発展の理論」上,下,岩波交庫,昭52年)引用は訳書(上)P・25 よりP.躍を披露してきたのであり,しかしまた,そのゆえにこそ,この跳躍の意味を もう一度疑ってみたくもなろうというものである。 この「跳躍」つまり本来統一的であるはずの社会事象の経済学的「裁断」の 妥当性は,これまで経済世界の自律性という点に求められるのが常であった。 経済世界が一つの法則の支配下にあり,この法則性を実現する制度や機構のも とに諸行為や利害が統合されるというのが自律性の意味であるが,同じことは 学問レヴェルでは,例えば均衡理論のように,経済システムの抽象世界におけ る論理的一貫性という形式上の姿態に置き換えられて表示された。経済機構の メカニズムに関する説明が完備した論理世界によって提示され得れば,裁断は 恣意的ではないだろうという,一種目論理実証的精神が宿っていたのである。 しかし,それにもかかわらず釈然としない何かが依然残留するのは何故だろ うか。明らかにそれは,経済システムのメカニカルな説明の整合性それ自体 が,現実世界の一定の裁断に基いている可能性を排除する手立てが,われわれ には用意されていないからである。一つの経済世界の説明の完備性は,決して 裁断の正当性を絶対的な意味で保証し得ないのである。 そこで勿論,真理は多数である,あるいはむしろ論理的には無限でありうる という相対的観点へ向けて舵を転ずることも意味がない訳ではない。それどこ ろか,相対的真理観への後退はそれ自体,全く正当なものだと思われるが,し かし,経済学がもし本当にこの主張に自己の身許を委託するならば,それは実 践的な一切と挟を分かった謙虚な知的営為に徹することを覚悟すべきなのであ る。しかし,経済学は数学と異なると主張するのであれば,現実への回路を気 紛れな悪魔の独断に譲り渡さないためにも,われわれは今一度,その存立の根 本形式へとたち帰らねばならない。 理論の視点からすれば,経済世界の自律性は,その内的メカニズムが人々の 利害を調整し,諸個人を一つの体系のもとに統合しうるか否かという点に関わ ってくるが,この統合の理論的説明は,古典派経済学から近代経済学への流れ を通じて明らかtrc一一一つの重要な前提に基いていたと言えよう。それは,貨幣の 役割に関するものであるが,一層正確に言えば,貨幣が何の重要な役割も果た
94 さないという前提であった。かくて統合は本質的に,いわゆる実物経済の作 用,つまり一種物理的な実在が構成する力学的メカニズムの結果であるとされ るQ さらに言えば貨幣は,何の役割も果たさないどころか,本来安定的構造を持 った実物経済に対する不安定化要因とさえ主張されたのである。一方でヴィク セルによる貨幣部門と実物部門の乖離に基く累積過程や,ホートレイ,あるい はハイエクらの貨幣的循環論のような貨幣的不均衡理論から,他方で,貨幣の メカニズムに関しこれらと対極の理解にあるいわゆるマネタリズムに至る論者 たちが,各々意味あいは異なれ,貨幣に対し不安定化の責務を押しつけてきた ことは事実であった。 ヴィクセル等の貨幣的不均衡モデルが:貨幣の作用を重視し,実物部門との不 可分な相互作用に着目したことは確かだが,その場合にも,メカニズムの観点 からではなく少くとも,概念的には貨幣部門と実物部門の分離が出発点になっ ていた訳で,このような貨幣/実物の概念上の二分法が近代経済学の思考の核 になっていたことは否定し得ないところである。さらにこの二分法という根本 前提が,古典派経済学による重商主義批判における暗黙の想定,つまり,貨幣 経済は「現象」でありその背後に実物経済という「実体」が存在するという考 え方に端を発していることも否定し得ないだろう。 重商主義は,明示されないにしても,貨幣を金属,財宝と結びつけることに より,その素材の象徴性に基く国民経済の統合という視点を暗示していたので あり,古典派以後の経済学がこれを批判する時,いわゆる貨幣ヴェール観は単 なる貨幣の位置をめぐる立論ではなく,経済を見る視点そのものの問題だった のである。しかしまた,現象(形態)と実体(内容)を分離し,実体の側に大 きく重心を傾け,貨幣を現象の側に置くという発想は,古典派による重商主義 と重金主義の強制的な同一視に依存しているとしても,上の思考形式そのもの は,例えばロックが自然状態と社会状態を区別した時にそこにすでに見て取る ことが出来る。ここで聞題なのは,ロックの様々な政治的,哲学的議論の内容 というより,一つの思考の型としてのロックであるが,それはまだ端初的であ
るがゆえに典型的でもある。 彼の議論の骨格をわれわれの議論に翻訳すれば,経済の実体は自然状態にお ける物理的自然に作用する人聞労働に直ならず,これに対し,貨幣は有用なも のの交換において発明された手段にすぎない。しかし,一旦貨幣が使用される に至るとそれは,所有の不平等を産み出すため,人間は自然状態での自然的自 由や労働生産物を確保する権利を保護する政治権力を約定しなければならな い。こうして社会契約に基く所有権の相互保障と政治権力が正当な論拠を持つ に至るとされることは言うまでもないが,この論拠を支える思考の形式は,本 来の人間の平等を実現しうる自然状態と,これに対し貨幣的経済生活の不平等 化や権利の侵害を排除する政治権力が流通する社会状態との対比に他ならな い。こうして,貨幣と政治権力は,社会においてちょうど対極の位置に立つと 同時に,社会を構成するに当って人問の発明した「道具」と見なされる。 