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東陽房忠尋師と房舍に就ての考察

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東陽房必尊師と一野舎に就ての考察 一 五 六

束陽房忠尋師と房舎に就ての考察

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忠尊師と交渉を持する房合は多々あるが、誌では山仙寺帥の主に起加されたところ所謂住民に釘しての考諮を恥胤叫ん 冒 と す る も の で あ る 。 東陽房と十察院は忠尊研究に於ける重要なる部聞でるることは今夏言ふまでもなく‘以下その考設に於て、より明 確にそれを提議せんとするものである。建設年共よりすれば十城市院よりはじめて東陽房へと記越し・なければならぬの であるが、人口に謄矢され忠導師の代名詞とも・なってゐる東陽房に就きて先づ考察するととにする。 まづ東陽一加の沿革に就きて検するに‘同房は﹃門葉詑﹄︵傘第百三十二﹀の記するととろによれば‘ 一 一 保 院 の 御 願 、 受慶座主の奏請によって創建されたものであって、費慶師の本坊であった。完慶師とは大納言伊望の孫にあたり、大 和守従問紋下平朝臣郡富町の子である。師主は慈念併玉、慈車大師受法の弟子であって、長徳四年十月廿九日には逼賀 の後をうけて第二十三代の店主となり、治山十六年。長和三年十一月十二日︵一六七問︶八十八歳を︿本朝高僧侍読 エヨル﹀以て示寂せる人である。 師は有名なる障和の宗論に於て三十七蔵の弱冠を以てよく第二日夕座の問者となった。時に導師は南都の法臓であ

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うた。元享緯書の語るととろによれば、 擁 立 定 性 二 乗 不 成 伸 之 儀 、 酎 断 排 茜 鋭 、 慶 尚 古 川 擬 T 曲 折 、 源 者 第 三 之 朝 導 也 。 代 慶 演 衆 生 皆 成 伸 之 旨 ・ : ; ・ ︵ 禅 堂 再 開 ︶ との挿話を有してゐる。のち長徳三年四月には宋奉先寺源清師が白撲の示珠指以下五部の新書を贈り来り、彼の台昧 般本を求め来った際、朝廷は特に慈費、智詮の徒をして璃痕を指さ L しめるにあたり、師は勅を奉じて夫等新疏を駁

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・報者を製して贈ったとある。長保二年には僧正、顎年十月犬借

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登 っ た 。 朝野担共道望‘︿本朝高僧侍

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一 六 七

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︶ ム﹂言はれてゐる。恵檀雨師をはじめ窓車夫師の法務営代に雲の如き中に、また如何に師の人墜を厚くしてゐたか

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共 事樫を通じて知られるととろである。 然らばその東陽房の建立は何時であったか、とれに闘する記録をあまねくたづねたがなく、また関係文献の乏しき は甚だ遺憾とするととろであるが、 慶開東陽房靖退養老ハ本朝高伶偉

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一 六 七 ︶ ム ニ 一 口 は れ て ゐ る 点 か ら 考 へ て 暁 年 で あ り 、 ﹃ 譲 興 東 陽 房 事 ﹄ ︵ 門 葉 記 所 載 ︶ に 、 雨代御願寺 とあり、その南代とは﹃久安官牒﹄によって闘融、 一一傑雨院の御願であったと去が知られるのでるる。何って一六四 六︵一保帝即位︶|一六五 ︵同融帝崩御﹀の聞に成ったものと推定され来るのであるが、寛苓元年の﹃十奨院門跡 領目録﹄︵門葉記所載︶には﹃長徳二年之比﹄となってゐるから今はその詑に従ふととにする。 恰も一六問七︵水延 元︶年は甑信師往生要集成るの翌々年にあたり、本山を離れて頭陀に上り、 一六四九年にはヰ締師座主を退いて飴鹿 東陽房忠尋附と房舎に就ての考・祭 一 五 七

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東陽房忠一尋附と房舎に就ての考察 一 五 八 師と左り悲に山上動指、所前永一昨の宣命を見るにいたった年であって、叡山史上一犬汚点を閉するそれがポイントで あった。斯る雰間気の中に東陽房の草創はたされてゐたものであらう。然らば共にその房合は如何たるものであった か、それについては常時の精輯なる記録指闘等の現偉せぬ今日、知る出もたいが、 営 坊 在 子 西 塔 北 谷 ・ : : ・ 於 此 地 建 立 雨 堂 、 勝 蓮 華 院 大 乗 院 是 也 。 ︵ 門 葉 詑 ﹀ ム︸あるによって位聞は西塔の北谷であり、勝蓮華、大乗の二院を綿括して東陽房と郁してゐたととを知るのである。 ご帝と二院、その聞に何等かの関係を諜想され得るのであったが﹃叡岳嬰詑﹄の記すととろを見れば、 大 乗 院 国融院御願 勝蓮華院 一 僚 院 御 願 と出てゐる。即ち大乗院は固融院の御願により勝蓮華院は一一保院の御願にたってゐたととを知るのである。魔法帥の 起請によって官符を下され、爾来入室の捻子弐第相承して検校職に任ぜられるととになってゐた。斯くて同居は共後 皐家累世の御闘を祈り奉り公家御祈願所与して崇敬されたのであった。なほ費慶師は東陽房創建後二年にして同居に 於て座主の印唱・を受け、師ののち寛仁四年には西方院院源師、永承三年には西明房源心肺.延久二年には蓮⋮貫一対勝範 師等が同じくとの東陽房に於て印揮を受けてゐるのである。斯る史賓等に見ても、同房の山上に於ける地位の如何に 章 一 雨 空 で あ っ た か ど 看 取 さ れ る の で あ る 。 然るに承膳一冗年ハ一七三七︶四月十五日草創以来凡そ八十鈴年の光町に渦てる同房も、 一 朝 烏 有 に 闘 し て し ま う た 。 失火であったか兵火でるったかは記録の示すととろにはなく・不明であるが、また﹃譲奥欣﹄には、 就 中 件 勝 蓮 華 ・ 院 焼 失 之 後

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とあって勝蓮華院の焼亡を特記し惜まれてゐる。 閥来時の座主費尊師︵側航路一柳⋮刊誌⋮んある。︶より店主忠尊師に至る迄の間五十齢年、四代の検校を経て同房の荒 陵はまた見るに耐へざるもの L あったととは、忠尊師自らの語るととろによって着取せられるのである。 ︵ 譲 興 献 に 上る﹀袋に於て忠尊師は年 K 猪鹿の柄と・なり‘荊材料の茂るにまかせてゐた師跡東陽房の復興を計って、再び昔日の悌 を見るにいたらしめたのであった。 而してその東陽加とは如何なるものであったかと言ふに、 檎皮葺漆間武面、叉庇屋霊字。 同参問参面、経癒畳字、在後参間椴庇。 川 中 間 事 字 。 板設五間参師、屋登字。 同障問武面、雑舎登字。 同参問壁画、臨屋霊字。 右が忠尊師の﹃譲興扶﹄に記載せる竣成された諸建築物である。然らぽ槍皮葺と板葺の建物の中何れが勝蓮華、大乗 の各院であったかはとれまた未詳で

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るが、一不すところの建築様式に見てそれ等はかたりの堂舎であった乙とは容易 に首肯され得る。果してとれが亮睦師創建営時の礎石の上に、それが復興を計られたるものなりやは、資料の出血か ぎり易く断定を得ないが、 先師大借正企土木如嘗誼立ハ久安官牒︶ 東陽房忠導師と国防舎に就ての考察 一 五 丸

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東陽目貯山山等耐と房舎に就ての考察 一 六

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平成奮日之儀再興︿門葉記﹀ と言はれてゐるととろよりすれば‘五しく草創営時のもの h 再現であったととを推想せしめられるのである。 然らば阿房の建立年失はと言へば、とれまた何等の明記をも文献花得てゐ・ない c た ど ﹃ 譲 輿 欣 ﹄ に は 、 五十飴年之問詩猪鹿之栖 とあり﹃久安官牒﹄には、 愛承暦年中南院焼失之後.四代検校不能謹告 と言はれてゐるにすぎむい。然るに藷に忠尊師の﹃護興東陽房事﹄なる一書は‘長承三年︵一七九州︶八月二十・九日 記のものでるって、右の乏しき資料によりとれの考察を進める・ならば.同房の回蔽は忠尊師幼少の帥主費尊師が店主 位につきて二ヶ月後の承暦元年︵一七三七︶であり‘それより間代の検校を経て忠尊師が大治五年︿一七九

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﹀十二 月二十九日には座主位に登ってゐるのである。此間五十四年の歳月を算してゐる。而して大治五年

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長承三年は聞ケ 年の日子を経過してゐるのであって、少くとも長承三年迄には既に同房も建立されてゐたととは、議興般の脅かれた ととによって自ら明なとと L たるのである。然るに葱に問題とされて来るのは﹃門葉記﹄に・ 忠尋座主執務之時、更概荊藤新替土木 と 言 は れ て ゐ る に 反 し 、 座 主 記 ハ 重 韮 ・ 本 ﹀ に は . 大 治 五 年 一 以 十 二 月 二 十 九 日 任 店 主 六 十 六 。 勅使少納言藤原能忠。 同 六 年 一 野 正 月 五 日 勅 使 登 山 。

