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裁判官による法の形成に関する一考察--K・ラレンツ教授の所説を中心に 利用統計を見る

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裁判官による法の形成に関する一考察--K・ラレン

ツ教授の所説を中心に

著者

三和 一博

著者別名

K. Miwa

雑誌名

東洋法学

11

2・3

ページ

63-93

発行年

1967-10

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006151/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

裁判官による法の形成に関する

  lK・ラレンツ教授の所説を中心にー

一考察

三 和 一

一 二 三 四 裁判官にょる法形成の方法 裁判宮による法形成の権限 裁判官による法形成の検討 む す び 裁判官による法の形成に関する一考察 六三

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   東洋法学      

六四  裁判官が法を適用するだけでなく、その適用によってしばしば法を形成するということについては、今臼もはや異 論はないであろう。そのような現象は、フランスにおいてはすでに一九世紀末以来、ドイツにおいても早くも第一次 大戦後に生じた。ただ学者のなかには、この現象をあえて無視したり、または批判したりした者が多かったことも事 実であるが、しかし、それも一定限度に達すると、この間題を正面から論ぜざるをえなくなる。たとえば、第二次大 戦後の酉ドイツ私法学はそのような状況の下にある。そこでは、裁判官による法の形成︵管馨①急。ぎ響9δ獣窪夢箭− きσ競︶は原則として承認され、ただどこにその限界を設けるかということが議論の対象になっている。そのようにし て、最近西ドイツにおいてこの問題をめぐる多くの文献があらわれているのであるが、本稿では、さしあたってラレ        ︵1︶ ンツ教授︵譲鍵一い鍵9・︶の所説を中心に、この問題の一端をさぐってみようと思う。 ︵エ︶ この間題に関するラレンツの着作としては、一応  ① 累o夢○審巳鳳察o留摘痴Ooげ鍍≦鎌も ・g瑳oぴ縁ゴ賂α○︵σ霧2るo號oo o●箋鴇駿●y  ② 菊8団縛巽ば畠o男o畠9︷o属玄一︵ぎおaの影○歴財○魚ω9おω唱3三〇嵩ご2︸≦︸るα轡  ③類g震鉱9g礎お露。簿窪ユ○算。象魯角沁・・算線霧9二Ωきσq①ぎるひ跡  。  なお、他に、④害角α霧く。芸篶ε謎/δβ一嘗窪肩。9江畠毒鳥凱畠ε葺3Φ⇒  屑霧諾。ξ.酒 劉霧一9ン・①9書3G蝕。があるが、参照できなかった。 9 一鷺● 菊Ooぴ虜3憎窯︶二︵一慈夷”ぎ

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一 裁判官による法形成の方法

      ︵2︶  ラレンツによれば、裁判官による法形成は次の三つの方法において行われているという。第一は単なる法律解釈、 第二は充足を要する法概念の適用と具体化、そして第三は狭義における法形成である。もちろん重要なのは、狭義に おける法形成であることはいうまでもない。  ω 単なる法律解釈  まず第一に、単なる法律解釈は、裁判官によるその適用の前で規範の意味もしくはその射程が疑わしかったとき、 および︸度見出された判決による適用が持続して固持されたときは、少なくとも法形成の要素を含んでいる。単なる 法解釈は、表現の不明確を明確にし、語義にしたがって可能な多くの意義の下から、その一つを﹁適切な﹂それゆえ 今後規準的とみなされる意義として固定するがゆえに、かつそのかぎりにおいて、法形成のはじまりである。もとも と解釈は、さまざまな熟慮や、考量的かっ評価的な判断を要するものであり、したがってそのかぎりにおいて、すで に解釈は一つの創造的活動であって、法形成と分離しえない。解釈はたしかに一つの認識過程であるが、それは認識 主体の﹁能動性﹂と﹁自発性﹂なしには不能な︸つの創造的過程である。方法的に導かれた法形成は、本来の解釈の ︵その内在的限界すなわち可能な語義を超越した︶継続にすぎず、逆に単なる解釈そのものが、︵たとえ解釈者自身の意識に        ︵3︶ とってそうでなくとも︶すでに法形成のはじまりである。その揚合、何が法として適用されるかということに関しての    裁判官による法の形成に関する一考察       六五

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   東洋法学      

六六 従来存在した客観的な不明確性が除去され、たとえ拘束的な確定の意味においてではないにしても、裁判所や法取引 が一般に今後事実上正しく行われるべき解釈の意味において、なお耐えとおす正確化が起る。もちろん裁判所は、恒 常的な判決によって︵それが慣習法としての効力を達しないかぎり︶ふたたび与えるととができるが、しかしこの場合に は、今までとられていた解釈に対し、その後変った解釈が法形成であるといえる。  それでもそれが単なる法律解釈にもとづくかぎり、法形成はいわば意図しない副次的効果にすぎない。解釈者はそ の事物についての立場にしたがって、法を形成するつもりではなく、いかにあるかを認めるのである。かれはその解 釈した規範にまったく何ものをも附加するのではなく、各人に認められるために、それが本来みずから意味するもの を・卦か明確に認め・そして卦弥はっきりというだけである。それゆえ、規範の適用、その適用における法律の解        ︵喋︶ 釈と裁判官による法形成とは、本質的に異った活動ではありえない︵それらは継続的であり、流動的である︶。したがっ       ヤ   ヤ て、解釈の方法と裁判官による法形成の方法との間には、より緊密な関連が存しなければならない、とラレンツはい    ︵5︶ っている。  ⑧ 充足を要する法概念の適用と具体化       ヤ  ヤ  第二として、判例は、いわゆる不明確な、よりよき充足を要する法概念の適用と具体化によって法を形成する。こ        ︵6︶ のような概念の適用において法形成の要素が潜んでいることについては、異論はない。この種の概念の本質は、それ がなお個々の事件に対する直接的適用を最終的に要求する確定性を欠き、むしろここに﹁具体化﹂を要するというこ とにある。それは、判決の均衡のために、概念を表現する一般的な基礎思考に整序しなければならないだけでなく、

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それが同じ事件もしくは比較されうる事件に関するかぎり、すでになされた判決をも整序しなければならない。すな わち、﹁信義誠実﹂あるいは﹁重大な事由﹂のような、いわゆる充足を要する概念に際しては、裁判官は、かれが包 摂化しさえすればよいという用意された大前提を見出すのではなくて、その概念を﹁具体化﹂するところの大前提を 具体的事件について充足すべきである。このような﹁具体化﹂は、一部は解釈のみによって行われるが、一部は事件 比較の方法および、この後なお活動の余地が残っているかぎりでは、判決をする裁判官の人的な﹁判断裁量﹂の手段       ︵7︶ による規準の形成によって行われる。  しかし、充足を要する概念の各具体化が同時にそれ以上の具体化への蕊芽と、そして浄、れゆえに法形成の要素とを 含んではいるが、ここでは、裁判官は規範から意識して開かれた場所を充すだけで、その規範を越えず、いわばそれ       ヤ   ヤ   ヤ に従わせられるに止まる。このことが、狭義における法形成とのちがいである。規範を解釈しあるいは適用することに よって、充足を要する概念を具体的事件について﹁具体化﹂する場合には、裁判官は、規範がその個有の意味にした がって意味することのみを認め、そして判決に利用するであろう。かれは法律自身をして﹁語らしめる﹂であろう が、それに何ものをも附加しない。すなわち、規範を単に解釈し適用しようとする裁判官のこのような立揚からは、       ︵8︶ まさしく単なる﹁包摂﹂以外はこの際問題とならず、ここでは法形成は隠されている。それに対して、法における間 隙を確認し、そしてそれを充足することに努力する裁判官は、かれが法律から直接に転用しない規律をかれみずから        ︵9︶ 立てることを一般に意識している。したがって、後述するように、﹁法律を超えた︵鷺8ぎこ品薯一︶﹂法発見をもつ狭 義の法形成に際しては、しばしば﹁法律に反すること︵8暮声一お。邑﹂すらなしうるのに対して、狭義における解    裁判官による法の形成に関する一考察       六七

