はじめに 益田孝︵鈍翁︶らの近代数寄者の多くは茶道家元の流儀を意識せず 茶事を行ったといわれている ︵1 ︶ 。昭和五年 ︵ 一九三〇︶六月に根津 嘉一郎︵青山︶の﹁夜話会﹂に招かれた高橋義雄︵箒庵︶が、 会心の茶友相会して今夕の如く打寛いで一夕の驩を尽すのは、是 れぞ我が茶事の本旨で、彼の手前本位で窮屈にのみ立振舞ふを能 事と思ひ作すは所謂形式茶家流の僻事である ︵2︶ と、喝破した様に根津も益田や高橋などと同様に流儀にはほとんど こだわらなかった。高橋の主張した﹁趣味至上主義﹂に徹していたと いってよい。事実、高橋は昭和七年に﹁茶道経国﹂を掲げ松殿山荘茶 道会を創設した高谷恒太郎︵宗範︶との間で茶道のあり方の論争を展 開している ︵3 ︶ 。そこに近代日本における産業経済の牽引車であった 近代数寄者としての新機軸が存在したのであり、根津の場合は根津美 術館の開館に帰結するとも考えられる。なお、先の﹁夜話会﹂の高橋 の同席者は藤原銀次郎︵暁雲︶夫妻、仰木敬一郎︵魯堂︶夫妻、大橋 新太郎︵松翁︶ 、山澄力太郎︵静斎︶であった。 ﹃根津翁伝﹄は表千家流の岡田秋湖 ︵孤峯庵︶を根津の茶道師匠と している ︵4 ︶ 。なお 、岡田は大正元年 ︵一九一二︶四月の大師会で根 津が禅居庵を受け持った際に代点を務めた ︵5 ︶ 。だが 、 末宗広 ﹃茶人 系譜﹄ ︵ 河原書店、一九八五年︶によれば、岡田は江戸千家不白系四世 の川上宗寿︵仙渓︶の弟子であり、 広 い意味では表千家流に属するが、 正しくは江戸千家流というべきであろう。なお、 ﹃茶人系譜﹄では表千 家一二世の千宗左︵惺斎︶の門下であった高橋義雄が根津嘉一郎の茶 の湯の師匠として位置付けられている ︵6 ︶ 。なお 、 高橋の同門には三 井八郎次郎︵松籟︶ 、 安田善次郎︵松翁︶ 、藤田平太郎︵江雪︶などが いる。ちなみに、益田孝は馬越恭平︵化生︶ 、益田克徳︵無為庵︶ 、益 田英作︵紅艶︶ 、近藤廉平︵恬斎︶ 、 式守宣利︵蝸牛︶らとともに江戸 千家流不白系五世の川上宗順︵蓮心︶に師事していた ︵7︶ 。 本稿では高橋義雄や野崎広太︵幻庵︶らの﹁茶会記﹂で、根津嘉一 郎の茶の湯の諸相 、 言い換えれば 、茶風を明らかにしたい 。方法は 、 筆者が構築したデータベースを駆使する。具体的には、高橋義雄や野 崎広太が招かれた根津嘉一郎の茶会に対する茶評を紹介しつつ、根津 の趣向や茶略を読み解いていく。まず、 構築したデータベースから ﹁茶 会記﹂に綴られている評価や批判を用いて根津の茶会の成功、あるい は失敗の実態を浮き彫りにする。その後、 ﹁ 茶会記﹂が伝える根津の茶
根津嘉一郎の茶の湯
齋
藤
康
彦
一二根津嘉一郎の茶の湯 一三 会での立ち居振る舞いからお茶人としての根津の人物像や、お茶人と しての成長の跡なども明らかにしたいと考えている。特に、野崎が、 ︵高橋 :齋藤︶箒庵と余とは互に筆を執て 、明治大正の年代に行 はるゝ茶会の記に務めつゝある間柄なれば也 。即ち箒庵の催は 、 箒庵自ら之を筆にする能はず、人も亦之を許さず、余の催もまた 然り。只箒庵の筆と余の筆とは、其間剛柔硬軟の差あり。箒庵の 筆は優にして且つ柔、余の筆は粗にして且つ剛を癖とす。而して 箒庵の批は人之を悪まざるも、余の評は兎角に物議に上る、彼の 鈍翁︵益田孝 :齋藤︶や化生翁︵馬越恭平 :齋藤︶等が数次絶交 を申込むが如き椿事出来するは、同好の能く知る所也 ︵8︶ と書く様に、 高橋義雄の優にして柔と﹁甘口﹂のコメントに対して、 野崎広太のそれは粗にして剛の ﹁辛口﹂ と、 両者の茶評は大きく異なっ ており、対照的ですらあった。筆者としては、この二人の茶評のスタ イルの違いという特性を利用して、高橋と野崎の二人が同席した根津 が開催した自会における茶評を突き合わせる作業を通じて、より相対 的な評価が可能となると考える ︵9 ︶ 。繰り返しにはなるが 、茶会で使 用された個々の茶道具にはじまり、道具組みに現れる亭主の趣向や茶 略などは本来一体なものであり、不可分なものである。しかし、本稿 では第二節﹁箒庵と幻庵の茶評﹂と第三節﹁根津青山の懐石﹂におい て、根津の趣向と茶略、さらには懐石に焦点を絞って考察する。 大正七年︵一九一八︶一一月の﹁初陣の茶会﹂にはじまる根津の自 会の多くが開かれたのは、現在では根津美術館の敷地となっている東 京市赤坂区青山南町に建つ根津本邸であった。しかし、広く知られて いる様に、昭和一五年︵一九四〇︶の根津嘉一郎の没後、母屋があっ た場所付近に根津美術館本館が建設された 。本館の場所の選定にあ たっては庭園を保存するための配慮があったと思われる 。ところが 、 昭和二〇年五月の戦災で根津嘉一郎の数寄世界の舞台となっていた庭 園は大きく荒廃し、五つあった茶室はすべて焼失した。その後、益田 克徳︵無為庵︶の撫松庵を斑鳩庵跡に移築して斑鳩庵となし、大倉喜 七郎 ︵聴松︶ 家から譲られた茶席を弘仁堂跡に移築して広間を弘仁堂、 茶室を無事庵と命名したが、 撫松庵と変千木庵は失われたままである。 今日、われわれが目にする茶室や庭園の様子と、根津が茶会を開いて いた当時の佇まいとはかなり異なっていると考えられる。そこで茶会 の趣向や茶略の具体的な検討に先立って、第一節﹁市中の山居﹂にお いて高橋義雄や野崎広太の﹁茶会記﹂の記述から、根津嘉一郎の茶の 湯の舞台となった茶室や庭園の状況を可能な限り復元したいと思う。 第一節 市中の山居 明治三九年 ︵一九〇六︶ 、根津嘉一郎は東京青山の旧河内丹南藩高 木主水正の下屋敷であった一万四千坪を購入した ︵ 10︶。前年の三八年 一一月には自らの生涯をかけた中核事業となっていく東武鉄道社長に 就任しており、同じ三九年一一月には平瀬亀之助家入札会で八幡名物 ﹁花白河蒔絵硯箱﹂入手している 。明治三九年は根津にとっては 、実 業世界と数寄世界において、はなはだエポックメーキングな年であっ た。なお、明治三七年の第九回総選挙で山梨県郡部に無所属で立候補 し、トップの一、 四三〇票を獲得して衆議院議員にも選出されていた。 旧根津本邸の敷地面積は現状のほぼ倍の規模で、西は大隈重信伯爵邸 と接しており、現在の﹁骨董通﹂はなかった。また、道路を隔てた北 隣は陸軍大将の黒木為楨男爵邸であった。さらに、南東部は現在でも 曹洞宗大本山吉祥山永平寺の東京別院補陀山長谷寺の境内である。 根津が購入した土地は 、山の手台地の一部を形成している青山台と呼
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 一四 ばれる台地が小さな谷津を挟んで窪地となる 、その台地上部から斜面上 にかかる場所に位置し 、 一言でいうと擂り鉢状の地形をなしていた 。 最 も低い場所には八ツ橋の池と名付けられた湧水池があり、 ﹁私は土地を求 めるのには 、第一に水が豊富に涌く処が良いし﹂ ︵ 11︶ と考えていた条件 に合致していたという。また、 ﹁歪んだ地形よりも正方形とか、長方形の 土地が好ましいと思つてゐた﹂ ︵ 12︶ とも書いている 。なお 、それまでは 東京市麻布区山元町二の橋の五千坪程の邸宅に住んでいた ︵ 13︶。根津は 独自の作庭観の基に ﹁其の起伏ある土地を其儘に渓谷丘陵となし 、樹石 を運んで 、万木鬱蒼 、全然深山幽谷に在るが如き感ある様にした﹂ ︵ 14︶ という 。大正一一年 ︵ 一九二二︶一〇月末の ﹁ 青山名残﹂茶会に出席し た野崎広太は邸内の様子を、 堂々と構へし正門を入り 、 更に坂を登り切つたる左側に当りて鬱 蒼たる茂林あり、 中 に一路を通ずるは即ち草庵に至る路地にして、 区寰已に俗塵を絶ちて昼尚は悠々 、 宛も是れ⋮古き唐の詩にも見 えし山中古寺の境に入れるの感あり⋮露地に降り立ちつ、 松、 杉、 檜 、 樅などの老樹に交れる楓の紅葉は 、 時尚ほ早けれど 、丘坡を 中断して流るゝ渓の水は痩せて秋正に清く 、 森々の静 、潺々の響 きは自らに心耳を澄ましむ。