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『新生』から『夜明け前』へ(6)

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De "Shinsei'' a "Yoakemae"

―sur les oeuvres de SHIMAZAKI Touson―

Ⅵ- 1-(1) 昭和四年新年特別号 とされた 「中央公論」に島 崎藤村の文章

F夜 明け前 』を出すについて」が 掲載 された。同誌での発表予告である。 「私は今ある試みを思ひ立ってゐる。 しば らく 私 も長い物語を書 く牧舎がな くて過 ごしたが、 昨年本誌に短篇 F分配 』を寄せた後あた りか ら またその心が動いて来たので、今度新 たに F夜 明け前 』の稿を起 し、成 るに随 って本誌に寄せ ることに した。 この作 は相席の長 さに も達 しようと思ふか ら、 これを連載 して行 くには左の方法に よ りたい。 一 月、四月、七月、十 月に互 って掲載 して行 くこと。 第一回は来 る四月荻 よ りのこと

。」

(註 1) この予告 どお り藤村は、 この年 の 「中央公論」 四月号か ら年四回掲載 し、昭和七年一月号の第十 三 回で第一部を終了 した。続いて同 じ年の四月号 か ら第二部が開始 され、第十五回 目の昭和十年十 月号で完結 となっている。 この よ うに して七年間 の二十八回に渡 って分載 されたのが F夜 明け前 』 である。 この作品の連載中であ る昭和九年一月十 日付け の 「東京朝 日新聞」に次の ような談話が載 った。 「--今年中にはど うして も完成す るつ も りで 居 りましたが、来年の四月までは どうして もか か ります。だが、夜明の聾だけは聞け るでせ う。 私は父 といふ ものについて飴 り考-てみた こと

佐 々木

SASAKITho

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u

はなか った。十三 の時に逢ったのが最後 で、そ れ か ら二年 して父は死にました。薄 い印象です。 外遊三年の問の さび しい生活、それが私に「父」 を考- させ ました。 自分の父は どふ いふ生活を してゐたか、父の時代は どんな時代だったか、 それか らそれ- と思ひはつながって筆を とって み ようと思ったのが F夜明け前』です。」(註2) この時点で初めて F夜明け前 』の主人公青山半 歳が藤村 の父親であることが明 らかに された と思 われ る。 また さらに F夜明け前 』が完結 した この 年の 「新潮」十二月号に掲載 された、青野季書 と の対談 (F夜明け前 』を中心 として) で も同様な ことを明 らかに している。 「青野。話は少 し蟹 りますけれ ども、あの主人公 の青山半寂は、何かモデル といふ よ うなもの があったので ございませ うか。 島崎。 さ うです。あれは賓は 自分の親父をモデ ルに して居 りますのですが-・・・

」 (註3) 藤村が父親 をモデルに したのは何故か。 同 じ対 談の中で次の ように語 る。 「親父は-たい私が英等をや るといふ時 に大-ん心配 した人でございまして、鎗ほ ど縫ってか ら 「宜か ら う」なんて言って呉れたんですが、 そ んな風であった ものですか ら、幼 い時分には、 親 父はただ怖い人のや うに思って居 りま した。 さ うですねえ、私が巴里-参った時 は四十二の 齢 でございましたが、漸 く四十代 くらゐになつ

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て親父の歌集な どを、それ も外問の旅で寂 しい ものですか ら、謹 んでみ る うちに、親父の生涯 な どもまあ幾 らか解って来たや うな気持があっ た。そ して錆 って参ってか ら、 自分が、父の生 涯 といふ ものを本常に一つ探 してみ よう、 とい ふ夙に思ひ立 ったのが、あの作のつ ま り動機 で ございますね。」 (註 4)

V

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1-(2) 本論で F新生 』の内容を辿 った ときにすでに岸 本の父、つ ま り藤村の父についてい くらか触れた。 先の対談の中で語 られた ように、パ リ滞在中の こ とである。な らば、それ以前では藤村の作品の中 では どの ように扱われ、描かれていたであろ うか。 まず この点を及ぶ限 り見ておきたい。 明治四十一年三十七歳の ときに発表 した F春 』 の五十章の部分である。主人公岸本が坊主頭 とな り、墨染めの法衣を身 にまとって放浪 した後に長 兄民助の前に姿を現 した。 この とき、民助の 目を 通 した父親の姿が浮ぶ。 かぎ 「共時、長火鉢に撃 して居 る岸本の手が妙に民 助の眼に着 いた。不格好で、指先が短 くて、青 筋が太 く刻 んだや うに顕れた ところは、 どう見 て も亡 くなった父の手に ソツク リであった。父 は足袋 も固無 しを穿いた程の骨格であ ったか ら、 大 きさは比較に成 らないが、弟の手は父のを若 くした といふ迄で、形ばか りでな く、蒼 白い表 情 まで も責 に よく似て居た。それを見 ると、十 七の歳か ら身代を任 されて、親孝行 と言ほれた 丈 に苦労を しっ ゞけた、その 自分の過去が彼の 胸に浮 んだ。民助の眼で見 ると、維新の際には 勤皇の説を唱-た り、諸 岡を遍歴す るや ら、志 まじわり 士に交を結ぶや らして、殆ん ど家のことなぞを 顧みなかった人の手が共だ。 どうかす ると黙 っ て家を出て了って、二月 も三月 も鋳 らないか ら、 ぢい 其度に峠の爺 なぞを頼んで、連れて来て貰った ふ だん お やぢ 人の手が共だ。平素はまことに好い阿爺で、家 の者に も親切、故郷 の人 々に も親切で、-村の かん しやく 父 のや うに慕ほれて居たが、す こし痛積が起っ をれ て気 に入 らないことが有 ると、弓の折 で民助を ちやうちやく 打 捗 した人の手が共だ。同学や神道に凝 り過 ぎ 1 44 -うづも た ともいふが、深い山里に埋れて、一生煩悶 し お と っ て、到頭気が壁に成った人の手が其だ。 F阿爺 さん、子が親を縛 るといふ ことは無い筈ですが、 御病気ですか ら堪忍 して下 さい。 』斯 う民助が くゝ 言って御辞儀を して、それか ら後手に括 し上げおも た人の手が共だ。あ りあ まる程 の懐 を抱 き乍 ら、 し どと しまひ 是 といふ事業 も残 さず、終には座敷牢の格子に 掴 まって、悲壮 な辞 世の歌を謹 んだ人の手が共 だ。 お やぢ F捨吉 も年頃だ。そろそろ阿爺が 出て来たんぢ やないか。 』 斯 う民助は心を傷 めた。 何で も、父が二十の おこ 11は 年齢 とかに、初めて病気が覆って共時 は癒 るに は癒ったが、それか ら中年になって再塗 した。さう この事寅を民助は思ひ浮べた。而 して、二十の 年齢 といふか ら、あるひは弟 と同 じや うな動機 で。期様 な風に想像 して見た