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   東洋法学      六八

       ︵憩︶ 釈と同様に、充足を要する法概念の具体化では﹁法律に従うこと︵ω①雲区きp一お。簿とが生ずるといえる。  ③ 狭義における法形成  狭義における法形成について、ラレンツはさらに二つの可能性を問題にする。  ⑥ 法律間隙の充足  その第一は、法律間隙の充足の問題である。それは、すでに充足されるべき法律自体の立 場から、すなわちその基本的意図とその基礎となっている立法者の評価から生ずる。すなわち、法律︵規範もしくは 規律全体︶がその個有の意味関連にしたがって、規律の基本的意図あるいは法律に内在する目的論にしたがって期待       ︵践︶ されねばならないような規律を含んでいない場合には、聞隙のあるものである。裁判官はこの種の間隙の充足につい て強いられている。この場合に問題となる事実関係は、法的効果を与えずに放置することが全規律の意味、根本思想 および目的論的関連に相応しない場合である。その例として﹁積極的債権侵害﹂が挙げられる。  ドイツ民法︵BGB︶は、債務関係の実行に際して一方の側がなすべきことを行なわないということ、あるいは実 行にとってその他の障碍が妨げとなっていることから生じうる問題の包括的な規律を企てている。法律はこの鼠的の ため一連のさまざまの種類の﹁給付障害﹂をそれぞれ一定の方法で規定しているが、しかしわれわれが今日﹁積極的 債権侵害﹂と呼んでいるところの種類の﹁給付障害﹂については言及していない。しかし、ここにおいて何ら法的効 果を生ぜしめないことは、法律上の規律の根本思想からみて背理であろう。すなわち、﹁積極的債権侵害﹂が何らの 法的制裁を受けないとすれば、それは債権者の地位が低下し、それによって全体の規律が無価値となるであろう。し たがって、法律により努められる﹁給付障害﹂の領域の全規律の目的が達せられるべきであるならば、規律問隙の充

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      ︵鴛︶ 足が必要である。  ㈲ 法律上の規律の改変と新しい法制度の形成  第二の問題として、ある部分は信義誠実のようなコ般条項﹂ によりかかり、ある部分は一般的法原理、ことに憲法上の法原理、あるいは﹁条理﹂を引き合いに出して、法律を解 釈された意味において問隙あるものとすることなしに、判例が法律上の規律を改変したり、新しい規律もしくは法制          ︵路︶ 度を創設する場合がある。  このような例としては、行為基礎の脱落や失効の理論、一般的人格権の承認、契約締結上の過失、第三者のための 保護作用をもった契約、相当因果関係、さらに、BGBの本来の概念とはたしかに調和していない譲渡担保の承認、 BGB五四条の構想に反して権利能力なき社団の法の社団の法への接近、いわゆる危険を伴うもしくは損害傾向のあ る労働に際しての労働者の責任の制限に関する判例などが挙げられる。  このような場合にも﹁間隙﹂について語ろうとするものがあるが、充足されるべき法律の問隙︵それゆえBGBの上 記の諸例において︶は問題とならない。けだし、立法者の計画や意図においては、法律がこれらの規律を含まないこ とがはっきりしている。ラレンツはこれらの場合を法政策的意味における﹁法律の欠敏︵浮巳角︶﹂と呼び、たしか       ︵M︶ に一つの欠歓ではあるが特別の種類のそれである﹁問隙︵蒙鼻のとの場合と区別している。いずれの場合にも評価が 問題となるのであるが、その価値規準が異なる。 ﹁間隙﹂においてはこの価値規準は、みずからのなかで完全にして        ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ ザッハリッヒに調和する全規律をえようと努力する一つの意味全体として法律自体のなかにある。すなわち、法律上 の規律の根本思想および内在的目的論にしたがい、その存在が期待されるところの規律が欠ける場合k、規律間隙が    裁判官による法の形成に関する一考察       六九

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   東洋法学      

七〇       ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ 存在する。それに対して﹁欠歓﹂においては、法律自体のみから引出される評価規準とは異った法律外の評価原則の ・ ・    ︵15︶ なかにある。すなわち、これらの規律は、二般的法意識﹂のなかで妥当性を獲得した、あるいは法取引の避けがた い要求によって、あるいは条理によって、あるいは人間の尊厳とその人格に対する尊敬の原理のような憲法上の法倫 理的原理によって、あるいは労働法のような他の法領域の進んだ発展によって要求せられたものである。これらの観 点は排斥し合うものではなく、相互に補充し合うものである。もちろん、これらの観念は、法律解釈や問隙充足にお いても共働するが、それは法律原典の限界内か法律の内在的目的論の限界内においてである。これらの要因がしばし        ︵欝︶ ばこの限界を超えて、法律上の規律の改変や新しい法制度の形成へと導きうるのである。  しかし、これらの場合には、裁判所がここで法形成を援用するか、あるいはこれを立法者に委ねるべきでないか、        ︵π︶ という特別に入念な検討を必要とすることを、ラレンツは強調している。法形成の必要が明白であるとき、すなわ ち﹁さもなくば、法的緊急状態、すなわち法的思惟に損傷を受けねばならない状態が成立するであろう﹂ような場合 にのみ、法形成を援用することができるといっている。このような緊急状態は、避けがたい法取引の要求が法秩序に ょり充されない場合、条理ないし法倫理的原理が一般的法意識にとって﹁耐えられない﹂方法で無視されている場合 に生ずる。それは、﹁明白にしてかつ他の方法で除かれえないもの﹂、すなわち、立法者の即時の介入が期待しえない       ︵弼︶ ような場合でなければならないといっている。

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類○糞冒①ご劉○昌の。 一 漆● <qQ︸●累o雌さ号巳○薄○ω・ 嬉切隷

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︵4︶ ︵5︶ ︵ゑ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵沁︶ ︵U︶  ﹁法律問隙の概念と種類﹂  重要であるとしている。  ろうというように、  不完全な場合である。 ︵珍︶ ︵B︶ へ瑛︶ ︵5︶ ︵応︶ ︵π︶ ︵給︶ これらは一つの思考上の過程における二つの段階であって、ともに貝的論的認識淋規準的である︵駕ρo o響箋ω︶。 乞︸≦α沖幹 一地 く四・駕9プ○留巳①ごoω.ω一題鷺. く喰。鍔90 り●韓ゆ訣嚇2︸≦α凱︸ω●7 ラレンツは、このような場合を﹁隠れた法形成しとよび、狭義の法形成を﹁明白な法形成﹂とよんでいる。・ <嘘●駕o夢03巳o日oo o’箋轟. 2一名α沖 ω●曽 渓o”類賊①一〇ゲΦ目9 ωの ラレンツは、その諸①浮&9一①冨09 箋燈鎮において﹁法律間隙の充足﹂の問題を論じている。そのはじめに       について詳細に論じているが、ここに挙げた﹁規律問隙﹂の場合が、法律間隙としてもっとも          それは、個々の規範︵法命題︶が、それが充足されることなしにはまったく適用されえないであ        みずからのなかに不完全なのではなく︵この場合を﹁規範問隙﹂という︶、特定の規律が全体として  ︵取引の不可避的な要求から生じたもの︶、 裁判官による法の形成に関する一考察  竃①砕一POα①ゆ一〇げ同③ ω● ⑬C O一。  <αQ督餌螢ρo o,ω8騰ご2︸≦α沖 ω,鴇料瀬Φ雲器3プΦ一一ω●碧  累①栓プoΩOづ一①プ穫oω’ωc QP捨  それゆえラレンツは、この場合を﹁法律外的﹂法形成ともよんでいる︵2蜜≦α舗 9 切︶。  く巳’學曲○鉱一〇︵一9二繊一触09 切O轡   α  譲o雛欝No一〇びo諺9 鴇9  くαqピ蜜o夢o︵一g一・腎①o o陰旨9瓢づ之α沖 o o.ω“譲o爲醤99go Q●切● 法的緊急状態の例としては、ラレンツは次のようなものを挙げている︵竃・導盆窪冨ぼ。ωも8捨︶。  譲渡担保       権利龍力なき社団︵条理から生じたもの︶、契約締結上の過失︵法倫理的原理       七一