余はこの幽静閑寂の風光を賞す ︵ 15︶ と 、記している 。これに続けて同席した原富太郎 ︵三渓︶に ﹁之 れで此処の主人さへ取換へたらば申分なきにあらずや﹂ ︵ 16︶ と小声で 言ってはみるものの、 ﹁ 区寰已に俗塵を絶ちて⋮古き唐の詩にも見えし 山中古寺の境⋮幽静閑寂の風光を賞する﹂と、本来﹁辛口﹂の茶評家 を自負している野崎らしからぬ誉め言葉が並んでいる。それほどまで に素晴らしい庭園といってよい。しかし、 ﹃根津翁伝﹄によれば、この 土地は茶畑であったが草莽の茂にまかせてあり狐狸の生息地となって いたという ︵ 17︶。また 、 久良夫人が ﹁ 当時は一面の草原で 、 草が私の 身の丈程もありました。私はステッキを持つて、草を分けつゝ歩きま したが、其中そこに段々道が出来てきました﹂ ︵ 18︶ と語っている様に、 草が生い茂ってかなり荒れていた。根津が﹁茶にはまた庭が付きもの で、その庭も自然の趣を出すやうに庭作りを会得したが、中でも青山 の家の庭では随分と苦心をした﹂ ︵ 19︶ と書いている様に 、庭園として の整備には多大な労力と経費を必要としたのであろう。 事実、五年余の歳月を要している。ひとまず築庭が完成した大正二 年︵一九一三︶一〇月には、京都の無隣庵、東京の椿山荘、小田原の 古稀庵など多数の庭園を造営している元老の山県有朋︵含雪︶を招い て﹁庭園講評会﹂を開いた。当日は益田孝、高橋義雄、下條正雄︵桂 谷︶が相伴している。根津に促されて折からの雨を冒して﹁広き芝生 の南方に開きたるを行当りて樹林の中にだら〳〵と下り行き、森を穿 ち、谷を渡り、石径を上下して庭園中を徘徊した﹂ ︵ 20︶ 一行は、 ﹁感歎 の舌を捲き、主人が甲州人にして自然山水の間に育ちたる其感化の自 ら庭園趣味に現れたるならんなど、 褒 め称へ﹂ ︵ 21︶ たとある。ただ、 ﹁庭 園博士﹂であった山県の意見は記されていない。なお、 ﹁青山荘﹂の命 名は山県であったという ︵ 22︶。また 、 時代は大きく下がるが 、現在の 根津美術館の園内を回遊した根津と同じく山梨県東郡出身の数寄者井 尻千男は、根津の作庭の創意工夫を次の様に推察している。 翁︵根津嘉一郎 :齋藤︶は中国の山水画、特に南宋系の山水画を 好み、傾斜と落差の大きい地形に作庭したいとかねて思っていた のではないか。そうでなければ、あの様に起伏の多い土地を購入 するはずがない。翁はその地形を見たときから、京都あたりには ない庭園をつくってみようとひそかに心に期していたはずだ。谷 底の池泉と擂り鉢状の地形を活かした回遊式庭園。池をはさんで 対岸の斜面を眺めると、さながら南画の仙境を想わせるような作
根津嘉一郎の茶の湯 一五 庭をイメージしていたのではないか。擂り鉢状の地形は全方位か らそのことを可能にする。池泉と茶室の配置を工夫すれば、必ず 全方位の仙境が出現するはずである ︵ 23︶。 なお 、根津の築庭は 、本邸に止まらず 、長野県軽井沢 ︵ 24︶、静岡県 熱海 ︵ 25︶、神奈川県大磯の別荘でも行われ 、 工事に際しては庭師にあ れこれと指示したという ︵ 26︶。また 、 昭和一〇年代初頭からは東京 市目黒区上目黒の元岩倉具栄公爵家の別荘で新邸の建設に着手してお り、 家屋は竣工したものの、 根津は引き移ることなく没している ︵ 27︶。 昭和一二年﹁赤坂区詳細図﹂によれば、 かつての根津本邸の正門は、 表参道を東に進んできて現在の根津美術館前の交差点をわたり、美術 館を右手に見ながらさらに南東に約一五〇メートル下った右手にあっ た。まず、大正七年︵一九一八︶一一月の﹁初陣の茶会﹂に招かれた 野崎広太に従って正門から入ろう。 門を入り羊腸たる路を辿りて玄関前に到れば、雁行の形に建て連 ねたる座敷や居間は、堂々と眼前に見え渡れるも、さて茶事の催 しある草庵には、何れの方角に向つて歩みを運ぶべきや、先づ以 て亡者岐路に迷ふて泣くの感あり。もとより路の彼方此方には奈 良、京都、遠くは朝鮮などより取寄せたりと覚しき、銅像石仏は 円満の相恰を具へて、一向主人擁護の体なるも、平生毒舌や悪筆 を揮ふて罪業を犯せる、余等には一瞥だも呉れず ︵ 28︶ 屋敷の南東部に位置する表門から入った客は、曲がりくねった路地 を西に向かって登り﹁堂々﹂たる建物が雁行して連なる本邸の玄関に 達する。路のあちらこちらには国の内外各地から集められた銅像や石 仏などが点在している。引用文に﹁平生毒舌や悪筆を揮ふて罪業を犯 せる﹂とある様に、野崎も自らの辛辣ともいえる筆鋒を十分に自覚し ていたのである。それ故に、筆者としては野崎の茶評に一定の信頼を 置きたいと考えている。その後、昭和三年︵一九二八︶五月の﹁青山 初風炉﹂に招かれた高橋義雄が、 青山南町通りの正門を入れば、未だ数十歩ならざるに、左手に当 りて古寺院めきたる山門が屹立して居たが、聞けば先頃奈良地方 より移築せられた者で、其檜皮葺屋根の古雅なるを見ても定めて 由緒ある者と覚しく、是が欝蒼たる樹木の間にそびえて居るので 露地に一段の深みを加へ、全く別様の観を呈するに至つた ︵ 29︶ と、 由緒ありげな山門が聳えていたと書いている。 野崎が触れなかっ たかもしれないが、この間の﹁茶会記﹂には正門から母屋にいたる路 地の様子を示す記述はない。遅くとも昭和三年までには山門が移築さ れていたと考えられる。事実、 ﹃根津翁伝﹄に、 君は庭園を作るに、所謂庭師の造園を好まず、専ら君の創意によ つて天然の山水を自己の庭園に取り入るゝことゝしたので、君は 地方に旅行して天然の山水のヒントを得る毎に、直に庭園の改造 に着手し、常に改造に改造を加へて、終始向上するを怠らなかつ た。或時、 渓 谷に架橋をなさんとして、 既に橋台までも造つたが、 寧ろ山間の幽趣を存するを可なりとして架橋を思ひ止まり、渓流 は飛び石伝に之を渉ることゝした如き設計の変更幾度か行はれ 、 是れで庭園が完成したといふ時は無かつた ︵ 30︶ とある様に、絶えず手を入れていた。大正七年一一月の﹁初陣の茶 会﹂に野崎と同席した高橋は邸内の様子を次の様に活写している。 母屋の庭先より南下りの地形を利用して、庭内より湧き出づる清 水と水道の水とを併せて西より東に流れを取り、其両岸に樹石を 配置し、或は沢飛び、或は土橋、或は山坂路などを態とならぬや う点綴して、天然の野趣を現はしたる其結構言はん方なく ︵ 31︶ 東流する流れの名称は別段記されていないが、南に緩やかに傾斜し
