1920年代の地方都市と新中間層 : 川崎市の地方ジャーナリストの軌跡を中心に
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(2) 22. 加藤千香子. 6 所によれ ば 、 平凡であ らうが兎に角大体に 於て 、 常に依頼するに 足りる最も安全な 勢力. ると思ふ。 故に 此 過渡時代は、 是非 共 真正なる輿論の 発達する時代、 多数町民就中中 等級の町民の 勢力が、 絶対的信条となる 時代に進ましめれ ば ならぬ㈲」。 「多数町民」の 代 表者として「中等階級」が 地方政治をリードすることを 展望していたのであ る。 一方、 「中等階級」は、 大戦後の政策課題となった 社会政策においても、 重きがおかれ ていた。 協調会発行の『社会政策時報』には、 次のような論調が 見られる。 純 資本家に であ. 「. あ らず 純 労働者階級にあ. らず英中間の. 範囲を占め」るところの「中等階級」には、. 家の横暴をも 労働者の不当の 要求をも牽制する 力があ る」というのであ. 階級」には、. (5) 。 また「中等. 「理想もなく 愛国心もなく 知識を欠 き 常識を欠く」「無智蒙昧」. 指導する役割も に、. る. 見いだされた。. 「資本. な 労働者を. 「幸いに中流階級があ って 、 身を以て下層民を 導くが 為め. る。 中流階級は国家社会の 産業の 中心、 政治の中心、 教育の中心で、 其 健全なる思想、 豊富なる知識、 有為なる手腕を 以て 国家社会は大過なく 進行して行く 事が出来るのであ. 国家を料理して 行く (。)」と。 以上の例からは、 第一次大戦後の. 運動の指導者、. 時期において「中等階級」は、. 階級対立の緩和を 図る社会政策の. 遂行者、. 「大正デモクラシー」. という二様の 役割を担. う. 存在と. して位置づげられていたことが 推測される。. では、. 人々だったのだろうか。 資産 という指標を 念頭におくなら ぽ 田中間層の存在を 全く無視することはできないが、 彼らは 「知識階級」と 呼ばれ「智力」や「豊富なる 知識」が期待されていたことを 考えると、 高 度の教育・学歴の 保有者であ ることが必要条件であ ったことは明らかであ る。 1920 年代に お げる高等教育機関は、 少数の官僚・ 専門職養成からホワイトカラ 一層の大姉菱戒機関へ この時点で「中等階級」と 呼ばれたのはどのような. と大きく変化したといわれる (7) が、 この新たに大里養成されるようになった. イトカラ一層こそ、. 当時「中等階級」の 中心に相当した. 自己認識をもち、. ホヮ. 人々にほかならない。 ∼ 30 年代において、 彼らはいっ. 「デモクラシー」からファシズムへの 転換期といえる たい社会の中でどのような. 高学歴の. またどのような 社会的役割を. 担ったのか、. 筆. 者の問題意識はこの 点にあ る。 本稿では、 川崎市のあ る一人のジャーナリストの 軌跡を通 してこの問題に 迫りたいと考える。. 1) 福沢諭吉『学問のす ムめ ( 岩波文庫、 1942 年 ) 50 ∼ 51 頁。 2) 松尾再会『普通選挙制度成立史の 研究』 ( 岩波書店、 1989年 ) 。 3) 拙稿「地方都市における『大正デモクラシ 一山 埼玉県川越『公文会』の 活動をめ 』. ぐって」. (. 『歴史学研究. i. 604 号、 1990 年. 3 月)、. 「大正デモクラシ 一期の地域振興論. 一一安部立郎の 思想と行動を 通して」㏄埼玉県 吏 研究』. 4) 前掲「大正デモクラシ 一期の地域振興論」 小林五五郎「中産階級問題」. ( P. 1 月). 。. 頁。. 社会政策時報』創刊号、 1920年. ( n 社会政策時報』. 3. 号、 1920年. 7). 伊藤 彰浩 「高等教育機関拡充と 新中間層形成」 ( 安田浩佃編『日本近現代史. @. 11月 ) 。. ト. 深尾小雨「中流階級は 労働者よりも 果して多数 か 」. 9 月 )。. ー. 5) 6). 7 ∼ 8. 24号、 19㏄年. 3. 現代社.
(3) 1920 年代の地方都市と 新中間層. 会への転移. コ. 23. 岩波書店、 1993 年 ) 。. 11 新中間 后 に関する歴史的研究 ]. 正 m 史 研究としての 新午間府 講. 敗戦直後、 丸山真男 瓦は 、 日本ファシズム 運動について「 大 ぎっぱにいえば、 中間層が 社会的な担い 手になっている」と 指摘した (、)。 同時に、 丸山氏は次のような 中間層の類型. 区分を行っている。 第一の類型は、 小工場主、 小売商店の店主、 小地主乃至自作農上層、 小学校の教員、 村役場吏員、 下級官吏等を 主体とする社会層、 第二の煩型は、 サラリーマ ソ、 文化人やジャーナリスト、 学生らであ る。 丸山氏は、 旧中間層を中心とする 第一類型 に 属する人々を「疑似イソ テリゲ ソチャ」と呼び、 日本ファシズムの 担い手と位置づげた のであ る。 新中間層を示す 第二類型の人々は、 「本来のイソ テリゲ ソチャ」と 呼はね 、 一 般の社会層から 孤立してはいたものの「気分的には. 全体としてファシズム 運動に対して 嫌. 悪の感情」をもっていた、 として免罪された。 さて、 丸山氏によるこのような 定義の後、 歴史研究において 新中間層がテーマとして 本 格 的に取り上げられるようになるのは、 1 ㏄ 0 年代以降のことであ る。 高度経済成長が 本格 化した 60 年代には、 中産階級や中間層、 中でもサラリーマソを 主体とするホワイトカラー をめぐる論議が. 盛んになり、 「中産階級論ブーム」が 起こったと言われる㈲が、 戦前日本. の新中間層を 直接の対象とする 研究が進められたのも、 この時期であ った。 研究に先鞭をつげたのは、 野田正徳 氏 であ った。 野田氏の研究は、 「従来から断片的に しか紹介されていない 戦前の俸給生活者の 組合運動を系統的にあ とづける」ことを 意図し. たもので、 まさにこの点で 画期的な研究であ った (3) 。 野田氏は、 第一次世界大戦 期にサラ リーマソ層が 社会階層として 成立し 、 彼らの多数のプロレタリア 化が実現したととらえる。. そして、 大戦後のサラリーマソ 組合の結成から、 以後日中戦争開始とともに 組合運動が消 滅に至るまでの 過程を、 実証的に検証したのであ る。 続いて、 奥田俊姉氏は「知識階級」 論を問題に据えた㈲. 0. 奥田氏の研究は、 思想史の観点から 当時の「知識階級」に 関する論. 議・論争を検討するところに 特徴があ るが、 そこでの問題意識は、 大正期に成立した「 新 中間Ⅰ知識層」が、 労農運動をはじめとする 大正 ヂ モクラシー運動の 中でどのような 役割 を果たしたか、 というきわめて 運動論的なものであ った。 さらに、 野田氏や奥田氏らの 先 駆的研究をふまえた 浜口春彦 氏は 、 当時の階級構成における 新中間層の位置づげや 彼らの. 生計、 失業の実態を 明らかにしながら、 1920年代における「新中間階級問題」を 論じた。,,。 浜ロ氏は、新中間階級の 社会経済的状態が 労働者階級と 同じであ ったと述べ、 それが彼ら の 無産階級への 統一・ 提携を説く「中間階級滅亡 論 」に説得力を 与えたが、 現実には組合. の組織化は進まず、 統一戦線は不発のままに 終わったと結論づげている。 以上のような 60 年代の研究は、 1920 年代における 新中間層の社会階層としての 成立、 彼 らによる階級運動の. 展開を明らかにし、 彼らの社会的役割を 姐上に上した。 それらが問題. としたのは、 ファシズムに 対抗し得る統一戦線の 可能性を問 ら. う. ことであ った。 この観点か. 、 本来労働者や 良民とともに 戦線の一翼を 担 べき新中間層が 行った組織行動や、 う. 当時.
