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シャーロット・ブロンテ『ヴィレット』における反復 : 「霧」の描写

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シャーロット・ブロンテ『ヴィレット』における反

復 : 「霧」の描写

著者

西山 裕子

雑誌名

英米文学

55

ページ

69-91

発行年

2011-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/10108

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シャーロット・ブロンテ

『ヴィレット』における反復

──「霧」の描写──

西

Synopsis: Why is it that Lucy Snowe, the heroine-narrator of Villette,

tells her life story the way she does? Though critics have long been per-plexed by her ambiguous narrative mode, it can be elucidated by con-sidering the repetitive descriptions of“fog”in the novel. The“fog”exer-cises a crucial effect upon Lucy when she starts to live afresh in the town of Villette and foreshadows her later relationships with Madame Beck and Monsieur Paul Emanuel, the latter of whom especially helps her to express her hidden emotions. The“fog,”along with“drizzle,”en-ables us to recognize her strong aspiration to reject a dungeon-like world, where a poor orphan girl like her is never allowed to fulfill her destiny. This paper intends to illustrate how the repeated words of “fog”and“drizzle”work together to disclose Lucy’s true identity in

Brontë’s last novel.

これまでに,『ヴィレット』(Villette, 1853)のエンディングは,その曖 昧さゆえに多義的な解釈の的になってきた。多義的という言葉自体,曖昧な 表現かもしれない。しかし,この「多義的な解釈」にこそ,本作品の曖昧性 の意図を探る鍵が隠されている。本作品の「結末」にはどのような意味があ るのだろうか。 「この小説について確かなのは,何一つ確かではないことであり,結末の 曖昧さも作者の意図である」とウィニフリス(Tom Winnifrith)は述べ(151 −52),ブーメラ(Penny Boumelha)は,この小説は「十九世紀でもっと も不可解な小説である」と論じる(100)。この主な理由は,「過去」を語ろ うとしない語り手で女主人公のルーシー・スノウ(Lucy Snowe)の姿勢に 69

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ある。また,彼 女 と の 関 係 に お け る マ ダ ム ・ ベ ッ ク ( Modeste Maria Beck)の役割についても看過することはできない。彼女はルーシーとの初 対面からずっと「不可解な」,つまり理由がつかないような数々の行動をと るからである。このような点から,この作品の解釈は確かに,ルーシー・ス ノウの言葉に見られるように,「読者の想像力に委ねられている」(496)。 しかし,ルーシーのこのような語り口はこれまでに指摘されてきたように, 『 教 授 』( The Professor, 1857 ) の 主 人 公 ク リ ム ズ ワ ー ス ( William Crimsworth)や『ジェイン・エア』(Jane Eyre, 1847)のジェイン(Jane Eyre)のそれとは全く異なっている。彼女はエンディングでこう述べる。

Here pause: pause at once. There is enough said. Trouble no quiet, kind heart; leave sunny imaginations hope. Let it be theirs to conceive the delight of joy born again fresh out of great terror, the rapture of rescue from peril, the wondrous reprieve from dread, the fruition of return. Let them picture union and a happy succeeding life.(496) ここでルーシーは「十分に語った」と主張する。しかし,語り手としての彼 女は何をどのように,「十分に」説明し尽くしたといえるのだろうか。 なぜ彼女は「曖昧」という鎧の中でしか語ることができなかったのだろう か。まず,このような曖昧な表現方法が,ルーシーの主体性の問題と結びつ いていることを提起したい。『ジェイン・エア』のジェインとは対照的に, ルーシー・スノウは,心の奥底にはジェインと相通じる激しい感情があるこ とを一部では認めながらも,そのような感情はないのだと自らを幾度となく 諭そうとする。その態度には一貫性があり,最愛の人物の「最期」に関して も,彼女は真の感情を隠し通す。 そこで,ルーシーのこのような戦略的な技巧の意図を探るために,感情と 抑制との狭間に生じた隙間を埋める役割を果たす,ある描写に着目したい。 「霧」の描写である。ルーシーが意を決して人生の次なるステップに進もう 70 西 山 裕 子

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とするとき,なぜ,「霧」が繰り返して描写されているのだろうか。しか も,別の形で同様の場面が再現されていることにはどのような意味があるの だろうか。 小説のエンディングでは,霧の描写は象徴的に描かれている。しかしなが ら,気象や,嵐,難破といった観点からの分析はなされてきたものの, 「霧」の視点からルーシーの主体性に迫った先行研究は見られない。この問 題を「霧」の描写から再考することによって,別の角度からエンディングの 意味を暴くことが可能になるのではないだろうか。 これまでの研究では,とりわけ自叙伝的な要素において酷似している『教 授』との関係を踏まえたうえで,ルーシーと作中人物との関係を分析する論 考や,ルーシーの語りの手法に着目して曖昧な描写の解読に迫ったものが多 い。さらには,女主人公で語り手が登場する教養小説として,『ジェイン・ エア』とも度々比較されてきた。実際のところ,『教授』と『ヴィレット』 両作品の相違点に着目して,ファルコナー(J. A. Falconer)が「霧」の場 面に関して触れている。しかしながら,ルーシーが大陸に着いたときの描写 を『教授』でクリムズワースが大陸に渡ったときの状況と比較し,『ヴィレ ット』は,『教授』よりも描写方法において様々な工夫がなされており,ロ マンスに溢れているのだと論じているにすぎない(36)。 本稿では,“fog”という言葉とその縁語に着目し,繰り返される「霧」の 描写と,同様の場面の再現を通じて,ルーシー・スノウとポーリーナ・メア リ・ホウム(Paulina Mary Home),マダム・ベック,さらには,ムッシュ ー・ポール(Mousier Paul Emanuel)との関係が新たな形で展開する過程 を考察する。その相関関係によって,最終的には「霧」の描写が,ルーシー ヒント ・スノウの深層心理を明かす鍵となっていること明示し,その「繰り返し」 が,本作品の「曖昧な」語りの向こうに隠されたエンディングの意味を明ら かにする術となっていることを論じていきたい。 シャーロット・ブロンテ『ヴィレット』における反復 71

