「福祉哲学」第1章
阿 内 正 弘
序 以前われわれは,プラトンとカントを例にして,個人の道徳的善悪と幸福との関係につい て 察した 。そこで明らかになったのは,プラトンにおいては道徳的に正しい人間が実際に はまた同時に(プラトンの意味での)最も幸福な人間であるとみなされ,それゆえ,いわゆ る勧善懲悪という観点からみれば,そこにはいかなる矛盾も存在していなかったのに対して, カントにおいては道徳的善悪と現世的幸福とは基本的に無関係であるとみなされているとい うことであった。それどころか,晩年のカントは,「世界における犯罪と罰との誤った関係」 に対する,すなわち「善人が苦しみ悪人が栄える」ように見える世界の現状に対する従来の 弁明を,「教条的神義論」(doktrinaleTheodicee)としてきっぱりと拒絶した 。しかし,他 方でカントは,『実践理性批判』において「最高善」の可能性のために「霊魂の不死」,「自由」, 「神の現存在」を「純粋実践理性の要請」として提示している。この二つの立場は調停可能 なのだろうか。本論稿では,カントが「実践理性の要請」ということばによって表現してい るものを検討し,彼が道徳的善と幸福との関係をどうとらえていたかについてさらに 察を 続けたい。 1. カントの倫理学が「厳格主義」と言われるのは,全くもっともであろう。なにしろ彼にと って,ある人間の行為がたまたま道徳法則が命じる行為と完全に同一であった場合ですらも, それだけではその行為者は道徳的に善であるとは必ずしもみなされないのである。このこと に対して,カントは『人倫の形而上学の基礎付け』において,以下のような例を挙げている。 例えば,商人が彼の未経験な客に法外な値を付けないということは,もちろん義務に適 ったことである。そして多くの取引があるところでは,法外な値を付けるなどというこ とは抜け目のない商人ですらせず,確定した普通の値段をすべての人に対して保ち,そ れゆえ子供でさえも他の人々と同様彼のところで購入する。それゆえ人は誠実に応対さ ⑴れている。しかし,このことだけでは,その商人が義務と誠実の原則からそのようにふ るまったと信じるのには全く不十分である。彼の利益がそうしたふるまいを要求したの である。……それゆえその行為は義務に基づくものでも,直接的傾向性に基づくもので もなく,単に利己的な動機で行なわれたのである。(Ⅳ,397) さらに,以下のようにも言われる。 可能な限り慈善を行なうことは義務であり,さらに思いやりのあるこころを持つ多くの 人たちがいて,彼らは虚栄心や利己心のような他の動因がなくても喜びを自分の周囲に 広げることに内的満足を見出し,それが自分の仕事である限り他人の満足に心から喜ぶ ことができる。しかし,そのような場合こうした行為は,それがどれほど義務に適い, どれほど愛すべきものであっても,それにもかかわらず真の道徳的価値を全く持たず, むしろ他の傾向性,例えば名誉を求める傾向性と同じペアを組むものである,というこ とを私は主張する。この名誉を求める傾向性は,それが幸いにも実際公益に役立ち,義 務に適い,したがって名誉に値する事柄と一致する場合でも,称賛や奨励には値しても, 高い評価には値しない。(Ⅳ,398) すなわち,カントによれば,「義務に基づく行為は,その道徳的価値をその行為によって実 現されるべき意図の中にではなく,それに従って行為が決定される格率の中に持っている」 (Ⅳ,399−400)のである。ここで言われているのは,「適法性」(Legalitat)と「道徳性」 (Moralitat)の峻別であり,さらに例えばマックス・ヴェーバーにおける「責任倫理」 (Verantwortungsethik)と「心術倫理」(Gesinnungsethik)の区別の思想的源流を成すも のであろう。カントの倫理学は,徹底的な心術倫理の立場に立つものであり,ある人間の行 為がどのような結果をもたらすかということは,その善悪の評価にとっては全く二次的なこ とにすぎなかったのである。したがって,外見上全く同一である二つの行為は,場合によっ ては全く異なった道徳的価値を持つ可能性があるとみなされる。 以上のようなカントの倫理観は,その理性主義的人間観と,そこから帰結する「自由」の 概念と密接に結びついている。『実践理性批判』の結語にある有名なことば,「それを える ことしばしばにして,かつ長ければ長いほど,常に新たにして増しきたる感嘆と崇敬をもっ て心を満たすものが二つある。われわれの上なる星空と,われわれの内なる道徳法則である」 (Ⅴ,161),に引き続いて,カントは以下のように述べている。 この両者を,私は暗闇の中に,あるいは過剰なものの中に隠されたものとして,私の視 野の外に探し求めたり,また単に憶測したりする必要はない。……第一の,無数の世界 群の光景はいわば,動物的被造物としての私の重要性を無とする。動物的被造物は,そ こから自分が生成した物質を,自分が短い間(どれくらい短いかはわからないが)生命 力を備えた後で,この遊星に(全宇宙の単なる一点に)再び戻さなければならないので ⑵