この理論的構図は他の多くの社会契約論者と同様,独自の合理的精神の手に なる単純さと明快さを備えているのであるが,この構図が経済に関して意味す ることは,労働に基く人間生活の必要物質代謝の過程こそが人間社会の本質に あり,貨幣,所有権,政府等の人為的制度は,いわばこれに対する表面にすぎ ないというものである。 同様のことは,ロックが言語を「内的観念の記号」と言った時,言語にもあ てはまる。言語は,彼が観念と呼ぶ,経験のみを通して得られる外的世界を表 示する手段なのであるが,この言語観の特質は,経験を通してであれ何であ れ,言語以前に,人間が自己の内部で産出する観念が存在し,言語はこれを表 示して社会的な意思伝達を容易にする「道具」にしかすぎない,という点にあ る。 「内的想念」は,社会的媒介物である言語より以前に,それとは独立に存 在することによってちょうど自然状態における自由な労働=所有と同じ位置に あり,これに対し言語は,ちょうど財産権と同様にそれを写し出す血相の記号 にすぎないとされているのである。 ロックのこの二面性,つまり,自然法思想に源流を持つ社会理論と,経験主 義的な哲学理論との表面上の対立を,根底で結びつけている思考の形式がある
96 とすれば,まさに自然過程(実在)を本質と見,人為過程(道具)を形相と見 るものの見方ではなかったろうか。だから正確に言えば,ロックは確かに哲学 において言語を,また統治論において政府,権利,貨幣等を論じたには違いな いのだが,その隠された構図はむしろ逆転しており,言語において外的実在の 表示たる観念をまた社会において自然過程を論じたと言うべきであろう。 ところで,この考え方を経済に適用した場合,経済の実体を,例えば自然的 労働に基く必要生産物の産出,剰余物交換という自然過程として理解出来ると しても,何がこの実物経済の統合を可能とするのだろうか。言うまでもなくそ れは理性の命法である自然法によっている。自然法は人間の内なる秩序の法と して自然状態をホッブズ的世界から保護すると解せば,労働生産物の占有とそ の享受,労働から発生する生産物の価値こそが,まさにこの段階で自然法を経 済に結びつける支柱となっているのだから,この未だ誕生間もない労働価値説 がまさに経済を統合しま:える論理的土台となっているのである。 勿論,この労働価値説は,マルクスのように抽象化され,資本主義的機構の もとで実質的な内容を盛り込まれたものではなく,またリカードのように価値 の計算単位とも異質で,むしろ,いわゆる労働全収権のような,労働が自然を 媒介としてもたらす人間の間の質的関係のいわば道義的あり方を表わしている と考えられよう。この道義的命法が当然のごとく一切の出発点となりうるの は,まさにそれが,自然状態における関係の当然のあり方と考えられたからに 他ならない。こうして,ここに至って,価値は社会のレヴェルではなく,自然 のレヴェルに位置づけられることになったのである。同時に,貨幣の経済学は 価値の経済学に席を譲り渡したと言ってもよい。 自然法の概念が論理的に論証され得ない以上,そこにあるのは,少くとも自 然状態という仮構のもとでは人間と自然の直接的な関係(労働)こそが,物質 的生活の自明の出発点であるという一般的了解にすぎないと思われる。とは言 え,この追究点の自明性は実は重要な意義を持っていたと言わねばならない。 それは本来,一個の抽象にすぎないにもかかわらず,むしろその自明性のゆえ に,それを経験に向かって橋渡しするのである。この自明性の彼方にある自然
法は絶対命法であるから,労働価値説が自然法へ向かって経済世界を譲り渡す 時,経済世界は普遍的で絶対的な基礎によって支えられることになる。自然過 程は,労働価値論を通して絶対的なものの総代理人として経済世界の深層に沈 着する。従って経済理論が労働価値説を,自らを支える重心に据え置いた時に は,その背後に自明であると同時に絶対的である世界,経済活動の全体を現象 として押しやってしまう実体の世界,つまり自然過程を暗に想定していること になる。 自然過程の自明性は一つの虚構であるにもかかわらず,いわぽそれ自体形而 上学的な超越性をもって,経済世界の因果をすべてこの方向に引き寄せてしま うのである。ヴェブレンが,経済学に密む自然法的思考を目的論的因果に支配 されたアニミズムと称して論弾を放った時,彼のいうアニミズムは,まさにご き のような自明性の世界を記するものに他ならなかったのでないだろうか。もし そうだとすれば,彼は経済学が実証主義の表看板の裏に隠匿する一種の形而上 学的超越性,絶対的基準のアプリオリを批判しようとしたと言えないだろう か。 ロヅクや重農主義者によって半ば無自覚的に提唱された労働価値説は,古典 派に至って経済理論の礎石とされたものの,新古典派の効用価値論者によって 批判されることになる。しかし,ロックが真にわれわれを導いたものが,労働 価値説を成り立たせるような一つの理論的構図そのものだと解釈すれぼ,果た してこのような構図自体は批判されたと言えようか。これが次の問題である。 (2)新古典派理論のマテリアリズム メンガーやジェヴォンズらが労働価値説を否定した時,一方では,生産要素 が複数である限り価値の唯一の源泉などあり得ず,それゆえリカード,マルサ ス論争以来のテーマである労働の単一の価値尺度という考えに対する否定的評 価があると同時に,他方では,労働価値説に基くマルクスの剰余価値論に対す る批判的意図が内在していたと解しても決して不当ではあるまい。しかし,そ 2) T.Veblen“The Preconceptions of Economic Science工,E,皿”in.‘‘The Place of Science in Modern Civilization]’ 1919.
