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1938年阪神大水害 : ダークツーリズムの試みと防災教育

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はじめに~ダークツーリズムと自然災害伝承碑 近年、観光学の一部でダークツーリズムという方法論が提示されている。そのもっとも有力 な提唱者の一人である井出明によれば「ダークツーリズムとは、戦争や災害をはじめとする人 類の記憶を巡る旅である。」と定義している。戦争や災害などの悲しみの記憶を失うことは 「二度目の死」が起きてしまうことである。悲劇の記憶を想起させる機会を与える旅として、 ダークツーリズムは非常に大きな可能性を有している。我々日本人は、これまであまりにも地 域のダークサイドに対して無関心であったり、あるいは無視してきたりした。ダークな面が地 域に新しい価値を見出すための契機になりうるものであって、観光資源としても認識されるの である。(1) 悲しみの記憶と観光を結びつけることに不謹慎だという批判もあるであろう。筆者は阪神・ 淡路大震災後に修学旅行先として神戸の魅力を発信するにあたって、震災体験者の語り部の話 を修学旅行生に聞いてもらうという「震災学習・交流事業」の取組が行われたことを思い出し た。1997年度には21,848人の修学旅行生がこのプログラムに参加し、神戸の観光の復活にいく ばくかの貢献をしたのであった。このような事業は学習観光だという意見もあるかも知れない が、筆者はこれもダークツーリズムの一環としてとらえたいと考えている。地震の悲劇に厳粛 な気持ちになった子どもたちもいたはずであり、後々まで記憶される修学旅行になったかもし れない。(2) 国土地理院は2019年6月から「災害教訓の伝承に関する地図・測量分野の貢献として、これ ら自然災害伝承碑の情報を地形図等に掲載することにより、過去の自然災害の教訓を地域の方々 に適切にお伝えするとともに、教訓を踏まえた的確な防災行動による被害を軽減を目指します」 という目的で、国土地理院のウェブ地図「地理院地図」に掲載を開始した。2020年10月9日現

1938年阪神大水害~ダークツーリズムの試みと防災教育

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洲脇 一郎

神戸親和女子大学発達教育学部児童教育学科 教授 要旨 1938年7月、梅雨末期に六甲山地に降り注いだ雨は土石流となって、神戸市をはじめとする六甲 山地周辺の町を襲った。本稿はダークツーリズムの試みとして、三つの水系を歩きながら、災害伝 承碑、当時の災害の記録である『災害誌』などにより、現在と1938年の災害時を交錯させながら、 災害と悲しみの記憶をたどる。身近な地域の災害史を防災教育に生かす方法でもある。 キーワード:阪神大水害 ダークツーリズム 自然災害伝承碑 防災教育

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在、全国で186市区町村606基が登録されている。碑名、災害名と災害の種別、碑が建立された 年、伝承などの情報が「地理院地図」で提供される。まだまだ自治体にも国民にも浸透してい ないが、自然災害伝承碑はもっと活用されてもいいのでなからろうか。(3) 本稿は1938年に発生した豪雨災害である阪神大水害を取り上げ、ダークツーリズムとして被 災地域を歩いてみようとしたものである。水害の舞台となった河川、避難所等になった学校、 災害伝承碑などを訪ねて、1938年阪神大水害がもたらした災害の実態と悲劇の記憶を甦らせよ うとしたものである。阪神大水害は梅雨期末期の7月3日から7月5日にわたって六甲山地に 降った大量の雨によって、河川が氾濫し土石流が発生した。『昭和十三年兵庫県水害誌』によ れば兵庫県全体で、人的被害は死者481人、行方不明76人、重傷322人、軽傷999人、家屋の損 害は流出1,955戸、全壊4,039戸、半壊6,711戸、床上に土砂堆積13,406戸などの甚大な被害が発 生した。ある警察官が述べるように、一家が全滅してしまったもの、家族のうち学校に行って いた児童のみが生き残ったケース、一家を支える唯一の働き手を失った家庭など幾多の悲劇が 起こった。当時の児童が書いた作文も胸を打つものがある。災害はいつの時代にも悲しみと不 幸をもたらしてきたのだ。 六甲山地の3つの水系を取り上げ、ダークツーリズムの旅を始めたい。(4) 1 住吉川流域 JR住吉駅で下車した。住吉川は、阪神大水害からの復興がもっとも顕著に観察できる地域 であり、防災教育の格好の教材ともなっている。災害伝承碑も多く残されている。JR神戸線 は住吉川と芦屋川では、線路が川の下を通っている。トンネルはごく短い距離だから気付きに くい。表六甲の河川はどこも天井川になっているが、住吉川、芦屋川は、川の下に線路を設け たのだ。神戸測候所員の報告は、住吉川と芦屋川について「共に川が急傾斜をなし、従来唯さ へ河床が砂で高くなつてゐた為、大氾濫を起し、山上からの巨岩、土砂は阪神急行電鉄橋梁、 阪神国道や東海道本線を埋没し、上流の山崩れと共に一帯の被害区域は特に住吉川で甚だ広汎 であつた」と述べる。7月7日の調査では「今次の洪水のため西方に氾濫して其幅は著しく増 大して約300米となり両岸より稍高き位に多数の累積したる岩石を以て覆はれ惨憺たるものが ある」として住吉川がもっとも巨石の流出が多いという。7月13日に神戸測候所所員が住吉川 を踏査しているが、下流から上流地域に遡行することは困難だということで、別のルートで上 流に出て、そこから河道に沿って下行したのであった。(5) [住吉小学校] 駅を降りて海側に行くと国道2号にでる。「阪神国道」というのが国道2号 のことである。当時も国道バスが運行されていた。山からこの国道まで巨大な岩石が流出して きたのであった。当時のバスは小型であったが、このバス位の大きさの岩石もあったという。 国道を越えて住吉小学校に向かう。住吉小学校では危うく子どもたちが遭難するところだった のだ。7月5日の6時台には校区の排水溝から水があふれだしていた。安全確保のために教員 を通学路の所々に配置した。その後減水したため7時には高等科の女生徒を応召兵歓送のため に住吉駅に派遣した。7時50分に授業を始めた。8時半ころから再びの豪雨で道路から濁水が 流入してきた。子どもたちを安全な校舎に避難させようと職員による決死の努力が開始された。 中でも木造校舎の2階の壁面を破壊し、渡り廊下の屋上にロープを渡して子どもたちを救出し