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同十一日於東陽房請印鑑謹奔堂。 となってゐることである。とのこ記事は一見自ら不合理を表明してゐることは貞に費言主要しない如くである。然る に師の事匿を見るに、師は元永二年︿一七七九︶に探題、保安元年五月二十日に西塔観音営一別営でありーバ天治一万年三 七八四︶には懐少僧都を経て、大治一万年︵一七八六︶には賓憧院検校、即ち西塔院主に補せられてゐる。期の如く山山 4 4 耐の地位は保安年間より西塔に確固たるものを得来った事賞を想起して推考する時、東陽房の再興は期る中にとそ 企闘され、着々土木の業を運ばれてゐたものとの想定を許され得るであらう。されぱ回融後畏日月を活迎せし荒慢の 枇跡も、占へ治の担?を迎へて再び蕊に醤房訪術たるものを得たと見るべきでは

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るまいか。恰も大治元年は東陽房憶失 後正十字に相営してゐる。議輿吠の﹁五十飴年一戸﹂はそれが記された長承三年より振返へりての記述である闘係上よ り、五十鈴年としたものではあるまいか。然らば﹁忠導座主執務之時・:﹂との柑掲﹃門葉記﹄の記事は如何と言ふに 所謂それは﹁座主の執務﹂を指すものではなくして、品問綱なる師の綱務を執れるを意味するものと解するのである。 それは恰も﹃久安官牒﹄に﹁先師大僧正企土木:・﹂と直弟掛導師によって記されてはゐるが、而し忠孝師は営時未だ ﹁大僧正﹂ではなくして‘槽働問疋であったととは﹃護輿吠﹄の自著によっても明なととろである o さ れ ば ﹃ 忠 等 座 主 ﹄ は﹁大僧正忠手﹂との敬械を以て呼ばれしと同巧なりと見るものである。仰って今は﹃時主記﹄の記事を以て安営な りとする結論に達するのである。斯の如く見来る時前掲﹃門業記﹄の記事の疑雲も亦雰れざるを得・ないであらう c さて共に新浩再興の同房の内部構造等は如何と言ふ問題である。 ﹃ 譲 興 吠 ﹄ ﹃ 久 安 官 牒 ﹄ ﹃ 門 葉 記 ﹄ 等 の 文 献 等 は こ れにつきで共に何等の記事をも輿へられては居ない。他に仰ぐべき資料もまた未だ鷲見せられないのである。従って 忠導師研究資料として最も重要性を興へらるぺき主材の一ったる堂舎内の様式、結構‘荘巌、本掌等は一切不明にし 東防局貯山泌尋附と房舎に就ての考察 ー ム ノ、

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東陽房忠尋仰と房舎に就ての考察 て看取され難いのは惜しき限りである。慢に﹃護興味﹄には‘ 臨趨伸像、勤行伸事 と記されてゐるととによって、共に山山尊師の新遣に左る伸像を安置しまいらせ‘以て厳に働事を勤修されてゐたとと が看成されるのみである。 また戎に大乗、勝蓮華の二院は一東陽房の中に如何なる位置にをかれてゐたものであらうか、そのこ宇の閥係に於 て主副的、或は封立的、或は一は伸事専修の道場、他は住居としてのものとかの種々なる方面よりの考察も是非必要 とされるのであるが、何等の直接的資料も得られない。たど一宇は槍皮茸であって他は板葺にされてゐたと言ふ碑一築 様式上の異点よりして、前者は勝蓮華院であり、後者は大乗院であらうことが推測されるのである。それは忠尊師が 殊に勝蓮華院の焼亡を憎まれてゐる点に其聞の消息を覗へると思一ふ。また従って雨者の聞に主副的関係をも看取され るものであって、その謹より観察を許され得るとすれば、勝蓮華・院を以て東陽房の中心的主要堂宇と見られるのであ る。或はまた畳慶師は本房として常に東陽房に居住されてゐた史宜にみて、町長に性房としての施設も何れかの蛍合 にされてゐたととは推測するに難くない。従っていま復興の堂宇の中に於ても亦同じくそれがあったであらうととを も推考し得る。然らぱ前掲諸堂宇の中の何れがそれであるか。とれは甚だ不詳に属するのでるるが、﹁屋登字﹂なるも のがそれに相営ずるのではないかと推測されるのである。確たる典擦があるわけではなく、たど﹁屋﹂なる建築物の 様式が営時代に於ける所謂寝殿浩等の居宅を想像し得られるまでのととである。而してとの﹁屋﹂なるものは板葺五 間三百のものであって、これが所謂大乗院の主鳴物であり、他の雑屋及び臨屋はそれが附属物であって、後者は講経 修曲学に用ひられたものにあらややと岡山はれるのである。巣して然ちば檎皮茸の方は如何と言ふに、中門一字、参門参

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両の粧誠一字、それから漆間誌面庇屋登字冒とある。とれが勝蓮華院であり、漆間試問、庇屋受宇なるものが東陽房の 杢体的中心主要建物にして、伸殿修法の道場であったと目されるのである。以上はたど推考にまかせてのものであっ て他に考詮の確たる資料を持たぬから勿論断定しうる性質のものではない。 中門を持ち、経臓あり‘雑舎一陣屋等を持つ東陽房の構遣は然し決して単なる房合ではなかったととは明らかである ﹃ 譲 輿 欣 ﹄ に 記 さ れ て 、 右房合帥微力所建立也 とは忠尊師自らの述懐するととろ必謙遜の融である。さればとそ長承三年︵一七九四︶には﹁以件功門跡次第可令補 雨院検校職:・﹂とて東陽房復興の功を以て、師跡代 K 同房の検校職たるととを奏濯してゐるのである。然してその資 に興ったは願寺帥であった。 山間帯法橋免入室長官之上踊謹顕締之雨業畢於小生等有慈悲の永所譲興也。︵譲興欣︶ と。即ち樹君法橋が忠尊師よりとの東陽房を相承するにいたった。顕尊師とは言ふまでもなく忠導師入室の上璃法資 である。かくて草創以来より入室の弟子次第相承以てとの房に主たり、雨院の検校職を務めると言ふことが確立され て行ったのである。顕尊師はまた良尊師へと相承してゐる。﹃久安官牒﹄なるものは即ち久安問年︵一八

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九﹀五月十 三日顕尋帥の奏献によって下されたととろのん日牒である。いまそれを掲げることにしよう。 太 政 山 日 牒 、 勝蓮華院 態補任検校職事 偉燈大法師位良顕 東陽房忠尊師と房舎に就ての考察 一 六

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京 阪 房 山 引 山 手 附 と 房 舎 に 就 て の 考 察

I '喧 右 得 法 眼 和 尚 位 瀬 等 、 今 月 十 コ ゴ 口 奏 献 、

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謹 検 案 内 、 件 雨 寺 者 間 融 院 一 保 院 之 御 願 也 、 依 盟 百 出 山 市 伸 一 主 泰 、 所 被 建 立 也 符被起請入室弟子次第相承楠検校職譲興之例如右‘近則故大僧正忠等譲子顕苓等也、愛承屑年中南院焼失之後、 問代検校不能道管、然先師大借

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企土木如筈浩立、以活管之功即諜顕等、方今風病相侵、露命有恐‘件良樹党師 入室弟子也、叉顕尋之資也、推護之底誰諮非様、望荷天恩任先例以件良顕被柿雨院検校職者、捕令奉祈高蔵之賀 算 者 、

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二位行椛大納言藤原朝臣宗輔宜奉勅依請者院宜承知依宣行之、僚致准航、品川牒。 久安凶年五月二十九日 従五位上行左大史粂算博士 丹波椛介小槻宿繭判牒 浩東大寺長官正四位下行 右中坪藤原朝臣 右が久安︷日牒の勝蓮華院に闘するもの L 全文であって、同大乗院のもあるが同文でもあり略するととにする。 悲に於て少し注意さるぺきととは﹁門跡次第﹂と言ふ語に就てどある。果して東陽房は営時所謂御門跡なるもので あったであらうか。門跡の殻詳はすでに遠く寛平法皇に始まってはゐるが、今の門跡なる.誌はそれと同意請ではない。 ﹃諸門跡譜﹄その他の文献に牒しでも東陽房そのものは所謂門跡の中に列してはゐたい。此に就て羅漢慈本師が.﹃天 ム口霞標﹄の中に論及されてあるからそれを掲出するととにする。 本按、門跡猶日師跡也。 一心戒文目、共作品抑事、護先師・跡。慈管別傍目、即登本山、時拝師跡。徳岡印信目、囲 嗣師跡故、体授弟子凶珍。智詮表支日、入唐偉得雨宗敬文、以添先師之遺跡。門者踏円、儒門、樟門、帥門之門、

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満同日家、故有山門山家之稿也。或指其遣法之庭、則義同師跡、或指嗣其遺法之入、則義同門徒。 乃 主 故 忠 等 付 属 堂 日 目 、 以 件 功 門 跡 弐 第 可 楠 雨 院 検 校 職 之 由 、 奏 謹 先 皐 也 ・ ・ ・ 。 ム﹂、即ち門跡には共の底を指す場合と其の人を指す場合とに於て、師跡、山門、山家、門徒等の義があるとしてゐる q 今の場合は所謂師跡に相営すると見てよい。入室上蕗の師資弐第して同房を相承して行ったととが誌に於て明確に着 取し得るのである。 因に﹃門葉記﹄所載東陽房血脈固を左に掲げよう。 東 陽 房 披十祭院 是絡陽坊名 忠 . 理~、 顕 等 畳 慶 、 、 、 固