ある。これに対して,第二の光景は,一つの英知体(Intelligenz)としての私の価値を, 私の人格性を通じて無限に高める。その人格性において,道徳的法則が動物性から,そ れどころか感性界全体からも独立した生命を私に開示するのである。…… (Ⅴ,162) このことばからも明らかなように,カントにとって人間はそれが英知体,すなわち理性的 存在である限りにおいてのみ特別な生命の尊厳を持つのであり,そうでない場合には他の動 物と同様にその生命にはほとんど価値がないとみなされるのである。ちなみに,このような 理性主義的人間観が,後にナチスが実行に移したような「生に値しない生の抹殺」の根拠と なり,さらに今日においても例えば「尊厳死運動」という形態で生きていることは,すでに 別の箇所で明らかにした通りであるが ,後に本論稿においても別の角度から論じる。 さらにこうした理性主義的人間観は,カントにおける「自由」ということばの特殊な用法 と密接に結び付くものである。すなわち,カントによれば「自由」とは道徳的行為の主体と しての理性的人間の根本的条件であり,道徳の存在根拠(ratioessendi)であったが,そこ で言われている「自由」ということばは,通常われわれの多くがそう えているように,「妨 害なしに自分の好きなことができる」ということを意味しているわけでは決してなかった。 カントにおける「自由」とは,後で見るように,例えばバーリンが定義している意味での「積 極的自由」であり,むしろわれわれが通常「自由」と呼んでいる状態,バーリンのことばで は「消極的自由」は,欲望や情念,無知などの奴隷になっている状態に過ぎないとみなされ る。 例えば,周知のようにプラトンは『国家』において民主制国家の支配原理が「自由」であ るととらえ,そうした国制を徹底的に批判している。すなわち,プラトンにおいて「自由」 は全く否定的な評価しか受けていない。したがって,こうした点を見ればプラトンの思想と カントの思想とは全く相容れないように思える。しかし,このような評価は外見上のものに すぎない。なぜなら,『国家』においてプラトンが批判している「自由」は,カントが理性的 人間の根本条件とみなしている「自由」では全くないからである。むしろカントの「自由」 とは,端的に言えば道徳法則に従うことであり,それゆえプラトンが理想とした人間のたま しいの状態,すなわち理性的部分が気概の部分を味方にして欲望的部分を支配している状態 と基本的には同じなのである。 カントは,「自由」の積極的概念を以下のように定義する(Ⅳ,446ff.)。 それゆえ自由は,確かに自然法則に従う意志の固有性ではないが,上述のことからそれ でも全く無法則なのではなく,むしろ特殊な種類ではあるけれども不変な法則に従う因 果性(Kausalitat)でなくてはならないのである。なぜなら,そうでなければ自由な意志 とは一つの非合理なもの(Unding)であろうから。自然必然性とは作用原因の他律であ った。なぜなら,あらゆる作用は,ある他のものがその作用原因を因果性として規定す ⑶
るという法則に従ってのみ可能であるから。そうであれば,意志の自由とは自律,すな わち自分自身に対して法則であるという意志の固有性以外のなにものであり得るのか けれども,意志はすべての行為において自分自身に対して法則である,というこの命題 は,自分自身をまた普遍的法則として対象に持つことができる格率以外の一切の他の法 則に従って行為しないという原理を記述するだけである。しかしこのことは,まさに定 言的命法の公式であり,道徳性の原理である。それゆえ,自由な意志と道徳的諸法則の もとにある意志とは同一である。 さらに,以下のようにも言われる。(Ⅳ,448) そこで私は以下のように述べる。自由の理念のもとでしか行為できないあらゆる存在者 は,まさにそれゆえに実践的観点において現実に自由であると,すなわちこの存在者に は自由と不可分に結び付いているあらゆる法則が通用するのだが,それはあたかも,彼 の意志がまたそれ自身において理論哲学においても有効に,自由であると説明されるの と全く同様である,と。 