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エンディングにおける「霧の描写」で,ルーシーはポールの帰国を待つ。 彼は「もうすぐ帰ってくる」。しかしながら,問題は,この後の描写が途切 れていることである。確かに,先に述べたルーシーの「わたしは,十分に語 った」という言葉にみられるように,小説の「空白」に対する解釈は「読者 の想像力」に委ねられている。しかしながら,この空白が問題なのである。 ルーシーが意図的に「空白」を作っているとすれば,結論部分の「曖昧な」 霧の描写を分析する前に,まず,冒頭に遡って,空白を作ろうとしたルーシ ーの性質を確認する必要があるだろう。 冒頭の場面では,ルーシー自身による内面描写はない。しかしながら,孤 児ルーシーが心のよりどころとしていたブレトン家(The Brettons)に突 如として現れた少女,ポーリーナ・メアリ・ホウムを眺める彼女の眼差し は,ルーシーに内在する一つの特質をわれわれに提示している。 ルーシーは,観察の対象としてじっと彼女を眺める。この冒頭の行為は, ルーシーの「名づけ親」,ブレトン夫人の許に「二番目の客」としてポーリ ーナが逗留するようになってから顕著に記されている。ポーリーナは,ブレ トン家の一人息子,ジョン・グレアム(John Graham Bretton)と接する ことで,療養のため大陸に発った父の不在から生じる寂しさを埋め,彼を 「独占(monopolize)」することで,自分の本当の気持ちを「抑える」。この 六歳のポーリーナのことを,ルーシーはじっと眺め,われわれに常に「報 告」する。ここで重要な点は,このルーシーの行為は,単に相手を観察する 以上の意味を持つことである。何故,ルーシーは自!ら!の!価!値!観!を!露!呈!す!る!た! め!に!ポーリーナというフィルターを通さなくてはならなかったのだろうか。

One would have thought the child[Paulina Mary Home]had no mind or life of her own, but must necessarily live, move, and have her being in another: now that her father was taken from her, she

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nestled to Graham[Bretton],and seemed to feel by his feelings: to exist in his existence.(25, underline mine)

ヒント

それを解くための鍵は,下線部の,「彼の存在のなかに存在していた(to ex-ist in his exex-istence)」というポーリーナについての描写に見られる。ポー リーナを観察し,当時の状況を説明することによって自分の“history”に も関与するというルーシーの手法は,裏を返せば,ルーシー自身にも抑圧さ れた感情があり,その感情は常に何らかの媒体を通すことによってしか明か されないことを暗示するからである。つまり,ポーリーナは,ルーシーに隠 された性質を補完する役割を果たすために冒頭で登!場!し!な!け!れ!ば!な!ら!な!か!っ! た!のである。このような二人の相関性については,リンダー(Cynthia A. Linder)も言及している(98)。 しかしながら,ルーシーの感情がポーリーナのそれと並行する形で露呈さ れているとはいうものの,ルーシーの少女時代におけるこの二人の関係から は,ルーシーの心情の核心にまで迫ることはできない。その理由は,一つ に,ポーリーナはルーシーの一面だけを表面化する役割だけを担っているこ とが挙げられる。その後,わずか冒頭の三章でルーシーの前から姿を消すこ とになる彼女に成り代わって,ルーシーの性質を導く別の登場人物が次々と 登場することも,本作品の謎を深める要因となっている。本作品における曖 昧性とは,ルーシーの隠蔽行為にその多くの原因があると考えられてきた。 しかし,ルーシーの性質を説明する立場にある作中人物が,度々入れ替わる ことも問題なのである。 では,彼女に次いで「誰」が彼女の内面を「表す」のだろうか。ポーリー ナが去った後,ほどなくルーシーもブレトン家を去る。ここに,更なる八年 間の空白が描かれている。詳細は何も明かされることはない。親戚,縁者, さらには両親も失い,その間にブレトン一家の消息もはっきりと分からなく なったため,ルーシーは文字通り孤軍奮闘し,人生の航海へと果敢に一人き りで進む。そのような状況において,「霧」はルーシーに転換期を与える重 要な役割を担っているのである。 シャーロット・ブロンテ『ヴィレット』における反復 73