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 一六 ている庭園の地形が巧みに利用されていた。当日はいわゆる牛部屋が 寄付となっている。ちなみに、根津嘉一郎の茶会では牛部屋の寄付と しての利用が三回確認できる。 ﹁牛部屋は即ち其名の如く牛の住家にし て 、而も其構造を其儘に模したれば 、入口に戸なく窓に亦障子なく 、 寒風の吹くに任せ﹂ ︵ 32︶ るものであった 。 益田克徳 ︵ 非黙︶ 、 益田孝 、 森川勘一郎︵如春︶らも田舎家を好んでいる。熊倉功夫は、これら近 代数寄者の発想は農本主義を下敷きとするものとみている ︵ 33︶。 それはともかく、野崎は﹁先づ座して居ながら露地の風情を賞する の便もあり﹂ ︵ 34︶ と 、その利点を認めている 。 なお 、牛部屋の構造は ﹁入口に戸障子なく 、土間の奥に二畳畳敷あり 。其真向ひに躙口ある は即ち庵主の出迎口なり﹂ ︵ 35︶ というものであった。高橋の﹁茶会記﹂ には﹁根津邸に入りて、 玄関前より南下りに庭の木立に分け入りしに、 露路の中段に一構えの田舎家寄付あり 、牛部屋形﹂ ︵ 36︶ と表現されて いる。その後、高橋や野崎たち五人の茶客が﹁寄付田舎家を出でゝダ ラ〳〵下りて土橋を渡り、檜皮葺の年を経て苔蒸したる庵室の前なる 大蹲据石にて漱ぎ﹂ ︵ 37︶て入席したのが ﹁ 初陣の茶会﹂ の本席であり ﹁ 庵 室は横長き三畳台目﹂ ︵ 38︶ であった 。高橋は ﹁ダラ〳〵下りて﹂と書 くが、野崎は﹁青山畳々路悠々たるが如き、幽趣ある露地を進み﹂ ︵ 39︶ と表現し 、風情を伝えている 。 なお 、高橋の当日の ﹁ 茶会記﹂では 、 庵室は無名であったが、意見を求められた高橋は、庵室開きに西行筆 ﹁落葉切﹂を掛けてあるところから ﹁落葉庵﹂を提案したところ 、季 節に偏りがある点で採用されなかった。次ぎに、濃茶手前で用いられ た茶杓﹁宗旦共筒 名一剣﹂に天和和尚が書き付けた﹁老倒疎慵無事 日、安眠高臥対青山﹂とあるところから﹁無事庵﹂を再提案し、根津 も同意したという ︵ 40︶。なお 、 無事庵は根津の茶会では三回利用され ている 。筆者は 、根津としては本邸 ﹁青山荘﹂ 、 あるいは自らの茶号 青山にちなんで﹁青山﹂の書付のある茶杓を選んだと考えている。 濃茶に続く薄茶は、庵主の案内で﹁流れに沿ひたる長露地の一木一 石苟くもせざるを顧眄しつゝ 、沢飛びを踰えて流れを横ぎ﹂ ︵ 41︶ って 弘仁堂の六畳広間に動座して行われた。野崎広太は﹁露地に歩みを移 し、或は樹陰深き山に入つて颯々の松声を聞き或は渓流に沿へる路に 出でゝ淙々の音に耳を洗ふ、 而も霜に飽きたる楓樹秋草処々に点綴し、 満眸の風物悉く是れ初冬の光景、山容水態幾度か変じて漸く広間に達 す﹂ ︵ 42︶ と 、 庭園内の豊かな季節感を詳しく綴っている 。ちなみに 、 牛部屋、無事庵、弘仁堂の位置関係は﹁上流に弘仁堂とて一構ある即 ち今度の広間にして 、其下流の木の間に立ちたるが本席無事庵なり 。 而して其寄付なる田舎家は小高く、 無 事庵と弘仁堂との中央に位して﹂ ︵ 43︶ いた 。高橋義雄は ﹁秋色は稍衰へたれども 、 散り残りたる紅葉 は、松翠杉緑の間に映帯して身は深山の中に入りたるが如く、青山荘 の名真に空しからずと謂ふべし﹂ ︵ 44︶ と書き、 ﹁床には西本願寺伝来西 行法師の落葉切を掛けられしが⋮今や露地にて目に入りたる景色を其 儘三十一文字に言ひ現はしたるが如き此の一軸の、如何に今日の茶会 に適切なるやは今更余等の贅弁を要せざるべし﹂ ︵ 45︶ と受けて 、 季節 にあった掛物選択の巧みさを高く評価している。 一方、 本 来は ﹁辛口﹂ の 批評が身上であったはずの野崎でさえも ﹁余 は正眼に之を新席披露の茶事として之を見れば、いかやうにも批評す べき詮術あらんも﹂ ︵ 46︶ と 、 例によって何事か言いたげではあるが 、 ﹁偏に季節相当の趣向より之を言へば蓋し一言半句も批を挟むべき余 地なしとや謂はん也﹂ ︵ 47︶ と書き、 ﹁落葉切﹂の歌にいう﹁紅葉散りし く庭の面かな﹂と﹁満眸の楓樹已に半ば落ち、半ば濃紅淡紅に葉を剰 し 、 老杉翆樹と枝を交へ﹂ ︵ 48︶ という掛物と庭園の佇まいとの絶妙な 取り合わせに脱帽している。 ﹁初陣の茶会﹂は晩秋であったが、昭和三
根津嘉一郎の茶の湯 一七 年︵一九二八︶五月に開かれた﹁青山初風炉﹂の際に書かれた高橋の ﹁茶会記﹂で新緑の季節の庭園の様子も見ておきたい 。﹁左手に当りて 古寺院めきたる山門﹂を入って﹁右手の丘上に鎮座する古祠の下を過 ぎ、池水に沿うたる山径を屈曲して一旦広々としたる後苑に出で、更 に崖地を登り行けば、其半腹に当りて田舎家めきたる一構へあるは即 ち今日の寄付﹂ ︵ 49︶ であった。牛部屋と思われる。そして、 寄付より更に一段高き崖地を登りて、 庵室手前の中潜門を入れば、 何時見ても雄姿堂々たる法隆寺大石灯籠が、一庭の主人顔して屹 立する其前天然石大つくばひに、青竹の筧より清水とく〳〵と迸 つてて居たので、順次洗手の後、当日の本席斑鳩庵付属四畳半広 間に繰込んだ ︵ 50︶ と、斑鳩庵が﹁青山初風炉﹂の本席であった。根津の茶会では斑鳩 庵は五回利用されている。なお、 斑 鳩庵の﹁庵室の手前に中潜門あり、 門を入りて腰掛﹂ ︵ 51︶ があった 。ところで 、大正一一年四月の東都に おける近代数寄者の大先輩である朝吹英二 ︵柴庵︶ と益田英作 ︵ 紅艶︶ の﹁茶友追福会﹂に際しては、斑鳩庵に向かって﹁鈍翁︵益田孝 :齋 藤︶ を先達として霧島躑躅の燃ゆるが如く咲出でた崖地を登り行けば﹂ ︵ 52︶とある様に、 霧島ツツジが咲いていた。また、 大 正一二年五月の ﹁ 無 事庵残炉﹂では﹁新緑滴らんばかりの長露地⋮腰掛に中立すれば、前 面の渓流には早や水草が生茂り、新樹鬱蒼として、閑静幽寂宛ら山中 に在るが如く﹂ ︵ 53︶ と書かれており 、とても東京とは思えない佇まい である。根津の築庭にあたっての四季を豊に感じられる樹木の選定の 苦心のほどが感じられる。 なお、斑鳩庵は庵に隣接して﹁槙の老木の下には元法隆寺に在つた と云ふ高さ八尺許なる、大時代の石燈籠が立つて居た。是れが此茶庭 の主人公である﹂ ︵ 54︶ ところから 、 法隆寺の別名斑鳩寺にちなんで斑 鳩庵と命名されたという。斑鳩庵の茶席は﹁二畳中板で、径一尺許な る奈良古材の床柱がある。其構造は利休が長柄の橋杭を柱にした彼の 独楽庵に酷似して居﹂ ︵ 55︶ たと、高橋は綴っている。 煩雑となるので青山荘の庭園の様子を伝える引用を控えるが、これ までの記述からも根津嘉一郎の数寄世界の舞台となっていた庭園の佇 まいは充分にうかがえたと思う。ところで、東京青山の根津本邸には 戦災で失われてしまい、再建されていない茶席もあった。撫松庵と変 千木庵である。なお、 根津の茶会では撫松庵の利用は九回と最も多く、 変千木庵のそれは二回であった。撫松庵は母屋に付属しており、大正 一〇年二月の﹁青山荘夜話﹂使用されている。当日は寄付の屋敷内の 北西に位置する母屋の中の客間に続いた次の間の六畳から、 廊下伝ひに原叟好み三畳半床付の席に罷り通つたが、此席は元と 原叟が好んだのを、後年如心斎が改作して床に大柱を用ひたもの で、 主人は奈良の興福寺とかに在つたと云ふ径一尺二寸許りなる、 仏殿の古材を此柱に利用せられたから、利休の好みで宇治橋の古 杭を柱とした彼の独楽庵と同様、非常に風変りの構造 ︵ 56︶ であった。 ﹁ 此席は主人の好みで特に床の天井を高くしてあ﹂ ︵ 57︶ り、 大徳寺の円鑑国師というから春屋宗園の﹁機輪転処実能幽﹂という普 通の茶席では掛けられない長上幅の七字一行を掛けられたという。な お 、 これは片桐石州が所持したという ︵ 58︶。ところで根津の古材のコ レクションも豊富で、高橋は根津から譲られた奈良興福寺の古材丸柱 を赤坂区一木町の邸宅で改築した一木庵の床柱としている ︵ 59︶。 一方、変千木庵は高橋の昭和四年︵一九二九︶一〇月の﹁弘仁堂残 茶﹂ の記事に登場する。名残茶会向きであった弘仁堂付属席にある ﹁三 畳敷壁床﹂における濃茶手前が終わって、弘仁堂の前の﹁渓流を越え 山径を登り本邸西南隅の森林中に分け入﹂ ︵ 60︶ って案内され 、薄茶席