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たことはよく知られている。この劇的な場面は絵になっていて、住吉小学校の校長室に飾られ ていた。「避難後各学級に於て指名点呼を行ひし結果一名も児童の不足なきを確めて師弟共に 喜び合へり」父兄が来校して子どもの引き取りを願い出ても下校途中の危険考えて許さなかっ た。2時ごろから父兄同伴の帰宅を許し5時前後に全児童を帰宅させた。 7月5日には学校は児童の救出のほか地域の避難者への対応も行い、住吉村とともに食事・ 夜具の世話をした。筆者はかつて住吉小学校を訪問し、当時の学校日誌を見せてもらったこと がある。しかしインクで書かれた日誌は、水分を吸収して滲んでしまい判読することができな かった。まことに残念だったという思い出がある。しかし児童の脱出のことは今に語り継がれ ており、災害の教訓として生かされている。(6) この当時木造校舎が多かった。校舎のコンクリート化は神戸市の学校を除いてさほど進展し ていなかったのである。後で見るように児童生徒の悲劇の多くは木造校舎の倒壊によって起こっ ている。また学校は児童生徒の安全の確保とともに、地域の被災者が避難してくるのであって、 これにも対応しなければならないのであった。 [六甲砂防事務所] 住吉小学校からさらに南に下ると、国土交通省近畿地方整備局六甲砂防 工事事務所の看板がかかった庁舎がある。国民経済上重要な地域である神戸・阪神地方が大水 害に見舞われたため、1938年9月21日内務省神戸土木出張所に六甲砂防事務所が設置された。 昭和14年度(1939)から内務省直轄で六甲山地の防災事業が施行されることになったのである。 六甲砂防工事事務所には残念ながら展示施設がないが、ホームページで阪神大水害の市民の思 い出や写真などを発信している。しかし、折角の施設があるのだからホームページだけでなく 砂防事業の広報も兼ねて少しばかりの展示を行ったらどうだろうか。小学生が見学できるよう にしたらどうだろう。 六甲砂防事務所は開所以来、戦時・戦後の資材の乏しい時期にも六甲山地の河川改修や砂防 工事を営々として実施してきた。1967年にも1938年に匹敵する大量の降雨があったが、住吉川 の流域の被害は軽微であった。砂防堰堤などの防災工事の効果であったと言われている。(7) 1939年6月に内務省神戸土木出張所の所長に就任したのが原口忠次郎であった。原口は内務 省で荒川放水路の工事などを担当した後、満州国に移籍し大規模な河川や道路の工事などに従 事していた。原口は満州に骨を埋める覚悟だったが、災害復興の適任者だとして内務省に呼び 戻されたのであった。所長になった原口は、災害復興・防災工事に当たる人員を大幅に増員す るなど辣腕を振るった。原口は所長として神戸の将来を展望して四大事業を提唱した。鳴門架 橋、瀬戸内内海航路改修、神戸港拡張、第二阪神国道建設であった。 戦後の1949年に原口は神戸市長に就任し、技術屋市長として神戸市のグラウンド・デザイン を作ることになる。原口は阪神大水害について「人間が自然に接する謙虚さを放棄し、無計画 に自然のバランスをくずすとき自然は怒り人間に大きな災いをもたらす。」と述べている。阪神 大水害が、原口が神戸市長になる機縁となった。水害がなければ原口は神戸とは無縁だった。(8) 六甲山の砂防史は『六甲三十年史』を見てほしい。少し読みにくい本であるが、工事の詳細 について記述してあり、砂防にかける技術屋の情熱を感じることができる。(9) [甲南小学校] 国道2号まで引き返し、住吉橋まで向かう。ここから住吉川の右岸を歩く。 右岸側が住吉村、左岸側の住吉橋の上流が本山村、下流側が魚崎町であった(川の右岸、左岸

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は流水の方向に向かって、右側が右岸、左側が左岸である)。住吉川は右岸も左岸も決壊し大 きな被害をもたらした。住宅地が川の堤防のかなり下にあることに気付く。改めて天井川であ ることを知る。右岸側も左岸側も住吉川で運ばれて来る土砂で形成されたのだろう。右岸を少 し行くと運動場と校舎が見えて来る。私立甲南小学校である。この学校の校舎内で児童4人が 犠牲になり、家に帰らせた学校の近隣の児童3人が亡くなった。ほかに児童の付添1名も死亡 した。甲南小学校の被災の模様は『甲南小学校創立四十周年記念誌 学園のあゆみ』に詳しい。 学校長は、「昭和十年の水よりも水位が遥かに低いので、安心して午前八時授業を開始しまし た。しかし九時頃何となく胸騒ぎが致しますので、断然授業の中止を命じ、児童を講堂に集め て途中の注意を訓示、職員諸君に夫々分担を願ひ児童を帰宅せしめました。唯交通機関による 通学のものを如何にすべきかと協議中の瞬間、濁水がこの児童が集合している講堂に襲い来ま した。」被害写真を見るとこの講堂は土砂でほとんど埋まってしまっている。「職員、応援巡査、 青年団員各位の必死の努力によって、鉄柱の藤棚を力に救命されました。」「最後には廊下の屋 根を破って大部分の者は助かりました。」住吉川の右岸が上流部の阪急電鉄の線路の北側で決 壊し、土石流が学校施設に流入、木造の校舎・講堂を襲ったのである。2階建ての校舎の1階 はほとんど天井まで土砂で埋まり、講堂・職員室など平屋建てのものは土砂に埋まってわずか に屋根を残すのみであった。水災5周年の1943年に堅牢な校舎を再築した。運動場に水災記念 碑が設置されている。碑文は甲南学園の創立者である平生釟三郎(1866-1945、実業家・政治 家、広田内閣の文部大臣を務めた)の揮毫で「常に備へよ」と書かれている。もっとも碑は校 地内にあり、それを見学するためには学校の特別の許可が必要である。平生は日記を残してお り、1938年8月7日の物故者の慰霊祭で鉄筋コンクリート建てとすることが必須であることを 来会者に訴えている。日記を見ると平生は被災後の早い時期から鉄筋コンクリート造りの校舎 の新築を決意し、そのために種々の手を打ったことが分かる。5年後にようやく新築されたの である。(10) 甲南小学校・幼稚園の敷地の北隅に細雪と書かれた碑がある。1985年に谷崎潤一郎生誕百年 を記念して建てられたものである。谷崎は住吉に住んでいたし、よく知られているように『細 雪』には阪神大水害の記述がある。この碑の雪のデザインは小磯良平によるものである。なお 谷崎が松子夫人と暮らした倚松庵は住吉川下流右岸の反高林にあり、一般の人にも公開されて いるが、不定期の公開で事前申し込み制でもあるので状況をよく確認してから訪問されたい。 [住吉学園内の水害記念碑] 住吉川の右岸道路をさらに北に行き、阪急電鉄の鉄道橋の手前 を左に折れると、住吉学園がある。その庭に巨大な石の碑がある。住吉学園の門はいつも開け られているから見学できる。この碑は、災害が甚大であった「観音林倶楽部」の東部に建設さ れることになり、1939年10月に工事に着手、40年7月5日に除幕式が行われた。水害で流出し た8,000貫の巨岩をそのまま用い、碑の高さも水害当時の水位の高さにして、水害の光景を彷 彿させようとしたのであった。石に彫られているのは、読みにくい字であるが「禍福無門」と いう文言であり、災害当時の内務大臣であった海軍大将末次信正の書である。末次内務大臣は 阪神大水害の被災地を視察したのであった。題字は『左伝』の中の言葉で、「禍福は門なし。 唯だ人の召く所のままなり」で「禍いの門、福(さいわ)いの門とかいうものはない。禍も福 もすべて本人自身の招くところである。」(諸橋轍次『中国古典名言事典』)という意味である