98 れはさておき,彼らが,客観的価値論の客観性を,実は理論体系から見れば根 拠のない断定にすぎないと断罪した時,彼らは,メンガーの方法的自覚がそう であったように,経験主義,要素論的方法の側に論陣をはるという明確な意図 の支配にあったのである。 しかし,経済学の流れが社会科学の素朴な経験主義への漠然たる傾倒から, 方法的精緻を目差した仮説一演繹一検証の自然科学的実証主義への「近代化」 の努力であるという近代経済学者の図式に従うならば,効用価値説の実体変量 である効用自体が,計測不可能という実証的観点から邪魔者扱いされるに至っ た経緯は,ある意味で当然のことであろう。もともと問題は,客観価値論か主 観価値論かにあるのではなく,労働価値に内在する計測不可能な実体が理論に 対して立ち現われる一種の超越性を拒否する点にあったからである。 では,顕示選好理論のような形式化の努力によってこの超越性と絶縁可能か というと必ずしもそうではない。効用概念の否定の上に立つ選択理論は,無意 味なトートPジーに陥ることなく厚生経済学上の命題に妥当性を与えるために は,例えば選択行動を枠づける合理性だけは疑い得ない準則として仮定せざる を得ないからである。しかし,これはやはり,本質的に計測不可能な文字通り の「価値」の領域に属すると言わねばならない。というのは,行動の合理性 は,例えば生理学的な根拠でも発見されない限り,社会理論の平面ではあくま で,「合理主義」という価値基準の共有を意味しているにすぎないからである。 従って,実体としての効用概念の否定は,合理的行動主体としての個人の実体 化か,あるいは本質的に同じことだが,人々に共有された合理主義という価値 の実体化を出発点にしなければならないのである。ここでは一つの実体概念が 他の実体概念にすり代えられただけで,問題の本質は変わっていない。 ところで,消費の場ではこのような合理性は,言うまでもなく欲求充足過程 に付着しているのだが,ここでは欲求充足は,例えば地位,名誉やそれをめぐ る威信財といったいわゆる社会財や象徴財の充足ではなく,あくまで物質的な 過程と見るべきであろう。あるいはより正確に言えば,社会財を含めたあらゆ る財貨を,社会的なものあるいは象徴的なものとして扱うのではなく,物質的
なものとして扱うということである。財貨の社会的,象徴的理解はここでいう 個人的合理性の考え方に容易に適合しないからである。 かくて価値の形式化による価値概念自体の消去という試みは,その意図に反 して,価値にまつわるある種の超越性,実体性を合理的な物質欲求充足という プロセスそのものの中に温存せざるを得ないのである。しかし,ここまでくれ ば,超越性はもはや価値というより,プロセスのあり方自体の様式を指してい るとも言える。ここでわれわれは,もう一度,前の表現に従えば,背後に忍び 寄る一種の自明なものの足音を聞くことになる。 新古典派の価値論の根本前提は,人間は合理的な物的欲求充足過程を,そ の一切の活動の根本動因としているとする一種の自明な世界が出発点として選 ばれている点にある。人間の合理的欲求充足という出発点は,検証は不可能 であっても,それが基本的な生物的事実そのものであるという信念によって人 間の「自然性」の世界に属し,それゆえ普遍的な虚構の世界に属すると言え よう。 だが,価値の理論における自然過程の仮構の問題は消費理論だけの問題では ない。価値が経済の世界全体の支点であり,同時に視点であるとすれば,この 理論前提は新古典派の理論的骨格そのものの問題でもある。そこで,同じこと を少し観点を移動して眺めてみよう。 新古典派の人々の努力が,少くとも意図の上ではまさしくこの自然過程とい う一種の観念論を否定することに向けられたとすれば,それに代って彼らが持 ち出した経験主義的パラダイムは,経済世界を力学的均衡,機能の相互的適合 の世界として見るというものであった。例えば,貨幣は交換を容易にする単な る媒介的手段にすぎず,価格は,価値のような実体的基盤に根をおろさない稀 少性のシグナルにすぎないと論じることによって,経済世界は価値の議論から 分離されたのであり,顕示選好理論はまさにこの分断の役目を負わされていた のであった。もし,ここでもなお価値という概念を使うなら,それはむしろ, 経済世界におけるあらゆる財貨や制度が相互に対して持つ関係,つまりシステ ムにおける有用性,ピアジェのいう「機能的効用」を意味していたと考えてよ
100 きう かろう。 機能的効用の観点からすれば,当然,貨幣の意味は,交換体系の均衡化過程 において種々の不確定要素や偶然的要素を除去するパーソンズのいう「一般化 されたメカニズム」ということになろう。この「一般性」のおかげで,貨幣 は,特定の機能的用法に限定された財貨とは異った高度な機能的価値を持つと 同時に,その用法をシステム全体との関連で規定されているという意味で,財 貨のコミュニケーションにおける共有されたコードと見なしてよい。パーソン ズに従えば,「貨幣は商品ではなく,コミュニケーションを通じて期待と委託 のを制度化する非常に特殊な様式(mode)である。」 ところが機能主義的思考を徹底すれば,実は貨幣そのものが存立の根拠を失 なわざるを得ない。というのも,貨幣はその機能的等価物で代置可能となるか らである。例えば,新古典派の合理的期待形成理論のように,均衡化過程で果 す貨幣の役割を,正確な予測とそれを可能とする科学的な情報に代置すること によって,貨幣は単なる名目上の計算単位にすぎずその実質的意味は無限にゼ ロに向って下降する。あたかもマルクスの共産主義の理想の一部が他ならぬ市 場経済のただ中で実現するかのように。 このことは別の面から見れば,貨幣や情報の機能的役割は,行為準則や活動 ルールを定める一種の制度であると解すれば一層明確になる。政府のような政 治制度も同様であり,これらの制度をシステムの機能性の観点から評価し,人 為的にそれを変更したり形成したり出来るということなのである。ところが, ハイェクが「構成主義」と呼んだこの考え方は,明らかにロック以来の図式の 延長上に乗っていると言わねばならない。貨幣,政治制度,情報はちょどロヅ クの,財産権,政治権力,言語と同様に,何かを実現するための人為的な手段 と理解されており,人間は約束によってそれを作り出し,ルールを定めて利用 3) J. Piaget. “General Problems of lnterdisciplinary Research and Common Mech− anisms”1970,(芳賀,佐藤,佐藤訳「現代科学論」昭55年 福村出版) 4)T.Parsons“Theories of Society”1961,(倉田和四生による部分訳「社会システ ム概論」昭53年 晃洋書房)引用は邦訳p,63.