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まず,第七章の「霧」の描写に焦点を当てたい。“fog”という言葉は,複 数形も含めれば作品内で六回使われている。しかし,重要なことは,その頻 出回数にあるのではない。むしろ,その意義は,この言葉が結末へのプロロ ーグとしてルーシーの悲劇的な運命を予示し,彼女の心中を巧妙に「隠す」 手助けをしていることにある。

Somewhat bare, flat, and treeless was the route along which our journey lay; and slimy canals crept, like half-torpid green snakes, beside the road; and formal pollard willows edged level fields, tilled like kitchen-garden beds. The sky too was monotonously gray; the atmosphere was stagnant and humid; yet amidst all these

deaden-ing influences, my fancy budded fresh and my heart basked in

sun-shine. These feelings, however, were well kept in check by the se-cret but ceaseless consciousness of anxiety lying in wait on enjoy-ment, like a tiger crouched in a jungle. . . .

I[Lucy Snowe]had hoped we might reach Villette ere night set in, and that thus I might escape the deeper embarrassment which obscurity seems to throw round a first arrival at an unknown

bourne; but, what with our slow progress and long stoppages−what with a thick fog and small, dense rain−darkness that might almost be felt, had settled on the city by the time we gained its[ the city’s]suburbs.(60−61, italics and underline mine)

この引用文で「霧」は,「境界線(“bourne”)」という言葉で示唆されてい るように,ルーシーにとって人生の分岐点としての境界線を表象している。 また,引用の下線部,“I had hoped”という表現は,ルーシーの不安感の 表れでもある。彼女は,未知なる世界への船出に際して,暗くなるまでには 何としてでもヴィレットの街に着きたいと考えている。そのほうが自分に有 利に働くと考えているからだ。もし,「霧」がかかっていなければ,ルーシ

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ーの期待通りに,夜の帳が降りる前に「境界線」としての人生の岐路に着く ことができたのかもしれない。しかし実際には,ルーシーが到着したのは 「霧」の夜のことだった。

ルーシーにとって,ヴィレットの街の印象は次のような言葉で象徴的に示 されている。引用文にある,“bare,”“flat,”“treeless,”“slimy,” “monoto-nously grey,”“ stagnant and humid, ” さ ら に は ,“ deadening influ-ences”などの言葉である。『ジェイン・エア』の第五章と同様に,「霧」に 阻まれて向こう側の景色がはっきりと見えないという状況は,ルーシーの生 き方やヴィレットでの運命を表象する重要なモチーフである。また,「霧」 は,暗く,陰鬱なルーシーの門出における,彼女の心情,“secret but cease-less consciousness of anxiety”を反映している。

結論として,この場面において「霧」の描写は,大陸に渡ってヴィレット の街に初めて足を踏み入れたルーシー・スノウの生き方を効果的に語る一方 で,彼女の内面を覆い隠す働きを持つ。さらには,「陰鬱な」門出を演出す るこの描写は,マダム・ベックとムッシュー・ポールとの,ルーシーの後の 関係を予兆するものでもある。従って,この観点から分析すれば,ルーシー が英国から大陸に渡った夜にヴィレットの街一円が「霧」に包まれた状況は 単なる偶然の一致なのではない。また,引用文中の“deadening influ-ences”という言葉は,後のルーシーの性質の変化を暗示していることも, ここで先だって指摘しておきたい。

マダム・ベックとルーシーとの出会いもまた,偶然ではない。これは, 「霧」の描写がルーシーの内面の吐露に欠かせない役割を担っていることを 裏付けている。

He[an English man, who later proves to be John Graham] moved on, and I[Lucy]followed him, through the darkness and the

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small soaking rain. The Boulevard was all deserted, its path miry, the water dripping from its trees; the park was black as midnight. In the double gloom of trees and fog, I could not see my guide; I could only follow his tread. Not the least fear had I : I believe I would have followed that frank tread, through continual night, to the world’s end.(63, italics and underlines mine)

夜になってヴィレットに着いたルーシーは,イギリス人の男性に案内さ れ,夜の闇に降りしきる雨の中,宿屋に向かう。この場面は,ここでも同様 に,下線部の“fog”という言葉と,その状況を示す,“darkness,”“all de-serted,”“black,”“gloom,”という一連の表現によって暗雲に包まれたルー シーの人生を如実に示している。ルーシーは暗闇の中を,最初は,後になっ てジョン・グレアムだと明かされることになる,「案内人」の後ろについて 目的地を目指しているが,そのすぐ後で見知らぬ男性から背後をつけ狙われ ている。この状況は,ルーシーの深層心理を明かす重要な手掛かりとなって いると考えられないだろうか。つまり,追うものとしてのルーシーが,追わ れるものでもあるということは,相矛盾する二つの機能が常に隣り合わせの 関係にあることを露呈している。そのため,ここに見られる描写は,自己表 現と自己抑制の狭間で揺れる彼女の深層心理を間接的に示すことになるので ある。

Just as I passed a portico, two moustachioed men came suddenly from behind the pillars; they were smoking cigars, their dress im-plied pretensions to the rank of gentlemen, but, poor things! they were very plebeian in soul. They spoke with insolence, and, fast as I walked, they kept pace with me a long way.(64, italics mine)

