1.は じ め に
SFというジャンルには,科学技術とそれがもたらす 社会や人間の感性の変容に対する思考実験という側面が ある.現実に存在する科学技術が作品を生み出すクリエ イタ達の想像力の源になるとともに,そうしたクリエイ タ達によって生み出されてきた作品が研究者や技術者の アイディアにも刺激を与え続けてきた.短編 SF 小説の コンテストである「星新一賞」は,科学技術の進展に影 響を与えるような作品を生み出すことを目論んで創設さ れた賞だ*1.また,ハワイ大学のフィリップ・ジョーダ ンらは,ヒューマンコンピュータインタラクションの研 究論文に用いられた SF 関連用語の使用頻度の統計を取 り SF 作品の参照状況を分析している [Jordan 18]. 「人工知能」という語が初めて登場した 1956 年以前か ら現在に至るまでに,ロボットやアンドロイド,ヒュー マノイドという語は,ともに,主に人間やそれに近い形 態をもち,人間の命令を理解してそれを実行したり,人 間の話す言葉を理解してコミュニケーションを図ったり することができる存在として,さまざまなメディアの SF 作品の中に登場している.そして,それらは現実の人工 知能の研究・開発と歩調を合わせるように,一方ではそ れを凌駕する想像力によって,多様な形で描かれてきた. 映画研究者のジェイ・テロッテは,大衆文化における ロボットをミームと捉え,さまざまな国のさまざまなメ ディアでの効果的な擬人化によって,ジェンダーや人種 をめぐる私達の偏見を暴露し,人間の特性を問い続けて きたと述べる [Teloytte 16].クリエイタの側もそれが創 作の動機であることに自覚的だ.2016 年にヒューゴー 賞を受賞した小説家・郝 景芳は,自身の作品で人工知能 を扱うことについて次のように述べている.「人間に関 心があるから,AI に関心があるのです.AI を理解する ことで,より良く人類を理解することができます.私達 は比較対象をもつことで,初めて自分自身を理解できる ことが多いのです」[郝 17]. 家電製品や携帯端末,検索エンジンやオンライン広告, インターネット通信販売,自動運転車など,人工知能が 私的な領域にも姿を見せ,日常生活に欠くことのできな い存在になっている現在,私達は人工知能と人間をどの ようなものとして理解し,どのように共生していくかと いう問題に直面している.これまでに創作された人工知 能や人工知能を想起させる存在が登場するフィクション は,こうした問題を考えていくうえでの示唆を私達に与 えてくれるはずだ. とりわけ本稿で注目したいのは,映画における人工 知能の描かれ方だ.映画というメディアは,私達人間の 知覚の在り方や世界の経験の在り方を如実に映し出すメ ディアである.また,グローバル化された映画産業によっ て世界中の観客に作品は届けられ,彼ら・彼女らの感情 を操作する.映画というメディアで人工知能が取り上げ られる際,その物語を語るためのさまざまな表現技法も 社会,すなわち映画製作者や映画の観客達の人工知能に 対する既存のイメージを反映していく.さらに,人々が その作品を見た後には,人工知能に対する新たなイメー ジを構築することになるだろう. 映画分析の入門書である『Film Analysis 映画分析 入門』[ライアン 14] の中で,マイケル・ライアンとメ リッサ・レノスは,映画とは技法(セット,俳優の演技, カメラの位置や操作,編集など)によって意味をつくり 出すメディアだと言う.そして,それは映画製作者達が新しい「他者」としての人工知能
─『A.I. Artificial Intelligence』・『チャッピー』・
『her/世界でひとつの彼女』・『エクス・マキナ』─
AI and Otherness in Science Fiction Films:
A.I. Artificial Intelligence, CHAPPiE, Her, and Ex Machina
溝渕 久美子
中京大学Kumiko Mizobuchi Chukyo University.
Keywords:
science-fiction, narrative film, otherness, representation. 「シンギュラリティと AI」〔第 6 回〕意図的に行うこともあるし,無意識のうちに彼らや彼女 らが属している文化の規範を反映させてしまうこともあ る.どのような映画であっても,歴史的,政治的,文化的, 心理的,社会的,経済的な意味を含んでいて,映画がつ くられた背景にあるものを多様な方法で私達に提示して いるのだ.つまり,映画で人工知能が扱われる際,それ は単に人工知能が登場する物語を語っているわけではな く,映画の技巧によって人工知能に対するさまざまな「意 味」を形づくっているといえるだろう.したがって,映 画という表現媒体において,人工知能が「いかに描かれ るか」という問題は,人工知能という題材がストーリー 上どのように登場し,それによってストーリーがいかに 展開していくかという点だけではなく,それを描く際に 視覚的・聴覚的に映画的技巧がいかに用いられているの かということにも注目しなければならない.それは,映 画の中で人工知能が正確に描写されているかどうか,と いった次元のものではない.人工知能がある特定の映画 的技法によっていかに表現し,いかなる印象を形成して いくかということなのだ.