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仁 監 最 守 道 玄 慈 道− 隼 国 重孝 道 ︵傍註は今は略す︶ かくて東陽房の再建復興は、忠尊師の金生涯に於ける事蹟に於ても可たり特筆せねばはらぬ重要性を有つものであ った。後世忠等師を呼ぶに﹁東陽房﹂或は単に﹁東陽﹂、または﹁東陽の座主﹂と呼稀して専ら通用されてゐる点、或 は﹁東陽房流﹂たる皐仮名の稀にではあるが見られる点、向ほそれ等にましてより重要性を見出さんとするものは、 忠零師の生活態度とそれに聯関するととろの著述との上に於てどある。 房舎に劃するの考察はなほ十紫院に就いての部面がのとされてゐる。では共に十紫院の考察に入るととにしよう。 東陽田町忠尊師と房舎に就ての考察 一 六 五

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東陽房忠尋師と房舎に就ての考察 一 六 六

二、十楽院に就↑ての考察

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﹃天台時主記﹄に於ては民党院本、重華本北ハに第間十六座主忠尊師の下に註して、 西塔十禁院組師 としてゐる。十禦院の粗削であったととは疑ひ友い史賓ではあるが、その十融市院の房合なるものについては委細に考 察されねばたらない。座主記には共にその所在地を問塔としてゐるが如くである。然るに現存する山門の諸営舎記録 類に於て、その西塔の部には殆んで十業院の記載せられてゐるものを未だ鷲見するに至らない。持して問塔に十壊院 −及るものが中古に存してゐたものであらうか、議に疑問を抱かざるを得ないのである。或は後世坊名の援更されたと とによって、その古名稿を浸してしまったものであらうか。然るに窓に﹃忠尋年譜﹄を見るに、 十 業 院 岨 尚 一 一 一 一 話 料 坊 也 右の如く記されてゐる。即ち栗田青蓮院宮本坊を以て十業院なりとしてゐるのである。また西塔十禦院とは何等の記 載がない。然らぽ持してとの記事は信擁するに足るべきものであらうか。﹃門葉記各第百三十四寺院四﹄の下には十繋 院に関する記録が載せられてゐるのを見る。前に東陽房の考察に際して﹃門葉記﹄に資料を仰いだと同じく、十禦院 に到しでも他に根本資料の出ぬかぎり、﹃門葉記﹄を第一費料としてその史的沿革をうかがうととにする。先づ﹃門葉 詑 ﹄ に は 、

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十 繋 院 花大谷 と標題に記載されてをり、弐いで、 常房者東陽房庄主忠等草創洛陽之本房也 とその胃踊に記述されてゐるのである。即ち大谷たる地は言ふまでもたく洛陽であるととが知られるのであって、浴 陽の然らぱ何鹿であるかと言ふに﹁此地東極局鎮守﹂とある。のって﹁東極﹂即ち京洛の東の極なるととを知る。設 に於て現今洛市水車内蓮院後背の華頂山、叉一名栗田山を指して大谷山とも言はれその西麓↓帯を大谷とも言はれてゐた ︿口碑︶事に注目したければたら・ない。向ほまた大谷なる名稀は、親鷲上人の東西雨期にも用ひられ、それがまた大谷 家なる家名をも生むに至った事は何人も知悉してゐるととろである。斯様に犬小作なる地域は往古可なり蹟範固に渉る ものであり、後世艶題されて行ったととがまた容易に首肯され得るのでるる。︵脱抑制創的憾時間−

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︶而してとの ﹁ 大 谷 ﹂ た る 地 に 忠 尊 師 は 房 舎 を 創 立 し て 夫 を 十 業 院 と 呼 ば れ た と 一 士 一 口 ふ と と に な っ て ゐ る 。 ま た 同 じ く ﹃ 門 葉 記 ﹄ 所 載 ﹃ 十 掛 川 院 門 跡 領 目 録 ﹄ な る も の に よ っ て み る も 、 件堂者座主大伶正忠等揮城東之甲地所草創也 と記されてゐる。斯の如く忠尊師の手によって洛東大谷なる地に堂合を草創されたと一一一口ふととは既に容易に首肯され るのであって、然らばその地点は何庖であるか斗城東之甲地﹂たる﹁洛東大谷﹂のそれは何鹿であるかと一五ふに、現 今は勿論その十禁院の祉蹟さへ忘れられ明らかにされてはゐない。また所謂三傍白河坊、士同水坊と架間口脊蓮院本所 の移捗‘それに大谷十端末院との問に於て密接にして宜に複雑なる交渉閥係にあったととが史料を通じて見られるとと ろである。設に於てその考詮の迫求を必嬰とされて来る所以が− b る。然るに既刊﹃門葉記﹄︿五臓﹀並びに来頂要略門 東陽田貯巾山等師と房合に就ての考察 ノ、 t二

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東陽房山山尊師と田町舎に就ての考察 ↓﹄八八 主倖︵悌全 V 等よりは的確・なる資料を得るにはいたらや、とれが考裂に甚だ曲折を経、者躍を嘗めざるを得・なかった のであるが、幸び頃円吉水識に於ける華頂要時︵門主博以外のもの︶の通覧を得るに至ってと L に史的沿革を確める ととを得、十楽院なるもの L 全般を極めるととを得たのでるった。さて考察を績けるととにしよう。 ﹃華頂要崎容第五十七。栗田名所稽跡考上﹄のもとに、十業院についての記事が載せられてゐる。それは編在需善が ﹃門葉記﹄を中心資料として記述されたものであり、また同巻第六十三﹁山下御本坊﹂のもとにも十業院に封ずる記事 が載せられて

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る。その他随所に散見されるのであるが、右ニヶ所が最もまとまった記事ではあらう。向右雨巻に共 に大部に亘って記述されてゐるととろの青蓮院の保下も併せて見・なければ・ならぬ重要左ものである。 先づ栗同名所筈跡考上の﹁十州市院﹂の僚に可註して‘ 今背蓮院殿是地也 とある。また同巻青蓮院殿の傑下に、 育蓮院殿現在 醤稽十業院 と。それに上って、現在育蓮院が所謂ト禦院?あることが知られるのである。勿論﹁現在﹂とは箆養常時のととを言 ふのであるが、爾後育蓮院は数回の回識に遭遇し地域の費革とそしてをれ、所在地に就いては途に何等の費更もなく 今日に及んでゐるのである。今文の失下を抽出すればとの閣の史賓をより明確に看取し得られるでるらう。即ち‘ 葺隼親王之御代、一二一保白河之本坊、依洪水股字蹴倒之閥、本隼以下悉以被移子十業院也。自爾以来、止十禦院之 稽説、話青蓮院御門跡‘則今現在之御本坊是也。 と、されば青蓮院とそ十業院の慮在地点であったのである。蕊に於て育蓮院たるもの L 沿革を記述するととによって

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引いては十襲院そのもの L 史 ・ 貨 を 一 一 暦 浮 彫 せ し め る と と を 知 る の で あ る 。 同 じ く ﹃ 門 葉 記 ﹄ ﹃ 華 頂 嬰 時 ﹄ に よ っ て . 補 院交渉をもつに奄るまでの概略を誌すととにしよう。 青蓮院とは‘第四十七代座主行玄帥が美繭門院の法勝寺止雨によりその御賞として久安六年︵一八一

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︶勝豪法印 に護られたるととるの、東塔南谷の本坊を以て同院の御祈願所とされ、背蓮院と稀するにいたったものである。 ﹃ 門 葉 詑 ﹄ ︵ 時 一 見 叡 持 帥 ロ 何 時 臼 に ︶ ﹃華頂要略﹄︵門主体第二には‘ 十 月 四 日 ︵ 久 安 六 年 時 ﹀ 中 略 叉 以 山 上 本 一 坊 、 篤 美 一 踊 門 院 御 願 ・ 蹴 背 蓮 院 ・ 被 −

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世 阿 閤 梨 五 日 一 日 獅 釧 蹴 ﹂ 町 一 一 跡 的 問 一 間 一 肪 ︵ 働 金 一

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︶ とれが青蓮院在るもの L 麓 鰯 で あ る 。 常所有小池 稿青蓮池耳々、院挽起自此験︿門葉記巻第百三十二寺、院二、匂

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と も 言 は れ て ゐ る 。 而 し て 仁 川 γ 二年ハ一八二一﹀には常院に於て、費快法親王︵烏澗皇子︶、行玄帥より擢頂を受け 治揺二年三八三八﹀北谷大敬坊より移住、第二世と訟られた。然るに第三世慈銀和尚慈固帥の建久五年︵一一八五 四︶九月二十三日に営院は同織に遭ったのである o ハ 華 頂 門 主 . 備 金

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二 十 二 、

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﹀師はとれが復興につとめられ、即 ち建層二年肘︵一八七二﹀十月南谷勝一地一加の跡に房舎を建立して、新背蓮院と梢し・案、十一月八日慈闘師はとれに移 捗之儀を行はれてゐる。爾後新背蓮院は南谷に重嬰左る房舎として存して行ったのであるが、幕府年中、青龍院二品 親王管舗の比堂舎顛倒し‘その後貞和二年ハ二