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らしい。題字のほかに、「水害記念碑撰文」が彫 られている。7月5日9時30分に山津波が発生し、 全村にわたり濁流・土砂が奔馬のごとく荒れ狂っ た。33名の死者、流出家屋100戸余、村の7割の 2,700戸が被害を被った。「惨害ノ現状ノ一部ヲ当 時ノ儘ニ遺」そうとしたと書かれている。とにか く巨大な石であって、このようなものが流れ出て きたのかと驚かされる。一見の価値がある石碑で ある。(11)(写真1 住吉学園の水害碑) [住吉川堰堤の碑] 引き返して住吉川の河道に 降りる。住吉川は東灘区民の絶好の散歩コースで ある。神戸市が住吉の山から土砂を採取し、この 住吉川をダンプカーで河口まで運んだ。そのトラッ クの通った道を利用して遊歩道が造られたのであ る。「山、海へ行く」で著名な話である。住吉川 には魚道が設けられている。アユが川を遡上しや すいようにするためである。秋には大きくなった アユが泳いでいる。カモやサギ、セグロセキレイ、 カワセミ、カワウ、ユリカモメなどの鳥類も楽しめる。六甲山の防災工事は河川改修と砂防堰 堤の築造だった。住吉川は渓谷を出た部分の方が下流よりも川幅が大きい。左岸は当時の地図 を見ると松林が一面に広がっていたようで人家はないようである。住吉川は階段状に川床が整 備されており、その上流は堰堤になっている。堰堤には銘文があって、「住吉川第二号堰堤 起工 昭和十五年八月 竣工 昭和十六年三月 内務省神戸土木出張所」と書かれている。住 吉川第1号堰堤らしき施設にはどこを探しても銘板がない。第3号は川の中にあった。「住吉 川第三号堰堤 起工 昭和十五年十二月 竣工 昭和十六年四月 内務省神戸土木出張所」と 読める。住吉川堰堤の上流が白鶴堰堤になる。(12)(写真2 住吉川堰堤) 写真1 住吉学園の水害碑 写真2 住吉川堰堤

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[落合橋の水災紀念碑] 川から上がって道路を 行く。住吉川堰堤は白鶴美術館のすぐそばである。 白鶴美術館は1934年に白鶴酒造が開設した美術館 であり、青銅器、陶磁器、経巻などの名品を所蔵 している。寺院風の建物は遠くからでも緑の屋根 がよく見え、住吉川の景観を豊かにしている。さ らに歩いていくと、落合橋に至る。住吉川と西谷 川の合流点である。少し行くと有馬に至る道と六 甲道の分岐点がある。そこに「水災紀念」の碑が ある。1939年4月に建設されたもので西側には 3 人の建立者の氏名があり、東側の土台部分に水位 の線刻がある。ここまで水が増水したという印を 石に刻んでいるのである。東灘区役所が「洪水水 位の碑」の解説版を設置している。「台座の右わ きに最高時の洪水水位が刻まれている」と述べて いる。こんなところまで川が増水したのかと驚い てしまう。碑の建立者は水害の恐ろしさを後世に 伝えたいという思いだったのだろう。(写真3 落合橋の水災紀念碑) [五助堰堤] 五助堰堤へは山岳コースになるので、今回実際に行くことはあきらめた。落合 橋の水災紀念碑から甲南斎場を経て山道を歩く。かつては水車小屋の後らしい建物があった。 このあたりは「住吉村被害地略図」(住吉村『昭和十三年大水害誌』所収)によると、七輌場、 八輌場という地名が記載されている。かつて水車があった場所で、酒造米が搗かれていたので ある。落合橋からかなり歩くと五助堰堤がある。五助堰堤は1952年8月1日起工、1957年3月 31日に竣工した。高さ30、長さ78、築立々積14,431.4、推定貯砂量374,000で六甲山地 の砂防堰堤として屈指の規模である。1967年の豪雨は、雨量として1938年とさほど変わらなかっ た。しかし被害では大きな差があった。『六甲三十年史』は「昭和42年(1967 筆者注)7月 豪雨により上流右支水晶谷からの土石流約90,000、本流・他支流の30,000を合わせて約 120,000の土石流が押し出したが、これをとめて下流の被害を防止し砂防堰堤の効果を十分 に発揮した。」と述べる。また『六甲三十年史』に寄稿した元六甲砂防工事事務所の所長は「 42年は13年に比較して流出土砂量は、約1/10に過ぎぬとの結果が出ており、住吉川を例にと ると13年の流出土量、1,729,000に対して、42年は僅かに50,300で約1/35に過ぎない。」と 述べ、砂防工事の効果を誇った。1967年の豪雨の前の写真と豪雨後の土砂で埋まった五助堰堤 の写真はよく知られている。(13) [直轄事業50周年の碑] 落合橋から住吉川堰堤まで引き返し、今度は住吉川の左岸を歩こう。 住吉川堰堤のすぐそばに清流公園という細長い公園がある。ラジオ体操などが行われ、トイレ の設備もある。住吉川の親水公園化の一環で設けられた公園であろう。この公園に「直轄砂防 事業50周年記念」の碑がある。裏面には「昭和13年7月5日 阪神大水害を契機に始まった砂 写真3 落合橋の水災紀念碑

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防事業50年を記念して この碑を建立 する。建設省近畿地方建設局 六甲砂 防工事々務所 昭和63年7月」と書か れている。国の直轄で砂防事業を行う ことは画期的な意義があったのであろ う。(写真4 直轄事業50年の碑) [野寄公園の水害碑] 阪神大水害は 住吉川左岸の本山村にも大きな被害を 及ぼした。7月5日午前10時ごろ阪急 の鉄道橋の上流約200のところで堤 防が決壊した。本山村の野寄、岡本、 田中地区、学校では本山第二小学校、甲南高等女学校などに濁流が押し寄せ、国道を越えて魚 崎町まで被害が及んだ。野寄では死者8名、家屋の流出34戸、全壊139戸、半壊140戸など本山 村の地区の中で最大の被害を被った。住吉川の水道橋を山手幹線沿いに東に行くと野寄墓地が あり、墓地の周囲が野寄公園になっている。この公園の奥まったところに碑がある。大きな碑 銘は文字が崩されていて判読が困難である。傍らにある解説文によってようやく「有備無患」、 備えあれば患(うれい)いなし、と読むのだと分かった。1941年春に本山村が設置したもので、 題字の揮毫は住吉村と同じ災害当時の内務大臣であった海軍大将末次信正である。本山村では 1940年に『本山村水禍録』を編集し災害を記録したが、それに続き碑を建立したのであっ た。(14)(写真5 野寄公園の水害碑) 住吉川左岸の復旧のために兵庫県が決壊箇所を 修復し、元の水域に流水させようと作業を開始し たところ、これを聞いた住吉村住民は増水の際、 下流の住吉川が危険になると猛然と反対した。兵 庫県警察部は万一の事態を慮り7月12日午後2時 30分、警官50名を御影署、芦屋署に急派し警戒警 備に当たるとともに、村民間の斡旋慰撫に努めた 結果、同日夕刻に工事に着手できた。(15)翌日は10 名を残留させた。左岸の方が上流で決壊している ため、そこを元の流路に復旧すると下流側に被害 が発生しかねないというのが住吉側の懸念であっ たのである。河川の右岸と左岸で対立が発生しか ねなかったのである。 8月1日は久しぶりに雨だった。住吉川が増水 したため、村の吏員、青年団、消防組等が警戒に 当たった。右岸、左岸とも動員体制をとった。午 後11時頃住吉川左岸の応急堤防が阪急の下方100 で決壊した。翌2日午前1時頃阪急の上方200 写真4 直轄事業50周年の碑 写真5 野寄公園の水害碑