文中の,“portico,”“pillars,”“plebeian”といったゴシックの情景描写 は,物語の背景に読者の目を向けさせることで,登場人物の心理描写を隠す

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役割を果たす。しかし,この三つの言葉の中で最も意味深長な描写は, “ple-beian in soul”(イタリクスは筆者)である。それは,この表現の奥に,内 面と外面とのギャップを示し,表に見えている部分の奥には必ず,眼では見 ることのできない物事の核心が隠されていることが含意されているからであ る。いわば,この手法は「霧」の描写がルーシーの本心を隠すために用いら れていることと類似している。加えて,このゴシック的な描写に隠された 「追われている者」としてのルーシーが同時に「追う者でもある」という鏡 像関係は,語り手であるにも関わらず「語ろうとしない」ルーシーのアンビ バレンスを解明するための重要な要素でもある。 このような関連性は,ルーシーとマダム・ベックとの関係にも示されてい る。マダム・ベックが不可解な人物であることについては,多くの批評で既 に論じられてきた。しかし,問題は,マダム・ベックの「検閲」的な行為, 彼女の,“scrutiny”(70),“surveillance”(72),“espionage”(72)とい う行為が,ルーシーにとってどのような影響を及ぼすことができたのかとい う点である。 小説全体において,彼女は,ルーシーの行く手を「阻む」役割を担ってい る。ルーシーがマダム・ベックの寄宿学校に着いた最初の日,真夜中にルー シーの就寝時に,マダム・ベックは「ルーシーのあらゆる持ちものを〈検 閲〉し」,「音のしない室内履きを履いて,建物中をうろつく」(73)。「わた しの背後にはいつも,室内履きを履いたマダム・ベックがいて,すばやく, 音も立てずに,思いもかけないときに,現れるのだった」(84)という彼女 に対するルーシーの説明は,追われるものであったという先の状況と同様 に,マダム・ベックの寄宿舎でも常に背後から見られる立場にあることを示 している。しかしながら,同時に,このマダム・ベックの行為は,ルーシー の二重性を暴き出す。冒頭のルーシーの性質を振り返れば,「行動を監視」 し,「鍵穴から覗く」といったマダム・ベックの行為は,ルーシー自身の性 質と同一視することができるからである。 冒頭において,ポーリーナとジョン・グレアムを常に一定の距離を保って 見つめるルーシーは,自分が「傍観者」であることを強調する。ポーリーナ シャーロット・ブロンテ『ヴィレット』における反復 77

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がブレトン家に身を寄せるようになった作品の冒頭から,ルーシーが他者を 「観察する」性質を持つ人物であることを考慮に入れるならば,ヴィレット でのマダム・ベックの行為は,ジョン・グレアムとポーリーナをじっと観察 していたルーシーの行為とも相通じる。かつて,自分以外の別の人物が居場 所の中心的人物として突如として現れ入ったことでルーシーが影のような存 在に転じたことと同じように,ヴィレットでは,今度は,ルーシーの出現が マダム・ベックの未来を脅かしているのである。 ルーシーとマダム・ベックのこのような共通の特徴を考えると,「霧」の 夜にルーシーがヴィレットに到着したのは,一つには互いの存在を補完する ためであり,また,他方では,強調し合うためなのである。このようなルー シーの二面性,さらには,二人の関連性については,イーグルトン(Terry Eagleton)やジェイコバス(Mary Jacobus)が指摘している。イーグルト ンは,マダム・ベックは「ルーシーが,持ちたいと願っていた力を持つ」 (65−66)と考え,ジェイコバスは,「マダム・ベックがルーシーの性質を映 し出す」(130)と論じる。しかし,二人の関係は本当にこれだけなのだろ うか。 ルーシーとマダム・ベックとの関係においては,「霧」の描写は,表向き は「消極的に」生きようとするルーシーの内面に実は,マダム・ベックの監 視行為と同様の,他者を監視する性質があることを間接的に暴き出すツール として機能している。「自分の意見もあながち間違いではない」(309)と考 えることで“somebody”でありたいと願うルーシーは,「霧」の描写によっ て,結果的に,自らの二面性を吐露しているのではないだろうか。ゆえに 「霧」の描写は,彼女のこのような側面を雄弁に物語るツールとして働いて いるのである。

このようにして,“fog”は,マダム・ベックとルーシーとの類似点,さら には,ルーシーが故意に隠そうとした特質を暴き出す。「霧」の描写に象徴 78 西 山 裕 子

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的に示されているように,「霧」は彼女の内面描写の「空白」を別の方向か ら浮き彫りにする役割を果たしているのである。しかし,霧の描写には,看 過できないもう一つの側面がある。 実際,「霧」の描写は一場面で使われた時よりも繰り返し用いられたとき にその効果を発揮する。では,この繰り返しにどのような意味があるのだろ うか。なぜ,かつてルーシーがヴィレットに着いた初めての夜が,夏の休暇 の後,彼女が再び寄宿舎に戻る場面で再現されなくてはならないのだろう か。意味上で類縁的な関係にある,“drizzle”という言葉に“fog”という言 葉が置き換えられたとき,「霧」の描写にはルーシーに内在するもう一つの 性質を暴くための別のアプローチがあることが提示されている。