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東洋法 学       七二 から生じたもの纏契約商議の開始によって生じた信頼関係およびそれによって要求される高められた配慮義務に対する無 顧慮︶、ライヒ裁判所の価値引上げ判決、行為基礎の脱落に関する判決︵当時のインフレによって生じた諸事情の変更の基 礎になった状態︶、権利濫用の拡張︵BGB二二六条︶、書翰の公開・秘密のテープ録音の場合への人格保護の拡張︵緊急 な法倫理的要求︶、人格権の侵害における慰謝料請求の承認︵この場合には、いまだ︸般的法意識からの明瞭な反作用はな ない。制裁原理の採用に対しては﹁名誉の営利化しの危険が対立する。かかるいまだ争いのある法政策的闘題の決定は、 立法者のなすべきことであるといっている︶。

二 裁判官による法形成の権限

 ところで、以上のような方法で法を形成する権限が、どのような前提の下で、そしてどのような限界まで、現行法 上裁判官に与えられているのかが問題となる。それは、とりわけ裁判官の法律遵守義務、したがって立法に対する裁       ︵聾︶ 判官の権限の関係に立入るため、憲法上の間題である。  法を法律と、法律を立法者の意思と一致せしめる時代あるいは国家秩序は、裁判官による法形成の権限を否定す る。解釈さえもがそのなかに隠れた法形成があるために、できるかぎり制限するであろう。それは、国家権力を強い るため、個人の政治的意思あるいは支配的政党ないし階級のそれを貫徹するため、あるいは裁判官の恣意の懸念から できるかぎり高度の﹁法的安定性﹂を保障し、すべての判決を﹁予測可能﹂とするためなどの理由によるであろう。 このように裁判官が﹁法律への拘束﹂によって公然たる法形成が許されないと感ずるところでは、裁判官は大抵隠れ

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た法形成でそれを行うであろう。  それに対して、裁判官が法律上の命令のみならず、さらにこれを超えて法の理念に義務づけられていると感じ、そ してそのために理解をあてにしうるところでは、裁判官は方法的な法形成の権限を、明瞭な法律上の授権なしに公然 と請求する。この場合は、裁判官は、その﹁法律への拘束﹂を、正当に一つの意味全体としてのかつ法理念の表現と        ︵20︶ しての﹁法への拘東﹂の背後へ退き下げなければならない。  酉ドイツ基本法︵GG︶は、その二〇条三項において、裁判を﹁法律および法﹂に拘束し、また立法をも﹁憲法的 秩序﹂に拘束している。しかもさらに、憲法起草者を一定の原則、なかんずく基本権の﹁本質的内容﹂に拘東してい ︵瓢︶ る。ラレンツによれば、そこに、基本法の構想にしたがった法は、立法者が単に自由に処理することはできず、し       ︵22︶ たがって法が法律の総和と同義でないことを表現しているとみる。法律と法との関係は部分と全体との関係であり、 全体は部分の総合以上のものであって、部分に優位する。したがって、裁判官は、法律が法秩序の全体に適合し法理 念に反しないかぎりにおいて、法律に拘束されるが、その原則に反し、法律が拘束しえず、あるいは法律上の規則が 欠けるところでは、裁判官は全体としての法に拘束される。このようにして、ラレンツは、ドイッ法哲学における実        ︵23︶ 証主義からの転向および基本法における︵﹁法律﹂とならんで︶﹁法﹂の強調から、これを理由づける。法が法律の総和 と同義でない以上、裁判の任務もまた、法律実証主義的な解釈に対応するような立法者の命令のみを敷街することに 局限されない。裁判は、立法者の命令が十分でないかぎりは、法律に比例して、それを超えても法を実現し、また必 要なかぎりでは、その目的にそって法形成をもしなければならない。法形成は、今日では裁判の任務として裁判所秩    裁判官による法の形成に関する一考察       七三

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   東洋法学       七霞 序法︵GvG︶一三七条において明らかに認められている。それについての権限は、上級連邦裁判所からも要求され   ︵24︶ ている。  しかしラレンツは同時に、法の統一性および法的安定性にとっての危険ならびに裁判官自身にとっての危険︵た とえば政治的批判の挑発による権威の喪失の危険および無意識の権眼濫用の危険︶がそれに結びつけられていることを、見過 すべきでないと注意する。そして、裁判官に委ねられた法形成の権限を、もっぱら慎重に、方法的に確実な方法で、 かっ一般的法意識および全法秩序の承認された︵法律上あるいは超法律上の︶原則と一致して行使することは、司法お        ︵25︶ よび個々の裁判官自身の利益であるといっている。  法形成の限界は、判決の固有の使命にもとづいて決定されねばならない。判決の固有の使命は法の実現である。し かし実現すべき法は、必ずしもすでに法律、慣習法、先例のなかに予め与えられているものではなく、裁判官が創造 的認識過程において見出さねばならず、すなわち方法的に導かれた考量によって生産しなければならない。それに際 して決定的なのは、結果が法秩序の精神や一般的法意識と一致するということである。法秩序の精神は時代とともに 発展し、一般的法意識は法律よりも豊富である︵新しい洞察、法倫理的規準、具体的法思想を含む︶。法律に拘束される裁判 官は、法律の解釈および間隙充足の枠内でのみ法意識の発展を掛酌し、法律を時代の法意識と媒介して法を形成す ︵26︶ る。しかしそれを超えて、さもなくば法的緊急状態が生ずる場合には、︸般的法意識のなかですでに妥当性をえてい る法思想︵しかし法律にはいまだ疎遠である︶にその余地を与え、それによって法律上の規律を改変し、新しい法制度を        ︵27︶ 形成する権限がある、とラレンツは主張する。