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 一八 として使用された﹁小高き丘上に田舎家めきたる一構﹂ ︵ 61︶ であった。 変千木庵という名称は﹁小玄関を入りて十二畳半の一室に通れば是は 屋根裏を見せたる円錐形天井の下に大炉を切り⋮而して此変体田舎 家 は床柱は勿論長押天井に至るまで一切奇古なる木材を寄せ合せた﹂ ︵ 62︶ 構造に由来するという。なお、根津は﹃世渡り体験談﹄の中で変千木 庵について﹁いよいろ変つた材木の切端を集めて作つたから﹁へんち き庵﹂といふ名を付けたが、これは主人公が変痴奇であるからと見て も差支へない﹂ ︵ 63︶ とも書いている。 高橋によれば、 ﹁ 此の一構へは徳川十一代将軍家斉公の公達で号を確 堂と云ひ、本郷龍岡町に住んで維新前後松平三河守と云はれた君侯の 遺物﹂ ︵ 64︶ であった 。﹁ 松平三河守﹂とは松平斉民 ︵確堂︶である 。江 戸幕府一一代将軍徳川家斉の十四男で美作国の津山藩主となり、維新 後は徳川家達の後見人を務め、 明治二四年︵一八九一︶に没している。 風雅の趣味に富んでおり、近代数寄者の一人である団琢磨︵狸山︶邸 にある碩寛堂という広間も松平斉民好みであるという ︵ 65︶。 第二節 箒庵と幻庵の茶評 それでは本稿の主目的である根津嘉一郎の茶会の趣向と茶略の検討 に移りたい。大正七年︵一九一八︶一一月の﹃初陣の茶会﹄からはじ めるのが順当であろう。なお、本節において検討対象となった茶会の 道具組みは第1表に一括して示したが、並び順は本節の記述の順番に 従った。なお、 ﹃初陣の茶会﹄ で 高橋義雄と野崎広太と同席した茶客は、 岩原謙三︵謙庵︶ 、 山澄力蔵︵宗澄︶ 、 古筆了任であった。 ﹁点茶手前如何 、道具組合や如何と兎角登場を躊躇するを否応なしに 往生﹂ ︵ 66︶ させて﹁初陣の茶会﹂を開かせ、 ﹁審査官長の資格を以て﹂ ︵ 67︶ 正客を務めた ﹁煽動 者﹂である高橋は、 床には西本願寺 伝来西行法師の 落 葉 切 を 掛 け ら れ ⋮ 今 や 露 地 に て 目 に 入 りたる景色を其 儘三十一文字に 言ひ現はしたる が如き此の一軸 の 、 如何に今日 の茶会に適切な るやは今更余等 の贅弁を要せざ る べ し ⋮ 染 付 叭々鳥香合は枯 木に叭々鳥の一 羽止りたる模様 ありて 、芭蕉翁 の ﹁ 枯枝に烏の とまりける秋の くれ﹂と云へる 名句も思ひ合さ れ 、 寺落ち葉の 掛物に対して不 年月日 会 飾付 掛物 花入 釜 茶器 茶杓 茶碗 181127 初陣の茶 時代御所車蒔絵小硯箱 西行筆 落葉切 伊賀旅枕 大芦屋 野馬地紋 土佐光信下絵 白玉文琳 盛阿弥中棗 元伯宗旦共筒 銘一剣 御所丸 踊布袋 青貝牡丹唐草文 象牙 祥瑞水玉 在銘 枡写 了入作 300613 夜話会 赤絵獅子蓋撮み香炉、幸阿弥作 三扇蒔絵硯 箱、一条院真敬法親王 銘羅浮山盆石 李迪筆 瓜虫横物 与次郎 四方 宗完 朱乱菊黒 棗 片桐石州共筒 銘時烏 雨漏 銘蓑虫 斗々屋平 261017 大師会 馬麟筆 夕陽図 鍍金経筒 芦屋真形 梅松地 紋 正意作 銘六祖 遠州共筒 筒に 松飛騨様 青井戸 銘鳴戸 小堀権十郎箱 370506 初風炉茶会 片桐石州作銘時鳥茶杓添文 信実歌仙兼輔束帯の図 後京極良経卿賛 平面太竹一重切 銘藤波 名物橋姫 名物膳所大江 石州共筒 銘時 烏 志野 山端 燕子花屏風、永徳春秋桃山屏風の胡粉盛上桜 図半双、応挙筆藤屏風、李迪筆瓜虫横物、名 物老女香炉、光琳業平蒔絵硯箱、藤原時代兜、 名物裂手鑑帖 啓書記筆 山水 名物砂張船 盛阿弥 利休桐 蒔絵中次 象牙歌銘 宗中 筒 高麗蓑虫 不昧 公箱 祥瑞在銘水玉 190613 加賀漫遊報告 光琳筆 燕子花屏風、清巌宗涓墨蹟「青山緑 水」、角形赤絵獅子蓋香炉、土佐光顕筆融通念 仏良人上人絵巻物、清水作兵衛作 蒔絵硯箱 東常縁筆歌掛一軸 手付花籠 天明尾垂れ 利休中棗 織田道八共筒 刷毛目 211120 東山大茶会 仁清色絵結文茶碗、乾山色絵乱模様土器皿、 木米古赤絵写四方香合 西行筆 落葉切 砧青磁筍 古芦屋 扇面鐶付 白玉文琳 利休作 銘松本 柿の蔕 銘瀧川 (第1表)茶評の道具組み
根津嘉一郎の茶の湯 一九 即不離の妙、最上の出来栄えと云ふべきなり ︵ 68︶ と、秋真っ盛りの庭園の様子そのままの﹁せきてらや人もかよはす なりぬれは 紅葉ちりしく庭のをもかな﹂ という西行法師の ﹁落葉切﹂ と ﹁染付叭々鳥香合﹂ を 用いた道具組みを高く評価している。だが、 ﹁ 初 陣の茶会﹂で特筆すべきは、高橋が、 凡そ茶事は小間に成功して広間に失敗するが通例なるに、小間の 成功を広間にて裏書したる今度の一会は、根津君の生涯に於て仮 令初めの終りとまでは断一言し得ざるも、兎に角容易に再びす可 からざる上乗茶会たるを失はずと云べし ︵ 69︶ と、激賞している根津の新人らしからぬ茶略である。その理由を濃 茶席には西行筆﹁落葉切﹂ 、大名物の﹁白玉文琳﹂茶入、 ﹁染付叭々鳥﹂ 香合、 ﹁御所丸﹂茶碗と多くの名品を並べてはいるが、薄茶席では一転 して床に松花堂昭乗筆﹁踊布袋﹂の長上幅を掛けるにとどめた点にあ るとしている。なお、 ﹁ 白玉文琳﹂茶入は松平忠正家から直接譲られた ものであった ︵ 70︶。﹁初陣の茶会﹂を開かせた ﹁煽動者﹂であると同 時に ﹁後援者たる功罪両様の責任を負う者﹂ ︵ 71︶ の立場にあった高橋 は、 ﹁此初陣の成功如何に就て聊か心配なきに非ざりしが﹂ ︵ 72︶ と、心 秘かに案じてはいたものの、実際に終わってみると、 宋元の名幅、本朝の古画等、広間に掛く可き掛物の潤沢なる書画 収蔵家にして、来客予想の裏を掻き、仮令へ傑作とは云へ、軽き 松花堂の一幅を以て客に肩すかしの背負投げを喰はせたる所、初 心茶人の容易に思ひ至らざる所にして、茶事策戦上の大成功 ︵ 73︶ と、とても﹁初心茶人﹂とは思えない大胆な茶略に驚きを隠してい ない。高橋は、その主な理由を﹁床に江月和尚賛松花堂踊布袋の一幅 を掛けたる事即ち是なり﹂ ︵ 74︶ と断言している 。それに続けて ﹁諸家 の初陣茶会に於て、殆んどレコード破りの好評判を博するに至りたる は余等の大に満足する所なり﹂ ︵ 75︶ とまで書き込み 、もう手放しで激 賞している。高橋が﹁是れぞ今年の東都茶事社会に於て、特筆大書す べき大事件と云ふべきなり﹂ ︵ 76︶ とするのも十分に首肯できる。 一方、高橋と同席し﹁茶会記﹂を残している﹁辛口﹂茶評家である はずの野崎広太までも、濃茶手前に際して大名物の﹁白玉文琳﹂茶入 を ﹁ いまだ未熟にして盆点の業も出来ず﹂ ︵ 77︶ と挨拶して床に飾り、 ﹁盛 阿弥中棗﹂で代用した点を捉え﹁未熟とは是畢竟謙譲の語、其挙止や 動作や皆茶礼に適ひ、そんじょそこらのヘツポコ宗匠は跣足で遁げ出 しそうなりと云ふも敢て御世辞にあらず﹂ ︵ 78︶ と書いて激賞している。 ﹁そんじょそこらのヘツポコ宗匠﹂という文言に近代数寄者である野 崎の気概が感じられる。そればかりではない。濃茶席では手持ちの名 器類をずらりと並べておいて、薄茶席でも恐らく同様であろうと考え ていた野崎の予想は見事に裏切られた。 恰も絵画に濃淡の変化あつて初めて之を称すべきが如く、茶事の 趣向も亦斯る濃厚恬淡の変化に其妙味は存するもの也。本席に於 て西行の落葉切、白玉文琳、染付叭々鳥の香合、御所丸の茶碗な ど、名宝珍器の数々を示し、後席に松花堂の一軸と、祥瑞の茶碗 を示すに止めしは、的に濃厚恬淡の変化あるにあらずや ︵ 79︶ と 、さすがの野崎も根津の鮮やかな茶略に舌を巻いている 。特に 、 明治三〇年代末に数寄世界に彗星の如く現れて、各地の道具入札会で は多くの名器・名品を人々の意表を突くような高額の入札価格で落札 して古美術品や茶道具類の大蒐集家として知られている根津が、 ﹁ 初舞 台の庵主が彼の秘庫に山と積める名宝珍器を我慢して、あれもこれも と此処に陳列せざりしは最も称揚すべく﹂ ︵ 80︶ としている 。茶の湯に おけるもてなしの気持ちをどの様に表現すべきか、という根本的な大 問題を 、これまで ﹁一会の茶事だに催したる事なき﹂ ︵ 81︶ 新人茶人に