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六﹀にいたり伸帝国親王が十柴院の小御所を山上に引き移してそれ が修越にあてられたのである。﹃門業記﹄には、 東陽房応尊師と房舎に就ての考察 一 六 九

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東陽房忠尊師と房合に就ての考察 一 七

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去貞和二年十月、以十城市院小御所渡之、震山上末語、諸門跡本坊以下修浩事、依厳密勤中也

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此小御所有不古 事等、芳被波山上之僚、可宣之山諸人意見也、子時山上官守房法印致奉行畢。下時 と、以て営時共聞の泊息を覗知するに足るのである。 以上が傘国師の時代に至るまでの育蓮院山上本坊の沿革である。︵持続元凶背広明︶ 然らば洛陽架同車問蓮院なるものはと一言へば、とれは佐古所謂﹁山下御本坊﹂たるもの L 種選推移の中に侍承され今 日に来ったととろのものであって、とれに就きてまた次に考察を進めるととにする。 ﹃ 士 事 頂 要 略 谷 第 六 十 三 、 山 下 御 本 坊 ﹄ の 中 に 、 青蓮院、在愛宕郡栗田郷三保白川。 営 院 者 程 臼 蹴 松 坊 、 叉 蹴 = 一 保 白 川 坊 、 是 則 虫 円 蓮 院 殴 洛 陽 之 本 坊 也 、 俗 郁 粟 同 御 所 . 或 一 吉 東 山 御 所 。 右によって往古種々に呼揺されてゐたととを知る。而してその所在地に就ては﹁白河南詮﹂と誌されてゐる o ︵ 側 同 一 脈 判 的 ⋮ 内 抗 日 時 比 飢 一 叫 ん 阿 波 げ れ せ よ と の 白 一 州 市 ・ 警 な る 三 一 保 白 河 坊 の 草 創 は と 言 へ ば 、 第 四 十 三 代 店 主 た る 大 乗 坊 寛 陸 師によるものであって、師はまた同居に粟間口十締帥駐をも勧請されたととが﹃門葉記﹄に記載されてゐる。﹃華頂要 略六十三山下御本防﹄の下にも、 十 町 平 市 整 見 止 、 − 正 問 中 A ド 胴 ι 創引守 2 玉 ” リ 首壮者三傍白川坊鎮守也。都栗田口十開師官、大乗坊寛陸座主奉勧請也 c 是洛陽鎮守山王十時師之始

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。 とある。とれにより鎮守祉として十蹄帥を特に勧請したととが知られるのであって、師は保安三年︵一七八二﹀問月 二十三日に始めて十開師官に於て不断経をも始められたととが﹃店主記﹄には記されてゐるのである。尚ほその所在

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地に就いてはすでに震善が﹁営祉審地不詳﹂として二三ケ所を推理してはゐるが、﹁可有後勘也﹂と一言はれてゐる。 A 7 またとれが究明を目的としたいから略すとと L する。かくて寛慶師により草創されたととろの松房、即ち三僚白河房 は‘その後行玄師が停領するととろと危うて、仁平三年︵一八二ニ︶にいたり回織に遭った。よって鳥羽上皇の勅願 により大工事が蕗にす L められ、日たらやして復興されたのであるが

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門 主 停 第 一 ﹄ ︿

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九 | 十 ︶ にはそれに就きて 委細に記載されてゐる。﹁華麗珍奇難意書端、誠是天下勝事情中光幸市巴﹂とるる。 以てその結構の荘麗なりしを偲 ばれるのであるが、満月隼像を安じて甘露玉院と競した。とれが同坊の寝殿である。繭陀行法、例時機法、草創以来 査修無施、と諒されてゐる。王朝文化欄熟期の後をろけて甘露王院の華麗荘厳さもまた知るべきであらう。 此の三依白河坊も七宮畳快法親王を粧て第主世窓鎖和尚侍領の時、一見久二年︵一八六五︶後鳥羽院の仰によって ︵川一句碑主惜附︶三一傑坊の敷地に御願寺最勝四天王院を建立さる L にあたり、本坊は祇閤森東濯に一坊を建て L それ に移り、吉水坊と糾するにいたった。ハ門葉記︶此の吉水坊にはやがて蟻盛光堂、大機法院、鎮守新宮等と弐 K に聾を 並べらる L にいたり結構 L 買に荘厳を極めるに至ったが、竣成間もなくして建保四年︿一八七六︶一二月二十三日惜くも 回誌に遭ったのである。然るに即日とれが復興にとりか L って、問月二十七日には早くも蟻盛光堂の上棟、弐いで七 月十日には四足椋門の上椋、八月二十一日には蟻盛光本隼の錯器等と、その復興につくさる L 宜に大たるものがあっ た。然るに第四世良快大僧圧倖領にあたって、聞もたく再び耐融の侵すところとたり、︵承久二年︵一八八

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﹀四月十 九 日 ﹀ 吉 水 坊 は 悲 に 全 く 表 亡 に 師 し て し ま っ た の で あ る 。 ︵ 州 特 蜘 紘 一 細 目 白 山 押 印 剤 耐 一 雄 一 ザ 禁 附 一 計 崎 一 味 ︶ 一 方 三 保 白川なる最勝四天王院はと云ふに、開東調伏を祈りし魚天下の大飽と共に破壊されるととろ冒とたり、貞肱元年︵一八 八二﹀その跡敷地を一冗の如く青蓮院に返付されたのである。悲に於て第五世窓源僧正は嘉積三年ハ一八九七﹀九月窓 東陽房忠等師と房舎に就ての考察 七

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市本陽房忠等師と房舎に就ての考察 七 月輪借正惑源 鎮和尚十三岡忌に再び宮地に本坊を管むにいたった。︿門主惇

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、 六 二 .

a

﹀ ﹃ 門 葉 記 ﹄ に は ︵ 巻 一 一 一 一 問 、 寺 院 四 、

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コ 一 一 一 ニ ﹀ 蟻 盛 光 堂 機

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法 法 東 小 御 所 透 中 十五開封屋 十 間 封 屋 院 偉領之後、嘉積三年管作、 本皇后後続新御堂、外祖父西闘寺入選太相 関被移作之、遺作之助成也一

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執事隆承法印 堂 成源併正 性質法限 門 三浦笛熊丸良賢律師也 理 品 情 信 E 巴 上 出 世 間 芝 門 人 等 誼 進 −

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泰承法限 古老口寛也 右諸堂宇が各門人の浩進によって建立されたのであるが‘蟻議光堂は叉大成就院とも言はれ三保坊の寝殿であった。 ︵ 門 主 体

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六 三 . b ﹀韮に於て青蓮院洛陽の本坊は草創以来の替地に再びその殿堂を並べるにいたったのである。然る に第六世道魔法親王を経て.第七世は北山借正最守師と・なった。師は嘉誠二年︵一八八六︶十業院に於て仁監併直に 随ひ許可を受け‘延鹿元年八月︵一八九九︶には十禦院門跡を俸制︵門主体 P 九 二 、

a

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賓治元年︵一九

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七︶には 西塔院主に楠せられ、建長二年︵一九一

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﹀には十繊病院仁慶の坊務一切を謹られ‘而して同四年六月︵一九二一︶に は窓源借

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が子細あって一門簡居し領知を止められたにより‘替って青蓮院を管領するにいたったのである。︵門主体

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P 、 七 問 、 b 、 九 三 、

a

︶。仰って七月には三僚坊に移住したのであるが、顎年︵一九二一一︶十一月にはまた背蓮院門跡の 管 領 を 止 め ら れ 、 一 一 一 僚 坊 を 退 い て 再 び 十 察 院 に 師 位 し た の で あ る 。 ハ 門 主 侍 、

p

、 九 三 . a !九五 a ︶ 。 +引いで第八世隼助師の時に吉水坊舎は青蓮院門跡に付せられ、︵門主侍

P

、 九 七 b ︶ 文 永 五 年 ︵ 一 九 一 一 八 ︶ 十 二 月 に は梨本、青蓮院閉門跡淡牧等︵南寺恥蝶の潟︶の騒動があったが、慈開︵聞傘︶師を経て第十世は准=一宮道玄師とな った。師は始詳を最零と一言ひ十禦院を蹴し.最守併正入室受法濯頂の弟子であるが、建長元年︵一九

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九 ︶ 、 道 号 師 の 護によって育蓮院門跡並拍車敬等を受け

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門主偉

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、 八 九 、

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a

一 一 一 一 一 、 仕 ︶ 同 七 年 ︵ 一 九 一 五 ︶ 京 月 、 最 守 伶 正 の 譲 に よ り 十 興 ・ 院 門 跡 を 倖 領 し て

λ

門主侍

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、 二 三 一 、

a

﹀文永六年︵一九二九﹀には青蓮院門主と・なったのである。 而して師の後背龍院慈遺師に亙る迄の聞に、雨寺の関係に就きての記録は今のととろ何等見営らない、即ち交渉は少 たかったものと思はれるのである。十六世慈道師は道玄准后潟瓶の弟子であって、亀山院第十七皇子であるから、第 十五世良助親王の御弟にあたる方であるが‘永仁三年︵一九五五︶阿月勝蓮華.大乗二院の検校職に補せられ、延鹿 元年︵一九六八︶正月には愛宕坊より移って十期院に住し