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 いずれにせよ、﹁法律﹂と﹁法﹂との概念がもはや無造作には同一視しえなくなって以来、裁判官が﹁法律に反す る︵8⇒窪餌一①鵯簿︶﹂判決をなしえないという従来の方式でもってしては、もはや済されなくなってきている。..一窪、、 の下で個々の法律を理解し、..繭霧、、の下でその基礎に存する評価基準を含む全法秩序を理解するときには、法形成 ︵たとえば﹁損害傾向のある労働﹂についての判例︶は、たしかに﹁法律に反するもの︵8馨獲冨鴨影︶﹂である︵けだし、 それはさしあたり適用される法律くしたがってBGBVを、その文言に反してだけでなく、その固有の志向に反しても、側面にず らし、もしくは訂正するものであるからである︶が、しかしそれにもかかわらず﹁法に従ったもの ︵。 り・。壼︵ざ菖輔霧とで ある︵けだし、それは全法秩序の発展、﹁条理﹂あるいは、法律△身Vに対して優位するとみなされる法原理、ことに憲法上の原 ︵28︶ 理によって要求されるものであるからである︶ということが生じうる。裁判官が、特別な前提の下で、かつて﹁法律に反 する﹂判決をしたが、決して﹁法に反する﹂判決をしなかったということを、ラレンツは、﹁法﹂を実現する裁判官        ︵29︶ の任務から、自明のこととして認めている。 ︵珍︶ 憲法上の問題については、 O Q雰一P ご♂ ︿象夢﹂ 。。 。墓養累9窪江oξ○ま憲o⇒鳥霞幻09鍍ご算玄一黛一韻︵一薄9象・  菊・9鍍9 っ肩。畠琶欝2ラー詳る象”o Q・羅認ヌがあり、ラレンツのZ㎏≦鶏縛曽 の 艶の論文では、それとの関係で  この問題を取扱っている。﹁ ︵2 0︶ 竃①夢○留巳oξoω,箋8 ︵瓢︶ ︾算●G諺び幹 の︸ご︾ぴ。 。●ω QQ“ ︵22︶ 裟︸譲α沖 ω●沁6くαq罰罐露霞窯○夢o︵一〇巳2藁oの●箋8 ︵お︶ スタインも基本法のなかに﹁法律実証主義に対する朋確な決裂﹂をみている︵塁ρ︶。 裁判官による法の形成に関する一考擦      七五

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東洋法学

七六 ︵鍵︶ 客¢90留巳o嘗¢鯵鷺c 。には、次のような判例を挙げている。   連邦裁判所は、第一民事部の判決において、はじめて詳細に裁判官の法形成のための権限に携わった。基本法は九七条に  おいて裁判官を留保なしに﹁法律﹂に服せしめたのだから、基本法は裁判官にかかる権限を否定した、という異議が問題  となった。基本法九七条一項は、 ﹁裁判官は独立であって、ただ、法律にのみしたがう﹂という。連邦裁判所は、これに対  して次のごとく判示した︵窃○霞N切逼窃︶ー﹁裁判官の法律の下への服従という原則は、もはや形成しえない規範として  の法律への裁判官の拘東という意義は有しない。正しいすなわち法にしたがった実定法の適用は、裁判官に法を形成する  こととを許すのみならず、さらにその適用は、そのことを裁判官に義務づけさえする。基本法二〇条三項は、裁判官は判  決において﹁法律および法﹂に拘束されることを強調している。それゆえ定立された法に対する裁判宮の権限の縮少につ  いて基本法による陳述はありえない。﹂   ついで民事大法廷の決定において︵ヒ 響○鑓N♪一踏︶∼明瞭な言葉内容に反して、禁止規範を、貝的に変更的ではあるが  しかし忠実に制限することを許容した。さもなくば法律により追求される目的が反対のものになってしまうであろうがゆ  えに、是認されるといっている。   連邦社会裁判所は︵ごω○ρまc 。︶ー法の形成はあらゆる法廷の義務であって、大法廷のみの義務ではない。法の形成  はたえず行われる。もちろん制限的に、裁判官は、法律のなかに間隙が存し、あるいは立法者が基本法によりかれに課せ  られた、法を定立すべき義務︵親族法における同権の貫徹に関して長くそうであるように︶を履行しているかぎりにおい  てのみ、法創造的に活動しうる、ということが附言されねばならない。   その後の判決において、連邦社会裁判所は、ふたたび︵頓ω9るは︶!適用すべき法の解釈とならんで、補充的または  修正的な法発見も、裁判所の合法的な使命であると強調している。 ︵渉︶ 露o夢○鳥窪一・驚oo o﹄↓c。● ︵2 6︶ 支配的見解は、裁判官に、解釈と問隙充足の権限のみを認めている。ラレンツは、この場合、裁判官は評価規準を法  律自体のみから引出す、また法律自体のなかにのべられた原則︵﹁信義誠実﹂︶の具体化ないし学説への濃縮による新しい  法制度の発展も、法律の枠内での法形成といえよう、と批判している9富夢03巳魯審ωも賂︶。

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︵禦︶ 諸①夢○母巳9審曾㌧ 。8●前述︵一⑧㈲︶したところを参照。 ︵28︶ このような原理として、ラレンツは、人問の尊厳や人格、法律の前の平等、法治国家性や社会法治国家の原理などを  挙げている。連邦憲法裁判所︵影唇8劉 翻o o本8︶は、﹁憲法的権利は、書かれた憲法の個々の文章からのみでなく、  それらをつつんで内的にまとめている一般的原則や中心観念からもまた、成立する。﹂と正当に詳論している。法治国原  理はこの中心観念に向けられている。このような原理が全体的な法適用に際して顧慮されるぺきことは、いうまでもな  い。したがって、このような原理が、個々の法律の文言のみでなく、意味や目的をも超えていくことを明白に促している  場合には、裁判官はそのかぎりにおいて、法律に反する︵8馨箏Hお①影︶決定をなす権限を有しているといわなけれぱ  ならない。もちろんこの場合は、それでもなお、法に従ったもの︵蓉。彦︵巨φ哺霧︶であることを要する。それに対して、  このような各原理に対する抵触は、 ﹁法に反するもの︵8嘗箏一霧︶﹂である。このような原理もまた、現行法秩序や認  められた基本価値によって指図される解釈や具体化をふたたび要することになる︵穴璽震鼠9書o o・♪>一喜ら︶。 ︵2 9︶ 欝pρo Q■合

三 裁判官による法形成の検討

 ラレンツはさらに、裁判官にょるある法形成が成功しているかどうかを、いかなる要求にしたがって決定するのか        ︵30︶ を問題にしている。この問題は憲法上のものではなくて、法理論上かっ方法論上のものである。裁判官が法形成を援 用したからといって、それが必ずしも成功しているとはかぎらない。それらのなかには疑問のあるものもある。た だ、それが一般的な同意を見出し、一般的な法確信に相応するために慣習法となり、あるいは立法者によって転用さ れたときには、成功しているといえるであろうが、しかし問題は、ある法形成が一般的な同意を見出すためには、ど     裁判官による法の形成に関する一考察       七七

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   東洋法学      七八

のような内容上の資格が必要であるかということであるαこのような内容上の資格は、しかし、新しい法形成に対す る批判や擁護が意味をもつ場合には問われなければならないし、この資格を挙げることができたときには、われわれ は、法形成を援用することに対する批判のみでなく熟考についても、整序しうる規準を見出したことになる。  このような批判をのべることは、もちろん容易ではない。従来の文献においては、裁判所が法形成を援用している かどうか、いかにひろく、どのような前提の下で、かつどのような限界まで、というような問題に重点がおかれてき た。さらに、いかなる方法で、法形成に際し、ことに間隙充足に際して適用すべきかがしばしば検討されてきたが、       ︵綴︶ 何において成功した法形成を認めるかという問題については、いまだ提出されていない、とラレンツはいっている。  ラレンツは、この問題の考察にあたって、いくつかの疑いのある法形成についてその疑問点を検討し、そして成功 した法形成といいうるものの特徴を検討している。もちろん、この考察にあたっては主観的な評価の要素をほとんど 排除しえないことを、ラレンツは自認している。それでも、今日一般に問題がないものと患われ、成功したといわれ るものとして、次のものを挙げている。  ① 不能および遅滞に関する規定への類推における、いわゆる﹁積極的債権侵害﹂の取扱い、② 取引当者事がよ ヤ リ高度の注意と相手方に対する顧慮の義務を負っている、法律上の債務関係にもとづく責任としての﹁契約締結上の 過失﹂についての責任、③ 加害者が危険にもとづいてのみ責任を負い、もしくは被害者側に危険責任の原則にした がって帰せられるぺき企業危険が関係している場合のBGB二五四条︵被害者の有責︶の準用、④ 保護される法的 利益における客観的に違法な作用に際しての﹁予防的不作為の訴え﹂の承認、⑤ 財産的利益以外の犠牲に対する