することが出来る。ロックが自然法の要請をこの目的としたのに対し,機能主 義は体系の機能の要請,つまり体系の恒常性の維持を目的としているのであ る。ピアジェは,諸機能が実現する体系の恒常性を「構造」と呼び,この構造 の安定性に寄与する手段的価値を「目的性の価値」と呼んだ。従って,貨幣が 「目的性の価値」を持つ時,その機能の彼方に道具主義が見失った隠された目 的が存在するのである。 しかし,この「目的性の価値」が自己を委ねるシステムの安定性を,システ ムのメカニズムの背後にある「構造1という概念で表現してみても問題の本質 はあまり変わらない。システムの表層で常態なくからみ合う諸要素の機能的関 連の背後にある抽象化されたパターンは,社会理論の場合にはむしろ「社会構 造」と呼んで「構造」と区別しておいた方がよさそうであるが,果たして,こ れらの機能的関連から独立して「社会構造」を仮定することが一体可能なので あろうか。「社会構造」があらかじめ想定されるとすれば,その実質内容は何 によって盛り込まれるのであろうか。「構造」は本来,経験から離れてはあり 得ない。それは,社会の深層に固定しているのではなく,表層に常に付着して いる。ただ分析的に取り出した時にのみ,それは表層の動きゆく絵模様に隠さ れた図柄の意味を明らかにする。つまり「見えるもの」を通して「見えないも の」を明らかにするのである。何らかの「社会構造」を社会システムのメカニ ズムの背後に仮定することは,理論の形式としては,結局,自然過程の自明性 の仮定と大差はなくな:るであろう。 しかしまた逆に,新古典派のように,「目的性の価値」が志向する終局点を システムのメカニズムの結果そのもの,つまり諸機能の適合性を示す「均衡」 概念と同一視するのもやはり不適切であろう。ワルラス流の市場均衡理論は, 必ずしも新古典派の論者が強調するほど自足した体系とは考えられない。むし 5) ろ,経済以外の社会的な何ものかに向かって常に開放されているし,また擦り に一つの近似として,その世界の自足性を仮設出来るとしてもただちに次のよ 5) この点については拙稿「交換における公正観念について」(「修道商学」第21巻第2 号,昭55年,広島修道大学商経学会)を参照されたい,
102 うな問題が生じよう。つまり,資源の最適配分問題を最:も形式的に定i義すれ ば,それは数学的最適計画と区別し得なくなる。これが経済にとって内容空疎 な虚形式に陥らないためには,このような形式世界の適用を限定する事項が所 与とされなけれぽならないはずである。ここでわれわれは再び,あの自明性の 出発点へつれ戻されることになるのである。 というのは,もしこの形式に内容を与える出発点があるとすれば,おそらく それは経済問題が本質的に人間生存の物質的側面に限りなく深く根をはってい るという隠された信念に他ならないと思われるからである。このような物的生 存のレヴェルで,つまりパーソンズ流の言い方をすれば,行為体系の中の社会 システムの適応機能が引きF受ける資源一処理システムのレヴェルで,人間は最 高度に合理的に行動するという信念に他ならな:い。 近代経済学は表面的には確かに,ポラニーが形式主義として批判したよう に,数学的最適問題とは区別し得ないのだが,他面ではその背後に,人間の物 質的生存,物的欲求充足という一種のマテリアリズムが隠されていることもや はり事実なのである。いわば,彼らが用いる筆致がいかに形式的であっても, 彼らが描いた筆跡はマテリアルな姿をとどめている。 勿論,このマテリアリズムは,ポラ田代のサブスタンティヴィズムほど歴史 的経験主義と手を結んだ人間の物質代謝過程という様相は示していないが,し かし,経済問題を物質的な問題つまり実物経済の動きに関する問題へ強固に 還元する自明の前提というべき立場にある。機能主義的な形式論理の平面に意 味を付与し,それを支えるアルキメデスの点があるとすれば,その体系全体が 人問の欲求充足過程であるとする意味づけなのである。言い換えれば,人間の 相互作用を,例えばアリストテレスの「善」のような概念に立脚させるのでも なく,アレソトの「活動」のような観念につなぎ留めるのでもなく,またウェ r・一 ・〈 一のように,宗教的理念の世界に碇を打つのでもなく,まさに,物的世界 における欲求充足という物質的自然性に支えを匂い出すという意味でマテリア リスティックなのである。だから,この物的欲求充足を主観的レヴェルで効用 概念によって理解しようとしたメソガーやジェヴォンズの価値論は,形式上は
解消の方向にありながらも,実質的意義において,今なお新古典派の理論構成 上の出発点と見なしても不当ではなかろう。 このように見てくると問題の所在はかなり明確になってきたのではないだろ うか。新古典派経済学が古典派価値論の正統な後継老たることを拒否した時, 問題は何が変わったかではなく,むしろ,何がそのまま受け継がれたかという 点にある。変化したのは価値論の内容であるが,しかし価値をあくまで自然過 程の土壌に配することによって,人為過程である経済世界の石づえにするとい う根本図式は何ら変更されていない。対象を論じることは容易だが,対象を論 じる形式を自覚するのは困難なことである。それは無意識の思考の型を作って いるからである。従って,ここで問われているのは問題(価値)の内容ではな くて,問題(価値)を論じる形式の方である。問い方こそが患われているので ある。貨幣への問いはまさにそのような設問を回避し得ないような種類に属す るのである。 ・ この意味でわれわれがここで論じようとしている問題は,通常の議論より一 歩退いたレヴェルにあり,あるいは見方によっては通常の経済学を逸脱したと いう意味で超越論的と言えるかも知れない。とはいえ,われわれはそれをすぐ さま哲学や認識論に結びつける訳にはいかない。価値を自然過程におき,貨幣 を人為過程におく二分法は,ある意味では経験論と合理論に共通する一つの思 考形式と言いうるからである。なぜならそれらは,その方法的対立にもかかわ らず,自然的な物理的実在が対象世界を構成しており,人間理性はそれを捉え る形式(道具)であるという根本理解を共有しているからである。人聞理性の この形式を「言語」であると言った時,言語と貨幣は,認識客体の実在世界と 欲求対象の自然的世界から切り離された単なる手段,あるいは観念や価値の 「乗り物」にしかすぎなくなる。貨幣から切り離された価値の世界や認識形式 から切り離された物自体の世界の自然性は仮構の世界にすぎない。従ってこれ を自明なものとして出発する議論は,いかに経験主義の既定路線をひた走ろう とも本質的に観念的なもの,絶対的な何かに出生証明を預けているのである。