こうしたことばから明らかなように,カントにとって人間はその行為が欲求や傾向性によ って規定されている限り,その人間は単なる感性界の住人であり,自然法則に従わざるをえ ない,すなわち「不自由な」存在者なのである。真に自由な人間とは,その行為が意志の自 律の原理に完全に適合している人間であり,それによって彼は悟性界の住人となる。このよ うに,カントによれば人間は二重の存在であり,したがって道徳法則は一切の条件を含まな い定言的命法として現われるのである。 カントによる「自由」ということばのこのような特殊な用法が,大きな問題点を含むもの であることは明らかであろう。バーリンによれば,カントやルソーに代表される自由の積極 的概念は,「自分のする選択を他人から妨げられない」という意味での自由,すなわち自由の 消極的概念と最終的に衝突せざるをえないのである。その理由は,自由の積極的概念が含む 自己支配(self-mastery)というメタファーにある 。こうしたメタファーは,一方における 「支配する自我」,他方における「服従する自我」という分裂の萌芽を含んでいる。すなわち, 支配する自我は,「理性」,「より高次の本性」,「真実の」,「理想的」,「最善の」自我などと同 一化され,それと共に「非合理的な衝動」,「制御できない欲望」,「低次の本性」,「直接的な 快楽の追求」という,経験的あるいは他律的自我と対置されることになる。こうした二つの 自我は,さらに大きな分裂によって隔たったものとされる 。そしてこの場合,カントにおけ るように「理性」が普遍的なものとみなされれば,他人に対して,他人の利益のためという 名目で,例えば公共の福祉といった一定の目標を強制することが正当化される。なぜなら, 彼らがそうした目標を実現しようとしないのは,情念や偏見などによってその理性が曇らさ れているからであり,彼らが啓蒙されていればその目標を自発的に追求するに違いないとみ ⑷
なされるからである。マックス・シェーラーは,カントにおける「理性の自律」を,実際に は「理律」(Logonomie)であり,したがって「他律」にすぎないと批判したが ,こうした 批判は事態の一面をとらえていると言えよう。「普遍的理性」の名前の下に,強制や服従が公 認されるのである。 さらに真の自我は個人的な自我よりももっと広大なもの,種族,民族,教会,国家などの ような一つの大きな全体として えられる 。そうであれば,その全体は,集団的意志を反抗 する成員に強いることによって,成員たちの「より高い」自由を実現する「真の」自我と一 体化されることになる。これはまさにファシズムの発想であろう。ドイツ民族の真の意志を 実現するのがヒットラー総統であり,彼の命令に従うことはドイツ民族にとっての真の自由, というわけである 。このような観点から見れば,ナチズムはこうした理性主義の一つの論 理的に一貫した帰結であると言えよう。もちろん,その時代にカントが生きていたら,ナチ ズムのようなものを称賛することは確かにないであろう。ナチスが行なったことは,決して カントの道徳法則が命じるものではないように思われる。しかし,こうした「真の自我」と いう概念,カントのことばによれば「英知体としての本来的自己」という概念の暴力性につ いては指摘せざるをえないであろう。 先に見たように,カントによれば普遍的道徳法則に従う理性的存在者としての人間のみが 尊敬に値するものであった。一切の欲望や傾向性は,道徳法則に従う義務を前にして退かな ければならない。「道徳性の原理の正反対は,自身の幸福の原理が意志の規定根拠とされる場 合」(Ⅴ,35)であり,その際「幸福の原理は確かに格率を与えることはできるが,一般の幸 福が目的とされた場合ですら,意志の法則として役に立つであろうような格率を与えること は決してできない」(Ⅴ,36)のである。 しかし,われわれはいったい何でそんな目に遭わなければいけないのだろうか。自律的で あるということは,他の一切を犠牲にしてでも追求すべきことなのだろうか。どうせ人間は 死を免れ得ないのであれば,せめて生きている間は自然法則に従属しながら快楽に身を委せ たほうがよっぽど素敵なことではないのか。結局,「満足した豚」であることの方が「不満足 なソクラテス」であることよりも望ましいことではないだろうか。カントにおいてこうした 当然の疑問に対する解答を与えているのが,「実践理性の要請」という概念である。 2. カントにとって,道徳法則に従って生きることと,幸福であることとは基本的に無関係で あった。それどころか,「理性と意志を持ったある存在者において,その維持と繁栄とが,一 言で言えばその幸福が自然の本来的目的であるなら,自然が被造物の理性をこの自らの意図 の完成者として選ぶ手筈をしたことは,大変拙いことであった」のだが,「その理由は,この ⑸