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で堤防が決壊した。この日右岸側も決壊した。十分な復旧工事が完了しないうちに再び災害 に襲われることはよくあるにしても不幸なことだった。(16) [細雪] 堤防を破壊した濁流は東へ、下流へと押し寄せた。よく知られているように、谷崎 潤一郎は『細雪』に阪神大水害の模様を描いた。谷崎の家は住吉川の下流にあって水害の被害 は免れた。谷崎は、部屋の中に閉じ込められ、次第に水かさが上がってくるという、静かに迫っ てくる恐怖を書いた。阪神大水害の日、蒔岡家の四女妙子は芦屋から阪神国道バスに乗って本 山村の甲南高等女学校前で下車した。甲南女学校の近くの洋裁学院に通っていたのであった。 洋裁学院は雨で休校になったが、妙子は洋裁学院の女経営者に誘われ、その家で話し込んでい た。そのうちに、妙子、洋裁学院の経営者とその息子の3人が水に閉じ込められてしまう。家 の外は濁流で出ることができず、家の中の水は水位が上がってくる。命の危機が迫ったところ で妙子に思いを寄せる男に危うく救出される。現在、旧甲南高等女学校は移転し、跡地は神戸 市立本山南中学校になっている。甲南高等女学校は高い所で約3の土砂で埋まった。『細雪』 の洋裁学院にモデルがあったどうかは分からないが、人が気付かないうちに濁流に閉じ込めら れた話が甲南高等女学校『水禍記念誌』にある。谷崎は阪神大水害の見聞を活かしながら一つ の物語を構成したのであろう。(17) 近くに甲南商店街があり、この商店街の通りは南北に若干の勾配がある。この道を濁流が流 れて行った。商店街を少し見て山側に向かう。天上川沿いに上っていく。天上川は普段、水は ほとんど流れていないが、阪神大水害では溢水した。上り詰めたところに岡本梅林がある。江 戸時代以来有名な梅林は、この水害で壊滅的な被害があった。戦後になって神戸市によって梅 林が再建された。近くの岡本八幡神社も倒壊したのであった。山岳コースを希望する人はここ から保久良神社まで登っていったらよい。15分ほどで神社に着く。神社から東神戸の眺望を楽 しむことができる。 天上川を下って岡本商店街に出る。石を敷き詰めた瀟洒な商店街だ。JR摂津本山駅にも近 く、飲食店なども多い。神戸市の山の手を代表する地域なのである。 JR住吉駅に始まったダークツーリズムの所要時間は 2時間程度、ゆっくり回れば 3時間程 度であろう。災害伝承碑や河川改修、砂防堰堤が豊富に残されていて、防災に対する市民啓発 や防災教育には絶好の地域である。 2 天王川・石井川(新湊川)流域 神戸電鉄湊川駅を降りて地上にでると、兵庫区役所である。余談だが1995年の阪神・淡路大 震災の頃、筆者は兵庫区役所勤務であった。震災対応が仕事の中心だったから、満遍なく区内 を歩き回ったという記憶はない。区役所を北に行くと大きな市場に出る。東山商店街であり、 神戸市最大の市場である。店にどんな商品が並んでいるのかを見ながら歩くのは楽しい。北に 向かって進むと市場が尽きて川に出る。新湊川である。湊川を明治年間に流路を付け替え、会 下山を隧道で抜いて長田方面へ川を出して苅藻川と合し海へ注ぐようにした。湊川で分断され ていた市街地が一体的に利用できるようになった。これは神戸市の小学校の地域学習でも紹介 されている話で神戸市民にはよく知られている。かつて天王川と石井川の流域の行政区画が湊 区であった。『湊区水害誌』も参考にしながら歩いてみよう。

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[天王川と石井川] 新湊川沿いに山側に進んでいくと、川の合流点になる。東側が天王(谷) 川、西側が石井川である。災害直後の神戸測候所の職員の調査を紹介しておく。天王川は有馬 街道沿の5㎞ほどの谷で、集水面積約700町歩。このうち3分の1が表六甲に当たるが、特に 山崩れが甚だしく谷口から分水嶺まで2~3キロの間に道路両側で見られるだけでも大小88の 山崩れがある。この谷の降雨最盛時の水が同時に起こった両側の山崩れと合して泥流となり谷 間の人家・橋梁等をさらって急傾斜の谷筋を下り奥平野の平地に出た。谷から100くらいの ところから川筋が暗渠になっていたためその上を流れて平野、荒田方面へ氾濫した。被害は荒 田町3丁目で特に甚大だった。 石井川の谷は山田村小部の辺りに発して神戸に出るが、集水面積1,300町歩。うち2割が六 甲山地の表側に当たっているが、急峻な花崗岩山地の峡谷は山崩れが多く、神有電車(現在の 神戸電鉄)の鈴蘭台~鵯越間において山崩れ・洪水等のためはなはだしい被害をうけている。 この谷は神戸への出口付近に烏原の水源地を有し、5日朝にはすでに満水近くまで達していた。 堰堤を2尺(約60㎝)くらい溢れて石井川に流入し、下流で暗渠化されていたため、2ほど 低い西側の民家に氾濫し、さらに流れて神戸刑務所の煉瓦塀に当たり他からの泥流とも合して ついに煉瓦塀を倒壊させた。(18) [雪御所公園の慰霊碑] 天王川と石井川の二つの川が合流する三角形の場所が雪御所公園で ある。筆者が調査を行ったのは10月であるがまだ暑かった。放課後の児童4、5人が塔の周辺 で遊んでいる。筆者がここを訪れたのはかなり前で、あまり記憶は鮮明ではなかった。この雪 御所公園の南の端に高い塔が建っている。これが阪神大水害(神戸大水害)の神戸市としての 慰霊碑である。塔の形状からすると、墓石をイメージしているのだろう。正面には「慰霊碑」 の文字だけが書かれている。根元には花立をしつ らえた祭壇がある。巨大な墓石という印象だ。側 面には「神戸市長勝田銀次郎書」の文字がある。 碑の由来の説明はこの慰霊等の裏手の石の銘板に 書かれているが、今は鍵のかかったフェンスが設 置されていて銘板を読むことができない。その代 わり、塔の横に神戸市が2000年に説明版を設置し ている。それによると、この塔は災害の3年後の 1941年6月に建立されたものである。碑文は漢文 調の文章であるが、一部を紹介する。「夫レ水禍 ハ天災ナレドモ其ノ之ヲ致ス未ダ必ズシモ人為ニ ヨラズンバアラズ。斧斤濫ニ入リテ山骨露ハル。 野火屡発リテ地毛空シ。妄ニ地域ヲ拡メ水ヲ壅ギ 之ヲシテ激シテ止マル所ナカラシムルハ豈ニ其性 ニ順フト言フヲ得ンヤ」「我等市民ト共ニ前ニ懲 リ後ヲ慎ミ相諭シ相警メ私利ヲ去リ禍根ヲ除キ惨 禍ヲ除キ惨禍ヲシテ再起セザランコトヲ期ス」。 現代語に意訳すると、「水害は天災だが、人の行 写真6 雪御所公園の慰霊塔