。」

(註5) ここに登場す る 「動機」は、父親 の場合のそれ は不明であるが、捨吉 の場合は明 らかであ る。恋 の苦 しみであ り、それがために、頭 を丸め、墨染 めの法衣を着ての放浪 であ った。 この姿は若 き藤 村 の姿で もあ った。故郷 で父 とともに生活を営 ん だ長兄が、弟の奇行を父親の姿に重ねて もおか し くはない。 長兄に とってほ好 ましくない父親像であ る。言 わは、負の面が ここでは語 られ、弟 はその可能性 あ りとされたのであ る。 しか し、藤村が作者 とし て この場面を描写す る限 り、 この負 の面は克服 さ れているとして よい。 F家 』では何回か父親について語 られ る場面が 登場す る。先ず上巻 であるが、主人公の三吉が姉 のお種の婚家先を訪れた時の ことである。 「三吉 も入って来た。 ちよつと F貴方。 』とお種は夫の方を見て、 F鳥度まあ 見てやって下 さい。三吉がそ こ-来て坐った様 お とっ て つき 子は、 ど うして も父親 さんです よ・・--手付なぞ あれ よ は兄弟中で彼が一番克 く似て ます よ。 』 お やぢ F阿爺 も斯様 な不格好な手で したかね。 』と三 吉 は笑ひ乍 ら自分の手を眺め る。 お種 も笑 って、 F父親 さんが言ふには、三吉 あ いつ は一番学問の好 きな奴だで、彼奴 だけには俺の

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し どと ど うか 事業を超 がせにや な らん--何卒 して彼奴だけ さ う は俺の子に したい もんだなんて、 よく左様言ひ '言ひ した よ。 』 こ は 三吉 は姉の顔を眺めた。 Fあの可畏い阿爺が 生 きて居て、私達 の鵠てることを見 ようものな ら、それ こそ大壁 です。弓の折かなんかで打た れ るや うな 目に逢 ひます。 』 Fしか し、お前 さんたちの仕事は何庭-で も持 って行かれて都合が好いね。 』とお種が笑った。 あ ぐら ゆす 達雄 は胡坐 に した膝を癖のや うに動ぶ り乍 ら、 F近頃の若い人には、大分種 々な物を書 く人が きま 出来ましたネ。文学 - それ も面 白いが、走っ た収入が無いのは一番困 りませ う。 』 F言はば、お前 さん達のは、道楽商頁。 』とお 種 も相槌を打つ。 三吉は答-なかった

。」

(註6) 達雄 とはお種の夫 である。そ して、仕事の話が 「文学」 とい うことで、 ここにおいて も主人公で あ る三吉 は藤村 自身であることがわか る。 さて、 ここでは父親に最 も似ているのがやは り 三吉 となってい るが、 この長姉は長兄 とは違 って 父親を好意的に受け留めている。その上、父親の 代弁者 として末弟を励 まして さえいる。 東京に戻 った三吉は長兄、賓の妻お倉が話す昔 話の中で父親の姿を知 る。 「姪に言はせ ると、幾百年の前、故郷の山村を 開拓 した ものは兄弟の先祖で、其昔は小泉の家 かしら と、問屋 と、峠のお頭 と、其の三軒 しかなかっ た。谷を耕地 に宛てた こと、山の傾斜を村落に 拝んだ こと、村民の島に寺や薬師堂を建立 した こと、すべて先祖の設計に成った ものであった。 土地の大半は殆 んど小泉の所有 と言って も可い 位で、それを住む人に割 き典-て、次第に山村 かたづ の形を成 した。お倉が嫁いで来た頃です ら、村 の者が来 て、 F旦那、小屋を作 るで、林 の木を す こしお呉んな しよや 』と言-は、 Fオ 、、持 って行けや 』と期 の調子で、毎年の元旦 には村 民一同小泉の門前に集って先ず年始を言入れた ものであった。共時は、祝の餅、酒を振舞った っ つく 斯の餅を抱だけに も、小泉では二晩 も三晩 もか ゝつて、出入の者が其度に集って来た。 Fアイ、 目出度いのい 』- それが元 日村の衆-の挨拶 で、お倉は胸を突 出 し乍 ら、その時 の父や夫の 鷹揚 な態度を置似て見せた。 斯 の Fアイ、 目出度いのい 』は弟達を笑 はせ た。 は んと F最寅に、有 る物は皆な分けて呉れて了ったや うな ものです よ。』とお倉は思出 したや うに、 むかし Fそれが啓か らの習慣 で‥-・小泉の家は左様い や ど ふ もの と成って屈 ましたか ら--・吾夫 もね、そ わ か れ も未だ少壮 い時に、 どうで も斯 うで も小泉の 旦那 に出て貫 はんけれは、村が治 まらないなん て言ほれて、村長にまで引張 り出された ことが あのとき 有 りま した よ。彼時だって、村の馬に 自分の物 お とつ まで持 出 してサ=--父親 さんは又、痛の起 る度 に家を飛 出す。峠の爺を頼んで連れて来て貰ふf1んたぴ たって、お金でせ う。何度にか山や林を売 りま と ても した。所詮是ではヤ リキ レない と言って、それ や ど か ら吾夫が郡役所など-勤め るや うに成 ったん です。」 (註7) 長兄の語 る小泉家が、その村にあ っていかに重 要な位置を占めていたかが判 る。小泉家が あ って こその村であ り、村の衆が生 きて こられたのであ るとしている。 しか し、父親が この小泉家 の歴史 の歯車に うま く組み込 まれずにはみ 出 してい る。 その犠牲者が 自分の夫、つま り三吉の長兄だ とし てい る。嫁 いで来た嫁の立場か らS]3を見たのであ り、仕 えるべ き小泉家を中心に据 えての考 え方で 父親を見たのである。 下巻 で も腔のお倉は語 る。 「お倉の話は父忠寛の晩年に移って行った。狂 死す る前の忠寛は、眼に見えない敵の馬 に悩ま された。 よく敵が責めて乗ると言ひ言ひ した。 て ら それを焼 梯ほ うとして、ある日寺院の障 子に火 よん どころ を放った。親孝行と言ほれた賓も、そこで 接 な く観念 した。村の衆 とも相談の上、父 の前に御 辞儀を して、 F子が親を縛 るといふ ことは無い 筈 ですが、御病気ですか ら許 して下 さい 』と言 って、後 ろ手に くゝし上