被造物が,こうした意図で実行しなければならないあらゆる行為や,彼のふるまいの規則全 体は,それが理性によっていつか行なわれ得るよりも,本能によってはるかに正確にこの被 造物に対して指示されるし,かの目的(幸福)も,はるかに確実にそれによって獲得され得 ていたから」(Ⅳ,395)である。 もちろん,カントは「いかなる場合にも自分の幸福を一切顧慮してはならない」などと主 張しているわけではない。この点に関して,カントは以下のように述べている。 しかし,このように幸福の原理を道徳性の原理から区別することは,それゆえにただち に両者の対立であるのではなく,純粋実践理性が欲することは,幸福の要求が放棄(auf -geben)されるべきであるということではなく,ただ義務が問題になるや否や幸福は全く 顧慮される(Rucksichtnehmen)べきでないということである。それどころか,一定の 観点においては,自らの幸福を配慮することは義務であり得る。一部は,幸福(これに は巧妙,健康,富が属する)が,彼の義務の遂行のための手段を含むからであり,一部 は幸福の欠如(例えば,貧困)が,彼の義務に違反する誘惑を含むからである。(Ⅴ,93) 後年(1793年),クリスチャン・ガルヴェの,「カントは道徳法則の遵守こそが,全く幸福 を顧慮することなしに人間にとっての究極的目的であると述べた」という批判に対して,「そ れは理論的には正しいかもしれないが,実践には適していない,という俗言について」とい う論文の中でカントはこの点を強調している 。しかし,それにもかかわらず,「彼の幸福だ けを推進することは,決して直接義務ではありえず,ましてやあらゆる義務の原理ではあり えない」(Ⅴ,93)と言われる。そうであるならば,なぜわれわれは道徳的に正しく生きなけ ればならないのだろうか,という疑問は依然として解決されないままである。 こうした問題に関連して重要なのは,先に『実践理性批判』の結語から引用した際に,そ こから意図的に省略した以下の部分,「道徳法則が開示する感性界全体から独立した生命」を 限定する部分である。 ただしこの生命は,こうした法則によって私の現存在が合目的的に規定されており,こ の規定が現世の生活の諸条件や諸限界に制限されることなく,無限に進行するというこ とから見て取れる限りにおいてであるが。(Ⅴ,162) すなわち,カントによれば,道徳法則の崇高性は,感性界全体から独立したいわば理性的 生命が無限に継続するという条件において,言い換えれば人間の霊魂が不死であるという条 件においてのみ認められるのである。このことが,カント倫理学における善と道徳の関係を える際に重要な概念,すなわち「実践理性の要請」という概念である。その際,「要請」(Postulat) ということばは,「それがアプリオリに無条件に妥当する実践的法則に不可分に結び付いてい る限りでの,理論的ではあるがそのようなもの(理論的なもの)としては実証することがで きない命題」(Ⅴ,122)という意味で用いられている。 ⑹
実践理性の要請としてカントが挙げているのは,「不死,積極的に えられた自由(可想的 世界に属する限りでの存在者の因果性としての)および神の現存在」(Ⅴ,132)の三つであ る。このうち第一の要請は,「道徳法則の実現の完遂のために持続が適当であるという実践的 に必然的な条件から由来する」(ebd.)ものであるが,この点に関してはさらに以下のように 言われている。 最高善を世界の中に生ぜしめることが,道徳法則によって規定し得る意志の必然的目的 である。けれどもこの意志において心術が道徳法則に完全に適合することが,最高善の 至上の条件である。それゆえ,このことは,それが心術の目的を推進せよというその同 じ命令の中に含まれているがゆえに,心術の目的と同様に可能でなければならない。し かし意志が道徳法則に完全に適合することは神聖性,すなわち感性界におけるいかなる 理性的存在者にとっていかなる瞬間においてもその能力を欠く一つの完全性である。そ れにもかかわらず,そのこと(心術が道徳法則に完全に適合すること)は実践的に必然 的なこととして要求されているから,それはかの完全な適合へと無限に進んでゆく進行 においてのみ見いだすことができるのであり,そうした実践的進歩をわれわれの意志の 実在的目的として想定することは,純粋な実践理性の原理によれば必然的である。 