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為がそれを招いたのだ。みだりに山地を開発し山が危険になった。山火事はしばしば起こり樹 木が焼けた。土地を拡大したり水を塞いだりしたことは自然の摂理にかなった行為とはいえな い。」とこれまでの都市の開発を反省し、将来もこの災害を戒めとし私利を去り再び惨禍が起 こらないようにしたいと述べている。しかし歴史は無残なものである。この碑が建立された 1941年の12月には太平洋戦争がはじまり、1945年には空襲でもっと大きな惨禍に見舞わること になった。解説版を読み終わってみると、いつの間にか公園から子どももいなくなっていた。 後日、この慰霊塔について神戸市の公園管理の担当課に照会してみたが、資料は何も残ってい なかった。(19)(写真6 雪御所公園の慰霊塔) [菊水橋署] 災害当時、湊区などを所管していた警察署は菊水橋署であった。7月5日朝全 署員の非常招集を行っていたが、午前9時頃から降雨量がますます増大し、天王川、石井川等 の暗渠はほとんど満水し溢水し出したため、火防組合、青年団等の応援を受けて防水作業に当 たったが、午前10時半頃には到底防水作業を継続することができなくなり、いっせい避難を開 始した。水勢が激しくなり、遂に各員の連絡不能に至った。 家屋の被害がもっと激甚だったのは荒田町3丁目、楠谷町、天王谷、下三条町、千鳥町1丁 目などで流出・全壊家屋多数となった。浸水家屋とされているものも下三条町、荒田町3丁目 は家屋が土砂中に埋没し、家屋の上が河床となるほどであった。 「罹災者の総てが豪雨の襲来を知り乍ら、仮令浸水を初むるも自分の家は大丈夫なりとして 避難せず、付近の者より注意を受くるも尚之に応ぜざりし為に想像以上の死者を出したるもの と認めらる。」「家財等への執着が大きかつた」また「殊に昼間なりしため能働者中不在者多く、 家には婦女並に老幼者のみなりし為避難に時機を失したる点も被害を増大」させた原因の一つ だと述べている。災害時に陥りがちな避難行動の指摘は現代にも通じるものがある。死者・不 明は荒田町3丁目118人、天王谷21人、下三条町9人などであった。(20) [4つの小学校] 湊区には4つの小学校があった。平野小学校、湊山小学校、鵯越小学校、 菊水小学校であるが、いずれの小学校も他の学校と統合され今は残っていない。平野小学校、 湊山小学校は神戸祇園小学校に、鵯越小学校、菊水小学校は夢野の丘小学校となっている。少 子高齢化が著しく進展した地域であったのである。 まず平野小学校を見ると、7時45分職員朝集、9時頃職員集合。児童を勝手に帰宅させない ことを申し合わせる。天王谷の児童の家が流されたとの報が入る。9時20分第3回の職員会。 「本校児童は1名も帰さぬ。雨がやみ安全を見極めるまでは、如何に父兄が連れにきても決し て帰さぬこと」とした。10時20分頃、「裏門に濁水が殺到した」運動場は「大海の如く、泥沼 の如くひたひたと水が全面をおほつて行く」。そして避難民が詰めかけて来た。児童は3階講 堂に避難させた。重要書類の持ち出し準備を行う。平野小学校の校区の各所に「平野小学校の 子どもは皆学校におあずかりしてゐますから御安心下さい」という張り紙をした。親が引き取 りにきても渡さないという方針は咄嗟の判断だったという。子どもは学校のコンクリート校舎 で無事であることを知らせた。学校で事態が落ち着くまで児童は整然としていたという。隣保 少年団を組織し、児童を団員、町内会役員を世話係、教員を指導員として各種の訓練を実施し ていたことの成果がでたのであろう。 校長は職員を校区に派遣して状況を把握するとともに、自らも校区に出かけて行った。職員

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は学校の前の濁流で阻まれて救いを求める付近住民にロープを投げ40数名を学校に収容したの であった。学校に病人等も運び込まれ悲惨な光景を呈した。7月5日から24日まで学校が避難 所となった。学校の職員と町会が避難者の世話にあたった。校長の長島淳一は戦後に神戸市会 議員になったが、やり手の校長だったのだろう。突発的な災害で職員をよく統率しているのが 分かる。 湊山小学校も同じような状況であった。学校は児童の保護と避難者への対応に追われたので ある。7月5日の夜は一般避難者350名となった。避難者名簿を町別に作成したり、配給を行っ たりした。6日烏原水源地が決壊したという流言が飛び交った。このため学校への避難者は 1,000名を超えた。町内会役員も避難誘導、焚き出し、配給、慰問激励に取り組み自警団も組 織した。7月7日全職員が児童の家庭や避難先を訪問した。慰問と被害調査を行ったのである。 7月8日から各地区別に児童を集め校外で授業を実施した。在籍児童数1,467人のうち水害に よって転校した児童は約100名であった。 菊水小学校は1938年5月に鉄筋3階建ての校舎が竣工したばかりであった。5日午前10時過 ぎから学校に避難者が集まり出し、1,200人にもなった。6日も1,300人の避難者があり、全職 員で避難者の救護や配給にあたった。給食、慰問品の配給、避難者名簿、被災者の住宅依頼カー ドの作成など被災者支援を行うとともに、児童の被害調査、慰問品の支給、授業の再開(7月 13日)、チフス予防接種など児童への対応を行った。7月15日になって食事の配食は全部町会 が実施することとなった。避難所は7月27日に25世帯79名が重池の市営バラックに移り閉鎖さ れた。7月19日付の『神戸新聞』は「罹災者千五百名を飢餓線上に救ふ 罹災民大会を開いて 感謝決議、菊水校職員の美挙」という記事を掲載した。被災者が菊水校の職員に感謝の気持ち を表すとともに、この美挙を広く社会に知ってもらうために神戸新聞に記事を書いてもらった のである。 鵯越小学校でも被災者が殺到し一時500人を超えたこともあった。『湊区水害誌』に児童一人 一人の詳しい被災状況が記録されている。 神戸市の小学校では幸いにも児童の死傷者は発生しなかった。「学校当局の処置よろしきを 得たのと鉄筋コンクリートの校舎がこの効果をあげたもので、市民から激賞の的となつてゐる」。 鉄筋の校舎が大いに威力を発揮したのと教職員が頑張ったのであろう。(21) 湊区の学校の対応を見ていると、阪神・淡路大震災での教員の頑張りが重なって見えて来る。 1938年に神戸の学校は自然発生的に避難者への対応を行った。同じように1995年の阪神・淡路 大震災では、神戸市内約23万人の避難者のうち6割が学校に避難したのであった。その混乱状 態を収束させたのは、避難所となった学校の教員の努力であったといえよう。(22) [烏原水源池] 旧平野小学校、湊山小学校が閉鎖されているのを見ながら山道を烏原水源地 に向かう。この水源池は水道源開発のために着工され1905年に完成した。災害時にはデマが発 生しやすい。水源池決壊のデマは5日からあったようで夜半から湊川勧業会館に多数の人が押 し寄せた。6日朝にはほとんどが退去したが、6日正午頃より約千名の群衆が押し寄せ、警察 が誤報である旨説諭しても退場しなかった(23)(「昭和十三年災害報告」第111報)。水源池への 道はかなりの急坂である。阪神大水害では先に述べたように溢水していたが決壊するような状 況ではなかったのだろう。ようやく堰堤にたどり着いた。下から見上げる堰堤はかなりの高さ