た。それか ら忠寛は 木小屋に仮 に造った座敷牢-運ばれた。 そ こは まえ 裏 の米倉の隣 りで、大 きな竹 薮を後 に して、前 で 手には池があった。 日頃-村の父のや うに思は

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れた忠寛のことで、先生の看護 と言って、村の 人 々はかほ るがはる徹夜 で勤めに来た。附漆に 居た母の座敷は、別に畳 を敷いて設けた。そ こ のみくひ か ら飲食す る物を運 んだ。 ど うかす ると、父は 格子 の ところか ら母を呼んだ。 Fち ょっ と是庭 -来 きつせ 』と油断 させて置いて、母の手のち ぎれ る程引いた。薄暗い座敷牢の中で、忠寛の 仕事は空想の戦 を紙の上に描 くことで有った。 さもなければ、 何か書いて見 ることで有った。 こくふう 忠寛 は最後 まで閥風の歌に心を寄せて居た。あrJ る時、正成の故事に倣って、糞合戦 を計霊 した。 それを格子の ところで寒行 した。母 も、親戚 も、 村 の人 も散 々な足利勢 であった6.・・・・ 皆 な笑ひ出 した。 お とつ F私は阿爺 さんの亡 くな る時分のことを よく知 りません。御蔭で今夜は種 々なことを知 りまし た。 』と三吉は姥に言った。 Fあれで阿爺 さん ふ だん は、平素は奈様な人で したかネ。 』 F平素ですか。痛 さ-起 らなければ、それは優 しい人で した よ。宗 さんが、貴方、子供の時分 と来た ら、 ワヤク (いたず ら)な もんで、 よく 阿爺 さんにお灸をすゑ られ ました・-阿爺 さんは も う手がプルプル震-ちまって、 「これ、誰か 来 て、早 く留め さつせれ」なんて-それほ ど気 の優 しい、 目下の ものに も親切な人で した よ。』 F種 々なことを聞いて見たいナア。彼様いふ気 性の阿爺 さんですか ら、女の ことなぞはサ ッパ リして居 ました ら うネ

。』

Fえ ゝ、え ゝ、サ 、ソパ リ・・・で も、痛の起った時 なぞは、 どうかす るとお末が母親 さんや私達の ミ・ん(i 方-逃げて釆 ました よ-・お末 といふ下稗が家に 居 ましたあね。 』 Fへえ、阿爺 さんのや うな人で も其様なことが 有 りましたか。 』 三吉は正大 と顔を見合わせた。誰か クス クス 笑 った。」 (註8) 父親の晩年 のことがかな り詳 しく語 られてい る が、異常性が強調 されてい る。そのためか三吉は 「癌」が起 きていない時 の状態を確かめ るよ うに して訊ね、 「優 しい人」 とされて安堵を覚えてい るよ うだ。 さらに三吉 は父親 の書いた ものを見な が ら、姉のお種の話を聞 く。 - 46-「三吉 は思ひ付いたや うに、戸棚 の方-起って 行った。賓が満州-旅立つ時、預って置 いた父 の遺筆を取出 した。箱の塵を捕って、姉の前に 置いて見せた。その中には、忠寛 の歌集、寓葉 仮名で書いた短冊、いろいろあるが、殊 にお種 の 目を引いたのは、父の絶筆であ る。漢文で、 F燥慨憂債 の士 を以って狂人 と為す、悲 しか ら りんり しlこぎは すや 』としてある。墨の痕 も淋渦 として、死際 に震-た手で書いた とは見えない。 ありさま 父忠寛が最後 の光景 は、いつ も三吉が聞いて 見た く思ふ ことであった。お鶴が通夜の晩に、 皆 な集って、お倉か ら聞いた時の話ほ ど、お種 は委 しく記憶 して居 なかった。そのかは り、お 種はお倉の記憶に無 い ことを記憶 して居 た。 お とつ F大 き く 「熊」 といふ字 を書いて、父親 さんが 座敷牢 か ら見せた ことが有ったそや。 』とお種 たか は弟に微笑んで見せて、 『皆な、寄って集って、 俺を熊にす るなんて、左様仰ってサ‥・』 F熊は よかった。』と三吉が言った。 Fそれは、お前 さん、気分が種 々に成った もの サ。可笑 しく成 る時 には、 ア- 、、7- 、、濁 こた りで も う堰へ られ ないは ど笑 って、そんなに可 い ら 笑 しがって被入つ しや るか と思ふ と、今度は又、 急に沈 んで乗 る-・私は今で もよく父親 さんの聾 を覚えて居 るが、 き りぎ りす暗 くや霜夜の さむ しろに衣かた しき濁 りか も寝む、左様吟 じて置 いて、 ワアツと大 きな費 で御泣 きなさる・・・』 ふるは お種は激 しく身昏豊を震せた。父が吟 じた とい ふ古歌- それはやがて彼女の遣瀬ない心であ るかのや うに、殊 に力を入れて吟 じて聞かせた。 三吉は姉の肉聾を通 して、暗い座敷牢 の格子に とりすが 取槌った父の狂姿を想像 し得 るや うに思った。 じつ 彼はお種の頚を熟 と眺めて、黙って了った。」 (註9) これ まで作品の中には表われなか った父親の内 面の一部が ここに見 られ る。お種の注 目した絶筆 の内容であるが、意識 を喪失 した文字通 りの狂人 ではない

「悲 しか らずや」 としてあるのは正に 自らの位置を客観的に捉 えてい るのであ る。あわ せてお種の話す父親像 は長兄のそれ よ りも父親-の愛情に裏打ちされた ものである。 よ り父親を理 解 してい ると言えるし、話す に従 って気持 の高ぶ