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 二〇 突きつけられた恰好である。さらに、野崎は﹁御馳走﹂とは如何にあ るべきかとして、やや砕けた調子で、 若し余をして一層俗に之を言はしむれば常盤屋の御馳走に次で偕 楽園の支那料理を以てす、 人誰か其饗応に饕かざるものあらんや、 常盤家の料理にも後に茶漬あつて御馳走也、偕楽園の料理にも香 物サク〳〵で初めて段々御馳走也。故に余は其前後を通じて、静 穏上乗の趣向なりと謂はんと欲す。正に是れ初舞台の庵主として は大出来也 ︵ 82︶ と、続けている。野崎は﹁蓋し此手並より想像すれば将来恐るべき 斯道の一人者たるべきや﹂ ︵ 83︶ と 、完全に兜を脱いだ恰好である 。か くて﹁初陣の茶会﹂は大成功を収め、高橋によれば、反響は関西方面 にまでおよんだ。 ﹁初陣の茶会﹂では居並ぶ先輩筋の茶客に見事な肩す かしを喰わせたが、根津嘉一郎の茶会を特徴付けるものは、 東都実業界の驍将根津嘉一郎氏は、道具界に於ても亦一方の驍将 にして、明治三十六年、大阪の平瀬家が第一回入札会を催せし其 当時、入札第一の高価を以て名物花の白河の硯箱を獲得して斯界 に天晴の武者振を示せし以来、京阪に東都に大入札ある毎に、鰐 口を開き、大網を張り、名品を呑獲せざれば止まざるの概ありし を以て、今や書画器具収蔵家として、日本に於て優に十指の中に 数へらるゝに至りたるは人の能く知る所なり ︵ 84︶ と 、いわれる古美術品や茶道具類の豊富な収蔵品の数々に裏打ち された道具組みによる茶略にある 。なお 、引用部分で高橋が ﹁明治 三十六年、大阪の平瀬家が第一回入札会﹂と書いている﹁花白河蒔絵 硯箱﹂ の入手は明治三九年一一月の平瀬亀之助家第二回入札会である。 しかし、根津の茶略は単なる道具組みに止まらない。例えば、昭和 五年六月の﹁青山夜話会﹂は、最初は﹁小間にて初風炉の一会を催す 筈であつたが、余りの暑さに俄に趣向を一変して聊か書院茶の真似事 を試むる次第﹂ ︵ 85︶ と 、当日になって俄に暑くなったので寄付を西洋 館に替え、急遽、本席を八畳間の小書院に変更する臨機応変な対応が 行われている。高橋も﹁今夕の接客法は時と場合に相応した至妙の茶 略と思はれたが、相客諸君も定めて同感であつたらうと思ふ﹂ ︵ 86︶ と、 根津の試みに満腔の賛意を示している。なお、当日の茶客は記録者の 高橋をはじめ 、藤原銀次郎 ︵暁雲︶夫妻 、 大橋新太郎 ︵ 松雲︶ 、 仰木 敬一郎︵魯堂︶夫妻、山澄力太郎︵静斎︶の八人であった。 さて、小書院での本席の上段の床には昭和三年五月の島津忠重公爵 家入札会で落札した東山御物の李迪筆﹁瓜虫﹂横物が掛かり、 さらに、 出書院には﹁角形赤絵獅子蓋香炉﹂ 、 幸阿弥作﹁三扇蒔絵硯箱﹂ 、﹁ 羅浮 山盆石﹂などが飾られており、高橋は﹁今此床飾に対すれば宛然東山 時代の書院に入りたる心地して、其堂々たる威風に圧せられ相客相顧 みて唯唖然たるばかりであつた﹂ ︵ 87︶ と書いている。しかも、 書院茶としては寧ろ砕けた取合せで、肩の凝らぬ所に得も言はれ ぬ妙味があつた。中にも染付手桶は与九郎風炉と相並んで黒白の 対照見るからに涼しく、又乱菊棗の手軽なるに浸模様無類にして 珍器中の珍器なる雨漏蓑虫茶碗を配し、建水、蓋置にドツシリと して貫禄ある者を用ひたのは書院茶気分を失はぬ用意 ︵ 88︶ と、道具組みと書院風茶会に倣った茶略に感心している。 ﹁青山夜話 会﹂の掛物や飾付でも明らかな様に、根津の茶会には名器、名品が並 ぶことが多かった。しかし、昭和元年一〇月の大師会の東京大塚の神 齢山護国寺仲麿堂での馬麟筆 ﹁夕陽山水図﹂ 、遠州伝来 ﹁南蛮具足﹂ 水 指、 ﹁青井戸 銘鳴戸﹂茶碗 、名物 ﹁ 六祖 正意﹂茶入などからなる陣立 てを見た野崎広太は、 ﹁床の掛物、花入は格別とし、水指、茶碗、茶入 の優れたる、また鐶、火箸、灰器、灰匙などの末器に至るまで、或ひ
根津嘉一郎の茶の湯 二一 は名物ならざれば見事の品にあらざるは無く、さすがは負ぬ気の青山 老ならでは﹂ ︵ 89︶ と書く一方で、 ﹁余は心竊に趣向の意孰れに在るやを 疑ひぬ﹂ ︵ 90︶ と根津の道具組みに疑問を呈している。 さらに 、根津嘉一郎が喜寿を迎えた翌年の昭和一二年 ︵一九三七︶ 五月、斑鳩庵で開かれた﹁青山斑鳩庵初風炉﹂茶会の道具組みは、以 下の様に豪華であった。なお、 高橋の同席者は塩原又策 ︵ 禾日庵︶ 夫妻、 近藤滋弥︵其日庵︶ 、 福 井菊三郎、 栗山善四郎であった。寄付には﹁片 桐石州作 銘時鳥﹂茶杓の添文、濃茶席の床には藤原信実筆﹁歌仙兼 輔束帯図﹂が掛けられていた。 中興名物膳所焼大江茶入は、 雲 州家伝来、 不 昧公の遺愛であるが、 文化年中公の催された茶会記中に、此茶入と藤浪花入とを使用せ られた記事があるのに、今度百数十年振りで、再び両器が初風炉 の席に対顔したのは、誠に面白き遭遇で、両器も互に其再会を喜 びたる事であらう。而して之に配した志野茶碗は普通のと其趣を 異にし、鼠地に白く亀甲紋及び檜垣地紋を現はし、何人の筆にや 箱に五月雨の一首があるのは、此場合に於て一層其適品たるを知 るに足る。其上茶杓は寄付の添文にて明かなるが如く、石州共筒 銘時鳥で、右三器の組合せの外、糸目の鮮明なる南蛮〆切建水な ど悉く千両役者の顔揃ひで、今回濃茶の一幕は、実にアンコール に値ひする程の出来茶であつた ︵ 91︶ と、何度も根津の茶会に招かれているはずの高橋でさえも﹁大江茶 入﹂と﹁藤波花入﹂の松平治郷︵不昧︶以来百数十年ぶりの取り合わ せを褒めちぎっている。これに配した﹁志野茶碗 銘山端﹂は武野紹 鴎が所持したという。現在は重要文化財に指定されている ︵ 92︶。なお、 薄茶席の床には明治三九年︵一九〇六︶一一月の平瀬亀之助家入札会 で藤田伝三郎と争い一度は破れたが、昭和四年︵一九二九︶五月の藤 田平太郎家入札会に再登場した際に一六 、 九一〇円で入手した啓書記 筆﹁山水図﹂を掛けている。根津の古美術品の蒐集に対する執念を感 じさせるだろう。こればかりではない。床脇には﹁鴻池道億伝来名物 砂張船花入﹂ 、母 屋の大書院には ﹁ 光琳杜若屏風一双﹂ や円山応挙筆 ﹁藤 屏風一双﹂などが立ち並び、小書院の床には李迪筆﹁瓜虫﹂が掛けら れ、 ﹁光琳業平蒔絵硯函﹂が飾られていた。 しかし、大規模な饗応に対し﹁世間動もすれ名物多用を云々する茶 評家もある様だが﹂ ︵ 93︶ と、 根津の自慢の道具組みが批判の対象となっ ていることを承知していると書いている 。野崎広太はもっと厳しく 、 昭和元年六月に開かれた根津本邸の ﹁ 班鳩庵茶会﹂ に出席した際には、 ﹁元来この庵主や珍器名宝に嗇志あり 、 庫中名器の沢なるに任せて 、 彼も名物此も名物と、名物陳列の茶会を催すの癖あり。同好の交友皆 な之れを厭ふ﹂ ︵ 94︶ とハッキリと否定的に書いている 。しかし 、昭和 一二年五月に﹁青山斑鳩庵初風炉﹂に招かれた高橋義雄は、 兎角茶事は其人物に相応せざる可らず。⋮当家などに向ってそん なケチ臭い事をいふのは、相手を見損つた没分暁漢で、予等の与 せざる所である。何はしかれ、昭和聖代に斯かる茶人の出現した のは、大に人意を強うするに足るもので、予は之に対し満腔の敬 意を表する次第である ︵ 95︶ と、野崎広太らの見方を退けている。なお、引用した﹁青山斑鳩庵 初風炉﹂の﹁茶会記﹂は高橋義雄が書いた根津嘉一郎の茶会における 最後の﹁茶会記﹂であった。高橋は同年一二月に没している。最後ま で根津嘉一郎の茶の湯の良き理解者であった。 一方、 ﹁辛口﹂ 茶 評家の野崎広太は、 大正八年 ︵一九一九︶ 六月の ﹁ 加 州土産披露﹂茶会の茶略に対して手厳しい批判を加えている。ちなみ に 、当日は寄付に尾形光琳筆 ﹁燕子花屏風﹂ 、濃茶席の床には東常縁