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がある。貯水量は131万で、緑色の水を湛えている。 時折散歩者がいるが、静謐な場所である。貯水池の周 囲が回遊路になっており、時間があれば回ったらよい だろう。施設全体は近代化遺産に指定されている。明 治の施設は優雅で趣がある。実用一点張りではない。 烏原村は線香を生業としていたが、ダム建設で水没し てしまった。線香は杉の葉などを石臼で挽いて製造す るらしいが、村が使っていた石臼は堰堤の一部に使用 されている。(写真7 烏原水源池) 烏原水源池から下って平野の方に降りた。平氏ゆか りの神社ともいわれる祇園神社や臨済宗妙心寺派の僧 堂である祥福寺に寄ってみるのもいいだろう。祥福寺 の修行僧も阪神・淡路大震災の時はボランティアに取 り組んだ。ボランティア活動のお礼に祥福寺を訪問し たときに後に妙心寺派管長に就任した河野太通師にお 茶の接待をして頂いたことも懐かしい思い出である。 今回のコースは、東山商店街⇒雪御所公園⇒旧平野 小学校⇒旧湊山小学校⇒烏原水源池で、2時間かけれ ばゆっくり回れる。帰りは東山商店街で買い物をする のもいい。ツーリズムらしくなる。兵庫区民は多くの店からどうやって特定の店を選ぶのだろ うか。 3 再度谷・宇治川流域 JR元町駅の東口から出て山手へ向かう。もっと東のトアロードを通って山手にいくのもい いだろう。トアロードの西側はトア・ウエストとして近年神戸らしい、おしゃれな店が立地す るようになった地域だ。トアロードやトア・ウエストは古き良き神戸を思い出させる。とにか く今日の最初の目的地は旧移住収容所だ。そこに向かわなければならない。山裾にその建物が 残っており、「海外移住と文化の交流センター」になっている。センターには「移住ミュージ アム」という、ブラジル移民に関する充実した展示もある。 神戸港からブラジル移民が出発したのである。1928年に「国立移収容所」(1932年に「神戸 移民収容所」に改称)が設置され、移民たちにポルトガル語やブラジルの国情を教えたり、身 体検査などを行ったりした。作家石川達三はブラジル移民をテーマに『蒼氓』を書き、第1回 芥川賞を獲得した。石川は移民ではなく棄民だと喝破した。 [再度谷] ここから山に行くと旧再度山ドライブウエイである。昭和初期の経済恐慌期に失 業対策事業として道路が開設された。ドライブウエイに入ってすぐに追谷墓地がある。この墓 地も水害で壊滅的な被害を受けた。山の踏査が今日の目的ではないので、山には行かないが、 山地の崩落が土石流を招いたのであった。水害後の六甲山地の写真は、いたるところで山肌に 引っ掻いたような跡がある。大量の雨によって土砂災害が引き起こされたのであった。再度谷 写真7 烏原水源池

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渓谷は布引渓谷と並んで、神戸首部の中央に位置し、深さ約2.5㎞、流水面積約3で、谷は 下って宇治川となり、神戸中央部を縦断して海に注ぐ。神戸海洋気象台はこの渓谷の南に位置 するが、小高い丘の上にあり、川筋の悲惨な光景が望見された。7月9日に神戸測候所の所員 が再度山方面の実地調査とヒアリングを行った。 4日の午後から山崩れが始まっていた。再度山巡査派出所(再度山大龍寺下)の中西巡査に よると、再度谷は西の谷の被害が甚だしい、山崩れの時間は大体10~11時であり、ほとんどの山 崩れがその時間帯に発生したように思う。5日8時から13時の大量の降雨で、土壌はその水量を 含み切れず一気に表土が決壊してしまった。水とともに表層の土砂、樹木を流出させ、一大音 響とともに飛散する。表土が決壊して山の赤い肌が見えるまで約3分間である。西池は10時頃に は無事であった(ほかのことから判断すると西池決壊の時刻は11時30分頃と推定される)。(24) [再度山小学校] この再度山に学校があった。今学校の位置を明らかにしがたいが、大龍寺 の近くであり相当の山中にあったのである。その学校は、「再度山小学校」(「私立林間学園再 度山尋常小学校」)であった。財団法人神戸区教育会が1934年に開設した私立学校で、身体虚 弱児を合宿させ教育する学校であった。「虚弱児童を収容し、あらゆる生活訓練によつて普通 教育と共に健康増進を期する学校」であったのである。この学校が水害に襲われた。校長澤田 武哉の1年後の回想などによって、山から児童が脱出する模様を見ておこう。澤田は前山手尋 常小学校の校長で健康教育に熱心であった。そのため再度山小学校の校長に就任したのであろ う。 電話は早くも7月3日不通になっていた。5日4時に前述の中西巡査が来校、5日6時豪雨 の中に夜が明けた。「普通教室は安全地帯であると信じ」他の教室は使用しないこととした。 9時30分「林間学舎」危うしとの急報が入った。普通教室のある校舎と林間学舎のある場所は 離れていたのだろう。10時30分鍋蓋山の方向から山津波襲来し、校長宅が倒壊した。第2次、 3次の山津波が発生し林間学舎は埋没した。校長の家族のうち孫娘(2歳)と校長の姪の娘 (5歳)の2人が死亡した。校長の妻も生き埋めになり骨折した(5日10時30分現在の警防部 被害報告では、「林間学校ハ生徒二名死亡ノ由、他ハ全部残留家屋内ニアリ。之ハ食料ナキ見 込(生徒百二、三十人)」となっており、児童が被災して死亡したとなっていて、校長宅で校 長の関係者が死亡したことは分かっていなかった。)校長は、雨中、学校に籠城することに決 めた。13時過ぎに雨は止んだ。15時頃、山手小学校訓導2名、花隈青年団員10数名が救援のた め到着した。決死の覚悟で崩壊した山道・渓谷を登ったのであった。救助隊は屍体発掘に当たっ た。救助隊から「下山の可能性ありとの報を得た」ため、16時に70数名の児童が下山を開始し た。職員の半数は学校を守るために残った。強健とは言えない児童たちで、病床から逃れてき た児童もあったのに、一人の落後者もなく奇跡的に山道を走破できたのは、救援の人々の力も あるが、人間の精神力の不思議を思わずにはなるまい、と校長は書いている。山手小学校に到 着したのは20時頃であった。21時に児童を保護者に引き渡した。校長の身内は2人が死亡し妻 も重傷を負ったが、児童を無事に保護者に引き渡すことができて安堵したと澤田校長は述べて いる。「眠つても眠つても目は覚めた。一日の光景が走馬灯の如くめぐる、それにしても七十 名の児童の無事脱出は全く神仏の加護である。」学校は7月21日に再開した。帰校した児童は 50人であった。(25)