(4) 24. 加藤千香子. の運 助役割 計 が検証されたのであ る。 しかしこれらの 研究には、 丸山氏の中間層論の 影 菩 が 強く見られ、 新中間層が反ファシズムの 側に立つことを 論証のないまま 前提とするとい ぅ 問題があ ったといえる。 この傾向は、 その後㏄年代に 入って研究視角自体についての 見 直しが提言されるまで 続くことになった。 1970 ∼ 80 年代は 、 「デモクラシー」からファシズムへの 転換の解明という 問題意識の下 に、. 労援 ・農民運動史、 運動終息後の 支配秩序形成について 活発な論議が 起された時期で あ る (。)が、 そこで中間層の 役割は論点の 一つとなった。 田崎 宣 義民 は 、 中間層誇を当時 研 究 が進んだ分野の 一つとしながら、 次のような研究状況の 問題を指摘している (7)0 中間層 を反ファシズム 陣営に属すべきものととらえる 潮流と、 中間層をファシズム 支配機構の末 端を担う存在としてとらえる 潮流の二つに 分 稚しているというのであ る。 この見解の分裂 は 、 丸山氏の中間層の 二類型区分論を 反映したもので、 新中間層研究は 前者に該当する。 田崎氏はこうした 傾向に対して、 中間層を「あ るべき」役割という 観点からでなく、 あ 「. るがまま」の 存在としてとらえなければならないという. 提言を行っているが、. この指摘は. まさに的を射たものといえよう。. 2. 近代都市 史 研究の進展と 新中間 后甘. 近代都市 史は 、 1980 年代以降大きな 研究の進展が 見られた分野であ る㈲のそこでは、 都 市 自治の課題を 探ろうとする 従来の問題意識が 後景に退き、 国家支配と運動した 都市支配 の構造そのものを 問題とする傾向が 顕著に現れたが、 同時に都市住民であ る新中間居につ いての従来の 見方も 、 大きく転換することになった。 門田耕作 氏は 、 戦前大阪市の 住宅政策を実証的に 論じる中で、 「底辺 層 」と切り堆され た新中間層には 体制安定の期待がかげられ、 都市社会政策の 対象とされたと 指摘する。,)。 さらに、 「都市専門官僚制」の 成立を説く小路日奏 直 氏の議論 (")においても、 新中間層の 存在は重要な 位置を占めている。 「中流的生活水準」を 求める彼らは、 公共事業の積極的 推進を主眼とする 都市改良主義を 発達させ、 名望家秩序の 変革を目的とした 市制改革運動 の原動力となったが、 同時に都市専門官僚制の 成立を支えることになったと 位置つけたの であ る。 1920 年代以降の新中間層を 政策の受益者であ るのみならず、 官僚支配を支える 役 割を担った存在として 描かれている。 これらの研究は、 反権 力の立場に立つことを 前提に 論じられてきた 従来の新中間層論とは、 全く位相を異にするものであ る。 一方、 戦時下における「強制的同一化」を 問題とする雨宮昭一氏は、 総力戦体制と 中間 層との関係を 正面から取り 上げた ("'。 1920 年代に多元的な 地域コミュニティー 運営の中心 であ った旧中間層が、 総力戦体制下で 国家による垂直的一元的コミュニティー 運営の担い 手に転じ、 新中間層にはこのコミュニティー 参加が強要された、 と雨宮氏は論じた。 ここ で新中間層に. 関して、 「文化生活」などの 独特の文化やあ り方を否定され、 「総力戦体制 組. が強いられたとする 指摘は、 興味深い。 都市 史 と連動したこれらの 研究は、 1920 年代から戦時体制 期 にかけての政治社会におけ る中間層とりわけ 新中間層の重要性をクローズアップさせた。 今後の中間層 許が 、 都市行 政 との関連をふまえて、 より一層深められるべきテーマであ ることは疑いない。 だが、 運 織 尊属人間」というあ. りよ. う.
(5) 1920 年代の地方都市と 新中間層. 25. 動 史の視角を払拭した 研究は 、 逆に新中間層の 都市行政・国家政策の 受容者、 支配体制を 支えた存在としての 面のみを浮かび 上がらせている よう. に思われる。 新中間層の側の 受動. 性 が強調され、 彼らの能動的な 行動や意識は 後景に退かさるをえない。 20 年代の新中間層. が、 階級意識を背景として 能動的に社会と 関わった事実を 軽視せず、 さらに 30 年代以降の 変容を視野に 入れながら、 彼らと社会との 関係を「あ るがまま」に 描き出す、 そのような 方法が今求められているのではないだろうか。. 1). 丸山真男「日本ファシズムの. 思想と運動」. (1947年 ). 0 丸山下増補版. 現代政治の思. 想 と行動 未来社、 19M 年 ) 、 63 ∼㏄ 頁 。 2) 1957 年には W. ミルズの『ホワイト・カラ 一刀 (東京創元社 ) が、 1gM 年には S . ブ ラ ウソの 新中間層Ⅰ (誠信書房 ) が翻訳出版されている。 3) 野田正徳「戦双におけるサラリーマソの 組合運動」 (D)∼ (14) ( n 銀行労働調査時報 111 ∼ 129 号、 1 ㏄ 0 年 5 月∼ 1961 年 8 月 ) 。 凹. 甲. コ. 4) 奥田修姉「大正期下知識階級山論」. (. 『立命館大学人文研究所紀要Ⅰ 15 号、 1964 年 3. 月 )。. 5). 浜口晴彦「新中間階級問題の. 発生と展開」. ム研究会編『日本のファシズム. (. 早稲田大学社会科学研究所プレファシズ 早稲田大学出版部、 1970 年 ) 。. 形成期の研究コ. 6). 安田浩「近代史研究における. 7). 田崎 宣義 「昭和戦双期研究をめぐる 若干の問題」. 二、 三の問題」 ( 佐々木浦 之介 ・石井進 編 研究入門山東京大学出版会、 1982 年 ) 426 ∼ 432 頁を参照。 ( 前掲. 甲. [ 新編日本史. 新編日本史研究入門. i ). 440 ∼ 444 頁。. 8) W0 年代以降の日本近代都市. 史 研究の動向・. 学説史の整理については、 以下の論文を. 参. 照 。 原田敬一「都市問題論から 近代社会論へ 都市 史 研究の成果と 課題」 ( 『歴史 評論 471 号、 1987 年 7 月 ) 、 若村 篤樹 「日本近代都市 史 近代大阪研究の 意義と課 コ. 題」. (. 「ヒストリア J. 150 号、 19㏄年. 9) 門田耕作「住宅問題と 都市支配. 5 月). 等。. 一円 910%20 年代の大阪市を 中心に」 ・. 号、 1987 年 6 月 ) 。 10) 小路日奏 直 「帝国主義的都市の 成立と生活難問題」 4 月 ) 、 同 『日本近代都市 史 研究序説. コ. (柏. (. (. 『ヒストリア』 114. 『部落問題研究 J 98 号、 1989 年. 書房、 1991 年 ) 等。. 11) 雨宮昭一「既成勢力の 自己革新とバライヒシャルトゥン ( 山之内情佃編『総力戦と 現代化』 柏 書房、 1995 年 ) 。. I11 地方ジャーナリスト. グ - 一 総力戦体制と. 中間層」. 茂田森吉の黍跡. 私は、 地方都市に即して、 地域社会と新中間層との 関わりを検証したいと 考えているが、 本稿では研究の 一環として、 川崎市の地方ジャーナリスト 藤田鎌首. 取り上げる。 新聞記者としての 経歴を持っ藤田は、 1920 年代に地方雑誌. (昇天). と、 彼の発行. する雑誌『明暗』を. 甲. 明暗Ⅰの発行を 始めるとと.
(6) 26. 加藤千香子. もに、 川崎サラリーマソ・ ュニオソ の結成や川崎大衆党の 結成を進めた 人物であ る。 新中 間層の階級的結集の 志向とともに、 地域政治社会への 積極的な関与という 意味で、 藤田を 取り上げる意義は 大いにあ ると考える。 ここでは、 雑誌『明暗 創刊の 1925 ( 大正 14) 年 より、 藤田が川崎サラリーマソ・ ュニオソや 川崎大衆党の 結成を怪 て 市議会議員選挙に 出 コ. 馬、 そしてそれが 挫折した後の 1930 ( 昭和 5) 年頃 までの時期を 対象とし、 藤田の思想や 行動を 、 主に雑誌『明暗 コの 論説に依りながら 見ていくこととしたい。. ]. 藤田舞吉の経歴と 月刊雑誌. 藤田の略歴は、 1928 ( 昭和 3) に 書かれている。. 丁. 明暗 ]. 年 9 月の川崎市議会議員選挙の. 際の記事に、 たちばな. 以下のよう. 「明治二十八年十二月十日東京市二至 ル 。 後 神奈川県柿樹 郡 日吉村二成. 長シ 、 甫 加瀬小学校卒業後上京 シ 中学校 ヲ卒 へ、 大正 セ年 五月大阪時事新報社二人社、 傍 ぅ 関西大学二学 プ 。. 大正十年四月姫路日報二人社、 後同十二年三月前横浜日日新聞政治部 記者トシテ活躍 シ 、 退社後同十四年一月 ョリ 東京毎夕新聞川崎通信部主任 (,)0 中学卒の 学歴であ るが、 職務の傍ら大学で 学びながら新聞記者としてのキャリアを 積んでいたこと 」. がわかる。. 略歴にも示されているとおり、 藤田は「新聞大」を 自認 していた。 それを裏 付けるものとして、 1930 年に刊行した 著作の自序には 次のような言葉 本人の手によると 思われるこの. があ る。 余 新聞人と成りしより 既に春秋満十年。 此間には一介の 使用人として、 命令の 動くま ム 数葉の原稿紙と ぺソ を握って画定 東奔 、 文字通り深苦の 境遇に漂ひつム 日夜 悪 間 し、 奔命に且つ 遵進 したものであ った㈹」 0 彼の言う「新聞人」とは、 新聞社という 会社 「. 組織に居し上司の 命令によって 動かされる「使用人」にほかならない。 この「一介の 使用 人」という言葉に 、 彼のサラリーマソとしての 自己規定をうかがうことができよう。. 一方、 藤田が川崎に 移り住むようになったは 1923. それ以前は、 川 埼の隣村日吉村で 成長したとはいえ、. U 大正 12). 年. 3. 月以降のことであ る。. その後の生活拠点は 東京・大阪といっ. た大都市であ り、 彼と川崎との 直接の関わりを 見ることはできない。 だが、 藤田は川崎を 「第二の故郷」と 呼び㈲ 、 強い愛着を示すのであ る。 「第二の」と 称するところには、 土 着的な愛着とは 異なる意識がうかがわれるが、 彼が川崎にアイデ ソ ティティを有していた ことは間違いない。. ところで、. 雑誌. 甲. 明暗Ⅰは、 横浜日日新聞社を 退職した藤田が、. 東京毎夕新聞通信部主. 任の肩書を持ちながら 独立して、 1925 U 大正 14) 年 11月に友人で万朝報の 記者であ った福 井茂一とともに 創刊した月刊雑誌であ る (4) 。 終刊ははっきりしないが、 現存する最終局 は 1929 ( 昭和 4) 年 7 月の 45 号であ る。 発行人は藤田、 編集 兼 印刷人は福井という 分業体 制 がとられていた。 大きな ソボ眼鏡をかけたフクロウが 表紙に描かれた 同誌は、 毎号 50 ぺ ー ジほどの薄い 冊子で、 定価は一部 30 銭。 誌面は、 川 埼を中心とする 京浜地区の政財界 や社会に関する 評論を柱に、 小説や短歌・ 俳句・ 詩 等の文芸 欄 、 読者 欄 等によって構成さ ト. れ、 総合雑誌風の 体裁をとっていた。 花柳界関連の 記事もしばしば 登場する。 「創刊の辞」には 次のように書かれている。 「吾人の京浜間は 東洋天与の工業地として、 而も尚発展の 余地広く 、 即ち全日本の 産業経済は此処を 根拠として端を 発せんとする。 概.