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︵公法上の︶犠牲請求の拡張。さらに、ラレンツは次のものを加えている。⑥ 権利失効の理論、⑦ 労働関係にお ける誠実配慮義務の理論、少なくとも原理においては、﹁損害傾向のある労働﹂に際しての労働者の責任制限の理論、 ⑧ BGB八⋮二条︵権利の侵害︶を顧慮しで、︵たとえ、BGB二五三条く非財産的損害Vの同時発現がなくとも︶コ般的 人格権﹂の承認。  疑問のあるものとして、ラレンツは次のものを挙げている。  ① 譲渡担保ーーたとえ長い間にわたって固く根づいた制度となっており、その除去は今目ではもはや考えられな いとしても、成功したものとしては扱われない。② 行為基礎の脱落の理論⋮i第一次大戦後の判例においてこの理 論を採った状態を、あまり成功したものとは思えない。なお、疑わしいものとして、③ 方式欠歓の効果︵BGB一 二五条︶を﹁信義誠実﹂によって制限する試み、④ BGB八二六条︵良俗違反︶による判決の法的効力の制限。さら に、まったく異った理由にもとづくものであるが、⑤ 支払われた賞与や誠実報酬に関する返済約款の許容期問につ いての連邦労働裁判所による確立された規律の提出、を挙げている。  疑間のあるものとして挙げられた法形成が、判例によってなお一そう貫徹されることがありうるであろうが、それ       ヤ  ヤ らが成功しているという証明はいまだない。文献においては、それらはそれぞれに異論があり、そしてよりよき理由 づけでもってその批判が行われている。ラレンツは、疑問のある法形成について、それぞれどこに躊躇があり、かつ 何がこれらの場合を、問題のないそれゆえ疑いなく成功したとする法形成と区別するのかを検討していく。  ω 譲渡担保    裁判官による法の形成に関する一考察       七九

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 判例におけるその承認とその一そうの取扱いは、いうまでもなく、法取引の避けがたい要求に応じている。すなわ ち、今日の経済生活に不可欠な﹁動産抵当﹂の機能をみたしている。しかし間題は、それが法技術的、法解釈学的に 異議なき方法においてこの機能をみたしているかどうかである。  周知のように、BGBは占有なき質権を許容しなかった。それゆえ、譲渡担保の設定のための所有権移転を許容 する占有構成の利用は、経済的には質権的性格のみをもつべきであり、したがって実際には法律に反するもの︵8纂養 一謁窪・︶であった。たしかに法律の文言とは一致しないけれども、その基礎となっている評価と一致している判決は、 法律に違反しないといわれている。しかし逆に、文言にではなく法律の認める評価に矛盾する判決が法律に反するも の︵8馨3ざ繋湧︶であるということも、論理的には承認されなければならない。譲渡担保は、BGB九三〇条に        ヤ  ヤ 用意されている手段︵占有改定︶で﹁所有権﹂が移転されうるかぎり、法律の文言と矛盾しない。しかし、移転せら        ヤ   ヤ れた﹁所有権﹂は、ここでは当事者の意思にしたがえば、所有権の通常の効力を与えられるべきではなくて、より劣        ヤ   ヤ った質権的な効力のみを与えられるべきである。法律は、占有の合意を所有権移転の手段としてのみ許容している       ヤ が、明らかに質権設定の手段としても許容してはいない。その際、当事者の意図にしたがえば質権的効力のみをもつ べきである、内容的に修正された所有権の設定へのその振り向けは、法律の規定に違反していることになる。譲渡担 保の許容が提示する法律の目的論に対するこのような違反は、担保権者の権利が、解釈学的には、いわば薄明のなか に立っているという結果を生ずる。BGB九三〇条にしたがって基礎づけるべき可能性の点に関しては、われわれは それを﹁所有権しとなすべく強いられている。しかし、当事者によって欲せられた経済的員的の点に関しては、それ

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と異ってまさに質権的権利とみなしている。後者すなわち経済的目的においてみられる考察方法は、なかんずく破産 法において、部分的には執行法において貫徹されている。それに対して処分権限が関係するところでは、譲渡担保は さらに﹁所有権﹂として取扱われる。それが放棄されたときには、所有権の移転がとにかく欲せられていないという ことは、ほとんど否定されていないことになる。その場合は、移転行為は外観行為として無効に帰さなければならな い。だから強いていえば、担保権者を一面で所有者のごとく、他面で質権者のごとくのみ取扱うべきではないであろ う。したがって、なかんずく客体の利用に関する担保権者の権限がどこまであるのかは疑しい︵質権の規定が準用され るべきかどうか︶。  ラレンツは、結局、譲渡担保が一方において﹁所有権﹂他方において﹁制限物権﹂︵質権︶、そしてそれゆえ本来そ        ︵3 2︶ の両者でもないところの一っの雑種であるということに不安を見出す。実際今日形成されているところでは、法律的 体系における排列に反するところの閉された範囲を破り開くことによって新しく創造された、それ自身特有な︵毘 α蔓9・誘︶物権である。それは、法律がまさに避けたであろう﹁秘められた質﹂の短所を、過度の担保の危険と結びつ けたものである。法律的体系との断絶は、判例や解釈学が十分に補いえない、おびただしい困難において現われてい る。それゆえにラレンツは、ライヒ裁判所がその時代に単なる﹁譲渡担保﹂の設定を、外観行為もしくは法律回避と         して許容しえないと宣言した方が、よりよくなかったかどうかを問題とする。それによって、取引の強い要求に面し て、われわれの法体系によく接合した規律を創設することを、立法者に強要したという。  そのようにして、ラレンツは、成功した法形成の特徴の一つとして、それが﹁断絶なしに﹂現存の法体系に接合せ    裁判官による法の形成に関する一考察       八一

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しめるということにみるべきであると結論する。それは、矛盾する構成に導くべきでないし、あるいはそのために倦 の経済的目的︵動産抵当のような︶を、法律に﹃致しない方法において実現せんがために、法的像︵所有権のような︶を        ︵33︶ その本来の意味内容に反して置き換えることを強要すべきではないといっている。  ② 行為基礎の理論       へ誕︶  この理論は、第一次大戦後のインフレ⋮シ買一ン期にエルトマンによって唱えられ、ライヒ裁判所によって採.用され        ︵35︶ たものである。そして第二次大戦後、ラレンツがさらにこの理論を発展させたことは有名である。行為基礎とは、二言 でいえば契約の基礎にある一定の事態であり、その不存在または消失が契約の効力に影響を与えるものをいう。ラレ ンツは、行為基礎を主観的なものと客綴的なものとに分け、前者は両契約当事者に共通の一定の表象または期待であ り、その不存在または消失は共通錯誤の問題となる。後者は契約の客観的基礎、すなわち契約当事者が知ると否に関 せず、その存在または継続が契約に当然に前提されている事態の全体であり、それなしでは契約属的が実現しえない ものをいう。そして、このような客観的行為基礎の脱落を、さらに等価関係の破壊と契約目的の到達不能の二場合に 分ける。いずれにせよ、行為基礎の不存在または消失の法的効果は、誠実な当事者が事態の発生を知ったならば当然 に合意したであろうような効果が生じ、裁判官は訂正的契約解釈によりそれを発見しなければならない、とされてい 編︶  エルトマンの理論におけるその定式化は、ラレンツのいう主観的行為基礎の事件のみ︵しかし、これはさらに多くの ひろがりにおいて︶を考慮する。しかし事実上は、ライヒ裁判所は事件の系列において、ことに前提となる等価関係の