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 二二 の ﹁歌軸﹂ 、その後の薄茶席には先ほどの寄付に戻って 、床に宗渭清 巌の墨跡﹁青山緑水﹂が掛かり、 ﹁角形赤絵獅子蓋香炉﹂ 、伝土佐光顕 筆 ﹁融通念仏良忍上人絵巻物﹂ 、清水九兵衛作 ﹁蒔絵硯箱﹂など多く の名品が飾られていた。野崎は次の様に批評している。 客としては斯る望外の眼福を得たるを喜ぶも、また熟熟之を考ふ れば畢竟夜話に同じき斯る催しに、この満艦飾は勿体なき事かと も思はれざるにあらず。更に遠慮なく赤裸々に之を言へば、後に 斯る名品の飾付は蓋し無用の業なるべきや。抑々本席の床に常縁 が歌掛物を見せ、後に清巌和尚の墨蹟を示す。之冠履顛倒也、履 は足に穿くべきもの冠は頭に戴くものと知らずや、已にこの一点 のみにて其趣向を誤れるに似たり ︵ 96︶ 野崎にすれば、 夜 会の満艦飾はもったいないというより無用であり、 しかも掛物の順番が逆だというのである。ただ、野崎は批判だけでな く、次のような寄付の使用や﹁燕子花屏風﹂の展覧方法の提案も行っ ている点は見逃せない。単なる ﹁批評家﹂ だけではなかったのである。 初め床付の席は締切つて、次の間のみを寄付の席に充て、慰み半 分に香を聞かせ、更に本席に導きて懐石と茶を侑め、然る後また 元の寄付の席を打開きて、彼の眼も覚めんばかりなる光琳杜若の 屏風を引廻して之を展示せむは如何にや、さすれば趣向に非難の 点もなく、名器名品もい亦むざ〳〵討死するの難を免るべき ︵ 97︶ さらに、大正一一年一〇月の﹁東山大茶会﹂の清水寺華中庵にみら れた床への西行筆﹁落葉切﹂と、その下への﹁砧青磁筍﹂花入の飾り 付けにはじまり、席中の大名物﹁白玉文琳﹂茶入、 ﹁柿の蔕 銘瀧川﹂ 茶碗、 ﹁利休作 銘松本﹂茶杓などの品揃えに対する野崎の批判は一層 厳しさを増す。 ﹁ 誇示とは言はゞ語弊あらむが、唯だ見せたい〳〵の好 奇心に駆られて、無暗矢鱈に並べ立てたるものなれば、趣向の支離滅 裂は免るべくもあらず﹂ ︵ 98︶ と辛辣ともいえるほどに手厳しい 。そし て﹁而も何れを見ても結構の品ならざるはなく、余はひたすらに青山老 が斯る多くの名物を惜気もなく陳列せし勇気に驚き、 且 つ其眼福を喜び、 尚此処を去るに臨み老が豁然として早く心眼の開けむ事を祈﹂ ︵ 99︶ ると 続けている。 満艦飾の飾り立てに対する不満は野崎広太のみでない。根津の茶の 湯の﹁後見人﹂であり、茶略の良き理解者であったはずの高橋義雄で さえも、益田孝から今回の根津のお茶は薪庵はじまつて以来の出来茶 と聞かされていた昭和二年八月の﹁薪庵茶会﹂における前掲第2表に 示した様な茶略に対し、 ﹁ 之に一言を挿まんとならば、大佗名品が余り に揃ひ過ぎて少しく鼻突合ひの嫌ひあり。其中の一品、例えば蓋置な どを半枯竹の新物にしたらば却て一段の侘味を増すであらうと思ふの みである﹂ ︵ 100︶ と苦言を呈している。そして、 ﹁今年斯かる名茶が出て は 、来年の趣向が容易ではあるまいが﹂ ︵ 101︶ と 、高橋らしくやんわり とクギを刺しつつも 、﹁庵主が此間に於て更に如何なる工夫を凝らさ るゝかは、 余 等の今より興味を以て期待する所である﹂ ︵ 102︶ と ﹁ 茶会記﹂ を結ぶところに近代数寄者のスポークスマンである高橋義雄の真面目 を感じるのは筆者ばかりではないだろう。 最後に、高橋義雄や野崎広太の目を通した根津嘉一郎のお茶人とし ての成長振りを見ておこう。実業家としての根津は、どちらかという とせっかちな性格と思われていたが、自ら開く茶会では大きく変わっ ていた。しかし、実業界の現場でみられた度胸の良さは茶席でもしば しば観察されている。大正七年一一月の﹁初陣の茶会﹂に招かれた野 崎が、 ﹁ 其手練初舞台の役者ー之はしたり初めての庵主とは見えず、な か〳〵に老手も及ばぬ手並みなりけり﹂ ︵ 103︶ と記す様に 、お茶人振り には度胸が据わっていた。さらに野崎は﹁平常の軽譟は何処へか紛失
根津嘉一郎の茶の湯 二三 し去つて最ち丁寧に来り迎ふ﹂ ︵ 104︶ と 、日常とはガラリと変わってい る根津のお茶人振りを書いている。三年半後の大正一一年四月の﹁柴 庵紅艶追福﹂茶会では、 高橋が﹁当庵主も茶臘の漸く加はるに連れて、 持つて生れた大度胸は愈々沈着の度を加へ、当意即妙の作略、要領を 得る事夥しく﹂ ︵ 105︶ と書いており 、短期間でのお茶人としての成長が 明かである。その後、 ﹁ 辛口﹂の茶評家の野崎も、 やがて潜り戸徐かに開くと見るや、阿吽の息を籠めたる庵主只黙 礼して退く様 、いかにも温雅にして平生軽噪の動作しも見えず 、 争はれぬは年も年、最早一廉老功の茶人として指を屈せらるベし とぞ覚えける︵大正一二年、暮春茶会 ︵ 106︶︶ と、書き、根津を﹁老功の茶人﹂とさえ表現しているが、少し誉め 過ぎなのではないだろうか 。事実 、根津は六四歳であった 。しかし 、 大正一三年一一月の﹁夕陽茶会﹂では高橋義雄は、 青山宗匠も茶臘の重なるに随ひ、善く云へば沈着、悪く云へば横 着になつて、濃茶手前に客を呑んで掛るの呼吸は已に免許皆伝の 域に達し、今日など初会であるにも拘らず、手前に停電なく碗中 に爆弾もなかつたのは天晴大出来と謂ふべく ︵ 107︶ と、 ﹁免許皆伝の域に達し﹂と認めており、 さ らに、 同 年一二月の﹁青 山歳暮﹂ に招かれた際には、 ﹁ 始中終毛髪の遺憾なく余りに強腹なので、 何か一本と思ひ、梅沢鶴叟等も鵜の目、鷹の目種々其穴捜しに腐心し たが、 遂に無条件降伏に終つた﹂ ︵ 108︶ と、 完敗を表明せざるを得なかっ た。そして、 ﹁ 辛口﹂の茶評家の野崎広太に、 庵主は殊勝にも十徳姿に衣紋正して炉前に静座しつ。釜中微かに 起る松の声涛の音に会心の笑を漏らして茶を点ずる動作は正に宗 匠の如く︵昭和元年、班鳩庵茶会 ︵ 109︶︶ と、 ﹁正に宗匠の如く﹂と言わしめるお茶人としての風格さえを身に 付けている。また、昭和五年一二月の﹁馬尾茶会﹂では﹁庵主は今夜が 初会で未だ一遍も練習せぬと云ふのに、人一倍の大度胸で何の滞る所も なくすら〳〵と炭手前を終られたのには一同駭服の外なかつた﹂ ︵ 110︶ と 根津の茶の湯の ﹁後見人﹂を任じている高橋でさえ舌を巻いている 。 その後、同一〇年一二月の﹁歳暮茶博士﹂では﹁此時庵主は多年の実 験より体得せられた鷹揚なる宗匠振りを発揮して、自ら炭手前に取掛 られた﹂ ︵ 111︶ といわれるまでになっていた 。そして高橋は濃茶手前で 用いられた ﹁︵中興名物撰屑茶入には :齋藤︶美事なる袋が四つまで あるのを、今夕はわざと之を使用せず、紫袱紗包みにして、名物らし く見せざりし処に 、庵主の深き意匠が存するのであらう﹂ ︵ 112︶ と、 隠 された茶略の真意を読み解いている。 なお、昭和三年一二月に開いた﹁龍尾茶会﹂において、高橋は相席 した実業界にあっては棟梁株であり、茶界にも片足を突っ込んだかた ちの近代数寄者第四世代ともいうべき田中平八、小倉常吉、塩原又策 に対して、 ﹁庵主や余等は聊か先進気取で紳士究竟の真楽は何れの点よ り見ても茶事に若く者なるべし 、と頻に茶徳の広大無辺を説法﹂ ︵ 113︶ する場面もあったと書いている。その昔、山積した﹁茶債﹂の解消の ために益田孝や高橋義雄に攻め立てられて﹁初陣の茶会﹂を開かねば ならないところに追い込まれた根津には、将来、かかる場面が来るこ とが想像できたであろうか。 根津嘉一郎のお茶人としての成長振りを鮮やかに示しているのが 、 ﹁茶会記﹂に綴られている中立後の鉦の打ち方である 。大正七年一一 月の﹁初陣の茶会﹂で打たれた合図の銅鑼の音を、高橋には﹁唯初日 の事とて庵主が例の性急なる気質を現し、近火の半鐘然と少しく急調 を帯びたるは 、蓋し初日一日だけの余興なるべし﹂ ︵ 114︶ と書かれてい た。 ﹁半鐘然﹂という言い回しが根津のせっかちであった性格を端的に