(7) 1920 年代の地方都市と 新中間層. 27. ろう。 随って此等に 伴 ふ 大小幾多の問題も、 又此他 より 勃興する事も 明かな事であ る。 我等は最早理論を 捨て、 現実に 雑誌明暗山を 発刊し、 即 あ る事は何人も 異論のない処であ. 丁. ち 此の世界的工業地のために、. 微力 惜 まず 遵逸 するものであ る (5) 」。 川崎を中心とする 京浜地域は、 明治前期までは 東海潮目川崎宿の 宿場町、 平間寺. ( 川崎. 大師 ) の門前町、 そして臨海部は 海苔養殖や果樹栽培を 主産業とする 農漁村であ った。 が. だ. 日露戦争後、 東京に本社をおく 大工場の移転計画に 対応して積極的な 土地の提供を 行い、. 工場誘致を進めることにより、 急速に工業地帯としての 発展を遂げ、 既に 1920 年代には、 東京電気・日本鋼管・. 富士 瓦斯 紡績・浅野セメント 等の大工場が 林立する大工場地帯となっ. ていた。 1910 ( 明治 43) 年に 8000 人台であ った川崎の現住人口は、 1920 0 大正 9) 年には 24 ㏄ 0 人余りへと急激な 増加をみせ、 1923 ( 大正 12) 年 7 月には市制が 施行されている (。)。 雑誌. 丁. 明暗』は、 このような急激な 工業化を遂げた 京浜地域、 中でも工業都市としての. 川. 崎に根拠をおいて 誕生した地方雑誌であ った。 藤田は、 福井と交替でほ ぽ 院号の巻頭言を 執筆したほか、 毎号少なくとも 一つ以上署名 入りの論説を 掲載している。 その一覧は表 1 に示したとおりであ る。 以下では、 藤田の行 動を追いながら、 同時にこれらの 論説の内容を 具体的に取り 上げることとする。 表1. 藤田 鎌吉. 号数. 年. (昇天 ). の雑誌. [. 明暗Ⅰ掲載論説 一 署名又はイニシャル 入りのもの. 月. ・. 1. 号. 1925.11. 2. 号. 1925.12. 川崎市政界の 分野. 論 説 タ イ ト ル 東京製鋼の労働争議と 厳正批判一京浜間の 労働. 3456789. 皿 皿. 耳舌骨舌骨首号首号. 者は大同団結せよ 県下政界めぐり 一中原町 横浜鶴見合併批判と 無能政策一蹴 論 ( 一 ) 東京製鋼の労働争議と 厳正批判 味の素労働争議に 就 て 横浜鶴見合併批判と 無能政策一蹴 論 ( 二 ) 富士紡の争議とその 批判. 1926.1 1926.2. 県下政界めぐり 一 田島町. 1926.3. 血迷った川崎の 初市会. 巻頭言. 労働問題 一 突貫連動と正義の 雄叫び 県下政界めぐり 一 鶴見町 労働問題 一最近の争議批判 巻頭言 新旧署長送迎合に 就 て 労働問題一恵資本家と 委員制度 巻頭言 川崎田島一合併 か 併呑 か 労働問題一真の 温情主義. 1926.4. 1926.5 1926.6 1926.7 1926.8 1926.9. 労働問題一京浜間労資思想の 衝突. 川崎田島一輿論中心の 合併論. 01 2. 22. 67. 99. 11. 11. 11. 22. 66. 99. 45 11. 号音. 11. 号. 23. 8. Ⅰl Ⅰl Ⅰ1 Ⅰ. 巻頭言 婦人労働 一 奴隷生活の破壊と 自席問題 各会社工場の 一人 寸評巡り 労働問題 一 不当搾取者を 膚 悠 せ よ 所謂川崎市政の 解剖 訴願 取 下の理由何処 巻頭言 労働問題 一資本の前に人間価値なし にか在る 労働問題一価るべき 吸血制度の打破か. 迎年 の 梓. 蒲田町政記. 川崎田島合併一大都市を 表現せしめよ. 労働問題一日 鋳. 6789 1111. 舌骨 号号. 争議とその批判 1927.2 1927.3 1927.4. 論説一名節を 重ぜよ. 1927.5. 記念すべき川崎市田島町の 合併 工業都市編成され 一躍人口八万 労農大衆団結せよ 一 労働祭を迎ふ. 多摩御陵を拝観す 病床閑話. 合併批判一所謂十一. 一. ケ 条件に就 て. !.
(8) 28. 加藤千香子. 20号 1927.6. 増員選挙の元 窩見 町. 21号. 1927.7. 22号. 1927.8. 円熟なる戦術か 一京浜工場代表者会議 暴政か淫蕩 政策か. 23 号 W4 号 25 号. 1927.10. 川崎市議に寸言. 1927.11. 巻頭言 一 無産者は族起す. 大川崎の下水綿. 白熱化した. 巻頭言. 26号. 1927.12. 27号. 1928.1. 一試験制度と生活地獄 市制施行以来の 大紛 擾 一川崎市政総決算 評 川崎市会総改選の 前線 評 一 論評. 巻頭言 (迎年 の 辞 ) 京浜運河計画に 就 て ( 緒 ). (. 28号. 1928.2. 29号. 1928.3. ). 川崎市会総改選の 前線 評 (=.) 巻頭言. 川崎市会総改選の 前線 評 ( 三 ) 川崎市の繁栄に 資す京浜 運. 打開 韮 問題 一 合理的の促進実現を 希 ふ. 30号 31号. 1928.4. 32号. 1928.6. 昭和姉年度川崎市予算を 視て. 川崎市会総改選の 前線 評 ( 四 ). 県議普選の幕開く 一混沌とした 各派の動静 評 (五 ) 川崎市会総改選の 前線 評 ( 六 ). 川崎市会総改選の 前線. 自由を奪はんとする 京浜間の資本家. 六一冷笑すべき 狼狽ぶり. 1928.7. 川崎市会総改選の 前線 評 ( セ ) 隣接町村合併の 一考察 一 無産大衆の. 34号. 1928.8. 35号. 1928.9. 利益のためには 賛成す 市会選挙を通じて 何を求むるか 一 無産市民は奮起せよ 立候補に当って 一般有権 者に告ぐ. 33号. 36 号. 敗軍の将兵を 語らん. 37号 38号 39号 40号. 1928.11 1928.12 1929.1 1929.2. 41号. 1929.3. 川崎市政断片 想 川崎市会の醜なる 党争か 自治行政の行き 詰りか一大財源に 悩む川崎市 川崎市政見聞録. 解党に当り一言す. 昭和四年度川崎市予算 評一 輿論代表委員を 厳視せよ 川崎市政の紛 隣接町村合併 案 一大川崎市の 完成か. 乱 と現勢の分野状態. 42号. 巻頭言. 関東十二市長会の 批判. 43号. 1929.5. 川崎 民 派の大内証. 44号. 1929.6. 理化 巻頭言. と 三派の見解. 会社工場の韻 首策 と所謂産業の 合. 工業都市の進展 一 三菱製油の出現と 大師漁民はど. う. 観る. バザー 開設の雑感. 45号. 1929.7. 延長元里の堤塘上に 花の名所. 住宅地を傷つけろな. 所謂大中原町. の建設. 2 %. 田簗吉の. 創刊当初より. 「. 労 舟間田 検. 1927 ( 昭和 2). 年頃 までの雑誌. 下. 明暗』には、 毎号のように「労働問題」. の 記事が見られる。. 藤田の労働運動への 強い関心は、 1918. ての新聞記者時代に. 培われたという。. U 大正. 7) から 24 年前後にかけ. 彼は 1930 年の段階で次のように. 回顧する。 「ジャー. ナリストの出発基点であ った大阪時事の 一社会部記者時代に 於ける神戸川崎造船所のスト ラ. イキ 勃発、 または大阪市の. 米騒動等、 幾多過去に於ける. (7) 」。 社会運動の現場に 記者として立ち 会う 体験が、 藤田の労働問題への 関心を高めていたのであ った。 また 1920年代の川崎は、 労働者人口が 急増し、 「労働者 街 」としての様相を 呈するよう 記すべき事象を. 体験し、 得せしものがあ. 将来に捺しての 半生に遭へる 銘. った.