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著しい混乱に際してや目的の到達不能の事件において、客観的行為基礎の脱落をも考慮した。規準的な観点として は、その際多くは、︵変らざる︶契約充足の﹁期待不可能性﹂が、そして法的効果としては、本来単に顧慮される契 約解消に代って、裁判官による変化した関係への適合が現われた。その際類型的な事件群がその特性において漸次に 引き出されてきたときには、これに対する異議はもはやはさむことができなくなる。それへの繭芽は、ライヒ裁判所 の各事件において存した。しかし、第二次大戦後、イギリス地区の最高裁判所は、先導的判決の意義をもつ多くの判     ︵訂︶ 決において、変化した事情が一般的に契約の法的存続に影響をもったかどうかの問題も、肯定した事件において生ず る法的効果の問題も、具体的な個々の事件において契約への拘東が契約当事者に﹁ただちに期待できない﹂ものであ       ペ   ヤ るかどうかにしたがって、もっぱら解決すべきであるとのべている。それゆえ、裁判所は、法律要件のより詳細な解 釈も法的効果も、それぞれの試みを断念している。けだし、﹁期待不可能性﹂はそれのみを取上げれば何かある分明 な境界を許す規準ではないからである。たとえば、個々の事件のいかなる事情が、では一体この問題の解決に際して 引寄せられるべきかは、ただちに疑わしいものといわねばならない。契約の内容︵その際、両当事者によって知られたも しくは意味に適合した前提となる関係、契約の遂行に対立する事実上の困難︶でもってなされたもののみか、あるいはまた、 本来の契約以外の事情︵債権者もしくは債務者またはその両者の全財産上の地位、戦争事変もしくは貨幣転換その他によって受 けた損失、推測されるその経済的地位のそれ以上の発展のような︶も問題となるのであろうか。このような後の事情のすべ てを含めたときには、BGB二四二条︵信義誠実の原則︶に関する裁判官による一般的な契約救済への途を開く。それ は、裁判官が﹁ただちに期待できない﹂結果を回避してそれを適当とした場合には、つねに起ることができた。しか    裁判官による法の形成に関する一考察       八三

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し、ラレンツはこれを正しくないとする。ラレンツによれば、行為基礎の法律要件は、むしろ、われわれが多少の基 礎づけ可能な、そして吟味可能な結果へ達したであろうもの、その類型化において把握したもの、そして、これがさ らに充足を要する概念の使用なしにはまったくなされえない場合には、可能なかぎり判然と記述したものでなければ ならない。茅、してそれは、法的効果を決定すべき規準を明らかにしなければならないという。このような方法におい てのみ、行為基礎の理論を、それが今欝あるところのまったく衡平な判例の薄明から、ふたたび連れ出すことができ、        ロ そして個々の事件をはなれて妥当性を要求しうる結果へ達することができると主張する。  同時に、ラレンツはこの判例に不安をおく決定的な点に考え及ぶ。それは、︵単なる規定に対して︶法的決定の本質と いうものが、規準において整序され、あるいは、あらゆる同じような事件に同じ方法で適用されえ、かっ適用されねば       ロ ならない規準をみずから立てるということである。﹁信義誠実﹂のような一般条項は、具体化によって、それゆえ類型 的法律要件に関連する規律、主命題および小前提の形成によって、実行可能な法適用にまず役立つものとされる。茅、れ        ロ に対して、メルツ9♂嵩︶によれば、﹁信義誠実の原則において、裁判官による裁量自由の表現が、広義の解釈学的 な各根拠づけやなかんずく各規律形成を断念して、﹃まさにそのときの妥当性︵こ。9琶蓉αQ9器①︾お9葛器。一・9︶﹄ の意味における衡平な判決と認められた﹂場合には、不運であったという。そして、このような考察の仕方は、﹁与 えられた法秩序の全秩序構造を掘Pくずすべき論理一貫した貫徹化に際して承認される﹂、ということを附加してい る。しかし、ラレンツによれば、このような﹁衡平な判例﹂の傾向においては、幸運にもそれが論理一貫して取扱わ        ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ れていない、それゆえ全秩序構造の破壊はおそらく気づかうべきではないが、しかし法的安定性のかなりの衝動は別

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であるという。そして、このことから、法律要件にしたがってつくり出される規律を表現し、かつ法的効果を個々の 事件において決定しうる規準を立てることにおいて、﹁ただちに堪えがたい﹂とか﹁期待できない﹂というような、 bい蕾いかっ一般的な定式を除いては、法形成はまず、それが成就されているときには、その基礎となっている法思        あロ 想に成功したものとみなされることができると、結論している。  ③  ﹁信義誠実﹂による方式欠飲の効果の制限  これに関するライヒ裁判所および連邦裁判所の判例に対する熟慮も、同じことがいえる。ここでもまた、﹁両当事 者の関係やあらゆる事情にしたがって、契約上の請求権を方式欠敏において挫折させることが、信義誠実に反する﹂ 場合、あるいは﹁無効がただちに支えがたい結果へ導いた﹂場合には、その行為は方式欠敏にもかかわらず妥当なも のとして取扱わなければならないというように、それ以上いうに足りない定式でもって操作されるということに対し       むロ て・ラレンツはふたたび躊躇している。その場合、連邦裁判所は、﹁単にきびしい﹂結果では足りず、むしろ﹁ただ       おロ ちに支えがたい﹂ものでなければならないといっている。しかし、ラレンツは、裁判官が単にきびしい結果とただち に支えがたい結果との限界を、かれの主観的な知覚にしたがうことによって、いかに別にひきうべきであったかは分 からないが、実際には、︵それが規律の形成に必要であったように︶どうにかして客観化しうる標識を示すことはまった く問題とならず、その度ごとに決定する裁判官がその判断にしたがって理解する言葉のアヤが問題となっている、と して批判している。  この場合、行為基礎の理論におけるとまったく同様に、ここでも事実から示される区別が非常によく見つけ出させ    裁判宮による法の形成に関する一考察       八五

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るという。方式上無効な契約の部分的履行の後に、その給付した部分の返還を要求する事件は、契約の履行を要求す