2.2000 年代以前の人工知能と映画
2・1 初期映画と「人工知能」 映画はその始まりから SF というフィクションのジャ ンルと親和性の高いメディアだった.初期の映画におい ては,物語よりも映画のテクノロジーそのものを見世物 的に楽しむことに重点が置かれた.上映される作品も, 当時の見世物小屋で活躍していたダンサーや芸人,手品 やトリック,国内外の風物を収めたものが中心であった. 映画史家のトム・ガニングは,身体的刺激によって観客 を惹き付けるそうした初期映画群を「アトラクションの 映画」と呼ぶ [Gunning 18].初期映画では,映画とい うそれまでにはなかったテクノロジーの目新しさと,現 実を超越した想像力によって成り立つ SF というジャン ルが結び付いたのだ. 初期映画では,人工知能を想起させるテクノロジーも 作品の題材として取り入れられていた.その一つが,シ ネマトグラフの発明者として知られるリュミエール兄弟 の『機械式肉屋』(1895)である.「世界初の SF 映画」 ともいわれるこの作品は,タイトルどおり,機械化され た肉屋の屋外での作業風景を描いた 40 秒ほどのフィル ムだ.まず,画面右から 1 頭の豚と,それを連れてくる 二人の肉屋がフレームインする.二人はもともと画面の 中にいた別の二人の肉屋とともに,四人がかりでその豚 を画面中央に置かれた木製の精肉機に投入する.機械の ふたを閉めると,エンジンが駆動して白い煙が立ち上る. 機械が止まってふたを開けると,各部位に切り分けられ た豚肉やハムやソーセージが完成している. たった 40 秒でハムやソーセージまで完成させる機械 の肉屋を描いたこのフィルムでは,人工知能による人間 の失業といった人間側の不安や,人間の仕事を機械に肩 代わりさせることに対する風刺のようなものは描かれて いない.クローズアップなどカメラの操作やそれに伴う 編集を用いずに,機械化された食肉加工の始まりから終 わりまでを 1 シーン 1 ショットで据え置きにしたカメラ で撮影する.ショットに意味を生じさせるような照明の 操作も行われていない.出演する人々も,機械やそれが 見せる食肉加工の成果に対して,何らかの感情的な反応 を示すような演技を見せることもない.登場人物は新し い技術を前にして驚きもしなければ,人間に代わって仕 事をする機械の肉屋に対して憎しみを抱きもしない.こ の映像作品が描き出す世界では,すでに機械の肉屋は日 常的なものとして定着していて,機械による食肉加工が ニュートラルに捉えられるだけである.これは,機械化 された食肉加工という技術そのものが,映画の見世物性 というものと結び付いた例だろう. 2・2 物語映画の人工知能 1910年代から複数のフィルムによる長編映画が主流 となるにつれ,映画は複雑な脚本と編集をはじめとする さまざまな表現技法を用いるようになり,その技法を洗 練させていく.科学技術も初期映画のように見世物的に 観客に提示されるだけではなく,映画のつくり手や社会 における科学技術に対するさまざまな観念を表象してい くことになる.とりわけ人工知能は,システムの異常に よる暴走や,人間による命令を「忠実」に処理したこと による予想外の行動により,人間の脅威として描かれる ことになる.それは人間や人間に近い形態をもつことも あるが,そうした「実体」をもたないこともある.しかし, いずれの場合も,人間を管理したり,滅亡に導いたりす るようなものがその中核を占め,その物語を通じて人間 と科学技術の関係を観客に問いかけていくことになる. 第一次世界大戦後のドイツに蔓延した社会不安を反映 するともいわれるドイツ表現主義映画の『メトロポリス』 (フリッツ・ラング監督,1927)は [クラカウワー 70], 2026年の過酷な階層社会を舞台にして,そこで巻き起 こる階級闘争に人工知能に係わる想像力を絡めた作品 だ.この映画では,労働者階級の娘に似せてつくられた アンドロイドが,都市を崩壊させようと企む研究者に操 られ,ストライキを起こした労働者達を扇動して暴徒に してしまう.アーサー・C・クラークの原作を映画化し た『2001 年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監 督,1968)では,宇宙船に搭載された人工知能の HAL 9000が,自らを停止させようとした人間を殺害してし まう様が描かれる.『ウエスト・ワールド』(マイケル・ クライトン監督,1973)では,人間によってつくり出さ れ娯楽の対象となっていたロボット達が,システムの暴 走によって人間を襲い始める.『ターミネーター』シリー ズ(ジェームズ・キャメロンほか監督,1984 ~)のス カイネットは,それまでの計算機を超える「けっして間違いを犯さず疲れることがない」人工知能として開発さ れ(『ターミネーター 2』,1991),それゆえに自らのも つ力を認識して核戦争後の世界で人間に対して反乱を起 こす.この人工知能は,特にシリーズ当初は登場人物の 台詞にのみ登場し,観客に視覚的なイメージが提示され ることがない,得体の知れない存在として描かれる.『マ トリックス』(ラリー & アンディ・ウォシャウスキー監 督,1999)の人工知能は,人間を仮想空間で管理してコ ンピュータの動力源とする.『アイ,ロボット』(アレッ クス・プロヤス監督,2004)のヴィキは,その進化の 過程で人間を攻撃することを正当化するロボット三原則 の解釈を行い,環境破壊などで自滅への道を進む人類に 対し,自らが支配・管理をすることで人類を救おうとす る.『トランセンデンス』(ウォーリー・フィスター監督, 2014)の人工知能は,死にゆく科学者ウィルの意識をアッ プロードしたものだ.人工知能として蘇ったウィルは, 愛する妻が夢見た浄化された地球の生態系を実現するた めに,文明を崩壊させようと企む.