(9) 1920 年代の地方都市と 新中間層 になっていた。 労働運動の面でも、 1925 日本労働組合評議会. ( 評議会 ). U 大正 14). という全国組織の. 年以降、 日本労働総同盟. 下で、. 激しい労働争議が 展開されるとうになっていた。 。) 。. 29. 急速に組合の. r 労働問題」は、. ( 総同盟 ). .. 組織化が進められ、 当時の川崎を 語る. ぅ. えで不可欠な 問題であ ったのであ る。. 特徴は、 まず労働組合設立の 動きを歓迎し、 積極的に支援する る。 藤田は、 1925 年に起こった 東京製鋼争議の 原因となった 職工 韻. 藤田の「労働問題」論の 論陣を張ったことであ. 上げ、 それを労働組合を 恐れた資本家が「資本家横暴を 発揮したもの」であ ると論評したうえで、 「京浜間の労働者は 大同団結せよ」との 呼びかけを行っている (9)0. 音問題を取り. 横暴な資本家に 対する対抗手段としての 労働者の団結は 、 彼が何より必要と 考えたことな. った。 また、 京浜地域の労働組合運動の 現状については、 「労働組合が 成立する事 は 当然の帰結で、 吾人の京浜間に 目下続々と生れる 事も寧ろ遅い 感こそあ れ、 決して彼等. のであ. 。) 。 25 年以降京浜地域で 急速に進み の先手を打つた 手段であ るとは言へない」と 述べる (1 つつあ る組合組織化の. 動きを、 彼は強い共感をもって. 見ていたのであ. る。 「搾取の名人を. 縮み上がらせるような 間 士を 、 京浜間労働団体に 欲しいものであ る」との運動を 激励する 言葉もあ る (") 。 一方、 組合運動の進展を 望む立場から、 総同盟と評議会に 分裂抗争を続 げる組合運動の. 現状に対しては、. 次のような厳しい. 言葉も投げかげられた。. 「今日日本の. 労働界が全無産者の 立場をはっきり 考へないで、 即ち一、 労働組合共通の 意思表示、 ニ、 全労働組合組織の 促進、 三、 労働組合の国際的連絡等すらせずに、 所謂分裂 だ 、 ダラ 幹だ 、 組合の破壊者だのといつて 騒然たるは一体何事であ. る㈹」。. だが次に 、 藤田の評論は、 争議を取材しながらその「批判」を 行. う. というスタイルをとっ. それは、 自らの立場を 労資双方から 距離を置く「第姉 者」と位置づけることによるものであ る。 従って、 「批判」は資本家ばかりでなく 労働者 ていることに 注意する必要があ る。. にも 向 げられることもあ った。 1925 年 10 月の鈴木商店味の 素工場争議は、 賃金値上げを 要. 求する組合側と、. 評議会の影響力を 排除しようとする 会社側との間で 激しく争われたもの. であ るが、 多数の検束者を 出しながら、 組合側の敗北という 結果に終わっている。 この 手 議は ついて藤田は、 「記者は撲 迄 第三者として 公平に進みたい」と. 述べ、. 「五十余名の 検束. 者を出 し " 遂に裁判沙汰と 進なった」ことを 挙げて「現代の 不祥事といはざるを 得ない」 と. 論評を加えている。. 「今回の原因についても 会社は兎に 角 値上げして居るのだ。 決して. 悪 資本家によくあ る不当解雇したのではない」というのがその. の立場の論評は、. 不当解雇を行. 自制を求めるものだったのであ. う. 理由であ る㈹。 「第姉者」. 資本家を「 悪 資本家」として 諫 める一方、 労働運動にも. る。 藤田の考えは. 次のようなものてあ. った。 「労働者も無. 、 徒 らに資本家を 窮余に陥らしめ 生産の衰退を 来し、 自然彼等労働者の 口を塞 ぐが如きは、 最も自戒すべき 問題であ るのみならず、 国家産業上より 見るも実に憂慮すべ きであ ら う ㈹」。 「労働者が自己の 向上のため民衆のため、 悪 資本家に対する 正義の真の 声 (,5, 」を担って行 う ものこそが真の 労働運動で、 その目的は「充分な 独立確実な生活保 証を与へ、 各自の技能を 出来る 丈げ 充分発達させ、 文化の効果を 等しく 受 げしむることで 茶な要求は. あ. る。,。' 」と言. う. 。 彼の論拠には、 「国家産業」を 前提におく思考が 存在する。 労働運動. の 最終目的と理想は、. 労働者が相応の 文化的生活を 享受することなのであ. った。.
(10) 加藤千香子. 30. 自らを労資双方に 対して中立公平な「第姉者」と 位置づ け 、 「国家産業」を 前提にして 物を言う藤田のこのような 姿勢には ; 当時期待された 社会の調停者としての「中等階級」 の 視線を見ることがてきる。 だがこの時点では、 こうした彼の「中等階級」としての 立場 と 現実の労働組合運動の 進展とは、 大きな矛盾を 来すものではなかった。 当初、 「中等 階 級 」としての藤田は、 当時の労働運動の 激励者・支援者でもあ ったのであ る。. 3. 州埼 サラリーマン・ユニオンの 結成. 藤田が、 自宅を仮事務所として 川崎サラリーマン・ ュニオソ 結成に乗り出したのは、 1926 ( 大正 15) 年秋のことであ った。 市内の主要労働組合 宛に 出された大会案内状 (")に は、 同年 9 月頃 より準備に入り 8 回の創立準備委員会を 行った ぅ えで、 同年 11 月 10 日川 崎 市 公会堂で結成大会を. 開催すること、. 大会終了後に 予定される記念講演会ては 大山郁夫・. 上村 造 らが弁士として 壁垣することが 書かれていた。 また、 「川崎サラリーマソ・ ュニオ ソは 、 京浜間の中枢で 且つ一大工業地帯たる 川崎市を中心とする、 俸給生活者 並に之 れに (6) 」という言葉が 類 する階級人の 生活向上むしろ 生活保証を獲得せんとするものであ あ る。 川崎市内を基盤として 俸給生活者の 生活要求を担うことを、 うたったのであ る。 藤 田の手によると 思われる結成大会の 決議案は、 以下のとおりであ る。 我がサラリーマソ・ ュニオソ は、. 穏健着実、 徹頭徹尾入 煩 愛の美果を収め、. 相互扶. 助 に依りて社会が 生成されてあ てるものにより、 現在無産階級の 一部たる我々俸給生 活者の地位の. 改善を計るため、. 娩及び兵役服務により. 保健衛生設備の. 解雇せさること、. 完備、. 職業紹介機関の. 充実、 疾病、. 該 機関中給料全額支給、 団体交渉権. 、. 分. 週休 制. 度 、 罷業権 の確立等の諸項の 貫徹を期し、 団体の力を以て 人 煩 愛の美を獲得せんと 努 力 するものであ ることを、 創立大会に当り 決議す (18) o. ここで前面に 掲げられたのは、 俸給生活者自身の 生活保証、 社会政策の要求であ る。 注. 目されるのは、 「中等階級」意識を 振り捨てて、. 自らを「無産階級の 一部」と位置づける. 認識が打ち出されていることであ る。 同様の認識は 、 次の文章 (19) にも見られる。 「私達は 汗水を流して 働く筋肉労働者 よ り偉い者、 知識階級であ り金持であ ると誤解して 居た。 だ が実際はどうだ」と. 問い、. 高い家賃や交際費の 増加の一方で「. ( 給料は ). 減俸でもされね. ば 有り難いと 云ふ 苦しい有様」を 述べ、 「私達と労働者と 一体何処が 呉 るで せぅ 。 少しも 異る. 原因はない」と、. 俸給生活者が 労働者と同じ 無産階級に属することを 断定するのであ. る。. また、 大会で可決された 綱領の第二項には、 「因襲 と 屈従的態度に 小ブルジョア 的個 人主義利己主義を 保持して居ったのは、 俸給生活者の 過去であ る。 如斯は益々我等の 生活 を不安に導くものであ る故に、 吾 等は此の弊害弊風を 一掃 し 、 協同の力を以て 共通の利害 の下に相互を 擁護し、 共同の美果を 獲得せんことを 期す㈲」という 言葉があ る。 「中等階 級」に特有の「個人主義」は「利己主義」とともに. 精神なのであ った。. ド. ⅠⅠ. さて、 このような藤田の 変貌の背景には、 どのような事情があ ったのだろうか。 まず 指 摘 しなければならないのは、 俸給生活者の 左翼的統一組織の 誕生であ る。 野田氏の研究 0 , ) によれば、 俸給者組合 ( サラリーマソ・ ュ ニオ ソ ) が本格的な展開を 見るのは、 1925 年 以. ・Ⅰ. 「相互扶助」、 「人類愛」、 「協同」などの. 否定され、 代わって称揚されたのは、.