104 自然過程と人為過程を区別する,あるいは実体と現象を区別するこのような 議論においては,価値と貨幣あるいは,価値と価格は次元の上で切り離される ことになる。労働価値説に基くマルクスの転形問題はまさにこの乖離を明確に 意識したのだが,実は効用価値論に基く近代経済学においても,本当は問題は 何ら解消されていないはずである。例えば,均衡の概念はいわば計算上の観念 にすぎず,何らの社会的観念へも投錨していないという意味で,均衡価格は全 く価値的な基盤を持っていない。だから,このシグナルは,奇妙なことに何ら の社会性にも根差さないという意味で架空の世界に属し,本来の意味で客観的 とは言えない。何らかの客観化された公正規範に寄り添う形でのみそれは客観 的と言えるはずである。 さて,古典派,新古典派を通ずる経済価値の問題はまさに,それらが暗黙裡 に踏襲してきた思考形式の問題であると言えよう。この思考形式はヴェブレン が「プリコンセプション」と呼んだ,理論を根本で支える先験性の一例であ り,このプリコンセプションによって,貨幣の意味は経済の題目の外部へ放郷 されたのであった。 しかしまた逆の見方をすれば,経済学が貨幣を正面から扱わないことには理 由があるとも言える。貨幣はまさに経済世界を環流する媒体なのだが,それは あまりに経済世界に密着しすぎているがゆえに経済学では扱い切れないのであ ろう。通常の科学が,自分自身の前提の意味を問うことは不可能に近いからで ある。従って貨幣の意味を理解するためには,経済学からしばし離れなければ ならないのは当然の義務である。 2. ジンメルの「貨幣の哲学」 (1)経済世界と認識世界 現象あるいは形式の背後に実体が存在するという確信は,形式と実体の二元 論で事象を理解しなければならないという相対的視点を意味しているのならば 何ら疑問とすべき点は存在しないのだが,実際にはこの確信は,実体の側に存 在の絶対の主導権を付与するという意味で,むしろ一元論的な理論構成を持っ
ているのである。問題はこのような一元論的な絶対化にあり,具体的事象が常 に存在の相互の関係と,それ自身の内に持つ多様性を孕みつつ存立している限 り,この一元化は,何らかの観念上の構成物を,経験的事象の世界で絶対的地 位にまで祭り上げるという,それ自体の意図に反した観念的イデオロギーにま で転化する危機を常に内蔵しているのである。 経済学における経験主義への根強い傾倒は,前述のような「自明性」を,は からずも絶対的な基点とすることによって,やがてこの危機にまき込まれるこ とを意味する。前節で自然過程と呼んだ自明性は,その経験主義的な自明性の ゆえに,一つの観念でしかあり得ないという逆説が成立するのである。近代経 済学の場へ結実した経験主義と合理主義の合体は,まさに認識形式の以前に事 物の存在の絶対性を仮定するという点で,ホワイトヘッドが「物質主義」と呼 んだ一種の物理的実在論の出発点において実現しているのである。 ジンメルの「貨幣の哲学」の意義は,貨幣の文化的意味や作用に関する万華 鏡のような多彩な議論の枝葉にあるのではなく,また,その哲学的思弁そのも のにあるのでもなく,まさにこのような存在の絶対性,存在の自明性の論理を くつがえそうとした点にある。貨幣を哲学として扱うという一見奇異な彼の論 弁形式は,それゆえ,貨幣を哲学の論題にするという意味ではない。そうでは なくて,貨幣や経済を論ずる際の前提を,いわば自身の理論に再帰せしめるた めには,前もって何らの実在を仮定し得ず,論弁の形式は必然的に相対主義的 な見方を要求するということにすぎない。このような相対主義が,認識の世界 の相対主義に通ずることは理の当然であろう。従って,ここに存在の自明性, 絶対性の拒否という理論動機を共通の出発点として,認識の世界と経済の世界 の論理.ヒのアナロジーがうち立てられるはずである。このようなアナロジーを 通して経済を見ることがジソメルのたてた問題であった。だから彼は,経済あ るいは,貨幣を哲学しょうとしたのではなく,それを解釈しようとしたのであ る。 ではこのアナPジーはうまくいっているのであろうか。しかしさらに言え ば,この問いはそれほど重要ではない。むしろ問われるべきことは,このよう
106 なアナロジーが何故可能なのかということである。レヴィ=ストロースは,言 語体系と文化体系の間のホモロジーというウォーフ仮設について,同一のレヴ ラェルに置き得ない二つの体系の構造比較は無意味であることを述べている。こ れは勿論,文化と言語の位置関係そのものが,そのままでは全く曖昧であると 同時に,両者の間に,方法的にもまた程度の上からも同等の分析作業が施され ていないという理由からであるが,しかし勿論,レヴィ=ストロースは両者の 比較そのものを無意味だとして訳ではない。彼が言うのは,相関関係をうちた てる対象の分析レヴェルのことなのである。文化を,言語,宗教,芸術といっ た種々の人間活動の複合と考えれば,言語は文化の一要素にすぎない。もしこ のような見方をすれば,両者のホモロジーは極めて困難であろう。部分自体を 一つの全体としてあらかじめ全体の中から取り出すことなしに,部分と全体の ホモロジーはあり得ないからである。 従って,二つの異分野,あるいは人間活動の二領域に関する相関の原理が妥 当するということは,対象の問題というより方法の問題なのである。認識が常 に,方法つまり形式に従った対象了解だとすれば,この限りでの認識の問題な のである。人間活動の諸相の可能な様々な裁断は,このようなホモロジーに基 く構造的方法によって始めて恣意性から免れ,同時に全体へ関連づけられるこ とによって一つの認識に達する。 もう一度先ほどの問いに戻ろう。経済世界と認識世界のアナロジーが,勿 論,レヴィ=ストロースの言うような厳格なホモロジーとは意味あいの上から もまた程度の上からも大きくかけ離れているとは言え,少くとも単な:る思いつ き以上の何らかの普遍性を暗示し得るとすれば,それはどの点においてなので あろうか。言い換えると,経済をどのように理解した場合に,それは認識世界 とのアナロジーの必然性を獲得するのか。ジソメルが経済を物質代謝という自 然過程に支えられたものとも,また資源配分の決定様式とと理解せずに,その 本性を貨幣において見ようとしたことの意味がまさにこの回答になっているの 6)C・L6vi−Strauss “Anthropologie Structurale”1958,(荒川,生松,川田,佐々木, 田島訳「構造人類学」昭47年 みすず書房)所収の論文「言語学と人類学」を参照。