しかしこうした無限の進行は,この理性的存在者の無限に持続する実存と人格性(霊魂 の不死と呼ばれる)を前提にしてのみ可能である。それゆえ,最高善は実践的に霊魂の 不死を前提にしてのみ可能である。したがって,このこと(霊魂の不死)は道徳法則と 不可分に結び付いた純粋な実践理性の要請である。(Ⅴ,122) さらにカントによれば,不死の要請へと導いた道徳法則は,「かの道徳性にふさわしい幸福 の可能性」(Ⅴ,124)へと導くことになる。そこでカントは,「幸福」を次のように定義する。 幸福は,その現存在の全体においてすべてのことがその希望と意志に従って行なわれる ような理性的存在者の状態であり,それゆえ彼の目的全体に,同様に彼の意志の本質的 規定根拠に対して自然が一致していることに基づいている。(ebd.) すでに見たように,カントにとって「道徳法則に従うこと」と「幸福であること」は本来 全く別であったが,そのことを反映してさらに以下のように言われている。 さて,道徳法則は自由の法則として,自然および自然とわれわれの欲求能力との一致(動 機としての)から全く独立であるべき諸々の規定根拠を通じて命令する。けれども,世 界の中の行為する理性的存在者は,何といっても同時に世界および自然自体の原因では ない。したがって,道徳法則の中には,道徳性と,部分として世界に属しそれゆえ世界 に依存する存在者の道徳性に比例した幸福との必然的連関に対して微塵の根拠も存在し ないのである。この存在者は,まさにそれゆえに彼の意志を通じて(傍点引用者)この 自然の原因ではありえず,また自分の幸福に関して自然を彼の実践的原則と自分の力に ⑺
よって例外なく一致させることはできない。(ebd.) こうした言明にもかかわらず,ここでカントはいわばアクロバット的な手法を用いる。す なわち,カントにとって「幸福の可能性」は「最高善の第二の要素」(ebd.)であったのであ る 。この点に関して,彼は以下のように述べる。 それゆえ,徳は理性的で有限な存在者の欲求能力の対象としての,全体的で完全な善で はまだない。なぜなら,そうであるためには,その上にまた幸福が要求されるからであ り,それも自分自身を目的とする人格の偏向した目においてだけではなく,徳一般を世 界における目的自体として問題にする偏向しない理性の判断においてさえも要求される のである。というのは,幸福を要求し,また幸福に値しながら,それにもかかわらず幸 福に与らないということは,同時にあらゆる力を持つであろう理性的存在者の完全な意 欲とは,そのような存在者を試しに えてみようとさえすれば,全く両立し得ないから である。さて,徳と幸福とが一緒に,しかしその際幸福が道徳性(人格の価値と人格の 幸福に値するふさわしさとしての)と全く厳密に比例して分配されながら,ある人格の 中の最高善の所有を形成する限りにおいて,この最高善は全体,完全な善を意味する……。 (Ⅴ,110-111) さらに,次のようにも言われる。 それにもかかわらず,純粋理性の実践的課題の中には,すなわち最高善へと必然的に仕 上げの努力をすること(Bearbeitung)の中には,このような関連(道徳性に比例した幸 福)が必然的なものとして要請される。すなわち,われわれは最高善(それゆえ,これ は何といってもまた可能でなければならない)を促進するよう努めなければならない。 それゆえ,こうした連関の根拠を,すなわち幸福と道徳性の正確な一致の根拠を含む, 自然から区別された自然全体の原因が,要請されるのである。(Ⅴ,125) その際,カントにとって「道徳は本来,いかにしてわれわれは自らを幸福にするかの教え ではなく,いかにしてわれわれは幸福に値するようになるべきかの教え」(Ⅴ,130)であった。 しかし,それにもかかわらず「最高善の観念においては,その中で最大の幸福が道徳的な(被 造物に可能な)完全性の最大量と最も正確に比例して結び付いていると えられる」(Ⅴ,129 -139)のである。 以上のようなカントの主張は,いったい何を意味しているのだろうか。カントにとって本 来無関係な筈であった「善」と幸福とが,あたかも予定調和的に全能で道徳的に最善の神に おいて結び付けられるということなのであろうか。すなわち,われわれは道徳法則に従って 正しく生きるべきであり,それゆえ自分の幸福を第一の動機として行為してはならないが, それにもかかわらず道徳的に正しい人間は,現世においてではないかもしれないが,それに 比例して幸福になるというのである。しかも,その際さらに次のように主張されていること ⑻