(11) 1920 年代の地方都市と 新中間層. 31. 降 であ った。 24 ∼ 25 年の総同盟の 全国大会で、 俸給生活労働者の 組合を承認し、 その組織 化促進を図るという 提案が可決されたことを 契機に、 俸給者組合運動は 労働組合との 提携 の下に高揚期を 迎え、 26年 5 月の日本俸給生活者組合連盟 ( 目棒 ) に結実したのであ る。 川崎サラリーマソ・ ュニオソ も、 まさにこうした 機運を背景として 生まれたものであ った ことは間違いない。 口 俸の創立宣言においても、 俸給生活者の 利害は「あ らゆる点に於て 一般筋肉労働者のそれと. し、. 一致」. 「筋肉労働者」とは 同じ「雇用労働者」の 立場に立っ. ことが、 声高に述べられているのであ. る. (22) 。 川崎サラリーマソ・ ュニオソ は結成の時点. から目棒 に 加盟した (23) が 、 その後左派系の 評議会に属する 関東金属労働組合京浜支部、 及び労働農民党 ュ ニオ. ( 労農党 ). 京浜川崎支部にも. 加わった㈹。 藤田は、 川崎サラリーマソ・. ソ の組合長に就任したが、. 労農党支部では 会計監査役を 務めた㈲。 次に、 藤田が俸給生活者の 雇用問題を深刻に 受け止めるよ う になったことを 指摘しなけ ればならない。 藤田は 26 年 ml 月の甲明暗 で、 「変った労働争議」として 日本蓄音器商会 川崎工場での 社員散官事件を 取り上げた㈲。 記事によるとこの 事件の発端は、 前年の 7 月に外人技師が 日本人社員の 特許権 を侵害したことに 憤慨して、 工場長自らが 先頭に立ち 約 400名の社員・職工を 率いて争議を 起こしたことにあ り、 工場長や主任 級 社員の域 昔 は 会社側がその 報復として行ったものであ ったという。 「会社にしては、 今日葉書一本によ って専門学校或は 大学卒業位の 連中なら、 直ちに後釜は 採用出来て……些の 困難を来す 事 なく事業が継続されるにしても、 妻子あ る無産智識階級は 域 首 によってその 打撃は一層の 悲惨を加へる 事になるのであ る」と藤田は コメソト を加えている。 20 年代には高等教育修 了者が著しく 増加したが、 不況下における 彼らの雇用の 場は限られざるを 得ず、 知識階級 コ. の 失業は当時盛んに 報じられていた。 この状況は、 俸給生活者であ っても弱い一介の 雇用. 者にすぎないという 面を浮かび上がらせたといえる。 俸給生活者 亡 「無産階級」論は 、 ぅ した当時の実態を 反映した議論てもあ った。. また一方で、 藤田は解雇の. 当事者であ る主任運に厳しい. 言葉を投げかけている。. こ. 「平常. 階級意識なく、 己は ェ ライ人間として 恰も職工に対する 支配者階級面して 来た関係上、 突 然 解雇されても 表面には直に 好 い 口があ るさ 位 」の態度をとる 彼らを、 「団体的訓練のな い者に何等人間らしぎ 要求が出来る 訳がない」と. 断言する。 解雇されながら「個人主義」. 的 態度をとる彼らに、 「無産階級」意識と 組織的な結集を 求める藤田は 苛立ちを隠さない。 この事件の当事者のみならず、 労働者 街 川崎におけるサラリーマソ 層 とは、 主に職工の監 督者という立場の 職員層を意味することになる。 ここで、 職工に対して 常に指導的立場に あ る彼らに職工と 同等の「無産階級」意識を 求める彼の試みは、 当時の職員層の 意識との 関係において 改めて検証されなければならない 点であ ろう。. 4. 藤田 簗 吉の市政論. 藤田が最も力を. 傾げたのは、. 川崎市政をめぐる 論説であ る。 地方政界内の 政党や派閥の. 分野、 市政の方針や 議会の動向が 論評の対象であ った。 藤田の眼差しは、 階級問題にも 増 して川崎市の 政治運営に対して、 切実な関心をもって 注がれていた。 創刊当初の『明暗Ⅲは、 「何れの政党政派に 偏せず、 不俺 独立しかも厳正中立を 保持し.
(12) 32. 加藤千香子. とし非を非とす㈲」ことを 掲げ、 市政への直接の 政治的関与を 否定していた。 ま た市議会に対しては、 政党間抗争Ⅰ「政争」の 排除を強く求めている。 1925 ( 大正 14) 年 10 月の時点で、 藤田は市制施行後の 市議会運営について 次のように論評している。 「市制 施行後の我川崎市政界は 分野……各派の 陣容もなり、 随って大体妥協的円満 裡に 市会の成 立を見たのであ る。 ・…‥市議諸君が 各政党色彩を 如実に現さず、 所謂公明正大偏せず 真に 政争を避けて 一致協力市民のため、 諸施設を企画されて 居るらしい事は 喜ぶべき現象で、 足る是. 唯 醜聞の流さるる 事に注意されん 事を 、 席と共に市の 将来に活眼を 向けて見よと 結論 ( す 8) ㈲」と。 政党政派間で 政争が避げられた「円満」 な 市会成立を評価し、 さらに市議 一致して「市民のため」の 施設の実現に 進むことに期待を 寄せるのであ る。 藤田はここで、 「市民のため」の 諸施設三都市公共施設の 実現の希望を 表明しているが、 まさにこの点が 、 彼の考える市政の 第一の目的であ った。 藤田は、 1925 ∼ 27 年初めの 丁 明 暗Ⅰで、 毎号のように 市町村の合併問題を 取り上げて論評を 行ったが、 そこにはこうした 彼の希望が鮮明に 表されている。 23 年の市制施行以後、 川崎市の近隣町村合併問題は 重要 な政治課題として 浮上していたが、 彼は理想的合併 誇 として「一市姉町二村の 併合」を高 唱した (99) 。 これは川崎市、 田島・鶴見・ 中原町、 日吉・旭村の 合併を意図したもので、 当時の政治問題として 講 許されていた 横浜・ 窩見 合併論、 川崎・田島合併論の 枠組みを遥 かに超える大川崎市建設論であ る。 「一部分的な 合併 説 にはどうしても 感心ができない」 との意見を漏らす 藤田の構想には、 「京浜間を打って 一丸としたる 大工業都市の 建設に 遵 進 したい」、 「京浜間は何人も 異論のない天与の 工業地であ るが故に 、 此に其の内容充実 したる立派な 都会にしたい㈲」との 熱烈な大都市建設の 念があ ふれていた。 「仮に一川崎 と田島とが合併した 処で、 まだまだ理想市を 出現させるには 偏 端なものであ る。 一体彼の 散在する墓地をど う するのだ、 火葬場は如何、 下水道と排水は 如何、 国民体育奨励に 立脚 する公園の設備は 何とする、 水道にした処でどの 程度 迄 延長できるのだ」と 彼は述べる。 藤田が唱える. 大合併論の根拠には、 公共墓地、 火葬場、 公園、 上下水道といった「市民の. ため」の都市公共施設を 備えた「理想 市 」の建設の構想が 根底にあ ったのであ る。. 現実にこの時点で 実現したのは 26 年 ml月の川崎・田島の 合併であ った。 藤田はこれに、 大工業都市実現の 第一歩という 期待を寄せながら「満腔の 祝意」を表し、 市町議らの合併 準備委員会に 先行して次のような 都市計画案を 発表している。 一 、 独立的都市計画、 ニ 、 上水道の延長敷設、 三、 名実 伴ふ 市営電車計画、 四、 川崎大運河計画、 五、 代表的大道路 の計画、 六、 連絡道路計画、 七、 塵芥焼却場の 設置、 八、 理想的火葬場の 設置、 九、 共同 墓地設置、 十、 共同便所の増設㈹」。 具体化されたこれらの 方策・公共施設の 計画は、 藤 田 が理想的大都市建設に 不可欠と考えたものであ った。 「. 5. 州 前市政への批判. 当初、 市議会に対して 距離をおき外部からエールを 送るのみであ った藤田は、 1926 U 大 正 15) 年秋の川崎サラリーマソ・ ュニオソ旗. あ げとその後の. 普通選挙実施を 機に態度を大. きく変え、 積極的に市政運営への 参加を意図するようになった。 同年 12 月の丁明暗Ⅰには 労働者の政治 運 劫の必要性を 論じた論説 (32) が出されたが、 その中には「吾人は 進んで 政.