である。しかしその議論の前に,このアナロジーに関するジソメルの論旨の妥 り 当性について少し論じておこう。 ジソメルが素朴な実在論的な存在論と同時に,カント的な先験的主観の絶対 性に対する批判を意図して認識の相対主義を唱えた時,その根本の考え方は, 彼自身の言葉によれば, 「自己を自己自身の彼方におくこと」(P130)であっ た。言い換えれば,相対主義とは,主体の無限の対象化という作業に他ならな い。意識にとって,認識の「内容」が与えられた時には同時に,自己への「反 省」の契機が内包されており,こうして生じる主一客の分離が認識を一段階上 に押しやると言ってよかろう。この作業は,論理的には無限の操作であり得る ので,終局的に存在するのは実証的な実在ではなく,主体一客体という形式 と,それによって常に対象を,現象であり同時に実体であると見なす,いわば カテゴリカルな思考方法だけである。この意味は別の言い方をすれば,意識に とって「対象」が立ち現われてくるのは,意識が事物に対してある特有な仕方 ㌦でたち向かうということにすぎない。認識は,事物の模写ではなくて意識と事 物の問にうち立てられる関係だということである。 しかし,この場合には,論理的には無限に続くこのカテゴリカルな思考の究 極の果てには,何か絶対的なものが仮定されていなけれぽならない。さもなく ば,相対主義的な認識の運動そのものに意味を与えることは出来ないからであ る。従って,相対主義は絶対的なものというカテゴリーを決して拒絶する訳で はなく,むしろそれは絶対的なものを把握するための方法ともみなしうる。認 識のレヴェルを無限系列での主一客の展開によって順次高度化し抽象化するこ とによって,終局的にこれらの認識のハイラーキー全体に妥当性を与える究極 7) ここで関連のあるジンメルの著書として,主として次のものによった。G. Simlne1 “philosophie des Geldes”1900,(元浜J居安,向井訳「ジソメル著作集2一貨幣の 哲学(分析編)」昭56及び,居安訳「ジソメル著作集3一貨幣の哲学(総合編)」昭54 年 白水社)“Lebens anschaung・Vier metaphysische Kapitel”1918,(茅野訳「ジ ソメル著作集9一生の哲学」昭52年 白水社) なおジソメルに関する引用は「貨幣の哲学」(分析編)訳書により,ページ数のみ を記した。
108 命題(絶対的なもの)が要請される訳である。 しかし,ジンメルの相対主義の意義は,相対主i義の原理が絶対的なものにも 適用され,絶対的なものはあくまで他の認識水準との対比で意味づけられると する点にある。全体の妥当性を与える究極命題のあり様を「真理」と表現する ならば,ちょうど公理論的体系全体の真理性が,それ自体の内部では本来証し 得ず,ただ存在するのは諸命題相互の相互検証による妥当性に関する一種の壮 大なトートロジー体系であるように,認識の妥当性つまり「真理」は,高々, 認識要素である命題の相互関係の適合性を示しているにすぎな:いのである。 「すべての表象はただ他の表象との関係においてのみ真である。」(P105)の だから,当然「真理とは関係概念である。」(P114) 認識の「果てしない遡源」は,表象と表象との関係を,主観=「表象するも の」客観=「表象されるもの」あるいは「妥当性を付与するもの」と「妥当性 を付与されるもの」という二元論で自己展開してゆくと考えられるが,この主 観をカントの先験的主観のような「形式」と考えれば,この二元論に「形式」 と「内容」というカテゴリーを与えることも出来よう。「内容」の立場からす れば,認識とは,次々とそれ自身の妥当性を保証する「形式」が,自己超越的 に産出されるプロセスということになる。この意味で確かに,認識作用は「自 己自身を越えた一個の立場を必要とするのである。」(P128) 従って,相対主義が無限系列の中にある絶対的なるものを相対主義的に,つ まり関係概念の中で把握しようとすれば,高次の認識の最終的局面で,ちょう ど自己(内容)から自己を正当化するもの(形式)への写像が自己自身へと収 束する不動の点が存在しなければならない。自己の合法性を自ら保証するこの 「自己原因」の存在があって始めて,それとの関係において他の命題は根拠を 持つことになる。 ところで認識の次元における「自己原因」は,経済の世界では「貨幣」に対 応すると考えてもよかろう。「形式」としての「貨幣」は,ただ自らの作業 (交換媒体という作業)のうちにのみ,自己の「内容」すなわち「価値」の根 源を見い出し,他の財は貨幣との関係のうちに「価値」の根拠を見い出すから
である。 しかし,アナロジーの以前に,分析上等価なはずの経済世界の論理がある程 度明確にされていなければならないとすれば,貨幣は果たして経済世界でどの ように論じられているのだろうか。認識が現前する事物をありのまま受容する のではなく,主一客の分立形式を通す限り,主体と客体の間に隔りが存在する という表象作用の特性は,経済世界で「距離」に基く主客の分離と表現され る。 「距離」の概念を用いることによって,主体の側の欲求,客体の側の価値 が,相対的な同時形成的な関係概念であり,それゆえ,本来的な欲求されるも のあるいは事物に宿る価値そのものというカテゴリーはあり得ないとするジン メルの考え方は充分頷ける。そこで次に,彼はこの「距離」の具体的形態を 「交換」であるとし,交換の文脈上での価値の客観化を主張するのだが,しか し,財の価値が「距離」つまり現前しないものへの意欲,困難の克服への意志 によって発生する客体の経済的意味だとすれば,これを交換の文脈に置いてみ ても,それだけでは価値は客観的とはならない。 ここでいう価値の客観性とは,例えば労働価値のような諸財の間の質的相違 を越えた通約性を指すのではなく,逆に,まさにわれわれが前節で述べた自然 過程の自明性に基く価値という考え方の克服にかかっている。つまり,財の経 済的意味が,その財の属[生に還帰することによって,それが個々との直接的関 係の中へ解消される条件の欠如を意味している。あるいは,主観的な基準に基 いて財の意味が発生するような状況の克服と言ってもよいだろう。 しかし,ジンメルの経済価値の考え方は,たとえ「距離」を「交換」と言い 換えても,財はあくまで主観的な条件にまといついて経済世界へ侵入してくる のだから,これからそのまま客観的価値に転化することは出来ない。例えば, ジソメルの出発点から始めても,財の価値は,社会化されない偶然性を本質的 契機とする物々交換によっても発生することになる。このような単純な財と財 の交換,つまり社会化された形式という確固とした反復性と規則性を有しない 交換は, 「距離」の概念が本来否定しようとした自然過程,自明性の世界にあ り,この世界では価値は未だ客観的とは言えないのである。