λ

門主侍

p

. 二 ハ 五

a

、 b ︶ 正 和 コ 一 年 ︵ 一 九 七 四 ︶ 問 凡 に は 青蓮院門主となった。同八月には三僚坊にて宣命を受け、翌年︵一九七五︶大乗院にて印舗を受けて第百五代店主に つ い た 。 尚 ほ 翌 五 年 ︵ 一 九 七 六 ︶ 十 一 月 十 五 日 、 十 融 市 院 准 后 の 十 一 二 同 忌 を 大 成 就 院 ︵ 一 ニ 傍 白 川 坊 の 寝 殴 ︶ に て 執 行 ︵ 門 主体 P 、 二 ハ ム ハ 、 b ﹀されてゐる。師は常に十業院を本坊として住民にあて L ゐたととがその事睦によって知られるの で あ る 。 斯くて第十七世傘固親王の時に五り、白川は大洪水の災を惹組し‘震に三保白川坊は顛倒し、蟻山政光以下の本隼等 は悉く十察院に移されたのであった。然るにとの年月に就きて文献には何等記載されたものを見ない。従って不詳で 市 本 防 房 出 山 苓 飾 品 ﹂ 房 舎 に 就 て の 考 察 一 七 三

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東防局貯忠等師と房合に就ての考察 一 七 問 あるが、貞和三年︵ご

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七︶三月十六日、院の御願によって理異御析の需め本幼十城市院に於て犬蟻盛売法を修した と言ふ記事がある。伯て少くともこ

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七年迄には移捗されてゐたものであるととが知られるのである。然らぱ如何 在る堂合が隼周師によって移捗されたであらうか、悲に於て営時の情況を最も信頼して覗ふととの出来るのは言ふま いま﹃門葉記﹄︵第九十巻勤行一︶のもとに記載されてゐるととろの諸 でもなく牢固師手記たる﹃門葉詑﹄である。 堂宇に就きて抄出すれば左の如くである。 蟻 町4己 .lllL 光 大 機 法 受 用 踊 陀 院 影 御 粟阿口十繭帥吐 ー ト

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本 ρ,,_ .!f,. 披大成就院 始 在 士 口 水 小移三篠白河坊 今移十祭院 本 名 廿 回 路 王 院 初 在 三 位 陣 白 河 坊 今移十祭院 椎野二口回線尼建立 初在西郡椎野 中移土御門坊 今布十祭院 育 館 院 二 口 川 親 王 国 民 影 安 澄 之 在 十 融 市 院 三保坊領守也 ρ,,_ ニ宅と 堂 吐 十 融 市 院 混 守 在官坊廊内 各堂合のもとには夫々略歴が諒されてゐると共に、共底に於て行はれるととろの長目、毎月、毎年の各勤事が一々 坊 記載されてゐるのである。市して此等の堂宇がすべて﹁白河本坊﹂の名の下に記されて居り、しかも﹁今移十業院﹂

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と割註されてゐるにみて、夫等の諸坊の移捗は、とれが記録された観臨二年︵二

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一一︶を去ること徐り遠くはない と推定するのでるる。而して右は主要堂宇のみの記録であって、此他にも附属的建物の存したであらうととが想像さ れ る 。 尚 ほ ﹃ 門 葉 詑 ﹄ ︵ 巻 第 百 三 十 一 、 寺 院 、 一 ︶ の も と に は 多 く の 房 合 の 菜 園 と 共 に 、 青 蓮 院 、 十 噌 一 ︿ ・ 院 の も の も 記 載 さ れてゐるが、夫等 h w 雨院各別であるところよりみて、洪水以前の固と推定されるのである。また﹃華・頂要略第三巻﹄ にも同闘の締載されてゐるのを見る。 前掲諸堂宇の記事に於ける割註によって看取される如く‘夫等のうち受用蹴陀院.御影堂、十蹄帥壮、本坊の四椋 を除くの外は、すべて傘同仰によって移捗された堂宇であるととが知られるのであって‘悲に於て青蓮院洛陽本訪た る三保白河坊が、十喚院裡に移柑窓口関されるに至ったその問の史宜を明確に把握するととが出来るのである。等間師 以後の門主侍に於ても再びコニ依白河坊﹂に闘する記事の見向し得ぬととは、亦とれが傍詮と在るであらう。 斯くて白河坊の移捗された後の十期院は間後百三十鈴年の歳月、その結構征肢のうちに青蓮院門跡として、歴代の 住房と・なり模勢を持慣してゐたが、脂仁二年︵一二二八︶八月四日に至って︵際仁記には元年︶細川、山名等の飢戦 の話、たちまち兵火の侵すととろとなって‘諸堂宇茨蟻に蹄してしまった。︵門主偉 PJ ニ

O

問 、

a

︶また川門跡の疲弊 天下の大飽と共に大左るものがあったのである G 文明十四年︵一二問一一︶十二月には新法栗田口門跡に於て濯頂を授 けられた記事あり、同十ベ年︵一二間二︶ には後士御門帝第二息子が十禦院坊に入室された事陸︵門主体

PJ

コ 一 一 一 一 ︶ 等よりみて、営時漸く民合の復興されつ L あったととが推測されるが、織盛光堂はその後一花和年間仮建築され、一冗誠 十年︵一ご二五七︶十二月に至って漸く入伸供養された。繭して後、漸々に諸堂宇の建遣もされ害翻に復しつつあった が‘その問また知思院に地域の介護も行はれて来た。然るに明治二十六年九月再び耐融のをかすととろとなって本堂 東陽房巾 ω 尋師と房舎に就ての考察 一 七 五

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来陽房忠尋仰と房舎に就ての考察 一 七 六 以下大牛焼失するにいたったのである。伺って夫れが復興には清水竹林院の堂宇を以て本堂とし・播磨伽耶院を移し て小御所を詰り、寝殿、釘所等の再建が行はれて漸く今日に至ってゐる。今の粟岡青蓮院が即ち夫れである。 上来長き序速のもとに、青蓮院房舎に封する史的考察を・なした。その結果、現今の栗田青蓮院門跡なるものとそ‘ 住吉十業院の存せし所であって、忠尊師草創の枇跡・なることを誌に明確に断定し得るのである。されば﹃門葉詑﹄に 於ける﹁在大谷 L なる記事も﹃忠尊年譜﹄に於げる﹁今栗田宮本坊也﹂の記事も、共に確賞・なる史’置を物語るものと して認められ、後者は前者の記事に封して、より明細に地点の指示をまでなすものと言ふべきである。たほ﹃店主記﹄ に於ける﹁問塔十喚院組﹂なる記事は、珪に於て一往否定さるぺきであるが、然し再考すれば、山上東陽房はその法 流下るに従って何時しか山下十禁院に根操を移動し、十壊院の枕は山上本坊に迄及んでゐたであらうととも蕊に推測 されるのであって、従って右﹃出主記﹄の如き記事が・なされたとも考へるのである。とまれ現今の粟出背蓮院とそ忠 等 師 草 創 の 十 抽 出 川 院 の 遺 跡 で あ る と と に 結 論 さ れ る の で あ み 。

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、十禦院の草創とその堂舎

さて然らば十黙院の発、昨に就きて考察を向けるととにしよう。前掲諸文献に於て、十端正院たるものは東陽加忠尊師 の草創になる事を記せろ期、等しく一致するととるであって‘山山尊師とそ十時栄院祖師であったととに於いては最早や 何等の疑黙をも輿へられない。然らぱ十業院組帥たる忠尊師は何時その民合を草創されたか、十繋院建設年弐の考設 を裁に先づ試みねばなら左い。 門 葉 記 ︵ 第 百 コ 一 十 四 巻 、 寺 院 四 、 P 三 一 五 ︶ に は 、

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此民有二問所、是東陽店主之時、車内蓮院大僧正被寄宿之島 T 問所也.件所臨傍柱有大瑠.赴聖救納物封紙切之跡也 云 O 々 とある。とれは慈道師が准后道玄削の知見を物語られしを‘崎県国師が記述されたものである。とれによって見るに・ 十繋院見合の中には二問所と司一口ふものがあり、その二問所友るものは、行玄耐が山山尊師のもとに寄宿皐問せられてゐ た時のものであったととを知るのである。然るに行玄師は承徳元年の誕生にして‘十六歳天永三年︵一七七二︶十二 月二十八日、座主仁豪師和上のもとに出家受戒されてをり、永久間年︵一七七六︶九月には二僚堂に於いて三味良耐 阿閤梨に随び瀧頂を受け、元永元年︵一七七八︶には既に三昧院検校、慈 J 徳寺別営職に補せられてゐるのである。さ れば忠等仰のもとに寄宿受法されたとすれば一七七二|一七七八年の共の問、殊に良耐師より瀧頂を受くるの以前と 推定されるのである。門主体には﹁帥主大乗坊寛慶大僧正、良耐阿闇梨濯頂挽子‘忠等勝豪等受法弟子﹂となって居 り、忠尊師より受法されしととは他の諸記録と共に肯肯し得られる史宜なりとする。されば十城市院なるものは、 Fじ 七 二