(13) lgm 年代の地方都市と 新中間層. 33. 治 上の改革を試みる 必要があ るのであ る」との言葉があ る。 また、 川崎サラリーマソ・ ュ ニオソ の労農党への 加盟についても、 組合長として「当然の 事であ ろう」と述べている。 まず、 藤田の市政への 関与は、 市議会運営に 対する激しい 批判という形で 表された。 1927 ( 昭和 2) 年以降、 藤田は労農党京浜川崎支部に 加盟したが、 同支部は同年 4 月「市 政革新同盟」を 組織し市政改革運動に 乗り出していく。 同年 2 月以来火葬場移転問題をめ ぐって川崎市議会は 紛糾を続けていたが、 この背後に市議と 土地ブローカⅠ利権 屋との 結びつきがからんでいたことが、 大きな「憤激」の 的となったのであ る。 そのほか中学校 敷地・六郷川改修問題においても、 市議とブローカーとの 結託が絡んでいたことが 明るみ に出された。 労農党川崎支部はこうした 市議会の「腐敗」の 実態をとらえ、 「不正議員を 徹底的に糾弾せよ。 市会議員の総辞職を 要求せよ。 市会を即時解散せよ。 真に市民の市会 たらしめよ」のスローガ ソ を掲げ、 市制改革を唱えたのであ る㈹。 ここで要求された 市 議総辞職は実現されずに 終わったが、 その後も藤田は、 市会議員と利権 屋との結びつきに 対して厳しい 視線を向 け 続けていく。 同年 10月の丁明暗Ⅲの「川崎市議に 寸言」と題された 計謀㈲の趣旨も 同様であ る。 「工 業都市川崎に 於ける市会議員諸君は、 一般無産民衆の 生活を単位としたる 政治を施さな げ ねば ならぬ。 しかるに現実はどうだ、 表裏 反復、 常ならざる政争と 利権 に日も尚 は 足らざ る状態ではなからりか。 ・…‥無産階級は 下水道設備の 完全、 職業的差配の 撲滅、 借家法の 改正 立た 全国的実施、 強制 立退 反対、 水道料金 工ケ年 全納の反対、 敷金制度の全廃、 家賃 三割値下げ等を 熱 押 して居る。 ・…‥にも係はらず 工業都市労働 街 川崎市の市会議員は 誰一 人として耳を 籍さぬ」。 「政争と利権 」に明け暮れる 現実の市会議員を、 「無産民出」 無 屋階級」のための 施設・事業の 実施という観点から 批判するのであ る㈲。 都市公共施設・ 事業の問題も 、 明暗 コで 繰り返し取り 上げられた論点であ った。 塵芥 焼却場の建設は、 住民から即時設置の 陳情書が出されているにもかかわらず、 焼却炉購入 をめぐる紛糾から、 実現の目処が 立たないあ り様であ ったが、 これに対し藤田は、 「川崎 市当局の怠慢」と 断じたのであ る。 さらに、 「政党の色彩を 濃厚に表現して 居る」市議ら が 特定の利害を 代表しているために、 それが事業停滞の 大きな原因となっていると 論評し ナこ (拠 ) 0 また火葬場や 共同墓地が、 用地の問題から 頓挫したままであ ることに対しても、 同様の趣旨で 建設推進論が 説かれた㈲。 失業救済事業としてのプール 建設が地域間の 争 奪戦のために 遅れたことについては、 次のように述べる。 「此処に一大迷惑を 感ずるのは 失業労働者で、 一日延びれば 一日だけの損害を 蒙る訳で……問題を 取り巻く連中の 利権 運 動 の犠牲になる 事は 、 心あ る市民から当然同情される 性質のもの」で、 「一体川崎市民の 有力者達は部落根性を 多分に持ち過ぎて 居る感があ る㈲」と。 彼の批判は、 公共施設・ 事業の積極的推進を 望む立場から、 その実現を困難にしている 利権 がらみの既成政党の 市 「. ニ. 議と、 迷惑を蒙り犠牲となる「無産民出」という. 構図を描いて. 見せたものといえる。. 一方、 こうした立場からは、 川崎の従来の 市政方針てもあ った工場・会社誘致 策 につい ても見直しが 提唱された。 「川崎が町時代に 於ける工場会社誘致 策は、 即ち根本から 哀切 られて、 一部地主階級の 富の増加はあ れ 共 、 今の現実問題としては 寧ろ障害になるもので、 此等の諸問題を 大衆的即ち全市民本位に 立脚して、 今にして根本的解決策を 講ぜされば、.
(14) 加藤千香子. 絃 悔を百年に残すものであ. り、 由 々 敷 大問題これより 断じてないと 思ふ㈲」 0. 「全市民本位」. の視点から、 エ場誘致が一部地主階級の 利害にしか過ぎないことを 批判の対象としたので あ. る。 藤田が大都市建設に 遵進 する川崎市政の 目的と見なしたのは、 多数の「無産民出」に 立. 脚した公共的な 施設・事業の 実現であ. 主 層の利害に基 の課題を担. 6. う. く. った。 彼は、 土地値上がりの 恩恵をこうむる 一部地. 、 既成政党の市議会運営を 強く批判の対象としたが、 さらにその後、. ための新しい 政治努力の結成を. こ. 企図することになる。. 州 埼 大衆党の結成. 1928 ( 昭和 3) 年に入ると、 藤田は秋に行われる 普選施行後初の 市 講会議員選挙に 照準. を合わせ、 新たな政治団体の 組織化に着手するようになった。. T. 明暗Ⅰでは、 市会の問題. や各派の動静を 詳しく論評した「川崎市会改選の 前線 評 」の遠域を行っている。 ・0)0 一方、 藤田の加入した 労農党は 3.15 、 4.16 事件の弾圧により 解党、 同党京浜川崎支部 も解散を余儀なくされた。 所属する政党を 失った藤田は、 旧労農党支部員とともに 地方無 産政党の結成を 目指したのであ る。 それが川崎大衆 党 であ った。 1928 年 5 月 15 日川崎市会 会堂で結党 式 が開催されたが、 ここで採択された 綱領は次のとおりであ った。 一 、 全国 的地方無産政党の 即時合同促進の 為めに努力す。 ニ 、 京浜地方に於ける 無産階級政治戦線 の 統一を期す。 三 、 我国の現実的社会情勢に 即し無産大衆の 政治的経済的生活利益の 獲得 を期す。 四 、 既成政党の徹底的排撃㈹」。 藤田は川崎大出 党 執行委員長に 就任し、 『明暗Ⅲ 誌上には「吾人の 川崎大衆 党は 、 スローガ ソ に示した如く 生存権 の確立を掲げ、 旗色鮮明 「. に既成政党の 醜悪渦中に突撃を 試みんとして. 居る。 そして無産階級特有の 階級間 志 をもっ. て勇敢に 遵進 して居るのだ㈹」との 文章を著した。. 旧労農党とのつながりから、 川崎大衆党は 新労農党組織準備会を 支持し、 緊密な関係を 持って運動を 進めることとなった㈹。 既に川崎では、 旧労農党のほかに 無産政党として. り、 大工場内に結成された 総同盟支部を 中心として、 工場労 勘者の中に強固な 基盤がつくられていた㈹。 藤田は、 社民党支部にも 共同封争を呼びか は 社会民衆党. ( 社民党 ). があ. けたが、 実現は困難であ った。 それは同年 2 月の県議会選挙の 捺、 川崎サラリーマソ・ ュ 二才 ソ 及 び 京浜労農党川崎支部は 無産候補統一のために 選挙協定の申し 入れを行ったが、 社民党支部幹部との 協議は決裂に 終わっていた㈹ことからも 明らかであ る。 川崎大衆 党 は 、 無産政党を名乗る 以上、 サラリーマソ 層のみならず 工場労働者の 組織化を強く 意識し. なければならなかったが、 実際そこで社民党との 連携がとれなかったことが、 同党の運動 の拡大に大きな 限界を生んだのではないかと 想像される。 さて、 1928 年 9 月には普選実施後初の 川崎市議会選挙が 実施され、 藤田は川崎大出党公. 認として立候補した。 選挙運動は、 中央の新労農党組織準備金の 支援を得ながら 活発に展 閲 され、 大山郁夫を応援 弁モ に迎えた選挙演説会には、 二千三百名もの 聴衆が市公会堂に 集まったという (46) 。 藤田の主張は、 『明暗Ⅰ誌上の「立候補に 当つて一般有権 者に告ぐ」. 見ることができる㈲。 藤田は「工場労働者諸君、 農民諸君、 俸給生活者諸 君、 一般市民諸君」と 呼びかけ、 次のように述べる。 「過去における 川崎市会が果して エ という声明に.