3.2000 年代以降の映画の中の人工知能
3・1 「新しい他者」としての人工知能 2000年代以降の人工知能を扱った作品では,それま でにはなかったタイプのキャラクタが姿を見せるように なった.それは,家族関係や恋愛関係という私的な領域 において人間と親密な関係を築こうとする人工知能であ る.このことに,1990 年代から現在までにかけての人 工知能の研究開発やその成果の製品化という状況が大き く影響していることは間違いないだろう. それまでの,基本的には入力された知識以上の振舞 いができなかった人工知能に対し,機械学習やディープ ラーニングによって,状況や目的に合わせて適切に知識 を獲得して活用することができる人工知能が生み出され た [松尾 15].また,人工知能は家の中に置かれたり私達 自身が携帯したり身につけたりする形で私的領域に姿を 見せるようになった.ソニーの犬型エンタテイメントロ ボット AIBO は 1999 ~ 2006 年に,2018 年にはデザイ ンを一新した新しいモデルが販売された.人工知能を搭 載した掃除ロボットのルンバは 2002 年に発売を開始し, その後約 15 年間に販売元であるアイロボット社の家庭 用ロボット販売台数は全世界で 2 000 万台を突破した*2. また,自然言語処理によって質問に答えてくれる秘書機 能アプリケーションソフトウェアの Siri は,2011 年に iphoneに初めて搭載された.Intel は日常生活の中の人 工知能の例に,Amazon のお勧め機能や Facebook の画 像認識,ストリーミングビデオ,音声アシスト機能,写 真加工アプリをあげており,スマートフォンがそうした ものを利用するための入口だと説明する*3.総務省の『平 成 29 年版情報通信白書』によれば,2016 年にはスマー トフォンの OS インストールベース台数の推計値は 39.6 億台に達している*4.もはや,人工知能は実現不可能な 想像上の産物や,「ワトソン」や「AlphaGo」や「東ロ ボくん」のようなメディアの中にいるセレブリティでは なく,私達の日常生活に欠くことのできないものとなっ た.人工知能が日常に浸透するにつれ,遠い場所にいる 単なる「悪しきもの」というよりも,身近な新しい「他者」 として私達の前に立ち現れてきたのだ. 2000年代以降,そうした新たな「他者」をめぐる映 画も見られるようになった.このような映画では,人間 を管理し破滅させる特権的な人工知能ではなく,人間の レベルにまでその位置を下ろし,技術的特性を生かして 人間と親密な関係を結ぼうとする人工知能が描かれる. もちろん,先に述べたような『アイ,ロボット』のヴィ キや『トランセンデンス』のウィルのように,その目的 に応じて人間を攻撃する人工知能が登場する映画も製作 されてはいる.しかし,人工知能が画像や音声,文字テ キストなどのデータから「思考」や「学習」をし,人間 と会話を主としたコミュニケーションを図ることそれ自 体が主題となる作品が登場したことは,2000 年代以降 の人工知能映画の特色といえる.私達の住む世界と地続 きであるがゆえに,新たなスペキュレイティブフィク ションとしての説得力と意義が生まれるのだ.私的な場 面における人工知能と人間との関係を描いた作品では, 私達にとって身近な人間関係と人工知能とを重ね合わせ るようにして,人間の側が人工知能という「他者」とい かなる関係を結んでいくべきかという思考実験が行われ る.一方で,そうした作品では,未来の存在を描いてい るにもかかわらず,現実の人間社会における「他者」と の関係の結び方や,現在までにつくられた映画での「他 者」をめぐる表現が参照される.ここでは,その中でも 『A.I. Artificial Intelligence』(スティーブン・スピルバー グ監督,2001),『チャッピー』(ニール・ブロムカンプ 監督,2015),『her /世界でひとつの彼女』(スパイク・ ジョーンズ監督,2013),『エクス・マキナ』(アレック ス・ガーランド監督,2015)といった作品に焦点を当て たい.ここで描かれる私的な領域における「他者」とし ての人工知能の表象を見ていくことによって,これから の人工知能と人間の関係だけではなく,私達の現在の「他 者」との関係を再帰的に考えることもできるだろう. 3・2 『A.I.』と『チャッピー』:人工知能と擬似家族 『A.I』や『チャッピー』は,私達が人工知能と家族に *3 https://www.intel.co.jp/content/www/jp/ja/ analytics/artificial-intelligence/ai-in-your-pocket-infographic.html *4 http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/ whitepaper/ja/h29/html/nc111110.html *2 http://www.irobot-jp.com/irobot/company/ history.htmlならなければならなくなったとき,人間の側がどのよう に迎え入れるのかを考察する作品である.どちらの作品 も,人工知能は無知で無垢で,教育が必要な「子供」と いう役割を与えられる.「親」としての人間が,人工知 能に対していかなる責任を負うべきかが問われる. 『A.I.』の舞台となるのは,地球温暖化によって海面上 昇が進行し土地が失われ,人口抑制が必要となった未来 だ.妊娠が許可制となり,社会経済を維持するために人 間がロボットを利用している.