る事件とは庫則もて別物であ総方式談竃募いて笹めから警をもって取扱った事継、履行要求の事

件のなかで・さらに・はっきりと区別しうる亜族を形成する。ここでは、無効規定それゆえBGB一二五条を、︵われ われの法的秩序に内在的な評価の意昧において非常によく是認されることを、その悪意の態度から、誰も法的に利用しうべきでな いという︶一般的法原理のあとへ後退させている。それに対して、ラレンツは、わずかな、法律において置かれた、       ヤ  ヤ          方式規定の厳守を要求する法的取引の保証を、前述のような、あいまいな定式によって、いたずらに賭けることはで          ︵菊︶ きないといっている。  ④ BGB八二六条による判決の法的効力の制限  BGB八二六条の助けでもって判決の法的効力の作用を制限すぺき可能性を創造する判例においても、同様のこと がいえる。実質的に不正な判決を悪意で詐取するという出発法律要件に際して、いく分とも確実な法律要件がなお問 題である場合に・詐取したのではなくて・実質的に不正な判決をその不正を承知で利用した事件にも拡張することは、 たしかにもはや的中しない・そしてその場合には、この利用を﹁良俗に反する﹂とする﹁特別事情﹂が存するとい う。しかし・このような﹁特別事情﹂が何であるかは・まったくその時々の裁判官の主観的判断に委ねられている。した がって、このような内容の空虚な定式が間題である。この﹁特別事情﹂を肯定することによって、同一対象に対する       あロ 再審を阻止すぺき法的効力の目的を妨害した。このような判例は、連邦裁判所が最近においてもいっているように、       ガロ ﹁十年問において発展し、固定したしとしているが、これに対する批判は多い。ここでは、本来このためにある訴訟

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上の考察方法を、そこまで属していない実体法上のものと取替えている、と批判されている。したがって、ここで問 題となるのは、法的効力ある判決の不正を主張する人が、そのために納得のいく不正を明白なものと現わしめる新し い挙証手段︵判決の証明力に対して後に立っている︶によるべきことを、いつできるのかということである。ブ〆、して、こ の問については、立法者が民訴法︵zpO︶五八O条︵再審く原状回復の訴V事霞;臼民訴四二〇条一項四号以下に相当︶ において答えているという。この規定の根本思想と一致した、ここにいわれている再審事由の注意深い拡張は、原則 として閉め出されていない。それに対して、判決を利用する当事者の行動が﹁良俗に反する﹂かどうかの問は、問題       ヤ  ヤ  ヤ  ヤ を誤った軌道に変ずることになる。それゆえに、ここで行われている法形成は、ラレンツによれば、定式のあいまい ヤ さは別としても、正しい解釈学的な排列をも誤まり、そして、そのために法秩序の全体のなかに納得のゆくように接       ︵狢︶ 合せしめていないものである、といわれている。  ⑤ 賞与や誠実報酬に際する返済約款の許容  ラレンツは、疑わしい法形成として最後に、以上とはまったく異った批判をこれに対して行っている。  これに関する連邦労働裁判所の判例の根本思想は、長期の返済約款が労働者に事実上解約申入を困難にし、そして それでもって労働地位の富由な選択を許容しがたい方法で制限するから、事情によっては無効であるということであ って、それはたしかに正しくかつ至当価値あるものである。しかし、連邦労働裁判所は、それでもってこの原則をの べることに満足したのではなくて、それによって原則の適用を厳密に確定された方向に定めようとして、法命題のす        へ菊ノ ベてをただちに定式化したのである。たとえば、この命題の一っは次のようにいっている。クリスマスまたは年末の    裁判官による法の形成に関する一考察       八七

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ために与えられる賞与︵もしくは報償金︶が一〇〇マルク以上で月給より少ない額である揚合には、労働者が翌年の三 月三一日よりも早い時点までに解約申入をする場合のための返済約款は、有効なものとして協定されうる。これにつ       ︵50︶ いて、A・フック︵霧鰐εは、﹁この種の規律が恣意そのもののごときをもつことは明白である。しかし他方、それ は法的安定性の利益においては歓迎すべきことである﹂といっている。しかし、ラレンツは、法的安定性が裁判所に よる﹁恣意的な﹂確定を是認するのか、ということを問題にし、ここで困難にのみ基礎をおいている許容性を別とす れば、裁判官による法発見は、見出された規律が法的な考量でもっても是認されたときにのみ、成功したものとみな されうるとしている。しかしここには、︵連邦労働裁判所が、固定した個々の規律をあまりにも大きく具体化しようとする︶       ︵泓︶ 実体法的思考からの飛躍があると批判している。        ヤ   ヤ   ペ   ヤ  しかし、それでは、ここで法形成があいまいな定式化において汲み尽くされないという、前に挙げた要求を充すの ではなくて、同種の事件に同じように適用しうる規律を指示すべきなのか、ということをラレンツは問題とする。そ して事実、この要求はここでは完全な方法ですら充されているのであるが、しかし、完全な規律は、しばしばニュア       カズイスチモク ンスの聞題となり、洗練されていない︸般格言と同様に、まさに厄介なものである。一方で細かすぎる解説的証例の 障擬と他方で広すぎる一般化との問に、立法者のみでなく︵法創造的に活動するときには︶裁判官もまた、その道を探 さねばならない。ただ、立法者と同様に仮定の事件について規範を立てることは、裁判官の事物ではない。だが、か れが一っの規律を立てるときには、かれは判決する事件にできるかぎり近くに留って、それに対する規律を採集すべ きである。かれは、判決する事件に納得のゆく理由を顧みてここでなすことができるかぎりでのみ、基礎になってい

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る法原理を具体化すべきである。立てられた規律が法的な考量から納得のゆくものとして導かれるのではなくて、ぞ れを定式化せんがために恣意的な確定を必要とするときには、かれはその規律を断念すべきである、とラレンッは主 張している︵さもなくば、それがまさにそのようにいわれるべきであって、他はいわれるべきでないのかどうかという疑問は、ほ とんど解消されないといっている︶。    ︵鉤︶ 宍9鷺鉱99α隻轟憲一激角甑99類魯巽菊①畠9♂憎叶瓢鼠§鴨Fび塁S含器ω・鴇鉾 以下の考察は主としてこれ     に拠っている。    ︵環︶ 欝︹ピ○●G Q’蝋りなお、ラレンツは、鵠段♪︾一笛ざσ登葺ρσq︸ピ慾93一凱驚一葺贔長疑Ω 20ご屡ご窪ざぴ鉱礎毎薦︶>6矯駅鴇︵賂α轟y     も o◎8蝋拝を発展的に転用している、と断っている。    ︵鎗︶ ㊤9ρo o栽”<臓9まき竃竃簿ぴ○α窪一魯窓 oD●8α鷺●    ︵鈴︶ 瀬①獣憲蝕9窪も o◎刈馬●    ︵曳︶ Ooぽ蓉黛葺︸ごδ089鮮津。 。鵯g黛お9G巴’    ︵努︶ ○①巴感津ωσq纂昌鎌お①碁α<①暮声αqG 。o鑑艶一§鱒一鴇騎卿    ︵%︶ 五十嵐清﹁ドイッ法における行為基礎論の発展﹂北大法学二巻四号参照。    ︵3 7︶ ○の鵠田江枠Nごα曽ご鴇c o曾bる8。    ︵錦︶ 沢o一目8沖9gω,汐くαQピ諭昌巽○①9愚hδ旨類繕おoω﹂潔鶏●    ︵錦︶ 民9憲鉱魯霞ωら・メルツもこの点を強調している︵︾亀一$り¢認㌧ 。㌔鴇凄︶。    ︵4 0︶ ︾○︾一$”ωもωco。    ︵4 1︶国③讐器一9窪ω●燈◎    ︵4 2︶ 麟餌ρG o。δ●    ︵磐︶ 留O燦N鍵︸ωも︵賦燃︶る担α︵δ︶●    裁判官による法の形成に関する一考察       八九