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りが表われてい る。三吉が離れていたがために、 よ く知 らない父親に関心を持つの も自然である。 だが、それ以上踏み込みたい とす る様子は うかが われない。 兄弟の中で最 も父親に似てい ると指摘 されているが故に、父親の内面に踏み込むには「お それ」があ った と言え まいか。 生 まれ故郷の木 曽を訪れた三吉 は父のことを隣 家 の主 と共 に偲ぶ。 「二階の客間は、丁度以前の小泉の奥座敷 と同 じ向にあって、遠い美濃の平野を一段高 く望 ま れ るや うな位置にあ る。そこ-主人は三吉を誘 った。●桑 畠は直 ぐ石垣の下にあった。思寛の書 院、母やお倉 の よく縫物を した仲の間、賓 の居 た Fくつろぎ』の間、上段、離れ、合所 な どゝ めのした 名のつけてあった贋い部屋 々々の跡は、眼下に 見 ることが出来 る。温厚な長者 らしい主人は、 む かし 自分 も往時を思出 した といふ風で、三吉 と一緒 に縁側に立って、あそ こに井戸があった、 こゝ に倉があった、 と指 して見せた。忠寛の座敷牢 あたり のあった といふ木小屋 の透は未だ残って居た。 三吉が祖母の隠居 して居た二階建ての離れには、 今は主人の老母が住む とのことであった。 Fや、小泉 さんに進げ るものが有 る。 』 と主人は、手を鳴 らして酒を呼んだ後で、桑 畠の中か ら掘 出された といふ忠寛の石印を三つ はか り三吉の前に置 いた。 古 い鏡 も堀 出 された ことを、主人は語った。 忠寛 の書院の前にあった牡丹は、焼 跡か ら芽を 吹いて、今で も大 きな白い花が咲 く、斯様な話 もした 。 斯 の明るい二階- も、村の人や三吉の学校友 達が押掛けて来た。以前は、 『オィ、三公 』な なれ なれ ぞ と但 々しく呼 んだ旦那衆が、改 まってやって 来て、 F′J、泉君 』とか F三吉君 』とか言葉を掛 けた。主人を始め、集って来 る人達は大抵忠寛 の以前の弟子であった。 Fで も、忠寛先生の時分には- い くら無い と 言って も- 六七十俵の米は寂に積んであった。 皆な兄 さんが亡 くしたや うな ものだわい。 』 i∫かし 斯 う笑ひ話のや うに して、高い酔った聾で葛 を語 るもの もあった。」 (註lo) 父親が狂人扱い された とは言 え、村人には何 ら かの良い意味での影響を与 えていた ことが うかが われ る。そ して家を守 ったの も父親には力があっ た とい う評価が与え られて もいる。 す でに理解 されてい ると思 うが、 これ までの引 用では、描かれた父親 の姿はいずれ も作者 の 目を 通 した ものではない。語 る人間たちの、つ ま り肉 親たちの思いや考 えを通過 した後に描 き出 された 姿である。作者であ る藤村に伝 え られ、話 された 姿に過 ぎない。 同 じエ ピソー ドを何回聞か され よ うと藤村が捉 えた姿 とは言えない。 では父親 と余 り生活を共に しなか った藤村が、 直接 に捉え、描 く父親の姿は どんなか。 その姿は F幼 き日』で語 られてい る。 (註 11)妻 7-の死 後二年近 く過 ぎ、残 された子供たち と共 にあって、 その子たちを描 きなが ら、 自らの幼 き頃 を語 る内 容 となってい る。 じやうだん 「ど うかす ると私は斯様な串談を して、子供を 相手に遊び戯れ ます。斯 ういふ私を生 んだ父は ど ん 奈様な人であったか と言-は、それは厳格で、 父 の膝などに乗せ られた といふ覚えの無 い位の 人で した。 父は家族 の ものに封 して絶 封の主権 者 で、私等に封 しては又、熱心な教育者で した。 私は父の書いた三字経を習ひ、村の学校-通ふ や うに成ってか らは、大撃や論語 の素誼を父か ら受け ました。あの後藤釦の栗色の表紙の本を 抱いて、おづおづ と父の前に出た ものです。 父の書院は表庭 の隅に而 して、古 い枝ぶ りの 好 い松の樹が直 くす障子の外に見 られ るや うな部 まうせん 屋 で した。明い毛髭を掛けた机の上には何時で も父の好 きな書籍が載せてあ りましたが、時に は和算の道具な どの置いてあるのを見 かけた こ とも有 ります。父は よく肩が凝 ると言ふ方で し て、銀 さんと私 とが叩かせ られた ものですが、 肩一つ叩 くに も只はPPかせ ませんで した。歴代 しまひ の年鑑な どを語詞 させ ました。終には銀 さん も こんぺいたう 私 も逃げてはか り居た ものですか ら、金米糖を 褒美に呉れ るか ら叩け とか、按摩賃を五厘づゝ 造 るか ら頼む とか言ひました。 F享保、元禄- ・・・』 私達は父の肩につかまって、御経で もあげ る や うに謡諭 しました。

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何ぞ といふ と父が私 達に話 して聞かせ ること は、人倫五常の道で した。私は子供心に も父を 敬ひ、畏れ ました。 しか し父の側に居 ることは かん 窮屈で堪 りませんで した。それに父が持病の痛 で も起 る時には、夜眠 られない と言って、紙を 展げて、遅 くまで摺 りで物を書 きました。その 蝋燭を持たせ られ るのが私で したが、私は唯眠 くて成 りませんで した。 斯 うした張格な父 の書院を離れて、仲の間の 方-行 きます と、そ こには母や姪が針仕事をひ ろげて居 ります。私 は武者絵の敷駕 Lなどを し て、勝手に時を送 りま した。母達の側には別に 小机が置いてあって、隣の家の娘がそ こで手習 ぶん ひを しました。お文 さん と言って、私 と同年で、 よみかき 父か ら請書を受け る為 に毎 日通って来たのですb 父を Fお師匠様 』と呼 んだのは斯の娘はか りで な く、村中の重立った 家の子はあ らかた父の弟 子で した。中には隣村 か ら通って来 るもの も有 りました。」 (註 12) 東京で学ぶために上京 す る九歳の藤村を前に し た父について もわずか なが ら語 られてい る。 「其晩、私は父の書院 へ も呼び附け られて、五 六枚ほ ど短冊に書いた ものを岱別 として貰ひま した。それは私が座 右 の銘にす るや うに と言っ て呉れたので、 日頃少年 の私をつか ま-て ロの 酸 くなるほ ど言って聞 かせた教訓を一つ一つ文 字に表は して書いた もので した。私はその全部 を記憶 しませ んが、父 があの凡帳面 な書濃で認 た短冊の中には、あ りあ りと眼に浮んで来 るの もあ ります。 F行ひは必ず篤敬。云 々