It was dark when Dr. John handed me from the carriage at Madame Beck’s door. The lamp above was lit; it rained a November

drizzle, as it had rained all day: the lamplight gleamed on the wet

pavement. Just such a night was it as that on which, not a year ago, I had first stopped at this very threshold; just similar was the scene. I remembered the very shapes of the paving-stones which I had noted with idle eye, while, with a thick-beating heart, I waited the unclosing of that door at which I stood−a solitary and a suppli-ant. On that night, too, I had briefly met him who now stood with me. Had I ever reminded him of that rencontre, or explained it? I had not, nor ever felt the inclination to do so : it was a pleasant thought, laid by in my own mind, and best kept there.(227, italics and underline mine)

ここで重要な点は,最初の「霧」の場面では具体的に描かれることがなか ったルーシーの感情が明示されていることである。語る機会は何時でもあっ たはずだ。それなのに,「実際にはしなかった(laid by in my own mind, and best kept there)」,むしろ,「語らないことを選択した」ことを示すこの引

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用文の下線部は,ルーシーの内面に強い意志が隠されていることを例示して いる。従来の批評では,ルーシー・スノウは,『ジェイン・エア』のジェイ ンと対照的な語り方をする「控えめな」ヒロインと目されてきた。しかし両 者は,表現方法こそ違うものの,その本質は同じなのである。ルーシーはジ ェインと正反対の「内向的な」ヒロインとはいえない。このことを証明する ために,別の観点からルーシーの内面の吐露を考察してゆきたい。 この“November drizzle”の場面は,「理性」と「感情」の間で揺れるル ーシーの苦悶を示唆するクライマックスである。彼女にとって「真の名づけ 親」は,彼女の言葉にみられるように,「理性」である。自分が「理性」に 縛られていると考えるルーシーの心情は,“It[Lucy’s rencontre with John Graham]was a pleasant thought, laid by in my own mind, but best kept there.”(227)とか,“But if I feel, may I never express?”(229)と表現 されている。つまり,ルーシーの葛藤を示すこれらの内面描写は,「理性」 と「感情」との間で一種の「交代」が行われるプロローグとなっているので ある。また,理性から感情へと彼女の心が次第に傾斜してゆくことは,結末 に繋がる鍵を呈している。「理性」から「感情」へのこの移行は,「理性」 の,“‘Never!’ Declared Reason.”(229)という絶え間ない働きかけのため に常に自分の感情を抑制してきた彼女にとって,「幸福」な感情すら押し殺 さなくてはならない新たな苦悩へと彼女を誘うのである。“Lucy made im-perious rules, prohibiting under deadly penalties all weak retrospect of happiness past. . . .(231)”に見られる“deadly”という言葉は,先の引 用の“deadening influence”と同じように,ルーシーの「最期」を予示 し,エンディングの「ポールの死」に結びつくからである。 また,「霧雨の夜」の繰り返しについては別の解釈も可能である。11 月の “drizzle”が降るこの場面までは,ルーシーは「理性」と「感情」の,二人 の“master”(253)に仕えている。しかしながら,マタイ伝(Matt. 6: 24)にあるように,二人の主人に同時に仕えることは不可能である。とい うことは,そのどちらかを取捨選択することは,どちらか一方を「諦めなく てはならない」,ルーシーの未来を暗示する行為となっている。ゆえに,「未 80 西 山 裕 子

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来の空白」を埋める手掛かりをわれわれに与えていると考えられる。つま り,霧の描写が繰り返された結果,ついに彼女は「理性」という主人から 「感情」というもう一方の「主人」を選ぶ。しかし,結局は,どちらか一方 を選ぶということは,他方の「死」を迎えることを意味するのだ。このよう なルーシーの変化の中に,曖昧な形でしか描かれることがなかった,エンデ ィングにおけるムッシュー・ポールの死を重ね合わすことが可能になるので ある。 この描写を,今度はムッシュー・ポールの側から考えてみたい。この場面 で「霧」という言葉が“drizzle”に置き換えられたとき,ルーシーに転換 期を与える人物は,ムッシュー・ポールであることは明白だ。一見したとこ ろ,「霧」は形式上では同じパターンの繰り返しのように見えるかもしれな い。しかしながら,ヴィレットの街での彼女の新たな門出を意味する第二十 一章の「霧」の描写では,ルーシーの二面性が今度はムッシュー・ポールに よって明かされている。 「霧」,言い換えれば,“fog”という言葉は,“obscure”な状態であり,暗 闇を引き起こす原因となるものと定義されている(OED“fog”n., 2. 2.)。 この“fog”を動詞として考えれば OED の二番目の意味として,やはり, 比喩的に,誰かを霧の中に置くということは,人を惑わせ,曖昧な状態にす ることだとある(OED“fog”v., 2. 2. fig.)。しかしながら,“obscure”と 同じ意味の,“vague”という表現は,ルーシーの心情を表す言葉としては 使われてはいない。この言葉はむしろ,第七章で,ムッシュー・ポールを描 写するために使われている。これはなぜなのだろうか。結論から言えば,そ の理由は,ここにおいても,ルーシーの未来を予兆する「霧」の描写は,ル ーシーとポールの「結末」に繋がっているからなのである。

Still he[M. Paul]scrutinized. The judgment, when it at last came, was as indefinite as what had gone before it.