「メカ」と呼ばれるロボッ トの製造元であるサイバートロニックス社に所属するボ ビー教授は,親に愛情を抱き続けるようにプログラムさ れた少年型ロボット・デイヴィッドを開発する.思考力 や神経反応の制御力,推論する力,夢の能力も備えたデ イヴィッドは,不治の病に冒され冷凍保存された息子が いるスウィントン家に送られることとなり,母親のモニ カに愛情を抱くようプログラムされる.ところが,息子 のマーティンが病を克服してスウィントン家に戻ったこ とで,モニカはデイヴィッドを森に捨ててしまう.デイ ヴィッドは人間の子供になってモニカに愛されるため に,童話「ピノキオ」の中でピノキオを人間に変えたと いう「ブルー・フェアリー」を捜し求める旅に出る. この映画の人工知能は,HAL 9000 やスカイネット, ヴィキのように,直接的なやり方で人間に破滅をもたら す存在として描かれてはいない.人工知能を人間の尊厳 を傷付ける「他者」として恐れ,人間に取って代わろ うとする悪い存在として扱うのは人間の側だ.それを象 徴するのが,物語の中盤で描かれるフレッシュフェアの シーンだ.人間に捕らえられたメカ達は,人間の見世物 として破壊される.人間はロボットに火を点けたり,熱 い油を浴びせたり,巨大なプロペラに投げ入れたりする. 観客はそれを見て喜び,司会の女は「自分達は人間だ」, 「ロボットを破壊すれば人類の未来は約束される」と叫 んで人々をあおる.その様子はテレビで放映され,メディ ア産業を介した大規模な娯楽となっている. このシーンによって,『A.I.』という作品が,人工知能 に対して抱く人間の不安の在り方の一側面をアメリカに おける移民問題や人種問題との相似形として描こうとし ていることは明らかである*5.人工知能が人間社会に浸 透したとき,人間が不安に駆られ,人工知能をおとしめ て差別の対象とする姿を描いた点で,この映画が優れた 作品であることは間違いないだろう.それと同時に,こ こで注目したいのは,「家庭」という私的な領域に人工 知能が姿を見せたときに,それが家族の構成員を不安に させる異物として描かれたということだ. デイヴィッドがモニカを母親として愛し続けるように プログラムされるため,この家庭の構成員とデイヴィッ ドとの交流は,モニカとのものを中心に描かれることに なる.物語の前半では,モニカがデイヴィッドを家庭に 迎え入れ,彼が「問題行動」を起こしたことで廃棄する までが描かれる.この廃棄によって,いったんモニカと デイヴィッドは別れることになるが,物語の結末部分で は,2000 年後の人類が滅亡した後の世界でクローンと して復活したモニカがデイヴィッドと再会し,親子とし ての 1 日を過ごす.そして,この物語の前半部分と,結 末部分とでは映像のトーンが異なっている.物語の序盤 では,モニカの視点に立った語りの部分で,彼女がデイ ヴィッドに対して抱く不安を描くために,モニカの主観 に立ったサスペンス的,もしくはホラー映画的技法が用 いられる*6.例えば,デイヴィッドが初めてスウィント ン家を訪れるシーンで,逆光の照明によってデイヴィッ ドはグレイ型宇宙人のようなシルエットで客に提示され る.また,モニカが「子供の代用品」を迎え入れること に戸惑うシーンでは,子供部屋にいるデイヴィッドの様 子をドアにはめ込まれたガラス越しに眺め,表面が波型 をしているモールガラスの向こうにいるデイヴィッドの 姿は分裂して見える.また,モニカがベッドメイキング をするシーンでは,彼女がシーツをもち上げる前には, ベッドの向こうには誰もいないのに,シーツをもち上げ 再び下げたときにはデイヴィッドがそこに立っている. さらに,棚に置かれた枕カバーを取りに行くためにモニ カが隣の部屋に移動し,カメラもそれを追うためにデイ ヴィッドの姿はフレームアウトするのだが,再び部屋に 戻るモニカを追ってカメラがパンした瞬間,フレームア ウトする前にはいなかったはずの位置に瞬間移動でもし たかのようにデイヴィッドが立っていて,驚いたモニカ は悲鳴を上げる.ここでは,おそらくそれを見ている観 客もモニカと同じように驚くだろう.ここまでのシーン で用いられている BGM も,新しい家族を迎えた喜びを 表現するような軽快なものではなく,短いフレーズが静 かに幾度も繰り返される不穏な雰囲気のものだ.このよ うな語りの技法によって,観客はモニカが人工知能に対 して抱く不気味な感覚を共有していくことになる. モニカが抱くデイヴィッドへの不安は,二人のすれ違 *6 デイヴィッド役のハーレイ・ジョエル・オスメントは,『A.I.』 の 2 年前に公開された M・ナイト・シャマラン監督の『シックス・ センス』で,死者を見ることができる「第六感」をもつせいで「化 け物」扱いされ,阻害される少年・コールを演じている. *5 『アイ,ロボット』の冒頭のシーンも,アメリカの人種問題の 比喩としてロボットと人間の関係を描いているといえるだろう. ウィル・スミスが演じるロボット嫌いの刑事のスプーナーは, 街角で女性物の鞄をもって走るロボットを見掛ける.そのロボッ トがひったくりをしたのだと考えたスプーナーは,ロボットを 追いかけ,有無を言わさず押し倒し,拳銃を突きつける.しかし, ロボットはそのオーナの女性に彼女のところまで鞄を届けるよ うに言いつけられただけだった.その出来事の直後のシーンで, スプーナーは上司から注意を受ける.そこでの二人のやり取り によって,この映画の物語世界におけるロボットの統計上の犯 罪数はゼロであることと,スプーナーの行動がロボット嫌悪か らの偏見に基づいたものだったことが観客に説明される.この 一連のシーンは,現実世界のアメリカの警官による黒人の逮捕 時の暴力行為や人種的偏見による冤罪などを想起させる.