ユ10 そこでジンメルは,価値の客観性を完成させるべく貨幣の存在を要請する。 諸財は貨幣とのみ関連づけられることによって,人間の欲求の主観性や労働の 個体性という直接的文脈から解放され,交換という間接的文脈で用法の媒介的 性格を得ることになる。貨幣は「形式」であり,諸財はこの貨幣によって妥当 性(価値)を与えられる「内容」となるのである。 このPジッタは形式的に見れば,財の間の交換あるいは価値と価値の対峙と いう文脈から,貨幣の生成を説くという形になっており,ここにマルクスの価 値形態論,あるいは一層素朴でかつ多分にプラグマティックな形で展開される, 物々交換から貨幣経済への移行という新古典派経済学の議論の等価物を見い出 すことは確かに出来よう。しかし,このロジックは,彼の相対主義の見地から すれば,明らかに後退であり一つの論点矛盾でさえある。認識の相対主義が説 くところによれば,下位の諸命題はより高次の命題によって妥当性を与えられ る。つまり「形式」と「内容」は不可分だということである。それゆえ,財== 価値のレヴェルでの交換は,価値の関係的性格を浮き出させるものではあって も,それは,「内容」と「形式」が切り離されて存立するかのように想像する 想像力の産物にしかすぎないのである。r形式」から切り離された「内容」は その直接性のゆえに自明なものになるが,また妥当性の根拠を失うがゆえに観 念的な虚構に転落する。 ジソメル自身も実は,このような論難に対する無意識の防御を施している。 と言うのは,彼の言う交換は当事者間の偶然性に基く物々交換ではなく,社会 化された形式だからである。交換は「社会学的形態」であるがゆえに客観的な 規則の体系である。コミュニケーション理論的な言い方をすれば,価値という メッセージを伝達するためには,コードである社会的規則の体系が存在しなけ ればならない。 なるほど彼の言うように,「価値あるものになるためには,客体は絶えず自 分自身から離脱して,他の客体との相互作用の関係に入らなければならない。」 (P223)そのために交換という文脈が不可欠だとしても,では一体,社会的形 式としての交換という概念はどこから出てくるのだろうか。しかしこれ以上ジ
ソメルを追い込んでも無駄であろう。彼は確かにある点で問題の核心を捉えて いるのである。価値とは人間と自然(対象)との関係ではなく,人間と人間の関 係(相互作用)において発生するのであり,また交換は,カントにおけるカテ ゴリーが認識の根本形式であるように,社会の超主観的な根本的形象な:のであ るという理解は,価値の発生の根源を越えた論点を提供しているからである。 それゆえ,ジソメルの論理上の難点はそれほど重要なものではない。むしろ 前述のように,認識世界と経済世界のアナロジーの根源を探ることの方がはる かに重要なテーマなのである。ジンメルはしかし,彼自身のこの議論の根源に 目を向けることはしなかった。このアナρジーは,彼にとっては極めて自然な ものだったと思われる。では彼が潜在的に持っていた確信は,一体何に基いて いたのであろうか。ここで,ジンメルは経済を哲学によって解釈したのだが, われわれはジンメルの解釈を解釈しなければならない。 貨幣が経済世界における価値を客観化するとすれば,認識世界の客観性を保 証するのは何であろうか。認識世界での個々の命題(表象)の妥当性は,その 相互関係の中で決定されるとしても,体系全体の超主観性はいかにして達成さ れるのだろうか。この問題に対する解答は実は無意識のうちに前提されている と言ってよい。彼が当然と見なしている考え方,認識とは表象作用に他ならな いという考えの中に,解答はすでに用意されている。さらに言えば,認識とは 「言語」という表象を用いる無限の対象化の過程だということがこの解答なの である。 こうして,認識世界の客観性,超主観性を最終的に可能とする根拠は,言語 の共有という事実のうちにこそ見い出されるべきである。認識とは,素朴な実 在論が言うような外的事物の摸写ではなく,その理念的構成に他ならない。従 って,存在の事実と存在の意味は全く異なる事項であって,存在は確かにヵッ き シーラーが言う「虚像」あるいは「像世界」において始めて意味を与えられる。 この「存在」から「理念」への,「事物」から「像」への転換をもたらすのは, 8) E.Cassirer“Die Philosophie der Symbolischen Form, Bd工.Die Sprache”1923, (生松,坂口,塚本訳「象徴形式の哲学,第工巻,言語」昭47年 竹内書房)