。』」

(註 13) その父が書いた ものを東京で見 る場面 もある。 ひきだし 「壁に よせて、抽斗の附 いた本箱を も置 きまし た。抽斗の中には上京 の折に父が餓別に書いてたま 呉れた座右の銘なぞが入れてあ ります。稀には 私は幾枚かある其短冊 を取出 して見 ます。 F温 良恭謙譲 』と一行に書 いたのがあれば F勉強 』 とか

F

倹約 』とかの文字 をい くつ も書 き並べた の もあ ります。私は器械的に繰返 して見て、寧 - 48-ろ父の手蹟を見 るといふだけに満足 して、復た 紙に包んで本の抽斗の中-寂って置 きました。 岡許の父か らは よく便 りがあ りま した。父は村 な がめ の中の眺望の好 い位置を拝んで小 さな別荘を造 った とかでこ母 と共に新築の家の方-移った こ をちこち とや、その建物か ら見え る遠近の山々、谷、林 よこ の さまなどを書いて寄 しました。其頃か ら漸 く 私 も父-宛て ゝ手紙を書 くや うに成 ました。」 (註 14) そ して最後に会 った時 のことであ る。藤村が直 接 に共に行動 した場面 なので、その部分すべてを 次に再現 しておきたい。 「父が私に逢ふのを聖みに して一度上京 しまし た ことは、私に取って忘れ難いことの一つです。 何故か と言ひますに、それ ぎ り私は父に逢 ひま せ んか ら。 豊田さんの家の奥の二階は廉い静かな座敷で、 ケ ツト しは らく そ こに父は旅の毛布や ら荷物や らを解 き、暫時 つれ 逗留 しま した。豊田のお婆 さんの亡 くなった連 あひ 合だの、親戚にあた る年老いた漢学者だの、其 他豊田さんの身のまは りの人で父の懇意な人は 樺山あ りまして、国に居 る頃は父 もまだ昔風に 髪を束ね まして、それを紫の紐で結 んで後 の方 -垂れて居 るや うな人で したが、その旅で名古 屋-来て始めて散髪に成った話な どを私に して 聞かせ ました。私は心の中で、お父 さん も大分 開けて来た と思ひました。 あ ゝ か う Fあれは彼様 と、 これは斯様 と 』 ひとりCと そんなことを父は よ く弼語のや うに言って、 自分の考-を纏め よ うとす るのが癖 で した。 奥の二階か らは虞い物乾場を通 して町家 の屋 根、窓などが見 られ ます。父は旅の旬の中か ら 桐の箱に入った鏡を取 出 しましたか ら、 Fお父 さん、男が鏡を見 るんですか。 』 と私が尋ね ます と、父は微笑んで、鏡 といふ ものは男に も大切だ、殊に斯 うして旅にで も来 よ うす た時は、 自分 の容姿を正 しくしなければ成 らな い と私に話 しました。 父は随分奇行に富んだ人で、到 るところに逸 話を残 しましたが、 しか し子 としての私の眼に は面 白い といふ よ りも気の毒で、異常 な といふ

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よ りも突飛 に映 りました。期の上京で私はそれ を感 じたので した。私の学校友達の六 ちゃんの 衣- も父が訪ねて行か うと言ひますか ら、私は 一方には嬉 しく思ひなが ら、一方には復 た下手 な ことを して呉れなければ可いが と唯そればか り心配 して、三十問堀の友達の家-案内 して行 きました。六 ちゃんの家ではお母 さんが後家 さ んで六 ちゃん達を育て ゝ居 ました。訪ねて行 く さ き と、先方で も大層喜 んで呉れ ましたが、別れ際 に父は六ちゃんのお母 さんか らお盆を借 りまし て、土産がは りに持って行った大 きな密相をそ の上に載せ ま した。やがてツカツカと立って、 その密相を怖壇を備-た といふ ものです。期 う いふ父の行ひが少年 の私には唯奇異に思われ ま した。私は父の精神の美 しい とか正直な とかを 考- る飴裕はあ りませ んで した。何で も早 く六 ちゃんの家を射 して豊田さんの方-父を連れ掠 りたい と思ひ ました。 父は私の通ふ学校 を見たい と言ひますか ら、 数寄屋河岸 の方- も案内 しまして赤煉合の建物 を見せ ました。河岸に石の韓がったのが有 りま した ら、子供 の通ふ路に斯 ういふ石は危い と言 って、父はそれを往来の片隅に寄せた り、お堀 の中-捨た りす るや うな人で した。 父が逗留の間に奮尾州公の邸を も訪ね ました。 その時、私 も父に伴ほれて、以前の尾張の殿様 といふ人の前に出ました。父は私が学校 で作っ た鉛筆重の裏に私の名前などを書いた ものを尾 州公の前に差 出 しました。私は震い御座敷に身 あ かり を置いて燈火の影で大人の話をす るのを聞いた の と、掠 りに御菓子を頂いて来たの とその他に 今記憶 して居 ることも有 りません。父は又浅草 達の鹿の子 といふ飲食店- も私を連れて行って、 あ るじ か み そこの主人や内儀 さんに私を引合わせ ました。 F斯様なお子 さんが御有 りなさるの。 』と内儀 さんは合相 よ く言って、父 と私の顔を見比べ ま した。私は内儀 さんはか りでな く多勢の女中か らジロジロ傍-来て顔を見 られ るのが厭で した。 鹿の子の主人は地方出で、父 とは懇意な人で し た。 その時 の私の心では、私は矢張郷里の山村の 方に父を置いて考へたい と思ひました。私は一 ほ たび 日も早 く父が東京を引揚げて、あの年 中棺火の おはあ 燃 えて居 る櫨達の方へ掃って行って、老祖母 さつか んや お母 さんや、兄夫婦や、それか ら太助 な ど と一緒に居て貰ひたい と思ひました。久 し振の 上京 で、父は東京にある奮 い知人を訪ねた り、 亡 くなった人の御墓参を した りしまして、間 も な く郷里の方-戻って行 きましたが、後で蛸か ら出て来た人の話には、飴程私が嬉 しが るか と 思って上京 したのに、子供には失望 した と言っ ひと て、父が郷里-戻ってか ら嘆息 して他に話 しま した とか