“Engage her[Lucy]. If good predominates in that nature, the action will bring its own reward; if evil−eh bien! ma

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dame Back],ce sera toujours une bonne œuvre.”And with a bow and a“bon soir,”this vague arbiter of my destiny vanished. And ma-dame did engage me that very night− by God’s blessing I was spared the necessity of passing forth again into the lonesome, dreary, hostile street.(67, underline mine)

この引用の下線部,“this vague arbiter of my destiny”に着目すれば,ル ーシーの人生に多大な影響をもたらす人物は,ルーシーの採用に関して「決 定 権 を 委 ね ら れ た 」 ム ッ シ ュ ー ・ ポ ー ル で あ る こ と は 明 白 だ 。 こ の “vague”とは,ルーシーが置かれた状況の曖昧さを示すと同時に,ポール 自身が曖昧な立場にいることも含意する。つまり,“arbiter”としてのポー ルが小説のエンディングを決定する役割を担っていることを,「霧」の描写 が示唆しているのである。 ルーシーは,自分は誰からも気が付かれることのない,影のような存在だ と主張してきた。マダム・ベックからは,「観察の対象(object of study)」 (76)としてみなされながらも,自分のことを単なる“passive shadow” (108)であると釈明する。夜のように“obscure”(123)で,はっきりしな い存在だと自らを喩え,好んで「孤独」(126)を択び,「人生の傍観者」 (141)として「影としての存在は人の害にならない(inoffensive as a shadow)」(317)とも繰り返し述べる。しかしながら,彼女は冒頭からず っと本心をわれわれに「隠そう」としてきたため,彼女のこういった言葉は 信憑性に欠いている。マーティン(Robert Martin),モグレン(Helene Mo-glen),ジェイコバス,ギルバート(Sandra Gilbert)やグーバー(Susan Gubar)は彼女を信頼できない語り手であると考えるが,本稿でこれまでに 考察してきた「霧の描写」の意義と彼女の隠蔽行為との相関性を踏まえてみ れば,「隠そうとする」彼女の一連の行為は,作為的に「隠されれば」され るほどに,彼女の意図とは裏腹に,より一層その「中身」を明かすのではな いか。つまり,「霧」の描写は,ルーシーの心情を隠すと同時に,暴き出 す。一見矛盾するこのような相容れない性質は,「霧」が「意図的に話そう 82 西 山 裕 子

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としない」ルーシーの意志を明確に示す媒体として作用することを表してい る。

しかしながら,ジネブラ・ファンショー(Ginevra Fanshawe)だけは他 の登場人物とは違う視点を持つ。彼女だけがルーシーに“Who are you, Lucy Snowe?”(307)と問い,ルーシーの主体性に真っ向から迫ろうとするからで ある。しかし,相変わらずルーシーは「仮面を被った(a parsonage in dis-guise)」(308)曖昧な語りのなかで自分の意思を明確に示すことなく,自 らの言説を他者のそれとすり替えることによって自己構築しようとする。結 局,彼女の主体性に迫ろうとしたジネヴィラでさえも,ポーリーナと同様に ルーシーの一義的な面を炙り出すことしかできない。それは,この二人は観 察眼を持ったムッシュー・ポールと違って,ルーシーが苦悩し,葛藤する場 面では現れることがないからである。 では,ムッシュー・ポールはこの点に関してどのように関与しているのだ ろうか。彼の場合,ルーシーがヴィレットについた時からずっと彼女の内面 性にまで鋭く“scrutinize”し続ける役割を担っている。このような彼のル ーシーへの一貫した眼差しこそが,ルーシーの意図を見事に覆している。

“Well done, Lucy Snowe!”cried I to myself;“. . . You deemed yourself a melancholy sober-sides enough! Miss Fanshawe there re-gards you as a second Diogenes. . . . Dr. John Bretton knows you only as ‘quiet Lucy’−‘a creature inoffensive as a shadow;’ he has said, and you have heard him say it: ‘Lucy’s disadvantages spring from over-gravity in tastes and manner−want of colour in charac-ter and costume.’ Such are your own and your friends’ impressions; and behold! there starts up a little man[M. Paul],differing diamet-rically from all these, roundly charging you with being too airy and cheery−too volatile and versatile−too flowery and coloury. . . . You are well habituated to be passed by as a shadow in Life’s sunshine: it is a new thing to see one testily lifting his hand to screen his

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eyes, because you tease him with an obtrusive ray.”(333−34, italics and underlines mine)