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 二四 表現している。ユーモラスに﹁初日一日だけの余興﹂とまで書かれて いる。しかし、同一一年四月の﹁茶友追福会﹂では﹁大銅鑼七点の合 図は陰々として露地に響き渡つた﹂ ︵ 115︶ とのみ記されている 。三年半 で大きく成長したのである。 その後、根津は大正一二年︵一九二三︶に旧雲州藩主松平治郷︵不 昧︶遺愛の名銅鑼を入手する。その雲州銅鑼が初めて茶会で用いられ た翌一三年二月の﹁聴鉦会﹂では、高橋は﹁長廊下を一曲りした庵室 の彼方よりムックリとして柔かく、然も底力があつて揺曳飽まで長い 大小中七点の合図が響き渡つて来た時には、一同其音波の中に包まれ て得も言はれぬ荘厳味を感じたのである﹂ ︵ 116︶ と書いている 。団琢磨 所蔵の ﹁灰屋伝来のと相対して 、東都に於ける銅鑼の両横綱﹂ ︵ 117︶ と 称されているほどの松平不昧公遺愛といわれる名鉦の持つ貫禄のゆえ であろうか。筆者はそうではないと考える。根津がそれだけの名鉦を 打つに相応しいお茶人のレベルにまで成長したのであろう。根津のお 茶人としての成長は、大正一三年一〇月の﹁夕陽茶会﹂における、 広間の方より山鹿流の陣太鼓ならねど底力強く腸に浸み渡るやう な大銅鑼の響きが耳を劈き来つたので、扨ては雲州家伝来の名鉦 なるべしと一同静粛に固唾を呑んで耳を澄ませば、大小大小中中 大の音色、間隔、寸分申分なく打ち終られたたのは、言ふまでも なく庵主の手並と頷かれた ︵ 118︶ という記述からも明かである。鉦の打ち方が記された最後の﹁茶会 記﹂ である昭和一〇年一二月の ﹁歳暮茶博士﹂ 茶 会に出席した高橋は、 一声殷々として響き来つたのは、雲州銅鑼で続いて大小中と、適 度の間隔を置きつゝ打ち出された今夜の打方は、更に間然する所 なく銅鑼も銅鑼なり、打手も打手なりとて、お世辞抜きなる称讃 の声が、暫時室内に反響したのは、時に取りての一興 ︵ 119︶ と、記録している。すでに紹介しているが、当日の炭手前に取り掛 かる根津の振る舞いを伝える高橋の﹁庵主は多年の実験より体得せら れた鷹揚なる宗匠振りを発揮﹂ ︵ 120︶ という記述と見事に相応している。 高橋のお茶人根津嘉一郎への評価は﹁大正時代実業家中には現代不昧 公を以て自任する大家が少くないやうだが、当席主の如きは確に其随 一人であらうと思ふ﹂ ︵ 121︶ と書くまでに高められていた。 第三節 根津青山の懐石 近代数寄者の茶道具の蒐集は濃茶、薄茶の道具にとどまらず、懐石 の食器にもおよぶ。改めていうまでもないが、茶会で懐石の持つ意味 は大きい。献立を自ら考えた井上馨 ︵ 世外︶ をはじめ ︵ 122︶ 、 畠 山 一 清 ︵ 即 翁︶ ︵ 123︶ 等の近代数寄者は献立の組み立て、食器の選択に心を砕いた。 益田孝は栄養学に興味を示して実践しており ︵ 124、︶ ま た、 小林一三︵逸 翁︶も懐石料理の簡素化や洋食を取り入れるなどの創意工夫を試みて いる ︵ 125。﹁︶ 辛口﹂の茶評家の野崎広太でさえ ﹁誰か酒客の飲宴を磊 落として之を好み、茶事の会席を謹厳として之を避けんとするや、快 心の友相寄りて清興を偕にす 、蓋し之より快楽の多きはなし﹂ ︵ 126︶ と 書き、懐石批判は少ない。第三節﹁根津青山の懐石﹂では、懐石道具 から根津の好みを探りたい。 懐石での使用食器類は根津の茶の湯の趣旨の一端を表現していると いって過言でない。筆者が ﹁茶会記﹂ か ら構築したデータベースでは、 根津嘉一郎の懐石は三六会が判明する。ただ、畠山一清などの﹁茶会 記﹂では献立や食器は記されているものの、肝心のコメントが加えら れていない。 一方、 茶 客として招かれた高橋義雄や野崎広太の ﹁ 茶会記﹂ は二九会であり、名器を揃えている根津の茶趣を読み取っている。し
根津嘉一郎の茶の湯 二五 かし、 そ のすべてに言及する必要はないだろう。 ところで 、懐石の包丁は清次郎が三会 、清吉 が一会を確認できるが 、後は不明である ︵ 127。︶ 甲州で自ら仕留めた猪のシシ鍋の振る舞いも あった ︵ 128。また︶ 、﹁ 熱海不寒庵﹂では﹁悉皆材 料を当地の産物に取り 、殊に自園の南瓜 、白菜 などを使用せられたのが如何にも嬉しく﹂ ︵ 129、︶ 長野県軽井沢の ﹁薪庵茶会﹂では ﹁主人の心入 で 、 七 、 八分通り土地の産物で持ち切つたのが 面白く﹂ ︵ 130︶ 、﹁ 信州蕎麦やら庭池の鯉飴だき、其 他園内の野菜などで都人の口に殊更珍しく味は れた﹂ ︵ 131︶ とあるくらいで、 ﹁茶会記﹂の記述も 料理へのコメントは少なく 、食器の取り合わせ が中心である。 ﹁辛口﹂ 茶 評家である野崎広太は、 ﹁暮春茶会﹂の献立に対して、 献立の品 、中には節尚ほ少しく早きに過ぐ るものも見え 、やゝ初風炉の催しに侑めら るゝ懐石のやうに思はるゝもありたれど 、 早晩口にすべきものなれば食ふに一向差支 なきのみか 、其味甚だ佳良にして 、特に鱒 の如きは何よりの御馳走 、 いづれは庵主遠 き辺よりわざ〳〵取寄せたるものと覚し く、 なみ〳〵ならぬ心入れの程を察すれば、 節の遅速など彼是評すべき義理ならず 、 何 れも皷舌満腹 ︵ 132︶ と 、例によって何か言いたげではあるが 、 十 分に満足した様子で、さらには、 ﹁焼物の茄子、小吸物の蓴采、さては 香物の胡瓜など、季節に適ふや否やを問ふに遑あらず、其美味に惑ふ て無我夢中に飽喫し終りつ﹂ ︵ 133︶ と書く始末であり ﹁辛口﹂茶評家の 痕跡もみられない。 ここでは性格の重複を避けて第2表の四つの茶会を選択し、懐石道 具から根津嘉一郎の好みを探りたい。お茶人のその後の茶風を暗示す るといわれる大正七年一一月の﹁初陣の茶会﹂からみていくのが順序 であろう。高橋の初陣茶会での使用食器の感想は次の通りである。 扨も美事なる懐石器具かな、阿蘭陀角花鳥模様の向付は、藍色滴 るが如く兎の毛程の疵だになし。備前半月手付平鉢は稍締り、焼 ヌケの打重なりたる所など勿論此種の尤物なるべし、殊に刷毛目 盃は銘を幾世綿と云ひ、小皿形にて高台廻りに土を見せ、稍枇杷 色を帯びたる刷毛目釉の結構なる、小粒で辛き山椒の可愛と云ふ よりも、寧ろ難しと云ふ方なるべし ︵ 134︶ 当日、同席した野崎広太は、向付と焼物の器に加えて﹁香物鉢の御 本三島皆共に見事﹂とし、 ﹁青磁の八角亦綺麗のもの也、賞味享楽この 上やある﹂ ︵ 135︶ と結んでいる。こればかりではない。 ﹁軽井沢薪庵﹂ ︵ 大 正一一年九月︶では八寸を省き ︵ 136︶ 、﹁ 弘仁堂残茶﹂ ︵昭和四年一〇月︶ では吸物を省略することで ︵ 137、名残の物寂しさを演出している︶ 。根 津の懐石における食器の素晴らしさは二人の﹁茶会記﹂に繰り返し述 べられているが、とりわけ酒器が見事であったのは下戸の高橋が次の 様に書いている点からも納得できる。 酒器に於ては数々目覚ましき珍品あり。青磁桃蓋銚子、朝鮮唐津 徳利は勿論人目を引付けたが、彼の黄瀬戸盃に至りては大きさと 云ひ黄色と云ひ誠に幾世綿の名に背かず。下戸も猶且つ一杯を思 ふ有難味があつた︵昭和四年一月、熱海不寒庵︶ ︵ 138。︶ 年月日 会 向付 焼物 強肴 八寸 香物 酒器 盃 銚子 徳利 181127 初陣の茶 阿蘭陀角花鳥模様 備前半月手付平鉢 御本三島鉢 染付蓋鉄 朝鮮唐津 刷毛目 青磁八角 241123 夕陽茶会 金襴手寄せ合せ 備前半月手付鉢 刷毛目小鉢 青磁蓋鉄 宋胡録 唐津 捻 280522 青山初風炉 祥瑞松竹梅模様在銘皿 備前州浜形平鉢 御本立鶴手付片口 志野小鉢 安親作素赤 宋胡録 唐津 青磁八角 291224 歳暮茶博士 乾山絵替 織部飯櫃手付肴鉢 瀬戸絵模様平皿 唐津沓鉢 了入四方 刷毛目 黄瀬戸六角 染付輪花兎模様 (第2表)懐石食器の組合せ