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一七七八年には存布せるとム﹂陪賓なりと推定され来るので

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る。根本資料に何等の記録を件られぬ以上、との 推定を以て十禦院の殻昨年代としてゐた。然るに後日﹃要時﹄の通覚を得るに至って誌にその建設年代に閲する記事 を見川したのである。即ち一安略五十七各﹁架同名所宮蹟考上﹂のもとに・ す4 禦 永久年中東陽幼店主山山苓草創在東山大谷 とある。伺って推定年時とほど一一致せしを悦びし弐第であるが、永久年中とは一七七三︵七月改元︶

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一 七 七 七 ︵ 顎 月 問月改元︶の五年間である。時に応尊師世帯間十九歳

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五十凶歳。果して此の五ヶ年間の何時の日に創建されたかに 東陽同町山山尋附と房合に就ての考察 一 七 七

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東防房山山山尋師と房舎に就ての考察 一 七 八 就きでは、向ほ他に根本資料の出ぬかぎり推測し仲ぺく私ない。編者矯善の記辿はまたその典擦を明示してゐない。 的って今は推考年代と潟普の記事とに依り、永久年間忠等師五十歳前後の草創とするのである。忠尊師四十五歳天仁 二年︵一七六九︶には、始めて士口砕院講師となり‘また五十五歳の元永二年︵一七七六︶には永清師に替って法性寺 探題となってゐる o ︵忠帯年譜︶その中聞に於て、十場院の建設在進められてゐたものと推測するのである。 然らぽ次に忠等師草創の十興院とは如何・なるものであったか‘是れに就きて同じく﹃門葉記﹄の記事を見るに、 十時帥宮 塔婆一基 本 堂 右の三字が即ち記録されてゐるととろの建詰物である。︵伽一一州出叫哨一認滞納恥一ロ⋮ MKMMA ︶ いま各堂宇につきて そ の 託 銀 を 見 る に ‘ ﹁ 本 堂 ﹂ に闘しでは諸支献とも詳細なる記事は報ぜられてゐ守、 その建築様式構造等も税ふことは 川来得ない 3 ﹃ 門 葉 記 ﹄ に は ‘ 木堂、丈六阿輔陀安之 と の み あ り ‘ ﹃ 要 時 六 十 三 巻 ﹄ に も 、 十禦院本堂 東陽房座主忠等建立安置丈六阿繭陀悌北山惰正管領之時建長年中同職位十時師吐救塔婆遁災。青龍院宮管領之 時被再魚美談♂。 ム︶記されてゐるのみである。然るに丈六の阿繍陀怖を本隼として安躍されてゐたことは、これによっても知られるの

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であって、忠尊研究の上に有力在る費料を興へられてゐると言ふバきである。 ・択に﹁塔婆一基﹂に就きでは﹃門葉記﹄に最も詳細に記述されてゐる。指向すれば‘ 其西建造立一基塔婆‘安置樺迦多賓二隼又金輪、北斗七星‘愛染王等間安之、塔同柱聾諸骨骨形像、又四壁霊法花 ご十八品、諸相上書閉経文等、経文章闘同筆也、以披文星丹育事是共始也、筆者殆化人殿−

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此 地 構 大 池 : ・ 下 略 ﹁其西謹﹂とは十開師宮の西謹である。其鹿に一基の帯婆が建立されてゐた。右の記事には如何たる種類の塔左りしか ど明記されては居たいが、樺迦多賓二僻を安置せるより考へて多賓塔ずるったと推定するのである。所謂それは日本 中古天台敬撃の中心的主題たる多賀塔である。其の大きさの不明であるととはまた遺憶とするも、内部構遣の模様に 就きて詳記されてゐるに依り、忠尊師思想の全面的傾向が悲に容易に把握される好回の費料であると一言ひ得るのであ らろ。即ち塔内は、韓迦多賓二伸の並坐を中心に、金幹、北斗七星、愛染玉等が安置されて居り、塔の四本の住には 諸曾の形像を重かれ、内部の四壁には法華廿八品を緯霊化され、其の上部に同経交を揮毒したのである。 ﹁ 以 妙 文 星 育事是其始也﹂と言はれてゐる所よりすれば、法華経を締霊化し園祭化したのは賓にとの忠尊師建立の多賓塔に創ま るものと思はれるのである。美術史上また重要たる研究資料と言はねばたらたい。兎まれ右塔婆内の安置諸隼諸僻並 びに証巌様式に閲しては‘忠尊敬事研究の上に重要たる資料と在るものであるととを蕊に一言特記する弐第である。 右の塔婆の東謹に即ち十蹄師宮怠るものが勧請されてゐた。﹃門葉詑﹄十嘆院︵

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一 一 一 一 四 ﹀ の も と に は 委 細 に 記 越 さ れではゐたいが、同巻九十勤行一のもとには、

とあり弐下に長目、毎月、毎年各勤事が記入されて居り・要略式十三港育蓮院の下には、 東陽房忠尊師&房舎に就ての考察 一 七 九

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東脇田町息詰噌削と房合に就ての考察 一 八 O 目市

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在 十 雌 病 院 略 鎮 守 十 官 官 −

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裟之束 東陽坊座主忠等勧請 とあり同じく﹃門葉記﹄記載各勤事がのせられてゐるのである。向ほ同容十禦院のもとには、 ト 事 −

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上 今 翻 然 也 ﹂ l z 市匹量殺小御所之東号、西向 ’とある。此に依って話普営時共の存柱の顕然たるを知るのでるるが、現今向ほ

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つ往古よりの古歴史の裡に、位置の 回世勤も興へられや鐙座するのである。勿論今の小洞は極︿新しきものであり、作りしが如き結構の片影だに見られぬ のでるるが、位置と共の環境とより受くる所のものとそ、十地棋院考察に現今時閲された唯一のものである。現十代、小御 問、蟻盛光堂の束、泉水の石橋を渡って登るとと敷歩、樹林雑草の茂げれる小に共の小洞が存るのである。 一 幕 の 塔 簡︵徳川末期のもの︶には﹁士口日一位﹂の銘が刻まれて居り、小耐の裡には御礼桜のものが奉安されてゐるのみである。 然 る に 需 韮 口 の 記 に は 、 今 御 肺 品 府 、 情 形 木 浩 御 出 向 像 、 按 自 佐 古 在 所 不 時 現 者 、 資 堂 世 而 巴 。 と即ち需普営時には僧形木趨の積像が御紳鉢として安置されてゐた。また此のみは往古より不同盟のものであるとの得 普の考詮が記されてゐるのである。なほ﹃要略﹄五十七容には、 諸紳詑一耳目士口十締師東陽坊店主忠尊令勧誘、又一古青蓮院鎮守十蹄師椛現吐、永久東陽忠等動請

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。 と ﹃ 諸 一 柳 詑 ﹄ な る も の L 設を引用し立詮してゐる。十開師祉は此に依って東陽房忠尊師の勧請に・なるものであり‘永 久年間十禦院草創の刷より鎖座してゐたととが知られるのである。 お各房枇が記録に碕された所の忠尊師草創十興・院諸建築物であって、﹁此地構大池﹂とあるから既に泉水のあったこ

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、とも看取される。然し現今に見る青蓮院の庭聞は、名匠相阿捕、建州、有饗等の珪閣にたると偉へられてゐるから、 勿論後世襲話されたであらうととは想像するに難くたく、共の位置配置に於ても従って費更のあるととは明らかであ A L り ζ

ノ 。

斯の如く持婆中心の配置のもとに、此の十繋院は建立されてゐるのであって、東方華頂山の麓小高き鹿に間向して 銀守十蹄師宮が勧請され、共の西下に塔ハ法華多賓塔﹀が築かれ、夫れに隣って西に本堂︵阿繭陀帥安置︶が在うた のである。此等主要三建築物は取りも直さやとれ中古天台思想を反影して飴りたく、忠尊敬撃の具象化されしものと して、前段また共の配置の上にも、極めて重要性あるを看取したければたら左い。然るに、 於 百 万 合 者 、 非 大 慶 之 棒 、 頗 狭 少 − J と言はれてゐるととろより見れば、夫等諸建物は所謂大度高棲のものではたく、狭少であったととを知る。藤原時代 の文化の豪華荘厳、規模の雄大在るに比して、夫れはまたつ L ましきものであったととも察せられる。然し塔婆内部 の様式にみて決して簡素ではな︿、殊にその問帥慨は妙文の闘様を彩管に載せたとの一事を以うてしでも、如何に共の 苅轍たるものであったかど推考するに難くたい。されば、 題 一 翻 意 仙 寺 関 白 筆 也 肝 一 昨 と門葉記には記されてゐる。法性寺闘白とは忠遁のととである。即ち忠遁揮官宅の題棋がか t A げ ら れ て ゐ た 。 品 等 闘 師 省 時・なほ現在してゐたととを知るのであるが、忠油の闘白は保安二年︵一七八一︶一二月であり、法性寺を創建されたの は二十年後の久安問年であるからベ法性寺関白﹂は後世の敬稀である。とまれ藤原忠通の懸額のあったととは史賓と して首肯するに足る。此に依つでも営時機勢にありし藤原氏一門との交渉を察知され‘殊に忠過との親交は引いては 東陽日町忠等師と田町舎に就ての考察 F、、