ルーシーは「影のように人に害をあたえることのない,静か(‘quiet Lucy’−‘a creature inoffensive as a shadow’)」で「性格も衣服も色彩が乏 しい(‘want of colour in character and costume’)」人物だと目されてい る。しかし,実は,彼女は「生き生きとしている(coloury)」とムッシュー ・ポールは考える。この引用文の下から 2 行目にあるように「人生の日な たではいつも影として無視されていたルーシー・スノウが初めて一人の人間 から目を向けられた」ということは,エンディングへと繋がる重要な要素と なっている。つまり,「バジリスク(basilisk)」(336)のような眼でルーシ ーの「胸の奥に隠された考えを見透かし,表面の下に潜む精神の核心部分を 見分けることのできた」(336)唯一の人物として,ムッシュー・ポールは ルーシーの人生に関与しているからである。 要するに,第七章における「霧」の夜は,第二十一章で言い換えられるこ とによって,ムッシュー・ポールが,ルーシーの“pivot”として,彼女の 生き方に転機をもたらしたことを示している。このようなムッシュー・ポー ルの役割を踏まえれば,「霧」は,ルーシーとポールの出会い以降は,むし エージェント ろ,ルーシーの内面を語らせる媒体としてルーシーの変化を具体的に示す機 能を持つ。さらには,このような「霧」の描写は,最終章でのポールの不在 において,「ポールのいない三年間が,人生で最も幸せだった」と考えるル ーシーの意図を暴露する手掛かりを与えているのである。

以上のように,ルーシーは,ムッシュー・ポールによって「向こうに(go beyond)」(383)隠されている真の性質を引き出されるまでは,故意に「影 として」,あたかも「霧」が物事を覆い隠すように,自己を隠し続けていた。 しかしながら,押さえ込んでいた感情を吐露するための仕掛けとして「霧」 84 西 山 裕 子

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が繰り返し描写されており,それらの比喩的な描写は,ルーシーが「理性」 を捨てて「感情」を選ぶ過程を露にしている。結果として,「霧」は,最初 は,マダム・ベックを通じて,次に,ムッシュー・ポールを介して,他者と ヒント の繋がりのなかで,ルーシーの主体性を明かす鍵を与えているのである。 「目立たぬことも,陰気であることも,ともに自!発!的!な!ものでなければなら ない」(傍点は筆者,298)と主張するルーシーの言葉は,彼女が感情を選 プレリュード 択した証であり,同時に「最期」を受け入れる序章となっている。 最後に,エンディングにおけるマダム・ベックの行為に秘められた意図を 分析してみたい。マダム・ベックが,あるときはルーシーを「隠し」,別の 時にはルーシーの「後に続く」ことは何を意味しているのであろうか。ま た,そのことは,「霧」が明かしたルーシーの主体性とどのような関連があ るのだろうか。マダム・ベックが持ち合わせているこのような反目する性質 は,まさに気象としての「霧」が景色を見え隠しする現象と類似している。 マダム・ベックは,危機に直面したときにはルーシーが「自己主張できな い([Lucy’s]total default of self-assertion)」(444)性質があることを承 知の上で,ルーシーの行く手を阻む機会を狡猾に利用する。ムッシュー・ポ ールが別れの挨拶に女学校にやってきたとき彼女はわざと「ルーシーを覆い 隠す」からだ。

And I put down my pen and left her. Left her? No: she would not be left: powerless to detain me, she rose and followed, close as

my shadow. . . .

I felt it hard that Madame Beck should dog me thus; following and watching me close; my neck and shoulder shrunk in fever un-der her breath; I became terribly goaded.

He was approaching ; the semi-circle was almost travelled round; he came to the last pupil; he turned. But Madame was be-fore me; she had stepped out suddenly; she seemed to magnify her proportions and amplify her drapery; she eclipsed me; I was hid .

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(444, italics mine) 「マダム・ベックが影のように(ルーシーの後ろから)ついてゆく」(444) 態度と,その反面で,ルーシーを「覆い隠す」という行為は,マダム・ベッ クがルーシーの「対等者(rival)」(447)として存在し続けていたことを示 している。彼女は,ルーシーの影として,時にはルーシーの性質を映し出す 鏡となり,また別の時には,行く手を阻む「障壁」として存在している。従 って,「霧」がヴィレットを覆うとき,「霧」はマダム・ベックの「絶え間な い監視の眼(the surveillance of a sleepless eye)」(409)としての機能を 果たしているのである。 エンディングに至るまでに,一度だけ「霧が晴れる」。マダム・ベックの 「眼」を逃れて,ルーシーとポールがともに過ごした最期の時間のことであ る。自分がいない三年間にルーシーが自活していけるようにとポールがルー シーのために準備した学校は,その場所にいる限り,ポールの不在において もルーシーに未来への希望をもたらしている。しかし,これが束の間の「霧 の晴れ間」に他ならないことは,次の二つの理由がある。 まず,ポールが名づけた女学校が,“Faubourg”(486)という住所にあ ることだ。十五世紀から使われているこの言葉は,OED の説明にあるよう に,“false,”“foreign,”“outside,”さらには,“within the walls”といっ た言葉と深く関係している(OED“faubourg”)。壁とは,マダム・ベック の女子学院の「壁」をも想起させ,また,ルーシーを心身ともに「閉じ込 め」,夏の休暇の後に彼女の精神を衰弱させた,あのマダム・ベックの「監 房」を暗示している。また,月の明かりのなかで二人が幸福に歩く場面は, 『ジェイン・エア』でロチェスターとジェインが「庭」を歩く場面と類似し ているが,実際には,この二つの小説では,二人にとって至福の時間となる はずの情景描写は,「霧」のように脆く,儚く,いつ消えゆくものとも知れ ない。『教授』のゾライード(Zoraïde Reuter)の庭,『ジェイン・エア』の ロチェスター(Edward Rochester)の庭のように,エデンの園を想起させ る「庭」は,「恋人たちの」至福と別離とを常に表裏一体の関係として描き 86 西 山 裕 子

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出す。この観点から考えれば,霧の晴れ間にわれわれが垣間見ることができ るルーシーの幸せな瞬間は,危険なほどに壊れやすく,常に“paradox” (493)を含意しているのである。

以上,様々な角度から霧の機能を考察してきたところで,エンディングに おける「霧」の描写について最終的な意味に踏み込んでみたい。

And now the three years are past: M. Emanuel’s return is fixed. It is Autumn; he is to be with me ere the mists of November come. . . .