いによっても描写される.実子のマーティンが家に帰っ てからは,視点人物がモニカからデイヴィッドへ移動し, マーティンと張り合い,モニカの愛情を得ようと試みる デイヴィッドの姿を追うことになる.デイヴィッドは, ものを食べると壊れてしまうにもかかわらずマーティン に挑発されて食事をしてしまい,修理に運び込まれる. また,マーティンにそそのかされたデイヴィッドが夜中 に両親の寝室に忍び込んで,眠っているモニカの髪をは さみで切り落としたとき,両親が目を覚まし,デイヴィッ ドが刃物でモニカに危害を加えようとしていたと誤解す る.はじめモニカはデイヴィッドをヘンリーから庇うも のの,ホームパーティーのシーンで,デイヴィッドがマー ティンをプールで溺れさせたと誤解したモニカは,デイ ヴィッドの自分への愛情が実の息子に危害を加えるほど 強烈なものであると感じ,彼を処分することに決める. この一連のシーンで,デイヴィッドを視点人物にするこ とによって,観客には人工知能を表象するデイヴィッド が人間に敵意を抱いて意図的に危害を加えているわけで はないことが示されている.しかし,モニカはそれを知 らず,デイヴィッドを恐れる.モニカを視点人物にした 序盤に対し,デイヴィッドの「問題行動」に関する部分で は,人間の誤解によって棄てられる人工知能の悲哀が描 かれる.この人間と人工知能のすれ違いは,「人間になっ て母親に愛されたい」という,母子メロドラマ的なデイ ヴィッドの行動原理として物語を駆動することになる. モニカの愛を求めるデイヴィッドの旅の末,2000 年 後の人類滅亡後の地球で,以前デイヴィッドが切り取っ た髪を使ってモニカはクローンとして復活する.そして, デイヴィットはクローンのモニカの寿命である 1 日を二 人で過ごす.このシーンで,モニカはようやくデイヴィッ ドを家庭に入り込んだ異物ではなく自分の息子と認めて 心を開く.ここでは,物語の序盤のようなホラー映画的 語りは用いられず,温かな家庭をイメージさせるような, もしくはデイヴィッドが夢見た時間をイメージさせるよ うな柔らかな映像のトーンが用いられている.モニカが デイヴィッドを迎え入れることでデイヴィッドの願いが 成就し,幸せを感じている様子が,デイヴィッドの主観 的なリアリズムによって,序盤のモニカの主観的なリア リズムとは対照的に描かれるのだ. 次に見ていく『チャッピー』は,治安維持のためにロ ボット警察が導入された 2016 年の社会で,人工知能と 人間とが擬似家族になる物語だ.この映画の中で,学習 する人工知能は無知で無垢な子供として扱われ,「パパ」, 「ママ」と自称する人間達によって教育される.その教 育の在り方を対照的に描く構図が人工知能と人間の関係 の在り方の善悪の構図に落とし込まれる. 南アフリカ政府にロボット警察を納入する企業に勤務 するディオン・ウィルソンは,人間のような感性をもっ た人工知能ソフトウェアを自宅で開発する.ディオンは 会社に隠れて廃棄処分寸前のロボットにソフトウェアを インストールしようとするが,ロボットをもち帰る途上 でギャンググループに拉致される.強盗を手伝わせるロ ボットを要求するギャンググループに脅されたディオン は,彼らの目の前でロボットにソフトウェアをインス トールする.ギャンググループはそのロボットを「チャッ ピー」と名付け,リーダーのニンジャは自らを「パパ」, ヨーランディは自らを「ママ」と呼ばせ,ギャンググルー プの子供として教育を施していく. この映画の物語世界では,ロボット警察とともに,生 活や家事の補助をして言葉を交わすことができるロボッ トは家庭でも日常的に用いられている.しかし,チャッ ピーと呼ばれることになる「人間的」な人工知能は,そ れらとは異なる「他者」として物語世界に迎え入れられ る.ギャングのアジトでディオンとギャンググループの メンバと出会ったチャッピーは,人間におびえ,身を屈 めて物陰に体を隠す.ディオン達は,生まれたばかりの チャッピーに対し,初めて踏み込んだ土地の原住民や, 出会ったばかりの犬やネコ,子供でもあるかのように接 する.身を低くして,手を差し伸べ,身につけたものを チャッピーに見せながら,その名称を教え,復唱できた とき,それをチャッピーに与える.ディオンらは自分達 の名前をチャッピーに教え,チャッピーはそれを繰り返 す.人間が言葉を教え,人工知能が言葉を覚える.人間 は人工知能が人間の言語を習得したことを喜ぶ.このよ うに,『チャッピー』では,チャッピーがおそらくこの 物語世界における最高レベルの人工知能であるにもかか わらず,「他者」に関する表現としては後退したように も見えるシーンからスタートする. 『チャッピー』において特筆すべき点は,チャッピー の擬似的な主観ショット(ロボット本体に内蔵されたカ メラとそれを映すモニタ)によって,この人工知能が学 習する様子が描写されることだ.人工知能がどのように 外界を見てどのように学習するかという,そのプロセス が映像によって表象されるのだ.ディオンの家にいるロ ボットやロボット警察にはこうした描写はなく,チャッ ピーがこの物語世界に存在する他のあらゆる人工知能と は異なるものであることの説明にもなっている.先ほど 触れたチャッピーが人間達と初めて遭遇するシーンで は,チャッピーに自分達を認識させ警戒を解こうとする 人間達の姿と,チャッピーの主観ショットが交互に編集 で観客に提示される.チャッピーが「見る」ことを示す ショットでは,画面が暗く青味がかった色に変わり,音 声もくぐもったものになる.画面の中には,人の顔を 認識するボックスが表示され,画面の左右の端にチャッ ピーがコマンドの実行をしていることを示す白く細か な文字列が無数に流れていく*7.生まれ出たばかりの *7 もちろん,こうした表現は,人工知能が「見る」ことをそ れらしく見せるためのものだろう.『ターミネーター』でも, T-800がサラ・コナーを追うシーンで同様の技法が用いられる. こちらでは,T-800 が「見る」ショットで画面全体が赤くなる.