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東洋法学

︵騒︶ <喰●劇○譲N賠︸=。 ︵φ︶ 曽pρ o o﹂9 ︵4 6︶ 翻○寓N8払認。<σq︸篇①導霧切Q顛ND“認ご鴇c o”㌧ o認じ ︵4 7︶塁ρ曾訴︾疑鋒鴇・ ︵4 8︶ 斜塑ρ 曾コ。 ︵ψ︶ <αQ一●良○影一参90峯毒αQo一一α霧団︾Qぎ︾男2誉一沖8ー濾鍔㈱α二騨O⑦03二一多鑓oまp ︵50︶鵠霧。副⋮猛譜①&①ざざご訂魯鳥霧簿び①帥袴巽①畠声ブ︾9劉る負窃貸デo oる一㌧ 。︸凄μ饗 ︵釘︶ p帥ρ o o﹂ド ︵52︶ 斜鈴ρ ω﹂ド 九〇 $ご. む す び  以上の検討から、ラレンツは、裁判官による法形成が成功したとよびうるためには、それが次の三つの要求を満足       ︵53︶ させることが必要であると結論する。  1 類型的な事件に同じように適用されうる規律が立てられねばならない。事件類型は、判決が吟味可能であると いうように特徴づけられねばならない。規律の法律要件を︵﹁ただちに堪えがたい結果﹂または﹁ただちに期待できなとの ような言い廻しにょって︶そのおりおりの判断者の主観的考量に任せることは、十分でない。  2 この法律要件とこの法的効果との結びつきは、法的な考量から基礎づけられていなければならない。規律はそ

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れが法的考量から洞察されうるように、実体法原理を具体化しなければならない。一それは、単なる確定の性格のみを もつものではない。  3 規律は、与えられた法秩序の全体のなかへ破壊することなく接合されなければならない。それゆえ、法秩序の 内的調和が認められねばならない。  そのようにして、ラレンツは、かれが成功したとよぶ法形成が以上の三要求を実際に充たしているという吟味 を、﹁契約締結上の過失﹂について行っている。そこには、十分に確定している法律要件がある。それは、契約商議        ヤ   ヤ の受容または取引上の接触の受容である。この法律要件は、法的効果として、より詳しい解明的かつ通知的義務、保 護的義務または相互顧慮の義務においてありうる、注意義務の成立を喚び起す。これらの義務の共通の基礎は、ある 人が他の人に一定の法的利益を委ねている、あるいは他の人がそれにもたらした信頼を失望させないということをた のみにしているということに存する。もたらされた、かっ要求せられた信頼は、それに対応する行動を義務づける。 それに応じて義務の範囲がきまる。これらの義務の責に帰すべき違反に際しては、結局、契約上の義務違反の事件に        ︵騒︶ おけると同じ法的効果が生ずる。ということは、契約責任もまた、各契約当事者が、契約に適合する相手方の行動に おく信頼にその基礎を見出すということから是認できる。このような﹁契約締結上の過失﹂の理論の核心的思想であ る信頼は、必ずしも契約の締結でもってはじまるのではなく、契約商議の開始でもって、少なくとも一方の意図にし たがって契約関係の準備へ導くべき取引上の接触の受容でもって、すでにはじまっている。 したがって、この理論 は、契約法の規律のなかへ破壊することなく接合する。それは、われわれの責任法の全体に容易に補充せられるとこ    裁判官による法の形成に闘する一考察       九一

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      ︵轡 ろの、一つの意味に適した一そうの発展である、とラレンツはいっている。  他の揚合の吟味に際して、ラレンツは、ある法形成が以上の要求のいずれかをなお十分に充さないということが起       ︵56︶ りうるが、それを行うことによって↓類型を形成するメルクマールがするどく把握されることができ、あるいは規準        ヤ   ヤ となる法思想がよりはっきりと明らかにされるという。裁判官によるある法形成の許容性のみについての問題が、っ    みし ヒ       トアノロン ねに﹁然り﹂または﹁否﹂と答えられるのに対して、それが成功しているかどうか、実質的に適当した規律であるか        ヤ  ヤ       ヤ   ヤ どうかの問題に関しては、段階的である。ある法形成はより多くもしくはより少なく成功している、それゆえ、それ はさらに修正される資格があり、かつその必要がある。われわれが今日成功したとみなしている法形成の多くは、明 白には成立していない。 ﹁契約締結上の過失︵。巳雇ぎ8暮同昌93︶﹂の理論は、イエーリングが最初にその根本思       ︵57︶ 想をのべて以来、茅・れが今日学説や判例において認められたその形態を見出すまでに、幾十年問の発展を経過してい ︵58︶ る。行為基礎の理論や、おそらくまた損害傾向のある労働に際しての責任制限の理論の発展は、なお終結していな い。  ここに、ラレンツは、裁判所の判決に対する科学によって行われる批評の実証的役割もまた明らかにされるとい う。このような批評が、裁判所によってしばしば正しくないと感じられるのは、おそらく批評家が、裁判官のように 具体的事件の判決についての責任を担わないからであろう。しかし、批評の使命は、判決された事件をそこから追い 出し、そして将来の判例に方向づけるものとして役立つことができる、一般的な視点を貫くことである。ある批評が        ヤ  ヤ ︵判例をも原則に受入れるぺく準備されている︶規準にもとづくことができるときには、それはより一そう説得あるもの

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     ヤ   ヤ となり、より一そう早く実証的に作用することができる。ラレンツは、       ︵59︶ 準を︵完全性を要求せずに︶提示することであったとのべている。 その詳論の意味を、いくつかのこのような規 ︵男︶ 濃9嚢鉱魯90 0﹂糟なお、ラレンツは、竃簿ぎ︵ζ蓄葛①o o”8一で、新しい法制度の創造に当って顧慮すべきこ  ととして、次のようにいっている。⋮法制度をできるかぎり﹁有機的に﹂法秩序のなかへ接合する。すなわち、法律の  枠を不必要に破壊することなく、すでに鋳造された諸概念をそれらの意味内容を変更することなしに受容し、かつ類似し  た現象との関連を保持することである。⋮⋮これは、法秩序の内部的統一性を維持するために必要である。 ︵襲︶ くσ蔓ジ㎝㌧o零騨○ω, ︵努︶ 瀬g一憲魚魯go o●一や︹. ︵%︶ 墨○あ﹂♪≧︸eもゼi⋮ラレンツは次のようにいっている。類型は、固定的なメルクマールによって悉皆く定めら  れているような﹁閉鎖された﹂ものである必要はない。むしろ、少なくとも、ある程度まで変化の幅を拡げ、メルマール  を補充しうるような﹁開放された﹂類型が問題である。 ﹁類型﹂一般については<αQ劉宏簿ぎ富巳。鷺。ωも㌧ 。出捨開放  された類型と閉鎖された類型との区別についてはくσQ一あ●㌧ 。蕊搾なお、神田博司﹁法学における類型ー法学方法論  に関する一考察﹂上智法学論集八巻二号参照。 ︵罫︶ 嵜o量贔る巳℃p嘗oO嘗箏ぎ豪ざ○︵一奪o o巳・茎o鶉・遷≧麟副︶蝕蕊o葺薦90︵一’怯・馨§騰勺o延9瓢〇一一σ登o︸置σQ砕黛  く○算愚αQΦFご.劇︵ピ ♪も o.二画←一〇 〇警。 ︵殆︶ 露9ぎ︵ざ巳魯き鉾㌧ 。窃7において、ラレンツは、法形成の問題と関連させて、﹁契約締結上の過失﹂についての  学説の形成過程を論じている。なお、北川善太郎﹁契約締結上の過失﹂契約法大系−契約総論二一二頁以下参照。 ︵刃︶ 譲g鷺鉱9gの。一高●       ︵本学助教授︶ 裁判官による法の形成に関する一考察 九三

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