The sun passes the equinox; the days shorten, the leaves grow sere; but−he is coming.

Frosts appear at night; November has sent his fogs in advance; the wind takes its autumn moan; but−he is coming.

The skies hang full and dark. . . . I know some signs of the sky; I have noted them ever since childhood. God, watch that sail! Oh! guard it!

The wind shifts to the west. Peace, peace, Banshee. . . .

That storm[Banshee]roared frenzied for seven days. It did not cease till the Atlantic was strewn with wrecks. . . .(495, italics mine) ここでは,霧の描写は,“mist”と“fogs”という二つの言葉に置き換えら れている。この“mist”は『教授』や『ジェイン・エア』でも用いられて いるが,そこには,英国に対する主人公の愛着が込められている。しかし, この引用文では,“moan”という言葉が意味深長である。昼と夜とを隔て る分岐点,さらには,季節の移り変わりを示す“equinox”としてのエンデ ィングの,この「霧」の描写は,生と死を分ける境界線となっており,発音 上で“mourn”という表現を想起させることで,ルーシーの「埋葬」を浮 き彫りにする効果をもたらしている。ルーシーは“leave sunny imaginations

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hope”(496)と述べ,現実の中での幸福を求めることなく,イマジネーシ ョンのなかでの幸福を訴えかけている。その場においては自分を“happier than most queen of palaces”(244)と説明し,“I believe that this life is not all; neither the beginning nor the end.”(361)と告白しているからで ある。 本作品は,単に,多様な解釈を許容する空白を意味なく多用しているので はない。そこには,ルーシーの,同時に,このテキストを生み出したときの 「作者」の意図が隠されている。「空白」を読者のイマジネーションに任せ て,あらゆる解釈を引き出そうとする白髪となった「わたし」,ルーシー・ スノウの行為は「霧」の描写を隠れ蓑として,確かに,ルーシーの心情を如 実に示すツールとして機能している。しかし,「見え隠し」するその手法の 中にこそ,彼女の真意が隠されているのである。

「霧」という観点からルーシー・スノウの性質と主体性,ナレーションの 技法,ひいては,エンディングの「空白」の意味を考察したとき,「霧」 は,反復の効果によって,物事の両義的な側面を一層引き立てる役割を果た している。物事は,曖昧に表現されたときにのみ初めて多様性を帯びること ができる。先の一人称小説となる『教授』で,女主人公フランシス・アンリ (Frances Henri)の言葉を借りて「語ろうとした」男性主人公クリムズワ ースの姿勢,また,同様に『ジェイン・エア』では,「氷を溶かす力をもつ ほどの」情熱を持ったジェインが模索した理想の生き方は,『ヴィレット』 においてルーシーの「曖昧な」行為のなかにパラドックスとして集約されて いるのである。 しかしながら,物事を見え隠しする多義的な側面のみに,語り手としての ルーシーは満足することはない。かつて,幼いジェインがゲイツヘッド (Gateshead Hall)の窓から文字通り外の世界を眺めていたように,未知の 領域に踏み出したいと願う彼女の悲痛なまでの叫び声は本作品で“But here 88 西 山 裕 子

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I cannot stay; I am still to near old haunts; so close under the dungeon, I can hear the prisoner moan. This solemn peace is not what I seek, it is not what I can bear. . . .”(451)というルーシーの言葉に置き換えられて いる。 自分自身を“prisoner”に喩えて束縛と現実からの解放を求め続け,結末 を「読者の想像力に任せる」ルーシー・スノウは,ウィリアム・クリムズワ ースやジェイン・エアとは違って,現実にしっかりと向きあい,曖昧なナレ ーションが何を意味するのかを十分に理解していたからこそ,このような術 をなし得たのである。「カラー・ベル」の遺作としての「自叙伝」,『ヴィレ ット』における空白は「消え去ってはたち現れる記憶」(179)を再現する ルーシーのナレーションにおいて,過去,現在と未来の,「時」の循環作用 を暗示する。『ヴィレット』における曖昧なこの「エンディング」は,喩え 実体は伴っていなくても,「記憶(memory)」(179)と「イマジネーション (imagination)」(496)に存在し得る限り,生と死という“dungeon”を超 えて始まりと終わりが絶えず廻り続けることをわれわれに印象付けている。 *本稿は,日本ブロンテ協会 2009 年度全国大会(10 月 17 日,於横浜市立大学金沢 八景キャンパス)での口頭発表に加筆,修正を加えたものである。 参考文献

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