。」

(註15) この最後に会 った時の姿は F樫の実の熟す る時』 の第七章で も同 じエ ピソー ドに基づいて、語 られ てい る。ちなみに F稜の実の熟す る時 』の部分は パ リか ら帰国後二年半近 く過 ぎて書かれた もので ある。 フランス体験があるにせ よ、 この時点で父 親の姿を登場 させ るに して もこの程度が限度であ ろ う。何故な らば この作品その ものは、藤村 の若 き日の姿が描かれてい るのであって、父親が思い 出されて も、その内面に立入 ることは無意味であ ったか ら。 父親不在の生活にあっては、父親 の内面 な どは 知 る由 もない し、関心 もなか ったであろ う。奇行 に富んでいれば、なお さらである。む しろ何を し でかすか とい う畏れのみで、その様子を上 に引い た文面 か らも うかがわれ る。最後の部分にあ る父 の嘆息が付け加えられたのは、父の心を理解 しよ うとしなか った こと-の後悔 の表われであろ う。 F幼 き日』を書いた動政については、 これが収 録 された 「定本版藤村文庫」の第七篇のあ とが き で触れ られてい る。 「書いて見 ると、いろいろなことが書けた。わ た しは よく自博的な作者のや うに言ほれ てゐる が これはた ゞ自博の一部 として書か うとした も ので もない。 自分の生命の源に さかのぼ らうと す る心を起 した時にこれが書けた

o

」 (註16) 自らが陥 った状態を どうにか したい とい う思い が故に この作品 F幼 き日』を著わ した と言 える。 つま り、模索状態にあ りなが らも、父親の生 きた 時代にその方向性を求めていたのであ る。 これ まで見てきた とお り藤村が描 き出 した父親

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像はすべて外面か らの ものであ って、内面に立 ち 入 った形で描かれてい るものではない。 Ⅵ -1-(3) これ まで引用 してきたエ ビソ- ドのほ とんどは F新生 』の百十三章か ら百十九章 までに再度描か れてい る。そ して これ らの章に先立 って、主人公 岸本の、そ して藤村の落ち込んだ気分が百十二章 で語 られてい る。 この ような気持にな ったの も、 第一次大戦下のパ リにあ っての社会情勢-の不安、 姪 との こと、そ しておそ らくは暗雲低 く垂れ こめ た ヨー ロッパの冬の風景が影響 したのであろ う。 祖国の新聞-の掲載記事 も途絶 えがちであった。 F藤村のパ リ』と題 して河盛貯蔵氏が 「新潮」に 現在連載中であるが、その第二十回の部分で この 時 の様子を指摘 してし.tる. フランス体験を藤村は帰国後に著わ しているが、 その中のひ とつに F地中海の旋 』と題 した紀行文 があ る。 フランスにお もむ く途中の船旅の一時期 を亡 き父親宛てに手紙形式で語 る内容 となってい て、同 じ船に乗 り合わせた ヨー ロッパ人 との交流 がその中心 となってい る。 この中に注 目したい語 りがあ る。 「まだ私が この旅を思ひ立たない以前 でござい ました。あなたの墓 を建てるために一度露省 し た ことが ございました。其節、私は姉の家-立 寄 り、あの嘗い家に残った黒船の国 といふ もの を見てまゐ りました。粗末な木版刷ではあ りま したが、それを見て もあの異同の船がいかに潜 時 の人の眼に映 じたか といふ ことが思はれ ま し た。 まるで斯の同は幽霊 の閲です、 と私は姉に も申 したことで した。何 といふ驚異の念が、何 といふ不安 と狼狽 とが、そ こに衰ほれて居 りま した ら う。 あの全 く別の世界 を暗示す るかのや うな、迫 り来 る外来の威力の象徴 とも見 るべ き 幻の船が、いかに青年時代のあなたの心を もな ほゞ や ま したかは略想像致 され ま した

」 (註17) ここに書かれてい る木 曽-の旅は、明治四十二 年 の十 月であ る。その直後に書かれた ものを見て おきたい。初 出は不明であ るが、 F黒船 』と題 を - So l つけ られ、随筆集 F後の新片町 よ り』に収録 され た。 ご く短い ものなので全文を次に引いてお く。 「黒船- 歴史小説 として も、又歴史書 として も、面 白い題 目ではあるまいか。私は この秋、 木 曽に旅 して、姉の家であの船 の同を見出 した。 半紙一枚程の大 きさの古い粗末 な木版蓋だが、 それを見 ると潜時 の ことも想像 され る。いかに あの船が常時の人 の眼に映 じた らう。そのためいくばく に幾何の人が狂死 した ら う。 黒船の姿を壁-た ものは、浅肢 とな くこの島 国-着いた。 しか しまだ足 りない。 トルス トイにせ よ、イ わ れ ら プセ ンにせ よ、一般 の眼にはまだ幽霞だ。吾僻 は もつ と黒船の正腔を見届けねはな らぬ。そ し て夢を破 らねはな らぬ。吾贋は事 々物 々現代の 西洋に接梱 しっ ゝあ るとはいえ、まだ間接 た る ことを免れない

。」

(註18) すでに江戸末期の時代について藤村が関心を抱 いていたのは間違いない。むろんここに記 されて い る 「幾何の人」 とは父親を想定 してい るのであ る。 「黒船」 とは藤村 に とって何を意味 していたか。 先進国の文化 として良いだろ う。 この時点 では、 もちろん多 くの作家たちや彼 らの作品を数多 く知 っていたであろ うし、未だ見ぬ異 国の文化につい て も知 ってはいたであろ う。 しか し、異文化の中 に放 り込 まれぬ限 り、表面を撫でてい るに過 ぎな い。本論で先に明 らかに した ように、 自然主義文 学の行 き詰 りがあ った。藤村が この 「黒船」に関 心を持 ったのはこの時期であ る。 この状況を打破 す るために も、 「黒船」を題材 として小説を書 く と考 えて も不思議ではない。 しか し、藤村の内側 か ら強 く噴 き出るかの よ うな ものにはな り得 なか った。つ ま り、同様 に本論 です でに明 らかに した ように、何 よ りも自らの位置が どんな地点にあっ たかが不明であったのだか ら。 これ まで藤村の フラソス体験を、 F新生 』を辿 りなが ら見て きた。だが藤村 と姪 との関係が中心 であ って、いわば藤村 の女性に対す る考え方の変 遷であった。藤村の人間-の、 と りわけ女性-の 信頼 とい うことが何であ るかを知 って、自らの心

(9)