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[宇治川流域と徳照寺の鐘] 5日朝宇治川の増水は甚だしく、9時半頃には暗渠の入り口は 満水に近く、入り口が塞がるのを恐れて立木を取り除く作業が行われていた。10時頃には暗渠 の入り口から水が溢れるようになった。宇治川流域の死者・不明は、再度筋8人、中山手通7 丁目2人など、家屋の流出・全壊は再度筋211戸、清風町187戸、中山手通7丁目144戸などで あった。清風町は午前10時頃から増水し最早寸刻の猶予もなくなった。10時10分相生橋警察署 長の命によって徳照寺の梵鐘を打ち鳴らして、一帯の町民の避難を指示した。徳照寺の鐘は非 常時にのみ撞くことが許され、この鐘の音を聞いたら財産に拘泥せずに徳照寺に馳せ参じると いう古来の口伝があったという。徳照寺に駆け付けた者は約1,000人で老幼婦女子のみを寺に 収容し、残りの500人は親和高等女学校に移した。(26) [清風幼稚園と親和高等女学校] 清風幼稚園では園長が園児を集合させ、ただちに避難でき るように待機中であった。刻々増水してきたので、青年団員、消防組員の協力の下、職員が園 児200名を守りつつ大倉山に避難させた。避難から1時間後には幼稚園の園舎は跡形もなく流 失したのであった。5日午後0時35分に清風幼稚園長は市役所へ、「宇治川清風幼稚園殆ンド 流失シ其ノ付近ノ家屋影ナシ。職員及子供ハ皆無事ナリ。一般市民及子供ハ徳照寺へ収容セリ」 と報告した。5日午後3時40分の相生橋警察署の避難所の収容状況の報告では、親和高等女学 校1,500人、宇治川徳照寺500人、連隊区司令部150人など12か所、2,641人となっている。親和 高等女学校は宇治川の近くにあり、避難者が殺到したのであった。7月7日の「避難所状況概 況」の親和高等女学校内避難所によれば、 宇治川流域は災害伝承碑を発見できないでいる。したがって文献によって災害の状況を思い 起こすことにした。再度山小学校もなければ、清風幼稚園も廃園になっている。徳照寺は今に 残っているが、親和高等女学校は戦後に灘区に移転した。 水害時の流路に従って JR神戸駅に出る。JR元町駅⇒旧再度山ドライブウエイ入口⇒再度 谷川⇒宇治川⇒JR神戸駅といったコースで所要時間は約2時間程度であろう。災害伝承碑や 災害史跡がほとんどなく、それだけに『災害誌』によって、水害時を想像してみるという旅に なる。時間があれば六甲山中に入ってこの地域の砂防ダムを見るといったこともありうるだろ う。 おわりに 今回紹介したことがダークツーリズムになっているのか、という批判は当然あるであろう。 これでは単に防災ウォーキングに過ぎないと。戦争や災害の悲惨と向き合うということとツー リングを無理に結び付ける必要はなく別のものとして考えるべきでないか。阪神大水害から80 年以上が経過し、災害に対する関心も慰霊の気持ちも薄れているのが実情である。そこで水害 に対する関心を呼び起こすためには、何らかの仕掛けが必要で、いくら役所が災害意識の啓発 を唱えてみてもあまり効果は期待できないだろう。国土地理院の自然災害伝承碑も国民の関心 「一、七月五日正午頃ヨリ避難者多数集マリ、同夜ハ八◯◯人以上トナリタルガ其後幾分減少シ今ハ約七◯◯ 人トナル。 二、収容場所ハ同校一階ノ大部分ニシテ普通教室四、雨天体操場一ナリ。其坪数ハ一六六坪。 三、食事ハ下山手尋常小学校ニテ市ヨリ配給スルモノヲ材料トシテ調理シ、青年団員之ヲ運搬セリ。 四、衛生状態ニ就テハ注意シツヽアルガ未ダ病者ヲ出サズ」(27)