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東陽房忠尊師と房舎に就ての考察 /¥ 十繋院並びに東陽房建立に於ける外護者的関係にまで、推測されて然るべきでは・なからうか。此に就きでは後また詳 速するととろがあらろ。 斯くて忠導師に依り草創された十噴院は所謂城東の甲地たる景勝の地を市め、東極の鎮守冒とされてゐたのである。 時恰も山上の師蹟東陽民は、然るに荒陵の偉に歳月を経てゐた。され

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師蹟停領の忠等師はまた夫れが復興をも卒爾 にする舎がない。還に夫れより十年齢の後には東陽一長の再建が常されたのであった。されば十繋院は山上東陽一加洛陽 に於ける本坊となったと岡山はれるのである。忠尊師の活動期に於ける居住の大部分は、此の十噴院を以て営てられて ゐたであらうととをも蕊に推考するのである。 上来十繋院諸堂宇に就きての草創期に射する考詩をした。而らぱ繭後如何たる蜜濯が共の上に見られるであらうか 今の研究主題に釘しでは直接的必要を認めねが、共の消長史は引いて其の門流を物詰るから、概略をのみ記すとと L ずる c 異に東陽房の史的考察に於て論及したが、忠尊師はその明年︵長承三年七九四﹀﹃譲興東陽民事﹄の譲献に見るが如 ︿、入室上臓の弟子たる顕尊師にその師跡を譲興したのであった。顕尊師また入室の法資たる良顕師に相承したとと は﹃久安官牒﹄に依り知られるととろである。良頴師即ち闘仙僧都は忠雲師に、忠雲師より仁慶師へと,次第相承され て行ったのである。然るに﹃要略﹄五十七傘に、 土日記云、安元二年六月三十日、十業院新御堂上棟、院司兵部郷主典代指職参向、得倫相左府平時信公窓口提、建春門 院 被 皆 之 。 左記されてゐる。右の記事によれば忠尊師減後三十九年、安元二年︵一八三六﹀六月末日十融市院に新御堂・なるものが

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上棟されてゐるのである。とれは建赤門院即ち千滋子がその父君兵部少輔平時信の菩提の篤に浩進されたものである 然るに如何なる建物であったかは詳にされてゐたい。平滋子は仁安二年︵一八二七︶正月後白河上皇の女御となり、 明往年には高倉帝の即位に依り︵帝の御母である︶皇太后となられ、嘉臆元年︵一八二九︶四月には建春門院と枕した のである。同門院の母堂は民部郷附耕輔の女であるから︵群書類六十五女院小倖︶閤仙伶都即ち良顕師ば門院の伯父に 営るととを知る o 向ほ﹃要時六十三巻﹄には、 兵範詑一五仁安三年六月廿九日紅今日高倉主上岨父有贈官位事中略 界之地、有縁積獄、依存生之時、依連理之契御山叩二所也.下略 而彼墓所東山間保末、十叫衆院故顕等法眼結 とるるから、高倉帝即位されて後三月、その岨父たる時信に官位を駒られた消息もわかり、また時信の墓所は、かっ て生前親交のあった顕草帥︵忠尊師の法資︶の結界の地であった東山間保未に、共に葬られたことも知るのである。 そ の 時 信 の 菩 提 の 話 ︵ ト 訓 郡 町 一 川 ⋮ 俊 一

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詳 ⋮ 昨 静 脈 一 出 川 町 一 官 仲 間 団 一 側 一 号 川 一

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吠一詰信︶に新御堂が建立されたのでる った。斯くて顕門の外護は、歴代の併轄家系に由つでも明かに知られる如く、甚困ゆであったととか︸推考するに難くな い c 共後最守師に至るまでの問、凡そ九十年、十禦院房合に閥ずるの記事を何等見出すに至らない o 然 る に ﹃ 門 葉 記 ﹄ p: 此 房 北 山 崎 同 正 管 領 ・

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時間藤幹刷、但十蹄師枇並塔婆遁

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と記述されて腐る。北山僧正とは一言ふまでもたく最守師である。松殿闘白基房公十三男であり、さきに青蓮院考のも 去に於て略記した如く、師はその第七世の門主たりし人である。との最守師管領の時に営って連綿相承されて来た十 期院は‘耐融のゐかすところとなった。然るに門主体第七に於ては十鶏院の災に閲するの史宜が記我されてゐない。 東防房忠尋仰と房舎に就ての考察 !¥.

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東陽同町忠尊師と房合に就ての考察 一 八 四 ﹃門葉記﹄また年紀未詐としてゐる。師は延躍元年︵一八九九﹀八月、等性親王︵異本仁山医師︶より十楽院門跡を俸制 建長二年︵一九一

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︶正月、十融市院仁慶一師之坊務一切を議られ、向ほ同四年︵一九一二︶には青蓮院門跡を管領して 七月、コ一保坊に移住した。而して同六年︵一九一間︶八月には三後坊に於で始めて如法粧を行はれたのであるが十一 月、七仰薬師法の燈明裏に就て山徒の訴あり、ついに育蓮院門跡の管領を止められ、傘助親王に譲り.ご一保窃 h q 退 い て十期院に蹄住したのである。管慌の時間誌とあるから一九一一 J |一九一間年の二ヶ年の何円かであらふ。即ち三保 坊に居住した室リ中の災である b ︵ 伽 明 日 酔 一 口 ∼ れ 恥 同 一 持 一 筏 ︶ 而 し て 管 舗 を 止 め ら れ た 後 、 一 件 、 び 十 務 院 に 蹄 住 し て ゐ るととろよりみて、それは全房舎の焼失ではなく‘殊に十開師枇及び塔婆は災を遁

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得たのであった。明けて覗年正 月‘師は道玄法印に十嘆院を譲って、自らは北山坊に湾住したのである。道玄師は地日光閏院閥白良寛会の息、母は従 一一位藤原原子であって、中納言藤原行郷の女であり、出家して推野蹄尼と指した。道玄帥は故守師より師跡の偉領は したが回議に遭った十業院は絡に復興され・子、 一明愛宕訪に仮住してゐたことが記録されてゐる。而し師蹟復興に封 する師の努力は屡ヒ認められるところであって、即ち弘長二年︵一九二一一︶十月皇后古御産仰祈りの話、如法北斗法 を修し、その勧賞として忍年正月︵一九二三︶四塔大乗院︵東陽房︶に阿閤梨三けを寄世され、文永七年︵一九三

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︶ 五月には鞍馬寺費塔に阿闇梨二日を巾置かれ、建治元年三九三五︶九月には m 品 目 岡 降 伏 御 前 の 貨 と し て 十 桃 山 院 に 阿 閤 梨 二 口 を 寄 置 さ れ て ゐ る の で あ る 。 ︵ 削 船 比 一 川 崎 均 一 弘 ⋮ 日 ⋮ 日 ︶ 斯 の 如 く 師 自 身 屡 ヒ 御 祈 酵 を 修 し そ の 苧 と し て 、 師 蹟 に 阿閤梨を世かれる等夫れが復興に努めたが、師の母堂推対絹地また寛元の頃より宿願あって、問効推野に建長年中、 一堂を建立した。受用調陀院が即ち夫れである。 美待嘱、官一万之比柳有宿閥、建長之勝治管一堂、共地点捷霞観刷業‘題傾蹴受刑捕陀院、川案誼者無責議如来三

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等、伸之一前身後菩提、所潤師者不動愛染五二重、崇之忠天下諦説。 浮願とは即ち締尼の法名である。蝿陀三隼を安置して後生善所を祈り、脇士不動愛染の二翠を請じて天下静誰を閥ふ た。向ほ一子道玄師の病質、また吾にありとて共の平癒を祈念しての建立であった。而して正熔三年︵一九五

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︶ 凶 月には格いに太政官牒が下され、公家御祈願所となり、また道玄削門弟次第相承すると言ふとと L な っ た の で あ る 。 のち減車伶

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在洛の時に・同院は土御門坊に移され、向ほ式部珊久明親王倖舗の後、二口叩親王慈道師とれを十融市院に 移して再建するに至ったのである。 慈道師とはさきに青蓮院考のもとに於て略記した如く、良助親王と共に亀山院の皇子である。喧玄准后より師跡た る勝蓮華、大乗二院︵東陽房︶の検校職に補せられてから約十年の後、延度元年正月ついに十噴院の復興なり、愛宕 坊より移捗されたのである。とれ最守師管領之時回路に遭ってより五十年飴の歳月を経て︵門主倖二ハ五島︶蕊に再 ぴ忠尊師草創以来の十融市院が城東之甲地を占めること L な っ た の で あ る 。 此後遅々造加連軒並聾‘格成大度之構。 と﹃門葉記﹄には記されてゐる。以って次第に民合の如何に直にたりつ L あ っ た か を 知 る も の で あ る 。 ︵ 間 丸 山 ⋮ 一 切 ⋮ 剛 一 ぷ 叫 ん 判 一 ぷ

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一 れ 叫 ん れ ん 初 岡 山 崎 川 甘 酢 一 い ︶ と の 新 復 興 の 十 噌 院 を 本 坊 と し て 師 は 常 に 誌 に 住 し て ゐ た と と が 偉 記 を 通 して知られるが、絡に同房に於て菟じたのであった。 慈道師より譲興を受けた傘同師は‘伏見帝の第五皇子であって、慈深伶疋入室、桓守崎川王慌頂拍子、慈道師より受 法許可の法弟であった。師に至りて十禦院史の上に大なる援勤を粛らされたととは、既に背蓮院考のものに於て詳述 したととろである。三僚白河坊の顕倒以来、夫等諸堂宇の十紫院移捗、吉水新宮同誌の話、山王御一肺殊の十蹄師一位卒 東陽一服忠諌附と房舎に就での考祭 一 八 五