の落ち着 きを獲得す る過程を描いたのが F新生 』 である。 この F新生 』に父親-の思いを廻 らす と は言え、その思いか ら発展 し、 どんな地点にまで 到達 したかは描かれてはいない。 F新生 』が書かれたのは、帰国後二年近 く経た 大正七年五月か らである。それ以前に、先 に も触 れたが、い くつかの紀行文を公に してい る。姪 と の関係は未だ公にはできない。 この時点で話す こ とができたのは、 フラソス体験の も うひ とつの重 要 な側面、つ ま り先に触れた 「黒船」に関わ る点 である。 これ らの紀行文において、 ヨーロ ッパで の生活で知 った西洋 と日本 との比較か ら生 じた も のが整理 されてい る。何回かにわた って書かれた ものが収錠 され、大正七年七月 F海- 』として出 版 された。 (註19)内容はフランス滞在を除いた 往復の船旅の様子を書いた もの となってい る。先 に引用 した F地中海の旋 』も第二章 として収録 さ れてい るO 船旅 としては最後にな ってい る第五章 の F故国に掠 りて 』は、実は最初に書かれた もの である。 この章の十七に次の ように記述 されてい る部分があ る。 「お前は西洋嫌ひに成って掠って来た といふ評 判だが、事賓か、 とあ る友人に私は尋ね られた) す くな くも自分の旅は辛かった とは私は言って も、そのために西洋が嫌ひに成ったか と聞かれ ては一寸思惑す る。 私の備蘭西だ よ りは F平和の巴里 』、 F戟撃 と巴里 』の二小冊子に纏めてある。あの手紙の 全部が、私 としてはその一番好い返事だ。あれ を書いた時 も、今 も、私の心持は壁 らず にある。 あの巴里ポオル ・ロワイアルの客舎の窓で、F自 分は巴里を賛美す る鳥に期の机に封って居 るも ので も有 りませ ん 』とは書いたけれ ども、私が がセエ ヌの河畔なぞを歩いて見 る度に悌蘭西人 の組織的才能 と博銃を重んず るその冷静 な意志 とに封 して尊敬を羨望の念に堪-なかった ことよこ は、あの手紙の中に言って寄 した通 りだ、そ こ にあ る歴史の尊重、学問の尊重、聾術の尊重は、 賓に想像以上であった。今 も猶私はあの ラテン の民族の天才を愛す る美 しい精神を賛美す るに 蹟跨 しない。是程 の自分が どうして左様西洋嫌 ひに成って掃って来 られ よう。つ くづ く私は怖 蘭西あた りにある欧 羅巴の クラシカルな文明を、 クラシカルでそ して同時に近代的なあの大 きな 包容の力を羨んで来た。それだけ私は 自分の閥 の方の ことを考 え結 けて来た。何一つ 日本に好 い ものがあ るか、何一つ世界に向って誇 り得 る めぐりあ ものがあるか、 と言ふ海外在留の同胞 に蓮遁ふ 皮 に吾贋は左様いふ破壊の思想か らも自分の閥 を護 らねばな らない と思って来た。 左様だ、吾麿 日本人はまだ まだ保守的だ。吾 贋 に必要な ことは国粋の保存でな くて、閥粋の 建設でなければ成 らないのではないか。吾鰐は もつ ともつ と欧羅巴か ら撃ねは成 らない。そ し11か て 自分等の内部にあ るものを育てねは成 らないQJ (註20) 藤村の文化比較である。 ヨー ロッパを見 ること で 日本の文化の貧困を思 う。嘆 きもす る。誇 り得 るものは無 しとす る。だが藤村はその様 な考 え方 を警戒す る。 そ う思 うことは 「破壊」だ とす る。 む しろ、 しなければな らない ことは藤村が フラン スに居て 自分の幼い頃のことや父親の生 きた時代 のことなどを振 り返 った ように、 日本の過去を単 に見 るとい うよ り、 日本の文化 として蓄積 されて きた ものを見直す必要あ りとしたのであ る。 と り わけ西洋の ものを どの ように受け留め るか とい う 視点を定め る必要あ りとしてい る。 そ して、 とにか く西洋を見て来た眼で東京を眺 め る。 「風俗に就 いて、露朝後の私の眼に好 ま しく映 たな もの ったのは、お店者の風だ。東京の下町 のお店者 みぎ り の風は好い。信州の神津君が上京の勘 、私は君 に誘ほれて帝劇の舞壷の上に杵屋 の連 中を見た。 あの白襟紋付の風 も好い

。」

(註20) 至 るところに 日本の良 さを見出 し、隅 田川に語 りかけ さえす る。その語 りかけに しば ら く耳を傾 けてみたい。 「流れ よ、流れ よ、隅田川の水 よ、 少年 の時分 tTか し(fL:み ふところ か らのお前の奮馴染が復たお前の懐裡 へ掠って 来た。 ---略 ・-・-・ も う一度私はお前の岸に掠って来てお前 の水を

(10)

見得 ることを喜ぶ。私が旅に出た時分か ら見 る とお前は一層黙って了ったや うな気 もす る。 お どう そん(I 前の彰は奈何 した ら う。何時迄お前は其様に沈 黙を招けて居 るのだ らう。お前の河岸の壁道 と 工業化に壁せ られて、お前の白魚が死にお前の 都鳥が飛去ったや うに、お前の蟹 も滑れ果てた のだ ら うか。遥に川上の方か ら渦巻 き流れて来 るお前の水が有 るか ぎ り、お前の詩が滑れ果て よ うとは奈何 して も思ほれない。私はお前か ら 溢れて来 る詩を知 りたい。お前の沈黙を破った 聾を聞 きたい。随分お前 も長い 目で岸の撃道を 眺めて来た