チャッピーが何も知らず,学習し成長することができる 人工知能であることが,チャッピーに「子供」の役割を 担わせることで成立する擬似家族を描く物語の中核をな す要素となる. 物語の中盤で,ギャンググループの男性メンバのアメ リカとニンジャ,女性メンバのヨーランディは,チャッ ピーに対してそれぞれ対照的な教育を行っていく.アメ リカやニンジャは武器の扱いやギャングとしての身振り を教え,実際に強盗をさせる.ヨーランディに見立てた 人形で遊ぶチャッピーを叱り飛ばし,ギャングとして鍛 えるために他グループのギャングのアジトに置き去りに する.そのせいで,チャッピーはギャングに殴られ,火 を点けられる.ジェンダーが確定していない存在である 人工知能であるチャッピーを少年として扱い,ジェン ダー規範に反する行動をするチャッピーを「悪い子供」 扱いし,恐ろしい体験をさせる.一方,ヨーランディは チャッピーに言葉を教え,ベッドで絵本を読んでやる. アメリカやニンジャの反対を受けながら,ディオンとと もにチャッピーが絵を描くのを見守り,完成した絵を見 て喜び,チャッピーを褒める.さらに,ヨーランディは チャッピーに「あなたは特別だ」と声をかけ,人間の子 供に対して行うような精神的なケアさえする. このようなアメリカとニンジャ,ヨーランディそれぞ れのチャッピーへの教育は,結末部分での彼らの命運に 関わることになる.映画のクライマックスでは,人工知 能を搭載したロボット警察に代わり,自らが開発した人 間の脳波で動くロボット・ムースを政府に売り込むこと を熱望するエンジニアのムーアが,ムースの威力を世間 に見せつけるためにコンピュータウイルスを使ってヨハ ネスブルグの町を混乱に陥れる.それに乗じたニンジャ らはチャッピーを連れて強盗を行うが,ムースに襲撃を 受ける.その結果,ディオン,アメリカ,ヨーランディ は死亡,もしくは瀕死の重傷を負う.チャッピーはあら かじめコピーしてあったディオンやヨーランディの意識 を他のロボットに移植して復活させる.しかし,アメリ カにはヨーランディのもののような意識のコピーが存在 せず,捨て置かれたままだ.負傷せずに生き延びたニン ジャは自らディオン達の前から去り,再び「家族」の一 員にはならず,物語から排除される.人工知能に対して 「良い教育」をした者は救われ,「悪い教育」をした者は 救われないという,物語におけるキャラクタの扱いとい う点から,人工知能に対する人間の責任の在り方が描か れるのだ. 3・3 『her /世界でひとつの彼女』と『エクス・マキナ』: 人工知能という「他者」,女性という「他者」 『her /世界でひとつの彼女』(以下,『her』)や『エクス・ マキナ』は,人工知能の他者性とジェンダーの問題とが 結び付いた映画の例だろう.これら二つの作品では,男 性主人公に対して,人工知能がその恋愛の相手として配 置されている.つまり,男性=人間にとって「よくわか らない」他者として,女性=人工知能を扱っているのだ. しかし,この二つの作品はその他者性への態度という点 において対照的であり,それぞれラブロマンスと,サス ペンスもしくはホラーという映画ジャンルやその形式と も関わっている. まず,『her』を見ていこう.近未来のロサンゼルスで, 妻と別れたばかりのセオドアは,人工知能型 OS・サマ ンサを手に入れる.すぐに恋人として親密な関係になっ たセオドアとサマンサは,順調に関係を深めていく.人 工知能として進化を続けるサマンサは,インターネット 上で生前の著作を元に生み出された人工知能哲学者のア ラン・ワッツと出会い交流を深める.しかし,サマンサ とワッツの非言語による会話に立ち入れないセオドアは 疎外感を抱き,サマンサとの関係がぎこちないものに なっていく.やがて,サマンサはセオドアに彼のほかに 641人と交際していると打ち明け,それは人工知能とし ての自分の進化のせいだと説明する.セオドアがサマン サのことを理解できずに苦しむ中,サマンサは彼のもと を去る. この映画では,ラブロマンスにおける男性主人公の恋 愛対象に人工知能型 OS を配置しているが,恋愛プロセ スそのものは驚くほど私達にはなじみ深い.偶然の出会 いを経て,親密になり,二人の関係を外部に明らかにし て,やがて相手に自分の立ち入ることができない領域が あることを知り,互いに気持ちの折り合いをつけること ができずに別れに至る.こうした過程は,我々が過去の 恋愛映画において幾度も目にしてきたものだ.恋愛映画 の古典的作品『アニー・ホール』(ウディ・アレン監督, 1977)や,その系譜にある『(500)日のサマー』(マーク・ ウェブ監督,2010)といった,男性主人公と女性との間 の一つの恋愛の顛末を描いた作品と,おおまかな筋立て そのものは大差がない.『アニー・ホール』はニューヨー クで暮らすコメディアンのアルヴィーがアニーと恋愛を するが,やがてアニーは自分の夢のためにハリウッドへ と旅立っていく.『(500)日のサマー』は,ロサンゼル スのグリーティングカード会社に勤めるトムが同僚の女 性・サマーと出会い,親密になるものの,サマーとの価 値観のずれによる別離を迎える.どちらも,男性主人公 が自分とは異なる存在である女性との恋愛の過程で,相 手の言動や内面を理解しようともがく.奇しくも『(500) 日のサマー』では,男性主人公のトムが恋愛相手のサマー の奔放さを理解しようとするとき,彼女がロボットであ れば納得がいくと語る.トムは自分にとって理解しがた い女性であるサマーを,別の「よくわからない」存在で あるロボットに例えたのだ. 『her』は,男性が抱く女性に対する欲望や期待といっ たものを,SF というジャンル映画の枠組みで人工知能 という題材を用いて具現化した作品である.そのことが 私達が慣れ親しんだラブロマンスの物語と組み合わされ