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 二六 酒器に於て絵刷毛目徳利の頃合能き水鳥ぐい呑、人形手馬上盃な ど、下戸にも猶ほ且つ一杯を思はしむるの妙味があつた︵昭和五 年一二月、馬尾茶会︶ ︵ 139。︶ すでに紹介した様に、賛否はともかくとして根津の茶会は、掛物に はじまり 、茶道具にいたるまで名品がずらりと並ぶところに特徴が あった。懐石道具でも同様であった。高橋はいう。 如上器物中、金襴手寄せ向は当茶会としては余りに侘び過ぎたら んとの批評もあつたが、何れも目覚しき綺麗揃ひなので、実地に 於ては左る感じも起らなかつた。又饅頭抜け模様ある備前手付鉢 やら刷毛目小鉢やら、其他数々の酒器が何れも余所行の特別品で あつたのは、庵主が此方面に於ても亦如何に奮発して居たかを知 るに足る︵大正一三年一一月、夕陽茶会︶ ︵ 140。︶ 器物は何れも歳暮適当の大侘物揃ひの中にも、八寸に使はれた乾 山山水絵平鉢が一段と目に付き、其外備前円座小鉢が榎肌で中に 二つの饅頭抜けあり、最初より香物鉢として生まれたるやうなる が如何にも嬉しく 、酒器の絵刷毛目徳利も粗画の模様が面白く 、 大きさも丁度宜き程であつたが、斯かる雑器に数限りなく一騎当 千の精兵が揃ひ居るは、大家たる所以で、茶事一半の成功は、此 雑器に繋つて居ると云ひても決して過当ではあるまいと思ふ︵昭 和二年一二月、青山歳暮︶ ︵ 141。︶ 器物の取合せが例年より更に一段適切であつたのは、此茶会が度 重なるのも拘らず庵主の余裕綽々たるに驚かざるを得ぬ。即ち乾 山絵替向付、八寸用平皿、唐津香物鉢など所謂綺麗寂びと称すべ く、別して酒器に至つては寸法頃合なる刷毛目徳利に黄瀬戸及び 染付盃の三角関係が何とも言へぬ好配合で、当夕第一の左利三輪 ︵善兵衛 :齋藤︶翁が興に乗じて陶然酔郷に遊ばれたのも 、一半 は酒器の優れたるに因る事だらうと思はれた ︵昭和四年一二月 、 歳暮茶博士︶ ︵ 142。︶ ただ単に名品を揃えているばかりではない。根津なりに細かい工夫 もみられる。例えば、大正一一年一〇月の﹁青山名残﹂茶会では﹁虎 疫に対する警戒を忘れずして、能ふ限り魚類を避けられたが、其注意 周到の間に能名残気分を現は﹂ ︵ 143︶ す苦心を行っている 。また 、大正 一二年の﹁乙丑歳晩会﹂では料理の選択に気を配っているが、 歳暮は名残と違ひ、大寂びの中にも自ら新年を迎ふる生気の潜ん で居る事が肝要で、懐石中、吸物に土筆、焼物に鯊昆布巻、八寸 の若鷺を使はれたなどは、自ら其趣意に適つた者である ︵ 144︶ と、高橋も実によく見ている。これこそが茶客に徹底的に喜んでい ただく茶会の趣向であり 、亭主と茶客の間の ﹁一座建立﹂であろう 。 また、亭主としては他日開催された近代数寄者の道具組も念頭に置か ねばならない。例えば、大正一〇年一二月の﹁青山夜話会﹂では、 器具も亦品揃ひで萩焼割山椒は好く半月膳に取合ひ、乾山雪持笹 の絵鉢と尹部円座小鉢とは、二つながら余り絶品であるから新木 の八寸を省き、焼物を重箱の下の段に入れ、其上の段に八寸を盛 つて乾山の名鉢は之を他日に廻した方が歳暮の物足らぬ気分が現 はれて、却て面白からうなどゝケチな了簡も出して見たが、施主 は先日馬越︵恭平 :齋藤︶翁の口切りに重箱が出たから、今度は 同趣向を避けたのであるさうだ。又酒器の染付四方蓋銚子は小ぢ んまりして意気な者である。唐津徳利も亦好い頃合で、此に二品 揃へて出すのは歳暮茶として是も少しく贅すぎる ︵ 145︶ 事実 、﹃ 大正茶道記﹄によれば 、高橋は ﹁青山夜話会﹂が開かれた 一〇日ほど前の一二月一八日に櫻川茶寮で開催された馬越恭平の﹁馬 越翁口切﹂に参会している 。当日は高橋と根津は同席しなかったが 、
根津嘉一郎の茶の湯 二七 根津は後藤新平、 岩原謙三、 山本条太郎らと一緒に招かれている ︵ 146。︶ 高橋は何も書いていないが、永年のライバルであった馬越恭平である ところから、何か別の意図でもあったのかと考えてしまうのは社会経 済史を専門とする筆者の深読みであろうか。ところで、 ﹁青山夜話会﹂ の引用部分の最後にみられる様に、高橋としても多少は注文を付けた くなるような場面もあっただろう。事実、昭和三年六月の﹁青山初風 炉﹂では酒器の取り合わせについて﹁甘口﹂茶評家に相応しく、次の 様にやんわりと注文を付けている。 器具の美事なる其中にも祥瑞向付、備前焼物鉢は使用上最も其所 を得たる者なり。又御本立鶴の手付片口、宋胡録徳利は珍奇を持 て一座の目を驚かすに足る。唯洒落物の安親素赤銚子は、此堂々 たる茶会に於て聊か軽ぎる感じがするから、矢張真面目な鉄銚子 にしては如何と思ふ ︵ 148︶ もっとハッキリと根津嘉一郎の組立はやりすぎであるとしている場 面もある。大正一一年一二月の﹁壺割り茶会﹂の席である。 歳暮茶会に取合ふべく、庵主が懐石及び其器具を見立てた苦心は 一々客の胸に応へたが 、別して向付に阿蘭陀四方 、 唐津 、乾山 、 仁清及び金襴手と云ふ逸品選抜きの名品を使はれたのが、寄せ向 であるが為め更に侘味を損せず、此等をこそ綺麗寂と云ふのであ らう。唯蒸した栗饅頭を、千家宗匠の手紙書判を一閑張抜きにし た茶箱の中に盛つて出されたのは、余り凝り過ぎて思案に能はぬ 嫌ひがあつた ︵ 148︶ 当日は初会であるから何か修正説あれば申し出る様にといわれたこ とを受けて、高橋は信楽の大壺を割る様に進言した。根津は八田富三 郎に実行を命じ、翌日、招かれた益田孝や野崎広太に激賞されたこと は広く知られている。野崎も ﹁茶会記﹂ を残しているが ︵ 149︶ 、菓子は ﹁粟 餅﹂とあるだけで﹁栗饅頭﹂ではなかった。どちらかの誤記かもしれ ない。だが、 ﹁辛口﹂茶評家であるなずの野崎の﹁茶会記﹂には高橋の ような非難めいた言質はみられない。高橋の進言が﹁信楽大花入﹂だ けに止まったのか、是非とも知りたいところである。 註 ︵1 ︶ 末宗広 ﹃茶人系譜﹄ ︵河原書店 、一九八五年︶では 、益田孝は ﹁流派 を超越し益田流の茶を行った﹂と記されている︵一一四頁︶ 。 ︵2︶ ﹃昭和茶道記﹄ ︵以下﹃昭和﹄と略記する︶第一巻、五五五頁。 ︵3︶ 大阪幽玄社茶道研究会 ﹃高谷宗範高橋箒庵両先生茶道論戦公開状﹄ ︵大 阪幽玄社茶道研究会 、一九三二年︶ 、高橋箒庵 ﹁おらが茶の湯﹂ ︵﹃日本 の茶書﹄二、平凡社、一九七八年︶ 。 ︵4 ︶ ﹃根津翁伝﹄ 、三七一∼三七二頁 。また 、﹁初陣の茶会﹂で ﹁懐中より 手拭を取出して 、江戸千家流に敷居を拭きたる﹂とあり 、江戸千家流 であると窺える ︵﹃東都茶道記﹄ ︵ 以下 ﹃東都﹄と略記する︶第四巻 、 六二一頁︶ 。 ︵5︶ ﹃茶会漫録﹄ ︵以下﹃漫録﹄と略記する︶第四集、六四頁。 ︵6︶ ﹃茶人系譜﹄ 、一〇一頁。 ︵7︶ ﹃茶人系譜﹄ 、一一四頁。 ︵8︶ ﹃漫録﹄ 、六集、一二頁。 ︵9 ︶ 高橋義雄と野崎広太がともに ﹁茶会記﹂を残している根津嘉一郎の 自会は、 ﹁根津氏初陣茶会﹂ ︵大正七年一一月︶ 、﹁柴庵紅艶追福﹂ ︵同一一年 四月︶ 、﹁青山名残﹂ ︵同一一年一〇月︶ 、﹁ 壺割り茶会﹂ ︵同一一年一二月︶ 、 ﹁夕陽茶会﹂ ︵同一三年一一月︶ 、﹁初風炉茶会﹂ ︵昭和元年六月︶の六会、 大寄せ茶会は﹁東山大茶会﹂ ︵大正一〇年一一月︶ 、﹁壬戌大師会﹂ ︵同一一