が重要である。 しかしまたもちろん,自分の人生の長い部分をその終わりまでより良きものへの進歩に おいて,それも真の道徳的動機から持続したと意識しているような人は,確信ではない にせよ以下のような心を慰める希望を自らに持つことが確かに許される。すなわち,自 分はまた現世を越えて継続された実存においてもこの諸原則に固執するであろうという 希望である。しかも彼は自らの目の中では現世で決して正しいと認められておらず,ま た自分の本性の完全性が未来において増大することが予期され,しかしそれと共にまた 自らの義務も増大することが予期されるという点で,いつでも自分が正しいと認められ ることを希望することが許されないのであるが,それにもかかわらずこの進歩において, それは確かに無限に押しやられた目標に関してとはいえ,それでも神にとっては所有物 とみなされる進歩において,一つの浄福に満ちた未来に対する展望を持つという心を慰 める希望である。なぜなら,このことは世界のすべての偶然的な原因に依存しない完全 な幸福(Wohl)を言い表わすために理性が用いる表現であり,そうした幸福は神聖性と 全く同様に一つの理念であり,その理念は無限の進行とその総体の中にのみ含まれ得る のであり,したがって被造物によっては決して完全には到達されないから。(Ⅴ,124) すなわち,カントによれば,人間は自らの幸福の達成を第一の動機として行為することは 許されず,さらに道徳的に正しく行為することは幸福であることとは無関係であるとみなさ れるにもかかわらず,正しく生きている人はおそらく死後の世界において幸福になる希望を 持って良いのである。 結 語 これまで見てきたことから明らかなように,カントは一方において道徳法則に従うことと, 幸福であることとは無関係であると主張しながら,他方で道徳的な神が存在し正しい人間が おそらく来世において幸福になることを実践理性の要請とした。しかし,このような見解は 無理があると言えよう。すなわち,今まで見てきたことから明らかなように,カントが要求 していることは,一つの分裂した意識を持つことであると言えよう。それは,意識の表面に おいては道徳法則が課す義務に従うことのみを動機として行為するように努めながら,意識 の背後においては死後における浄福を,キリスト教的に言えば霊魂が天国に行くことを本当 は期待しているという分裂した意識である。けれども,こうした意識を持つことは一種の精 神病であり,したがってカントの主張を二枚舌と言わずしてなんと言うのかわからないよう に思われる。 もちろん,何の見返りもなく道徳的に正しく生きることは人間にとって困難であり,その 一方でそれに対する見返りのみを期待して道徳の掟を守ること,カントのことばで言えば合 ⑼
法性のみを追求することが逆説的に道徳的に正しいように思われないことは事実であろう。 確かに、合法性は道徳性と必ずしも一致しないのであり、この点に問題の難しさがあること は事実である。さらに、カントが最高善としての神の存在を単に要請していただけでなく, 実際にそれを確信していたことは疑い得ない。しかし,アウシュヴィッツの存在を知ってい るわれわれは,もはやそのような信仰を単純に受け入れることはできないであろう。 おそらく,カントの普遍的理性のようなものは全く虚構なのであり,このような虚構を導 入しなければもはや倫理的世界が成立し得ないにもかかわらず,他方で普遍的理性が持つ暴 力性が明らかになってきたということが,「神なき,預言者なき時代」における深刻な問題点 であるように思われる。 1)「福祉哲学序論」(『淑徳大学社会学部研究紀要』第33号,1999,19ー32ページ)を参照。 2)この点に関しては,拙論「ライプニッツの神義論」(『淑徳大学社会学部研究紀要』第34号,2000, 1ー14ページ)を参照。 3)カントからの引用は,アカデミー版全集の巻数とページ数を本文中に記す。 4)省略した部分については,後述。 5)拙著『理性の光と闇』(北樹出版,1997),104ページ以下参照。なお,さらにこうした理性主義 的人間観が例えばウエッブ夫妻などに代表される社会福祉思想の根本にあり,したがって理性主義 的人間観を実践するための道具である「優生学」が社会福祉思想をその母体にしていること(優生 学の祖フランシス・ゴールトンはウエッブ夫妻の助手であった)については,別の機会に論じたい。 さしあたり,以下の文献を参照。Detlev J.K.Peukert,Max WebersDiagnoseder Moderne, Gottingen1989.