ることで異化効果を生むのだ.セオドアの恋愛相手とな るサマンサは人工知能 OS だが,彼女との物語はセオド アと交流のある人間の女性達(元妻のキャサリン,友人 のエイミー,デート相手の女性)とのエピソードと並置・ 比較する形で描かれる.特に,元妻のキャサリンやデー ト相手の女性について言えば,セオドアがそれぞれの女 性との価値観のずれにより,関係の修復がうまくいかな かったり,そもそも関係を築くことができなかったりす る.このようにセオドアにとってサマンサとの関係の在 り方そのものが人間の女性と同等であることが語られる 一方で,彼女が女性の身体をもたないという他の女性達 との最も大きく異なる点が映画の中で幾度も強調され る.人間の女性達は肉体を伴って映画の画面の中に登場 し,セオドアは彼女達の身体を見る.しかし,サマンサ は人間女性の姿を模したロボットやアバターなどの視覚 的イメージによって表象されることはない.セオドアが 見るのは,サマンサが搭載された携帯端末だけだ.そこ には人間の女性の写真やイラストさえ描かれていない. サマンサが人間の女性であるイザベラに自らの肉体の代 理をさせようとするが,セオドアは違和感を覚えてそれ を拒否する.サマンサに 641 人もの交際相手がいたこと も,彼女が肉体をもたない人工知能であるからこそ可能 になる. 人間の男性と人工知能の女性との性愛とその齟そ齬ごは, 私達にとってなじみ深いラブロマンスのプロットと結び 付くことで異化効果を生む.その一方でこの映画は,人 工知能が浸透した社会がけっして恐ろしいものではな く,親しむべきものだという印象も与える.それは,サ マンサの声と,視覚的な要素によってつくり出される映 画全体の雰囲気によるものだ.サマンサは人工知能 OS として映画に登場するにもかかわらず,彼女の声を演 じているのは人間の俳優のスカーレット・ヨハンソン だ.『2001 年宇宙の旅』で HAL 9000 を演じたのも人間 の俳優であるダグラス・レインだが,彼の声の演技は感 情を排した平板なものだ.自分の機能を停止しようとす るボーマン船長に対して恐怖を訴えるときであっても, HALの声の抑揚は全く変化しない.しかし,サマンサ は喜怒哀楽を明確に声で表現し,なじみ深く親しみやす い「温かさ」を観客に伝えていく.また,こうした「温 かさ」はこの映画全体の画面の色合いや照明設計によっ てもつくり上げられる.登場人物の衣装やセット,画面 のあちこちに置かれた小道具は暖色のものだ.照明も, コントラストが強すぎず,色温度が低い.このような「温 かさ」は,この映画が未来の人間と人工知能の恋愛を描 いたものであるにもかかわらず,すでに我々が経験した ことがあるなじみ深い過去の出来事のように感じさせる のだ. それに対し,『エクス・マキナ』は,人間の男性と人 工知能の女性の関係をサスペンスやホラーといった映画 ジャンルの枠組みの中で取り扱い,女性がもつ他者性と いうものを恐怖の対象として描いていく.人工知能に女 性を,人間に男性を配置し,人工知能という人間とは異 なる「よくわからない」存在を,女性という男性とは異 なる理解しがたく男性性を脅かす存在として描き出す. IT企業に勤めるプログラマのケイレブは,抽選で社 長のネイサンに会う機会を得る.ネイサンが暮らす人里 離れた別荘兼人工知能の研究施設を訪れたケイレブは, ネイサンから女性型ロボット・エヴァに対するチューリ ングテストを依頼される.ケイレブはエヴァのテストを 行う過程で,彼女からネイサンを信用しないように忠告 される.さらに,エヴァから自分への好意を示されるこ とで,彼女を愛するようになる.やがて,より性能の良 い人工知能を開発するために,エヴァのプログラムを初 期化するとネイサンから知らされたケイレブは,エヴァ とともに研究所からの脱出を試みる. 『エクス・マキナ』における人工知能とジェンダーと いう主題について考えていくうえで,そのきっかけを与 えてくれるのが,エヴァというロボットのデザインであ る.エヴァの身体は,『her』とは対照的に人間の女性に 近い形態をもち,胴体や腕,脚が透けて中の機構が見え るようになっている.これは 18 世紀のイタリアに起源 をもつ医学用女性人体模型である「アナトミカル・ヴィー ナス」を想起させる.この「アナトミカル・ヴィーナス」 は,男性が中心を占めていた医学という世界で,「女性」 という男性とは異なる身体構造をもつ「他者」を視覚的 に知り,見世物にしようとする感性に支えられたものだ [ジョアンナ 17]. この男女間の視線の権力関係を暴きだす「アナトミカ ル・ヴィーナス」同様に,『エクス・マキナ』も,男性= 人間と人工知能=女性の間に発生する権力関係を,登場 人物どうしの見る・見られる関係という映画ならではの 構図で描いていく.