納岸が武蔵野であった昔か らのおつく 前だ。そ こに建て られた大 きな都の後達を知悉 して来たお前だ。啓両国が一切の交通の中心で、 用を達すに も物を運ぶに も舟 の便利に採 らなけ れば成 らない時代か らのお前だ。お前は驚 くべ き大改革を眼のあた りに見て来た。江戸の崩壊 を。政事の改壁を。憲法の制定を。虞 く知識を 世界に求め よう、世界のあ りとあ らゆ る庭か ら 採 り得 る限 りの ものを採 ら う。之がお前の見た さ かん 維新嘗時に於け る蛾盛な精神ではなかったか。 新 しい ものが斯 くしてお前 の岸-押寄せて来た。 亜米利加か らも。仏蘭西か らも。英吉利か らも。 猫逸か らも。そ して改良に次 ぐに改良、破壊 に 次 ぐに破壊を以て した結果、それ らの性質を異 めいめい に した ものが各 自思ひ思ひの様式 と主張 と確執 とを もって耗然紛然た ること恰 も殖民地の町を 見 るごとくにお前の南側に移植 された。時代の 象徴 とも見 るべ き造形美術、殊に建築を見渡す お と [L と、お前の岸にあった ものが殴 りに温和 しく、 繰 りに弱 々しく、飴 りに繊 細で、新 しく西洋か じうりん ら入って来た組織的な ものの馬に何 とな く探踊 いたいた されて了ふや うな気が して、可傷 しくて成 らな い。今になって斯の不調和を嘆 くは遅いか も知 われわれ れ ない。 しか し吾贋 日本人が飴 りに クラシ ック を捨て過 ぎた と気 付 くことは決 して遅い とは言 -ない。吾麿は虞 く知識を世界に求め る程の鋭 意 と同情 とに富んで居 る。唯吾厨はそれを受納 め) れ るに漂って強い判断力を放 いた。言葉を更-て言-ば歴史的の意志を放 いた。それが吾麿の 鉄男占だ。吾僻は自己の支配者 では無 くなって了 って居 た。唯新 しい ものの入って来 るに任せて 居 た。お前の岸にお る不思議 な不統一。私はそ - 52-れをお前に悶ひたい。 お前が眼のあた りに見た もたら 驚 くべ き大改革 とは人の心に F推移 』をは恋 し た らう、 しか しなが ら人の奥に F改革 』を恋 し た らうか と。それを思ふ と私は言 ひ難い幻滅の か11しみ 悲哀に打たれ る。お前はセエ ヌで もな く、テエ ムスで もな く、矢張一番親 しみの深い隅田川だ。 む かし くちばし 往昔、多感多情 な詩人が ロ塀の紅い都鳥を見て 情人の生死を尋ねた歌をお前に残 した。それほ ど古い歴史のあ るお前だが、私は若いお前を夢 見つ ゝそれを頼 りに して遠い旅か ら鋳 って来た。 何 とな くお前の水はまだ薄暗い。太陽の光線は まだお前の岸に照 り渡って居 ないや うな気がす る。お前の 日の出が見たい。」 (註22) 長過 ぎた引用になって しまったか もしれない。 この部分は F海- 』の最後の部分である。父親-の思いが進展 し、到達 した地点であ る。姪のこと だけに藤村の思索が捉われ ることは もうない。藤 村はすでに現状の 日本 とその文化、そ して過去に おけ る日本の文化に も思いを廻 らしてい るのであ る。 エジプト ト ル 「僕は斯様な風に も考 え る。 印度や挨及や土耳 コ 其あた りには古代 と近代 しか無い、 と言った人 の説には全 く賛成だ。幸 ひに も僕等の図には中 世があった。封建時代があった。長崎が新嘉壁 に成 らなかったばか りじゃない、僕等の図が今 日あるのは封建時代 の賜物 ぢやないか と思ふ よ。 見給-、 日本の兵隊が強いなんて言って も、皆 な封建時代か ら博はって来 た ものの近代化だ。 兵隊はまあ一例だが、僕等の国に今有 るものは 何一つ として--好い もので も、悪い もので も ・-=・ど うかす ると僕は旅に居 て自分の国のこと を考-て、 まだ前世紀が 自分等の中に も生 きて はんたう 居 るや うな気のす ることも有 る。 異賓に自分等 は革命 といふ ものを経て来たのか知 らん と疑ふ や うなこともあ る。」 (註23) 上に引用 した ものは F海- 』の第 四章 「故岡を み るまで」の中に書かれた ものであ る。帰国の船 に乗 り合わせたエ トランゼ- との会話で、藤村の 発言内容であ る。 この人物 と上海で別れ るのであ るが、- トラソゼ-とはフランス語のETRANGER

(11)

(異邦 人 の意 ) であ る。 会話 の内容か ら して時 に は藤 村 自身 の心 の 中 で のや りと りの よ うに も思 え る。 この点 は と もか くとして 、 こ こに 引用 した考 え方 は次 の よ うに考 え られ よ う。 明治 維新 に よ っ て、江戸時 代 か らの ものを断絶 させ て しま って は な らない。 つ ま り、 歴 史 的 な見方 を失 って は な ら ず 、過去 の遺 産 を容 易 に否定 す るこ ともせ ず 、 蓄 積 され た遺 産 と して受 け留 め る。 藤村 に この よ うな歴 史 的 な見方が備わ った今 、 父親 を モデ ル とす る小説 は可能 であ る。 だ が、 単 な る ドラマ性 を父親 に求 めた のでは な く、 歴 史 と の 関わ り合 い の 中 で父親 の姿 を求 め よ うと した の が F夜 明け 前 』と言 えないだ ろ うか。 (以下次号) (1989.2.l受援) 註

1

F藤村全集第十三巻 』ー筑摩召房ー昭和53年ーP.3写5 2.同書t P.349 3.F藤村全集第十二巻』ー筑摩書房ー昭和53年ーP.547 4.同書ー P.549 5.F藤村全集第三巻 』ー筑摩書房ー昭和53年t P.97 - 98 6.F藤村全集第四巻 』ー筑摩書房ー昭和53年

tP.

12 - 13 7. 同書ー P.51- 52 8. 同喜一 P.300- 301 9.同書ー P.320- 321 10.同書t P.387- 388 ll.明治四十五年五月か ら大正二年四月まで 「婦人宣 報」に連載 された もの。 12.『藤村全錠前五巻』ー筑摩召房ー昭和53年ーP.385 - 386 13.同-まEjtt P.392- 393 14・同書t P.402- 403 15.同喜一 P.411- 413 16・同Ildh P.596 17

F藤村全架節八巻 』ー筑摩書房ー昭和53年ー P.50 18.F藤村全張節六巻 』ー筑降雪房ー昭和53年ーP.136 19.実業の日本社か ら出版 された。なおフランス滞在 中のことを書いた ものに 『ェ トラソゼェ』がある。 朝 日新聞に連載 されたが一八十三以降は雑誌 「新小 説」に連載 されー大正十一年春陽掌か ら出版 された。 20.F藤村全集節八巻』ー筑摩告房ー昭和53年ーP.179 - 180 21.同召ー P.182 22・同書ー P.184- 185 23.同書t P.121

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