6)アイザィア・バーリン「二つの自由概念」(生松敬三訳,『自由論』,みすず書房,1971,295-390 ページ)を参照。
7)バーリン,前掲書,319ページ以下。
8)MaxScheler,DerFormalismusinderEthikunddiematerialeWertethik,Bern1980,S.370. 9)もちろん,カント自身がこのような主張をしているというわけではない。
10)これはまさしく,バーリンの意味での積極的自由である。
11)ÜberdenGemeinspruch:DasmaginderTheorierichtigsein,taugtabernichtfurdiePraxis. Ⅷ,273-313.
12)笹澤豊は,カントのこうした主張を,プラトンが理想国家の実現のために必要とみなしたような, 「有益な偽り」としてのフィクションであると述べている。(『自分の頭で える倫理』,ちくま新 書,2000,61ページ。)しかし,道徳的な神の存在はカントの真の信念であったように思われる。
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̈berdie Postulate derpraktischenVernunft
MasahiroAUCHI
KantsEthikistalsRigorismusbezeichnet.ErunterscheidetLegalitatderHandlung vonihrerMoralitat,undnachihm enthaltedieHandlungzwarLegalitat,abernicht Moralitat,wenndasmoralischeGesetznichtunmittelbardiesenWillenbestimme.
DieseAnsichtverbindetsich mitseinem Gedanken uberden Menschen und seine Freiheit.Kantbehauptet,daßnurderMenschalsdasvernunftigeGeschopfZweckan sichselbstsei.VermogederAutonomieseinerFreiheit,seiderMenschdasSubjektdes moralischenGesetzes,welchesheiligsei.
BerlinbezeichnetdiesenFreiheitbegriffvonKantalsdenderpositiveFreiheit.Nach BerlinenthaltederBegriffsolcherFreiheitdieMetaphervonderHerrschaftubersich selbst,undsomusseerdieGewaltigkeithaben.
FurKantseiderfreieMensch,derdasmoralischeGesetzalsfurihnverbindend erkenne,nichtimmergleichzeitiggluckselig.Aberwennso,warum sollederMensch moralischgutsein?Um aufdiesegerechtfertigteFragezuantworten,bringtKantden Begriffder Postulate derpraktischenVernunftvor.Erbehauptet,daßdasmoralische GesetzvonderNaturundderÜbereinstimmungderselbenzumenschlischenBegehrungs -vermogenganzunabhangigseinsolle,abertrotzdem seidiejenerSittlichkeitangemes -seneGluckseligkeitdaszweiteElementdeshochstenGuts.UndsomussesolcheGl uck-seligkeitpostuliertwerden.DerMenschsollenamlichnachKantohneRucksichtauf seineGluckseligkeithandeln,aberanderseitskonnederMensch,dermoralischhandle, dieHoffnungderkunftigenGluckseligkeithaben.
DieseBehauptungvonKantscheintmirsehrmerkwurdig.SeineForderungis tnam-lichantinomischundfurdenMenschenunmoglich.UnddieseSpaltungberuhtaufdie Tatsache,daßdieallgemeineVernunftvondenMenscheneineFiktionist.