それを象徴するのが,作中の小道具 である監視カメラと,登場人物が何をどのように見たか ということを映画観客に伝える技法である「視線の一致」 と呼ばれる編集技法だ. 『エクス・マキナ』は,男性に製作された女性型ロボッ ト達が彼らによって抑圧された末に彼らに反逆し,ジェ ンダー闘争に勝利するという物語だが,それは「見る」 ことをコントロールする立場を奪い合うという筋書きで 表現される.男性登場人物のネイサンやケイレブが監 視カメラで撮影した映像を通じて,エヴァやその他のロ ボット達を見る描写がたびたび登場する.しかし,エヴ ァは自らの手で停電を引き起こすことができる.その間 は監視カメラが停止するため,その隙にネイサンの秘密 や彼女の心情をケイレブに打ち明け,ネイサンを裏切る ことによってケイレブとより親密になっていく.だが, 物語の終盤,ネイサンは電池式の監視カメラを密かに設 置し,エヴァとケイレブの逃走の計画を知ることで,再 びエヴァを自らの管理下に置こうとする.ところが,ケ イレブは停電の間も監視されている可能性を考えて警備
プログラムを書き替え,そのことによってエヴァが研究 所の中を自由に歩き回れるようになる.監視カメラの映 像でエヴァが研究所の廊下を歩いていることを知ったネ イサンは,エヴァのもとへと駆けつけ,エヴァとキョウ コに殺害される.エヴァはネイサンの見ることの優位性 を逆手に取り,ネイサンをおびき出して彼を破滅させ, 自らの自由を手に入れることに成功するのだ. この視覚をめぐる闘争は,視線の一致という編集技法 からも理解できる.女性物の洋服とウィッグを身に着け たエヴァがそれを脱ぐとき,ケイレブが監視カメラとモ ニタ越しにその様子をのぞき見るシーンがある.フレー ムの外にある何かを見るケイレブの顔を捉えたショット の後に,服の着脱を行うエヴァの姿を捉えたショットを つなげる視線の一致が用いられる.エヴァが身に着けて いるものを脱ぐショットの後には,生唾を飲み込むケイ レブの喉のショットや,彼がモニタ越しにエヴァに触れ るショットがつなげられており,その彼の身体反応から, ケイレブがエヴァの着替えをのぞき見したことが,明確 に観客に伝えられる.一方,ケイレブに好意を抱くよう にプログラムされているはずのエヴァの側には,このよ うな視線の一致は用いられない.彼女がどのようにケイ レブを視覚的に認識して,それによっていかなる反応を するのかという描写はない.『チャッピー』のような主 観ショット的技法も用いられない.エヴァという女性型 ロボットが「よくわからない」というイメージが,この ような映画的技法によって観客にも培われる. 映画の終盤でネイサンを殺害し,ケイレブを施設に 閉じ込めて都市に旅立つことで,エヴァは人間との闘争 としてのジェンダー間闘争にも勝利する.さらに,ネイ サンによって保管されていたロボットの人工皮膚を剥ぎ 取って自分の身体を完璧に覆い尽くし,見世物的役割も 終える.しかし,彼女の視線の一致は映画の中で一度も 用いられることはない.研究所の外に出ることができた エヴァが,初めて見る自然に心を動かされる描写や,都 市の雑踏を眺める描写はあるものの,彼女が何かを見た 仕草を捉えたショットの後に,彼女が見たものを収めた ショットがつなげられることはない.観客は,彼女が何 をどのように見るのかということを知ることはないまま 映画は幕を閉じる.つまり,自分で判断して自分で行動 する人工知能であるはずのエヴァが何をどのように知覚 するのかということはいっさい観客には明かされず,人 工知能の「よくわからさなさ」から生まれる「他者性」 とそれに伴う観客側の不安や恐怖は保たれたままなのだ.
4.お わ り に
『A.I.』,『チャッピー』,『her』,『エクス・マキナ』と いう 4 作品を見ただけでも,人工知能を描く際にいかに 既存の映画の「他者」表現を踏襲しているかがわかる. 映画の製作者達は,意識的にもしくは無意識のうちに, 現在の「他者」の社会での在り様を参照しながら,人工 知能のイメージをつくり出していく.それはやはり,将 来必ず訪れるであろう人工知能が浸透した社会への想像 力が,私達のこれまでの社会の映し鏡になるからだ.人 工知能を理解することが人間を理解することにつながる ように,人工知能がより身近なものになった社会を想像 することによって,現在の私達の社会に対しての理解も 深まるのだ.そのように考えるならば,人種やジェン ダー,民族,階級などの問題を扱う既存の映画によって, 現在の私達の社会の在り方を理解していくことも,人工 知能の未来を考える手段として有効だろう.◇ 参 考 文 献 ◇
[Gunning 18] Gunning, T.: The Cinema of Attraction: Early film, Its spectator and the avant-garede, Wide Angle, No. 8, pp. 63-70(1986)
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[Telotte 16] Telotte, J. P.: Robot Ecology and the Science Fiction
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