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東陽房忠尋師と一砂舎に就ての考察 一 八 六 渡等‘殊に雨院合併がなされた結果、必然草創以来の十禦院原形なるものにも不砂壁勤の加へられたととは容易に察 知されるのである。されど華頂山麓・水明の一角、連 k の蔓は京捨の内外に如何ばかり蹄きを輿へたであらう。青蓮 院山下本坊の十業院移捗が行はれた後の直行見るべきもの L あったととは今夏棲越するまでもない。諸堂宇に於ける 各勤事肢に行はれ M 糸代法親王の師跡檎承多く、皇室公家の蹄信また厚きを知ると共に、常代曲学匠名士の往来また報ぜ られてゐるととろの如くである。然るに夫れは、祖師忠尊師草創の十禦院としての盛観で− b っ た で あ ら う か 。 抑も十禁院と青蓮院の閥係は、既に平くも忠革、行玄雨削の首初に琵せられてゐたと見るべきである。行玄師が、 修接交法の矯忠導師の膝下に寄宿されたととは既越の如くであった。扇師は共にまた密門を等しく三味良一時師に受け その法流を潤ほしてゐるにも注目されねばならない。然るに一一は問塔に一は東塔に、 一は三保白河に一は大谷に、山 上山下共にその本坊を別立して、法資また夫々師跡の流れか一

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けたのであった。期くて前者は顕革、同仙帥を経て七 代故守師へ、後者また号快、慈固師を経て七世北山併記へと‘共同凡そ一百年雨者の閥係滑なるものを見なかった。 されど最守師に至って師は始め.等性親王の室に入り十無院仁鹿僧正に随って許可を受け、十一期院門跡彰一体嗣 o な ほ その後、揖莞親王の室に入って許可を受け、また育蓮院門跡を管領するに至り、雨流の混活設に始められたのである。 居住また雨房の聞にわたって居た。師に次いでその法資准店道玄師.雨門跡を侍領して‘前者に於ては八代、後者に ついては十世を櫨ぎ‘師に次いでその潟瓶の法弟育詰二口問親王惑道師、また雨院の主と・なり、殊に十掛川院の復興移捗 勝蓮一恭、大一来雨院の検校を務める等、師跡盛行への努力大なるものを認められるのである。 斯くて終接なる開係を結ばれ・米った両者の問も、骨尋問親王に至って全く合一されるに至った。帥は十期院に於ては 第十代に相営し、青蓮院にあっては十七世の門主であった。三位陣白河坊の蹴倒は物的合一への基因を・なして、雨房聾

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を交へて並べるに至ったのである。 白 日 疋 以 降 不 被 都 十 繋 院 、 自 然 魚 青 蓮 院 御 門 跡 。 ︵ 要 略 六 十 三 宅 ︶ と言はれてゐる如く、悲に全く十壊院はその忠尊師草創の師跡より院して、行玄師末流へと姿を設するにいたったの であった c その後臆仁の兵火はついに坊令悉くを茨障に陣せしめ、建長年中の阿蘇にも災を菟れ得光晴婆.十締師宮 も.忠草帥創建以来凡そ三百齢年の星霜を閲して、法服の毘史を物語りつ t A 東極の甲地に翠へてゐたのであったが、 誌に全く喪失されるに至ったのである。東陽

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流 の 存 在 ま た 何 底 に か あ ら う 。 上・来十襲院青蓮院雨者の史的交渉に重点を置いて、十興・院の消長を考察した。而らば東陽長とは如何なる開係にあ ったでるらろか、誌に再び歴史を想起する必要がある。然るに此の問題に闘しての史的資料は、その根本的なるもの は殆んど時されてはゐない。防って﹃門葉詑﹄、﹃華頂要略﹄等に僅かに記録されたものに依るの外はなく、今は単に覗 知し得る範聞にのみとどめてその概要を摘記するととにする。 言ふ起も左く東陽房は山上に於ける忠尊師の本坊であった。費慶師草創以来入室上腐の法資によって相承され来つ たととろのものである。忠尊師は然らば何の人よりで跡の惇領を受けたであらう c 師主莞尊師は既に帥の十七才に減 をとってゐる。その後四代の検校を経て忠尊師の糟承するととろと・なった o されど共の間代の何人なりしか

4

門 葉 詑 ﹄ 諸流血脈は既でに不詳として報ぜられてゐたい。夫れに就てはまた他日を期して究明するととにするが、師は大治年 問師跡東陽房の復興を建成された。夫れに先達って洛東に十興院の建設をなしたのである。永久年間以来師の佐房は 山下本坊たる十繋院に居して、山上東陽房の復興につとめたとと L 思われる。東陽長即ち勝蓮華、大乗院はその始め 関 融 、 一一保両院の御願により‘費箆師の奏請によって草創されたものであり、また師の起請により閉院の検校職をも 東陽房忠尋師と房舎に就ての考察 一 八 七

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東 防 房 息 苦 守 的 ’ p −房舎に就ての考察 一八八 住ぜられるととになり、間帯北谷の雨院を以って木坊とされ来ったのであろ。 師また終震を同房にされてゐる。然るに忠尊師の帥主血児導師は後三僚院の御聞により金剛寄院を草創︵承保コ一年六月﹀ ︵情綱輔佐︶した。その顎年東陽房はあへなくも同時にあったのである。忠君附は師跡の復興に止へ立って本坊を洛東に 建てたが、東陽房は拾に山上、山下に法流の本坊を有するにいたったのである。顕尊師は東陽房の師跡を譲興された と同時に十熟院も亦檎承するととろと在った。岡仙、市山雲、仁陸師と,次第相承して東陽十黙院の師跡は相簡檎承され て行ったのである。然るに恰も青蓮院に於けるが如く、との東陽房にて於も何時しか山上本坊より山下の十期院へと 中心の移動を来したのであった。とれは常時叡山悌散の共通的現象とも見られるととろであって敬界の貴族化は山上 より山下へと穂てに移動を要求し・また一一間山林悌敬は平地へ、民衆への接簡を求めて勤き来ったととも看過され得 ない。斯る勤きの結果として‘山上の本坊は自然等閑となるざるを得・ない。忠尊師すでに十禁院を住房とされた。強 寺師また東山同僚設に結界を設けたとの記録がある。のち諮玄帥師跡の古行につとめられ阿闇梨を寄註される等大い 花見るととろあったが、自らは京洛に位して山上東陽民との往還等の記事見出し難く、慈道師また勝蓮華、大乗二院 の検校職に楠せられては居るが、多く十繋院に居住してゐたもの L 如くであった‘格ひに隼闘師に五つては康永三年 門主停の僚下に、 同月︵二月︶以一池坊法印、需菅蓮院御羽田守職。奉行法印玄快。同日以陣式照坊阿闇梨得東陽房御 m m 守職。奉行法 眼泰源 n とて山上雨房の四阿守職を定められてゐる。なほ貞和四年には. 五月三目、以壁服房被成東陽御留守職。東陽房御皆守事可被存知者依青蓮院三口問親王御気色執蓮如件

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貞和問年五月三日 饗照房阿閤梨御房 法

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泰 深 と の A P U 日 を 以 っ て 東 川 晴 男 は 公 け に 別 問 守 職 を 決 定 さ れ る に 至 っ た の で あ る 。 ︵ 門 主 体

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一九三二九八﹀斯くて山上本坊 は 砂 地 k 審として疎まれて行ったと見らる Lo 法流多く東陽房を蹴せや、また東陽房に居住せ守、京洛の地に、而かも 建ひには青蓮院へと合流して行ったととを忘れてはなら・ない。

曾って Z H が遊びし沼もを原も今日来て見れ ば家建ちつくせ P ︵ 故 郷 一 一 テ ︶ 庭︿重の草ほうずきの朱き貨に生れしばか りの蝉ゐるが見ゆ 勝一つ来て鳴きをれ P 蒸し暑きま議の庭の 百日紅の花 葬式の今し闘で行くさ庭べの日開⋮ p に赤し 鳳仙花のはな 荒波はしぶきあげをり海岸の納涼映禽は漣 みつ誌を P 暴風雨の勢報ありて雨扱き今管の町は早︿ 灯も抑制ゆハ暴風雨︶ 東陽房忠一帯削と房舎に就ての考察 ︵ 大 崎 製 報 八 七 競 参 照 ﹀

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道 内角,頃...,.,.唖酌,−頃h,、 裕妻の鋭︿光り八ワ手葉の下にうごける大 きがま見ゆ 風水害殺人間取液たえね世に天候は未だ定ま らぬなり 食ひ残しの林檎の蕊のき P ぎりす朝来て見 ればひげふリてをり 吹きあがる朝霧の奥に山見えて鳴く山鳩の 産しき P なる︵早恭二句︶ すがれたる桑畑中にね ζ じ宇らしは苧芽ぷ ︿見ゆ春立てるらし ii.. 1L

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