(15) 1920 年代の地方都市と 新中間層 ●. Ⅰ. Ⅰ. Ⅰ. Ⅰ. ●. Ⅰ. ●. Ⅰ. ●. Ⅰ. Ⅰ. Ⅰ. ●. 35 Ⅰ. Ⅰ. ●. Ⅰ. ●. ●. Ⅰ. Ⅰ. ●. ●. Ⅰ. 場 都市と唱へられる、 即ち人口八万五千中の 九割七分をしめる 労働者無産市民本位の 実生 活問題に関係する 如何なる施設事業を 為したであ. りませうか。 ・…‥政友会の 敬六会の諸君. は昔 々に対して何をなしたか、 文 民政党同志会の 諸君に於ても 然りであ 自分の立候補はこの ょう に圧倒的多数の「無産市民」のための い既成政党に. る. ( 傍点は筆者 ) 」。. 施設・事業推進を 果たせな. 代わり、 「真に民出を 代表する」ためであ ることを述べたのであ る。. 川崎大衆党の 掲げた政策は 以下の通りであ る。 一 、 地方自治体を 中央政府の専制的支 「. 配から解放し、 無産大衆の自治権 を伸長すること。 一 、 無産大衆の政治的自由の 獲得。 一 、 戸数割、 営業税の改廃。 一 、 空地、 庭園、 銀行会社、 蓄妾税の創設。 一 、 党略的土木事業 の根絶。 一 、 実費市立病院の 設置。 一 、 公衆食堂、 浴場、 質屋の公営。 一 、 公設住宅の増 設 改善分配の公正。 一 、 都市計画整理に 対する関係地方 民 代表の参加。 一 、 教育機関の徹 底的門戸開放。 一 、 富豪、 貧乏児童の差別的待遇反対」。 初めの 2 項目は労農党の 政策の. 踏襲と見られるが、 藤田が重視したのは、 地方税制の改革と、 下層労働者階級を 視野に入 れた公共施設の 整備であ ったといえる。 資産家を対象とした 新税の創設は、 公共事業推進 にとって不可欠な 財源確保のためであ る。. 7. 川崎大衆党の 挫折とその後の 藤田 態 古. 市議選は、 65 名の侯捕者が 36 の議席を争 う 激戦となったが、 開票の結果、 藤田は落選に 終わった。 62 位で、 得票は最下位当選者の 177 票にも遠く及ばない 58 票であ った。 一方社 民党はそれとは 対照的に、 トップ当選した 陶山濤太郎はじめ 4 名の当選者を 出している㈹。 こうした結果になった 原因について 藤田は、 準備が遅れ「不用意千万」であ ったこと、 「理想選挙」に 徹したことを 挙げた。 そこでは、 「普選によって 行はれる今回の 選挙は将 に 清く正しいものであ らうと思ったのが 予期に反する 事移しく、 市内攻 処 、 戸別訪問買収. 等 、 九月に這入ってから 市中に黄金の 雨を降らし‥」という 選挙の腐敗のあ り様が語られ. ている㈹。 藤田は敗戦の 原因を金権 選挙ととらえていたが、 その正否はともあ れ彼の主 張 が功を秦しなかったことは 明らかであ った。 この選挙結果のもたらした 挫折感は、 藤田にとって 小さからぬものであ った。 翌 29 年初 頭 、 藤田は全力を 傾げてきた川崎大衆党の. 解党を自ら発表し、 労農党との関係をも 断った. のであ る。 その後、 川崎サラリーマソ・. ニオ. ュ. ソ. も自然消滅の 形をとることになる。. 下. 明. には、 解党に当たっての 藤田の次のよ うた 文章が掲載された㈹。 「現段階に於ける 日 本の無産階級政治戦線に 於ては、 掲げる政策の 実現のためには、 時に政は政、 民は民、 某 他 既成ブル ヂコア 政党員とも時に 合流する已むを 得 ざる立場に陥るであ らう。 即ち民衆 政 治 確立のためには、 合流より妥協、 これ何等の不思議でなく 不純でなく当然すぎるもので あ る」。 藤田は、 選挙を通じて 自らの立場の 非力さを目の 当たりにすることで、 既成政党 との妥協ぬきに 政治が成り立たないというこのような 見解を吐露する 至ったと考えられる。 従来の激しい 既成政党批判の 論調から見るなら ぱ、 大きな転向と 言わざるを得ない。 そし 暗コ. て、. 「今後川崎大出 克 と藤田は未来永劫思想的に 溝を造った。 そして断じて 関係はない。. 走らない。 文 無産政党にも 入党しない。 自分が一晩造りで 地方政党を造らうとも 思はない。 だが私は、 大民衆政治の 確立のためには、 社会正義の旗 そして藤田は 既成政党に断じて.
(16) 加藤千香子. 鯛. 印を掲げて、. /. サバリ反る者共には 必ずや大鉄槌を. 加へたいと思ふ。 将来藤田は純然たる. チヤ 一 ナリストとして 活動する 丈だ 」と述べる。 ここで、 「純然たるチヤ 一 ナリスト」と いう規定を自らに. 課した藤田が、 無産政党からの 離脱を唱えながらも 依然「民出政治」 確. 立を掲げていることは、 目をひく点であ る。 では、 藤田はその後どのよ うた 軌跡を歩んだの. うか 。 詳しい分析は 後日稿を改めな げればならなが、 ここでは見通しのみ 簡単にふれておきたい。 彼は 19 ㏄ ( 昭和 5) 年に 『. 窩見 興隆 詰 Ⅰ、 翌 31年には下京浜工業史. のその後の人生のテーマを の 内容は、. 凹. たろ. という著作を. 刊行したが、 これらはまさに. 彼. 示したものにほかならない。 400 頁近くの分厚いこれらの 著作. 工業地帯の現況、 町村の合併や 市 長・助役ら有力者の 紹介を中心とする 行政の概要等を 著述したものであ った。 刊行の主眼 古代にまで 湖 って語られる 京浜地域の歴史と. 「今や将に栄え 行く海岸方面工業地帯㈹」についての 市民の理解を 深めることにあ っ たと言う。 32年の「川崎市衛生名器 0 発行以降、 彼はこうした 著作の発行機関として 「京浜郷土史研究所。52)」を設立、 その後の藤田は 、 主として工業都市川崎の「郷土誌」 律 さんをライフワークとしていったのであ る㈹。 こうした彼の 歩みを見ると、 「理想 市 の実現を念じていた 藤田が政治改革を 通じての行動を 断俳、 一転して現実の 行政の肯定・ 受容に立場を 変えたことが 明らかであ る。 そのうえで彼が 力を入れたのは、 住民の「 愛市 は. コ. 」. 」. 意識、 「郷土愛」の 確立であ った。 同時にそれは、 土地とは無縁の 新住民の多い 川崎のよ うな都市で、 新住民に都市に 対する郷土意識を 持たせるという 役割を担. う. ことになるとと. もに、 また現実の行政の 追認を前提とするため、 秩序安定に寄与するものとなったことは 言 う までもない。. 1) 藤田鎌首 氏談 「立候補に当って 一般有権 者に告ぐ」 2) 藤田鎌首 [ 窩見 興隆 誌 ( 自由新聞社、 19 ㏄ 年 ) 。 3) 註 2) に同じ。. 『明暗.DD35 号、 1928 年. 9. 月。. 』. 4). 明暗』は、 福井茂一氏の 寄贈により川崎市立中原図書館に 所蔵 されている。 た丁 明暗山の紹介は、 山辺忠己 子 「雑誌 明暗 コは ついて」 ( のⅡ 埼 布皮研究Ⅰ 4 号、. 雑誌. [. 目. 5). 1 ㏄3 年 3 月 ). を参照。. 「創刊の辞」. ( 『明暗 J. 6) 川 l時雨皮資料編 3 埼市 、. 7) 8) 9) 10) 11) 12) 13) 14). 1㏄5 年j. 前掲藤田. 1. 号、 1925 年 11 月 ) 。. 近代 J. 0. 川崎市、 19㏄ 年 ) 、. 『. )ll 時雨史通史 編 3. 近代』. 等の記述を参照。. 7% 見 興隆 誌 ] 自序。. 『川崎労働 史 戦前編Ⅰ ( 川崎市、 1987 年 ) 第 2 章第 4 節を参照。 藤田「東京製鋼の 労 構 争議と厳正批判」 ( 1@明暗 J l 号、 1925 年 11月 ) 。 藤田「破壊 か 権 利の認識か、 最近の争議批判」 ( F 明暗Ⅰ 5 号、 1926 年 3 藤田「京浜間労資思想の 衝突」 ( 『明暗』 10 号、 1926 年 8 月 ) 。 藤田「不当搾取者を 届 恕 せよ」 ( 「明暗 i 12 号、 1926 年 10 月 ) 。 藤田「味の素労働争議に 就 て ( 『明暗』 2 号、 1926 年 1 月 ) 。 計 12) に同じ。 」. 月)。. 0/ll.