112 言語あるいは,より一般的な言い方をすれぽ,記号に他ならない。ライプニッ ツの「普遍的記号法」の探求は,記号が自らのうちに意味付与の作用能力を持 つがゆえに,事物の単なる感覚や知覚の世界を越え出た独自の世界を構成する 能力を持つことの証しであった。 認識世界をかけめぐる中心にある媒体が言語だとすれば,われわれが上に 「形式」と「内容」と呼んだものは,言語のレヴェルで言えば,ソシュールの いう「能面」と「所記」に対応すると考えてみてもよかろう。従って認識の内 容つまり言語の「所記」は,実在世界の受動的写像ではなく,記号間の関係に よって決定される体系の一つの“concept”である。 さて,認識世界が言語操作に基く表象体系だと考えれば,ジンメルの相対主 i義が提起している問題の輪郭は一一’ptm明瞭になってくる。認識世界が,言語とい う潜在的な共範形式をすでに含んでいるということは,認識が本質的には,事 物と人間の直接の関係,いわば自然的な自明性のもとには置かれず,人間精神 の作用の側に置かれるということを意味している。このことは明らかなのだ が,こう言った場合にはすでに,われわれは人間精神の形式の彼方に物自体の 自然性を仮想していることになるのである。しかし,このような,精神にとっ てこの素材(物自体)と精神の形式の問にある対立は,現象的なものではな く,それ自体,構成された対概念である。つまり,間接的媒体を経由しない直 接的知覚は一つの仮想にすぎないのだが,この仮想そのものが,人間精神のシ ンボル形式という媒介的関係の世界が産み出す,自分自身を写すための反射鏡 なのである。 ジソメルが強調した「自然」と「文化」の対比は,このような二つの世界の の 関係を言い表わそうとしたものと思われる。それゆえ,彼が「単純な表象作 9) ジンメルは,「貨幣の哲学」では,この考え方を,それほど明確にしている訳では ない。むしろ,「生の哲学」全体が,意識的に,こうした考え方を扱っていると言え よう。そこでは,生が産み出し,自己自身に対立する客体となる世界を「文化」の領 域としているのだから。また,「自然」と「文化」の対既念は,例えば,“Vom Wesen der Kultur”1908,(酒田,熊沢,杉野,居安訳「ジンメル著作集12一橋と扉」昭51 年白水社,所収の「文化の本質について」)において明確に論じられている。
用」 (P31)と呼ぶ,認識の直接的な明証性は,本来の意味では表象作用とは 言いがたく,それは前節の議論で述べた意味で,経済学における価値論が想定 している状況と同様の自明性によって支配された「自然」の世界に所属する。 しかし,これはあくまで架空の世界であって,真に存在するのは「文化」の世 界であることは言うまでもない。それ@えに,「自然」は,カッシーラーが 「像世界」と呼んだ「文化1の世界の,さらに「像世界!になっているのであ る。 これは言語学で言えば, 「所記」がそれ自体では成立し得ず,常に「能記」 によって喚起されねばならないという点にアナPジー出来る。「自然」をそれ 自体として構想することは,われわれには許されないのであって,これは「文 化」によって生気を与えられる操り人形でしかない。つまり,自明性を,あた かも経験上の所与であるかのように仮定することは不可能なのである。 同様のことは「文化」の内部においても妥当するのであり,認識世界におけ る「形式」と「内容」の無限の分化において,妥当性の根拠を持つ上位概念と 下面概念の関係は全く同時的であり,認識がこのような概念(表象)の連鎖に 他ならないとすれば,認識は本質的に共時的であって,それは関係の体系とし て一瞬のうちに全体系が現われるというつかの間のゲシ=Lタルトと言ってもよ い。経済世界における貨幣と財の関係もこのようなものである。貨幣と財(価 値)の関係は同時的で相互関係的である以上,明らかに前者を後者より導き出 すことは出来ない。というより無意味な試みである。 ジソメルが交換を「社会学的形態」と呼んで,その社会的性格を強調したこ とは,このような構図のもとに置いて始めて理解出来ると思われる。経済世界 において「距離」を価値の原因とした時,彼が主張したのは,価値は労働価値 や効用価値のように直接性,自明性の支配する「自然」に属するのではなく, 間接性,不透明性の支配する「文化」に属するということであった。従って, 交換は物々交換ではあり得ず,社会化された共有形式でなければならない。む しろ交換こそが,「文化」を「自然」から分かつ根本形式と考えられたのであ る。それは事物の直接的享受を禁止する一連の媒介的高論の体系という意味
114 で,レヴィ=ストロースが言うように,まさに禁止は文化の本質なのである。 従って,「交換」それ自体の説明はなし得ず,せいぜい直接的享受という「自 然」の産み出す仮構的活動に対比してしか描き出し得ないのは当然であった。 ジンメルが相互作用はすべて交換である,と言った時,彼は確かに,交換が 社会のいわばアプリオリな形式であり,あらゆる具体的な活動を支える範型で あるということを理解していたはずである。それゆえ, 「交換」はモースが ユの「贈与論」において暗示し,吉沢英成氏がその近著で主張するように,実在的 な制度と見なされると同時に,社会それ自体の成立要件に関わる「原型」であ るという両義性を帯びている。ジンメルが「実在的抽象」と呼んだのも,交換 のこのような両義性を習えてのことであった。 「実在的抽象」という一見自己同着的な表現は,やはり自己同着的ではある が,「具象的形式」と呼び代えてもよかろう。ジソメルのいう交換は,具象的, 経験的であり,同時に形式的である。つまりそれは「内容」であると同時に 「形式」なのである。それは,例えば市場制度のような経験的実在(内容)と しての正当性の根源を,それがまさに社会的な相互作用の基本「形式」である という点に負っているのであり,それゆえそれは,相対主義の観点からすれば 「自己原因」的なのである。この「形式」としての特性を衣に包んで,「交 換」は,経済に限らず人間の社会的行動の様々な相に立ち現われ,これらの諸 領域に同型性の原理をうち立てるのである。 このように考えると,貨幣と交換は不可分というより,基本的に同じことを 示す二つの表現形式であるとさえ言ってもよかろう。それは,相対主義が「形 式」と「内容」という形で実在を解釈し,なおかつ絶対的なものを拒否する形 で世界を閉じる唯一のやり方に他ならないからである。従って,経済世界と認 識世界をつなぐ同型性は,このような相対主義的な思考によって明らかにされ ると言うより,それ自体が相対主義の思考の産物なのであって,このことを最 終的に確認するのは,一方の世界では「貨幣」が,他方では「言語」が,それ 10)吉沢英成「貨幣と象徴一経済社会の原型を求めて」昭56年 日本経済新聞社。
それの世界の中心的な表象として操作され,しかもまさに,それらの存在が, 経済や認識の世界を「自然」から区別された「文化」に帰属せしめている根本 の事情であるという点なのである。 従って,ジンメルは認識世界の存立そのものの条件として「言語」の存在を 暗黙裡に前提としているように,経済世界の存立は「貨幣」に基いていること を最初に主張すべきであった。貨幣は説明されるものではなく,説明するもの だったのである。 (未完)