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が低い。災害史跡とツーリング(観光、買い物、食事等)を結びつけることによって、災害史 跡への関心も高めることができるのでないか。防災意識の啓発のみを目指していてはかえって 啓発もできない。試みの一つとしてダークツーリズムの可能性を模索してよいのでなかろうか。 災害史の視点からまとめておこう。この水害は大都市地域に土石流が氾濫するという形の災 害であって、国は阪神地域の重要性から直轄で防災事業を進めることになった。災害避難につ いては、学校をはじめ、町内会、青年団などの地域団体が機能した。学校・教職員が子どもた ちを守り、避難住民に対応した姿は60年後の阪神・淡路大震災の際に神戸の学校が見せた姿勢 を彷彿させる。学校管理下の災害であって、甲南小学校(住吉村)や湊川高等実業女学校(灘 区)では死者が出たが、住吉小学校、再度山小学校、清風幼稚園ではあやうく児童の命を守る ことができた。教員の勇気や機転が大きかったのであろう。それとともに神戸市内の小学校は 鉄筋コンクリート造りの校舎が普及しており、これが子どもたちの命を救うとともに、避難所 としても機能したのであった。また阪神大水害は学校管理下で発生した災害であったことにも 注意しなければならない。阪神・淡路大震災は学校管理下で発生した災害ではなかった。学校 管理下で大規模な災害が発生した場合の対処について、阪神大水害は一つの教訓を残している。 自然災害伝承碑は、住吉川のものは比較的知られているが、例えば雪御所公園の重厚な碑も ほとんど知られていない。これなどは国土地理院の自然災害伝承碑として登録に値するもので ある。 神戸で災害というと阪神・淡路大震災というイメージがあるが、地域の災害史跡を活用して 阪神大水害の体験・教訓を伝承することも、災害の多様化・大型化している今日、重要なこと であろう。その方法の一つとして、ダークツーリズムにも注目したい。 (注) (1)井出明『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』(幻冬舎新書、2018年)、同『ダークツーリズム拡 張―近代の再構築』(美術出版社、2018年)。 (2)神戸市小学校長会・神戸市立中学校長会『幸せ運べるように―神戸・教育復興の10年』(みるめ書房、 2005年)。 (3)国土地理院ホームページ(2020年10月20日閲覧)。2020年9月1日付『日本経済新聞』は「災害碑 進 まぬ地図掲載」として、自治体が地域の石碑を調査する難しさを指摘している。 (4)悲劇の記述は警察協会兵庫支部『旭影』(昭和13年7・8月号)による。阪神大水害の記録誌は多い。 代表的なものや本稿で引用・参照したものを示しておく。兵庫県救済協会『昭和十三年兵庫県水害誌』 (1940年)、神戸市役所『神戸市水害誌』(1939年)、神戸市役所『神戸市水害誌附図』(1939年)、神戸区復 興委員会『神戸区水害復興誌』(1939年)、湊区役所・湊区教化協同会『湊区水害誌』、篠原協議会『篠原 水害誌』、住吉村『昭和十三年大水害誌』(1939年)、谷田盛太郎『住吉村誌』(住吉村、1946年)、本山村 『本山村水禍録』(1940)、本山村誌編纂委員会『本山村誌 本編』(1953年)、魚崎町誌編纂委員会『魚崎 町誌』(1957年)、中央気象台『中央気象台彙報 第14冊 昭和十三年六月二十八日より七月五日に至る豪 雨報告』(1938年12月)、兵庫県教育会『兵庫教育 第585号』(1938年8月)、神戸市山手尋常小学校『山 手教育四十年』(1940年)などがある。この中に児童生徒の作文を掲載した文献もある。なお松田幸男執 筆『ひょうご水百景』(兵庫県県土整備部土木局河川整備課刊、2020年)は河川部局の担当者による執筆 で簡潔にまとめられている。 災害時の記録として、当時の神戸市の災害報告の一部を翻刻したものとして、洲脇一郎「昭和13年災害 報告(抄)(一)(二)」(新修神戸市史編集室『神戸の歴史』18号、19号、1987年9月、1988年8月)があ る。各機関から災害対策の本部に集まってくる情報を整理して発信したもの。どのような情報が市役所の 本部に寄せられたかが分かり資料として貴重である。 なお阪神大水害に関する研究論文も多いが、沖村孝「近年の降雨特性による土砂災害と「良質な緑」の

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関係」(神戸都市問題研究所『都市政策』第162号、2016年1月)、加藤尚子「昭和13年「阪神大水害」に おける旧本山村(現神戸市東灘区)の災害対応と復旧支援」(『自然災害科学』26-3、2007年3月)沖村 孝ほか「昭和13年阪神大水害の伝承事業~個人の記憶を社会の記憶に~」(『自然災害科学』38-1、2019 年5月)のみをあげておく。 (5)前掲『中央気象台彙報 第14冊』。 (6)前掲『兵庫教育 第585号』。 (7)建設省近畿地方建設局六甲砂防工事事務所『六甲三十年史』(1974年)。 (8)原口市長の言葉は前掲『六甲三十年史』、経歴等は原口忠次郎の横顔刊行委員会『原口忠次郎の横顔』 (1966年)、原口忠次郎伝編集委員会『技術に生きて:原口忠次郎伝』(1983年)などがある。内務省の技 術官僚が事務官僚に比べ処遇が不遇だったなど興味深い。 (9)『六甲三十年史』の続編として建設省近畿地方建設局六甲砂防工事事務所『六甲砂防60年史:1939-1999』 (2001年)も刊行されている。 (10)甲南小学校四十年記念誌編集部『甲南小学校創立四十年記念誌 学園のあゆみ』(1955年)。平生八三郎 の日記は甲南学園平生釟三郎日記編集委員会『平生釟三郎日記 第16巻』(甲南学園、2010年)。平生の日 記は水害をめぐる状況をかなり詳しく書いた箇所がある。 (11)前掲『住吉村誌』。この本には碑文が収録されている。 (12)住吉川の地図は甲南高等学校校友会編纂『昭和十三年七月五日の阪神水害記念帳』所載。左岸は一面松 林だったようで人家は、住吉橋北の久原邸まで見られない。左岸が富裕層の屋敷が多くあったのと対照的 である。 前掲『六甲三十年史』は小規模の工事について着工、竣工等の状況は掲載されていない。 (13)1967年水害における砂防堰堤の効果について前掲『六甲三十年史』に詳述されている。 (14)前掲『本山村誌』。 (15)前掲『昭和十三年兵庫県水害誌』。『魚崎町誌』によると午後5時本流へ切り替え作業を行い、町民よう やく安堵したという。 (16)前掲『旭影』、『昭和十三年大水害誌』、『魚崎町誌』。 (17)谷崎潤一郎『細雪 中』(新潮文庫、1995年)。甲南高等女学校『水禍記念誌』(1939年)は、写真、校 舎の図面、思い出等を掲載しており、『細雪』の叙述によく似た場面もある。 (18)前掲『中央気象台彙報 第14冊』。 (19)前掲「昭和13年災害報告(抄)二」に碑文の一部を翻刻した。 (20)前掲『旭影』。 (21)前掲『湊区水害誌』。 (22)前掲『幸せ運べるように』。 (23)前掲「昭和13年災害報告(抄)一」。 (24)前掲『中央気象台彙報 第14冊』。 (25)前掲『神戸区水害復興誌』、秋元末次郎述『児童養護施設の緊要性に就て 神戸市に於る教育事業並に 再度山林間学園視察記』(東京市品川区区会事務局、1937年)、神戸市山手尋常小学校『山手校四十年史』 (1940年)。 (26)前掲『神戸区水害誌』。なお前掲『旭影』の相生橋警察署の報告。 (27)前掲「昭和13年災害報告(抄)(一)」、「昭和13年災害報告(抄)(二)」。

参照

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レッドゾーン 災害危険区域(出水等) と 浸水ハザードエリア※等を除外。 地すべり防止区域

日本語で書かれた解説がほとんどないので , 専門用 語の訳出を独自に試みた ( たとえば variety を「多様クラス」と訳したり , subdirect

* Windows 8.1 (32bit / 64bit)、Windows Server 2012、Windows 10 (32bit / 64bit) 、 Windows Server 2016、Windows Server 2019 / Windows 11.. 1.6.2

ただし、このBGHの基準には、たとえば、 「[判例がいう : 筆者補足]事実的

防災 “災害を未然に防⽌し、災害が発⽣した場合における 被害の拡⼤を防ぎ、及び災害の復旧を図ることをい う”

○今村委員 分かりました。.

となってしまうが故に︑

真竹は約 120 年ごとに一斉に花を咲かせ、枯れてしまう そうです。昭和 40 年代にこの開花があり、必要な量の竹