(17) 37. 1920 年代の地方都市と 新中間層. 15) 註 0) に同じ。 Ⅰ. 16) 註 2) に同じ。 Ⅰ. Ⅰ. 7) 川崎サラリーマソ・ユニオ. ソ順備 ママ 4% 「案内状」. 1926 年 m1月. ( 法政大学大原社会問題研. 充所所蔵 ) 。. 18) 19) 20) 21) 22) 23). 川崎サラリーマソ・ ュニオソ 「決議」 1926 年 11 月 ( 大原 社 所所蔵 ) 。 川崎サラリーマソ・ ュ ニオ ソ 発行 ( 大原 社 肝所蔵 ) 。 前掲『川崎労働 史 J 396 頁。 前掲野田「戦双におけるサラリーマソの 日本俸給生活者組合連盟「宣言」 「川崎サラリーマソ・ ュニオソ. 組合運動」。. 1926 年 5 月 2 日 ( 『俸給生活者 j 1 号、 1926 年 1 月 ) 。 規約」 ( 大原住所所蔵 ) の第三条に、 「本組合八日本俸. 給生活者組合連盟 二 加盟 シ 、 ソノ宣言統領政木組合 / 規約二賛同シタル 川崎地方二局. 住 スル俸給生活者 及 文二 % スル生活者 ヲ以テ 組織 ス 」とあ る。 24) 篠崎一成「労働良民党京浜川崎地方支部の 現勢と 其 任務」 ( n 明暗Ⅰ 24 号、 1927 年 10 月 )O. 25) 26) 27) 28). 藤田「解党に 当り一言す」 ( F 明暗 i 39 号、 1929 年 1 月 ) で回顧している。 藤田「資本の 前に人間価値なし」 ( 「明暗 J 13 号、 1926 年 m1 月 ) 。 註 5) に同じ。 藤田「川崎市政界の 分野と各派の 陣容、 現下の勢力相伯仲 か Ⅰ ( p 明暗』 1 号、 1925 年 11月 ) 。 29) 藤田「横浜 繍見 合併批判と無能政策一蹴 論 ( 一 ) ( 『明暗 i 2 号、 1925 年 12 月 ) 。 3 が藤田「横浜傍 見 合併批判と無能政策一蹴 論 ( 二 ) ( n 明暗 3 号、 1926 年 1 月 ) 。 31) 藤田「川崎田島合併一大都市を 表現せしめよ」 ( 「明暗 J 15 号、 1927 年 1 月 ) 。 32) 藤田「 怖 るべき吸血制度の 打破か 一虚無主義を絶排して 議会政策の遂行」 ( 『明暗』 14 号 , 1926 年 12 月 ) 。 33) 「腐敗せる市会に 憤 敬して市政革新同盟なる、 京浜川崎地方支部の 目ざましき活躍」 ( T 労働農民新聞 i 7 号、 1927 年 4 月 15 日 ) 。 34) 『明暗 d 24 号、 1927 年 10 月。 35) 『労働農民新聞 J1 (16号、 19 ガ 年 8 月 11 日 ) の記事には、 京浜川崎支部が 借家人運動 を起したことが 書かれている。 36) 藤田「川崎市当局の 怠慢 か 、 居住者から苦情百出」 ( 『明暗 J 22 号、 1927 年 8 月 ) 。 37) 藤田「理想火葬場の 設置 誇 ( n 明暗 14 号、 1926 年 12 月 ) 。 火葬場問題については 他 にも、 天野生「火葬場建設阻止に 対し市当局の 無謀を糾弾すべし」 ( 『明暗 17 号、 1927 年 3 月 ) 等 、 盛んに取り上げられている。 38) 藤田「市制施行以来の 大紛擾一一川崎市総決算 評 明暗 i 27@号 、 1928 年 1 月 ) 。 39) 藤田「川崎市会総改選の 前線 評 ( 「明暗 i 31 号、 1928 年 5 月 ) 。 40) 藤田「川崎市会総改選の 前線 評 ( 一 ) ∼ ( 七 ) ( n 明暗 i 27 ∼ 33 号、 1928 年 1 ∼ 7 」. 」. 」. 凹. コ. 山. 」. (. 仁. 」. 」. 月 )。. 41) 「川崎大出完結党 式. 」. (. 「横浜貿易新報. i. 1928 年 5. 月 15 日 ) 。.
(18) 加藤千香子. 葵. 42). 一 記者「自由を 奪はんとする 京浜間の資本家共. の加入は自由であ. る」 ( 『明暗』. 32 号、 1928 年 6. 43) 「川崎支部、 大衆 克 と共同演説会」 44). (. 冷笑すべき狼狽ぶり、 無産政党へ 月 )0. 『労働農民新聞 J. 56 号、 1928 年. 8 月 4 日)。. 川 埼を拠点とする. 社民党神奈川第二区支部は、 1926 年 12 月 11 日に結成された ( 前掲 Jl@ 労働 史 393 頁 ) 。 45) 森真康 「選挙協定の 分裂と共同盟争の 展開」 ( 『明暗 コ 29 号、 1928 年 3 月 ) 。 46) 「京浜川崎市議選に 大山熱弁を振 ふ ( 『労働農民新聞 ㏄ 号 、 1928 年 9 月 8 日 ) 。 47) 『明暗 J (35号、 1928 年 9 月 ) 。 ㎎ ) 「川崎市を皮切の 普選市会一一きのふ 開票の結果栄冠を 得た三十六名」 ( 『横浜貿易 新報』 1928 年 9 月 12 日 ) 。 49) 藤田「敗軍の 将兵を語らん」 ( n 明暗 J 36 号、 1928 年 10 月 ) 。 50) 藤田「解党に 当り一言す」 ( F 明暗』 39 号、 1929 年 1 月 )0 『. 』. 」. 51) 前掲藤田. コ. 下繍見 興隆 誌 刀自序。. 52) 藤田偏『川崎市街上名鑑』. (1932年 ) の発行元は、 京浜郷土史研究所となっている。. 53) 戦後藤田は 、 少なくとも以下のような 出版物を刊行したことが 確認できる。 発行 所は いずれも京浜郷土史研究所であ る。 藤田『」 l@ 社会読本 J (1947 年 ) 、 『大川崎市名 鑑』 (1㏄ 2 年 ) 、 J 埼 四十年史』 (19色 年 ) 、 J 埼 町内会 史 J ( ㎎㏄ 年 ) 。 『. Ⅱ. 『. W. Ⅱ. おわりに. 1920 年代後期における 地方ジャーナリスト 藤田 鎌 吉の地域活動の 展開と、 この短期間の うちに見せた 彼の故し い 姿勢の変貌ぶりには、 目をみはるものがあ る。 1925 U 大正 14) 年 に 大新聞の記者生活に. 終止符を打ち、 川崎 で 地方雑誌の発行を 始めた藤田は、 当初「第姉. 者」の立場から 労働者階級を 鼓舞・激励していたが、 26 年秋には川崎サラリーマソ・ ュニ オソ を結成、 組合運動の当事者として 立ち現れるのであ る。 さらに大都市建設の 理想と公 兵事業の推進を 掲げ、 既存の市政を 批判し市政改革を 目指す政治行劫にも 向かった。 労農 党への加盟、 川崎大衆党の 結成、 そして 27 年秋の市議選出馬という 行動がそれであ る。 だ が 、 市議会進出が 挫折した後、 彼の無産運動家としての 政治行動は長くは 続かず、 翌 28 年 初頭には川崎大衆党の 解党を発表、 政治行動の断俳を 言明したのであ る。 30 年代以降の藤 田は、 現実の行政の 肯定と受容の 側に転じた。 「理想 市 」建設という 地域への愛着と 期待 とをもっていた 彼は、 その後「郷土誌」執筆を 通じての新住民の 愛郷 心 喚起という方向に 向かい、 結果として体制安定の 役割を担うことになった。 さて、 このような藤田の 軌跡を、 中間層と労働者農民との 反 ファシズム統一戦線形成と い う 従来の運動史の 視点から見るならば、 まさに 労 党を媒介とした 統一哉線形成の 可能 性とその挫折の 過程としてとらえることができよう。 だが、 本稿で注目したとうにサラリー マソ を名乗った当事者の 側の意識に即して 見ると、 別の見方ができるよりに 思われる。 藤 田によるサラリーマソ・ ュニオソ 結成は、 サラリーマソ ニ 新中間層を資本の 雇用者であ る という点で労働者と 同等の「無産階級」と. 位置つけ、 「中等階級」意識を 振り捨て、 労働.
(19) 1920 年代の地方都市と 新中間層. 39. 者への連帯を 示すためのものであ る。 だが、 それは新中間層の 結集を掲げたとはいえ、 社 会における中堅としての 認識に立つ「中等階級」意識に 塞 いたものではなかった、 という ことであ る。. ここで、 「中等階級」や「知識階級」に 特有と見なされる「個人主義、 利己 主義」の態度が 否定の対象とされ、 自らの意識の 改革が叫ばれたことは 注目されよう。 彼 の言 う 「無産階級」への 合流とは、 地域社会の多数者、 すなわち社会政策や 都市公共事業 の 受容者であ る「大出」の 一員という認識の 成立にほかならない。 一方、 普選実施後には、 既成政党自身も 特定の階層階級や 地域の利害代表にのみ 止まる ことはでぎず、 無産階級をも 視野に入れ、 大衆化された 言質を用いるようになる。 そのた め言論上での 差異は薄れ、 定着した支持基盤をもたない 川崎大衆 党は 、 市政における の位置を明確にすることができずに、 挫折を余儀なくされてしまったのであ る。. さらに、 展望として述べるならば、. 「中等階級」意識の 否定のうえに 生まれたこうした. 「大出」意識は 、 決して根無し 草のままにおかれたのではなかったと 「大出」の一員としての. 自ら. 自分の寄り所を、. 見られる. 0. 藤田は 、. 「郷土」と呼ぶ 川崎市という 行政体そのものに. 見いだしたのであ る。 1930 年代以降になると 彼は、 「郷土」への 愛着を一層強めるととも. に、. 自分と同様根無し 草の「大出」に「郷土」意識や「. 愛 市の純情」の 観念を付与するこ. とを自分の使命としたのであ る。 そして、 こうした行動は、 その後の「大出」の 新たな支 配秩序への統合を 予期させるものでもあ る。. また、 以上のような 彼の軌跡の背景には、. 当時の地方都市における 政治社会状況の 大き. な変化が生じていたことを、 見逃すわげにはいかない。 当時の地方都市における 諸階層の 実態、 1920 ∼ 30 年代における 政治社会状況の 変容に関しての 実証的な検討は、 今後追求す べき課題としたい。.
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